た 東亜半月弧 /~ と称されている地域は, 該当す

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編小説 晩夏 ~





















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Kobe University Repository : Kernel Title 照葉樹林文化論と雲貴高原東部の少数民族の生業形態 Author(s) 田畑, 久夫 Citation 兵庫地理,35:43-58 Issue date 1990-03 Resource Type Journal Article / 学術雑誌論文 Resource Version publisher URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90002369 Create Date: 2016-09-30

た 東亜半月弧 /~ と称されている地域は, 該当す

説であるが故に当然の乙とかも知れないが 将来 わけである かかる理由としては 照葉樹林文化 I 民 帯にみられるプレ農耕段階が水晒しなどの相当 大幅な変更がみられるかも知れない また I 族皐研究J誌上での論争に代表されるように 学 に高度な食料加工技術の体系を開発していたらし 会においても評価が分かれている?このように現 い という事実にまず注目する 一方 照葉樹林 在でもなお流動的な要素を内包しているが 現時 文化帯の南方に位置する根栽農耕文化帯には 照 点までの成果を中心に論じていきたい!) 葉樹林文化帯ではみられないタロイモ ヤムイモ 照葉樹林文化論の提唱者は 中尾佐助で ある? などのイモ類が豊富に野生しているので 照葉樹 すなわち中尾は 世界の農耕文化を包括的に把握 林文化帯で開発された高度な食料加工の技術の体 しようとするために 根栽農耕文化 サバンナ農 系が 南側に伝播し 野生種のイモ類の栽培化つ 耕文化 地中海農耕文化新大陸農耕文化の 4類 まり根栽農耕文化の成立に影響を及ぼしたと唱え 型に分類した?その上で 照葉樹林文化を サト るのである かように主張する乙とによって中尾 ウキピ タロイモ ヤムイモ バナナなどの起源 佐助は 以前に提唱した照葉樹林文化の発展段階 地とみなされているマレ一半島起源の根栽農耕文 説 化と非常に関連をもっ文化とみなし! l t第 1表)では 自己矛盾に陥いる乙とになっ ウビ農耕 た すなわち 当初においては 第 1表の皿根栽 文化(根栽農耕文化).Jの 温帯(北方)展開型 植物栽培段階でサトイモ ナガイモなどのイモ類 と名付けたのである?乙乙で特に注目すべき点は を主作物とする根栽栽培というステージを想定し 中尾によれば 照葉樹林文化はあくまで根栽農耕 乙れが根栽農耕文化からの影響を多大に受けてい 文化の副次的な農耕文化であるというとらえ方で ると考えたのである o そ乙で中尾は 新説を展開 ある と乙ろが その後 中尾は 新しく収集さ したシンポジウムの席上において 討論者である れた種々の資料の分析から 従来の立場とはまっ たく逆に 根栽農耕文化は照葉樹林文化の 南方 上山春平 佐々木高明の意見を受け m段階に想 定していた根栽植物栽培段階を削除するととにし 展開型 で あると主張しだしたので ある: つまり た さらに両者から 換言すれば 照葉樹林文化論の方が根栽農耕文化 階は 食料加工技術の著しい発達 ならびにそれ の成立に多大の影響を与えたものであるとみなす I I段階に想定した半栽培段 に伴なう野生植物の選別の強化など たんなる野 生採集とは異なる形態であるとも考えられるので 第 1表 照葉樹林文化の農耕方式の発展段階 あるが 少なくとも栽培技術の面からは野生採集 と根本的な区別ができないので あえて独立した 1.野生採集段階 ステージを設立しなくてもよいのではないか と ナット クリ トチ シイ ドングリ ク Jレミ の指摘も受けるので あるアとりわけ 前者すなわ 野生根茎頬 クズ ワラビ テンナンショウ ち照葉樹林文化における根栽植物栽培段階の削除 1.半栽培段階一品種の選択 改良はじまる は 照葉樹林文化論の枠組を考える場合 あるい クリ ジネンジョ? ヒガ ンノイナ は日本の基層文化の特質を解明するうえでも重要 皿.根栽植物栽培段階 な転換点であるとみなされるので 主として佐々 サトイモ ナガイモ コンニャク 木高明の見解定依拠しつつ論じてみよう 焼畑 ブッシュ フアロー 佐々木は 照葉樹林帯の文化発展のプロセスの l V. ミレッ卜栽培段階 ヒエ シコクエ アワ キビ オカボ グラス フアロー 中に 典型的な根栽農耕文化の段階 つまりイモ 西方高文化の影響化に成立 類やバナナなどの根栽作物のみを栽培とするよう な農耕段階が存在しなかった理由を次のように考 v.水稲栽培段階 イネ水田栽培 謹概その他の施設 永年作畑 r 8 2 ) 照葉樹林文化への道一 出所 佐々木高明(19 プータン 雲南から日本へ 日本放送出版協会 (NHKブックス p. 2 9 表 1-1より引用 注)本表は 中尾佐助原案の内容を佐々木高明が表に したものである えている 一般に熱帯の地域では 高温多湿とい う非常に苛酷な自然条件のため その条件に最適 の栽培作物を主として栽培する農耕が成立する しかしかような作物が成育できない 冬Jをも っ照葉樹林帯では 熱帯系のタロイモ ヤムイモ 類の中から 例えばサトイモなどの 冬 に耐え -44-

第 2表 照 葉 樹 林 文 化 の 発 展 段 階 称 名 合宍ご' 可 内 時 代 ① 照葉樹林採集 半栽培文化 プレ農耕段階 縄文時代前期 ② 照葉樹林焼畑農耕文化 雑穀 を中心とした焼畑段階 縄文時代後 晩期 ③ 水田稲作農耕文化 稲作ドミナン卜の段階 縄文時代晩期 弥生時代初期 8 2 ) 出所 佐々木高明(19 r 照葉樹林文化の道一ブータン 南南から日本へ 1-3 2より作成 日本放送出版協会 CNHKブックス) pp.3 うることが可能な作物が選定された これらの作 島で新たに成立したものではないとする点で ぁぷ) 物は 恐らくインド方面から伝播したとみなされ かような形態で 主として西日本に展開してきた るアワ シコクビエなどの雑穀類 あるいは大豆 照葉樹林文化を基盤にして その上に 縄文晩期 を代表とする豆類とともに 焼畑農業によって栽 あるいは弥生時代初期に 中国大陸ないしは朝鮮 培されだしたとするのである そして かかる乙 半島南部から③水田稲作文化が日本列島に導入さ とが 照葉樹林文化帯の稲作以前の農耕の特色で れるのである とりわけ 西日本の照葉樹林帯に あると主張するわけである かように推測する乙 非常に短期間に伝播するのは上述した②段階で とにより わが国においても 気候条件あるいは 焼畑農業に代表される畑作がすでに実施されてい 伝統農業の作物構成の諸特徴から検討すると 稲 たので かかる技術の修停には時間がかからなか 作以前には 典型的な根栽農耕文化ではなく 雑 ったものとみるのであるイそして 乙のようなプ 穀とイモ文化とでもいうべき照葉樹林地帯で卓越 ロセスを経て成立した照葉樹林文化は 日本の基 している焼畑農耕文化が広く分布していたに違い 層文化の基底部分に少なからず影響を及ぼしてい ないと主張するのである るとするのであるイ かくして 照葉樹林文化帯の発展段階は 中尾 の想定した 5段階が縮少され 以上 照葉樹林文化論の展開を歴史的に辿って 3段階に区分され きたのであるが 日本との関連に関して論じると る乙とになるて第 2表) すれば 照葉樹林文化帯の東端に位置する極東の とみられるよ ①段階の照葉樹林文化は 第 2表 l 日本列島西部に どのようにしてセンターである うに 恐らく縄文時代前期頃に 日本列島西部す 東亜半月弧 から 照葉樹林文化が伝播してき なわち照葉樹林地帯に伝播してきたと想定されて たのか という伝播経路についての問題が最大の いる かかる根拠として 代表的な縄文時代前期 関心事といえよう o 照葉樹林文化には すでに述 の遺跡とみなされている福井県西部の三方湖湖畔 べたように 第 2表にみられる 3段階が想定され に位置する島浜貝塚があげられる 乙の貝塚から ており それぞれおおよその時代も特定されてい は 漆塗りの赤い櫛や盆 鉢などの木地製品の出 る したがって 日本列島西部への伝播を考察す 土とともに アフリカやインドに起源をもっと推 る場合 どのステージをとるかによって経路が変 定されているヒョウタン リョクトウなどの照葉 更される可能性もあるが 現在では 次のように 樹林帯を経由してきたと思われる遺物が出土する 考えられている 乙 さらに 水晒しによるアク抜きの技術も野 すなわち 乙れらの 3段階の中で 考古学の発 生のイモ類だけではなく 堅果類の食用化にも応 掘などに代表される資料が最も豊富に利用できる 用されていることが確認でき のは ③水田稲作農耕文化なので 乙の③段階で d?②段階の照葉樹 林焼畑農耕文化については 乙の時期にすでに成 の日本列島への伝播経路を検討する乙とで 照葉 立しているとみなされる 四国や九州などの照葉 樹林文化の日本列島西部への伝播を類推してみる 樹林帯の伝統的な焼畑経営山村に伝承されてきた 乙とにする 生産方法や生活様式は 他地域の照葉樹林帯の焼 イネの起源地は 種々説が存在するが 現在の d Zどiζ より インドシナ半 ところ渡部忠世の研 畑農耕民との対比から 稲作伝来以後に 日本列 Fhu A斗晶

の陸地のが ~

一 等雨線 (1 2~

~T ~T: 夏季 10 0 C 以上の積算温度

~ 司 ",~ ~ 2 畝 (7 0 ~80 本 ) 2 畝 (60 ~70 本 ) 50~60 斤

~ 東 南アジア農耕論