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日本経大論集 第45巻 第1号


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九州地方一問一答 (15 分 各 1 点 ) 実施日 : 年月日 問 1. かつて薩摩藩があったのは今の何県か 問 2. 北海道南部に広がる 火山活動によってつくられた台地を何というか 問 3. 前問の台地を形成しているのは何という火山か 問 4. 樹齢 3000 年を超える縄文杉が生息し 世界自然

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平成 29 年度事業報告 Ⅰ 事業概要 当事業団は 平成 25 年 4 月 1 日から前身である財団法人土岐市埋蔵文化財センターに財団法人土岐市施設管理公社がもつ文化事業を引き継ぎ公益財団法人としてスタートし 土岐市の心豊かで活力あるまちづくりに寄与するため 文化芸術を振興する事業をはじめ 文化財の


今回の展示では 主に江戸時代から明治初頭にかけての収蔵品の中から 貿易 に関わるものを展示し 長崎の歴史を紹介しています

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内 の 遺 体 は 朽 ちていたが 10 余 枚 の 歯 が 残 っていたので 死 者 の 年 齢 を 30~60 歳 と 鑑 定 で


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す 遺跡の標高は約 250 m前後で 標高 510 mを測る竜王山の南側にひろがります 千提寺クルス山遺跡では 舌状に 高速自動車国道近畿自動車道名古屋神戸線 新名神高速道路 建設事業に伴い 平成 24 年1月より公益財団法人大 張り出した丘陵の頂部を中心とした 阪府文化財センターが当地域で発掘調査

石器の実測は 698 点を対象に業務を外部に委託した 自然科学分析では土壌洗浄 火山灰分析に ついて 業務を外部に委託した 土壌分析は微細な資料を得るとともに 今後の分析方針を決め るために 火山灰分析は 土壌の堆積時期を特定するためにそれぞれ実施した ウ学識者の招聘 今年度は土器の編年 器種 産地

福知山-大地の発掘


建築学科学科紹介2017

目 次 ページ 鞆 に 見 る 歴 史 のロマン- 鞆 の 歴 史 観 光 トレイル 1 トレイル-1 海 から 来 た 客 人 たち トレイル-2 歴 史 のなかの 景 観 多 様 な 顔 をもつ 鞆 の 町 トレイル-3 今 も 生 きる 昔 のくらし- 歩 く 見 る 食 べる トレイル-1

2008


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しているようであり また 当 時 の 人 々の 認 識 とは 必 ずしも 一 致 するものではない 史 記 ~

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見 学 の 手 順 1 土 岐 市 美 濃 陶 磁 歴 史 館 に 連 絡 見 学 予 定 日 の1ヶ 月 以 上 前 に 見 学 日 の 確 認 と 打 ち 合 せ 日 時 について 土 岐 市 美 濃 陶 磁 歴 史 館 ( 土 岐 市 文 化 振 興 事 業 団 )に 連 絡 する 他 校 他

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城跡を活用した可児市の地域づくりの考察


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旧 市 町 村 コード 名 称 種 別 時 代 所 在 地 概 要 備 考 旧 30 実 竹 城 跡 城 跡 中 世 青 近 郭, 堀 切, 土 塁 広 島 県 中 世 城 館 遺 跡 総 ,( 実 竹 山 城 跡 ) 31 ほてくら 北 第 1 号 古 古 古 青 近 横 穴 式

ごあいさつ

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オルレとは オルレ とは韓国 済州島から始まったもので もともとは済州島の方言で 通りから家に通じる狭い路地 とい う意味です オルレの魅力は 四季の美しい景色やトレッキングに適した山岳等で構成されたコースを 自分のペースでゆっ くりと歩きながら 大自然を五感で感じ楽しむところにあります 平成 25

0900167 立命館大学様‐災害10号/★トップ‐目次

Transcription:

未来を繋ぐ九州のお宝 古高取 内ヶ磯窯の魅力に迫る 1 現場の声からたどる真相! 高取焼も唐津焼もその発祥は朝鮮半島の陶工達が先達したことは明らかである 直方市には高取焼発祥の宅間窯と第 2の内ヶ磯窯の窯跡がある 内ヶ磯窯で焼かれた高取焼に関しては 当時陶工でもあり 京に店を構えていたといわれる別所吉兵衛の遺した 別所吉兵衛一子相伝書 ( 略して 別所文書 ) に次 のような記述がある それがし 国焼遠州好一 肥前高取金森宗和御物数寄にて某が従弟茂右衛門下り焼 とあ る 研究者によっては筑前高取を肥前高取と写し間違えたと考えておられる方もいるが いずれにしても 遠州好み の高取となれば 某 ( 吉兵衛 ) の従弟の茂右衛門が京から下り 宗和の好み の茶器を焼いた窯場は内ヶ磯窯ということになる 内ヶ磯窯の伝承について 瀬戸内海を下った先には芦屋の港があり そこには大河が流れ込んでいてその大河を上った先の備前守の領内に天下一の織部の隠れ大窯がある と教えて下さったのは 桃山陶の本当を知りたければまずは書物で学ぶな 足を使って現場と現物から学べ とおっしゃっていた備前焼の語り部ともいわれた二代目藤原楽山先生である 鷹取城や内ヶ磯窯周辺の人を寄せ付けない急峻な地形を考えると やはり織部の隠れ大窯であるといえる この内ヶ磯窯から鷹取城までの間には 古田姓と織部の奥方の家の中川姓のお宅が要所に点在し さらに京都からの流れの貴船神社がある これらのお宅と古田織部との血縁関係や貴船神社の建造についてはこれから調べなければならない課題である また 黒田藩の福岡城は初の日本地図 伊能大図 には松平備前守居城と内ヶ磯窯は最新最大級の特殊な構造の窯記されていることも付け加えておきたい

2 発掘が教える古高取の 初窯土産 筑前福岡藩初代藩主黒田長政の時代に開かれた高取焼発祥の宅間窯とそれに続く御用窯の内ヶ磯窯で焼かれた焼き物は 古高取 と呼ばれている 古高取内ヶ磯窯跡出土品の中には 多量の 初窯土産 が付着 ( 融着 ) したものが確認されている 土壁の窯で焼成する際 窯の天井や窯壁から降り落ちてくる避けようのない落下物の塊を 窯糞 と呼ぶ ロウソクの炎を例にあげると 酸素に触れる外側 特に頂上は温度が高い したがって窯の天井や窯壁は 窯室内でも高温になり易い場所となる 初窯時には窯の天井と窯壁を形成している土中の鉄分などが 窯糞 となって沢山ふり落ちてくる 特に窯の初めての焼成時に作品に付着する 窯糞 を 初窯土産 という このことは大変重要なことを示している 初窯土産 が付着しているということは その作品が土壁の窯で初めて焼かれたものであるという 明らかな証拠である また 同じような土壁の窯であっても 地上に造られた窯と 土を深く掘って造る半地下式の窯とでは 初窯土産 の質 量ともに大きく異なる もちろん窯が造られた地域の土質の違いによる差もあるが 初窯土産 には それぞれの窯の個性が表れる 初窯土産 の最大の特徴は その中に鉄分が多く含まれていることである 地表に近いところよりも深いところの土の方が より多くの鉄分が含まれている 半地下式の内ヶ磯窯は 23 度程の山の斜面を18 度程度に削り出した所に築かれている 窯本体はその削った残土で造られている 削られた斜面には地層があり 粘土の地層の上層には鉄分を多く含んだ褐鉄鉱の層がある この褐鉄鉱は別名 鬼板 ヤケ ともいい 絵志野 絵唐津に使用する絵の具になるものである この褐鉄鉱の塊を多く含んだ素材で造られた窯からは褐色の 初窯土産 が大量にふり落ちるというわけである したがって 半地下式の内ヶ磯窯で焼いた作品の方が 地上式の宅間窯で焼いた作品よりも大量に 初窯土産 が付着し その中に含まれる鉄分の量も比べものにならない程多いことは 両窯の出土品を観察してみると一目瞭然である 内ヶ磯窯跡出土品に付着している初窯土産 の中には 長径が10cmを超える大物や 器の中に液状に溶けて冷え固まったものもある これらは ノロ と呼ばれ 漆器や彫金の職人の中には この ノロ を最上級の褐色の天然顔料素材として集めていた人もいたようである 宅間窯 初窯土産 落着品 内ヶ磯窯 初窯土産 落着品

3 大名茶人古田織部最晩年期の遺産 高取焼発祥の宅間窯の開窯は慶長 11 年 (1606) で それに続く内ヶ磯窯の開窯は慶長 19 年 (1614) とされている この二つの窯がそれぞれ開窯した時期に 茶の湯の世界で最も力を持っていたのは古田織部である 高取焼発祥の宅間窯では李朝風の日用雑器が焼かれていたのに対し 内ヶ磯窯では一変して 織部好み 遠州好み といえる茶陶が焼かれていたことは発掘調査によって明らかである 内ヶ磯窯の 初窯土産 付着の作品には 内ヶ磯窯を代表する意匠のものや非常に斬新なものが多く見られ 織部好み の沓形茶碗も確認できた ちなみに 織部好み と呼ばれた 意図的に歪めたひょうきんな姿の斬新な意匠のものは 古田織部が選んだ陶工たちによって焼造されたものといわれている 型抜き成形による向付は織部の時代に見られるようになったもので内ヶ磯窯の初窯の時に焼かれている 古田織部は元和元年 (1615) に豊臣方に内通した罪で切腹しているので 前年の慶長 19 年 (1614) の内ヶ磯窯の初窯で焼かれた 織部好み は 古田織部が選んだ陶工たちに直接発注して焼かせた可能性があることが考えられる 補足として 織部が選んだという陶工について 原色茶道大辞典 には 織部六作 ---- 瀬戸六作にならい古田織部が選んだ茶入作家六人 吉兵衛 新兵衛 江存 宗伯 茂右衛門 源十郎の六人をいう 織部窯で焼かせたという と記されている ここでは吉兵衛と茂右衛門の名が見られ さらに織部窯で焼かせたといっているので 1の内容とリンクする また 別所文書 の中で吉兵衛は利休 織部 遠州の好みの茶器を製作していたことを記している したがって 吉兵衛は一流の茶人の好みを製作する一流の陶工ということになる 現在では吉兵衛が織部の仰せで内ヶ磯窯で製作していたと言えるものを複数確認している 織部の時代に内ヶ磯窯で焼かれたもの

4 型破りな巨大連房窯 窯も風呂も熱量を加えていく蓄熱で 温度が上昇していく 窯室も浴槽も大きくなればなるほどに時間をかけないと窯は焼けないし 風呂は沸かない 窯の場合 手前の火床より窯室の奥行が深ければ深いほど 時間をかけてさらにゆっくり燃料をくべないと 全体が均一の温度に近づかない そのため連房室の場合は室幅より奥行の方が短い形状で焼成時間と熱量を考えた省エネ設計が一般的である しかし内ヶ磯窯は 連房室であるにも拘わらず窯室は大きく最も奥行の深い窯なのである したがって一室を焼き上げるのにかなりの時間と熱量が必要なのである このことから推測すると内ヶ磯窯の閉窯の最大の理由としてはやはり燃料の薪不足がいちばんに考えられる その規模 構造からすると内ヶ磯窯は日本一焼成時間がかかる連房登窯であることがいえる 桃山陶を生涯追及され 著書 唐九郎のやきもの教室 を下さった加藤唐九郎先生は 登りの大窯には雪の降る頃に焼きにかかり セミのなく頃に焼き終えた窯があった とご教授くださり 初の古高取内ヶ磯窯跡発掘調査報告書を 資料はパッと見てわかるものが良い と絶賛された その報告書には先生自愛の内ヶ磯窯製の沓形割高台茶碗が写真掲載されている この茶碗も発掘調査以前は唐津と考えられていたもので紛れもない内ヶ磯窯の 王 印が高台内に刻まれている 沓形割高台茶碗唐九郎記念館所蔵 一本杉 2 号古窯跡実測図内ヶ磯窯跡実測図窯室の奥行が深い内ヶ磯窯 王 印入陶片 ( 高台 ) 内ヶ磯窯出土品

5 内ヶ磯窯の茶陶 昭和 54 年に始まった内ヶ磯窯跡発掘 調査 研究により 内ヶ磯窯の優品の多くが 唐津と記された共箱に納められていたことが判明した また古萩といわれていた透文鉢や以前は古唐津とされていた窯籍が古上野に変更されていた絞文形向付も内ヶ磯窯跡の発掘調査後内ヶ磯窯の製品と判った それ以外にも 古唐津 古上野として陶磁器の専門書の巻頭を飾ってきたものに内ヶ磯窯の古高取が多く見られるのである それほどに内ヶ磯窯では茶陶の優品が大量に製作されていたことが発掘調査の結果から見えてくる ここでは茶の湯の道具として最も大きな水指について述べ内ヶ磯窯出土品 ( 水指 ) ておきたい その出土品は他の古窯に例を見ないほど様々な形状 釉調といった意匠のものが見られる これだけを見ても内ヶ磯窯で焼かれた古高取が江戸時代を通して茶陶として高名だったことが窺える 茶道史 陶磁史はもとより文化的にも学術的にも価値のある遺産といえる 内ヶ磯窯出土品 ( 水指 ) 内ヶ磯窯の古高取