漢方のたからもの ⑯ 和田東郭とその著述 小曽戸 洋 北里大学東洋医学総合研究所医史学研究部 和田東郭は江戸中 後期に活躍した医家で 折衷 東郭は岡田氏から妻を娶って七男六女を儲けた 派の代表的臨床医として著名である 昭和の漢方界 が 男子らはまだ幼かったので 門人の中村哲を養 においても大塚敬節 細野史郎などから高い評価 子とし長女を配して後嗣とした 哲は字を哲郎 通 を受け 近世漢方医学書集成 1979 には 蕉 称を泰沖 黙所と号した のちに典薬寮の医師とな 窓雑話 蕉窓方意解 東郭医談 2種 導水瑣 り能登守に叙せられた 言 和 田泰 庵 方 函 の6書が収録されている 以 下その略伝と著述について紹介しよう 所掲の画像は武田科学振興財団杏雨書屋の所蔵品 もともとは立体人形像 寿像 で その写真 日本大 和田東郭は延享元年 1744 8月 12 日 摂津国 学医学部図書館富士川文庫所蔵 により 昭和初期に 高槻 大阪府高槻市 に生まれた 生年月日は村瀬 絵画化し彩色を施したもの 藤浪剛一 医家先哲肖像 之煕 集 所収のモノクロ写真もこれに拠ったものである の墓誌による 名は璞 字を韞 卿 または泰 純といい 東郭また含章斎と号した 父は祗忠 字 オリジナルの人形像は現所在不明であるので 東郭の を義軒と称し 瘍科医として高槻侯に仕えた 祗忠 肖像画は所掲の杏雨書屋所蔵品が唯一である は岡田氏から妻を娶り 三男四女を儲けた 長男は 東郭の代表的著作とされる 蕉窓雑話 は 東郭 忠賢 次男は戴徳 字は天民 といい 戴徳が父の の口述により 門人の久保喬徳 柁谷守清が筆録し 跡を継いだ 東郭は三男である た医論集で 全5編 文政元年 1818 服部謙 序 東郭も医を志し 始め伊丹の竹中節斎に学び つ 同4年 1821 服部主一跋 2編までは同6年に刊 いで大坂に行き戸田旭 山 1698 1769 に学び 行 3編以下は弘化3年 1846 の刊行と思われる 明和5年 1768 には吉益東洞の門下に入った 東洞流の古方に潜心し学んだものの それのみには 満足せず 後世近代の諸家の医方も渉猟し 臨床第 一の折衷派として一家を成したのである 仕官にあたっては 始め二条公に仕え 寛政9年 1797 に御医となり 法橋の位に叙せられた た またま中宮に子が無く 東郭が診察して久寒 慢性 の冷え による不妊症と判断し 附子剤を投与した ところ妊娠して皇子が誕生した 天皇はその功を 賞し 尚 薬 に任じ 法 眼に叙せられた 寛政 11 年 1799 のことであった 享和3年 1803 8月 2日没 享年 60 京都東山の鳥部山に葬られた 和田東郭肖像 武田科学振興財団 杏雨書屋蔵 54 漢方と診療 Vol.2 No.1(2011.02) 54
本書は平易な和文で書かれ 巻首に東郭先生医則を 掲げてその哲学を示し ついで腹診術など東郭の医 術をさまざまの角度から論述しており 古方に対す る卓抜した臨床見識をあらわした有用書とされる 蕉窓方意解 は東郭の口述 門人の清水康之 字 は仲 幾 の筆録になる処方解説書 単に 方意解 ともいう 全2巻 文化 10 年 1813 刊 東郭が 日常頻用した漢方 古方 後世方を合わせ計 47 方 を選び 適応証を延べ さらに構成薬味の効を気血 水や臓腑学説を用いて解説している 導水瑣言 は東郭の口授 継嗣の哲の筆記 男 けい の 冏 の校正になる水腫の治方書 一巻 東郭の没 後 文化2年 1805 村瀬栲 亭の序を付して同4 年 1807 に刊行された 水腫の治療法について 臨床的観点から和文で平易に説いた書である 含章斎腹診録 は東郭の口授 門人の筆記にな る古方の処方の腹診による要訣書 全2巻 嘉永3 年 1850 に刊行された 続編として 腹診後録 全2巻 1850 年刊 もある 傷 寒 論正文解 は東郭の口授 門人某の筆記 加門恭輔 名篤 の校訂になる 傷寒論 の解説書 全8巻 天保 15 年 1844 刊行 これも和文で臨 床応用を目的としたものである 以上が東郭の著で刊本 印刷物 となったもの 和田東郭の名言 大塚敬節 恭男旧蔵品 すべて門人の筆録によっており 東郭自身は臨床に 徹し 直接筆を執ることはなかった このほか 写本によって伝えられた著述も少な くなく 東郭医談 和田泰庵 泰純 方函 百 疢一貫 などがある 方を用いて簡なる者は その術 日に精し 方を用いて繁なる者は その術 日に粗なり 世医ややもすれば簡をもって粗となし 繁をもって精となす 哀しいかな これは大塚敬節また恭男先生がよく復誦された東 郭の名言である 55 蕉窓雑話 北里大学東洋医学総合研究所蔵 漢方と診療 Vol.2 No.1(2011.02) 55