須磨 佳津江 青木 宏一郎 江戸の園芸を支えた 巣鴨染井村でも 青木 宏一郎 あおき こういちろう ランドス ケープ ガーデナー 1945年新 潟県生まれ 千葉大学園芸学 部卒業 森林都市研究所を設 立し 弘前市弘前公園計画設 計 福島県下郷町 大内宿の 町 景観形成基本計画設計等を 行う その間 東京大学農学 部 千葉大学園芸学部等の講 師を務める 著書 江戸のガー デニング 江戸庶民の楽しみ 鴎外の花暦 など多数 巣鴨染井村は 江戸近郊ということで 大名の下屋敷が散在し と同時に数多く の植木屋が居住していた 幕末に日本 この図は キリシマツツジの見頃に合 を訪れた園芸学者ロバート フォーチュ わせて作成したようである 季節は初夏 ンは それらの植木屋について まさに カキツバタにスイレン ボタンにアヤメと 巨大な緑化センター と驚きの目で書き いった花ものの名前が記されている ま 記している 緑化センターの村は いく るで植物園のような様相で 池まであっ つもの苗樹園から構成され そこを連な て庭園と見間違いそうである 図をさら る1.6km以上もの道が通っていたという に詳しく見ると 園内を訪れたと思しき このような大規模な苗圃や植木屋の一群 人が何組もいる 散策する人 植物を は 世界中どこにも存在しないとまで書 眺めている人 なかには座り込んで飲食 ガーデニングの広がりとともに オープンガーデンが盛 いている それぞれの植木屋は 1.2 している人までいる 当時の植木屋は んになっている オープンガーデンとは 個人の庭を公開 1.6ha程度の敷地で 庭木や鉢植えなど ただ植木を購入するために訪れる場所で して大勢の人々に楽しんでもらおうというもの 最近は東 を生産していたが それだけでなく 趣 はなく 花見や遊山目当てに出かけるレ 京でも増えつつあり 小平市や西東京市 羽村市などのよ 向をこらした庭園をつくって 江戸の街 ジャーランドのような存在であったことが うに街づくりの一環として取り組んでいるところもある から大勢の人を招いていた わかる これは伊藤伊兵衛の店に限ら ところで この種のレジャーがかつて存在しなかったか そうした植木屋の中でも特に際立って ず どの植木屋も苗圃や鉢置き場を自由 といえば そんなことはない 園芸文化が花開いた江戸の いたのは 伊藤伊兵衛の霧島屋であろ に見せ 庭を開放していたようだ 花の 街には 粋な人がたくさんいて自邸の庭を公開していた う 敷地の入口から奥までが220m 幅 季節になると 江戸の街から大勢の見物 敷居の高い武家屋敷でも 庭を見せていたところはあった が100m程というから優に2ha以上はあっ 客を迎えていたことは 江戸名勝図会 のである では そんな江戸のオープンガーデンと現在の たと思われる 享保年間 1716 35 に 染井 にも描かれている これなども 東京のオープンガーデンを訪ねてみることにしよう 描かれた 武江染井翻紅軒霧島之図 を 江戸が誇る魅力的なオープンガーデンの 見ると 敷地はいくつものブロックに分 一つと言ってよいだろう 写真協力 鈴木 一正 ぶ こう そ め い ほ ん こ う け ん き り し ま の ず けられ 入口の近くには つつじいけが 現在の東京のオープンガーデン 小平市 森田邸 写真 森永一夫 き つつじうえこみ というように 各ブ ロックに説明書きが記されている また りゅう こ その先には 龍虎のつくり木 と称する 仕立物 トピアリー が描かれている 他 は い りょう にも 草花鉢植 百花ツバキ 拝領朝鮮 人参 など様々な見所があって 各ブロッ クは単なる植木の植溜めではなく テー マを持ったギャラリーといった趣である 伊藤伊兵衛家の庭を描いた 武江染井翻紅軒霧島之図 近 藤清春 享保期1716 35年の 末頃 庭内には多くの客が描 かれ なかには車座で飲食す る人もおり くだけたオープン ガーデンでもあったようだ 豊島区立郷土資料館所蔵 2 江戸名勝図会 染井 二 代歌川広重 文久2年 1862頃 上 方 の 説 明 書きに 此地霧島つつじ の名木にして其紅艶を 愛す輩ここえ群遊す と ある 千葉県立中央博 物館所蔵 3