酒々井町史  通史編

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豊 住 直 樹 岩 沢 雅 司 渡 邉 幸 彦 7 中 林 信 男 高 橋 功 7 竹 原 奈 津 紀 滝 沢 義 明 コ 9 片 見 明 コ ム ム 高 橋 進 小 峰 直 ム 中 島 克 昌 55 0 松 島 誠 55 滝 邦 久 関 竹 夫 嶋 田 道 夫 信 7 栗 原 孝 信 ム 竹 井

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( 以 下 略 ) 番 号 67 年 代 元 禄 14 年 8 月 表 題 能 登 国 高 都 合 并 郡 色 分 目 録 法 量 不 明 能 登 国 高 都 合 并 郡 色 分 目 録 内 羽 咋 郡 高 八 万 千 七 百 八 拾 八 石 八 斗 九 升 八 合 百 九 拾 三 ケ 村 鹿 嶋

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( 株 ) 荒 井 建 設 興 業 市 内 南 房 総 市 和 田 町 布 野 205 番 地 水 道 施 設 工 事 特 定 B ( 株 ) 安 房 環 境 衛 生 市 内 南 房 総 市 千 倉 町 瀬 戸 2344 番 地 76 管 工 事 一 般 B 安 房 住 宅 設 備 機 器 ( 有

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ごあいさつ

区分の欄に転 編とある学校は 転 編入学試験両方を実施します 転とある学校は 転入学試験のみ実施します 県立高等学校全日制の課程 学校番号 区分 学校名 学科名 試験日 備考 1 転 編千葉 普通 8 月 9 日 3 年は科目選択に制限有り 2 転 編千葉女子 普通 8 月 10 日 - 家政 8


第6回千葉県内企業のメーンバンク実態調査

同 上 5,000 山 奥 町 山 奥 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 40,000 三 万 谷 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 5,000 田 尻 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 95,000 間 戸 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室

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6/ 小 高 孝 二 中 嶋 憲 一 小 町 谷 直 樹 m 愛 知 駒 ヶ 根 市 駒 ヶ 根 市 6/19 松 下 正 浩 m 静 岡 6/19 森 田 俊 一 5: m 愛 知 6/19 中 澤 俊 喜


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1 東京区部内陸 0 東京都 ( 千代田区 中央区 港区 ) 東京都 千代田区 0 東京区部臨海 0 東京都 ( 千代田区 中央区 港区 ) 東京都 中央区 0 東京区部臨海 0 東京都 ( 千代田区 中央区 港区 ) 東京都 港区 0 東京区部臨海 1 東京都

第 日 0 年 0 月 08 日 第 節 試 合 時 間 : 0 時 間 分 勝 敗 0 分 ホンダエンジニアリング ( 投 手 ) 岡 﨑 建 斗 x 勝 0 敗 0 分 ( 投 手 ) 浅 野 公 太 ( 捕 手 ) 佐 藤 輝 長 岡 孝, 川 田 寛

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では 尋ねます 参勤交代の目的は何でしょうか? えっ 大名の経済力を削ぐため つまり大名を窮乏化させるために決まっているじゃ ない と答えた方は 残念ながら 正解ではありません 実は 生徒に聞いても ほとんどが 大名窮乏化 説に対して <YES> と答えてしま います じゃ なぜそう思うの? と突っ

平 成 26 年 第 1 回 益 城 町 議 会 臨 時 会 目 次 7 月 16 日 ( 第 1 日 ) 出 席 議 員 1 欠 席 議 員 1 職 務 のため 出 席 した 事 務 局 職 員 の 職 氏 名 1 説 明 のため 出 席 した 者 の 職 氏 名 1 開 会 開 議 2 日 程


M 田 村 博 37 ( 宝 達 志 水 陸 協 ) 2 位 13"58 M 西 村 隆 則 39 ( 福 井 北 ) 1 位 12"30 ( 女 子 ) W 福 田 外 枝 75 ( 石 川 マスターズ) 1 位 21"65 W 北 田 聡 子 42

Transcription:

第八節野馬牧場と牧士一牧の起源と経過牧と牧士の起源江戸時代 下総の国には徳川幕府直轄の小金五牧と佐倉七牧とがあって付近住民に大きな影響を与えていた 徳川幕府の野馬牧場経営の目的は 広漠たる下総台地の原野を利用して 軍需用 産業用として最重要であった馬を生産することにあった 佐倉牧の規模は印旛 香取 山武 千葉四郡に跨がり 面積は約一八〇 七〇平方キロメートル余りで 酒々井町と成田市を合わせた面積よりも広く 酒々井町の九倍余りもあった 各牧別の面積は5 49 表のようになる(注資料によって甚だしい相違があり真の面積は把握しがたいが 復原図割出しによるものが最も近いと思われるので 本稿ではこれを採用する) 最も広いのは柳沢牧(八街町中央部)で次いで高野牧 矢作牧とつづき 狭いのは油田牧(佐原市の一部)であった 野付村は二〇九か村(旧村)で そのうち印旛郡が一二七か村と六〇パーセント余りとなり 次いで山武郡四〇か村 香取郡三七か村 千葉市五か村となっている 野馬の数は年度によって違いがあるが 七牧で約三〇〇〇頭前後 捕馬の数は毎年二〇〇頭前後となっていた 下総台地にあった野馬牧場の起源については 諸説 印旛郡誌 下総牧場沿革考 松戸市史 などがあって確言するのは困難であるが 酒々井町の青柳幸男家 島田竜夫家に伝わる古文書などによって推察すると 千葉氏の居城が 当町の本佐倉字根古谷にあった天正年中ごろに形が整ったものと解釈される 印旛郡誌 の 牧士の起源 では下総牧は相模の北条氏政が 天正十一年(一五八三)千葉邦胤にすすめて上総 下総の原野に馬牧を作らせたのが始めとしている 氏政は配下であった千葉氏の戦力強化を図ってのことであろう

邦胤は家臣の青柳四郎右衛門 明谷四郎左衛門 宮沢兵部の三人に命じて馬牧の経営にあたらせた よってこの三人が牧士の始祖であるとしている 明治二十四年(一八九一)発行の 下総牧場沿革考 大正二年(一九一三)発行の 印旛郡誌 はともに その史料は青柳 島田両家の古文書を参考としたとされているので 両書ともに同趣旨の記述となっている 天正十八年(一五八九)小田原合戦によって 北条氏と共に千葉氏は滅亡 関東地方は徳川家康の所領となった 当然 馬牧も徳川氏支配となり 牧士役の前記の青柳 明谷 宮沢の三氏も徳川の家臣に加えられた 島田家の由緒書によると 慶長十九年(一六一四)に牧士として徳川幕府より任用されたとしている 千葉氏滅亡の天正十八年から慶長十九年までの二〇数年間の消息は詳らかでないが 青柳氏相伝古文書 によると 家康の代に馬牧は貝方(海保)丹波支配となり 宮沢兵部に代わって藤崎大学が任用され さらに富田伊豆支配となってから 明谷四郎左衛門の死後その子が役儀につけなかった為に 綿貫右馬介と佐瀬刑部の両人が任用されて 前記青柳 藤崎に加えて四人となったとしている 台徳院(徳川秀忠)の代 富田彦兵衛が野馬支配の時に青柳四郎右衛門の子 与七が島田家の聟養子となり 島田長右衛門を名乗り 青柳に代わり牧士となって以来 島田家が代々嗣ぐことになったとしている いずれにしても下総牧が整備されたのは 慶長十九年に牧士が徳川氏によって正式に任用されたころと考えられる

佐倉牧の成立慶長十九年 このころ下総牧は佐倉牧と小金牧に分離されたようである 小金牧は県北の柏市 松戸市 鎌ヶ谷市 船橋市 印西町に跨がった原野を利用して作られ 高田台牧 上野牧 中野牧 下野牧 印西牧の五牧となっている 佐倉牧は柳沢牧(八街市北部)高野牧(富里町高野 十倉) 内野牧(富里町七栄 成田ニュータウン) 小間子牧(八街町南部) 取香牧(成田市三里塚付近) 矢作牧(大栄町 成田市北東部) 油田牧(佐原市の一部)の七牧があり このうち柳沢 高野 内野三牧は代々の佐倉城主が幕府から管理を委託されて 通称佐倉三牧方 又は城主方と呼ばれていた 小間子 取香 矢作 油田四牧は小金(松戸市)に在住していた野馬奉行綿貫夏右衛門が幕府より預けられて 四牧方と称され 酒々井町の島田長右衛門方に野馬会所を設けて ここを中心として四牧方牧士が直接の管理にあたっていた 佐倉牧が三牧方と四牧方に分離されたのは いつごろであったろうか 島田家文書 佐倉牧場起元書抜 (町史料集(四)七七)には次のように記されている 享保七寅年正月十三日 佐倉七牧為見分御代官 小宮山杢ノ進殿 石川伝兵衛殿牧々御見分相済 同年四月七日 酒々井町島田長右衛門宅ニ於テ 佐倉領主 稲葉丹後守殿御家来 今峰舎人 小山仁左衛門 目黒銀左衛門 小金綿貫夏右衛門 同苗平内殿並ニ牧士拾人立会之上 三牧佐倉領主へ御預ケ 絵図面相添 牧士三牧四人 四牧六人ト改正ス とあり 又 牧士並木氏の筆になる 野馬方日記 (町史料集(四)七六 7)には 一享保六丑年 綿貫夏右衛門様定奉行ニ被仰付候ニ依リ 江戸 御奉行御出不被成候 (中略) 一享保寅七年佐倉御城主 稲葉丹後守様江 内野牧 高野牧 柳沢牧御預ケ被遊候ニ付 丹後守様御内 野馬掛リ御役人御払江立会候故 従江戸御立会役人御出不被成候 とある 以上二つの文書によって 三牧と四牧に分離されたのは 享保七年であり 新田開発で知られた大寒 小宮山杢之進昌世の時代であり 将軍吉宗の享保の改革の一環として 三牧と四牧を分離して野馬の増産を図ったものと考えられる 三牧と四牧の分割管理は 明治政府によって牧場は石になるまで続いた

牧の管理下総牧の草創期 千葉氏時代の野馬牧場の管理は 青柳家文書 島田家文書 などによると 前記の青柳 明谷 宮沢の三氏が責任者であったと解せられるが 徳川時代となり規模が拡大 整備されると徳川氏の家臣に支配権が移り 牧士はその下に従属するようになった 江戸時代初期の佐倉牧の支配については 青柳氏相伝古文書 佐倉牧場起元書抜 (町史料集(四)七七) 諸手控帳 野馬方日記 (町史料集(四)七六 7)などに記されているが 各書ともそれぞれ多少のずれがある ここでは 佐倉牧場起元書抜 と主として概要を記す 徳川家康の代 慶長十九年(一六一四)から海保丹後守に預けられ 牧士は島田長右衛門 藤崎大学 佐瀬刑部 綿貫右馬介の四人であった 二代秀忠の代 元和元年(一六一五)から大久保重兵衛預り 寛永七年(一六三〇)から野村藤三郎預り 代官関口作兵衛が奉行となり 牧士は丸弥兵衛 三橋茂兵衛の二人が増員されて六人となる 三代家光の代 寛永十二年(一六三五)になると 並木五郎右衛門 四宮小右衛門 渡利次右衛門 藤崎惣十郎の四人が加えられて一〇人となる 四代家綱の代 寛文二年(一六六二)牧場改正により五牧を七牧に区分した 従来は 柳沢 小間子が一牧であった 八代吉宗の代 享保七年(一七二二)代官小宮山杢之進昌世 石川伝兵衛が七牧見分後 柳沢 高野 内野の三牧は佐倉城主に預け 小間子 取香 矢作 油田の四牧は綿貫夏右衛門預けとなった 徳川幕府の支配体制の整備 野馬の需要度増加などによって 佐倉牧の管理体制も変化してきたが 享保の改革以降は5 50 表の 歴代の野方代官並に野馬方(掛)代官 によって支配されることになった 5 50 表中 享保七年の小宮山杢之進昌世から 寛政五年の浅岡彦四郎まで

は地方代官の兼務であったが 同年御小納戸頭取岩本石見守が小金 佐倉野馬牧場取締扱に任命された以後は江戸の野馬役所が一切の実権を握り その支配下に置かれるようになった その管理体制は5 40 図の管理系統図式によって行われた

島田家文書(町史料集(二)(三)(四))は天明五年(一七八五)以降 明治八年(一八七五)までの 野馬御用日記 が主であるが これによると管理の実権は江戸の野馬役所が握っており 捕馬 御払い 土手普請 植林 伐木など重要な事項は すべて江戸の野馬役所の指示をうけて実施していた 江戸の野馬役所の頭取は5 50 表で見る通り数年で役替えになっているが その下で実務にたずさわっていた野馬方御手役衆は世襲によって継がれていた 手役衆の人数も牧場の整備にあわせて 寛政五年(一七九三)の六人が 同十三年には七人 さらに享和四年(一八〇四)には一〇人に増員されている 寛政五年 岩本石見守の頭取就任時の御役名覚によると左の六人であった 石見守家来御用掛り元〆菊田弾兵衛御用掛り中井猶之進野馬方園田七平松崎弥惣左衛門野馬方書役幸田孫十郎菊地善之助右之通御座候丑十一年十二日(町史料集(二)四 68 )享和四年の野馬方手役衆園田七平松崎弥惣左衛門川田庄太夫沼田作兵衛青木兆一郎木村官兵衛幸田孫十郎小林弥十郎斉藤与平次

目黒長十郎右のうち 松崎 幸田 目黒の三氏の子孫は世襲によって幕末まで続き 明治政府に任用されている