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目 次 ごあいさつ 1 1 沖縄戦の経過概要 2 2 前田高地 4 3 前田 経塚陣地壕群 10 4 首里の戦争遺跡と戦争関連遺構 遺物 16 5 おわりに 24 那覇 浦添の戦争遺跡分布図 25 凡例 1 本誌は 沖縄県立埋蔵文化財センター 浦添市教育委員会合同企画展 沖縄県の戦争遺跡 ~ 前田高

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Transcription:

2015 年 12 月 12 日 ( 土 ) 主な在沖アメリカ軍 かでな ➀ 嘉手納基地 ( 空軍 ) ふてんま ➁ 普天間基地 ( 海兵隊 ) へのこ ➂ 辺野古 ( 基地移設予定地 ) そのほかにもキャンプハンセンや北部訓練場などがある ( 実弾演習あり ) これらのアメリカ軍施設は沖縄本島全体の 18.2% を占める ➂ きゃん喜屋武 よみたん 読谷 ➀ ちゃたん 北谷 ➁ 首里 ( 司令部 ) かかず嘉数の戦い (1945.4/8~4/23) 沖縄戦最大級の激戦 日本軍は 10 倍以上もの敵に持ちこたえた 戦死傷者約 64000 人 シュガーローフの戦い (1945.5/12~5/19) アメリカ海兵隊史上最大となった戦闘 あらゆる火器を投入するアメリカ軍に対し 日本軍は洞窟に潜んで応射した この戦いののち首里の司令部が陥落し 軍民ともに南部になだれこむこととなった アメリカ軍の沖縄本島上陸 (1945.4/1) 本島の中西部 ( 読谷村から北谷村にかけての海岸 ) に 4 月 1 日早朝より上陸を開始 たった 1 日でロケット弾や迫撃砲弾を含め 10 万発超の砲弾が撃ち込まれた 物量戦で劣る日本軍が水際での決戦を放棄したため アメリカ軍は容易に内陸部へと歩を進めた 集結したアメリカ軍の戦力は 548,000 人 左写真はその当時の様子 ( 写真出典 : HP 沖縄公文書館 より ) 0

戦後七〇年 沖縄の地に想うこと戦後七〇年が経ちました 今も 戦争で生命を落とされた方々が国内外の激戦地で眠っておられます ガダルカナル サイいおうとうパン パラオ 硫黄島 そして沖縄 沖縄では日本国内最大の地上戦が行なわれ 日米あわせて 20 万人超の死者 行方不明者が出ました 1952 年に日本の本土が主権を回復し その後の高度経済成長に浮かれる一方で 沖縄はアメリカの施政下で辛苦の日々を送りました 沖縄がアメリカから日本に返還されたのは 主権回復の 20 年後となる 1972 年のことでした こうした複雑な政治的事情のなか 戦争の犠牲となった方々のご遺骨は 現在もその数が不明で 相当数の方々が地下に眠っておられるものと思われます 私たち鍵山教師塾の参加者のうち このたび希望者が集まり ご遺骨の収集をお手伝いさせていただくことになりました にわかに押しかけた私たちを快く受け入れて下さったのは 那覇市内にお住まいの国吉勇様です 国吉様は 60 年間 ガマ とよばれる鍾乳洞の避 参加者一同が朝 7 時 45 分に集合し 国吉様にごあいさつをしているところ ( 左写真 ) 国吉様は私たちの案内役をお引き受けいただいたうえに ヘルメットやツルハシ 熊手や長靴など 20 人分を全員分貸して下さいました 何から何までお世話になりました 難壕で ご遺骨や遺留品の収集を続けてこられた方です 昭和 20 年 3 月 アメリカ軍の上陸を前に沖縄本島北部に家族ごと疎開した際 国吉様はまだ幼稚園児でした そして アメリカ軍の攻撃から逃げ なきがら まどううちに家族は離散してしまいました 亡骸 となったお母様と再会したのは終戦後のことだそうです たとえ亡骸でもお母様と対面できたときの安心感は忘れられない それがご遺骨収集をはじめるきっかけだった と国吉様は仰せになります それは 収集をたゆむことなく続けてこられた国吉様の心の支えでもありました 戦後七〇年も放置されてきたご遺骨 万感の想いを胸に それぞれの参加者はバスに乗り込みました ご遺骨収集の現場となった糸満市喜屋武地区 ( 那覇市内から車で約 40 分 ) アメリカ軍に追い詰められた沖縄戦最後の激戦地です 1

ご遺骨が今も眠るガマ ( 避難壕 ) 私たちが向かったのは糸満市喜屋武地区 広大な畑と空き地におおわれた のどかな南国の田舎の風景です すぐ隣には小学校もあります 私たちは畑の間の農道を歩いて 裏山まで進んでいきました 沖縄本島は海底にあったサンゴ礁が隆起してできた島で 長い年月を経て風や雨に浸食されたため ごつごつとした岩だらけの地形となっています 裏山には 石灰岩などでできた自然の鍾乳洞があちこちにあり 沖縄戦の末期には日本軍の陣地や野戦病院 住民の避難壕などとして用いられました 当時 ガマの中には寝床が作られ 軍医や看護婦 衛生兵らが看病にあたりました 時は5 月から6 月ですから 梅雨の真っただ中です 蒸し暑くて暗い壕のなかで聞こえるのは 負傷兵のうめき声と 絶え間なく外で響く銃声や戦車の轟音ばかりだったに違いありません 壕に運び込まれる ( 左写真 ) 避難壕跡のある裏山 手前にある畑も含めて全て私有地 私たちがご遺骨を収集できるのも地主の方の理解あってのことです ( 右写真 ) 今回も 国吉様とともにご遺骨の収集に携わる南埜安男様 ( 一番上 ) から手ほどきを受けました 私たちの作業する現場を一手に準備して下さったのも南埜様です 負傷者の数は日ごとに増え 末期には 1 日に 4000 人の兵士が亡くなっていったという報告もありま す やむを得ず手足を切断された負傷兵の傷口にうじ蛆がわき 死臭や汚物臭が漂う そんな地獄の なかを 命を懸けて看護して下さっていたのが若 き学徒たちでした 私たちがこれから入らせていただくガマとはそ ういう場所です いったい私たちに何ができると いうのか ただただ自問するばかりです 身体ひとつ分がギリギリ入る程度の小さなガマの入口を降りていく参加者 ( 左写真 ) 私たちが足を踏み入れる まさにその土の下にご遺骨が眠っているに違いありません 70 年もの間 ずっと掘り出されることを心待ちにして 2

ご遺骨の収集に没頭する参加者 ( 写真上右 上左 左 ) ガマの中では LED の高性能ヘッドライトや懐中電灯の青白い光だけが頼りです 狭くて身動きの取れないところでは孤独に作業するほかありません ( 上右 ) 漆黒の闇に閉ざされた空間で 目に見える世界と想念の世界の区別があいまいになってきたのかもしれません 私たちが普段生きている文明世界は ご先祖様の血の犠牲の上に打ち立てられたものであって その犠牲なくして今の自分たちは存在し得ないのだ 想念の世界のなかで 知らず知らずのうちに 対話 をしていた参加者も少なくありませんでした 合掌 深謝 そして祈り ご遺骨は沖縄県平和祈念財団に属する戦没者遺骨収集情報センター ( 糸満市 ) に納められ 仮安置されます 70 年の長きを耐え忍んだあとで ようみたまやく陽の目を見た御霊のお立場に立てば この世の中は果たしてどのように映るのでしょうか 入口から差し込む光 ( 左写真 ) 壕内は断末魔の地獄と化し 外では銃弾の音が絶え間なく響く そんな阿鼻叫喚の暗闇に差し込む光 その先にあるのは何なのでしょうか 3

壕を爆破して日本兵が出て来るのを待つアメリカ海兵隊員 ライフルを構えて待ち構えている これがいわゆる ブロートーチと栓抜き作戦 (blowtoach and corkscrew) (1945 年 5 月アメリカ海兵隊撮影 ) 沖縄戦について政治や歴史の知識に深く傾倒するのは反対だという方もおられるかと思われます 確かに 知識が深まりすぎると 主義 主張 が強く塗り固められ ご遺骨への想い ( 正確には ご遺骨を通じた御霊への想い ) を歪ませてしまう場合があるのかもしれません しかしながら 私たちはそれらに対して無知のままでよいのでしょうか 1945 年 2 月から丸 1カ月をかけて 6821 名の いおう 戦死者を出しながらも アメリカ軍はついに硫黄とう島を攻略しました そこから息つく間もなく ア メリカ軍は沖縄にやってきました 艦艇 1500 隻 輸送船 450 隻 兵員は 548,000 人 ( うち上陸部隊は 183,000 人 ) サイパン島やレイテ島から続々と沖縄洋上に集結しました アメリカ軍が使用した銃弾 砲弾の数は 270 万発を超え 機関銃弾 3000 万発が発射されました 戦艦からの艦砲射撃は地形が変わるほど激しく 鉄の暴風(Typhoon of Steel) と表現されたほ どです ( 不発弾は 2015 年現在でも約 2300 トン が残っています ) アメリカ軍にとって 日本本土を攻略するため には 硫黄島と沖縄に航空基地を築いて拠点化す ることが不可欠でした 太平洋戦争の勝敗を決す るのは沖縄戦である そう言っても過言ではあ りませんでした 連合国側の死者 行方不明者は アメリカ軍が 14,006 人 イギリス軍が 82 人 そ して日本側は県内外合わせて 188,136 人 ( 県内の 死者 行方不明者 122,228 人のうち 民間人が 94,000 人 ) こうして 沖縄住民の 4 人に 1 人を 巻き込んだ 太平洋戦争における最大にして最後 の戦闘が始まってしまったのでした 第 22 海兵連隊第 1 大隊 A 中隊と共に警戒しながら那覇郊外に迫る戦車 (1945 年 5 月アメリカ海兵隊撮影 ) 4

1944 年 7 月 サイパン島の戦いで日本軍は水際に全勢力を注入しましたが アメリカ軍との物量戦には勝てず 同島は陥落しました その失敗に鑑みて のちのペリリュー島 ( パラオ諸島 ) や硫黄島では 内陸部にアメリカ軍を誘い込んでの持久戦が展開されるようになりました アメリカ軍が沖縄の内陸部まで容易に南侵できたのも そのような持久戦の方針を継承したからです しかしながら この捨て身の方針によって戦闘は激化し 甚大な被害をもたらすこととなりました アメリカ軍はまず 1945 年 3 月 26 日に慶良間 諸島を攻撃しました そして同諸島上陸後 つい に 4 月 1 日 沖縄本島中西部 ( 読谷村 ~ 北谷村の 海岸 ) に上陸しました まもなくアメリカ軍は中 火炎放射器に焼かれた乾パン こうした遺留品が今も出土する 戦争資料館蔵 ( 国吉様ご自宅 ) 嘉数高台付近へ進撃準備中の第 193 戦車大隊 C 中隊 歩兵隊による高台の占拠で 戦車はその向こうの広場に出ることができた (1945 年 4 月アメリカ陸軍撮影 ) 沖縄本島に上陸し進軍するアメリカ軍の戦車部隊 しかし日本軍の抵抗は激しかった (1945 年 4 月アメリカ海兵隊撮影 ) 飛行場 ( のちの嘉手納基地 ) などを占領し 強力 かかず な防空網をつくりました そして同軍は嘉数高地 ( 宜野湾市 ) へと南進することになります 嘉数高地には丘陵が重なって天然の防塁を形成 していたため 日本軍の最も強固な陣地となりま した 一方 アメリカ軍にとって 日本軍の司令 部がある首里 ( 那覇市 ) を攻め落とすうえで そ の通り道である嘉数高地を占領することは避けて 通れませんでした こうして 日米両軍が出来る 限りの火砲を投入した嘉数の戦いが行なわれたの です (4 月 8 日 ~23 日 ) 日本軍はアメリカ軍の 10 分の 1 の戦力で迫撃 砲 機関銃 擲弾筒などを巧みに使用し 互角以 上に戦いました 4 月 8 日 ~12 日の 5 日間でア メリカ軍は合計 2880 人の死傷者を出し 極度の 混乱に陥ったといわれます その後膠着状態が続いて アメリカ軍の攻撃は 行き詰りました しかし同軍は日本軍に対して 徹底的な艦砲射撃と ブロートーチと栓抜き作戦 (blowtorch & corkscrew) で臨み 形勢を逆転 させることに成功しました ブロートーチと栓 抜き作戦 とは 戦車の支援と激しい集中射撃で 日本兵を壕に追い込み そこで毒ガスやガソリン などを流し込んだうえで火炎放射器の猛射をする 作戦です 最後には大量の爆薬で陣地ごと吹き飛 ばすのです 4 月 19 日 窮地に陥った日本軍は速射砲や迫 撃砲に加え 嘉数の対戦車戦 と呼ばれる特攻 作戦を行ないました 陣中で急造した爆雷を背負 った日本の特攻兵が アメリカ軍の戦車のキャタ ピラをめがけて体当たり 動けなくなった戦車 に日本兵が群がり 天蓋やのぞき窓から手榴弾を 5

投げ込んだり 拳銃を乱射したりするのです アメリカ軍は 投入した戦車 30 両のうち実に 22 輌が日本軍に破壊されました しかし 物量に優るアメリカ軍は次第に白兵戦で日本軍守備隊を後退させ 4 月 23 日に嘉数高地を占領しました この戦いで日本軍の戦死傷者は合わせて 64,000 人にのぼり 嘉数住民の半数以上がアメリカ軍に殺されたそうです 火炎放射で変形した薬ビン ( 左写真 ) 同じく炭化した米 ( 下写真 ) これらは白梅学徒隊が活躍した壕から出土しました ( 戦争資料館蔵 ) ( 上写真 ) 京都の塔と嘉数の塔嘉数に投入された第 62 師団 ( 独立混成旅団 ) には京都出身兵が約 3500 人所属し そのほとんどが故郷に帰ることなく嘉数で戦死しました 京都の塔はその追悼のためのものです 日本軍を支援した嘉数住民を悼んだ嘉数の塔も並置されています また 近くには朝鮮半島出身者をまつる 青丘之塔 もあります 嘉数高地でアメリカ陸軍が苦戦している間 アメリカ海軍の将兵は日本の激しい特攻にさらされ 4 月 1 日から 23 日の間に 60 隻の艦船が撃沈されました そして 1100 人のアメリカ兵が戦死し 2000 人以上が負傷しました その甚大な被害は 海軍のニミッツ司令長官と陸軍司令官のバックナー中将を相互不信に陥らせたほどでした ほんろうアメリカ軍を翻弄した自軍兵の攻撃力を過信した日本軍は5 月初旬に反転攻勢に転じました 軍の戦力が消耗しきってしまうまでに総攻撃を行ない 普天間までの戦線を回復するつもりでした しかしこれは大失敗となり かえってアメリカ軍は日本軍司令部のある首里に向って 掃討戦を展開しはじめました びらん ( 右写真 ) 個人用の対糜爛性ガスの消毒剤さら成分は晒し粉 ( 消石灰に塩素を吸収させた粉 末 漂白剤 ) を主剤としたもので 使用に際して は水に溶いて汚染部分に擦り込みます このよう な生々しい薬品が次々と壕から出土しています 6

こうしてアメリカ軍は 首里の目と鼻の先にあ あさと る安里高地に進軍し 5 月 12 日から 18 日にか けて 日本軍と激しく衝突しました これをシュ ガーローフの戦いといいます 戦闘が行なわれた 1 週間で持ち主が 11 度も交 代するほど 日米両軍の攻防戦は熾烈でした 陣 地に立てこもって抵抗する日本軍 それに対して アメリカ軍はお得意の ブロートーチと栓抜き作 戦 で応戦しました アメリカ陸軍の史料によると 当時アメリカ軍 が進んだ距離は 1 日で 60 メートル しかし丘陵 部を 25 メートル前進すると 日本軍の猛烈な反 撃でまた元の陣地に押し返されるという始末でし た 結局 アメリカはシュガーローフの戦いに勝 利しましたが その代償は大きく 戦死傷者は 2622 人に及び 1289 人の神経症患者を出してし まいました ( 上写真 ) シュガーローフ ( 日本名安里五十二高地 ) シュガーローフ とはアメリカ南部で好んで食べられた菓子パンのこと この丘を頂点として ハーフムーン ホースショアとそれぞれ名づけられた二つの丘が三角形を形成していました 写真は真北からシュガーローフを臨んでの撮影 (1945 年アメリカ海兵隊撮影 ) す どのような戦いがどこで どれほど激しく展開されたかは アメリカ軍の史料に依拠するほかありません 6 月 11 日から 17 日にかけては 国吉台地の戦闘 ( 糸満市西部 ) が行なわれました 日本軍は第 24 師団配下の歩兵第 32 連隊 ( 連隊長北郷格郎大佐 ) 以下 約 1500 人の守備隊が応戦しました 隣接する真栄里高地では同第 22 連隊 ( 連隊長吉田勝大佐 ) が海兵隊相手に同地を死守しました 丘の上では戦車の支援なしには立つこともできない ほど 日本軍の攻撃は激しかったといいます アメリカ軍の戦死傷者は 1150 人 ここでも大きな代償を支払うこととなりました ( 日本側は軍民とも戦死傷者数不明 ) これらの戦いがアメリカ優位のうちに終結しようとしている6 月 17 日 アメリカ軍はバックナー司令官自らが牛島司令官宛てに親書で降伏を勧告しました ほぼ同時期に ビラ 800 万枚をまいて 日本兵や民間人にも投降を促しました 牛島司令官はこれを拒絶し 翌 18 日にバックナー司令官自身が日本陸軍の砲撃で戦死しました とはいえ もはやこの時期 日本軍の戦線は崩壊していました 喜屋武地区を守備していた第 24 師団も指揮系統が崩壊し 組織的抵抗は不能の状態となっていました 6 月 20 日 アメリカ軍は摩文仁岳東端を占領 977 人の日本兵が捕虜になりました そして ついに6 月 23 日未明 第三十二軍司令官牛 ちょういさむ 島満中将と参謀長長勇中将が摩文仁の軍司令部 で自決しました これで組織的な戦闘が終了しました 沖縄ではこの日が 慰霊の日 として休日に指定されています その後 5 月 21 日より 10 日間にわたって沖縄本島では大雨が降りました 地面はぬかるみ 車両の運用が困難となったため アメリカ軍の攻撃は一時停滞しました この大雨の奇跡のおかげで 沖縄の守備を統轄する日本陸軍の第 32 軍約 30,000 人は アメリカ軍の包囲網をかいくぐって首里を脱出できたのでした そして5 月 27 日 牛島満司令官ら第 32 軍首脳は豪雨と夜陰に紛れて徒歩で首里を撤退し 30 日未明には新司まぶに令部を摩文仁 ( 糸満市 ) に設置しました こうして 沖縄最南端の摩文仁岳を中心とし て 沖縄戦最後の激戦が行なわれました しかし ながら この時期の日本軍の史料はほぼ皆無で 7 YouTube 沖縄最後の戦い ( 1945 年アメリカ陸軍撮影 ) 焼け野原での銃撃戦や日本兵と思われる人物が投降する場面などが収められている 撮影場所は不明 映像は沖縄県公文書館提供 https://youtu.be/lgzig06dn_o

ご遺骨が語りかけるもの ( 上写真 ) 参加者が拾ったご遺骨や遺留品を判別する国吉様 人骨か獣骨か サンゴ礁のかけらか木片か 熟練した方でないとその判別は難しいようです 国吉様や南埜様のご指導のおかげで たくさん のご遺骨を土や岩の下から掘り出すことができま した 再び陽の光を浴びるために 70 年もの間 ずっと待っていて下さったのです 最期はきっと 断末魔の苦しみ 怖くて そして痛く熱く苦し かったに違いありません 当時の様子を振り返ったひめゆり学徒隊の島袋 とみ様 ( 当時 18 歳 ) の記事が産経ニュースにあ りました 以下転載させていただきます 梅雨の蒸し暑さに加え 死臭や汚物臭が漂う暗い壕内で無数の人がうごめいていた 水 水を おしっこ おしっこ 戦闘で負傷し 手足を切断した負傷兵たちはうめき声を上げながら 18 歳だった島袋とみ (88)= 沖縄県沖縄市在住 = のモンペの裾 ( すそ ) をつかんだ とにかく今を必死で生きなければ 島袋は自分にそう言い聞かせながら介護を続けた 沖縄師範学校女子部本科に通っていた島袋が ひめゆり学徒隊 として那覇市東南 5 キロにある南風原陸軍病院第一外科 7 号壕に配属されたのは 卒業を目前に控えた昭和 20 年 3 月 23 日夜 米軍が慶良間諸島などを空襲し 沖縄侵攻を始めた日だった 病院といっても丘陵地に横穴を掘った壕や ガマと呼ばれる自然の洞窟に寝床を作っただけ 軍医や看護婦 衛生兵は約 350 人 ここに島袋ら 15~19 歳の女学生 222 人が教師 18 人に引率されて看護補助要員として動員された 兵隊さんの声を子守歌だと思いなさい 看護婦にこう言われながら島袋らは負傷兵の食事や下の世話 に追われた 壕に運び込まれる負傷兵は日ごとに増えた 傷口には蛆 ( うじ ) がわき 包帯の上から動いているのが分かった 包帯を交換する度にピンセットで取り去ったが 数日するとまた新たな蛆が傷口に食い込んでいた 遺体運びも女学生の仕事だった 日が暮れると 4 人 1 組で担架に遺体を載せ 壕外の埋葬地に運んだ だが 死者は日に日に増え まもなく埋葬する穴もなくなった ( 中略 ) 6 月 18 日夜 軍医の命令を受けた教師が命じた 事態はいよいよ緊迫している 直ちに学徒隊を解散する これからは各自の責任で行動してほしい そう言われても外は砲弾飛び交う最前線 島袋らがどうしてよいか分からず うろたえていると 軍医は軍刀を振りかざした 敵はすぐ近くまで来てる 歩ける者は出てゆけ 出ないものはたたき切る やむなく壕を飛び出した みんな行かないで 私も連れてって 同級生の悲痛な声がずっと耳の奥に残った 島袋らが逃げ落ちた島南端の絶壁沿いに広がる密林には 日本兵と住民が息を潜めてひしめいていた 米軍は火炎放射器で周囲を焼き尽くしながら間近に迫ってきた 島袋も自死を決意した だが 偶然再会した教師が紙片を差し出した 死ヌノガ能ジャナイ これを見た島袋は生きる道を選び ほどなく米軍に保護された ひめゆり学徒隊で生き残ったのは教師を含め 104 人だった 8

( 右写真 ) 収集した鎖骨や頭骨 歯などのご遺骨の一部 ( 上写真 ) 収集したご遺骨を丁寧に並べる参加者 ご遺骨は何の音もなく帰ってこられました 辛かったとも悔しかったとも言わず 何ら語りかけることもなく 収集されたこれらのご遺骨は遺骨収集情報センターに仮安置され 最終的には隣接する国立沖縄戦没者墓苑 ( 糸満市字摩文仁 ) にまつられます 現在も6 月 23 日の慰霊の日には 多くのご遺族の方々が参集され 思い思いにお花やお菓子 お酒などをお供えして 御霊のご冥福をお祈りしています とはいえ たとえ勲章をもらい たとえ高く崇められたとしても 骨は骨であることに変わりあよしろりません ご遺骨を依り代とする御霊に自分を重ねてみたとすれば いったいどのような気持ちになるのでしょうか 参加者のひとりが国吉様よりある体験談を伺ったそうです それは 遺骨収集をなさる国吉様になじ対して 掴みかからん勢いで詰る方がおられたというお話でした 何で日本軍の兵隊の骨なんか拾うのか! 縄の方がこう仰せになりました 沖縄戦で亡くなったウチナンチュが 12 万人で 日本兵が6 万人 アメリカ兵も入れて全部で 20 万人ならば 収集される遺骨のうち6 割がウチナンチュさ 掘り出したご遺骨のどれがウチナンチュのもので どれが日本兵か分かりません もしかしたらアメリカ兵かもしれません また どのご遺骨が兵隊さんで どれが非戦闘員のものかも分かりません そもそも それらを区別して 拾う 拾わない の判断をする必要がどこにあるのでしょうか ご遺骨は 御霊はどう思われるのでしょうか 薩摩藩の侵攻 琉球処分 沖縄戦の惨禍 米軍施政下での被害と屈辱 そして現在 沖縄は米軍基地問題で大きく揺れ動いています 今やそのシュプレヒコールは 慰霊のお祈りをかき消すほどの大音量です ガマの外ではアメリカ兵 そしてガマの内では日本兵によって虐待されたのだ と伝え聴かされた沖縄戦の生存者の子孫は 今も少なからずおられます そのお立場からすれば 憎き日本兵の骨を沖縄人 ( ウチナンチュ ) が拾うということに どうしても鼻持ちならなかったに違いありません しかし ご遺骨の収集を支援して下さるある沖 私たちは教師として 真摯にこれらの問題を学ばなければなりません しかしながら 特定の政治色に染まるより先に 頭で難しい議論を展開するより先に まずは行動を起こし 心を寄せることが大切なのではないでしょうか ご遺骨を収集させていただくことで その真実に少しでも近づけるように思われてならないのです ( 了 ) 9

( 上写真 )1 日で収集したご遺骨のすべて ( 右上写真 ) 国吉様のご自宅 戦争資料館 緊張した面持ちで入らせていただく参加者 ( 右写真 ) 戦争資料館 の中を覆い尽くす遺留品 ( 下写真 ) 国吉様 南埜様 佐古先生を囲んでの撮影 10