芸高田市歴史民俗博物館 シリーズ お城拝見 第二十七回 安 学芸員 秋本哲治 堀切B 堀切B 畝状竪堀群 柳ヶ城略測図 作図 秋本哲治 堀切Cに残る土橋 東より撮影 安芸高田歴史紀行 竪堀 じょう 堀切C 新成人 341名に おめでとう!! 編集後記 田植えをしたのが ついこの前 のような気がしますが 早物は稲 刈りの時期を迎えました 私が小さい頃は コンバインは 勿論 バインダーもまだ出来てな くて 鎌で手刈りの時代でした その頃確か稲刈り用の大きな鎌 のようなものが発明された記憶が あります 立ったまま数株をまと めて押し切って刈り取り 溜まっ た稲株をレバーをゆるめて傾けて 置いていくようなものだったと思 います これは使い勝手が悪くほ とんど普及しなかったようです うーん懐かしい 以上昔の田の風景のご紹介でし た 浮田 いかだレースを軽い気持ちで取 材 うかつでした 夏の強烈な日 差し対策を忘れ 腕と顔が異常に ピリピリ カメラを構えて動かな いから 変な形の日焼けとなりま した 森本 神楽甲子園の取材で やっぱり 高 校 生 は 若 い な ぁ と 感 じ ま し た 年前までは 僕も高校生だ ったのに あの頃の記憶はどんどん薄れて います それでも 過去を今に繋 げなければと意識することはでき るのかもしれません 過去がある からこそ今の僕がある そういう 風に生きることが 無我夢中で生 きていたあの頃の僕に対する 最 低限の礼儀なのだろうと思いま す 稲田 28 今月の主な内容 安芸高田市 土師ダム グラウンド ゴルフ場 オープン!! 4 7 が No.103 やな 甲田町上甲立 竪堀 10 近年 柳ヶ城の存在が注目されたのは甲立古墳の発見によります 柳ヶ 城の一部と思われていた平坦地が 前方後円墳であることが判明したから です では その柳ヶ城は一体どんな城跡かを今回は紹介します 城跡へは 野球場から遊歩道が整備されており どなたでも容易に登れます じょう A 堀切C 土橋 立地 柳城 菊山城 ともいわれ 甲立の北側 菊山中腹の尾根上にあります また 五龍城の北方約700mにあたり 甲立古墳と隣接していますが 古墳は城域外 で あ っ た よ う で す 麓 の 平 地 か ら よ く 見 え る 場 所 に あ り 可 愛 川 や 支 流 の 本 村 川 そして五龍城を望むことができる好立地です 城跡 最高所の郭 Aから南に小規模の郭が連なっています いずれの郭も加工が粗く 自然地形による凹凸が残ります 背後の尾根続きには堀切B その先に堀切Cを 築いて北側を遮断しています 特に堀切Cは大規模で両端が長く 東西の斜面上 にはさらに1本ずつ竪堀が並行しています また この堀底の中央部に明瞭な土 橋が残っており 通路であったこともわかります 一方 南東斜面には竪堀を5 うね たてぼりぐん 本連ねた 畝状竪堀群 戦 国期特有の軍事性の強い防御施設 があります こ のように小規模で不整形な郭に対して 堀切や竪堀が入念に備えられているこ とから 築城後に改修が加えられたと思われます 歴史 江戸時代の記録では 南北朝期に常陸国からこの地へ土着した宍戸氏が 最初に 築いたのがこの城で その後五龍城を築いて移り住んだとあります しかし 最 近の研究では 南北朝期以降宍戸氏は二派に分かれており それぞれ五龍城とこ の城を拠点としていたと言われています そして 明応5 1496 年 五龍城 の一派が管領細川氏に滅ぼされたため それ以後柳ヶ城の一派が五龍城へ移り 本拠としたと考えられています ᇼษ䡡❿ᇼ 柳ヶ城 登城ガイド 標高 260m 比高 m 史跡指定 未指定 城 主 宍戸氏 所要時間 山麓から約 分 柳ヶ城遠望 南側より撮影 September 2012 安 芸 高 田 市 政 策 企 画 課 7 3 1-0 5 9 2 広 島 県 安 芸 高 田 市 吉 田 町 吉 田 7 9 1 T e l. 0 8 2 6 4 2-5 6 1 2 F a x. 0 8 2 6 4 2-4 3 7 6 h t t p : / / w w w. a k i t a k a t a. j p / 柳ヶ城位置図 70 15 9 発行編集 市の木 桜 さくら 市の花 紫陽花 あじさい
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