ガダルカナル島北東に位置するサボ島周辺海域には ガ島海戦において日本海軍及び連合軍の艦船が夫々半分ずつ合計 48 隻沈没している 筆者は職業柄海軍的な業務を行っていることから サボ島北部海域に沈没し 且つ未だ位置が特定されていない日本海軍の戦艦 比叡 霧島 などを探索したいと希望しているが本稿ではふ

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Transcription:

ガダルカナル島慰霊の旅 昨年 (2012 年 )10 月ソロモン諸島ガダルカナル島の慰霊巡拝に参加した 太平洋戦争中において ガダルカナル島 ( 以下 ガ島と呼称 ) を中心として陸戦と海戦が繰り広げられたことは周知のことであり その内容は幾多の書で発表されている 従って本稿では ガ島の陸戦を主体として 慰霊に訪れた地の感想と伺った話などを記す ガ島は東京から南東約 5,400km に位置し ソロモン諸島の南部に点在する島々のひとつである 東西約 130km 南北約 40km 面積は 5,336km 2 であり 愛知県又は千葉県ほどの大きさと言われ かつてはイギリスの植民地であった 日本軍は 米豪遮断作戦のため ラバウル以南の前進航空基地としてガ島に飛行場建設を行った しかし その完成間近にあたる昭和 17 年 8 月 7 日未明 突如米軍の第 1 海兵師団約 2 万人が上陸するという奇襲攻撃を受け 飛行場は連合軍側に制圧されてしまった 同年 8 月 18 日 北海道旭川の第 7 師団歩兵第 28 連隊一木清直大佐の部隊 ( 一木支隊 ) は これに反撃するためにガ島タイボ岬に上陸し 以後昭和 18 年 2 月に日本軍が撤退するまで 約半年間ガ島の陸戦が展開された この間投入された陸軍兵力は 福岡の第 18 師団歩兵第 35 旅団川口清健少将 ( 第 35 旅団司令部及び歩兵第 124 連隊基幹 岡明之助大佐などの川口支隊 ) 仙台の第 2 師団歩兵第 4 連隊基幹の那須弓雄少将 ( 青葉支隊 ) 仙台の第 2 師団丸山政男中将 名古屋の第 38 師団歩兵 230 連隊東海林俊成大佐 ( 東海林支隊 ) の部隊計約 3 万 2 千名で 戦没者は約 2 万 1 千名余 ( 戦死 1 万 4,550 名 戦病死と言われているが殆ど餓死 4,300 名 行方不明 2,350 名 ) と言われている 辛うじて 1 万 1 千名弱がガ島から生存撤退している 奇跡の撤退と言ってもよい 左写真が ラバウルから出撃した台南航空隊の撃墜王で零戦パイロット坂井三郎機が 米急降下爆撃機群と遭遇し 瀕死の重傷を負いながらも辛うじてラバウルに帰還した因縁の上空である 写真 1 ガ島上空からサボ島を臨む 写真 2 日本軍に撃沈された米輸送船 1

ガダルカナル島北東に位置するサボ島周辺海域には ガ島海戦において日本海軍及び連合軍の艦船が夫々半分ずつ合計 48 隻沈没している 筆者は職業柄海軍的な業務を行っていることから サボ島北部海域に沈没し 且つ未だ位置が特定されていない日本海軍の戦艦 比叡 霧島 などを探索したいと希望しているが本稿ではふれない ガ島は以下に示す図 1 の通り 細長く中央に山岳地帯があり南北に川が流れている 北に流れている 10 数本の川がこの島での戦いに大きな地勢的な意味を持ったと考える 図 1 ガダルカナル島地図 米海兵第 1 師団約 2 万人が上陸したテテレ海岸 レッドビーチ ( 写真 3) 波穏やかな遠浅を思わせる 優しい海岸であるが 上陸用舟艇 水陸両用戦車などで物々しく上陸したと想像する ( 写真 4) 写真 3 テテレ海岸 レッドビーチ 写真 4 水陸両用戦車 昭和 17 年 8 月 18 日一木支隊約 900 余名がタイボ岬 ( タシンボコ ) に上陸 テナル川畔で米海兵第 1 連隊と激戦 写真 5 一木支隊鎮魂碑 写真 6 米軍ブローニング機関銃 2

旭川健児はヤンキーものとせず意気軒昂で 早くケリをつけたい一心から自然と白兵戦の突撃を敢行した 気がついたら同僚兵がバタバタ殺られ信じられない光景だったと生き残り兵が語っている 部隊はほぼ全滅し 一木大佐はその場で自決 鎮魂碑がある ( 写真 5) 日本軍の白兵突撃( 肉弾銃剣突撃 ) を阻止する米軍の陣地構築の土木技術と機関銃 ( ブローニング機関銃 ) や迫撃砲を始め重砲の火力が戦闘の優劣を決めた ( 写真 6) この一戦で米海兵隊は日本軍に対する戦闘に自信をもったと言われる ガ島争奪戦の原因となったルンガ飛行場 ( 米名ヘンダーソン飛行場 ) は現在ホニアラ国際空港として使用されている 写真 7 ルンガ飛行場 写真 8 ホニアラ国際空港 川口支隊が昭和 17 年 8 月 31 日夜 一木支隊と同じタイボ岬に上陸 ルンガ岬 ~マタニカウ川 ~アウステン山 ~ルンガ川経由しルンガ飛行場へ ( 写真 7 10) 渡邊大隊黒木中隊が突入成功するが後続なく総攻撃失敗 同部隊はマタニカウ川東側に集結後 マタニカウ川河口 ( 写真 11) でグリフイス中佐の米軍 3 個大隊と舟艇で逆上陸攻撃しようとするロジャース大尉の部隊と交戦し殲滅 米軍 900 名以上の戦死者を出し米軍撤退とある 写真 9 アウステン山周辺の地形 写真 10 僅か 5km 先のルンガ ( ヘンダーソン ) 飛行場 写真 11 マタニカウ川河口 3 写真 12 タサファロング輸送船鬼怒川丸の残骸

第 2 師団が昭和 17 年 10 月 14 日コカンボナとタサファロングに上陸 ( 写真 12) アウステン山南部迄 の丸山道 ( 第 2 師団長丸山中将の名をとり丸山道と呼称 ) が貫通し 総攻撃を 2 回実施するも失敗に終 わった 写真 13 ムカデ高地からルンガ河 写真 14 ムカデ高地第 2 師団慰霊碑 写真 15 アウステン山ギフ高地岡部隊激戦地 写真 16 日本兵の鉄かぶと 日本軍全滅の危機から救ったギフ高地の岡部隊は ( 写真 15) ガ島戦撤退時に矢野部隊の活躍と同様重要な戦いを行った アウステン山 岡部隊は 米陸軍第 25 師団ライト大佐とラーセン大佐指揮の各部隊と数度死闘戦を行い数多くの米兵を山斜面で戦死させたとある 見晴台では香港攻略戦の英雄 若林東一太尉 ( 当時の大映俳優 長谷川一夫が主演した映画 あとに続く者信ず のモデルとなった 軍曹から士官学校へ 陸士 52 期 部下に慕われ信認された優秀な指揮官であった ) が戦死している 今年 4 月靖国神社で工兵第 2 連隊の生き残りで元軍曹 ( ガ島従軍時は兵か ) 金泉氏のガダルカナル作戦の講演があった ( 写真 17) 同氏言わく昭和 17 年 10 月カミンボに 1 週間の携行食料を持ち上陸 ( ガ島とは知らされず ) したが 食料は友軍に即盗まれたとのことで 地図もなく磁石を頼りに丸山道を啓開 ルンガ河を渡り飛行場へ進撃した 丸山道 40km の道筋をつけるに 4~5 日かかった 4

写真 17 金泉氏講演会 写真 18 烏來高砂義勇隊主題紀念園区 ジャングル啓開には兵補の台湾高砂族が非常に頼りになったが 彼らの中からも戦死者が出た 戦後台湾へ行く時は必ず高砂族の墓がある烏来に墓参するそうだ ( 写真 18) 歩兵が不足していたため歩兵として戦闘に参加した が 米軍の砲撃に不発弾が多く命拾いをした 昭和 18 年 2 月の撤退まで生き残る為何でも食べた 海 岸の草やルンガ沖海戦で海岸に流れてきた沢山の魚を米軍に撃たれない様注意しながら拾った 海軍か ら少しづつ食料の補給があった 今週の肉として配給があった ( 多分人間の肉か ) アメーバ赤痢は炭 を食べれば治ったが マラリヤ患者は助からなかった デング熱は暑くて陣地で素裸になった 持ち場を離れ遊兵化した乞食同然の兵がいて 日本人が日本人を狙う泥棒が頻出していた そして自殺者が多かった しかしながら日本が負けるとは思わなかった 足を負傷し 撤退することが出来ない同じ村の出身兵に助けを求められたが糧食を与え励まし 泣く泣 くその場を去った ( 帰還せず戦死 ) 帰国したらその兵の姉に散々叱責され辛かった 双眼鏡のレンズで火薬に火を付けたやり方で火の交付所 ( ヤシの実から糸を作り ) があった 撤退命令が出て栄養失調の状態になりながらも戦友 2 人とカミンボへ向かい 昭和 18 年 2 月 4 日駆逐 艦のタラップにかろうじて登り艦上でおにぎりを貰った 登る力がなく自決した兵もいた ブーゲンビ ル島に帰還しラバウルからパラオ経由でマニラへ 戦友が日本は負けると云っていたが それでもふる さとの親兄弟の為に戦う事と勝つ信念を持っていた ガ島戦の経験から塩を大事にした 受けた恩は石に刻め かけた情は砂で消せ 今は弔の日々であ ると金泉氏は語る 写真 19 日本軍と米軍の手榴弾写真 20 日本軍の水筒と飯盒写真 21 タンベア第二師団慰霊碑 写真 22 タンベア第二師団慰霊碑写真 23 エスペランス岬写真 24 エスペランス岬での日本兵遺骨 5

昭和 18 年 2 月日本軍は多数の戦没者を残し エスペランス岬 タンベアから ( 写真 21 22 23) 駆 逐艦に収容されて撤退した 今回参加した慰霊の旅の最中 現地の老婆が我々の前に遺骨 ( 写真 24) を持って弔ってほしいと言っ て来た 未だに遺骨が出るそうだ 国 ( 全国ソロモン会など民間支援も含み ) の遺骨収集作業が続いて いると聞く このガ島戦は 日米の天 王山と言うべき陸軍 海軍 の共同した総力戦で日本の 軍首脳は戦力 ( 国力 ) の限 界を知ったと思う しかし この度の慰霊で日本兵強よ しと実感した 時代が違う 写真 25 使用頻度が少なかったとされる日本軍重砲 とは言え 今の日本人にこれだけの強靭性と不撓不屈の精神を期待できようか この強さは戦前の社会環境もあるが 村落を大事にした絆と儒教的な精神を幼少から教育された他ならないと思う 写真 26 弾薬不足で充分使用出来な 写真 27 ほとんど使用されなかっ その精神構造をガ島戦 かった日本軍歩兵砲た日本軍野戦高角砲 ( 以後の戦闘でもあったが ) では大和魂と言う 物事を科学的 合理的にとらえない日本人の体質的欠陥を持っていた 戦争は物理 的破壊力が基礎である 精神力一辺倒で攻撃に重点をおき 補給など後方業務を軽んじた為 ガ島及び その後の戦闘で幾多の戦死者を出す結果になったと思う 戦後 GHQ は この恐るべき日本兵 ( 人 ) の 強靭性を弱体化させるため 日本人の骨抜き教育を極端に実施し 今もその流れを憂慮している識者が いる 日本は自由で民主的国家であるが 非日本人的 売国奴的発言をする政治家 評論家 ジャーナ リストがいるが如何なものかと思う時がある 現代の日本人に求められるのは 地域を大事にする絆と儒教的な教えや強靭性 不撓不屈の精神の保持と事象を科学的 合理的にとらえる思考が必要だと思う その反省 教訓がなければガ島戦はじめ 先の大戦で国家 国益の為戦没された英霊に申し訳が立たない 改めてガ島で亡くなられた英霊に対しご冥福をお祈りする次第である この度の慰霊の旅では 現地のソロモンキタノメンダナホテルの保科研吾さんらスタッフの方にお世話になり感謝を申し上げたい ガ島の慰霊の旅は驚きと共に一刻も早く遺骨収集を急ぐべきだと感じた 尚 本書は 元陸軍大尉越智春海氏の著書 ガダルカナル 及び平成 25 年 4 月遊就館で開催されたガダルカナル作戦の講師金子潤子郎氏のご講演の内容を引用し参考にさせて頂いた 又 1 部ガ島の写真を慰霊巡拝に参加した山形県酒田市の吉宮正氏よりご提供頂いた 本稿を借りて厚く御礼を申し上げる 6