① 文化8年 1 8 1 1 7月 御勘定矢田堀喜左衛門御改につき河渡村荒地并取下場絵図 は15 中山道往還東端付近 猿尾の下に 古船場 それより南の猿尾の下に 船渡場 がみえる 猿尾とは 川の流れ を弱めるため 岸から突き出した小堤防のことである
② 天保2卯年 1 8 3 1 有君様御下向之節渡船場絵図 は16 中山道往還東端付近 大猿尾の下に 下渡船場 それより南 弐番猿尾の下に長さ6 0間の 渡舟場 がみえる
③ 文久元酉年 1 8 6 1 和宮様御下向之節渡船場絵図 は17 中山道往還東端付近 大猿尾と請猿尾の間に渡船場がみえる
④ 明治2 7年 1 8 9 4 5月 河渡村渡船路絵図 明治38 6③ 中山道往還東端付近 2つの石猿尾の間に 旧渡舟場 がみえる
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当初は加納藩領であったが 加納藩主安藤氏の転封により宝暦6年 1756 に幕領となり 宝暦9年 17 59 には大垣藩預所 そして宝暦1 3年 1 76 3 に再び幕領となり幕末まで続いた 村高の変遷は表の通りであるが 村木家文書の年貢免定をみると 正徳元年 1711 の免定では御拝領高 1 3 8 1石7斗 古来永引として1 4 1石6斗3升8合とあり 残高1240石6升2合免付とある 村木家文書ろ3 文化12年 18 1 5 の村明細帳でも同様の残高であり 田高は1 032石3斗3升8合で 畑高は2 07石7斗2升 4合であった 天保郷帳で高が増加しているが それは6石7斗3升1合の新開畑高の分である 岐阜県歴 史資料館所蔵 美濃国方県郡河渡村明細帳 河渡村は先にも記したが 水害による被害が甚大な場所であり 同じ方県郡の寺田 上曽我屋 下曽我屋 村と本巣郡の生津 柱本 高屋 馬場村などとともに輪中を形成していた この河渡輪中は東は長良川 西 は糸貫川に囲まれた地域で その南端にある河渡村は低地であり 上流部には堤がないため落水の被害を受 けやすい場所でもあった この被害を押さえるために 天明6年 1786 に上曽我屋村と北隣の川部村との 境界付近に小堤を築き足すのであるが これが原因となり近隣諸村との争論が長らく続くこととなる 宿場の概況については 天保1 4年 1 8 4 3 の 中山道宿村大概帳 児玉幸多校訂 近世交通史料集五 pp. 4 7 0 4 8 3 によると宿内 往還通り の惣家数は64軒で 脇本陣はなく本陣が1軒 凡そ建坪110坪 旅籠 が2 4軒 大4軒 中9軒 小1 1軒 あり 人数は2 72人 男133人 女139人 であった 人馬の継ぎ立てを 行う問屋場は東町と中町の2か所にあり 問屋2名 年寄6人などが交代で詰めていた 宿内の町並みの長 さは 東西3町 約3 2 7! であり 一里塚や高札場 川高札などがあった 1 0 0 0m 国土地理院発行の5万分の1地形図 大垣 地図のほぼ中央に河渡が位置している 3 0 1 0 0 0 2 0 0 0
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