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2 文事係となって西南戦争中の機密通信を掌っているから 寺石正路 慥斎と大久保の関係は相当に深かったとみてよ 増訂土佐偉人伝 登場している さらに 慥斎日記では簡単にしか記されていなかった参禅の様子 いてくれたお蔭だと書いているが 松七 とは土佐出身の松岡七 うになったことを大喜びしている 田内の就職は 松七 が陰で働 設直後の元老院には 門弟の田内逸雄が十四等出仕として勤めるよ 会議で土佐の中島信行が能弁を揮っている様子を描き これまた開 次に 明治八年七月七日付書翰では 開設されたばかりの地方官 本 人 よ り も 女 中 や 娘 の 修 行 が 進 ん で い る こ と 明 治 九 年 一 月 九 日 一 統 も 参 禅 し て 大 賑 わ い で あ る こ と 同 年 十 一 月 廿 九 日 付 慥斎 員が増加して山岡鉄舟も加わったこと 同年十一月廿日付 家族 と両忘社を結成したこと 同年十月十五日付 両忘社は次第に人 に通っていること 明治八年十月一 二日付 伊達自得や鳥尾ら わち 湯島麟祥院に於ける今北洪川の碧巌提唱に鳥尾小弥太も頻り が 書翰中にかなり詳細に記述されていることも 興味深い すな 助 時敏 毅軒 欲訥 のことで 左院を経て 元老院議官となっ 付 鳥 尾 小 弥 太 の 足 が 次 第 に 遠 の い て い る こ と 同 年 一 月 十 日 いであろう た人物である 慥斎とは旧知の間柄で 日記にもたびたびその名が 付 中江兆民が一週間接心に詰め切ったこと 同年五月廿九日 慥斎自身は チト厭風 となっていること 同年六月九日付 等々 である 膨大な著作を残し 晩年には参禅に勤しんでいた慥斎も 腸胃 カタル には勝てず 明治十年五月三十日 下谷御徒町の自邸で遂 に歿した 享年六十七 墓所は 日暮里の谷中墓地 慥斎には三男三女があり 長男正治が跡を継いで 慥斎の蔵書類 を 保 管 し た そ の 後 正 治 の 孫 正 庸 は 郷 土 史 研 究 に 役 立 て る べ く 昭 和 二 十 九 年 慥 斎 関 係 書 類 一 式 を 高 知 市 民 図 書 館 に 寄 贈 し た
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