学位論 の要約 ハイデガー哲学における歴史理解: 所与性の再経験としての歴史 と題した本稿は ハイデガー哲学の歴史理解が 所与としての伝統を 原理的な具体性 すなわち 私 今 ここ から経験し直そうとする動向を持つということを明らかにする そのために 以下の考察を経る 第一章 事実性の意味構造として

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熊 本 大 学 学 術 リポジトリ Kumamoto University Repositor Title プロスタシンを 中 心 としたNa 再 吸 収 血 圧 調 節 の 分 子 基 盤 の 解 明 Author(s) 脇 田, 直 樹 Citation Issue date





















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Title ハイデガー哲学における歴史理解 : 所与性の再経験としての歴史 ( Digest_ 要約 ) Author(s) 酒詰, 悠太 Citation Kyoto University ( 京都大学 ) Issue Date 2018-05-23 URL https://doi.org/10.14989/doctor.k21 Right 学位規則第 9 条第 2 項により要約公開 Type Thesis or Dissertation Textversion none Kyoto University

学位論 の要約 ハイデガー哲学における歴史理解: 所与性の再経験としての歴史 と題した本稿は ハイデガー哲学の歴史理解が 所与としての伝統を 原理的な具体性 すなわち 私 今 ここ から経験し直そうとする動向を持つということを明らかにする そのために 以下の考察を経る 第一章 事実性の意味構造としての機会的表現 は フッサール (Edmund Husserl/1859-1938) の 論理学研究 (Logische Untersuchungen) における 本質的に機会的な表現 (wesentlich okkasioneller Ausdruck 以下 機会的表現) (LU22:85ff.,552ff.) の意味構造を究明する 第二章でわれわれは ハイデガー (Martin Heidegger/1889-1976) における事実的生の意味構造を解明するが 機会的表現の考察により そのための準備を整えることが第一章の目的である このような狙いのもと 第一章では以下のことを考察する まず 論理学研究 における表現一般の理解を確認する そこで明らかになるのは 表現一般の意味の本質が 指標との区別において意味志向作用に求められるということである ( 第一節 ) 次に 表現一般の意味の究極的な本質が 意味志向作用が向かう対象の この主観的作用からは独立な 客観的な同一不変性にあるということを明らかにする ( 第二節 ) 次に 論理学研究 における 語り手が経験する 機会的表現の意味構造が 通常の表現に即したものであることを確認する そして 機会的表現でも主観的作用にとり超越的な客観的対象が普遍性を担保することを見る ( 第三節 ) これに対して 聞き手が経験する 機会的表現の意味構造は 普遍的ないし一義的な指示と個別的ないし多義的な被指示という二つの意味契機を持つ 普遍的な指示が宙を漂うがゆえに 多義的な指示される意味を特定するために聞き手は直観的状況を参照する必要があるということが明らかになる ( 第四節 ) 続いて 機会的表現についての以上の理解に基づき 語り手の意味提供作用に求められた普遍性が 機会的表現では不可能であることを明らかにする その結果 明らかとなるのは 語り手においても 普遍的な指示が宙を漂うがゆえに 多義的な指示される意味を特定するために 聞き手と共有された直観的状況を語り手は参照する必要があるということである これにより 聞き手が経験する 機会的表現の普遍的指示と個別的被指示という二つの意味契機こそが 語り手にとっても 真正な意味構造であることが明らかになる ( 第五節 ) 以上により 次章における考察の準備が整えられる 次章では事実的生の意味構造を機会的表現の意味構造から解明する このとき その鍵となるのは機会的表現が働く際に 語り手が 聞き手とともに 参照する状況が 私 今 ここ という事実性のゼロ地点を意味するということである

第二章 機会的表現と事実的生の意味三契機 は 機会的表現が働く場が反省以前の事態であるということを示す このことにより 機会的表現の一義性と多義性の構造連関を事実性から再解釈し 事実的生の意味三契機が機会的表現の意味構造に即したものであることを明らかにする 機会的表現が働くときに必ず介在する 状況 は 語り手自身が活動する所与的な現場であり 事実性の事態と考えられる 以下の考察が明らかにするように これは機会的表現の意味構造全体の見直しを迫るものである 一義的な指示する意味と 多義的な指示される意味との構造的な連関は 状況 が事実性を表すものであるならば どのように理解するべきものなのであろうか この問いに応答するために 第二章は以下の考察をたどる まず 機会的表現が働く場が事実性であるということを示すための準備的考察として 語り手が指示される意味を特定するために参照する状況が 直観的状況ではなく 語り手が活動する現場だということを 素朴な空間表現を参照することで確かめる ( 第一節 ) 次に この活動の現場が 機会的表現が言語活動において持つ射程を確認することで 語り手にとり所与的な 事実性の事態であることが明らかとなる ( 第二節 ) 更に 機会的表現で 指示される意味の多義性は 所与的な事実性の事態 (= 語り手の活動の現場 ) に由来することを確認する また 多義性を生む所与的な現場は 慣用的既知性により 聞き手と共有可能性を持つということを明らかにする ( 第三節 ) 機会的表現では 指示される意味の多義性( 個別性 ) と指示する意味の一義性 ( 普遍性 ) が重ね合わされている 語り手の定位する現場が 指示される意味の多義性を生むならば この定位の現場に 指示する意味の一義性も重ね合わされているはずである 指示する意味の一義性は 定位の現場である 私 今 ここ が抹消可能性に晒される事態であることが明らかになる この事態は動きそのものとして 原理的に特定性を免れる事態である このことから 指示する意味が指し示す不特定の何かとは 私 今 ここ が抹消可能性に晒される事態であることが明らかとなる ( 第四節 ) 以上は 機会的表現がその意味機能を発揮するに際して ゼロ地点 (= 私 今 ここ ) の同一性と差異が重要な役割を果たすことを意味する そこで 事実的生の意味三契機も機会的表現と同じく 私 今 ここ の同一性と差異に基づく構造を持つことを明らかにし 意味三契機が機会的表現の意味構造に即したものであることを明らかにする ( 第五 六節 ) 第三章 宗教現象学入門 における時間理解 ではハイデガー (Martin Heidegger/1889-1976) の 宗教現象学入門 (Einleitung in die Phänomenologie der Relegion) (GA60:3-156) における時間理解を取り扱う 宗教現象学入門 における時間理解とは 有意義性としての現実性を生の必然的偶然性から経験し直すことである このことを明らかにするため 本章は以下の考察を経る まず 事実的生の範例であるキリスト者の時

間経験を明らかにする キリスト者が経験する時間経験はカイロス的瞬間であり カイロス的瞬間は 事実的生の根源的遂行意味が持つ そのつど性に求められることがまた明らかになる ( 第一節 ) 根源的遂行意味においてカイロス的瞬間を経験する事態は 事実的生の転換を可能にする事態である そこで 次に根源的遂行意味への転換が果たされる以前の事態 すなわち時間が抹消される事態について考察する 転換以前の転落傾向において働く所与的な遂行意味は そのつど性を安定化することでカイロス的瞬間を喪失していることが明らかとなる ( 第二節 ) 続いて 以上に基づき 遂行意味の転換を可能にする構造について考察する これにより明らかになるのは 所与的な遂行意味においては根源的な遂行意味が暗黙裡にともに働いているということである これは同時に 根源的遂行意味への転換を経た事態が 所与的な遂行意味が働く事態と意味三契機の構造としては変わることがないということを意味する ( 第三節 ) この構造的根拠に基づき 宗教現象学入門 でハイデガーが 世界への留まり を実際にどのように記述しているかを考察することが次の課題になる キリスト者は世界の有意義性をある 遅延 (Retardierung) (GA60:120) において経験する そうした遅延を経験するとき キリスト者は所与的な遂行意味と根源的な遂行意味の間に存する差異に自覚的である 転落傾向を生きる事実的生と転換を経たキリスト者の違いは 遂行意味の差異に自覚的であるかどうかの違いに求められる ( 第四節 ) 最後に 遂行意味の差異に自覚的であることが 現実性との関わり方の変様へ導くことを明らかにする 有意義性とは現実性を意味するが 転落傾向を生きる事実的生は ただ現実性としての有意義性をそのまま受け入れる これに対して 遂行意味の差異を自覚しつつ 有意義性と関わるキリスト者は 生の必然的偶然性をはっきりと見通しつつ現実性 (= 有意義性 ) に関わる 原始キリスト教的生経験がカイロス的瞬間を特有の振る舞い すなわち根源的遂行意味として経験するとき この時間経験は以上のような現実性との関わり方の変様を意味することになる ( 第五節 ) 第四章 存在と時間 における先駆的決意性 は ハイデガー (Martin Heidegger/1889-1976) の 存在と時間 (Sein und Zeit) における先駆的決意性の意義を 既解釈性 (Ausgelegtheit) の批判的な再経験として明らかにする 続く第五章でわれわれはこの事態がまた歴史の伝承を可能にすることを明らかにする というのも 既解釈性は 伝来の既解釈性 であり この 伝来の既解釈性 に伝統的存在論が受け継がれているからである 以上の狙いに基づき 第四章は以下の考察を経る まず 既解釈性と世人との関わりを考察する このことを通じて 世人に解釈の下図を与えるのは 既解釈性だということを明らかにする このことにより 既解釈性は 語り 了解のみならず 情態性という開示性の基本的三契機全般を制御しているということを明らかにするための準備が整えられる

( 第一節 ) この成果に基づき 次に 既解釈性を情態性との関連で考察する これにより 既解釈性が情態性を介して 現存在が周囲世界において手元的なものを発見する際の配視を制御しているということが明らかとなる ( 第二節 ) さらに 既解釈性を 了解という開示性の契機との関連で考察する 既解釈性が情態性を介して制御する配視はまた 了解に属する契機でもある とりわけ 了解を仕上げる解釈は 了解的企投による潜在的な適所全体性の分節化に基づき 個別的な道具の利用可能性を顕在的に 見て取る 働きである この点で 了解を仕上げ補完する解釈は 配視を可能にする働きである 重要であるのは 既解釈性は企投による潜在的な了解可能性の分節化を 語りを介して可能にしているということである このことは 上述の気分づけられた配視が 了解という観点からも既解釈性に規定されているということを意味する 既解釈性は 現存在の情態的了解 ( ないし了解的情態性 ) としての開示性を全面的に制御しているということが明らかになる ( 第三節 ) 以上の考察は世人的な日常世界 すなわち非本来的な頽落的存在様態における世界開示が既解釈性により可能になるということをまた意味する そこで 先駆的決意性を既解釈性の批判的再経験として明らかにするという本章の目的を達成するために 頽落的 非本来的な世界開示とは異なる 本来的世界開示としての不安 良心について見る これにより 不安および良心は現存在自身を開示するという点で 頽落的な世人自己から自由になって現存在の自己そのものに出会わせる事態であることが明らかになる ( 第四節 ) 本来的開示性としての良心は 良心に了解を通じ応答することとして 決意性という契機を持つ 決意性はそれ自身本来的開示性として 頽落から自由になる事態であるが 同時に既解釈性が制御する世人的世界に留まる ならば 決意性は世人的世界において出会う手元的なものと どのような関わりを持つのかということが問題となる ( 第五節 ) このような関わりは 決意性における 被発見性の変様 として 手元的なものを はじめて発見すること である こうした手元的なものを はじめて発見すること の意義は 決意性が内蔵する死への先駆との関連で 手元的なものを偶然性において経験することを意味する 通常 既解釈性が頽落的な世人的世界を制御し この世人的世界において手元的なものは出会う ならば 先駆的決意性が偶然性において手元的なものを はじめて発見すること は 既解釈性を頽落に抗して批判的に再経験するのだということが 最終的に明らかになる ( 第六節 ) 第四章での議論に基づき 第五章 存在と時間 における歴史性 は ハイデガー (Martin Heidegger/1889-1976) の 存在と時間 (Sein und Zeit) における歴史性の核心をなす 取り返し (Wiederholung) の意義について明らかにする 取り返しは応答と無効宣告という同時的二契機を持つが その意義は 第四章が明らかにする既解釈性の批判的な再経験

という事態に基づく 以上の狙いに基づき 第五章は以下の考察を経る まず 準備的考察として 存在と時間 の 時間性と歴史性 (SuZ:372ff.) における歴史性 (Geschichtlichkeit) の議論を見る これにより 存在と時間 における歴史性は既在性に収斂することが明らかになる ( 第一節 ) 次に この既在性に収斂する歴史性が その内実を 伝来の既解釈性 に持つということを明らかにする 歴史性はまた 先駆的覚悟性に基づくことを考慮するならば 既在性とは 伝来の既解釈性 を先駆的決意性において批判的に再経験する事態だということが明らかになる ( 第二節 ) 続いて 伝来の既解釈性 が具体的には ギリシア以来の伝統的存在論を意味することを明らかにする このことは 既解釈性が制御する 世人的世界において可能になる頽落が 同時に伝統への頽落であるということから明らかとなる ( 第三節 ) 以上は 既在性としての歴史性が 伝来の既解釈性 に受け継がれた伝統的存在論を 先駆的決意性において批判的に再経験する事態だということを意味する こうした理解に基づくならば 歴史性の核心をなす取り返しが持つ応答と無効宣告の意義は次のことを意味する すなわち 伝来の既解釈性を通じて頽落に受け継がれている伝統的存在論に 頽落から自由となった本来的開示性である先駆的決意性において無効宣告しつつ 応答するということである 歴史性の核心をなす取り返しとは このように否定性を伴う伝統への応答であるという点で 伝統的存在論の批判的な再経験だということが最終的に明らかとなるはずである 第六章 形而上学の根本諸概念 における歴史理解 は ハイデガー (Martin Heidegger/ 1889-1976) の 形而上学の根本諸概念 (die Grundbegriffe der Metaphysik) における歴史理解を解明することにある 第六章での考察を通じて 前章で明らかになった 頽落に受け継がれている伝統の批判的な再経験というハイデガーの歴史理解を実際に確かめるということが課題である しかも この動向を 形式的告示 というハイデガーの方法概念を通じて明らかにする 第六章は具体的には以下のような考察を経る 先ず 形式的告示が 事物へと自己喪失する日常的事態から出発して 事物内容が捨象され 空虚になると共に 事物へと関わる我々の振る舞いがまた機能しない事態へ接近することで 現 - 存在を開示する具体化された実存へと接近していくことを求める方法であることを明らかにする ( 第一節 ) 次に この過程を経る形式的告示が必要とする 具体化した実存による予めの事態の開示 (= 現 - 存在 ) を根本気分としての 深い退屈 が担うことを明らかにする ( 第二節 ) さらに 根本諸概念 における として構造 の形式的告示による概念把握が 深い退屈 に予め規定されることで 上記の過程を辿ることを明らかにし 根本諸概念 で形式的告示により最終的に獲得される世界企投が 深い退屈 によ

る現存在そのものの可能性への呼び掛けに応答することで 日常世界を 固有な自己を引き受けた現存在による代替不可能な 今 ここ の行為の現場に変様させることをまた明らかにする ( 第三節 ) 以上の考察展開が 今日という時代の根本気分から 日常的な事態であると同時にアリストテレス的な として構造 を再認識する事態であることを指適し ハイデガーの歴史理解が 伝統を今日から批判的に再経験することだということを最終的に明らかにする 以上の考察は ハイデガーの歴史理解が所与的な伝統の批判的な再経験という動向を持つことを示す しかも この批判的な再経験の現場が私 今 ここという原理的な具体であることを考慮するならば ハイデガーの歴史理解とは 伝統を具体的経験から再び把握し直すことと結論付けることができる