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戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 スターリン 体 制 下 のジャズと 大 衆 歌 謡 (4) 鈴 木 正 美 ジャズに 対 する 論 評 ソビエト ジャズはマーチ,ワルツ,シャンソン,タンゴ,ロマ 音 楽,クレ ズマーなどの 様 々な 音 楽 スタイルを 独 自 に,そして 貪 欲 に 消 化 吸 収 した ジャズの 音 楽 家 や 歌 手 たちはステージ パフォーマンスによってナショナル アイデンティティとしてのロシア イメージを 無 意 識 のうちに 演 出 し, 大 衆 の 心 をとらえた 1930 年 代 のダンス ブームはさらにジャズと 大 衆 歌 謡 の 流 行 に 拍 車 をかけた 特 に 西 側 からの 影 響 もあって,ワルツとタンゴの 人 気 が 高 かっ た 踊 るための 曲 として 最 適 だったからである 階 層 を 問 わず,ホテルのレス トラン,ボールルーム, 町 の 文 化 施 設 やクラブで 老 若 男 女 が 踊 った (1) ラジオや レコードから 流 れる 声 とダンスによって 日 常 生 活 においてすべての 人 々が 幸 福 であるという 感 覚 が 聴 取 者 に 身 体 化 させられていった 大 衆 レベルでジャズは 常 に 流 行 歌 やダンスと 共 にある 娯 楽 であり,あるいは 軽 演 劇 であった ジャズはあくまでもエストラーダの 一 種 として 享 受 された だからこそ,かえって 高 尚 な 芸 術 のように 弾 圧 されることは 少 なかった そ れでは,こうしたソビエト ジャズに 対 する 公 式 的 論 評 はどのようなもので あったろうか 革 命 前 にはサーカスや 演 劇 などを 含 めたエストラーダを 取 り 扱 う 専 門 誌 が10 誌 近 くもあり,ネップ 期 以 降 も ソビエトのエストラーダとサーカス 映 画 と 舞 台 といった 雑 誌 があった ジャズに 関 しては 風 俗 として 捉 える 批 評 家 ばか りで,そうした 人 物 の 一 人 が 批 評 家, 劇 作 家 のルナチャルスキーだった 彼 は 系 47

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 1929 年 までに12 年 間 教 育 人 民 委 員 としてプロレタリア 文 化 の 育 成 に 努 めたが, エストラーダを 偏 向 的 な 芸 術 とみなし,ジャズも 高 く 評 価 していない ジャ ズ 音 楽 について (1927)で 彼 はこう 書 いている 私 はアメリカのいいジャズ バンドを 聞 いた,そしてそれらがとても 機 知 に 富 んでいることを 発 見 した し かし,それらをずっと 続 けて 聞 いているとひどくうんざりさせられるのだ ジャズ バンドがシンフォニー オーケストラに 取 って 代 わるなどと 考 えるこ とは, 恐 ろしいことだ (2) 1930 年 代 のエストラーダ ジャズに 対 するさまざまな 論 評 に 共 通 しているの は, 西 欧 のブルジョア 音 楽 ではあるが, 人 々を 楽 しませ, 元 気 づける 音 楽 であ るということだ そうした 中 で, 演 劇 音 楽 学 者 として 著 名 なイヴァン ソレ ルチンスキイ(1902-1944)は 労 働 者 と 劇 場 誌 (1933)に 掲 載 された ジャズに ついて 数 言 という 小 論 で, 当 時 流 行 していたジャズを,その 歴 史 がサックス の 発 明 から 始 まり,タンゴやフォックストロットの 伴 奏 音 楽 としてヨーロッパ で 流 行 し,ソビエトではミュージック ホールや 映 画 で 演 奏 されるようになっ た 歴 史 的 事 実 をふまえた 上 で,そのユーモラスで 陽 気 なステージゆえに 低 俗 な ジャンルとみなされていると 指 摘 しているが,ジャズの 特 徴 を 音 楽 的 に 評 価 し, 次 のように 述 べている ジャズはディレッタンティズムがきらいだ その 妙 技 は,ジャズを 定 義 づける 特 徴 の 一 つである ジャズを 演 奏 する 人 々の 高 度 な 技 術 についてのみ 語 りえる それゆえ 好 事 家 向 けの,リズムのふらふら する, 技 術 的 にあまり 価 値 のないジャズはすべて 一 掃 しなければならない 残 れるのは 本 当 にしっかりしたグループだけである (3) エストラーダの 一 種 という 位 置 づけゆえに,ほとんど 娯 楽 音 楽 としか 認 めら れず, 一 部 の 識 者 に 高 く 評 価 されるだけで,その 後 もソビエトのジャズは 紆 余 曲 折 を 経 ながら 発 展 していく そして, 大 衆 のための 音 楽 であるジャズは 第 二 次 世 界 大 戦 当 時 もその 親 しみやすさから 人 々を 勇 気 づけ,また 愛 国 心 を 支 える 機 能 を 果 たすのである 系 48

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 国 策 としての 歌 1930 年 代 から40 年 代 はじめ, 悲 恋 ものの 歌 がジャズ オーケストラをバック にたくさん 歌 われた 大 衆 もそうした 歌 に 自 分 の 愛 の 物 語 を 重 ね 合 わせて, 歌 を 口 ずさんだのである 一 方, 映 画 では 愛 国 心 をあおる 祖 国 の 歌 (1935)や スポーツマン マーチ (1936) 等 の 国 策 的 な 歌 が 次 々とつくられ,うたわれ, ヒットした 映 画 とエストラーダは 大 衆 の 心 をとらえ,こうして 国 民 意 識 は 強 化 されたのである 国 策 的 な 歌 としてもっとも 有 名 なものをいくつか 見 てみよう まず, 映 画 トラクター 運 転 手 (1938)の 挿 入 歌 3 人 の 戦 車 兵 である 国 境 に 黒 雲 が 暗 く 立 ちこめる/ 過 酷 な 地 は 静 寂 に 包 まれている/アムール 河 の 高 い 岸 辺 に/ 祖 国 の 歩 哨 が 立 っている//そこに 敵 への 頑 丈 な 防 壁 を 建 てた/その 地 は 厳 し く 勇 敢 で 強 力 /そこ 極 東 のタイガには/ 射 撃 突 撃 大 隊 がいるのだ[ ] (4) ドミトリイ ポクラス(1899-1975)とダニイル ポクラス(1905-1954)の ポクラス 兄 弟 の 作 曲,ボリス ラスキン(1914-1983)の 作 詞 によるこの 歌 はノ モンハン 事 件 の 前 年, 張 鼓 峰 事 件 の 年 につくられた 日 ソ 間 の 国 境 紛 争 を 描 い ている 国 境 を 越 えてくる 日 本 軍 をソ 連 軍 の 戦 車 が 迎 え 撃 ち, 最 後 には 圧 倒 的 な 鉄 と 火 力 で/サムライたちは 地 に 倒 れる 歌 詞 も 曲 も 陽 気 で 勇 ましく, 軍 隊 で 好 んで 歌 われた 同 じポクラス 兄 弟 の 作 曲 で,ヴァシーリイ レーベジェフ=クマチ(1898-1949)の 作 詞 による もしも 明 日 戦 争 が 起 これば (1938)は,ソ 連 に 迫 ろうと するドイツ 軍 の 脅 威 に 備 え, 祖 国 防 衛 を 訴 える 歌 である もしも 明 日 戦 争 が 起 これば もしも 敵 が 攻 撃 してきたら もしも 闇 の 力 が 突 然 襲 ってきたら 全 ソビエト 人 民 が 一 心 同 体 となって 自 由 な 祖 国 のために 立 ち 上 がる! 系 49

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 * 陸 に 空 に 海 に 我 らのメロディーは 強 く 厳 しく もしも 明 日 戦 争 が 起 これば もしも 明 日 行 軍 となれば 今 日 は 行 軍 に 備 えよ もしも 明 日 戦 争 が 起 これば もしも 明 日 行 軍 となれば 今 日 は 行 軍 に 備 えよ もしも 明 日 戦 争 が 起 これば 国 が 動 き 出 す クロンシュタットからウラジオストックまで 偉 大 なる 力 強 き 国 が 動 き 出 す そして 我 らは 敵 を 手 ひどく 打 ち 砕 く *(くりかえし) (5) 同 名 の 映 画 の 挿 入 歌 としてつくられた 歌 で, 歌 詞 は6 番 まであり, 飛 行 機, 戦 車, 戦 艦 等 の 装 備 を 進 め,いつでも 戦 いに 行 けるようにと 繰 り 返 す 国 民 の 防 衛 意 識 の 向 上 を 狙 ってつくられたこの 歌 は,あまりにも 有 名 になったため か, 実 際 に 独 ソ 戦 が 始 まった1941 年 に, 同 じレーベジェフ=クマチは 聖 なる 戦 い を 書 いて,これもまた 有 名 になった 立 ち 上 がれ 巨 大 な 国 よ/ 立 ち 上 がれ 死 の 闘 いに/ファシストの 闇 の 力 に/ 呪 わしい 敵 の 大 群 に// 気 高 き 激 怒 を// 波 のごとく 煮 えたぎらせろ // 人 民 の 戦 争 // 聖 なる 戦 いが 行 われるのだ[ ] (6) 作 曲 家, 軍 人 でソ 連 国 家 を 作 曲 したアレクサンドル アレ クサンドロフ(1883-1946)による 作 曲 である 1941 年 6 月 26 日 にアレクサンド ロフが 芸 術 監 督 を 務 めていたアレクサンドロフ アンサンブル( 赤 軍 所 属 の 合 唱 団 演 奏 団 1928 年 創 設 )により 初 演 され, 以 後, 同 団 体 の 重 要 なレパート リーの 一 つとなっており, 今 なお 歌 われているほど,ソ 連 人 の 身 体 に 染 み 込 ん だ 歌 である 系 50

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 ラブソングの 中 の 戦 争 戦 時 色 が 濃 くなるにつれ, 国 策 的 な 歌 や 軍 歌 が 増 えていく 一 方 で,ラブソン グ 系 の 歌 の 中 にも 戦 争 の 物 語 が 組 み 込 まれていき, 愛 は 常 に 戦 いとともにある という 内 容 に 変 化 していく それらの 中 でももっとも 有 名 なのが カチュー シャ (1938)だろう 国 立 ジャズ オーケストラのリーダーだった 作 曲 家 のマ トヴェイ ブランテル(1903-1990)が 自 分 のオーケストラのために,ミハイ ル イサコフスキイ(1900-1973)に 作 詞 を 依 頼 したところ,イサコフスキイは その 場 で 自 作 の 詩 をそらんじた それが カチューシャ で, 歌 詞 をメモしな がら,ブランテルの 頭 にはすぐにメロディーが 浮 かんだという そのときには 2 番 までしか 歌 詞 はなかったのだが, 戦 時 色 が 濃 くなる 時 勢 を 反 映 して, 祖 国 防 衛 のためのメッセージを 盛 り 込 むために,さらに3,4 番 を 付 け 加 えようと (7) いうことになった リンゴとナシの 花 が 咲 き 川 面 に 霧 は 漂 う 岸 辺 に 立 つカチューシャ 高 くけわしい 岸 辺 岸 辺 に 立 つと 歌 は 流 れる 草 原 の 灰 青 色 の 鷲 の 歌 大 好 きなもののこと 大 切 にしまってある 手 紙 のこと ああ きみ 歌 よ 娘 の 歌 明 るい 太 陽 を 追 って きみよ 跳 べ 遠 い 国 境 地 帯 の 戦 場 に カチューシャからの 返 事 よ 届 け 系 51

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 純 朴 な 娘 を 彼 は 思 い 出 す 彼 女 の 歌 が 聞 こえてくる 彼 は 祖 国 の 大 地 を 大 切 にする (8) カチューシャの 愛 を 忘 れない 日 本 では 関 鑑 子 訳 の りんごの 花 ほころび/ 川 面 にかすみたち/ 君 なき 里 に も/ 春 はしのびよりぬ で カチューシャ はあたかもロシア 民 謡 のように 思 われているが, 実 際 はソビエト 歌 謡 であり, 国 境 警 備 の 青 年 が 故 郷 の 娘 を 思 い 出 してうたっている 歌 である 初 演 は1938 年 11 月 21 日 で,ブランテルとヴィク トル クヌシェヴィツキイ(1906-1972)の 率 いるジャズ オーケストラの 演 奏 をバックにヴァレンチーナ バチシェヴァが 歌 った この 初 演 は 好 評 を 博 し, アンコールに 応 じて3 回 も 演 奏 された 軽 快 なジャズ 歌 謡 だった カチュー シャ はその 後,ゲオルギイ ヴィノグラードフ(1908-1980)をはじめ 多 くの 歌 手 が 歌 って 大 流 行 した リディヤ ルスラーノヴァ(1900-1973)の 歌 では 民 謡 風 にアレンジされ, 特 に 人 気 が 高 かった ステレオタイプ 化 されたロシア 民 謡 風 アレンジとルスラーノヴァのいかにも ロシア 的 衣 装 と 見 ぶりは1930 年 代 半 ばから 始 まったフォーク リヴァイヴァルから 生 まれたものであり, 戦 時 中 は 多 くの 民 謡 風 アンサンブル グループが 前 線 でコンサートを 行 い, 人 気 を 博 した (9) リンゴ,ナシ, 草 原, 灰 青 色 の 鷲,あるいはどこにでもいる 娘 の 名 前 エカテリーナ の 愛 称 カチューシャ イサコフスキイが 意 識 的 に 選 んだこれらの 言 葉 も 聴 衆 のナショナル アイデンティティにすぐに 馴 染 むもの だった (10) 花 咲 く 春 のイメージは 愛 の 象 徴 でもあり, 同 時 に 平 和 な 母 国, 国 家 す (11) べてを 象 徴 している 個 人 的 な 恋 愛 が 公 の 祖 国 愛 と 同 一 化 していく 愛 国 歌 謡 のひとつである カチューシャ は50 以 上 のヴァリエーション, 替 え 歌 を 生 んだ 女 兵 士 のカチューシャ, 看 護 婦 のカチューシャ,パルチザンの カチューシャ,あるいはカチューシャへの 返 事 の 歌 等 が 戦 場 で 歌 われた 兵 士 たちは 新 型 ロケット 砲 にまでカチューシャと 名 付 けた こんな 替 え 歌 も 流 行 し た 抱 いて, カチューシャ フリッツよりきつく 系 52

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 ぼくらは 嫉 妬 している カーチャ にふさわしくない ヒットラーもきみのことを 恋 しがっている 下 司 どもに 向 かってゆけ 狼 の 眼 にアドルフを 見 ろ 強 盗 をかわいがれ やさしくしてやれ 死 後 の 夜 を 彼 に 望 ませよう 風 で 骨 を 撒 き 散 らせ ああ きみ カーチャ カーチェンカ きみ 招 かれざる 客 にご 馳 走 しろ ウクライナのガルーシキ( 団 子 スープ)をやつらに 食 わせろ (12) モスクワのシチューを 熱 く 煮 えたぎらせろ アマチュアやプロの 作 曲 家 や 詩 人 によって 戦 時 中 に1000 以 上 の 曲 がつくられ たが,1941 年 6 月 22 日 の 独 ソ 戦 開 始 から4 日 間 だけでも100を 越 す 歌 がつくら れた 詩 の 言 葉 の 力 が 国 民 の 気 持 ちを 奮 い 立 たせると 信 じられていたからであ る (13) 国 境 や 前 線 にいる 兵 士 が 故 郷 の 恋 人 や 妻 を 思 う 歌 は 特 にたくさんつくられ た その 中 でももっとも 有 名 なのがコンスタンチン シーモノフ(1915-1979)が 1941 年 の 夏 に 書 いた 詩 俺 を 待 っていてくれ である 俺 を 待 っていてくれ 俺 は 帰 ってくる ただじっと 待 っていてくれ 昨 日 のことは 忘 れて 黄 色 い 雨 が 哀 しみを 連 れてくる 日 でも 待 っていてくれ 吹 雪 の 日 でも 待 っていてくれ 暑 い 日 でも 待 っていてくれ 系 53

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 他 の 者 たちが 待 てない 日 でも 待 っていてくれ 俺 を 待 っていてくれ 俺 は 帰 ってくる 忘 れてもいい 時 を よく 知 っているすべての 人 に よかれと 祈 らないでくれ 俺 がいなくなったのだと 息 子 や 母 に 信 じせておけ 友 人 たちには 待 ちくたびれさせておけ 炉 辺 に 座 らせて 追 善 のために 苦 い 酒 を 飲 ませてやれ 待 っていてくれ そして 奴 らと 一 緒 に 飲 み 急 がないでくれ 俺 を 待 っていてくれ すべての 死 の 面 当 てに 俺 は 帰 ってくる 俺 を 待 たなかった 奴 に 言 わせてやる 運 がよかったね と 待 たない 奴 らには 分 かりはしない 炎 の 中 にいるように 自 分 を 待 っていてくれた 君 が 俺 を 救 ってくれた どうやって 俺 が 生 き 残 るかを 知 ることになるのは 俺 と 君 だけ 他 の 誰 でもない 君 だけが 待 っていてくれるからこそ (14) 系 54

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 これはシーモノフが 恋 人 のヴァレンチーナ セローヴァのために 書 いたごく 個 人 的 な 詩 だった シーモノフが 前 線 の 塹 壕 の 中 でこの 詩 を 口 ずさんだとこ ろ, 兵 士 たちはすぐさまこれを 書 きとめたり, 暗 記 したりした そして 誰 もが この 詩 を 自 分 のことのように 感 じ,シーモノフに 詩 を 公 表 するようすすめた 1941 年 12 月 にこの 詩 を 含 めてシーモノフの 何 編 かの 詩 がラジオで 公 表 され, プラウダ にも 掲 載 された 俺 を 待 っていてくれ はすぐに 反 響 を 呼 び, 新 聞 各 紙 に 何 百 回 も 繰 り 返 し 掲 載 され, 多 くの 兵 士 と 民 間 人 の 手 で 書 き 写 されて 巷 間 に 流 布 した 少 なくとも10 人 の 作 曲 家 がこの 詩 に 曲 をつけようとしたが, (15) 結 局 1942 年 に 先 ほどの カチューシャ の 作 曲 者 ブランテルがこの 詩 の 作 曲 を し,ゲオルギイ ヴィノグラードフが 歌 い,これもたちまちヒットソングとなっ た さらにシーモノフはこの 詩 をテーマにした 映 画 シナリオを 書 き,1943 年 に はアレクサンドル ストルペル(1907-1979) 監 督 によって 映 画 化 された この 詩 を 書 き 写 した 兵 士 たちは,ポケットに 入 れて 護 符 代 わりにしたという 詩 の 文 句 を 戦 車 やトラックに 刻 みつけたり, 腕 に 刺 青 する 兵 士 もいた 多 くの 兵 士 がこの 詩 を 手 紙 に 書 き 写 して 恋 人 に 送 り, 娘 たちもまた 同 じ 詩 の 言 葉 を 引 用 し て 返 事 を 書 いた 待 っていてくれ が 大 成 功 を 収 めた 理 由 は,それが 数 百 万 人 の 兵 士 と 民 間 人 の 個 人 的 な 心 情 を 表 現 したからである 人 々は 愛 する 者 との 再 会 に 生 き 延 びる 希 望 を 託 していた 誰 もが 待 っていてくれ の 中 に 自 分 自 身 の 詩 的 なロマンスが 普 遍 的 な 言 葉 で 表 現 されていると 感 じていた この 詩 は 戦 争 を 背 景 にして 描 かれた 君 と 僕 の 物 語 だった (16) まったく 個 人 的 な 感 情 から 書 かれた 詩 が 公 の 個 々の 感 情 を 代 弁 する 言 葉 と なった 戦 時 下 の 人 々は 自 分 の 内 心 を 代 わりに 語 ってくれる 詩 を 必 要 としてい た 愁 いに 満 ちたメロディーと 共 に 歌 われる 詩 は, 離 別 の 悲 しみと 死 の 恐 怖, そして 帰 還 と 再 会, 生 への 希 望 を 表 現 していた 勇 ましい 軍 歌 ではなく,こう した 個 人 の 心 情 を 切 々とうたう 歌 は, 決 して 戦 意 を 喪 失 させるものではないこ とに 政 治 権 力 はすぐに 気 づき, 個 人 の 物 語 を 母 国 (ロージナ)/ 国 家 の 物 語 に すり 替 えることに 成 功 した 兵 士 がその 戦 闘 能 力 を 最 大 限 に 発 揮 するのは, 何 のために 戦 うのかを 知 っている 時 であり, 自 分 自 身 の 運 命 と 戦 争 の 目 標 を 一 体 のものとして 意 識 する 場 合 である 身 近 な 対 象 への 忠 誠 心 ほど 強 力 な 動 系 55

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 機 はない 祖 国 ソヴィエト ではなく, 自 分 が 属 する 特 定 の 共 同 体,すなわち, 実 体 を 持 つ 人 間 的 紐 帯 ネットワークを 防 衛 する 意 欲 が 国 防 の 大 義 と 結 びついた 時, 人 々は 自 己 を 捨 てて 戦 う 決 意 を 固 めるのである 政 府 のプロパガンダはこ の 忠 誠 心 を 引 き 出 すために, ロージナ という 概 念 を 持 ちだし,その 防 衛 を 訴 えた (17) 俺 を 待 っていてくれ と 同 タイプの 歌 が 大 量 につくられたが, 中 でも 人 気 が あったのが 暗 い 夜 である 映 画 二 人 の 兵 士 (1942)の 挿 入 歌 として,ニ キータ ボゴスロフスキイ(1913-2004)が 作 曲 し,ウラジーミル アガトフ(1901-1967)が 作 詞 した 1941 年 のドイツ フィンランド 軍 の 包 囲 下 に 置 かれたレニ ングラード( 現 サンクト ペテルブルク)の 防 衛 戦 線 における 二 人 の 兵 士 の 友 情 を 描 いた 物 語 である 主 演 した 俳 優 で 歌 手 でもあるマルク ベルネス(1911-1969)がギターを 手 に 塹 壕 の 中 でこの 歌 を 哀 切 に 満 ちた 声 で 歌 う 暗 い 夜 弾 丸 だけが 荒 野 をうなる 風 だけが 電 線 にうなり くすんだ 星 々が 瞬 く 暗 い 夜 に 愛 する 君 が 眠 らずにいることを 僕 は 知 っている 子 どものベッドのそばで 君 はそっと 涙 を 拭 う 君 のやさしい 瞳 の 奥 を 僕 はどれほど 愛 していることか その 瞳 に 僕 は 今 すぐ 唇 を 触 れたいよ! 暗 い 夜 は 愛 する 人 を 僕 たちから 引 き 離 す 不 安 な 漆 黒 の 荒 野 が 僕 らの 間 に 広 がっている 君 を 信 じている 親 愛 なる 我 が 女 友 だちよ この 信 頼 が 暗 い 夜 弾 丸 から 僕 を 守 ってくれた 僕 は 嬉 しい 決 死 の 闘 いにも 心 はおだやかだ 僕 の 身 には 何 も 起 こらず 愛 と 共 に 君 が 僕 を 迎 えてくることを 僕 は 知 って いる 系 56

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 死 は 恐 ろしくない そいつには 一 度 ならずも 荒 野 で 出 くわしたから ほら 今 も 僕 の 上 にそいつが 飛 び 交 っている 君 は 僕 を 待 っている 子 どものベッドのそばで 眠 らずに (18) だから 僕 には 分 かるんだ 僕 には 何 も 起 こりはしないって! 戦 意 高 揚 のための 歌 であれば,もっと 勇 ましく 敵 を 倒 せ というスローガ ン 的 なものの 方 がよさそうなものだが, 先 述 した 通 り, 銃 後 の 妻 や 家 族 を 思 い, 必 ず 帰 るよ,そのためには 絶 対 に 死 なないで,この 戦 争 を 終 わらせるんだ という 強 固 な 意 志 を 表 明 するメッセージを 打 ち 出 すことで,かえって 戦 意 を 高 揚 させることになる 戦 時 下 のソ 連 では 死 に 打 ち 勝 つ という,あくまでも 楽 観 的 な 歌 が 人 々の 心 をとらえたのであり, 政 治 権 力 がそれを 利 用 したのだ こうして 個 人 の 内 面 の 声 は 民 衆 すべての 声 となり, 戦 争 という 物 語 を 共 有 することになったのである コンサートを 前 線 へ 第 二 次 大 戦 当 時, 日 本 でジャズが 敵 性 音 楽 ということで 禁 止 されたのとは 反 対 に,ソ 連 ではレオニード ウチョーソフ(1895-1982)やアレクサンドル ツ ファスマン(1906-1971)も 含 めて, 多 くのジャズ バンドは 前 線 に 慰 問 に 訪 れ, 戦 いに 勝 利 して, 早 く 故 郷 に 帰 ろう というメッセージを 送 ることで 人 気 を 博 した エディ ロズネル(1910-1976)はグレン ミラー スタイルの 本 格 的 なアメリカ ジャズで 特 に 人 気 が 高 かった ロズネルが1943 年 に 録 音 した セ ント ルイス ブルース はヨーロッパにおけるジャズの 歴 史 的 名 演 として 今 も 高 く 評 価 されている (19) 数 万 の 音 楽 家, 俳 優, 歌 手,ダンサーたちが 戦 争 に 動 員 され, 兵 士 の 慰 問 の ために4,000 近 くの 移 動 演 芸 慰 問 団 が 組 織 された その 演 目 はクラシック 音 楽, バレエ,シェークスピア 劇,ダンス, 歌 謡 曲,ジャズ 等 々,さまざまなジャン ルの 芸 能 娯 楽 であり, 詩 の 朗 読 やセルゲイ オブラスツォーフによる 反 ドイ ツ 的 な 人 形 劇 も 人 気 があった 最 前 線 の 砲 火 の 下 でも 上 演 されることは 珍 しく 系 57

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 はなく, 観 客 が3 人 だけの 時 も3,000 人 という 時 もあった 3,720の 部 隊 の 慰 問 に,45,000 人 のアーティストが 赴 き,40 万 回 を 超 すコンサートを 前 線 で 開 催 し た (20) 前 線 以 外 の 開 催 地 も 含 めると 戦 時 下 で 行 われたさまざまなコンサートは 135 万 回 にのぼった (21) こうした 戦 地 でのコンサートのひとつを 映 画 にしたのがアレクセイ カプレ ル(1904-1979) 監 督 の コンサートを 前 線 へ (1942)であり,その 映 像 から 当 時 の 大 衆 がどんな 音 楽 を 娯 楽 として 求 めていたかが 分 かるだろう レニング ラード 前 線 でのアーティストたちの 公 演 をカメラにおさめたものであるが,こ のコンサートの 模 様 を 収 めた 映 画 フィルムを 前 線 に 届 け,それを 兵 士 たちが 鑑 賞 するという 内 容 の 映 画 である 司 会 を 務 めるのは 兵 士 で 映 画 技 師 役 のアル カージイ ライキン(1911-1987)で, 有 名 なエストラーダの 喜 劇 役 者 だ そし てコンサートの 演 目 は, 当 時 の 流 行 歌 手 の 歌, 詩 人 の 朗 読,アクロバット,そ してウチョーソフのテア ジャズ,つまり 当 時 のエストラーダのエッセンスの ような 内 容 となっている (22) この 映 画 でとりわけ 興 味 深 いのが 二 人 の 女 性 歌 手 リディア ルスラーノヴァ とクラヴジア シュリジェンコ(1906-1984)の 存 在 である ルスラーノヴァは いかにもステレオタイプなロシアの 田 舎 の 女 性 を 演 じて, 泥 臭 いまでに ロシ ア の 善 良 なテーマをうたう 一 方 シュリジェンコは 有 名 な 青 いプラトーク を 歌 っている もちろんこれも 愛 国 歌 謡 である 青 いプラトーク (1942)は ポーランド 出 身 のイェジィ ペテルブルスキ(1895-1979) 作 曲,ヤコフ ガリ ツキイとミハイル マクシーモフ 作 詞 によるもので, 大 戦 中 だけでなく, 今 も よく 歌 われているソビエト 歌 謡 の 名 曲 である 青 い 地 味 なプラトークが 元 気 のない 肩 から 落 ちた 君 は 言 った やさしい 喜 びに 満 ちた 出 会 いを 忘 れないでと 君 と 別 れたのは 夜 のことだった あの 時 の 夜 じゃない! 君 はどこ 愛 しい かわいい 故 郷 のプラトーク! 君 の 手 紙 を 受 け 取 ると 僕 には 故 郷 の 声 が 聞 こえる 行 間 から 僕 の 目 の 前 にまた 立 ち 現 れた 青 いプラトーク 系 58

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 夜 明 け 前 のひとときに 僕 は 一 度 ならず 夢 を 見 た プラトークの 中 の 巻 き 毛 青 い 夜 乙 女 の 眼 の 光 記 憶 に 残 る 晩 君 のプラトークがどんなふうに 肩 から 落 ちたのか どんなふうに 見 送 ったか 青 いプラトークを 心 に 留 めると 約 束 したか 思 い 出 す 故 郷 の 愛 しい 人 は 今 は 僕 のそばにいないけれど 君 は 愛 とともに 枕 辺 で 泣 いていることを 知 っている 青 いプラトークよ 大 切 なプラトークを 何 枚 心 に 抱 いたことだろう! 出 会 いの 喜 び 乙 女 の 肩 は 激 しい 戦 場 のことを 忘 れない 彼 らのため 故 郷 のため 愛 する 人 のため あれほど 愛 しいもののため (23) 大 切 な 人 の 肩 にあった 青 いプラトークのために 機 関 銃 を 打 つ 面 白 いのはルスラーノヴァの 泥 臭 いロシアっぽさとは 対 照 的 にシュリジェン コは,フランスのシャンソン 歌 手 のような 雰 囲 気 を 漂 わせながらうたうのだ これは 当 時 の 大 衆 の 音 楽 的 好 みを 見 事 に 反 映 している どこにもないユートピ アとしての 古 き 良 きロシアのイメージ(ルスラーノヴァ),もうひとつのまだ 見 たことのない 夢 のヨーロッパのイメージ(シュリジェンコ), 自 分 たちの 陽 気 な 仲 間 というイメージ(ウチョーソフやライキン)がひとつのステージで 一 体 と なっているかのようである この 映 画 の 中 でももっとも 注 目 すべきはウチョーソフによるテア ジャズの 舞 台 だ ウチョーソフは 自 分 のオーケストラを 率 いて, 前 線 から 前 線 へと 飛 び 回 り, 先 述 した 聖 なる 戦 い カチューシャ 俺 を 待 っていてくれ 暗 い 夜,あるいは 君 はいま 遠 く, 遠 く/ 僕 らの 間 には 雪,また 雪 / 君 のもと へ 僕 がたどり 着 くのは 容 易 ではない/でも 死 までは 4 歩 (24) という 歌 詞 で 兵 士 たちの 誰 もが 口 ずさんだ 名 曲 壕 舎 の 中 で (1942) 等 のヒットソングを 歌 っ た しかし,ウチョーソフの 面 目 躍 如 たるステージは 笑 いは 敵 を 殺 す とい う 彼 自 身 のモットーの 通 り, 面 白 おかしい 歌 だった その 中 でももっとも 有 名 系 59

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 なのが フォン デル プシク 男 爵 である (25) 原 曲 はジャズのスタンダード ナンバーとして 知 られている BeiMirBistu Shein ( 邦 題 素 敵 なあなた ショロム セクンダの1932 年 の 曲 )である こ の 曲 は1937 年 にサウル チャップリンがリフレンを 加 え,サミー カーンが 英 語 の 歌 詞 を 作 り,コーラスグループのアンドリュー シスターズ 録 音 のレコー ドをリリースして,アメリカでヒットした ベニー グッドマンやグレン ミ ラーも 演 奏 した ロシアではウチョーソフが 僕 の 美 人 さん という 題 で1940 年 に 録 音 した ヤコブ スコモルフスキイ(1889-1955) 指 揮 のレニングラー ド ジャズ オーケストラの 演 奏 だった アップテンポでいかにもジャズらし い 軽 快 なこの 曲 は,ウチョーソフ 自 身 によって2つのヴァリエーションが 作 ら れた これらは 他 愛 のないラブソングだったが,さらに,1942-43 年 にアナトー リイ フィドルスキイ 作 詞 の 替 え 歌 フォン デル プシク 男 爵 がつくられ, ウチョーソフが 十 八 番 として 戦 地 で 歌 った フォン デル プシク 男 爵 /ロシ アの 脂 身 を 奪 おうと/ずっと 前 から 決 めて 考 えていた / 彼 はたいへんな 派 手 好 きで/ 不 自 由 な 思 いには 慣 れていなかったし/ 自 己 犠 牲 的 行 為 を 早 くから 叫 んでいた / 彼 がスターリングラードで 何 をしたとか/ 彼 はパレードでこう したとか/ラジオで 怒 鳴 る/そして 彼 は 脂 身 を 食 らう / 彼 は 何 を 食 い, 飲 む のか/だが 脂 身 は/ 大 ボラ 吹 きに 差 し 出 される!/フォン デル プシク 男 爵 /ロシアの 銃 剣 のことを 忘 れていた/ 銃 剣 は 男 爵 を 打 つことを 忘 れはしなかっ た /そして 雄 々しいフォン デル プシクは/ロシアの 銃 剣 の 上 に 倒 れた /ロシアではなく,ドイツ 人 が 脂 身 になったのだ /ベルトのない 軍 服 / かぎ 十 字 は 打 ち 砕 かれた /さあ ロシアの 銃 剣 に/ 入 り 込 んでみなよ!/ フォン デル プシク 男 爵 /さあ おまえの 以 前 の 脂 身 はどこだ?/ 男 爵 に 残 されていたのは 銃 剣 だけだ!/ 一 巻 の 終 わりだ! (26) これらの 曲 はラジオや コンサートを 前 線 へ でも 流 れ, 戦 意 高 揚 に 一 役 買 ったことは 言 うまでもな い もうひとつ,ウチョーソフらしい 歌 を 取 り 上 げたい おまえはオデッサ 人 だよ,ミーシカ である 1941 年 の 終 わりにウラジーミル ドゥイホヴィチヌィ (1911-1963)の 詩 オデッサ 人 ミーシカ が 新 聞 に 掲 載 された 当 時 オデッサ 系 60

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 の 映 画 スタジオの 音 楽 部 門 で 司 会 の 仕 事 をしていたモデスト タバチニコフ (1913-1977)がこれにすぐに 曲 をつけた オデッサ 出 身 のレオニード ウチョー ソフが 彼 の 指 揮 する 国 立 ジャズ オーケストラでこの 曲 を 歌 った 彼 は1943 年 3 月 25 日,この 曲 をモスクワでレコード 録 音 した 録 音 では3 分 ほどの 曲 だ が,ステージで 歌 うともっと 長 い 曲 である 広 い 潟 緑 の 栗 の 木 空 色 の 停 泊 地 に 平 底 船 がゆれている ベッピンさんのオデッサで 貧 乏 な 少 年 は 幼 いころから 本 物 の 水 兵 と 認 められていた もしもひどい 辱 めが 少 年 を 苦 しめ 始 めると 少 年 は 顔 にも 浮 かべないが 顔 に 出 そうになると 母 は 彼 に 言 うのだ * おまえはオデッサ 人 だよ ミーシカ それはつまり おまえには 悲 しみも 不 幸 も 怖 くないということさ だっておまえは 水 兵 だろ ミーシカ 水 兵 は 泣 いたりしないし みなぎる 元 気 を 決 してなくしたりしないんだよ! 広 い 潟 かしげた 栗 の 木 ベッピンさんのオデッサは 敵 の 砲 火 の 下 水 兵 服 の 若 い 男 の 子 が 熱 い 機 関 銃 とともに 疲 れも 知 らず 当 直 に 立 っている そしてその 夜 も 昨 日 と 同 じように うなり 声 と 砲 撃 の 音 が 聞 こえてくる 少 年 は 怖 くない 怖 くなったら 彼 は 自 分 に 言 うのだ 系 61

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 *(くりかえし) (27) オデッサ 出 身 のウチョーソフがうたうこの 歌 は,たちまち 一 種 のフォークロ ア,あるいはオデッサ 神 話 となった (28) 次 に 引 用 する 続 きの 歌 詞 が ミーシカ, オデッサに 帰 る と 題 して コムソモーリスカヤ プラウダ 紙 に 掲 載 された のは1944 年 4 月 である おりしも 同 年 3-4 月,オデッサはドイツ 占 領 下 にあり, おまえはオデッサ 人 だよ,ミーシカ の 歌 詞 が 印 刷 された 紙 がオデッサ 上 空 を 飛 ぶ 飛 行 機 からばらまかれたという 広 い 潟 花 咲 く 栗 の 木 しっかりとした 足 取 りで 親 衛 大 隊 が ベッピンさんのオデッサに 戻 ってきた 時 横 隊 散 開 して 旗 たちのはためく 音 が 再 び 聞 こえてきた そしてバラの 地 面 に 立 つと 帰 還 の 旗 に 我 らがミーシカは 不 意 の 涙 をこらえられなかったが 誰 も 彼 に 何 も 言 わなかった たとえオデッサ 人 のミーシカでも つまり 彼 には 悲 しみも 不 幸 も 怖 くはないとしても たとえおまえが 水 兵 で ミーシカ 水 兵 は 泣 かないとしても (29) でも 今 だけは 泣 くのが 本 当 だよ 不 幸 なんかじゃない! 1945 年 5 月 2 日,ベルリンは 陥 落 した 戦 勝 国 であるソ 連 では,また 多 くの 歌 がつくられ, 歌 われたが,それはまた 別 の 物 語 である ともあれ,ジャズと 大 衆 歌 謡 が 戦 時 下 のソ 連 で 個 と 公 が 一 体 となって 声 となったことは 確 かなこと であった しかし, 戦 後 まもなく,これらの 声 は 再 び 封 殺 され, 独 自 の 音 楽 文 化 を 形 成 することになるのである 系 62

戦 時 下 ソ 連 のジャズと 大 衆 歌 謡 における 声 胸 注 茨 R.Stites,Rusianpopularculture.Entertainmentandsocietysince1900.Cambridge UniversityPres.1992.p.75. 芋 ЛуначарскийА.В.О джаз-музыке.о массовыхпразнествах,эстрадеицирке. М.:Искусствл,1981.С.269. 鰯 СоллертинскийС.Несколькословоджазе/Эстрадабезпарада:Сборник/Сост. БаженоваТ.П. М.:Искусство,1990.С.106 允 J.Geldern,R.Stites(eds),MasCultureinSovietRusia.IndianaUniversityPres. 1995.pp.318-319. 印 Ibid.,pp.340-341. 咽 Ibid.,pp.316-317. 員 Песни, опаленные войной: Страницы песенной летописи Великий Отечественной/Сост.Ю.И.Бирюков.-М.:Русскийимпульс,2011.С.46-47. 因 J.Geldern,R.Stites,op.cit.,pp.315-316. 姻 R.Stites,'FrontlineEntertainmant'inR.Stites(ed.),CultureandEntertainmantin WartimeRusia.IndianaUniversityPres.1995.p.132. 引 СквозниковВ.Поповодуодногоабзаца(Омассовойпесне30-хгодов).Вопросы литературы.1990, 8.С.21. 飲 HansGunther,' BroadismyMotherland Themotherarchetypeandspaceinthe Sovietmassong ine.dobrenko,e.naiman(eds.),thelandscapeofstalinism:the artandideologyofsovietspace.universityofwashingtonpres,2003.p.89. 高 橋 健 一 郎 は カチューシャ について この 歌 もやはり 教 育 の 物 語 あるいは 戦 争 の 物 語 という ソビエト 語 の 国 家 的 な 物 語 の 枠 から 決 して 逃 れられてはいな い と 指 摘 している ( 高 橋 健 一 郎 ソビエト 語 の 言 説 空 間 1930 年 代 の 大 衆 歌 をめぐって 現 代 文 芸 研 究 のフロンティア(VI) 北 海 道 大 学 スラブ 研 究 セ ンター,2005 年 164 頁 ) 淫 J.Geldern,R.Stites,op.cit.,p.316. 戦 地 で 歌 われた 有 名 な 替 え 歌 だけでも11の ヴァリエーションがあり, 次 のサイトで 読 むことができる htp:/a-pesni.org/ww2/oficial/katjucha.php?q=a-pesni/ww2/oficial/katjucha.php(2016 年 1 月 18 日 閲 覧 ) 胤 R.Stites,Rusianpopularculture.p.103. 系 63

胸 人 文 科 学 研 究 第 138 輯 蔭 ПоэзияпериодаВеликойОтечественнойвойны ипервыхпослевоенныхлет/ Сост.В.М.Курганова.-М.:Сов.Россия,1990.С.46-47. 院 R.A.Rothstein,'Homeland,HomeTown,andBatlefield'inR.Stites(ed.),Culture andentertainmantinwartimerusia.p.85. 陰 オーランドー ファイジズ 囁 きと 密 告 スターリン 時 代 の 家 族 の 歴 史 ( 下 ) 染 谷 徹 訳, 白 水 社,2011 年 137 頁 隠 同 上,169 頁 韻 J.Geldern,R.Stites,op.cit.,pp.377-378. 吋 S.FrederickStar,RedandHot;TheFateofJazintheSovietUnion1917-1980.New York,Oxford,OxfordUniversityPres,1983.pp.194-195. 右 R.Stites,Rusianpopularculture.p.109. 肝 David MacFadyen,SongsforFatPeople;Afect,Emotion,andCelebrityinthe RusianPopularSong,1900-1955.Montreal& Kingston,McGil-Queen suniversity Pres,2002.p.126. 艦 Русскаясоветскаяэстрада.1930-1945 г. М.:1977.С.396.ネーヤ ゾールカヤ 著, 扇 千 恵 訳 ソヴェート 映 画 史 七 つの 時 代 ロシア 映 画 社,2001 年,266 頁 莞 J.Geldern,R.Stites,op.cit.,pp.334-335. 観 Любимыепеснииромансы. Челябинск:«УралЛ.Т.Д.»,2001.С.150.ГейзерМ. ЛеонидУтесов. М.:Молодаягвардия,2008.С.197-214 諌 ГейзерМ.ЛеонидУчесов. М.:Молодаягвардия,2008.С.197-214. 貫 СафошнинВ.ЛеонидУтесов. М.:Эксмо,2005.С.379-380. 還 Песни,опаленныевойной.С.75-77. 鑑 Утесов/УваловаЕ.Д.(Ответ.Ред.)ЭстрадавРоссии.ⅩⅩвек.Энциклопедия. -М.:«Олма-Пресс»,2004.С.684. 間 Песни,опаленныевойной.С.77-78. 系 64