SURE: Shizuoka University REp http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/ Title 農 でつながる : 土 地 畑 から 見 る 原 泉 の 自 然 資 源 Author(s) 浅 川, 瑞 貴 ; 竹 村, 友 花 Citation 掛 川 市 原 泉. - (フィールドワーク 実 習 調 査 報 告 書 ; 平 成 25 年 度 ). p. 43-69 Issue Date 2013 URL http://hdl.handle.net/10297/7490 Version publisher Rights This document is downloaded at:
だ さらに 若 い 担 い 手 後 継 者 不 足 も 問 題 であり 茶 業 は 70~75 歳 の 方 が 中 心 となってお
農でつながる 土地 畑から見る原泉の自然資源 地 を使用する その中で適宜 適する用語があればそれを使用する 原泉の農業は全国 的にみられるような高齢化 後継者不足といった問題を抱えており 急こう配な地形も合 わせ 休耕地が増え続けている 3. 1. 2 現在みえるかつての農地一一泉地区 泉地区は 原泉地域の中でも最も北に位置する地区である 現在の泉を原野谷川沿いに 歩くと 山の奥に行くにつれ水田も畑もみることはできず 草の生えたままの手入れのさ れていない土地ばかりだった しかし 草が生え使われていない土地でも よくみてみる と 石で固まれた水田の跡とみられる場所や人工的に作られたコンクリートの水路があっ た(写真 1) また 農業用に使われたであろう川をまたぐ小さな橋や小さな物置もみられ かつてそこに農地が存在していた様子をみることができた また 集落もなく人が住んで いる気配もないような山の奥の方まで電線や電柱があり不思議に思ったが それは茶畑の 霜対策用の扇風機のためのものであった これは かつて茶畑が存在していたという証拠 である 他には 原野谷川を沿う道からそれで山を登っていくと茶畑が広がっている場所 も存在していたが 中には茶の葉が伸びてしまっているような放置され荒れた茶畑 前は 茶畑だ ったのではなし かと思われるような畑の様子もみられた かつて泉地区で も サツ マイモや麦を作り 主には米がよく作られ また 茶栽培もおこなわれていた 泉は山の 奥地の集落であるため 急こう配な土地が多く 大規模な土地で農業はおこなうことはで きなかったが 小さな畑や水田が数多く存在していた 山の奥地に行くにつれ茶畑は少な かったそうだが 茶業が盛んな時期は開墾をし 積極的に茶畑を広げていた そのため かつての泉地区では原野谷川に沿って水田や茶畑が存在していたとし う 写真 1 泉地区のかつて水田 農業水路だったと思われる跡(浅川撮影) - 50 -
農でつながる 土地 畑から見る原泉の自然資源 置づけがどれほど 高かったのかうかがうことができる 写真 2 原野谷ダム記念碑(浅川撮影) 3. 2. 2 居民キャンプ場 居尻地区では 現在米は全く作られていない 以前は居尻でも水田があったそうだが 水田があったとされる場所は現在 居尻キャンプ場とならここ温泉となっている そもそ 979(昭和 5 4 )年の台風による集中豪雨で大きな水害を受けた もこの水田があった場所は 1 この台風による水害で 居尻の水田は砂利が流れ込むなど被害を受け 修復できないほど になってしまった そこで当時の榛村純一市長と地元の青年団を中心に被害を受けた水田 一帯をキャンプ場にしようという取り組みがおこなわれた 水田再生には費用面などリス クがあったため 居尻の住民も水田再生よりも埋め立ててキャンプ場にすることに賛成し 居尻の水田を市が買い取る形で事業がはじめられた 第三セクタ一方式による事業で居尻 キャンプ場は完成し 中部電力の鉄搭の補償費で温泉を掘り ならここキャンプ場は株式 で運営されていった f 周囲が賛成し提供してくれたおかげで水田を修復するより良かっ たのではないか j とインタビ ューに答えてくれた D 氏(男性 居尻地区在住 専業農家) は語っている 居尻全体に直接的な利益があったわけではないが 人の行き来が増えたこ とで道も整備され広くなるなど間接的な利益があった 居尻のキャンプ場の設置がされた 時代は ダムがつくられた時代と比べ農家数も減少し 兼業化が進み 担い手も高齢者が 多かった また 修復が難しいこともあり 農地を手放すことにダム建設の時代ほどは抵 抗がなかったのだろう 時代背景によっても農地のあり方や価値は異なることが考えられ る 住民による反対運動は特におこなわれず 周囲の後押しもあってキャンプ場ができ 農地は失われてしまったものの 二のような土地利用の変化により原泉に利益をもたらし - 53 -
農でつながる 土地 畑から見る原泉の自然資源 入る その聞は各地のキャンプ場や神奈川県の丹沢の管理釣り場などさまざまな取り組み の視察をし 参考にすることに努めた 空き家や 荒廃農地の問題も表面化し 空き家を 調べるという取り組みがおこなわれた 増え続ける休耕地やそれに伴い増える荒廃する農 地の取り組みも コスモス祭り中止以前には ナシやブドウなどの新規作物導入がおこな われていたが 集落として定着するまでに至らなかった コスモス祭り中止後にも休耕地 の問題が挙がったものの 頼りにしていた補助金が減ってきたことで対策が厳しくなって いる そこで少しでもお金になるものをということから 棚田を整備し共同管理でもち米 の耕作をはじめた もち米はセンターの祭りの投げ餅やイベントで売られたり 地元の方 に売られたりすることもあるとし う 写真 3 共同管理されている棚田(浅川撮影) 森の都推進委員会の取り組みのなかで 農地を利用した事業 休耕地対策など 農地へ のはたらきかけがおこなわれていた しかし 補助金の減少や新たな作物を導入すること の難しさなどなかなか上手くし かないことも多く 厳しい状況ではある 現在 森の都推 進委員会は解散となり 組織の再編として生涯学習センターの地域っくり部が跡を継ぐこ とになった 跡を引き継ぐ関係で 森の都推進委員会の元メンバーであるさくら咲く学校 のメンバーがサポートにあたり 森の都推進委員会からの引き継ぎもおこなわれている 2 0 1 2 (平成 2 4 ) 年度の取り組みでは さくら咲く学校を中心にソパ ジャガイモが萩聞の 農地で栽培された 時代の変化によって農地の需要はさまざまであり 目的も変化してい る グリーンツーリズムなど自然環境の良さが見直されている中で原泉でもそのような方 向性へ農地を活用しようと努力がされている またゆくゆくは 新たな移住者が原泉に訪 れ その人たちがその農地を使っていってほしいという思いもある このような取り組み はまだ準備段階である さくら咲く学校での取り組みと合わせ 農地の新たな利用がこれ から発展していくのではなし かと考える - 55 -
農で つながる 土地 畑から見る原泉の自然資源 写真 4 自宅から持参していただいた芋がら(竹村撮影) 第 4項では農家の嫁が野菜畑の仕事を守ってきたことを紹介してきた もちろんこうし た農作業以外にも家事や子育てなど 家での仕事はほぼ女性が支えてきた 現在原泉では 人口も減少し 主要農作物であるお茶も売り上げが落ちこんでいる そんななかでも 畑 を守り 食べ物を作り続けてきた女性の仕事はさらに価値が高くなってきているのではな いだろうか 現金収入を得られるわけではないが お母さんやおばあさんが野菜を作ってくれること で家族の食が守られ あちこちで野菜畑があって植物が青々と茂っている原泉の景観が守 られ 野菜のやり取りなどをおこなうことで親戚やご近所づきあいも守られてきた 今 原泉にこれだけの豊かな農が残っているのは女性が畑をきちんと守ってきたからだと思う 畑を残してきた背景は個人によってさまざまで なかには やらなくっちゃ仕方なしリと 語る人もいた しかし どんな意識があったとしてもきちんと守られてきたのである 日 畑仕事は特別なことではなしリとおっしゃる方も多かったよ 本全国どこでもやっている J I うに 私はこうした直接お金にならない農は 本来日本のあちこちでごく普通におこなわ れていた 当たり前 J の営みであり さまざまな技術が進歩していく現代社会でも 無意 識的に農が生活の中で息づいている原泉の姿がとても豊かだと感じた 八回逸三は農についてこう意味づけている 農とは命の糧を得るための活動 ひとの知恵 一(中略) ー現代人のほとんど知らな い いや知ろうとしない 他の命たちのことを身近なものとして感じ 一(中略) ー 共 0 0 6 :1 6 5 ) 生J を知る(八回 2 八回は 公務員として農林行政に長年携わっていた その勤務の中で いくら作っても 喜ばれない日本の農業の姿に直面し 何かがおかししリと感じ 定年後 再就職はせず 京都の農家へ住みこみさせてもらうことにした そこでの体験を八回はこう語る 私たち - 64 -
猟 活 動 の 保 ~~J として 機 能 していると 解 釈 されてきた( 今 村 :
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祖 田 {~