主論文要旨 本稿では 植民地時期 とりわけ 1910 年代 朝鮮の京城地方裁判所および京城地方法院において離婚請求事件の審理を担当していた判事の経歴や離婚認識に対する分析と これらの判事が下した離婚請求事件に対する判決文の分析という 大きく 2 つの分析を行う これらの分析作業は 当時 離婚請求事件

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( 続紙 1 ) 京都大学博士 ( 法学 ) 氏名小塚真啓 論文題目 税法上の配当概念の意義と課題 ( 論文内容の要旨 ) 本論文は 法人から株主が受け取る配当が 株主においてなぜ所得として課税を受けるのかという疑問を出発点に 所得税法および法人税法上の配当概念について検討を加え 配当課税の課題を明

















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Title 植民地朝鮮における民事裁判の運用実態に関する研究 ( Digest_ 要約 ) Author(s) 吉川, 絢子 Citation Kyoto University ( 京都大学 ) Issue Date 2016-03-23 URL https://doi.org/10.14989/doctor.k19 Right 学位規則第 9 条第 2 項により要約公開 Type Thesis or Dissertation Textversion none Kyoto University

主論文要旨 本稿では 植民地時期 とりわけ 1910 年代 朝鮮の京城地方裁判所および京城地方法院において離婚請求事件の審理を担当していた判事の経歴や離婚認識に対する分析と これらの判事が下した離婚請求事件に対する判決文の分析という 大きく 2 つの分析を行う これらの分析作業は 当時 離婚請求事件に対して裁判所ではどのように判決を下していたのかを明らかにするとともに なぜこのような判決が下されたのかを考察することを目的としている 筆者が 1910 年代の離婚請求事件を分析対象にしたきっかけは 当時朝鮮で発行されていた 毎日申報 京城日報 などの新聞を見ていた際 離婚訴訟に関する記事をしばしば目にしたことであった その後 1912 年 4 月から 1922 年 12 月までに 毎日申報 京城日報 釜山日報 東亜日報 朝鮮日報 の 5 紙に掲載された離婚訴訟に関する記事を整理してみると これらの新聞には 187 件の離婚訴訟が掲載されていることが分かった しかも これらの新聞記事のうち 8 割以上に当たる 160 件は女性を原告とする離婚訴訟であった 儒教イデオロギーが色濃く残っている朝鮮社会において 女性を原告とする離婚訴訟が提起されるという現象は 非常に興味深く感じられた また これら 187 件の離婚訴訟のうち 新聞記事を通じて裁判結果が分かったものは 41 件であったが 41 件のうち 14 件には原告である女性に対して勝訴判決が下されていた つまり 裁判所では女性を原告とする離婚訴訟に対して 女性の請求を認める判決を下していたのである そこで 女性の離婚請求を可能とする法的根拠について調べてみると 離婚に関しては 1 912 年に施行された 朝鮮民事令 のなかで規定されていることが分かった 朝鮮民事令では 第 1 条において朝鮮でも原則として日本の明治民法や民事訴訟法などの法律による旨を規定していた しかし 同令第 11 条では 朝鮮人の親族 相続については 慣習 によると規定されており この 慣習 を国語辞書的な意味 すなわち ある社会において古くから受け継がれてきた生活上のしきたりという意味で解釈するならば 女性の離婚請求は認められないはずではないか という疑問を持つようになった なぜなら 1908 年から 1 909 年にかけて法典調査局が朝鮮各地で実施した慣習調査を通じて明らかになった結果などをもとに 1910 年に法典調査局が刊行した 慣習調査報告書 には 朝鮮ノ習俗ニ於テハ妻カ夫ニ離婚ヲ求ムルハ道義ニ反スルモノトシ縦令夫ニ非行アルモ妻ハ離婚ヲ求ムルコトヲ得サルモノトセリ と記されているためである そこで 1910 年代の離婚請求事件に対する裁判所の対応について分析している先行研究を見た 先行研究では 同一の判決文を分析しながらも 裁判所では離婚請求事件に対してどのように判決を下していたのか またなぜそのような判決の下し方をしたのか という問題について全く異なる見解が提示されていた まず 裁判所では離婚請求事件に対してどのように判決を下していたのかという点について ある研究では 先の慣習調査で明らかにさ 1

れたのとは異なる 新たな慣習 によって判決を下していたと主張されているのに 別の研究では 明治民法を 依用 して判決を下していたと主張されていた 次に なぜ裁判所はこのような判決の下したのかという点について 新たな慣習 によって判決を下していたと主張している研究では 裁判所側が朝鮮社会の変化を受け入れたためであるという説明がなされ 明治民法を 依用 して判決を下していたと主張している研究では 当時 日本政府が推進していた日本と朝鮮との法制一元化政策を実現するため 裁判所では明治民法を 依用 して判決を下したという説明がなされていたのである しかし これらの説明には納得がいかない部分も多く 1910 年代に下級裁判所 具体的には京城地方裁判所および京城地方法院で下された離婚請求事件に対する判決文を収集し分析することで 当時 裁判所では離婚請求事件に対してどのように判決を下していたのかを明らかにすることにした ところで 下級裁判所における離婚請求事件は 通常 3 名の判事からなる合議体によって審理が行われるが 京城地方裁判所および京城地方法院で下された判決文の末尾には その審理を担当していた判事 3 名の氏名または姓名が記載されている 朝鮮高等法院民事判決録 に収録されている離婚請求事件に対する判決文には 審理を担当していた判事の氏名または姓名が記載されていないこともあり 先行研究のうちに判事の経歴と判決の内容とを関連づけて検討した研究は存在しない しかし 判事がそれまでに受けてきた法学教育の内容や 実務経験を積むなかで習得した法的知識や法的技術と 判決の内容とは密接な関係を有していると考えられる そのため 本稿では 1910 年代に京城地方裁判所および京城地方法院において離婚請求訴訟の審理を担当していた審理を担当していた判事の氏名または姓名を整理し その経歴や離婚認識を分析することによって なぜこのような判決が下されたのかを考察することにした 第 2 章では 植民地朝鮮において離婚請求訴訟の審理を担当していた朝鮮人判事の学歴や離婚に対する認識などについて分析した 1881 年 朝鮮政府は紳士遊覧団を日本に派遣したが このとき随員として日本に派遣された兪吉濬らが慶應義塾に入学して学業を続けたことが契機となり 以後 朝鮮政府は 1883 年頃までに 100 名を超える官費留学生を日本に派遣した 1884 年の甲申事変の失敗により 留学生の日本派遣は一時中断されたが 1895 年に開化派が再度政権を掌握すると 留学生の日本派遣が再開された このとき 官費留学生として日本に派遣された人物のなかには 慶応義塾で日本語を学んだ後 東京法学院 ( 現在の中央大学の前身 ) に進学し 法学を学んだ者もいた 張燾 劉文煥 兪致衡 李冕宇らがその代表的な例であるが 彼らは日本で法学を学んだ後 朝鮮に戻り 1900 年代半ば以降 朝鮮各地で相次いで設立されていた法学教育機関において教鞭を取るようになった また 講義のかたわら 講義で用いるための教材づくりも手がけた 彼らが講義で用いていた教材の大部分は 1890 年代に日本で発行された法学書を朝鮮語に翻訳したものであった 当時 朝鮮において設立された法学教育機関としては 法官養成所 ( 現在のソウル大学校法科大学の前身 ) や普成専門学校 ( 現在の高麗大学校の前身 ) などを挙げることができるが 1909 年頃になると 朝鮮の裁判所において判事として勤務していた人物のうちに これら 2

の学校の卒業生が見られるようになり 1910 年代半ばになると 朝鮮の裁判所において判事として勤務していた人物の大部分が これらの学校の卒業生によって占められるようになった 第 3 章では 植民地朝鮮において離婚請求訴訟の審理を担当していた日本人判事の学歴や離婚に対する認識などについて分析した 1908 年頃から朝鮮の裁判所には多くの日本人が判事として勤務するようになった 朝鮮の裁判所で判事として勤務していた人物の大部分は 日本の法学教育機関で法学を学び 判事として裁判所で実務経験を積んだ後 朝鮮に渡った人物や 裁判所書記として数十年間裁判所に努めた後 朝鮮に渡った人物であった 1910 年代 朝鮮の裁判所において離婚請求事件の審理を担当していた日本人判事も このような経歴を持った人物であった したがって 1910 年代 朝鮮の裁判所において離婚請求事件の審理を担当していた判事は 日本人判事であれ朝鮮人判事であれ 明治民法の法理に熟達した人物であったと言える 第 4 章では 1910 年代 京城地方裁判所および京城地方法院において下された離婚請求事件に対する判決文の分析を行った 分析の結果 1910 年代 朝鮮の裁判所に提起された離婚請求事件に対して 裁判所では 証拠物件や証人の証言などを通じて 配偶者が重婚したこと 妻が姦通したこと 配偶者が刑法上の罪を犯し処罰されたこと 配偶者または配偶者の直系尊属から虐待や侮辱を受けたこと 配偶者から悪意をもって遺棄されたこと 配偶者が自己の直系尊属に虐待や侮辱を加えたこと 配偶者の生死が数年間不明であること などの事実が確認された場合には 女性による離婚請求であっても 離婚を容認する判決を下していたことが明らかになった 1912 年の朝鮮民事令施行以前に 裁判所で下された判決のなかには 夫婦ハ互ニ扶養スル義務ヲ負フ とか 夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス とかと言った 婚姻によって発生する義務について説明した後 被告の行為はこのような義務に違反するため 原告の離婚請求は正当であると述べている判決もしばしば見られた しかし 朝鮮民事令施行以後に裁判所で下された判決のなかには 婚姻によって発生する義務について説明している判決はほとんど見られなくなった 代わりに 配偶者が重婚したこと 妻が姦通したこと 配偶者が刑法上の罪を犯し処罰されたこと 配偶者または配偶者の直系尊属から虐待や侮辱を受けたこと 配偶者から悪意をもって遺棄されたこと 配偶者が自己の直系尊属に虐待や侮辱を加えたこと 配偶者の生死が数年間不明であること などを理由として離婚請求訴訟を提起した原告に対しては その事実が立証されたことをもって 離婚請求を認める判決が大部分を占めるようになった 朝鮮民事令第 11 条では 朝鮮人間の親族 相続については 慣習 による旨が規定されていたが 判決のなかで 慣習 について言及されている事例は極めて少なかった 当時 朝鮮の裁判所で離婚請求訴訟の審理を担当していた判事が 慣熟 していた明治民法では 当事者間で離婚につき意思の合致が見られない場合であっても 配偶者に重婚した事実がある場合 妻に姦通した事実がある場合 配偶者に刑法上の罪を犯し処罰された事実がある場合 配偶者または配偶者の直系尊属から虐待や侮辱を受けた場合 配偶者から悪意をもって遺棄された場合 配偶者が自 3

己の直系尊属に虐待や侮辱を加えた場合 配偶者の生死が数年間不明である場合には 裁判所に離婚請求の訴を提起すれば 離婚が認められると規定していた 実際に 朝鮮の裁判所で離婚請求訴訟の審理を担当していた判事は 配偶者に重婚した事実がある場合 妻に姦通した事実がある場合 配偶者に刑法上の罪を犯し処罰された事実がある場合 配偶者または配偶者の直系尊属から虐待や侮辱を受けた場合 配偶者から悪意をもって遺棄された場合 配偶者が自己の直系尊属に虐待や侮辱を加えた場合 配偶者の生死が数年間不明である場合には 性別にかかわらず離婚請求を容認していた このことから 朝鮮の裁判所においては 判断を下すにあたって 明治民法の規定が一種の判断基準として作用していたと言える また このような判決が下された理由は これまでたびたび指摘してきたように 離婚請求訴訟の審理を担当していた判事の大部分が 法学教育機関で明治民法を学び 裁判所において明治民法に関する実務経験を積んできた いわば 内地ノ司法事務ニ慣熟シタル人 であったためであると考えられる もし 1910 年代以降も かつて地方官兼判事として裁判所に勤務していた者が朝鮮の裁判所の判事の大部分を占めるような状態が続いていたとすれば このような判決の下し方にはならなかったであろうし 1910 年代を通じて女性を原告とする離婚請求事件が増加していくということもなかったであろう 最後に今後の課題について述べておきたい 本稿では 1910 年代 植民地朝鮮の裁判所に提起された離婚請求事件に対して 裁判所がどのように判決を下していたのかを明らかにし またなぜそのような判決が下されたのかを考察することに重点を置いていた そのため 当時 離婚請求訴訟を提起した女性が置かれていた状況などについては ほとんど言及することができなかった したがって 今後の研究では 当時 離婚請求訴訟を提起した女性が どのような経路を通じて離婚請求訴訟の存在を知ったのか また 当時 離婚請求訴訟を提起するには少なくない費用がかかったにもかかわらず なぜ訴訟を提起してまで離婚をしなければならなかったのか などを明らかにする必要がある また 本稿では 朝鮮民事令の改正以前までを分析対象としていたが 今後は 1920 年代以降にも分析対象時期を拡大し 植民地朝鮮における民事訴訟の運用実態の全体像を具体的に明らかにしたい 4