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1 社 史 と 伝 記 にみる 日 本 の 実 業 家 人 物 データと 文 献 案 内

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3 刊 行 にあたって 本 書 は 神 奈 川 県 立 図 書 館 と 神 奈 川 県 立 川 崎 図 書 館 の 共 同 企 画 により 日 本 の 代 表 的 な 実 業 家 を 列 伝 風 に 紹 介 し 各 人 物 について 文 献 目 録 を 作 成 したオリジナルな 著 作 です 編 集 と 執 筆 は 両 館 の 司 書 が 担 当 しました わが 国 の 近 現 代 史 において 実 業 家 は 例 えば 政 治 家 や 文 化 人 などに 比 べ て 一 般 にややなじみが 薄 いように 思 われます そのような 実 業 家 の 人 物 像 や 事 績 をまとめて 知 ることができ さらに 理 解 を 深 める 案 内 役 にもなる 手 ごろな 本 をつくれないものか 幸 い 両 図 書 館 には 本 づくりに 使 えそうな 社 史 や 実 業 家 の 伝 記 が 豊 富 にある これが 私 たちの 出 発 点 でした 取 り 上 げる 実 業 家 の 選 定 にあたっては 知 名 度 や 歴 史 的 重 要 性 のほか 思 想 見 識 社 会 文 化 貢 献 発 明 開 発 の 独 創 性 などの 要 素 も 考 慮 し 神 奈 川 県 の 図 書 館 として 本 県 との 関 わりは 特 に 重 視 しました ところで 特 定 のテーマにより 資 料 の 目 録 を 作 成 することは 図 書 館 の 果 たすべき 任 務 の 一 つであり 本 書 の 編 纂 もその 例 に 漏 れません しかし 一 方 本 書 が 人 物 列 伝 として 通 読 できる 点 は 一 般 的 な 図 書 館 の 目 録 とは 異 なります そうした 目 録 をあえて 刊 行 するのは 私 たちが 図 書 館 の 役 割 と して 知 の 編 集 を 考 えているからです 図 書 館 は 資 料 や 情 報 の 収 集 整 備 保 存 提 供 を 基 本 としていますが 図 書 館 の 活 動 領 域 はそれに 尽 きる ものではありません 図 書 館 がもつ 資 料 や 情 報 は 古 今 東 西 の 知 と 文 化 の 所 産 であり その 意 味 で 人 類 共 有 の 財 産 あるいは 資 源 です この お 宝 を ただ 陳 列 しておくだけではなく 司 書 が 自 らの 発 案 と 創 意 工 夫 でそれに 手 を 加 え 新 しい 価 値 あるものを 創 造 することはできないでしょうか その 営 みこそ 知 の 編 集 であり 川 崎 図 書 館 の 名 高 い 社 史 コレクションと 県 立 図 書 館 の 層 の 厚 い 人 文 系 資 料 を 素 材 として 私 たちが 試 みた 知 の 編 集 のささ やかな 成 果 が 本 書 です ご 活 用 と 至 らざる 点 のご 叱 正 を 願 ってやみません 平 成 4 年 月 編 集 委 員 を 代 表 して 神 奈 川 県 立 図 書 館 関 誠 二

4 社史と伝記にみる日本の実業家 目次 刊行のことば 4 目次 本編 本編凡例 渋沢 栄一 浅野 総一郎 高峰 譲吉 7 大原 孫三郎 鮎川 義介 46 五島 慶太 54 幸吉 中島 知久平 6 根津 嘉一郎 47 正力 松太郎 7 大橋 新太郎 54 堤 御木本 康次郎 誠之助 6 石橋 正二郎 武藤 山治 6 豊田 喜一郎 鈴木 三郎助 (2代目) 松下 幸之助 7 福沢 桃介 土光 敏夫 富太郎 6 本田 宗一郎 井深 大 郷 原 相馬 愛蔵 黒光 小林 一三 安藤 百福 44 小平 浪平 佐治 敬三 5 大谷 竹次郎 中内 功 5 各実業家に関連する企業変遷図を 神奈川県立の図書館 ホームページ に 掲載しました 合わせてご活用ください 4

5 別編 かながわゆかりの実業家 6 別編凡例 茂木 原 惣兵衛(初代) 6 岡野 喜太郎 7 白石 元治郎 野村 洋三 松永 安左エ門 善三郎 高島 嘉右衛門 田中 平八 有的 74 小菅 丹治 (2代目) 7 安田 善次郎 76 大倉 邦彦 大谷 嘉兵衛 77 松信 大助 雨宮 敬次郎 7 藤井 林右衛門 益田 孝 野並 茂吉 山口 仙之助 坂田 武雄 早矢仕 主要人名索引 5 主要企業 団体名索引 写真出典一覧 執筆者一覧 5 6 コラム * 実業家の伝記小説② 5 * 渋沢より年長の * 実業家と美術館(4) 4 大物実業家たち * 実業家と美術館() 6 * 実業家の伝記小説① 7 * 鈴木家の女たち 7 * 実業家の伝記小説③ 66 * 神奈川の別荘地と実業家 (前編) 75 * 神奈川の別荘地と実業家 * 実業家と美術館() 6 * 映像化された実業家たち 7 * 実業家と美術館() 7 (後編) 7 * 神奈川に眠る実業家たち (東慶寺編) 5 * 神奈川に眠る実業家たち 5

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7 本編 社史と伝記にみる日本の実業家 文献数 事典類への掲載数などのデータを 参考に 明治期から近年にいたる日本の代 表的な実業家 物故者 人 項目 を選んで 神奈川県立図書館と同川崎図書 館の所蔵資料をつかって事績やエピソー ドをまとめ 生年順に紹介する

8 本 編 凡 例 本 編 は 人 物 データファイル 文 献 案 内 のつの 部 分 から 成 る 人 物 データファイル 欄 について 各 表 題 の 企 業 名 は 原 則 としてその 実 業 家 が 最 もかかわったときの 名 称 を 採 用 実 業 家 の 写 真 の 出 典 詳 細 は 写 真 出 典 一 覧 (p5-6)にあり 文 中 の 企 業 名 は 当 時 の 名 称 で 記 述 している 株 式 会 社 は 特 に 必 要 な 場 合 以 外 は 省 略 した 年 号 は 元 号 年 ( 西 暦 ) と 記 述 した 明 治 4 年 以 前 太 陰 太 陽 暦 の 時 代 につ いては 日 にちにより 同 じ 元 号 年 でも 西 暦 年 が 異 なる 場 合 あり 年 齢 は 原 則 として 満 年 齢 で 記 載 右 肩 に がついている 言 葉 は キーワード 欄 に 解 説 あり 文 献 案 内 欄 について 網 羅 的 ではなく 特 徴 的 な 資 料 のみあげた 書 誌 事 項 の 最 後 に 所 蔵 情 報 をつけた Y : 神 奈 川 県 立 図 書 館 所 蔵 Yかな : 神 奈 川 県 立 図 書 館 かながわ 資 料 室 所 蔵 K : 神 奈 川 県 立 川 崎 図 書 館 所 蔵 未 所 蔵 : 神 奈 川 県 立 図 書 館 神 奈 川 県 立 川 崎 図 書 館 の 両 館 ともに 所 蔵 なし 文 献 の 並 びは 原 則 として 出 版 年 の 昇 順 社 史 欄 については 会 社 ごとの 出 版 年 順 とした 書 誌 事 項 の 記 載 は 下 記 の 通 り a) 単 行 本 の 場 合 冊 の 場 合 書 名 編 著 者 名 出 版 者 出 版 年 冊 のうちの 部 分 の 場 合 部 分 タイトル 担 当 編 著 者 名 書 名 編 著 者 名 出 版 者 出 版 年 pはじめのページ-おわりのページ b) 雑 誌 の 場 合 論 文 名 著 者 名 著 雑 誌 名 巻 ( 号 ) 数 出 版 年 pはじめのページ- おわりのページ c) 新 聞 の 場 合 記 事 タイトル 執 筆 者 名 新 聞 名 発 行 年 月 日 朝 夕 刊 の 別 版 数 面 数 d)webサイト 等 の 場 合 webページのタイトル 著 作 者 名 入 手 先 アドレス( 参 照 入 手 日 付 )

9 日 本 資 本 主 義 の 父 しぶさわ 渋 沢 えいいち 栄 一 (4-) 第 一 国 立 銀 行 ほか 人 物 データファイル 出 生 はんざわ ごおりちあらい 天 保 年 月 日 (4) 武 蔵 国 榛 沢 郡 血 洗 島 村 ( 現 埼 玉 県 深 谷 市 ) い ち ろ に 養 蚕 と 製 藍 を 営 む 市 郎 う 右 じま え も ん えい 衛 門 栄 の 長 男 として 生 まれる 幼 名 は 市 三 郎 6 歳 の 時 に 母 の 名 をとって 栄 治 郎 と 名 付 けられた 生 い 立 ち 生 家 は 血 洗 島 に 十 数 軒 ある 渋 沢 家 の 宗 家 ( 中 ノ 家 と 呼 ばれた 渋 沢 一 族 の 支 流 の 一 つ)で 当 主 は 代 々 市 郎 右 衛 門 と 称 した 父 は 宗 家 に 婿 養 子 に 来 た 人 で 性 格 は 非 常 に 真 面 目 であり 些 細 なことでも 几 帳 面 におこなっ た 勤 勉 家 でもあり 農 業 をはじめ 養 蚕 藍 の 製 造 販 売 村 人 に 金 の 融 通 もするなど 農 工 商 金 融 を 兼 ね 営 んでいた こうした 家 庭 環 境 の 中 で 栄 一 は 育 つことになる 渋 沢 史 料 館 所 蔵 また 市 郎 右 衛 門 は 初 めは 武 家 になって 身 を 立 てようとしたこともあり 武 芸 はもちろん 学 問 も 四 書 五 経 は 十 分 に 読 め 晩 香 と 号 するほど 俳 諧 に も 通 じていた 栄 一 が6 歳 になると 父 自 ら 漢 籍 の 素 読 を 教 えた 栄 一 は 卓 越 した 記 憶 力 を 持 ち 知 識 欲 も 盛 んだったため 年 の 間 に 孝 経 小 学 大 学 中 庸 と 進 み ついには 論 語 まで 及 んだという お だかあつただ 7 歳 になると 隣 村 の 尾 高 惇 忠 の 許 へ 通 い 四 書 五 経 のほかにも 国 史 略 日 本 外 史 なども 学 んだ 尾 高 は 栄 一 の 従 兄 で 歳 ほど 年 長 であった 学 問 を 好 み 博 覧 強 記 で 志 士 的 な 風 格 も 備 えていた 人 である 栄 一 は 剣 術 も 歳 頃 から 学 んでいる 稽 古 にも 熱 心 で 上 達 も 速 かったようである 4 歳 になると 近 村 を 回 り 家 業 の 藍 の 製 造 に 欠 かせない 藍 葉 の 買 い 付 けをおこなっている 栄 一 の 初 めての 商 売 であった 安 政 5 年 (5) 一 渋 沢 栄 一

10 般 的 な 名 を 栄 一 郎 と 改 め 本 名 を 栄 一 とした 同 年 の 月 に 尾 高 の 妹 の 千 代 と 結 婚 する 実 業 家 以 前 文 久 年 (6)は 栄 一 の 生 涯 を 通 してもっとも 特 筆 すべき 年 であっ たと 言 えるかもしれない 嘉 永 6 年 (5)のペリー 艦 隊 来 航 を 機 に 鎖 国 体 制 は 終 わり 安 政 5 年 (5)には 米 国 等 と 修 好 通 商 条 約 が 結 ばれた 開 港 と 自 由 貿 易 による 経 済 混 乱 の 中 外 国 人 排 撃 を 唱 える 攘 夷 論 が 尊 王 論 と 結 びついて 過 激 化 し 文 久 年 には 朝 廷 が 幕 府 に 攘 夷 の 実 行 を 迫 るなど 尊 王 攘 夷 運 動 が 高 揚 していた これらの 動 きに 呼 応 して 栄 一 は 尾 高 惇 忠 従 兄 の 渋 沢 喜 作 と 共 に 攘 夷 計 画 を 密 議 したのである その 計 画 とは まず 高 崎 城 を 乗 っ 取 り 兵 備 を 整 えた 後 鎌 倉 街 道 を 通 っ て 横 浜 に 行 き 横 浜 を 焼 き 討 ちにして 外 国 人 を 片 っ 端 から 殺 害 しようと いうものであった 彼 らは7 名 近 い 同 志 を 集 めるほどであったが 結 局 惇 忠 の 弟 で 尊 皇 攘 夷 運 動 家 の 尾 高 長 七 郎 に 説 得 されて 中 止 事 が 露 見 したわ けではなかったが 幕 府 の 取 り 締 まりもあるため 故 郷 に 残 るのは 危 険 と 判 断 した 栄 一 と 喜 作 は 一 橋 家 の 用 人 平 岡 円 四 郎 の 家 来 という 名 目 で 京 都 へ 逃 げた 京 都 で 平 岡 の 推 薦 で 徳 川 慶 喜 に 面 会 し 一 橋 家 の 家 臣 となる やがて 慶 喜 は 将 軍 となり 運 命 の 悪 戯 であろうか 栄 一 は 幕 臣 になってしまう さらに 大 きな 人 生 の 転 換 期 が 待 ち 構 えていた 慶 喜 の 弟 昭 武 を 公 使 と する 遣 欧 使 節 団 に 随 行 を 命 じられたのである 慶 応 年 月 (67) 横 浜 からフランスに 出 発 した 渋 沢 のこの 年 近 いヨーロッパでの 体 験 が そ の 後 の 日 本 の 近 代 化 に 非 常 に 大 きく 貢 献 することになる 明 治 元 年 月 (6)に 帰 国 江 戸 幕 府 はもはや 無 く 新 政 府 が 国 を 動 かしていた 栄 一 は 慶 喜 が 謹 慎 中 であった 駿 府 に 赴 き 駿 府 藩 の 勘 定 組 頭 となる 明 治 年 明 治 政 府 に 仕 官 し 民 部 省 に 入 り 租 税 事 務 の 処 理 にあ ごんのたいじょう たる 翌 年 大 蔵 省 に 属 し 4 年 5 月 には 大 蔵 権 大 丞 となった 国 立 銀 行 条 例 の 起 草 立 案 をおこない 第 一 国 立 銀 行 や 抄 紙 会 社 の 設 立 などに 尽 力 したが 明 治 6 年 5 月 財 政 改 革 における 主 張 が 受 け 入 れられず 大 蔵 省

11 を 辞 任 した 実 業 家 時 代 渋 沢 栄 一 は 生 涯 で5 以 上 の 会 社 の 設 立 や 運 営 に 関 わったといわれてい る 逐 一 列 挙 するわけにはいかないので ここでは 業 種 別 に 主 なものを 見 ることにする 4 歳 で 大 蔵 省 を 退 官 した 後 すぐに 自 ら 設 立 に 関 わった 第 一 国 立 銀 行 の 総 監 役 に 就 き 開 業 の 準 備 にあたっている 後 に 頭 取 として 同 行 の 発 展 に 努 めた この 第 一 国 立 銀 行 は 後 に 合 併 を 繰 り 返 して 第 一 勧 業 銀 行 となり 現 在 のみずほ 銀 行 へとつながっていく この 他 第 十 六 十 九 二 十 七 十 七 などの 国 立 銀 行 の 設 立 を 指 導 し 日 本 勧 業 銀 行 北 海 道 拓 殖 銀 行 秋 田 銀 行 台 湾 銀 行 などの 設 立 運 営 にも 協 力 している 明 治 5 年 (7)に 設 立 した わが 国 最 初 の 洋 紙 製 造 会 社 である 抄 紙 会 社 の 社 長 になり 尽 力 した これは 後 に 王 子 製 紙 となり 更 なる 発 展 を 遂 げ ている 紡 績 関 連 の 会 社 の 設 立 にも 尽 力 する これもわが 国 最 初 となる 大 阪 紡 績 会 社 の 相 談 役 を 務 める 後 に 三 重 紡 績 株 式 会 社 と 合 併 して 東 洋 紡 績 株 式 会 社 となる その 他 鐘 淵 紡 績 会 社 京 都 織 物 会 社 東 京 毛 織 物 株 式 会 社 帝 国 製 麻 株 式 会 社 大 日 本 紡 績 連 合 会 の 創 立 等 にも 関 わった 運 輸 交 通 関 連 では 日 本 郵 船 株 式 会 社 の 前 身 にあたる 東 京 風 帆 船 会 社 の 創 立 に 努 める また わが 国 最 初 の 民 営 鉄 道 である 日 本 鉄 道 株 式 会 社 の 創 立 に 貢 献 したり 参 宮 鉄 道 北 海 道 炭 礦 鉄 道 筑 豊 興 業 鉄 道 北 越 鉄 道 東 京 鉄 道 京 阪 電 気 鉄 道 東 洋 汽 船 日 清 汽 船 上 武 鉄 道 などの 各 株 式 会 社 の 相 談 役 や 創 立 委 員 長 等 も 務 めた その 他 浅 野 セメント 工 場 の 設 立 にあたっては 浅 野 総 一 郎 に 多 大 な 援 助 をしている その 浅 野 とは 東 京 瓦 斯 会 社 の 創 立 の 際 にも 協 力 している 東 京 電 燈 会 社 東 京 人 造 肥 料 会 社 日 本 煉 瓦 製 造 会 社 帝 国 ホテル 会 社 札 幌 麦 酒 会 社 東 京 電 力 株 式 会 社 東 洋 硝 子 製 造 株 式 会 社 明 治 製 糖 株 式 会 社 渋 沢 倉 庫 株 式 会 社 などなど 渋 沢 が 関 わっていない 業 種 は 無 いので はないかと 思 われるほど 広 範 に 活 動 している 理 化 学 研 究 所 の 副 総 裁 や 渋 沢 栄 一

12 日 本 放 送 協 会 の 顧 問 も 務 めているほどである このように 数 多 くの 会 社 に 関 わったといわれるが その 正 確 な 数 はまだ 分 かっていない 現 在 渋 沢 栄 一 記 念 財 団 が 運 営 している 実 業 史 研 究 情 報 センターで 渋 沢 が 関 わった 会 社 の 変 遷 を 調 査 している いずれ 大 きな 成 果 が 挙 がるであろう 渋 沢 は 財 を 築 く 目 的 で 多 くの 会 社 の 創 立 や 運 営 に 関 わったわけではなかった 先 進 的 なヨーロッパ 諸 国 の 実 情 を 目 の 当 たりに した 彼 が 目 指 していたのは 一 刻 も 早 く 日 本 にも 近 代 産 業 を 根 付 かせ 発 展 させることであった そのため 東 京 商 工 会 議 所 の 前 身 にあたる 東 京 商 法 会 議 所 東 京 商 工 会 東 京 商 業 会 議 所 の 会 頭 を 歴 任 し 政 府 に 対 して 実 業 界 の 重 要 性 を 説 き そ の 発 展 に 寄 与 したのである 社 会 文 化 貢 献 渋 沢 は7 歳 を 迎 えた 明 治 4 年 ()6 月 金 融 関 係 以 外 の 企 業 の 役 職 を 退 いた その 数 はおよそ6 社 にのぼる さらに 大 正 5 年 (6) 月 に は 金 融 界 からも 引 退 した そして 社 会 公 共 事 業 に 尽 力 することになる 渋 沢 は 実 業 家 時 代 より 将 来 の 実 業 家 技 術 者 を 育 成 するため 東 京 高 等 商 業 学 校 大 倉 高 等 商 業 学 校 高 千 穂 学 校 東 京 高 等 蚕 糸 学 校 岩 倉 鉄 道 学 校 などの 実 業 学 校 の 創 設 や 発 展 に 寄 与 してきたが 引 退 後 は 国 際 親 善 世 界 平 和 の 促 進 道 徳 の 刷 新 実 業 教 育 及 び 女 子 教 育 の 振 興 学 術 文 化 の 助 成 など 公 共 事 業 社 会 事 業 に 力 を 入 れた 実 業 関 係 で 関 わった 会 社 は 約 5といわれるが 公 共 社 会 事 業 関 係 は6 を 超 えているという 渋 沢 は 単 なる 実 業 家 資 本 家 ではなく 国 民 の 生 活 の 向 上 や 国 際 社 会 において 外 圧 に 十 分 耐 えうる 日 本 の 基 盤 の 確 立 を 目 指 した 人 物 であったといえる また 幼 尐 の 頃 より 親 しんだ 論 語 は 彼 の 経 営 理 念 生 き 方 に 多 大 な 影 響 を 与 え 続 けた 論 語 を 道 徳 教 育 の 規 範 として 論 語 算 盤 説 道 徳 経 済 合 一 説 を 唱 え 実 業 界 の 道 徳 の 水 準 を 高 めようとした その 論 語 や 漢 詩 などを 人 からの 求 めに 応 じ よく 書 にしたためている 青 淵 を 号 としているが これは 生 家 の 裏 にある 池 が 由 来 となっている

13 晩 年 亡 くなる 前 年 の 昭 和 5 年 ()には 父 市 郎 右 衛 門 の 手 写 した 習 字 手 本 や 俳 句 の 草 稿 等 を 集 めた 晩 香 遺 薫 を 刊 行 している 翌 6 年 月 日 永 眠 享 年 歳 大 往 生 であった 飛 鳥 山 の 自 宅 から 青 山 斎 場 に 向 かう 車 の 列 は 台 にもなり 沿 道 には 万 人 ともいわれる 人 々が 渋 沢 の 葬 列 を 見 送 った 東 京 上 野 の 谷 中 墓 地 に 埋 葬 されたが 同 墓 地 内 の 歩 いて 分 ほど のところに かつての 主 君 だった 徳 川 慶 喜 の 墓 所 もある 渋 沢 は 生 前 慶 喜 の 近 くで 眠 れることを 喜 んでいたという 関 係 人 物 渋 沢 が 関 係 している 人 物 は 数 え 切 れないほどいるので ここでは 敢 えて 親 族 の 中 で 著 名 な 人 物 を 紹 介 するに 留 めておく 渋 沢 秀 雄 栄 一 の 四 男 東 京 帝 国 大 学 法 学 部 を 卒 業 後 日 本 興 業 銀 行 に 勤 務 その 後 オリエンタル 写 真 工 業 目 黒 蒲 田 電 鉄 東 宝 映 画 などの 監 査 役 を 務 める 東 宝 の 取 締 役 会 長 にもなったが むしろ 随 筆 家 として 知 られ ている 著 書 の 中 には 栄 一 を 取 り 上 げたものもある 父 を 偲 ぶ 渋 沢 栄 一 父 渋 沢 栄 一 上 下 など 多 数 渋 沢 敬 三 栄 一 の 孫 財 界 人 であり 民 俗 学 者 でもあるという 変 わった 経 歴 を 持 つ 栄 一 の 懇 願 により 大 学 の 進 路 を 変 更 東 京 帝 国 大 学 経 済 学 部 を 卒 業 し 横 浜 正 金 銀 行 に 入 行 ロンドン 支 店 などに 勤 務 した 岩 崎 弥 太 郎 の 孫 と 結 婚 第 一 国 立 銀 行 の 副 頭 取 などを 経 て 第 二 次 世 界 大 戦 中 は 日 しではら 本 銀 行 総 裁 終 戦 直 後 の 幣 原 喜 重 郎 内 閣 では 大 蔵 大 臣 を 務 めた 一 方 柳 田 國 男 との 出 会 いから 民 俗 学 にも 傾 倒 する 郷 土 玩 具 や 化 石 な どを 収 集 した 私 設 博 物 館 アチックミューゼアム( 後 に 日 本 常 民 文 化 研 究 所 と 改 称 現 在 は 神 奈 川 大 学 に 移 管 ) を 開 設 多 くの 民 俗 学 者 を 育 て 民 俗 学 の 父 とも 言 われている 澁 澤 敬 三 著 作 集 ( 全 5 巻 ) 他 多 数 の 著 書 が ある 大 川 慶 次 郎 尾 高 惇 忠 の 甥 である 大 川 平 三 郎 の 孫 また 栄 一 のひ 孫 にも あたる ひ 孫 くらいになるとちょっと 変 わった 人 たちが 出 てくる 競 走 馬 渋 沢 栄 一

14 を 育 てるという 環 境 に 生 まれ 馬 を 見 て 育 った 大 川 は なるべくしてなっ たかのように 競 馬 の 解 説 者 となる 競 馬 中 継 での 予 想 的 中 率 が 高 く 競 馬 の 神 様 と 呼 ばれるようになった 競 馬 評 論 家 である 渋 沢 元 治 栄 一 の 甥 一 族 の 中 では 珍 しく 工 学 部 の 出 身 である 逓 信 省 の 技 師 になった 後 東 京 帝 国 大 学 教 授 同 工 学 部 長 を 経 て 名 古 屋 帝 国 大 学 の 初 代 総 長 となる 日 本 の 水 力 発 電 の 開 発 に 貢 献 した 昭 和 年 (55) には 文 化 功 労 者 に 選 ばれ それを 記 念 して 電 気 保 安 分 野 で 顕 著 な 業 績 を 上 げた 個 人 やグループに 授 与 される 渋 沢 賞 が 設 けられている 澁 澤 龍 彦 栄 一 の 遠 戚 にあたる 作 家 評 論 家 龍 彦 の 家 が 渋 沢 家 の 本 流 で 栄 一 の 家 は 支 流 になる 深 谷 に 栄 一 の 住 んだ 家 が 今 も 残 っているが その 近 くに 龍 彦 の 本 家 の 墓 所 があり 墓 碑 には 建 立 者 として 龍 彦 の 名 が 刻 まれている なお 龍 彦 は 自 身 の 名 の 漢 字 表 記 に 非 常 にこだわりを 持 って おり 旧 字 体 でない 宛 名 の 封 筒 は 開 封 しなかったという 話 が 残 っている エピソード 東 京 都 北 区 のJR 王 子 駅 前 に 飛 鳥 山 公 園 がある この 公 園 にはかつて 渋 沢 の 本 宅 があり そこから 王 子 駅 の 向 こう 側 にある 王 子 製 紙 の 工 場 が 見 え ていた ある 日 渋 沢 は 干 してある 洗 濯 物 に 黒 い 点 のようなものが 付 い ていることに 気 が 付 いた 調 べてみると それは 製 紙 工 場 の 煙 突 から 吐 き 出 された 煤 であることがわかった 渋 沢 は 近 隣 の 住 宅 にも 降 り 注 いでいる に 違 いないと 思 い すぐに 善 処 するよう 工 場 に 指 示 を 出 し 幸 い 事 なきを 得 ることが 出 来 た 後 日 渋 沢 は 日 本 で 最 初 の 公 害 だったと 語 ったという 渋 沢 のふるさとである 深 谷 には 彼 が 理 事 長 や 取 締 役 会 長 を 務 めた 日 本 煉 瓦 製 造 会 社 があり 上 質 の 煉 瓦 を 製 造 していた 東 京 駅 を 建 設 する 際 に 使 用 された 煉 瓦 の 割 が ここで 製 造 されたそうである(そのPRのため JR 高 崎 線 の 深 谷 駅 駅 舎 は 駅 舎 老 朽 化 に 伴 う 建 替 えの 際 に 東 京 駅 そっく りな 建 物 になった) 日 本 煉 瓦 製 造 会 社 は 既 にないが 現 在 は 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 されている 煉 瓦 製 造 窯 ホフマン 輪 窯 6 号 窯 が かつての 栄 華 を 伝 えている 渋 沢 栄 一 賞 という 賞 がある これは 埼 玉 県 が 郷 土 の 大 偉 人 である 4

15 渋 沢 の 功 績 を 顕 彰 するとともに 企 業 家 の 今 あるべき 姿 を 示 すため 彼 の 精 神 を 受 け 継 いでいる 企 業 経 営 者 に 対 して 贈 っているもので 全 国 の 経 営 者 を 対 象 にしており 平 成 年 度 で 回 目 を 迎 えている 神 奈 川 県 内 にある 企 業 の 経 営 者 も 受 賞 している 粉 が 飛 び 散 らない チョークの 製 造 で 国 内 シェアトップを 誇 る 日 本 理 化 学 工 業 株 式 会 社 社 長 の 大 山 泰 弘 氏 ( 第 7 回 受 賞 : 川 崎 市 高 津 区 )と 防 錆 の 処 理 を 中 心 とする 複 合 処 理 や 表 面 処 理 を 一 貫 でおこなっている 金 属 製 品 製 造 業 である 株 式 会 社 大 協 製 作 所 社 長 の 栗 原 敏 郎 氏 ( 第 回 受 賞 : 横 浜 市 保 土 ヶ 谷 区 )であ る 社 とも 障 害 者 の 雇 用 率 が 非 常 に 高 いことも 選 定 の 理 由 になっている 企 業 の 活 動 は 私 欲 ではなく 国 民 生 活 の 向 上 のためにあるべきだという 渋 沢 の 精 神 を 絶 やさず 繋 いでいこうというのがこの 賞 の 目 的 である 神 奈 川 との 関 わり 大 磯 は 明 治 の 頃 より 政 界 や 財 界 の 大 物 達 が 競 って 別 荘 を 構 えた 地 であ る 渋 沢 も 家 族 を 連 れ 大 磯 の 別 荘 によく 通 っている 渋 沢 の 長 男 の 篤 二 は 実 業 家 の 才 能 は 無 かったようであるが 写 真 撮 影 が 好 きで 瞬 間 の 累 積 という 写 真 集 まで 出 している その 中 に 大 磯 の 別 荘 で 撮 影 された 写 真 もあ る 明 治 4 年 頃 に 大 磯 から 帰 る 際 伊 藤 博 文 と 同 じ 汽 車 になったことが あった その 車 中 で 渋 沢 は 伊 藤 より 徳 川 慶 喜 の 逸 話 を 聞 いたという また 明 治 年 (6)4 月 に 横 浜 市 神 奈 川 区 にある 良 泉 寺 で 開 かれた 天 下 の 糸 平 こと 田 中 平 八 の 追 憶 会 に 福 地 桜 痴 益 田 孝 らと 共 に 出 席 している 文 献 案 内 著 作 徳 川 慶 喜 公 伝 全 巻 渋 沢 栄 一 著 龍 門 社 Y 青 淵 回 顧 録 渋 沢 栄 一 著 青 淵 回 顧 録 刊 行 会 7 Y K 澁 澤 栄 一 滞 佛 日 記 渋 沢 栄 一 著 日 本 史 籍 協 会 Y 渋 沢 栄 一 全 集 全 6 巻 渋 沢 栄 一 著 平 凡 社 K 澁 澤 榮 一 自 敍 傳 渋 沢 栄 一 著 小 貫 修 一 郎 編 偉 人 烈 士 傳 編 纂 所 7 Y 渋 沢 栄 一 5

16 経 営 論 語 渋 沢 栄 一 著 経 営 思 潮 研 究 会 編 徳 間 書 店 65 Y 昔 夢 会 筆 記 渋 沢 栄 一 編 平 凡 社 66 Y 雨 夜 譚 余 聞 渋 沢 栄 一 著 小 学 館 K 論 語 を 活 かす 渋 沢 栄 一 著 明 徳 出 版 社 K 論 語 と 算 盤 復 刻 版 渋 沢 栄 一 著 渋 沢 栄 一 記 念 財 団 K 社 史 渋 沢 が 関 わった 企 業 順 に 列 挙 し 創 業 時 に 近 い 社 史 を 掲 載 した 王 子 製 紙 社 史 第 ~4 巻 王 子 製 紙 工 業 56~5 Y K 第 一 銀 行 五 十 年 小 史 第 一 銀 行 6 K 創 業 年 史 品 川 白 煉 瓦 76 K 東 京 火 災 保 險 株 式 会 社 五 十 年 誌 東 京 火 災 保 險 Y K 七 十 七 年 史 七 十 七 銀 行 54 K 日 本 皮 革 株 式 会 社 五 十 年 史 日 本 皮 革 57 K 日 本 郵 船 株 式 会 社 五 十 年 史 日 本 郵 船 5 Yかな K 浅 野 セメント 沿 革 史 浅 野 セメント 4 Y K 東 京 瓦 斯 五 十 年 史 東 京 瓦 斯 5 Yかな K 東 京 石 川 島 造 舩 所 五 十 年 史 東 京 石 川 島 造 船 所 K 東 京 製 綱 株 式 会 社 七 十 年 史 東 京 製 綱 57 Y K 大 成 建 設 社 史 大 成 建 設 6 Y K 大 日 本 人 造 肥 料 株 式 会 社 創 業 三 十 年 記 念 誌 大 日 本 人 造 肥 料 7 K 京 都 織 物 株 式 会 社 五 十 年 史 京 都 織 物 7 K 鐘 紡 製 糸 四 十 年 史 鐘 淵 紡 績 65 K 7 年 の 歩 み 日 本 煉 瓦 製 造 57 K 帝 国 ホテル 百 年 史 帝 国 ホテル Y K 大 日 本 麥 酒 株 式 會 社 三 十 年 史 大 日 本 麥 酒 6 Y Yかな K 若 松 築 港 株 式 会 社 五 拾 年 史 若 松 築 港 4 K 東 京 帽 子 八 十 五 年 史 東 京 帽 子 7 K 日 糖 最 近 十 年 史 大 日 本 製 糖 K 六 十 四 年 の 歩 み 東 洋 汽 船 64 K 6

17 日 本 勧 業 銀 行 創 業 二 十 年 志 日 本 勧 業 銀 行 7 K 秋 田 銀 行 百 年 史 秋 田 銀 行 7 K 澁 澤 倉 庫 株 式 会 社 三 十 年 小 史 澁 澤 倉 庫 K 廣 島 電 気 沿 革 史 廣 島 電 気 4 K 台 湾 銀 行 四 十 年 誌 台 湾 銀 行 K 北 海 道 拓 殖 銀 行 創 業 十 年 誌 北 海 道 拓 殖 銀 行 K 日 本 興 業 銀 行 十 年 史 日 本 興 業 銀 行 K 大 阪 瓦 斯 五 十 年 史 大 阪 瓦 斯 55 K 浦 賀 船 渠 六 十 年 史 浦 賀 船 渠 57 Yかな K 朝 鮮 興 業 株 式 会 社 三 十 周 年 記 念 誌 朝 鮮 興 業 6 K 東 京 電 力 三 十 年 史 東 京 電 力 Y K 明 治 製 糖 株 式 會 社 三 十 年 史 明 治 製 糖 6 K 鉄 路 5 年 京 阪 電 気 鉄 道 編 京 阪 電 気 鉄 道 史 料 編 纂 委 員 会 6 K 帝 劇 の 五 十 年 帝 国 劇 場 帝 劇 史 編 纂 委 員 会 編 東 宝 66 Y K 日 清 汽 船 株 式 會 社 三 十 年 史 及 追 補 日 清 汽 船 4 K 沖 電 気 年 のあゆみ 沖 電 気 工 業 Y K 帝 国 製 麻 株 式 会 社 三 十 年 史 帝 国 製 麻 7 K 東 拓 十 年 史 東 洋 拓 殖 K 大 正 7 年 () 刊 の 複 製 東 洋 紡 績 七 十 年 史 東 洋 紡 績 5 K 日 染 廿 年 史 日 本 染 料 製 造 6 K 伝 記 文 献 澁 澤 榮 一 評 傳 生 駒 粂 造 著 有 樂 社 Y 澁 澤 榮 一 傳 ( 偉 人 傳 全 集 4) 土 屋 喬 雄 著 改 造 社 K 左 傾 児 とその 父 白 柳 秀 湖 著 千 倉 書 房 K 澁 沢 栄 一 伝 幸 田 露 伴 著 岩 波 書 店 K 青 淵 澁 澤 栄 一 翁 写 真 伝 野 依 秀 市 編 実 業 之 世 界 社 4 K 渋 沢 栄 一 望 月 芳 郎 著 紙 硯 社 4 K 青 淵 澁 澤 栄 一 明 石 照 男 編 澁 澤 青 淵 記 念 財 団 龍 門 社 5 Y K 渋 沢 栄 一 7

18 激 流 澁 澤 榮 一 の 若 き 日 大 佛 次 郎 著 文 藝 春 秋 新 社 5 K 澁 沢 栄 一 伝 ( 日 本 財 界 人 物 伝 全 集 ) 土 屋 喬 雄 著 東 洋 書 館 55 Y 渋 沢 栄 一 伝 記 資 料 全 5 巻 別 巻 巻 渋 沢 青 渊 記 念 財 団 竜 門 社 編 渋 沢 栄 一 伝 記 資 料 刊 行 会 55~7 巻 まではY K, 巻 以 降 はK 渋 沢 栄 一 渋 沢 秀 雄 著 渋 沢 青 淵 記 念 財 団 竜 門 社 56 K 父 渋 沢 栄 一 上 下 渋 沢 秀 雄 著 実 業 之 日 本 社 5 Y K 四 男 による 伝 記 エピソードも 多 く 書 かれている 論 語 と 渋 沢 翁 と 私 岸 信 介 著 実 業 之 世 界 社 6 K 渋 沢 栄 一 山 口 平 八 著 平 凡 社 6 Y K 澁 澤 榮 一 と 擇 善 会 田 村 俊 夫 著 近 代 セールス 社 6 K 太 平 洋 にかける 橋 渋 沢 栄 一 の 生 涯 渋 沢 雅 英 著 読 売 新 聞 社 7 K 明 治 を 耕 した 話 父 渋 沢 栄 一 渋 沢 秀 雄 著 青 蛙 房 77 Y K 巨 いなる 企 業 家 渋 沢 栄 一 の 全 研 究 井 上 宏 生 著 PHP 研 究 所 K 埼 玉 の 先 人 渋 沢 栄 一 韮 塚 一 三 郎 他 著 さきたま 出 版 会 Y K 日 々に 新 たなり 下 山 二 郎 著 国 書 刊 行 会 K 巨 星 渋 沢 栄 一 その 高 弟 大 川 平 三 郎 竹 内 良 夫 著 教 育 企 画 出 版 K 渋 沢 栄 一 ( 人 物 叢 書 ) 新 装 版 土 屋 喬 雄 著 吉 川 弘 文 館 Y K 昭 和 6 年 刊 の 自 著 をベースにした 渋 沢 研 究 の 基 本 書 ともいうべきもの 渋 沢 栄 一 人 間 の 礎 童 門 冬 二 著 経 済 界 Y K 渋 沢 栄 一 民 間 経 済 外 交 の 創 始 者 ( 中 公 新 書 ) 木 村 昌 人 著 中 央 公 論 社 Y K 評 伝 渋 沢 栄 一 藤 井 賢 三 郎 著 水 曜 社 K 渋 沢 栄 一 パリ 万 博 へ 渋 沢 華 子 著 国 書 刊 行 会 5 Y K 徳 川 慶 喜 最 後 の 寵 臣 渋 沢 栄 一 渋 沢 華 子 著 国 書 刊 行 会 7 K 公 益 の 追 求 者 渋 沢 栄 一 渋 沢 研 究 会 編 山 川 出 版 社 Y K 渋 沢 栄 一 の 経 世 済 民 思 想 坂 本 慎 一 著 日 本 経 済 評 論 社 Y 渋 沢 栄 一 人 生 意 気 に 感 ず 童 門 冬 二 著 PHP 研 究 所 4 K 論 語 とソロバン ( 祥 伝 社 )の 改 題 加 筆 修 正 版 小 説 渋 沢 栄 一 上 下 津 本 陽 著 日 本 放 送 出 版 協 会 4 K

19 渋 沢 栄 一 を 歩 く 田 澤 拓 也 著 小 学 館 6 K 渋 沢 にゆかりのある 地 を 訪 ね 歩 きながら その 業 績 をたどる 渋 沢 栄 一 男 の 器 量 を 磨 く 生 き 方 渡 部 昇 一 著 致 知 出 版 社 7 K 渋 沢 栄 一 日 本 を 創 った 実 業 人 ( 講 談 社 +α 文 庫 ) 東 京 商 工 会 議 所 編 講 談 社 K 祖 父 渋 沢 栄 一 に 学 んだこと 鮫 島 純 子 著 文 藝 春 秋 K 渋 沢 栄 一 Ⅰ 算 盤 篇 Ⅱ 論 語 篇 鹿 島 茂 著 文 藝 春 秋 Y K 幅 広 い 文 化 研 究 で 知 られる 著 者 による 詳 細 に 調 査 された 大 著 渋 沢 栄 一 社 会 企 業 家 の 先 駆 者 ( 岩 波 新 書 ) 島 田 昌 和 著 岩 波 書 店 Y 青 年 渋 沢 栄 一 の 欧 州 体 験 ( 祥 伝 社 新 書 ) 泉 三 郎 著 祥 伝 社 K 参 考 文 献 瞬 間 の 累 積 渋 沢 篤 二 著 渋 沢 敬 三 6 未 所 蔵 澁 澤 敬 三 著 作 集 全 5 巻 渋 沢 敬 三 著 平 凡 社 ~ Y 渋 沢 栄 一 と 日 本 商 業 教 育 発 達 史 三 好 信 浩 著 風 間 書 房 Y 渋 沢 栄 一 論 語 の 読 み 方 竹 内 均 編 解 説 三 笠 書 房 4 K 渋 沢 栄 一 アメリカへ 渋 沢 栄 一 記 念 財 団 渋 沢 史 料 館 編 発 行 Y 青 い 目 の 人 形 と 近 代 日 本 渋 沢 栄 一 とL ギューリックの 夢 の 行 方 是 澤 博 昭 著 世 織 書 房 Y 渋 沢 栄 一 の 福 祉 思 想 大 谷 まこと 著 ミネルヴァ 書 房 Y 渋 沢 栄 一 翁 の 顕 彰 とレンガを 活 かしたまちづくり 埼 玉 県 深 谷 市 編 発 行 [ 刊 年 記 載 なし] K < 圡 屋 定 夫 > 渋 沢 栄 一

20 コラム 渋沢より年長の大物実業家たち 本編では渋沢栄一 4 より前に生まれた実業家を割愛したが 重要な人物について以下に一瞥したい 生年順 は代表的伝記文献 み の む ら り ざ え も ん 三野村利左衛門 7 7 三井家の大番頭 生い立ちは不明な点が多 ちゅうげん く 浪人した父に従い諸国流浪の後 江戸に出て旗本小栗家の中 間などを勤 めたといわれる 商家の婿養子となり 両替商を始めて三井両替店との繋が りが出来る 幕末 三井家に多額の幕府御用金が課された際 三井の依頼で た だま さ 勘定奉行小栗忠順と交渉 旧縁を生かし御用金の減額に成功した これを機 に三井の幹部となり 討幕派支持を決断 維新後は新政府との密接な関係を 保ち 三井銀行と三井物産の創設など財閥の基礎を固めた 三野村利左 衛門伝 三野村清一郎著 三野村合名会社 6 Y K ひ ろ せ さいへい 広瀬宰平 4 住友家の大番頭 近江国の生まれ 少年時から住 べ っ し 友家経営の別子銅山に勤務 その後 広瀬家の養子となり 幕末から別子銅 山支配本役として維新の動乱期に住友家の中心事業を守った 明治中期まで 別子銅山の近代化を推進するとともに 住友家総理事を務め 関西財界の中 心的存在だった 半世物語 広瀬宰平著 住友修史室 K ふ るか わ い ち べ え 古河市兵衛 古河財閥の創始者 京都岡崎の生まれ 生家の 零落で幼少期から苦労を重ねる 安政年間 小野組糸店の古河太郎左衛門の 養子となり 小野組で生糸貿易や鉱山経営に従事 小野組破産 明治7 の 後 独立して鉱山事業に専念した 渋沢栄一 陸奥宗光らの協力を得て多数 の鉱山を経営 特に足尾銅山の産銅力再生による成功が目ざましく 銅山 王 と呼ばれたが 一方で足尾銅山は深刻な鉱毒被害を地元にもたらし 大 きな社会問題になった 古河市兵衞翁傳 五日会 6 Y K い わさ き や た ろ う 岩崎弥太郎 4 5 三菱財閥の創始者 土佐国の生まれ 幕末 土 佐藩の貿易事業に携わっていたが 明治初年これを私企業に転換 九十九商 会 後に三菱商会 海運業者として新政府の軍需輸送を一手に引き受け 台湾出兵や西南戦争で巨利を得た 高島炭鉱買収 三菱為替店開業 東京

21 海上保険出資 官営長崎造船所払下げなど事業を多角化し 財閥の基礎を築 く 郵便汽船三菱と新規参入の共同運輸の激烈な競争中に死去 事業は実弟 弥之助が継承し発展させた 岩崎彌太郎傳 東京大学出版会 7 K か わさ き は ち え も ん 川崎八右衛門 初代 4 7 東京川崎財閥の創始者 常陸国の生 まれ 生家は水戸藩為替御用達を行い 自身も藩の銭座取締を務めた 明治 に入り東京に川崎組を興し 後に川崎銀行に改組 金融業で財をなし 銀 行 保険 鉱業などの事業を展開した 次の川崎正蔵とは無関係 か わさ き しょうぞう 川崎正 蔵 7 神戸川崎財閥の創始者 薩摩国鹿児島城下の生ま れ 明治新政府の海運事業を引き受けて成功した後 東京築地の官有地に造 船所を設立 さらに官営兵庫造船所の払下げを受け 神戸に川崎造船所を創 業 重工業の財閥にした 造船王川崎正蔵の生涯 三島康雄著 同文館 出版 K お おく ら き は ち ろ う 大倉喜八郎 7 大倉財閥の創始者 越後国の生まれ 幕末の江 戸で銃砲店を開業し 幕府 諸藩に武器を売り込んで成功 明治以降は新政 府の御用商人として 戊辰戦争 台湾出兵 西南戦争 日清戦争 日露戦争 で莫大な利益を挙げた 大倉組を設立し 兵器販売のほか 貿易 鉱山 土 木などの事業も展開 大正期には財閥を形成した 大倉商業学校 東京経済 大学の前身 や日本初の私立美術館 大倉集古館も創設した 鶴翁余 影 鶴友会 Y かな も りむ ら い ち ざ え も ん 森村市左衛門 森村財閥の創始者 江戸京橋の生まれ 武具 用達商の6代目 開港を機に横浜に進出 輸入品販売に携わり 戊辰戦争の 軍需品調達で資産をつくる 明治初年に一時破産 その後 異母弟 豊と森 村組を興し 対米陶磁器輸出で成功した 森村銀行 日本陶器 東洋陶器な どを創業 社会事業への寄付や私立幼稚園 小学校 現在の森村学園 の設 立でも知られる 森村市左衛門 大森一宏著 日本経済評論社 Y 以上 これらの人物のほとんどが明治政府やその要人との結び付きで事業 を拡大した 政商 であるのは 時代の特徴といえる また 別編 でも 渋沢より年長の実業家6人 茂木惣兵衛ら を紹介している

22 京 浜 工 業 地 帯 の 父 あさの 浅 野 そういちろう 総 一 郎 (4-) 浅 野 セメントほか 人 物 データファイル 出 生 嘉 永 元 年 月 日 (4) 越 中 国 氷 見 郡 藪 田 村 ( 現 富 山 県 氷 見 市 ) に 医 師 である 浅 野 泰 順 の 長 男 として 生 まれる( 幼 名 は 泰 治 郎 ) 浅 野 家 は 豪 農 で 医 者 を 兼 業 とする 家 柄 でもあり 村 人 の 尊 敬 を 受 けていた 生 い 立 ち 浅 野 は 父 泰 順 の 当 時 としては 高 齢 時 にできた 子 で 後 継 ぎとするには 幼 いと 思 われたため 医 業 は 長 女 が 婿 を 取 って 継 ぎ 5 歳 で 縁 続 きの 医 師 の 家 に 養 子 に 出 される 養 家 では 跡 継 ぎとして 養 父 母 の 厳 しい 教 育 方 針 期 待 の 下 で 学 問 を 強 いられたが 身 を 入 れられず 代 わりにたくましく 働 く 行 商 人 や 商 船 の 出 入 りに 目 を 奪 われる 江 戸 末 期 北 前 船 による 海 運 業 で 富 を 築 いた 豪 商 銭 屋 五 兵 衛 にあこがれた 歳 で 養 父 の 代 診 が 勤 まるほど 利 発 だったが その 養 父 に 褒 められることでかえって 医 業 を 容 易 なものと 蔑 んでしまう ついに 養 家 を 飛 び 出 す 騒 動 を 起 こし 浅 野 家 に 戻 る 実 業 家 以 前 浅 野 セメント 沿 革 史 より 実 家 に 戻 り しばらくは 穏 やかに 過 ごすものの 姉 夫 婦 が 相 次 いで 他 界 する 父 はすでに 亡 くなっていたことから 幼 い 弟 甥 のふたりと 母 のみ が 残 された 大 望 を 抱 いていた4 歳 の 浅 野 は ここで 奮 起 し 様 々な 商 売 に ちぢみおり 手 を 出 す 母 からの 資 金 で 女 工 を 雇 入 れ 縮 織 の 帷 子 を 売 り 歩 く 醤 油 の 醸 造 もはじめるが いずれも 資 金 が 続 かず 挫 折 する 6 歳 で 稲 扱 きを 農 家 に 販 売 したが 天 災 により 収 穫 が 上 がらず 元 手 の 回 収 ができなくなる 慶 応 年 (66) 資 産 家 だったことに 心 が 動 き 鎌 中 惣 衛 門 という 有 力 者 の 娘 婿 となり 惣 一 郎 と 改 名 する ここで 義 父 の 許 しを 得 て 農 家 が 副

23 業 で 作 ったむしろや 畳 表 などを 集 めて 共 同 販 売 する 産 物 会 社 を 興 す いっ たんは 配 当 を 出 すほど 成 功 するが 物 価 高 騰 や 天 災 により 破 たんし 借 金 を 抱 えたため 離 縁 される その 後 も 店 を 開 き むしろをはじめ 様 々な 商 品 を 売 りだすが 扱 う 品 が 増 えるほど 資 金 が 必 要 となり 借 金 が 日 増 しに 重 なる 利 益 の 大 半 が 利 息 にまわり 損 一 郎 と 謗 られる 明 治 4 年 (7) 歳 のときに ついに 高 利 貸 が 実 家 まで 押 しかけたため 故 郷 を 抜 け 出 し 東 京 に 出 た 数 々の 失 敗 を 重 ねながらも 野 心 溢 れる 浅 野 を 支 援 し 借 財 の 整 理 など にあたった 同 郷 の 有 力 者 山 崎 善 次 郎 については 氷 見 市 に 頌 徳 碑 が 建 立 さ れている 実 業 家 時 代 これまでは 維 新 期 の 混 乱 農 漁 村 を 中 心 とした 不 安 定 な 経 済 環 境 で 商 売 は 空 回 りするばかりだったが 上 京 後 は 次 々と 成 功 を 収 めていく 最 初 にたどりついた 本 郷 の 下 宿 屋 で 主 人 に 勧 められ 冷 たい 砂 糖 水 を 湯 呑 杯 銭 で 売 る 冷 やっこい 屋 を 始 める 季 節 が 変 わると 郷 里 の 知 り 合 いを 横 浜 に 尋 ねて そこで 食 物 などを 包 む 竹 皮 を 売 る 店 を 開 く さら に 竹 皮 の 仕 入 れ 先 だった 千 葉 の 姉 ケ 崎 で はるかに 需 要 のある 安 い 薪 炭 を 仕 入 れ 神 奈 川 県 庁 に 売 り 込 む 貿 易 の 伸 長 で 輸 送 船 が 増 えれば 石 炭 も 商 う 発 展 著 しい 開 化 期 開 港 場 横 浜 にあって 自 然 と 商 売 が 広 がっていく 故 郷 を 出 てからここまでほぼ 年 以 後 しばらくは 下 宿 屋 の 屋 号 と 主 人 の 戸 籍 で 行 方 不 明 となっていた 者 の 名 を 借 りて 大 塚 屋 大 熊 良 三 を 名 乗 って 商 売 をしている( 郷 里 の 債 権 者 を 憚 った ともいわれる) 竹 皮 を 商 っていた 頃 店 の 近 くのよろず 屋 の 娘 で 働 き 者 と 評 判 のサクと 結 婚 した 明 治 年 (75) 横 浜 に 瓦 斯 局 ができると その 製 造 過 程 でできるコー クス( 当 時 はまだ 廃 物 扱 いとなっていた)の 処 理 が 問 題 となった 浅 野 は 官 営 の 深 川 セメント 製 造 所 にいる 知 人 の 技 師 に コークスの 利 用 法 につい て 研 究 を 依 頼 する セメントを 焼 く 石 炭 の 代 用 物 として 有 効 なことを 確 か めると 瓦 斯 局 からコークスを 安 値 で 買 い 取 り セメント 製 造 所 に 売 却 し た その 評 判 が 伝 わって 抄 紙 会 社 (のちの 王 子 製 紙 )は 瓦 斯 局 からコー 浅 野 総 一 郎

24 クスを 大 量 に 仕 入 れる 機 械 の 運 転 に 導 入 したが 石 炭 の 火 力 に 及 ばず 大 量 に 持 て 余 してしまい そこを 見 計 らって 浅 野 は 石 炭 と 交 換 する この 取 引 をきっかけに 抄 紙 会 社 への 出 入 りが 始 まり 設 立 者 渋 沢 栄 一 の 知 遇 を 得 る 明 治 年 () 官 業 の 払 下 げ が 始 まると 浅 野 はそのセメント 製 造 所 に 着 目 する すでに 懇 意 となっていて 官 界 にも 影 響 力 のある 渋 沢 に 相 談 するが セメントは 事 業 として 確 立 するには 尚 早 といわれる しかし その 将 来 性 を 熱 心 に 訴 え 口 添 えを 依 頼 すると 渋 沢 は 遂 に 折 れて 工 部 省 に 働 きかけた 明 治 6 年 無 償 の 貸 下 げにより 工 場 を 任 せられると 非 効 率 な 官 による 経 営 を 改 め 明 治 7 年 (4)に 払 下 げが 認 められた 浅 野 が 見 通 したとおり 皇 居 の 造 営 築 港 鉄 道 などセメントの 需 要 は 年 々 高 まっていく 工 場 は 明 治 年 () 渋 沢 のほか 安 田 財 閥 を 率 いる 安 田 善 次 郎 の 財 政 的 な 支 援 などを 得 て 合 資 会 社 浅 野 セメントとなり 急 成 長 を 遂 げる( 現 太 平 洋 セメントの 発 祥 のひとつ) なお 払 下 げから 年 目 の 明 治 6 年 に 総 一 郎 と 改 名 した 官 業 の 払 下 げで 浅 野 は 石 炭 も 狙 っていた 西 南 戦 争 の 際 政 府 が 兵 員 輸 送 のため 民 間 の 汽 船 を 御 用 船 として 徴 用 した 結 果 九 州 からの 石 炭 輸 送 が 途 絶 価 格 が 高 騰 したことがあった 三 池 炭 鉱 の 払 下 げは 競 争 が 激 しく 三 井 の 計 略 に 負 けて 手 を 引 いたが 今 後 の 工 業 発 展 に 伴 う 需 要 増 や 輸 送 面 で 有 利 となる 東 京 近 郊 での 採 掘 を 見 込 み 明 治 6 年 () 磐 城 炭 鉱 会 社 を 設 立 した また 石 炭 を 輸 送 する 海 運 業 は 日 本 郵 船 による 独 占 の 弊 害 がその 価 格 に 大 きく 及 んでいたことから 自 ら 海 運 会 社 浅 野 回 漕 店 を 設 立 する しかし 日 清 戦 争 後 戦 勝 国 の 舞 台 は 海 外 にあるとして 回 漕 店 は 売 却 外 国 航 路 に 進 出 して 海 外 から 利 益 を 得 ようと 明 治 年 (6) 東 洋 汽 船 を 設 立 する 渋 沢 に 相 談 すると 当 初 計 画 したインド 航 路 は 渋 沢 が 重 役 となっている 日 本 郵 船 に 割 り 当 てるため 当 時 社 に 独 占 されていて 参 入 が 困 難 とされていたサンフランシスコ 航 路 を 推 薦 される 同 年 そのうちの 社 パシフィック メール 社 と 交 渉 するため 渡 米 す 4

25 る サンフランシスコでは 話 がうまく 進 まず 日 本 政 府 の 支 援 があるので 船 賃 を 安 くし 客 を 奪 うと 吹 聴 しながら ニューヨークに 赴 き 航 路 参 入 の 交 渉 をまとめる そこから 汽 船 購 入 のためヨーロッパに 向 かい イギリスで 日 本 丸 香 港 丸 亜 米 利 加 丸 の 船 を 発 注 し 帰 国 明 治 年 (7) 航 海 を 開 始 した その 後 日 露 戦 争 による 御 用 船 としての 徴 用 他 社 に 対 抗 し て 三 菱 造 船 所 に 発 注 した 巨 船 隻 天 洋 丸 地 洋 丸 春 洋 丸 の 莫 大 な 建 造 費 用 戦 後 の 不 況 などで 東 洋 汽 船 はたびたび 経 営 難 に 陥 った だが 晩 年 の 大 事 業 となっていく 東 京 湾 埋 立 の 構 想 は 東 洋 汽 船 設 立 の 準 備 で 渡 航 した 際 の 見 聞 に 因 っている ヨーロッパの 港 湾 施 設 を 訪 れると 巨 大 な 汽 船 が 岸 壁 に 横 づけして 貨 車 に 直 接 船 積 みをしている 横 浜 港 の 扱 う 輸 出 入 品 は 増 加 しているが 消 費 地 である 東 京 間 の 輸 送 ルートは 心 許 ない 東 京 府 市 による 東 京 湾 の 築 港 計 画 は 財 政 政 治 がらみで 長 年 着 工 されず 浅 瀬 の 羽 田 沖 で 輸 送 船 がたびたび 難 破 していた 明 治 4 年 () 浅 野 が 自 ら 築 港 計 画 を 立 てた 出 願 も 市 会 では 国 家 的 事 業 に 民 間 人 がかかわることは 好 ましくないとの 議 論 があり 認 可 されな かった 一 方 浅 野 は 東 京 湾 築 港 の 構 想 に 併 せて 明 治 4 年 ()に 工 業 用 地 として 鶴 見 川 崎 間 の 海 岸 沖 5 万 坪 の 埋 立 を 神 奈 川 県 庁 に 出 願 する 金 融 機 関 の 確 かな 人 の 連 署 がないと 許 可 できないとの 回 答 はあったが 安 田 が 実 地 調 査 のうえ 投 資 の 約 束 をし 明 治 45 年 () 匿 名 組 合 組 織 で ある 鶴 見 埋 立 組 合 ( 現 東 亜 建 設 工 業 )を 設 立 して 出 願 大 正 年 () 許 可 された この 埋 立 事 業 は 昭 和 年 ()に 完 成 をみる その 間 造 成 地 には 浅 野 セメント 川 崎 工 場 浅 野 造 船 所 浅 野 の 娘 婿 である 白 石 元 治 郎 が 経 営 す る 日 本 鋼 管 など 浅 野 系 企 業 のほか 旭 硝 子 石 川 島 造 船 所 芝 浦 製 作 所 富 士 電 機 などが 次 々と 進 出 した また 工 業 用 地 として 機 能 させるため 電 力 供 給 水 道 鉄 道 などの 事 業 もおこした 浅 野 は 晩 年 我 国 には 百 億 の 富 が 午 睡 している と 飽 くなき 事 業 欲 を 語 った その 先 見 性 は 後 に 京 浜 工 業 地 帯 となって 長 く 日 本 の 経 済 発 展 浅 野 総 一 郎 5

26 の 基 盤 となることで 実 現 した 政 治 との 関 わり 田 町 御 殿 とも 呼 ばれた 紫 雲 閣 は 年 あ ま り の 工 期 で 明 治 4 年 () 東 京 田 町 に 竣 工 した 純 和 風 の 大 邸 宅 外 国 からの 賓 客 を 国 に 代 わって 歓 待 し いわゆる 国 民 外 交 の 舞 台 とすることが 客 船 を 経 営 する 者 の 国 家 に 対 する 義 務 と 考 えていた 東 洋 汽 船 の 一 等 船 客 は 必 ず 招 待 したという 政 治 家 との 付 き 合 いは 広 いが 国 家 の 金 を 勝 手 に 使 うばかりと 浅 野 は いっていた 社 会 文 化 貢 献 USスチール(アメリカの 鉄 鋼 会 社 )を 設 立 したエルバート H ゲー リーは 労 働 遊 戯 勉 学 を 柱 に 学 校 内 に 工 場 を 置 くなど 勤 労 主 義 に 基 づく 教 育 システムを 確 立 した これに 共 鳴 し 大 正 年 () 浅 野 綜 合 中 学 校 ( 現 浅 野 学 園 浅 野 中 学 高 等 学 校 横 浜 市 神 奈 川 区 子 安 台 )を 設 立 した 晩 年 昭 和 5 年 () 欧 米 に 事 業 巡 遊 に 向 かい 寄 港 先 のベルリンで 発 病 し 帰 国 する 食 道 がんと 診 断 される 大 磯 の 別 荘 で 療 養 しながら 亡 くなる 直 前 まで 社 員 に 指 示 を 出 し 続 けた 同 年 月 日 死 去 享 年 歳 横 浜 市 鶴 見 の 総 持 寺 に 眠 る 紫 雲 閣 設 計 顧 問 に 築 地 本 願 寺 などの 作 品 がある 建 築 家 伊 東 忠 太 がかかわる 関 係 人 物 渋 沢 栄 一 抄 紙 会 社 で 石 炭 を 水 揚 げする 浅 野 の 働 きぶりに 渋 沢 が 感 心 し 面 会 につながった 学 問 はなくとも 腕 で 稼 ぐことが 肝 心 と 教 えられ その 言 葉 を 金 科 玉 条 とした 安 田 善 次 郎 浅 野 と 同 じ 富 山 の 出 身 で 安 田 財 閥 の 創 始 者 東 洋 汽 船 設 6

27 立 時 浅 野 セメントを 合 資 組 織 とする 際 に 財 政 的 な 支 援 を 行 った その 後 も 埋 立 事 業 への 投 資 など 浅 野 の 事 業 に 対 する 評 価 は 高 く 資 金 面 の 後 押 しで 大 きな 役 割 を 果 たした エピソード コークスで 利 益 を 上 げていた 頃 野 村 靖 県 令 ( 神 奈 川 県 知 事 )から 冗 談 まじりに 自 家 の 廃 物 ( 糞 尿 )の 処 理 を 持 ちかけられた 浅 野 はコークス 同 様 大 量 にあるから 廃 物 利 用 で 利 益 が 出 るのだと 返 答 して 県 からの 借 入 金 で 横 浜 市 内 に6ヵ 所 の 公 衆 便 所 を 設 置 した 汲 み 取 ったものは 肥 料 となる が 下 請 を 申 し 出 る 者 に 任 せて 年 々 利 益 を 上 げた 浅 野 は 自 ら 日 本 に 於 ける 共 同 便 所 の 開 祖 といっている キーワード 官 業 の 払 下 げ 西 南 戦 争 後 の 財 政 緊 縮 政 策 の 一 環 で 明 治 年 () 工 場 払 下 概 則 が 制 定 され 官 営 工 場 の 整 理 が 始 まる 当 初 の 厳 しい 条 件 は 明 治 7 年 (4)の 概 則 撤 廃 により 緩 和 され 事 業 経 営 に 意 欲 的 な 政 商 たちが 手 中 にし 後 の 財 閥 形 成 につながった 匿 名 組 合 江 戸 時 代 に 起 源 を 持 つとされ 明 治 年 ()の 商 法 に 規 定 された 会 社 制 度 匿 名 組 合 員 の 出 資 と 営 業 者 による 企 業 経 営 で 外 部 に 対 しては 営 業 者 だけが 現 れ 出 資 者 の 名 前 が 出 てこないため 許 認 可 が 必 要 な 事 業 でよく 使 われた 神 奈 川 との 関 わり JR 鶴 見 線 には 浅 野 駅 安 善 駅 ( 安 田 善 次 郎 ) 大 川 駅 ( 大 川 平 三 郎 ) 武 蔵 白 石 駅 ( 白 石 元 治 郎 ) 扇 町 駅 ( 浅 野 家 の 家 紋 )とあるように 浅 野 ゆかりの 駅 名 が 付 けられている( 埋 立 地 の 地 名 にも 使 われている) 文 献 案 内 著 作 父 の 抱 負 浅 野 総 一 郎 著 浅 野 文 庫 Yかな K 口 述 筆 記 雑 誌 のインタビューなどにより 浅 野 自 身 がこれまでの 歩 み 事 業 に 対 する 所 見 感 想 など 直 接 語 った 談 話 をまとめたもの 浅 野 総 一 郎 7

28 社 史 淺 野 セメント 沿 革 史 和 田 壽 次 郎 編 輯 淺 野 セメント 4 Y Yかな K 第 編 工 部 省 時 代 に 日 本 におけるセメント 工 業 の 歴 史 や 当 時 のセメント 製 造 法 などが 詳 しく 述 べられている 六 十 四 年 の 歩 み 中 野 秀 雄 著 東 洋 汽 船 64 K 東 洋 汽 船 の 社 史 昭 和 4 年 (5) 日 本 油 漕 船 に 合 併 し 社 名 が 失 われるこ とを 機 に 編 纂 したもの 東 京 湾 埋 立 物 語 東 亜 建 設 工 業 Y K 東 亜 建 設 工 業 ( 鶴 見 埋 立 組 合 の 後 身 )の 戦 前 史 を 中 心 とした 社 史 浅 野 の 伝 記 部 分 がコンパクトにまとめられている 伝 記 文 献 浅 野 総 一 郎 初 版 浅 野 泰 治 郎 浅 野 良 三 著 浅 野 文 庫 未 所 蔵 Yかなに 改 訂 版 あり 本 人 存 命 中 に 長 男 と 次 男 を 著 者 に 出 版 した 伝 記 浅 野 の 伝 記 の 基 本 となる もので 冒 頭 には 大 隈 重 信 をはじめ 各 界 の 名 士 による 浅 野 観 が 寄 稿 されている ひもかがみ 浅 野 泰 治 郎 著 浅 野 文 庫 Y Yかな 浅 野 糟 糠 の 妻 サクの 伝 記 長 男 を 著 者 に 浅 野 家 の 家 庭 内 の 様 子 なども 变 述 浅 野 総 一 郎 伝 北 林 惣 吉 著 千 倉 書 房 Y Yかな 秘 書 であった 著 者 が 前 述 浅 野 総 一 郎 を 読 み 物 的 に 書 き 直 したもの 参 考 文 献 日 本 の 工 業 化 と 官 業 払 下 げ 小 林 正 彬 著 東 洋 経 済 新 報 社 77 Y K 日 本 経 営 史 の 基 礎 知 識 経 営 史 学 会 編 有 斐 閣 4 Y < 森 谷 芳 浩 >

29 サムライ 化 学 者 たかみね 高 峰 じょうきち 譲 吉 (54-) 三 共 ほか 人 物 データファイル 出 生 お ん ま だしまち 嘉 永 7 年 月 日 (54) 越 中 国 高 岡 御 馬 出 町 ( 現 富 山 県 高 岡 市 御 馬 出 町 )の 母 方 の 祖 父 の 家 ( 酒 造 家 鶴 来 屋 )に 高 峰 精 一 の 長 男 として 生 まれる 父 精 一 は 金 沢 で 開 業 医 をしており 翌 年 母 と 共 に 金 沢 に 移 る 生 い 立 ち 祖 父 も 父 も 医 者 の 家 系 で 育 つ 父 精 一 は 京 都 や 江 戸 で7 年 間 蘭 方 医 学 を み せい 学 んだ 評 判 の 医 者 で 舎 密 (オランダ 語 chemieの 当 て 字 で 化 学 のこと) にも 詳 しい 実 用 的 発 明 家 でもあったため 加 賀 藩 の 御 典 医 としてだけでな そうゆうかん く 西 洋 式 の 兵 学 校 かつ 武 器 製 造 所 である 壮 猶 館 の 火 術 方 化 学 教 授 として も 登 用 された 譲 吉 は 厳 父 と 賢 母 から 実 学 的 なエリート 教 育 を 授 けられ た 文 久 年 (6) 加 賀 藩 藩 校 明 倫 堂 に 入 学 熱 心 に 学 び 慶 応 元 年 (65) 選 抜 されて 長 崎 に 留 学 英 語 を 学 ぶ さらに 京 都 の 安 達 兵 学 塾 大 阪 の 適 塾 で 学 び 明 治 年 (6) 郷 里 の 加 賀 に 戻 り 七 尾 語 学 所 で 英 語 を 学 ぶ その 後 大 阪 舎 密 局 に 付 設 される 大 阪 医 学 校 に 転 じ 大 阪 舎 密 学 校 でドイツ 人 のリッテル 博 士 から 化 学 を 学 び 化 学 への 志 を 抱 くようにな る 勉 学 を 怠 らず 語 学 にも 堪 能 な 青 年 であった 明 治 5 年 (7) 東 京 に 出 て 工 部 省 の 官 費 修 技 生 となった 譲 吉 は 翌 春 東 京 虎 ノ 門 に 開 設 される 工 部 省 工 学 寮 に 進 み 第 期 生 として6 年 間 学 ぶ 5 年 生 の 時 に 工 学 寮 は 改 組 し 工 部 大 学 校 と 改 称 明 治 年 (7) 応 用 化 学 科 を 首 席 で 卒 業 する 高 峰 譲 吉 博 士 顕 彰 会 所 蔵 高 岡 市 立 博 物 館 寄 託 高 峰 譲 吉

30 実 業 家 以 前 工 部 省 より 年 間 の 海 外 留 学 を 命 じられた 高 峰 は 明 治 年 () 月 に 横 浜 を 出 立 し 英 国 のグラスゴー ニューカッスルなどで 学 び 各 地 で 工 場 実 習 も 受 け 米 国 経 由 で 帰 国 明 治 6 年 () 農 商 務 省 御 用 掛 を 命 じられ 工 務 局 勧 工 課 に 勤 務 する 日 本 酒 の 醸 造 に 特 に 関 心 を 持 ち 防 腐 法 を 考 え 新 しい 装 置 を 考 案 した まもなく 米 国 ニューオーリンズ 市 で 開 かれる 国 際 博 覧 会 への 長 期 出 張 を 命 じられ 博 覧 会 場 に 展 示 してあった 燐 鉱 石 と 出 会 い 人 造 肥 料 に 着 目 産 地 チャールストンを 訪 ねている また 首 都 ワシントンで 米 国 をはじめ 先 進 諸 国 の 特 許 法 制 や 国 際 間 の 取 り 決 めを 調 査 している しかし 高 峰 にとってこの 出 張 最 大 の 出 来 事 は 後 に 妻 となるキャロライン ヒッチと 出 会 い 婚 約 したことであった 帰 国 後 高 峰 は 専 売 特 許 所 ( 高 橋 是 清 所 長 )の 兼 務 を 命 じられ 多 忙 な 中 人 造 肥 料 の 製 造 会 社 を 興 そうと 考 える 当 時 は 農 業 機 械 を 導 入 し 耕 作 面 積 を 拡 大 する 大 農 経 営 が 叫 ばれていたが 高 峰 は 人 造 肥 料 を 大 量 生 産 し 農 家 へ 普 及 させることこそ 重 要 と 考 えた 三 井 物 産 社 長 の 益 田 孝 や 第 一 国 立 銀 行 頭 取 の 渋 沢 栄 一 の 賛 同 を 得 た 高 峰 は 新 会 社 創 立 の 準 備 にとりかか る 明 治 年 (7) 月 に 設 立 準 備 会 が 開 かれ 月 に 高 峰 は 機 械 類 の 買 い 付 けにヨーロッパ アメリカに 出 張 する そして 月 にニューオーリ ンズでキャロラインと 結 婚 式 を 挙 げ 月 にキャロラインを 伴 って 帰 国 し た 同 年 月 に 東 京 人 造 肥 料 会 社 が 設 立 される 高 峰 は 翌 年 農 商 務 省 を 退 職 同 社 の 技 術 長 兼 製 造 部 長 に 就 いた 過 燐 酸 石 灰 ( 燐 肥 )を 製 造 販 売 し 農 家 を 説 得 しながら 販 路 拡 大 に 尽 力 するが その 傍 ら ウイスキーづ くりの 工 程 に 日 本 酒 の 醸 造 (アルコール 発 酵 ) 方 法 を 適 用 する 構 想 を 抱 き 麹 の 改 良 を 行 い 元 麹 改 良 法 の 特 許 を 取 得 する 実 業 家 時 代 米 国 のウイスキー 業 者 ウイスキー トラスト 社 から 招 聘 された 高 峰 は 益 田 渋 沢 を 説 得 し 東 京 人 造 肥 料 会 社 を 退 社 明 治 年 () 月

31 妻 と 人 の 息 子 とともに 渡 米 する 船 中 で 肝 臓 病 を 突 発 するが 死 を 免 れ シカゴに 到 着 同 行 した 杜 氏 の 藤 木 幸 助 とともに 実 験 を 開 始 する 明 治 4 年 () 秋 にシカゴの 南 西 約 キロの 町 ピオリアに 移 住 し 本 格 的 醸 造 実 験 を 開 始 アルコール 発 酵 にあたり 従 来 の 麦 芽 (モルト)か ら 米 麹 にきりかえ 発 酵 原 料 のデンプン 質 として 穀 粒 ではなく 麦 の 穀 皮 ( 麩 )を 用 い 良 質 な 発 酵 を 可 能 とした 実 験 規 模 が 拡 大 すると ピオリ アで 従 来 の 製 法 を 用 いるモルト 職 工 やモルト 業 界 の 経 営 者 が 反 発 妨 害 活 動 が 起 こった その 上 明 治 6 年 () 早 春 火 災 事 故 により 試 醸 場 が 全 焼 失 してしまう その 落 胆 からか 肝 臓 病 が 再 発 シカゴのヘンローティ ン 病 院 に 入 院 する 半 年 後 に 本 復 し 新 設 された 試 醸 場 で 再 びテスト 生 産 を 開 始 するが ウイスキー トラスト 社 役 員 の 反 発 で 会 社 が 解 散 に 追 い 込 まれ 苦 境 に 陥 る 明 治 7 年 (4) 醸 造 実 験 に 関 連 して 発 見 した タカジアスターゼ に 関 する 特 許 を 出 願 するが 生 活 には 困 窮 していた シカゴに 戻 り 市 井 の 技 術 コンサルタントとして グリセリン 回 収 法 などを 開 発 米 政 府 の 特 許 弁 理 士 の 資 格 も 取 得 し 糊 口 をしのいだ 明 治 年 (7)タカジアスターゼ 特 許 の 実 用 化 についてミシガン 州 デ トロイトのパーク デイビス 社 と 交 渉 コンサルタント エンジニアとし て 契 約 を 結 んだが 日 本 国 内 での 製 造 販 売 権 については 自 らの 側 に 留 保 した 生 活 の 安 定 が 得 られるようになりニューヨークへ 移 住 マンハッタ ンに 住 居 と 実 験 室 を 構 えた 翌 年 茶 の 輸 出 業 者 の 西 村 庄 太 郎 がシカゴの 日 本 領 事 邸 で 会 食 後 に タ カジアスターゼ を 飲 み 高 峰 の 発 見 であると 知 って 日 本 での 輸 入 販 売 を 企 画 ニューヨークの 高 峰 を 訪 ねて 友 人 の 塩 原 又 策 に 販 売 を 依 頼 するよう 推 薦 承 諾 を 得 る 帰 国 した 西 村 は 翌 年 塩 原 らと 三 共 商 店 を 設 立 日 本 で の 販 売 を 手 がける 明 治 年 ()に 上 中 啓 三 が 高 峰 の 助 手 となり 副 腎 からの 生 理 活 性 物 質 の 抽 出 精 製 に 関 する 実 験 に 参 画 アドレナリン の 精 製 結 晶 化 に 成 功 月 に アドレナリン の 特 許 を 出 願 する 上 中 の 貢 献 は 多 大 で 高 峰 譲 吉

32 あったが 高 峰 の 単 独 名 での 出 願 であった 世 界 的 名 声 を 得 た 高 峰 は 明 治 5 年 ()に 家 族 を 伴 って 日 本 に 帰 国 神 戸 港 で 出 迎 えた 塩 原 と 初 対 面 し 横 浜 まで 同 船 そこで 塩 原 にタカジア スターゼの 国 内 独 占 販 売 を 許 諾 パーク デイビス 社 薬 品 の 国 内 販 売 権 も 三 共 商 店 に 認 め これをきっかけに 二 人 はのちに 兄 弟 の 盃 を 交 わす 間 柄 と なった 学 問 的 にアドレナリンの 評 価 が 確 定 特 許 も 承 認 されると 高 峰 の 蓄 財 は 目 に 見 えて 増 え マンハッタンの 西 北 約 6キロの 避 暑 地 メリーウォル ド パークの 山 林 を 購 入 し 寝 殿 造 りで 御 所 風 の 別 邸 松 楓 殿 を 建 設 す る そして 明 治 7 年 (4)に 開 戦 した 日 露 戦 争 を 転 機 として 高 峰 の 主 たる 関 心 は 研 究 から 社 会 活 動 へと 移 っていく 明 治 45 年 ()にアドレナリン 発 見 の 業 績 により 帝 国 学 士 院 賞 を 受 賞 翌 年 日 本 に 帰 国 改 組 した 三 共 株 式 会 社 の 初 代 社 長 に 在 米 のままという 条 件 で 就 任 する 基 金 一 千 万 円 の 国 民 的 化 学 研 究 所 の 創 設 も 提 言 これ が 大 正 6 年 (7)の 理 化 学 研 究 所 創 設 のきっかけとなった 高 峰 は フェノール 樹 脂 (プラスチック) ベークライト の 製 造 を 知 友 の 開 発 者 ベークランド 博 士 の 承 諾 を 得 て 三 共 で 開 始 日 本 のプラス チック 製 造 の 草 分 けとなる この 事 業 は 現 在 の 住 友 ベークライト 社 に 引 き 継 がれている また 軽 金 属 アルミニウムの 台 頭 にも 目 を 付 け アメリカ 企 業 と 合 弁 会 社 を 作 り 黒 部 川 水 系 に 電 源 を 求 めてアルミニウム 精 錬 工 場 を 設 立 する 計 画 で 大 正 年 () 三 共 社 内 に 東 洋 アルミナム 株 式 会 社 を 設 立 代 表 取 締 役 に 就 任 した 第 一 次 世 界 大 戦 後 の 恐 慌 の 打 撃 で 日 米 合 弁 によるアル ミニウム 事 業 は 中 断 してしまったが 黒 部 の 電 源 開 発 計 画 は 日 本 電 力 関 西 電 力 へと 引 き 継 がれ 黒 部 ダム 建 設 の 大 事 業 へとつながった 政 治 との 関 わり 高 峰 は 政 治 家 としての 活 動 はしなかったが 日 露 戦 争 の 際 ロシアとの 仲 裁 役 をルーズベルト 米 大 統 領 に 依 頼 する 任 を 帯 びて 渡 米 した 貴 族 院 議 員 金 子 堅 太 郎 の 展 開 した 国 民 外 交 ( 日 本 の 評 価 を 上 げ 有 利 な 姿 勢

33 に 導 くための 米 国 各 界 のリーダーたちに 対 する 積 極 的 広 報 活 動 )に 賛 同 し 渡 米 以 来 培 った 人 脈 や 信 用 を 活 かして 大 いに 協 力 金 子 はのちに 高 峰 の 尽 力 を 無 冠 の 大 使 と 称 した 大 正 年 ()の 帰 国 時 には 行 政 改 革 の 一 環 で 内 務 省 衛 生 局 が 課 に 降 格 される 計 画 を 耳 にすると このとき 蔵 相 であった 旧 知 の 高 橋 是 清 らを 訪 ね 反 対 降 格 を 阻 止 した ワシントンで 大 正 年 ()に 開 かれた 海 軍 軍 縮 会 議 の 際 は 日 本 か らの 代 表 団 ( 加 藤 友 三 郎 全 権 )や 排 日 問 題 善 後 策 を 目 的 として 訪 米 した 渋 沢 栄 一 らを 体 の 不 調 をおして 歓 迎 米 国 側 要 人 に 引 き 合 わせる 役 割 を 果 た した 社 会 文 化 貢 献 日 露 戦 争 で 日 本 軍 が 旅 順 陥 落 に 次 いで 奉 天 会 戦 に 勝 利 した 直 後 在 留 邦 人 の 絆 を 深 めるとともにアメリカ 人 との 交 流 を 促 す 目 的 で 高 峰 は 明 治 年 (5) 日 本 倶 楽 部 ( 現 日 本 クラブ)を 組 織 初 代 会 長 となる 明 治 4 年 (7)には 日 米 間 の 文 化 交 流 と 親 善 を 目 的 とした 日 本 協 会 (ジャパン ソサエティー)が 創 設 される ニューヨークの 親 日 派 財 界 人 が 中 心 となったこの 協 会 で 高 峰 は 名 誉 副 会 長 に 就 任 する 明 治 4 年 ()にマンハッタンの 西 の 端 リバーサイドに 迎 賓 館 のよう な 本 邸 の 建 設 を 始 める 年 ヵ 月 を 要 して5 階 建 て 階 は 奈 良 朝 階 は 平 安 朝 階 以 上 は 洋 風 の 豪 邸 が 完 成 内 装 を 日 本 美 の 粋 で 飾 り 米 国 の 有 力 者 を 招 待 して 本 物 の 日 本 の 美 を 示 そうと 考 えた 日 本 を 紹 介 する 英 文 雑 誌 The Oriental Economic Review( 東 洋 経 済 評 論 ) も 発 刊 する 明 治 45 年 () 日 本 から 桜 の 苗 木 を 取 り 寄 せ ニューヨーク 市 に 寄 贈 苗 木 はハドソン 河 畔 に 植 樹 され サクラ パークとなった 同 時 期 に ワシントンのポトマック 河 畔 に 寄 贈 された 桜 も 東 京 市 からの 寄 贈 となっ ているが 高 峰 も 尽 力 している 両 所 とも 現 在 も 見 事 な 桜 を 咲 かせ 名 所 と なっている 晩 年 大 正 年 () 頃 から 心 臓 の 不 調 により 体 調 を 崩 し 大 正 年 高 峰 譲 吉

34 ()7 月 日 ニューヨークのレノックス ヒル 病 院 で 死 去 した 享 年 67 歳 ニューヨーク ウッドローン 霊 園 に 葬 られた 同 年 月 に 遺 髪 が 東 京 青 山 墓 地 に 埋 髪 された 関 係 人 物 渋 沢 栄 一 若 い 高 峰 の 才 能 を 評 価 し 第 一 国 立 銀 行 頭 取 として 東 京 人 造 肥 料 会 社 を 支 援 晩 年 も 高 峰 が 日 本 への 永 久 帰 国 を 相 談 するなど 二 人 の 交 遊 は 終 生 続 いた 益 田 孝 三 井 財 閥 発 展 の 立 役 者 として 知 られる 高 峰 とは 人 造 肥 料 が 縁 で 交 遊 を 深 め 高 峰 が 結 婚 前 にキャロラインとの 婚 約 について 相 談 するな ど 公 私 にわたって 付 き 合 いがあった 上 中 啓 三 高 峰 の 助 手 共 同 研 究 者 として アドレナリンの 精 製 結 晶 化 に 貢 献 した 大 正 5 年 (6) 日 本 に 帰 国 後 は 三 共 で タカジアスター ゼの 国 産 化 などに 当 たる 生 前 アドレナリンに 対 する 自 身 の 貢 献 を 表 に 出 そうとはしなかった エピソード アドレナリン については 米 ジョンス ホプキンス 大 学 薬 理 学 教 授 のエイベルなど 欧 米 の 研 究 者 も 抽 出 に 躍 起 になっていたが 学 界 では 無 名 の 日 本 人 高 峰 と 上 中 によって 発 見 された アドレナリンの 特 許 権 商 標 権 が 切 れ 高 峰 の 死 後 数 年 が 経 った 昭 和 年 (7) エイベルは 自 分 が 発 見 した エピネフリン の 製 法 を 高 峰 が 盗 んで アドレナリン を 発 見 したのであり アドレナリン の 根 源 は 自 分 の エピネフリン である とする 回 想 記 を 出 版 排 日 移 民 法 が 成 立 するなど 反 日 感 情 の 強 まっていた 当 時 の 米 国 で 盗 作 説 は 定 着 し エピネフリン が 米 国 はもとより 日 本 に おいても 名 称 として 使 用 されるようになってしまった 昭 和 4 年 (66) 科 学 史 研 究 誌 に 科 学 史 家 の 山 下 愛 子 によって 発 表 された 上 中 啓 三 の アドレナリン 実 験 ノート により エイベルの 盗 作 説 は 事 実 ではなく アドレナリンの 抽 出 に 先 に 成 功 したのは 高 峰 と 上 中 の 二 人 であることが 判 明 日 本 においては 第 十 五 改 正 日 本 薬 局 方 ( 平 成 年 月 日 厚 生 労 働 4

35 省 告 示 第 5 号 )において アドレナリン が 正 式 名 称 に 採 用 された キーワード タカジアスターゼ コウジカビから 抽 出 した アミラーゼ(デンプン 分 解 酵 素 )を 多 く 含 む 酵 素 の 混 合 物 タンパク 質 を 分 解 する 酵 素 も 含 み 消 化 不 良 や 食 欲 不 振 の 改 善 に 効 果 を 持 つので 強 力 な 消 化 剤 として 使 われて いる タカ はギリシア 語 の 最 高 を 意 味 し 高 峰 の 高 もか けられている アドレナリン 腎 臓 の 上 にある 副 腎 髄 質 でつくられるホルモンの 一 つ 心 臓 を 強 く 動 かしたり 血 管 を 収 縮 させたり 血 液 中 の 糖 分 量 を 増 やした りする その 性 質 を 利 用 して 強 心 剤 や 止 血 剤 として 使 う 副 腎 を 表 わすア ドレナル グランド(adrenal gland)から 命 名 された 神 奈 川 との 関 わり 大 正 年 ()に 高 峰 が 初 代 社 長 となって 発 足 する 三 共 株 式 会 社 の 前 身 である 三 共 商 店 は 明 治 年 ()に 塩 原 又 策 西 村 庄 太 郎 福 井 源 次 郎 の 名 によって 横 浜 市 弁 天 通 丁 目 番 地 ( 現 横 浜 市 中 区 弁 天 通 丁 目 番 地 )に 創 立 された 明 治 5 年 ()に 塩 原 にタカジアスターゼの 国 内 独 占 販 売 を 許 諾 パーク デイビス 社 薬 品 の 国 内 販 売 権 も 認 めた 高 峰 は 帰 米 の 際 日 本 に おける 連 絡 先 として 当 時 まだ 横 浜 市 弁 天 通 丁 目 番 地 ( 現 横 浜 市 中 区 弁 天 通 丁 目 番 地 )にあった 塩 原 の 住 居 を 指 定 した 高 峰 と 塩 原 は 後 年 箱 根 木 賀 の 山 荘 で 兄 弟 の 盃 を 交 わした 文 献 案 内 著 作 高 峰 は 生 前 米 国 においてタカジアスターゼやアドレナリンに 関 する 発 表 論 文 提 出 や 新 聞 への 論 文 寄 稿 等 を 行 い 日 本 を 紹 介 する 英 文 雑 誌 The Oriental Economic Review( 東 洋 経 済 評 論 ) を 発 刊 している 日 本 においては 次 のような 論 文 が 確 認 できる タカヂアスターゼに 就 て( 第 五 年 会 演 説 筆 記 ) 高 峰 譲 吉 述 工 業 化 学 高 峰 譲 吉 5

36 雑 誌 5(5) p45-4 K 基 金 一 千 万 円 の 国 民 的 化 学 研 究 所 計 画 高 峰 譲 吉 著 実 業 之 日 本 6() [ 頁 数 不 明 ] 未 所 蔵 社 史 大 日 本 人 造 肥 料 株 式 会 社 五 十 年 史 大 日 本 人 造 肥 料 6 K 第 編 沿 革 第 編 現 況 からなり 巻 末 に 図 表 あり 第 編 第 章 創 立 に 創 立 当 時 の 定 款 が 掲 載 されており 株 主 一 同 の 中 に 高 峰 の 名 前 もあ る 大 日 本 人 造 肥 料 株 式 会 社 創 業 三 十 年 記 念 誌 (7 K )も 刊 行 されて いる 八 十 年 史 日 産 化 学 工 業 6 K 東 京 人 造 肥 料 会 社 の 後 身 の 通 史 第 章 創 業 期 で 設 立 に 至 る 高 峰 の 行 動 や 創 業 期 の 苦 難 が 記 されている 三 共 六 十 年 史 三 共 6 Yかな K 創 業 からの 通 史 第 編 で 高 峰 の 略 歴 塩 原 との 出 会 いなどについて 紹 介 さ れている 三 共 百 年 史 三 共 K 本 編 と 資 料 編 の 冊 からなる 三 共 は 三 共 八 十 年 史 (7 K )と 三 共 九 十 年 史 ( K )も 刊 行 しているが 百 年 史 では 創 業 期 からの 足 跡 について 新 資 料 の 発 掘 による 見 直 しを 図 るなどしている 本 編 の 序 章 塩 原 又 策 と 高 峰 譲 吉 の 第 節 が 科 学 者 高 峰 譲 吉 で 6ページにわたって 高 峰 の 履 歴 を 取 り 上 げている 第 節 信 頼 の 絆 では 高 峰 と 塩 原 の 絆 について 詳 述 している 理 化 学 研 究 所 六 十 年 の 記 録 理 化 学 研 究 所 編 理 化 学 研 究 所 K 巻 頭 の 青 淵 先 生 ( 渋 沢 栄 一 の 雅 号 ) 財 団 法 人 理 化 学 研 究 所 設 立 の 動 機 に 高 峰 からの 提 案 を 受 けて 理 化 学 研 究 所 が 設 立 された 経 緯 が 述 べられている 理 化 学 研 究 所 6 年 のあゆみ ( 自 然 7 年 月 増 刊 号 特 集 K )も 刊 行 されている 理 研 精 神 八 十 八 年 理 化 学 研 究 所 史 編 集 委 員 会 編 理 化 学 研 究 所 K 6

37 本 編 と 資 料 編 の 冊 からなる 通 史 が 収 められた 本 編 の 第 章 理 化 学 研 究 所 の 誕 生 と 軌 跡 には 発 足 のきっかけが 高 峰 の 提 唱 であったことが 記 されて いる 住 友 ベークライト 社 史 住 友 ベークライト 6 K 通 史 と 資 料 年 表 からなる 前 史 第 章 石 炭 酸 樹 脂 の 誕 生 の.ベー クランドと 三 共 で 高 峰 と 塩 原 の 関 係 ベークランドと 三 共 の 関 連 について 記 している 伝 記 文 献 高 峰 博 士 塩 原 又 策 編 塩 原 又 策 6 Y K 高 峰 の 評 伝 として 最 初 のもの 前 半 が 塩 原 自 身 の 文 章 後 半 が 日 米 両 国 の 新 聞 雑 誌 に 掲 載 された 高 峰 の 追 悼 文 となっている 高 峰 譲 吉 ( 世 界 伝 記 全 集 6) 池 田 宣 政 著 大 日 本 雄 弁 会 講 談 社 54 Y 高 峰 譲 吉 の 生 涯 アドレナリン 発 見 の 真 実 飯 沼 和 正 菅 野 富 夫 著 朝 日 新 聞 社 Y K 徹 底 した 取 材 に 基 づき 事 実 関 係 に 忠 実 に 高 峰 の 生 涯 を 実 像 として 再 構 築 各 章 末 に 注 が 付 され 巻 末 に 詳 細 な 年 表 が 掲 載 されている 日 本 科 学 の 先 駆 者 高 峰 譲 吉 山 嶋 哲 盛 著 岩 波 書 店 K 映 画 さくら さくら~サムライ 化 学 者 高 峰 譲 吉 の 生 涯 ~ 公 式 ガイドブッ ク 北 國 新 聞 社 出 版 局 編 北 国 新 聞 社 K 高 峰 を 特 集 した 映 画 さくら さくら の 公 式 ガイドブック 高 峰 の 足 跡 を 辿 り 交 友 人 物 図 鑑 を 収 録 高 峰 の 事 績 が 簡 潔 にまとまっている サムライ 化 学 者 高 峰 博 士 北 国 新 聞 社 編 集 局 編 時 鐘 舎 K 参 考 文 献 NPO 法 人 高 峰 譲 吉 博 士 研 究 会 NPO 法 人 高 峰 譲 吉 博 士 研 究 会 参 照 --) < 菅 井 紀 子 > 高 峰 譲 吉 7

38 世界の真珠王 み き もと こうきち 御木本 幸吉 5 54 御木本真珠店 人物データファイル 株式会社ミキモト提供 出生 安政5年1月 5 日 5 志摩国鳥羽浦大里町 現 三重県鳥羽市 に き ちま つ あ わ 御木本音吉 もとの長男として生まれる 幼名は吉松 家業は代々 阿波 こう 幸の屋号でうどんの製造 販売を営んでいた 父音吉は うどん粉をひく 石臼を自ら改良するなど 商売よりも機械類の発明 改良に関心がある人 物であった これに対し 祖父吉蔵は うしろに目があるような人 と言 われたように 先が見え商才に長けていた 幸吉は 父からは発明家とし ての血を 祖父からは実業家としての血を受けついだといわれている 生い立ち 幸吉は 町人 商人 には学問はいらない という当時の世相と 病 弱な父のために家業を手伝わなければならなかったという事情から 正規 の学校教育はほとんど受けていない 9歳から 歳にかけて 読み書 きそろばん 読書などを習ったが いずれも寺子屋教育の域を出ないもの であった 実業家以前 幸吉は 早くから1杯8厘のうどん屋だけでは大きな利潤は得られない と考え 明治4年 7 家業のうどん屋を手伝いながら青物の行商も始 めた 明治9年 7 6 の地租改正で 納税方法が米納から金納に変わったの を機に 青物商から米穀商に転向し 明治 年 7 2月 歳で家督 を相続 御木本幸吉と改名した 同年3月から 見聞を広めるため東京 横浜 翌年に大阪 神戸へ視察旅行に出かけた この旅行経験を通じて

39 真 珠 をはじめ 志 摩 の 特 産 物 である 海 産 物 が 外 国 人 特 に 中 国 人 向 けの 有 力 な 貿 易 商 品 になりうることを 見 いだし 海 産 物 商 人 へと 再 び 転 身 するこ ととなった 年 少 ながら 商 才 に 長 けた 幸 吉 は 明 治 年 () 歳 で 鳥 羽 町 会 議 員 となり 商 人 として 発 展 するために 必 要 な 社 会 的 信 用 と 地 位 を 得 た その 結 果 商 人 として 有 益 な 役 職 をも 獲 得 することとなった 明 治 4 年 志 摩 国 物 産 品 評 会 委 員 同 7 年 に 三 重 県 勧 業 諮 問 委 員 翌 年 には 三 重 県 商 法 会 議 員 となり 鳥 羽 の 商 人 から 三 重 県 の 商 人 へと 成 長 していった このよ うな 活 躍 が 認 められ 明 治 4 年 元 鳥 羽 藩 士 久 米 盛 造 の 長 女 うめと 身 分 の 差 を 越 えた 結 婚 をした 幸 吉 は 海 産 物 商 として 志 摩 の 海 産 物 を 実 際 に 売 買 するうちに 天 然 真 珠 に 強 い 関 心 を 持 つようになった しかし 当 時 は 志 摩 地 域 の 天 然 真 珠 が 高 値 で 取 引 されていたことから 業 者 による 乱 獲 が 行 われ アコヤ 貝 ( 真 珠 貝 )の 絶 滅 が 危 惧 されるようになっていた 明 治 年 ()6 月 東 京 京 橋 で 開 催 された 第 回 全 国 水 産 品 評 会 に 改 良 イリコと 真 珠 を 出 品 やなぎな ら よ し 等 賞 を 受 賞 した そこで 大 日 本 水 産 会 幹 事 長 柳 楢 悦 に 会 い アコヤ 貝 の 乱 獲 防 止 策 について 相 談 したところ アコヤ 貝 の 養 殖 を 勧 められた あ 同 年 月 幸 吉 は 英 ご 虞 し ん め い う ら 湾 内 の 神 明 浦 でアコヤ 貝 養 殖 を 試 みる 明 治 年 ()4 月 柳 楢 悦 の 要 請 で 東 京 上 野 で 行 われた 第 回 内 国 勧 業 博 覧 会 に 真 珠 と 生 きた 真 珠 貝 を 出 品 した 博 覧 会 開 催 中 柳 楢 悦 み つ く り か き ち の 紹 介 で 水 産 動 物 の 第 一 人 者 である 東 京 帝 国 大 学 教 授 箕 作 佳 吉 との 面 会 が 実 現 した 博 覧 会 終 了 後 幸 吉 は 神 奈 川 県 にある 東 京 帝 大 の 三 崎 臨 海 実 験 所 に 箕 作 博 士 を 訪 ね 真 珠 養 殖 の 実 例 研 究 成 果 などについて 示 唆 お じ ま を 受 けた 同 年 月 神 明 浦 と 鳥 羽 湾 内 の 相 島 ( 現 ミキモト 真 珠 島 )の ヵ 所 で 養 殖 真 珠 の 実 験 を 開 始 した 明 治 5 年 () 神 明 浦 に 赤 潮 大 発 生 養 殖 実 験 貝 のほとんどが 死 滅 し たが 明 治 6 年 7 月 赤 潮 を 免 れた 相 島 のアコヤ 貝 の 中 から 5 個 の 半 円 真 珠 が 発 見 された 同 年 月 幸 吉 は 英 虞 湾 内 の 田 た と く 徳 島 (のち 多 徳 島 )に 真 珠 養 殖 場 を 創 設 本 格 的 な 事 業 を 開 始 し 明 治 年 (6) 半 円 真 珠 の 御 木 本 幸 吉

40 特許を取得した 実業家時代 核入れ作業が上達したこともあり 良質の真珠を大量に採収することに 成功した幸吉は 真珠養殖場を発展させていった 明治 年 5 多徳 島が大規模な赤潮に襲われ 養殖貝の5分の4にあたる 5 万個を失ったが 死んだ貝を開いていくと 大粒の真円真珠が5個現れた これをきっかけ に真円真珠の開発が本格的に進められ 桑原乙吉ら養殖技術の研究員に よって確実に真珠質を核に巻かせる方法が完成 明治4 年 特許を 取得した 俗に 明治式 式 と呼ばれる方法である 真珠の生産が軌道に乗り始めたところで 幸吉は販売の体制固めに着手 している 明治 年 東京 京橋区弥左衛門町 現 中央区銀座4 丁目2番地 に真珠専門店 御木本真珠店 を開設した 店ではすべて正 札が付けられ 決して値引きはしないことで 信用を高める商法が厳守さ れていた これは真珠の価値を値引きによって下げてはならない という 幸吉の信念のあらわれであった 当初は銀座の裏通りにある小さな店で あったが 明治 5 年 元数寄屋町の店舗 現 中央区銀座5丁目6 番地 に移転し 4年後の明治 年には 現在のミキモト本店のある銀座 4丁目の表通りに移転した また 元数寄屋町に店舗を移転するにあたって 真珠の加工にも乗り出 し かねてから取引のあった細工工場を下請工場として 半円真珠を使っ た装身具の製作を発注した 生産 意匠 加工 販売 の一貫体制を目 ざした幸吉は 明治4 年 7 この工場を買収し 御木本金細工工 場 のち 御木本貴金属工場 と改称 現 株式会社ミキモト装身具 と名付けた 創設時には京橋区築地にあった工場は 翌4 年には 銀座の 真珠店に近い麹町区内幸町 現 千代田区内幸町 に移された ぜ んか んし き 大正8年 いわゆる 全巻式 と呼ばれる技法の特許を取得し 養殖真円真珠の大量採収が可能となり 同年 初めてロンドン市場にも売 り出した これより先 生産は半円から本格的な真円真珠へと移行し 御 木本の真珠養殖場は 三重県内のみならず 他県へも規模が拡大されて 4

41 いった 大 正 5 年 (6)から 昭 和 年 (7) 幸 吉 は 約 ヵ 月 に 及 ぶ 欧 米 視 察 の 旅 に 出 た その 際 渋 沢 栄 一 の 紹 介 でトーマス エジソンとの 会 見 を 実 現 させて 自 らをアメリカのマスコミに 売 り 込 んだり ニューヨーク 支 店 の 開 設 を 決 定 する 仕 事 をこなしている その 後 パリ ボンベイ 等 の 支 店 も 開 設 し 海 外 にも 販 路 を 拡 大 していく 昭 和 7 年 () 養 殖 真 珠 の 品 質 価 格 の 維 持 生 産 の 調 整 新 規 業 者 の 抑 制 などを 目 的 とした 日 本 養 殖 真 珠 水 産 組 合 を 設 立 し 幸 吉 は 組 合 長 に 就 任 した 昭 和 初 期 の 真 珠 業 界 は 業 者 の 対 立 や 供 給 量 の 増 加 に 伴 い 粗 悪 真 珠 が 出 回 っていた 幸 吉 はこれを 嘆 き 業 界 のリーダーとして 6 貫 (5kg)の 粗 悪 真 珠 を 海 外 との 取 引 が 最 も 多 い 神 戸 商 工 会 議 所 前 で 焼 却 し 良 品 販 売 の 模 範 を 示 した このことは 真 珠 の 火 葬 事 件 として 内 外 に 大 きな 反 響 を 呼 んだ 昭 和 年 代 以 降 は 戦 争 への 危 機 とともに 真 珠 業 界 にとっても 苦 難 の 時 期 であった 昭 和 年 (7)には 日 中 戦 争 に 突 入 年 ヨーロッパ においては 第 二 次 世 界 大 戦 が 勃 発 した 国 内 では 戦 時 体 制 を 組 むための 方 策 のつとして 昭 和 5 年 (4)7 月 7 日 奢 侈 品 等 製 造 販 売 制 限 規 則 ( 七 七 禁 令 ) が 発 令 された これにより 真 珠 は 贅 沢 品 と 見 なされ 商 売 として 成 り 立 たなくなった 幸 吉 は 昭 和 4 年 から7 年 の 間 に 次 々と 養 殖 場 を 閉 鎖 し 養 殖 事 業 の 機 能 は 英 虞 湾 を 残 すのみとなった また 内 外 の 時 局 の 悪 化 に 伴 い 海 外 支 店 も 閉 鎖 を 余 儀 なくされた 戦 時 下 の 深 刻 な 経 営 危 機 を 乗 り 切 るため 古 くから 薬 用 として 利 用 され ているケシ 玉 ( 小 粒 の 真 珠 )を 原 料 とした 新 たなカルシウム 剤 の 製 法 で 特 許 を 取 得 し 昭 和 年 (4)カルシウム 剤 を 生 産 する 企 業 として 伊 勢 薬 業 株 式 会 社 を 買 収 した 伊 勢 薬 業 は 終 戦 時 の 昭 和 年 (45) 御 木 本 製 薬 株 式 会 社 と 改 称 して 新 たなスタートを 切 った 戦 時 中 の 昭 和 年 (44)に 鳥 羽 の 本 宅 と 工 場 を 海 軍 に 接 収 されてから 幸 吉 は 多 徳 養 殖 場 ( 新 多 徳 )に 移 住 していたが 終 戦 直 後 から マッカー サー 元 帥 夫 人 や 駐 日 米 軍 司 令 官 ウォーカー 中 将 夫 妻 等 米 軍 関 係 者 を 中 心 御 木 本 幸 吉 4

42 とした海外要人が 世界の真珠王 御木本幸吉に一目会おうと 次々と養 殖場を訪れた また 昭和 6 年 5 昭和天皇の多徳養殖場見学があり 幸吉を感激させている 昭和 年 5 4 には香淳皇后が多徳養殖場を見 学 他にも多くの皇室 皇族の訪問が相次ぎ 皇室 皇族と御木本とのつ ながりの強さを内外に示した さらに 吉川英治 徳川夢声などの著名人 も幸吉のもとを訪れ 彼と歓談している 政治との関わり 大正 年 4 多額納税者として三重県の貴族院議員に勅選されたが 自らの事業を優先して翌年には辞任している 社会 文化貢献 御木本幸吉は 宮川 伊勢 以南の金次郎 を自称するほど 二宮尊徳 の報徳精神を崇拝しており それが郷土の発展のために多くの業績を残す ことにつながったといわれている 旧国鉄参宮線の鳥羽乗り入れと鳥羽か ら賢島に至る旧志摩電鉄 現 近畿日本鉄道 の開通に尽力したほか 道 路の改修 整備なども推し進めた また 伊勢志摩の景観保護のため国立 公園設置を目ざす陳情もしている このほか神社仏閣や学校などの公共施 設に対し 惜しみなく寄付を行った 晩年 終戦直後の混乱から立ち直り 真珠ブームが一つの頂点に達した昭和 年 5 4 9月 日 持病の胆石の発作に老衰も加わり 新多徳の自宅で さ いし ょう じ 息をひきとった 享年 6 歳 墓所は鳥羽市の済生寺 戒名は真寿院殿玉誉 幸道無二大居士 関係人物 に しか わと うき ち 真円真珠の養殖技術の開発において 西川藤吉 桑原乙吉の功績は大き い 彼らの協力を得て 御木本幸吉名義の真珠に関する特許が多数取得さ れている 西川藤吉 東京帝国大学動物学科を経て 農商務省水産局技師となり い い じ ま いさお 在学中より箕作佳吉 飯島 魁 両博士の指導の下で真円真珠の養殖の研究 4

43 を行った 幸吉の次女みねと結婚し 御木本の真円真珠養殖の研究に貢献 したが 明治 4 年 御木本養殖場の研究所を去っている これは 科学者であった西川と事業家としての御木本との意見の対立が原因である といわれている 桑原乙吉 鳥羽で歯科医院を開業していたが 歯科医の知識と技術が 貝に核を挿入する真珠養殖に応用できるとして 明治 5 年 御木本 養殖場に迎えられ 真円真珠の開発研究に従事した エピソード 明治 年 6 真珠養殖において幸吉を支えてきた妻うめが5人の子 女を残して 歳の若さで急死した 幸吉は うめに先立たれてからは その労苦に報いるため終生独身を通した 外出時と帰宅時には必ず仏壇を 拝み 位牌を撫でてその加護を謝した そのため位牌の漆が剥落したほど であった キーワード 皇室御用達 皇族と幸吉との関わりは 明治 年 7 に英照皇太后 真珠買い上げの際 宮内省より鑑定を命じられたことに始まる 明治 4 年 には小松宮彰仁親王より 養真珠 の親筆を授かり 皇室とのつ ながりが深まった 幸吉は 厳格な品質管理 加工技術の向上 デザイン の開発に力を注ぐ一方で たびたび皇室に真珠を献上し 大正 年 4 宮内省御用達の登録掲示の許可を受ける 皇室という大きな権威 を持つ顧客からの信用を得ることで ブランドを確立していったのである 活字と輪転機 実業家としての御木本幸吉の特質は その巧みな宣伝力 にあった 特に 新聞記事による宣伝効果や利用価値の高さを認識してお り 徳川夢声との対談集 問答有用 の中で 世界の人気をあおるのは輪 転機の力でなきゃいかん 三面記事でやらないかんと思うた 新聞 広告に一文も払わんことにしとるんだ と語っている また 国内外の各 種博覧会に意欲的に出品し 趣向をこらした展示物によって真珠のPRに 努めた アイキャッチャーとしての効果を狙って 真珠をふんだんにちり ばめた豪華な作品を出展し ミキモトパールの売り込みを図った 御木本幸吉 4

44 神奈川との関わり 二宮尊徳に深く傾倒していた幸吉は 尊徳の生誕地 現 小田原市栢 山 が荒れていることを聞き 明治4 年 御木本真珠発明 年 史 では明治4 年 尊徳誕生地を購入 整備した後 中央報徳会に寄付し た また 東海道本線利用 現 JR御殿場線 の来訪者のために 松田 駅長と交渉して 松田駅に 二宮尊徳翁誕生地栢山道 約一里半 という 石の道標を建てた 文献案内 著作 御木本幸吉の著作は刊行されていない 御木本幸吉の考えや言動は 生 前の対談や親族が口述や回想をもとにまとめたものによって窺い知ること ができる 社史 御木本真珠島のあゆみ 御木本真珠島編 御木本真珠島 7 5 K 御木本真珠島 4 年の歩み 御木本真珠島 K 輝きの世紀 御木本真珠発明 周年史合同編纂委員会編 御木本真珠 発明 周年史合同編纂委員会 K 御木本真珠発明 周年を記念して 御木本真珠発明 年史 のビジュア ル版として刊行された ミキモト 真珠王とその宝石店 年 K i l al i b r a r y K i l a編集部 編 エディコム Y K 真珠発明 年を記念して企画 刊行された書 真珠発明 年は日本のジ ュエリー 年 御木本幸吉は ジュエラー であるという視点に立って 養殖 と真珠だけでなく ジュエリーと宝石店としてのミキモトの歴史をたどってい る ミキモトでデザインされてきた宝飾品のカラー写真が 数多く掲載されて いるのが特徴である 御木本真珠発明 年史 ミキモト編 ミキモト 4 Y K ミキモトグループ中核4社 ミキモト ミキモト装身具 御木本製薬 御木 4 4

45 本真珠島 が御木本真珠発明 周年を記念して グループ全体の歩みを客観的 な視点からまとめたもので 各社の沿革と資料 年表を掲載 ミキモト装身具 年史 ミキモト装身具編 ミキモト装身具 K 伝記文献 御木本幸吉 乙竹岩造著 培風館 4 未所蔵 伝記御木本幸吉 乙竹岩造著 講談社 5 Y K 御木本幸吉の四女あいの夫で教育学者である乙竹岩造が 幸吉の述懐と身辺 所蔵の記録文書や当時の新聞記事等によって編集した伝記 御木本幸吉の主要 な伝記の一つである 御木本幸吉 智運命 御木本幸吉[ 談] 私の哲学 思想の科学研究会 編 中央公論社 5 p Y 御木本幸吉 徳川無声[ 対談] 問答有用 無声対談集3 徳川無声著 朝日新聞社 5 p Y 御木本幸吉 一業一人伝 御木本隆三著 時事通信社 6 Y K 御木本幸吉没後 長男隆三によって著された伝記 第一編は生い立ちから昭 和9年 4 頃までの伝記的記述 第二編では親族ならではの幸吉のエピ ソードが紹介されている 御木本幸吉 少年伝記文庫 7 乙竹宏著 国土社 6 Y 御木本幸吉の孫である著者 母は幸吉の四女あい が子供向けに書いた伝記 幸吉八方ころがし 永井龍男著 筑摩書房 6 Y Yかな 御木本幸吉の生涯を 調査 取材にもとづいて描いた伝記小説 御木本幸吉 人物叢書 5 大林日出雄著 吉川弘文館 7 Y K 御木本の親族 関係者の資料だけでなく その他の側面からの資料も使って 客観的な立場で御木本幸吉の生涯をたどった評伝 幸吉を発明家としてではな く 真珠の養殖法をはじめて事業化した人物として位置付けている 御木本幸吉の思い出 御木本美隆著 御木本真珠島資料編纂室 7 K 御木本幸吉の孫 刊行当時ミキモト会長 父は幸吉の長男隆三 がミキモト の社員に向けて 祖父幸吉の思い出を 事業と家庭を中心に書き 冊子にまと めたもの 御木本幸吉 4 5

46 父 御木本幸吉を語る 乙竹あい著 御木本グループ K 父御木本幸吉の記憶を 四女あいが 4歳の時に口述し まとめたもの 信念を貫いた企業家活動 御木本幸吉と相馬愛蔵 生島淳著 ケース ブック日本の企業家活動 法政大学産業情報センター編 有斐閣 p 4 K 世界に飛躍したブランド戦略 シリーズ情熱の日本経営史2 藤井信 幸著 芙蓉書房出版 Y かな K 参考文献 真珠の発明者は誰か 西川藤吉と東大プロジェクト 久留太郎著 勁草書房 7 Y K 著者は西川藤吉の孫 御木本幸吉の曾孫にあたる 複雑な経過をもつ真珠の 発明の歴史を 多くの資料をもとにたどり 真珠の発明者は誰かであるのかを 検証している 尊徳誕生地を訪れた御木本幸吉 関田昇著 史談足柄 p 4 5 Yかな M I K I M O T OO f f i c i a ls i t e ミキモト公式サイト h t t p : / / w w w. m i k i m o t o. c o m / 参照 5 柿澤淳子 4 6

47 独立不羈の鉄道王 ね づ かいちろう 根津 嘉一郎 6 4 東武鉄道ほか 人物データファイル 根津美術館所蔵 出生 万延元年6月 5 日 6 甲斐国山梨郡正徳寺村 現 山梨市正徳寺 に 根津嘉市郎の次男として生まれる 幼名は栄次郎 のち隆三 兄に代 わって家督を継ぐときに嘉一郎と改名 生家は農業のほかに種油製造 雑 穀商 質屋を兼ねる名家で 屋号を 油屋 といった 生い立ち 幼少時から腕白で負けず嫌いのがき大将で 村の寺子屋で学んだ 父の 嘉市郎は弟とともに起こした訴訟により財産を費し窮迫したが 他人から の援助を辞退し 自らの勤勉努力によって家を建て直した 曰く 人間と いうものは他人の恩になれば一生頭が上がらないものだ 根津は後年 私は人の世話をするとも 努めて人の世話になるな という事を一つの 信条にしている と語っている 明治 年 7 7 東山梨郡役所の書記になる しかし 月給2円のため にこつこつと働くことは根津の性格に合わなかった 実業家以前 明治 年 軍人を志し上京するが 年齢制限のため陸軍士官学校 ま す ぎう んが い ふ るや しゅう さい に入学できず 漢学者馬杉雲外と古屋周齊の書生になる 3年後帰郷し 病弱の兄に代わって家督を継いだ根津は 明治 7 年 4 大蔵省官吏の 村上知彰の六女 久良と結婚 家業の傍ら地方政治にも関わっていく 地方政界で活躍していた頃 根津は甲州財閥 の大御所 若尾逸平や雨 宮敬次郎と親交を深める やがて若尾の影響を受けて株式投資に没頭する ようになり 明治 年 7 家督を兄に譲渡して東京へ移住する 根津嘉一郎 4 7

48 実業家時代 根津が実業家の道を歩む契機になったのは 甲州財閥の雄 雨宮敬次郎 から 相場で一時の利を追うよりも事業を経営し 事業を盛り立ててその 利益を享受することにせよ という助言を受けたことである 明治 年 徴兵保険株式会社取締役 翌 年には房総鉄道取締役 東京電燈監査役 帝国石油社長に就任し 以降 数多くの会社役員を兼務 することになる 根津が経営に関わった企業は鉄道だけでも 社以上にの ぼり 鉄道王 と呼ばれた 根津は倒産寸前の会社の株を買い集めたので ボロ買一郎 と陰口を叩 かれた 経営難に陥っている企業の株主となって経営に参画し その会社 を起死回生させるのが根津の得意とする手法であった その代表例が東武 鉄道である 東武鉄道は明治 年 の開業以来 東武鉄道空引会社 と揶揄さ れるほど業績不振に苦しんでいたが 同社の株主だった根津が経営陣の要 請を受け 明治 年 5 社長に就任する 根津はのちに 私が最も渾身の力を尽くしたのは 東武鉄道の整理に関 してである と述懐している 内に消極 外に積極 の経営理念のもと 冗費削減を徹底し 高利の借入金償却等の社内改革 整理を図る一方で 明治4 年 7 には周囲の反対を押し切り工事費4 万円を投じて利根川 架橋建設を断行し 積極的な路線延長を行うことによって東武鉄道の再建 に成功した また根津は日光 鬼怒川温泉の開発や工場の誘致など 鉄道 沿線に関連事業を興し 沿線地域の産業振興にも尽力した さらに東武鉄 道は佐野鉄道や太田軽便鉄道など周辺の中小民鉄を吸収合併し路線を延ば していく 鉄道は延長しなければ収益は挙がらぬ というのが根津の持 論であった 根津は持ち前の不撓不屈の敢闘精神いわゆる 負けじ魂 をもって事業 に取り組んだ 鉄道以外に日本麦酒鉱泉 現 アサヒビール や富国徴兵 保険 現 富国生命 をはじめ 電力 石油 製粉 紡績など多岐にわた る事業を手掛け 大正9年 設立された根津合名会社 根津コン 4

49 ツェルン の土台となっている 明治 年 6 馬越恭平は日本のビール業界を統一すべく 丸三麦酒 の買収を目論んでいたが このことを知った福沢桃介に誘われて 根津は 馬越に先制して丸三麦酒の株を買い占めてしまう 福沢が自分の株を根津 に売り渡して手を引いたため 根津は不本意ながらも丸三麦酒の経営に関 わることになる これを機に根津と馬越の間には感情的確執が生じ 根津の丸三麦酒改め か ぶ と 加富登麦酒は 業界最大手の馬越の大日本麦酒を相手に熾烈な販売競争を 繰り広げる 加富登麦酒は大正 年 三ツ矢サイダーを製造する帝 国鉱泉及び日本製壜と合併して日本麦酒鉱泉と改称する 同社は合併によ り販売網が拡大し 2つの新工場の建設や 王冠1個を3銭で買い取ると いうキャッシュバック方式を採用して善戦した 昭和8年 馬越の 死去により 根津が大日本麦酒との合併を承諾し 約 年に及ぶビール競 争に終止符が打たれた 富国徴兵保険は 兵役に就いた加入者に保険金を給付することを目的に 大正 年 設立された相互会社である 根津は 徴兵保険は国家的 事業であり 株主優先の株式会社にそぐわないと考えていたため 相互扶 助を目的とし 保険契約者が会社の構成員となる相互会社としたのである 6月に設立の認可が下り 基金の払い込みを9月1日としたが まさにそ の日関東大震災が発生 社会経済は混乱し 創業自体が危ぶまれたが 根 津の決心は微動だにしなかった 基金の未払い分は自分で立替え 9月8 日には設立総会を開いた その後の度重なる恐慌による不況にもかかわら ず 富国徴兵保険の契約高は年々逓増し 根津が亡くなる直前の創業 5 周 年にあたる昭和 4 年 末には契約数 5 万件 契約高は 億円に達 するのである 政治との関わり 明治 年 平等村会議員 明治 4 年 東山梨郡会議員のち 山梨県会議員に当選 明治 6 年 には平等 上万力組合村の村長を 務めた 明治 7 年 4 衆議院議員に初当選し 以後4回当選している 根津嘉一郎 4

50 大正 5 年 6 貴族院議員に勅選された 社会 文化貢献 明治4 年 渋沢栄一を団長とする渡米実業団の一員として4ヵ月 にわたるアメリカへの視察旅行に参加 石油王ジョン ロックフェラーと も対面し 私益を顧みず電車 電話 水道等の公共事業への投資を惜しま ない米国の資産家の愛郷心に大いに感銘を受ける 根津は 自分は子孫の為に美田は買わない 国家社会の為自分でなけれ ば出来ないことに寄与する と語った 生前根津が尽力したのが教育事業 であり 根津の遺志を継いで設立されたのが根津美術館である 国家の繁栄は育英の道に淵源するところが多い と信じ 現在社会の 為に尽す事としては 教育事業に奉仕するよりほかに道がない という考 えから 根津は大正 年 6 万円を寄付して財団法人根津育英会 を設立し 翌 年には現在の東京 江古田に日本初の7年制高等学校であ る武蔵高等学校 現 武蔵大学 を開校した 根津は若くして熱心な書画骨董の蒐集家であった 国宝に類する貴重品 が外国人に安く買われていることを危惧した根津は 東洋美術の欧米への 流出を防ぐために 個人の趣味という枠をこえて 幅広く古美術品を蒐集 していく そのコレクションは根津の死後 昭和 6 年 4 より東京 青山の邸宅を根津美術館として 一般に公開されている 収蔵品は書蹟 な ち の た き ず か き つ ば た ず 絵画 彫刻 陶磁器 金工品 漆工品等で 那智瀧図 燕子花図 な どの国宝7点を含む約7千点 約6千坪の広大な日本式庭園は 都心のオ アシスとなっている 晩年 昭和 4 年 月 国際親善使節として南米に旅行した根津は 風 邪をこじらせ 熱海の別荘で静養していた 帰京後 月 日から青山の自 宅で年末恒例の茶会を開催したが 5日目の 5 日に病床に臥し 翌 5 年1 月4日永眠した 享年7 歳 東京 多磨霊園に葬られた 5

51 関係人物 若尾逸平 根津は山梨県会議員時代から同郷の先輩で後に甲州財閥の巨 頭と呼ばれた若尾逸平と交流があった 若尾の 金儲けは発明か株に限る 発明は学問がなければ容易なことではない 株は運と気合だ 若し株を買 うなら将来性のあるものでなければ望がない それは 乗りもの と あ かり だ この先 世がどう変化しようとも 乗りもの と あかり だ けは必ず盛んにこそなれ 衰える心配はない という言葉に啓発された根 津は 実際に鉄道株や電力株に投資して資産を増やし 株主兼役員として 事業経営に携わっていく エピソード 根津は社会に無神論に基づく唯物主義が蔓延し 人々が私利私欲に走っ ていることを憂えていた そこで 宗派を超えた仏教による思想善導が必 要と考え 昭和 年 5 現在の埼玉県朝霞市に8万坪の土地を得て 大寺院の建立に取りかかった しかし戦時供出のため大釣鐘と大仏像を失 い 根津の死去により建立計画は頓挫してしまった また 根津は狩猟が好きで立派な鉄砲と猟犬を自慢していたが 腕はあ まり良くなかった 猪狩りに行けば 猪が人間の声に敏感であるのに 大 声を出して獲物を逃がし 鴨猟に行けば 1羽見つけると狙いを定めず発 砲するので獲物を皆逃してしまったという キーワード 甲州財閥 明治 年代から昭和初期にかけて財界で活躍した山梨県出身 の実業家グループ 主要人物は若尾逸平 雨宮敬次郎 小野金六 根津嘉 一郎など 彼らの多くは横浜開港に伴い甲州商人として生糸等の輸出入を 手掛け または株式投資によって資産を形成した 鉄道事業と電力事業は 甲州財閥の二大支柱であり 明治 年代後半から明治 年代にかけて甲州 財閥系の人々がこぞって東京馬車鉄道をはじめとする東京の市内鉄道会社 と東京電燈 現 東京電力 の株を取得し 役員に名を連ねていた 神奈川との関わり 明治4 年 東神奈川 八王子間で開通した横浜鉄道及び明治 7 年 根津嘉一郎 5

52 4 神奈川 大江橋間で開通した横浜電気鉄道の取締役にそれぞれ明 治4 5 年 大正4年 5 に就任している また 根津は大磯に別荘を所有していた 地元の小学校に金 円を寄 付している 根津の生家跡に建てられた根津記念館の庭園には 根津の大 磯の別荘から移植された 大磯の松 が保存されている 文献案内 著作 世渡り体験談 根津嘉一郎著 実業之日本社 未所蔵 晩年に刊行された根津の回想録 社史 東武鉄道65年史 東武鉄道編 東武鉄道 6 4 Y K 全3部から成る 第1部は日本の私設鉄道の発展 第2部は東武鉄道の歩み 第3部は合併及び系列会社の概要 第2部第7編第2章 歴代の役員 に根津 の略年表あり 写真で見る東武鉄道80年史 東武鉄道編 東武鉄道 7 7 Y K 東武鉄道百年史 東武鉄道社史編纂室編 東武鉄道 K Railway 100 東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡 東武鉄道編 東武鉄道 Y K 富国生命五十五年史 富国生命保険編 富国生命保険 K 南海電気鉄道百年史 南海電気鉄道株式会社編 南海電気鉄道 5 K Asahi 100 アサヒビール株式会社社史資料室編 アサヒビー ル Y K 伝記文献 根津嘉一郎 宇野木忠著 東海出版社 4 K 根津翁傳 根津翁伝記編纂会編 根津翁伝記編纂会 6 Y K 根津夫人をはじめ根津と関係のあった人々の談話を交え 多面的に根津の一 生を描いている 5

53 参考文献 根津嘉一郎編 財界人の教育観 学問観 財界人思想全集7 鳥羽 欽一郎編集 解説 ダイヤモンド社 7 p Y K 東都の鉄道王 根津嘉一郎と五島慶太 茶道文化史 原田伴彦著作集 3 原田伴彦著 思文閣出版 p 4 Y 近代数寄者太平記 のうちの一編 根津嘉一郎と東武鉄道会社の経営再建 産業革命期の地域交通と輸 送 老川慶喜著 日本経済評論社 p 4 6 Y 武蔵七十年史 写真でつづる学園のあゆみ 武蔵学園7 年史委員会編 根津育英会 Y 武蔵七十年のあゆみ 武蔵七十年のあゆみ編集委員会編 根津育英会 4 Y 資料 根津嘉一郎の育英事業 武蔵学園記念室編 武蔵学園記念室 5 Y 根津嘉一郎 人物文献目録 鈴木勝司編 所収 地方財閥の近代 甲州財閥の興亡 齋藤康彦著 岩田書院 Y 根津美術館百華撰 根津美術館学芸部編 根津美術館 Y 田中晃子 根津嘉一郎 5

54 出 版 王 国 を 築 いたパイオニア おおはし 大 橋 しんたろう 新 太 郎 (6-44) 博 文 館 ほか 人 物 データファイル 出 生 54 文 久 年 (6) 越 後 長 岡 城 下 の 上 田 町 裏 一 ノ 町 ( 現 長 岡 市 本 町 丁 目 )に 生 まれる 父 は 長 岡 の 商 人 大 橋 佐 平 新 太 郎 には 人 の 兄 がい たがいずれも 夭 折 したため 嗣 子 として 育 つ 生 い 立 ち 幼 少 期 を 長 岡 で 過 ごす 豪 放 で 怜 悧 機 敏 な 父 に 似 ず 柔 順 寡 黙 沈 着 重 厚 な 子 どもであったという 明 治 年 (6) 桃 田 斉 ( 平 潟 神 社 神 官 ) の 寺 子 屋 に 入 り 続 いて 父 佐 平 がその 設 立 に 関 わった 町 民 子 弟 のための 学 校 および 長 岡 洋 学 校 に 入 学 そして 新 潟 師 範 学 校 講 習 所 まで 進 み 同 年 (76) 上 京 当 時 慶 應 義 塾 とならぶ 秀 才 の 淵 叢 と 謳 われた 同 人 社 ( 中 村 正 直 主 宰 )の 少 年 寮 に 入 った しかし 明 治 年 月 天 皇 の 北 陸 巡 幸 に 際 し 父 の 手 伝 いのため 帰 郷 そのまま 学 問 に 取 り 組 む 機 会 を 失 い 以 いえさと かばやまあいすけ 後 実 業 の 道 を 歩 む 同 人 社 では 徳 川 家 達 樺 山 愛 輔 といった 人 々と 出 会 い 新 太 郎 にとって 貴 重 な 人 脈 となったと 指 摘 される 実 業 家 以 前 同 人 社 を 去 り 帰 郷 した 後 は 佐 平 が 長 岡 に 創 業 した 大 橋 書 房 を 手 伝 う 大 橋 書 房 は 当 初 書 籍 雑 誌 の 売 捌 所 ( 書 店 )だったが 後 に 出 版 も 手 掛 け るようになり 傍 訓 改 正 徴 兵 令 などを 発 行 した 大 橋 書 房 の 商 売 の 手 法 は 手 間 のかからない 編 集 廉 価 での 販 売 県 下 の 書 店 への 売 捌 きの 依 頼 など 博 文 館 と 共 通 しており 博 文 館 の 商 法 の 原 点 がここにあったとい える 大 橋 圖 書 館 四 十 年 史 より また 同 じ 時 期 やはり 佐 平 が 創 刊 した 越 佐 毎 日 新 聞 の 経 営 にも 専 ら

55 新 太 郎 があたった いずれも 進 取 の 気 性 に 富 み 思 い 立 ったらすぐ 行 動 する 佐 平 が 立 ち 上 げ 経 営 感 覚 に 優 れた 新 太 郎 がそれを 受 けて 地 道 に 経 営 していくという 大 橋 父 子 の 会 社 経 営 の 姿 が 表 れており これはそのまま 博 文 館 にも 受 け 継 がれていく 実 業 家 時 代 明 治 年 (7)6 月 5 日 日 本 大 家 論 集 ( 集 録 雑 誌 )の 発 行 によ り 博 文 館 が 創 業 する 創 業 者 は その 前 年 上 京 していた 佐 平 である とは いえ 日 本 大 家 論 集 のアイデアは 新 太 郎 のものであり また 翌 年 春 には 新 太 郎 も 上 京 して 経 営 体 制 を 整 えていった 以 後 新 太 郎 の 経 営 によ り 博 文 館 は 雑 誌 太 陽 や 叢 書 帝 国 文 庫 などで 知 られる 総 合 出 版 社 として 関 連 会 社 の 東 京 堂 などとともに 昭 和 戦 前 期 まで 出 版 界 に 一 時 代 を 築 いていく しかし 新 太 郎 は 一 出 版 社 の 社 長 に 収 まっている 人 物 ではなかった 博 文 館 が 軌 道 に 乗 ると 出 版 人 から 財 界 人 へと 飛 躍 していく その 端 緒 は 東 京 馬 車 鉄 道 会 社 (のちの 都 電 )であったが 何 より 財 界 に 伸 していく 足 掛 かりとなったのは 東 京 瓦 斯 会 社 であった というのも 新 太 郎 はここで 渋 沢 栄 一 の 信 頼 を 得 そこから 次 々と 大 企 業 の 経 営 に 参 加 するようになった のである 関 わった 会 社 団 体 の 数 は5 以 上 といわれる 政 治 との 関 わり 明 治 5 年 () 月 の 総 選 挙 で 東 京 都 から 衆 議 員 議 員 として 立 候 補 しトップ 当 選 する しかし 地 租 増 徴 に 絡 む 議 会 の 混 迷 に 失 望 し 一 期 務 め たのみで 辞 職 再 び 衆 議 院 議 員 に 立 候 補 することはなかった 次 いで 大 正 年 (4) 東 京 市 会 議 員 となる これは 豊 川 良 平 らとと もに 東 京 市 会 刷 新 をめざしたものであった これも 一 定 の 役 割 を 果 たした として 一 期 のみでその 職 を 辞 している その 後 しばらく 政 治 からは 距 離 を 置 いていたが 大 正 5 年 (6) 渋 沢 栄 一 の 推 挙 により 貴 族 院 議 員 に 勅 選 された 社 会 文 化 貢 献 明 治 6 年 () 出 版 事 業 視 察 のため 欧 米 を 巡 回 した 佐 平 は 各 国 で 図 大 橋 新 太 郎 55

56 書 館 が 広 く 普 及 しているのを 目 の 当 たりにし 大 橋 家 の 社 会 貢 献 事 業 とし て 図 書 館 設 立 を 決 意 する 帰 国 後 準 備 を 進 め 明 治 4 年 月 には 図 書 館 設 ちょ ぎゅう 立 の 趣 旨 ( 起 草 高 山 樗 牛 )を 発 表 するも 開 館 を 待 たずに 同 年 月 日 逝 去 佐 平 の 意 思 を 継 いだ 新 太 郎 が 明 治 5 年 ()6 月 5 日 財 団 法 人 大 橋 図 書 館 を 開 館 した 大 橋 図 書 館 は 新 太 郎 の 財 政 的 支 援 と 後 に 館 長 となった 坪 谷 善 四 郎 の 運 営 努 力 とにより 好 評 をもって 受 け 入 れられ 関 東 大 震 災 被 災 後 もなお 運 やす じ ろ う 営 を 続 けたが 戦 後 財 政 面 のトラブルなどが 生 じ 西 武 鉄 道 の 堤 康 次 郎 に 全 蔵 書 が 引 き 継 がれて 現 在 の 三 康 図 書 館 に 至 っている 晩 年 さん こう 大 正 期 になると 新 太 郎 はますます 財 界 人 としての 活 動 に 軸 足 が 移 って いく 特 に 日 本 工 業 倶 楽 部 の 設 立 に 動 き 始 めると 博 文 館 の 経 営 に 手 が 回 らなくなり 大 正 6 年 (7) 編 集 部 を 刷 新 翌 7 年 に 株 式 組 織 にする とともに 長 男 進 一 に 社 長 を 譲 っている しかし 編 集 部 の 刷 新 は 企 画 力 の 低 下 を 招 き また 進 一 は 社 長 としての 力 量 に 欠 けていたと 指 摘 される 人 物 で この 後 博 文 館 は 衰 退 の 道 を 歩 むことになる 一 方 新 太 郎 自 身 は 次 々と 新 しい 会 社 の 役 員 や 株 主 になり 昭 和 年 (5)には 日 本 工 業 倶 楽 部 会 長 に 就 任 するなど 財 界 での 存 在 感 を 増 していった 昭 和 年 (44)5 月 5 日 麹 町 の 本 邸 で 死 去 享 年 歳 東 京 護 国 寺 ( 現 文 京 区 大 塚 )に 眠 っている 関 係 人 物 博 文 館 は 学 生 の 青 田 買 いや 血 縁 者 の 婚 姻 を 通 じて 優 秀 な 人 材 を 集 めた 坪 谷 善 四 郎 越 後 加 茂 町 ( 現 新 潟 県 加 茂 市 ) 出 身 越 佐 毎 日 新 聞 に 投 稿 していた 関 係 で 博 文 館 創 業 時 から 編 集 を 手 伝 い 東 京 専 門 学 校 ( 現 早 稲 田 大 学 ) 学 生 であった 明 治 年 () 月 頃 には 博 文 館 に 入 社 している その 後 大 橋 図 書 館 の 館 長 も 務 めた 博 文 館 とともに 歩 んだ 人 物 であり 博 文 館 社 史 や 伝 記 など 大 橋 父 子 の 足 跡 をたどる 資 料 の 多 く が 坪 谷 による 執 筆 である 56

57 また 日 本 の 図 書 館 発 展 に 寄 与 した 人 物 としても 知 られ 旧 都 立 日 比 谷 図 書 館 の 前 身 である 東 京 市 立 図 書 館 建 設 を 実 現 した お と わ 大 橋 ( 渡 部 ) 乙 羽 硯 友 社 同 人 の 作 家 で 明 治 7 年 (4) 尾 崎 紅 葉 を 晩 酌 人 として 大 橋 家 の 人 となった 博 文 館 支 配 人 として 営 業 編 集 いずれ にも 才 能 を 発 揮 また 樋 口 一 葉 の 才 能 を 評 価 し 世 に 送 り 出 した 人 物 でも ある 博 文 館 を 託 されるべき 人 物 として 期 待 されたが 明 治 4 年 () 6 月 歳 で 死 去 した こうきち 大 橋 ( 森 垣 ) 光 吉 博 文 館 入 社 ( 明 治 7 年 ) 後 徴 兵 のため 一 旦 退 館 し たが 明 治 年 ()に 除 隊 し 大 橋 家 の 三 女 幸 子 と 結 婚 して 大 橋 姓 と なった これと 同 時 に 博 進 社 印 刷 工 場 ( 後 の 共 同 印 刷 )を 任 されるよう になりこの 発 展 に 大 きく 貢 献 した 大 争 議 となった 共 同 印 刷 の 労 働 争 議 に すなお は 社 長 として 対 処 している なお この 争 議 には 徳 永 直 が 参 加 しており 後 にこれを 題 材 に 太 陽 のない 街 を 執 筆 した エピソード 新 太 郎 は 明 治 7 年 (4) 歳 の 時 に 結 婚 しているが 同 年 に 離 婚 い わ や さざなみ し 紅 葉 館 館 妓 であった 須 磨 子 と 再 婚 した 須 磨 子 は 巌 谷 小 波 と 相 思 相 愛 の 仲 であったが 巌 谷 が 京 都 の 新 聞 社 に 迎 えられて 東 京 を 留 守 にしてい る 間 に 新 太 郎 と 恋 仲 になり 結 婚 した と 伝 えられる 尾 崎 紅 葉 の 金 色 夜 叉 はこれをモデルに 描 かれたものである 巌 谷 はこの 出 来 事 にも 関 わらず その 後 博 文 館 編 集 部 に 入 り 少 年 少 女 向 けの 読 み 物 を 多 く 手 掛 けた しかし 博 文 館 退 社 後 の 昭 和 年 (7) 新 太 郎 との 間 に 版 権 問 題 が 生 じた 際 新 太 郎 の 私 生 活 を 暴 露 した 金 色 夜 叉 の 真 相 を 刊 行 している キーワード 日 本 工 業 倶 楽 部 第 一 次 世 界 大 戦 ごろの 急 激 な 産 業 発 展 の 中 で 銀 行 家 などが 強 い 発 言 力 を 持 っていたのに 対 し 工 業 資 本 家 は 相 対 的 に 低 い 地 位 にとどまっていた この 状 況 を 打 開 し 政 府 の 経 済 政 策 への 影 響 力 を 高 め る 目 的 で 日 本 工 業 倶 楽 部 が 創 設 された( 大 正 6 年 ) 新 太 郎 はこの 準 備 段 階 から 中 心 的 なメンバーの 一 人 として 関 わった 同 倶 楽 部 は 経 済 や 労 働 大 橋 新 太 郎 57

58 の 問 題 に 取 り 組 む 経 済 団 体 として 活 動 を 続 けたが 現 在 は 財 界 の 社 交 団 体 に 性 格 を 変 えて 存 続 している 神 奈 川 との 関 わり 現 在 の 横 浜 市 金 沢 区 周 辺 は 伊 藤 博 文 をはじめ 要 人 の 別 荘 地 として 好 ま れた 土 地 で 大 橋 新 太 郎 も 称 名 寺 の 隣 接 地 に 別 荘 を 建 てた 昭 和 年 () 神 奈 川 県 は 天 皇 即 位 の 御 大 典 記 念 として 図 書 館 施 設 の 設 置 を 企 図 し 金 沢 文 庫 をこれに 充 て 再 興 させることが 計 画 された この 時 この 地 と 縁 があり 自 らも 私 設 図 書 館 を 設 立 するなど 図 書 館 への 理 解 もあった 大 橋 新 太 郎 が 県 の 予 算 額 と 同 額 の5 万 円 の 寄 付 を 表 明 し 計 画 が 実 現 することとなった 新 太 郎 は 金 沢 文 庫 の 経 営 を 神 奈 川 県 が 永 久 に 維 持 することを 寄 付 の 条 件 としたという 新 太 郎 は 県 立 金 沢 文 庫 発 足 ( 昭 和 5 年 月 ) 後 も 資 料 の 修 理 費 用 や 備 品 等 を 寄 付 し 金 沢 文 庫 再 興 に 寄 与 した 文 献 案 内 社 史 出 版 社 博 文 館 は 関 連 業 すなわち 取 次 業 ( 東 京 堂 ) 印 刷 業 ( 後 の 共 同 印 刷 ) 製 紙 業 ( 博 進 社 )の 会 社 を 同 族 によってそれぞれ 立 ち 上 げ いわゆる 博 文 館 コンツェルン を 築 き 上 げた 博 文 館 五 十 年 史 坪 谷 善 四 郎 著 博 文 館 7 Y K 博 文 館 刊 行 の 社 史 としては 唯 一 のもの 編 年 形 式 で 創 業 から 昭 和 年 (7)までを 記 述 する 博 文 館 の5 周 年 記 念 に 編 纂 されたものだが 奥 付 の 表 記 は 社 としての 編 纂 というよりも 坪 谷 の 著 作 としての 体 裁 をとる 巻 末 に 出 版 年 表 ( 博 文 館 の 刊 行 物 一 覧 )あり 大 倉 紙 パルプ 商 事 株 式 会 社 年 史 大 倉 紙 パルプ 商 事 年 史 編 纂 委 員 会 編 大 倉 紙 パルプ 商 事 Y K 博 文 館 コンツェルンの 一 角 であった 博 進 社 は その 社 名 下 では 社 史 を 発 行 し ていない 本 書 は 大 倉 と 合 併 後 の 社 史 で うち 編 が 博 進 社 の 記 述 に 割 かれて いる 5

59 共 同 印 刷 百 年 史 共 同 印 刷 株 式 会 社 社 史 編 纂 委 員 会 編 共 同 印 刷 7 Y K 年 に 続 く 冊 目 の 社 史 前 著 を 再 録 した 年 の 通 史 となっている 前 史 として 博 文 館 博 文 館 印 刷 所 および 精 美 堂 についても 記 述 される 巻 末 に は 大 橋 佐 平 上 京 ( 明 治 年 ) 以 降 の 年 表 を 掲 載 ものがたり 東 京 堂 史 田 中 治 男 著 東 販 商 事 75 Y K 東 京 堂 百 二 十 年 史 大 橋 信 夫 編 東 京 堂 K 5 年 年 に 続 く 東 京 堂 冊 目 の 社 史 既 刊 冊 の 内 容 を 再 録 して 創 業 か ら 平 成 年 まで 記 述 され 概 ね 社 長 ごとに 時 代 を 分 けた 章 立 てで 全 章 からなる 戦 前 の 東 京 堂 は 取 次 業 の 雄 として 日 本 の 出 版 流 通 システムの 確 立 に 深 く 関 与 した このため 当 時 の 出 版 業 界 の 動 向 を 伝 える 資 料 にもなっている 伝 記 文 献 大 橋 新 太 郎 伝 坪 谷 善 四 郎 著 博 文 館 新 社 5 Y Yかな K 博 文 館 5 周 年 ( 昭 和 年 )に 際 して 執 筆 されたもので 大 橋 新 太 郎 のまと まった 伝 記 としては 唯 一 のもの 被 伝 者 と 近 しい 立 場 であった 著 者 によって 被 伝 者 存 命 中 に 執 筆 された なお 新 太 郎 の 最 晩 年 については 年 表 のみの 記 載 となっている 大 橋 新 太 郎 露 伴 一 葉 が 集 まった 博 文 館 の 八 畳 の 応 接 間 近 代 日 本 の 起 業 家 たち 第 回 鹿 島 茂 著 fai(4) p5-55 Y 大 橋 新 太 郎 博 文 館 王 国 を 築 いた 出 版 人 浅 岡 邦 雄 [ 著 ] 近 代 日 本 メディア 人 物 誌 創 始 者 経 営 者 編 土 屋 礼 子 編 著 ミネルヴァ 書 房 p-5 Y K 参 考 文 献 大 橋 圖 書 館 四 十 年 史 坪 谷 善 四 郎 著 博 文 館 4 Y K 大 橋 図 書 館 に 関 する 唯 一 の 通 史 博 文 館 五 十 年 史 同 様 当 事 者 である 坪 谷 の 執 筆 である 平 成 年 (6)には 博 文 館 新 社 より 復 刻 版 が 刊 行 された 神 奈 川 県 立 金 沢 文 庫 6 年 のあゆみ 神 奈 川 県 立 金 沢 文 庫 編 神 奈 川 県 立 金 沢 文 庫 Y Yかな K 大 橋 新 太 郎 5

60 大 橋 図 書 館 の 閉 館 事 情 森 睦 彦 [ 著 ] 東 海 大 学 紀 要 課 程 資 格 教 育 セン ター() p5-46 Y 四 十 年 史 以 後 大 橋 図 書 館 の 公 式 な 記 録 は 見 られないため 閉 館 の 事 情 も 詳 細 は 伝 わっていない 本 論 考 は 当 時 の 図 書 館 雑 誌 や 新 聞 の 断 片 的 な 記 事 等 を 追 って 閉 館 の 経 緯 をまとめたもの 近 代 出 版 文 化 を 切 り 開 いた 出 版 王 国 の 光 と 影 博 文 館 興 亡 六 十 年 田 村 哲 三 著 法 学 書 院 7 Y 博 文 館 の 創 業 から 終 焉 までを 記 述 特 に 社 史 には 記 載 されない 博 文 館 の 落 日 に 多 くのページが 割 かれている 大 橋 佐 平 と 大 橋 図 書 館 是 枝 英 子 [ 著 ] 大 倉 山 論 集 (55) p-6 Yかな 四 十 年 史 では 記 述 の 薄 い 図 書 館 開 館 への 準 備 段 階 から 説 き 起 こした 論 考 < 森 あかね> コラム 実 業 家 と 美 術 館 () 実 業 家 は 成 功 すると 美 術 品 を 集 めたくなるらしい 美 術 品 を 収 集 する 理 由 は 財 力 の 証 として 美 術 品 骨 董 品 を 集 めるのが 趣 味 など 様 々であるが 文 化 財 が 欧 米 に 流 出 するのを 防 ぐため に 収 集 保 存 を していたという 実 業 家 もいる また これらの 美 術 品 を 美 術 館 を 創 設 し て 公 開 しているという 企 業 も 多 い その 目 的 は コレクションを 保 存 し 展 示 すること か コレクションを 秘 蔵 するのではなく 広 く 一 般 に 公 開 し 文 化 向 上 の 一 端 に 貢 献 すること が 多 い 収 集 目 的 は 異 なって も 実 業 家 が 収 集 し 保 存 してきたことで 結 果 的 に 我 が 国 の 文 化 が 保 存 さ れてきたことに 違 いはない また それを 公 開 している 目 的 も 異 なるが 私 たちが 貴 重 な 美 術 品 を 鑑 賞 できるということに 変 わりはない 6

61 財界の大御所 ごう せいのすけ 郷 誠之助 65 4 東京株式取引所ほか 人物データファイル 男爵郷誠之助君伝 より 出生 か たが た 元治2年1月8日 6 5 美濃国方県郡黒野村 現 岐阜市黒野 に郷 純造の次男として生まれる 父純造は黒野村の富裕な百姓の出身だったが 若くして江戸に出て武家奉公を続け 当時は大坂町奉行松平家に仕えてい た 誠之助は生後すぐ大坂の父のもとに移る 生い立ち 慶応2年 6 6 父純造は松平家を辞し家族を連れて江戸に移るが 仕 官の口がなく浪人生活の苦労の末 ようやく御家人株を買って慶応4年1 月に念願の幕臣となる 幕府はその直後に瓦解してしまうが 純造はすぐ に新政府の会計事務局 後の大蔵省 に出仕し 以後官吏として栄進を重 ねる こうして誠之助は江戸から東京となった番町 現 千代田区 で育 つが 幼少期から餓鬼大将であり 暴れん坊で手に負えない少年となる 番町小学校 東京英語学校等を経て 明治 年 7 7 には生活を改める べく親元を離れて仙台中学校に入学したが 早くも遊郭に遊ぶなど素行が 修まらず 3年時には旅芸人の女役者との艶聞が新聞沙汰になって退学を 余儀なくされた 仙台から帰京後も家出して仲間と東海道を無銭旅行する などして ついに父から勘当される その後 京都の同志社や東京の私塾 に学び 明治 6 年 東京大学法学部別課法学に入学したが 翌年2 月には伊藤博文の紹介状を携えてドイツ留学のため横浜から渡欧の途に就 いた 誠之助は遊蕩児ではあったが 一方で勉学を怠らず語学にも堪能な 青年だった 郷誠之助 6

62 実業家以前 明治 7 年 4 から郷はドイツに留学する ハイデルベルク ハレ ライプチヒの各大学で経済学 哲学等を学び 留学期間は8年近くに及ん だ D o c t o rv o np h i l o s o p h i e 哲学博士 専攻は経済学 の学位を得て 明治 4 年 月に帰国 帰国の挨拶に訪問した伊藤博文の紹介で 翌 5 年1 月陸奥宗光が大臣を務めていた農商務省の嘱託に任じられる ここで次官 西村捨三とともに前田正名 興業意見 の研究に取りかかるが 陸奥の外 相転出に伴い3月には職を辞し その後3年ほどは茶屋遊びに耽った 実業家時代 明治 年 5 東京川崎財閥の総帥川崎八右衛門 初代 の口利きで 郷は業績不振の日本運輸の社長に就任 遊蕩をきっぱりやめて同社の立て 直しに取り組み 実業家としての第一歩を踏み出した 日本運輸の業績を 回復させた上で明治 4 年 同社を解散した郷は この間に日本メリ い りや ま ヤス取締役 日本鉛管社長 入山採炭社長等も兼任 経営者としての力量 が認められるようになる 明治 5 年には経営が危機に瀕していた王子製紙 の取締役に就任 同社は北海道苫小牧に工場を新設して再建に成功した もっとも郷の携わった会社経営がすべて順調だったわけではなく 明治 4 年 7 に鈴木藤三郎が設立した日本醤油の取締役となるが この事 業は失敗 同4 年に解散した また 同4 年には帝国商業銀行の整理のた め取締役会長を引き受けるが 結局破産となり この整理に郷は私財 万 円を投じたといわれる 明治4 4 年 王子製紙取締役を退任した郷は 東京株式取引所理事 長に就任する 大正 年 4 までの 年の在任期間中は第一次世界大 戦後の不況や関東大震災の被害などの困難があったが 世間から賭博場の ように白眼視されていた取引所の信用向上に努め 株式市場の発展と近代 化に尽力した 郷の実業家としての事績のなかでも特筆されるものである この間 大正6年 7 創設の民間製鉄所 東洋製鉄にも取締役とし て加わっていたが 同7年に初代社長中野武営が没すると郷が社長となり 専務中島久万吉とともに経営に当たる しかし同社は第一次世界大戦後の 6

63 不 況 で 経 営 困 難 に 陥 り 大 正 年 からは 官 営 八 幡 製 鉄 所 に 経 営 を 委 託 する ことになった 大 正 5 年 (6) 先 に 東 京 株 式 取 引 所 理 事 長 を 辞 していた 郷 は 渋 沢 栄 一 に 協 力 して 日 本 郵 船 と 東 洋 汽 船 の 合 併 斡 旋 に 乗 り 出 す ここから 郷 の 本 格 的 な 財 界 世 話 業 としての 活 動 が 始 まったといわれる 経 営 不 振 等 の 問 題 をかかえた 会 社 の 整 理 合 併 再 建 の 調 整 役 として この 大 海 運 会 社 の 合 併 のほか 金 融 恐 慌 ( 昭 和 年 ) 時 の 十 五 銀 行 と 川 崎 造 船 所 の 整 理 官 営 八 幡 製 鉄 所 と 東 洋 製 鉄 を 含 む 民 間 製 鉄 会 社 6 社 を 統 合 して 日 本 製 鉄 とした 製 鉄 大 合 同 ( 昭 和 年 )などに 当 たった 一 方 昭 和 年 (7)には 東 京 電 燈 ( 現 東 京 電 力 の 前 身 )の 会 長 に 迎 えられ 一 緒 に 取 締 役 に 就 任 した 小 林 一 三 とともに 電 力 事 業 の 経 営 に 当 たる 東 京 電 燈 は 当 時 関 東 大 震 災 の 被 害 や 深 刻 な 不 況 さらに 電 力 他 社 との 激 しい 競 争 によって 経 営 が 行 き 詰 っていた 郷 は 昭 和 年 に 小 林 を 副 社 長 として 会 社 の 改 革 に 当 たらせ 同 5 年 には 会 長 のまま 社 長 を 兼 務 して 業 績 回 復 と 電 力 業 界 再 編 を 模 索 した( 同 年 から 小 林 に 社 長 職 を 譲 り 会 長 専 任 に 戻 る) 昭 和 年 (6) 一 定 の 再 建 を 果 たして 郷 は 同 社 を 退 任 し たが 東 京 電 燈 の 経 営 そのものが 財 界 世 話 業 の 仕 事 の 一 環 だったともいえ る これらの 会 社 経 営 の 傍 ら 郷 は 各 種 経 済 団 体 の 設 立 者 指 導 者 としても 活 躍 した 大 正 6 年 (7) 日 本 工 業 倶 楽 部 設 立 とともに 専 務 理 事 を 務 め 同 年 設 立 の 日 本 経 済 聯 盟 会 では 常 務 理 事 を 経 て 昭 和 7 年 () 会 長 に 就 任 いずれも 自 身 の 死 去 まで 在 任 した 昭 和 5 年 には 東 京 商 工 会 議 所 及 び 日 本 商 工 会 議 所 の 会 頭 となり 同 年 まで 務 めた さらに 昭 和 6 年 には 全 国 産 業 団 体 聨 合 会 設 立 とともに 会 長 に 就 任 同 年 までその 職 にあった これらはいずれも 経 済 界 の 意 向 や 要 望 をとりまとめ 政 府 や 社 会 に 働 きか ける 有 力 な 団 体 であり この 面 でも 郷 の 役 割 は 非 常 に 大 きかった 深 い 学 識 と 私 心 のない 公 正 な 判 断 果 断 な 実 行 力 に 加 えて 番 町 会 に 象 徴 される 豊 富 な 人 脈 もあり 郷 は 渋 沢 栄 一 の 後 を 継 ぐ 財 界 の 大 御 所 として また 財 界 の 哲 人 とも 評 されて 昭 和 戦 前 の 実 業 界 に 君 臨 郷 誠 之 助 6

64 した 政治との関わり 明治4 年 父純造の死去により男爵位を襲爵 翌4 4 年から昭和 7 年に没するまで貴族院議員 互選男爵議員 を務めた また 第1次近衛 文麿内閣の昭和 年 7 から 5 年の第3次近衛内閣までの期間 内閣 参議に任じられた 社会 文化貢献 ね つ け 郷は美術品の収集家であったが なかでも根付のコレクションはその質 の高さで有名だった このコレクションは郷の死後 本人の遺志で当時の 帝室博物院に寄贈され 現在は東京国立博物館の 郷コレクション と なっている 明治4 5 年 3月には日本活動写真株式会社 日活 の創立委員長 となり 映画会社を立ち上げた 実際の経営には携わらなかったものの 日本の映画産業発展に一役買っている 晩年 昭和 年 6 月 東京電燈会長 東京及び日本商工会議所会頭な ど企業 団体の要職を辞し 実業界第一線からの引退を表明した その後 も引き続き経済聯盟会会長に留任 企業 団体の顧問や相談役を務め 政 財界の各種会議 委員会にも出席していたが 高血圧症や肺炎により健康 が徐々に衰え 昭和 7 年 4 1月 日 東京 築地の聖路加病院で死 去した 享年7 7 歳 東京 青山墓地の父純造の隣に葬られた 関係人物 郷純造 誠之助の父 明治前期に大蔵省の能吏として活躍し 特に松方 正義に重用される 明治 年 5 末 内閣制度発足により松方正義が 初代大蔵大臣に就任すると 翌年3月に初代大蔵次官に任じられた 大蔵 省退官後は勅選貴族院議員を務め 明治 年 一連の功績により男 爵に叙せられた 渋沢栄一 明治初年 渋沢が大蔵省に出仕したのは郷純造の推薦による 6 4

65 といわれている 大蔵省を去って実業界に転じてからも郷家との親交は続 き 後年誠之助を王子製紙取締役に推薦するなど実業家としての関係も深 かった 人間郷誠之助 は渋沢の子息の談として 自分の亡い後は郷男 によろしくお頼みしたい これが私の遺言である という渋沢の言葉を伝 えている p 4 エピソード 郷には 6 歳のころから将来を誓い合った1歳年下の許婚者がいた しか し明治 6 年 彼女は親代わりの叔父に別の縁談を強いられ 故郷の 九州に帰されてしまう 悲観した娘は郷に別れの手紙を送った後 服毒自 殺を遂げた 郷の東大在学時のことである 以後 郷は終生正式な結婚を せず 末弟を養子として家督を相続させた ただし内妻はいて 実子も あった 郷は留学中 陸軍軍医としてやはりドイツに留学していた森鷗外と出会っ ている 鷗外はその 独逸日記 明治 年 月 4 日の記事で 3歳年少の 郷について 快濶の少年にて 好みて撞球技を為す と書いている 留 学中このように打ち込んだだけあって 郷は撞球 ビリヤード の名手 だった 帰国当時は国内では敵なしの日本一の腕前だったと自認している キーワード 財界世話業 男爵郷誠之助君伝 の記述をもとに松浦正孝が要約した 定義によれば 一分野 一業界に止まらず経済界全体にまたがるような 事業の整理 調停 合併等の斡旋に 公的利益の見地から携わる経済界の 大御所 財界の政治経済史 p を指す 個々の人物については 財 界世話役 ともいう 渋沢栄一は最初にして最大の財界世話役であり そ の系譜に和田豊治 井上準之助 郷 そして池田成彬などが連なる 番町会 大正期から郷の番町の私邸で月1回開かれていた親睦会で メ ンバーは後藤圀彦 河合良成 永野護ら主に若手の財界人 人 小林中 正力松太郎らも準メンバーとして参加していた このグループの一部が昭 和9年 4 当時一大疑獄事件として騒がれた帝人事件 本書 武藤山 治 参照 で逮捕されたことで社会の注目を集めることになった なお 郷誠之助 6 5

66 帝人事件は後に裁判で逮捕者全員に無罪の判決が下された 神奈川との関わり 県内の箱根 宮ノ下 藤沢 鵠沼 鎌倉 小町 葉山 堀内に別荘を所 有していた 関東大震災時は箱根の別荘に滞在していたが 強震により別 はり 荘が倒壊 崩れた梁に体をはさまれた状態で4時間後に救出されたものの 全身に傷を負った 文献案内 著作 郷は生前 経済政策に関する意見書や随筆集などを刊行しているが そ れらは現在一般には入手しがたいものとなっている 国立国会図書館の目 録などから主なものを次に挙げておく 財界随想 郷誠之助著 慶応書房 未所蔵 財界我観 郷誠之助著 慶応書房 4 未所蔵 社史 郷は多くの会社の経営に関わったが 財界世話業的な立場での関与だっ たため 社史として彼の事績を詳述しているものは多くはない 主なもの は次のとおりである 王子製紙社史2 成田潔英著 王子製紙社史編纂所 5 7 Y K 全4巻と附録篇から成る 著者成田潔英は王子製紙に勤務後 紙の博物 館 館長などを務めた この第2巻第4篇 日露戦争前後時代 に 経営危機 に陥った王子製紙が明治 5 年 7月 経営陣を刷新した際 郷が取締役 の一人として加わったことが記述されている 同社はその後北海道に苫小牧工 場を建設し経営再建に成功するが 明治4 4 年 月 重役間の対立から 全役員辞任の事態となり このとき郷も退任した 東京株式取引所五十年史 東京株式取引所 Y K 第2章 本所の沿革 及び第9章 役員 所員 の記述で 郷が明治4 4年 月に理事長に就任し 大正 年 4 月にその職を辞任したこ とがわかる 郷個人の働きには言及されていないが この間に第一次世界大戦 6 6

67 後の恐慌 大正9年 や関東大震災 大正 年 があり 株式取引所としての 対応に郷が腐心したことがうかがわれる 東京電燈株式会社開業五十年史 東京電燈 6 K 取締役会長 郷誠之助の序文 口絵に 現重役 として郷と社長 小林一三 の肖像あり 編纂に当って には 当時東京帝国大学明治新聞雑誌文庫嘱託 だった宮武外骨への次の謝辞がある 特に宮武外骨氏には本史の全般に亙っ て厳密なる校閲をお願ひ致しました 第四期 統制時代 昭和元年より同 十年迄 の記述では 昭和初期の業績の低下の後 社業を一新 ヵ年の受 難期を克服して昭和 年 5 に更生を迎えたとされている 東京電燈株式会社史 東京電燈株式会社史編纂委員会 5 6 Y K 序文は第 代社長 小林一三が寄稿 前掲の 東京電燈株式会社開業五十年 史 を圧縮して 前編 五十年間略史 とする 本編 国家管理時代 は昭 和 年 6 から電力の国家統制により同 7 年3月に解散するまでを記述し ている 伝記文献 人間郷誠之助 野田礼史著 後藤圀彦校閲 今日の問題社 K 郷の生前に刊行された伝記 著者の経歴等は不明であるが 原稿を後藤圀彦 に持ち込み 校閲を依頼した上 出版に至ったものである 後藤によれば著者 は郷とは一度も面談していないが 新聞雑誌に掲載された郷の談話や関係者へ の取材から本書をまとめたという 結果として郷の談話聞き書き風な部分が多 く 郷の接触した人物 郷の処世訓 郷の実業実践訓 などの章では郷 の人物観や人生観がうかがえる 男爵郷誠之助君伝 郷男爵記念会 4 Y K 郷の没後に池田成彬を会長として財団法人郷男爵記念会が組織され その事 業の一環として編纂された伝記 編纂には後藤圀彦を代表とする男爵郷誠之助 伝記編纂所が当たり 昭和 7 年 4 8月から1年余をかけて執筆 5 頁を 超える浩瀚な伝記を同 年 月に刊行した 郷の伝記の定本といえるもので 本稿の記述もこの本に多くを負っている 郷は生前 昭和 5 年に後藤の勧めで 男爵郷誠之助自伝 という口述筆記を行っていた この 自伝 は完成に至 郷誠之助 6 7

68 らず刊行もされなかったが その内容は本書に生かされている なお 池田成 彬は三井合名理事 日銀総裁 第1次近衛内閣の蔵相兼商工相などを歴任した 財界の重鎮である 後藤圀彦は当時 京成電気軌道 現 京成電鉄 社長 若 い頃から郷の知遇を得 郷を身近に知る財界人だった 郷誠之助 財界人思想全集4 財界人の技術観 吉田光邦編集 解説 ダイヤモンド社 6 p 5 Y 極道 小島直記著 毎日新聞社 7 Y 郷誠之助を主人公とする長編伝記小説 郷の生誕から入山採炭社長就任まで の青年時代を描く 東京株式取引所 株式近代化に尽力した郷誠之助 日本の 創造力 8 消費時代の開幕 日本放送出版協会 p Y 財界の政治経済史 井上準之助 郷誠之助 池田成彬の時代 松浦正孝著 東京大学出版会 Y 財界 をキーワードとして戦前日本の政治経済史をとらえようとする学術 研究書 第2章 財界世話業 の群像 第5章 財界と外交 で郷誠之 助への言及が多い 第1章 暴かれた財界権力 では帝人事件を紹介 考察 している 参考文献 経済団体連合会前史 経済団体連合 6 Y K 京成電鉄五十五年史 京成電鉄社史編纂委員会編 京成電鉄 6 7 Y K 第章 昭和年前後 3 後藤社長就任 本多会長逝く 第章 太平 洋戦争と私鉄 5 後藤社長の死とその人柄 に後藤圀彦についての記述あり 帝人事件 三十年目の証言 河合良成著 講談社 7 Y 日本工業倶楽部五十年史 日本工業倶楽部 7 Y K 印籠と根付 東京国立博物館編 二玄社 Y 郷コレクションの根付を図版で紹介している 関誠二 6

69 紡 績 王 から 政 治 家 新 聞 人 に 転 身 した リベラリスト むとう 武 藤 さん 山 じ 治 人 物 データファイル 出 生 (67-4) 鐘 淵 紡 績 慶 応 年 月 日 (67) 父 佐 久 間 国 三 郎 母 たねの 長 男 として 尾 張 国 海 部 郡 ( 現 愛 知 県 愛 西 市 )に 生 まれる 生 家 佐 久 間 家 は 美 濃 国 の 豪 農 であり 代 々 庄 屋 を 勤 めたほどの 旧 家 であった 父 国 三 郎 は 学 究 肌 で 博 覧 強 記 の 人 物 で 山 治 が 生 まれた 折 に 論 語 を 読 んでいたため 名 をそこから 取 ったといわれている 山 治 は 米 国 留 学 から 帰 った 明 治 年 (7) 一 族 中 の 武 藤 家 を 継 いで 改 姓 した 生 い 立 ち 山 治 の 母 たねは 晩 年 幼 尐 期 の 山 治 を 変 わったところのある 尐 年 だった と 述 懐 している 父 親 が 来 客 と 議 論 しているのを 障 子 の 陰 から 熱 心 に 聞 い ていたり 父 親 が 政 治 演 説 会 へ 行 くのにいつも 同 行 したりしたという 明 治 4 年 ()4 歳 で 上 京 し 慶 應 義 塾 へ 入 学 福 沢 諭 吉 から 直 接 薫 陶 を 受 ける 演 説 を 会 得 したいとの 思 いが 当 時 演 説 館 のあった 慶 應 義 塾 入 学 の 動 機 であった 同 7 年 卒 水 の 流 れと 人 の 身 の 行 く 末 ほど 分 らないものはありませぬ で 始 まる 自 变 伝 私 の 身 の 上 話 には 子 供 の 頃 文 学 者 になりたい と 思 ってい た とある 父 国 三 郎 も 山 治 をケンブリッジ 大 学 に 入 れ 学 問 をさせよう と 考 えていた ところが 明 治 4 年 からの 物 価 暴 落 により 当 時 の 農 村 経 済 が 惨 状 を 極 め 敷 地 内 に 礼 拝 堂 や 図 書 室 を 持 つほどの 豪 農 であった 佐 久 間 家 もその 波 を 避 けることができず 山 治 が 文 学 を 学 ぶべく 英 国 留 学 のために 蓄 えていた 費 用 も 消 えてしまう 私 の 身 の 上 話 より 武 藤 山 治 6

70 7 山 治 は 歳 の 明 治 年 (5) わずかの 金 を 懐 に 米 国 へ 渡 ることと なった 苦 学 生 としての 渡 米 である 当 初 はサンフランシスコで 煙 草 の 見 習 工 から 始 め その 後 パシフィック 大 学 にてそこの 食 堂 給 仕 をしながら 学 ぶこととなった 住 み 込 みで 働 きながら 昼 は 学 校 へ 通 うという スクー ル ボーイ として 苦 学 した 経 験 と そこで 触 れた 米 国 の 文 化 は 彼 の 人 間 形 成 と 進 路 に 大 きな 影 響 を 与 えることになる 実 業 家 以 前 明 治 年 (7) 帰 朝 武 藤 は 出 資 者 を 得 て 銀 座 で 新 聞 広 告 取 扱 所 を 創 設 する 米 国 留 学 での 経 験 からヒントを 得 たこの 事 業 は 短 期 間 に 相 当 の 成 功 を 収 めたという 日 本 における 広 告 取 次 業 の 嚆 矢 であった 同 時 に 博 文 雑 誌 社 を 開 始 古 い 新 聞 雑 誌 から 興 味 ある 記 事 を 切 り 抜 き それに の 新 しい 記 事 を 加 えて 編 集 出 版 するという 着 想 の 新 しさから これも 意 外 な 成 功 を 見 せた この 仕 事 の 傍 ら 米 国 移 住 論 を 執 筆 し 丸 善 書 舗 か ら 発 行 している このなかで 武 藤 は 米 国 に 移 民 会 社 を 設 立 すべきである と 強 く 主 張 している 同 じ 明 治 年 横 浜 ジャパンガゼット 新 聞 社 に 翻 訳 記 者 として 入 社 する 当 時 殆 ど 政 府 反 対 派 としての 立 場 を 貫 いていたこの 外 字 新 聞 において 武 藤 は 政 治 運 動 に 携 わっていった 明 治 年 ()ドイツ 人 貿 易 商 の 経 営 するイリス 商 会 に 通 訳 として 入 り 明 治 5 年 ()まで 勤 務 翌 6 年 に 三 井 銀 行 に 採 用 され 当 時 の 銀 なかみがわ 行 大 改 革 の 気 運 に 触 れる 明 治 7 年 実 質 の 経 営 を 三 井 銀 行 の 中 上 川 彦 次 かねがふち 郎 に 託 されていた 鐘 淵 紡 績 ( 鐘 紡 )への 転 勤 を 命 ぜられ 新 設 兵 庫 工 場 支 配 人 に 抜 擢 された 7 歳 の 時 である 武 藤 が 一 生 の 大 半 を 費 やすことと なった 鐘 紡 時 代 の 幕 開 けであった 実 業 家 時 代 武 藤 は 私 の 身 の 上 話 においてこう 語 っている 当 時 我 国 の 紡 績 業 は 誠 に 幼 稚 なもので 紡 績 技 術 の 専 門 家 などはなく 紡 績 術 に 関 する 原 書 が 一 冊 農 商 務 省 にあつたばかりといふような 俗 に 言 ふ 手 探 りで 仕 事 をした 時 代 であります

71 鐘 淵 紡 績 の 前 身 は 明 治 年 (6) 創 立 の 東 京 綿 商 社 であるが 経 営 の 失 敗 で 三 井 家 に 出 資 を 仰 ぎ 同 年 に 改 称 することとなった 三 井 関 係 事 業 のつとして 整 理 されたわけである 鐘 淵 紡 績 が 当 時 の 関 西 の 貿 易 会 社 の 人 々から 三 井 の 道 楽 工 場 紡 績 大 学 校 とあだ 名 され 嘲 笑 を 受 けて いたのは このためである 武 藤 による 鐘 淵 紡 績 の 再 建 は 兵 庫 工 場 建 設 の 任 から 始 まった 武 藤 は 昼 夜 を 問 わずこの 任 に 力 を 注 ぎ 初 めの4 5 年 は 年 65 日 一 日 も 休 ま ず 働 き 通 したという ところがこの 鐘 紡 兵 庫 工 場 の 経 営 は ことに 初 期 の 運 営 においてトラブ ルの 連 続 であった 武 藤 山 治 の 実 像 と 業 績 において 植 松 忠 博 は 武 藤 が 主 に4つの 困 難 に 見 舞 われたとし 次 のようにまとめている 先 ずは 芝 浦 製 作 所 に 発 注 した 蒸 気 機 関 の 完 成 が 約 半 年 も 遅 れたために 日 清 戦 争 時 の 好 況 期 の 操 業 に 遅 れそうになったこと 次 いで 職 工 の 新 規 採 用 をめ ぐって 関 西 の 紡 績 会 社 が 加 盟 していた 中 央 綿 糸 紡 績 業 同 盟 会 の 各 社 との 間 に 激 しい 紛 争 を 引 き 起 こしたこと また 明 治 年 ()の 義 和 団 事 件 ( 北 清 事 変 )にともなって 発 生 した 金 融 恐 慌 の 際 には 事 業 資 金 の 不 足 を きたして 経 営 危 機 にみまわれたこと 更 には 明 治 4 年 () 月 に 中 上 川 が 急 逝 したため 三 井 が 工 業 投 資 を 縮 小 し 自 己 保 有 の 鐘 紡 株 を 売 却 し た 際 に 鐘 紡 株 が 相 場 師 鈴 木 久 五 郎 の 手 にわたって 一 時 は 武 藤 自 身 も すずきゅう 総 支 配 人 辞 職 に 追 い 込 まれたこと(いわゆる 鈴 久 事 件 である) 殊 に 明 治 年 の 義 和 団 事 件 ( 北 清 事 変 )は 日 本 の 財 界 に 一 大 騒 動 を 起 こ すこととなるが 武 藤 もここで 大 変 な 苦 しみを 嘗 め 後 に 振 り 返 りこの 期 間 を 自 らの 受 難 時 代 と 呼 んでいる 財 政 の 立 て 直 しに 奮 闘 する 傍 ら 武 藤 は 製 品 の 改 良 とその 宣 伝 に 尽 力 す る この 時 期 に 武 藤 の 採 った 宣 伝 の 手 法 は 大 変 独 創 的 なものであった 例 えば 人 々に 鐘 紡 糸 の 優 秀 性 を 示 すため 鐘 紡 糸 を 入 れた 瀟 洒 な 見 本 箱 を 全 国 問 屋 に 発 送 し 実 際 に 業 者 に 触 れてもらった また 全 国 の 織 屋 に 向 け 鐘 紡 製 糸 鐘 印 懸 賞 試 験 に 関 する 規 定 を 発 表 し 他 社 製 品 との 優 务 を 比 較 させた その 実 験 結 果 を 集 め 直 ちに 全 国 に 向 けて 鐘 紡 糸 の 優 秀 であ 武 藤 山 治 7

72 ることを 発 表 してみせた これらは 業 界 に 綿 糸 の 真 の 値 打 ちを 理 解 させ 鐘 紡 の 糸 の 優 位 性 を 広 く 知 らしめるために 採 った 方 法 である 更 に 武 藤 は 新 聞 紙 上 に 鐘 紡 の 広 告 を 大 々 的 に 出 していく 当 時 紡 績 会 社 が 新 聞 紙 上 に 広 告 を 載 せるなど 異 例 のことであった 広 告 記 事 のみでな く 明 治 6 年 ()7 月 日 からの 時 事 新 報 紙 上 に 鐘 紡 の 英 断! 過 度 なる 操 業 時 間 の 短 縮 という 記 事 を 載 せ 大 量 宣 伝 を 開 始 した 自 社 の 改 革 を 新 聞 で 広 報 したのである 武 藤 はこうして 独 特 の 手 法 で 鐘 紡 の 名 とその 製 品 とを 世 に 打 ち 出 していった 業 績 は 次 第 に 上 がり そこに 日 露 戦 争 による 収 益 増 が 重 なったこともあ り 事 業 に 安 定 が 見 られるようになった これを 機 に 武 藤 は 従 業 員 の 福 利 厚 生 の 充 実 に 着 手 する 明 治 5 年 ()に 乳 児 保 育 所 が 明 治 年 (5)にはドイツの 製 鋼 会 社 の 職 工 に 関 する 施 設 をモデルにして 鐘 紡 共 済 組 合 が 設 立 された ここには 退 職 金 傷 病 死 亡 保 険 妊 娠 中 から 産 後 までの 様 々な 保 証 が 盛 り 込 まれ 後 に 多 くの 企 業 がこれに 追 随 するよ うな 模 範 となる 組 合 制 度 となった 武 藤 の 改 革 は 続 いた 米 国 の 会 社 の 方 策 に 刺 激 を 受 け 注 意 箱 の 設 置 と 社 内 報 鐘 紡 の 気 笛 の 発 行 を 開 始 した 前 者 は 会 社 のために 有 益 な 改 革 案 を 出 した 者 に 賞 金 を 与 えることを 謳 ったシステムである また 社 内 報 の 発 行 は 多 くの 職 員 を 使 う 鐘 紡 にとって 有 益 な 伝 達 教 育 手 段 として 働 き 後 には 女 工 向 けの 女 子 の 友 の 発 行 をも 見 ることと なった 前 者 は 下 意 上 達 後 者 は 上 意 下 達 の 制 度 として バランス 良 く 機 能 した これらの 制 度 に 見 られる 方 針 こそは 鐘 紡 の 温 情 主 義 家 族 主 義 と 呼 ばれる 武 藤 の 経 営 方 針 の 一 大 特 徴 であった 私 の 身 の 上 話 で 自 身 を 非 常 に 研 究 心 が 強 く 何 をやってもじっとし て 現 状 で 満 足 して 居 れぬ 一 種 の 性 癖 があります と 述 べている 武 藤 は 生 涯 自 らの 仕 事 の 改 良 工 夫 に 努 め 続 けた 人 物 であった 明 治 5 年 () 工 場 内 に 織 布 試 験 工 場 を 設 置 し ここでいち 早 く 様 々な 研 究 を 重 ねさせた これによる 大 きな 成 果 が 蚕 の 発 酵 素 で 強 力 な 精 練 剤 を 作 った ムター ゼ と 人 絹 (レーヨン)よりも 上 質 とされた 鐘 紡 更 生 絹 糸 の 発 見 で 7

73 ある これらは 当 時 鐘 紡 研 究 所 における 二 大 発 見 と 呼 ばれていた 武 藤 は 工 場 経 営 者 として 発 明 の 芽 生 えを 最 大 限 保 護 し 育 てていく 姿 勢 を 通 し た 明 治 年 (6)の 鈴 久 事 件 により 一 度 は 辞 職 に 追 い 込 まれた 武 藤 が 再 び 鐘 紡 に 迎 え 入 れられたのは 明 治 4 年 ()のことであった 復 帰 し た 武 藤 は 経 済 界 に 大 きな 話 題 となる 業 績 を 残 す 民 間 会 社 として 初 めての 外 資 導 入 を 英 断 したのである それは 当 時 の 日 本 において 破 天 荒 なことで あり 全 国 の 新 聞 は 一 斉 にこの 問 題 を 取 り 上 げた 武 藤 の 手 腕 により 鐘 紡 は 経 済 界 に 不 動 の 地 位 を 占 めることになり 大 正 の 初 めには 紡 績 4 社 中 の 資 本 の 半 ばを 占 める 四 大 紡 績 の 一 つへと 成 長 す る その 業 績 は 英 国 勢 力 を 駆 逐 する 勢 いであった 大 正 年 ()54 歳 で 鐘 淵 紡 績 取 締 役 社 長 に 就 任 昭 和 5 年 () 社 長 を 辞 任 し そのまま 相 談 役 に 就 任 する 政 治 との 関 わり 弟 時 三 郎 が 日 露 戦 争 に 出 征 し 二 三 高 地 にて 戦 死 した その 遺 族 扶 助 料 が 余 りに 尐 額 なのに 驚 いたことから 困 窮 する 多 くの 戦 死 者 遺 族 救 済 のために 熱 心 な 軍 人 優 遇 運 動 を 展 開 する これにより 社 会 主 義 者 の 注 意 人 物 とされ 憲 兵 に 尾 行 されることもあったという 各 所 へ 働 きかけるもな かなか 進 展 が 見 られず とうとう 事 務 所 を 設 け 法 の 立 案 に 向 けての 動 きを とった 漸 く 大 正 6 年 (7)7 月 日 軍 事 救 護 法 発 布 これが きっかけで 武 藤 は 政 治 的 立 場 の 必 要 性 を 痛 感 する また 中 国 関 税 引 き 上 げ 反 対 運 動 に 加 わり 大 日 本 実 業 組 合 連 合 会 を 組 織 して 委 員 長 に 就 任 営 業 税 反 対 運 動 を 展 開 するなど 次 第 に 政 治 運 動 への 関 与 を 深 めていった 大 正 年 ()には 他 の 組 合 を 糾 合 して 同 志 を 募 り 実 業 同 志 会 ( 後 の 國 民 同 志 会 )を 結 成 その 会 長 に 就 任 した その 翌 年 の 大 正 年 (4)には 衆 議 院 議 員 選 挙 に 打 って 出 る この 選 挙 で 大 阪 より 最 高 点 当 選 実 業 同 志 会 は 議 席 を 得 た 武 藤 はその 独 自 の 雄 弁 でし ばしば 議 会 の 焦 点 となっている その 後 昭 和 5 年 ()まで 計 4 回 の 選 挙 を 戦 う しかし 理 想 の 強 い 武 藤 への 同 調 者 は 次 第 に 減 り 議 員 の 数 を 武 藤 山 治 7

74 減 らしていくこととなった 74 武 藤 はこれを 通 じ 国 民 の 政 治 意 識 を 高 めるべき 政 治 教 育 の 必 要 性 を 強 く 感 じ 昭 和 7 年 () 政 界 を 引 退 すると 同 時 に 社 団 法 人 國 民 會 館 を 創 設 する 社 会 文 化 貢 献 昭 和 7 年 ( 年 ) 私 財 を 投 入 して 社 団 法 人 國 民 會 館 を 設 立 ( 現 会 長 は 山 治 の 孫 武 藤 治 太 ) 国 民 の 政 治 教 育 を 目 的 とするさまざまな 事 業 は 現 在 に 至 るまで 続 いている はなぶさいっちょう 古 美 術 収 集 家 としての 顔 を 持 ち 横 山 大 観 英 一 蝶 仏 教 美 術 ( 古 写 けんざん 経 仏 画 仏 像 ) 与 謝 蕪 村 尾 形 光 琳 尾 形 乾 山 などを 好 んで 収 集 した 中 でも 大 阪 市 立 美 術 館 ( 天 王 寺 )にある 武 藤 コレクションは 有 名 である 向 井 潤 吉 伊 藤 慶 之 助 など 若 い 芸 術 家 を 後 援 する 一 方 で 与 謝 蕪 村 に 傾 倒 蕪 村 研 究 の 嚆 矢 ともなる 蕪 村 画 集 を 著 している 蕪 村 最 高 傑 作 ともい やしょくろうだいゆき ばんかのず われる 夜 色 楼 台 雪 万 家 図 も 武 藤 が 所 蔵 していた 大 正 年 (4) ブラジル パラ 州 の 知 事 から 日 本 政 府 に 移 民 による 開 拓 の 要 請 があった これを 受 け 鐘 紡 は 昭 和 年 () 南 米 拓 殖 株 式 会 社 という 移 民 推 進 会 社 を 作 り ブラジル 移 民 を 進 める アマゾン 川 流 域 の トメアスという 村 に 最 初 の 家 族 約 人 が 入 植 した 多 くの 困 難 の 末 この 地 で 胡 椒 が 根 付 き 大 きな 成 功 を 収 めるにいたった トメアス 文 化 協 会 の 玄 関 には 武 藤 の 胸 像 が 飾 られている 晩 年 昭 和 7 年 () 65 歳 で 恩 師 福 沢 諭 吉 の 創 った 時 事 新 報 社 の 経 営 を 引 き 受 ける 社 は 当 時 経 営 の 危 機 に 瀕 していた その 紙 上 において 武 藤 は 当 時 の 政 財 界 の 腐 敗 を 突 いていく 昭 和 年 (4)の 番 町 会 を 暴 く キャンペーンである この 帝 人 事 件 から 間 もない 昭 和 年 (4) 月 日 路 上 で 暴 漢 の お 狙 撃 を 受 け 翌 日 死 去 享 年 67 歳 犯 行 の 動 機 は 尾 ぐ 久 火 葬 場 施 設 計 画 に 関 す る 個 人 的 反 感 ではないかと 見 られたが その 場 で 自 殺 したため 真 相 は 謎 の ままである 余 りに 衝 撃 的 な 武 藤 の 最 期 であった

75 武 藤 山 治 は 兵 庫 県 神 戸 市 の 舞 子 石 谷 山 に 眠 る 関 係 人 物 福 沢 諭 吉 啓 蒙 思 想 家 教 育 者 学 者 著 述 家 時 事 新 報 創 刊 発 行 者 慶 應 義 塾 創 設 者 山 治 は 尐 年 時 代 著 書 西 洋 事 情 を 入 口 に 福 沢 の 思 想 に 傾 倒 していき 父 国 三 郎 の 推 薦 で 慶 應 義 塾 に 進 学 福 沢 の 教 え を 受 けることとなる その 思 想 は 終 生 山 治 の 指 針 となった 中 上 川 彦 次 郎 実 業 家 福 沢 諭 吉 の 甥 にあたる 時 事 新 報 社 社 長 山 陽 鉄 道 創 設 時 社 長 などを 経 て 明 治 4 年 () 福 沢 の 要 請 を 受 け 経 営 再 建 のため 三 井 銀 行 並 びに 三 井 財 閥 の 経 営 を 担 う 更 に 王 子 製 紙 鐘 淵 紡 績 芝 浦 製 作 所 などを 傘 下 に 置 き 三 井 財 閥 の 工 業 化 を 進 めた その 推 薦 により 武 藤 は 明 治 6 年 () 三 井 銀 行 入 社 翌 年 に 当 時 の 鐘 淵 兵 庫 分 工 場 の 支 配 人 に 着 任 する 中 上 川 は 武 藤 にとって 実 業 家 としての 出 発 点 に 重 要 な 存 在 となった 学 卒 者 はほぼ 慶 應 出 身 者 のみを 採 用 し 藤 山 雷 太 や 武 藤 ら 有 能 な 人 材 を 育 てた 明 治 4 年 ()47 歳 の 若 さで 突 然 病 死 鈴 木 久 五 郎 株 式 相 場 師 通 称 鈴 久 日 露 戦 争 中 の 株 売 買 を 契 機 に 巨 万 の 富 を 築 き 成 金 と 呼 ばれる 昭 和 7 年 (4) 鐘 紡 の 実 質 上 の 親 会 社 で ある 三 井 銀 行 が 鐘 紡 株 を 手 放 したことにより 鈴 木 がその 大 半 を 買 い 占 め 武 藤 の 経 営 を 窮 地 に 陥 れることとなったが その 後 の 株 価 暴 落 により 全 財 産 を 失 った 美 濃 部 達 吉 憲 法 学 者 政 治 家 大 正 デモクラシーにおける 代 表 的 理 論 家 として 活 躍 する 武 藤 が 日 露 戦 争 を 経 て 軍 事 救 護 法 の 制 定 に 動 くに 当 た り 法 案 の 作 成 を 依 頼 わずか 週 間 で 書 き 上 げられ 大 正 年 (4) 月 の 議 会 に 提 出 された エピソード 武 藤 が 設 置 した 注 意 函 は 当 初 のヵ 月 で 計 74 通 を 数 えた 中 には 無 意 味 な 内 容 や 苦 情 もあったが 実 際 に 採 用 された 改 善 提 案 も 尐 なくはな い 例 えば 消 耗 品 請 求 上 の 手 続 きを 省 略 する 提 案 は 熊 本 工 場 の 一 男 工 から 出 されたものである この 注 意 函 を 武 藤 は 時 事 新 報 社 でも 設 武 藤 山 治 75

76 置 した 76 武 藤 は 社 長 室 の 壁 に 朝 日 東 京 日 日 ( 毎 日 ) 読 売 時 事 新 報 の4 社 の 紙 面 を 貼 り 毎 朝 幹 部 を 集 めて 記 事 の 優 务 を 比 較 し 合 ったと いう また 論 説 思 ふまま を 自 ら 筆 を 執 り 毎 刊 に 署 名 記 事 で 連 載 し た 毎 日 の 執 筆 は 不 可 能 だという 周 囲 からの 声 があったが 政 治 外 交 な どの 時 事 問 題 から 教 育 芸 術 分 野 果 ては 人 生 訓 など 取 り 上 げる 内 容 は 多 岐 にわたりそれらを 分 かりやすく 綴 り 読 者 ファンを 増 やしていった このようにして 武 藤 は 生 涯 にページを 超 える 著 書 をものした ま た 政 治 経 済 の 書 物 や 英 国 の 詩 人 キングズリーの 詩 やミルトンの 翻 訳 など 翻 訳 家 としての 才 も 持 つ キーワード 帝 人 事 件 昭 和 年 (4)に 起 こった 帝 人 株 をめぐる 大 疑 獄 事 件 帝 国 人 造 絹 絲 株 式 会 社 ( 帝 人 )の 系 列 であった 鈴 木 商 店 が 恐 慌 で 倒 産 した ため その 株 式 万 株 が 台 湾 銀 行 の 担 保 となった 元 鈴 木 商 店 の 金 子 直 吉 が 鳩 山 一 郎 文 部 大 臣 や 番 町 会 に 働 きかけ 万 株 を 買 い 戻 すが これと 同 時 に 帝 人 が 増 資 を 決 定 したため 株 価 は 大 きく 値 上 がり 株 買 受 に 関 わっ た 人 々は 大 きな 利 益 を 受 けた この 帝 人 株 をめぐる 贈 収 賄 疑 惑 について 武 藤 は 昭 和 年 月 時 事 新 報 に 番 町 界 を 暴 く と 宣 言 した 告 発 記 事 を 掲 載 筆 誅 を 加 えた これが 政 財 界 に 大 きな 波 紋 を 呼 び 武 藤 の 死 後 み つ ち 黒 田 英 雄 大 蔵 次 官 ら6 名 が 収 賄 三 土 ちゅうぞう 忠 造 なお 鉄 道 大 臣 が 偽 証 罪 高 木 復 帝 人 社 長 ら 名 が 背 任 贈 賄 で 計 6 名 が 起 訴 された これにより 政 府 批 判 まこと が 高 まり 同 年 7 月 に 斎 藤 実 内 閣 は 総 辞 職 となる ところが 年 後 の 昭 和 年 (7)の 判 決 では 贈 収 賄 に 関 しその 事 実 がないとし 全 員 無 罪 と なった 番 町 会 の 一 員 であった 河 合 良 成 は 昭 和 45 年 (7) 帝 人 事 件 三 十 年 目 の 証 言 を 著 し 身 の 潔 白 を 主 張 している 神 奈 川 との 関 わり 晩 年 の 武 藤 は 鎌 倉 郡 大 船 町 ( 現 鎌 倉 市 )に 住 んでいた 東 京 への 通 勤 のため 北 鎌 倉 駅 へ 向 かう 昭 和 年 (4) 月 日 朝 武 藤 は 路 上 で 凶 弾 みち 亨

77 に 倒 れる 文 献 案 内 著 作 蕪 村 画 集 武 藤 山 治 編 審 美 書 院 未 所 蔵 武 藤 山 治 百 話 武 藤 山 治 著 大 日 本 雄 弁 会 講 談 社 Y 私 の 身 の 上 話 武 藤 山 治 著 武 藤 金 太 4 K これは 武 藤 が 雑 誌 公 民 講 座 に 執 筆 し 婦 人 と 生 活 にも 連 載 されたもの を 昭 和 年 (4) 不 慮 の 凶 弾 に 倒 れたため 急 遽 編 纂 して 追 悼 記 念 のため に 非 売 品 として 上 梓 された 武 藤 山 治 全 集 全 巻 増 補 武 藤 山 治 著 新 潮 社 6~66 Y K 紡 績 大 合 同 論 政 治 一 新 論 実 業 読 本 思 うまま 等 の 膨 大 な 量 の 原 稿 を 全 集 としてまとめている 初 著 米 國 移 住 論 は 第 巻 に 収 録 社 史 鐘 紡 製 糸 四 十 年 史 鐘 紡 四 十 年 史 編 纂 委 員 会 鐘 淵 紡 績 65 K 鐘 紡 防 府 工 場 五 十 年 史 鐘 紡 防 府 工 場 五 十 年 史 編 集 委 員 会 5 K 鐘 紡 百 年 史 鐘 紡 株 式 会 社 社 史 編 纂 室 鐘 紡 Y K 昭 和 6 年 (7)に 創 立 百 周 年 を 迎 えた 記 念 事 業 の 一 環 として 発 行 された 鐘 紡 製 紙 四 十 年 史 が 創 業 時 代 から 再 建 時 代 に 至 るまでを 章 立 てし ているのに 比 し 百 年 史 では 武 藤 の 足 跡 が 武 藤 山 治 時 代 ( 明 治 二 十 七 年 ~ 昭 和 五 年 ) として 独 立 してまとめられている 伝 記 文 献 武 藤 山 治 傳 武 藤 絲 治 傳 筒 井 芳 太 郎 著 東 洋 書 館 57 Y K 武 藤 山 治 ( 一 業 一 人 伝 ) 有 竹 修 二 著 時 事 通 信 社 6 Y K 武 藤 山 治 入 交 好 脩 著 吉 川 弘 文 館 64 Y K 武 藤 山 治 の 経 営 革 新 ( 国 民 会 館 叢 書 ) 桑 原 哲 也 著 国 民 会 館 4 Y 武 藤 山 治 77

78 武 藤 山 治 の 思 想 と 実 践 ( 国 民 会 館 叢 書 ) 植 松 忠 博 著 国 民 会 館 4 Y 武 藤 山 治 の 実 像 と 業 績 ( 国 民 会 館 叢 書 ) 武 藤 治 太 矢 沢 永 一 植 松 忠 博 共 著 国 民 会 館 Y 武 藤 山 治 と 時 事 新 報 ( 国 民 会 館 叢 書 5) 松 田 尚 士 著 国 民 会 館 4 Y 武 藤 山 治 と 芸 術 ( 国 民 会 館 叢 書 65) 武 藤 治 太 著 国 民 会 館 6 Y 武 藤 山 治 の 足 跡 ( 国 民 会 館 叢 書 7) 武 藤 治 太 著 国 民 会 館 7 Y 武 藤 山 治 の 先 見 性 ( 国 民 会 館 叢 書 ) 武 藤 治 太 著 国 民 会 館 Y 政 治 を 改 革 する 男 鐘 紡 の 武 藤 山 治 ( 国 民 会 館 叢 書 ) 松 田 尚 士 著 国 民 会 館 Y 武 藤 千 世 子 の 生 涯 と 武 藤 絲 治 鐘 紡 社 長 誕 生 の 経 緯 ( 国 民 会 館 叢 書 ) 松 田 尚 士 著 国 民 会 館 Y なお 正 確 な 伝 記 ではないが 武 藤 を 主 人 公 とする 戯 曲 に 下 記 の 篇 が ある 北 東 の 風 千 万 人 と 雖 も 我 行 かん 久 板 栄 二 郎 戯 曲 集 久 板 栄 二 郎 著 テアトロ 7 p7- p-5 Y 参 考 文 献 アマゾンの 歌 日 本 人 の 記 録 角 田 房 子 著 毎 日 新 聞 社 67 Y ブラジルへの 移 民 事 業 にまつわる 苦 闘 と 成 功 の 物 語 を 描 いた 小 説 である こ れをもとにフジテレビが アマゾンの 歌 というドラマを 製 作 した(7 年 月 放 映 ) 第 回 移 民 の 一 人 である 主 人 公 の 山 田 義 一 役 を 仲 代 達 矢 が 武 藤 山 治 役 を 滝 沢 修 が 演 じている 帝 人 事 件 三 十 三 年 目 の 証 言 河 合 良 成 著 講 談 社 7 Y わたしの 合 繊 回 想 録 佐 藤 渉 著 出 版 文 化 社 K 昭 和 年 (46) 鐘 紡 に 入 社 し 三 大 合 繊 (ポリエステル ナイロン アクリ ル) 全 ての 事 業 化 に 取 り 組 み 昭 和 5 年 (4)にはカネボウ 化 成 株 式 会 社 社 長 その 後 相 談 役 となった 氏 による 鐘 紡 技 術 者 としての 自 分 史 である 7

79 カネボウの 興 亡 日 本 近 代 経 営 史 の 光 と 影 武 藤 治 太 松 田 尚 士 共 著 国 民 会 館 ( 新 風 書 房 発 売 ) K < 多 田 由 紀 江 > コラム 実 業 家 の 伝 記 小 説 年 は 安 田 財 閥 の 基 礎 をつくり 銀 行 王 金 融 王 などと 呼 ばれた 安 田 善 次 郎 の 没 後 年 にあたる そのためだろうか 前 年 の 年 に 安 田 の 伝 記 小 説 が 相 次 いで 出 版 された まず 7 月 に 文 藝 春 秋 より 渡 辺 房 男 著 儲 けすぎた 男 が 続 いて 月 には 月 刊 文 庫 文 蔵 に 連 載 していたものをまとめた 江 上 剛 著 成 り 上 がり がPHP 研 究 所 から 出 版 された 意 外 なことに 安 田 の 伝 記 小 説 は ほとんど 無 く この 冊 は 実 業 家 の 伝 記 小 説 において 収 穫 であろう 伝 記 小 説 作 家 といえば 小 島 直 記 城 山 三 郎 邦 光 史 郎 などの 名 を 挙 げ ることができる 彼 らは 歴 史 上 の 人 物 を 多 く 取 り 上 げているが 実 業 家 の 伝 記 小 説 も 残 している 伝 記 と 伝 記 小 説 はもちろん 別 のものであるが 史 実 を 基 にして その 人 物 の 足 跡 をたどるという 点 では 同 じである 歩 んだ 人 生 をより 鮮 明 に 伝 えるため 小 説 という 形 を 採 っているのである ここ では そんな 伝 記 小 説 を 紹 介 しよう 小 島 直 記 には5 巻 を 数 える 伝 記 文 学 全 集 があり 小 林 一 三 益 田 孝 石 橋 正 二 郎 など 多 数 の 実 業 家 を 描 いている 中 でも 余 程 気 に 入 った のか 電 力 の 鬼 と 呼 ばれた 松 永 安 左 エ 門 については 何 度 も 伝 記 を 書 いて いる まかり 通 る 電 力 の 鬼 松 永 安 左 エ 門 ( 毎 日 新 聞 社 7) 松 永 安 左 エ 門 の 生 涯 ( 松 永 安 左 エ 門 伝 刊 行 会 ) 晩 節 の 光 景 松 永 安 左 エ 門 の 生 涯 ( 図 書 出 版 社 )という 具 合 である のぶてる 城 山 三 郎 には 森 コンツェルンの 創 始 者 である 森 矗 昶 を 主 人 公 にした 男 たちの 好 日 ( 日 本 経 済 新 聞 社 )や 渋 沢 栄 一 を 描 いた 雄 気 堂 々 上 下 ( 新 潮 社 7) またダイエーの 中 内 㓛 の 生 涯 を 著 した 価 格 破 壊 ( 光 文 社 7)などがある 武 藤 山 治 7

80 世 界 の 味 の 素 の 創 業 者 すずき 鈴 木 さぶろうすけ 三 郎 助 ( 代 )(6-) 味 の 素 人 物 データファイル 出 生 慶 応 年 月 7 日 (6) 相 模 国 三 浦 郡 堀 内 村 ( 現 神 奈 川 県 三 浦 郡 葉 山 町 )に 父 初 代 鈴 木 三 郎 助 母 ナカの 長 男 として 生 まれる 幼 名 泰 助 ちゅうじ 弟 忠 治 ほかに 早 世 した 妹 があった 父 初 代 三 郎 助 は 穀 物 や 酒 類 の 小 売 のかたわら 日 用 品 の 販 売 も 行 い 質 商 も 兼 ねる 滝 屋 を 営 んでいた 勤 勉 で 進 取 の 気 性 と 商 才 に 富 んだ 人 物 であった 生 い 立 ち 明 治 年 (75) 月 に 父 が 亡 くなると 泰 助 は 幼 くして 家 督 を 相 続 す みつはし る 明 治 年 (77) 相 州 藤 沢 の 豪 農 三 觜 八 郎 右 衛 門 が 陽 明 学 者 小 笠 原 東 陽 を 招 いて 開 塾 した 耕 余 塾 に 入 る 明 治 年 () 浦 賀 の 米 穀 商 加 藤 小 兵 衛 商 店 に 奉 公 に 出 され 4 年 間 商 業 の 見 習 いをする 主 人 に 人 柄 や 才 能 を 認 められ 信 頼 された 実 業 家 以 前 鈴 木 三 郎 助 伝 より 明 治 7 年 (4) 家 業 を 継 いで 代 目 三 郎 助 ( 以 下 三 郎 助 と 表 記 )を 襲 名 明 治 年 (7) 呉 服 商 辻 井 繁 七 の 次 女 テルと 結 婚 する 順 調 だった 三 郎 助 の 商 売 も 資 金 繰 りに 行 き 詰 まり 一 攫 千 金 を 夢 見 て 米 相 場 に のめり 込 んで 財 産 を 失 う 家 計 の 足 しにと 海 水 浴 の 流 行 による 避 暑 客 相 手 に 間 貸 しを 始 めた 母 ナカは 客 である 大 日 本 製 薬 技 師 の 村 田 春 齢 から 葉 山 の 海 岸 で 豊 富 な かじめ を 焼 いてヨードを 造 ることを 勧 められ 明 治 年 () 秋 嫁 のテルとともに 試 行 錯 誤 の 末 ヨード 製 造 に 成 功 す る 明 治 年 () 長 男 三 郎 の 誕 生 後 大 きな 投 機 に 失 敗 した 三 郎 助 は 相 場 から 足 を 洗 い 本 格 的 なヨード 事 業 経 営 に 取 りかかる

81 実 業 家 時 代 ヨード 事 業 は 順 調 で ヨードカリなどの 二 次 製 品 製 造 まで 拡 大 明 治 6 年 () 葉 山 に 工 場 を 新 設 鈴 木 製 薬 所 の 看 板 を 掲 げた 弟 忠 治 も 勤 めを 辞 め 家 業 になったヨード 事 業 に 参 加 技 術 担 当 として 工 場 を 管 理 する 三 郎 助 は 営 業 担 当 工 場 全 体 の 統 括 という 役 割 分 担 ができる 日 清 戦 争 期 には 硝 石 製 造 にも 進 出 明 治 4 年 () 東 京 出 張 所 開 設 明 治 7 年 (4) 同 業 者 の 棚 橋 寅 五 郎 の 東 京 麻 布 の 工 場 を 譲 り 受 け 東 京 工 場 兼 事 務 所 とし 翌 年 に 逗 子 工 場 を 設 置 その 翌 年 に 千 葉 県 館 山 と 三 重 にヨー ド 工 場 設 置 と 事 業 を 拡 大 していく 明 治 年 (6) 関 東 沃 度 同 業 組 合 が 結 成 されると 初 代 組 合 長 に 推 された 明 治 4 年 (7) 日 露 戦 争 後 のヨー ド 業 界 の 不 況 を 打 開 するため 大 蔵 省 主 導 で 鈴 木 製 薬 所 を 含 む 関 東 大 手 業 者 社 を 統 合 して 日 本 化 学 工 業 株 式 会 社 が 設 立 されると 三 郎 助 は 専 務 取 締 役 に 就 任 したが 事 業 拡 大 に 意 欲 的 な 三 郎 助 は 他 の 経 営 陣 と 意 見 が 合 わなかった 同 年 統 合 から 切 り 離 していた 葉 山 工 場 を 母 体 にして 合 資 会 社 鈴 木 製 薬 所 を 設 立 する きくなえ 昆 布 の うま 味 を 研 究 していた 東 京 帝 国 大 学 教 授 池 田 菊 苗 は 明 治 4 年 ()7 月 グルタミン 酸 塩 を 主 要 成 分 とせる 調 味 料 製 造 法 の 特 許 ( 第 45 号 )を 取 得 三 郎 助 に 事 業 化 を 持 ちかける 三 郎 助 は 池 田 が 味 精 と 呼 ぶその 調 味 料 に 興 味 を 持 つが 新 しい 商 品 が 消 費 者 に 受 け 入 れられるものか 慎 重 に 調 べ( 料 理 店 へ 試 用 依 頼 各 げんさい 界 の 名 士 を 招 いての 試 食 会 など) 食 通 の 作 家 村 井 弦 斎 の 高 評 価 もあり 月 日 特 許 を 共 有 新 調 味 料 の 工 業 化 を 決 める 弟 忠 治 が 技 術 製 造 面 息 子 三 郎 が 販 売 面 を 担 当 した 月 日 本 化 学 工 業 の 麻 布 工 場 の 実 験 室 を 借 り 製 造 実 験 開 始 大 量 生 産 のため 原 料 は 小 麦 粉 になる 名 前 も 味 精 では 酒 精 (アルコール) 等 と 似 ており 薬 品 を 連 想 させるというこ とから 味 の 素 となった( 明 治 4 年 () 月 4 日 に 商 標 登 録 ) いわゆる 美 人 印 商 標 ( 東 京 新 富 町 の 芸 者 をモデルに 描 いた 割 烹 着 に 味 の 素 の 字 を 配 したもの)は 明 治 4 年 () 月 7 日 に 商 標 登 録 され 昭 和 4 年 (7)まで 使 用 された 三 郎 助 は 安 全 性 の 問 題 に 配 慮 鈴 木 三 郎 助

82 して 内 務 省 の 東 京 衛 生 試 験 所 に 味 の 素 の 無 害 評 価 試 験 を 依 頼 し 無 害 証 明 をうけている 明 治 4 年 () 月 逗 子 工 場 で 味 の 素 の 本 格 製 造 が 開 始 されるが 大 変 な 困 難 が 伴 った ヵ 月 後 最 初 の 味 の 素 が 出 来 上 がるが 未 知 の 新 商 品 ゆえ 思 うようには 売 れなかった 三 郎 助 三 郎 を 中 心 に 市 場 開 拓 販 売 ルート 整 備 販 売 促 進 や 広 告 宣 伝 ( 味 の 素 初 の 新 聞 広 告 掲 載 は 明 治 4 年 5 月 6 日 東 京 朝 日 新 聞 )に 苦 心 する 三 郎 助 は 明 治 4 年 ()7 月 に 日 本 化 学 工 業 株 式 会 社 の 専 務 を 辞 任 同 社 の 株 式 を 売 却 しその 資 金 を 味 の 素 事 業 に 充 てる 明 治 45 年 ()4 月 合 資 会 社 鈴 木 商 店 を 設 立 形 式 的 に 三 郎 助 の 個 人 事 業 であった 味 の 素 の 製 造 販 売 と 合 資 会 社 鈴 木 製 薬 所 の 仕 事 だった 製 薬 事 業 を 名 実 ともに 一 本 化 する 味 の 素 は 小 麦 粉 を 原 料 とするため 大 量 に 副 産 される 澱 粉 が 経 営 上 の 難 題 だったが 綿 布 の 糊 付 け 用 として 紡 績 工 場 に 売 ることで 製 造 原 価 を 引 き 下 げ 高 価 だった 味 の 素 の 値 下 げにつなげる 大 正 期 に 入 り 味 の 素 の 売 れ 行 きが 伸 びると 逗 子 工 場 では 生 産 の 限 界 となり また 製 造 上 多 量 の 塩 酸 を 使 うために 発 生 する 塩 酸 ガスや 澱 粉 の 廃 液 といった 公 害 問 題 もあり 大 正 年 (4) 月 川 崎 に 大 型 の 工 場 を 設 置 し 大 量 生 産 体 制 をつくる この 時 塩 酸 法 から 硫 酸 法 へ 製 法 を 転 換 したが 失 敗 三 郎 助 は 躊 躇 することなく 硫 酸 法 の 設 備 を 一 切 破 棄 し 塩 酸 法 への 再 転 換 を 決 意 する 川 崎 工 場 での 塩 酸 法 による 味 の 素 の 製 造 開 始 は 翌 年 4 月 同 時 に 逗 子 工 場 は 閉 鎖 された 第 一 次 世 界 大 戦 期 の 化 学 薬 品 事 業 発 展 の 機 会 を 逃 さず 三 郎 助 は 鈴 木 商 店 の 事 業 を 拡 大 させた 味 の 素 事 業 にも 成 立 の 見 通 しがついたと 判 断 し た 三 郎 助 は 大 正 6 年 (7)6 月 経 営 規 模 拡 大 を 図 って 株 式 会 社 鈴 木 商 店 を 設 立 する また この 時 期 に 電 気 化 学 工 業 にも 進 出 した 大 正 年 () 三 郎 助 は 株 式 投 機 に 失 敗 会 社 の 存 続 が 危 ぶまれる 事 態 となったが 切 り 抜 ける その 後 鈴 木 商 店 を 味 の 素 事 業 を 中 心 に 堅 実 主 義 の 方 針 で 再 建 していく 年 代 半 ば 頃 から 味 の 素 の 原 料 は 蛇 であ

83 る というデマが 広 がり 売 上 げに 悪 影 響 を 及 ぼすに 至 って 大 正 年 () 味 の 素 は 断 じて 蛇 を 原 料 とせず という 声 明 を 各 新 聞 紙 上 に 発 表 する 味 の 素 の 売 上 げが 増 大 し 始 めた 頃 期 限 切 れを 迎 えることと なっていた 特 許 についても 御 木 本 真 珠 に 次 ぐケースとして 大 正 年 ()7 月 5 日 6ヵ 年 延 長 が 許 可 された 同 年 関 東 大 震 災 では 川 崎 工 場 や 東 京 京 橋 の 本 社 社 屋 に 甚 大 な 被 害 を 被 ったが 三 郎 助 は 自 宅 を 復 興 計 画 本 部 にし 迅 速 な 復 興 を 指 揮 した 大 正 4 年 (5) 月 株 式 会 社 鈴 木 商 店 を 設 立 合 資 会 社 鈴 木 商 店 および 従 来 の 株 式 会 社 鈴 木 商 店 の 事 業 を 継 承 する 海 外 での 販 路 拡 張 も 推 進 していく 大 正 5 年 (6) 三 郎 助 は 調 味 料 発 明 の 実 施 者 として 豊 田 佐 吉 御 木 本 幸 吉 とともに 帝 国 発 明 協 会 より 功 労 賞 を 受 けている 昭 和 年 (7) 味 の 素 は 宮 内 省 御 用 達 となった 社 会 文 化 貢 献 三 郎 助 は 関 東 大 震 災 時 川 崎 工 場 から 小 麦 粉,5 袋 を 放 出 させ 東 京 市 芝 区 や 川 崎 工 場 付 近 のヵ 町 村 に 無 料 で 配 布 させるなど 救 護 に 尽 力 し 感 謝 状 を 受 けている また 三 浦 郡 教 育 会 や 葉 山 の 小 学 校 等 のために 寄 付 を 行 い 郷 土 の 教 育 のために 貢 献 した 晩 年 昭 和 4 年 ()4 月 初 のアジア 市 場 視 察 その 後 各 地 で 開 かれた 味 の 素 発 売 周 年 記 念 祝 賀 会 に 出 席 翌 年 は 東 信 電 気 の 諸 工 場 視 察 や 得 意 先 訪 問 など 晩 年 の 三 郎 助 は 国 内 外 をかけめぐって 活 動 した 周 年 を 機 に 本 店 ビルの 建 築 を 決 意 し 定 礎 式 は 昭 和 5 年 ()4 月 に 行 われたが 完 成 を 待 たず 三 郎 助 は 自 邸 の 棟 上 げ 式 の 日 後 昭 和 6 年 () 月 日 に 死 去 した 享 年 6 歳 鈴 木 家 の 墓 所 葉 山 光 徳 寺 に 眠 る 関 係 人 物 池 田 菊 苗 化 学 者 帝 国 大 学 理 科 大 学 助 教 授 在 職 中 の 明 治 年 () にドイツ 留 学 後 ロンドンに 尐 時 滞 在 夏 目 漱 石 と 交 流 があった 明 治 鈴 木 三 郎 助

84 4 年 () 帰 国 後 東 京 帝 国 大 学 教 授 に 就 任 日 本 に 物 理 化 学 の 学 問 領 域 を 導 入 し 化 学 業 界 における 理 論 研 究 の 開 拓 者 指 導 者 として 足 跡 を 残 す 一 方 実 用 的 な 応 用 研 究 にも 関 心 を 持 つ 昆 布 のうま 味 の 研 究 で 4つ の 基 本 味 である 甘 酸 鹹 苦 のほかに うま 味 があり その 本 体 がア ミノ 酸 の 一 種 グルタミン 酸 であり グルタミン 酸 ナトリウムにすると うま 味 が 強 くなることを 発 見 これを 調 味 料 として 工 業 化 することを 模 索 する 特 許 取 得 後 当 時 化 学 薬 品 工 業 界 で 著 名 であった 三 郎 助 に 事 業 化 を 依 頼 これが 新 たな 調 味 料 味 の 素 として 商 品 化 された 池 田 は 大 正 6 年 (7) 財 団 法 人 理 化 学 研 究 所 設 立 に 参 加 化 学 部 長 となる 4 さん じ 武 藤 山 治 実 業 家 副 産 される 澱 粉 を 紡 績 会 社 に 売 ろうとなった 際 明 治 44 年 () 三 郎 助 と 三 郎 は 鐘 淵 紡 績 社 専 務 の 武 藤 山 治 を 訪 ねている 武 藤 が 興 味 を 示 し 検 討 が 進 められ 鐘 淵 紡 績 社 は 鈴 木 商 店 の 澱 粉 を 採 用 することを 決 定 した 武 藤 とはその 後 も 親 密 な 関 係 が 続 いた のぶ てる 森 矗 昶 実 業 家 三 郎 助 は 味 の 素 の 事 業 と 並 んで 発 電 から 一 貫 する 電 気 化 学 工 業 会 社 として 東 信 電 気 株 式 会 社 の 事 業 も 手 がけている 東 信 電 気 は 塩 素 酸 カリ 製 造 のための 安 価 な 電 力 入 手 を 目 的 に 大 正 6 年 (7) 月 に 設 立 した 電 力 会 社 である 発 電 所 建 設 では 森 矗 昶 が 活 躍 し ている 遡 って 明 治 44 年 () 三 郎 助 は 千 葉 館 山 にあった 工 場 を 総 房 水 産 へ 譲 渡 しているが その 時 の 会 談 の 相 手 が 森 であった 第 一 次 世 界 大 戦 後 の 恐 慌 で 行 き 詰 まった 総 房 水 産 の 森 が 三 郎 助 に 助 けを 求 め 大 正 年 () 東 信 電 気 が 総 房 水 産 を 合 併 森 も 東 信 電 気 に 移 っていた 森 は 三 郎 助 の 配 慮 で 大 正 5 年 (6) 日 本 沃 土 株 式 会 社 を 設 立 した 三 郎 助 は 森 の 進 言 で 昭 和 年 () 昭 和 肥 料 株 式 会 社 を 設 立 森 が 専 務 に 就 任 した 三 郎 助 死 去 の 際 親 のように 慕 っていた 森 は あたりかまわ ず 号 泣 したという 昭 和 肥 料 が 初 の 国 産 硫 安 を 生 産 したのは 三 郎 助 死 去 直 後 の4 月 日 のことだった 森 コンツェルンの 日 本 電 気 工 業 ( 前 身 が 日 本 沃 土 )と 昭 和 肥 料 が 合 併 して 昭 和 4 年 () 昭 和 電 工 ができる エピソード ヨード 事 業 の 草 創 期 横 浜 の 薬 種 問 屋 友 田 嘉 兵 衛 が 販 売 や 資 金 面 で 鈴

85 木 家 に 助 力 したが 三 郎 助 はその 恩 義 を 忘 れず 次 女 のトミ 三 女 のトモ とし 五 女 寿 の 名 前 の ト はいずれも 友 田 の ト の 字 を 頂 いたものだという また 子 煩 悩 な 三 郎 助 は 娘 を 結 婚 させても 手 放 すことを 嫌 った 長 女 ヒサの 伴 侶 百 太 郎 次 女 の 伴 侶 六 郎 を 婿 養 子 にした( 後 に 本 家 忠 治 家 と 共 に 鈴 木 四 家 を 形 成 同 族 会 の 有 力 なメンバーとなった) 神 奈 川 との 関 わり 生 まれも 育 ちも 神 奈 川 味 の 素 の 生 産 も 神 奈 川 で 始 まった 現 在 川 崎 事 業 所 がある 鈴 木 町 は 昭 和 年 (7) 味 の 素 の 創 業 者 鈴 木 三 郎 助 にちなみ 町 名 変 更 された また 京 浜 急 行 大 師 線 の 駅 名 も 昭 和 年 (44)に 味 の 素 前 から 鈴 木 町 になっている 文 献 案 内 著 作 まとまった 単 行 書 等 は 確 認 できない 私 の 生 ひ 立 と 事 跡 鈴 木 三 郎 助 手 記 鈴 木 三 郎 助 伝 故 鈴 木 三 郎 助 君 伝 記 編 纂 会 第 編 p-5 Y Yかな K 社 史 味 の 素 沿 革 史 味 の 素 株 式 会 社 内 味 の 素 沿 革 史 編 纂 会 編 味 の 素 5 Y Yかな K 味 の 素 の5 年 味 の 素 編 味 の 素 6 Y Yかな K 味 の 素 株 式 会 社 社 史 味 の 素 株 式 会 社 社 史 編 纂 室 編 味 の 素 7 Y Yかな K 戦 前 編 ( 社 史 )と 戦 後 編 ( 社 史 )の 分 冊 昭 和 44 年 (6) 春 味 の 素 発 売 6 周 年 にちなんで 企 画 された 三 郎 助 の 事 跡 については 第 章 鈴 木 家 と 化 学 工 業 第 章 味 の 素 の 工 業 化 第 章 味 の 素 の 販 路 拡 大 と 経 営 の 波 瀾 に 詳 しい 先 行 の 味 の 素 沿 革 史 味 の 素 5 年 史 稿 ( 非 公 刊 )とは まったく 異 なった 角 度 すなわち 経 営 史 的 視 点 に 立 って 企 業 の 主 体 的 活 動 を 中 心 に 記 述 することを 基 本 方 針 とし ( 編 纂 を ふりかえって より)ている 鈴 木 三 郎 助 5

86 味 をたがやす 味 の 素 八 十 年 史 味 の 素 株 式 会 社 編 纂 味 の 素 Yかな K 味 の 素 グループの 百 年 味 の 素 株 式 会 社 編 味 の 素 K 創 業 周 年 事 業 の 一 環 として 発 刊 された 三 郎 助 の 事 跡 については 序 生 産 開 始 への 道 第 章 創 業 と 模 索 第 章 試 練 の 克 服 に 詳 しい なお 正 史 としての 本 資 料 のほか 従 業 員 版 ( 日 本 語 英 語 ) 海 外 小 冊 子 WEBサイト 社 史 の 小 部 屋 ( 味 の 素 イントラサイト) を 作 成 したとあり 伝 記 文 献 鈴 木 三 郎 助 伝 故 鈴 木 三 郎 助 君 伝 記 編 纂 会 Y Yかな K 三 郎 助 の 死 去 の 翌 年 に 刊 行 された 三 郎 助 の 足 跡 談 話 逸 話 池 田 菊 苗 ほ か 関 係 者 の 追 悼 文 趣 味 に 関 する 追 懐 などが 掲 載 されている 鈴 木 三 郎 助 日 本 実 業 家 列 傳 木 村 毅 著 実 業 之 日 本 社 5 p K 鈴 木 三 郎 助 傳 森 矗 昶 傳 ( 日 本 財 界 人 物 伝 全 集 ) 石 川 悌 次 郎 著 東 洋 書 館 54 Yかな はたらき 一 家 の 総 師 鈴 木 三 郎 助 道 面 豊 信 [ 語 り] 事 業 はこう して 生 れた 創 業 者 を 語 る 版 実 業 之 日 本 社 56 p- Y Case5 マーケティング 活 動 の 先 駆 者 森 永 太 一 郎 と 鈴 木 三 郎 助 5-B 鈴 木 三 郎 助 味 の 素 の 創 業 者 ケースブック 日 本 の 企 業 家 活 動 法 政 大 学 産 業 情 報 センター 宇 田 川 勝 編 有 斐 閣 p- K 第 章 長 瀬 富 郎 と 二 代 鈴 木 三 郎 助 国 産 新 製 品 の 創 製 とマーケティン グ 三 二 代 鈴 木 三 郎 助 と 味 の 素 佐 々 木 聡 著 日 本 の 企 業 家 群 像 佐 々 木 聡 編 丸 善 p5-66 K 参 考 文 献 味 の 素 グループの 百 年 味 の 素 KK ( 参 照 --4) 6

87 京 浜 急 行 大 師 線 鈴 木 町 駅 かわさき 区 の 宝 物 シート 川 崎 区 役 所 区 民 協 働 推 進 部 地 域 振 興 課 まちづくり 推 進 係 ( 参 照 --4) < 矢 島 薫 > コラム 鈴 木 家 の 女 たち 味 の 素 は 鈴 木 三 郎 助 ( 代 )の 母 ナカや 嫁 のテルがいなければ この 世 に 生 まれなかったかもしれない 村 橋 勝 子 氏 の カイシャ 意 外 史 社 史 が 語 る 仰 天 創 業 記 ( 日 本 経 済 新 聞 出 版 社 )に 味 の 素 - 母 と 嫁 とは 同 志 の 仲 として 味 の 素 を 製 造 する 以 前 の 鈴 木 家 における 女 性 の 活 躍 が 紹 介 されている 夫 を 早 くに 亡 くし 幼 い 子 供 らを 育 てながら 残 された 店 を 懸 命 に 守 ったナカ 三 郎 助 がやっと 家 業 を 継 いだかと 思 え ば 米 相 場 で 財 産 を 失 い 生 活 費 にも 困 るようになった ナカは 危 機 に 瀕 した 家 業 を 尐 しでも 挽 回 させるため カジメがヨードの 原 料 になると 教 わって 自 ら 選 んだ 嫁 テル( 三 郎 助 の 弟 忠 治 の 嫁 は テルの 妹 だが これ もナカによる)とともに ヨード 製 造 を 決 意 する 専 門 家 からの 教 示 があ ったとはいえ 素 人 の 身 での 挑 戦 はどれほどの 苦 労 があったろうか ヨー ド 事 業 が 本 格 的 に 始 まると ナカは 誰 よりも 早 く 起 き 率 先 して 働 い た 人 づかいもうまかった 村 橋 氏 は スーパーウーマン と 評 してい る 嫁 テルも 娘 の 行 く 末 を 案 じた 実 家 から 帰 ってきたらいい と 諭 さ れた 際 たとえ 乞 食 におちぶれても 里 方 へ 戻 る 気 はありません と 断 っ たという こういう 女 性 たちの 懸 命 さが 三 郎 助 をヨード 事 業 へ 向 かわせ 鈴 木 家 を 救 ったといえるだろう 鈴 木 三 郎 助 7

88 日本の電力王 ふくざわ ももすけ 福沢 桃介 6 大同電力ほか 人物データファイル 福澤桃介翁傳 より 出生 慶応4年6月 5 日 6 武蔵国横見郡荒子村 現 埼玉県比企郡吉見 町荒子 に 岩崎紀一の次男として生まれる 岩崎本家は旧家で一族には 資産家もいた 母サダは分家し 婿養子の紀一と結婚 家業は貧しい農家 生い立ち 母は農業のほか荒物屋で生計を支えたが 父は代々名主を務めた家の出 で 学問はあったものの風流人で農業には向かず 岩崎本家が出資者の一 人であった第八十五国立銀行の書記を一時務め経済的余裕ができたが 長 続きしなかった 子沢山の生活は貧しく 1億円の金持ちになる を心に 刻む 幼少の頃から神童と呼ばれ 兄は小学校を終えると丁稚に出たが 桃介は川越の中学に進学 さらに親類知人の援助で 明治 6 年 慶 應義塾に入学した 実業家以前 在学中の学力優秀と人目を引く行動や美少年ぶりに 福沢諭吉とその家 ふさ 族に次女 房の夫として着目され養子を打診される 当初は断ったが 夢 であった海外留学が実現できるということで明治 年 7 入籍 後に 分家 し 直後米国へ留学 ニューヨーク州のイーストマン ビジネスカ レッジを4ヵ月で卒業し 先進国の実学を現場で学びたいとペンシルヴェ ニア鉄道に入り実務見習いとなる 諭吉の知遇を得て 全線フリーパスの 支給や技術 経営関係書類の全面的な開示などの特別待遇の研修を受ける また物怖じしない性格から 米国視察に来た政財界の要人の観光案内や接 待も厭わず 日 米の人的ネットワークを築く 岩崎久弥 松方幸次郎

89 星亨らとも親交を深める 明治 年 帰国 すぐに房と結婚し北海道炭鉱鉄道に破格の待遇 ほりもとい で就職 社長が堀基から高島嘉右衛門に代わって 占いに頼った経営に か く ご ろ う なり解雇されるが すぐに井上角五郎に交代したため復職 しかし 外地 への石炭販売のため購入した英国籍の運搬船上で喀血し 辞職した 結核 療養中 先の見えない療養生活の費用を稼ぐために始めた株式相場で財を 成す 結核回復後 歳で 松永安左エ門を仲間に 諭吉の出資も得て丸三商会 を設立 米国の商社と枕木の輸出が纏まりかけた時 東京興信所の 信用 絶無 資産僅少 の判定から資金繰りが閉ざされる 判定の原因究明と資 金繰りに奔走するが 丸三商会は2年で閉鎖 信用調査で相場師と判定さ れ 岳父諭吉からは 目玉が飛び出るほどの御叱りを受けた この時の 身内や慶應義塾の先輩友人らの厳しい対応は これまでの人生観に鋭い反 省と覚悟 そして反発心を促す大きな挫折であった この時2度目の喀血 明治 4 年 北海道炭鉱鉄道に再び入社 日本初の英国からの外資 導入を手掛けるなど有能な社員として5年間働く 北海道炭鉱鉄道を辞し た後 日露戦争による株式暴落の最中 北炭株等を売り素早い手仕舞いで ひ 巨万の財を得る 飛将軍 株成金 の綽名がつく 歳から約 年の間に 利根川水力電気設立 王子製紙取締役 丸三麦 酒買収 帝国人造肥料設立 広滝水力電気の大株主 東京地下電気鉄道発 起出願 瀬戸鉱山設立 日清紡績設立 豊橋電気大株主 取締役 高松電 気軌道設立発起人などに関わる また 諭吉のお供や結核療養予後のため 全国各地を巡ったことが 後年の発電開発に繋がる 実業家時代 相場の世界から 事業に転換を決意 明治4 年 松永安左エ門の ふ くは く 誘いで 福博電気軌道 後に 博多電燈 広滝水力電気 九州電気と合併 し九州電灯鉄道になり東邦電力に繋がる を設立 社長に就任 松永の働 きにより短期間で軌道敷設が実現し その経営手腕から名古屋電燈の経営 のテコ入れを依頼される 明治4 年 大株主となり経営に参画する 福沢桃介

90 が 地 元 の 乗 っ 取 りでは の 反 発 に あっさり 辞 任 しかしこの 時 急 峻 で 豊 富 な 水 量 の 木 曽 川 での 水 力 発 電 に 着 目 し 現 地 調 査 に 入 り 明 治 44 年 () 八 百 津 発 電 所 の 建 設 に 着 手 木 曽 は 御 用 林 があり 皇 室 用 材 運 び 出 しの 筏 流 しがダムでせき 止 められるため 周 辺 に 軽 便 鉄 道 の 敷 設 を 条 件 に 認 可 が 下 りる この 頃 高 松 電 気 軌 道 愛 知 電 気 鉄 道 ( 後 に 名 岐 鉄 道 等 と 合 併 し 名 古 屋 鉄 道 ) 日 本 瓦 斯 四 国 水 力 電 気 浜 田 電 気 野 田 電 気 佐 世 保 電 気 等 々 地 方 電 気 会 社 社 長 を 兼 任 しており 電 気 電 力 のオーソリテ ィーとなっていた 名 古 屋 電 燈 から 再 度 の 要 請 を 受 け 常 務 に 大 正 年 (4)には 社 長 と し ず も よ み か き なり 賤 母 発 電 所 につづき 大 桑 須 原 読 書 桃 山 大 井 落 合 の 発 送 電 所 を 次 々 着 工 また 名 古 屋 電 燈 から 木 曽 電 気 製 鉄 ( 興 業 )を 分 離 設 立 北 陸 電 化 ( 後 の 日 本 水 力 ) 大 阪 送 電 矢 作 水 力 等 を 設 立 大 正 年 () 木 曽 電 気 興 業 日 本 水 力 大 阪 送 電 を 合 併 大 同 電 力 と 改 称 し 社 長 となる 最 大 級 の 大 井 発 電 所 建 設 の 最 中 関 東 大 震 災 により 国 内 での 金 融 が 途 絶 し 外 債 募 集 のため 背 水 の 陣 で 秘 書 と 人 渡 米 する 排 日 運 動 が 巻 き 起 こり 最 悪 と 思 われる 条 件 のなか 総 額 千 5 百 万 ドルの 外 債 を 成 功 させる これは 民 間 では 初 の 外 債 導 入 であった 一 水 系 の 発 電 施 設 は 一 社 が 計 画 的 に 建 設 してこそ 理 想 的 な 水 力 利 用 ができるという 信 念 一 河 川 一 会 社 主 義 を 木 曽 川 水 系 で 実 現 した 大 量 に 作 った 電 気 の 消 費 先 開 拓 も 精 力 的 に 行 う 不 可 能 といわれた 長 距 離 高 圧 電 送 を 計 画 し 須 原 発 電 所 から 犬 山 鈴 鹿 峠 を 超 え 大 阪 まで キロ 間 の 山 越 えの 鉄 塔 敷 設 を 実 現 させ 大 消 費 地 の 関 西 まで 送 電 した ま た 既 に 運 行 していた 国 鉄 の 電 化 が 遅 々として 進 まない ならばと 大 阪 - 東 京 間 に 民 間 電 車 を 併 走 させる 計 画 を 後 藤 新 平 に 進 言 後 藤 の 賛 同 を 得 て 東 海 道 電 気 鉄 道 を 設 立 名 古 屋 - 豊 橋 間 のレールを 敷 いた 時 出 資 者 の 安 田 善 次 郎 の 死 去 により 断 念 現 在 ここは 名 鉄 名 古 屋 本 線 が 走 ってい る そして 矢 作 水 力 の 余 剰 電 力 を 利 用 した 電 解 法 による 硫 安 製 造 の 矢 作 工 業 ( 現 東 亜 合 成 )を 設 立 さらに 大 同 肥 料 大 同 製 鋼 ( 後 の 大 同 特 殊 鋼 ) 等 を 設 立 し 中 京 の 工 業 発 展 に 繋 げる

91 政治との関わり 明治4 5 年 政友会の要請を受け 千葉県から第 回衆議院総選挙 あ いか わよ しす け に出馬し当選するが 1期3年で政界を退く 昭和2年 7 鮎川義介 より勅選議員の推薦があったが辞退 政治には関心を示さなかった 社会 文化貢献 慶應義塾創立5 周年記念図書館の建設準備委員 全5名 に連なり募金 活動を行い 図書館や講堂建設の大口寄付をする 帝国劇場設立発起人に 大倉喜八郎 渋沢栄一等と加わり 大正 5 年 6 には取締役会長に就 任した 工業技術者養成のための教育機関を構想したが 生前には実現せず 大 同電力解散後 同社系列の 社が共同出資し大同工業教育財団を設立し 昭和 4 年 大同工業学校を設置 現 大同大学は 中部財界の基礎 を築いた福沢桃介を大学の祖としている 晩年 昭和3年 突如実業界から引退 関わっていた全ての会社の代表 を辞任 引退後は 財界人物我観 桃介夜話 など著述に勤しむ 昭和 年 2月 5 日 渋谷上智の本邸にて脳栓塞で永眠 享年7 歳 同 2月 日 築地本願寺にて葬儀 都立多磨霊園に埋葬 関係人物 松永安左エ門 明治8年 7 5 生まれ 慶應義塾に再入学し 諭吉が 日課としていた毎朝の散歩のお供の折 同道の病気療養中の桃介と知り合 う 丸三商会 福博電気軌道に桃介と関わった後 九州電気を設立し 多 くの電力会社を併合し東邦電力社長となり 激しい電力競争のもと近畿か ら東北まで支配下に置いた 民間主導の電力再編を主張したことから 電 力の鬼 と呼ばれる 関わった会社は を数える 7歳年上の桃介とは 主人と家来の如く兄弟の如く表裏一体 電気事業に没頭した と語り 生涯続いた関係であった 川上貞奴 桃介が慶應義塾の学生時代に知り合う この時貞奴は 代 福沢桃介

92 よし 半ば すでに伊藤博文など政財界の大物に贔屓にされる日本橋葭町の売 れっ子芸妓であった 書生芝居で人気の川上音二郎と結婚 海外公演の時 舞台に立ったことから 欧米で大好評を博し日本の女優第1号と呼ばれる 音二郎の死後 桃介と再会 桃介は公の場にも貞奴を同伴したので世間の 耳目を集めたが 木曽川水系に次々と発電所を建設中の多忙な桃介のパー トナーとして 名古屋二葉町の屋敷や木曽川の工事現場へ訪れる内外の仕 事関係者の接待や 強健でない桃介の健康面など 晩年近くまで支えた エピソード 木曽川水系の7つの発電所のヘッドタンクの礎石に 各界の巨星の肖像 画とメッセージを掲げた 大井発電所は福沢諭吉 読書発電所は山形有朋 賤母発電所は西園寺公望 落合発電所はトーマス エジソン 米 発明 王 大桑発電所はジョルジュ クレマンソー 仏 首相 須原発電所 はロイド ジョージ 英 首相 桃山発電所はグリエルモ マルコーニ 伊 無線電信発明者 桃介が直々に依頼をしたという しかし大戦時 の供出のためか 海外の各氏のレリーフは残っていない 現在 読書発電 所は 国の近代化遺産 重要文化財 に指定され 発電所建設当時拠点と して建てられた三留野駅 現 南木曽駅 近くの桃介の別荘は 復元され て 福沢桃介記念館 となっている 慶應義塾の運動会で 大きなライオンの顔を描いた白シャツで走った ことが 福沢一家の目につき 次女 房の候補となった話は有名 株で 大成金 と言われても まだ事業家としては知られていなかった 頃 西園寺公望との間を取持ってくれるという友人の誘いを断り 西園寺 の贔屓の芸妓を全て数ヵ月も借り切って これを不審に思った西園寺が桃 介の存在を知る ここから知遇を得 西園寺が閑地に付いてからも 好物 の宮繁大根を手土産に訪ねた 金銭上の公私の別に極めて潔癖で 自らを ケチの桃介 と言っていた が 隠れて多くの生きた金を使った たとえば ダイヤモンド社を創業し たばかりの石山賢吉の資金難を知ると 毎月決まった額を幾月にも渡り そっと渡してくれた また 多くの財界人に引き合わせてくれた と石山

93 は記している しかも ダイヤモンド 誌に桃介の不都合な記事が載って も 全く関知しなかった キーワード 桃介式 桃介著作の題名 その内容は出世 成功の技と心得を直裁に 指南したサラリーマン処世訓だが 要領よく立ち回る人々の言動を 桃介 式 と当時呼んだ 五大電力 明治以降各地に乱立した電気会社は合併買収をくり返し 大 正に入って東京電燈 東邦電力 松永安左エ門 大同電力 桃介 日 本電力 宇治川電力の五大電力となった 電力管理 戦時体制強化に伴う電力不足克服のため 電力事業の国家 管理法が昭和 年 制定 これにより電力は国家管理となり 日本 発送電 が設立され 五大電力は解散 1発電9配電体制となる 戦後 日本発送電は9電力 後に沖縄を入れ に分割された 神奈川との関わり 大同電力は大正 年 東京電燈と 京浜地方における電力供給契 約を紳士協定したが 電力会社それぞれが熾烈な競争を繰り広げ紛争問題 に発展 結局 大同電力東京変電所は横浜市神奈川区南綱島町字新田耕地 に建設はしたが 京浜地区への大規模な割り込みは実現できなかった 大磯で結核の療養をした 明治 年 6 から同 5 年 まで大 磯南浜岳 現 東町 の土地を所有したとの記録あり また箱根 鎌倉扇 谷 横浜富岡に別荘を所有していたとあるが詳細は不明 ちなみに 貞奴 と川上音二郎の自宅 萬松園跡地は 現在茅ヶ崎市美術館となっている 文献案内 著作 桃介夜話 福沢桃介著 先進社 K 福沢桃介の人間学 福沢桃介著 五月書房 4 未所蔵 桃介は斯くの如し 星文館 桃介式 実業之世界社 を所収 福沢桃介

94 福沢桃介の経営学 福沢桃介著 五月書房 5 未所蔵 無遠慮に申上候 実業之日本社 稀世の人物評といわれる 財界 人物我観 ダイヤモンド社 6 を所収 社史 多数の会社を短期間で出願 設立 合併 統廃合し多数の会社に関わっ たが 今に引き継がれている会社としては 日清紡績 東亞合成 関西電 力 中部電力 東邦ガス 大同特殊鋼 名古屋鉄道 帝国劇場などが挙げ られ それぞれに記述が見られる この他 巻頭に創始者の1人として桃 介を挙げている社史も多い 大同電力株式会社沿革史 大同電力 4 Y K 序言に 電気事業者としての福澤桃介氏は 木曽川を離れて福澤氏無く 福 澤氏を離れて木曽川の開発無しとも謂うべく と記されている 木曽電気製 鋼 日本水力 大阪電送合併から 昭和 4 年 の電力国家管理による解 散までを記録している 大同製鋼50年史 大同製鋼 6 7 K 名古屋電燈から電気製鋼所 木曽電気製鉄 大同電気から大同製鋼へ繋がる 記載の中 桃介の関心が水力発電を基軸に重化学工業に広がる点が窺える 東亜合成五十年史 東亜合成 5 K 東邦電力史 東邦電力刊行会 6 Y K 前史編に 関西水力電気 名古屋電燈 九州電燈鉄道の略史あり 福博電気 軌道の設立と博多電燈への合併が記録されている 東邦電力設立時社長の桃介 の辞任の挨拶文があり 松永の東邦電力に代わるのが見える 伝記文献 福澤桃介翁傳 大西理平編 福沢桃介翁伝記編纂所 大同電力内 K 編纂着手は昭和 年 5 桃介は 読者に利益のない伝記は無用の長物 失敗も成功も率直に記述し後人に寄与しなければならぬ と言っていたが 刊 行を待たずに亡くなった 写真と逸話も豊富に収録 4

95 財界の鬼才 福沢桃介の生涯 宮寺敏雄著 四季社 5 K 著者は大正4年 名古屋電燈に入社し 桃介の部下として働く 後に 大阪電力 大同化学工業 大同電力の取締役等を経て揖斐川電気工業取締役社 長 巻末特別寄稿に 松永安左エ門が 福沢桃介さんと私 を寄せている 激流の人 電力王福沢桃介の生涯 矢田弥八著 光風社書店 6 K 電力王 福沢桃介 堀和久著 ぱる出版 4 K 鬼才福沢桃介の生涯 浅利桂一郎著 日本放送出版協会 Y 日本の電力王 福沢桃介 続 武州 吉見の人物誌 長沢士朗著 吉見町 埼玉県比企郡 p 4 Y 第二世代への拡がり 福沢諭吉の留学観と桃介 桜木孝司著 国際ビ ジネスマンの誕生 日米経済関係の開拓者 阪田安雄編著 東京堂出版 p 4 5 K 参考文献 日本の電力王 福沢桃介が今に伝えるメッセージ 湖畔に刻まれた歴 史 湖水の文化史シリーズ3 竹林征三著 山海堂 6 p 7 未所蔵 土木技術者の著者がダム等施設の石碑を紹介し桃介の仕事を称えている 冥府回廊 上 下 杉本苑子著 日本放送出版協会 4 Y 妻 房の側から桃介を取り巻く人間模様が描かれている これと同著者の マダム貞奴 読売新聞社 7 6 Y を原作に NHK大河ドラマ 春の 波濤 が昭和6 年 5 放送された 大同大 学 大学紹 介 h t t p : / / w w w. d a i d o i t. a c. j p / d a i g a k u s y o u k a i / 参照 佐賀原正江 福沢桃介 5

96 三 溪 園 に 名 を 残 す 横 浜 の 豪 商 はら 原 とみ たろう 富 太 郎 (6-) 原 合 名 会 社 ほか 人 物 データファイル 出 生 6 慶 応 4 年 月 日 (6) 美 濃 国 厚 見 郡 佐 波 村 ( 現 岐 阜 県 岐 阜 市 )で 代 々 名 主 役 をつとめていた 青 木 家 当 主 久 衛 の 長 男 として 生 まれた 母 こと きょう そん あ ん ぱ ち ぐ ん ご う ど の 父 高 橋 杏 村 は 南 画 家 としても 名 高 く 安 八 郡 神 戸 村 ( 現 神 戸 町 )で 私 塾 を 営 んでいたが 同 年 5 月 に 没 し 富 太 郎 はその 生 まれ 変 わり と も 噂 された 生 い 立 ち 佐 波 村 の 寺 子 屋 尚 文 義 校 日 置 江 村 の 三 余 私 塾 に 通 い さらに 大 垣 の 野 村 藤 陰 の 鶏 鳴 塾 で 漢 籍 を 学 んだ 明 治 年 () 上 京 東 京 専 門 学 校 ( 現 早 稲 田 大 学 の 前 身 )に 入 学 し 政 治 経 済 等 の 新 学 問 を 修 める 実 業 家 以 前 や 東 京 で 女 学 生 原 屋 す 寿 かめぜん と 相 思 の 仲 となる 原 屋 寿 は 亀 善 こと 生 糸 売 込 商 はらぜんざぶろう 亀 屋 原 善 三 郎 の 孫 娘 で 両 親 はすでに 亡 く 横 浜 一 の 豪 商 原 家 の 跡 継 ぎ 娘 であった 屋 寿 の 通 う 跡 見 女 学 校 の 跡 見 花 蹊 校 長 の 尽 力 により すでに 青 木 家 戸 主 として 家 督 相 続 していた 富 太 郎 が 原 家 に 入 ることで 縁 談 はまとま り 明 治 4 年 () 中 島 信 行 ( 官 選 第 代 神 奈 川 県 令 ) 湘 煙 夫 妻 の 媒 酌 により 数 えで4 歳 と 歳 の 二 人 は 結 婚 する 富 太 郎 は 翌 5 年 原 家 の 婿 養 子 となり 原 商 店 で 店 員 見 習 いを 始 める 実 業 家 時 代 横 濱 興 信 銀 行 三 十 年 史 より 明 治 年 () 原 善 三 郎 が 死 去 すると 富 太 郎 は 原 商 店 を 原 合 名 会 社 に 改 め その 代 表 社 員 となって 経 営 の 陣 頭 指 揮 をとる 旧 来 の 店 員 には 名 誉 店 員 の 称 号 と 充 分 な 退 職 金 さらに 住 居 や 年 金 まで 与 えて 円 満 に

97 退 職 させ 冗 員 を 整 理 し その 一 方 で 広 く 優 秀 な 人 材 を 集 め 経 営 の 近 代 化 を 図 る 原 輸 出 店 (のち 輸 出 部 として 合 併 )を 創 設 し ロシアへの 生 糸 輸 出 をはじめ フランスのリヨンに 代 理 店 を 設 けて イタリア スイス イ ギリスと 貿 易 通 路 を 開 拓 さらに ニューヨークにも 代 理 店 を 開 き 対 米 貿 易 に 力 を 入 れる( 代 理 店 はのちに 支 店 に 昇 格 ) 明 治 5 年 () 第 二 国 立 銀 行 ( 前 身 は 原 善 三 郎 らの 設 立 した 横 浜 為 替 会 社 昭 和 年 横 浜 興 信 銀 行 に 営 業 譲 渡 ) 頭 取 となる 三 井 家 所 管 の 富 岡 製 糸 所 を 含 む 四 大 製 糸 所 を 譲 り 受 けて 製 糸 業 を 拡 張 し 蚕 種 改 良 に 力 を 入 れ 生 糸 の 品 質 向 上 に 努 めた また 横 浜 子 安 に 製 糸 研 究 所 を 設 け 自 動 製 糸 機 の 発 明 と 実 用 化 を 実 現 した 原 合 名 会 社 は 生 糸 売 込 部 に 加 え 輸 出 部 製 糸 部 地 所 部 さらに 林 業 部 までも 持 つ 近 代 的 会 社 組 織 となって 発 展 していく 明 治 年 (5) 国 と 市 共 営 の 築 港 を 立 案 港 湾 改 良 期 成 会 を 結 成 し 桂 太 郎 首 相 に 直 接 訴 えて 横 浜 港 の 拡 張 工 事 の 了 解 を 得 整 備 拡 張 が 行 われた 明 治 4 年 には 横 浜 経 済 協 会 を 設 立 発 会 式 には 桂 首 相 が 全 閣 僚 を 引 き 連 れて 参 列 したという 横 浜 の 繁 栄 のため 横 浜 駅 ( 現 在 の 桜 木 町 駅 )を 高 島 町 に 移 転 して 大 船 までの 延 伸 を 計 画 したり( 駅 の 移 転 は 大 正 4 年 に 実 現 したが 磯 子 までの 延 伸 は 昭 和 年 大 船 までの 延 伸 は 昭 和 4 年 にようやく 実 現 ) 工 業 招 致 をして 鶴 見 埋 め 立 て 策 を 講 じるなど 実 績 をあげている また 桂 内 閣 の 財 政 諮 問 機 関 の 委 員 にもなり 横 浜 を 代 表 する 実 業 家 としての 地 歩 を 固 めていった 大 正 年 ()の 日 本 夏 帽 を 手 始 めに 日 本 リンネット 朝 鮮 農 林 ご む 南 和 護 謨 大 和 鉛 筆 ( 現 在 の 三 菱 鉛 筆 ) 等 の 事 業 を 次 々 設 立 し 原 一 族 お せい よび 社 員 に 経 営 に 当 たらせる また 大 正 5 年 ころから 横 浜 舎 密 研 究 所 を 設 立 し 空 中 窒 素 人 造 絹 糸 等 研 究 させた 富 太 郎 自 身 は 蚕 糸 業 を 本 業 としたが 南 満 州 鉄 道 ( 満 鉄 ) 日 本 郵 船 東 洋 製 鉄 の 重 役 や 三 井 銀 行 の 取 締 役 も 務 め 日 本 工 業 倶 楽 部 副 会 長 としても 活 躍 した 大 正 4 年 (5) 第 一 次 世 界 大 戦 による 不 況 から 生 糸 が 暴 落 日 本 最 大 の 外 貨 獲 得 産 業 であった 蚕 糸 業 を 救 済 するために 月 に 帝 国 蚕 糸 株 式 会 み 原 富 太 郎 7

98 社 が 設 立 され 請 われて 社 長 に 就 任 する 当 局 と 粘 り 強 く 交 渉 を 重 ね 政 府 の 助 成 金 5 万 円 を 得 て 救 済 策 を 進 め 目 的 を 達 して6 月 に 解 散 助 成 金 に 純 益 67 万 円 も 加 え 政 府 に 返 納 した 大 正 年 戦 後 恐 慌 から 第 七 十 四 国 立 銀 行 が 破 綻 し 整 理 相 談 役 として 東 奔 西 走 し 平 民 宰 相 といわれた 原 敬 首 相 に 直 接 申 し 入 れ 新 設 した 横 浜 興 信 銀 行 ( 現 在 の 横 浜 銀 行 ) 頭 取 に 就 任 し 無 報 酬 で 横 浜 の 経 済 のために 尽 力 する また 糸 価 が 暴 落 して 生 糸 業 界 が 危 機 に 陥 り 第 二 次 帝 国 蚕 糸 株 式 会 社 が 設 立 された 際 にも 筆 頭 専 務 として 政 府 と 交 渉 にあたり 大 正 年 に 莫 大 な 利 益 を 上 げて 解 散 した このときの 利 益 から 生 糸 検 査 所 帝 蚕 倉 庫 が 増 築 設 立 されることになる 大 正 年 () 関 東 大 震 災 により 横 浜 は 甚 大 な 被 害 を 受 けた 月 日 震 災 当 日 富 太 郎 は 箱 根 の 別 荘 に 滞 在 していたが 徒 歩 大 八 車 さら には 小 舟 を 使 って4 日 午 後 自 宅 に 帰 り 着 いた このころから 外 国 人 貿 易 商 社 員 が 神 戸 に 移 動 を 始 め 神 戸 港 が 生 糸 輸 出 の 主 導 権 を 奪 おうとしてい た 日 には 横 浜 貿 易 復 興 会 の 理 事 長 に さらに 日 には 横 浜 市 復 興 会 の 会 長 に 推 され 未 曾 有 の 苦 難 の 時 に 身 を 挺 し 私 財 を 投 じて 横 浜 市 の 復 興 のために 尽 力 した 横 浜 市 復 興 会 は 大 正 5 年 に 目 的 を 達 成 し 解 散 する 社 会 文 化 貢 献 くじゃくみょうおう えんまてん ね ざ め 古 画 古 美 術 を 愛 好 し 国 宝 孔 雀 明 王 や 閻 魔 天 寝 覚 物 語 絵 巻 を 含 む 優 れた 名 画 名 品 を 多 数 収 集 し それによりわが 国 古 来 の 芸 術 作 品 が 海 外 に 流 出 するのを 防 いだ 総 数 6 千 点 とも 千 点 ともされる 三 溪 旧 蔵 の 名 品 の 多 くは 現 在 三 溪 園 内 の 三 溪 記 念 館 や 全 国 の 美 術 館 博 物 館 で 見 ることができる 原 家 は 明 治 5 年 () 横 浜 市 老 松 町 ( 現 在 の 野 毛 山 公 園 )から 善 三 郎 の 山 荘 のあった 本 牧 三 之 谷 に 転 居 する 三 之 谷 の 名 にちなんで 三 溪 と 号 したとされるが 恩 のある 跡 見 花 蹊 の 蹊 との 同 音 も 意 識 されていたら しい 明 治 年 自 宅 の 三 溪 園 ( 現 在 の 外 苑 )を 一 般 に 開 放 する 海 に 臨 む 山 や 谷 など 起 伏 ある 景 勝 の 地 を 活 かし 由 緒 ある 古 建 築 を 移 築 し 滝 や 石 など 配 置 し 造 園 した 名 庭 園 明 媚 なる 自 然 の 風 景 は 造 物 主 の 領 域 に 属

99 し 余 の 私 有 には 非 ざる 也 此 れを 公 開 するは 寧 ろ 当 然 の 義 務 ( 横 浜 貿 易 新 報 寄 稿 明 治 4 年 月 )との 考 えから 市 民 に 無 料 開 放 した 大 正 年 には 大 師 会 の 会 場 として 日 に 渡 って7 席 の 茶 席 茗 筵 が 開 かれ 北 野 の 大 茶 湯 にも 比 べられる 大 茶 会 として 記 憶 される 現 在 は 国 の 重 要 文 化 財 の 棟 をはじめとする7 棟 の 塔 や 建 物 が 点 在 し 国 の 名 勝 にも 指 定 されている 臥 が りょう 竜 ばい りょくがく 梅 や 緑 萼 ばい かん 梅 もある 梅 林 での 観 梅 会 早 朝 観 れん 蓮 会 観 月 会 菊 花 展 等 四 季 折 々に 美 しい 庭 園 として 横 浜 の 名 所 となっている 日 本 美 術 院 の 岡 倉 天 心 に 新 鋭 画 家 援 助 の 意 志 を 伝 え 下 村 観 山 安 田 靫 彦 今 村 紫 紅 速 水 御 舟 小 林 古 径 前 田 青 邨 また 木 彫 家 の 平 櫛 田 中 佐 藤 朝 山 らを 経 済 的 精 神 的 に 支 援 した 彼 らは 三 溪 コレクションの 名 品 を 前 に 三 溪 とともに 芸 術 論 を 交 わし 三 溪 園 に 滞 在 して 制 作 した 作 品 が 文 展 入 賞 を 果 たすこととなり 大 正 期 を 代 表 する 芸 術 家 を 数 多 く 育 成 した 社 会 事 業 慈 善 事 業 にも 深 い 関 心 を 持 ち 恩 賜 財 団 済 生 会 神 奈 川 県 匡 済 会 横 浜 衛 生 組 合 連 合 会 神 奈 川 県 社 会 事 業 協 会 神 奈 川 県 乳 幼 児 保 護 協 会 横 浜 孤 児 院 出 獄 人 保 護 会 等 多 くの 団 体 を 多 額 の 寄 付 で 支 え その 人 望 から 会 長 や 役 員 に 推 されることも 多 かった 晩 年 昭 和 4 年 () 世 界 恐 慌 の 頃 から 人 絹 との 価 格 競 争 に 敗 れ 生 糸 業 は 衰 退 していく 富 太 郎 自 身 の 健 康 も 衰 え 親 友 ともいえる 井 上 準 之 助 前 蔵 だん た く ま 相 長 男 の 妻 寿 枝 子 の 実 父 である 團 琢 磨 が 血 盟 団 の 凶 弾 に 倒 れる 昭 和 どんのう じ あん 年 には 長 男 善 一 郎 が 病 死 日 後 に 益 田 鈍 翁 松 永 耳 庵 ら その 前 日 には 善 一 郎 の 友 人 の 谷 川 徹 三 和 辻 哲 郎 の 人 を 三 溪 園 に 招 き 浄 土 飯 の 茶 事 を 開 く 昭 和 4 年 月 6 日 病 気 が 悪 化 し 愛 蔵 の 雪 舟 の 山 水 画 を 枕 元 に 自 宅 三 溪 園 にて 逝 去 した 一 切 の 香 典 供 花 をことわり 棺 を 飾 った のは 邸 内 に 咲 く 蓮 の 花 だけであった 享 年 7 歳 東 京 日 日 新 聞 に 徳 富 蘇 峰 は 思 慮 もあり 学 識 もあり 教 養 もあり 世 間 の 実 業 家 と 称 せらるゝ 仲 間 では 実 に 群 鶏 の 一 鶴 美 術 の 蒐 集 家 にしてまた 書 画 共 に 素 人 離 れ と その 死 を 悼 んだ 葬 式 前 日 横 浜 市 は 緊 急 市 会 を 開 き 生 前 ノ 功 労 ニ 対 シ 感 謝 文 贈 呈 を 決 める 墓 は 横 浜 市 内 久 保 山 墓 地 の 原 家 墓 所 にある 原 富 太 郎

100 関 係 人 物 原 善 三 郎 明 治 年 頃 横 浜 市 本 牧 に 山 荘 を 築 き 陸 奥 宗 光 とともに 訪 れた 伊 藤 博 文 がその 山 荘 を 松 風 閣 と 命 名 した ( 当 時 の 建 物 は 関 東 大 震 災 で 失 われたが その 名 称 は 現 在 も 三 溪 園 に 残 る ) 富 太 郎 に 初 めて 会 った ときからその 人 物 を 見 込 んで 後 継 者 とした しんしゃ 益 田 孝 ( 鈍 翁 ) 三 溪 が 最 も 親 炙 し 益 田 も ( 原 の)えらいことは 到 底 書 き 尽 くせない と 深 い 交 友 を 結 んだ 明 治 6 年 () 弘 法 大 師 筆 座 右 銘 を 入 手 大 師 堂 を 建 てて 茶 会 を 催 し 後 には 原 富 太 郎 團 琢 磨 根 津 す き し ゃ 嘉 一 郎 と4 人 で 持 ち 回 り 現 在 も 続 く 数 寄 者 の 茶 会 大 師 会 を 育 てた 松 永 安 左 エ 門 ( 耳 庵 ) 電 力 王 電 力 の 鬼 と 言 われた 財 界 人 数 えの6 歳 を 過 ぎてから 茶 を 始 め 三 溪 先 生 の 茶 事 は 創 造 と 高 く 評 価 し 常 に 先 生 と 呼 んで 尊 敬 した 和 辻 哲 郎 哲 学 者 の 和 辻 哲 郎 はその 夫 人 が 富 太 郎 の 長 女 春 子 と 親 友 で 三 溪 園 にもよく 出 入 りしており 夏 目 漱 石 を 案 内 して 三 溪 園 で 文 人 画 を 鑑 賞 している また 漱 石 門 下 の 芥 川 龍 之 介 は 富 太 郎 の 長 男 善 一 郎 と 同 級 生 で 三 溪 園 を 何 度 か 訪 れて 俳 句 も 作 っている 笹 鳴 くや 横 笛 堂 の 真 木 柱 タゴール インドの 詩 聖 タゴールは 大 正 5 年 (6) 横 山 大 観 の 依 頼 で 三 溪 園 に 約 ヵ 月 逗 留 し その 後 の 来 日 の 際 にも 回 滞 在 している タ ゴールは 自 身 が 創 設 したサンケニ タケーン 学 校 に 日 本 画 の 教 師 を 招 聘 し あ ら い かんぽう たいと 申 し 出 三 溪 は 大 観 や 観 山 とも 相 談 し 荒 井 寛 方 を 派 遣 し 彼 は 任 務 の 傍 らアジャンター 壁 画 を 模 写 した 日 本 美 術 の 紹 介 者 フェノロサ 鉄 道 王 フリーア 等 海 外 からの 賓 客 も 数 多 く 訪 れ 庭 園 の 美 しさ 日 本 美 術 の 名 作 に 感 嘆 している エピソード 明 治 大 正 から 昭 和 にかけての 古 美 術 蒐 集 家 四 大 巨 頭 と 称 せられたのは 井 上 馨 侯 爵 田 中 光 顕 伯 爵 益 田 孝 男 爵 そして 原 富 太 郎 であった 井 上 そうあん 馨 所 蔵 の 孔 雀 明 王 を 高 橋 義 雄 ( 箒 庵 )の 紹 介 で 富 太 郎 が 万 円 で 購 入 したのは 名 高 いエピソード 当 時 の 万 円 は 記 録 破 りの 高 額 であった 若 き 日 本 画 家 たちの 研 究 費 は 百 円 月 に6 円 もあれば 生 活 できた 時 代 に

101 君 個 人 の 世 話 をするのではなく 日 本 の 画 道 のために 世 話 をしたい と 援 助 した 美 食 家 としても 知 られ 原 家 には 中 華 和 食 洋 食 の 人 の 料 理 人 さんけいそば がいたとされる 三 溪 自 身 が 考 案 したという 三 溪 麺 は 現 在 も 園 内 お よび 隣 接 する 隣 花 苑 ( 長 女 春 子 が 住 んでいた 古 民 家 で 孫 の 開 いた 料 亭 )で 食 べられる また 浄 土 飯 は 溜 塗 りの 上 に 蓮 の 葉 を 敷 き 紅 の 蓮 の 花 びらを 盛 り 花 びらの 中 の 香 飯 を 椀 に 移 して 蓮 の 実 を 入 れた 汁 をかけて 食 べる 趣 向 で 蓮 を 愛 した 原 の 蓮 華 飯 として 有 名 だった 神 奈 川 との 関 わり 横 浜 の 豪 商 原 善 三 郎 の 孫 娘 と 結 婚 した 時 から 横 浜 に 住 み 原 はどこ までも 横 浜 と 生 死 を 共 にしなければならない と 語 っていた 備 忘 録 であ る 随 感 録 には 余 は 横 浜 に 生 存 の 恩 を 担 えり されば 横 浜 に 必 要 なる 事 件 に 精 力 を 集 注 し 横 浜 に 対 する 生 活 の 恩 共 同 生 活 の 恩 に 万 一 を 報 ぜ んと 決 せり という 決 意 が 語 られている 横 浜 大 御 所 と 称 された 箱 根 芦 の 湯 に 別 荘 去 来 山 荘 を 建 てる また 箱 根 強 羅 の 別 荘 白 雲 洞 は 利 休 以 来 の 大 茶 人 と 言 われた 益 田 孝 ( 鈍 翁 )が 造 営 し 三 溪 に 絶 対 無 償 を 条 件 に 譲 ったもの 三 溪 没 後 やはり 無 償 で 松 永 安 左 エ 門 ( 耳 庵 )に 譲 られた 茶 人 から 茶 人 へと 引 き 継 がれた 別 荘 は 現 在 も 強 羅 公 園 内 で 茶 室 として 利 用 されている 文 献 案 内 著 作 三 溪 畫 集 原 三 溪 ~4 Yかな 第 一 輯 冒 頭 に 此 れ 余 が 肖 像 なり 他 年 余 之 死 後 余 の 知 己 親 友 に 贈 れ とある 自 作 品 を 印 刷 集 成 したもの 没 後 も 続 いて 刊 行 され 全 6 巻 に 及 ぶ 美 製 画 集 前 田 青 邨 は 花 鳥 のうまさに 至 っては 絶 品 といえる 程 と 称 えている 餘 技 原 三 溪 編 大 塚 巧 芸 Yかな 収 集 してきた 書 画 のうち 源 実 朝 宮 本 武 蔵 徳 川 家 光 市 川 団 十 郎 等 の 絵 画 の 専 門 家 以 外 の 絵 画 4 図 を 編 集 出 版 した 珍 しい 美 術 書 原 富 太 郎

102 社 史 横 濱 興 信 銀 行 三 十 年 史 横 浜 興 信 銀 行 5 Yかな K 原 富 太 郎 の 筆 蹟 と 肖 像 写 真 から 始 まる 開 業 祝 賀 会 で 当 時 の 神 奈 川 県 知 事 井 上 孝 哉 は 之 は 一 つの 公 共 事 業 であり 特 に 原 氏 始 め 設 立 に 参 加 した 人 々の 義 挙 だと 思 う と 語 った 横 濱 興 信 の 名 称 は 大 正 年 が 庚 申 の 年 に 当 り コウシン をもじったとされる 伝 記 文 献 藝 術 のパトロン 矢 代 幸 雄 著 新 潮 社 5 Y 松 方 幸 次 郎 大 原 孫 三 郎 らと 並 び 三 溪 にもっとも 紙 数 がさかれている 著 者 は 美 術 史 家 だが タゴール 来 日 の 際 に 通 訳 を 依 頼 され 三 溪 園 に 滞 在 した 間 近 に 見 た 三 溪 の 思 い 出 を 私 はあんなに 優 しくて 然 も 鋭 く 度 量 大 にして 細 心 なる 人 を 見 たことがない と 語 る 原 富 太 郎 ( 一 業 一 人 伝 ) 森 本 宋 著 時 事 通 信 社 64 Yかな 表 紙 の 原 三 溪 の 文 字 は 本 人 の 自 筆 著 者 は 新 聞 記 者 として 直 接 原 氏 と 面 識 があり 藤 本 氏 の 稿 本 も 参 考 に 写 実 的 に 語 る なお 4ページには 昭 和 三 十 四 年 七 月 四 日 から 同 十 三 日 まで 神 奈 川 県 立 図 書 館 で 三 溪 遺 墨 展 が 開 催 された 富 太 郎 の 遺 墨 百 二 十 点 が 展 示 されるとともに 農 博 藤 本 実 也 と 東 京 国 立 文 化 財 研 究 所 長 田 中 一 松 の 三 溪 を 偲 ぶ 講 演 もあった と 記 されている 三 溪 原 富 太 郎 白 崎 秀 雄 著 新 潮 社 Y Yかな K 関 係 者 への 聞 き 取 りや 原 家 の 当 主 から 借 り 受 けた 直 筆 の 三 溪 帖 潜 思 録 を 元 に 書 き 下 ろした 評 伝 三 溪 の 姿 が 生 き 生 きと 描 かれている 他 の 伝 記 では 若 き 日 に 跡 見 女 学 校 の 漢 学 歴 史 の 助 教 師 として 教 え 子 の 原 屋 寿 と 恋 に 落 ちた とするが この 本 では 定 説 化 したストーリー に 過 ぎないとして いる 本 稿 でもこちらを 信 頼 する 近 代 日 本 画 を 育 てた 豪 商 原 三 溪 竹 田 道 太 郎 著 有 隣 堂 Yかな < 生 糸 商 > 原 善 三 郎 と 富 太 郎 ( 三 溪 ) 勝 浦 吉 雄 著 文 化 書 房 博 文 社 6 Yかな K 原 三 溪 翁 伝 藤 本 實 也 著 三 溪 園 保 勝 会 横 浜 市 芸 術 文 化 振 興 財 団 編 思 文 閣 出 版 Y Yかな

103 三 溪 没 後 昭 和 年 (4)に 三 溪 翁 伝 編 纂 が 企 図 され 農 学 博 士 の 藤 本 實 也 が 執 筆 開 始 し 昭 和 年 に 脱 稿 したが 戦 後 の 混 乱 の 中 で 出 版 のめどが 立 たず 幻 の 原 稿 となっていた 没 後 7 年 横 浜 開 港 5 周 年 にあわせ 64 年 ぶりによ うやく 出 版 された ページに 及 ぶ 力 作 で 原 三 溪 の 全 体 像 を 実 証 的 に 表 し 多 くの 三 溪 翁 伝 が 出 典 としている 基 本 文 献 である 本 稿 も 多 くこの 本 による 参 考 文 献 横 浜 生 糸 貿 易 概 況 明 治 6 年 ~ 大 正 7 年 原 商 店 (のち 原 合 名 会 社 ) ~ 一 部 Yかな 生 糸 の 市 況 ならびに 統 計 ( 集 散 入 荷 輸 出 地 方 積 戻 価 格 等 )を 収 録 し 毎 年 得 意 先 に 無 償 配 布 した 資 料 横 浜 市 史 資 料 編 7~ ( 横 浜 市 7-7 Yかな )には 全 て 収 録 されている 横 濱 市 復 興 會 誌 横 浜 市 復 興 会 編 横 浜 市 復 興 会 7 Yかな 鈍 翁 益 田 孝 上 下 白 崎 秀 雄 著 新 潮 社 Y Yかな K 益 田 鈍 翁 をめぐる 人 の 数 寄 者 たち 松 田 延 夫 著 里 文 出 版 Y 三 溪 園 周 年 原 三 溪 の 描 いた 風 景 三 溪 園 保 勝 会 編 神 奈 川 新 聞 社 6 Y Yかな 豊 富 な 絵 や 写 真 図 版 を 配 し 多 様 な 関 連 資 料 を 用 いて 充 実 した 内 容 の 冊 三 溪 園 は 移 築 した 古 建 築 から 岩 石 草 木 にいたるまで 三 溪 自 身 が 細 心 の 注 意 で 描 き 出 した 名 園 であり その 精 神 哲 学 の 表 象 とも 言 える < 齋 藤 久 実 子 > 原 富 太 郎

104 養 蚕 家 からパン 屋 へ そうま 相 馬 4 あいぞう 愛 蔵 (7-54) アンビシャス ガール そうま 相 馬 こっこう 黒 光 (75-55) 人 物 データファイル 出 生 中 村 屋 愛 蔵 は 明 治 年 (7) 月 5 日 信 濃 国 安 曇 郡 白 金 村 ( 後 に 穂 高 町 現 長 野 県 安 曇 野 市 )に 相 馬 安 兵 衛 の 三 男 として 生 まれた 相 馬 家 は 祖 父 の 時 代 までは 代 々 庄 屋 を 務 めた 名 家 であったが 家 運 が 衰 退 父 安 兵 衛 は 明 治 4 年 (7) 他 界 して 長 兄 安 兵 江 ( 明 治 年 安 兵 衛 と 改 名 )が 家 督 を 相 続 した 明 治 年 (76) 母 ちか 他 界 により 両 親 ともに 死 に 別 れ る 黒 光 は 明 治 年 (75) 月 日 仙 台 県 第 一 大 区 定 禅 寺 櫓 丁 通 本 材 木 町 ( 現 宮 城 県 仙 台 市 )に 入 婿 であった 星 喜 四 郎 の 三 女 として 生 まれ りょう れん る 初 めは 菱 と 名 付 けられたが 姉 が 蓮 で 二 人 とも 泥 の 中 のも のではかわいそうと 良 の 字 に 改 められたという 仙 台 藩 に 仕 え 代 々 儒 教 を 奉 じる 士 族 の 家 で 祖 父 雄 記 は 尐 禄 ながら 藩 の 要 職 に 就 いていたが 慶 応 4 年 (6) 仙 台 藩 の 戊 辰 戦 争 敗 北 により 家 運 が 傾 いていた 生 い 立 ち 株 式 会 社 中 村 屋 提 供 愛 蔵 は 両 親 の 他 界 により5 歳 年 上 の 長 兄 安 兵 江 夫 妻 の 嗣 子 として 育 てられた 明 治 年 (7)7 歳 で 穂 高 学 校 ( 学 制 頒 布 により 県 下 で 番 目 に 開 校 した 研 成 学 校 が 明 治 年 に 改 称 )に 入 学 明 治 6 年 () 小 学 高 等 科 課 程 に 進 むと 規 律 正 しい 生 活 ができるから との 兄 の 計 らいで 寄 宿 舎 に 入 る 明 治 7 年 (4) 長 野 県 中 学 校 松 本 支 校 ( 現 松 本 深 志 なお 高 校 )に 入 学 ここで 生 涯 の 友 となる 木 下 尚 江 と 知 り 合 う 数 学 が 得 意 で え

105 校 中 随 一 という 成 績 だったが 英 語 が 苦 手 で 進 級 できない 見 通 しとなり 年 級 の 月 早 々に 退 校 明 治 年 (7) 上 京 し 開 校 5 年 目 にあたる 東 京 専 門 学 校 ( 現 早 稲 田 大 学 )に 入 学 明 治 年 () 卒 業 この 間 友 人 に 誘 われて 牛 込 市 ヶ 谷 のプロテスタント 牛 込 教 会 ( 現 日 本 基 督 教 はらいかた 団 牛 込 払 方 町 教 会 )に 通 うようになり キリスト 教 界 の 元 老 である 押 川 まさよし 方 義 内 村 鑑 三 らから 教 えを 受 けた 一 方 の 黒 光 は 明 治 6 年 () 片 平 丁 小 学 校 に 入 学 通 学 路 の 途 中 に あった 仙 台 教 会 の 雰 囲 気 に 惹 かれ 日 曜 学 校 に 入 る この 日 曜 学 校 の 教 師 が 後 に 良 を 相 馬 愛 蔵 に 引 き 合 わせる 島 貫 兵 太 夫 であった 当 時 義 務 教 育 であった 初 等 科 年 間 を 修 了 後 小 学 校 高 等 科 進 学 を 希 望 するも 貧 しい 家 計 を 理 由 に 裁 縫 学 校 へ 通 わされる しかしあまりの 落 胆 ぶりを 見 か み の ねた 母 巳 之 じ 治 により 明 治 年 (7) 東 二 番 丁 小 学 校 の 高 等 科 へ 進 学 を 許 された 明 治 年 歳 で 受 洗 明 治 年 () 小 学 校 高 等 科 卒 業 この 年 父 喜 四 郎 が 肺 がんで 入 院 し 翌 4 年 月 他 界 同 年 開 校 5 年 目 のミッションスクールであった 宮 城 女 学 校 に 進 学 する 翌 明 治 5 年 () 月 教 育 方 針 に 反 発 した 小 平 小 雪 ら 一 部 生 徒 の 抗 議 文 提 出 によ る 退 学 処 分 に 同 調 し 良 も 自 発 的 に 退 学 した 実 業 家 以 前 愛 蔵 は 東 京 専 門 学 校 卒 業 後 新 天 地 を 求 めて 北 海 道 に 渡 り 札 幌 郊 外 に 農 園 開 拓 を 企 て 資 金 入 手 のため 穂 高 に 戻 るが 長 兄 夫 婦 の 反 対 により 断 念 穂 高 で 養 蚕 の 研 究 に 取 り 組 む 傍 ら メソジスト 派 の 牧 師 に 同 行 してキリス ト 教 伝 道 や 禁 酒 会 活 動 に 力 を 入 れる これらの 活 動 の 支 援 者 が 愛 蔵 の 中 学 き げ ん 校 の 同 窓 生 井 口 喜 源 じ 治 おぎわら や 荻 原 も り え 守 衛 である 明 治 7 年 (4) 研 究 成 果 をまとめた 蚕 種 製 造 論 を 出 版 明 治 年 ()に 出 版 した 秋 蚕 飼 育 法 は 版 を 重 ねて5 万 部 にも 達 し 養 蚕 が 愛 蔵 の 本 業 となりつつあった 栃 木 県 那 須 野 原 にある 孤 児 院 が 養 蚕 を 始 め ると 聞 き 蚕 種 を 寄 贈 孤 児 院 を 訪 問 した 際 にその 窮 状 を 知 り 牛 込 教 会 に 通 っていた 頃 から 信 頼 していた 押 川 方 義 が 仙 台 教 会 を 創 立 し 東 北 学 院 長 を 務 める 仙 台 に 向 かい 許 可 を 得 て 押 川 の 説 教 後 に 会 衆 に 孤 児 院 の 支 援 相 馬 愛 蔵 黒 光 5

106 を 訴 えた このことがきっかけとなり 後 日 押 川 門 下 の 島 貫 兵 太 夫 から 星 良 を 紹 介 される 6 この 頃 黒 光 は 母 巳 之 治 から 許 しを 得 て 東 京 に 出 てきていた 明 治 女 学 校 に 入 るつもりであったが 押 川 方 義 と 島 貫 兵 太 夫 の 勧 めに 従 い 横 浜 の フェリス 英 和 女 学 校 に 入 学 祈 りに 始 まり 祈 りに 終 わる 寄 宿 舎 生 活 には 馴 染 んだが 信 仰 に 迷 いを 生 じ 文 学 に 関 心 を 持 つようになり 退 学 明 治 年 (5) 文 学 的 雰 囲 気 の 漂 う 明 治 女 学 校 に 入 りなおす この 明 治 女 学 校 よしはる の 発 起 人 で 代 目 の 校 長 が 巖 本 善 治 である はじめは 文 学 色 の 濃 い 校 風 に 満 足 した 良 だが やがて 物 足 りなさを 感 じる 小 学 校 高 等 科 の 図 画 の 教 師 でその 後 親 しくつきあいのあった 布 施 淡 の 婚 約 や 自 らの 書 いた 恋 愛 小 説 が 元 で 新 聞 にあらぬ 噂 を 載 せられるなどの 事 件 が 後 押 しし 島 貫 兵 太 夫 に 紹 介 された 相 馬 愛 蔵 と 明 治 女 学 校 卒 業 後 の 明 治 年 (7)に 結 婚 す る 二 人 は 東 京 牛 込 払 方 町 の 日 本 基 督 教 会 で 挙 式 し 穂 高 に 帰 郷 愛 蔵 6 歳 良 歳 であった 明 治 年 () 長 女 俊 子 誕 生 明 治 年 () 長 男 安 雄 誕 生 穂 高 での 生 活 になじめない 良 は 気 晴 らしに 文 を 書 き 明 治 ゆう 女 学 校 の 恩 師 青 柳 有 び 美 に 送 る その 文 が 女 學 雑 誌 に 掲 載 されるさいに 巖 本 善 治 が 筆 名 を 黒 光 とし これが 生 涯 用 いる 名 前 となる 明 治 4 年 () 月 夫 妻 は 兄 夫 婦 から 東 京 で 独 立 して 生 活 する 許 し を 得 上 京 する 俊 子 を 穂 高 に 残 すこと 安 雄 をいずれ 本 家 の 相 続 人 とす ること 養 蚕 の 繁 忙 期 は 愛 蔵 が 帰 郷 して 仕 事 をすることが 条 件 であった 実 業 家 時 代 本 郷 で 借 家 暮 らしを 始 めた 相 馬 愛 蔵 黒 光 は 一 般 に 馴 染 の 薄 く かつ 先 発 の 店 と 力 量 に 開 きが 尐 ない 商 売 を 始 めようと 考 え パン 屋 に 目 をつけ た 明 治 4 年 () 月 日 本 郷 区 森 川 町 番 地 にて 相 馬 夫 妻 の 中 ぱ ん 村 屋 が 開 店 本 郷 臺 の 書 生 麵 麭 屋 と 題 して 東 京 朝 日 新 聞 に 掲 載 され るなど 順 調 な 滑 り 出 しであった 明 治 4 年 (7) 新 宿 に 支 店 を 開 店 当 初 は 本 郷 本 店 からパンを 運 んでいたが 明 治 4() 年 には 製 パン 場 を 新 設 できる 広 さのあった 現 在 地 へ 移 転 この 年 より 和 菓 子 の 販 売 を 始 め

107 る なお 本 郷 店 は 大 正 年 ()まで 生 え 抜 きの 従 業 員 である 長 束 實 を 責 任 者 に 営 業 を 続 け 長 束 の 独 立 により 長 束 に 譲 られた ろくざん 相 馬 家 にはやがて 荻 原 碌 山 を 中 心 に 芸 術 家 が 多 く 出 入 りするようになり 中 村 屋 サロン が 形 作 られた 明 治 4 年 () 次 男 襄 二 と 彼 を 可 愛 がっていた 荻 原 碌 山 が 相 次 いで 死 去 体 調 を 崩 した 黒 光 は 木 下 尚 江 に 紹 介 された 岡 田 虎 二 郎 の 静 坐 道 場 に 通 うようになる 大 正 4 年 (5) 岡 田 を 通 じて 知 り 合 った 国 家 主 義 団 体 玄 洋 社 の 最 高 とうやまみつる 指 導 者 頭 山 満 の 依 頼 により ラス ビハリ ボースを 約 4ヵ 月 匿 う 中 村 屋 を 出 てのち7ヵ 所 も 隠 れ 家 を 転 々としたボースと 中 村 屋 の 連 絡 役 は 女 子 学 院 高 等 科 に 進 学 し 英 語 が 話 せた 長 女 俊 子 が 務 めた 大 正 7 年 俊 子 を 見 込 んだ 頭 山 の 希 望 により 夫 妻 は 俊 子 をボースに 嫁 がせる 俊 子 は ボースとの 間 に 男 女 を 儲 けるが 心 労 が 重 なり 大 正 4 年 (5)に6 歳 で 死 去 これを 契 機 に 愛 蔵 黒 光 は 浄 土 宗 に 帰 依 するようになる 大 正 年 ()4 月 日 付 で 中 村 屋 は 個 人 商 店 から 株 式 会 社 に 改 組 昭 和 年 (7)には 店 内 の 階 に 喫 茶 部 を 開 設 する ボースに 紹 介 され た 純 印 度 式 カリーや エロシェンコに 紹 介 されたボルシチが 看 板 メニュー であった また 夫 妻 が 中 国 旅 行 で 知 り 研 究 を 重 ねた 月 餅 や 中 華 饅 頭 の 販 売 も 開 始 した 同 年 仙 川 ( 現 東 京 都 調 布 市 )に 中 村 屋 牧 場 を 開 設 この 年 四 男 文 雄 が かつて 愛 蔵 黒 光 夫 妻 を 結 び 付 けた 島 貫 兵 太 夫 が 海 外 に 新 天 地 を 求 める 移 住 者 の 援 護 のために 組 織 した 日 本 力 行 会 を 通 じて 南 米 ブラジルに 渡 る しかし 志 半 ばで 昭 和 4 年 ()マラリアに 倒 れ 客 死 した 昭 和 年 (7) 夫 妻 の 長 男 で 代 目 社 長 となる 相 馬 安 雄 がデザイン ふ せ つ した 中 村 屋 のマークと 中 村 不 折 書 の 中 村 屋 の 文 字 を 商 標 登 録 した 昭 和 4 年 () 株 式 を 公 開 王 子 製 紙 の 足 立 正 岩 波 書 店 の 岩 波 茂 雄 など を 新 株 主 に 迎 える 昭 和 6 年 (4)には 人 手 不 足 の 深 刻 化 により 女 性 従 業 員 の 採 用 を 始 めた また 企 業 整 備 令 を 踏 まえた 政 府 による 工 場 等 の 接 収 を 待 たず 自 ら 軍 需 工 場 を 立 ち 上 げることを 計 画 長 男 安 雄 が 私 財 を 投 じる 形 で 昭 和 相 馬 愛 蔵 黒 光 7

108 年 (44) 月 粉 末 甘 酒 を 製 造 する 航 空 食 工 業 株 式 会 社 が 海 軍 ( 衣 料 廠 ) 指 定 工 場 として 誕 生 し 軍 需 工 場 として 接 収 される 危 険 のあっ た 中 村 屋 新 宿 第 二 工 場 三 鷹 の 大 澤 牧 場 中 村 屋 会 館 等 を 借 り 受 け 金 属 原 材 料 として 供 出 寸 前 の 機 器 器 具 類 も 買 い 取 った 昭 和 年 (45)5 月 5 日 の 空 襲 で 中 村 屋 焼 失 愛 蔵 は 戦 火 を 避 けて 移 り 住 んでいた 五 日 市 の 大 悲 願 寺 から 戻 り 6 月 日 中 村 屋 解 散 を 従 業 員 に 告 げる 月 5 日 終 戦 一 週 間 もしないうちに 新 宿 大 通 り 沿 いの 一 帯 では 闇 市 が 開 かれ 中 村 屋 の 敷 地 も 不 法 占 拠 される 昭 和 年 (47) 愛 蔵 は 撤 退 を 求 めて 訴 訟 を 起 こすが 当 初 土 地 を 占 拠 された 軒 の 商 店 中 行 動 を 起 こしたのは 愛 蔵 だけであったという 係 争 は 長 引 き 全 ての 土 地 を 取 り 戻 したのは 昭 和 年 (5) 愛 蔵 の 死 の 前 年 であった 社 会 文 化 貢 献 芸 術 に 深 い 造 詣 を 有 し 物 品 両 面 で 芸 術 家 を 支 援 した 夫 妻 が 主 宰 し と くに 黒 光 が 女 主 人 として 尽 力 した 中 村 屋 サロンには 荻 原 碌 山 や 高 村 光 太 つね 郎 中 村 彝 など 多 くの 芸 術 家 が 出 入 りした また ロシア 文 学 に 関 心 を 持 つ 黒 光 がロシア 語 研 究 を 始 めると 桂 井 当 之 助 ら 早 稲 田 の 若 手 研 究 者 達 も 勉 強 会 に 参 加 し 英 訳 の 罪 と 罰 アンナ カレーニナ などを 読 破 し た 黒 光 が 島 村 抱 月 や 松 井 須 磨 子 と 交 流 するようになると 戯 曲 の 朗 読 会 や 演 劇 公 演 も 行 われるようになるなど 中 村 屋 サロンは 明 治 末 期 から 大 正 時 代 にかけての 芸 術 革 命 ともいうべき 活 動 を 支 える 一 助 となった 昭 和 年 (7) 愛 蔵 黒 光 夫 妻 は デンマークの 国 民 高 等 学 校 に 倣 い 従 業 員 のために 商 売 上 の 知 識 以 外 の 基 礎 学 問 を 修 める 研 成 学 院 を 設 立 昭 和 年 (44)に 戦 禍 により 中 断 されたが 夫 妻 の 死 後 昭 和 年 (56) 代 目 社 長 の 安 雄 により 再 開 された しかし 進 学 率 の 上 昇 により 中 卒 採 用 をやめたことを 受 け 昭 和 7 年 (6) 月 に 閉 校 昭 和 4 年 ごろ 愛 蔵 黒 光 夫 妻 は 収 入 の 千 分 の 一 を 不 遇 な 老 人 救 済 の ための 老 人 ホーム 建 設 に 寄 付 することを 主 眼 とする 千 一 運 動 を 提 唱 愛 蔵 は 万 を 愛 蔵 の 死 後 には 黒 光 が 万 円 を 寄 付 多 数 の 有 志 の 義 援 金 により 二 人 の 没 後 の 昭 和 年 (55)に 黒 光 ホーム と 名 づけられ

109 た 有 料 老 人 ホームが 杉 並 区 下 高 井 戸 の 老 人 施 設 浴 風 園 敷 地 内 に 完 成 した 晩 年 終 戦 で 軍 需 部 門 を 担 う 企 業 の 任 を 解 かれた 航 空 食 工 業 は 昭 和 年 (45) 月 多 摩 川 食 品 株 式 会 社 と 改 称 昭 和 年 (4) 月 まで は 多 摩 川 食 品 の 製 品 供 給 を 受 けて 中 村 屋 が 販 売 する 形 で 営 業 を 続 けた 昭 和 年 (4) 月 長 男 安 雄 が 代 目 社 長 に 就 任 し 愛 蔵 は 会 長 に 退 いた 月 には 多 摩 川 食 品 を 中 村 屋 に 吸 収 合 併 その 後 も 愛 蔵 は 千 一 運 動 など 活 躍 を 続 けるが 昭 和 6 年 (5) 脳 軟 化 症 を 患 う 身 となる 昭 和 7 年 (5)には 夫 妻 の 共 著 晩 霜 を 出 版 翌 年 には 黒 光 が 長 男 安 雄 の 手 を 借 りてまとめた アジアのめざめ 印 度 志 士 ビハリ ボースと 日 本 を 出 版 する 昭 和 年 (54) 月 4 日 愛 蔵 自 宅 にて 死 去 享 年 歳 その 後 6 月 の 取 締 役 会 で 黒 光 は 中 村 屋 の 精 神 的 支 えとして 相 談 役 に 任 命 される この 月 から 朝 日 新 聞 きのうきょう 欄 にエッセイを 連 載 するなど 活 動 を 続 けるが 昭 和 年 (55) 月 日 自 宅 にて 昏 睡 状 態 に 陥 り 同 日 死 去 享 年 7 歳 夫 妻 は 東 京 都 府 中 市 の 多 磨 霊 園 に 葬 られた 関 係 人 物 荻 原 守 衛 ( 碌 山 ) 彫 刻 家 荻 原 守 衛 ( 碌 山 )は 穂 高 の 出 身 で 愛 蔵 の 禁 酒 会 同 志 画 家 を 志 しアメリカ フランスに 留 学 するが ロダン 作 品 に 刺 激 され 彫 刻 に 転 向 帰 国 後 はアトリエと 中 村 屋 を 行 き 来 する 生 活 を 送 り 家 族 同 然 であった 碌 山 を 慕 う 芸 術 家 たちが 中 村 屋 に 集 い これが 中 村 屋 サロン の 元 となる 明 治 4 年 () 中 村 屋 の 居 間 で 喀 血 し 歳 で 死 去 黒 光 と 次 男 襄 二 をモデルに 描 いた 母 と 病 める 子 黒 光 を 思 い 描 い て 制 作 したとも 言 われる 遺 作 女 などの 作 品 がある 中 村 彝 荻 原 碌 山 没 後 に 中 村 屋 サロンの 中 心 的 存 在 となる 病 弱 な 彝 を 黒 光 は 中 村 屋 内 のアトリエに 住 まわせ 親 身 に 世 話 をした 大 正 4 年 夫 妻 の 長 女 俊 子 に 求 婚 して 黒 光 の 不 興 を 買 いアトリエを 去 った 相 馬 愛 蔵 黒 光

110 ラス ビハリ ボース イギリス 植 民 地 であったインドの 独 立 運 動 の 活 動 家 外 務 省 から 国 外 退 去 を 求 められたところを 国 家 主 義 団 体 玄 洋 社 の 最 高 指 導 者 頭 山 満 が 相 馬 夫 妻 の 知 己 であったことから 中 村 屋 のアトリエ に 匿 われる 後 に 頭 山 の 勧 めにより 夫 妻 の 長 女 俊 子 と 結 婚 男 女 を もうけ 日 本 に 帰 化 するが 7 年 後 の 大 正 4 年 (5) 俊 子 は6 歳 で 死 去 ボースは 生 涯 をインド 独 立 運 動 に 捧 げた ボースの 手 ほどきでつくった 純 印 度 式 カリー は 中 村 屋 喫 茶 部 の 看 板 メニューとなった ワシリー エロシェンコ ウクライナ 生 まれの 盲 目 の 詩 人 中 村 屋 のア トリエに 迎 えられ 親 身 に 世 話 を 焼 く 黒 光 を 母 のように 慕 ったという 中 村 屋 サロンの 人 々にロシア 民 話 を 紹 介 し バラライカを 奏 でた 鶴 田 吾 郎 と 中 村 彝 は 彼 をモデルとした 作 品 を 残 した 大 正 年 () 社 会 主 義 者 の 嫌 疑 で 国 外 退 去 命 令 が 出 る 中 村 屋 に 警 官 が 土 足 で 踏 込 み 身 柄 を 拘 束 した 際 その 暴 挙 に 対 し 愛 蔵 黒 光 夫 妻 は 淀 橋 警 察 署 長 を 訴 え 辞 職 さ せている 彼 が 紹 介 したボルシチは 中 村 屋 の 喫 茶 部 の 看 板 メニューとなり 彼 の 着 用 していたルパシカは 中 村 屋 店 員 の 制 服 として 取 り 入 れられた 木 下 尚 江 明 治 大 正 昭 和 期 の 思 想 家 社 会 運 動 家 愛 蔵 の 中 学 校 の 上 級 生 として 親 しくなる 愛 蔵 は 結 婚 の 際 尚 江 の 母 に 実 家 の 遠 い 黒 光 の 後 見 人 を 依 頼 しており 長 女 出 産 後 体 調 の 優 れない 黒 光 が 養 生 に 赴 いたこ ともある 次 男 襄 二 や 荻 原 碌 山 の 逝 去 後 体 調 を 崩 していた 黒 光 に 静 坐 を 提 唱 する 岡 田 虎 二 郎 を 紹 介 したのも 尚 江 であり 黒 光 は 大 正 年 () 岡 田 の 死 去 まで 日 暮 里 の 道 場 に 通 い 続 けた 愛 蔵 黒 光 と 尚 江 の 友 情 は 昭 和 年 (7) 尚 江 の 死 まで 続 いた エピソード 明 治 4 年 () 穂 高 から 上 京 した 愛 蔵 黒 光 夫 妻 は パン 屋 を 始 める 前 に 日 食 のうちの 食 をパン 食 にするという 食 事 をヵ 月 続 けた 結 果 パン 食 は 便 利 で 将 来 性 があるという 結 論 に 達 し 創 業 を 決 意 当 時 の よろずちょうほう 有 力 紙 万 朝 報 に 食 パン 製 造 及 び 道 具 一 切 譲 受 たし の 三 行 広 告 を 出 したところ 数 件 の 申 し 込 みがあり その 中 から 借 家 の 近 所 で 繁 盛 し ており 試 食 期 間 中 に 利 用 もしていた 中 村 屋 を 居 抜 きで 購 入 店 名 も

111 そのままに 中 村 屋 を 開 店 した 明 治 7 年 (4) シュークリームを 食 べてあまりのおいしさに 驚 いた 夫 妻 は 餡 パンの 餡 のかわりにクリームを 入 れたクリームパンと ジャム が 一 般 的 であったワッフルの 中 身 をクリームに 換 えたクリームワッフルを 開 発 クリームパンは 木 村 屋 が 開 発 したアンパン ジャムパンに 並 ぶ 日 本 の 三 大 菓 子 パン に 成 長 した キーワード 良 品 廉 売 愛 蔵 黒 光 夫 妻 は 木 下 尚 江 の 紹 介 で 帰 依 していた 岡 田 か やす ら 商 売 の 極 意 は 良 い 品 を 廉 く と 聞 き 中 村 屋 のモットーとした 神 奈 川 との 関 わり 黒 光 は 宮 城 女 学 校 を 退 学 後 押 川 方 義 らの 世 話 で 横 浜 にあったフェリ ス 英 和 女 学 校 に 進 学 し 寄 宿 舎 生 活 を 送 った キリスト 教 に 対 する 信 仰 に 迷 いが 生 じたころ 宮 城 女 学 校 の 先 輩 であった 小 平 小 雪 の 紹 介 で 文 學 て ん ち 会 主 宰 である 星 野 天 知 を 訪 問 その 後 も 星 野 の 鎌 倉 の 別 荘 である 暗 光 庵 にたびたび 出 入 りしていた 相 馬 愛 蔵 黒 光 は 昭 和 5 年 () 鎌 倉 の 陣 鐘 山 に 土 地 を 購 入 し 黒 光 庵 と 妙 俊 庵 を 普 請 妙 俊 庵 は 従 業 員 のための 保 養 所 として 使 用 された 文 献 案 内 著 作 相 馬 愛 蔵 は 中 村 屋 創 業 以 前 に 蚕 業 関 連 の 蚕 種 製 造 論 秋 蚕 飼 育 法 の 書 を 出 版 しており 養 蚕 家 のテキストとして 広 く 普 及 した 中 村 屋 創 業 以 降 は 晩 年 にいたるまで 愛 蔵 黒 光 とも 多 数 の 著 作 を 残 している が その 主 なものは 著 作 集 に 収 録 されている 相 馬 愛 蔵 黒 光 著 作 集 全 5 巻 相 馬 愛 蔵 黒 光 著 作 集 刊 行 委 員 会 編 郷 土 出 版 社 ~ Y K 黙 移 相 馬 黒 光 著 女 性 時 代 社 6 Yかな 昭 和 年 (4)~6 月 雑 誌 婦 人 之 友 に 連 載 した 随 筆 黙 移 に 続 編 を 加 えて 出 版 した 自 伝 的 作 品 前 出 相 馬 愛 蔵 黒 光 著 作 集 にも 収 録 相 馬 愛 蔵 黒 光

112 晩 霜 相 馬 愛 蔵 黒 光 著 東 西 文 明 社 5 未 所 蔵 夫 妻 の 晩 年 を 日 記 形 式 で 綴 った 共 著 滴 水 録 ( 私 家 版 ) 相 馬 黒 光 著 相 馬 安 雄 56 未 所 蔵 夫 妻 の 死 後 長 男 により 私 家 版 で 発 行 された 序 文 は 安 雄 が 執 筆 しており 黒 光 ぐらい 生 涯 を 通 じて 自 己 の 思 いの 侭 をやってのけた 人 は 稀 であろう と 記 されている 社 史 中 村 屋 年 史 中 村 屋 社 史 編 纂 室 編 中 村 屋 K 平 成 年 () 月 日 に 創 業 周 年 を 迎 え その 記 念 事 業 のつとして 初 めて 制 作 された 社 史 第 部 中 村 屋 原 点 の 輝 き( 創 業 前 期 の 創 業 者 夫 妻 の 生 い 立 ちから 戦 後 復 興 の 時 期 まで) 第 部 中 村 屋 開 かれる 食 文 化 ( 昭 和 6 年 から 平 成 年 まで) と 資 料 編 年 表 からなり 中 村 屋 のあゆみが 見 わたせる 伝 記 文 献 相 馬 愛 蔵 黒 光 のあゆみ 中 村 屋 6 K アンビシャス ガール 相 馬 黒 光 山 本 藤 枝 著 集 英 社 Y K パン 製 造 新 宿 中 村 屋 の 創 業 者 相 馬 愛 蔵 橋 詰 静 子 著 日 本 の 創 造 力 不 況 と 震 災 の 時 代 日 本 放 送 出 版 協 会 p5-6 Y 養 蚕 家 からパン 屋 へ 相 馬 愛 蔵 古 澤 夕 起 子 著 職 業 の 発 見 池 田 功 上 田 博 編 世 界 思 想 社 p-4 Y 参 考 文 献 安 曇 野 全 5 巻 臼 井 吉 見 著 筑 摩 書 房 65~74 Y 相 馬 愛 蔵 黒 光 夫 妻 木 下 尚 江 荻 原 碌 山 井 口 喜 源 治 ら 信 州 安 曇 野 に 結 ばれた 人 々を 中 心 に 明 治 から 昭 和 中 期 までの 激 動 する 社 会 思 潮 文 化 を 描 く 大 河 小 説 第 回 (74) 谷 崎 潤 一 郎 賞 受 賞 作 俚 譜 薔 薇 来 歌 島 本 久 恵 著 筑 摩 書 房 未 所 蔵 相 馬 黒 光 の 自 伝 黙 移 などの 口 述 筆 記 をつとめた 筆 者 による 黒 光 をモデ ルにした 小 説 < 瀬 戸 清 香 >

113 宝塚歌劇団生みの親 こばやし いちぞう 小林 一三 7 57 阪神急行電鉄 阪急 ほか 人物データファイル 東京電燈株式会社 開業五十年史 より 出生 明治6年 7 1月3日 山梨県北巨摩郡韮崎町 現 韮崎市 に生 まれる 生まれた月日から 一三 と命名される 生家は酒造業 絹問屋 などを営む豊かな商家であった 生い立ち 小林を産んで早くに母が亡くなり 養子であった父も実家に戻ったこと から 姉と共に大叔父に育てられる 歳で高等小学校を終え 私塾成器 舎に入学するも病を得て退学 5 歳の年 明治 年 に上京し慶應義塾に学ぶ この頃より小説の執筆 を始める また 芝居の面白さにも開眼し 足繁く劇場に通う 実業家以前 明治 5 年 歳で慶應義塾を卒業 都新聞に入社の話があったが 実現せず 翌年三井銀行に入社し 東京本店秘書課に勤務する その後大 阪支店 名古屋支店等を経て 明治 5 年 本店調査係検査主任とな る その頃三井物産 三越呉服店へ好条件で入社の話が持ち上がるも い ずれも実現に至らず 明治 年 7 歳で丹羽こうと結婚 3男2女をもうける 実業家時代 明治4 年 7 三井銀行を退社し 新設の証券会社の支配人となるべ く一家で大阪に居を移す しかし株の暴落で証券会社は設立されなかった き よち か 同年 三井銀行時代の上司で当時北浜銀行頭取であった岩下清周らの勧め で 箕面有馬電気軌道株式会社の追加発起人となる 同社の創立総会に於 小林一三

114 いて専務取締役に就任する 明治4 年 の鉄道の開通に先駆け 小林は当時としては前例のな かったPRを行う 最も有望なる電車 という 7 頁の小冊子を作成し 大阪市内に配布したのである さらに農村地帯であった沿線に 大阪に通 勤する人たちのための住宅を建設した 当時の大阪は日清 日露戦争後の 経済発展により 人口が飛躍的に増加していた そうして増えた人々に住 むべき場所を提供すべく 住宅地を開発したのである そこに住む人々が 大阪に仕事に出かける際に使うのは 電車である この住宅地PRにも 小林は 如何なる土地を選ぶか 如何なる家屋に住むべきか 住宅地ご 案内 と題されたパンフレットを作成 活用した 明治4 4 年 には終点の宝塚に温泉と娯楽施設を一つにした宝塚新 温泉を開設した それまでひなびた温泉地であった宝塚には 電車に乗っ て多くの観光客が訪れるようになった さらに大正 4 年 5 には始発の梅田駅ターミナルビルに マーケッ トを開業した 品揃えの豊富さと商品の価格を抑えた販売が評判を呼び マーケットは業績を伸ばした これがのちの昭和4年 に 阪急百 貨店になる 日本はいうに及ばず 世界初ともいえるターミナルデパート の誕生である 大正7年 箕面有馬電気軌道株式会社は阪神急行電鉄株式会社と 社名変更し その後路線を増やす 昭和2年 7 に小林は同社の取締 役社長に就任 さらにこの年には 請われて東京電燈株式会社の取締役 副社長を経て昭和8年に社長 となり 同社の再興に努めた 昭和 年 6 には阪急職業野球団 のちの阪急ブレーブス 現 オ リックス バファローズ を誕生させた 同年日本職業野球連盟が結成さ れ 同球団はその翌年から始まったリーグ戦に参加 当初は宝塚運動場 のちの宝塚ファミリーランド内 をホームグラウンドとしたが その後 昭和 年 7 に開場した西宮球場に本拠地を移した それに先がけて昭和7年 小林は株式会社東京宝塚劇場の創立 に名を連ね 取締役会の互選により取締役社長に就任した 昭和9年 4

115 4 同劇場が竣工 こけら落とし公演として宝塚少女歌劇団 現 宝 塚歌劇団 のレビュー等が上演された 3年後の昭和 年 7 には 東宝映画株式会社の創立と 興行界へも着々と進出を続けた 昭和 4 年 には東京電燈株式会社と古河電工株式会社の連携によ る日本軽金属株式会社を設立するなどして 今太閤 と呼ばれた 政治との関わり 昭和 5 年 4 第2次近衛文麿内閣の商工大臣に就任する 翌年辞 任するも貴族院議員に勅選された 更に終戦後の昭和 年 4 5 には幣 原喜重郎内閣の国務大臣 戦災処理のために新設された戦災復興院総裁を 務める 昭和 年 4 6 公職追放 昭和 6 年 5 公職追放を解除さ れる 社会 文化貢献 与謝蕪村 呉春をはじめとする中近世の絵画 絵巻 古筆 陶磁器など 小林が収集した美術品は5 点にも及ぶ 小林自身 それらを一般公開す ることを計画していたが 生前に果たすことかなわず 遺志を汲んで 昭 和 年 5 7 に彼の雅号 逸翁 を館名に冠した逸翁美術館が開館した なお 美術館は当初 旧小林邸であった大阪府池田市の雅俗山荘に置かれ ていたが 平成 年 に名称はそのままに 同市内の新美術館に移 転した 雅俗山荘は現在 彼の業績を紹介する小林一三記念館として公開 されている また 池田市内には演劇や阪急電鉄関係の資料を中心に収集 公開して いる池田文庫があるが 同文庫は小林が宝塚温泉内に設けた宝塚文芸図書 館を受け継いでいる 文芸図書館の前身にあたる図書室は 開架式で新刊 の図書や雑誌が楽しめる施設であったという 晩年 昭和 6 年 5 公職追放を解除されて後の小林は 東宝の社長に返り 咲く しかし4年後にはその座を長男冨佐雄に譲る その翌年の昭和 年 5 6 に新宿コマ スタジアム 梅田コマ スタジアムを設立し 双方 の社長に就任するも 昭和 年 5 7 1月 5 日夜 池田市の自宅で急性 小林一三 5

116 心臓性喘息のため逝去 享年 4 歳 葬儀は本人の生前の希望に従い宝塚大 劇場で宝塚音楽学校葬として 歌劇団生徒のほか 財界 興行関係者3千 数百人が参列して執り行われた 死の翌年に池田市五月山山麓の大廣寺に 葬られた 関係人物 松永安左エ門 電力の鬼 松永安左エ門は同じ慶應義塾の出身であり 共に茶道に親しむ友人であったが 東京電燈株式会社取締役時代の小林に とっては商売仇と言える存在でもあった 小林の没後に開かれた 逸翁追 善茶会 では畠山一清 荏原製作所創業者 五島慶太とともに懸釜を担 当し 小林一三翁の追想 では半世紀にわたる小林とのつきあいについ て語っている 岩下清周 岩下は小林の三井銀行大阪支店時代の支店長であった 小林 にとって岩下は上司というよりも 師 と言えるほどの存在だったが 岩 下は左遷を機に支店長就任1年で三井銀行を退社 北浜銀行設立に参加し た 同様に三井銀行退社後大阪に移り住んだものの あてにしていた職を 得ることができずにいた小林に 救いの手を差し伸べたのが 岩下であっ た 彼との出会いが小林に実業家への途を拓いたといえる 岩下は箕面有 馬電気軌道の初代社長のほか 大阪電気軌道 現 近畿日本鉄道 の2代 目社長を務めるなどし その間小林以外にも多くの実業家を育てた 五島慶太 矢野恒太 第一生命保険会社創業者 より依頼されて荏原電 気鉄道の重役会に関わるようになった小林に請われて 同社の専務を務め た それが 五島がのちの東京急行電鉄の創始者への道を歩む契機となっ た 前述のとおり 逸翁追善茶会 で懸釜を担当した一人 根津嘉一郎 鉄道王 根津嘉一郎は小林と同郷の山梨県の生まれ 箕 面有馬電気軌道設立に際して 新しい株主を見つける必要に迫られた小林 が頼ったのが 同郷の実業家たちだった 根津も小林の依頼を受け 株式 の引き取りに協力した一人であった ともに鉄道会社の経営に関わり 古 美術を好む など共通点が多い 根津の死後に刊行された 根津嘉一郎 6

117 東海出版社 4 の中で 小林は根津の思い出として 彼が藝阿彌の 絵画を入手した経緯について語っている それは根津本人から小林が し ばしばきかされた翁御自慢の天狗物語 p 4 だという エピソード 一時期小林は小説家を志していた 明治 年 東洋英和女学院校 長の殺害事件に取材した小説を執筆し 山梨日日新聞 で連載を始める 事件発生から日が浅かったため 小林は麻布警察署より取り調べを受け 連載は中断の憂き目をみることとなった 小林は北大路魯山人の陶器を高く評価していたという 昭和6年 から昭和 年 4 にかけて魯山人が小林にあてた書簡数通が 平成 年 に発見された それまでは好意的な文面であった手紙が 昭和 年 4 月の2通では一転 陶器の価格についての小林の発言 に怒り心頭の魯山人が絶縁を宣言した内容で それ以降の手紙は発見され ていない キーワード 宝塚歌劇団 前述のとおり 箕面有馬電気軌道が開通し その旅客誘致 のため小林は終点の宝塚に一大娯楽施設を開業させた 大正3年 4 施設内のプールを改装したパラダイス劇場で 少女だけで組織された宝塚 唱歌隊の初公演が行われた その後唱歌隊は宝塚少女歌劇団と名を変え さらに昭和 5 年 4 宝塚歌劇団と改称された この間に東京宝塚劇場 が開場 東京への本格的な進出を果たした 歌劇団の活動は今に続き 平 成 6 年 4 には創立 周年を迎える 小林は歌劇団のために上演作品の脚本執筆も行っている 大正3年 ( 4 ) の 紅葉狩 に始まり 昭和 年 4 5 の 新大津繪 まで 中 断した時期があるものの 本以上の作品を残した 神奈川との関わり 慶應義塾時代に寄宿していた童子寮の遠足で江の島 鎌倉に出かけた折 り 七里ヶ浜の大海原を見たという 小林はその時の印象を 逸翁自叙 伝 の中で 風もない好天気に どうしてあとからあとからと真白い波 小林一三 7

118 濤が寄せて来るのか その理由がわからない p と記している 小林が宝塚歌劇団のために執筆した作品の中には 江の島物語 とい うタイトルのものが含まれる 文献案内 著作 小林は多くの著作を残している その中には小説 随筆 劇論 戯曲集 や茶道論なども含まれる ここではまとまったもの 自伝的なものを紹介 する 私の行き方 小林一三著 斗南書院 5 K 逸翁自叙伝 青春そして阪急を語る 小林一三著 産業経済新聞社 5 Y 昭和 6 年 5 に 週刊サンケイ の求めに応じて執筆された回顧録 小 林自らの筆で 来し方が率直に記されている 本書は阪急電鉄 K 等 から復刊されている 小林一三全集 全7巻 小林一三著 ダイヤモンド社 6 6 Y K ただし第2巻はKのみ 小林一三日記 全3巻 小林一三著 阪急電鉄 K 社史 7 5 年のあゆみ 全2巻 阪急電鉄株式会社編 阪急電鉄 K 記述編 と 写真編 の2冊からなる 前者の 第1部 創業から5 年 には 箕面有馬電気軌道草創期における小林の活躍が描かれている また同書 に収録された 創立7 5 周年記念座談会 では 小林のひととなりが語られてい て興味深い 株式会社阪急百貨店 5 年史 阪急百貨店編 阪急百貨店 7 6 K 株式会社阪急百貨店5 年史 5 年史編集委員会編 阪急百貨店 K 巻頭に掲載された 創業者 小林一三 には 彼の実業家としての人生がわ かりやすく紹介されている 東京電燈株式会社開業五十年史 東京電燈 6 K

119 東京電燈株式会社史 東京電燈株式会社編纂委員会 5 6 Y K 東宝三十年史 東宝株式会社編 東宝 6 K 東宝五十年史 東宝五十年史編纂委員会編 東宝 Y K 東宝7 5年のあゆみ ビジュアルで綴る / 4世紀 東宝7 5年のあゆみ ビジュアルで綴る / 4 世紀 編集委員会 東宝株式会社編 東宝 Y K 宝塚歌劇の6 年 別冊あり 宝塚歌劇団出版部編 宝塚歌劇団出版部 7 4 K 宝塚歌劇の70年 記念出版 宝塚歌劇団編 宝塚歌劇団 4 K 夢を描いて華やかに 宝塚歌劇 年史 宝塚歌劇団編 宝塚歌劇団 4 Y K と し すみれ花歳月を重ねて 宝塚歌劇 年史 宝塚歌劇団 4 Y K 日本軽金属五十年史 日本軽金属株式会社社史編纂室編 日本軽金属 K 梅田コマ スタジアム 6 年のあゆみ 小林一三翁に捧ぐ コマ スタ ジアム Y K 年のあゆみ 全2巻 阪急阪神ホールディングス株式会社グループ 経営企画部 広報担当 編 阪急阪神ホールディングス K 伝記文献 小林一三翁に教えられるもの 清水雅著 梅田書房 5 7 Y K 小林一三 現代傳記全集8 三宅晴輝著 日本書房 5 Y K 小林一三翁の追想 小林一三翁追想録編纂委員会編 小林一三翁追想録 編纂委員会 6 K 阪急 東宝 取引先の関係者から 親交のあった舞台関係者や趣味であった 茶の湯の師範 子息まで さまざまな人々が小林の生前の思い出を綴った 冊 図版 年譜も充実しており 小林一三という人物を立体的に捉えることができ る わが小林一三 清く正しく美しく 阪田寛夫著 河出書房新社 Y K 小林一三

120 日本で最もユニークな経営者小林一三伝 邱永漢著 日本経済新聞社 Y K 参考文献 根津嘉一郎 宇野木忠著 東海出版社 4 K 逸翁清賞 名品図録 逸翁美術館 未所蔵 逸翁美術館の名品図録 昭和5 5年 春に開催された 名品総合鑑賞 展 の図録として刊行された 魯山人の 絶縁状 安く売れ に反発 小林一三を罵倒 読売新 聞 年 月9日 朝刊 S 5 面 Y K 池田文庫 h t t p : / / w w w. i k e d a b u n k o. o r. j p / t o p. h t m l 参照 逸翁美術館 h t t p : / / w w w. i t s u o m u s e u m. c o m / t o p. h t m l 参照 小林一三記念館 逸翁美術館 HP内にあり h t t p : / / w w w. i t s u o m u s e u m. c o m / k i n e n k a n / 参照 岩沢美子

121 国産電機技術の確立者 おだいら なみへい 小平 浪平 74 5 日立製作所 人物データファイル 重工業王 小平浪平 より 出生 か っ せ ん ば 明治7年 7 4 1月 5 日 栃木県下都賀郡家中村大字合戦場に生まれ る 父は小平惣八 母はチヨ 兄に儀平 生い立ち 明治 年 に合戦場の小学校に入学 明治 年 5 に教育環 境の整った栃木小学校に転校 父の実家より通学する 栃木高等小学校を 卒業後は上京し 明治 年 東京英語学校に入学 明治 年 兄 儀平が在学する第一高等中学校の受験に失敗する 再度の受 験を目指して浪人中 鉛丹業を営んでいた父惣八が急逝する 惣八の借金 を返済するため 儀平は浪平の進学を条件に第一高等中学校を退学し栃木 町の銀行に勤める 明治 4 年 第一高等中学校に合格し入学 明治 年 6 同校卒業 知己であった小説家 村井弦斎の助言を得て電気 を学ぶことを決意し 帝国大学工科大学電気工学科 後の東京帝国大学工 学部 に入学する 1年次に写真などの趣味に興じて落第し 儀平に怒ら れる 日記 晃南日記 に ああ晃南生 浪平のこと この晃南生は明 治三十年七月二六日をもって死す と記す 以後 学問に精進し 明治 年卒業 実業家以前 明治 年 大学卒業後 藤田組小坂鉱山 秋田県鹿角郡 に入社 く は ら とまり だ き 所長は久原房之助 米代川水系の止 滝発電所の建設に参加し運転を成功 や え させる 明治 7 年 4 退社 大学時代の友人 小室文夫の妹の也笑と 結婚する 同年 広島水力電気 現 中国電力 に入社 明治 年 小平浪平

122 5 長女 百合子誕生 東京電燈 現 東京電力 に入社 駒橋水力 発電所の工事に送電主任として携わる 明治 年 6 久原房之助が 経営する久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社する 中里 町屋 石 だ い お い ん 岡の発電所 大雄院の製錬所などの建設に携わる この間 外国製の電動 機 変圧器などの電気機械の修理を行った 修理工場の建物は丸太の掘立 小屋に近いもので日立製作所創業小屋と呼ばれている 日立製作所日立工 場内に復元されている 明治4 年 には国産初の5馬力モーター を3台製作する 1台は日立市の小平浪平記念館に現存する また この 頃 日立製作所の創業期を支えた高尾直三郎 後に副社長 馬場粂夫 後に専務 らが入社した 小平は明治4 年 より大雄院の役宅に 住み 也笑 百合子と同居している 同年 長男 良平誕生 実業家時代 明治4 年 月 久原房之助と交渉し日立鉱山内に電気機械製作 工場を設立 地名より 日立製作所 と命名し この日を現在 日立製作 所の創業としている 創業時の従業員は約4 名 これに先立つ同年4月 には従業員教育を行う徒弟養成所を設けて 人材の育成にあたった 明治 ち か ら 4 5 年 日立鉱山より分離して久原鉱業日立製作所となる 倉田主税 2代目社長 が入社する その後 大正5年 6 には発電機破裂事 お おも の 故を起こし進退伺いを書き 大正8年 には大物工場の変圧試験場 で大火災を起こすなど 必ずしも順調ではない 大正7年 久原鉱業佃島製作所を合併した際に 本社を東京に 移転する 小平も東京の本郷区駒込に転居 同年 技術雑誌の先駆ともい える 日立評論 を創刊する 大正9年 久原鉱業から独立し株 式会社日立製作所となる 創業時 社長は空席で小平は専務取締役 大正 年 の関東大震災復興時 茨城県は比較的被害が少なかったこと もあり 東京電燈 鉄道省などから変電設備 変圧器 発電設備をはじめ 多くの注文を受け 評判を高めていった 大正 年 4 電気機関車 の公開試験運転に成功し のちに3両を鉄道省に納入する 大正 5年 6 日立製品としてはじめて扇風機をアメリカに輸出する

123 昭和3年 母チヨ死去 昭和4年 に日立製作所社長に 就任した この頃 世界金融恐慌で業績が悪化するが 昭和肥料 現 昭 和電工 の水電解槽設備を受注する 国産技術での製造は不可能と思われ ていたが昭和6年 に完納した 昭和8年 には特許係を設 け 昭和9年 4 には日立研究所を設置するなど 技術開発に力を入 れる 昭和 年 7 には国産工業と合併し7工場を設置 戦時期には 軍需工場となり兵器などを生産する 昭和 7 年 4 東京 国分寺に中 央研究所創設 昭和 年 4 4 兄 儀平死去 第二次世界大戦末期は自 動車の利用を拒み満員電車で通勤した 昭和 年 4 5 空襲で東京の自 宅が被災 また 茨城県内をはじめ多くの工場が空襲や艦砲射撃で甚大な 被害をうける 終戦後の昭和 年 4 7 第2次公職追放にともない社 長を退任 倉田主税が第2代社長就任 社会 文化貢献 小平は福利厚生に力を入れ 昭和 年 日立病院 現 日立総合 病院 を開院している 日立工場の従業員だけでなく 家族や地域住民の 診療にも応じるものであった 昭和 4 年 には日立製作所創業 周 年記念事業として 国に学校建設資金 万円を寄付し 多賀高等工業学 校 現 茨城大学工学部 の設立に貢献した また 社員にスポーツ活動 お おみ か をすすめ 昭和 年 6 には日立ゴルフコース 大甕ゴルフ場 を茨 城県に開設 ゴルフ場の敷地の中には大甕陶苑を設け陶器づくりを楽しめ るようにした 晩年 昭和 6 年 5 公職追放が解除されて取締役に復帰 7月から8月 には 公職追放中に一度も訪れなかった工場視察を行った 9月下旬 右 の手首に腫物ができる リュウマチと診断されたが 妻 也笑の注意を聞 かず薪割を続ける 月4日 関西旅行を見合わせ 自宅にて也笑と夕食 後 ラジオの長唄などを聞く 午後9時4 分 様子が変なので医者を呼ぶ 翌5日零時 5 分 事切れる 死因は狭心症 享年7 7 歳 月9日 青山斎 場の葬儀には青山1丁目の駅から弔問の列が延々と続いたため霊柩車が通 小平浪平

124 れず 関係者が棺を担いで車に運んだ 骨壺は大甕陶苑で作った大甕焼 だったという 墓所は東京 谷中霊園 関係人物 もと じ 渋沢元治 明治 年 6 の7月の雨の日 駒橋水力発電所に向かう ために乗った甲府行の車中で渋沢元治に出会う 元治は渋沢栄一の甥で東 京帝国大学電気工学科の同期 当時は逓信省通信局に勤めていた 小平は 元治を誘って猿橋の大黒屋に宿をとり 日本で使う機械は日本人が作らな くてはならない と夜を徹して夢を語りあった 小平が東京電燈を辞めて 久原鉱業所日立鉱山に入社とする決意を固めた 甲州猿橋 雨夜の語ら い として 日立の歴史発祥の場と位置付けることもある 渋沢元治は後 に東京帝国大学教授 工学部長を経て 名古屋帝国大学初代総長 昭和5 年 7 5 没 久原房之助 現在の山口県萩市出身 東京商業学校 現 一橋大学 慶應義塾を卒業後 森村組を経て 伯父 藤田伝三郎の藤田組が所有する 小坂鉱山に入社 黒鉱自溶精錬法などを確立し事業を拡大する 退社後 明治 年 5 に茨城県の赤沢銅山を買収 日立銅山と改称 するなど 鉱山経営をすすめて 鉱山王 と称された 久原鉱業を核として事業を拡 大し 久原財閥を形成する 義兄は日産コンツェルンの創始者 鮎川義介 である 昭和に入ってからは政界に進出 逓信大臣や大政翼賛会総務など に就き 政界の黒幕といわれた 戦後も衆議院議員を一期務めた 昭和4 年 6 5 没 倉田主税 仙台高等工業学校 現 東北大学工学部 を卒業後 久原 鉱業所 のち久原鉱業 日立製作所に入社 小平のもとで おもに電線の 製造に携わり 電線工場の工場長に就任する 小平らが公職追放された昭 和 年 4 7 笠戸工場長から日立製作所2代目社長に就任し 4 年間 務める 退職金を投じて財団法人国産技術振興会 現 倉田記念日立科学 技術財団 を設立 また社長在任中には日本科学技術振興財団初代会長に も就いた 昭和4 4 年 6 没 4

125 ゆたか 村井弦斎 本名は村井寛 新聞記者 小説家として活躍 食道楽 などベストセラーがある 明治 年 7 頃 弦斎が栃木県に滞在中 小平に文章規範の素読を教えて以来 親交を持つ 小平の大学進学に際し ては 電気工学を専攻するようにアドバイスをする 明治 7 年 4 平塚駅南側 現在の平塚市八重咲町 松風町 に 6, 4 坪の土地を入手し 転居 菜園 果樹園などが設けられた村井邸は食のサロンとなり 小平を はじめ 大隈重信 鈴木三郎助 岩崎弥之助 弥太郎の弟 など政財界の 有力者が常連となった 昭和2年 7 没 昭和7年 多嘉子夫 人が平塚の土地を売りに出した際 小平はほとんどを買い取り別荘とした エピソード 小平の趣味はゴルフであった 大正 年 4 に健康のためにはじめ たが 交友にもいいスポーツなので社員にもすすめた 俺は死ぬならゴ ルフ場でゴルフをやりながら死にたい と笑い話をするほどだったという ゴルフ仲間で元国務大臣の下村宏 海南 は 小平さんの想い出 で次の ように記している 小平君のゴルフはいつやっても大体は似た成績である とにかくスタン スのとり方からクラブの振り方まですべて同じ型をくりかえしているのだ から 機械が動いているような感じを与える だから小平君とゴルフを やってもなんの変哲もない 小平君とやっても面白くないといって不愉快 ということもない 決して邪魔にならない 小平君のゴルフのようなあん な機械的なゴルフは他に見出すことはできない まさしく小平君はゴルフ まで日立式で一貫したのであります キーワード 日立評論 大正7年 日立製作所創業から8年目にして技 術研究雑誌を創刊した 当時 設計係長だった馬場粂夫の主導で刊行され 我が国の企業技報のさきがけともいえる 小平は昭和7年 の第 4 巻第5号の巻頭 日立評論十五周年に際して にて 技術を秘密にせず公 開する意義などを述べている 日立評論 は現在も刊行され通巻千号を 超えている 小平浪平 5

126 神奈川との関わり 昭和 年 7 5月 国産工業を吸収合併して 日立製作所戸塚工場 現 横浜市 を創業する 創業時は 電話機 交換機のほか 電気ドリ ル 削岩機 自動車用電子部品などを作成 戦時中の昭和 年 4 8 月には激励のため小平も視察している また 先述のように小平は平塚に 別荘を持っていたが 昭和 年 4 5 に爆撃で焼失する 現在は小平浪 平別荘跡の碑が立つ 碑文は渋沢元治による 文献案内 著作 晃南日記 小平浪平翁記念会 5 4 K 小平が明治 6 年 から同 年 まで記した青年期の日記 身辺雑記 小平浪平遺稿 小平浪平翁記念会 5 4 K 小平が子供 孫のために描いた私的な冊子を刊行したもの 社史 日立製作所史1 日立製作所 4 改訂版 6 Y K 日立製作所史2 日立製作所 6 Y K 1巻は創業前から昭和 年 まで 2巻は昭和 4 年 から同 5 年 6 までを扱う 題字は小平による 1巻の はしがき には渋沢元治 が小平との甲州猿橋 雨夜の語らいへの想い出を書いている 現在 日立製 作所史 は5巻 まで刊行 写真集 時代がもとめ 時代にこたえた日立の7 5年 日立製作所 5 Y K 戦前の会社の様子がわかる写真を多数収録 ひとの日立 日立のひと 日立製作所 K 第 4 章 日立製作所のふるさと 創業者 小平浪平 写真でたどる日立百年のあゆみ 日立鉱業創業 5 年 日立製作所 年 日立郷土資料館 K 戦前の写真が中心 日立製作所の創業小屋の写真なども収録 6

127 開拓者たちの挑戦 日立 年の歩み 日立製作所 K 小平の若き日の写真なども多く掲載している 伝記文献 重工業王 小平浪平 加浪晒三著 龍崖社 K 小平さんの想い出 小平浪平翁記念会 5 K 五島慶太 鮎川義介ら親交のあった有力者 友人 知人 日立製作所の関係 者 家族 親族が小平の想い出を記している 日本の電機工業を築いた人 小平浪平翁生涯 藤田勉著 国政社 6 K 日立とその人々 高尾直三郎著 高尾直三郎 6 5 K 小平を支えた高尾直三郎の回想録 小平にまつわるエピソードも多い 技術王国 日立をつくった男 創業者 小平浪平伝 加藤勝美著 PHP研究所 5 K 参考文献 時代の先駆者 よみがえる村井弦斎 明治の実用小説家 平塚市博物 館 Y Y かな 高田高史 小平浪平 7

128 近 代 的 興 行 を 確 立 おおたに 大 谷 たけ じろう 竹 次 郎 (77-6) 松 竹 ほか 人 物 データファイル 出 生 明 治 年 (77) 月 日 京 都 三 条 柳 の 馬 場 ( 現 京 都 府 京 都 市 )で 父 栄 吉 母 しもの 次 男 として 生 まれる 兄 松 次 郎 とは 双 生 児 である 京 都 では 事 始 め と 称 するめでたい 日 に 生 まれたのでこう 名 付 けられた という 祖 父 は 薩 摩 藩 の 家 中 であったが わけあって 京 都 で 暮 らすことと なったと 伝 えられている 父 栄 吉 は 幼 い 時 に 旅 館 を 営 んでいた 大 谷 家 に 養 子 に 出 されやがて 花 相 撲 ( 本 場 所 以 外 の 相 撲 興 行 )で 働 くことになった そして 花 相 撲 の 水 場 ( 売 店 )の 株 を 持 っていた 西 村 熊 吉 の 娘 しもと 知 り 合 い 結 婚 した 生 い 立 ち 相 撲 興 行 にしたがってあちこちを 転 々とする 貧 しい 暮 らしが 続 くが 明 治 年 (5) 祇 園 花 見 小 路 にできた 祇 園 座 の 水 場 の 株 を 祖 父 西 村 熊 吉 が 購 入 一 家 をあげてその 仕 事 を 手 伝 うことになり 定 まった 場 所 で 商 売 が できることとなった 竹 次 郎 も 兄 と 共 に 京 都 市 立 有 済 小 学 校 での 学 業 の 傍 ら 両 親 を 助 けて 働 いた 明 治 年 () 月 の 祇 園 座 改 め 祇 園 館 の 開 がん じ ろ う 場 興 行 は 東 京 から 九 代 目 市 川 團 十 郎 一 派 を 招 き 大 阪 の 初 代 中 村 鴈 治 郎 と 組 み 合 わせた 大 舞 台 だった 働 きながら 観 たこの 舞 台 に 大 きな 衝 撃 を 受 けた 兄 弟 は 芝 居 の 興 行 を 志 すようになったという 実 業 家 以 前 松 竹 提 供 明 治 5 年 ()には 父 が 新 京 極 の 東 向 座 の 水 場 の 権 利 を 手 に 入 れ さ らに 劇 場 の 金 主 になった 明 治 年 (5)には 同 じく 新 京 極 の 阪 井 座 きんしゅ の 金 主 にもなった 父 栄 吉 は 東 向 座 の 時 から 金 主 になっても 興 行 に 直 接

129 関 与 することはなく 竹 次 郎 を 代 理 とした 兄 松 次 郎 はこのころ 父 の 手 元 を 離 れ 同 じ 新 京 極 の 夷 谷 座 の 水 場 の 権 利 を 持 っていた 白 井 亀 吉 のもとで 働 いていた 松 竹 では 竹 次 郎 が 興 行 界 の 第 一 線 に 立 ったこの 明 治 年 (5)を 創 業 の 年 としている 実 業 家 時 代 明 治 年 (7) 兄 松 次 郎 は 白 井 亀 吉 の 次 女 と 結 婚 し 白 井 家 の 養 子 と なり 弟 竹 次 郎 が 大 谷 家 の 家 督 相 続 権 を 持 つこととなった 大 谷 は 徴 兵 検 査 の 結 果 数 ヵ 月 入 隊 し この 間 は 兄 が 代 わりに 阪 井 座 等 の 経 営 にあたった これが 白 井 大 谷 の 協 力 事 業 の 始 まりである 明 治 年 () 阪 井 座 を 譲 り 受 けるが 老 朽 化 の 為 興 行 の 許 可 がおりなかったので 折 よく 売 りに 出 されていた 祇 園 館 の 建 物 を 買 い 取 って 移 築 し 歌 舞 伎 座 と 改 称 して 翌 年 開 場 する 明 治 4 年 ()には 賃 貸 借 り 受 けをしていた 常 盤 座 が 焼 失 し たのに 続 き 父 栄 吉 が 死 去 する 兄 弟 は 常 盤 座 の 再 建 に 全 力 を 注 ぎ 座 主 となり 明 治 5 年 ()の 月 には 明 治 座 と 改 称 して 開 場 にこぎつける まつたけ しんねん この 開 場 を 祝 う 大 阪 朝 日 新 聞 の 記 事 松 竹 の 新 年 ( 月 日 付 )をきっ まつたけ かけとして 松 竹 合 名 会 社 という 名 称 を 使 用 し 始 め 松 と 竹 を 組 み 合 わせ し ず ま た 社 章 も 作 られた 明 治 座 ではこれから 数 年 にわたって 新 派 俳 優 静 間 小 次 郎 と 提 携 していくこととなる この 頃 までの 興 行 界 は 上 演 時 間 は 不 規 則 なうえ 利 益 関 係 も 複 雑 で 様 々な 悪 習 慣 が 横 行 していた その 打 破 を 目 指 す 演 劇 改 良 の 運 動 に 兄 弟 も 賛 同 し 新 しい 行 き 方 を 自 分 たちの 興 行 で 実 行 している 明 治 7 年 (4) 月 には 初 代 中 村 鴈 治 郎 が 初 めて 歌 舞 伎 座 に 出 演 する これを 機 に 両 者 は 関 係 を 深 め 鴈 治 郎 は 京 都 への 出 演 を 重 ねる 明 治 年 (6) 月 には 道 頓 堀 の 中 座 を 借 り 受 け 鴈 治 郎 一 座 の 直 営 興 行 を 行 い 大 阪 へも 進 出 を 開 始 した また 月 には 京 都 の 南 座 を 買 収 して 改 築 し 直 営 とした この 後 明 治 4 年 ()には 道 頓 堀 の 朝 日 座 翌 年 には 大 阪 文 楽 座 も 買 収 し 着 々と 足 場 を 固 めていく 文 楽 座 は 寛 政 年 間 から 続 く 人 形 浄 瑠 璃 の 専 門 劇 場 だったが 経 営 は 苦 しかった しかし 二 人 は 文 楽 を 存 続 さ せるため 損 得 を 抜 きにして 経 営 を 引 き 受 けた 大 谷 竹 次 郎

130 明 治 4 年 ()に 東 京 の 新 富 座 の 売 り 出 しの 話 が 舞 い 込 み 過 労 のた め 病 中 であった 兄 に 代 わって 大 谷 が 取 りまとめ 上 京 した 毎 月 の 興 行 す なわち 生 活 の 安 定 を 求 める 新 派 俳 優 が 彼 に 協 力 し 新 富 座 の 改 築 を 進 める 一 方 新 派 の 拠 点 であった 本 郷 座 を 買 収 し 直 営 とした また 築 地 に 松 竹 合 名 会 社 東 京 事 務 所 を 開 設 し この 年 から 大 谷 竹 次 郎 が 東 京 白 井 松 次 郎 が 大 阪 という 体 制 ができた 明 治 44 年 () 月 社 名 を 松 竹 合 名 社 と 変 更 この 年 の 月 に 帝 国 劇 場 が 開 場 し 座 席 はすべて 椅 子 席 切 符 制 度 や 新 聞 広 告 ポスター 等 を 取 り 入 れた 新 方 式 が 興 行 界 に 新 風 を 吹 き 込 んだ 翌 45 年 には 女 優 ブーム がおき 松 竹 でも 女 優 養 成 所 を 設 立 している 月 には 市 川 左 団 次 ( 二 代 目 )が 松 竹 専 属 となり 岡 本 綺 堂 らの 脚 本 を 得 て 興 行 を 行 う そして 大 正 年 () 月 大 谷 は 歌 舞 伎 の 殿 堂 歌 舞 伎 座 の 経 営 を 任 される また 大 衆 芸 能 でにぎわっていた 浅 草 六 区 にも 進 出 し 吾 妻 座 御 国 座 な どを 経 営 した 活 動 写 真 ( 映 画 )にも 興 味 を 持 ち 末 弟 の 白 井 信 太 郎 ( 白 井 松 次 郎 の 養 子 となっていた) 劇 作 家 の 松 井 松 葉 などを 欧 米 に 視 察 に 行 しょうちく かせた 後 大 正 年 () 月 松 竹 キネマ 合 名 社 を 創 立 した これ 以 後 しょうちく という 呼 称 になる さらに 翌 年 () 帝 国 活 動 写 真 株 式 会 社 ( 大 正 年 月 創 立 )を 買 収 し 松 竹 キネマ 株 式 会 社 と 改 称 のう え 松 竹 キネマ 合 名 社 を 吸 収 した またこの 年 には 歌 舞 伎 座 が 全 焼 再 建 途 中 の 大 正 年 () 月 に 関 東 大 震 災 が 発 生 し 歌 舞 伎 座 だけではな く 京 浜 地 区 の 傘 下 の 劇 場 映 画 館 事 務 所 住 まい 等 を 失 ってしまう 大 谷 は 再 興 に 努 力 し 大 正 4 年 (5) 月 歌 舞 伎 座 の 再 建 が 完 成 し 来 賓 約 5 人 を 招 いて 開 場 式 が 行 われた 昭 和 年 ()7 月 には 初 の 歌 舞 伎 海 外 公 演 を 実 現 し 月 には 東 京 松 竹 楽 劇 部 が 創 設 され レビューへの 取 組 みが 本 格 的 に 始 まった 月 に は 松 竹 興 業 株 式 会 社 を 創 立 し 松 竹 合 名 社 東 京 事 務 所 の 所 有 する 劇 場 経 営 権 全 てを 継 承 した 翌 4 年 ()には 不 況 で 借 財 を 背 負 った 帝 国 劇 場 を 年 間 の 契 約 で 経 営 することになった また 松 竹 合 名 社 大 阪 事 務 所 が 株 式 化 を 行 い 松 竹 土 地 建 物 興 業 株 式 会 社 となった この 両 社 は 昭 和 6 年

131 ()に 合 併 し 松 竹 興 行 株 式 会 社 となった 昭 和 年 (6)には 蒲 田 から 大 船 に 撮 影 所 を 移 転 し 更 に 昭 和 年 (7)には 松 竹 興 行 株 式 会 社 と 松 竹 キネマ 株 式 会 社 が 合 併 して 松 竹 株 式 会 社 となる 大 谷 が 社 長 とな り ここに 東 西 の 松 竹 演 劇 映 画 が 統 一 された 昭 和 に 入 ると 東 京 の 演 劇 映 画 レビュー 界 のほぼすべてを 松 竹 が 掌 握 していたが やがて 小 林 一 三 が 創 立 した 東 宝 がその 座 を 脅 かすようにな る 東 宝 は 多 くの 劇 場 を 建 設 し 帝 国 劇 場 も 傘 下 に 収 め 松 竹 から 俳 優 を 引 き 抜 いて 東 宝 劇 団 を 結 成 した 両 者 は 昭 和 6 年 (4)に 相 談 役 交 換 と いう 和 解 策 を 講 じる 戦 争 中 も 上 演 は 続 けられたが 昭 和 年 (45) 月 には 松 竹 本 社 は 焼 夷 弾 の 直 撃 を 受 け 大 谷 は 爆 風 のため 鼓 膜 を 損 傷 空 襲 により 歌 舞 伎 座 をはじめ 多 くの 劇 場 が 焼 失 し 多 大 な 損 害 を 被 る 戦 後 GHQは 歌 舞 伎 に 対 して 厳 しい 上 演 制 限 を 行 い しばらくは 映 画 は 採 算 が 取 れるが 演 劇 は 赤 字 という 状 態 が 続 く やがてマッカーサーの 副 官 で 今 日 歌 舞 伎 の 恩 人 と 呼 ばれるバワーズの 尽 力 もあって 上 演 制 限 は 撤 廃 され 昭 和 6 年 (5) 月 にはついに 度 目 の 歌 舞 伎 座 再 建 を 成 し 遂 げる この 年 には 国 産 初 のカラー 映 画 も 公 開 している 昭 和 年 (54) 松 竹 株 式 会 社 会 長 になり 昭 和 5 年 (6)には 歌 舞 伎 の 渡 米 公 演 翌 年 にはソビエト 公 演 を 実 現 させた 昭 和 7 年 (6) 再 び 社 長 翌 年 会 長 となる また この 年 には 文 楽 を 財 団 法 人 文 楽 協 会 の 手 に 委 ねることとし 松 竹 所 有 の 人 形 衣 装 台 本 等 その 他 一 切 を 無 償 で 譲 渡 した この 後 は 歌 舞 伎 新 派 新 喜 劇 が 松 竹 演 劇 の 主 な 柱 となった なお 歌 舞 伎 の 海 外 公 演 はこれ 以 後 も ハワイ ヨーロッパ カナダへと 続 いた 社 会 文 化 貢 献 文 化 勲 章 を 受 章 したのを 記 念 して 財 団 法 人 松 竹 大 谷 図 書 館 を 設 立 し 昭 和 年 (5)に 開 館 松 竹 が 収 集 所 蔵 してきた 資 料 を 広 く 一 般 に 公 開 し 研 究 者 や 愛 好 家 の 利 用 に 供 して 芸 術 文 化 の 振 興 と 社 会 文 化 の 向 上 発 展 に 寄 与 することを 目 的 としている また 大 谷 の 死 後 松 竹 は 昭 和 47 年 (7)にその 業 績 を 記 念 して 大 谷 竹 次 郎 賞 を 制 定 した この 賞 はその 年 に 上 演 された 新 作 歌 舞 伎 脚 本 新 作 舞 大 谷 竹 次 郎

132 踊 劇 脚 本 の 最 優 秀 作 に 贈 られる 晩 年 昭 和 44 年 (6) 月 7 日 会 長 職 に 在 職 のまま 東 京 三 田 の 自 宅 で 慢 性 腎 臓 炎 のため 死 去 享 年 歳 翌 年 月 日 に 築 地 本 願 寺 で 松 竹 社 葬 白 井 と 同 じ 京 都 の 東 大 谷 墓 地 に 葬 られる 関 係 人 物 白 井 松 次 郎 双 生 児 の 兄 白 井 松 次 郎 は 昭 和 6 年 (5) 月 日 に75 歳 で 没 するまで 主 に 関 西 方 面 の 興 行 を 担 当 し 大 谷 と 助 け 合 い ともに 松 竹 の 事 業 を 築 き 上 げた 初 代 中 村 鴈 治 郎 を 擁 して 関 西 興 行 界 を 制 覇 し 明 治 4 年 ()には 文 楽 座 の 経 営 を 引 き 継 ぎ 興 行 の 改 革 を 進 め 再 興 し た 大 正 年 ()には 東 京 に 先 駆 けて 松 竹 楽 劇 部 創 立 大 正 年 () 千 日 土 地 建 物 株 式 会 社 社 長 昭 和 6 年 () 松 竹 興 業 社 長 昭 和 7 年 () 大 阪 歌 舞 伎 座 開 場 昭 和 年 () 松 竹 株 式 会 社 会 長 エピソード 大 正 4 年 (5) 月 7 日 日 光 の 中 禅 寺 湖 でボートが 転 覆 し 長 男 の 栄 次 郎 が4 歳 で 死 去 した 大 谷 の 嘆 きは 深 く 仕 事 をやめようと 決 心 する ほどであった しかし 俳 優 や 演 劇 関 係 者 など 周 囲 の 人 々の 温 情 に 演 劇 と いう 仕 事 あってこその 自 分 への 支 持 であると 思 いを 新 たにし 仕 事 に 邁 進 し かいだん ちぶさの た ただ ちょうど 上 演 中 であった 水 を 使 用 する 怪 談 乳 房 榎 えのき とい う 演 目 は 自 分 の 生 きている 間 は 松 竹 で 演 じることを 封 印 してしまった キーワード 水 場 の 株 花 相 撲 などの 相 撲 興 行 では 売 り 子 が 品 物 を 持 って 場 内 を 歩 き 見 物 客 にお 茶 やたばこ 盆 座 布 団 などを 貸 したり 売 ったりするビジネ スが 付 きもので 水 場 と 呼 ばれていた 誰 がどの 興 行 で 水 場 を 請 け 負 うかは 一 種 の 利 権 となっており その 権 利 を 株 と 呼 んでいた 金 主 興 行 の 資 金 を 出 すスポンサー 収 益 から 経 費 を 引 いた 利 益 を 得 る 複 数 で 出 資 することが 多 く 出 資 比 率 に 応 じて 分 配 する 芝 居 の 内 部 で 最 も 尊 敬 され 権 力 も 強 く 興 行 面 全 般 に 干 渉 した

133 神 奈 川 との 関 わり 葉 山 町 郷 土 史 (p)によると 大 谷 は 昭 和 年 ()に 葉 山 町 堀 内 7に 別 荘 を 構 えている 松 竹 は 昭 和 年 (4)に 大 船 駅 東 側 の 土 地 7 万 坪 を 購 入 し(その 他 万 坪 を 大 船 町 から 町 の 発 展 のためとして 寄 贈 される) 撮 影 所 建 設 用 地 以 外 の6 万 坪 を 宅 地 として 松 竹 映 画 都 市 株 式 会 社 より 分 譲 した 昭 和 年 (6) 月 に 大 船 撮 影 所 が 開 所 し 平 成 年 ()に 閉 鎖 するまでの64 年 にわたり ここであまたの 名 作 が 生 み 出 された また 昭 和 5 年 (5) 月 付 で 松 竹 はプロ 野 球 球 団 松 竹 ロビンス を 発 足 させる この 年 見 事 セントラルリーグで 優 勝 するが 以 後 低 迷 し 昭 和 年 (5)には 大 洋 ホエールズ と 合 併 現 在 の 横 浜 DeNAベイ スターズの 前 身 となった 文 献 案 内 著 作 大 谷 は 生 前 様 々な 雑 誌 に 執 筆 しているが 図 書 として 現 在 確 認 できる 主 なものは 以 下 のとおりである 歌 舞 伎 劇 雑 考 ( 社 会 教 育 パンフレット7) 大 谷 竹 次 郎 著 社 会 教 育 協 会 ~4 未 所 蔵 私 の 履 歴 書 日 本 経 済 新 聞 社 57 Y K 聞 き 書 き 後 に 私 の 履 歴 書 経 済 人 ( 日 本 経 済 新 聞 社 K )に 収 録 された 歌 舞 伎 の 話 (アルプスシリーズ57) 大 谷 竹 次 郎 著 商 工 財 務 研 究 会 57~5 未 所 蔵 同 じ 内 容 と 思 われるものが アルプス 叢 林 ( 稲 田 善 昭 編 アルプス 64 未 所 蔵 )にも 収 録 されている 社 史 松 竹 の 社 史 においては 大 谷 の 業 績 は 歴 史 編 において 記 述 されている 大 谷 竹 次 郎

134 松 竹 七 十 年 史 松 竹 64 Y Yかな K 昭 和 7 年 (6) 大 谷 竹 次 郎 の 提 案 により 着 手 し 年 をかけて 作 成 された 執 筆 編 集 は 田 中 純 一 郎 田 中 は 映 画 評 論 家 映 画 史 家 後 に 日 本 映 画 発 達 史 全 5 巻 を 著 し 日 本 映 画 ペンクラブ 賞 を 受 賞 している 創 業 から 昭 和 年 (6)までの 松 竹 株 式 会 社 の 歴 史 を 収 録 している 現 況 編 歴 史 編 資 料 編 の 部 構 成 からなり 歴 史 編 において 大 谷 及 び 兄 白 井 の 奮 闘 が 記 述 されてい る 松 竹 の 歴 史 がすなわち 大 谷 白 井 兄 弟 の 歴 史 であることがうかがえる 資 料 編 には 松 竹 開 始 以 来 の 演 劇 演 芸 興 行 記 録 松 竹 映 画 作 品 記 録 松 竹 洋 画 輸 入 興 行 記 録 松 竹 映 画 輸 出 作 品 一 覧 各 種 映 画 賞 受 賞 作 品 一 覧 松 竹 歌 劇 公 演 記 録 松 竹 製 作 テレビ 映 画 一 覧 松 竹 年 表 が 収 められ 日 本 近 代 の 興 行 史 を 知 るための 貴 重 な 資 料 となっている 松 竹 八 十 年 史 松 竹 75 Y Yかな K 執 筆 編 集 は 七 十 年 史 と 同 じく 田 中 純 一 郎 が 担 当 昭 和 4 年 (74)ま でを 記 述 の 範 囲 とし 七 十 年 史 刊 行 以 来 の 年 分 を 詳 しく 記 し 七 十 年 史 収 録 分 はダイジェスト 風 に 再 録 している 資 料 編 には 主 な 俳 優 の 配 役 映 画 スタッフ 名 も 新 たに 加 え 松 竹 上 演 の 全 演 劇 映 画 の 題 名 索 引 を 添 えている 松 竹 九 十 年 史 松 竹 5 Y K 執 筆 編 集 は 田 中 純 一 郎 が 担 当 従 来 通 り 現 況 編 歴 史 編 資 料 編 の 部 構 成 だが 八 十 年 史 刊 行 以 来 の 年 分 を 追 加 し 読 み 易 くするために 歴 史 編 の 多 くの 部 分 を 会 話 体 に 改 めている 松 竹 百 年 史 松 竹 6 Y 本 史 及 び 演 劇 資 料 映 像 資 料 の 全 巻 からなる 九 十 年 史 まで 編 纂 にあ たってきた 田 中 純 一 郎 は 平 成 元 年 ()に 死 去 している 松 竹 七 十 年 史 を 基 本 にしてその 後 を 加 筆 するだけではなく 新 発 見 の 資 料 を 加 え 誤 謬 を 正 し 新 たな 観 点 から 編 集 している なお 本 稿 人 物 データファイルの 記 述 は 本 書 を 主 な 典 拠 としている 松 竹 百 十 年 史 松 竹 6 Y 明 治 年 (5)~ 平 成 7 年 (5) 末 までを 記 述 の 対 象 とする 現 況 編 歴 史 編 資 料 編 の 部 構 成 既 刊 の 社 史 を 基 にまとめ 新 たに 平 成 年 以 降 の 記 4

135 述 を 加 えている 歌 舞 伎 座 百 年 史 松 竹 ~ Y K 本 文 篇 上 巻 下 巻 及 び 資 料 篇 の 全 巻 設 立 前 史 及 び 明 治 年 () 月 の 開 業 から 昭 和 年 (45)5 月 に 戦 火 で 焼 失 するまでを 上 巻 に 復 興 前 史 ( 昭 和 年 5 月 ~5 年 ) 及 び 設 立 年 ( 昭 和 6 年 )までを 下 巻 に 収 録 大 谷 の 業 績 は 本 文 篇 上 下 巻 にわたって 記 述 されている 資 料 篇 は 本 興 行 のみでなく 短 期 興 行 も 含 む 上 演 年 表 ( 明 治 年 ~ 昭 和 6 年 )である 松 竹 関 西 演 劇 誌 日 比 繁 治 郎 編 松 竹 編 纂 部 4 未 所 蔵 白 井 松 次 郎 の 指 示 により 作 成 された 京 阪 神 の 各 座 の 明 治 期 以 降 の 上 演 記 録 を 中 心 とし 演 目 別 索 引 も 付 いている 伝 記 文 献 大 谷 竹 次 郎 演 劇 六 十 年 脇 屋 光 伸 著 大 日 本 雄 弁 会 講 談 社 5 未 所 蔵 大 谷 竹 次 郎 田 中 純 一 郎 著 時 事 通 信 社 6 Y 百 人 が 語 る 巨 人 像 大 谷 竹 次 郎 百 人 が 語 る 巨 人 像 大 谷 竹 次 郎 刊 行 会 7 Y K 大 谷 没 後 追 悼 集 として 刊 行 された 生 前 の 大 谷 を 知 る 百 名 の 人 々が 自 分 た ちの 目 に 映 ったその 姿 をつづっている 巻 末 に 付 録 として 松 竹 兄 弟 ( 渡 辺 霞 亭 著 国 風 書 院 )の 復 刻 年 譜 写 真 ( 大 竹 省 二 撮 影 ) 等 を 収 録 松 竹 演 劇 興 行 を 実 業 化 した 大 谷 竹 次 郎 宮 西 好 夫 著 日 本 の 創 造 力 日 本 放 送 出 版 協 会 p45-4 Y 参 考 文 献 松 竹 映 畫 都 市 株 式 會 社 分 讓 地 附 近 圖 松 竹 映 畫 都 市 4 Yかな 神 奈 川 との 関 わり 欄 参 照 葉 山 町 郷 土 史 葉 山 町 75 Yかな レビューと 共 に 半 世 紀 松 竹 歌 劇 団 編 国 書 刊 行 会 7 Y 幻 の 田 園 都 市 から 松 竹 映 画 都 市 へ 鎌 倉 市 中 央 図 書 館 5 Yかな 歌 舞 伎 座 物 語 中 川 右 介 著 PHP 研 究 所 Y 大 谷 竹 次 郎 5

136 名 墓 録 矢 島 俯 仰 ( 参 照 --5) < 鈴 木 めぐみ> コラム 実 業 家 と 美 術 館 () ブリヂストン 美 術 館 サントリー 美 術 館 等 のように 企 業 名 がつい ていると 企 業 が 創 設 した 美 術 館 だということがわかりやすい しかし 実 業 家 の 名 前 を 美 術 館 の 名 称 にしている 場 合 一 般 の 公 立 私 立 美 術 館 と の 判 別 がつきにくい 例 えば 根 津 美 術 館 五 島 美 術 館 大 原 美 術 館 太 田 記 念 美 術 せんおくはくこかん 館 泉 屋 博 古 館 どこの 企 業 の 美 術 館 かわかるだろうか 根 津 美 術 館 ( 港 区 南 青 山 昭 和 6 年 設 立 )は 東 武 鉄 道 の 初 代 根 津 嘉 一 郎 が 東 洋 美 術 が 欧 米 へ 流 出 するのを 防 ぐために 個 人 の 趣 味 という 枠 をこ えて 蒐 集 した 古 美 術 品 をもとに 代 目 根 津 嘉 一 郎 (-)が 設 立 した 美 術 館 である 五 島 美 術 館 ( 世 田 谷 区 上 野 毛 昭 和 5 年 設 立 )は 東 京 急 行 鉄 道 株 式 会 社 の 五 島 慶 太 が 収 集 したコレクションを 広 く 公 開 し 社 会 文 化 の 発 展 に 寄 与 することを 願 って 設 立 した 美 術 館 である また 倉 敷 に 行 ったら とりあえず 大 原 美 術 館 ( 岡 山 県 倉 敷 市 昭 和 5 年 設 立 ) に 立 ち 寄 るという 人 も 多 いだろう この 美 術 館 は 画 家 児 島 虎 次 郎 の 死 を 悼 んだ 倉 敷 紡 績 代 目 社 長 の 大 原 孫 三 郎 によって 設 立 された 日 本 最 初 の 西 洋 美 術 中 心 の 私 立 美 術 館 である 太 田 記 念 美 術 館 ( 渋 谷 区 神 宮 前 昭 和 5 年 設 立 )は 東 邦 生 命 保 険 会 社 の 第 5 代 太 田 清 蔵 (-77)が 江 戸 時 代 末 期 から 明 治 時 代 にかけて 膨 大 な 数 の 浮 世 絵 が 欧 米 に 流 出 したこと を 嘆 いて 収 集 に 努 めた 浮 世 絵 を 公 開 した 浮 世 絵 専 門 の 美 術 館 である 泉 屋 博 古 館 は 住 友 家 が 蒐 集 した 美 術 品 を 保 存 展 示 する 美 術 館 で 東 京 六 本 木 と 京 都 鹿 ヶ 谷 にある この 美 術 館 の 名 称 は 江 戸 時 代 の 住 友 の 屋 号 泉 屋 と 青 銅 器 図 録 博 古 図 録 からとったものである 6

137 企業メセナの先駆者 おおはら まごさぶろう 大原 孫三郎 4 倉敷紡績ほか 人物データファイル 法政大学大原社会 問題研究所所蔵 出生 明治 年 7月 日岡山県窪屋郡倉敷村 現 倉敷市 に大原孝 四郎の三男として生まれる 孫三郎 と命名したのは 大原家中興の祖 祖父壮平にあやかってその孫に当たるという意味から名づけられたといわ れている 長兄基太郎が 歳で夭逝 次兄は出生後まもなく亡くなったため 孫三 郎は大原家の跡継ぎとして大切に育てられた 生い立ち 子どもの頃から人一倍の負けず嫌いで燗癖が強かった 勉強は好きでは なく 教師から勉強のできる友人を手本にしろと説教されたことがあった ためか 教師にほめられる奴にロクな奴はない というのが口癖だった という し ずた にこ う 明治 7 年 4 日清戦争が勃発した年に 閑谷黌 に入学 しかし 寄宿舎生活が肌にあわず わずか2年足らずで飛び出してしまった 明治 年 7 かねてからの上京の希望が叶い 6 歳で東京専門学 校 早稲田大学の前身 に学ぶが 放蕩の限りを尽くし 倉敷に連れ戻さ れる その時 孫三郎が作った莫大な借金の返済に奔走したのが姉婿の原 邦三郎であった しかし悲劇が起こる 今なら億単位の借金の善後策を話 し合っていた夜 突然邦三郎は脳溢血で倒れ そのまま息を引き取った 歳の若さである 義兄の死によって 孫三郎は自責と悔悟の暗闇に突き 落とされた 謹慎中の彼に一条の光を与えたものは 東京の友人から贈ら れた二宮尊徳の 報徳記 と 後の人生を一変させた友人 石井十次との 大原孫三郎 7

138 邂逅であった 実業家以前 歳の夏 石井十次 岡山孤児院の創設者 の講演を聞いて感銘を受け た孫三郎は キリスト教的人道主義に感化され 聖書を精読するように なった 以後 石井が行う孤児 貧民の救済事業を全面的に支えることに なる 明治 4 年 1月 倉敷紡績に入社 月には石井スエ 後に寿恵 子と改名 と結婚 明治 7 年 4 月 4 歳にして家督を相続する 実業家時代 明治 年 6 父孝四郎の後を継いで 6 歳で倉敷紡績の取締役社長 と倉敷銀行の頭取に就任した 倉敷紡績は当時順調な経営を続けていたが 保守的な体質があり 内部には多くの問題点を抱えていた 孫三郎は まず人事の刷新 綱紀粛正を断行し 輸送の合理化を図るな ど積極的に才腕を揮った 特に労働問題の改革に情熱を注ぎ 悲惨な労働 環境を改善するために 長年会社に巣くっていた飯場制度を全廃し 従業 員たちを中間搾取の弊風から解放した その後も業績不振の中小紡績会社を次々と合併し 明治4 5 年 に は自家発電設備をつくり 傘下の3つの工場に送電するなど いちはやく 動力を蒸気から電気に転換して 倉敷紡績を全国規模の会社に成長させた 第一次世界大戦前後の好況期には 技術革新や設備投資に重点を置く積 極的な姿勢を打ち出し その躍進はめざましかった さらに 電力 新 聞 金融などの諸事業にも手を広げて大きな成功を収め 関西における屈 指の実業家として 全国にその名をとどろかせた 大正 5 年 6 6月 人絹 レーヨン の国産化の必要性を洞察し 倉敷絹織 現 クラレ を設立する 昭和5年 月には中国銀行を設立し 頭取となった 政治との関わり 孫三郎は 歳の頃 政治同盟 を結成し 資金を援助したことがあった その時は当初理想とした活動もなく失敗に終わったため 以降は政治とは

139 距離を置いていたが 明治4 4 年 周囲の勧めもあり 地域社会のた めに貴族院議員 多額納税議員 に立候補する決意を固めた 知人に相談 もしたが 選挙で争うことを避け 断念した その後は無競争で当選する 機会もあったが立候補せず 選挙の調停役に徹した 社会 文化貢献 人のために 世のために 我が財産と我が一生を捧げん という不屈 なげう の信念を持っていた孫三郎は 私財を擲 ってさまざまな社会 文化貢献 事業を成し遂げた 彼の社会 文化貢献事業は おおよそ次の5つに分類 できる その第一は 石井十次の精神と事業に感銘を受けて始めた岡山孤児院や 大阪の石井愛染園などの孤児院による救貧事業である 第二の事業は 社会教育である 孫三郎は郷土倉敷を重視し 倉敷とい う地域社会に深く根ざした社会公益活動を行った 明治 5 年 地域の人々の啓蒙のために 徳富蘇峰 新渡戸稲造 大隈重信といった当時の日本を代表する知識人を倉敷に招聘して 倉敷日 曜講演会 を始めた 講演会は 4 年間合計7 6 回開催されたが 孫三郎は 天下の風教を培養する最良の手段 と考え 費用の一切を負担した 講 演会は 大原孫三郎 總一郎記念講演会 と名称を変えて今も続けられて いる 孫三郎は明治 年 歳の若さで大原奨学会の育英事業を立ち上 げ 明治 5 年 歳で私立倉敷商業補習学校を開設し 校長に就任 している 労働者のために学校は夜間開かれ 孫三郎も修身を教えた 第三は 労働者の福利厚生の改善 向上事業である 孫三郎は 労働者に安心して働いてもらうことに企業経営の真髄があり それによって企業の繁栄がある と考え 労働者の人格尊重を標榜し 教 育 福利施設を自分の理想に合うように敢然と改革して行った まず 歳の時 倉敷紡績の本社工場内に 職工教育部 を設け 教育に 縁のなかった従業員の基礎教育を支援した これはわが国最初の企業内学 校である 大原孫三郎

140 労 働 環 境 の 整 備 にも 力 を 注 いだ 倉 敷 紡 績 の 社 長 に 就 任 した 当 時 女 子 工 員 の 寄 宿 舎 は 万 年 床 で 腸 チフスなどの 病 人 が 多 数 発 生 する 非 人 間 的 な 集 合 寄 宿 舎 であった そこで 巨 額 の 費 用 を 投 じて 平 屋 の 分 散 式 寄 宿 舎 を 建 設 した 男 子 工 員 には 社 宅 を 設 けるなど 先 進 的 な 労 務 管 理 を 実 践 す る 大 正 7 年 ()には 工 場 の 従 業 員 とその 家 族 さらに 地 域 住 民 にも 平 等 に 開 放 する 病 院 の 新 設 を 打 ち 出 す 妥 協 せず 最 高 のものを 提 供 すると いう 姿 勢 を 貫 いた 孫 三 郎 は 東 洋 一 の 医 療 を 提 供 するという 意 気 込 みで 当 時 の 医 学 界 のトップレベルの 人 材 を 呼 び 寄 せた この 構 想 は 5 年 後 の 大 正 年 ()に 倉 紡 中 央 病 院 ( 現 倉 敷 中 央 病 院 )となって 結 実 する この 病 院 の 経 営 にあらわれた 孫 三 郎 の 人 格 主 義 は 倉 敷 紡 績 関 係 者 の みならず 地 域 住 民 にも 大 きな 恩 恵 をもたらした 現 在 もその 孫 三 郎 の 精 神 は 受 け 継 がれている 第 四 は 一 流 の 学 者 を 集 めて 調 査 研 究 にあたらせた 各 種 の 研 究 機 関 を 設 立 し 援 助 育 成 したことである 大 正 年 (4) 孫 三 郎 5 歳 の 時 約 ヘクタールの 土 地 を 寄 付 し 農 事 一 般 の 改 良 を 目 指 す 研 究 所 として 財 団 法 人 大 原 奨 農 会 ( 現 在 の 岡 山 大 学 資 源 生 物 化 学 研 究 所 の 前 身 )を 設 立 岡 山 県 の 代 表 的 な 果 物 である 桃 や 葡 萄 などの 新 品 種 が この 研 究 所 で 生 み 出 された 大 正 年 ()に 大 原 社 会 問 題 研 究 所 ( 現 在 の 法 政 大 学 大 原 社 会 問 題 研 究 所 の 前 身 ) 大 正 年 ()には 倉 敷 労 働 科 学 研 究 所 ( 現 在 の 財 団 法 人 労 働 科 学 研 究 所 の 前 身 )を 開 設 した 世 にいう 大 原 三 研 究 所 の 創 設 である 孫 三 郎 は 救 貧 事 業 や 労 働 環 境 の 改 善 が ある 種 の 限 界 をもっていること を 見 抜 いていた 貧 を 救 うことではなく 貧 を 防 ぐにはどうしたらよいか 労 働 者 の 社 会 的 地 位 と 福 祉 を 向 上 するには 何 をなすべきか 孫 三 郎 は 問 題 の 実 情 を 調 査 して 学 術 的 な 研 究 を 行 い 問 題 の 根 本 的 な 解 決 を 図 ること が 肝 要 であると 考 えたのである 大 正 期 の 実 業 家 としては 卓 越 した 巨 視 的 な 見 識 を 持 っていたと 言 えよう 4

141 第五は 大原美術館に代表される美術品の蒐集と公開である 孫三郎より1歳年下の友人で画家の児島虎次郎は 大原家の奨学生であ った 孫三郎は児島の誠実な人柄にほれ込み 生涯援助を続けた 児島は 3度も渡欧し 制作に励みながら日本の画家たちの勉強のために エル グレコやモネ ゴーギャン ルノワールらの描いた美術作品を買い集めた 昭和4年 4 7 歳で児島が亡くなると 孫三郎は児島の業績を記念 する美術館の建設を決意する 世界恐慌に始まった大不況の嵐の中で 昭 和5年 月大原美術館が開館し 児島の描いた絵と児島の収集し た作品が美術館を飾った 後 第二次世界大戦を経て 息子總一郎が所蔵 作品の拡充と展示場の増設を行い 美術館をさらに大きく発展させた 晩年 孫三郎は 總一郎の結婚の頃から 実業の第一線から引退し 趣味を中 心とした自適の生活に入ることを考えていた また 狭心症という持病が あり 健康上の不安もあった 昭和 4 年 倉敷紡績 倉敷絹織両社 の取締役社長を辞任 翌年1月には中国銀行頭取も辞任した 昭和 6 年 4 日本が第二次世界大戦に突入すると 繊維工業の軍需工業への転 換が余儀なくされ 孫三郎の狭心症の症状も悪化する 昭和 年 4 1月 激しい発作が起きて危篤状態となり 總一郎は 父の手を握って看病した 孫三郎は発作がおさまってから お前に手を握 られたのはこれがはじめてだ と しみじみと述懐したという それから数日後の1月 日午後3時 分 経済 社会 芸術その他各界 にわたる偉大な足跡を残し 孫三郎はその生涯を閉じた 享年6 歳 孫三郎の墓は倉敷の古い街並みを一望できる鶴形山の大原家墓地にある 関係人物 大原孝四郎 父大原孝四郎は 岡山の藤田家からの養子である 当時の 大原家は地方屈指の大地主であった 孝四郎は毎朝3時に起き 家人が起 きる前にその日の段取りをつけてすぐに仕事に取りかかるという 綿密で 几帳面な人柄だったという 紡績という新産業に乗り出すことを決意し 大原孫三郎 4

142 明治 年 倉敷紡績所を創設して頭取に 明治 4 年 には倉 敷銀行の頭取となる 大原總一郎 孫三郎の長男 昭和7年 東京帝国大学卒業後 倉 敷絹織 現 クラレ に入社 昭和 4 年 孫三郎の後を継いで倉敷 絹織 倉敷紡績社長に就任 昭和 5 年 5 合成繊維ビニロンの国産化 に成功し 日本における合繊産業の草創期を切り拓いた 他にも京阪神急 行電鉄 大丸 朝日放送などの役員を歴任 関西経済連合会副会長 経済 団体連合会 経団連 常任理事などの要職を務めた また 音楽などの芸 術に造詣が深く 文化人としても活躍した 石井十次 孫三郎の人生に多大な影響を与えた石井十次は 宮崎出身で 岡山に移住し医者を目指したが 孤児救済に心血を注ぎ 日本で最初に孤 児院を創設して 児童福祉の父 と称された社会福祉事業の先駆者である エピソード 大原家には 家憲というものがなかった 孫三郎はむしろそれを誇りに して すべて古い者の言いつけを後生大事に守っているような人間では 仕様がない 子孫は祖先を訂正するためにある だから私もああしろ こ うしろということはいわない 祖先の欠点をよく見て それを批判して訂 正することがお前の義務だ と總一郎に語ったという 神奈川との関わり 現在 川崎市宮前区にある財団法人労働科学研究所の前身は 大正 年 孫三郎によって設立された倉敷労働科学研究所 以下 労研 である 孫三郎は 労働衛生の改善を科学的に研究することで実現しよう て るお か ぎ と う と考え 気鋭の医学者 暉峻義等に研究所設立を依頼する 暉峻は倉敷紡 績に入社し 労研の所長となり 労働科学という新しい学問分野の探究に 挑んだ その研究の成果は 機関誌 労働科学 などに発表され 労働問 題に関する貴重なデータを提示して注目された 昭和大恐慌時には倉敷紡績の業績の悪化に伴い労研の閉鎖が討議された が 暉峻からは存続の懇願を受けた 孫三郎は断固として存続を主張し 昭和5年 7月 労研を倉敷紡績から切り離して 孫三郎の個人経 4

143 営に移管し 経費のすべてを負担することにした こうして労研は残った のである 現在では 労働科学に関する調査 研究者の養成や 出版物の 刊行 講習会等の開催を行う文部科学省所管の民間研究所となり 海外と の研究者交流や共同研究にも積極的に取り組んでいる また 昭和9年 4 總一郎は 結婚直後に夫婦で箱根に旅行したこ とがあった 寿恵子夫人に先立たれた孫三郎がどこか淋しそうな様子だっ たので 箱根へご一緒にいかがですか と声をかけると カメラを携え て新婚夫婦に同行し まるで専属のカメラマンのように写真を撮影した このため倉敷では あの大原の大旦那は新婚旅行までべったりついて 行った などと評判だったという 文献案内 社史 倉敷紡績百年史 倉敷紡績 K 創新 クラレ 年の軌跡 6 6 クラレ 6 K 伝記文献 大原孫三郎編 財界人の労働観 財界人思想全集5 間宏編 解説 ダイヤモンド社 7 p Y K 大原孫三郎父子と原澄治 犬飼亀三郎著 倉敷新聞社 7 Y 孫三郎の絶筆は 張継の唐詩 帰山 の一節 生涯一片青山 である 大原孫三郎傳 大原孫三郎傳刊行会編 [ 大原孫三郎伝刊行会] Y K この本の中で 暉峻義等は 孫三郎について次のように語っている 大原 さんほど悩みの多い また悩みの深い人はなかったようである それが隠され ずに裸のままで表現され 人間味丸出しというところがあった 悩みは大きく 深かったが その半面実に幸福な人でもあった 大原孫三郎 近代経営の先駆者 神谷次郎著 日本のリーダー8 財 界革新の指導者 TBSブリタニカ p 5 7 Y 大原孫三郎と大原三研究所 寺出浩司著 日本の企業家と社会文化事 大原孫三郎 4

144 業 大正期のフィランソロピー 川添登 山岡義典編著 東洋経済新報 社 7 p 6 Y 大原孫三郎 青地晨著 人物昭和史 利根川裕ほか著 筑摩書房 p Y 孫三郎は 自分は親ゆずりの財産を受けついだが 子供にはその分だけを遺 せばよい 自分一代でこしらえたものは 社会的な目的に使いはたすつもり だ と語っていた わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯 城山三郎著 飛鳥新社 4 Y K 伝記の題名にもなっている わしの眼は十年先が見える ということばは 孫三郎の口癖であった 福祉実践にかけた先駆者たち 留岡幸助と大原孫三郎 兼田麗子著 藤原書店 Y 大原孫三郎の経営展開と社会貢献 大津寄勝典著 日本図書センター 4 未所蔵 大原孫三郎 創造と変化 に挑んだ6人の創業者 志村和次郎著 日刊工業新聞社 5 p 4 K 孫三郎の経営手法の特徴を 任せるべきところを任せ 重要なところを自ら 手をくだすというやり方 と分析 孫三郎については 頭脳明晰 行動力が あり 人を使うことが上手な指導者 孫三郎と事業をともにした人々は口を 揃えて 経営者というよりは立派な指導者だと語って いると 表現している 大原孫三郎の社会文化貢献 兼田麗子著 成文堂 Y 大原孫三郎の社会 文化 福祉への貢献 大原謙一郎著 大原社会問題 研究所雑誌 p 6 Y 参考文献 大原社会問題研究所五十年史 法政大学大原社会問題研究所編 法政大 学大原社会問題研究所 7 Y K 労働科学の生い立ち 労働科学研究所編 労働科学研究所 7 K 4 4

145 偉 大 なる 財 界 人 大 原 孫 三 郎 は 何 を 残 したか 大 内 兵 衛 著 作 集 大 内 兵 衛 著 岩 波 書 店 75 p-4 Y K 大 内 兵 衛 はこの 中 で 金 を 儲 けることにおいては 大 原 孫 三 郎 よりも 偉 大 な 財 界 人 はたくさんいました しかし 金 を 散 ずることにおいて 高 く 自 己 の 目 標 を かかげてそれに 成 功 した 人 物 として 日 本 の 財 界 人 でこのくらい 成 功 した 人 は なかった 日 本 資 本 主 義 史 上 において 数 少 い 立 派 な 実 業 家 と 述 べ 孫 三 郎 を 評 価 している 大 原 總 一 郎 随 想 全 集 全 4 巻 大 原 總 一 郎 著 福 武 書 店 Y 第 巻 には 孫 三 郎 が 總 一 郎 や 周 囲 に 語 った 含 蓄 のある 言 葉 が 数 多 く 記 録 さ れている その 中 の 一 部 を 挙 げる 仕 事 を 始 めるときには 十 人 のうち 二 三 人 が 賛 成 するときに 始 めなけれ ばいけない 一 人 も 賛 成 者 がいないというのでは 早 過 ぎるが 十 人 のうち 五 人 も 賛 成 するような 時 には 着 手 してもすでに 手 遅 れだ 人 間 そのものがその 人 のすべての 財 産 である 自 分 の 生 涯 は 失 敗 の 記 録 だ 子 孫 は 祖 先 を 訂 正 することによってのみ 意 義 が ある ( 最 期 の 病 床 で) 経 験 というものは 前 のことをもう 一 度 繰 り 返 すことではな い まだやったことのない 新 しい 事 を 失 敗 なしにやりとげることが 真 の 経 験 だ へこたれない 理 想 主 義 者 大 原 總 一 郎 井 上 太 郎 著 講 談 社 K < 宇 佐 美 鑑 子 > 大 原 孫 三 郎 45

146 新 興 財 閥 の 総 帥 あいかわ 鮎 川 よしすけ 義 介 (-67) 日 本 産 業 ほか 人 物 データファイル 私 の 考 え 方 より 出 生 明 治 年 () 月 7 人 兄 弟 の 番 目 として 山 口 県 に 生 まれる 父 彌 八 は 山 口 県 の 官 吏 等 を 務 める 母 方 の 祖 母 が 維 新 の 元 勲 井 上 馨 の 姉 母 仲 の 妹 が 井 上 の 養 嗣 子 の 妻 となっており 井 上 家 とつながりが 深 かった 生 い 立 ち 家 は 貧 しかったが 6 歳 で 万 事 西 欧 式 の 幼 稚 園 に 入 園 歳 の 頃 に は 父 の 命 令 一 下 家 族 で 洗 礼 を 受 け 日 曜 ごとにミサに 通 い 英 語 と 漢 籍 を 習 う( 入 信 は 一 時 的 なもので 家 族 はじき 浄 土 宗 に 戻 った) 腕 白 できか ん 気 の 強 い 尐 年 だった 山 口 高 等 学 校 時 代 に 同 郷 の 偉 人 である 井 上 馨 から エンジニアにな れ と 言 い 渡 され エンジニアを 志 すことを 決 意 在 学 中 は 井 上 の 他 人 のめしを 食 わんと 人 間 になれんでのう という 意 見 により 校 長 宅 に 寄 宿 した 高 校 卒 業 後 井 上 邸 から 東 京 帝 国 大 学 工 学 部 に 通 う このとき 井 上 邸 に 出 入 りしていた 多 くの 政 財 界 人 を 見 て 進 んで 使 われてみようとい う 人 物 はいないと 判 断 したと 述 懐 している 実 業 家 以 前 大 卒 後 井 上 の 三 井 入 りのすすめを 断 り 一 職 工 として 芝 浦 製 作 所 に 入 社 身 元 がわかると 同 僚 の 態 度 が 変 わって 働 きにくくなるため 仕 上 げ 工 から 始 めて 機 械 鍛 造 板 金 組 み 立 て 鋳 物 と 職 場 を 転 々とした また 給 金 の 不 足 を 補 うため 内 職 として 小 工 場 の 手 助 けもした 井 上 発 案 の 有 楽 会 の 工 場 視 察 をまねて 有 志 と 日 曜 ごとに 工 場 見 学 も 行 った その 結 論 と して 日 本 国 内 での 勉 強 に 限 界 を 感 じ 留 学 を 決 意 する 46

147 明 治 年 (5) 月 ダコタ 丸 の4 等 船 室 でアメリカへ 翌 年 月 か か た ん ちゅうてつ ら 三 井 物 産 とつながりのあった 北 米 の 田 舎 町 の 可 鍛 鋳 鉄 工 場 に 週 給 5 ドルの 見 習 工 として 雇 われた 帰 国 すると 井 上 馨 に 可 鍛 鋳 鉄 の 将 来 性 について 説 明 井 上 の 口 利 きで 久 原 や 貝 島 藤 田 三 井 といった 財 閥 から 出 資 を 得 て 官 営 八 幡 製 鉄 所 に 近 い 戸 畑 ( 現 北 九 州 市 戸 畑 区 )の 地 に 日 本 初 の 可 鍛 鋳 鉄 工 場 である 戸 畑 鋳 物 株 式 会 社 を 設 立 した 明 治 4 年 ()のことである 赤 字 の 危 機 を しのぐうちに 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 (4 年 ) 鋳 物 関 係 製 品 の 注 文 が 殺 到 して 業 績 が 向 上 した 鮎 川 はその 利 益 を 創 業 以 来 の 出 資 者 への 記 念 配 当 と 新 設 備 の 導 入 将 来 性 のある 会 社 の 買 収 に 費 やした 合 併 ではなく 買 収 し 共 立 企 業 という 持 株 会 社 の 傘 下 としたのは 富 士 山 型 ではなく アルプス 連 峰 型 にすることによって 人 事 関 係 をうまく 回 し 適 材 適 所 主 義 を 行 うためであったとしている 共 立 企 業 は 資 金 力 不 足 で 大 正 5 年 (6)5 月 に 事 実 上 解 体 したが( 機 構 上 は 昭 和 年 に 日 本 産 業 へ 合 併 ) このときの 教 訓 がのちの 日 本 産 業 株 式 会 社 の 経 営 に 生 かされた 実 業 家 時 代 大 正 5 年 (6) 月 主 力 である 久 原 鉱 業 自 体 の 産 銅 事 業 の 不 振 と 傘 下 の 久 原 商 会 の 投 機 取 引 失 敗 により 困 窮 に 陥 った 久 原 財 閥 の 再 建 を 依 頼 される 鮎 川 は はじめは 断 る 気 でいたが 義 兄 で 三 菱 合 資 総 理 事 であっ た 木 村 久 寿 弥 太 に 日 本 中 が 大 騒 ぎになるから 何 としても 食 い 止 めろ と 説 得 され 弟 政 輔 の 養 子 先 である 東 京 藤 田 家 や 妹 フシの 嫁 ぎ 先 である 貝 島 家 など 井 上 馨 につながる 親 族 に 援 助 を 頼 って 当 座 をしのいだ そして 本 格 的 に 再 建 させるため 義 弟 久 原 房 之 助 に 代 わり 社 長 に 就 任 し 昭 和 年 () 旧 体 制 の 久 原 鉱 業 を 現 業 部 門 と 本 社 機 構 に 分 離 本 社 部 分 を 公 開 持 株 会 社 の 日 本 産 業 株 式 会 社 に 改 組 する 株 式 を 公 開 して 広 く 一 般 から 事 業 資 金 を 集 め 優 良 な 弱 小 会 社 の 吸 収 合 併 をはかってコンツェルン 経 営 を 実 施 するという 仕 組 みは 当 時 の 財 界 か ら 理 解 を 得 られず また 世 界 恐 慌 のあおりもあって 発 足 当 初 の 日 本 産 業 はその 理 念 を 活 かすことができず 経 営 難 に 苦 しんだ しかし 昭 和 6 年 鮎 川 義 介 47

148 きん ()の 満 州 事 変 勃 発 と 金 本 位 制 離 脱 後 の 金 の 買 い 上 げ 価 格 大 幅 引 き 上 げを 契 機 として 経 営 が 好 転 昭 和 年 ()には 日 本 鉱 業 株 式 日 立 製 作 所 株 式 の 一 部 をプレミアム 付 きで 公 開 売 出 し 巨 額 の 資 金 を 獲 得 す る この 資 金 と 子 会 社 からの 配 当 収 入 の 増 加 を 背 景 に 昭 和 年 (4) 以 降 経 営 多 角 化 に 積 極 的 に 乗 り 出 した その 手 法 は 自 社 に 有 利 な 比 率 での 自 社 株 式 と 既 存 企 業 株 式 の 交 換 による 吸 収 合 併 という 形 で 進 められ 合 併 後 はその 企 業 と 事 業 内 容 を 整 理 統 合 し 子 会 社 として 分 離 独 立 させる というものだった この 一 連 の 事 業 展 開 により 日 本 産 業 はさまざまな 業 種 の 会 社 を 傘 下 に 収 め 昭 和 年 (7) 頃 には 三 井 三 菱 に 次 ぐ 事 業 規 模 の 企 業 集 団 に 成 長 した 4 また 昭 和 年 ()には 念 願 であった 自 動 車 生 産 事 業 に 乗 り 出 す 鮎 川 は 鋳 物 で 舶 用 小 型 発 動 機 のような 小 さいものばかり 造 っていたので は 発 展 がない 自 動 車 エンジンを 主 体 として 自 動 車 関 係 にと 早 いうちか ら 自 動 車 工 業 の 将 来 性 を 見 越 しており 戸 畑 鋳 物 が 軌 道 に 乗 る 頃 から 自 動 車 部 品 関 連 の 会 社 を 買 収 するという 準 備 をはじめていた 昭 和 年 (7) 満 州 国 政 府 と 関 東 軍 の 要 請 により 日 本 産 業 は 本 社 を 満 州 国 首 都 新 京 に 移 転 し 社 名 を 満 州 重 工 業 開 発 株 式 会 社 ( 満 業 )と 改 め 満 州 産 業 開 発 五 ヵ 年 計 画 の 遂 行 機 関 となる しかし 当 初 の 構 想 通 り には 開 発 が 実 現 しなかったためじきに 撤 退 を 画 策 昭 和 7 年 (4) 月 鮎 川 は 満 業 総 裁 を 退 任 し 満 州 から 手 を 引 いた 昭 和 年 (45) 終 戦 を 迎 えると 日 産 コンツェルンはGHQにより 十 大 財 閥 に 指 定 され 解 体 を 命 じられる 鮎 川 自 身 も 戦 犯 容 疑 者 として 巣 鴨 拘 置 所 に 収 監 された 準 A 級 戦 犯 として 巣 鴨 拘 置 所 に 収 監 されている 間 鮎 川 は 今 後 の 国 づく りは 道 路 と 水 力 ( 水 力 発 電 )と 中 小 企 業 にあるという 結 論 を 得 て 昭 和 年 (47)の 出 所 後 この 点 の 実 態 調 査 研 究 を 精 力 的 に 行 った それ らの 資 料 のうち 道 路 事 業 は 日 本 道 路 公 団 へ 水 力 ( 水 力 発 電 )は 電 源 開 発 会 社 へと 引 き 継 がれていく 残 る 中 小 企 業 育 成 については 鮎 川 自 身 で 昭 和 7 年 (5) 中 小 企 業 助 成 会 という 会 社 を 興 す 一 方 譲 り 受 けた 銀 行

149 を 中 小 企 業 助 成 銀 行 と 改 称 し 中 小 企 業 の 業 務 指 導 や 融 資 を 行 った また 法 律 を 変 えるには 当 事 者 の 政 治 的 大 同 団 結 が 必 要 と 考 え 昭 和 年 (56) 日 本 中 小 企 業 政 治 連 盟 ( 中 政 連 )という 圧 力 団 体 を 結 成 する 政 治 との 関 わり 中 小 企 業 の 支 援 助 成 のために 昭 和 年 (5)の 参 議 院 選 挙 に 無 所 属 で 立 候 補 し 当 選 超 党 派 での 活 動 を 目 指 したが 難 しく 中 政 連 による 中 小 企 業 振 興 に 熱 心 な 候 補 者 たちへの 応 援 という 方 法 を 経 て 昭 和 年 (57) 中 小 企 業 団 体 法 を 成 立 させた 昭 和 4 年 (5)の 参 議 院 選 挙 で も 当 選 したが 同 時 に 当 選 した 次 男 金 次 郎 の 選 挙 違 反 に 連 座 する 形 で 辞 任 し 政 界 から 手 を 引 いた 社 会 文 化 貢 献 教 育 に 熱 心 で 顧 みると 私 の 長 い 生 涯 で 得 た 最 後 の 思 想 の 結 晶 は 人 づくり と 述 べるほどであった たとえば 最 初 の 会 社 戸 畑 鋳 物 では 社 長 ではなく 専 務 取 締 役 兼 技 師 長 として 現 場 の 陣 頭 に 立 ち 熟 練 工 ではなく 百 姓 出 のズブのしろうと に 技 術 を 仕 込 んで 育 て 上 げた 他 日 私 の 教 え 子 が 方 々に 渡 って 戸 畑 式 鋳 造 法 をひろめて 斯 界 に 貢 献 しているのを 思 うと 実 にいい 気 持 ちだ と 語 っている また 大 正 4 年 (5)の 井 上 馨 没 後 鮎 川 は 依 頼 されて 遺 品 整 理 に 当 た りその 売 り 上 げをもって 大 正 5 年 (6)に 井 上 育 英 会 を 創 設 した これ は 後 進 の 教 育 に 熱 心 だった 井 上 の 遺 志 に 適 うようにとのことであった このほかにも 満 業 総 裁 の 退 職 金 で 義 済 会 という 財 政 経 済 に 関 する 研 究 団 体 を 立 ち 上 げたり 振 武 育 英 会 ( 満 州 戦 没 軍 人 の 遺 児 への 育 英 事 業 ) や 東 洋 大 学 工 学 部 の 設 立 にも 関 わった 第 二 次 世 界 大 戦 前 後 財 政 難 の 大 原 社 会 問 題 研 究 所 へ 無 条 件 資 金 援 助 を 行 っていたこともある 晩 年 参 議 院 議 員 辞 任 直 後 は 関 わっていた 役 職 をすべて 辞 職 したが 翌 年 から 尐 しずつ 復 活 亡 くなるまでさまざまな 団 体 会 社 の 会 長 相 談 役 などを 務 めていた 鮎 川 義 介 4

150 5 昭 和 4 年 (66) 春 に 胆 道 結 石 摘 出 手 術 をしたあと 退 院 することなく 翌 4 年 月 日 東 京 駿 河 台 の 杏 雲 堂 病 院 にて 死 去 享 年 6 歳 東 京 築 地 本 願 寺 で 葬 儀 および 告 別 式 を 行 い また 東 京 イグナチオ 教 会 でも 追 悼 ミサ が 行 われた 墓 所 は 東 京 都 多 磨 霊 園 だが 郷 里 の 山 口 市 洞 春 寺 ( 毛 利 元 就 の 菩 提 寺 井 上 馨 の 分 骨 墓 もあり)にも 分 骨 されている 関 係 人 物 鮎 川 は 私 の 履 歴 書 のなかで 終 生 忘 れることのできない 恩 人 と して 井 上 馨 久 原 房 之 助 ( 戸 田 製 鉄 時 代 までとわざわざ 注 記 ただし 戸 畑 鋳 物 の 誤 記 か) 貝 島 太 郎 ( 太 助 のことか) 藤 田 文 の4 人 を 挙 げている 井 上 馨 この 明 治 維 新 の 元 勲 は 郷 里 の 偉 人 で 母 方 の 祖 母 の 弟 であった 明 治 政 府 では 外 務 農 商 務 内 務 大 臣 などを 歴 任 し また 三 井 古 河 貝 島 などの 財 閥 の 顧 問 となって 財 界 に 大 きな 影 響 力 を 持 った 貧 しかった 鮎 川 家 はたいそう 世 話 になり 鮎 川 の 姉 妹 は 井 上 の 世 話 で 財 閥 に 嫁 いでいる ( 鮎 川 義 介 関 連 系 図 参 照 ) これが 実 業 家 鮎 川 の 初 期 を 支 えた 閨 閥 となった 藤 田 組 田 村 市 郎 小 沢 正 路 ツ ネ ( 常 子 ) 日 本 鉱 業 社 長 等 鮎 川 弥 八 田 村 汽 船 漁 業 部 創 業 者 ナ カ ( 仲 子 ) ス エ ( 末 子 ) 国 司 イ ク ( 幾 子 ) 久 原 庄 三 郎 伊 藤 博 文 伊 藤 博 邦 井 上 馨 藤 田 鹿 太 郎 藤 田 組 藤 田 組 [ 東 京 藤 田 家 ] 井 上 達 五 郎 文 ( フ ミ ) 藤 田 小 太 郎 貝 島 太 助 藤 田 政 輔 貝 島 太 市 日 本 油 脂 社 長 等 貝 島 鉱 業 取 締 役 八 重 フ シ ( 節 子 ) 藤 田 伝 三 郎 久 原 鉱 業 社 長 日 本 水 産 専 務 取 締 役 助 十 外 交 官 国 司 浩 助 テ ク ノ ベ ン チ ャ ー 社 長 春 子 美 菜 子 ( 奈 那 子 ) 貝 島 鉱 業 創 業 者 貝 島 鉱 業 社 長 井 上 光 遠 ( 五 郎 三 郎 ) 伊 藤 文 吉 久 原 房 之 助 藤 田 組 木 村 久 寿 彌 太 日 本 鉱 業 社 長 等 西 園 寺 不 二 男 瀬 木 庸 介 ( 博 親 ) 博 報 堂 社 長 鮎 川 彌 一 井 上 勝 之 助 金 次 郎 参 議 院 議 員 正 子 三 菱 合 資 総 理 事 日 産 興 業 社 長 キ ヨ ( 清 子 ) ス ミ ( 寿 美 子 ) 鮎 川 義 介 美 代 ( 高 島 屋 会 長 飯 田 藤 二 郎 娘 ) 鮎 川 義 介 関 連 系 図 親 子 兄 弟 関 係 ( 太 線 は 鮎 川 義 介 の 系 統 ) 婚 姻 関 係 近 藤 真 一 ヨ シ コ ( 淑 子 ) サ ダ ( 貞 子 ) 関 東 製 作 所 所 長 等 養 子 関 係 主 に 鮎 川 義 介 伝 ( 小 島 直 記 著 日 本 経 営 出 版 会 67) 日 本 を 牽 引 したコンツェルン ( 宇 田 川 勝 著 芙 蓉 出 版 ) 掲 載 の 家 系 図 より 再 編 して 作 成

151 久 原 房 之 助 大 正 財 閥 の 一 つ 久 原 財 閥 の 総 裁 明 治 年 (6) 生 ま れで 鮎 川 より 年 長 ではあるが 鮎 川 の 妹 と 結 婚 しているため 義 弟 となる 叔 父 が 経 営 し 父 が 参 加 していた 藤 田 組 から 独 立 した 際 の 分 与 金 で 明 治 年 (5)に 興 した 久 原 鉱 業 所 が 第 一 次 世 界 大 戦 の 活 況 の 影 響 もあり 急 成 長 それを 元 手 に 経 営 を 多 角 化 して 一 大 財 閥 となる しかし 大 正 年 ()の 恐 慌 を 境 に 転 落 大 正 5 年 (6)には 期 日 までに 配 当 金 が 調 達 できない 事 態 に 陥 ったため 事 業 から 退 き 鮎 川 に 再 建 を 委 嘱 した そ の 後 は 政 界 に 進 出 し 昭 和 4 年 (65)5 歳 で 没 エピソード 戸 畑 鋳 物 創 業 4 年 目 のこと 可 鍛 鋳 鉄 事 業 は 日 本 ではまったくの 新 規 事 業 だったので 鮎 川 の 見 込 みと 違 って 注 文 が 思 うようにとれず 大 赤 字 と なってしまった 倒 産 を 回 避 するために 創 業 時 の 出 資 者 である 久 原 貝 島 三 井 に 増 資 を 願 うも 折 からの 不 況 を 理 由 に 断 られ あきらめかけたが フミ 弟 で 東 京 藤 田 家 に 養 子 に 入 った 政 輔 のすすめで 藤 田 小 太 郎 未 亡 人 の 文 を 頼 ったところ 鮎 川 を 高 く 評 価 していた 亡 き 夫 の 遺 志 を 実 行 する として 全 額 を 引 き 受 けてもらえ 危 機 を 脱 することができた このときのことに より 鮎 川 は 藤 田 文 を 終 生 の 大 恩 人 とした キーワード ちゅうぞう 可 鍛 鋳 鉄 鋳 造 とは 型 に 金 属 を 流 し 込 み 凝 固 させることで 形 を 得 る い も の 加 工 法 のことで これにより 成 形 された 品 物 を 鋳 物 という 鍛 造 や 溶 接 な どに 比 べて 複 雑 な 形 状 のものを 一 体 でつくることができるのが 最 大 の 利 点 可 鍛 鋳 鉄 とは 鍛 造 しやすい(= 可 鍛 性 のよい) 原 料 を 使 い 鋳 物 の 特 性 はそのままに 熱 処 理 を 施 し 化 学 変 化 によって 粘 り 強 い 性 質 を 得 ようとし た 鋳 鉄 ( 炭 素 を.% 以 上 含 有 する 鉄 合 金 )のこと ちなみに 現 代 の 鋳 物 の 主 たる 用 途 は 自 動 車 産 業 である 二 キ 三 スケ 満 州 国 を 動 かしているといわれた5 人 鮎 川 自 身 は 私 の 履 歴 書 のなかで 滑 稽 極 まる 説 満 州 建 国 から 外 された 財 閥 関 係 者 の ヤキモチの 炎 であると 述 べている ちなみに 二 キ とは 東 条 英 機 ( 関 東 軍 参 謀 長 ) 星 野 直 樹 ( 満 州 国 務 院 総 務 庁 長 官 )の 人 三 スケ 鮎 川 義 介 5

152 とは 岸 信 介 ( 満 州 国 務 院 総 務 庁 次 長 ) 松 岡 洋 右 ( 南 満 州 鉄 道 株 式 会 社 総 裁 ) 鮎 川 義 介 ( 満 州 重 工 業 開 発 株 式 会 社 総 裁 )の 人 を 指 す 神 奈 川 との 関 わり 鮎 川 が 思 い 入 れをもって 創 業 した 自 動 車 製 造 株 式 会 社 ( 現 日 産 自 動 車 )の 本 社 は 新 子 安 の 横 浜 工 場 ( 現 横 浜 市 神 奈 川 区 宝 町 )であった この 工 場 に 日 本 初 のベルト コンベア 方 式 の 大 量 生 産 設 備 を 導 入 した 日 産 自 動 車 は 戦 後 は 東 京 に 本 社 機 能 を 移 していたが 平 成 年 () 月 に 横 浜 に 戻 す( 現 在 は 西 区 高 島 丁 目 ) 横 須 賀 市 追 浜 ( 昭 和 6 年 ~)や 座 間 市 座 間 ( 昭 和 ~ 平 成 7 年 )などにも 大 きな 工 場 を 持 ち 神 奈 川 県 の 経 済 に 大 きな 影 響 を 与 えてきた 文 献 案 内 著 作 物 の 見 方 考 へ 方 改 訂 普 及 版 鮎 川 義 介 著 実 業 之 日 本 社 7 Y 随 筆 や 講 演 などをまとめたもので 鮎 川 の 考 え 方 がよくわかる たとえば 創 造 の 天 地 という 小 文 のなかで 空 気 銃 や 絵 の 練 習 法 について 述 べているが その 方 法 も 技 術 者 らしいというのか 計 画 的 で 理 路 整 然 としている 後 年 出 版 された 私 の 考 え 方 ( 鮎 川 義 介 述 友 田 寿 一 郎 編 ダイヤモンド 社 54 Y )の 第 二 部 にも 採 録 されている 鮎 川 にはほかにも 下 記 の 随 筆 がある 五 もくめし 鮎 川 義 介 著 ダイヤモンド 社 6 未 所 蔵 百 味 箪 笥 鮎 川 義 介 著 愛 蔵 本 刊 行 会 64 Y K 社 史 日 産 コンツェルン 読 本 ( 日 本 コンツェルン 全 書 6) 和 田 日 出 吉 著 春 秋 社 7 Y 正 確 には 社 史 とはいえないが 日 産 コンツェルンに 関 しては 必 読 書 で 日 産 コンツェルンについて 後 世 書 かれるさまざまな 記 述 はこれを 引 用 していること が 多 い 創 業 者 鮎 川 に 関 する 記 述 もある 5

153 創 立 廿 五 周 年 記 念 戸 畑 鋳 物 株 式 会 社 要 覧 戸 畑 鋳 物 5 K 鮎 川 がいちばん 初 めにおこした 会 社 である 日 産 自 動 車 三 十 年 史 日 産 自 動 車 65 Yかな K 日 本 油 脂 5 年 史 日 本 油 脂 K 社 史 56-5 創 業 八 十 周 年 記 念 日 本 鉱 業 K 日 本 水 産 百 年 史 日 本 水 産 K 伝 記 文 献 鮎 川 義 介 私 の 履 歴 書 4 日 本 経 済 新 聞 社 編 日 本 経 済 新 聞 社 65 p65-5 Y K 自 伝 自 分 の 人 生 遍 歴 については 世 人 がこれを 読 んでも 別 に 得 るところ はあるまい と 断 り 続 けていたが 他 人 任 せでいると うそがまことになり まことがうそとなって 後 世 に 通 用 することも 尐 なくない と 説 得 され 筆 をとっ たとある 鮎 川 義 介 先 生 追 想 録 佐 々 木 義 彦 編 集 発 行 鮎 川 義 介 先 生 追 想 録 編 集 刊 行 会 6 K 鮎 川 義 介 小 島 直 記 伝 記 文 学 全 集 小 島 直 記 著 中 央 公 論 社 7 p47-5 Y 鮎 川 義 介 日 本 を 牽 引 したコンツェルン(シリーズ 情 熱 の 日 本 経 営 史 ) 宇 田 川 勝 著 芙 蓉 書 房 出 版 p6-7 K 鮎 川 の 関 わった 事 業 を 中 心 に 扱 っている 日 産 コンツェルンのときに 鮎 川 が とった 経 営 戦 略 を 今 日 の 用 語 でいえば 複 合 経 営 戦 略 とも 言 うべきも の とし その 発 想 や 会 社 のしくみなどを 図 表 も 交 えてわかりやすく 解 説 して いる 参 考 文 献 金 属 の 百 科 事 典 木 原 諄 二 ほか 編 丸 善 Y K 鮎 川 義 介 の 産 業 組 織 心 理 と 義 済 会 経 済 施 策 演 練 ゲーミング 理 論 による 分 析 市 川 新 著 流 通 経 済 大 学 論 集 4() 7 p5- Y < 小 野 桂 > 鮎 川 義 介 5

154 私 鉄 王 ごとう 五 島 けいた 慶 太 (-5) 東 京 急 行 電 鉄 ほか 人 物 データファイル 出 生 54 明 治 5 年 ()4 月 日 長 野 県 小 県 郡 青 木 村 に 小 林 菊 右 衛 門 の 次 男 として 生 まれる 小 林 家 は 農 家 であったが 村 一 番 の 資 産 家 であった 生 い 立 ち 父 菊 右 衛 門 は 法 華 経 の 熱 心 な 信 者 であった 朝 晩 欠 かさず 南 無 妙 法 蓮 華 経 を 唱 える 父 の 姿 を 見 て 育 った 慶 太 に 精 神 面 で 強 い 影 響 を 与 えた 人 兄 弟 の 末 っ 子 として かわいがられて 育 った 慶 太 であったが 小 学 校 の 頃 は 餓 鬼 大 将 として 村 中 を 暴 れまわっていたという 父 菊 右 衛 門 が 製 糸 事 業 に 手 を 出 して 失 敗 したこともあり 小 林 家 の 家 計 は 楽 ではなかった 本 来 であれば 小 学 校 を 出 て 家 業 を 手 伝 うところである が 向 学 心 の 強 い 慶 太 は 父 に 頼 んで 長 野 県 尋 常 中 学 校 上 田 支 校 に 入 学 させ てもらった その 後 長 野 県 立 松 本 中 学 校 を 卒 業 するが 経 済 的 理 由 から 上 級 学 校 への 進 学 は 難 しく 郷 里 青 木 村 の 小 学 校 で 代 用 教 員 をしながら 進 学 のための 金 を 貯 めることになる 明 治 5 年 ()には 東 京 高 等 師 範 学 校 の 入 学 試 験 に 合 格 し 英 文 科 に 入 学 卒 業 後 は 三 重 県 立 四 日 市 商 業 学 校 の 英 語 教 師 になるが 翌 年 には 教 師 を 辞 任 し 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 撰 科 に 入 学 している その 後 まもなく 第 一 高 等 学 校 卒 業 検 定 試 験 に 合 格 し 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 正 科 に 入 学 する 経 済 的 に 苦 しく 富 井 政 章 家 や 加 藤 高 明 家 で 家 庭 教 師 をしながら 学 費 を 稼 ぐ 日 々であった 実 業 家 以 前 東 京 横 浜 電 鉄 沿 革 史 より 明 治 44 年 ()に 東 京 帝 国 大 学 法 科 大 学 を 卒 業 し 加 藤 高 明 の 斡 旋 で

155 農 商 務 省 に 入 る 当 時 工 場 法 が 制 定 され 工 場 監 督 官 補 として 工 務 局 に 配 置 された しかし 工 場 法 施 行 が 延 期 され 工 場 監 督 官 がなくなったため 大 正 年 ()に 農 商 務 省 を 辞 す 同 年 鉄 道 院 に 入 るが 官 界 生 活 に 見 切 りをつけ 大 正 年 ()には 退 官 した 実 業 家 時 代 大 正 年 ()に 鉄 道 省 次 官 の 石 丸 重 美 の 推 薦 により 武 蔵 電 気 鉄 道 の 常 務 取 締 役 に 就 任 行 き 詰 った 会 社 の 再 建 を 託 される 大 正 年 ()には 小 林 一 三 の 推 薦 で 荏 原 電 気 鉄 道 の 経 営 を 任 され これを 目 黒 蒲 田 電 鉄 と 改 称 専 務 取 締 役 に 就 任 する 荏 原 電 気 鉄 道 とは 渋 沢 栄 一 の 発 意 によって 創 設 された 田 園 都 市 会 社 の 鉄 道 部 が 別 会 社 として 設 立 されたものである その 後 電 鉄 会 社 の 経 営 権 と 鉄 道 敷 設 権 が 田 園 都 市 会 社 に 譲 渡 されるが 鉄 道 経 営 についての 専 門 家 がいないため 同 社 の 相 談 役 に 推 薦 された 第 一 生 命 の 矢 野 恒 太 は 小 林 一 三 に 顧 問 を 依 頼 する 多 忙 な 小 林 は 月 に 一 度 重 役 会 で 意 見 を 述 べることに ついて 承 諾 し 自 分 の 意 見 を 実 行 できる 人 物 として 慶 太 を 重 役 に 推 挙 し たのである 小 林 は 先 に 荏 原 電 気 鉄 道 を 敷 設 し 田 園 都 市 会 社 の 持 ってい る 土 地 を 売 ることに 成 功 したら その 資 金 で 武 蔵 電 気 鉄 道 の 事 業 を 行 うよ う 慶 太 を 説 得 した こうして 慶 太 は 目 黒 蒲 田 電 鉄 の 建 設 から 取 組 み 大 正 年 ()に 目 黒 - 蒲 田 間 全 線 を 開 通 させる 同 年 の 関 東 大 震 災 により 東 京 市 内 の 居 住 者 は 郊 外 へ 住 居 を 求 め 目 黒 蒲 田 電 鉄 沿 線 への 移 住 者 が 激 増 し 田 園 都 市 会 社 と 目 黒 蒲 田 電 鉄 の 業 績 は 向 上 した そこで 慶 太 は 路 線 の 建 設 に 着 手 できずにいた 武 蔵 電 気 鉄 道 において 株 式 の 過 半 数 を 買 収 し 大 正 年 (4) 商 号 を 東 京 横 浜 電 鉄 と 変 更 し 専 務 取 締 役 に 就 任 する 東 京 横 浜 電 鉄 の 実 権 を 握 った 慶 太 は 丸 子 多 摩 川 - 神 奈 川 間 を 第 一 期 とし 渋 谷 - 丸 子 多 摩 川 間 及 び 神 奈 川 - 桜 木 町 間 という 順 序 で 建 設 を 行 った 昭 和 年 () 目 黒 蒲 田 電 鉄 は 田 園 都 市 会 社 を 合 併 し 慶 太 が 代 表 取 五 島 慶 太 55

156 締 役 となる しかし 昭 和 初 頭 の 世 界 的 な 経 済 不 況 の 中 で 東 京 横 浜 電 鉄 の 経 営 は 悪 化 し 慶 太 は 自 殺 を 考 えるほどの 苦 しみを 味 わった この 状 況 を 打 開 するた め 予 算 即 決 算 主 義 を 確 立 し 経 費 節 減 をはかる 事 業 においては 沿 線 の 住 民 及 び 定 期 券 客 を 増 やすため 宅 地 の 造 成 を 行 い 慶 應 義 塾 大 学 等 の 学 校 誘 致 に 全 力 を 傾 けた また 自 動 車 営 業 を 拡 張 し 昭 和 4 年 ()には 東 横 乗 合 を 創 設 した こうして 何 とかこの 苦 境 を 乗 り 越 えた 慶 太 は 今 後 の 事 業 展 開 を 考 え 郊 外 電 車 を 一 つの 会 社 に 一 本 化 し 総 合 的 に 経 営 する 必 要 性 を 痛 感 する その 最 初 が 昭 和 年 (4)の 目 黒 蒲 田 電 鉄 による 池 上 電 気 鉄 道 の 合 併 であった 目 黒 蒲 田 電 鉄 が 伸 びるためには 蒲 田 を 同 一 終 点 とする 池 上 電 気 鉄 道 を 合 併 することが 不 可 欠 と 考 えたのである 同 年 東 京 市 長 選 挙 に 際 し 牛 塚 虎 太 郎 への 贈 賄 の 疑 により 警 視 庁 に 引 致 され 半 年 間 の 獄 中 生 活 を 送 った 後 に 無 罪 が 証 明 されたが この 時 の 経 験 から 人 間 には 信 念 が 必 要 であることを 教 訓 として 得 る 池 上 電 気 鉄 道 の 合 併 に 成 功 した 慶 太 は 玉 川 電 気 鉄 道 の 買 収 も 計 画 し 昭 和 年 () 東 京 横 浜 電 鉄 による 玉 川 電 気 鉄 道 の 合 併 が 成 立 する この 合 併 は 渋 谷 地 区 における 陸 上 交 通 事 業 を 統 合 するために 行 われたが 昭 和 年 (4)に 開 業 した 渋 谷 の 東 横 百 貨 店 の 拡 張 や 慶 太 が 中 心 となって 建 設 を 進 めている 東 京 高 速 鉄 道 における 車 庫 の 建 設 のためにも 必 要 であった 昭 和 4 年 ()に 目 黒 蒲 田 電 鉄 は 東 京 横 浜 電 鉄 を 合 併 し 東 京 横 浜 電 鉄 と 商 号 を 変 更 慶 太 が 社 長 に 就 任 する これと 前 後 して 映 画 鉄 道 バス タクシーなどの 会 社 の 設 立 または 買 収 が 次 々に 行 われた このように 事 業 拡 大 のため 買 収 を 続 ける 慶 太 に 対 し 五 島 をもじって 強 盗 慶 太 の 異 名 がつくようになる 昭 和 7 年 (4) 小 田 急 電 鉄 京 浜 電 気 鉄 道 を 合 併 し 商 号 を 東 京 急 行 電 鉄 と 改 称 社 長 に 就 任 する その 年 後 に 京 王 電 気 軌 道 をも 合 併 し い わゆる 大 東 急 を 形 成 する しかし 戦 後 の 財 閥 解 体 集 中 排 除 政 策 を 背 景 とする 経 済 民 主 化 の 流 れ 56

157 の 中 で 会 社 再 編 成 を 行 い 昭 和 年 (4)には 東 京 急 行 電 鉄 から 京 王 帝 都 電 鉄 小 田 急 電 鉄 京 浜 急 行 電 鉄 東 横 百 貨 店 が 分 離 独 立 する 昭 和 6 年 (5) 公 職 追 放 が 解 除 され その 翌 年 に 東 京 急 行 電 鉄 取 締 役 会 長 に 復 帰 し 事 業 を 再 開 する 東 映 の 再 建 白 木 屋 の 買 収 土 地 開 発 観 光 事 業 等 に 乗 り 出 し 東 急 コンツエルンという 強 力 な 企 業 集 団 へと 発 展 させた 政 治 との 関 わり 昭 和 年 (4)に 東 条 英 機 内 閣 の 顧 問 になり その 翌 年 運 輸 通 信 大 臣 に 就 任 する しかし このことが 理 由 で 昭 和 年 (47) 公 職 追 放 に 指 定 された 社 会 文 化 貢 献 苦 学 生 で 教 師 の 経 験 もあった 慶 太 は 教 育 事 業 について 熱 心 に 取 り 組 ん だ 昭 和 年 (55) 学 校 法 人 武 蔵 工 業 大 学 に 学 校 法 人 東 横 学 園 を 合 併 し 学 校 法 人 五 島 育 英 会 を 発 足 させる 当 時 育 英 会 では 幼 稚 園 から 大 学 まで 校 を 経 営 していた 昭 和 年 (56)には 亜 細 亜 大 学 の 経 営 を 引 き 継 ぎ 理 事 長 に 就 任 している 文 化 事 業 についても 積 極 的 で 大 東 急 の 記 念 事 業 として 昭 和 4 年 (4) 東 急 再 編 成 記 念 図 書 館 ( 昭 和 年 に 大 東 急 記 念 文 庫 と 名 称 変 更 ) を 設 立 した 蔵 書 は 慶 太 が 買 い 取 った 久 原 文 庫 ( 久 原 鉱 業 の 創 業 者 久 原 房 之 助 のコレクション)に 後 から 購 入 した 井 上 通 泰 文 庫 ( 国 文 学 者 で 歌 人 の 井 上 通 泰 のコレクション)を 加 えたものを 中 心 に 構 成 されている 大 東 急 記 念 文 庫 は 東 京 上 目 黒 の 久 米 民 之 助 邸 跡 にあったが 昭 和 5 年 (6)に 五 島 美 術 館 内 へ 移 転 している 昭 和 年 (56) 東 京 プラネタリウム 設 立 促 進 懇 話 会 による 東 急 文 化 会 館 へのプラネタリウム 建 設 の 提 案 を 受 け 入 れ 天 文 博 物 館 五 島 プラネタリ ウムを 設 立 し 同 理 事 長 に 就 任 その 翌 年 に 五 島 プラネタリウムを 開 館 さ せた 昭 和 年 (5)に 喜 寿 の 記 念 事 業 として 五 島 美 術 館 を 設 立 し 翌 年 五 五 島 慶 太 57

158 島 邸 内 に 完 成 した 所 蔵 品 は 慶 太 が 蒐 集 した 古 美 術 品 をもとに 構 成 されて おり 国 宝 重 要 文 化 財 を 含 んだ 貴 重 なコレクションとなっている 晩 年 慶 太 は 亡 くなる 直 前 まで 事 業 を 行 っていた 伊 豆 の 開 発 については 昭 和 4 年 (5) 伊 東 - 下 田 間 地 方 鉄 道 の 敷 設 免 許 がおり 伊 東 下 田 電 気 鉄 道 を 設 立 し 同 社 取 締 役 に 就 任 する しかし 糖 尿 病 による 動 脈 硬 化 症 と 脳 血 栓 のため 同 年 月 4 日 に 東 京 上 野 毛 の 五 島 邸 で 死 去 した 享 年 77 歳 東 京 九 品 仏 浄 真 寺 に 葬 られた 関 係 人 物 五 島 万 千 代 慶 太 の 妻 工 学 博 士 久 米 民 之 助 の 長 女 で 謡 曲 仕 舞 等 諸 芸 に 通 じた 才 女 であった 慶 太 は 明 治 45()に 万 千 代 と 結 婚 し 久 米 家 の 祖 母 の 家 で 絶 家 になっている 五 島 家 を 再 興 するため 五 島 に 改 姓 する 大 正 年 ()に 万 千 代 は4 人 の 幼 い 子 どもを 残 して 他 界 し その 後 次 女 光 子 も 亡 くなっている 昭 和 年 (4)に 次 男 進 が 戦 死 したときに は 慶 太 は 思 わず 涙 を 流 し 人 生 というものに 虚 無 感 を 抱 いたという 五 島 昇 慶 太 の 長 男 東 京 芝 浦 電 気 に 勤 めた 後 昭 和 年 (45) 東 京 急 行 電 鉄 に 入 社 昭 和 年 (54) 社 長 に 就 任 している 昭 和 5 年 (4)から 昭 和 6 年 (7)まで 日 本 商 工 会 議 所 会 頭 も 務 めた 昭 和 年 (47)に 久 原 房 之 助 の 娘 久 美 子 と 結 婚 している 矢 野 恒 太 第 一 生 命 保 険 の 創 業 者 目 黒 蒲 田 電 鉄 田 園 都 市 会 社 におい て 慶 太 が 常 に 相 談 し 金 融 面 でも 援 助 をしてもらった 恩 人 である そのこ と 以 上 に 友 人 先 輩 を 世 話 してくれたことを 慶 太 はその 著 書 事 業 をいかす 人 の 中 で 感 謝 している 小 林 一 三 阪 急 グループの 創 業 者 慶 太 が 事 業 についてよく 相 談 し 教 えを 受 けた 人 物 である 前 述 のとおり 小 林 の 推 薦 で 荏 原 電 気 鉄 道 を 任 され ており その 後 の 事 業 を 展 開 する 上 においても 彼 の 影 響 力 は 大 きかった 書 画 骨 董 茶 の 湯 の 趣 味 についても 彼 の 手 ほどきを 受 けたという 篠 原 三 千 郎 慶 太 の 親 友 で 事 業 上 のよき 相 談 相 手 である 慶 太 は 著 書 5

159 事 業 をいかす 人 に 篠 原 君 を 前 の 楯 とした 小 林 一 三 氏 を あとの つっかい 棒 にした と 書 いている 篠 原 は 服 部 金 太 郎 の 娘 婿 であり 田 園 都 市 会 社 の 専 務 をしていた 関 係 で 慶 太 と 仕 事 をすることになる 東 京 帝 国 大 学 卒 の 同 期 生 でもある 堤 康 次 郎 西 武 グループの 創 業 者 箱 根 と 伊 豆 の 開 発 をめぐり 慶 太 と 対 立 した 早 川 徳 次 東 京 地 下 鉄 道 の 創 業 者 慶 太 が 設 立 した 東 京 高 速 鉄 道 が 新 橋 で 東 京 地 下 鉄 道 と 連 絡 することを 拒 否 し 続 け 対 立 する 慶 太 は 昭 和 4 年 () 東 京 地 下 鉄 道 を 買 収 し 社 長 の 早 川 を 追 い 出 すが そのことによ り 世 間 から 非 難 を 浴 びた エピソード 鉄 道 院 にいた 慶 太 は 大 正 7 年 () 監 督 局 総 務 課 長 心 得 に 昇 進 した が 心 得 というのが 気 に 入 らず 稟 議 書 が 回 ってくるたびに 心 得 の 字 を 筆 で 消 し その 上 に 認 印 を 押 して 上 司 に 回 していたという この ことで 上 司 に 呼 ばれると 課 長 としての 責 任 をもって 書 類 に 押 印 している ため 心 得 という 中 途 半 端 な 無 責 任 な 文 字 は 消 していると 答 えたという その 後 まもなくして 慶 太 は 総 務 課 長 に 任 命 されることになった キーワード 予 算 即 決 算 主 義 慶 太 の 事 業 経 営 の 哲 学 である 著 作 の 中 で 年 度 のは じめに 予 算 を 作 成 し かならずこれを 実 行 し 年 度 末 には 予 算 即 決 算 とす るように 努 力 することである ( 事 業 をいかす 人 )と 説 明 している また この 事 業 方 針 を 実 行 するため 毎 月 予 算 決 算 会 議 を 開 催 して 決 算 が 予 算 に 及 ぶように 監 督 を 行 うことが 必 要 であると 述 べている 神 奈 川 との 関 わり 慶 太 の 経 営 する 東 京 急 行 電 鉄 は 東 京 都 から 神 奈 川 県 に 路 線 を 伸 ばし 鉄 道 の 敷 設 と 併 せて 沿 線 の 開 発 を 行 ってきたため 神 奈 川 も 事 業 展 開 のエリ アとなった 特 に 大 東 急 時 代 には 神 奈 川 県 内 に 路 線 を 持 つ 複 数 の 民 間 交 通 機 関 を 傘 下 に 収 めていた 箱 根 や 湘 南 の 観 光 開 発 についても 積 極 的 で 昭 和 4 年 (4) 江 ノ 島 電 五 島 慶 太 5

160 気 鉄 道 の 取 締 役 になった 慶 太 が 観 光 事 業 への 参 入 を 提 言 したことがきっか けとなり 社 名 を 江 の 島 鎌 倉 観 光 に 変 更 江 ノ 島 の 観 光 開 発 がすすめられ ることになった 旧 江 ノ 島 展 望 塔 (オープン 当 時 は 読 売 平 和 塔 )も 慶 太 の 発 案 で 建 設 されたものである 昭 和 年 (5) 慶 太 によって 出 された 城 西 南 新 都 市 建 設 構 想 は 息 子 の 五 島 昇 に 引 き 継 がれ 横 浜 市 川 崎 市 大 和 市 町 田 市 の4 市 にまたが る 広 大 な 東 急 多 摩 田 園 都 市 として 実 現 する 文 献 案 内 著 作 ポケット 菜 根 譚 洪 応 明 著 五 島 慶 太 訳 実 業 之 日 本 社 5 未 所 蔵 明 の 儒 者 洪 応 明 の 著 菜 根 譚 を 愛 読 していた 慶 太 が ポケットに 入 れてお いて 電 車 の 中 でも 読 めるようにまとめたものである 七 十 年 の 人 生 五 島 慶 太 著 要 書 房 5 Yかな 古 稀 の 祝 を 機 に7 年 の 人 生 で 得 た 人 生 観 や 事 業 観 について 東 京 急 行 電 鉄 社 内 報 清 和 や 会 合 の 際 に 話 したことなどを 元 にまとめたものである 巻 末 に 五 島 慶 太 年 譜 が 掲 載 されている 事 業 をいかす 人 五 島 慶 太 著 有 紀 書 房 55 Y Yかな 喜 寿 の 祝 を 記 念 して 新 しく 書 き 下 したものに 吉 川 英 治 及 び 徳 川 夢 声 との 対 談 の 中 で 印 象 に 残 ったものを 加 えている 慶 太 の 事 業 哲 学 が 詰 まった 冊 である 社 史 東 京 横 浜 電 鉄 沿 革 史 東 京 急 行 電 鉄 4 Y Yかな K 年 史 にあたる 序 に 今 日 までの 慶 太 の 苦 労 が 述 べられている 東 京 急 行 三 十 年 の 歩 み 東 京 急 行 電 鉄 5 Yかな K 東 京 急 行 電 鉄 5 年 史 東 京 急 行 電 鉄 7 Y Yかな K 5 年 の 重 みを 感 じさせるボリュームのある 社 史 である 国 宝 源 氏 物 語 絵 巻 をはじめ 五 島 美 術 館 の 名 品 の 写 真 と 簡 単 な 解 説 も 掲 載 されている 東 横 百 貨 店 小 松 徹 三 編 東 横 百 貨 店 百 貨 店 日 日 新 聞 社 K 開 店 5 周 年 の 記 念 出 版 となっている 6

161 白 木 屋 三 百 年 史 白 木 屋 57 Y K 当 時 白 木 屋 再 建 のため 相 談 役 を 務 めていた 五 島 慶 太 の 発 案 で 編 纂 された 社 史 である 三 鬼 陽 之 助 が 編 纂 を 依 頼 され 東 横 の 支 配 下 に 移 るまで を 執 筆 している 京 浜 電 気 鉄 道 沿 革 史 京 浜 急 行 電 鉄 4 Y Yかな K 第 編 組 織 第 章 役 員 及 び 株 主 に 五 島 慶 太 の 略 歴 について 記 述 がある 小 田 急 五 十 年 史 小 田 急 電 鉄 Y Yかな K 第 章 変 遷 期 に 昭 和 4 年 ()の 小 田 原 急 行 電 鉄 取 締 役 を 経 て 小 田 急 電 鉄 社 長 への 就 任 大 東 急 を 形 成 するまでの 五 島 慶 太 の 事 績 について 記 述 がある 江 ノ 電 の 年 江 ノ 島 電 鉄 Yかな K 第 部 本 史 Ⅰ( 沿 革 ) 第 4 章 戦 後 の 転 身 と 社 名 変 更 江 の 島 開 発 に 昭 和 4 年 (4) 江 ノ 島 電 気 鉄 道 取 締 役 社 長 に 就 任 した 五 島 慶 太 の 観 光 事 業 への 提 言 について 記 述 がある 多 摩 田 園 都 市 開 発 5 年 の 記 録 東 京 急 行 電 鉄 Y Yかな K 慶 太 は 昭 和 年 (5)に 田 園 都 市 業 の 集 大 成 (p) ともいえる 城 西 南 新 都 市 建 設 構 想 を 打 ち 出 している 序 章 田 園 都 市 づくりの 夢 から 第 章 モデル 都 市 の 建 設 の 中 の 五 島 慶 太 最 後 の 現 地 視 察 までが 慶 太 の 事 績 と なる 街 づくり 五 十 年 東 急 不 動 産 7 Y Yかな K 東 急 建 設 の 二 十 五 年 東 急 建 設 5 Yかな K 伊 豆 とともに 生 きる 伊 豆 急 行 開 通 年 の 歩 み 伊 豆 急 行 K 五 島 慶 太 は 伊 豆 とともに 生 きている と 刻 まれた 顕 彰 碑 の 写 真 がある 伝 記 文 献 五 島 慶 太 伝 ( 日 本 財 界 人 物 伝 全 集 5) 三 鬼 陽 之 助 著 東 洋 書 館 54 未 所 蔵 慶 太 の 生 前 に 書 かれた 伝 記 であり 著 者 は 慶 太 と 親 交 がある 巻 末 に 五 島 慶 太 略 年 譜 と 人 名 索 引 がある 五 島 慶 太 6

162 五 島 慶 太 の 生 いたち 五 島 育 英 会 編 新 日 本 教 育 協 会 5 K 巻 末 に 生 い 立 ち 年 譜 がある 写 真 が 多 数 掲 載 されている 五 島 慶 太 の 追 想 五 島 慶 太 伝 記 並 びに 追 想 録 編 集 委 員 会 6 Y K 周 忌 の 記 念 に 各 方 面 からの 追 想 文 を 収 録 して 刊 行 したもの 装 丁 は 棟 方 志 功 によるものである 巻 末 に 年 譜 が 掲 載 されている 五 島 慶 太 ( 一 業 一 人 伝 ) 羽 間 乙 彦 著 時 事 通 信 社 6 Y K 巻 末 に 五 島 慶 太 年 譜 がある 私 の 履 歴 書 ( 昭 和 の 経 営 者 群 像 ) 日 本 経 済 新 聞 社 K もう 一 人 の 五 島 慶 太 伝 太 田 次 男 著 勉 誠 出 版 未 所 蔵 東 横 学 園 女 子 短 期 大 学 三 十 年 史 収 録 の 五 島 慶 太 略 伝 に 加 筆 したもの である 教 育 文 化 事 業 にも 焦 点 をあて 五 島 慶 太 の 人 間 性 を 広 く 捉 えている 東 急 五 島 慶 太 の 生 涯 北 原 遼 三 郎 著 現 代 書 館 Yかな K 参 考 文 献 五 島 美 術 館 名 品 図 録 五 島 美 術 館 6 Y 財 団 法 人 大 東 急 記 念 文 庫 十 五 年 史 大 東 急 記 念 文 庫 64 Y 東 急 外 史 東 急 沿 線 新 聞 社 Yかな K 東 横 学 園 女 子 短 期 大 学 三 十 年 史 東 横 学 園 女 子 短 期 大 学 6 Y 五 島 プラネタリウム44 年 のあゆみ 天 文 博 物 館 五 島 プラネタリウム Y K 平 成 年 ()に 惜 しまれつつ 閉 館 した 五 島 プラネタリウムの44 年 間 を 写 真 と 文 章 で 振 り 返 っている 五 島 美 術 館 五 島 美 術 館 作 成 ( 参 照 --4) < 芳 賀 こずえ> 6

163 日 本 の 飛 行 機 王 なかじま 中 島 ち く へい 知 久 平 (4-4) 中 島 飛 行 機 人 物 データファイル 出 生 明 治 7 年 (4) 月 日 群 馬 県 新 田 郡 尾 島 村 字 押 切 ( 現 群 馬 県 太 田 市 押 切 町 )に 中 島 粂 吉 いつの 長 男 として 生 まれる 生 家 は 自 作 農 で 副 業 として 養 蚕 や 藍 の 仲 買 をしていた 生 い 立 ち 明 治 年 () 尾 島 尋 常 高 等 小 学 校 卒 業 後 群 馬 県 尋 常 中 学 校 新 田 分 校 ( 現 群 馬 県 立 太 田 高 等 学 校 )への 進 学 を 望 むが 農 家 にこれ 以 上 の 教 育 は 不 要 という 親 の 意 向 から 断 念 のち 出 奔 して 上 京 明 治 5 年 () 専 門 学 校 検 定 試 験 合 格 を 経 て 翌 6 年 当 時 横 須 賀 にあった 海 軍 機 関 学 校 ( 旧 海 軍 三 校 の 一 つで 機 関 科 に 属 する 士 官 を 養 成 )に5 期 生 として 入 学 した 実 業 家 以 前 犬 養 内 閣 より 明 治 4 年 (7) 機 関 学 校 を 恩 賜 の 銀 時 計 組 ( 軍 学 校 国 立 大 学 などで 成 績 優 秀 で 天 皇 から 銀 時 計 が 下 賜 された 者 を 呼 ぶ)で 卒 業 後 海 軍 機 関 尐 尉 に 任 官 明 治 44 年 () 海 軍 大 学 校 ( 海 軍 の 上 級 士 官 教 育 機 関 ) 専 科 学 生 となり 同 年 陸 海 軍 が 共 同 で 設 置 した 気 球 飛 行 機 の 研 究 組 織 臨 かかり 時 軍 用 気 球 研 究 会 で 御 用 掛 ( 研 究 員 )となった その 翌 年 海 軍 航 空 術 研 究 委 員 会 としてアメリカへ 出 張 航 空 機 修 理 技 術 を 取 得 した 大 正 年 () 横 須 賀 鎮 守 府 海 軍 工 廠 造 兵 部 で 飛 行 機 の 製 作 修 理 工 場 新 設 担 当 の 主 任 翌 年 には 造 兵 監 督 官 となり 航 空 事 情 視 察 のためフランスに 出 張 する このころから 軍 人 としてよりも 民 間 人 として 航 空 機 を 作 ること を 考 え 始 め 大 正 6 年 (7) 自 ら 願 い 出 て 予 備 役 編 入 となり 翌 年 海 軍 中 島 知 久 平 6

164 を 退 役 した 退 役 にあたっての 挨 拶 状 退 職 の 辞 で 海 軍 に 於 る 自 己 の 既 得 竝 びに 將 來 の 地 位 名 望 を 捨 てて 野 に 下 り 飛 行 機 工 業 民 營 起 立 を 劃 し 以 つてこれが 進 歩 發 達 に 盡 くし 官 民 協 力 國 防 の 本 義 を 完 し 天 恩 に 奉 ぜんことを 期 す と これからの 心 情 を 吐 露 している 実 業 家 時 代 大 正 6 年 (7) 知 久 平 は 海 軍 を 退 役 するヵ 月 前 群 馬 県 新 田 郡 尾 島 町 に 知 久 平 ら 所 員 わずか 人 の 飛 行 機 研 究 所 を 設 立 し 翌 年 日 本 飛 行 機 製 作 所 翌 々 年 中 島 飛 行 機 製 作 所 となった 肝 心 の 飛 行 機 は 知 久 平 設 計 のトラクター 式 複 葉 機 中 島 式 一 型 機 以 来 ことごとく 失 敗 大 正 年 ()ようやく 試 験 飛 行 に 成 功 これを 機 に 練 習 機 機 の 受 注 が 陸 軍 から 入 り 会 社 の 経 営 は 順 調 になった また これ 以 降 軍 への 納 入 を 三 井 物 産 から 行 うようになった これは 戦 前 戦 中 の 航 空 機 製 造 分 野 において 三 井 物 産 中 島 飛 行 機 連 合 対 三 菱 重 工 業 との 競 争 へと 連 な る 機 体 の 組 み 立 てから 始 まった 中 島 飛 行 機 は 大 正 年 (4) 東 京 府 豊 多 摩 郡 井 荻 町 ( 現 東 京 都 杉 並 区 桃 井 )にエンジン 工 場 を 作 り 総 合 航 空 機 メーカーとして 発 展 を 続 けることとなる 昭 和 6 年 () 会 社 を 株 式 会 社 とし 社 長 には 弟 の 中 島 喜 代 一 が 就 任 したが この 株 式 会 社 化 は 株 式 の 公 開 をせず 会 社 解 体 まで 中 島 五 兄 弟 が 所 有 した 閉 鎖 的 な 同 族 会 社 であ り 知 久 平 は 筆 頭 株 主 であり 大 所 長 ( 株 式 会 社 前 は 合 資 会 社 中 島 飛 行 機 製 作 所 の 所 長 ) 大 社 長 として 会 社 の 経 営 に 関 わりつつ 活 躍 の 場 を 政 界 へと 移 すことになる 政 治 との 関 わり 昭 和 5 年 () 第 7 回 衆 議 院 議 員 選 挙 に 群 馬 区 から 立 憲 政 友 会 公 認 で 立 候 補 して 初 当 選 した これは 創 業 時 の 恩 人 であった 武 藤 金 吉 代 議 士 の 死 去 に 際 し 地 元 後 援 会 からの 要 請 に 応 えたためである 翌 年 国 家 主 義 的 な 政 治 研 究 団 体 国 政 研 究 会 を 組 織 し 論 文 昭 和 維 新 の 指 導 原 理 と 政 策 を 著 した 同 年 犬 養 内 閣 で 商 工 政 務 次 官 となる 昭 和 年 (7) 鳩 山 一 郎 前 田 米 蔵 島 田 俊 雄 とともに 政 友 会 の 総 裁 代 行 委 員 に 64

165 就 任 第 次 近 衛 内 閣 で 鉄 道 大 臣 となる 昭 和 4 年 ()には 政 友 会 の 分 裂 に 伴 い 政 友 会 革 新 同 盟 ( 革 新 派 中 島 派 ともいう)を 結 成 総 裁 と なる 昭 和 年 (45) 終 戦 直 後 東 久 邇 宮 内 閣 で 軍 需 大 臣 商 工 大 臣 を 歴 任 社 会 文 化 貢 献 知 久 平 が 生 涯 を 閉 じたのは 中 島 飛 行 機 三 鷹 研 究 所 の 敷 地 ( 現 在 は 国 際 基 督 教 大 学 キャンパス)にあった 泰 山 荘 であった 泰 山 荘 は 昭 和 けい すけ 年 (4)に 実 業 家 山 田 敬 亮 の 別 荘 として 建 てられたが その 多 くは 移 築 されたもので 中 でも 松 浦 武 四 郎 ( 蝦 夷 地 を 探 検 北 海 道 の 命 名 者 )が 明 治 年 (6)に 建 てた 畳 一 枚 の 書 斎 一 畳 敷 を 含 む6つの 建 物 は 国 の 登 録 有 形 文 化 財 となっている 晩 年 終 戦 直 前 の 昭 和 年 (45) 月 政 府 は 軍 用 機 の 生 産 増 強 のため 航 空 機 産 業 の 国 営 化 を 決 め 4 月 日 中 島 飛 行 機 は 第 一 軍 需 工 廠 となり 国 有 化 されたが 終 戦 により 軍 需 産 業 からの 転 換 を 図 るため 富 士 産 業 と 改 称 して 再 出 発 した しかし 翌 年 GHQによる 財 閥 解 体 の 第 次 指 定 を 三 井 三 菱 住 友 安 田 とともに 受 け 会 社 は 解 体 されることとなった 知 久 平 本 人 は 昭 和 年 (45) 月 にGHQによりA 級 戦 犯 に 指 定 翌 年 月 に 公 職 追 放 となるが 昭 和 年 (47)にA 級 戦 犯 指 定 解 除 昭 和 4 年 (4) 月 日 脳 出 血 で 死 去 享 年 65 歳 墓 所 は 都 立 多 磨 霊 園 関 係 人 物 川 西 清 兵 衛 大 正 7 年 () 知 久 平 は 川 西 財 閥 の 創 業 者 川 西 清 兵 衛 からの 出 資 を 得 て 社 名 を 日 本 飛 行 機 製 作 所 としたが 会 社 の 経 営 方 針 を 巡 り 技 術 畑 の 知 久 平 と 経 営 側 の 川 西 との 対 立 が 発 生 翌 年 には 提 携 を 解 消 した のちに 川 西 は 川 西 機 械 製 作 所 を 創 設 川 西 航 空 機 を 経 て 現 在 新 明 和 工 業 として 飛 行 艇 製 造 をはじめとする 輸 送 機 器 製 造 業 を 展 開 している 武 藤 金 吉 知 久 平 が 政 界 入 りするきっかけとなった 武 藤 金 吉 は 足 尾 銅 中 島 知 久 平 65

166 山 の 鉱 毒 問 題 に 取 り 組 む 田 中 正 造 に 出 会 い 田 中 が 天 皇 に 直 訴 して 議 員 を 辞 職 したのち 自 らが 衆 議 院 議 員 となり 鉱 毒 問 題 に 取 り 組 んだ 66 糸 川 英 夫 日 本 の 宇 宙 開 発 ロケット 開 発 の 父 と 呼 ばれた 糸 川 英 夫 博 士 ( 小 惑 星 探 査 機 はやぶさ が 着 陸 した 小 惑 星 イトカワ は 博 士 に ちなむ)は 東 京 帝 国 大 学 工 学 部 航 空 学 科 を 卒 業 後 中 島 飛 行 機 に 入 社 し し ょ う き 九 七 式 戦 闘 機 一 式 戦 闘 機 隼 二 式 戦 闘 機 鍾 馗 などの 設 計 に 関 わった エピソード 明 治 45 年 ()アメリカへ 出 張 した 際 アメリカ 飛 行 クラブ 認 定 の 万 国 飛 行 免 状 ( 飛 行 機 操 縦 免 許 )を 取 得 した アメリカでの 操 縦 免 許 取 得 は 日 本 人 で 番 目 だった しかし これは 公 用 出 張 の 目 的 である 航 空 機 製 作 整 備 に 関 する 視 察 からは 逸 脱 したものとされ(なぜなら 同 時 期 に 別 の 海 軍 軍 人 が 操 縦 術 取 得 を 目 的 に 出 張 を 命 じられている) 帰 国 後 大 問 題 となった キーワード 発 動 機 栄 誉 中 島 飛 行 機 では 航 空 機 用 エンジンとして 数 々の 有 名 なエンジンを 開 発 製 造 した 中 でも 海 軍 名 称 栄 として 知 られる 空 冷 星 型 4 気 筒 エンジンは 万 台 以 上 が 生 産 され 九 七 式 艦 上 攻 撃 機 零 式 艦 上 戦 闘 機 (ゼロ 戦 ) 夜 間 戦 闘 機 月 光 一 式 戦 闘 機 隼 など に 搭 載 された その 後 継 として 開 発 された 海 軍 名 称 誉 は 空 冷 二 重 星 型 気 筒 で 栄 の 倍 の 馬 力 を 持 ち 局 地 戦 闘 機 紫 電 改 偵 察 機 彩 雲 四 式 戦 闘 機 疾 風 などに 搭 載 された しかしこの 誉 は 当 時 の 工 業 技 術 の 限 界 に 挑 んだ 設 計 であったため 戦 争 後 期 の 生 産 資 源 の 枯 渇 による 原 料 の 不 足 熟 練 工 員 の 不 足 による 完 成 度 の 低 下 や 燃 料 の 質 低 下 などによって 本 来 持 っている 性 能 を 発 揮 することができなかった 悲 劇 の エンジンと 呼 ばれている 中 島 飛 行 機 VS 三 菱 重 工 業 第 二 次 世 界 大 戦 中 日 本 の 航 空 機 製 造 業 で 機 体 生 産 数 は 中 島 飛 行 機 がシェア% 三 菱 重 工 業 は% エンジン 生 産 数 に 至 っては 中 島 が% 三 菱 は%で 両 社 による 寡 占 状 態 であった

167 戦 前 の 日 本 航 空 機 産 業 に 君 臨 した 両 社 であるが 会 社 設 立 や 航 空 機 産 業 参 入 の 経 緯 は 大 きく 違 っていた 中 島 飛 行 機 は 会 社 設 立 から 一 貫 して 航 空 機 のみのベンチャー 企 業 なのに 対 し 三 菱 は 財 閥 の 一 部 門 として 航 空 機 産 業 を 将 来 性 のある 有 望 な 市 場 として 認 識 し 参 入 を 図 ったのである ま た 競 争 試 作 ( 主 に 海 軍 では 性 能 要 求 を 提 示 して 複 数 の 会 社 に 競 争 させ その 結 果 でよい 方 を 正 式 化 する)では 両 社 がしばしば 会 社 のメンツを かけ 試 作 機 を 作 った Z 計 画 日 本 が 緒 戦 の 戦 勝 に 酔 っていた 昭 和 7 年 ころ 知 久 平 は アメ リカの 工 業 力 を 冷 静 に 分 析 し いずれ 日 本 本 土 が 爆 撃 を 受 けることを 予 想 していた 翌 年 知 久 平 は 必 勝 戦 策 と 題 する 論 文 を 著 し 政 財 界 へ 配 布 した 内 容 は 6 基 のエンジンを 備 え トンの 爆 弾 を 搭 載 する 超 大 型 戦 略 爆 撃 機 で Z 機 と 呼 び アメリカ 本 土 を 爆 撃 し ドイツに 着 陸 すると いうものであった 昭 和 年 (4)この Z 機 を 開 発 する 計 画 Z 計 画 を 陸 海 軍 が 承 認 軍 需 省 が 加 わり 富 岳 計 画 として 官 民 挙 げての 開 発 が 始 まった しかしながらその 設 計 は 当 時 の 日 本 の 技 術 力 工 業 力 をはるかに 上 回 るものであった 中 島 飛 行 機 の 総 力 を 挙 げても 開 発 は 困 難 を 極 め 開 発 の 理 解 者 であった 東 条 英 機 首 相 の 辞 任 や 本 土 防 空 のための 迎 撃 戦 闘 機 生 産 優 先 などの 事 情 で 翌 年 6 月 に 開 発 は 中 止 された 神 奈 川 との 関 わり 知 久 平 は 海 軍 機 関 学 校 学 生 時 代 や 海 軍 軍 人 時 代 を 横 須 賀 ですごした また 中 島 飛 行 機 創 業 に 当 初 から 参 加 し のちに 重 役 となり 元 老 とよば れた 佐 久 間 一 郎 は 横 須 賀 市 久 里 浜 の 生 まれで 横 須 賀 海 軍 工 廠 造 機 部 で 製 図 を 担 当 していた 時 に 知 久 平 と 出 会 った 文 献 案 内 著 作 知 久 平 の 著 作 は 下 記 の 点 があげられるが いずれも 群 馬 県 立 図 書 館 に 所 蔵 が 確 認 できる 昭 和 維 新 の 指 導 原 理 と 政 策 中 島 知 久 平 著 [] 未 所 蔵 中 島 知 久 平 67

168 必 勝 戦 策 中 島 知 久 平 著 [4] 未 所 蔵 社 史 中 島 飛 行 機 としての 社 史 は 存 在 しないが 戦 後 解 体 されたのち 富 士 重 工 業 として 再 出 発 したため 以 下 の 社 史 には 知 久 平 の 記 述 があるものも ある 富 士 重 工 業 三 十 年 史 富 士 重 工 業 4 K 前 史 として 大 空 に 賭 けた 技 術 の 挑 戦 - 中 島 飛 行 機 時 代 - として 知 久 平 の 生 まれから 中 島 飛 行 機 設 立 までが 記 述 されている 富 士 重 工 業 株 式 会 社 群 馬 製 作 所 年 史 富 士 重 工 業 群 馬 製 作 所 K スバルを 生 んだ 技 術 者 たち 富 士 重 工 技 術 人 間 史 富 士 重 工 業 4 Y K スバルの4 年 富 士 重 工 業 K 富 士 重 工 業 5 年 史 富 士 重 工 業 4 K 前 史 として 夢 は 大 空 を 翔 る - 中 島 飛 行 機 の 誕 生 - で 知 久 平 の 生 まれ から 中 島 飛 行 機 設 立 政 界 進 出 を 経 て その 死 までを 記 述 している 伝 記 文 献 中 島 知 久 平 健 闘 録 永 松 浅 造 著 八 紘 書 院 未 所 蔵 巨 人 中 島 知 久 平 渡 部 一 英 著 鳳 文 書 林 55 Y 偉 人 中 島 知 久 平 秘 録 毛 呂 正 憲 編 上 毛 偉 人 伝 記 刊 行 会 6 K 飛 行 機 王 中 島 知 久 平 豊 田 穣 著 講 談 社 Y 中 島 知 久 平 高 橋 泰 隆 著 日 本 経 済 評 論 社 K 中 島 知 久 平 と 国 政 研 究 会 上 下 手 島 仁 著 みやま 文 庫 5 未 所 蔵 参 考 文 献 佐 久 間 一 郎 伝 加 藤 勇 著 佐 久 間 一 郎 伝 刊 行 会 77 Yかな 中 島 飛 行 機 エンジン 史 中 川 良 一 水 谷 総 太 郎 著 酣 灯 社 5 K 中 島 飛 行 機 の 研 究 高 橋 泰 隆 著 日 本 経 済 評 論 社 Y K 地 下 秘 密 工 場 齋 藤 勉 著 のんぶる 舎 Yかな 6

169 立 憲 政 友 会 史 山 本 四 郎 校 訂 日 本 図 書 センター Y 戦 争 と 共 に 歩 んだ 青 春 中 稲 会 編 中 稲 会 事 務 局 6 Y 中 島 飛 行 機 物 語 前 川 正 男 著 光 人 社 6 K 中 島 飛 行 機 小 泉 製 作 所 日 誌 松 本 秀 夫 著 健 友 館 K 中 島 知 久 平 顕 彰 記 念 冊 子 富 士 重 工 業 群 馬 製 作 所 K 中 島 飛 行 機 エンジンとともに 水 谷 総 太 郎 著 酣 燈 社 未 所 蔵 さらば 空 中 戦 艦 富 嶽 碇 義 朗 著 光 人 社 未 所 蔵 歴 史 のなかの 中 島 飛 行 機 桂 木 洋 二 著 グランプリ 出 版 K 銀 河 の 里 河 内 山 雅 郎 著 河 内 山 雅 郎 7 未 所 蔵 悲 劇 の 発 動 機 誉 前 間 孝 則 著 草 思 社 7 K 航 空 機 工 業 の 先 駆 け 上 岡 一 史 [ 述 ] 法 政 大 学 イノベーション マネジ メント 研 究 センター 未 所 蔵 中 島 飛 行 機 と 学 徒 動 員 正 田 喜 久 著 みやま 文 庫 未 所 蔵 < 小 林 利 幸 > 中 島 知 久 平 6

170 マス メディアの 巨 人 しょうりき 正 力 ま つ た ろ う 松 太 郎 (5-6) 読 売 新 聞 社 ほか 人 物 データファイル 出 生 7 い み ず 明 治 年 (5)4 月 日 富 山 県 射 水 郡 大 門 町 ( 現 射 水 市 )に 父 庄 次 郎 母 きよの 次 男 として 生 まれる 祖 父 の 代 から 正 力 家 は 土 木 請 負 業 を 始 めた 正 力 家 がこの 地 の 名 家 として 名 声 を 得 たのは 祖 父 庄 助 がこの 地 に 度 々 災 害 をもたらした 庄 川 の 氾 濫 を 防 いだ 功 績 による 庄 助 の 発 明 した 古 か な わ 橋 の 杭 を 抜 くための 道 具 鉄 の 金 輪 ( 正 力 輪 と 名 づけられた)で 工 事 は 大 いにはかどった 正 力 の 創 意 工 夫 は 祖 父 ゆずりである 生 い 立 ち 明 治 年 () 高 岡 中 学 に 入 学 中 学 時 代 のあだなは 火 消 し か わ い よ し な り (の 警 視 総 監 明 治 7 年 (4) 金 沢 の 第 四 高 等 学 校 に 旧 友 河 合 良 成 ちの 小 松 製 作 所 社 長 )と 一 緒 に 入 学 勉 強 はあまりしなかったが 柔 道 に は 熱 中 した また 非 常 に 負 けず 嫌 いであった 明 治 4 年 (7) 東 京 帝 国 大 学 独 逸 法 科 入 学 連 日 のように 講 道 館 に 通 い 三 船 久 蔵 八 段 (のちに 十 段 となる)の 指 導 をうけて 腕 をあげた また 参 禅 にも 精 を 出 した 実 業 家 以 前 讀 賣 新 聞 八 十 年 史 より 明 治 45 年 () 内 閣 統 計 局 に 入 局 統 計 の 組 み 合 わせによって 結 論 を 出 すことが 得 意 だった 特 に 犯 罪 統 計 の 作 成 とその 結 果 から 引 き 出 す 世 相 の 観 察 に 興 味 を 持 っていた 同 年 高 等 文 官 試 験 に 合 格 大 正 年 () 警 視 庁 に 入 庁 堀 留 神 楽 坂 の 署 長 などを 経 て 第 一 方 面 監 察 官 となった 大 正 6 年 (7) 早 稲 田 大 学 の 学 園 騒 動 大 正 7 年 () 東 京 市 の 米 騒 動 を 鎮 圧 し 刑 事 課 長 官 房 主 事 警 務 部 長 と 恵 まれたコース を 歩 いた その 矢 先 大 正 年 () 虎 ノ 門 事 件 が 起 きた 難 波 大 助 が

171 帝 国 議 会 開 院 式 へ 向 かう 皇 太 子 (のちの 昭 和 天 皇 )の 御 召 自 動 車 を 狙 撃 その 責 任 を 問 われて 懲 戒 免 官 となる ときの 山 本 権 兵 衛 内 閣 が 総 辞 職 大 正 年 (4) 皇 太 子 ご 成 婚 の 慶 事 で 正 力 の 懲 戒 免 官 は 解 かれたが 官 界 へ 戻 ろうとはしなかった 実 業 家 時 代 大 正 年 (4) 月 破 産 寸 前 の 読 売 新 聞 の 経 営 を 引 き 受 けないかと ご と う く に ひ こ いう 話 が 正 力 に 持 ち 込 まれた 友 人 の 後 藤 圀 彦 (のちの 京 成 電 鉄 社 長 )と 河 合 良 成 が 番 町 会 の 郷 誠 之 助 ( 東 京 株 式 取 引 所 理 事 長 )に 正 力 を 推 薦 し たのである 官 界 にいて 新 聞 の 影 響 力 を 目 の 当 たりにしていた 正 力 は た ちまち 乗 り 気 になった 後 藤 新 平 ( 内 務 大 臣 兼 帝 都 復 興 院 総 裁 )から 万 円 を 借 り 入 れ 読 売 新 聞 の 経 営 権 を 買 収 し 読 売 新 聞 社 の7 代 目 社 長 に 就 任 正 力 は 徹 底 した 無 駄 の 排 除 と 経 営 の 合 理 化 を 行 う 一 方 で 積 極 的 に 意 表 をつく 新 企 画 を 打 ち 出 した ラジオの 将 来 性 を 考 え 他 紙 に 先 駆 けての ラジオ 版 の 創 設 囲 碁 将 棋 欄 を 拡 充 し 日 本 棋 院 と 棋 正 社 の 対 局 を 実 現 し その 棋 譜 を 掲 載 日 曜 夕 刊 発 行 都 内 版 の 先 駆 けとして 読 者 の 多 い 江 東 地 区 にページの 江 東 版 を 創 設 事 業 としては 国 技 館 における 納 涼 博 覧 会 や 多 摩 川 園 における 菊 人 形 の 開 催 などを 行 った こ れらの 新 企 画 によって 販 売 部 数 は 飛 躍 的 に 伸 びていった 正 力 は 紙 面 と 大 衆 社 会 との 直 結 を 考 え 大 衆 が 喜 ぶものを 提 供 するこ とに 心 血 を 注 いだ 正 力 の 新 聞 に 対 する 考 えは 公 正 中 立 な 言 論 づくり も 使 命 だが 読 者 から 特 に 得 た 利 潤 を 広 く 大 衆 に 還 元 すること であった 昭 和 6 年 (4) 言 論 統 制 を 容 易 にするため 全 国 の 新 聞 社 を 一 つに 統 合 しようとする 政 府 の 新 聞 合 同 会 社 案 に 対 して 強 硬 な 反 論 を 唱 え つい にこれを 撤 回 させた 昭 和 7 年 (4) 報 知 新 聞 社 を 合 併 戦 後 昭 和 年 (45) 読 売 第 一 次 争 議 おこる 一 方 正 力 はA 級 戦 犯 容 疑 者 に 指 定 され 巣 鴨 拘 置 所 に 収 容 される 巣 鴨 拘 置 所 では 座 禅 にあけく れた 同 年 月 読 売 新 聞 社 取 締 役 を 辞 任 翌 年 (46) 公 職 追 放 され る 昭 和 年 (47) 巣 鴨 拘 置 所 から 釈 放 されるが 釈 放 後 も 公 職 追 放 の 正 力 松 太 郎 7

172 ままで すぐに 読 売 新 聞 社 に 復 帰 する 道 は 絶 たれていた 昭 和 6 年 (5) 追 放 解 除 となり 昭 和 年 (54)7 月 に 読 売 新 聞 社 の 社 主 に 推 挙 され 正 式 に 復 帰 する 公 職 追 放 中 に 正 力 が 取 り 組 むようになったのが 民 間 テレビ 放 送 であ る 昭 和 年 (4)テレビの 話 が 友 人 であり 戦 前 に 日 産 コンツェルン あ い か わ よしすけ を 築 いた 鮎 川 義 介 (のちに 参 議 院 議 員 )を 通 して 正 力 に 持 ち 込 まれた 正 力 は 昭 和 6 年 (5)に 日 本 テレビ 放 送 網 設 立 構 想 を 発 表 こ の 正 力 構 想 は 一 社 で 日 本 全 国 にテレビネットワークを 形 成 すること を 目 的 として 設 立 された 昭 和 7 年 (5) 日 本 初 のテレビ 放 送 予 備 免 許 を 取 得 して 日 本 テレビ 放 送 網 株 式 会 社 を 設 立 し 社 長 に 就 任 した 昭 和 年 (5) 初 の 民 間 テレビ 放 送 局 として 開 局 テレビの 大 衆 化 のために 正 力 は 街 頭 テレビ の 設 置 に 力 を 入 れた 当 初 テレビのない 家 庭 がほとんどであったため 東 京 駅 構 内 や 新 橋 駅 西 口 広 場 など 主 要 箇 所 に 設 置 プロボクシング 世 界 タイトルマッチの 中 継 や プロレスの 力 道 山 などの 試 合 を 見 るために 街 頭 テレビの 前 は 黒 山 の 人 だ かりだった 街 頭 テレビは テレビ 普 及 に 役 立 った その 後 郵 政 省 が NHKは 全 国 民 放 は 地 方 という 役 割 分 担 を 決 め たため 正 力 構 想 は 頓 挫 する しかし 正 力 は 昭 和 年 (5)に 大 阪 に 読 売 テレビ 放 送 を 開 局 したのを 皮 切 りに 各 県 にテレビ 局 を 開 局 してい き 最 初 の 正 力 構 想 とは 違 った 形 になったが 全 国 テレビ 放 送 網 を 築 き 上 げていったのである 政 治 との 関 わり 昭 和 年 (7) 東 京 市 長 に 立 候 補 するが 落 選 昭 和 年 (44) 貴 族 院 議 員 に 勅 選 される 昭 和 年 (55) 故 郷 の 富 山 区 から 無 所 属 で 出 馬 衆 議 院 議 員 に 当 選 計 5 回 当 選 第 次 鳩 山 一 郎 内 閣 では 国 務 大 臣 ( 北 海 道 開 発 庁 長 官 原 子 力 担 当 のちに 原 子 力 委 員 会 の 初 代 委 員 長 科 学 技 術 庁 長 官 )を つづ く 第 次 岸 信 介 内 閣 でも 国 務 大 臣 ( 国 家 公 安 委 員 会 委 員 長 科 学 技 術 庁 長 官 原 子 力 委 員 会 委 員 長 )を 歴 任 した 昭 和 4 年 (66) 東 海 村 の 日 本 原 7

173 子 力 研 究 所 の 設 立 にかかわり 日 本 の 原 子 力 政 策 を 推 進 した 社 会 文 化 貢 献 昭 和 6 年 ()と 昭 和 年 (4)の 度 にわたり アメリカ 大 リー グ 選 手 を 招 聘 昭 和 年 (4) 日 本 で 初 のプロ 野 球 球 団 大 日 本 東 京 野 球 倶 楽 部 ( 現 読 売 巨 人 軍 ) を 結 成 し 職 業 野 球 (プロ 野 球 )を 日 本 に 根 付 かせた 昭 和 4 年 (4)わが 国 初 のプロ 野 球 コミッショナーに 就 任 日 本 野 球 連 盟 会 長 となる 没 後 その 野 球 界 に 対 する 功 績 を 記 念 してプロ 野 球 界 に 貢 献 した 関 係 者 を 対 象 とする 正 力 松 太 郎 賞 が 設 けられた 正 力 の 遺 訓 は 巨 人 軍 は 常 に 強 くあれ 巨 人 軍 は 常 に 紳 士 たれ 巨 人 軍 はアメリカ 野 球 に 追 いつき そして 追 い 越 せ であった プロ 野 球 の 父 と 称 された 正 力 は 新 聞 テレビ プロ 野 球 など 大 衆 と 向 き 合 って 事 業 を 繰 り 広 げ ていった 大 衆 娯 楽 の 事 業 化 を 図 り 大 衆 の 好 奇 心 夢 を 見 抜 く 天 才 でも あった 大 衆 文 化 の 演 出 者 として 立 ち 振 る 舞 い その 事 業 の 成 果 が 大 衆 文 化 に 与 えた 影 響 は 絶 大 である 晩 年 昭 和 44 年 (6) 月 日 熱 海 市 の 国 立 熱 海 病 院 で 冠 不 全 ( 冠 状 動 脈 の 機 能 不 全 )のため 死 去 くしくもこの 日 は 読 売 巨 人 軍 が5 年 連 続 セ リー グの 優 勝 を 決 めた 日 であった 月 4 日 日 本 武 道 館 で 読 売 新 聞 社 日 本 テレビ 放 送 網 よみうりランドの 社 合 同 社 葬 享 年 4 歳 正 力 家 の 墓 所 のある 神 奈 川 県 鎌 倉 市 円 覚 寺 に 葬 られた 関 係 人 物 後 藤 新 平 後 藤 とは 不 思 議 な 縁 がある 正 力 は 警 視 庁 の 官 房 主 事 時 代 後 藤 のことを 大 風 呂 敷 をひろげて 誠 意 のない 人 だと 考 えていた 内 務 大 臣 だった 後 藤 のもとで 政 界 工 作 をすることを 嫌 って 転 出 希 望 を 出 したぐ らいである だが 後 藤 と 接 触 する 機 会 がふえるにつれ 噂 に 聞 いた 人 と なりとは 違 うことがわかり 後 藤 の 雄 大 な 着 想 や 計 画 に 圧 倒 され 敬 服 する ようになっていったのである 正 力 松 太 郎 7

174 74 しょうとくかい 徳 富 蘇 峰 新 聞 人 歴 史 家 正 力 が 徳 富 蘇 峯 翁 彰 得 会 の 理 事 長 とし て 書 いた 蘇 峯 記 念 館 の 看 板 は 今 も 二 宮 町 の 徳 富 蘇 峰 記 念 館 に 掲 げられている( 彰 得 会 と 看 板 は 峯 の 字 を 使 用 ) また 記 念 館 には 正 力 の 書 簡 も 保 存 されている 蘇 峰 の 正 力 評 は 正 力 の 人 とその 事 業 をよく 物 語 っているのでここに 引 用 する 君 ハ 常 ニ 他 社 ニ 先 ジテ 之 ヲ 成 ス 而 そしる シテ 他 人 之 ヲ 笑 イ 之 ヲ 謗 ル ヤガテハ 之 ニ 追 随 ス 我 ヨリ 古 ヲ 為 スモ ノニ 幾 シ エピソード 読 売 新 聞 の 経 営 権 を 買 収 するためには 万 円 が 必 要 だった 正 力 は 後 藤 新 平 を 伊 豆 長 岡 の 別 荘 に 訪 ね 万 円 の 金 策 を 申 し 入 れると よろし い とあっさりと 承 諾 してくれた そして 新 聞 経 営 は 難 しいと 聞 いてい るから 失 敗 したらきれいに 捨 てて 未 練 を 残 すなよ 金 は 返 す 必 要 はない からな と 言 った このとき 後 藤 は 麻 布 に 持 っていた5 千 坪 の 土 地 を 担 保 に 万 円 を 工 面 したのだが 出 所 は 言 わなかった 没 後 遺 族 から 事 情 を 知 らされた 正 力 は 回 忌 にあたる 昭 和 6 年 (4) 後 藤 の 郷 里 であ る 岩 手 県 水 沢 町 ( 現 水 沢 市 )に 万 円 の 後 藤 新 平 伯 記 念 公 民 館 を 建 てて 故 人 の 恩 に 報 いた キーワード 天 覧 試 合 街 頭 テレビ 時 代 から テレビは 数 々のスターを 送 り 出 してき た プロレスの 力 道 山 やプロ 野 球 巨 人 軍 の 長 嶋 茂 雄 など 昭 和 4 年 (5)の 天 覧 試 合 はその 頂 点 と 言 える 阪 神 との 一 戦 で 長 嶋 は 劇 的 なサ ヨナラホームランを 打 ち 試 合 に 決 着 をつけた 虎 ノ 門 事 件 で 警 察 官 僚 の 道 を 断 たれて 以 来 新 聞 野 球 テレビと 突 き 進 んできた 正 力 は その 日 かつての 皇 太 子 である 昭 和 天 皇 を 後 楽 園 球 場 に 迎 えた その 時 虎 ノ 門 事 件 を 思 い 出 し 万 感 の 思 いであったことが 推 察 される 神 奈 川 との 関 わり 昭 和 4 年 (4) 川 崎 競 馬 倶 楽 部 (のちの よみうりランド ) 設 立 会 長 に 就 任 ゴルフの 大 衆 化 を 目 指 し 家 族 みんなで 楽 しめる 大 レクリ

175 エーションセンターを 建 設 した 晩 年 は プロ サッカーをめざす 読 売 サッカークラブ の 創 設 と よ みうりランド のサッカー 場 建 設 に 関 わった は 自 宅 は 逗 子 にあった 敷 地 は4 百 坪 弱 病 弱 だった 波 ま 満 夫 人 のため 昭 和 6 年 ()に 東 京 三 田 から 転 居 門 をはいってすぐ 左 手 に 不 老 門 と 彫 った 石 碑 を 置 いた 武 道 にいそしみ 武 道 館 建 設 を 生 涯 の 夢 とした 正 力 の 我 は 老 いず という 心 意 気 が 感 じられる 文 献 案 内 著 作 讀 賣 を 築 き 上 げるまで 正 力 松 太 郎 著 日 本 評 論 () 6 p Y 善 因 善 果 正 力 松 太 郎 [ 述 ] 私 の 哲 学 続 思 想 の 科 学 研 究 会 編 中 央 公 論 社 5 p-6 Y 悪 戦 苦 闘 正 力 松 太 郎 著 大 宅 壮 一 編 早 川 書 房 5 Y 私 の 悲 願 正 力 松 太 郎 著 オリオン 社 65 未 所 蔵 社 史 讀 賣 新 聞 八 十 年 史 読 売 新 聞 社 編 読 売 新 聞 社 55 Y K 明 治 7 年 (74)から 昭 和 年 (54)までの 読 売 新 聞 社 の 歴 史 を 収 録 して いる 社 主 として 正 力 は 序 文 で 以 下 のように 述 べている 読 売 成 功 の 原 因 は つぎの 三 点 に 帰 すると 思 います 社 員 と 販 売 店 が 一 体 となって 一 生 懸 命 に 働 いたこと 新 聞 紙 面 および 宣 伝 事 業 において 常 にざん 新 なる 計 画 が 企 てら れ 幸 いにもほとんどことごとく 大 衆 に 受 け 入 れられたこと 社 内 にお ける 不 正 の 徹 底 的 追 求 とムダを 極 力 排 除 したこと 読 売 新 聞 百 年 史 読 売 新 聞 社 編 読 売 新 聞 社 76 Y K 創 刊 号 以 来 の 読 売 新 聞 紙 面 を 基 礎 資 料 として 昭 和 5 年 (75)までを 記 述 の 範 囲 としている エピソード 写 真 当 時 の 社 会 情 勢 も 記 載 なお 本 稿 人 物 データファイルの 記 述 は 本 書 を 主 な 典 拠 としている 正 力 松 太 郎 75

176 読 売 新 聞 百 年 史 資 料 年 表 読 売 新 聞 社 編 読 売 新 聞 社 76 Y K 百 年 史 以 降 の 社 史 には 関 連 会 社 として 読 売 巨 人 軍 よみうりラン ド 日 本 テレビ などの 歴 史 を 収 録 読 売 新 聞 発 展 史 読 売 新 聞 社 編 読 売 新 聞 社 7 Y K 社 史 の 節 目 ではないが 社 業 遂 行 と 社 員 研 修 を 目 的 に 発 行 百 年 史 刊 行 以 降 の 年 間 を 詳 しく 編 集 している 索 引 と 年 表 あり 読 売 新 聞 百 二 十 年 史 読 売 新 聞 社 編 読 売 新 聞 社 4 Y K 本 編 と 資 料 編 の 部 構 成 平 成 6 年 (4)までの 読 売 新 聞 社 の 歴 史 を 収 録 している 関 連 会 社 として ヴェルディ が 加 わった 巻 末 には 年 表 索 引 あ り 大 衆 とともに5 年 沿 革 史 日 本 テレビ 放 送 網 株 式 会 社 社 史 編 纂 室 編 日 本 テレビ 放 送 網 7 Y K 大 衆 とともに5 年 写 真 集 日 本 テレビ 放 送 網 株 式 会 社 社 史 編 纂 室 編 日 本 テレビ 放 送 網 7 Y K よみうりテレビの 年 写 真 と 証 言 よみうりテレビ 開 局 周 年 記 念 事 業 企 画 委 員 会 編 読 売 テレビ 放 送 7 Y K 読 売 巨 人 軍 75 年 史 4~ 読 売 巨 人 軍 75 年 史 編 纂 委 員 会 編 読 売 巨 人 軍 Y 読 売 巨 人 軍 75 年 史 資 料 編 読 売 巨 人 軍 75 年 史 編 纂 委 員 会 編 読 売 巨 人 軍 Y よみうりランド レジャーとともに4 年 よみうりランド 社 史 編 纂 委 員 会 編 よみうりランド Y Yかな K クラブサッカーの 始 祖 鳥 読 売 サッカークラブ~ 東 京 ヴェルディ4 周 年 記 念 誌 発 行 委 員 会 制 作 東 京 ヴェルディ6フットボールクラブ Y 伝 記 文 献 正 力 松 太 郎 と 小 林 一 三 天 草 平 八 郎 著 森 田 書 房 5 未 所 蔵 76

177 正 力 松 太 郎 と 讀 賣 新 聞 赤 井 清 一 著 経 済 往 来 () 5 p- Y 伝 記 正 力 松 太 郎 御 手 洗 辰 雄 著 大 日 本 雄 弁 会 講 談 社 55 Y K 正 力 松 太 郎 髙 木 教 典 著 世 紀 を 動 かした 人 々5 マスメディアの 先 駆 者 講 談 社 6 p4-44 Y 創 意 の 人 正 力 松 太 郎 言 行 録 片 柳 忠 男 著 オリオン 座 64 K 昭 和 6 年 に 刊 行 された 創 意 の 人 正 力 松 太 郎 (オリオン 座 K )を 増 補 した 内 容 となっている 正 力 松 太 郎 読 売 新 聞 社 編 読 売 新 聞 社 7 Y K 正 力 の 没 後 刊 行 された 追 想 集 大 衆 とともに 歩 んだ 正 力 の4 年 間 のアルバム 正 力 の 生 涯 がそのまま 昭 和 の 新 聞 テレビ 娯 楽 などの 歴 史 のページとなっ ている また 生 前 の 正 力 を 知 る 人 びとが 正 力 との 思 い 出 を 語 っている 巻 末 に 年 譜 あり 付 録 として 語 る 正 力 松 太 郎 のソノシ-トが 枚 付 いている 正 力 松 太 郎 牛 山 純 一 著 言 論 は 日 本 を 動 かす7 講 談 社 5 p-6 Y 正 力 松 太 郎 有 山 輝 夫 著 近 代 日 本 のジャーナリスト 田 中 浩 編 御 茶 の 水 書 房 7 p65- Y 正 力 松 太 郎 本 田 靖 春 著 人 物 昭 和 史 筑 摩 書 房 p5- Y 巨 怪 伝 正 力 松 太 郎 と 影 武 者 たちの 一 世 紀 佐 野 眞 一 著 文 藝 春 秋 4 未 所 蔵 正 力 松 太 郎 読 売 新 聞 日 本 テレビの 総 師 井 川 充 雄 著 近 代 日 本 メ ディア 人 物 誌 創 始 者 経 営 者 編 土 屋 礼 子 編 著 ミネルヴァ 書 房 p5-4 Y K 参 考 文 献 野 球 と 正 力 室 伏 高 信 著 講 談 社 5 Y 昭 和 史 の 家 垂 見 健 吾 写 真 半 藤 一 利 文 文 藝 春 秋 K 日 本 テレビ 放 送 網 構 想 と 正 力 松 太 郎 神 末 一 三 著 三 重 大 学 出 版 会 5 未 所 蔵 正 力 松 太 郎 77

178 日 本 テレビとCIA 発 掘 された 正 力 ファイル 有 馬 哲 夫 著 新 潮 社 6 Y 原 発 正 力 CIA 機 密 文 書 で 読 む 昭 和 裏 面 史 有 馬 哲 夫 著 新 潮 社 未 所 蔵 < 高 田 泰 子 > コラム 映 像 化 された 実 業 家 たち 実 業 家 を 描 いたドラマ 映 画 といえば いちばん 近 いところでは 平 成 年 () 月 に 放 映 されたばかりのNHK 土 曜 ドラマ 神 様 の 女 房 を 思 い 出 される 人 も 多 いだろう 松 下 電 器 ( 現 パナソニック) 創 業 者 松 下 幸 之 助 の 妻 むめのを 主 人 公 にしたもので 原 作 は 松 下 家 の 執 事 を 長 年 勤 めていたという 高 橋 誠 之 助 主 人 公 むめのを 常 盤 貴 子 幸 之 助 を 筒 井 道 隆 が 演 じていた この 筒 井 の 幸 之 助 については 耳 の 大 きさがポイントな のでは?( 実 際 の 幸 之 助 の 写 真 を 見 るとたしかに 耳 が 大 きい) という 冗 談 もあったようだが 真 相 やいかに 映 画 陽 はまた 昇 る ()では 仲 代 達 矢 が 映 画 破 天 荒 力 A Miracle of Hakone ()では 宝 田 明 がそれぞれ 演 じているが いずれも 筒 井 ほど 耳 は 目 立 たないようだ NHK 大 河 ドラマ 春 の 波 濤 ( 昭 和 6 年 5)は 日 本 最 初 の 女 優 川 上 貞 奴 を 主 人 公 にした 群 像 劇 だったが 風 間 杜 夫 扮 する 福 沢 桃 介 が かっこよくて これを 見 て 桃 介 を 知 ったという 人 もいた もう 一 人 かっ こいいといえば 白 洲 次 郎 当 人 の 写 真 も 良 いが 平 成 年 ()のNH Kドラマ 白 洲 次 郎 で 演 じた 伊 勢 谷 友 介 もかっこよかった このとき 妻 の 白 洲 正 子 を 演 じたのは 中 谷 美 紀 だった 渋 沢 栄 一 は 明 治 実 業 界 の 大 物 なのでいろいろな 場 面 に 登 場 しており さまざまな 渋 沢 がいる 主 人 公 としては 昭 和 5 年 (7)TBS 時 代 劇 雲 を 翔 びこせ で 西 田 敏 行 が 昭 和 57 年 ()NHK 正 月 ドラマ 7

179 雄気堂々 城山三郎の同名小説が原作 で滝田栄が演じ 脇役としては 昭和 5 5年 のNHK大河ドラマ 獅子の時代 で角野卓造が 高峰譲 吉が主人公の さくら さくら と続編 TAKAMINE という映画では松方弘樹が演じている 見比べてみるのもたのし いかもしれない ちなみに この さくら さくら TAKAMINE をつくった市川 徹監督は これまでに浅野総一郎を主人公にした 九転十起の男 3部作 6 7 や 同じく浅野を中心に明治期の横浜を描いた 弁天通り の人々 山口仙之助を取り上げた 破天荒力 A Mi r a c l eo f Ha k o n e と 実業家伝記映画 ともいうべきものを次々と制作されてい る人である 県立川崎図書館にも何度かお越しいただき 上映会で話して いただいたこともある 実名ではないが モデルにした と言われるものもいくつかある た とえば 平成 5年 のNHK朝の連続テレビ小説 てるてる家族 に出てきた近所の発明家おじさん この中村梅雀扮する安西千吉という人 物のモデルは インスタントラーメンの父 日清食品の安藤百福といわ れている また コクリコ坂から というジブリのアニメ映画 の 主人公たちが通う高校の理事長 徳丸社長は 徳間書店の創業者 徳 間康快をモデルにしていると パンフレットに書いてあった さて 古いところでは 何人かがあげた作品は パンとあこがれ というドラマ 中村屋の相馬愛蔵 黒光夫妻を主人公にした 昭和 4 年 6 放映のTBS昼の連続ドラマで 脚本は山田太一 黒光役は宇津 宮雅代 愛蔵役は東野孝彦だったそうだ どんなにか印象の強いドラマ だったことだろう 実は 実業家の登場するドラマ 映画 については 今のところまと まった情報がない それで今回は いろいろな人の記憶やインターネット 上の断片的な情報をつなぎあわせてこんなふうにまとめてみた いずれき ちんと調べてみるのもおもしろいのではないだろうか 7

180 雷 帝 つつみ 堤 やすじろう 康 次 郎 (-64) 西 武 鉄 道 ほか 人 物 データファイル 出 生 え ち 明 治 年 () 月 7 日 滋 賀 県 愛 知 郡 下 八 木 村 ( 現 愛 荘 町 )に 農 業 兼 麻 仲 買 人 堤 猶 治 郎 の 長 男 として 生 まれる 祖 父 父 は 区 長 など 村 の 役 職 を 務 めており 裕 福 ではないが 暮 らしむきに 不 自 由 はなかった 生 い 立 ち 株 式 会 社 西 武 ホール ディングス 提 供 明 治 6 年 () 父 が 急 死 母 は 実 家 に 帰 されたため 祖 父 清 左 衛 門 の 手 で 育 てられる 祖 父 は 幼 い 堤 を 添 い 寝 するほど 慈 愛 する 一 方 厳 格 に 養 育 し 堤 は 知 能 体 躯 とも 人 並 み 以 上 に 成 長 した 明 治 5 年 () 尋 常 高 等 小 学 校 を 成 績 優 等 で 卒 業 し 無 試 験 で 彦 根 中 学 の 入 学 許 可 を 得 るが 祖 父 の 反 対 にあい 農 業 に 従 事 する 県 下 ではまだ 使 用 されていない 肥 料 を 独 学 で 調 べて 使 用 販 売 したり 地 区 内 の 耕 地 整 理 を 行 っている その 成 果 により 若 年 ながら 村 の 役 職 者 にも 加 えられた 日 露 戦 争 後 には 高 等 教 育 への 意 欲 が 抑 えがたく 高 まり 明 治 年 (6) 京 都 の 海 軍 予 備 学 校 に 入 学 卒 業 後 愛 知 郡 庁 雇 員 となる 郡 庁 に 勤 務 して 間 もなく 祖 父 が 死 去 し 悲 嘆 にくれるが 明 治 4 年 () 月 資 産 を 処 分 して 出 郷 し 4 月 早 稲 田 大 学 高 等 予 科 第 一 に 入 学 した 向 学 心 は 人 一 倍 大 きく 成 績 にも 非 常 にこだわっていたが 漫 然 と 授 業 を 聴 講 する のを 時 間 の 無 駄 と 考 え 社 会 的 な 活 動 に 日 常 を 費 やすようになった 雄 弁 会 ( 弁 論 部 )と 柔 道 部 に 籍 を 置 き 雄 弁 会 では 大 隈 重 信 に 知 られ 総 選 挙 の 応 援 演 説 に 参 加 するなど 熱 心 に 活 動 した 柔 道 部 の 活 動 には 深 入 りしな かったが 有 段 者 となった 後 も 邸 内 に 稽 古 場 を 設 け 生 涯 修 業 を 続 けている 本 科 ( 政 治 経 済 学 部 )に 進 んだのちは 永 井 柳 太 郎 に 師 事 し そのロシ

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