江 戸 時 代 の 事 件 簿 天 下 泰 平 の 世 を 謳 歌 した 江 戸 時 代 ですが 幕 府 を 揺 るがし 世 間 に 大 きな 影 響 を 与 えた 事 件 が 何 度 か 起 こっています 日 本 カトリックの 一 大 中 心 地 であった 島 原 という 土 地 柄 と 極 度 の 圧 政 から 起 こった 島 原 の 乱 将 軍 権 力 の 空 白 期 に 起 こった 牢 人 の 反 乱 事 件 である 慶 安 事 件 忠 臣 蔵 として 知 られる 赤 穂 事 件 大 奥 の 勢 力 争 いに 幕 閣 の 政 争 が 絡 んだといわれる 絵 島 生 島 事 件 島 原 の 乱 以 降 約 200 年 にわたり 続 いた 太 平 の 世 を 打 ち 破 る 大 塩 平 八 郎 の 乱 これ ら 5 つの 事 件 をとりあげて 事 件 に 係 わる 本 を 展 示 いたしました 資 料 リスト 島 原 の 乱 江 戸 時 代 の 初 期 に 島 原 藩 松 倉 勝 家 領 の 肥 前 国 島 原 と 唐 津 藩 寺 沢 堅 高 領 の 肥 後 国 天 草 の 農 民 が 連 帯 して 益 田 ( 天 草 ) 四 郎 時 貞 を 盟 主 に 蜂 起 し 島 原 の 原 城 に 立 て 籠 もって 幕 府 諸 藩 兵 と 戦 い 一 揆 勢 が 全 滅 した 農 民 一 揆 です 時 期 寛 永 14 年 (1637)10 月 ~ 寛 永 15 年 (1638)2 月 29 日 場 所 島 原 藩 領 の 肥 前 国 島 原 唐 津 藩 領 の 肥 後 国 天 草 島 原 藩 1 有 馬 家 4 万 石 外 様 藩 主 : 晴 信 - 直 純 慶 長 5 年 ( 1600)~ 慶 長 17 年 ( 1614) 居 城 : 日 野 江 城 原 城 ( 慶 長 4 年 修 築 か) 2 松 倉 家 4 万 石 外 様 藩 主 : 重 政 - 勝 家 元 和 2 年 (1616)~ 寛 永 15 年 (1638) 居 城 : 島 原 城 ( 元 和 2 年 築 城 開 始 ) 以 降 の 藩 主 略 唐 津 藩 1 寺 沢 家 8 万 3 千 石 外 様 慶 長 5 年 (1600) 肥 後 国 天 草 郡 約 4 万 石 を 加 増 され 12 万 3 千 石 藩 主 : 広 高 - 堅 高 文 禄 2 年 (1593)~ 正 保 4 年 (1647) 居 城 : 唐 津 城 天 草 支 配 のため 富 岡 城 を 慶 長 7 年 (1602)から 同 10 年 (1605)に 築 きました 以 降 の 藩 主 略 土 地 柄 島 原 や 天 草 地 方 は 耕 地 が 少 なく 漁 業 対 外 貿 易 出 稼 など 東 シナ 海 への 依 存 度 が 高 い 土 地 柄 でした また 島 原 地 域 は 有 馬 晴 信 時 代 には 日 本 カトリックの 一 大 中 心 地 で その 子 直 純 の 転 封 時 にも 同 地 に 留 まり 帰 農 する 武 士 が 多 かったといいます キリシタン 弾 圧 に 際 し 多 くの 殉 教 者 を 出 しながら 多 くは 寛 永 初 年 (1624) 頃 までに 棄 教 し 転 びキリシタ ンになったといいます 一 揆 の 原 因 島 原 藩 では 元 和 2 年 (1616)に 入 部 した 松 倉 重 政 が 有 馬 氏 の 日 野 江 原 の 両 城 を 廃 して 7 年 をかけ 分 不 相 応 と 云 われた 島 原 城 を 築 いています また 表 高 4 万 石 のと ころ 数 度 の 検 地 を 実 施 して 10 万 石 の 草 高 として 領 民 から 年 貢 を 取 り 立 てました 幕 府 に 対 しても 10 万 石 の 軍 役 を 負 担 し 取 り 立 ては 領 民 の 生 活 が 成 り 立 たないほどの 過 酷 なものでし た あらゆる 生 産 物 や 生 活 手 段 に 課 税 し 取 り 立 ての 厳 しさは 言 語 に 絶 したといいます ま た 重 政 勝 家 時 代 のキリシタン(カソリック 教 徒 )の 弾 圧 は 峻 厳 を 極 めました 一 揆 の 経 過 寛 永 14 年 (1637)10 月 25 日 頃 島 原 南 部 の 有 馬 地 方 で 農 民 が 代 官 を 殺 害 し て 一 斉 に 蜂 起 しました 次 々に 寺 社 を 焼 き 10 月 27 日 には 城 下 に 放 火 して 島 原 城 を 襲 って 1
一 揆 は 藩 領 全 域 に 拡 大 しました この 一 揆 の 契 機 は 10 日 ほど 前 から 実 施 されたキリシタン 弾 圧 とも 過 酷 な 年 貢 の 取 り 立 てともいわれます 天 草 でも 寛 永 14 年 (1637)10 月 27 日 頃 から 益 田 ( 天 草 ) 四 郎 の 出 身 地 大 矢 野 島 を 中 心 に 蜂 起 し 応 援 の 島 原 勢 と 合 流 した 一 揆 勢 3~4,000 人 は 11 月 14 日 本 渡 でおよそ 1,500 人 の 藩 兵 を 率 いた 富 岡 城 代 三 宅 藤 兵 衛 重 利 を 敗 死 させ ほぼ 天 草 全 域 を 一 揆 に 巻 き 込 みました 一 揆 勢 は 11 月 19 日 から 4 日 間 にわたり 富 岡 城 ( 熊 本 県 天 草 郡 岑 岡 町 )を 攻 撃 しましたが 本 丸 を 攻 略 することはできませんでした 一 揆 の 質 的 変 換 一 揆 勢 の 富 岡 城 撤 退 を 境 に 天 草 ではキリシタンになることを 強 制 され た 新 キリシタン の 村 々は 一 揆 の 戦 列 から 離 れ 島 原 でも 西 部 北 部 では 庄 屋 が 一 揆 から 切 り 離 されると 藩 側 に 付 く 村 が 現 れました その 後 天 草 の 一 揆 継 続 勢 は 海 を 渡 り 島 原 の 一 揆 勢 と 合 流 して 有 馬 晴 信 が 築 城 した 原 城 に 立 て 籠 もりました この 段 階 で 一 揆 は 個 別 領 主 に 対 する 在 郷 の 一 揆 から 将 軍 権 力 との 対 決 となり 宗 門 一 揆 へと 質 的 な 転 換 をしています 幕 府 の 対 応 幕 府 は 宗 門 一 揆 と 規 定 し 参 府 中 であった 両 藩 主 を 帰 領 させました 上 使 と して 板 倉 重 昌 を 派 遣 し 佐 賀 久 留 米 柳 川 島 原 藩 兵 を 付 け 天 草 には 熊 本 藩 兵 をあてる こととしました 上 使 諸 藩 兵 の 島 原 到 着 は 12 月 5 日 で 島 原 と 天 草 の 一 揆 継 続 派 の 籠 る 原 城 を 包 囲 しました 籠 城 者 数 は 稿 本 原 城 耶 蘇 乱 記 に 27,754 人 とあります 鎮 圧 軍 は 12 月 10 日 以 降 原 城 の 攻 撃 を 開 始 しました 寛 永 14 年 (1637)12 月 20 日 に 上 使 の 板 倉 は 天 草 丸 三 之 丸 の 攻 撃 を 行 いましたが 失 敗 に 終 わりました 板 倉 は 同 15 年 ( 1638) 元 旦 に 諸 大 名 の 鎮 圧 軍 を 指 揮 して 原 城 を 再 び 総 攻 撃 しましたが 多 くの 戦 死 者 負 傷 者 を 出 して 大 敗 し 自 身 は 戦 死 しました 代 って 松 平 信 綱 が 指 揮 を 執 り 九 州 の 大 名 を 大 動 員 し 12 万 を 超 える 軍 勢 が 陸 と 海 から 原 城 を 包 囲 しました 信 綱 はオランダ 船 に 依 頼 して 海 からも 原 城 を 砲 撃 させています 細 川 忠 利 が 信 綱 に 攻 めよと 言 われれば 我 ら 熊 本 勢 だけで 攻 め 落 とします 外 国 船 の 手 を 借 りる のは 日 本 の 恥 辱 です と 批 判 しましたが 信 綱 は 一 揆 勢 は 南 蛮 から 援 軍 が 来 るといってい るが その 南 蛮 船 から 攻 撃 されることが 彼 らに 一 番 の 衝 撃 を 与 えるのだ と 反 論 しました 寛 永 15 年 (1638)2 月 28 日 29 日 の 総 攻 撃 で 原 城 は 落 城 益 田 ( 天 草 ) 四 郎 は 熊 本 藩 に よって 討 ち 取 られ 乱 は 鎮 圧 されました 一 揆 の 影 響 松 倉 勝 家 は 改 易 され 後 に 斬 首 となりました また 寺 沢 堅 高 は 天 草 郡 を 収 公 され のち 正 保 4 年 (1647)に 自 害 し 寺 沢 家 は 無 嗣 断 絶 となりました 一 方 松 平 信 綱 は 加 増 され 彼 を 中 心 に 幕 閣 機 構 が 確 立 されるとともに 公 儀 権 力 の 威 信 が 高 まりました ま た キリスト 教 邪 教 感 が 決 定 的 になり キリシタン 探 索 が 本 格 的 に 開 始 されました 寛 永 16 年 (1639)にはこの 乱 を 理 由 にポルトガルとの 貿 易 を 断 絶 し 鎖 国 が 完 成 したとされます 慶 安 事 件 - 由 比 正 雪 の 乱 - 慶 安 4 年 (1651)7 月 に 露 見 し 未 発 に 終 わった 由 比 正 雪 をはじめ 丸 橋 忠 弥 加 藤 市 郎 右 衛 門 金 井 半 兵 衛 らを 主 謀 者 とする 牢 人 の 反 乱 事 件 です この 反 乱 計 画 には 御 三 家 の 一 つ 紀 州 徳 川 頼 宣 の 名 前 が 利 用 されたため 事 件 後 に 幕 府 から 頼 宣 に 謀 叛 の 嫌 疑 がかけられ 物 議 をか 2
もしました 時 期 慶 安 4 年 (1651)7 月 ~9 月 社 会 背 景 慶 安 4 年 4 月 3 代 将 軍 家 光 が 没 し 家 綱 が 11 歳 で 4 代 将 軍 を 継 ぎます この 頃 幕 府 の 改 易 減 封 によって 大 量 の 牢 人 が 生 み 出 されていました 太 平 の 世 のため 牢 人 は 仕 官 の 道 も 閉 ざされ 困 窮 し 不 満 が 高 じていました また 同 年 7 月 親 藩 の 三 河 国 刈 谷 藩 主 松 平 定 政 が 上 書 して 幕 政 を 批 判 し 改 易 されました こうした 社 会 情 勢 を 好 機 到 来 とみた 由 比 正 雪 は 牢 人 とともに 反 乱 を 企 てました この 反 乱 計 画 に 荷 担 した 牢 人 は 1,500 人 ともそれ 以 上 ともいいます 反 乱 計 画 由 比 正 雪 は 駿 河 に 赴 いて 久 能 山 を 襲 い 金 銀 を 奪 取 し その 後 駿 府 城 を 占 領 して 将 軍 を 擁 立 して 天 下 に 号 令 しようとしました 江 戸 では 丸 橋 忠 弥 が 指 揮 者 となり 一 隊 は 幕 府 の 小 石 川 の 煙 硝 蔵 と 江 戸 市 中 に 火 を 放 ち 他 の 一 隊 は 江 戸 城 内 に 侵 入 して 将 軍 を 奪 い 正 雪 が 拠 る 駿 河 国 久 能 山 へ 急 行 する 手 筈 でした また 事 件 を 聞 いて 登 城 する 老 中 を 討 ち 取 り 譜 代 大 名 の 屋 敷 に 火 薬 を 投 じて 乱 入 するなどの 行 動 を 計 画 していました 京 都 では 加 藤 市 郎 右 衛 門 らが 二 条 城 を 乗 っ 取 り 大 坂 では 金 井 半 兵 衛 らが 市 中 を 焼 き 討 ちし 諸 大 名 の 米 蔵 に ある 米 穀 を 奪 取 して 大 坂 城 に 立 て 籠 もるという 計 画 でした 事 件 の 経 過 慶 安 4 年 7 月 22 日 に 正 雪 が 江 戸 を 出 立 しますが 7 月 23 日 夜 数 人 の 訴 人 によ って 計 画 が 露 見 しました 同 日 夜 丸 橋 忠 弥 らの 一 味 が 町 奉 行 所 に 逮 捕 されます 事 件 を 知 っ た 幕 府 は 新 番 頭 駒 井 親 昌 を 急 使 として 駿 府 に 派 遣 し 親 昌 は 正 雪 を 追 い 越 して 7 月 25 日 午 後 先 に 駿 府 に 到 着 します すぐさま 駿 府 城 代 大 久 保 忠 成 配 下 の 役 人 が 捜 索 し 駿 府 茶 町 ( 静 岡 市 )の 梅 屋 太 郎 左 衛 門 方 に 7 月 25 日 夜 到 着 した 正 雪 一 行 を 発 見 し 親 昌 や 駿 府 町 奉 行 の 与 力 などが 宿 を 取 り 囲 みました 正 雪 らは 逃 れ 得 ぬことを 悟 って 正 雪 以 下 8 人 が 自 刃 し 2 人 が 逮 捕 されました 7 月 29 日 には 一 味 57 人 が 逮 捕 され 7 月 30 日 には 駿 府 で 正 雪 の 首 が 獄 門 に かけられました 8 月 10 日 に 江 戸 品 川 で 丸 橋 忠 弥 ら 30 余 人 が 処 刑 され 8 月 13 日 に 金 井 半 兵 衛 が 大 坂 天 王 寺 で 自 刃 しました 9 月 18 日 には 正 雪 の 父 母 妻 兄 弟 らが 駿 府 で 処 刑 され これを 最 後 に 事 件 は 落 着 をみました 事 件 の 目 的 従 来 から 諸 説 がありますが 現 在 は 栗 田 元 次 の 牢 人 救 済 説 ( 綜 合 日 本 史 大 系 江 戸 時 代 上 )が 最 も 妥 当 なものとされています 事 件 の 影 響 事 件 後 幕 府 は 牢 人 の 再 仕 官 の 斡 旋 に 積 極 的 に 乗 り 出 し 大 名 旗 本 の 50 歳 以 内 の 者 に 末 期 養 子 を 許 可 し 牢 人 発 生 の 原 因 である 改 易 減 封 の 方 針 を 緩 めました その 後 寛 文 3 年 (1663)には 当 主 が 17 歳 以 下 でも 養 子 を 認 め 天 和 3 年 (1783)には 50 歳 以 上 の 者 でも 吟 味 の 上 で 養 子 を 認 めることとしました この 結 果 大 名 旗 本 の 改 易 減 封 は 激 減 しました この 事 件 は 牢 人 問 題 の 処 理 のみでなく 武 断 から 文 治 へと 幕 府 の 政 治 が 転 換 す る 端 緒 となった 事 件 でもあります 由 比 正 雪 江 戸 時 代 前 期 の 牢 人 軍 学 者 新 井 白 石 が 駿 河 の 由 井 の 紺 屋 の 子 と 申 し 候 ( 白 石 先 生 手 簡 )と 記 し また 駿 府 の 宮 ケ 崎 ( 静 岡 市 葵 区 )あたりに 両 親 や 知 合 いが 多 く 住 ん でいたことから 駿 府 出 生 説 が 有 力 です なお 父 は 岡 村 弥 右 衛 門 といい 弟 や 伯 父 なども 岡 村 姓 であるので 本 姓 は 岡 村 氏 と 思 われます やがて 江 戸 に 出 て 軍 学 を 講 じるようになり 旗 本 や 大 名 家 中 の 武 士 にも 講 じたといいます 3
丸 橋 忠 弥 かつて 加 賀 前 田 家 中 に 奉 公 し のち 牢 人 し 江 戸 に 住 み 十 文 字 槍 の 師 匠 をしたと いわれます 赤 穂 事 件 - 忠 臣 蔵 - 元 禄 14 年 (1701)3 月 14 日 播 磨 国 赤 穂 藩 主 の 浅 野 内 匠 頭 長 矩 が 高 家 の 吉 良 上 野 介 義 央 に 江 戸 城 松 之 廊 下 で 刃 傷 に 及 びました 幕 府 は 浅 野 に 切 腹 を 命 じ 浅 野 家 を 御 家 断 絶 に 処 し ました しかし 翌 15 年 (1702)12 月 14 日 旧 臣 大 石 内 蔵 助 をはじめとする 四 十 七 士 が 吉 良 邸 に 討 ち 入 って 吉 良 の 首 級 をあげ 主 君 の 敵 討 ちに 成 功 しました そして 元 禄 16 年 ( 1703) 2 月 4 日 幕 府 から 四 十 七 士 に 切 腹 の 沙 汰 が 下 りました 赤 穂 事 件 をモデルとした 作 品 は 早 くも 元 禄 16 年 2 月 16 日 に 江 戸 中 村 座 で 歌 舞 伎 曙 曽 我 夜 討 が 上 演 されました その 後 寛 延 元 年 (1748)に 浄 瑠 璃 仮 名 手 本 忠 臣 蔵 などが 評 判 となってからは この 事 件 を 忠 臣 蔵 と 呼 ぶことも 多 くなりました 赤 穂 浅 野 家 広 島 浅 野 家 の 分 家 正 保 2 年 (1645)7 月 浅 野 長 直 が 常 陸 国 笠 間 から 入 りまし た 高 5 万 3,500 石 余 に 塩 田 約 5,000 石 を 持 ち 長 直 は 従 来 の 屋 敷 構 えを 城 に 改 築 しました 長 直 の 孫 である 長 矩 は 寛 文 7 年 (1667)に 生 まれ 延 宝 3 年 (1675)に 藩 を 継 ぎました 長 矩 は 天 和 3 年 (1683)に 勅 使 接 待 役 を 勤 め 元 禄 14 年 (1701)に 再 びこの 役 を 命 じられ 同 年 3 月 14 日 勅 使 登 城 の 最 後 の 日 に 江 戸 城 中 で 刃 傷 事 件 を 起 こし 改 易 されました 吉 良 上 野 介 寛 永 18 年 ( 1641) 足 利 一 族 の 名 門 である 吉 良 義 冬 の 子 に 生 まれ 寛 文 8 年 ( 1668) 家 督 を 継 ぎました 祖 父 義 弥 以 来 の 高 家 として 京 都 日 光 伊 勢 などに 使 節 を 勤 めるほか 京 都 公 卿 の 参 府 の 接 待 を 勤 めるなど 儀 典 の 職 にあたりました また 知 行 地 である 三 河 国 幡 豆 郡 吉 良 地 方 の 統 治 に 力 を 入 れ 知 行 地 の 農 民 からは 名 君 と 慕 われています 元 禄 14 年 ( 1701) 3 月 勅 使 接 待 中 に 浅 野 長 矩 に 斬 り 付 けられ 同 年 9 月 には 高 家 を 辞 し 屋 敷 が 呉 服 橋 門 内 か ら 本 所 一 ツ 目 に 移 りました 同 年 12 月 には 隠 居 しています 元 禄 15 年 12 月 15 日 早 暁 浅 野 長 矩 旧 臣 の 襲 撃 を 受 け 殺 害 されました 62 歳 でした 事 件 の 経 過 勅 使 下 向 は 毎 年 年 頭 の 恒 例 行 事 で まず 幕 府 から 将 軍 代 理 が 京 に 上 り 勅 使 が 答 礼 に 下 ることになっていました そして 元 禄 期 は 華 美 な 生 活 様 式 が 社 会 のあらゆる 面 に 行 き 渡 り 勅 使 の 接 待 に 伴 う 儀 式 も 複 雑 美 麗 を 極 めていました 元 禄 14 年 (1701)は 吉 良 が 将 軍 代 理 として 上 京 し 2 月 末 に 江 戸 へ 戻 りました 吉 良 はこの 時 高 家 筆 頭 の 立 場 であ ったため 権 威 を 持 ち 前 例 にこだわらず 浅 野 らを 指 導 したといわれ このことが 浅 野 を 逆 上 させたと 考 えられます 刃 傷 の 原 因 直 接 の 原 因 は 推 測 域 を 出 ませんが1 突 然 逆 上 説 2 神 経 衰 弱 的 急 性 精 神 病 症 説 3 吉 良 の 浅 野 夫 人 への 恋 慕 説 など 古 来 より 諸 説 があります しかし 最 近 は 浅 野 長 矩 の 気 性 や 体 調 に 理 由 を 求 める 傾 向 が 強 くなってきました 浅 野 は 元 来 癇 癪 持 ちであったといわ れ そこに 勅 使 饗 応 役 という 大 任 を 勤 めることで 肉 体 的 にも 精 神 的 にも 疲 れが 溜 まって いたとみられます 事 件 の 裁 断 浅 野 と 吉 良 には 目 付 の 事 情 聴 取 が 行 われ その 結 果 浅 野 は 吉 良 を 一 方 的 に 斬 りつけたのであり 両 者 の 間 に 事 前 に 喧 嘩 はなく 喧 嘩 両 成 敗 は 適 用 されないと 認 定 され 4
ました そして 吉 良 をお 構 え 無 しとし 浅 野 には 即 日 田 村 右 京 大 夫 家 へ 御 預 け 切 腹 御 家 断 絶 城 地 返 上 という 裁 断 が 下 りました これは 将 軍 綱 吉 の 意 向 として 側 用 人 の 柳 沢 吉 保 から 伝 えられました 吉 良 邸 襲 撃 江 戸 でも 赤 穂 でも 浪 人 となった 旧 赤 穂 藩 家 臣 団 の 意 見 は 分 裂 し 1 再 就 職 希 望 派 2 直 矩 弟 の 大 学 擁 立 派 3 吉 良 を 討 って 主 君 の 恥 をそそごうとする 人 々に 分 かれまし た 家 臣 団 は 元 禄 15 年 (1702)2 月 京 都 山 科 の 大 石 宅 に 集 まり 長 矩 の 一 周 忌 後 もなおしば らく 慎 重 に 大 学 による 再 興 を 待 つという 説 に 落 ち 着 きました その 後 江 戸 急 進 派 に 賛 成 す る 家 臣 が 増 え 吉 良 を 討 って 主 君 の 恥 をそそごうとする 機 運 が 高 まった 同 年 7 月 大 学 は 閉 門 を 解 かれて 広 島 浅 野 家 へ 御 預 けになりました しかし 同 月 京 都 の 円 山 で 行 われた 会 議 で は 吉 良 邸 を 襲 撃 し 主 君 の 恥 をそそぐという 結 論 になりました 同 士 は 元 禄 15 年 10 月 ~11 月 にかけて 江 戸 に 結 集 し 結 集 した 47 人 は 同 年 12 月 14 日 ~15 日 早 暁 に 吉 良 邸 を 襲 撃 して 吉 良 を 討 ちました( 足 軽 寺 坂 は 途 中 姿 を 消 す) 12 月 15 日 の 朝 泉 岳 寺 の 浅 野 の 墓 前 に 吉 良 の 首 を 供 え 夕 刻 46 人 は 細 川 家 毛 利 家 松 平 久 松 家 水 野 家 に 預 けられ 元 禄 16 年 (1703)2 月 4 日 それぞれの 家 で 切 腹 し 泉 岳 寺 に 葬 られました この 襲 撃 で 浪 士 たちは 義 士 という 評 価 が 高 まり その 後 様 々な 文 学 演 劇 大 衆 芸 能 の 上 で 多 くの 作 品 としてとり 上 げられました 絵 島 生 島 事 件 江 戸 城 大 奥 で 起 きた 風 俗 紊 乱 事 件 です 7 代 将 軍 徳 川 家 継 の 生 母 月 光 院 に 仕 えた 女 房 の 絵 島 宮 路 らが 月 光 院 の 代 参 として 増 上 寺 寛 永 寺 に 参 詣 その 帰 途 木 挽 町 の 山 村 長 太 夫 座 に 寄 り 大 奥 の 門 限 に 遅 れたことで 取 り 調 べを 受 け 厳 重 に 処 罰 されることになりました 正 徳 4 年 (1714)1 月 12 日 木 挽 町 の 山 村 長 太 夫 座 では 美 男 の 評 判 が 高 い 生 島 新 五 郎 の 狂 言 が 行 われていました そこに 乗 り 込 んできたのが 増 上 寺 の 前 将 軍 家 宣 廟 へ 代 参 を 済 ませた 大 奥 の 年 寄 絵 島 の 一 行 でした 一 行 は 桟 敷 や 座 元 の 居 宅 で 遊 興 して 大 奥 の 門 限 に 遅 れてしま いました 絵 島 らは 同 年 2 月 2 日 に 親 類 預 けになり さらに 評 定 所 で 審 理 の 結 果 同 年 3 月 5 日 絵 島 は 死 一 等 を 減 じて 永 遠 島 に 処 せられました 評 定 所 で 示 された 判 決 文 には 絵 島 は 行 状 が 悪 く 御 使 い 又 は 宿 下 りの 際 に 貴 賤 を 選 ばないでよからぬ 者 に 会 い ゆかりの 無 い 家 に 泊 り 中 でも 狂 言 座 の 者 と 馴 れ 親 しみ 傍 輩 の 女 中 を 誘 引 し 遊 び 歩 いたことなど 重 罪 であるが 慈 悲 を 持 って 命 を 助 け 永 く 遠 流 に 処 するとあります しかし 同 年 3 月 12 日 月 光 院 の 請 願 で 内 藤 駿 河 守 清 枚 へ 預 けられ 信 濃 伊 那 郡 高 遠 へ 配 流 されることになりました これに 関 連 して 生 島 新 五 郎 が 遠 島 ( 三 宅 島 ) 絵 島 の 兄 の 白 井 平 右 衛 門 は 死 罪 弟 の 豊 島 平 八 郎 は 重 追 放 など 事 件 に 連 座 した 人 々は 1,500 人 にのぼったといいます 同 年 3 月 26 日 絵 島 の 駕 籠 は 内 藤 駿 河 守 邸 を 出 て 高 遠 を 目 指 しました 同 じ 日 生 島 新 五 郎 ら を 乗 せた 流 人 船 が 深 川 の 越 中 島 を 出 ていくこととなっていました なお 絵 島 は 高 遠 で 過 ご すこと 27 年 寛 保 元 年 (1741)4 月 に 61 歳 で 亡 くなりました その 翌 年 生 島 新 五 郎 は 赦 免 さ れて 江 戸 に 帰 りました 5
事 件 の 影 響 山 村 座 は 取 潰 しとなりました 堺 町 木 挽 町 の 劇 場 は 桟 敷 を 2 階 3 階 に 造 ること 桟 敷 から 楽 屋 や 座 元 の 居 宅 への 通 路 を 造 ること 桟 敷 を 簾 幕 屏 風 で 覆 うことな どが 禁 止 されました また 屋 根 は 堅 固 に 作 らず 莚 張 りにし 営 業 も 夕 暮 れに 及 ぶことが 禁 止 されると 共 に 寺 社 境 内 の 芝 居 雑 劇 猿 楽 の 類 も 禁 止 されました なお 享 保 3 年 ( 1718) に 屋 根 2 階 造 りが 許 されました 事 件 の 背 景 7 代 将 軍 家 継 の 生 母 月 光 院 は 幼 少 の 将 軍 を 擁 して 側 用 人 間 部 詮 房 らと 権 勢 を 振 るっていたといいます これに 対 して 大 奥 では 前 将 軍 家 宣 の 正 室 天 英 院 を 中 心 に 強 く 反 発 していました また 大 奥 の 風 紀 が 乱 れ 利 権 を 求 める 商 人 も 介 在 していたといいます 将 軍 継 嗣 家 継 が 正 徳 6 年 (1716)4 月 30 日 に 亡 くなりました 8 代 将 軍 には 尾 張 家 の 徳 川 継 友 が 間 部 詮 房 や 新 井 白 石 らに 支 持 されたといわれますが 結 果 として 大 奥 や 反 間 部 反 白 石 の 幕 臣 達 の 支 持 を 得 た 紀 州 藩 主 の 徳 川 吉 宗 が 迎 えられました 吉 宗 が 将 軍 になってしば らくした 後 天 英 院 の 父 近 衛 基 煕 は 日 記 に 公 方 ( 吉 宗 ) 慈 悲 あまねし 諸 人 武 士 数 をつく して 歓 喜 す 並 びに 天 英 院 陰 徳 日 々に 増 長 し 諸 人 之 を 感 歎 す 月 光 院 事 奢 りの 子 細 言 語 に 絶 す 諸 人 の 悪 口 する 耳 目 に 余 りあり と 記 しています 大 塩 平 八 郎 の 乱 大 坂 で 元 東 町 奉 行 所 与 力 の 大 塩 平 八 郎 が 幕 政 を 批 判 して 救 民 のために 武 装 蜂 起 した 事 件 です 時 期 天 保 8 年 (1837)2 月 ~ 天 保 9 年 8 月 社 会 背 景 天 保 4 年 (1833)は 冷 害 による 凶 作 で 全 国 的 に 飢 饉 が 起 こりました 米 価 は 高 騰 し 一 揆 などが 多 発 しました 天 保 7 年 (1836)の 大 飢 饉 は 大 坂 市 中 にも 餓 死 者 が 続 出 する 惨 状 でしたが 大 坂 東 町 奉 行 の 跡 部 山 城 守 良 弼 は 適 切 な 救 済 策 を 取 るどころか 飢 えた 市 民 が 食 用 のため 僅 かなやみ 米 を 持 ち 歩 いたのを 捕 えて 入 牢 させています そして 米 価 は 上 昇 し 米 屋 の 買 い 占 めが 米 価 上 昇 に 拍 車 をかけました さらに 事 態 を 悪 化 させたのが 大 坂 町 奉 行 に 下 った 江 戸 廻 米 の 指 示 でした これは 幕 府 が 11 代 将 軍 家 斉 の 世 子 家 慶 の 将 軍 宣 下 の 式 典 に 備 えて 大 量 の 米 を 調 達 する 必 要 が 生 じ 大 坂 町 奉 行 所 が 兵 庫 湊 で 買 米 を 行 ったのです 大 塩 平 八 郎 寛 政 5 年 (1793)~ 天 保 8 年 (1837) 大 坂 町 奉 行 所 の 与 力 先 祖 は 駿 河 遠 江 の 守 護 今 川 氏 の 一 族 であったといいます 寛 政 5 年 (1793)1 月 22 日 天 満 四 軒 屋 敷 の 与 力 邸 に 生 まれ 幼 くして 父 母 を 失 い 祖 父 に 養 育 されました 13~4 歳 の 頃 から 東 町 奉 行 所 に 見 習 いとして 出 仕 して 38 歳 で 退 職 するまで 職 務 に 精 勤 し 名 与 力 と 謳 われました 槍 術 に 優 れ 学 問 も 陽 明 学 を 修 めて 知 己 の 頼 山 陽 から 小 陽 明 と 称 せられています 自 宅 に 洗 心 洞 と 名 付 ける 学 塾 を 開 いて 同 僚 の 子 弟 や 近 在 の 農 民 に 学 を 講 じました 事 件 の 経 過 米 価 高 騰 で 餓 死 者 まで 出 始 めた 市 中 の 情 勢 を 大 塩 は 看 過 できず 東 町 奉 行 跡 部 良 弼 に 何 度 も 窮 民 の 救 済 策 を 上 申 しました また 豪 商 には 義 捐 金 の 拠 出 を 募 りました しかし 跡 部 は 上 申 書 を 無 視 し 豪 商 も 義 捐 金 の 拠 出 は 消 極 的 でした こうした 状 況 を 鑑 み 町 奉 行 や 豪 商 たちに 天 誅 を 加 えて 窮 民 を 救 おうと 決 意 した 大 塩 は 養 子 の 挌 之 助 与 力 瀬 田 済 之 助 洗 心 洞 の 門 弟 たちと 挙 兵 計 画 を 練 りました また 蔵 書 1200 部 余 を 全 て 売 り 払 って 6
換 金 し 天 保 8 年 (1837)の 2 月 6 日 から 8 日 にかけて 市 中 や 近 在 の 窮 民 約 1 万 人 に 金 1 朱 づつ 分 配 しました これは 挙 兵 の 際 仲 間 に 引 き 入 れようという 思 惑 も 秘 められていました 始 めの 計 画 では 2 月 19 日 に 新 任 の 西 町 奉 行 堀 伊 賀 守 が 東 町 奉 行 跡 部 山 城 守 の 案 内 で 天 満 を 巡 視 し 2 人 が 申 刻 ( 午 後 4 時 )に 大 塩 邸 の 向 かいである 朝 岡 助 之 丞 宅 で 休 憩 することにな っていたため その 時 挙 兵 して 両 町 奉 行 を 倒 し ついで 町 々に 火 を 放 って 豪 商 を 襲 い 米 な どを 散 じて 窮 民 に 分 配 するというものでした しかし 挙 兵 の 前 日 密 告 者 が 出 たため 予 定 を 変 更 して 直 ちに 決 起 することとし 19 日 の 朝 挙 兵 しました 自 宅 に 火 を 放 ち 近 在 の 農 民 もいち 早 く 駆 けつけたので 大 塩 方 は 100 人 程 の 勢 力 となり 救 民 の 旗 印 を 掲 げて 進 撃 し 大 筒 を 手 当 り 次 第 に 撃 ったり 焙 烙 玉 を 投 げ たりして 天 満 一 帯 を 火 の 海 にしながら 正 午 ごろ 船 場 に 進 出 しました この 頃 両 町 奉 行 は 鎮 圧 に 乗 り 出 し 烏 合 の 衆 であった 大 塩 方 は 2 度 の 小 規 模 な 砲 撃 戦 を 行 っただけでその 日 の 夕 刻 前 には 壊 滅 しました 市 街 地 のほぼ 5 分 の1が 焼 失 し 焼 けた 家 屋 は 3,400 弱 といます 平 八 郎 親 子 は 3 月 27 日 に 市 中 靱 油 掛 町 の 町 屋 に 潜 伏 していることが 探 知 され 幕 府 役 人 に 包 囲 されました 大 塩 父 子 は 自 ら 火 を 放 ち 自 害 しました 天 保 9 年 (1838)8 月 幕 府 は 大 塩 の 遺 体 を 磔 にし 事 件 に 関 連 した 処 罰 者 は 800 人 以 上 になりました 事 件 の 影 響 事 件 の 噂 はたちまち 全 国 に 伝 播 し 圧 政 に 苦 しんでいた 民 衆 はより 一 層 幕 藩 体 制 を 批 判 するようになりました そして 大 塩 残 党 大 塩 門 弟 などの 旗 印 をかかげた 一 揆 騒 動 が 多 発 しました 参 考 文 献 国 史 大 辞 典 1 巻 赤 穂 事 件 松 島 栄 一 吉 川 弘 文 館 昭 和 55 年 国 史 大 辞 典 2 巻 絵 島 生 島 事 件 児 玉 幸 多 大 塩 平 八 郎 の 乱 岡 本 良 一 吉 川 弘 文 館 昭 和 55 年 国 史 大 辞 典 5 巻 慶 安 事 件 北 原 章 男 吉 川 弘 文 館 昭 和 60 年 国 史 大 辞 典 7 巻 島 原 の 乱 中 村 質 吉 川 弘 文 館 昭 和 61 年 国 史 大 辞 典 13 巻 益 田 時 貞 煎 本 増 夫 丸 橋 忠 弥 村 井 益 男 吉 川 弘 文 館 平 成 4 年 国 史 大 辞 典 14 巻 由 比 正 雪 村 井 益 男 吉 川 弘 文 館 平 成 5 年 日 本 の 時 代 史 14 巻 原 城 発 掘 服 部 英 雄 吉 川 弘 文 館 平 成 15 年 日 本 の 歴 史 17 巻 ( 改 版 ) 奈 良 本 辰 也 中 央 公 論 新 社 平 成 17 年 歴 史 人 no.54 KK ベストセラーズ 平 成 27 年 3 月 7