書簡集

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1 瞬間 - 書簡集 - 太田将宏 1

2 2 Augenblick : Masahiro Ota

3 序 ( 謝辞に代えて ) 私は 六年前に << 音楽に関する四部作 >> を書き終えて もう書くことが無いと思ったのですが 何故か 五年前に << あれかこれか >> が続き これでおしまい としながら 四年前になって < < 愛と生命の摂理 >> そして その後に この書簡集を思い立ちました まずは 私宛に書簡を送ってくださった全ての方々に私の感謝の意を表示させて頂きます この書簡集は << 音楽に関する四部作 >> << あれかこれか >> 及び << 愛と生命の摂理 >> を発表した後での諸氏からの感想 批評 罵倒に関しての私からの返信を集めたものであります 斯様に交信している間に気がつきましたことは 皆様に触発されての私の返信に書かれてある記述の方が お蔭様をもちまして 私の三つの著作そのものにある文章よりも ( 私なりに ) 越えての水準にある文章もできあがり また 内容では重複して書かれていても更に適切な表現によってなされているか とも思われる部分も散見されることなのでした それが故に 此処に纏めて編集するのも無意味ではない として発表させて頂くことに致した次第です 私自身は 私の私信に於いての発言であっても 私の名前が明記されている限り 誰が何処にても引用 公開されてもかまわない覚悟で書いてきましたが さて 諸氏の書簡を直接に発表することの承諾が得られない可能性もあるかとも予想されるが故に ( いや 実際 一人の人が自分の名前を出さないでくれ と連絡してきたこともありまして ) これは往復書簡集ではなく ( 最後の < 結 > にある二つの例外を除いて ) 私からの発信 返信のみを収録することにしたのでありますが しかしながら そこかしこにある諸氏からの書簡からの引用に関しては そのままの掲載をご寛恕 ご容赦願いたい所存であります ただ それら 引用された文章の諸氏の文体 表記 その他の言葉使い等に関しては一切手を加えない という方針を堅持するつもりですが それらの引用を最小限にするが為もあり 私の地の文にての後日の訂正 私自身の地の文をも含めての挿入 ( 太字 ) 引用文の部分的削除 ( ( 前略 ) ( 中略 ) ( 後略 ) ) の箇所が多々あることをお断りしたく存じます 此処で 挿入文についてなのですが 口答その他での対話もあった宛先の人々と私に比して この書簡集をお読みになる方々の多くが経過を知る由が無い第三者でいられると予期されるが為 当初の文節中に適宜 説明を要するが為の挿入である ということを宛先にある方々は了解願います 加えて 更に 後日 この書簡集を編集する際に考察したことは 適宜 MEMORANDUM として追記致しております こうした意味では この書簡集もまた 私の新たな創作作品とした一面がある と申すのが適当なのかも知れません また 一方 この著作には 宛先の方々との書簡の往復の経緯もあり 重複した記述が現れるのを避けることができ難いということに於いて そうした文章については 理由は多少は違っても 何か S. Kierkegaard の私家版の機関誌 << 瞬間 >> にも似てきたように見ておりますが 如何でしょうか 先に 私宛に書簡を送ってくださった方々に私の感謝の意を表示させて頂ましたが 私に一通もお便りを寄せられなかった方々には 各々方 忸怩たる思いと共に反省を促すところでもあるのです しかし 一方では この書簡集は今後も更なる加筆 拡張の可能性が大でありますので 心を入れ替えられて お便りをお寄せ下さることを平にお願い致す次第でもあります この書簡集に掲載された方々及び未だ掲載されない方々もまた 宜しく 更なるお便りをお送り願います その意味でも 今日現在では この著作は open-ended なので print なさらない方が適当か と推測いたしておりますが それは読者の方々にお任せすることに致します 3

4 目次 序 謝辞に代えて...3 目次...4 哲学 この世話がやける混迷...5 世界 この世話がやける体制...54 支那人 この世話がやける人民...60 日本人 この世話がやける人々...62 女性 この世話がやける種族...65 子供 この世話がやける怪獣...69 音楽 この世話がやける学問...74 絵画 この世話がやける幻影 言葉 この世話がやける手段 執筆 この世話がやける苦役 出版 この世話がやける苦闘 科学 この世話がやける仮説 宗教 この世話がやける錯綜 教会 この世話がやける集団 超越 この世話がやける存在 結 参考文献

5 哲学 - この世話がやける混迷 K.T. 先生 ご無沙汰いたしておりますが 先生は如何がお過ごしでしょうか ( 中略 ) 昔 西欧の ( 名前は忘れましたが ) ある学者が S. Kierkegaard と G.W.F.Hege との違いは それほど大きくない と言っておりましたが 問題は そこにはないのではないでしょうか Kierkegaard が問題にして批判をしていたのは Hegel だけではなく その取り巻きや亜流の輩であり Kierkegaard は それが故 私を止揚しないで欲しい 私は媒介というものを怖れる (J.-P. Sartre 流に言えば 即時化を怖れる ) と叫んだのではないでしょうか また 国際連合 UNESCO での Kierkegaard に関するシンポジュウムがあったとき 当時のデンマルクの大使が 我々は彼の名文を原語で読むという特権をもっている と ( 実質的にはそれだけ ) を述べておりましたが 私はそれを聞いて 預言者は故郷では受け入れられない と言った Jesus の言葉を思い出しておりました これまた 問題は そこにはないでしょう この大使は Kierkegaard の時代に生きていたとしたならば 彼を受容れていたでしょうか それについての言及は全くありませんでした このような学者や大使の発言を後知恵というのですよねぇ 一方では これも昔なのですが カント哲学者であった樫山錦四郎先生が Kierkegaard は 決して難しくない 彼の気持ちになって読めばよく解る と話していたことを 今 私は想起しております 私は そのとき以前に私の知る限りの日本語に翻訳された Kierkegaard の著作 (<< 哲学断片後書 >> を除いて ) の全てを読んでいたのですが 全く樫山先生の談話の通りだと思ったものでした ( 後略 ) 太田将宏 (2008 年 7 月 16 日 ) K.T. 先生 ( 前略 ) さて それから先日の歴史と偶然の問題ですが ぼくも太田さんが考えるとおりだと思います ただホモサピエンスとしての人間の辿る過程は幾つか選択肢が決まっていて その一つをたどることになるだろうと だからサルトルのエクジステンスみたいに自由と選択と実存だけで人間も歴史も決まるのではなく 生じる事象の遅い早いはあれ 人類破滅の可能性も含めて 大筋の道筋は幾つか決まっていると思っているのです これは物理学 生物学的に可能性というか蓋然性というか シャルダンの 現象としての人間 ほど脳天気ではくとも ホモサピエンスの運命みたいなのがある気がしますね とのご意見についてですが 選択肢 について 私は幼少の頃から気になっていることがあるのです ここでは特に 人間の思考の可能性の範囲について ( 先生は 他の人のようには これは言葉の遊びだ とは思われないと思われますので ) 簡単に記述させて頂きます : 全てを肯定する ということは実現の可能性が無くても ( それをおくとして ) 論理的な可能性はありますが しかし 全てを否定する ということは論理的な可能すらも無いのではないでしょうか 何故かと言えば 後者にて ( 可能性が ) ある と言った瞬間 それは肯定だからなのです ( 同様なことを私の << 音楽に関する四部作 >> や << あれかこれか >> にも少し違った表現で書きましたですね ) それが故に 私は J.-P. Sartre の 何も選択しないということも一つの選択だ という態度を肯定できないのです 典型的な例で解明いたしましょう 何ものか ( 例えば超越的な存在 ) を信じるか 信じないか の選択に於いて 実は もう一つの選択肢が隠れているのですね それは 現時点では選択を決定しない という選択肢なのですね それを選択したときに 何も選択しなかった とは言えません 言換えるとして 本来は 何かを信じるのでもなく 何かを信じないのでもない というのは矛 5

6 盾なのでして それを指して 何をも選択しないということも選択である というのは Sartre の強弁でしょう 私は それは 実質に於いて 選択することの先送りに過ぎない と解釈しております 例として述べるならば 日光 華厳の滝に答申した藤村操の いわく不可解 についても彼の自殺による問題の先送り いや 実際は 自己陶酔にもとずいて先送りすらをも放棄した見切り発車のような無自覚 無責任な演技 だったと私は見做しております 彼の自殺も 私の思考停止としての現時点では選択を決定しないという選択肢も誤魔化しであり 五十歩百歩かも知れませんが 私は 彼よりも私の方がより事態の深刻さを認識していた と自認しているのです 時代性もありましょうが 問題を認識 把握する精度が違いますね 懐疑の level が違うと言っても良いでしょう 私のは 誤魔化しであっても 先送りではあっても選択の可能性は残るとしていたのであり 私にとっては 事実 Jesus の十字架がありました ただ それが故に 意識は反射 反射するものである ということが新たな苦悩となって現出したことは以前にお話した通りでしたが * 先生は いつぞや 私の << 音楽に関する四部作 >> について 開き直っている様な気がする と仰いましたが 私は 何も自分自身を肯定しなくても人生はおくれるのではないか として誤魔化し続けてきた次第だったのです いや それよりも何よりも 何か人間存在の思考は 限られた方法論の中にしか無いとして そして それらが限られている限りは むしろ それが故に それらの外に別の思考による意向 意思がある可能性 ( だけ ) を予感したのです それが超越による摂理なのかも知れない と受け入れられるようになるまでは 何十年をも要しました それについては 私の << あれかこれか >> の第三部の拙文にありますが 今では それだけが私に可能な選択であった としか言えないのです Internet で << 現象としての人間 >> の概略 ( だけ ) を読みましたが この宇宙が瞬時に創られようが 6 日で創られようが 何億年で創られようが それは程度の問題で そんな解釈の違いは如何でもよい と感じました この地点で 私は思考停止をしているのでしょうか 上記に於いては 私の粗雑な論理の記述になったか と思われますが更なる教鞭をお願いいたします 太田将宏 (2008 年 8 月 5 日 ) * この件については 筆者の << あれかこれか >> を参照願います 6 S.M. 様 先日 この季節の例によって美麗なカードを頂きました 毎年どうも有り難うございます ただ 今回ほど落ち込んでいる S.M. さんのお便りでは考えさせられることが多く 何とお返事したらよいか考えあぐねております 私より S.M. さんの方が心理学 精神病理学にはお詳しいようでしょうし また 次のようなことも思い出しているので クリスチャンくずれの私の立場などは あまり興味をもたれないか と予想もされているのです S.M. さん 憶えておられますか 私がまだ日本にいたときの昔ですが 私が そうは言っても S.M. さんも超越の掌の内にある と言ったとき そういう言い方はよくない と私に抗議なさいましたね 確かに正当な抗議でした 今の私でしたら もし 超越が存在するならば という条件から話を始めたでしょうに しかし それが存在しなかったとしても それはそれでもともとではないですか これは ご存知でしょうが あの有名な <Pascal の賭け > ですね しかし 私の心情から言えば賭けではなく いつしか無理なく自然にそうなってしまったのです 私は ある面では 怠惰 いいかげん ずぼらなところがありまして 人生とは何か とか 人生に意味があるか とかの解決ができない問題は超越的な存在に委せよう としているのです 誰かが 真剣になることは大切であるが 深刻にならない方が良い といっておりましたが 解決が不可能な問題は そいつをおいらが考えるんですかい として開き直っているのです 故池田晶子が 自分が今此処にいるということほど不思議なことはない と書いておりましたが その不思議なるものは回答が

7 存在しない疑問の一つであると判断しております 人の生命よりも重要な信念 理論 理想 つまり 人生に意味があるかどうか それもまた同様でしょう 私の主観から言えば 私は この人生に失敗したのではないかと悔やんでもいるのですが このリハーサル無しのぶっつけ本番の人生で 何であれ失敗したから意味が無いのではなく 失敗しなかったとしても もともと 意味があったかどうかすらも解らないではないですか また 人生に充実感が無ければ意味が無いのではなく あったと思っても それはいい気なものでしかないでしょう 私は 人間存在は 元来 それらのことを解りえる論理手段をもっていなかった と現在は確信に近い見解でいるのです S.M. さんは 謎が謎のまま死んでいく と仰っていましたが そんなの 当り前のことで 今更何を と言ったら失礼でしょうか 以上は 私が書き続けてきたことの繰り返しでもありますが 結論は もし Jesus の十字架が無かったとしたならば という前提を抜きにして今回は書いてきましたが S.M. さんを説得しようというような意図は皆目もございません ただ 私は 自分の生涯に意味があったかどうかすらを超越の判断に委せようとしている者なのですが 仮に 私が無に帰するとしても超越の栄光は燦然として輝いている という諦めに私の死ぬ準備としての覚悟ができるかどうかが懸案なのですが 淋しいという本音は辛くも消えないものですね これは一般論ですが 男は いつでも自分の家に帰れるように 女房 子供をしつけておく というのが私の持論なのです 此方での私の知人の独りが 女房とは何も話すことが無いと言い 彼の奥さんは 主人と旅行に行っても面白くもない などと言っておりましたが 反面 私と家内は 互いに話すことが多く 連れだって旅行もよくします そのかわり ( 陰惨な ) 喧嘩も多いのですよ S.M. さんとお会いして話をしていた際に? と思われることも無かったわけではないのですが 私自身は開けっぴろげでも およその家庭のことははかり知れないので黙っておりました 今も S.M. さんご夫妻は如何ですか などと聞く私ではないのです しかし これだけ辛い心境にありながら 引退しない したくない訳がいまひとつ分らないので 上記のように突き放した書き方しかできないのですが 悪しからずお取り願いできますか 太田将宏 (2009 年 12 月 17 日 ) 7 S.M. 様 S.M. さんからドストエフスキーの << 罪と罰 >> を中心として書かれた mail を頂きました どうも有り難うございます また 期せずして << 愛と生命の摂理 >> の前半を読んでくださったとのことで嬉しく 感謝しております ( 中略 ) さて 私の << 愛と生命の摂理 >> についての S.M. さんの論説についての私からの返答なのですが 今回は 少し整理させて頂たく存じます ( むしろ S.M. さんへの質問になりますか ) 私は まず << 罪と罰 >> の ラスコーリニコフは, 自分が天才的で社会的に有能になりうる人物だと信じており, との切り出しからでして おや と思ってしまったのです ただ これは S.M. さんだけではなく そう解釈する人が一般的にも多いようですが 私の読み取りでは ロジオンは それへの確たる自信 確信がないが故に ナポレオン であろうとして なろうとして老婆を殺害した とでもいうところなのです ただ その犯行に至るまでには 別の社会的 心理的 また状況の推移がもたらす要因が煩雑になる程に綿密に記述されているのですね それらが故に 彼がソーフィアの部屋で彼女と語った時には ( 亀山郁夫氏によるならば ) 五つぐらいの理由を並べなければならなかったのだ と私は理解していたのですが 如何でしょうか S.M. さんがおっしゃる 差異 についてのご意見には私も同感しております ただ ( 同じことを言っているのかもしれませんが ) 二つのことを付け加えできませんでしょうか 人間存在に差異が無くなるのは 超越的存在 絶対者を現前にした時だけである ということと 相対的な人間存在にも ( 更に民族間にも ) 段階としての差異がある ということなのです 私は 万民が基本的人権に於いて平等で

8 ある というのは便法であるとしております さもなければ 相対性 という言葉自体が矛盾をはらんでいるではないですか (S.M. さんは 普遍 という言葉で説明をなさっていますが その 普遍 は 基本的人権 なんぞではない ということには同意なさいますでしょうか ) 但し Jesus に倣う者としては ( 超越を前にしては ) 差異の無い それを意に留めない いや それが意識にすら上らない他者への関わりしか容認されないのでしょうね それが S. Kierkegaard が言った < 宗教的実存 > ではないでしょうか それは一切の < 論理的実存 > の彼方にありますが 私は (<< 罪と罰 >> のロジオンや << カラマーゾフの兄弟 >> のイワンと同様に ) その境地に達していないのですが 私は しかし 私と相対的でしかありえない他者が その私の限界を指弾することは ( ロジオンやイワンと同様に ) 拒絶している者でもあるのです それは それこそが新約に読むパリサイ人の偽善そのものだからです これは次に進む前の前提なのですが 私は 善人こそ助けられなければならない と主張するしないに拘らず 自分で自分を善人だとしている人を 自称善人 もし それを主張するならばパリサイ人 一方 どうにも自分は善人でありえないとせざるをえなく 自分は為してはならないこと ( 悪 ) を為している まして他者の為の自己犠牲として為さざるをえない人 ( つまり ソーフィヤのような人 ) を真性の善人 としているということなのです それならば 真性の善人は 自己の意識に於いて自身を悪人としているでしょう ただ 親鸞が私が言う真性の善人を含めて 善人 を語っていたかどうかが議論の分かれ目になるか と途惑ってのですが 善人なおもて の なおもて には皮肉な響き つまり逆説を感じ それが故に 親鸞は むしろ 真性の善人を対象に語っている しかし そこに自分を含めることは自己欺瞞になるので 自身は真性の 悪人 であると規定している と私は読んでいるのです さて 私は親鸞の言葉を 神は善人を助けるのだから, もちろん悪人を助けるのは言うに及ばない と読みます とありましたが その S.M. さんの現代語訳は正確でしょう しかし 次の 本当は 神といえども善人を助けることができない 助けることができるのは悪人だけだ というべきです には同意できないのです 自分で自分を 善人 だとしている輩 自称善人 は論外であるとしても そうではない真性の善人も ( もしそれが本当に存在するならば ) もともと救済されるので論じる必然性はない ということなのでしょうか 彼 彼女は自己の意識にて自身は悪人だとしているのです そこでの意識は 何処かで救い揚げねばならないではないですか 救済を必要としているのは 自分で自分を 善人 とはしていない そうはできない真性の善人 ( 主体 ) をも含めた悪人 ( 客体 ) なのだ そして 彼らこそが当然のこととして救済される と私は親鸞の簡潔な言葉を解釈しております ( 後略 ) 次に行きましょう 新約には < 山上の垂訓 > が二箇所に書かれているのですね S.M. さんが引用された方は マタイによる福音書 ( 第五章 3 節 ) の方で ルカによる福音書 ( 第六章 20 節 ) では 心の貧しい者 ではなく ただ単に 貧しい者 になっております また < 参上の垂訓 > は 律法の理想的成就が語られているのであり 生身の人間存在にとっては実現不可能だという見解もあるのです (S.Kierkegaard にも そこまで私は求めない と書いている箇所がありました ) それが故に 旧約の律法の世界の範囲では代換えとしての家畜の犠牲が求められていたのではないでしょうか そうしたわけで これに関する議論は 私としては避けたいところなのですが 逃げるわけに行かないので 私の現時点での解釈を書きましょう それは 心 との言葉のある無しに拘らず 超越的な存在以外には 金銭 財産 自分自身はもとより この世の一切に頼らない 頼ることができない人間こそが天国に入れるのである といったものなのです それ故に S.M. さんの 善人とは心の貧しき者のことであり 欲望を持たない者のことです これに対して悪人とは欲望 ( 欲情 ) を持っている者のことです との文中での 善人とは心の貧しきもの には首を傾げざるをえないのです 私なりに書き換えますならば 真性の善人とは ( ささやな欲望があっても ) この世での自身の希望の実現の可能性に絶望し ひいては自分自身に絶望した 心の貧しき者 のことであり 悪人とは欲望 ( 欲情 ) をもっている者 その実現の可否に関らず それを自覚 自省することにより 自分で自分を 善人 だと見なさない 見なせない自分自身に絶望した 心の貧しい 者のことである となりますが その絶 8

9 望を S.Kierkegaard は 罪 と規定しているのですね では その 罪 は crime としての罪を犯す犯さないに拘らず 人間存在にとり不可避なもの つまり 存在論的な概念 sin ではないですか 或いは 私は S.M. さんと同じことを言っているのでしょうか さて 最後の難関に差掛かりました 私は Kierkegaard の << 死に至る病 >> にての 死に至る病は絶望である と書かれているのは 倫理道徳 つまり ただ単に律法の問題なのではなく 人間存在における意識での つまり存在論での問題である と拡張解釈しているのです 加えて更に拡張解釈するとして 絶望 = 罪であることは 超越的な存在の肯 否定に拘りの無いことである となしております 私は また 私が嫌悪するのは ある種の正論を吐くパリサイ人のような人間なのである と私の << あれかこれか >> に書きました それらを前提にして S.M. さんの論旨に対しての感想を述べさせて頂きましょう S.M. さんは カラマゾフ の未完の部分で, アリョーシャが大罪を犯すというストーリーになると聞いたことがありますが, それはそうだと思います と書かれておりましたが それは 確かに アレクセイの皇帝暗殺説 に於いて顕著ですね しかし それも < 第二の小説 > が存在しない限りは憶測に過ぎない と私は判断をしています 憶測 想像で構わないのであるならば 私は イワンとスメルジャコフに類似した関係がアレクセイとコーリャに准えるのではないか と思い巡らしているのですが 問題点は 実行犯としての刑法上の罪 (crime) と超越を前にしての存在論的な罪 (sin) の区別ではないでしょうか イワンの苦悩は 自分は実行犯ではないが 超越を前にしたら自分の罪 (sin) として責任がある ということにあるのでしょう ( 彼はそれが故に 亀山郁夫氏が言うような ( 独特な ) 無神論者なんぞですらありません ) もう私が何を言いたいのか解って頂けたかと推測しておりますが S.M. さんの 何しろ, 罪が深ければ深いほど, 神は 助けがい があるのでしょうから. 例えば, 赤軍派の罪や, オウム信者の罪が思い出されます. 彼らは確かに間違っていたし, 深い罪を犯した. しかし, 動機は高貴です. 彼らは現実に正義を到来させたかったのです には同意できないのです 人間側に絶対が無い限り そして真性の客観が無い限り 罪 = 絶望であるかぎり 動機は高貴です ではないのです 赤軍派が為したことは << 悪霊 >> のピョートルヴェルホーエンスキーを想起させ オウム教信者の為したことは 目的は手段を正当化するという狂信の上での terrorism に他ならなく そして 彼らこそが 自称善人 であって その自己欺瞞は無自覚な偽善ではないですか USA での no-conservative の連中 輩も同列にあるでしょう S.M. さんの結語としての 有限的存在である人間は世界に正義をもたらすことができない. そのような欲望を持った行為は必然的に罪に至る との言葉は S.M. さんと論議の経路は違っていても 全く私が論じていたところでもあるのでして それを私の 或いは キリスト教会 の言葉に置き換えるならば ( 相対的な ) 人間存在の側に人間を義とする何ものも無い ということになりますか Jesus は 悪人は受け入れておりましたが 無意味な正論を吐く偽善者には抗議をしておりました ただ それに続 S.M. さんの 善人こそ助けられなければならない と主張する自称善人に対して, 私は言うことにしてます あなたたちは十分に悪人なのだから, 神は助けてくれますよ での 自称善人 は 私が言う俗物 偽善者に該当するのでしょうが 十分に悪人なのだから 以下は 主観と客観が混同されているのではないでしょうか ( 後略 ) 太田将宏 (2011 年 3 月 1 日 ) 9 S.M. 様 もう一度スキーに行きたいと思っている間に雨が降り もう 2seasons 続けて三月には近くのスキー場では滑れないようです 今朝は -12 度 C まで温度が下がりましたが晴れまして 外では cardinal が囀っております まず 前回の私からの mail で その後 書いた方が良かった と気がついたことがありますので それを書き留めさせて頂ます それは 私は ( 自分自身を含めて ) 何々をするのは良い ( 悪い ) ことだ

10 それをする ( した ) 自分は良い ( 悪い ) 人間だ というような自意識の無い人間を思い浮かべることができない という一文です そうした現象学的な意味での意識存在 ( または 知恵の木の実を食べてしまった失楽園後の人間 )) でしかないのが実存する人間である ということを暗黙の前提として書いた mail だったのですが やはり 明示的に書く方が良かったか と思い直した次第です さて 次に S.M. さんは イワンを無神論と解釈して読むというのもまた 1 つの読み方 であると書かれましたが (<< カラマーゾフの兄弟 >> に於いての私の読み落しが無いとして ) < 第一の小説 > の中で イワンを無神論者と決め付けられる文は一行も見当たらないのですね 例えば 彼は 確かに < コニャックをやりながら > にて フョードルに向い 神はいませんよ 中略 不死もありません と答えています しかし 後日 アレクセイに それはフョードルを前にしていたからだ と弁明していますね イワンは あるときは無神論的であり, ある時は有神論的である のではなくて どの瞬間に於いても無神論者であり 同時に無神論者ではないのではないでしょうか その一点で 彼は << 悪霊 >> のスタヴローギンに交差している というのが私の理解なのです つまりは 揺れ動き という言葉よりは 振動 という言葉のほうが適切なのかもしれませんね S.M. さんにかぎらず イワンを無神論と決付けて読むということに そうした登場人物の本質論的な規定に 私は反論してきていたつもりなのですが 私の << 愛と生命の摂理 >> にては 私が意図したようには書かれてはおりませんでしたでしょうか J.-P.Sartre の << 存在と無 >> には 給仕は給仕を演出する と書かれていますが 給仕にとってのそれは彼の本質なのでしょうか 彼 = 給仕なのでしょうか そこには それを演出している彼の実存がないのでしょうか ( 後略 ) 太田将宏 (2011 年 3 月 3 日 ) S.M. 様 S.M. さんからの mail が遅れている とのことですが そんなに気になさるほどは遅れていませんよ 私は その間 漸く確定申告を書き上げ発送して またスキー場に行って滑ってきました そうこうしているうちに またまた S.M. さんからの mail が届いてしまい少し慌てております それで 此方からの今回の mail は S.M. さんの ( 当地での )3 月 9 日付けの mail への返信です 私は ドストエフスキーの << 罪と罰 >> をロジオンの成長小説として読むのには無理があると判断をしております 彼は <Epilogue>> に至って漸く別の可能性への思いを抱いたに過ぎないからなのです もし 仰るとおりの青年の一時期の問題であるとしたならば 老齢の私が今なお彼に共感しているところがあるのは 私が未だ未成熟なのだからなのか と自問自答しているというわけなのです ただ 次のことは言えませんか 自身の意識が自分に向けられたとき その即時化した自己とは その直前までの自身の過去の集積である と見なされるということです それであるのならば 青年 ロジオンには 彼自身の即自として現象化されるところの 自分にとっても言うに足るような過去が未だ無いのですね それが故に 未成熟な彼にとっては 自分は何者であるのか 何者でありうるか そうした image が結び難く ( 私は 対自が宙ぶらりんになっている と表現したいのですが ) S.M. さんも仰る それは, 殺人こそ犯さないが, 青年の誰にでもある経験 を殺人を含めてまで 自己投棄として決行してしまった ということではないでしょうか ロジオンに較べるならば S.M. さんや私 また ポルフィーリイやスヴィドリガイロフには ( 私自身は 忸怩たる思いで省り見るにしろ ) もはや彼らが言う 空想 S.M. さんが言う 主観 ではなくなった充分すぎるような過去 なんやかんやがあったではないですか 私は 前回 << 罪と罰 >> を読み直し それが故に ポルフィーリイやスヴィドリガイロフがロジオンやソーフィァにそれとない好意を抱いていた その心情に しみじみと思い入れができたのです 加えて また 人間存在の現在の実存に於いて (V.Frankle が言ったように ) 過 10

11 去の意味すらをも変更することができる ということが念頭にあったので 行為の前後で実存が激変する と書いた次第なのです 次に S.M. さんによれば 石や草木は罪を犯すことがないので善人だと言っているのです とのことですが 私は 人間を除いて被造物は全て善悪の埒外にある と解釈しております ( 善いとも悪いとも言えないということです これは 反論しているのでもなく 揚足を取っているのでもないのです ただ S.M. さんとの communication を smooth にする為に書き留めておく次第です ) つらつらと考えてみるに S.M. さんと私で 客観 という言葉の意味合いが違っているのではないか と途惑っております 私としましては 人間存在には客観は無い しかし 自分または周囲をできるだけ外側から見ようとする しかしあくまで主観であるところの所謂 客観 はあるようで それが一般的に言われる 客観 のようなものか と見做しているのです 問題は その 客観 の外側なのですね ピュタゴラスが言ったとされる 自分に足場 ( 支点 ) を与えてくれるならば 地球をも動かせて見せる というのを思い出しませんか その支点は世間的な常識 公共主観なんぞではないでしょう そこで S.M. さんは 普遍 という言葉に滑り込んでいる というのが私の印象なのです しかし その 普遍 なるものは それを人間側から見る限り 必ずしも客観であるかどうかとすうる決め手は無いのではないでしょうか 私は それを 超越は絶対であるとしても 超越に対する人間の概念は相対的である と表現したのですが 人間存在には客観は無い ということは 超越の存在 非存在に拘り無く言えることだ と私は考察しているのです G.W.F.Hegel や S.Kierkegaard の記述を興味深く読ませて頂ました ( 序ですが こういうカタカナを使わない書き方をしているから出版から遠い と言った人もおりました ) 一つだけ気になったことですが Hegel にては ( 私は 精神現象学 を読んでいないのですが ) 此岸にて (S.M. さんによるならば 無限遠点 に於いて ) 主人 奴隷の実存にて収束する 一方 ( これは私の読み方ですが )Kierkegaard に於いては 終局的に彼岸に於いてでしか 止揚 解決しない ( しかし 有限が無限に出会う 瞬間 は現世にもある それが永遠の相であり それを彼岸とすることも可能である ) という違いがあるのではないでしょうか ただ ある学者が ( 誰かを忘れたのですが ) Hegel と Kierkegaar d の距離は後者が強調 ( 前者を批判する ( 罵る )) 程は遠くない と言っていましたが もし その奴隷の実存にて Hegel が超越の概念を背後にしていたとするならば と言う条件付きにて それは Kie rkegaard が言う 瞬間 そのものでもありえて ( また 哲学者という者たちには 宗教的なものを中立化して論じる立場があってもしかるべきか とも思われ ) その学者に同意しても良いか と私は思い巡らしておりますが ( 後略 ) 太田将宏 (2011 年 3 月 10 日 ) 11 S.M. 様 私の << あれかこれか >> の < 人生行路の二段階 > を読んで頂いて感謝しております 今回は それに伴う返信なのですが S.M. さんの論旨と充分に噛合っているかどうかが少し心許ないのですが まずは 発信することに致しました まず 私が < 人生行路の二段階 > にて 私には < ある一点 > 仮令それが真実であったとしても それが ひとたび 人の唇から発せられた瞬間 或いは ひとたび 文章として書かれた瞬間 その瞬間に虚偽になる という種類の事柄がある と書いたことについて 興味深いご 感想 を頂きまして感謝しております そのなかでも さらに重要なことがあって, そのことに気付くことが, 命題を偽にしてしまう命題が存在するということです との非常に鋭い指摘を頂ました 私は 或ることを気づくこと自体の不幸についてである と殊更にそれとなしに < 序文 > にて総括し 後の < 人生行路の二段階 > にて それが旧約 創世記の神話的な失楽園の素朴な意味であるとし < 純粋知性批判

12 > を書いたのでした ( 故に 第 3 部の純粋意識批判を読ませていただいたア r とに ( ママ 後に?) 次のメールを書かせていただきます とのこと 期待してお待ちします ) また S.M. さんからの例としての 私は謙虚だ という命題です 謙虚な人は自分を謙虚だとは思わないからです ですから, 自分が謙虚だと気付いた時には, 本人はもはや謙虚ではなくなっているわけです とのことでは 私も 私の << あれかこれか >> にて ( そこ以外にも 何処かで もし謙虚であることが良いことであるとしたならば という出だしで J.-P.Sartre が彼の << 存在と無 >> にての 反射 反射 という言葉に関連づけて論じていた筈なのですが ( また 彼の著書では それが無限反射にまで及んでいるかどうかが明示されてはいないのですが )) 私は 反射 が無限に続くが故に 例えば < < 悪霊 >> のスタヴローギンは行詰ってしまったと読解し 論述していたのです 次には 埴谷雄高が言う 自同律の不快 とは 対自としての意識の対象としての即物化した自己を承認できないが故に 同一律から逃れたい ということになるのでしょうが 逃れたい も何も 始めからその不条理から逃れるすべが人間存在には無い 与えられていないので 不快 となるのではないですか その意味では S.M. さんが仰るとおりに 確かに サルトルも埴谷雄高も, 結局のところは同じである のでしょうが 埴谷雄高の表現は情緒的に過ぎ ( そこでの 不快 とは単なる違和感に過ぎず ) また舌足らずで 私たちの後知恵としての Sartre の理論の援用が無い限り 埴谷の言わんとすることを つまり人間の意識のありようを私たちも正確に把握できなかった と私には思われます 私が 埴谷の著作を読んだ限りでは 同一律の不快 にとどまり しかし それからは逃れえない と続くところは無かったように記憶しているのですが 如何でしょうか 彼が繰返し書いていた 病むべき身につくられながら健やかにと命ぜられて との繰返しにも 常にその先が無く 残念ながら尻切れトンボで それでは ぼやきに過ぎなく 他の日本人の作家ならまだしも かの埴谷にしてもこの程度の文章の精度か と言ったならば言過ぎでしょうか ただしかし 彼は ドストエフスキーの著作の弁証法的な理解と言うことでは 日本に於ける第一人者ではなかったか と私は推察してもおります それでも 彼のそれは 彼がキリスト教 ( 旧 新約 ) を充分知らぬ故か ( これは 彼だけではなく 亀山郁夫を始めとする日本の多くの学者 著述家に共通しているのですが ) 私が言う逆説的弁証法ではなく 埴谷の著作の文学的な高水準をさておいたとしても 論理の自立からは程遠い と言うのが私の評価なのです これ 貴兄の反論を期待しているのですが 宜しくお願い致します 次もまた S.M. さんの論文に関連があるかと思われるので ご意見を聞かせていただけるならば幸いなのですが S.M. さんは このテーマを議論すると, 科学哲学の厄介な議論をしなくてはならず, 私の任ではないので, やめたいと思います とのことで私は途惑っているのです しかし それにもかかわらず 後ほどでは 続いて科学哲学に関ると思われているところに文章が復帰されているので 此処で私も少し続けさせて頂きます ただ 以下 私は科学哲学に興味があるものの それを専門に学んだことが無いので 間違ったことを書くかもしれないのですが そうであるならば ご指摘を願います まず 私が書いた 学問は方法論的に閉じられている という文章では その前の 学問を無限 ( 所謂 永遠 ) とするのは これまでの経験則による予定調和である と後の 断っておくが 私は 学問が無限ではない とは書いてはいなかった 学問が無限であるかどうかは それは検証が不可能である と言っていたのにすぎない との文脈で読んで頂けたかどうか それが気になっております つまり 私が使った経験則という言葉は 経験科学を意味してなく 今まで発展してきた経過での経験から 次も 次もと無限に という安易な期待を否定することを越すものではありませんでした この辺りで (S.M. さんの経験科学と非経験科学についての説明は 私にとっても意味があったものの ) 話が混同 交差 分岐したものと思われますが如何でしょうか ただ もし私の文章に舌足らずなところがあったとしたならば 自然科学は 押並べて 本質論的な方法での思考の成果であって そこに実存論的な思索の入り込む隙はない いや それを拒絶したところの方法論に拠っている という一文でしょうか ( しかし それについて私は それについて注意し 方法論的に閉じられている とだけは書いておりましたが不充分でしたか この件の詳細に関しては この << 瞬間 >> の < 科学 この世話がやける仮説 > にて論じております ) 私は 学問 12

13 それが自然科学であれ何であれ その進展 更新が 永遠 に続き 学問は永遠である などと言う或る種の学者の楽天的な戯言を冷笑していたのですが S.M. さんの 物理学 ( というより自然科学 ) は自己意識に対して閉じられていない という趣旨の論文には多大の興味を抱いたのですが 私の方には 自然科学は 自己意識に対し閉ざされている との見解があるのです これは 自然科学や ( 程度の違いがあってもの ) 本質論的な哲学と実存論的な哲学の違いの反映なのでしょうか ( これもまた この << 瞬間 >> の < 科学 この世話がやける仮説 > などにて論じておりますが そこでは 数学は思考実験により真偽を決定し 物理学は実験により理論を検証する その何れも対象の 本質 を定義することを目指している との意味をも書きました ( これは序でなのですが 私どものように自然科学に近いところで学び 働いてきた者にとっては 所謂 社会科学 なる言葉自体に何か胡散臭いものを感じませんか それは どのような意味でも実験ができないからではないですか )) 一方 数 ( 学 ) というものは人間が作り出したものである限り ( 虚数を思い出してください ) その意味では自然科学の範疇にあるのかどうかに疑問の余地がありませんか そのあたりの S.M. さんのご意見を頂けますでしょうか 此方で topology を専門にしている学者と話す機会があったのですが 彼は 行き過ぎた公理的数学には問題がある と言っておりました その 行き過ぎた について如何なる辺りに線を引くか その辺りに問題が残っているのではないでしょうか それで思い出したのですが 日本で二度ほど 物理学での 数学 は数学ではない と言った数学を専門としている と称する御仁に出くわしたことなのですね 今の私は 二流 三流の数学屋に限ってそういうことを言いたがる と判断をしております 彼らは 物理学が如何程までに数学に寄与してきたか 数学を演繹的に道具 (tool) として使ってきた物理学の成果が どれだけ帰納的に数学に合致しているかに驚嘆の思いを感じないのでしょうか ( 数学がどれだけの養分を物理学から吸収してきたか それに関して 例えば I.Newton の微積分学や <<Principia>> を思い出さないのでしょうか ) また 彼らは 五十年以上前に発覚した公理系数学の行き詰まりを知らないのでしょうか 数学基礎論の そのまた基礎である集合論そのものにある B.Russel たちが六十年以上前に指摘した 集合論の矛盾 (S.M. さんが例に挙げた この文は偽である という文は それに属しますね ) の解決の不可能性を予測できないのでしょうか S.M. さんは 神の視点は, 人間の時間を起源から週まっつアで ( ママ 終末まで?) 一望のもとに見渡すでしょうから, 神は長時間的損 ( ママ 超時間的存在?) であるという意味で永遠だということになります としていましたが 確かに新約 ヨハネによる黙示録には 私はアルファでありオメガである とあるのです しかし 同書に もはや時 無かるべし ともあるのですね 私は これを 原罪 終末 救済の二重性であると書いております 時代的な制約も相俟って << カラマーゾフの兄弟 >> のイワンは ユークリッド的なぼくの頭脳 ユークリッド的なたわごと と表現しておりますが 私は 更に 或る種の事柄は 人間存在に可能な思惟の全ての集合に於いてでさえも解決の無い命題が存在する と総括しております ( 中略 ) この頃 私からの mails にて 何々は私の XX に書いてある というのが増えてきましたが それは mails での論旨を出来る限り簡潔にする為にすぎなく S.M. さんが該当する原稿の全部を読まれなくても 適当な keyword で scan なされるならば さしあたっての用は足りると予想 期待している故なのです また 話し言葉よりは手紙などでの書き言葉は丁寧になりがちなのですが その辺り S.M. さんも私も少し遠慮が過ぎてきているのではないか と感じるようになりました もし 今後 ( 私の方は 無論 S.M. さんへは気にしないように努めますが ) 忌憚無く書いたが為に私の書き方が礼を失しているようなことがあったとしても悪しからず受け取り願えますか 例えば 私も為しているかもしれないと思い 今まで言うのを躊躇していたのですが S.M. さんが私が書いたものを読む際の読み取りの精度 ご自分の書く文章の精度をいま少し上げて頂けたら という感想があるのです お前だって と言われるかもしれませんが ( そのときは貴兄から指摘されることの期待と共に ) 此処まで詳細に話が込み入ってくると 自分のことを棚にあげて ということにしても対話を smooth にする為には実際的ではないか と愚考しているのですが これは甘えでしょうか 例えば 私が 人間存在の現在の 13

14 実存に於いて (V.E. Frankle が言ったように ) 過去の意味すらをも変更することができる ということが念頭にあった と書き送ったのに対して 過去すらをも変更することができる と私が書いてきたなどとの貴兄の反応では 私が かなわないなあ と思うのも無理ないのではないでしょうか ( この件については 筆者の << あれかこれか >> を参照願いたいのですが 実を言うと 現在の実存にて過去の事象の意味が変わるということは 現象としての過去自体の実存的な修正が可能であるということと同等なのではないでしょうか ) 太田将宏 (2011 年 3 月 14 日 ) 14 S.M. 様 お便りを有難うございました 福島の原子力発電所の事故が収拾の方向にあるとのことで少し安心しましたが 東京でも 乳児に水道の水を飲ませないようにとの通達がなされた と耳にしました また 未だこれから地震 津波の被害者の救済が続くのでしょうから大変ですね S.M. さんの千葉県での状況は如何なのでしょうか また << あれかこれか >> を < 純粋意識批判 > までに進んで頂いて嬉しく思っております これは 旧 新約からの引用が多いので S.M. さんにとっては煩わしいのではないか と懸念しておりました さて S.M. さんが寄せてくださった感想文をも読ませて頂いたのですが 今回は 3 月 23 日付けの mail の部分に関する返信だけにさせて頂ます ただ 私は G.W.F.Hegel については 直接的には殆ど何も知らないので 充分に返答できるかどうか危ぶんでおります それで S.M. さんへの質問の容で書かせて頂きましょう ( また 質問の形になっていない箇所は それを検証して頂けるならば有難く存じます ) Hegel の言う 有限な意識 ( 此岸の意識 ) と無限の意識 ( 彼岸の意識 ) の対立 とは S.Kierkegaa rd による << 死に至る病 >> の冒頭 人間は精神である 精神とは 肉的なものと霊的なものの総合である に対応していると判断しております ( 此処での 肉的なもの とは ただ端に 肉欲だけを意味しているだけではなく一切の此岸の物を指している というのが私の ( 拡張 ) 解釈なのですが これは 如何でしょうか ) しかし そこでの定立と反定立の止揚としての 精神 は可能なのでしょうか 次の場での Hegel にて 理性における観察と行為の対立 は Kierkegaard にも自覚されたものだと推測されるのですが 後者は 苦悩だけが真実だ と呻吟し 私を止揚しないでくれ と悲鳴を上げておりました そこから両者の論旨が分岐して行くのではないでしょうか Kierkegaard は 私ほど実存を強調する者はいない と主張しておりました ドストエフスキーは 人間がそれに耐えるには 人間が質的な変化をしなければならない というようなことを言っておりました ( この言葉の出典が何であったのか憶えていないのですが 機会がありましたら教えてください また 埴谷雄高も同じようなことを言っていませんでしたか ) その点において Hegel が言う 絶対知 なるものは楽観が過ぎているのではないでしょうか もしそれが Hegel の楽観であるとしたならば S.M. さんの結論としての 異なることは重々承知したうえで, 同じだと言っています つまり, 私の人生にとって そして多分多くの人々にとっても どちらで生きようとも結果は同じになると思う ということです すなわち ヘーゲルの絶対知に到達することもないし キルケゴールの言う瞬間 = 永遠を体験することもない ということは Hegel 批判にもなりますね 私は その S.M. さんの Hegel 批判には 絶対知 なるものは楽観が過ぎている として S.M. さんに同調しておりますが そのうえで Kierkegaard の 苦悩 やドストエフスキーの小説での登場人物たちの四転八転の足掻きを読み取っているのです それこそが 私自身の問題でありましたので そこでの S.M. さんの結論としての ある論理が正しいことを証明することができても, 今度は照明 ( ママ 証明?) に使用した論理が正しいことは証明できないので, 永遠に論理が正しいことは証明できないことになります このことによって 神の不在が証明されたと主張する人がいます ( つまり正しいということが証明されないので ) とのことに関しては 私には疑問に感じるところであるのです もし 照明 ( ママ ) に使用した論理が正しいことは証明できない のであるならば 一切の演繹的な思考

15 ができない ということになりませんか 次は 更に重要かと思われることなのですが 神の不在が証明されたと主張する人 がいる ということなのですが (S.M. さんがその人の側にいるのかどうかが文脈上で定かではないのですが ) それは 超越の存在も不在もが証明できない と正すしかないのではないでしょうか 超越の存在が証明されないということは 必ずしも それの不在が証明された ということにはならないからです ( こうした古色蒼然たる命題に今なお拘り耽溺している人もいるものですね ) 私自身は 人間には自身の知らないところで永遠に接している瞬間があるかとし それが私が定義する 摂理 なのですが また それこそが証明の彼方にあることである としているのですが 如何でしょうか ( 後略 ) 太田将宏 (2011 年 3 月 24 日 ) 15 S.M. 様 今回は S.M. さんからの 純粋意識批判前半を読んで へのお返事です * 私は J.-P.Sartre の << 存在と無 >> の ( 全体は ) 松浪信三郎の翻訳で読んだのですが 彼の翻訳での日本語は (( 共著ではありますが ) 同じく彼の翻訳である K.Barth の << ローマ書講解 >> と同様に ) 酷いものですね 此処で 一つ S.M. さんに質問させて頂ます 松浪氏は 彼自身の解説にて この本の読者は 実存という言葉が一つも出てこないので訝しく思われるかもしれないが 実は この本で言う 意識 が実存なのだ というようなことを書いておりました 私は 意識 = 実存とするのには違和感があるのですが それを上手く説明ができないのです この件 S.M. さんは如何でしょうか 加えて 私には <existentialisme> を 実存主義 と訳すことにも異議があるのです 更に言うならば 元来 original の <existence>( ドイツ語では Existenz) という言葉そのものにでさえ 通常 存在 という意味しかないのですね ですから <existence> に existentialist たちが言うような特別な意味を付加した言葉の適用からして問題の発端があるのではないでしょうか しかし その???(1) を言い表す言葉が無かったのでしょうし 私も見つからないのです この件も S.M. さんにては如何でしょうか さて なぜこうしたことを私が問題にしているかを次に書くことにします : S.M. さんは 神はこのように 人をご自身のかたちに創造された 神のかたちに彼を創造し 男と女に彼らを創造された ( 創世記 第一章 27 節 ) この言葉は, 私には信じられません 神が自分の形に似せて人間をつくったなどということを 一体だれが信じるのですか 大体, 神に形があるのですか 超越者である神に形があるなど云うことを 一体 クリスチャンは信じているのですか? と書かれてきましたが creationist 以外の cristians は 創世記を一字一句 書かれているがままには信じてはいないでしょう さて 古代も古代 その成立の時期も判然としていない旧約の書き手の限られた語彙で彼らが思考した???(2) を如何に表現できたのでしょうか ( また ( 古代 ) ヘブライ語には 抽象語が少なく 例えば 歴史 とか 民族 などという言葉すらが無かったのだそうです ) そうした限られた言語で書かれたのが < 創世記 > の神話なのですね 現代人としての私が私なりに その非神話化を試みたのが私の << 純粋知性批判 >> だったのですが そうは読めませんでしたか 少なくとも 超越には形が無い, と言切ることはできないのではないでしょうか 私は < 創世記 > は 現代人にも通じる論旨を語っていた ということを立証したかったのですが 新約に話題を移しましょう S.M. さんには あなたがたのなかで罪の無い者がまずこの女に石を投げつけるがよい ( ヨハネによる福音書 第八章 7 節 ) の意味が分らないとのことでしが この言葉の前後を此処で引用するには少し長過ぎ 読むのでは短いところなので そこは 直接 S.M. さんに読んで頂くことにして 簡単に説明を加えることに致します まずは 状況から 十戒に始まり それに続く諸律法に従うならば 姦淫した女を石で打ち殺すことは正しいことなのです しかし もし Jesus が投石を否定するのならば 彼は律法に逆らう者 肯定するならば 彼の日頃の言辞 あなたの隣

16 人を愛しなさい 七たびの七十倍許しなさい に反するものとして 何れを彼が答えたにしても彼らが彼の言質を取れる と彼らが意図していたことが この場面の背景になっているのです 結論を先に述べるならば 本質論的に正しいとすることでも 人の実存に照らすと義とはされないことがある ということなのです しかし ご注意を この時代には現代の実存主義が言う 実存 などと言う言葉が無かったのです それでも Jesus は その言い知れぬ???(3) を あなたがたのなかで罪の無い者がまず との表現にて彼らの実存の如何を実質的に問い糺しているのですね つまり その言葉に続く この女に石を投げつけるがよい に於いて 律法が命じることの全面的な肯定を迂回したり 無視することなく 実は 更にその先を述べていたのですね 此処で 彼は 彼らの欺瞞を見抜き コペルニクス的な転回を為しているのです ( 旧約の律法に対して彼は 律法の一角も廃ることはない と言う一方で 律法は人のためにあるのであり 人が律法のためにあるのではない と他のところで述べて ( 強弁すらをして ) おります ) この状況に於いて まず 彼らは 姦淫の女を Jesus を試すためにだしに使っていたのですね そこには彼女 ( 隣人 ) への何らの愛 つまり憐憫がありません 実際は そこにて 自分たちを義 ( この新約の言葉よりも 正義 と言った方が解り易いでしょうか ) とする為に 律法をかさにきたり 超越を後ろ盾にしたり その威を借りる それができると錯覚していることが罪なのです ( ちなみに 罪 とは語源的にもヘブライ語では 的外れ のことなのです ) 彼らが彼女を裁き 彼女に投石をしようとしたこと自体が罪なのではありません それは律法が命じることであるのです ただ しかし 自分たち自身の罪ある存在を棚に上げ 律法を自己肯定のために引き合いに出し 超越 ( 実は Jesus でもある ) を前にして自分たちの自らの正義なるものを振りかざした彼らの偽善が罪なのです 此処に到り 超越とその摂理についての概念が旧約の律法の領域から それを止揚した新約での救済 最後に Jesus が 私もあなたを罰しない と女に言い渡したような領域に既に入っている と私は解釈しております S.M. さん この説話には現代的な意味がありませんでしょうか 次の件 意識はそれが無いところのものである と サルトルの言葉を引用しておられると思いますが, そうであるとすれば, 意識はそれでないところのものである が正解であると, 私が理解する限りでは, 思います とのことですが Sartre が << 存在と無 >> のなかで例として出しているのが が無い と でない } の両方の混ぜっ返しなのですね それらが記述中の ( 説明のための例で ) 混同されていることもあって 私は << 存在と無 >> を E.Fusserl の現象学についての女学生の report のようだ と評したことがあったのです 私は 前者を選択して論述しておりますが これは P.Foul quié も 解り様がない と書いております また 私は 無神論的実存主義の方法論を適用して論述していたのであって ( 主としては )Sartre の << 存在と無 >> の内容について書いていたのではないのです 話は前後しますが 序でに S.M. さんの 太田さんは, 不条理と原罪を同じだと考えていらっしゃるように理解しましたが, その点は正直言ってちょっと理解できません につき << 存在と無 >> との関連で言及するとして一言 不条理を << 存在と無 >> のなかで 原罪 としたのは Sa rtre なのですよ 私ではないのです 彼もまた 原罪 を既成の倫理的な概念ではないとし 存在論的に転換して捉えていたのですね 更に S.M. さんの文章を読んでいくと 原罪が罪の根拠であると云う件において 原罪 = 不条理と置けば 存在することの根拠の無さが 罪を犯す という風に読めます なるほど 納得します とありますが これは 上記の S.M. さんの文章からの引用と矛盾いているのではないでしょうか 此処で確認したいのですが 罪を犯す ということは選択された行為であって 原罪 そのものではないでしょう 私が 対自は無であろうか との疑問を呈したのは 超越の摂理の可能性を暗示しようとした文脈にあったつもりだったのですが その通りになっているかどうかの検討を致しますね しかし S.M. さんの文章では 対自としての 意識 を 存在 にすれ変えてはいないでしょうか S.M. さん 次の二つの文章を較べてください 私 (original) と S.M. さん ( 内 ) の文章です 私は 私が心理学を信じない理由を述べておりますが S.M. さんの方は S.M. さんが何処にいるか判然としない ( 少なくとも S.M. さんの立場がはっきりしない ) 文章ではないでしょうか 此処だけではないので 忌憚なく 例として提出させていただきます : 16

17 心理学を信じない と Sartre は言っていたが 私もまた同様である F.M. Dostoyevsky の小説 < < 罪と罰 >> に読む如く 一人の人の言動が 彼の思想からによるのか 彼の心理としてだけで説明できるのか つまり 彼の心理現象からによるのか その点を識別する方法論を心理学はもちえないからである いや その点では 精神病理学者の患者自身すらも 自身のあり方が不明であろう 医師にとっての患者の自己は 即自として還元された自分である という意識によって 患者がそれを否認したく身構えているのが実際の診療の場面ではないか 心理学を信じない と Sartre は言っていたが 私もまた同様である 私もまた同様のことを云うと思います 例えば 経済学を信じない 社会学を信じない あるいは 自然科学を信じない 一方, 専門家からの反論もあるでしょう 心理学を信じないと云って, 一体, 心理学のどこを信じないのだ? 経済学を信じないと云って 一体経済学のどこを信じないのだ? それを云わないことにはナンセンスではないか? 上の私の文章を読み直してください 部分的な どこ などは言わなくとも 仮に私の私見であるにしても 心理学なるものの全体を包括する理由を述べているではないですか 次の S.M. さんの四つの文での文章も読み返して頂けますでしょうか : 私は 認識するものは捉えられない ということには納得している しかし それが 存在しない とか 無である と言い切ったところに 彼 Sartre の飛躍を見る サルトルは, 認識するもの ( 対自 ) は捉えられないから 対自は無であると云っているのではないと思います 対自は世界に否定をもたらすから 人間存在 ( 対自 ) の根底に無が存在す ( ママ する?) と云っているのです さて 最初の二つの文では対自そのものなのか 対自の対象なのか ( 者なのか もの ( 物?) なのか ) はっきりしないので 松浪の << 存在と無 >> の翻訳文にそっくりですが 後者を採るならば ( それには私も同意できるのですが ) 三番目の文に続かないので 前者を採りましょう それでも それに続く最後の文は 主体 客体がひっくり返っているではないですか また そこで 対自は世界に否定をもたらすから 人間存在 ( 対自 ) の根底に無が存在すと云っているのです とのことですが 否定 と 無 は異なる概念ではないですか 私は 以上で S.M. さんの論旨が正しくない という趣旨で書いているのではないのです 松浪訳の << 存在と無 >> と同様 もし解ったとしたならば それは手品だ と言っているのですが 太田将宏 (2011 年 3 月 25 日 ) 追伸これを書いている間に ヘーゲル等について が届きました それを読み始めて S.M. さんが これほどまでに G.W.F.Hegel に commit していることに驚き 再認識致しました 私が軽率な返事を書かないように それについての返信は次回に回します * 此処での 純粋意識批判 とは 私の << あれかこれか >> の第三部 < 純粋意識批判 >> のことです S.M. 様 S.M. さんからの 純粋意識批判前半を読んで への私の返信の再送での file は文字化け無しに読めましたでしょうか 今回は 今回は それへの追加の追加 説明と 純粋意識批判後半を読んで への返信を兼ねたのをお送り致します それは この追加が 次への橋渡しになるかと愚考されるからなのです 私の < 純粋意識批判 > は できるだけ哲学寄りに ( 所謂 客観的 に ) 書こうとしておりましたので書かなかったのですが また 以下のような話題は S.M. さんが嫌がるのではないか とも思われたので 17

18 私の返信にも書かなかったのですが 此処から ( 私のなけなしの ) 信仰の領域に入る と (S.Kierk egaard に倣い ) 断って書き留めておきましょう : 私の 対自は無であろうか の疑問に戻ります その後 まず それを論じる前提になる適当な例を探していたのですが 今朝 Arvo Paert 作曲の <<Miserere>> を聴いていた時 たまたま以下の text に出会いました これは 旧約 詩篇 第五十一章からのラテン語訳です ( 私は 自分での翻訳が嫌いなので 不充分ながらでの ( 誰かによる ) 英訳を付記いたします 全く この text は 古代ヘブライ語ー > ギリシャ語ー > ラテン語ー >( 英語 ) へ翻訳を重ねていますので ); Cor mundum crea in me.deus (Create me a clean heart,o God), Et spiritus rectum innova in viscenbus meis (and renew a right spirit within me). Ne proiicias me a facie tua (Cast me not away from thy presence). Et spiritum sanctum tuum a me ( and take not thy holy spirit from me ). J.S.Bach の教会カンタータの中にも例になるものがあたのですが 古い方が また 直接に旧約に準拠した方が好ましいのでこれに致しました ( ただ しかし Cast me not away from thy presence とは 幸いにも私の論旨に関係が無かったのですが 酷い意訳ですね ) さて 暫し信仰の領域から離れて論じます 対自が対自である瞬間は非反省的意識ですね では 自己を見つめてその対自を即自化した瞬間の対自は非反省的意識として一歩後退しますね その後退したところの対自が自覚不可能であることは私も認めます しかし それを 無 とする根拠がありますか それを 無 としない根拠も無いことを 私も認めましょう これまた 自覚が不可能である限り 検証も不可能なのでしょう 再び信仰の領域に戻ります そこが 無 であるかどうかに関らず spiritum sanctum( 聖霊 ) の vi scenbus ( 受け皿 ) としての意識できない何ものか しかし 即時ではないものが無いとは言えない いや あるという可能性があるということではないですか 私は その対自を根源的な自我と呼びたく思うのです ( それが G.Freud 流の 超自我 であるのか 意識下 であるのか 心理学的に言えば何であるのか これは S.M. さんの方が詳しいでしょう お教えを願いますが 今の私は 心理学的解釈を避けております ) 最後に もう一度 信仰の領域から離れます そこでは 繰り返しますが 私は 対自が無であるか ないかの何れをも言っておりません 具体的な何ものかを見つめて そこにそれを存在させようが 或いは それが現象であろうが それは E.Fusserl が言った (J.-P. Sartre ではありません ) 意識は何物かについての意識 でしょう しかし 自分の内部から自生的に出現した ( 夢をも含めた ) 想念は如何にして説明できるでしょうか それは 根源的に存在する何ものか ( この < もの > を者とも物とも書いていないことに留意してください ) が何ものかについての意識 としか言いようがないではないですか 私は 信仰の領域になくとも 対自は無であるとは言いきれない という以上のことを述べてはいないのです 此処で 純粋意識批判後半を読んで の話題に入ります S.M. さんは 無神論的実存主義と有神論的実存主義を比較して 太田さんは無神論的実存主義に親近感を感じたとおっしゃっていますが 確かに ある意味で有神論的実存主義は矛盾しているのではないか 実存主義的生き方の根拠に存在ではなくて 無がある しかし 有神論は明らかに存在の論理であるから と書いておられますが まず 私は 無神論的実存主義に親近感を感じた などとは言っておりません 私が できるだけ無神論 ( 者 ) 側にいたい と書いたのは キリスト教会 の欺瞞 偽善に また 彼らの知的怠慢に辟易していたからなのでした また 松浪信三郎も 終始一貫しているのは無神論的実存主義の方だと思われる と書いていましたが ( 岩波新書 << 実存主義 >>) 信仰の領域を含む含まないに於いて 何れの論旨が不条理 矛盾が無い多くを包含しているでしょうか 私は S.M. さんの 実存主義的生き方の根拠に存在ではなくて 無がある しかし 有神論は明らかに存在の論理である とは受け入れがたいのです それは 言ってみれば 実存主義的生き方の根拠に存在ではなくて 無がある が 貴兄の無神論から一方的に実存主義的生き方を規定しているからであって 無 があるか無いかは実存主義の必要条件ではないからです ( そこに 無 があるならば 矛盾 が無く 存在 があれば終始一貫していない などとの論旨で誰が説得されるでしょうか J.-P. Sartre でさえも 18

19 左様に強引な論述はしてはいなかったではないですか ) 私は 信仰の導入が無神論的実存主義を説得するものではないことを認めます 同時に これは Sartre 自身が言ったように 存在論の示す直説法から命令法を引き出すことはできない (<< 存在と無 >>) との無神論的実存主義の限界にも同意しているのです それでいて 倫理学を書くと予告した彼の楽天性を如何に解釈したものでしょうか 太田将宏 (2011 年 3 月 27 日 ) 19 S.M. 様 S.M. さんの mail に添付された << 不幸な意識の弁証法 >> につきましては それを感謝し勉強させて頂きます 以下は その S.M. さんの mail ヘーゲル等について の範囲での論考です しかし まず : 近年 私なんぞに二人の若者が個別に相談ごとを持ちかけてきたのですが 何を言うも何も それ以前に 要するに それぞれが甘ったれているのですね さて 私自身が自分の若いときのことを思い出してみると 恥ずかしながら 私にも思い当たるところが多々あったのです 要するに 私は 誰かに何かを助言する柄ではないわけです よせやい と言いたいところでしたが そこを無理やり我慢して 自分を棚に上げて 何やかや言って誤魔化しました いや そうであっても 親ではなく兄弟でもない他人の私が見るところを開陳することにも他人であるからこその幾分の意味があるか 言わないよりは言った方がいいか と愚考したからなのです 省反って見ると 私は E.Husserl の著書をも W.F.Hegel のそれも直接に読んだことがなく 現在に至っては そうする気力も時間も無いのです 加えて 成熟することを拒否している私ですから 以下の件 自分の不勉強を棚に上げて書くかもしれませんがご宥恕を S.M. さんの いかなる公理系でも, その中で照明 ( ママ ) も半焼 ( ママ ) もできない定理明大 ( ママ ) が存在することが証明されています ( ゲーデルの定理 ) また, ある論理が正しいことを証明することができても 今度は照明 ( ママ ) に使用した論理が正しいことは証明できないので 永遠に論理が正しいことは証明できないことになります このことによって, 神の不在が証明されたと主張する人がいます ( つまり正しいということが証明されないので とのことに遡って論じることに致します 先に結論を述べるならば まず Kurt Goedel の < 不完全性定理 > そのものの証明にも再帰的にこの定理が適用されるならば集合論の矛盾と同格になる ということを指摘致しましょう 加えて 超越の存在が証明されないということが超越の不在が証明されたということにはならない ということです それを言うのであれば Goedel の定理に基づき その超越の不在に関る論理に欠陥が無いことの証明の不可能性にもなる という自家撞着に陥るではないですか 私は こうした馬鹿げたことを言う輩にはうんざりしているのです 次は S.M. さんに対してなのですが S.M. さんの 神がこの世界を作ったのであれば せめて真理くらい保証してくれてもいいではないか こんな困難な社会に真面目に生きているのに という気分は, 分かります なのですが そんな虫のいいことを超越的な存在には要求できない と私は自覚しております 自分に超越を合わせるのではなく 超越に自分を合わせなければならない ということなのです それができるかできないか が S.Kierkegaard の ( そして私の ) 悩みだったのですね 彼は 苦悩だけが真実だ と呻いておりました これまた 如何でしょうか 如何なる公理系に於いても そこでの全命題の集合には真偽が証明できない命題が少なくとも一つあるにしろ その中で境界条件を定めた部分集合 (subset) に於いても つまり正しいということが証明されない とは言えない ということではないですか それでこそ その公理系の取り扱い方が方法論的に問題になるのであって S.M. さんは そのあたりを混同しているのではないでしょうか 以上をお断りして S.M. さんからの ヘーゲル等について への返答を続けることに致します

20 私が S.M. さんに 大田さん ( ママ ) が ヘーゲルの恐ろしさを知らないからです と言われればそれまでなのですが ヘーゲルの弁証法とキルケゴールの弁証法を比較検討するという作業は 私にはあまり有益な結果を生まないともいます キルケゴールがヘーゲルを罵倒していたことを考えれば 比較が困難だということが分かるのではないでしょうか と続けられるのは心外なのです まず ( これは 私が S.M. さんの文章を正確に読み取ろうとしている為であって 揚げ足取りではないつもりなのですが ) 比較が困難 ということは 意味が無い ことを意味しないですね また の後は他者 私にも該当するかどうかも不明です ( もし S.M. さんが私たちの対話にて 比較 を継続する意志が無いならば そうと書けばいいのではないですか ) 私は かつて S.Kierkegaard 側から見た W.F.Hegel についての一応のことは学んだつもりなのですが それだけにて 一方的に 前者が正しく後者は非難されて当然だ と私自身が納得するでしょうか それでは fair ではないのです 反面として 確かに S.M. さんは 私には と限定付きで言っておられますが では しかし S.M. さんは Kierkegaard の真の怖ろしさを << 恐怖と戦慄 >> を実感し肝に銘じておられますか 私は Hegel 批判を重ねる Kierkegaard の文章から むしろ Kierkegaard の怖ろしさを垣間見ていたのです Kierkegaard が Hegel を評して言った いかに豪華な邸宅を建設しようとも 自分が犬小屋みたいな所に住んでる ということは その豪華な邸宅 壮大な論理体系を築いても 自分はそれに自身の実存に基づいた態度 選択を為していない 見せていない という非難だったのですね これは どうして他人のために豪華な家を建て, 自分は粗末な家に住んではいけないのだ などという程度の問題ではないのではないでしょうか 私がもし Kierkegaard と話す機会があったとしたならば それは Hegel が住まないだけではなく 住めないのであって それどころか 誰もが住めない館だったのですね ともちかけることでしょう 忌憚無くいえば 私は 同じことを S.M. さんにも感じているのです 例えば 私は ブルバキの << 数学ぎょう ( この漢字が OppenOffice には無いのです ) 書 >> を読んでいて 私はそう思わない というところに行当ったので以前に S.M. さんに話したことのある或る数学者との会話があったのですが 私の具体的な話題に対して S.M. さんからは 数学者たちにもいろいろな立場があって などとの返答だったのですね 此処に出した例は適当な例ではなかったのかもしれませんが それに限らなかったので 私は S.M. さんは何処にいるのですか と書いたことがあったのです 一般論で言うならば 私は 学者にありがちなそうした態度 姿勢 自らの実存を賭けることの無い それを賭けたときの恐怖の無い人々を Kierkegaard と共に批判し続けてきたのですが 如何でしょうか 彼は 超越の摂理に身を預ける恐怖と戦慄 それを彼の << 恐怖と戦慄 >> に書いておりましたが 一方 私の << 愛と生命の摂理 >> の第三部は 私が ( 超越を前にして ) 如何に他者 とりわけ木下和郎をいたぶった悪党であるか その恐怖と戦慄を書き留めたものだったのですが 最後に また S.M. さんに質問させてください 松浪信三郎は Sartre には殆ど unique なものが無い 唯一の例外は 彼が言う 自由 のみだ というようなことを書いておりましたが ( 岩波新書 << 実存主義 >>) 他の誰かも 彼の論旨は Husserl の受売りに過ぎない と述べておりました それを確かめる為だけに Husserl を読む余裕は無い私なのですが 私は Sartre の言う 自由 ですらをも評価しておりません 彼が言う 人間は自由でしかありえない ところの自由は 無意味な自由であって 私は 自由とは何ものからの自由である と私の << あれかこれか >> に書きましたが これは如何でしょうか 太田将宏 (2011 年 3 月 28 日 ) 20 S.M. 様 ( 前略 ) 本題に入りましょう まずは細かいことから S.M. さんからの 私 ( 引用者註 貴兄 ) は意識を存在にすり替えていませんか との太田さんの指摘ですが 具体的な場面がわかりませんので で私 ( 太

21 田 ) が 意識を存在にすり替え などと書いた覚えが無いので 私が書き送った全 mails を 私は意識を存在にすり替えていませんか で検索してみたのですが無いのですね S.M. さんも確かめて頂けますでしょうか ただ J.P.Sartre が 意識は身体である (<< 存在と無 >>) と書いてある限り 私は 松浪信三郎の言う意味での意識 = 実存には賛成しかねるのです 私は Sartre たちについて限定して論じるときではない限り 人間存在とか意識存在という言葉を使おうとしておりますが 確かに 松浪信三郎は 直接には existence を 意識 としては翻訳しておりません また 私は この言葉 existence はフランス語でも英語でも実存主義を論じるについては 対自 (= 意識 ) と同義語としてよいか と見做しておりますが 何れにしても 日常の言葉としての être にしろ exi stence にしろ 存在 という意味しかなく ドイツ語の名詞 Sein や Existenz とも違うところは無い と受け取っております 言葉としての existentialisme では 存在主義 としかならない ということを指摘したかっただけなのです ただ 問題は existence や Existenz が即自存在をも含むかどうかにあるのですね それは 誰々が existence というときは それは如何なる意味で言っているのか ということから話を始めないことが多々あるからなのです ( とりわけ その日本語訳の粗雑な略語 実存 そのものが更に混乱をきたしているのですね ) 私は M.Heidegger の Sein を了解する仕方で存在する 存在仕方 である Existenz にしろ J.-P.Sartre たちの existence にしろ 彼らは彼らが言おうとしている意味を付加し これらの言葉を使っている と解釈しているのです ただ 私には S.M. さんからの existence を 中世時代に essence との対比で使用したのが始まりだと聞いています とのことは初耳でして 良い勉強になりました そうであるとすると 本質主義の哲学と実存主義哲学の区別は ヨーロッパの古い伝統として中世迄に遡ることになりますね 松浪は 実存主義の傾向はソクラテスにまで遡ると書いていましたが ( 岩波新書 << 実存主義 >>) しかし プラトンは 典型的な本質主義者でしょうね 私は 傾向 と 主義 は異なると判断し やはり S.Kierkegaard が実存主義の始祖とするのが適当か としております 彼は 私ほど実存を強調する者はいない と主張しておりました ( これは序でなのですが 彼の言う 実存は これまた彼が強調した 主観 の同義語である と私は解釈しております ) 一方 私は Webster s Collegiate Dictionary で英語での語源を調べてみたのですが ラテン語の existere が起源の exist には to come into being という意味で フランス語 ex+si stere に転じた時期に to stare to stand と意味合いに転換されたされた とのことです ( 何れにしろ 接頭語 ex には から外への意味があるのですね ) 後のフランス語についての英語の説明が私には今ひとつ分からないのですが S.M. さんは お解かりでしょうか そういえば 金田一京助は彼の息子 春彦に 語源の研究には入るな それは藪の領域だからだ というようなことを言渡していた と聞きましたが 確かに 語源からの或る時代での変遷 地域ごとでの変化を辿るのは 学者間での百家争鳴になり 手に負いかねる領域なのでしょう 話題は変わりますが 此処で ちょっと思考実験をして頂けますか 超越的な存在があり 終末があると仮定したならば 人は 終末に於いて超越の前に一人で立たなければなりませんね 哲学者がこう書いていた 神学者がああ言った 牧師や神父がこう諭した こう S.M. さんは私に教えた などとは言えないわけです これは私の立場 新約の非神話化なのですが 終末の二元性を鑑みるならば 終末とは現在でもあるのです この もはや時なかるべし の瞬間 瞬間ごとでの私の実存的選択に関ることなのですね 私は S.M. さんのように 私はどちらの立場にも立たずに書いています どちらも一理ある と思っています とは言えないということです ドストエフスキーを読んでいても 何々が私にとり 究極的には 何の意味があるか その関わりにての実存的な選択に収束していくのです 私も学者諸氏に耳を傾けます しかし 私の選択は別の次元にあるのです 私は ささやかであっても 超越を前にしての ( 思考実験を離れるならば超越を前にしないでも ) 私なりの弁明を構築しようとしているのです 私は その意味で 貴兄が何処にいるか判然としない ( 少なくとも貴兄の立場がはっきりしない ) と書いたのですが 実際 貴兄は如何なのでしょうか ただ種々様々な言説を並べ 較べているだけなのでしょうか 私は 超越に関する概念は人間が創った ( 相対的な ) ものであり 超越そのものは ( 絶対的なものである限り ) その概念の外にある可能性がある としております 私 21

22 は 自身の思惟の外にある超越的な存在を Jesus が指示す方向にて信ずることを 私なりの主体性に於いて選択しているのですが 最後に として 読み返してみて, 何か無味乾燥な応答になっているような気がしています その原因の 1 つは 大田 ( ママ ) さんと私とで, 存在無 について理解に隔たりはあるのではないでしょうか もちろん隔たりがあってはいけないということはなくて, 隔たりがあるからこそ, 議論が成立し面白いのだと思います とありましたが 隔たりがあるからこそ, 議論が成立し面白いのだと思います については全く同感です 私は また 当方での Agree to disagree という表現を思い出しております 最終的にはそれで良かれ と思っているのですが 大田 ( ママ ) さんと私とで, 存在無 について理解に隔たりはあるのではないでしょうか については 理解に隔たり 以前 ( 以後?) に < < 存在と無 >> などの取り扱いにも隔たりがあるのではないでしょうか 私の方は S.M. さんの << サルトル対自存在 >> を読ませて頂いて もう一度頭の中を整理致します 太田将宏 (2011 年 4 月 3 日 ) S.M. 様 ( 前略 ) 以前には哲学等について語りあえる人が殆どいなかったのですが S.M. さんと私が頻繁に交信をするようになって以来 充実してきたな と感謝しつつ歓んでいたのですが ただ 近頃 何か行き違いが多くなったようで惑うことが多くなりました それが どうやら 私が避けようとしていた状況になってきたようです 今回は それ故に 以下に私の見地を釈明しようと思いますが こうしたことを私側から書くのは これが最後であれ と願っております 以下の文章で : の手前が S.M. さんの文 ( 章 ) 後ろが私の ( 文 ) 章です ( その中で再引用している場合は で括っております ) 一つお断り致しますが 言い難いけれどやはり言ったほうが良い として書いたことは感情的になって書いたのではないということですので 一応 終わりまで読んで頂きたく存じます ( 中略 ) 私は ゲーデルの定理 から, 神の不在 が導かれると云っているつもりはありません もしそう取られたのでしたら 私の記述が不十分だったのでしょう そうではなくて ある論理の正しさを証明する時 今度はその論理の正しさが保障されないと云うことから 神の不在が証明されたと主張する人がいる, と言っているのです もちろん その人は私ではありません : 私は もし も何も ゲーデルの定理 から, 神の不在 が導かれると云っている と S.M. さんが書いていた と示唆する文は一文も書いておりません 正確には読みようが無いという意味で書いたので それすらも言えなかったのです 次にも引用する 2 つの主張 の分離ができていない ということを指摘しただけです 私は その人は私 ( 引用者註 S.M. 氏 ) ではありません と判じましたが 私は想像だけを根拠にしては読まないし 書かないのですが S.M. さんも 私 ( 引用者註 S.M. 氏 ) の記述が不十分だったのでしょう と仰られているので 此処で収拾致しませんか ( ただ もしそう取られたのでしたら とのことについては未だに奇妙に感じております ) S.M. さんはそこのところを混同されているのではないですか と言う言葉ですが 私は何も自分の意見を述べていない 2 つの主張を紹介しているだけです. そこで質問ですが 太田さんは ゲーデルの定理 がおかしいと述べているのですか それとも, もう 1 つの主張がおかしいと言われているのですか 後者については, 私は証明を見ていませんので ( ただ伝聞であると断っているはずです ) 何とも言えません ゲーデルの定理 がおかしいと云うのであれば, ぜひ公表されたらいいと思います 私は, あの巧妙な証明法に驚いていますが 正直言って, あれが証明になっているのかどうか よくわかりません : 22

23 私は K. Goedel の定理そのものの証明にも再帰的にこの定理が適用されるならば集合論の矛盾と同格になる ということを指摘致しましょう 加えて 超越の存在が証明されないということが超越の不在が証明されたということにはならない ということです と書きましたが 最初の文はすこし tricky ですね しかし 再帰的に と書いたので 隠れた もし がある文脈ではないですか 次に 加えて と加えたことで 私は 私の想像からではなくして 私の意見に切り替え 2 つの主張 を分離したつもりでしたが S.M. さんはどこにいるのですか? と太田さんは言われるのですね たぶん ではなく まさしく ここが太田さんと私との間の問題ですね あるいは 太田さんから言えば 太田さんと, 私を含めた大多数の人との問題である と それは認めましょう 例えば 表現は適切ではないですが 適切な表現が思い浮かばないので 言いますが, S.M. さんは, 大した研究者でもないのに ( これは本当です. 私自身が認めています ) 研究者のように, 中立的な立場に立とうとしている しかし, そのような立場は欺瞞的でないですか 大体そのように主張されたいのではないでしょうか この問題は 太田さんから言いださなかったら 私から言い出したかもしれない問題です ですから, 私はできるだけ誠実に応えたいと思っています 思っている だけで 実際に ということは太田さんから見て 誠実な答えになっているのかどうかは自信がありませんが 私は意識的に中立的な立場に立っています できるだけどこにもいないようにしています としか言いようがない 今のところ, これ以外に言いようがない 言いようがない と言うのは 言いようがない のではなくて 言いようが分からない と言う意味です そのことは, 他人がどのように判断しようとも一切弁明しないと云う事です と言う訳で, まことに残念ながら ( 私が残念に思っているのですが ) 私は太田さんの思っている通りの人間です 今のところ とお断りしますが, それは, 私にはわからないので 今のところ そういうことにしている ということです 多分 この表現も 適切ではないかもしれません しかし, 今の私には, そうとしか言いようがない というのが正直な感想です : たぶん ではなく まさしく ここが太田さんと私との間の問題ですね この節だけは 今回の S.M. さんからの mail の中で 私にとってですが これが唯一の収穫でした しかし S.M. さんは, 大した研究者でもないのに とは邪推ではないでしょうか 中立的な立場に立とうとしている ということが そこに安住して納まり返っているのであるならば 欺瞞的 なのでしょうが ( いるのですよね その類が 私は三人の ( ドストエフスキーを論じる ) ロシア文学者にあたりましたが そのなかでも二人がそれに該当していると看做しております ( その意味だけでは 直接の交信はないのですが 皮肉にも 亀山郁夫は外れていると観ております ) 一方では ヨハネによる黙示録には 熱いか冷たいかはっきりしてほしい あなたがたは生温いので私は吐き出す と書かれていますが 所謂 キリスト教会 には それは 冷たくてもいいという意味ではない などと言い繕い そこで安住している信者もいるのですね ) S.M. さんのように 今のところ という人では別でしょうよ 言い換えるならば できないということと しないということは違うということですね それ故に 私は S.M. さんの 言いようが分からない という立場は理解しているつもりでした S.M. のとは意味合いが違うにしても 私もまた 今のところ なのですから ( さもなくば 私は ドストエフスキーなどを読み続けてはいないでしょう )S.M. さんのそれを尊重してきたつもりです お互いのそうした姿勢が Kierkegaard が言った そこに人間がいる弁証法 なのではないでしょうか しかしですね 次 さて 松浪氏は サルトルのユニークなところは自由の概念だけだ と主張している また サルトルはフッサールの現象学の受売りだ という研究者 ( 哲学者 ) もいる そして 太田さんは サルトルの自由は無意味な自由だ と主張される そして これら 3 つの意見に対して 私はどう思うか というのが質問だと思います まず 1 番目の質問ですが 松浪さんは本音で言っているの? と言うのが私の最初の感想です 次に,2 番目についてですが そういう見方もありますよね でおしまいです なぜなら 私にとってどうでもよいことだからです サルトルの評価について読者はそれぞれ好きなようにすればよいのであって そんなのにいちいち関わっている暇はありません 私は, 存在と無 の中身について 理解を深める為の議論はしますが 人がどう評価するかについては興味がありません : 23

24 S.M. さんの 松浪さんは本音で言っているの? とは 松浪が書いていた文脈からして その疑問は該当しないと判断しておりますが 何の感想をもたれようが S.M. さんの自由ですね ただ 私は それまでの自分の見解から外れたものに対して否定的な疑問を持つことはあっても 理由を表明する準備無しに それを即座に表明しないとだけ書いておきましょう また 私にとってどうでもよいことだからです サルトルの評価について読者はそれぞれ好きなようにすればよいのであって そんなのにいちいち関わっている暇はありません とのこと こうした感情的な開き直りはやめて頂けませんでしょうか ( 後にも述べるように話が行き違いになるだけです ) また 私は 私 ( や貴兄や誰か ) が 他人の評価によって自分の対応を変える と受け取られるようなことを何処かに書きましたか 私が 書いたことは書いたこと 書かなかったことは書かなかったこと ご自分の想像を書くのも結構ですが 事実と想像を何処かで区別した文章をお願いしたいのですが 3 番目の太田さんの質問には もちろん答えます 当然, サルトルも自由は無意味な自由だと思っているではないでしょうか その証拠として サルトルが 自由であるとは自由であると呪われていることだ とどこかで言っていることからもわかるように しかし 太田さんは理解されていると思いますが 私はこういう説明の仕方はしません ( こういう説明の仕方が良くないと云っているのではなくて, 私はしないと云っているのです ) あくまで内容に即して説明します サルトルによれば 自由とは人間の存在 ( 実存 ) の根拠のなさ 存在から無によって隔たされていることからやって来るのですから 自由とは無意味な自由である になると思います 存在と無 における自由の概念ですが : S.M. さんの サルトルも自由は無意味な自由だと思っているではないでしょうか とのことですが 私が知る限り 彼はそんなことを書いても言ってもおりませんね これは S.M. さんの想像でしょう つまり 呪われている ということは 無意味である とは違う ということです 私が 以前に もう少し文章の精度を上げて頂けたら と書いたのはこういうことだったのですが 終わりに, 私は前のメールで サルトルの対自存在の私からの要約を添付しましたが 太田さんは, サルトルをあまり評価されていない ( 関心がない ) ようですので 無視してください 私は 太田さんがサルトルに言及されているので興味があるのかと誤解しました お役に立てばと思って 添付しただけです : 後に述べたように話が行き違いになりましたね J.P.Sartre を批判することは 必ずしも彼に関心が無い 興味が無いということにはならないではないですか さもなくば 私は 私の << あれかこれか >> の < 純粋意識批判 > にて彼の < 現象学的存在論 > の方法論を適用しませんでした ( もっとも それは E.Husserl のものだったのかもしれませんが その仕分けをする時間も気力も今の私には無いのです ( 要するに 能力が無い ということなのかもしれません )) 私の文章についての S.M. さんからの批判がありましたならば 是非ともお聞かせ願います 太田将宏 (2011 年 4 月 5 日 ) MEMORANDUM 私が 松浪信三郎氏は サルトルのユニークなところは自由の概念だけだ と主張している と書いたことに対し S.M. 氏が 松浪さんは本音で言っているの? と言うのが私の最初の感想です と書いてきたことと サルトルはフッサールの現象学の受売りだ という研究者 ( 哲学者 ) もいる と書いたことの返事が そういう見方もありますよね でおしまいです なぜなら, 私にとってどうでもよいことだからです. サルトルの評価について読者はそれぞれ好きなようにすればよいのであって, そんなのにいちいち関わっている暇はありません 私は, 存在と無 の中身について 理解を深める為の議論はしますが 人がどう評価するかについては興味がありません と返答してきたということなのでしたが 私の Sartre の評価も興味なく ただ彼を絶対化し 肯定する為の 理解を深める為の議論 しかしない ということでしたね そこまでくると S.M. 氏は Sartre 信者ではないですか そうで 24

25 あるならば 相互の対話は典型的な行違いになりますね しかし 一方 S.M. 氏は サルトルによれば 自由とは人間の存在 ( 実存 ) の根拠のなさ 存在から無によって隔たされていることからやって来る としているのですから 結論は私も同意すべきことでした ただ それでも J.-P.Sartre が 呪われている と言った心境は無視できないのではないでしょうか また 西欧の如何なる伝統 環境での相手に対して彼が如何に書いているのか ということも無視できないはずですね ちなみに述べるとして 例えば 彼には自身を無神論者としている文は 一つも無いのです ( 次の S.M. 氏への返信に於いては 私が修正した部分ではなく 例外的に S.M. 氏の文章を太字にて引用しております 私が追加した文章は下線にて表示しておきます ) S.M. 様 S.M. さんの << サルトルの対自存在 >> を二度読みました 私にとりまして 私が 何が 何処が分からなかったのか を整理するのに良い機会になりそうです いま 三度目に取り掛かるところなのですが 以下の整理を意図した記述にて S.M. さん 一寸だけ付き合って頂けるならば幸いです S.M. さんは J.-P.Sartre の << 存在と無 >> を楽に読めた とのことでしたが それを日本語に翻訳した松浪信三郎も 小説を読むように読める と書いていたことを憶えています ところが 一方 それを私が学生時代に友人と一緒に読んだ時には 彼も私も読解に苦しんだのですね また いつか書きましたように <Que sais-je?> に <<L'Existentialisme>> を書いた P.Foulquie も 解りようがない としておりました そのあたりから S.M. さんの << サルトルの対自存在 >> を読んでも解らないところが重なっているように思われるのです 以下 Sartre(=Husserl)=S.M. さん と仮定して私の疑問と感想を開陳いたします : サルトルの対自存在 1. 即自存在人間 ( 対自存在 = 意識存在 ) は 具体的世界において 世界と交渉 ( 関わり ) しながら生きている ( 実存している ) その世界で見いだすものは 物( 即自存在 ) か私と同じような意識存在 ( 対自存在 ) である. 私たちは このような世界において 初めに見出すのは 私たちにとって利用可能な 道具的存在としての 物 である 私は 此処までは S.M. さんの読解と同様でもあるという意味に於いてのみですが 依存がありません しかし ただ それは 私に二つある内の片方の読解なのです 対自がその対象とする世界を現前 実存させる その実存 現象自体は即自そのものではない というのが私の他方の読解なのです 此処に於いても Sartre の << 存在と無 >> 自体の記述相互に混乱の極みがありますね 更に一つ 我々が自省を為したときの対自の対象としての現象は自身の即自化によるのですね ところで, そのような人間的性質を採り ( ママ 取り?) さって, 者 ( ママ 物?) 自身を見つめると, それは 吐き気 として表現された もの の姿を顕在させる. それは人に吐き気を催させるのだ 物とは 意識からの絶対的な超越性に他ならず この超越性こそが意識に吐き気をもよおわせるのだ 物の意識に対する絶対性の拒絶こそが 吐き気なのである 私たちはそれに対して全くの受動性である お笑いください 私は Sartre の小説 << 嘔吐 >> の主人公のようには吐き気を催さないのですが S.M. さんは如何なのでしょうか 以下は 意識からの絶対的な超越性 に準拠して私の側の論旨を展開します 25

26 存在の意味とは, 存在そのものではなく, 意識に開示された限りでの存在, つまり即自存在の存在仕方である. 存在は即自に ( それ自体で ) 存在している. 即自存在は己がそれであるところのものである 此処で 対自は即自自体に達しない ということを明確にしたく存じますが 意識に開示された限りでの存在, つまり即自存在の存在仕方 と上の 人間 ( 対自存在 = 意識存在 ) は 具体的世界において 世界と交渉 ( 関わり ) しながら生きている ( 実存している ) その世界で見いだすものは 物 ( 即自存在 ) か私と同じような意識存在 ( 対自存在 ) である 私たちは このような世界において 初めに見出すのは 私たちにとって利用可能な 道具的存在としての 物 である とは自己撞着で矛盾しているではないですか 上に私が記述相互に混乱の極み と書いたことはこうしたことなのです Sartre 以前に I. Kant が既に述べた 人間は有限的存在であり 客観的真理を認識することができず 人間が認識できるのは, 現象のみである というところの 現象 の方が貴兄が使う 存在の意味とは 即自存在の存在仕方 表現よりは余程に適切なのではないでしょうか とりわけ 私が他者としての対象である即自に接したとき 私の意識により現出した現象としての他者が 私の認識の外にある存在としての他者 即自そのものと同一であるかどうか それは 客観的真理が無い限り 永久に検証不可能な問題であり それが故 意識存在 ( 対自存在 ) は 存在はその現れ 現象である として対処する他はない いや むしろ そこにこそ 私は 自身の主体性がある そこに個人の尊厳の可能性がある として対応しているのですが 論旨が飛躍しているでしょうか また これは序ではありますが そもそも 実存 とは 現実存在 の略語なのですね それが故 概念的には即自存在も実存しているとされているのではないですか これまた 貴兄に於いても Sartre( の << 存在と無 >>) に於いても 存在 と 即自存在 と現象の使用が言葉として曖昧なのではないでしょうか 暫し 彼も 貴兄も 現象は という代わりに 存在は と書いて論旨を進めているではないですか 2. 無としての対自存在対自が即自を志向するとは 対自が即自を自分でないものとして定位することである しかも この対象志向 ( 対象の定位 ) が 対自の本質である限り 対自存在とは否定作用以外のなにものでもない そういう意味で 即自が存在であるのに対して 対自は無であると云うことができる そこなのですね 私は これを主客転倒 と呼ぶのです 対自の対象であるところの 即自を自分でないもの と否定するにしても それをもってして 対自が無あることにはならないではないですか 此処で 否定作用は 何れに向いているのでしょうか これは序でではありますが 意識存在 ( 対自存在 ) と 存在 という言葉を使いながら 対自は無である というのも 少なくとも言葉の上では矛盾しておりますね 存在するけど それは無である とは禅問答のようではないですか S.M. さんは 私が 聖霊 などという言葉を持ち出すと嫌がられるのではないかと遠慮し 以前には書かなかったのですが 聖霊降臨があるとしたならば 対自すらも無ではない可能性があり また I.Kant が言う 我が内なる道徳律 なるものも もし それがありうるとしたならば それは対自にある可能性があるでしょう 此処で 私は 可能性 という言葉を使っていて それらがあるとは明言しておりません ただ しかし 一方 それらを等閑に付して 対自が無である 存在ではない とすることには論理に於いて飛躍がある というのが私の見解であり主張なのです 対自は存在ではなく 無であるからこそ 物を顕現させる純粋地平であることができるのである この地平がなければ 即自は意識に現れることができない 例えて言えば 脳は, 身体の痛みを感じることができるために 脳自身には痛みの感覚がないのに等しい 脳が自分自身の痛みを感じるならば, 身体の痛みを感じることができなるのだ ( ママ できなくなるのだ?) 対自が存在者であるならば 存在者を顕現させる地平であることはできないだろう. 26

27 繰返しますが まず 対自は 対自存在である ( この言葉は << 存在と無 >> にありますね また S.M. さん自身が 人間 ( 対自存在 = 意識存在 ) で <1. 即自存在 > を始めていたではないですか ) というのが普通の理解であるのではないでしょうか 対自は常に非反省的意識 として存在しているのではないですか また 松浪信三郎氏が言うように (S.M. さんも概略同意したように ) もし 意識 が 実存 と ( 概略 ) 同義語であるとしたならば 意識は 現実存在 の存在ではないですか 此処にて 脳は, 身体の痛みを感じることができるために 脳自身には痛みの感覚がないのに等しい 脳が自分自身の痛みを感じるならば 身体の痛みを感じることができなるのだ は例にはなりません S.M. さん あなたに頭痛がするとき その痛みを何が感じているのでしょうか また 此処で 対自は存在ではなく, 無であるからこそ, 物を顕現させる純粋地平であることができるのである とのことですが これは論理の飛躍ではないでしょうか 此処で 仮に 対自は 無であるからこそ 即自に達しない として論述を進めるにしても それをもってして 対自が存在者であるならば, 存在者を顕現させる地平であることはできないだろう と結論づけることはできないでしょう これもまた飛躍ではないでしょうか 3. 存在と無 : 即自の存在論的優位しかし もちろん 即自は 対自によって初めて 世界に現れるとしても 即自が対自とは独立に存在しているのは明らかである むしろ, 既に存在している即自の中に 対自が存在 ( 実存 ) することによって 即自は, 世界に現象するということができる すなわち 対自なき即自はあり得るが 即自なき対自はあり得ない これが 即自の存在論的優位 と言われる所以である またまた 此処で 対自に対して 即自は, 世界 ( これまた気張った言葉ですね ) に現象するということ に過ぎない限り 逆に言うならば 対自は即自存在に達しない ということを明確にしたく存じます 更に厳密に言うならば その現象に対応する即時の存在 非存在を確認する術すらも無いということなのです それが故に 即自が対自とは独立に存在しているのは明らかである とは主張できないのではないですか 此処での 即時 なるものは 対自による現象として現れた対象に過ぎなく 対自の側では その 即時 が存在するという根拠は無いでしょう つまり 現象が対象である限り その 即時 が存在することの確認ができないということではないですか それを S.M. さんも Sartre も指摘していないのは無責任なのではないでしょうか 私は 此処 既に存在している即自や即自なき対自はあり得ない にて 存在 や 即自 という言葉の混乱を見ているのです 翻って 此処では 即自 が存在の同義語になっているのではないですか また 意識は何ものかについての意識である を対自は何ものかについての対自である と ( 無理なく ) 翻案するならば 即自 が 対自 を現前させる とも言えますね それでは卵が先か雌鳥が先かの堂々巡りになるではないですか しかも 尚且つ その 即自 が夢や幻であったとしたならば そのときは 即自 は存在しない つまり 無 であるが 対自 は存在している とはなりませんか そもそも あの有名な言葉 存在は その現れである というのは 実は不正確な言回しで 正確には 意識の対象としての所謂 存在 なるものは 対自存在が実在すると確認すらもできなく仮想でもありうる即自存在による現象としての 現れ なのではないでしょうか また そこでの 世界 とは何処でしょうか 序でに 此処ではないけれど S.M. さんも Sartre に同意しているところの 対自が無を撒き散らす とは何のことなのでしょうか 一切のものの不在 非存在と言うこと ( ママ いうこと?) はあり得ず いつもあるものの不在 非存在なのであり, その不在 非存在であるあるものが まさにイマージとして定位される 例えば 100 円あると思って開けた財布に実は 50 円しかなかったという場合 そこに 50 円ではなく 100 円の不在を見出させるものは 彼の 100 円への期待である だがそのことは 非存在を主観性に還元することではない なぜなら, 非存在は主観の否定判断によって始めて生ずるものではなく そういう判断の前に 対自の即自に対する態度を通じて即自そのものの中に客観的に見出されるものであるからである 27

28 これでは S.M. さんとの対話が進まないが故 此処に於いて一旦 妥協して 仮に現象 = 即自存在とするならば 一切のものの不在 非存在と言うことはあり得ず, いつもあるものの不在 非存在なのであり その不在 非存在であるあるものが まさにイマージとして定位される に同意しましょう では 簡単な質問なのですが 100 円あることを確認するために財布を開けたら やはり 100 円あった という場合は 如何なる 不在 非存在 なのでしょうか この場合は 常識的に言って 主観的な 期待 と所謂 客観 の一致に過ぎないではないですか では 50 円しか無かった というところに話を戻しましょう そこで順序として最初に意識が捉える現象は 100 円が無いではなくて 50 円があった ではないですか この場合でも 現象は (100 円の ) 不在 に先立っているのですね 要するに イマージとして定位される と 即自そのものの中に客観的に見出されるものであるからである が齟齬をきたしているということにはなりませんか つまり 上での前提としての妥協が成り立たないということですね また求めていた友人がこのカフェにいないという場合, そのカフェに友人の不在を直観せしめるものは, 友人を求めるという対自の態度である. もしも対自がそういう態度をとらなかったら そのカフェはむしろ群集と騒音とタバコの煙に充満したカフェなので 決して友人の不在であるカフェではなかったろう 開示される限りの即自は この無の中空に浮かぶであろうが 存在する限りの即自についていえば, むしろ無の方が即自の中にちりばめられ 即自の中に入り込んでいる 対自は即自を顕現させる根源的な無であると同時に 他方では己に先立つ即自の中に初めから投げ出された存在でもある そこから対自存在の 2 重性格, 自由と事実性 投企と被投企性 という 2 重性格が帰結し この性格が世界内存在としての対自つまり人間存在の具体性を形成している これは Sartre 自身が彼の << 存在と無 >> にて提出した例でもありますが もし 対自が 無 であるとしたならば 対自の態度 とは何でしょうか 無 にも 態度 があるのでしょうか この場合には 期待 が 態度 であり それが 対自 なのでしょうか 私には 奇想天外な論述に聞こえますが ここでも妥協して それを 暫し おくことに致しましょう さすれば もしも対自がそういう態度をとらなかったら そのカフェはむしろ群集と騒音とタバコの煙に充満したカフェなので 決して友人の不在であるカフェではなかったろう は意味をもつことになりますね ( ただ 正確に言うならば カフェは 即自として存在しても 対自にとっての現象は 友人が 不在 のカフェである とはなりませんか ) しかし 続く 開示される限りの即自は この無の中空に浮かぶであろうが 存在する限りの即自についていえば, むしろ無の方が即自の中にちりばめられ 即自の中に入り込んでいる では何が 開示 されていたのでしょうか もともと 友人の 不在 が現象としてのカフェに於いて無であるのは 単純に当然至極ではないですか この例に於いても 現象は ( 友人の ) 不在 に先立っているのですね ( 順序としては カフェはある しかし友人はいないなのであって 友人はいない しかしカフェはある ではないのです ) もし 誰かが 彼の友人はまだカフェには来ていないだろうが 時間もあることだし 早めに行って待とうとして カフェに入ったところ やはり友人はいなかった という場合には 何が 投企と被投企性 でしょうか この場合は 不在 無を 期待し それを確認しただけのことで 言葉の上だけでの二重否定を出るものではないでしょう それとも 無 の 無 が 中空に浮かぶ のでしょうか そもそも 投棄とは 何かを認識し識別された瞬間の後に於いて発動されるのであって 存在する限りの即自についていえば, むしろ無の方が即自の中にちりばめられ 即自の中に入り込んでいる 対自は即自を顕現させる根源的な無であると同時に 他方では己に先立つ即自の中に初めから投げ出された存在でもある から そこから対自存在の 2 重性格, 自由と事実性 投企と被投企性 という 2 重性格が帰結し この性格が世界内存在としての対自つまり人間存在の具体性を形成している を導くのは強引な飛躍ですね 現象についてではなく 存在する限りの即自についていえば, むしろ無の方が即自の中にちりばめられ 即自の中に入り込んでいる などということは まさに手品なのではないでしょうか いや それ以前に この主体が何で客体が何と判別できない文章を読むのは誰に於いても苦痛なのではないでしょうか S.M. さん 此処であなた自身が何か気になることがありませんか 以上の二つ例は 何れも何々が無かったとき 誰々がいなかったときの話題ですね Sartre は 自分の論旨に都合が良い例を都合 28

29 が良い容にして提示し 論理を積上げているているだけではないか と私は << 存在と無 >> を読んでいたときに感じたことを S.M. さんの文章によって思い出されております 4. 自由としての対自存在このように対自存在が無化によって存在から身をもぎ離すことができるのは それが己のうちに無を孕み 本質的に己自身からも身をもぎ離すことができる存在だからに他ならない 最初の 此処での話題としての 本質的に己自身からも身をもぎ離す ということは その瞬間の直前の非反省的意識が 即物化し それが背後に後退することになるのですね それをもってしてだけで 己のうちに無を孕み とは言い切れないではないではないですか 私は 此処にも推論の飛躍を見ているのです それよりも 何々が無を孕み ということで 何々が無であるとすることはできなかったではないですか 次 人間が無だというのは それが自らを無化する存在だからだ もしも意識の現在の状態が過去の状態の単なる延長にすぎぬようなものなら およそ無化の滑り込む裂け目は一切ふさがれてしまい 意識はそれ自身不透明な実体となって即自存在に転落してしまう 例えば 前日にもう賭博はすまいと心に誓った賭博者が いざまた賭博台を前にしたときその前日の誓いがもはや己自身のものではなく 何かしら自分から逃れ去った超越的な 1 つの物のように無力となっていることを知らされる まず 人間が無 ということは如何なることなのでしょうか Sartre 自身が 意識とは身体である と書いているではないですか 例えば 私の体調が思わしくないときに見た太陽と 絶好調のときに見たそれとは 現出する現象が違います 次に 意識の現在の状態が過去の状態の単なる延長にすぎぬようなもの ではなくとも それが 過去の経過が抽象された何ものか ( 更に埴谷雄高に倣って極端に言うならば 有史以前の生物としての進化の ( 潜在的な ) 記憶 ) であって無ではないものである ということを此処で反論できているのでしょうか 更に述べるとして 意識の現在の状態が過去の状態の単なる延長にすぎぬようなもの の 単なる延長 とは限らない可能性もあるではないですか S.M. さんと私では各々の身体も過去の経過の集積も同じではないとして そこで双方が新たに何か同じ即自存在に接した機会があるとして その瞬間 各々の対自は同じ現象を現出するのでしょうか そこで遭遇した即自存在と その瞬間の 意識の現在の状態 に因る現象が互いに関与し総合されてはおりませんか それこそが 意識存在の dynamisme ではないでしょうか つまり 意識はそれ自身不透明な実体となって即自存在に転落してしまう ということないということでしょう 最後に 私は 禁煙しようと決心した昨日の私と 今日禁煙を止めた ( 延期した?) 私とは ( 身体の細胞が時々刻々入替っているにしても ) 不思議なことに連続していて 自身が意志薄弱であると認めざるをえないにしても もはや己自身のものではなく 何かしら自分から逃れ去った超越的な 1 つの物のように無力となっていることを知らされ ないので 必ずしも左様には意識しないのです 昨日の私は 今日の私の対自にとっては 確かに 即時化した私なのでしょう しかしながら 身体が連続しているが如くに その即自の今日の現象化が連続しているように意識されるではないですか 私は 此処で 感じる とか 感じられるというような余りに主観的な言葉を使うのを避け 意識する とか 意識されると書いているのですが ( しかし それは 文脈上で顕かに自発のされるでしょうが ) 貴兄の 知らされる の られる が受身なのか自発の られる が 知らせる 主体が判然としないが故 文脈上 判然としないので斯様にしか対応できないのです これは 揚げ足を取っているのではありません むしろ 少し 貴兄の文章の精度を上げて頂けませんでしょうか このことはなにも過去と現在に限ったことではない 現在と未来との間にも言える 私は未来の私と無によって隔てられており 私は未来の私ではないという仕方でのみ未来の私である このようにして対自存在は 存在そのものにおいて自己脱出であり 人間は絶えず己の過去を虚無化しつつ 新しい未来の己を創造していくところに 真の自由を見出すのである このように考えてくると 対自存在に固有な存在仕方は次のようになる つまり, 即自存在が 己がそうであるところのもの である 29

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< F2D838F815B834E B B> ワークシート ディベートは こうていがわひていがわ肯定側と否定側に分かれて行う 討論ゲーム です ディベートの様子をビデオで見てみましょう ディベートをすると 筋道を立てて考えることわかりやすく話すこと相手の話をしっかり聴くことよくメモを取ることなどの練習ができます ディベートの討論するテーマを 論題といいます -- これから, みなさんといっしょに ディベート学習 を通して 筋道立てて考える力 (

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