目次 伝説の人物奇譚 3 新田開発の功労者 - 江戸前期 - 7 復興と産業振興 - 江戸後期 - 10 鰊場の覇者 - 北の海にかける- 12 近代化の推進 14 岩木川とともに生きる 18 精神修行の巨人 20 実業界の雄 21 科学と文化の探求 24 教育の礎 29 スポーツ大国の群像 32

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1 大地の恵みと海の幸心ひとつに希望のまち 中泊偉人伝人ものがたり

2 目次 伝説の人物奇譚 3 新田開発の功労者 - 江戸前期 - 7 復興と産業振興 - 江戸後期 - 10 鰊場の覇者 - 北の海にかける- 12 近代化の推進 14 岩木川とともに生きる 18 精神修行の巨人 20 実業界の雄 21 科学と文化の探求 24 教育の礎 29 スポーツ大国の群像 32 数奇な運命 35 中泊来遊諸家 37 村の奇人伝人 40 索引 47 よくや 山 と 川 と 潟 そして 海 のある町 緑の森林と沃野には抱かれ 地吹雪の舞う里 中里 水平線彼方に北海道を望み 波とうきら濤燦めく漁村 小泊 本書では 厳しくも豊かな風土によって育まれた歴史上の人物や 関わりのある著名人約 250 人を 14 のテーマで取り上げました 先人の苦労や経験を共有 継承することによって 地域を見つめなおす機会となれば幸いです * 対象の選択 本文記述等については 下記の文献を参考にしました 成田末五郎編 1966 中里町誌 中里町小泊村史編纂委員会 1995 ~ 99 小泊村史 小泊村東奥日報社 1969 青森県人名大事典 東奥日報社 2002 青森県人名事典 西北教育界の 先覚者を偲ぶ 刊行委員会 1967 ~ 99 先覚者を偲ぶ 第 1 ~ 6 集中里町高齢者教室 1974 村のエピソード 柳沢良知 小泊郷土が誇る人びと 広報こどまり

3 中泊偉人伝人ものがたり 3 徐じょ福ふく弥生時代古代中国秦しん(紀元前三世紀)の方ほうし士 斉せい出身 始し皇こうてい帝の命により 童男童女三千人を率いて 長生不死の薬を求めて東方へ出航したが ついに帰らなかったとされる 海わたつみ神として信仰を集めてきた熊くまの野権ごんげん現(和歌山県)では 徐福が熊野に上陸したという伝説が室町時代から語り継がれている 徐福に関する伝承は 西日本太平洋岸を中心に日本各地に残されているが その中でも小泊権ごんげんざき現崎の徐福伝説は最北のものである 権現崎山頂にある尾おざき崎神社には 徐福木像が航海の神として祭られているほか 宮司尾崎氏が徐福の末まつえい裔とする伝承がある 近年下前地区には 高さ三メートルの徐福石像を中心とした 徐福の里公園 が整備されている 膽いかしま鹿嶋/菟うほな穂名飛鳥時代問という菟の蝦えみし夷 日本書紀 によれば 斉明天皇五年(六五九)越こし(北陸)国こくしゅ守阿あべのひ倍比羅らふ夫が 一八〇艘の船団を率いて日本海を北上した 秋田 能代を過ぎて 肉ししりこ入篭 へ来たとき 問という菟蝦えみし夷 である 膽い鹿かしま嶋 菟うほな穗名 が進み出て 後しりべし方羊蹄 に政所を置くように勧めたという 肉入篭 後方羊蹄 については不詳であるが 問兎 は とひう と読んで 小泊権現崎の 土とひょう漂 に比定する説がある 大だいどうじ導寺力ちから/オリ鎌倉時代前期中里地域の 義経伝説 に登場する武将とその妻妾 鎌倉時代初頭 衣ころもがわ川(岩手県)で敗死したはずの源みなもとのよしつね義経が 実際は津軽地方まで逃げ さらに北方へ落ち延びたとするいわゆる義経伝説は 青森県内各所に存在するが 中里地域にもいくつかの伝承が残されている ひとつは 五ごりんじんじゃ林神社五ごりんとう輪塔(中泊町指定文化財)にまつわる 大導寺伝説 である 五林神社の由緒について 中里町誌 は 奥おうしゅう州に逃れ来る源義経公の従者大導寺力は津軽三みんまや厩にて主人公と別れ その地に止まりたるも 中里部落にさまよい来り 部落の娘 オリ と同どうせい棲せしも 頼より朝とも勢に発見され 大導寺沢に籠こもれども衆しゅう寡か敵せず討死せりと 身みもち持となれる オリ は妊はららめる子と共に自害せり その臨りんじゅう終の言葉に 妾しょうは末永く此この地の産うぶすな神とならん と 即ち五輪塔を中心に左右に宝ほうきょういんとう筐印塔を建立 現在は社殿を新築して石塔を安置している と伝える 一方宮野沢には 源みなもとのよりとも頼朝を祭神とする白しらはたじんじゃ旗神社が存在する 同神社は全国で八〇社ほど存在し 源義経など源げんじ氏の武将や 源氏の氏神である八やわたのかみ幡神(誉ほんだわけのみこと田別命 応おうじん神天皇)を祭る場合もみられるが 基本的には宮野沢のように源頼朝を主祭神をとする社が多い つまり中里においては 旧敵同士を祭る五林神社と白旗神社が 約二キロの距離を隔てて対たいじ峙していることになる これらの由緒の真偽については定かではないが 五林神社御神体として祭られている五輪塔と宝篋印塔は 中世の墓ぼひ碑あるいは供くようとう養塔であり 鎌倉~室町時代に造られたことが推定されている また大導寺力が隠れ住んだとされる 大だいどうじ導寺屋やしき敷 は 中里川上流の山深い台地にある かつて 大導寺伝説の人物奇譚尾崎神社徐福像徐福像五林神社五輪塔白旗神社大導寺屋敷

4 4 4 中泊偉人伝人ものがたり 4 屋敷 が開かいこん墾された際 礎そせき石のような石が出土したとされるほか 周辺の 寺てらやしき屋敷 からは懸かけぼとけ仏破片が 喜きじょうあ丈上げ からは宝篋印塔塔身(所在不明) ユズリ平 からは信しがらき楽の小壺つぼが発見されている 大導寺屋敷 一帯に中世の遺物が濃密に分布することから 何らかの勢力が実在したことは明らかである いずれも時期が不明なため 大導寺伝説との関連については不明であるが 今から五十年以上前 重要な手がかりが発見されている 昭和三五年(一九六〇)五林在住の古こがわしょうざぶろう川荘三郎氏が 五林神社西側の水田から 灰色に焼き締しまった壺つぼを掘りあげた 現在 壺の所在は不明であるが 写真から判断するかぎり 鎌倉時代前期の珠すずやき洲焼の可能性が高い 珠洲焼は 能のと登半島珠すず洲市一帯で生産された陶器であり 中世を通じておもに日本海側に流通した焼きものである 壺は 口縁部を意図的に打ち欠いており 蔵ぞうこつき骨器として利用されたものと推定される あるいは蔵骨器を埋葬し その墓碑として五輪塔が建立されたとも考えられる 大導寺力 オリが伝説に過ぎないとしても 中世の五林地域には 珠洲焼壺に納骨され また 五輪塔を建立するような有力な武士階級が存在していたのである このほか深郷田の一いっぽんまつ本松遺跡(深ふこうだだて郷田館)や中里城遺跡でも 鎌倉時代の陶磁器が発見されており 従来厚いベールに隠されていた鎌倉時代の中里地域の様相が徐々に姿を現しはじめている 新あらせき關又またじろう二郎乙おつ邊へち地小こさぶろう三郎光みつすえ季南北朝時代南北朝時代に活躍した豪族 日本最初の武ぶけ家政権として盤ばん石じゃくの体制を築きあげた鎌倉幕府であるが 元げんこう寇を転機としてしだいに衰退への道を歩む さらに津軽安藤氏の内ないふん紛による津軽大乱(一三二二~二八)の処理の不ふてぎわ手際によって 幕府の権威は回復不能なまでに失しっつい墜した そして元弘三年(一三三三)朝廷方新にったよしさだ田義貞の鎌倉攻めにより 執しっけん権北ほうじょうたかとき条高時は自害し 鎌倉幕府は滅亡に至る 混乱は津軽地方にも波及し 豪族たちは互いに朝廷方と幕府方にわかれて争ったが 翌建けんむ武元年(一三三四)には 朝廷方の勝利のうちに終結する この年の冬 朝廷方の国代南なんぶ部師もろゆき行は 降伏した武将の名簿を陸むつ奥国こくし司北きたばたけ畠顕あきいえ家に提出した 著名な 津つがるこうじんこうみょうちゅうしんじょう軽降人交名注申状 (南部家文書)である 上段には五〇人あまりの投降人 下段には投降人を預かった武将の名が記されている このなかで最も多い一七人を預かっているのが 安藤宗そうけ家の安あんどう藤又また太たろう郎宗むねすえ季である 安藤宗季(別名五ごろう郎三さぶろうすえひさ郎季久)は家かとく督を巡って津軽大乱を引き起こした当事者であり 鎌倉幕府の裁さいだん断によって宗家となった人物であるが 幕府が傾くとあっさりと朝廷側に転向したようである その後足あしかが利尊たかうじ氏が建武新政府から離反すると 安藤宗家は朝廷方を見限って尊氏に味方し 室町幕府と密接な関係を築く 南北朝の混乱を巧みに乗り切って勢力を伸展させ 後には 日ひのもとしょうぐん之本将軍 を呼称するほどの威いせい勢を誇る ところで安藤宗季に預けられた武将の中に 新關又次郎 ならびに 乙邊地小三郎光季 が並んで見え 前者が中里城主 後者が尾おっぺつ別館主と推定されている 中里城は現在の中里城遺跡もしくは五ごりんだて林館(五林遺跡) 尾おっぺつだて別館は胡くるみだに桃谷遺跡である 尾別館は 旧天台宗弘ぐぜいじ誓寺(廃寺)ならびに津軽三十三観音十四番札所 尾おっぺつかんのんどう別観音堂 が所在する台地一帯が相当する 尾別 は 古文書や絵図において 乙辺地 尾辺地 などと記述される例もみられることから 乙邊地氏と関連がありそうである なお 中里町誌 では 乙邊地光季が安藤宗家と同じ 季 の字を名乗っていることから安藤氏の一族と推定している 信楽小壺珠洲焼壺一本松遺跡出土の白磁碗 津軽降人交名注進状

5 中泊偉人伝人ものがたり 5 点に達する 室町幕府に関する史書 後のちかがみ鑑 には 応永三〇年(一四二三)安藤陸むつのかみ奥守が 新将軍足あしかが利義よしかず量に馬二〇匹 鳥五千羽 鵞ががん眼二万匹 海虎皮三〇枚 昆布五百把を献上したことが記されている 鵞眼 とは銭せんか貨のことであり 海虎皮 は北海道東部 千ちしま島列島ほかに生息するラッコ皮とする説がある この安藤陸奥守を盛李とみる説もあるが 盛季の死を応永二一年(一四一四)とする 下しものくにいこま国伊駒安あべ陪姓せい之のかふ家譜 (秋田湊文書)が正しいとすれば 嫡子康季と考えられる いずれにしても これらの記事からは安藤氏の豊かな財力と 十三湊を拠点とする日本海交易によって 北方産物を独占的に入手していたことが理解新關 乙邊地氏の実在は注進状から明らかであるが 残念ながら中里 五林 尾別の各城館跡では 両氏が活躍した頃(鎌倉後期~南北朝期)の遺物は出土していない したがって 両武将と中里 尾別を結びつける具体的な証拠は見つかっていないことになるが 五林館周辺にある五林神社五輪塔は鎌倉~室町時代の建立と考えられている あるいは新關又次郎に関連するものかもしれないが 南北朝期の中里についてはいまだ謎の部分が多い状況である 安あんどうもりすえ藤盛季/康やすすえ季室町時代中期中世豪族下しものくに国安藤宗家 康季は盛季の嫡ちゃくし子 日ひの之本もとしょうぐん将軍 を称した 三戸南部氏に本拠十とさみなと三湊を攻められ 小泊柴しばざきじょう崎城(柴しばだて舘)から蝦えぞが夷島しま(北海道)へ退去した 室町幕府との関係を軸に 津軽地域の支配を進めた安藤氏の勢力は 室町時代中頃(一四世紀後半~一五世紀前葉)頂される しかしながらこの時期を前後して 南部氏の津軽進出が強まり 両者の抗争が激化する 安藤氏と南部氏の抗争のなかで築かれたと考えられる中世城館が 十三湊周辺には数多く存在する 柴しばざきじょう崎城(小泊) 唐からからわじょう川城 福ふくしまじょう島城(相内) 新しんだて館(車力) 今いまいずみしんめいぐうだて泉神明宮館(今泉) 黒くろさきだて崎館(高根) 尾おっぺつだて別館(尾別) 中なかさとじょう里城 五ごりんだて林館(中里)などである 遺物が全く出土していない城館もあるが 唐川城 福島城 中里城 五林 胡くるみたに桃谷(尾別館)などの遺跡からは 一四世紀後葉から一五世紀前半にかけての遺物が出土している 時期的には 南部氏に攻められた安藤氏が 北海道に撤退するまでに相当することから これらの遺跡は 対南部氏戦に構築された臨時的な城館とも考えられる 下国安藤氏が 拠点十三湊を南部氏に攻略され 蝦夷島(北海道)に追われた経緯については 足利将軍の信任が厚く 後世 黒こくい衣の宰相 と称された 京都醍だいごじ醐寺の座ざす主満まんさい済が記した 満まんさい済准じゅごう后日にっき記 に詳しい 同日記は (永享四年(一四三二))奥ノ下しものくに国与南部弓矢事ニ付テ 下国弓矢ニ取負 エソカ島へ没落云々 仍和睦事連々申間 先度被仰遣候処 南部不承引申也 と述べ 南部氏との戦に敗れた安藤氏が蝦夷島へ逃れたこと 幕府が南部氏に和わぼく睦を働きかけたことなどを伝えている 十三湊に帰還した安藤康季は 永享八年(一四三六)若わかさの狭国くに羽はがじ賀寺(福井県)の再建に莫大な財貨を寄進するなど 復権ぶりがうかがわれるが 嘉吉二年(一四四二)再び十三湊を襲った南なんぶよしまさ部義政に屈することになる 松まつまえ前藩の歴史を記した 新しんらのきろく羅之記録 には 嘉吉二年秋攻破十三之湊而乗取津軽 盛季(康季ヵ)没落而雖左右舘 籠以為無勢不克防戦 被追出去小泊之柴舘 亦其以後嘉吉三年冬 下国安藤太盛季落小泊之柴舘渡海之後 とあり 十三湊を攻められた安藤氏が 小泊の柴舘(柴崎城)に撤退 さらに翌年冬 北海道へ落ち延びたとする その後 康季とその子義よしすえ季は失地回復を目指して津軽を侵攻したが共に倒れ 安藤宗家直系の血筋は断絶した 尾別の中世豪族室町時代中期尾別地区に所在する尾おっぺつだて別館跡あと(胡くるみたに桃谷遺跡)は 室町時代初頭(南北朝時代)乙おつへち邊地小こさぶろう三郎光みつすえ季なる武将が拠った城館とされるが 尾別周辺には むしろ安藤氏が活躍した室町時代中期頃の資料が濃厚にみられる 十三湊柴崎城跡

6 6 6 中泊偉人伝人ものがたり 6 尾別館跡には 空からぼり壕跡が残されているとともに 周辺から平安時代の土はじき師器 須すえき恵器 擦さつもんどき文土器 室町時代の珠すず洲擂すりばち鉢破片が出土している 平安時代には防ぼう御ぎょせいしゅうらく性集落(環かんごう壕集落) 室町時代には臨時的な城館として利用されたと考えられる 明治三〇年代には 尾別館跡西麓の苗なわしろ代から 直径一二cmほどの鋳ちゅうどう銅製懸かけぼとけ仏が出土した 現在弘ぐぜいじ誓寺懸かけぼとけ仏(中泊町指定文化財)として知られる同懸仏は 楊ようりゅうかんのん柳観音を祭ったものであり 室町時代の製作と推定されている 懸仏は 本来寺社の本殿などにつり下げて 礼拝の対象としたものであるが 南北朝から室町時代にかけて流行し 青森県内では五〇面ほど確認されている 津軽地方では 弘前市周辺 西海岸 十三湖周辺に多くみられ 板いたび碑や五ごりんとう輪塔 宝ほうきょういんとう篋印塔といった中世の石造文化財の分布に共通する点が特筆される とくに西海岸 十三湖周辺は 中世安藤氏の支配拠点であることから 弘誓寺懸仏も 安藤氏と関連のある人々によって残された可能性もある かつて尾別館跡にあった旧天台宗弘ぐ誓ぜいじ寺(廃寺)の本尊如にょらい来坐ざぞう像(中泊町指定文化財)も 近年の調査によって 室町時代ころに製作された北津軽郡では最も古い中世仏と評価されている 高さ四〇cmに満たない小仏であるが 現在に至るまで数すう奇きな運命を辿ってきた 同像は 元々弘誓寺北麓を西流する尾別川の上流 滝の上に位置した 解げだつあん脱庵 の本尊であったと伝えられている 同庵が廃されて後は 尾別村庄屋古こ川がわ治じごべい五兵衛方に預けられ やがて昭和四年(一九二九)尾別館跡に開山した観かん音のんれいじょうじ霊場寺(弘誓寺の前身)に安置された その翌日に古川家は火災で全焼 如来座像は危うく難を逃れたという 解脱庵の創建時期は不明であるが 弘誓寺に享保一五年(一七三〇)紀年銘のある解脱庵双そうばん盤 宝暦四年(一七五四)紀年銘のある解脱庵梵ぼんしょう鐘(大正時代改かいちゅう鋳)が残されていたことから 廃庵の時期については少なくとも江戸時代中期以降であることが推定される また 解脱庵のあったとされる滝付近からは 茶ちゃうす臼が発見されたという伝承も残されており 室町時代に何らかの宗教施設があったことが推定される 尾別地域には室町時代の城館 ならびに寺院等の宗教施設が存在した可能性が高く 安藤氏と関連のある豪族の存在が見え隠れするのである 高こうさか坂修しゅり理室町時代後期中里城主と伝えられる中世豪族 伝承では 亡命した南朝の尊そんきおう煕王が 浪岡北きたばたけ畠氏を頼って文明一二年(一四八〇)海路津軽に上陸 菊きくかわ川(つがる市森田)を経て 吉よしの野(同)に至った そこで 旧臣中里城主高坂修理に迎えられ 繁しげた田(つがる市車力)を経て中里城に入り しばし宮野沢に逗留 その後 北畠氏の居城浪岡城に入ったとされる 中里城に比定されるのは 五ごりんだて林館跡(別名亀かめやま山館だて)もしくは中なかさとじょうあと里城跡(中里城遺跡)である 五林館跡は 五林地区の中心部に所在する 現在はほぼ宅地化され 一部畑地が残る程度だが 広大な平ひらば場を同心円状に取り巻く数段の帯おびぐるわ郭が認められる 五林館跡を含めた周辺一帯は 五林遺跡 として登録されており 館跡部分の一部が平成六年(一九九四)教育委員会によって試掘されている 柵さくれつ列状遺構 空からぼり壕跡などが尾別館弘誓寺懸仏弘誓寺如来坐像胡桃谷遺跡出土珠洲擂鉢解脱庵双盤解脱庵梵鐘銘

7 中泊偉人伝人ものがたり 7 石いしかわ川彦ひこざえもん左衛門深ふこうだ郷田村出身 明暦元年(一六五五)川かわち内村を開拓した 井いぬま沼庄しょうべい兵衛九代藩主津つがる軽寧やすちか親の廃田復興 新田開拓に協力した中里村の豪農 先祖は 能のとのくに登国(石川県)飯沼郡出身とされる 寛政四年(一七九二)開発取扱加担役に任じられ 主として金木組を担当したと伝えられる 大おおかわ川作さくえもん右衛門加かがや賀谷弥や八はちろう郎出でわのくに羽国(秋田県)出身 万治元年(一六五八)富野村を開拓した 新田開発の功労者 江戸前期 見つかるとともに 土はじき師器 須すえき恵器 擦さつもんどき文土器 土どすい錘など平安時代の遺物が出土しており 平安時代のいわゆる防ぼうぎょせいしゅうらく御性集落(環かんごう壕集落)であることが確認された 試掘時は中世の遺物が全く出土しなかったものの 平成四年(一九九二)詳細分布調査では 五林館跡西側の低地から中国製青せいじ磁が表面採集されている 器形は皿もしくは小鉢で 器面に箆へらがきれんべんもん描蓮弁文が刻まれている 製作年代は 室町時代中期(一四~一五世紀)と推定されている 中里城跡(中里城遺跡 県史跡)は 五林館の北東五〇〇メートルの丘陵に位置する城館であり 複数の平場を幾いく重えにも取り巻く帯おびぐるわ郭が特徴である 中里地区の中心部に位置する同城跡は 古くから 館ッコ お城ッコ などと称され 信仰の対象となってきた 昭和六三年~平成九年(一九八八~九七)教育委員会によって発掘調査が行われ 縄文から江戸にかけて各時代の遺構 遺物が発見された なかでも主体を占めるのが平安時代であり 当時は空壕跡を巡らす集落 いわゆる防御性集落として利用されていることが明らかとなった 中世に関しては 青磁碗わん 盤ばん 白磁皿 小しょうはい坏等の中国製品 瀬せと戸灰かいゆう釉盤ばん 珠すず洲擂すりばち鉢 信しがらき楽壷つぼなど 室町時代中期(一四~一五世紀)の遺物が主体を占める また鎌倉時代の珠すず洲甕かめの破片も数点出土している 五林館と中里城は近接しているとともに 両者とも室町時代中期に利用されていることから 五林館が日常の居館 中里城が戦闘用の城館とも考えられる いずれにしても 高坂修理が活躍したとされる一五世紀後半の資料は出土していないことから 伝承の真偽のほどは不明と言わざるを得ない 清せいじゅうろう十郎江戸時代の義農家 飢ききん饉時 やむを得ずに盗とうばつ伐した村人を庇かばって 自らが犠牲になって処刑されたと伝えられる 津軽中里駅前に所在する三さんがいばんれいとう界万霊塔は 清十郎伝承に因ちなんで 清十郎地蔵 と称されている 葛かさいじんべい西甚平衛明暦元年(一六五五)豊岡村を開拓した 加かとう藤八はち右えもん衛門/八はちくろう九郎初代八右衛門江戸前期豪農 商人 能のとのくに登国(石川県)正しょういん院村の海運商 加かとう藤九くろうえもん郎右衛門の三男 寛文二年(一六六二)金木組中里村に移住し 田畑の開拓に従事した 元禄年間(一六八八~)には酒屋も経営し 地方有数の豪農となった 代々 奇数代は八右衛門 偶数代は八九郎を襲名した 二代~六代江戸中期~後期代々郷士 年頭御目見 勘定小頭格で 金木組大庄屋 八幡御おくら蔵収納米取扱方 御繰合方御用取扱役 耕作取扱方などに任じられた 七代八右衛門江戸後期天保三年(一八三二)父八九五林遺跡空壕跡五林遺跡出土青磁皿中里城遺跡空壕跡中里城遺跡出土青磁八幡御蔵跡三界万霊塔

8 8 8 中泊偉人伝人ものがたり 8 郎の跡を継ぎ 勘定小頭格の御繰合方御用取扱役(藩財政担当)を務め 翌四年には藩財政補充のために多額の御繰合金を上納した また この頃の天てんぽうききん保飢饉に際して 自ら米 銭 味噌 塩 敷物 材木などを放出するなど被災者の救済に努め その功績により藩主より御紋形御上下を頂ちょうだい戴した 天保六 七年金木組八幡御蔵の収納米取扱方 八年御元方御用達を歴任 一三年(一八四二)には金木組庄屋上締役に任ぜられ 組内の庄屋の指導と取り締まりにあたった また 私財を投じて 天保飢饉で荒廃した田畑一〇〇〇町歩余を復旧するなど 飢饉後の地域復興に尽力した 八代九八郎江戸後期庸ようせい制と号した 岩いわだて館村(平川市平賀)の豪農斎藤家より加藤家に養子に入った 嘉永二年(一八四九)先代八右衛門の跡を継ぎ 年頭御目見 代々郷士 金木組大庄屋となった 嘉永六年漆木仕立役 嘉永七年御用達加担に任じられ 功績によりたびたび御紋形御上下 御時服 御目録 御料理等を頂戴した また長らく荒廃していた神明宮を 弘化四年(一八四七)現在地に復興した 九代八右衛門明治明治三年(一八七〇)父九八郎の跡を継ぎ 年頭御目見 代々郷士 金木組大庄屋となった 旧弘前藩士救済を目的とした土地買上要請の際 水田七十四町歩を献上し 漢かんそ楚の戦の絵巻物を頂戴したとされる 維新の動乱期にあって 家政の更新に奮闘したが 姻いん戚せきの大津屋今村家が主導した鉱山投資の失敗に巻き込まれ 家運は低迷した 櫛くしびきじんきち引甚吉慶長17 (一六一二)~元禄7(一六九四)弘前の豪商 金木屋 の祖先 金木村に居住し 金木組代官 金木御おくら蔵奉行 八幡御蔵奉行 代官手代 御用木山の五役を兼ねた その子も櫛引甚吉を称し 先代から引き継いだ諸役のうち八幡御蔵奉行は徳とくだでんべい田伝兵衛に 金木御蔵奉行は叔父甚じんく九郎ろうに 代官手代役は小おだがわ田川村の櫛くしびきじんろく引甚六に それぞれ譲って喜きらいち良市村に転居し 御用木山役専任となった 工くどうやへい藤弥兵衛?~享保4年(一七一九)広ひろす須 木きづくり造新田開発 屏びょうぶ風山さん仕立ての功労者 丸まるやま山村(つがる市木造)工藤家の三代 延宝四年(一六七六)父弥やぞへい三兵衛の家かとく督を継ぎ 翌年三月人寄役を命じられ 館たておか岡村(同)野のろ呂理りざえもん左衛門や石いしたて館村(同)平ひらさわ沢定さだえもん右衛門らとともに数々の開拓に実績を残した 正徳四年(一七一四)には広須新田普請奉行を命じられ 金木新田福ふくい井村(後の田茂木村)開拓や岩木川普請などに従事した 斎さいとうじんすけ藤甚助/元もとじろう次郎六代甚助安永7(一七七八)~文化13 (一八一六)津軽随一の豪農として知られる岩いわだて館村(平川市平賀)斎藤家六代目 別家から 本家五代目の長女おくにの婿養子に入ったが 三九歳で没した 長男元もとじろう次郎は七代目を継ぎ 次女おみんは弘前の豪商大おおつや津屋九きゅうざえもん左衛門の妻 三女おふつは中里村の豪農加かとう藤八はちく九郎ろうの妻 四女おなとは弘前東長町の豪商金かなぎや木屋治じさぶろう三郎の妻となり 二男常つねさく作は後に本家八代目を相続した 七代元次郎寛政9(一七九七)~文政8(一八二五)六代甚じんすけ助の長男 八歳で父甚助に死別して家督を継いだ 中里村加かとうはちくろう藤八九郎の娘いとを妻に迎えたが 二七歳の若さで没した 残された妻いとも 元治郎の死んだ翌月二一歳で亡くなった 十代甚助文政11 (一八二八)~明治43 (一九一〇)初め清せいじろう次郎 明治七年(一八七四)家督を継ぎ甚じんすけ助と改名 中里村加藤家同様 姻いん戚せきの大おおつや津屋今村家が主導した鉱山投資の失敗に巻き込まれ 家運を傾けた 坂さかもと本弥やざえもん左衛門鈴すずきじ木治左ざえもん衛門福ふくしちょうべい士長兵衛佐さの野惣そうえもん右衛門坂本 鈴木 福士は薄市村出身 佐野は出でわのくに羽国(秋田県)朴沢出身 寛文四年(一六六四)田茂木村を開拓した 佐さとう藤太たへい兵衛三みかみ上彦ひこくろう九郎佐藤は佐さどのくに渡国出身 三上は相内太田村出身 寛文三年(一六六三)芦野村を開拓した 中里神明宮

9 中泊偉人伝人ものがたり 9 杉すぎやま山茂しげ太たえもん右衛門明暦二年(一六五六)豊とよた田村(後の今いまおか岡村)を開拓した 瀬せの野有ありえもん右衛門葛かさい西太たえもん右衛門神かみやま山村(五所川原市)出身 寛文五年(一六六五)福井村(後の田茂木村)を開拓した 高たかまつ松喜きざえもん三右衛門田茂木村出身 明和二年(一七六五)苗字帯刀を許され 金木組仮手代に任じられた 武たけだげんざえもん田源左衛門(定清)承応2(一六五三)~正徳2(一七一二)弘前藩士 南部櫛引(現八戸市)出身櫛くしびきたてさだ引建貞の子で 当初は櫛引孫次郎 後に武田定清と称した 源左衛門は別名 明治二二年(一八八九)旧金木新田の村々を統合して誕生した武田村(現中泊町)は 同新田の開拓 治水などに功績のあった武田源左衛門に因ちなんだ村名である 寛文二年(一六六二)家かとく督を相続 小禄ながら才器人に優れ 経済に長じていたため 四代藩主津つがるのぶまさ軽信政に取り立てられた 延宝二年(一六七四)岩木川穿ほりかえ替工事の総奉行 天和二年(一六八二)岩木川を一筋にする工事の総奉行に任じられ いずれも成功を収めた 貞享元年(一六八四)勘定奉行を命じられ 総奉行大だいどう道寺じはやと隼人繁しげきよ清 補佐間まみやもとめ宮求馬らとともに 貞じょうきょう享検けんち地の元もとじめ締役やくを務めた 同検地は極めて厳密に施行され 総石高は寛文四年(一六六四)と比較して 二倍近く増加した 農民の側からは 百姓殺し と罵ののしられ 係役人に対しては 新検地を打ち詰めたりや田口まで隼人が求馬罪は源左衛門 またとくに源左衛門に対しては 櫛引を捨てたるゆえに百姓の頭に虱しらみ武田源左衛門 という落首が投じられるほどであった 元禄三年(一六九〇)には元締役兼大目付に任じられるとともに 藩の財政を管轄する役についた 翌元禄四年には 五所川原堰の工事担当を命ぜられ 藤崎村から五所川原村まで約二〇キロに及ぶ堰を開通させたほか 金木新田の開拓や治水に大いに力を振るい 数々の功績を挙げた ところが元禄九年(一六九六)には 元げんろくききん禄飢饉の責任を追及され 元締役 大目付等諸役を免ぜられ 手廻番頭となる その後 信政が没し 信のぶとし寿が五代藩主となって間もない正徳二年(一七一二)には 笹ささもり森勘かげ解由ゆ左さえもん衛門へお預けとなり その年の二月一三日に その子次じぶざ部左衛えもん門とともに 切腹を命じられた その理由については 自らの功利のため上を軽んじ 京都 大坂における勤方不届のためとされているが 真相は不明である 菩提寺海かいぞうじ蔵寺(弘前市) 没年六〇 津つがるのぶまさ軽信政正保3(一六四六)~宝永7(一七一〇)四代弘前藩主 三代藩主信のぶ義よしの長男 幼名は平へいぞう蔵 母は信義の側室久くしょういん祥院 明暦二年(一六五六)一〇歳で藩主となったが 幼年のため 叔父信のぶふさ英が黒石 平内ほか五千石を分知され 後見人となった 万治元年(一六五八)従五位下越えっちゅうのかみ中守に任ぜられる 寛文元年(一六六一)山やまがそこう鹿素行に師事し 儒学 兵学を学ぶ 寛文一一年(一六七一)には 吉川神道の創始者吉きっかわこれたる川惟足に入門し 神道を会得した 藩政では 貞じょうきょう享検地をはじめとする検地によって財政の基礎を築き 各種の産業振興を図った また 新田開発を推進し 岩木川治水 屏びょうぶさん風山植林にも力を注いだ 富野の天台宗般はんにゃ若寺じには 金木新田開発に伴って岩木川治水工事を指揮した信政が 完成を記念して自ら植えたとされるイチョウの木( 般若寺イチョウ 中泊町指定文化財)が残されている 徳とくだ田伝でんべい兵衛江戸中期金木新田開拓の功労者 寛文一二年(一六七二)より長さ一三八一間( 約二 二キロ) の川かわ倉くら川 ならびに長さ二二一〇間( 約四キロ) の才さいノ神かみ川開削を指揮した 元禄一一年(一六九八)には 新田堰溜池大川堤奉行を仰せ付けられ 藤枝溜池 大沢内溜池 岩木川の堤防築堤などを手掛けた これらの工事の成功により 宝永二年(一七〇五)には 新村十八ヶ村 田方反別四三八町歩 畑方八四町歩からなる金木新田が成立した 享保五年(一七二〇)富野御おくら蔵奉行 同一二年(一七二七)に役職を退いた後も 在野にあって新田開発の指導者として活躍した 般若寺イチョウ武田源左衛門墓碑

10 10 10 中泊偉人伝人ものがたり 101 奈ならやさじへい良屋佐次兵衛十三町(五所川原市市浦)名主 奈ならしちごろう良七五郎の先祖 元禄四年(一六九一)初代作次兵衛が 大やまとのくに和国(奈良県)より津軽十三に移住した 長男作次兵衛は十三町で商業 二男は相内太田村(五所川原市市浦)で林業 三男は豊島村(中泊町)に移住して農業を営み 兄弟相助けて繁栄をはかったと伝えられる 鳴なるみ海勘かんべい兵衛?~享保6(一七二一)弘前藩士 本名清きよかた方 五所川原新田 金木新田開拓の功労者 祖父は神かみやま山館主左さきょうのすけ京亮で 浪岡北きたばたけ畠氏の家臣と伝えられる 父小こえもん右衛門清きよすけ祐の後を継いだ勘兵衛は 寛文五年(一六六五)津つがるのぶまさ軽信政から藩直営工事の開発派立頭を命ぜられ 延宝四年(一六七六)五所川原新田一五ヶ村の開拓に成功した 延宝三年(一六七五)五所川原御代官 貞享三年(一六八六)板いたやのき屋野木(板柳)御おくら蔵奉行に任じられた 元禄一一年(一六九八)には 深ふこう郷田だ新田(後の金木新田)開発御用を命じられた 藤枝溜池(五所川原市金木)や岩木川堤防を築造するなどして 宝永二年(一七〇五)には 新村十八ヶ村からなる金木新田を完成させた 昭和五五年(一九八〇)五所川原市役所内に 鳴海勘兵衛之碑 が建立されている 新にいおか岡弥やそう惣豊とよた田村(後の今岡村)出身 寛文五年(一六六五)福浦村を開拓した 野のろ呂半はんざえもん左衛門万治三年(一六六〇)豊島村を開拓した 川かわしま島七しちざえもん左衛門田茂木村の人 安永七年(一七七八)はじめて苗字帯刀を許された その子孫の七左衛門は 文久元年(一八六一)薄市村福ふく士しせんしち専七とともに漆苗を植付け その功によって再び苗字帯刀を許された 楠くすみたいそ美太素(荘しょうじ司)文化2(一八〇五)~明治5(一八七二)弘前藩参政 幕末期 藩の殖産興業に努めた 実名則のりとし敏 通称悠ゆうさく作 嘉永三年(一八五〇)荘しょうじ司と改め さらに太たいそ素と改めた また晦かいざん山と号した 安政六年(一八五九)楮こうぞ仕立ならびに紙かみすき漉座御用掛に任命され 楮に詳しい星ほしこうどう弘道に命じて 今泉村の一山に植え付けさせた 万延二年(一八六一)には 今泉鉄山の鉄山掛に命じられ 事業拡大に努めた 工くどうせんたろう藤専太郎豊島村の人 嘉永元年(一八四八)漆苗三万本植付の功により 苗字帯刀を許された 佐ささき々木文ぶんのすけ之助高根村郷士 天保年間苗字帯刀を許された 安政元年(一八五四)小こまた股川河口を掘替えて 内潟 十三湖 鳥谷川の川舟を通し 沿岸諸村に薪炭を供給した 佐さとうそうざえもん藤惣左衛門田茂木村の人 嘉永五年(一八五二)漆仕立の功によって苗字帯刀を許された 佐さとうろくざえもん藤六左衛門鈴すずき木又またすけ助坂さかもと本弥やのすけ之助鈴すずき木権ごんすけ助佐藤六左衛門は 文化元年(一八〇四)福ふくどまり泊村(後の長泥村)を開拓 天てんぽうききん保飢饉で廃村となるも 安政五年(一八五八)鈴木 坂本らが復興した 佐さとうろくろうざえもん藤六郎左衛門芦野村の人 享和三年(一八〇三)廃田開発の功により 苗字帯刀を許され 金木新田の仮手代役に任じられた 鈴すずき木治じざえもん三右衛門田茂木村出身 文化五年(一八〇八)御用芦取扱役に任じられ 苗字帯刀を許された 中なかじまやち島萢の芦を苅取り 作事方から預けられた三艘の川舟で 弘前家中へ届ける仕事に精励した 慶応元年(一八六五)には息子の峯みねのすけ之助が家督を継ぎ 芦萱扱を継承した 復興と産業振興 江戸後期 鳴海勘兵衛碑

11 中泊偉人伝人ものがたり 11 田たなか中清きよたざえもん太左衛門豊島村田中家の総本家で 弘化四年(一八四七)ころ苗字帯刀を許され 漆仕立役に任じられた 田たなか中庄しょうしち七富野村田中家の総本家 御目見郷士で その子定さだごろう五郎ともに漆役を勤めた 田たなか中助すけえもん右衛門大沢内村田中家の総本家で 文久年間(一八六一~)郷土を務めた 塚つかもと本藤とうくろう九郎福浦村出身の豪農 郷士 寛政八年(一七九六)新田開発の功によって 金木 金木新田両組の仮手代役に取り立てられた 苗字帯刀を許され 塚本藤とう兵べい衛と名乗った 同年暮れ 検けみ見役人を案内して川かわくら倉村(五所川原市金木)に赴いたところ 百姓達が逃げ隠れ 検見を受けなかったことから 手代の政道不ふゆきとどき行届によるものと責任を負わされ 鞭刑三鞭 三里四方追放処分を受けた 翌九年許され 再び両組仮手代に用いられ 塚本藤九郎と改名した 荒田開発に精励し 賞与下賜や弘前城における祝賀の宴参列などの栄誉に浴したが 文化六年(一八〇九)薄市川氾はん濫らんによる稲島流出の際の過大申告を咎とがめられ 再び追放処分となった ただし藤九郎の関与がなかったとして 翌七年三度金木 金木新田の手代役に復活した 文化一二年(一八一五)堤防欠壊への適宜な応急処置 ならびに文化一四年開拓の功労などの事由から 郷士に任じられた 長ながお尾周しゅうよう庸文化14 (一八一七)~明治19 (一八八六)弘前藩士 幼名礼れいじろう次郎 のちに又またえもん右衛門と称した 周庸は実名 長ちょうれい齢と号した 天保八年(一八三七)藩勘定人加勢となり 産物取扱方を勤め 下しもかわら川原焼やき 悪あくどやき土焼などを検分した 天保一四年(一八四三)新製甲冑出来方御用掛 文久元年(一八六一)にはこのころから生産量が増加傾向にあった今泉鉄山御用掛に任じられた なお 今泉鉄山は 今いまむらまん村万次じろう郎(弘前大おおつやいまむら津屋今村の分家)が 長崎で技術を学んだ鉄吹明みょう珍ちんじゅうきち重言とともに開発したと伝えられる 新にいおか岡仁にへい兵衛?~文化14 (一八一七)新田開発功労者 新岡家六代目 先祖は慶長五年(一六〇〇)津つがるためのぶ軽為信の留守中に反逆した板いたがきひょうぶ垣兵部らを討ち取った金こん小こさぶろう三郎信のぶのり則と伝えられる 小三郎信則は 慶長一四年(一六〇九)津つがる軽左さまのすけ馬助の反逆に連座して切腹したとされるが 一説には寛文元年(一六六一)飯いいづめ詰村(五所川原市)に隠いんとん遁 無役一〇〇石で新岡七しちざえ左衛門もんを名乗ったという 子孫は累代郷士となったが仁兵衛はその六代目である 文化元年(一八〇四)金木組中なかかしわぎ柏木村領の湿地開発を命じられ 募集した開発農民と共に開拓に尽力し 同六年(一八〇九)には三三町歩 六七軒の長ながとみ富村(五所川原市)を誕生させた また 高根村の開発にも携わったと伝えられる 平ひらさわ沢三さんえもん右衛門寛延元(一七四八)~文政7(一八二四)弘前藩士 木造新田開発功労者 平沢家三代半はんざえもん左衛門の長子として広ひろす須組大おおばた畑村(つがる市木造)に生まれる 幼名は吉三郎 後年三右衛門と改めた 宝暦一一年(一七六一)一三歳で諸普請見習役 明和七年(一七七〇)二二歳で家督を相続し 木造 広須 俵たわらもと元三新田の普請奉行添役となった 安永元年(一七七二)より新村四ヶ村 田地二万五千余人役を開発し その功で御目見以上となった また天明三年(一七八三)より寛政四年(一七九二)までの九年間に 飢ききん饉で窮きゅうぼう乏した荒田一万五九八四人役 二五ヵ村を復興し 寛政六年留守居一番組に昇進した 寛政九年(一七九七)処罰をうけ浪人の身となるが 再度登用され 享和三年(一八〇三)開発掛となり 文政元年(一八一八)までに広須 木造 金木新田など三万石余の増産に成功した 弘前市立図書館に 平ひらさわ沢三さんえもん右衛門申もうしでしんでんみわけ出新田見分所ところず図 が保存されている 平沢三右衛門申出新田見分所図 ( 弘前市立図書館蔵 )

12 12 12 中泊偉人伝人ものがたり 121 星ほし弘こうどう道常ひたちのくに陸国(茨城県)水戸出身の医者 幕末のころ 今泉村において和紙の原料となる楮こうぞの植林事業を実施した 弘前藩一二代藩主承つぐあきら昭は物産興業を目指し 和紙生産を計画した 安政六年(一八五九)楮仕立ならびに紙かみすき漉座御用掛に任命された用人楠くすみしょうじ美荘司は 楮に詳しい星弘道に命じて 今泉村の一山に植え付けさせた 前年弘前に来て医療に従事していた弘道は 居を今泉村へ移して楮の植林に尽力し この成功により津軽各地に植林事業が広がった 松まつはし橋半はんじゅうろう十郎/半はんじろう次郎/竹たけじゅうろう十郎開発功労者 先祖は関ヶ原合戦の落人と伝えられ 近おうみの江国くに(滋賀県)松橋村に在住 万治年間出でわのくに羽国(秋田県)荷船村に移転 さらに三代半十郎のとき津軽金木組今泉村に移住した 四代半十郎享保一二年(一七二七)富とみやち萢村(つがる市車力)に転住 庄屋となり帯刀を許された 五代半次郎宝暦九年(一七五九)庄屋となり 木きづくり造 広ひろす須両組諸山見継役として植林に尽力した 五代竹十郎天明三年(一七八三)木造 広須両組の諸山諸木館山見継役 寛政三年(一七九一)芦萢取扱役兼務となる 文化末年(一八一〇年代)には 千せんがん貫砂山屏びょうぶさん風山見継役兼樹芸方として植林に精勤した 文政四年(一八二一)郷ごうぐら蔵建設に尽し郷士となり 文政七年には下しもしげた繁田村(つがる市稲垣)開創の一員となった 宮みやこし越七しちべい兵衛尾別村の豪農 商人 先祖は 加かがのくに賀国(石川県)宮みやノ越こし出身 田畑を多数所有し 酒屋も営んだ 天保四年(一八三三)弘前藩より二百両の御用金を命じられ 明治維新の際は数町歩の田畑を献納した 荒あらき木源げんさく作/文ぶんきち吉小泊村出身の源作 文吉は 経営の奇才 荒木兄弟 として後世に伝えられている 兄源作安政5 (一八五八)~昭和14 (一九三九)漁場経営 政治家 小泊村生まれ 一三歳のころから父万まんすけ助に連れられ北海道余よいち市の鰊にしんば場で働き 明治五年(一八七二)沖おき村(余市町)に移住 鰊漁の傍ら木きちんやど賃宿を営み その利益で余市や忍おしょろ路(小樽市)に鰊建場を経営し富を得る 最盛期には余市の千石場所ローソク岩建場をはじめ 余市に六ヶ統 忍路に二ヶ統 湯ゆない内(余市町)に一ヶ統経営した 大正七年発行の 北海道百番付 によると源作は 漁業家番付 の百家中 西の一六枚にランクされている その後 町会議員 水産組合議員 学務委員 衛生組合長など歴任して地域行政にも貢献し 昭和一四年(一九三九)八一歳で死去した 弟文吉兄源作の招きに応じて余市に移り 明治三〇年(一八九七)分家独立 牧場および木材業 鮪まぐろ大謀網漁を経営 また鰊にしんば場経営に全力を注ぎ 明治から大正にかけて資産をなした 荒あらきともきち木友吉初代友吉?~明治40 年(一九〇七)漁場経営 政治家 小泊村出身 江戸末期 積丹半島美びくに国の小こどまり泊村(現積丹町)へ移住 同地で鰊場を二ヶ統経営したほか 利りしり尻島にも進出 鴛おしどまり泊(利尻富士町)の雄おうちしない忠志内にも六ヶ統漁場を経営して巨万の富を得た 明治七年(一八七四)美国郡副戸長および美国郡総代 明治一三年(一八八〇)には開拓使第五大区出でわ羽佐さたろう太郎(旧斗南藩士)区長ほかから その人物手腕を認められ 美国郡三小区と厚あつとま苫村 小泊村 船ふなま澗村三ヶ村の戸長に任命された 明治三五年(一九〇二)美国村会議員に当選 行政界及び漁業振興に貢献した 二代友吉二代友吉(本名慶けいきち吉)は先祖の意を継ぎ 鰊漁経営の傍ら政界に進出 大正四年(一九一五)美国町議会議員に当選した 磯いその野金きんべい兵衛八代金兵衛漁業経営 先祖は近おうみのくに江国(滋賀県)佐さわやま和山城主丹たんばのかみ波守磯いその野秀ひでまさ昌と伝えられる 子孫は足あし利かが将軍家に仕えたが 天正元年(一五七三)室町幕府滅亡に伴って各地を流転 播はりまのくに磨国(兵庫県)姫路に居を構えた 安永五年(一七七六)八代金兵衛の時に姫路から小泊村に移り 下前で漁業を始めた 鰊場の覇者 北の海にかける

13 中泊偉人伝人ものがたり 131 九代金兵衛文化2(一八〇五)~万延元(一八六〇)漁場経営 商人 小泊村下前生まれ 幼名金きんすけ助 若いころから勤倹家業に励むとともに 松前の鰊にしん漁場を経営して富を蓄えた 先祖が播磨国出身であることから 播はりまや磨屋 の屋号を名乗り 井いゲタニ の家印を用いた 積しゃこたん丹半島美びくに国鰊場を拠点に 江えさし差に支店を開き また十とさみなと三湊で酒造店を経営するなど 磯野家繁栄の基礎を築き 年頭御目見郷士 御用達 名字帯刀を許される家柄へと成長させた また 飢ききん饉時の救済 神社への奉納を熱心に行うなど 下前地域の発展に貢献した 伊いとう藤弥やそうじ惣治/廣ひろたろう太郎四代弥惣治小泊村の船主 船問屋 先祖は美みののくに濃国(岐阜県)出身で 享保頃(一七一六~)小泊に移住したとされる 美濃屋 を称し 江戸中期以降は代々弥惣治を襲名 天保一四年(一八四三)四代弥惣治は 太おお田たおとじろう音次郎とともに七ツ石崎台場大筒方下役に任じられた 六代廣太郎小泊漁業組合長 小泊村助役を経て 一〇 一一代小泊村長を務めた 伊藤家で所蔵する江戸後期~近代にわたる膨大な文書は 伊藤家文書 として 小泊村史 の中核をなしている 川かわむら村儀ぎへい兵衛/仁にへい兵衛江戸後期の小泊村庄屋 御用船頭 代々庄屋を務め 家宅は藩主の御宿本陣 役人指定旅館になっていた 弘前藩主 幕府巡検使ほか 伊いのうただたか能忠敬ら著名来遊家が止宿している 斎さいとうひこさぶろう藤彦三郎天保2(一八三一)~明治40 (一九〇七)鰊にしん角網を発明した漁業家 屋号 ヤマカギ の初代 脇わき元もと村(五所川原市市浦)出身 弘化四年(一八四七)一七歳のとき単身で松前に渡航し 鰊や鱈たらの漁に従事し やがて積しゃこ丹たんの出でさき岬村(積丹町)に漁場を構えて鰊建網の改良に打ち込んだ 明治一八年(一八八五)小泊出身の二代目秋あき元もときんしろう金四郎とともに定置角網(建網)の開発に成功し 鰊漁法に一大革命をもたらした 跡を継いだ丈たけお雄は 入いりか舸 余よいち市に計一九統を持つ大漁業家となり 昭和六年(一九三一)合同漁業会社を設立し 脇元村に豪邸を構えた 長ながさかしょうべい坂庄兵衛文政9(一八二六)~元治元(一八六四)漁場経営者 材木商 貿易商 建設業者 小泊村下前出身 天保年間(一八三〇~四三)父長ちょうざえもん左衛門は西蝦えぞち夷地太田場所(せたな町)に漁場を開拓した 庄兵衛は父に従い美び国くに 積しゃこたん丹 後に独立して江えさし差で商売を行っていたが 陸上交通の不便さを痛感 山道開削を思い立つ 安政三年(一八五六)箱はこだて館奉行所へ山道開削計画書を提出 工事費用は江差の豪商鈴すず鹿かじんえもん甚右衛門が負担した 工事担当の庄兵衛は 津軽 南部 江差 能登などから二〇〇人の人夫を募り 熊くまいし石(八雲町)から寿すっつ都(寿都町)までの約一四四キロ区間を安政五年に完成させた その後も箱館奉行所より御用所建築 五稜郭築城や開削工事などを請負い 成功させた これらの業績により公儀御用達 名字帯刀を許され 士分扱いとなった また嘉永六年(一八五三)下前大火の際は 自分の山の杉を伐り出すとともに 金 筵むしろを供出するなど 故郷の復興にも尽力した 能のしろごんくろう代権九郎天保11 (一八四〇)~昭和6(一九三一)漁業経営者 漁法指導者 出でわの羽国くに(秋田県)能代出身 二〇代初めのころ小泊村に移住 貝類 海藻採取に用いる箱眼鏡の導入 建網設置法の指導など 小泊地域の漁業発展に貢献した 長男安太郎は小泊漁業組合長 村会議員を務め 小泊と三厩との漁業権境界問題に奔ほん走そうした 二男日出夫も 三重県志摩郡立水産学校長 三重県立志摩水産学校長 水産試験場長を歴任し 水産教育に貢献した 能のとや登屋清せいべい兵衛?~正保4(一六四七)鯵ヶ沢湊の船問屋 能のとの登国くに(石川県)からの移住者と思われ 代々能登屋清兵衛を名乗った 天明四年(一七八四)長ながさきたわらもの崎俵物(中国輸出品)請負人となり 北は小泊 下前から 南は大おおま間越ごしまで 西海岸の集荷を一手に引き受けた 磯野家住宅

14 14 14 中泊偉人伝人ものがたり 141 能のとやなへい登谷名兵衛鯵ヶ沢の漁師頭として慶長一四年(一六〇九)知行三〇石を拝領 寛文元年(一六六一)には 田舎館村ほか鯵ヶ沢村 関村 小泊村 種里村などに五〇石を賜った 長はせがわ谷川時ときいちろう一郎明治12 (一八七九)~昭和22 (一九四七)漁業経営者 小泊村出身 熊くまき木徳とくたろう太郎の長男時ときたろう太郎として誕生 七歳の時長谷川家の養嗣子となる 長谷川家は カネイチ の屋号をもち 初代久太郎は江戸後期から小泊で漁業を営んだ 二代久太郎から北海道礼れぶん文島船ふなどまり泊で鰊にしん漁場を経営 時太郎は 三一歳のとき時一郎と改名 三代目を継いだ 大正三年(一九一四)中継港整備 離島開発を目的として 松前西方沖五〇kmに位置する渡おしま島大おおしま島を二万円の大金で買い取った 同島にて 漁舎整備やキツネ繁殖事業 開発会社などを立ち上げるが 志半ば六九歳で没した 四代久太郎は 北海道 松前町の要望に応え 昭和四五年(一九七〇)松前町に大島を譲渡した 昭和五二年(一九七七)松前町大津ヶ浜に 大島開発の父 長谷川時一郎の英知と努力を讃えた 大島開発記念碑 が建立されている 秋あきもときんしろう元金四郎初代金四郎?~明治2年ヵ(一八六九)山林業 漁業 商人 出でわの羽国くに(秋田県)出身 江戸後期 山林造成を志し小泊村に移住 持山が一二ヶ所あったことから ヤマ十二 と称した 天保年間(一八三〇~四三)より和人地古ふる平びら場所群くき来(古平町)で鰊にしん漁を手掛けるとともに 安政三年(一八五六)には木枠に袋網を取り付けた鰊枠わくあみ網を発明した 枠網は 積丹場所の網元斎さいとうひこさぶろう藤彦三郎(ヤマカギ 脇元村出身)が大々的に採用したことによって 一気に広まった 万延年間(一八六〇~六一)には酒造りを兼業するとともに 呉服商 宿屋も経営し 秋元家隆盛の基礎を築いた 二代金四郎嘉永2(一八四九)~大正7(一九一八)漁場経営 政治家 嘉永二年初代金四郎とアネの長男として小泊村に生まれた 初代金四郎の跡を継いで 北海道古ふるびら平郡群くき来村(古平町)で鰊漁に従事した 鰊漁の漁法 漁具ならびに磯付魚類の習性などを調査 研究し 脇元村出身の斎さいとう藤彦ひこ三さぶろう郎(ヤマカギ)とともに定置角網(建網)を発明した 同網は 従来の刺さしあみ網を瞬またたく間に駆くちく逐し 北海道西海岸一帯に普及した 明治三一年(一八九八)四代小泊村長(初の平民出身村長)に就任 一期務めた 大正七年逝去 三代金四郎明治3(一八七〇)~昭和9(一九三四)漁場経営 政治家 明治三年二代目金四郎とヲリの長男徳三郎として小泊村に生まれた 小泊尋常高等小学校中等科卒業後 青森中学に進み 卒業後は漁場経営のため 北海道古ふるびら平郡群くき来村に住した 明治三一年(一八九八)古平郡漁業組合頭取となり 脇元村出身の斎さいとうたけお藤丈雄(斎藤彦三郎の子)とともに漁法や漁具の発明 改良に努める 明治三五年(一九〇二)群来村から積しゃこたん丹郡来らいきし岸村(積丹町)に移り 来岸 西にしかわ河 草くさない内三ヶ統の鰊漁場を経営 また未墾地の払い下げを受け 農業 牧場も手掛けた 大正九年(一九二〇)には 余よべつ別村に水力発電所を建設した この間余別村会議員 積丹水産組合副組合長 余別漁業組合理事長 積丹救済所長 余別消防組頭等を務める 先代金四郎の逝去を契機として大正八年(一九一九)小泊村に戻り 小泊村議員 北津軽郡会議員に就いた 大正一〇年(一九二一)には十二代小泊村長に就任し 手工業 植林 新田開発など産業育成に努めるとともに 小泊漁港修築工事を強力に推進 同近代化の推進

15 中泊偉人伝人ものがたり 151 一二年竣工に至る 同年には冬部川上流に水力発電所を建設し 小泊 脇元両村に千二百灯の電灯を灯ともした 大正一三年(一九二四)には五所川原 小泊間で乗合自動車を開業 昭和に入ってからも漁業組合理事 信用組合長 森林保護組合長 青年団長などを歴任し村発展に尽力 小泊村中興の父 と讃えられた 昭和六年(一九三一)三期一一年間務めた村長を退任 昭和九年六四歳で死去 葬儀は村葬をもって行なわれた 日本海漁火センター前に銅像が建立されている 阿あべ部権ごんじゅうろう十郎自治功労者 深ふ郷こうだ田村出身 明治四四年(一九一一)中里村役場書記を振り出しに 昭和八年(一九三三)から同二一年(一九四六)まで中里村(昭和一六年から中里町)助役の要職につき 地方自治に貢献した この間昭和謝恩会 県町村長会 県知事 農林大臣 内閣統計局等からその功を表彰された 退職後は人権擁護委員を務めた 井いぬまかくごろう沼覚五郎安政5(一八五八)~昭和10 (一九三五)政治家 中里村出身 村政に参与し 大正八年(一九一九)郡会議員となった 井いぬまますたろう沼益太郎明治6(一八七三)~昭和21 (一九四六)中里村出身の実業家 政治家 江戸時代より続く中里の素封家 井沼家の総本家 東奥義塾卒業後 村助役 村会議員 郡会議員を務めた 大正一四年(一九二五)には七代中里村長となり 一期在職した また西北五地方における養よう蚕さんの先駆者であり 私財を投じて養蚕の普及に努めた 大おおかわしょういち川正一明治10 (一八七七)~昭和35 (一九六〇)自治功労者 富野村出身 明治高等小学校卒業後 武田村役場に入り 明治四〇年(一九〇七)収入役 大正二年(一九一三)には助役に就任し 村政に精励した 昭和四年(一九二九)その功績が認められ青森県知事より表彰 在任中は 在郷軍人会武田分会顧問 青年団幹事 農会副会長等の要職を務め 退職後も 金木町役場 板柳町助役 町立病院事務長 津軽信用金庫等を歴任し いずれも治績をあげた 加かとうさだしろう藤定四郎自治功労者 中里村出身 加藤家の分家加納屋の主人で 本家八右衛門家が家運を傾けた後 一族の柱石となった 明治七年(一八七四)学校営繕世話掛となり 次で村会議員 郡連合会議員 中里村総代人 郷倉取扱人 学務委員 北津軽郡連合村会議員などの公職を歴任し 幕末の代庄屋時代から 明治初期の改革時代を通じて 地域発展に尽力した 古こがわまつたろう川松太郎明治8 (一八七五)~昭和43 (一九六八)政治家 尾おっ別ぺつ村出身 年を重ねるごとに頭角をあらわし 区会議員 区長 学務委員 森林組合長 村会議員 郡会議員を歴任 昭和一三年(一九三八)七代内潟村長に就任した 村長時代 自席でシャツの虱しらみを取っていたところ 県庁の役人が突然来訪し 慌てて居住まいを正したというエピソードがある 退職後は 長老として尾別集落を統率し 見事な采配ぶりを発揮した また臂ひりょく力に優れ 七十歳を過ぎても一俵の米を軽々と担いだとされる 昭和四三年(一九六八)九一才で没した 坂さかもと本弥やざえもん左衛門文政6(一八二三)~明治29 (一八九六)田茂木村出身 長らく惣そうだい代を務めた後 明治二四年(一八九一)第一回青森県会議員選挙に当選した 誠実明朗で座談に長じ 信望が厚かったとされる 佐ささき々木惣そうしち七大正時代 内潟村高根地区においてはじめて植林事業を行い 高根保安林の基礎を築いた 昭和一四年(一九三九)下高根集落南口に 頌しょうとくひ徳碑が建立された 佐々木惣七碑

16 16 16 中泊偉人伝人ものがたり 161 神じん武たけいち一明治2(一八六九)~昭和4(一九二九)在宅士族神じん八はちだ大夫ゆうの子として薄市村に生まれた 武一は若い時分より人望があり 地域住民に敬服されていた 長らく村会議員の職にあり 政敵成なりたたけじろう田竹次郎とともに内潟地域の発展に貢献した 昭和四年(一九二九)五代内潟村長に就任したが 病気のため僅か三ヶ月後 六一歳で他界した 葬式は 内潟村最初の村葬で営まれた 竹たけうちしょういち内正一明治43 (一九一〇)~平成9(一九九七)若わかみや宮(竹田)開拓団団長 愛知県出身 名古屋の工業学校卒業後 トヨタ自動織機株式会社(現トヨタ自動車)に入社するも 徴兵によって軍隊生活を送った 戦後は 夫人の郷里武田村富野に寄寓し 十三湖干拓建設事業に伴う入植を志した 広大な湿原の開拓は苦難の連続であったが 五〇戸の入植者をまとめ上げ 自他共に認める開拓団のリーダー的存在となった 自身は農業経験が殆どなかったが 記録 計測 観測等を重視した実証的かつ機械化農業を志向した そして それらのデータを根拠として 行政へ組織的な陳情を展開 続々と大型補助事業を誘致し 現在の美田地帯の礎を築いた 塚つかもとけんざぶろう本健三郎明治29 (一八九六)~昭和28 (一九五三)教育者 政治家 武田村福浦出身 青森師範学校卒業後 金木第一 富野尋常小学校訓導を経て 二七歳で武田尋常高等小学校長となり四年務めたが 病のため退職 以後 養鶏の振興に努め ふ化 育雛の機械化 多産品種の導入を進め 県下産卵共進会で優勝した 村の自力更生団長を務め 村民の教化運動に尽力した その後 村の産業組合長となり 武田村会議員を経て 四 七代武田村長 村農会長 郡農会副会長 武田村教育委員長等を歴任し 誠実な人柄が信望を集めた 中なかいまさごろう井柾五郎文久3(一八六三)~昭和12 (一九三七)今別村長 富野村出身 酒造業を営む能のとや登屋庄しょうえもん右衛門の子として生まれたが 今別村の素封家吹ふきたわすけ田和助の二女しでと結婚 実家の姓である中井を名乗った 村会議員から消防組頭 東津軽郡会議員へと進み 大正六年(一九一七)から四期今別村長を務めた 在任中 今別電燈株式会社 上磯汽船株式会社を創立するとともに 上磯鉄道期成同盟会を結成し 今日の津軽線開通の基礎を作るなど上磯地方の交通整備に尽力した 昭和に入ってからも 今別営林署の誘致や大川平 二股木炭信用販売購買利用組合の運営にあたり 地方産業開発に努めた 中なかじま島於おとた菟太慶応3(一八六七)~昭和12 (一九三七)技師 青森出身 函館鉄道株式会社技師 東京府工手 山形県工手を経て 青森県属 小泊港湾築港事務所長を務めた 奈ならしちごろう良七五郎明治12 (一八七九)~昭和11 (一九三六)自治功労者 豊島村出身 先祖は 相内太田村から江戸中期に豊島に移住し 代々庄屋を務めた家柄である 七五郎は 弘前中学を卒業して代用教員となったが 日露戦争で応召入隊し 陸軍中尉となる 帰郷後の明治三九年(一九〇六)三代武田村長に就き 以来二九年の長きにわたって在任 開拓事業や治水事業に取り組むとともに 社会教育事業にも深い関心を寄せ 産業組合を起して自ら組合長を務めた また明治四四年(一九一一)北津軽郡会議員 大正四年(一九一五)には県会議員に当選した 村民からは 津軽の二宮尊徳 とまで称えられ 村民並びに関係団体の発議で 生存中の昭和一〇年(一九三五)顕けんしょう彰銅像が建立された 村を見守っていた銅像は 太平洋戦争最中の昭和一八年(一九四三)供出され 台座 銘板のみが残された 昭和二六年(一九五一)久しく主を失っていた台座に 時の総理大臣吉よしだ田茂しげる揮きごう毫による寿じゅぞうしひ像址碑が建立され 現在に至っている 奈良七五郎像寿像址碑

17 中泊偉人伝人ものがたり 171 鳴なるみぶんしろう海文四郎明治28 (一八九五)~昭和52 (一九七七)教育者 内潟村長 中里町長 内潟村出身 旧姓宮越 郡立農学校(五所川原農林高校)卒業後 同校助手 代用教員 岩手県師範学校教諭心得兼舎監を務める 昭和一二年(一九三七)応召し満洲へ出征 陸軍大尉で終戦を迎えた 復員後の昭和二六年(一九五一)十二代内潟村長に就任した 同三〇年(一九五五)には旧中里町 内潟村 武田村の一町二村が合併して誕生した初代中里町長に選出され二期務めた 昭和三八年(一九六三)には 青森県議会議員に当選し一期務めた 長はせがわ谷川武たけいち一明治25 (一八九二)~昭和47 (一九七二)教育者 小泊村長 沿そいかわ川村(現板柳町)出身 青森県師範学校卒業後 明治四五年(一九一二)小泊尋常高等小学校訓導となり やがて小泊村の長谷川家に婿入りした 北五地域の小学校長を歴任し 小泊国民学校長を最後に退職した その後 二一 二二代 二四 二五代の通算四期にわたって小泊村長を務め 漁港整備や教育環境の整備 災害復旧 防災対策等に奔走した 藤ふじたけいよ田啓代明治40 (一九〇七)~昭和60 (一九八五)教育者 小泊村長 小泊村出身 北海道利尻に鰊にしん漁場を営んだ網元藤田家に生まれた 青森県師範学校卒業後 大正一五年(一九二六)下田尋常小学校(現おいらせ町)訓導を振り出しに 中泊地域の中学校長を歴任した その後 二六 二七代 二九代の通算三期にわたって小泊村長を務め 漁港整備や産業振興 教育施設の整備 文化財保護活動の推進等に尽力した 旧小泊診療所跡地に 自作自筆の俳句が刻まれた顕彰碑が建立されている 堀ほりうち内利としや弥明治31 (一八九八)~昭和28 (一九五三)内潟村長 岩崎村長 郷土史家 岩崎村出身 昭和六年(一九三一)岩崎村長に就任 五能線開通 岩崎港整備などを推進した 昭和一六年(一九四一)には八代内潟村長に推され 一期務めた その後県翼賛壮年団の要職に就いたが 戦後追放令で公職を退いた 前まえだ田良りょうへい平安政元(一八五四)~昭和11 (一九三六)小泊村長 深ふこう郷田だ村出身 阿あべ部多たきち吉の長男 幼名菊きくじろう次郎 小泊砲台へ赴任途中の砲台長前まえだりょうた田良太郎ろうの目に留まり 一四歳で養子となった 自らも小泊砲台場守備要員となり 明治三年(一八七〇)砲台が廃されるまで勤務した 明治一三年頃から漁業振興のために奔走 明治二七年(一八九四)小泊村収入役 同三二年北津軽郡議 三六年には郡会副議長となる 明治四三(一九一〇)年から大正五年(一九一六)まで二期 八 九代の小泊村長を務めた 在任中は郡議を兼務し 小泊 相内小林区署を小泊村山口に統合設置 また小泊 折おり戸と間道路を整備した 三厩村竜たっぴ飛集落との漁業入会問題や境界確定問題に取り組む一方 山林資源開発を進め 林業や漁業の振興に貢献した 松まつだ田良りょうざぶろう三郎弘前藩士 教育者 初代中里村長 弁護士松まつだたけのじょう田武之亟の父 また川かわ口ぐちえいのしん栄之進を養育した 明治七年(一八七四)宮野沢村に在宅し 同三八年(一九〇五)青森町に転居するまで三一年間にわたって居住した 自宅に教育所を開き 地域の子弟を教授した 第二の他山先生(工くどうたざん藤他山) とも崇められ 小学校開設後も 松田の徳を慕って教えを請うものが少なくなかったという また 第三十九小区副戸長を務めるなど 明治前期の村政にも寄与し 明治二二年(一八八九)には 初代中里村長に就任した 穏居後は 宮山の樵そまふ夫 と号して門弟の教育を継続するとともに 謡曲や剣術も授けた また書を良くし 士幹 の号により神社の職 社号などを多く手掛けている 藤田啓代顕彰碑

18 18 18 中泊偉人伝人ものがたり 181 山やまざきせいいちろう崎精一郎万延元(一八六〇)~?内潟村長 弘前出身 父忠之進について漢学を修め 明治一六年以来南津軽郡役所 北津軽郡役所に勤務したが 同二〇年青森裁判所に転じた その後 弘前区裁判所板柳出張所 同金木出張所などに勤務し 退職後の明治四四年(一九一一)三代内潟村長に就任し 一期務めた 山やまなかただよし中忠吉明治17 (一八八四)~昭和29 (一九五四)小泊村長 大鰐村出身 私塾に学び 日露戦争に出征 帰還後青森県巡査に採用された 職務に精勤 昇進も早く数年後には刑事課長となり 昭和二年八戸署長 同四年警視に昇任 弘前署長となった 退職後 昭和一〇年満洲国官吏として渡満 続いて上海の警察界に入り 帰郷して昭和一八年(一九四三)二〇代小泊村長に就任した 米よねづか塚弥やごへい五兵衛慶応3(一八六七)~大正14 (一九二五)開拓 自治功労者 豊岡村出身 村内随一の地主の生まれ 村内若わかまつ松の湿地帯を開拓したほか 多くの廃田復興を手がけた 武田村会議員 北津軽郡会議員等を歴任した 秋あきもときんのすけ元金之助明治26 (一八九三)~昭和32 (一九五七)警察官 自治功労者 武田村富野出身 五所川原農学校中退後 武田村役場を経て 警察官となった 青森署勤務を振り出しに 野辺地署長 田名部署長 八戸署長などを歴任後 大陸に渡り 満洲国警察官僚 青島特別市警務総隊長として活躍した 戦後は 青森市復興部次長兼水道課長として市の復興に努めた 昭和二六年(一九五一)以降相次いだ武田村と車力村間のアシガヤ採取を巡る紛争 いわゆる 昭和アシガヤ事件 の際には 武田村代表として事件の早期解決に奔走した 阿あべむちお部武智雄文久元(一八六一)~昭和6(一九三一)政治家 七ななわ和村羽はのきざわ野木沢(五所川原市)出身 旧名喜きよきち代吉 青森県師範学校卒業後 羽野木沢小俵たわらもと元分校に勤務したが 北津軽郡長工くどうゆきもと藤行幹の勧めで政界を志した 七和村議 七和村助役を務めた後 明治二二年(一八八九)北津軽郡会議員 同四四年(一九一一)には郡会議長に就任した このころから憲政本党公認で県議会に進出 大正四年(一九一五)には県会議長となり 憲政友会青森県支部長竹たけ内うちせいめい清明とともに 県政界の実力者として活躍した 大正六年(一九一七)には衆議院議員となり 二期在任した この間 工藤行幹の遺志を継いで 岩木川改修事業に奔走した 明治四三年(一九一〇)津軽一市四郡の県会議員 市町村長 貴衆両院議員ほか有力者に呼びかけ 岩木川改修期成同盟会 を結成 自ら会長となって政府並びに両院に働きかけた その結果 大正六年(一九一七) 岩木川改修計画書 が提出され 翌七年今日まで続く大事業が着手されるに至った 晩年は工藤行幹の伝記編纂に努力したが 志半ばで病没した 著書に 羽野木沢尋常高等小学校々誌 七和村誌 がある 狼おいのながね野長根公園(五所川原市)に昭和七年(一九三二)顕彰碑が建立された 岩いわぶちけんいち淵謙一明治29 (一八九六)~昭和34 (一九五九)医師 農民運動家 弘前藩士で車力村医であった与よそう惣平へい 母百代の長男 弘前中学から日本医学専門学校(現日本医科大学)へ進学し 卒業後父の跡を継いで車力村医となったが 困窮した農村の実態に接し 実弟謙けんじろう二郎とともに 社会運動に傾斜していった 大正一三年(一九二四)謙二岩木川とともに生きる阿部武智雄碑

19 中泊偉人伝人ものがたり 191 郎や大おおさわきゅうめい沢久明(喜代一)らとともに 県下初めての農民組合を車力村に 続いて武田村長なが泥どろに組織し 小作料減免 土地取り上げなどに対する争議を指導したが 昭和二年(一九二七)村を追放された 移住先の八戸でも 警察の監視と弾圧をうけながら諸活動を続け 昭和五年(一九三〇)には 無産者実費診療所 産児調節相談所を開設 低所得者の診療を行った 戦後は県地方労働委員会副委員長 社会党県本部執行委員長を歴任し 八戸市長選にも出馬したが 惜敗した 昭和三三年(一九五八)社会党を脱党し 以後松川事件対策八戸協議会長 平和と民主々義を守る八戸市民会議議長 八戸日朝親善協会長など 諸分野で活躍しつつ 六三歳で死去 偉大な人道主義者として讃えられている 岩いわぶちけんじろう渕謙二郎明治36 (一九〇三)~昭和42 (一九六七)農民運動家 車力村出身 車力村医与よそうへい惣平の二男 岩いわぶちけんいち淵謙一の実弟 法政大学在学中社会主義に接し 農村問題に関心を深めた 社会科学学生事件に連座して退学 帰郷後兄謙一を説得し 協力して農民運動を展開 大正一三年(一九二四)九月一三日県内初の小作組合を車力村に結成した 日農関東同盟の浅あさぬまいねじろう沼稲次郎 北部無産者の大おおさわきゅうめい沢久明らも駆けつけ 翌一四日には岩木川改修に伴い水没の危機にあった武田村長なが泥どろでも 大沢久明などと共に農民組合を立ち上げた 謙一が八戸に移住した後も 小作争議の指導を続け 昭和四年(一九二九)には車力農民学校開設 全農青森県連書記長 労農党県委貫長兼党中央執行委員長を務めた 戦時中は活動休止を余儀なくされたが 昭和二一年(一九四六)運動を再開 翌二二年社会党から県議に当選 社会党県連委員長 左派社会党八戸支部長などを歴任した 晩年は酪農経営に専念し 六三歳で生涯を終えた 大おおくぼ久保清きよなが長初代岩木川改修事務所長 三重県出身 東京大学卒業後 内務省技師として活躍 明治四〇年(一九〇七)青森県嘱託となり 十三湖水戸口閉塞 上流湛水 塩水逆流などの水害について調査を行った さらに明治四四年(一九一一)より大正四年(一九一五)まで岩木川全地域を測量調査して治水計画を策定 大正六年(一九一七) 岩木川改修計画書 を提出した 大正七年(一九一八)岩木川改修工事着工に際し その初代所長となって計画実現に務め 約一〇年間在職した 工くどう藤行ゆきもと幹天保12 (一八四一)~明治37 (一九〇四)弘前藩士 自治功労者 政治家 弘前生まれ 弘前藩の儒者櫛くしびきしゃくさい引錯斎の二男 幼名峰みねじろう次郎 後に弘前藩士工藤秀四郎の養子となる 藩校稽けいこ古館かんに学び 漢学に加えて数学 兵学をおさめた 戊ぼしん辰戦争の際は 新政府への対抗を目的として奥羽諸藩の同盟論を唱えたため 後に新政府軍に帰順した弘前藩によって幽閉された 赦免後は 函館戦争等に参加した 明治二年(一八六九)公議所(立法府)書記に選出され上京 民部省及び三重県で任官した 明治一一年(一八七八)帰郷して北津軽郡長に就任 一九年(一八八六)からは西北両津軽郡長を兼任し 岩木川改修請願運動を推進した 明治二一年(一八八八)官を辞し 大同団結運動に参加 その後東奥日報社社長を経て 二三年(一八九〇)衆議院議員に立候補して初当選 以後死去するまで九回にわたって連続当選を果たした 常時居間に岩木川流域の大地図を懸けて 治水解決を念願したが 明治三七年(一九〇四)芝区桜川(現港区)の自宅で急死した 弘前公園護ごこく国神社境内に 中里村出身の外とのさきかく崎覚撰文 犬いぬ養かいつよし毅(後に総理大臣)書による顕彰碑が建立されている 長ながはま浜時ときお雄二代岩木川改修事務所長 大正八年(一九一九)京都大学を卒業すると同時に内務省に入り 岩木川改修事務所に赴任した 大おおくぼ久保清きよなが長所長の下 十三湖水戸口閉塞を防止する突堤の設計 工事などを手掛けた 突堤工事は前例がなく 設計施工に苦心したと伝えられる 水戸口から日本海に突き出す突堤は 大正一五年(一九二六)着工 昭和二二年(一九四七)完工に至った 以来現在に至るまで 水戸口の閉塞は見られず 長浜の設計の優秀性が確認された 十三湖水戸口突堤

20 20 20 中泊偉人伝人ものがたり 202 円えん空くう寛永9(一六三二)~元禄8(一六九五)江戸前期の遊行僧 造仏師 美みののくに濃国(岐阜県)出身 太田セチ氏(小泊)所蔵 円えんくうさくもく空作木造ぞうだんしんぞう男神像 (県重宝)の製作者 天台宗高こうでんじ田寺(愛知県)で修行 しばしば洞どうくつ窟に籠こもり 窟いわやしょうにん上人とも称された その後 美みの濃 飛ひ騨だから関東 東北 蝦えぞち夷地(北海道)で布教活動を行う傍ら 数千点に上る仏像 神像を製作した 晩年は郷里に帰り弥み勒ろくじ寺(岐阜県)を再興 六四歳で没した 円空の彫像は鉈なた造りとよばれる荒々しい刀痕が特徴であり 円えんくうぶつ空仏 と通称される 仏像が殆どであるが 小泊のものは東北地方唯一の神像であり 貴重である 金かなさわかいおん沢海音文政5(一八二二)~明治36 (一九〇三)僧侶 富とみやち萢村(つがる市車力)に生まれる 弘前の浄土宗貞てい昌しょうじ寺で修行し 小泊村海かいまんじ満寺二十四世住職となる 在職中 小泊川流域の農地造成や 海岸部の埋め立てによる宅地造成などを実践した また傾かたがり石いし山地に金鉱山を発見し 発掘採鉱にも従事するなど 布教の傍ら 小泊地域の産業開発に尽力した 楠くすみ美龍りゅうしょう祥明治4(一八七一)~昭和19 (一九四四)浄土宗正しょうがくじ覚寺(青森市)三十一世住職 七ななわ和村高こうや野(五所川原市)楠くすみ美儀ぎすけ助の二男 一四歳で先師龍りゅうべん弁について得とく度どし 長じて大だいぜんじ善寺(板柳町) 薬やくおうじ王寺(板柳町) 善ぜんどうじ導寺(深郷田)などの住職を経て 大正三年(一九一四)正覚寺住職となった 浄土宗会議員三期 一宗最高の機関の審議員 顧問を務め その功績に対して管長から正僧正讃教の僧教階に叙せられた また浄土宗東北連合会議長 青森仏教会長 青森県慈晃会理事等の要職を歴任した 工くどうよすけ藤与助(日にちりょうしょうにん諒上人)天保11 (一八四〇)~大正11 (一九二二)僧侶 高根村生まれ 幼名与助 子供の頃から英才の誉れ高く 一三歳で父と共に日蓮宗の本山参りを遂げ その帰途 妙みょうこうじ光寺(板柳町)で得とくど度し 唯いじょういん乗院日にち諒りょうと号した その後 感かんのうじ応寺(弘前市) 日にっしょうじ精寺(大鰐町) 本ほん迹じゃくいん院(弘前市) 法ほうりゅうじ立寺(弘前市)などの住職を歴任した その後水戸の大学林教授となり 次いで日蓮宗本山本ほんまん満寺じ(京都府)五七世貫主となった 本満寺においては四四年間在職し 後年大僧正へと昇った 熊くまき木長ちょうまつ松(日にちげ解上しょうにん人)天和元(一六八一)~安永4(一七七五)僧侶 小泊村生まれ 越えちごの後国くに(新潟県)から小泊に移住し 開田 山林造成 蝦えぞち夷地(北海道)との交易を業なりわいとしていた熊くまきじろう木次郎左ざえもん衛門の長男 幼少より書に優れ 日蓮宗本ほんぎょ行寺うじ(弘前市)で修行中 九歳にして席せきがき書を天覧に供した のち日蓮宗本山妙みょうかくじ覚寺(京都府)にのぼり 唯いみょう妙院いん日にちげ解と号するとともに 中村檀だんりん林(千葉県)で勉学に励み 八三世化け主しゅ(住職)となった 寛延二年(一七四九)日解上人は 日蓮宗本山立りゅうほんじ本寺(京都府)から 日蓮宗大本山大だい光こうざん山本ほんこくじ圀寺(京都府)二九世院いんじゅ主に昇進 日にちげそうじょう解僧正となる 本圀寺は 康永四年(一三四五)足あしかが利尊たかうじ氏の叔父日にち静じょうしょうにん上人が開山した寺で 末寺は六〇〇を数え 日蓮宗総本山身みのぶさん延山久くおんじ遠寺(山梨県)を凌ぐ勢力であったという 貞てい伝でん上しょうにん人元禄3(一六九〇)~享保16 (一七三一)浄土宗始しがくさん覚山本ほんがくじ覚寺(今別町)五世住職 本覚寺二世良心安貞の弟子 師の誓せいがんじ願寺(弘前市)転住に同行し 一五歳からは専せんしょうじ称寺(福島県)で修学 享保三年(一七一八)本覚寺住職に就任した貞伝は 多たもん聞天てんどう堂の建立 本堂の再建 撞つき鐘がね鋳造など同寺の振興に努める傍ら 蝦えぞち夷地(北海道)布教 彫刻 仏像等の制作 漁法指導など多方面にわたって活躍し 現在でも外ヶ浜地域では崇敬の対象となっている 享保一二年(一七二七)貞伝は 古金物など七〇〇貫を募り 青せいどうとうば銅塔婆 (県重宝)を建立した さらに余った地金で 享保一五年(一七三〇)長さ一寸二分の阿あみだぞう弥陀像一万体 いわゆる 貞ていでんぶつ伝仏(万まんたいぶつ体仏) を鋳造し 誓願寺本堂復興のた円空作木造男神像 ( 県重宝 ) 青銅塔婆 ( 県重宝 ) 精神修養の巨人

21 中泊偉人伝人ものがたり 212 め 浄じょうざい財とひきかえに信者に与えたとされる 貞伝仏は 津軽地方を中心に 南は新潟県から北は北海道まで広範囲にわたって遺存が確認されており 中泊町でも一〇体が確認されている また 天明三年(一七八三)浄土宗善ぜんどうじ導寺(深郷田)住職廊かく道どうの開基建立と伝えられる西さいこうあん光庵(上高根)の本尊(石造阿弥陀如来坐像)も貞伝の作と伝えられる 中なかむらけいざぶろう村慶三郎明治20 (一八八七)~昭和29 (一九五四)仏師 彫刻家 号寿松 小泊村出身 父増ますたろう太郎は能のとのくに登国輪島出身の彫刻家で 三厩を経て小泊村に居住した 慶三郎は父増太郎に師事 浄土宗海かい満まんじ寺(小泊)の脇きょうじ侍観かんのんぼ音菩薩さつぞう像 勢せいしぼさつぞう至菩薩像(中泊町指定文化財)ほか 馬頭観音 釈迦如来 阿弥陀如来 日蓮聖人 鬼きしぼじん子母神 不動明王 光こうじょういん成院(下前)の地蔵尊 日蓮宗正しょうぎょうじ行寺(小泊)の三さんぽうそん宝尊像ぞう(共作)などを制作した 長はせがわ谷川ソハ明治35 (一九〇二)~平成2(一九九〇)小泊在住の著名なイタコ 車力村豊とよとみ富出身 羽場家の二女 一二歳の頃麻ましん疹にかかり半盲となる 一四歳で館たておかむらどう岡村筒木ぎざか坂(つがる市木造)のイタコ 三橋ハルヘ弟子入りする 大正一二年(一九二三)二一才の時 小泊の長谷川吉三郎へ嫁ぐ 昭和一五年(一九四〇)真言宗大だいぜん善院いん(五所川原市)より免許 金剛実戒 を授与され智ちりょう了と号する 昭和二七年(一九五二)イタコ組合を設立し 組合長に就任 昭和三九年(一九六四)業績が認められ 真言宗大本山国こくぶんじ分寺(大阪府)より大律師の僧階を授かった 平成二年八八歳で永眠した 愍みん栄ねい上しょうにん人?~享和3(一八〇三)浄土宗始しがくさん覚山本ほんがくじ覚寺(今別町)一三世住職 良序愍栄 小泊村出身 初め浄じょうまんじ満寺(青森市)臆おくどう道上人の弟子となり のちに本覚寺一一世良端愍みんこう鴻上人に入門 寛政元年(一七八九)同寺住職となった 愍栄は 本覚寺中興の祖貞てい伝でん上人の意をついで 布教の傍ら 竜たっぴ飛の石地蔵や藤ふじしま嶋(外ヶ浜町) 二ふたまた股(今別町)の観音像など彫刻 仏像等の制作ほか 昆布繁殖など漁業の振興にも尽力し 名声を得た また本覚寺背後の丘陵にある高こうやさんかんのんどう野山観音堂を復興したことでも知られる 同観音堂は 天長年間(八二四~三四)慈じかく覚大たいし師制作の十一面観音像を祀まつって草創されたとされ 津軽三十三霊場二十番札所に位置づけられる 寛政五年(一七九三)愍栄は荒廃していた観音堂を新築し 自ら彫った十一面観音の胎内に古仏を納めて 本尊にしたとされる 大おおにしとうきち西東吉明治39 (一九〇六)~昭和63 (一九八八)実業家 小泊村長 別名一世 慶応大学卒業後 株式会社大西一世経営の傍ら 明石建物代表取締役 リードミシン会社社長 芝浦製作所副社長 中島飛行機軍需省各嘱託 鋼帯倶楽部理事などを歴任した 昭和一三年(一九三八)同級生の角田助義 柳沢良三郎らと小泊尋常小学校ヘピアノを寄贈 翌一四年には奉安殿(天皇の御真影を安置する堂)を寄贈した 昭和一六年(一九四一)一九代小泊村長に就任 退任後も 東京で会社社長として活躍した 西光庵本尊阿弥陀如来貞伝仏 ( 町指定文化財 ) 観音菩薩像 ( 町指定文化財 ) 勢至菩薩像 ( 町指定文化財 ) 実業界の雄

22 22 22 中泊偉人伝人ものがたり 22 川かわぐち口栄えいのしん之進元治元(一八六四)~昭和23 (一九四八)弁護士 政治家 青森県弁護士会長 弘前藩士十じゅうのじょう之亟とつやの長子として弘前に生まれた 一家は 維新後原子村(五所川原市)に在宅したがまもなく十之丞は病死 栄之進は 宮野沢村在宅士族松まつだりょうざぶろう田良三郎(妻すゑは 栄之進の母つやと姉妹)に引き取られ養育された 明治一二年(一八七九)中里小学校卒業後 同校助教となり その後東京に遊学 立教学院に進んだ 卒業後司法省法学生となり 従いとこ兄の松まつだたけのじょう田武之亟(良三郎の子)法律事務所(横浜市)で弁護士資格を取得した 明治二三年(一八九〇)青森に帰郷して弁護士を開業 以来法曹界の重鎮として活躍した また青森市議会議員 県議会議員等を務め この間青森市会議長 青森商業会議所顧問などの要職についた 熱心なキリスト教信者としても有名 著名な植物学者郡こおりばかん場寛は娘婿である 菊きくちたけのり池武憲明治11 (一八七八)~昭和25 (一九五〇)弘南鉄道 弘南バスの創業者 大だいこうじ光寺村(平川市)に生まれる 菊池家は代々豪農で 郷士 大庄屋を務めていた 弘前中学校 青山学院専門部を卒業後 東京政治学校(衆議院議長を務めた星亨が主宰)に学んだ 在学中に中里村古こがわ川政まさたか孝の姉ジュンと結婚 卒業後帰郷してから 地主の父を助けて家業に励んだ 大光寺村村議 南津軽郡郡議 尾上銀行 陸奥銀行頭取を歴任 大正一五年(一九二六)には弘南鉄道初代社長に就任し 昭和二年(一九二七)弘前 津軽尾上間の鉄道開通を果たした 昭和一六年(一九四一)弘南バス初代社長を兼任するとともに 津軽尾上 黒石間の延長を企図したが 完成を前にして 昭和二五年(一九五〇)他界した 櫛くしびき引淳じゅんたろう太郎明治3(一八七〇)~昭和17 (一九四二)芦野村出身の電気技師 東京の物理学校に学び 明治三四年(一九〇一)米国総合電機メーカーウェスティングハウス エレクトリックに留学 同四二(一九〇九)年ウェスティングハウス電気技師の称号を得て 欧州外遊後帰国 テープ工場を創設した そのころ碓うすいとうげ水峠(群馬 長野)における日本最初のアプト式電車導入に参画 試運転に見事成功して称讃を博した 以降鉄道院に職を奉じ 米国製電気機械器具のテスターとなり 東京駅 永楽町変電所主任 本省詰等の任にあった 退職後は 西銀座に修電社を開設し 電機具類の製造販売を営む傍ら 横浜市鶴見町会長 横浜青森県人会長なども務めた 相撲術に長たけ 外遊中これを活かした武勇伝も語り草になっている 古こがわ川市いちさぶろう三郎慶応元(一八六五)~昭和4(一九二九)豪農 政治家 宮川村生まれ 村会議員 郡会議員を経て明治四〇年(一九〇七)県会議員に選出された また 大正一〇年(一九二一)より六代 八代中里村長を務めた 第五十九銀行 津軽鉄道重役も歴任し 実業界においても活躍した また西北産馬組合長として農事の改良 畜産の振興に尽力し 大日本農会より名誉賞を授与されたほか 車力村の鳴なるみれんのすけ海廉之助とともに金木競馬場(金木高校東側)建設に尽力した 競馬場には 古川 鳴海両氏の顕けんしょうひ彰碑が建立されたが 現在は芦野公園オートキャンプ場に遷うつされている 古こがわまさたか川政孝明治30 (一八九七)~昭和29 (一九五四)中里村宮川出身の実業家 市いちさぶ三郎ろうの長男として生まれた 旧制弘前中学校を卒業後 近このえへい衛兵に選抜され入隊 除隊後は帰郷して 中里体育協会長を務め グランドの新設などに尽力した また父市三郎の後を継いで 産馬事業も手掛け 地方競馬の育成に尽くした 実業界にあっては陸奥銀行取締役 津軽鉄道取締役などを経て 弘南バス社長に就任し 津軽地方の交通網完成のために専念した 琴きんこ古流を修めた尺八をはじめ 馬術 射撃 テニスなど多趣味でも知られていた 佐ささき々木喜きたろう太郎天保7(一八三六)~明治23 (一八九〇)実業家 五所川原佐々木一族の総本家 代々布ぬのやさんのすけ屋三之助を名乗り 屋号を 布ぬのさん三 と古川市三郎碑

23 中泊偉人伝人ものがたり 232 したが 喜太郎の代になって佐々木の姓を名乗った 酒造業を核として 米穀取引 小おぐに国(外ヶ浜町蟹田) 今泉の鉄山経営などを手掛けた 土地投資にも積極的に乗り出し 当時 大地を打つ槌は外れても布屋の見込みは外れぬ とまで讃たたええられた 娘婿佐ささき々木嘉かたろう太郎は 後に分家 布ぬの嘉か 繁栄の礎を築いた 佐ささき々木次つぐお男?~昭和26 年(一九五一)実業家 下高根出身 中里尋常高等小学校高等科卒業後 内瀉村役場に入るも 昭和二年(一九二七)岩手県雫しずくいし石営林省に転じ 同五年川井営林省事務官となった 昭和一二年(一九三七)東京都織田材木KKに入社 同一四年には岐阜県上宝町出張所長に就任した 同一七年(一九四二)同社を退職して 神岡町(飛騨市)に佐々木材木店を開業 成功を収めた 珍ちんだ田左さへい兵衛大正2(一九一三)~昭和50 (一九七五)実業家 中里村生まれ 本名操一郎 弘前工業学校四年修了後 家業の製材業に従事し 左兵衛を襲名した 以来 町議 議長 町農業会長 北津軽郡地区製材協同組合長 県製材協同組合連合会理事 町商工会長 町体育協会長 町教育委員長 町消防団長 津軽鉄道株式会社社長 同社会長を歴任するなど 中泊地域の政治 農林 商工業に尽力した 珍ちんだふくごろう田福伍郎県議会議員 中里村宮川生まれ 五所川原農学校卒業後 農村指導者養成所で研修 喜き良らいち市村(五所川原市金木)で製材所を経営する傍ら 農村の青年たちを指導啓蒙した 昭和二六年(一九五一)県議に当選 連続三期務める 県監査委員 自民党県連副幹事長など歴任 雄弁家として知られた 成なりたとくや田篤弥明治24 (一八九一)~昭和39 (一九六四)実業家 内潟村薄市出身 郷土史家成なりた田不ふじお二夫の父 青森中学校卒業後 五所川原でマルチンの屋号を掲げた自転車販売業を創始 東北 北海道のオートバイ競争大会を催して県下の同業者を驚かせた その後東北全域に商圏を拡大し ゼブラ自転車の東北総代理店へと成長させた 青森県自転車卸商業組合理事長 県交通安全協会長 市消防団長 商工会議所副会頭 簡易裁判所調停委員などの公職も務め 紺綬褒章 警察庁長官賞などを受賞した 鳴なるみ海周しゅうじろう次郎明治20 (一八八七)~昭和44 (一九六九)政治家 実業家 湊みなと村(五所川原市)生まれ 素封家平ひらやま山為ためのすけ之助の実弟で 旧制大館中より東京大成中へ転校 卒業と同時に海軍主計学校専科に進んだ 明治四〇年(一九〇七)牛うし潟がた(つがる市車力)の豪農鳴なるみ海廉れんのすけ之助の孫娘の婿養子となる 大正九年(一九二〇)鳴海家の当主になると 中里の古こがわ川市いちさぶろう三郎 金木の津つしま島源げんえ右衛門もん 実兄平山為之助らの資本参加を得て鳴海銀行を設立 頭取となった また 大正一一年(一九二二)青森銀行ほか七行で青森貯蓄銀行を設立 監査役に就任した 大正一四年(一九二五)多額納税者議員通常選挙に当選し貴族院議員となった 昭和三年(一九二八)には鳴海 五所川原 立誠の三行を合併して陸奥銀行を設立 実兄為之助が頭取 周次郎は取締役に就任するが 経済不況を乗り切れず昭和六年(一九三一)に解散した 一方金融業以外では 先代から引き継いだ小泊 中里 深浦の山林経営や畜産馬事業にも力を注ぎ 西北産馬組合長 地方森林会議員などを歴任した 終戦後は農地改革で多くの資産を失い 青森市に移住 幅広く各界の指導的役割を果たした 平ひらやま山為ためのすけ之助明治7(一八七四)~昭和35 (一九六〇)政治家 実業家 湊みなと村(五所川原市)生まれ 江戸時代より広ひろたぐみ田組手代 五所川原堰奉行 大庄屋などを務めた平山家一〇代当主 東奥義塾卒業後 慶応義塾大学中退 明治三六年(一九〇三)青森県議 明治四四年(一九一一)北津軽郡議 大正一三年(一九二四)衆議院議員を務めた 五所川原銀行取締役兼支配人 頭取 青森貯蓄銀行取締役 佐々木銀行取締役 鳴海銀行監査役 陸奥銀行頭取を歴任 地方金融の振興に寄与した また 陸奥鉄道株式会社の常務取締役 三代目社長 津軽鉄道株式会社初代取締役社長 産業組合立西北病院組合長を務めるなど 北津軽郡の地方交通 産業 医療の発展に貢献した 五所川原市湊に現存する旧宅は 昭和五三年(一九七八) 旧平山家住宅 として国の重要文化財に指定された

24 24 24 中泊偉人伝人ものがたり 242 平ひらやまなみさぶろう山浪三郎文久2(一八六二)~大正11 (一九二二)政治家 実業家 五所川原の素封家平ひら浪なみ家の三代目 旧名善吉 勤倹力行を重ね 布ぬのか嘉財閥に次ぐ県下第二位の平浪財閥を築き上げた 特に植林事業に力を注ぎ 梵ぼんじゅさん珠山麓の飯いいづめ詰地区から中里 相内方面まで広く開発投資を行った 大地主として 小作人や借家借地人に対する慈愛の念深く かつてその問に紛争を起こしたことはないとされる 五所川銀行頭取 相続税審査員 県森林会議員 産業調査委員などを歴任するとともに 大正六年(一九一七)には貴族院議員に当選した 奥おくた田順じゅんぞう蔵明治3ヵ(一八七〇)~昭和28 (一九五三)自治功労者 郷土史家 五所川原出身 北津軽郡書記から飯いいづめ詰村長となり一〇年在任 その後大正二年(一九一三)四代内潟村長となり 一六年間在職した その間内潟村村有財産の統一 納税完納などに努め 模範村へと導いた 郷土史 考古学の研究者としても著名で 十三史談会 津軽考古学会の結成ほか 青森県歴史調査委員を務めるなど 西北五地方の歴史研究に大きな業績を残した 葛かさい西国くにしろう四郎明治24 (一八九一)~昭和31 (一九五六)教育者 武田村福浦生まれ 明治高等小学校卒業後 試験検定で小学校本科正教員免許を取得 大正三年(一九一四)から教職につき 小学校訓導を経て 五所川原農学校教諭 田名部実科女学校教諭 八戸高等女学校長を歴任した その後 弘前和洋裁縫 東奥家政両女学校教員 五所川原公民館主事 五所川原高等学校講師に就任した また昭和二二年(一九四七)結成された津軽考古学会(奥おくたじゅんぞう田順蔵会長)の事務局を務めた 新興教育之理念 革新修身教育方法論 などの著書がある 葛かさい西耕こうほう芳慶応元(一八六五)~昭和28 (一九五三)教育者 実業家 神かみやま山村(五所川原市)出身 五所川原初等師範学校卒業後 富野小学校(現武田小学校)に赴任 二年後青森師範学校に入学し 卒業後県内各地の学校に赴任するも 明治二六年(一八九三)退職して北海道に渡った 翌二七年には千島列島を探険し 硫黄鉱の採掘等を行った その後は函館に移り 同港豊川町において倉庫業を始めるなど実業界で活躍し 北海道道会議員や函館貯蓄第百十銀行の重役などを務めた 柏かしわぎ木吾ごいち市明治19 (一八八六)~昭和48 (一九七三) 三陸植物志 の編集者 神奈川県出身 明治三八年(一九〇五)山林局林業講習所を卒業し 青森大林区署(現東北森林管理局青森支所)雇として採用 以降退官まで青森大林区署に勤めたが 明治三九~四三年には蔵館(大鰐町) 小泊小林区署に赴任した 昭和二年(一九二七) 放牧採草地分劃限定誌 (青森営林局)編さん 昭和一〇年(一九三五)榛しんばかせい葉可省局長の命により 三陸植物志 を編集発行した 木きむら村巌いわお昭和39 (一九六四)~ 金きんた多豆まめじょ蔵 人形芝居三代目 中泊町ふるさとイメージアップ大使 竹田開拓(田茂木字若宮)出身 明治四〇年(一九〇七)木造町(現つがる市)の野のろかすじろう呂粕次郎によって創始された 金多豆蔵 は 昭和一六年(一九四一)三みよし好村藻もがわ川(現五所川原市)出身の木きむらこうはち村幸八に継承された 戦後 木村幸八が金多豆蔵一座で活躍していた頃 竹田開拓在住の実弟木きむらしげなり村重成は 勘かん太たこんぺい金兵一座 を旗揚げし 独自に公演を行っていたが やがて活動を休止した 平成四年(一九九二)木村重成の子巌は 勘太金兵人形一座 を復興 その技量は木村幸八に評価され 同六年(一九九四) 金多豆蔵人形一座 三代目襲名を許された 平成二一年(二〇〇九) 津科学と文化の探求

25 中泊偉人伝人ものがたり 252 軽伝統金多豆蔵人形芝居 として中泊町無形民俗文化財に指定されるとともに 津軽中里駅構内にライブ公演会場 金多豆蔵人形劇場 シアター がオープンした 古こがわたけじ川武治大正7(一九一八)~平成16 (二〇〇四)彫刻家 日展参与 日彫会委員 中泊町運動公園にある井沼清七之像の制作者 弘前出身 昭和一七年(一九四二)文展初人選 以後 文展 日展に出品を続け 入選 特選を重ねる 日展会員 審査員など歴任 主な作品に 郷里出身の鏡かがみ里さと 初代若わかのはな乃花 栃とちノ海うみら歴代横綱の立像や 竹たけうちしゅんきち内俊吉元知事らの胸像などがある 白しろいわ岩貢みつぐ昭和41 (一九六六)~声楽家 教育者 小泊村下前出身 木造高校入学後 声楽家 指揮者である熊くまきせいじ木晟二の指導を受け 声楽を始める 玉川大学ならびに大東音楽アカデミーディプロマコース卒業後 東京の高校で教鞭を執りながら演奏活動をしていたが 声楽家への思いやまず 平成八年(一九九六)ドイツに留学 カールスルーエ国立音楽院卒業後 第五回国際芸術連盟新人オーディションに合格 コンクールで多数の賞を受賞し 平成一〇年(一九九八)帰国 翌一一年国際芸術連盟音楽賞を受賞した 現在青森大学で教壇に立つ傍ら 幅広く音楽活動を展開している 高たかはしちょうはち橋長八明治23 (一八九〇)~昭和49 (一九七四)農林技師 武田村豊島出身 武田村長 県議等を務めた奈なら良七しちごろう五郎の実弟 旧制木造中学から 仙台二高を経て東大農学部農芸化学科に進んだ 卒業後 同大学助副手兼東京農大講師となり 次いで福岡県農事試験場技師 茨城県技師 同県立農事試験場長 京都府立京都農林学校教諭兼舎監 同府立須知農林学校長を歴任 退職後は鐘渕紡績(後のカネボウ)株式会社理工科教習所教授を務め 帰郷後も武田中学校助教諭 組合立金木高等学校教育委員などの職に就いた 学者肌で信念を貫き通すタイプの指導者であった 正五位勲五等瑞宝章受章 高たかやましょうどう山松堂明治2(一八六九)~昭和34 (一九五九)弘前の書家で 高山文ぶんどう堂の長男 本名は亀きよさく代作 明治一七年(一八八四)県立師範学校を卒業し 習字科教員免許状を取得 県立弘前中学校で習字 国漢文を教授すること三〇余年に及んだ 津軽地方の社寺号や 奈な良らしちごろう七五郎銅像銘板 (富野)をはじめとする石碑などを多く手掛け 特に隷書に優れた 高たかやまぶんどう山文堂嘉永2(一八四九)~昭和16 (一九四一)弘前の書家 幼名は宗助 本名静 別名如禅 幼時佐ささき々木素そ堂どうに御家流を学び 若くして能書家との評判高く 一九歳時には右ゆうひつ筆の技量を越えていたとされる その後 弘前藩士小おさないき山内暉山ざんに書体八法 平ひらい井東とうどう堂に唐様を学び 書体が一変した さらに慶応末年 幕末の三筆 の一人巻まきりょうこ菱湖に私ししゅく淑し 自らの書風を確立した 藩校稽けいこかん古館で漢籍 習字 算数を学ぶとともに 同館書字典筆を務めた 中国東とうしん晋の書家王おうぎし羲之の書体を好み 和歌 詩文をよくした 日清日露戦争忠ちゅうこんひ魂碑や 源氏山又市関碑 (今泉)など 中泊地域においては文堂の書によるものが少なくない 田たむら村進すすむ昭和8年(一九三三)~教育者 彫刻家 小説 津軽 の像(小泊) ライオンブリッジモニュメント(下前)などの制作者として知られる 青森市生まれ 昭和三一年(一九五六)より青森市立野脇中学校(現青森市文化会館)に美術教諭として一〇年間勤務 その間 校内に多数の壁画を金多豆蔵人形劇場井沼清七之像源氏山又市関碑

26 26 26 中泊偉人伝人ものがたり 262 描く その後 県立青森東高等学校 県立青森高等学校に務め 県立青森第一高等養護学校校長を最後に退職 およそ四〇年にわたる教員生活の傍ら 創作活動を精力的に続け 数々の作品を発表 各所へ提供した 退職後も 青森市内のギャラリー 美術館で個展を開催するなど 第一線で活動を行っている 長ちょうさくぼう作坊津軽三味線奏者 長泥出身 本名太おおたちょうさく田長作 津軽三味線の二大潮流のひとつである 長ながどろて泥手 いわゆる 弾ひき三味線 の考案者 津軽三味線の創始者仁にたぼう太坊こと秋あきもとにたろう本仁太郎の弟子であり 一番弟子喜きのぼう之坊 嘉かせ瀬の桃ももこと黒くろかわももたろう川桃太郎 津軽三味線の神様白しらかわぐんぱちろう川軍八郎とともに 仁太坊門下の四天王と称された 徳とくとみそほう富蘇峰文久3(一八六三)~昭和32 (一九五七)近現代を代表する思想家 歴史家 評論家 吉よしだしょういん田松陰遊ゆうしょうのひ賞之碑 題字揮きごう毫者 文豪徳とくとみろ富蘆花かの兄 肥ひごのくに後国(熊本県)杉堂村出身 本名徳とくとみいいちろう富猪一郎 字は正しょう敬けい 筆名は菅すがわらしょうけい原正敬 大江逸 大江逸郎 号は山王草堂主人 頑蘇老人 蘇峰学人など 熊本洋学校 東京英学校 同志社英学校で学ぶ 故郷に帰省後 明治一五年(一八八二)大江義塾を開き その後出版した 将来之日本 が出世作となり上京 明治二〇年(一八八七)民友社を設立し 雑誌 国民之友 創刊 同二三年(一八九〇)には 国民新聞 を創刊し 日本言論界に不動の地位を築くとともに 門下から優れた文学者を輩出した 外とのさき崎覺かく安政6(一八五九)~昭和7(一九三二)中里村出身の漢学者 史家 藩校稽けいこかん古館の助教工くどうたざん藤他山の二男 幼名覚かくぞう蔵 後に外崎家を継ぎ 外崎覺かくと称した 東奥義塾に学び 一七歳で三さんじょうさねとみ条実美に立憲政治実施に関する建言書を提出した 川かわたたけし田剛 三みしまたけし島毅に学び 一時期 朝陽小学校 東奥義塾で漢学を教授した 歴史 考古学にも関心をもち 日本考古学の黎明期 明治二二年(一八八九) 東京人類学会雑誌 に 陸奥津軽郡湯口村古物発見 と題する論文を寄せたほか 明治二五年(一八九二)津軽古図書保存会を設立した のち文部省維新資料取調員から宮内省に入り 殉じゅんなん難録ろくこう稿 陵りょうぼ墓誌し を編集 陵墓監 御用係などを務めた 弘前城主越中守津軽信政 津軽信明公 などの著書ほか 未刊の郷土資料 記録類が弘前図書館に保存されている また森もりおうがい鴎外の小説 澁しぶえちゅうさい江抽斎 に実名で登場することでも知られている 中なかえていいち江貞市明治7(一八七四)~昭和30 (一九五五)開業医 学校医 岡山県苫田郡出身 東京済生学舎を卒業し 明治三三年(一九〇〇)栃木県日光に開業 翌三四年武田村富野に移転開業した 以来地方医療に献身 温厚篤実で懇切であり 地域住民の信頼が篤かった 日露戦争には第八師団野戦病院付三等軍医として従軍 勲六等瑞宝章を授けられた 長年にわたって学校医を務めるとともに 軍用鳩飼育 繁殖や花弁の栽培にも造詣が深かった 西にしやま山豊ゆたか明治40 (一九〇七)~昭和47 (一九七二)教育者 僧侶 郷土史家 小泊村出身 昭和三年(一九二八)青森師範学校を卒業後 有畑尋常高等小学校(横浜町)などで教鞭を執った 昭和一〇年(一九三五)浄土真宗西せいがんじ願寺(小泊)第一一世住職 昭和二四年(一九四九)小泊青年学校教員から小泊小学校校長に就任 教職を務める傍ら布教活動に努めた 昭和四三年(一九六八)小泊中学校退職後 先代の教きょうえい栄住職と共に小泊地域の文化財保護活動に奔走するとともに 小泊村観光協会顧問として地域観光に貢献した また音楽の才もあり 小泊統合中学校校歌や各種団体歌の作詞 作曲 小泊小唄 小泊風景小唄 小泊名所歌などの改作を行った 人権擁護委員や青年団 婦人会の指導など社会教育面でも活躍した 吉田松陰遊賞之碑小説 津軽 の像 ( 小泊再会公園 )

27 中泊偉人伝人ものがたり 272 野のざわ沢如じょよう洋元治2(一八六五)~昭和12 (一九三七)日本画家 旧中里小学校校長室に掲げられていた二にのみやそん宮尊徳とく像画の作者 弘前藩士一いちのへちゅうぞう戸忠蔵の四男 幼名は三みちはる千治 母の実家野沢家を継ぐ 一二歳で三みかみ上仙せんねん年に画を学び 仙せんらん蘭 のちに如じょよう洋を名乗った 明治二六年(一八九三)二九歳で京都に上り 同二八年日本美術協会展一等入選を皮切りに 名立たる展覧会に連続入選し 横よこやまたいかん山大観 菱ひしだ田春しゅんそう草 下しもむらかんざん村観山といった気鋭の画家たちと肩を並べた 大正七年(一九一八)大阪で一日千枚を描く子馬会を催してから 馬の如洋 の世評があり 自らも好んで馬を描いた 昭和六年(一九三一)京都から東京に移住 円熟した水墨画法で 山水 花鳥 人物などあらゆる画題を自由奔放な速筆で描いて画壇を驚かせ 各界に愛好者を得た 昭和一二年(一九三七)東京で揮毫中倒れて没した 平ひらおろせん尾魯仙文化5(一八〇八)~明治13 (一八八〇)幕末~明治初期の画家 国学者 嘉永元年(一八四八)中里神明宮に奉納された絵馬の作者 名は亮致 通称初三郎(八三郎) 別号澄川 魯縄 宏斎 雄山など 弘前紺屋町の魚商小浜屋に生まれた 幼時から学問を好み 松まつだ田常つねぞう蔵(駒水)に経史 工くどうごおう藤五鳳 毛もうないうんりん内雲林に画を学んだ また内うつみそうは海草坡に書法と俳譜を学び 百ももかわがくあん川学庵 今いまむらえいけい村栄慶(渓けいじゅ寿)に師事した さらに鶴つるやうせつ舎有節 今いまむらみたね村真種らと平田派の皇学を究め 元治元年江戸の平ひらたかねたね田鉄胤の門に入った 自身の門下からも三みかみ上仙せん年ねん 工くどうせんおつ藤仙乙はじめ 山やまのえ上魯ろ山ざん 山やま形がたがくせん岳泉など後代の画家が輩出したが 考古学研究家の佐さとうせんし藤仙之(蔀しとみ)などを育てたことでも知られる おもな著書に 民間の奇事異聞を集めた 谷の響 合浦奇談 をはじめ 松前紀行 箱館夷人談 幽府新論 宏斎抄誌 などがある 福ふくし士貞ていぞう蔵明治11 (一八七八)~昭和33 (一九五八)教育者 郷土史家 田たがわ川村(五所川原市)出身 独学で小学校教員となり 今泉尋常小学校校長 今泉青年訓練所主事ほか 北郡内の学校長を歴任した その間 考古学 郷土史の研究に打ち込み 五所川原町誌 板柳町郷土史 鶴田郷土史 金木郷土史 六郷村誌 長橋村誌 飯詰村史 の各町村史 北津軽郡神社誌 津軽平野開拓史 実地より観たる十三物語 郷土史料異聞珍談 五所川原市綜合沿革史 などを著した また 昭和二二年(一九四七)奥おくたじゅんぞう田順蔵らと共に津軽考古学会を創設 昭和二五年(一九五〇)二代会長となり 後進の指導にあたる 教員生活の傍ら 西北地方の郷土史 考古学研究に生涯身魂を傾けた また信仰心が篤く 今泉観音堂に三十三体の地蔵を建立したことでも知られる 三みかみ上寛かん昭和25 年(一九五〇)~小泊出身の歌手 詩人 俳優 中泊町ふるさとイメージアップ大使 五所川原高校卒業後 警察学校 板前の見習い 新聞配達等さまざまな職歴を経て 昭和四四年(一九六九)東京渋谷のライブハウス ステーション 七〇 で歌い始める 同四六年(一九七一)中村八大作曲の 馬鹿ぶし でデビュー 第三回中津川フォークジャンボリーに出演し 日本で最も過激な唄を歌うフォーク歌手として脚光を浴びる 以後 CDアルバム 小説 随筆 作詞 作曲 詩集を発表するとともに 各種コンサート 演劇 テレビ ラジオ等に出演 映画も 寺てらやましゅうじ山修司監督の 田園に死す(一九七四) 大島渚監督の 戦場のメリークリスマス(一九八三) ほか多数の出演作がある このほか 後の祭りコンサート 映画 典子は今 愛のテーマ の主題歌 アメリカの大学でのライブなど海外でも活躍 平成一二年(二〇〇〇)には音楽生活三〇周年記念CD BOXを発表 詩集 風 アハハ CD アラシ 雨 アラシ などの作品がある 平尾魯仙画奉納絵馬 ( 中里神明宮 )

28 28 28 中泊偉人伝人ものがたり 282 宮みやこしまさはる越正治明治18 (一八八五)~昭和13 (一九三八)尾別出身の実業家 漢詩人 大地主宮越家の宗本家に生まれ 機き山ざんと号した 漢詩は奥おくだ田抱ほうせい生に師事し 長ちょうしょうじ勝寺(弘前市)住職山やまぐち口彰しょうしん真とも交友があった 古詩に詳しく昭和四年頃 随縁集 禅余集 の二冊を翻刻したほか 遺稿に古詩調の 紫燕棲詞鈔 二冊がある 造園にも定評があり 同家の静川園には逓ていしん信大臣安あだちけんぞう達謙蔵などが訪問した 宮みやこし越麗れいこ子漢詩人宮みやこしまさ越正治はるの夫人 女流歌人として知られ 麗れいか華と号した 昭和の初期から短歌の研究を始め 旧制弘前高等学校教授彌やとみ富破はまお摩雄に師事するとともに 他地域の歌人と交流して作歌の道を究めた 昭和一二年(一九三七)数千首の作品の中から五百首を選んだ歌集 紅蘭 を発行 また佐さとうさたろう藤佐太郎主宰の歌誌 歩道 同人となり 九二才で他界するまで作歌を続けた 百ももかわがくあん川学庵寛政11 (一七九九)~嘉永2(一八四九)弘前藩のお抱え絵師 藩儒百もも川かわとんすけ屯助(玉ぎょくせん川)の二男 通称文平 名は子琢 字は璞 号は学庵 瓢園 書田耕夫 山水遊客 名山楼など多数 朝あさかわぜんあん川善庵に儒学 谷たにぶん文晁ちょうに画を学ぶ 詩文にも優れ 小姓格となったが 晩年蟄ちっ居きょを命じられた 嘉永二年(一八四九)死去 五〇歳 天保年間 小泊村に来遊 算用師峠より片刈沢に至るの図 ほか同地域に関わる風景画を複数残している また中里神明宮には 学庵が晩年に描いた大絵馬が奉納されており(現在中泊町博物館で展示) 平成二五年(二〇一三)町有形文化財に指定された 八やぎはしたけみ木橋武実大正10 (一九二一)~平成3(一九九一)古文書収集家 弘前出身 史料提供ほか 小泊村史編纂に協力した 古物商を営むかたわら 古文書 書画 骨董を収集 研究した 収集品は 江戸時代の写本 書画 絵図 地図 版本や明治以降の書写本 官民刊行の印刷類など多岐にわたる 市町村史編纂者らに積極的に資料提供 地方文化の調査 研究に貢献した 収集品は県立郷土館と弘前市立図書館に 八木橋文庫 として収蔵されている 彌やとみ富破はまお摩雄明治10 (一八七七)~昭和23 (一九四八)国文学者 旧制弘前高校教授 熊本県出身 国学院卒業後 学習院で教鞭をとっていたが 宮内省に転じ 昭和天皇はじめ各宮の伝育官(教育係)を務めた 大正一〇年(一九二一)官立弘前高等学校に来任し 国文学を教授した 宮みやこし越麗れいこ子など地方の文人と親交を結んだほか 各校校歌や 奈なら良七しちごろう五郎銅像銘板 (富野)の選文などを手掛けた 昭和一九年(一九四四)の退官後は 千葉県に隠栖した 横よこやま山ひでき昭和42 (一九六七)~本名横山英樹 中里出身のタレント 中泊町ふるさとイメージアップ大使 佐井村観光PR大使を務める 大学卒業後 さまざまな職業を経て 民謡歌手黒石八郎に弟子入り 修行を積む テレビ ラジオ出演ほか なかどまりまつり をはじめとするイベント司会者として活躍中 吉よしむら村和かずお男昭和2(一九二七)~平成12 (二〇〇〇)教育者 弘前出身 筆名和夫 旧制中学卒業後 小泊国民学校助教を振り出しに 教員生活を送った 時じびん敏小学校(弘前市)時代には たにし村物語 りんご園日記 などの放送劇を書いた 昭和五五年(一九八〇)修しゅうせい斉小学校長(弘前市)から弘前市立図書館長に就任した 弘前市立郷土文学館専門員 NHK文化センター講師も務め 弘前市教育史 新編弘前市史 の編纂にも加わった 著書に 金木屋物語 つがる巷談 津軽の文明開化 北方警備と津軽藩 などがある 百川学庵画奉納絵馬 ( 中里神明宮 )

29 中泊偉人伝人ものがたり 292 太おおた田良りょうさく作明治25 (一八九二)~昭和45 (一九七〇)教育者 嘉瀬村長 嘉かせ瀬村(五所川原市金木)出身 青森師範学校卒業後 毘びしゃもん沙門小学校(五所川原市)を振り出しに 北津軽郡の小学校長を歴任した 昭和一六年(一九四一)中里国民学校に 訓導兼校長として赴任 宿直室に起居しながら 学校経営に腐心し とくに修身教育と科学教育に力を注いだ 昭和一九年(一九四二)嘉瀬国民学校長に赴任 翌二〇年(一九四五)退職と同時に一九代嘉瀬村長に就任し 終戦前後の激動期 村政の舵取りを担った 加かとう藤源げんぞう三慶応3(一八六七)~昭和18 (一九四三)教育者 中里出身 加かとう藤定さだしろう四郎の二男 明治一八年(一八八五)青森県師範学校中等科を首席で卒業後 上北郡藤ふじさか坂村(現十和田市)相あいさか坂尋常小学校に赴任 以来大正一四年(一九二五)に退職するまで四二年間にわたって同校に奉職した 自ら読書万巻に及ぶとともに 児童から村民に至るまで広く読書をすすめ 小学校 社会教育はいうまでもなく 村政 産業 信用組合 青年団 在郷軍人会 消防団 婦人会など村のすべてに関与し 誠実温和で清廉な人柄と相まって村民から慕われた 退職後は教え子の政治家苔とまべち米地義ぎ三ぞう(運輸大臣 内閣官房長官等を歴任)が作った昭和謝恩会の常任理事に就任 世にかくれた徳行 孝子 節婦 奉公人などを表彰し 人材の育成奨励に尽くした 一方 自ら農場を経営し 耐冷品種発見のため青年たちを近県に派遣するとともに 農林省稲作冷害試験地の誘致に努め 稲の耐冷栽培法として温床苗代を取りあげるなど 上北地方稲作の先駆者ともなった 加かとう藤寿じゅめん綿教育者 中里村出身 加かとう藤定さだ四しろう郎の孫 大正三年(一九一四)青森県師範学校卒業 下前 五所川原女子部 梅田 中里 嘉瀬 長嶋各校の訓導として勤務した後 校長に抜擢され 青森市内の橋本 浦町 長嶋小学校長を経て 上北郡視学となった 昭和二〇年(一九四五)故郷に戻り 中里町助役を務めた後 二七年(一九五二)青森市教育長に迎えられ 三八年(一九六三)の退職まで 復興期の青森市教育行政に貢献した 菊きくち池萬まんぞう蔵明治36 (一九〇三)~平成9(一九九七)教育者 中里村深郷田出身 中里尋常小学高等科から五所川原農学校に進学 次いで盛岡高等農林学校農芸化学科卒業後 高校教員となった 五所川原実科高等女学校を振り出しに 五所川原高等学校長 弘前盲学校長兼ろう学校長等を歴任した 退職後は 郷里の中里で公民館長 教育委員を務めるなど 中里地域の教育行政に尽力した 工くどうたざん藤他山文政元(一八一八)~明治22 (一八八九)弘前藩士 幕末から明治にかけての教育者 歴史学者 旧姓古川主膳 通称富太郎 他山 拙斎 坦々斎 梨窓陳人などと号した 文政元年(一八一八)弘前藩士古こがわじゅはく川儒伯の二男として弘前古ふるほりちょう堀町(西茂森)に生まれ 天保三年(一八三二)一五歳で藩校稽けいこかん古館に入学した その後若くして同館典句 助教に補せられたが 弘化二年(一八四五)職を辞し 嘉永元年(一八四八)江戸 大坂に遊学 儒学者朝あさかわぜん川善庵あん 文士篠しのざきしょうちく崎小竹に入門した 帰郷後の嘉永五年(一八五二)請われて中里村に寺子屋を開く 以来文久三年(一八六三)青森に転居するまで 一一年間にわたって地域の子弟を教授した この間中里村敦つるが賀源げん次じろう郎の娘磯いそこ子と結婚 長男隼はや太た 次男覚かくぞう蔵(後の外崎覺かく)が生まれた その後 青森鍛かじまち冶町の寺子屋開設を経て 慶応三年(一八六七)稽古館に招かれ再び助教に就任 その傍ら弘前五ごじっこくまち十石町に私塾思しせいどう斎堂を開講した 明治五年(一八七二)稽古館一等教授となるが 同年同館廃止により辞職 私塾向こう陽ようじゅく塾を開いた 陸くがかつなん羯南 笹ささもり森儀ぎすけ助らは同塾の門弟である 明治一〇年(一八七七)東奥義塾開校とともに招かれ 同一九年に退職するまで教授を教育の礎

30 30 30 中泊偉人伝人ものがたり 303 務めた 晩年は 弘前藩史編纂に専念したが 明治二二年(一八八九)病没した 他山工藤先生宅址碑 は 明治三三年(一九〇〇)中里時代の教え子宮みやこしようざぶろう越要三郎 井いぬまますたろう沼益太郎らが 次男外崎覺と相談して中里神明宮境内に建立したものである(実際の他山宅は向町にあったと伝えられる) 斎さいとう藤廉れんじょう丞嘉永元(一八四八)~明治44 (一九一一)弘前藩士齋藤幸之進の三男 藩校稽けいこかん古館で漢学を修め また元弘前藩士須すとうかんご藤寛吾が開いた青森明善館で漢学を講究するとともに 生徒の教授も行った 明治五年ころ町まちい居村(平川市)で私塾を開設 同六年(一八七三)東京に遊学した 帰郷後の同一〇年(一八七七)弘前白銀小学校で鹿しかないよしのり内喜典より授業法を習い 同年富野村般はんにゃじ若寺に仮設された富野小学に招かれ 初代校長となった 以来明治四四年(一九一一)現職で亡くなるまで三五年間にわたって校長を務め 村民の子弟教育に一生を捧げた 厳正で慈愛あふれる教導により 児童 村民から敬慕された 武田小学校校庭には 昭和二六年(一九五一)武田村民によって建立された頌徳碑が残されている 佐さとうけいじ藤慶治明治39 (一九〇六)~昭和62 (一九八七)教育者 相あいうち内村(五所川原市市浦)出身 青森県師範学校卒業後 大正一五年(一九二六)五所川原尋常高等小学校訓導を振り出しに 戦時中は満州で国民学校長を務めた 戦後は内潟中学校 下前小中学校など北郡の小中学校長を歴任 また中世豪族安藤氏関連史跡を中心に 郷土史研究にも没頭した 現在 相内蓮れんげあん華庵に建立されている初代 吉よしだしょういんゆうしょう田松陰遊賞之のひ碑 は 昭和三〇年代道路拡張工事中に倒壊破損した碑を 佐藤慶治が修復 再建したものである 佐さとうとみお藤富雄明治10 (一八七七)~昭和11 (一九三六)教育者 富野村出身 明治三五年(一九〇二)青森県師範学校卒業後 五所川原高等小学校 青森師範附属小学校に奉職 その後上京して小学校勤務の傍ら 物理学校に学び数学を専攻した 東京月島の小学校長に抜擢されて以来 都下の小学校長を歴任し 教育界に令名を博した 柴しばやよすけ谷與助明治22 (一八八九)~昭和51 (一九七六)教育者 柏村(つがる市柏)出身 青森県師範学校卒業後 明治四二年(一九〇九)南金沢小学校(鰺ヶ沢町)訓導兼校長に赴任 以降西郡の小学校長を歴任 北津軽郡視学を経て 大正一三年(一九二四)旅りょじゅん順師範学校訓導に転出した 帰国後 黒石実科高等女学校 青森高等女学校勤務を経て 満州に転出 学校長 視学等を務めるが終戦により帰国 木造高等学校常勤講師となる 退職後 昭和三〇年(一九五五)小泊村教育長に就任した 渡り鳥教師 西津軽土淵史 の編著書がある 鈴すずきよしや木吉弥明治19 (一八八六)~昭和39 (一九六四)教育者 梅沢(鶴田町)出身 東奥義塾卒業後 教員生活に入った 大正四年(一九一五)今泉尋常小学校に訓導兼校長として赴任 代用教員の宮みやこし越(鳴なるみ海)文ぶんしろう四郎とともに 児童教育 青年教育に当たった 児童の出席率を上げるため 早朝子供たちを督とくそく促して回りながら 村はずれの今泉神明宮に参拝し 児童とともに登校した また青年団を対象とした夜学の際は 学校の屋根で太鼓を打ち鳴らして周知したとされる 諏すわ訪愛あいぞう三明治41 (一九〇八)~昭和62 (一九八七)教育者 中里村出身 陸上短距離選手井いぬませい沼清七しちと同級 家も隣同士ということもあって 学業 運動ともに良きライバルであった 青森県師範学校卒業後 昭和二年(一九二七)母校中里尋常小学校訓導を振り出しに 中泊地域の小中学校長を歴任した 終戦直後の中里小学校長時代は 同校に赴任していた福ふくしせいいち士清一に作詞を依頼し 中里小唄 を完成させた 学校教育以外にも 青年団活動や郷土教育 社会教育に熱意を燃やすとともに 退職後も心配ごと相談所 社会教育委員 出稼ぎ地域相談員 行政相談委員などの公務を歴任した 斎藤廉丞先生碑他山工藤先生宅址碑

31 中泊偉人伝人ものがたり 313 近ちかむらじゅうろう村重郎大正5(一九一六)~平成4(一九九二)教育者 金木村川倉(五所川原市金木)出身 青森県師範学校卒業後 昭和一一年(一九三六)法ほうおく奥尋常高等小学校(十和田市)を振り出しに 主に中里地域の小学校長を歴任した 理科教育の重要性を提唱し 北五小中理科教育研究会会長として活躍した 青年学級 母親学級 PTA集会などにも毎晩のように顔をだし 社会教育にも力を注いだ 退職後は 中里町の社会教育委員 教育委員長等に就任 教育行政を担った 敦つるが賀民みんぺい平私立桔ききょう梗学院創立者 小泊村出身 小泊尋常小学校卒業後 東京に遊学 横浜市山手の私立捜そうしん真女学校に奉職 時に明治一七年(一八八四)青森町に開校した青森県中学校は 同二二年弘前に移転 青森の中等教育機関は空白となっていた 敦賀は私立捜真女学校教授を辞し 明治三一年(一八九八)青森市寺町に私立桔梗学院を開校し 中等教育を担った 教育方針は徳育を主とし知育を従とした 生徒は校則を守り勉学に励んだため 評判が高まったが 明治三四年青森市に第三中学校が新設されると 同学院志願者は減少し 経営も不振となった 敦賀は学院経営の意欲を絶やさず 多数の後援者を得て再建に努めたが 同四三年(一九一〇)大火による校舎焼失を経て ついに大正一〇年(一九二一)閉校した 福ふくしせいいち士清一明治43 (一九一〇)~昭和59 (一九八四)教育者 松まつしま島村米よねた田(五所川原市)生まれ 昭和四年(一九二九)青森県師範学校卒業後 五所川原女子尋常小学校を初めに 中里国民学校 一野坪小 栄小を経て 三五年より沿川第二小校長 七ッ館小校長を歴任し昭和四五年(一九七〇)定年退職した 若くして芦あしだけいのすけ田恵之助の国語理論をとり入れ 子供の内面を耕す授業研究で評価を高める一方 意欲的で実践的な心を育てる学校経営でも優れた実績を残した 中里小学校時代 中里小唄 を作詞したことでも知られる 三みかみかくま上格馬明治20 (一八八七)~昭和15 (一九四〇)教育者 政治家 喜き良らいち市村(五所川原市金木)出身 明治三八年(一九〇五)青森県師範学校卒業後 浦町小学校(青森市)を振り出しに 中里 嘉瀬 鶴ヶ岡小学校の訓導を経て 大正八年(一九一九)薄市尋常小学校長 同一五年(一九二六)武田尋常小学校長に就任した 武田尋常小学校に在職中の昭和四年(一九二九) 請われて六代内潟村長となり 九ヶ年在任した 昭和一三年(一九三八)病気のため退任し 弘前市で亡くなった 三みかみぎけん上儀見明治37 (一九〇四)~平成3(一九九一)教育者 内潟村今泉出身 青森県師範学校卒業後 蟹田尋常高等小学校を振り出しに 主に北五地域の小学校長を歴任した 読書家にして謹厳実直 至誠の人であった 戦後導入された新教育の実践研究を手掛けるとともに 特殊学級や病院内の療育学級の重要性を訴え 管内ではいち早く開設に漕ぎつけている 三みくにや国谷三さんしろう四郎明治10 (一八七七)~昭和22 (一九四七)教育者 薄市村出身 青森県師範学校卒業後 数年県内で教鞭を執った後 東京高等師範学校に進学 卒業後朝鮮で教職に就いたが 数年後に帰国 大正九年(一九二〇)四二歳で京都帝国大学に入学した 卒業後 奈良 京都 青山師範学校長を歴任し 昭和一八年(一九四三)退職するまで師範教育の中枢にあった この間教育行政にも関わり 小学校教育内容調査委員 教育審議会臨時委員 小学校教員検定委員会常任委員 教育調査会委員などを歴任 国民学校令作成にも参画した その後京都府立女子専門学校長に就任 疎開先の今泉で終戦を迎えた 戦後は青森県教育会嘱託となり 青森県官舎で生涯を終えた 山やまだまさお田昌男明治38 (一九〇五)~平成元(一九八九)教育者 中里村深郷田出身 先祖は在宅士族山やまだまさいち田昌一 青森県師範学校卒業後 大正一四年(一九二五)母校中里尋常高等小学校訓導を振り出しに 中里地区の小学校長を歴任した 退職後は 中里中央公民館長 北津軽郡老人クラブ連合会長 人権擁護委員などを務めたほか 環境美化運動に取り組んだことでも知られる

32 32 32 中泊偉人伝人ものがたり 323 朝あさおおた太田誠まこと昭和46 (一九七一)~小泊出身の大相撲力士 本名太田誠 小泊小学校時代から相撲を始め 五所川原農林高校時代は全国大会に出場するなど活躍した 高校卒業と同時に若松部屋(現高砂部屋)に入門 平成二年(一九九〇)初土俵を踏んだ 翌年序ノ口優勝を皮切りに 勝ち越しを続け一気に幕下まで番付を上げ 朝あさのなみ乃涛 を名乗った 幕下上位でやや苦労したが 平成五年(一九九三)同部屋の朝あさ乃のわか若(現若松親方)と共に十両昇進を果たした 速攻の四つ相撲を得意としたが たびたびの怪我に泣き 平成七年 朝あさおおた太田 に改名するも 平成一一年(一九九九)現役を引退した 身長一八七cm 体重一四〇kg 井いぬま沼清せいしち七明治40 (一九〇七)~昭和48 (一九七三)中里村出身の陸上選手 実業家 青森県初のオリンピック出場選手となった 大地主井沼家の四男に生まれる 中里町長を務めた井いぬま沼豊とよすけ助は実兄 中里尋常小学校高等科卒業後 弘前中学で陸上競技を始め 早稲田大学進学後山やま本もとただおき忠興(電気工学者 早稲田大学理工学部教授の傍ら 学生陸連会長 アムステルダムオリンピック総監督等を務め スポーツ界の振興に尽力した)の指導により 素質を一気に開花させた 低い体勢からのスタートダッシュを得意とし 最初の五〇mまでは 当時 暁あかつきの超特急 と呼ばれた吉よしおかたかよし岡隆徳(昭和七年(一九三二)ロサンゼルスオリンピック一〇〇m六位)さえも及ばなかったと伝えられる 早稲田大学では 織おだみきお田幹雄(アムスタルダムオリンピック三段跳優勝 日本人初の金メダリスト) 南なんぶ部忠ちゅうへい平(ロサンゼルスオリンピック三段跳優勝) 西にしだ田修しゅうへい平(ロサンゼルスオリンピック棒高跳準優勝 昭和一一年(一九三六)ベルリンオリンピック棒高跳準優勝 三位となった大江季雄とメダルを分け合い 友情のメダル を制作)など 後のメダリスト達と組んで国内外の四〇〇mリレーに出場し 多くの記録を樹立した 昭和三年(一九二八)にはオランダアムステルダムで開催された第九回オリンピック大会に四〇〇mリレー第一走者として出場 青森県初のオリンピック出場選手となるとともに 名スプリンターとしての地位を確立した また昭和六年(一九三一)には第七回ス ノ ゴ三巴戦(スパルタ青森中学 ノーマル青森師範 ゴルゴン弘前中学対抗戦)一〇〇mに弘前中学OBとして出場し 一〇秒九という驚異的なタイムで優勝した 同タイムは 昭和五〇年(一九七五)まで 四四年間にわたって破られなかった青森県公認記録である 現役引退後は後輩の指尊にあたり 日本陸連常務理事 評議員 東京陸協副会長を歴任するとともに 松坂屋百貨店常務取締役 株式会社松栄食品社長等を務め 実業界においても成功を収めたが 昭和四八年(一九七三)六六歳という若さで他界した 旧中里町では 井沼の偉業を讃える井沼清七杯争奪リレーカーニバルを平成三年(一九九一)より開催し(平成一七年(二〇〇五)より 津軽地区小学生陸上競技交流大会 ) 第二の清七輩出を目指している 彫刻家古こ川がわたけじ武治制作による井沼清七之像は 平成七年(一九九五)運動公園に建立された 織田幹雄自筆 より速くより高くより強く の銘文とともに 清七の力強いスタートダッシュの様子が復元されている 井いぬま沼豊とよすけ助明治37 (一九〇四)~昭和25 (一九五〇)中里村出身の実業家 政治家 井いぬまかくご沼覚五郎ろうの長男として生まれ 青年時代からスポーツマンとして活躍した 短距離選手の井いぬませいしち沼清七は実弟 村の青年団長を長らく務めるとともに 県相撲連盟の幹部として青年相撲の振興に力を注いだ 中央の力士とも交流が深く 多くの相撲資料が残されている 津軽鉄道取締役 津軽酒造会社社長などを歴任した後 昭和二一年(一九四六)二代中里町長に推され 一期在任した スポーツ大国の群像

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