はじめに 藩政期の金沢城下町における土地の占有率については 明確な数字は出されていませんが 城や藩の施設 侍屋敷地 町人地に分けてみた場合 城下図を見ても侍屋敷地が過半を超えていることがわかります 金沢城下の形成は 藩士に屋敷を与え城下に集住させたことが大きな要因でした 慶長 16 年 (1611)

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同 上 5,000 山 奥 町 山 奥 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 40,000 三 万 谷 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 5,000 田 尻 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 95,000 間 戸 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室

解いてみましょう ( 第 3 講 )A について 1 問われている ( 求められている ) ことを確認する ア イ について書く の関係に与えた影響について書く ウ の関係に与えた影響について書く エ に触れながら書く オ 3 行 (90 字 ) 以内で書く 2 資料の内容と教科書 ( プリント )

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4 参 加 資 格 要 件 本 提 案 への 参 加 予 定 者 は 以 下 の 条 件 を 全 て 満 たすこと 1 地 方 自 治 法 施 行 令 ( 昭 和 22 年 政 令 第 16 号 ) 第 167 条 の4 第 1 項 各 号 の 規 定 に 該 当 しない 者 であること 2 会 社

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ARCHITREND ZERO ボリューム計画図編

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はじめに 藩政期の金沢城下町における土地の占有率については 明確な数字は出されていませんが 城や藩の施設 侍屋敷地 町人地に分けてみた場合 城下図を見ても侍屋敷地が過半を超えていることがわかります 金沢城下の形成は 藩士に屋敷を与え城下に集住させたことが大きな要因でした 慶長 16 年 (1611)3 代藩主利常は 西村右馬助ら 5 人に 金沢屋敷奉行 を申し付け 藩士の知行高 ( 石高 ) に応じた侍屋敷の面積の定や屋敷に関する法度などを出し 以後順次屋敷地を与えていきました この時には 高岡で隠居していた 2 代利長に仕えていた藩士 高岡衆 の屋敷地の面積も定め 金沢へ集住させることになっていました これらが城下における大規模な都市計画の最初ともいえます これらに基づき 屋敷地が配置され 寛永の大火を経て 城下が形成されていきました その後 小松に隠居していた利常が万治元年 (1658) に亡くなり 翌万治 2 年小松で利常に仕えていた藩士の屋敷地を金沢で与えることになりました この時も改めて知行高に応じた面積の定など侍屋敷の規定が出されています 藩士に侍屋敷をどのように与えるか それが藩政にとって重要な事であり 普請会所 ( 屋敷方 ) が管轄していますが 決裁は年寄がしていました 加賀藩では本多家 ( 五万石 ) をはじめ高禄の藩士がおり 陪臣といわれる家臣を抱えていました そのため 万治 2 年の定では 三千石以上 に限られますが 高禄の藩士には 下屋敷 も与えられました 下屋敷 の存在は金沢城下町の特徴の一つといえます 史料の中には 下屋敷 を与えられた藩士の屋敷は 上屋敷 と記すことは少なく 他の藩士と同様 居屋敷 等と記されいます それは 上屋敷 は あげ ( 揚 ) 屋敷 で 藩に収公された意で使われる場合が多いからです 石高に応じた面積については 慶長 16 年では間数表記 ( 一辺 一辺 ) 万治 2 年では歩数 ( 坪数 ) 表記で 基本的な面積は変わっていませんが 石高に応じた面積と屋敷地の面積が一致しないことや屋敷地の移動など様々な実態があります 今回の展示では 加賀藩の侍屋敷地に関する実態の一部を紹介していきます 御屋敷并上御屋敷及毛受之図 天保 3 年 (1832) 33000 石長家の居屋敷 ( 左半 ) と下屋敷 ( 右半 ) 長家御屋敷并御家中之図 095.33-123 居屋敷は約 10200 歩 ( 文政 2 年調 13.0-729)

居屋敷と下屋敷 慶長 16 年 金沢侍屋敷の覚 御家中下屋敷 万治以前御定書 16.23-18 2 高 一万石 と 九千石 は40 40 間 (1600 坪 ) で 万治 2 年の 千六百歩一万石より九千石迄 と同事である 下屋敷の面積についても 5000 石で 一町二段半 (3750 坪 1000 石当たり750 坪 ) で 万治 2 年の 七十五歩人持下屋敷百石当たり と同面積である なお 万治 2 年には下屋敷は人持で3000 石以上に限られた 33000 石の長九郎左衛門の下屋敷の面積は24750 坪である 右図は江戸中期 (1790 年頃 ) の城下図の石引辺りである 表紙の延宝年間金沢城下図 (1670 年頃以下 延宝図 と略す ) と比較すると 永原求馬 (3000 石 ) の屋敷地は延宝図では 永原左京下屋鋪 であり 山崎小膳 (4500 石 ) の屋敷地は 山崎庄兵衛 であるが その直前寛文 7 年 (1667) の 金沢図 ( 石川県立図書館蔵 ) では 山崎兵部下屋敷 とあり 永原 山崎の居屋敷は現在の兼六園東側にあった 永原 山崎両家とも当初下屋敷であった所に居屋敷を移している このように下屋敷に居屋敷を移したことが確認できるのは 八家の奥村 横山家 生駒家 後述する津田家などがある 知行 3000 石の場合 居屋敷は900 歩 下屋敷は2250 歩で 2 倍以上の面積であった 永原家は居屋敷の替地を下屋敷地に拝領し 下屋敷の拝領は 宝永 2 年 (1705) に笠舞村の百姓地を藩が御用地とし下屋敷とした 山崎家は下屋敷に居屋敷を移すが 右図の表記を見る限り 居屋敷外は下屋敷 ( 山崎家中 ) のままで 不足分を請地 ( 山崎請地 ) して下屋敷としたようである 金城下絵図 ( 天明 ~ 寛政期 ) 大 1006

前田中務 ( 備前家 7000 石 ) の屋敷は現在の金沢駅前周辺にあった 延宝図では備前家の屋敷は大手町の八家前田対馬家 (17000 石 ) の隣であった 惣構の外にあった下屋敷近くに移っているが この地は 伊予西条城主一柳監物が 幕府から封を除かれ 加賀藩に預けられた時の屋敷地の一部であり 監物は元禄 15 年に亡くなっていることから その後に移ったと考えられる この地の面積は約 2200 歩 万治 2 年の定では 7000 石の場合 1400 歩であり 800 歩程多いことになる なお 隣接地の 前田将監 (3200 石 ) 屋敷地については 延宝図では 前田権之助下屋敷 とあり 居屋敷は惣構を挟んだ東末寺の向かいにあった しかし 藩政後期以降では 居屋敷と下屋敷の場所が入れ替わり 城から離れた所を居屋敷としている 慶長 16 年の定では 下屋敷について 此已前之屋敷之通 惣構之外ニ而可遣候事 とあり 下屋敷は外惣構の外に配置された 下屋敷を拝領できる藩士の居屋敷が 惣構の外にある下屋敷やその周辺に移っており 城との遠近より屋敷地の広さを求めた様子が窺える 前田中務屋敷図 16.35-95 長家御上屋敷並御家中御絵図図籍下 ( 天保 3 年 ) 095.33-133 現在の元菊町辺りにあった長家の下屋敷の測量図である 隣接地には 津田乙三郎 (10000 石 ) 殿御下屋敷 があるが 長家の下屋敷内に 津田殿江御貸地 があり 万治 2 年の定には 下屋敷之内地子ニ而貸置候者貸申分可取上事 とあり 地代を取って貸すことは禁じていた なお 津田家の下屋敷が不足していたことが確認できる

拝領屋敷と請地 御屋敷拝領判帳 ( 明和 ~ 安永 ) 16.35-8 知行等に応じて定められた拝領屋敷の面積は 実態の区画された屋敷地と一致するわけではない それを調整するのが 請地 である 左の史料は 御歩で 定められた拝領屋敷の面積は70 歩である しかし拝領された現地は70 歩より大きく 外八歩八寸被下歩 外五十二歩一寸請地 と記されている 定められた面積より多い部分を 余歩 というが 余歩 が10 歩以下ならばそのまま拝領出来るため 被下歩 ( くだされぶ ) と記し 10 歩以上であれば 請地 として地子銀 ( 地代 ) を払わなくてはならなかった 下の史料は足軽組地の図で 足軽の拝領屋敷は 50 歩 足軽小頭は70 歩である 請込地十五歩 地子銀一匁八分上納 と記しており 15 歩を請地し 地子銀は町会所に上納している 定められた屋敷地の面積および余歩を確定するには 正確な測量が必要である 屋敷地を 打渡 ( 測量して渡 ) すときは 私共 ( 普請奉行か ) 并御普請方御横目 且又棟取之御算用者 御屋敷方下才許之者 同加人 御普請方手木足軽召連 ( 御屋敷方跡々格仕勤来候品之帳 16.35-2) とあり 地子町が関われば地子町肝煎 百姓地であれば十村 村肝煎が立ち会った 足軽組屋敷 ( 浅野町 ) ( 文化元年 ) 16.35-39

拝領屋敷の替地 候弐人百々分 当遅り速之之御次屋第敷奉願 可被下旨被仰出 御屋敷方留 16.35-4 元禄 7 年 (1694) から宝永 2 年 (1705) にかけて 200 歩程度の屋敷地を拝領したいと願い出て 認められた藩士の一覧である 同史料では18 人の藩士について記されているが その他にも8 人いたことが記されている 屋敷地 200 歩は150~240 石藩士の歩数である 屋敷拝領 ( 替地 ) を望むときは 屋敷願 を届けておかなければならない しかし 拝領の許可を得たことと 現実に屋敷が渡されることは別のことである 中川五郎右衛門は新知 岡田八左衛門 山岸七兵衛 本保林左衛門は分家により 新規に拝領を望んでいる なお 本保林左衞門は宝永元年に亡くなっている 替地渡方しらべ帳 16.35-5 茨木左大夫 (2500 石 ) の屋敷地は仙石町にあったが 宝暦 9 年 (1759) の大火により御用地 ( 火除地 ) として上地になり その替地として同年に 奥村主水請地上地 である田町 ( 約 3000 歩 ) と火除町 ( 約 1700 歩 ) が提示されるが 相望不申候 と断り 翌 10 年 竪町筋本多遠江守請地之内上ケ地 ( 約 900 歩 ) を替地とした これが 茨木町 の町名由来となる 茨木家の知行当たりの歩数は750 歩なので 余歩約 150 歩は本来請地となり 地子銀を払わなくてはならないが 余歩被下之候 先例ニ御座候 と 御用地の替地のためか 先例により請地ではなく拝領地扱いとなっている

大地縫殿左衛門の屋敷地は浅野川橋爪 ( 約 210 歩 ) にあり 相続時の知行 170 石で知行当たりの屋敷歩数は 200 歩であった その後 文政元年 (1818) と 3 年に各 100 石加増 計 370 石となり 知行当たりの屋敷歩数は 300 歩となった そのことにより約 360 歩の小尻垂坂の豊島小十郎上ヶ地に移っている 大地の上ヶ地には崎田在左衛門が入っている なお 打渡 とは測量して渡すことで 大地の屋敷は複雑な形状であるが 面積が算出しやすいよう測量されている また 測量せずに渡す場合は 引渡 である 屋敷打渡絵図 16.35-331 才所又七郎も名越彦右衛門も知行 150 石で 知行当たりの歩数は共に 200 歩である この史料では 又七郎の 元屋敷上ヶ地之内同人江受地相渡ス と 名越にも渡している これは 才所家の 150 石とは別に又七郎には新知で 150 石 合わせて 300 石相当の屋敷を拝領していたが 父が亡くなり新知 150 石分が除かれたため その分の屋敷地が上ヶ地となったのであろう 屋敷地の建物などの関係で一部を請地したものと考えられる 拝領地絵図面 16.35-36 岩田嘉久平達書 16.35-28 横山義六郎 (1000 石 ) が天保 11 年 (1840) に味噌蔵町に屋敷を拝領した一件である 義六郎は横山山城守 ( 隆章 ) の下屋敷内に居屋敷を構えていたが 下屋敷が手狭になったため 義六郎に新しい屋敷 ( 原田又六郎上ヶ屋敷 ) の拝領を7 月に村井靱負 ( 長貞 ) に願出 8 月 11 日 本多播磨守 ( 政和 ) から山城守へ許可を申し渡し 同日井上井之助 ( 普請奉行 ) から義六郎に又六郎の 上ヶ家 を買受けるよう伝えた そして本史料 8 月 20 日岩田嘉久平 ( 普請奉行 ) は義六郎に 大工見図り直段 に 御格之通二割増 の金額を28 日まで普請会所に上納すること 24 日に屋敷方役人を使わし渡すことを伝えた しかし 実際は24 日に測量のための杭 縄を用意させ 隣地の人にも立ち会いを求め 26 日に渡すことになった 屋敷地は拝領 建物は当人相互によることが原則であるが 原田家は又六郎の自害により断絶となったため 格 に従い買受け 上納したのである

貸屋敷 拝領屋敷の貸出 寺町常栄寺等上地測量図 ( 天保 6 年 ) 090-1347-8 天保 5 年 (1834) 津田兵庫庸久 (2500 石 ) が藩に対して貸屋敷 ( 藩から屋敷地を借りる ) を望み許可されている この家は源右衛門 (3000 石 ) から始まり 延宝図では広坂辺りに居屋敷 鱗町辺りに下屋敷を拝領していた 元禄年間に 2 代後の宗七郎が 元禄年間に居屋敷が御用地として取り上げられ 下屋敷の所に居屋敷を移した その時には下屋敷の替地は拝領しなかったようで 更に源右衛門庸貞代 ( 元文 ~ 安永 ) には知行が 2500 石となっていた 天保 5 年に青木多門 ( 普請奉行 ) が津田兵庫の組頭奥村丹後守 ( 栄実 ) を通じて本多播磨守 ( 政和 ) に貸屋願を依頼した史料では 追って替地拝領可被仰付旧記も有之候得共 御当節今更相願申義も甚恐入申由 と過去の替地による下屋敷拝領を遠慮し 貸屋敷を願い出たのである 貸屋敷地は寺町桜畠の常栄寺上ヶ地で 常栄寺は明和 2 年 (1765) 同じ寺町の笹ヶ町へ移っていた しかし その上ヶ地には郡地も含まれていた 12 月 20 日郡地を管轄する改作奉行 ( 高田幸助 島田権五郎 ) から津田兵庫あての史料に 郡地之分御貸屋敷の義は指支 相対請地の義は指支無之 とあり 津田兵庫は貸屋敷と相対請地が入り組んだ土地を家臣に与えることになり 藩と村方それぞれに地子銀を払うことになったのである 上の測量図には 御貸地 御郡地 や 御普請会所御定杭 御郡地御定杭 などの記載がある なお 幕末の城下図では この地について 津田ウケ地 等の記載が見られるものがある 天明 5 年 (1785) 小立野与力町に屋敷地を拝領していた明組与力中村弥次郎養昌 (100 石 ) は定番馬廻井上八十郎 (320 石 ) に家を払い 拝領屋敷を相対で貸し出した この届は与力裁許 ( 寺社奉行 ) の西尾隼人 三田村内匠 横山又五郎に出しているが 転居を知らせたものである 与力町の拝領屋敷に平士が借りていたことになるが 地子銀を取っていれば万治の定により拝領屋敷は取り上げになる 中村養昌一代記 38.27-1 展示史料と掲載史料は一致しない場合があります