[Auger],M6moires pour servir... の編者にっいて * On the Author of ル 16 肌 o か cs poαr sero か a Z ン h/ ご s む o か e dlμ dro 琵 P 酌 Z odezαfrαπce,etc.1779 木峙喜代治 K

Similar documents




































45







































Title1950 年代の新農村建設計画 : 長野県竜丘村を事例として Author(s) 森, 武麿 Citation 一橋大学研究年報. 経済学研究, 47: 3-82 Issue Date Type Departmental Bulletin Paper Text Ver

























Transcription:

Title[Auger], Memoires pour servir... の編者 Author(s) 木崎, 喜代治 Citation 一橋大学社会科学古典資料センター年報, 17: 10-15 Issue 1997-03-31 Date Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/5451 Right Hitotsubashi University Repository

[Auger],M6moires pour servir... の編者にっいて * On the Author of ル 16 肌 o か cs poαr sero か a Z ン h/ ご s む o か e dlμ dro 琵 P 酌 Z odezαfrαπce,etc.1779 木峙喜代治 KISAKI Klyo11 謹啓いつも貴センター 年報 をご恵与くださり, 厚くお礼申しあげます 今度お送りいただいた第 16 号の巻末の新収図書リストの冒頭に [Auger],1146 舵 o rθsρo 脚 seroか _ を発見して, 貴センターがこの貴重な文献をまた一点入手されたことを大いに慶賀いたしました ただ, この書物の編者がオージェであるか否かについては, わたくしは10 年以上まえから疑問に思っており, すこしばかり調べてみたことがあります 今回, たまたま貴センターの 年報 上でこの書物のタイトルを見て, 以前からの疑問を整理してみようと思い立ちました この小文がすこしでも価値あるものならば, 貴センターへのわたくしの恩返しの一端になるのではないかと思い, これをお送りいたします * 1) まず, 問題の書物はつぎのものです ハ 4 壱 ητo rθs poμr sθru ケ a z h s 亡 o rθdα(1ro あ Pα わ互 c dεzαfrαπoε εη ητα む (}rθ d ゲご ητρδ む s, oμ,rθc 膨 e 麗 dεoe(1 痂 s εs 亡 Pαss64eμαs η 彪 rεssα 漉 d JαCoμr θs 4 dlθs,dεpμ s1756 ノ μsσ ゴ αα 肌 oεs dθノα 語 1775.Bruxelles1779.xiv,776p. これは租税法院の歴史の本でありますが, 特殊な性格を帯びている書物です 租税法院はパルルマンと並んで最高諸法院の一つであり, 租税問題に関わる係争の最終審 ( 最高裁判所 ) であると同時に, 租税にかんする法令は租税法院によって登録されなければ, その租税法院の管轄区において法律として発効しません たとえば, 新税徴収の法令が公布されたとしても, 租税法院がその法令をその議事録に登録しなければ その法令は効力を発せず, したがって, その租税の徴収をおこなうことはできません ただし, 租税法院は, 長い問それ独自の活躍をほとんどなさず, パルルマンの陰に隠れた存在でした ところが, マルゼルブ (C. 一 G.de L.de Malesherbes) が1751 年にその院長に就任してから, とりわけ1756 年ごろから, 租税法院は積極的な活動を開始し, 王権の租税政策 財政政策を正面から批判するようになります そして, その批判は必然的に王国の現状全体の批判へと拡大していきます 王権そのものにたいするこうした抵抗の姿勢のゆえに, ついに1771 年, マルゼルブは追放され, 租税法院自体もパルルマンとともに解体されてしまいます しかし,1774 年, ルイ15 世がこの世を去り, ルイ16 世が即位すると, 世論の動向に押されて, パルルマンも租税法院も再建されます マルゼルブも院長として返り咲きます しかし, テユルゴ (A. 一 R. 一 J.Turgot) が財政総監に就任すると, マルゼルブは, かれの第一の友人として内 * 編者注 : 本稿は当センター宛の書簡としていただいたものですが, その内容からみて公表すべきであ ると判断し, 著者の承認の下にここに掲載します 一 10 一

閣に迎えられ,1775 年に宮内大臣に就任します 租税法院を去ることになったマルゼルブは, 王国の行政改革についての自分の見解の全体を長文の建言書あるいは諌言書 (remontrances) にまとめ,1775 年 5 月 6 日に国王に提出します 国王はこの建言書の公表を禁止します 租税の徴収に必要な仕事をなしている人々への納税者の敵意をかきたてることは危険である と国王は告白しています しかし,3 年後の1778 年 4 月, この建言書はひそかに出版されます 国王は激怒し, 租税法院は急いで発売禁止令をだします そして, その翌年, あらためて, その建言書をも含むこの問題の大著がブリュッセルを刊行地として刊行されます もちろん, この出版地の記載は偽りであり, パリで刊行されたものであることはすべての人が知っておりました したがって, この書物はいわば戦闘の書であり, 租税法院の院長マルゼルブの活動報告書のごときものでありました 内容的にも, 資料集と呼んでもよく, したがって, ここでは, 著者という言葉よりも編者という表現のほうが適切かと思われます この公刊にまつわる, 騒動については, のちに触れなければなりません 2) ただ, つぎの点はここで書いておくのがよいでしょう この1775 年の建言書は長文で, 四つ折りの1779 年版で66ページに達するものですが, その文中, 二箇所で削除部分があり, その合計は10ページほどになります この削除部分は,1778 年に秘密出版されたときからあるもので,1779 年の問題の書物でも埋められておりません 出版者は, たとえ秘密出版とはいえ, この部分があまりにも王権に刺激を与えすぎると判断したからでありましょう このような配慮をみれば,1778 年版も1779 年版も, どちらについても, この秘密出版にたずさわった者は租税法院の関係者であろうと思われます もし, 第三者ならば, こうした配慮は不要だからであります ところが, この欠落部分は別に印刷されて販売されておりました 一橋大学が最初に入手した版本には, ありがたいことに, この別刷り部分が巻末に綴じ込まれておりますキロところが, さいきんバダンテール (Badinter) の編集によって刊行されたこの建言書では, その中にある空白部分はそのまま放置されており, 別刷り部分への言及すらありません この措置は理解に苦しむものです (E.Badinter,Lθs Rθ 肌 o 舵 rαπcθs dem αzθshθめes-1771-1775 一, Paris1978. のちに,Flammarionのペーパーバック版に入っても同じです) 3) この書物の編者は一般にオージェ (Auger) と考えられており, わたくしの知るかぎりどこでも, 貴センターでも,Bibilot 聴 quenationaleのカタログでも, アメリカのUnionCata- logでもそのように扱われております 4) しかし, わたしは, その編者はディオニス (DionisduS6jour) であろうと考えています それについて説明します まず, ひとびとは, その編者について, どう考えてきたでしょうか 5) おそらく, その編者をオージェと断定した最初の人はバルビエ (Barbier) であると思われます (A. 一 A.Barbier.1) cε o 肌 α rθdθso 醐 rα8θsαπoηymθs 就 ps 甜 doπッ配 esoo 肌 pos2s, ヶαd 臨 S.0μρμわ 彪 Sθπ rαπg 痂 S,θむC.PariSl806-9,4vOL;3eOd,PariS1872-79,4vOL) それ以降, ひとびとは, それに従っているようです バルビエはここで, この書物は ショアール部長 (Pr6sidentChoart) の監督のもとに, 弁護士オージェによって出版された と書いています しかし, 残念ながら, その断定の根拠をなにも示しておりません バルビエはそこでこの本の説明をしていますが, その説明の出典についてはのちに言及します なおケラール (Qu6rard) の文献目録も, バルビエのこの記述をそのまま採用しております なおまた, ショ * 編者注二ここに言及されている版本は, 一橋大学経済研究所に所蔵されている 一 11 一

アールは, 租税法院の院長マルゼルブの部下であるばかりでなく, 腹心の友でもあり, 租税法院の解体および再建のさいには, マルゼルブに積極的に協力しています 1775 年, マルゼルブの辞任の噂が流れたさいに, かれの留任を願う演説をしたのもショアールであります バルビエはショアールを部長 (Pr6sident) と呼んでいますが, かれがその地位についたのは1788 年 3 月 12 日でありますから, この本の秘密出版の時期にはまだその地位にいませんでした なお, 部長とは, 租税法院の複数の審理部 ( 法廷 ) の長であり, 租税法院全体を統括するのは院長 (PremierPr6sident) であります これはパルルマンと同じです 6) オージェなる人物については, ほとんどなにも知られておりません 洗礼名さえ不明です ただ, 弁護士 (avocat) という肩書きがつくのみです 7) バルビエはこの書物のタイトルを書き間違えております R2cω 観 dεcθ 卿 s2θsεραss 壱面 pzμs 脱をrεssα 漉 d αcoμrdθs 窺 desとなるべきところを,rθcμe Zcoπcθmα 漉 αco 蹴 dεs 41dθs と書いています ほかの場所ならいざ知らず, 文献目録におけるこの種の誤記は重大でありうると思われます 8)1796 年, デュボワはマルゼルブの伝記のなかで, この本は, 租税法院の多くの司法官, とりわけ市民ディオニスの尽力による 一 と書いています (J. 一 B.Dubois,Noε cθ h s む or (1μεsμr C ん r6 面 θ 泥一 σω 記 Zαμ 舵 εlαmo 8πoπ 一ハ 4αZεshεr わ εs,2e6d.1796,p,7;3e6d.,1806,p.26. この第 3 版では, 市民 という言葉が当然にも削除されています) 9)1797 年, ニオンはマルゼルブの蔵書カタログの序文のなかで, この書物の名をあげ, ディオニスによる と書いています(. 一 L.Nyon,σ 砿 α αg 麗 dθszωresddαbめ oむh2 卿 θ 吻 θασ ん r6 あ eπ 一 G 漉 πα cc η~θlα 肌 oε9πoπ 一ハ 4αZes ん er わ εs,paris1797,p.8) 10)1803 年, ド リル ド サールはマルゼルブの伝記のなかで, つぎのように書いています この本は 学識あるオージェとルモワンヌ (Lemoine) の尽力により, 司法官ディオニスの監督のもとに1779 年に刊行された (Del lsledesales, 琉 θρ 酌 g 麗就 ρr 虎 εdε Cんr6ε1θルG 膨沼側 mθ 鹿 Lα 肌 o 8πoηdg MαZθshθ 池 θs,paris l803,p.xi) バルビエ以前に, オージェヘの言及が現れているのは, わたくしの知るかぎり, ここだけであります しかも, オージェの名はルモワンヌと並列に置かれています 11) また, ともにきめ細かい研究家であるエグレとグロクロードによれば カミュがつぎのように書いているとのことであります この集成は, 租税法院の評定官長であるディオニスによって編集され, 印刷された (Camus,L 臨 rθs 甜 rjαpro θss oπ αuoo 厩,Paris1818,t.II, p.155;cf.j.egret,malesherbes,premier pr6sident de la Cour des Aides(1750-1775), ~eびαθ Hごsεoか召 η 乙 o(1erπeθ 乙 eo 舵 e 配 porαεπe,no.30,1955,p 113;et P.Grosclaude,Mα εshθめεs. 彪舵 oごη θ 伽亡叩 r 伽 dεso 瞬 ε 耽 ps,pariss.d.(1961),p.783.) 12) ディオニス (Louis-AchilleDionisduS6jour) は1702 年に生まれ,1794 年に死去しています 92 歳の長生きです 1724 年に租税法院の評定官になり,1776 年から, 租税法院の廃止される1791 年まで, 評定官長 (Doyen) を務めています なお,1791 年の租税法院の解体時の構成員は総計で113 人で, そのうち評定官は66 人であります かれは, 租税法院廃止の翌年, 租税法院史を刊行しています すなわち,1146 肌 0 rερ0μrsθruケdz 伍 Sむ0 rθddαcoμrdεs 4 dεs. dεpμ s soπor 8 し π(3(3η1355,soμs JεRo ご εαπ, ノ μs(1μ d sαsμppr(~ss o 泥 θ22 ノ αη び茜 θr 1791. soμs Zθ r28πε 惚 Loμ sxw,paris1792. であります この著作は匿名でありますが, ディオニスがその著者であることに異議を申し立てた人はないようです この著作のタイトルは, 問題の著作一 12 一

のタイトルに似ておりますし, 内容の書き方も似ております 類似点の第一は, どちらの書物でも, 編者 ( 著者 ) の見解を正面から出さず, 資料をして語らせるという形式をとっていること, 第二は, それにもかかわらず, 租税問題における反専制主義的基調がときおり姿を見せていることであります なお余談ですが, ディオニスは, その在職中にえた収入をすべて記載したノートを残しており, きわめて基調な資料となっております (G d Arvisenet,L officede COnSeiller a la Cour des Aides de PariS au XVHle si 色 cle,rθ 肥 θん s 亡 0πgμθdlθdrO 記 rαηcαごsθε 2むrαηgθr,33(1955),pp.537-559) なお, のちのアカデミー会員で自然科学者のAchille-Pierre Dionis du S6jourは, かれの息子であります 以上の証言からみれば, この書物の編者はオージェであるよりも, ディオニスであると考えるほうが自然であるように思われます ただ, これにたいして, 次のような異論が提出されるかもしれません 13) すでに述べたように,1775 年 5 月 6 日の租税法院の建言書は国王によって公表を禁じられましたが,1778 年にひそかに刊行されましたので, 租税法院は1778 年 4 月 29 日に租税法院裁定を発し, その発売を禁止しました ところが, その翌年の1779 年に, われわれがいま問題としている著作が公刊され, そこには当然, さきに発売禁止処置を受けた建言書も収録されていました そこで, 租税法院は1779 年 2 月 26 日に全体会議を開き, 租税法院裁定によってこの著作の発売を禁止しました その会議では, まず, 検事総長のブーラ ド マレーユ (Alexandre-Jean Boula de Mareuil) が報告し, ついで, 評定官のルイ アシル ディオニス デュ セジュールが論告をおこないます (14ページのE 鴬 7α 琵 dεsr281s 亡 rεsdθ αc 側 rdθs ハ 惚 s.1ル26f 勿 r θr1779の写真版を参照のこと ) その裁定文では, この著作が 法院の権威を傷つけ, その裁定に払うべき敬意を欠き, その審議の秘密を侵す ものとされています バ ショーモンは,1779 年 3 月 1 日にその日記のなかで, この文言を引用しております (Bachaumont, ハ4 伽 Lo rθs sθorθ 亡 sρoμr sθruかa hls 亡 o rθdε αr6μわ助膨 θdεs Zθむ亡 rθsεπfrαπcε, θむc,londres1780,t.xiii,p.298.) さらに, バルビエもこの表現を引用しております 問題は, この論告をなしたのが, わがディオニスであるということであります もし, ディオニスがこの本の編者であるならば, かれは, 自分で編集し刊行した書物の発売禁止令を要請したことになります そのようなことがありうるか, という反論がありえましょう 14) この疑問にたいしては, 当時そうしたことはいつも起こっていた, と明確に答えることができます たとえば, 租税法院の院長マルゼルブは1751 年から1763 年まで出版統制局長をも務めておりましたが, その間に, かれはディドロ (D,Diderot) の 百科全書 (EηcッcJoρをd θ) やジャン ジャック ルソー (, 一 Rousseau) の 新エロイーズ (Lα 八 Fo 副 ezzθ 孟 16 oビsθ) や エミール(E 而 Zθ) の秘密出版にたずさわり, それらの著作が, 教会側からの攻撃に持ちこたえられないと知ると, その著作の発売禁止令を起草して, 大法官に提出しております この一例で十分でありましょう 出版統制の最高責任者が秘密出版を奨励した例であるからであります マルゼルブを院長として戴く租税法院の一メンバーがこの院長の秘密の行為を密かに模倣したとしても, そこに奇妙なものはなにもないでしょう ディオニスのこの著作にかんして, さきのバショーモンはその日記のなかでつぎのように書いています 租税法院は, この書物の存在を知らせ, 関心ある者の好奇心をかきたてるために, そしてまた同時に, 最高諸法院の慣例にしたがって,2 月 26 日, 全体会議において裁定を発し, この書物が法院の権威とその審議の秘密を侵犯するものとして, これを発売禁止処分に付した (lbid.) バショーモンは, 発一 13 一

,DE5RE6!15T.RES,, DE LA COUR DES Alr)ES. P ユ 6. 嗣ぐ〆置 779 CEJ ur,chambresa 催 mb 置 6es,lesGe 血 5du Roi cn 亡 f6sen la Chambre,dd ordonnanced icelle ダ M6ALεx ム NDREJEAN BouLA DEM ム REuIL,Avoca し G6n6ral,P rξanthpar!e, n ヒ diun usapp ro ns ム hc uτunin-4 c n enant776pa8e5 ayan ご P urd 亡 re2 伽 1r 5P μ 弄 rγ ご r4 θ4σ κ イ μp1 8 Pα ど 4 ぬ E 脚 ご πηc 1~κ4 6 5, ur μ ご躍 4 45 仰 μp 舛 π 吻 ρπ 紬伽廊イ 4 ご 5 吻 ど 5-7 6 ノ吻 44μ 孤 54 ごノ痂 x77, 卯 f 雇ゐ 8 雌 Z ん π 779:Enτε じ edcce Recucile 氏 unavi5derediτeur,& ム置 a6ni 置 y 題 unetablc!?hab6 こ ique quipr 醗 n こ e 伽 sul c コ価湘 riqueramly 色 c mplet 亡 edesmati る re5 一, CeRecuei!c mm nceparccsm にs,C ノσμr1,&c & 触 P rc uxdl 鬼 1 rたψπご仰 ακ 4 4 11 鴫 飾 qu paτ 量監 redan5 Public SユDivi 旺 ncmbra 億電 ren e tr 15Chapkres,dansie 向 uel 蜘 ntprldci 2 P 弓 1e 甲蔓 η, にrenfヒrm65desDlfヒours prdnpnc 乏 slo s40 飢 S anccs dc5prince5&p 盃 irs,deεremontra ces Pτ6f ヒ nt6es au Ro 三 par lacour,en6n des D61ib6ra7 d squ cheacmdev irprendre,tanζp urleblen pubhc,rint6re ピ dei Eta し,&1 h nncurdch Comp3gnie,que relati~ ement ゑ de5af 琵 lres de Pardcu1iers,d n ヒ rimp r 亡 ancedev irβxe ゆ a 亡 ten こ i n redi eurdccerecueilnes-e 昆 pa3b ri}6 醗 pcrmcζtτedcre acerle56v6nemenτ5pa 億 5 奇 ces6p ques,d nti1 魚 r k 証 degrerque1e 血 uveniτ poζ5 e 価 cerde 且 a.m6m lre; 註 5 e 狂 6r 董 96eaCen 血 ur;ll a alou 電 6 査伍 coueaion des No es qu ま c6ntieone 窃し de$ 6Hex 量 n5indi 玩 req 監 es,ha 年 afd6e5, ヨ estm 三 τ5 伍 ζyr ques,indignesde 亡 r uvcrp1 き cc 註 c6 6deD 11b6ra io 邸,donda 漁 ge 舵 &laclrcon{; 鷹囎繋認 1 二 e 臨馨語畿濃 da お 5f6n R cucil un impr 五 m6 釦 rdf,ioεi に u16,3 恥一五 μ ミリハ ール認 f~5 ψ 伽 45R η πμ4π 659μ ア 4πκ 艇昭 Rρ, Z r ~5 伽 ヂ θμy 吻 s 吻 μ ら 6c π5f 仰 π 5 声伽 74 5 謂頃 P4 榔,1 6 ハ釦 Z 775,quolque h Cour par 偽 n, Arra じ du2gavrl1 778enai rd n 61a 血 PPrcmon 奪 Ce 鵬 6did cl 姐 de 奪 inep 脈 n cd unc6 こ 61e 巳 3 pr ;e ヒ ded merauxd61ib6rati 紬 1aC ur, 廃, auxdi 碗 ren ヒ 3a 母 esq mg魚 prudence 改命 ninvi, 1ableaτtachcmen し auxin 6rδtsderE に a こ 1ul 一 φn 監 i -i 母 6S. リ PCRubhcit6qui 興 aiama 董 S 鰯 ans 幼, mtep ロ on; 改 derauτrcuncd6f6b6i 億 n と e&une c n 亡 raven:i 肘 epr6hen bles ム rarr 亀ご delacσufd 隅 gavrih778.1 且 e 佃 ncden ヒ remini 腱 o de vou5d6 庭 rcr ce Recueil,c る mmec6n 藍 ralre 議 r6r 嬬 drepublic,&attentat ire ゑ v 亡 reaut ri ヒ 6=N u5en lai 価 nsunexemphire 血 τlebureauavecn sc n clu 豆 nspar6cτi に,P uτenrcqu6 ld 轟魚 PPrem n. Les Gens du Roi re じ i 65 ず _, 4 帰 d imprimα,vcl14r 邑 融 rib rlcdl こ }m 函 6i 趣 U 噌 ci c5,qu i 玉 apparticndra 10-d ne 可 qe: 1ePr 幽 tar 醸長 mimpri 臨 6, ρ bh6& a 田 ch6 P ユ r じ し pl 山じ応 in 庇 ra F^1T ム P4ri5 cn:4a C ur de5ai し lc5,!cscl1 b-e a 薦 iub1 壬 5, 1e-ving 一 nx F V i じ 邑蔽 1 τce 鰍岬 ix 員こ U マ 9U 弓監鱒ら鞠, 含 L 購即 q 罫 マ 二, 1 i よ.. レ,i,., 1 r,,:! 一キロ一 1 一. 一 瞳 ;1 ; 一 i,. ジ, 一 : 弓 8 11 ; r! 一 8 一一 : 一,, 卸 1 r. 1. 二..lll. 二. 一 甲 i) 娠アール Leauredudl imprim6 言 C 1 clun sdupr 一 cureur G6n6ra 正 du Roi=Oui!e RapPor じ dc McLouls-AdmLLEsD onisduse our,con{ も lller.3 1a mati と re mi 色 en d61ib6ratlon L A C OU R a rd nn6& τd nnequeledi:imprim 醗 ra& demeurera fbpprim6comme aこヒen aこoire 盗量 auじo_ 1 五亡 6.delaC ur &c 蹴 mircaureφc&d 丘注飛 3 Arreこs&au fセcreじde fセ5d61ib6rations,ordonne q 騨 i1 色 rain 烏 rm6c n reユ Au 亡 e rdudklmprim6, C mphces Fauじeurs&Adh 燃 pardevand Con 色 illerrapporヒ曼 ur quc la Coufacommi5 査 ce 璽 e 序 c 亡 Eni inこムτ u5ceux 鳳 uie n 亡 dc5exemphires dc lcs appor er iacefhmmentau Gre 俄 delacour. ppury 歪 ζrcpareiuemenゆprim65 Fal d6 偽 n 鋤 to lslmpilmcuτs Lib airc5 C 1 夏 rに嚇 a}ζr 曼ラ一 14 一, L ξ,, ロ APari5 c お ezknapen&fil5 Llb lmp dcl ざ C uτdcsaide5 aub ユ sdup Ω 電 S.Michd. 779,

売禁止令が当該書物の広告手段であることを自明のこととしているわけであります これは今も昔も変わらぬ真理であり, あのヴォルテール (Voltaire) もこの事実をさかんに利用しておりました 15) 以上述べてきたことから, 決定的な証拠はないとはいえ, この書物の編者はオージェであるとするよりも, ディオニスであるとするのが適切であると考えます それにこうした問題では, 決定的な 証拠の発見は多くの場合不可能でありましょう ディオニスの伝記的研究がもし存在すればきわめて有益ですので, この点では貴センターのご教示を乞いたいと考えます 敬白 1996 年 5 月 14 日一橋大学社会科学古典資料センター御中 ( 京都大学名誉教授 ) 一 15 一