( 注 原 本 の283ページ 以 下 を 収 録 してあります) 第 2 部 第 1 章 日 本 移 民 のブラジルに 及 ぼした 影 響 ブラジル 農 業 に 果 した 役 割 I. 新 作 物 の 導 入 と 育 成 果 実 類 2. 蔬 菜 類 3. 繊 維 作 物 4. 花 卉

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1 ブラジル 日 本 移 民 80 年 史 第 二 部 日 本 移 民 のブラジルに 及 ぼした 影 響

2 ( 注 原 本 の283ページ 以 下 を 収 録 してあります) 第 2 部 第 1 章 日 本 移 民 のブラジルに 及 ぼした 影 響 ブラジル 農 業 に 果 した 役 割 I. 新 作 物 の 導 入 と 育 成 果 実 類 2. 蔬 菜 類 3. 繊 維 作 物 4. 花 卉 庭 園 樹 香 辛 嗜 好 作 物 6. 雑 穀 作 物 新 しい 作 物 養 鶏 畜 牛 養 蚕 養 魚 91 II. 集 約 的 農 業 の 確 立 日 本 での 経 験 を 近 郊 で 生 かす 2. 初 期 のジャガイモ 栽 培 3. 蔬 菜 つくり 養 鶏 5. 果 樹 栽 培 6. 奥 地 に 波 及 した 集 約 的 農 業 7. 集 約 的 農 業 の 果 してきた 役 割 と 現 在 120

3 III. 新 しい 農 業 の 開 発 ブラジルのセラード 128 a. 政 府 のセラード 開 発 案 b. 日 系 農 業 者 が PADAP の 先 駆 c.padap の 成 績 d. 新 たな 乾 期 作 物 2. 日 伯 協 同 の 開 発 事 業 139 a. 第 1 次 セラード 開 発 計 画 の 概 要 a - 1 コチア 組 合 のパラカツー 団 地 a - 2 CDAC のサンタ マリア 農 場 b. 第 2 次 セラード 開 発 計 画 の 概 要

4 b-1 コチア 組 合 のオウロ ベルデ 計 画 149 b - 2 スール ブラジル 組 合 のグァ ルダ モール 計 画 b - 3 コアセラル 組 合 のフォルモーザ 計 画 c.ブラジル 全 産 業 に 大 きなインパクト 3. 生 産 団 地 開 発 事 業 154 a.サン フランシスコ 河 流 城 開 発 計 画 a - 1.ピラポーラ 果 実 団 地 a - 2 クラサー 果 実 団 地 b.サン ジョアキンのリンゴ 生 産 団 地 lv. 農 業 協 同 組 合 の 創 設 と 発 展 協 同 組 合 の 誕 生 と 発 展 170 a. 小 農 の 自 衛 組 織 として b.サンパウロ 市 の 膨 張 と 共 に 発 展 c. 国 際 市 場 にも 進 出 d. 大 戦 の 抑 圧 で 質 的 転 換 e. 中 小 農 安 定 に 大 きな 役 割 2. 日 系 組 合 の 現 状 と 将 来 185 a. 現 存 する 日 系 協 同 組 合 b.コチア 産 業 組 合 中 央 会 c. 南 伯 農 業 協 同 組 合 中 央 会 d. 競 合 する 商 業 資 本

5 第 2 章 日 本 移 民 の 商 業 工 業 と 進 出 企 業 201 I. 日 本 移 民 の 商 業 進 出 戦 前 の 日 系 商 業 (354) a. 最 初 から 商 業 進 出 を 目 指 したもの b. 農 業 移 民 を 便 法 として 商 業 進 出 を 目 指 したもの c. 移 民 共 同 体 の 中 から 自 然 発 生 した 商 業 d. 野 菜 市 場 への 進 出 e. 農 産 物 仲 買 商 と 精 選 業 者 f. 洗 染 業 g. 金 融 業 サービス 業 2. 戦 後 の 日 系 商 業 214 II. 日 本 移 民 の 工 業 進 出 手 工 業 からの 出 発 2. 最 初 から 工 業 進 出 を 目 指 したもの 3. 農 業 移 民 から 工 業 進 出 を 目 指 したもの 4. 農 業 部 門 商 業 部 門 からの 工 業 進 出 a. 戦 前 の 工 業 進 出 b. 戦 後 の 工 業 進 出 5. 戦 後 の 技 術 移 民 が 果 たした 役 割 III. 進 出 企 業 戦 前 の 進 出 企 業

6 a. 国 策 に 基 づいた 移 植 民 事 業 会 社 b. 純 粋 な 民 間 企 業 の 進 出 c. 綿 花 買 付 商 社 の 進 出 2. 戦 後 の 進 出 企 業 242 a. 初 期 の 進 出 企 業 と 日 系 コロニア b. 起 るブラジル 進 出 ブーム(3 74) c. 大 型 プロジェクトの 参 入 (3 7 5 ) d. 撤 e セラード プロジェクト 始 まる f. 軍 政 の 終 了 と 経 済 危 機 3. 進 出 企 業 の 果 した 役 割 り 第 3 章 教 育 文 化 宗 教 280 I. 戦 後 のコロニアの 子 弟 教 育 日 本 語 教 育 2. 日 本 語 普 及 活 動 一 本 化 の 動 き 3. 教 育 熱 心 について 4. 上 級 学 校 への 進 学 5. 日 系 学 生 の 志 向 II. 文 学 活 動 の 流 れ 短 歌 (392)

7 2. 俳 句 3. 川 柳 4. 詩 歌 謡 ( 民 謡 童 謡 を 含 む) 5. 小 説 (その 他 ) III. 美 術 319 IV.スポーツ 328 a. 相 撲 b. 陸 上 黄 技 c. 野 球 336 d. 柔 道 e. 剣 道 347 f. 水 上 競 技 g. 卓 球 h.テニス i. 空 手 j.ゴルフ k.サッカー 1.バレー ポール バスケットボール m.ゲート ボール n.ラジオ 体 操 Ⅴ. 趣 味 娯 楽 363 a. 囲 碁 b. 将 棋

8 V I.ブラジルに 於 ける 日 系 人 の 宗 教 生 活 と 日 系 宗 教 第 1 期 - 宗 教 の 空 白 期 第 2 期 - 植 民 地 での 宗 教 活 動 381 a. 植 民 地 の 形 成 と 宗 教 生 活 b.キリスト 教 系 宗 派 の 伝 道 活 動 c. 日 系 宗 教 の 布 教 3. 第 3 期 一 離 村 向 都 時 代 397 a 年 代 後 半 から 戦 時 中 の 宗 教 活 動 b. 日 系 人 の 都 市 移 動 と 日 系 社 会 の 変 容 4. 都 市 時 代 一 日 系 宗 教 の 復 活 とその 後 の 展 開 404 a 年 代 における 日 系 社 会 の 宗 教 事 情 b 年 代 以 降 の 日 系 宗 教 布 教 の 概 略 c 年 代 以 降 における 日 系 宗 教 団 布 教 の 特 徴 d.6 0 年 代 以 降 のブラジル 社 会 の 変 化 e. 日 系 宗 教 教 団 側 の 条 件 5.コロニアの 宗 教 構 造 438 編 纂 後 記 456

9 日 本 移 民 の ブ ラ ジ ル に 及 ぼ し た 影 響 第 1 章 ブ ラ ジ ル 農 業 に 果 し た 役 割 日 本 移 民 の 大 部 分 は 戦 前 は ま ず コ ー ヒ ー 園 の 契 約 労 働 者 と し て 戦 後 も ま た 農 業 者 と し て 入 国 し た つ ま り ほ と ん ど が 一 度 は 農 業 に 征 事 し た わ け で あ る が そ れ が 最 近 の 2 0 余 年 に 急 激 に 様 相 を 改 め て き た ブ ラ ジ ル 自 体 が 農 業 国 か ら 工 業 国 に 進 展 す る に つ れ て 農 業 の 先 生 と 呼 ば れ た 日 本 人 も 2-3 世 の 時 代 に 移 り 高 等 教 育 を 受 け た 2 ~ 3 世 は 都 市 部 の 職 業 に 就 く 者 が 多 く 1 世 の 移 民 で は 法 律 の 関 係 で 参 加 で き な か っ た 政 治 あ る い は 公 務 員 の 分 野 に も 多 数 の 者 が 進 出 し た こ ん な こ と か ら 日 系 人 で 農 畜 産 業 に 従 事 す る 者 の 比 率 は 大 幅 に 減 少 し た 現 在 で は 万 人 の 日 系 人 の な か で 農 畜 産 部 門 従 事 者 は 約 1 5 % と み ら れ て い る し か し こ の 比 率 の 減 少 は ブ ラ ジ ル 社 会 全 体 の 傾 向 で あ り 日 系 人 の 農 業 面 で の 活 躍 の 減 少 を

10 示 す も の で は な い 反 対 に 1 農 家 当 り の 飛 躍 的 な 生 産 規 模 増 大 で ブ ラ ジ ル 農 畜 産 業 に 大 き な 力 を 発 揮 し て い る 近 郊 農 業 は 別 と し て 内 陸 部 に お い て は 年 代 に は サ ン パ ウ ロ 州 年 代 末 に は パ ラ ナ 州 に も 原 生 林 が 無 く な り 年 代 に な る と 新 し い 農 地 を 求 め て ミ ナ ス マ ッ ト グ ロ ッ ソ そ の 他 の 地 方 へ の 日 系 農 業 者 の 拡 散 が 目 に つ く よ う に な る こ の 時 期 は 1 世 か ら 2 3 世 へ の 世 代 交 替 も す す み 農 業 か ら 都 市 部 の 職 業 へ の 転

11 換 も 多 く 農 業 者 の 数 は 減 少 す る が 1 農 家 当 り の 生 産 規 模 は 拡 大 し た こ の 生 産 規 模 拡 大 は 農 業 機 械 の 大 型 化 が 進 ん だ こ と に よ り 一 層 促 進 さ れ た 今 で は 一 基 の 潅 水 面 積 h a と い っ た 超 大 型 潅 水 施 設 の ピ ボ ー セ ン ト ラ ル 設 備 を 所 有 す る 農 家 も 珍 ら し く な く な か に は 一 農 家 で そ れ を 数 基 設 備 し 雨 期 乾 期 の 別 な く 安 定 し た 営 農 を お こ な う と い う 形 態 が 出 現 し つ つ あ る ま た 日 系 農 業 者 の 果 し た 役 割 に は 生 産 規 模 の 拡 大 だ け で な く 作 物 の 多 様 化 が あ る こ の 作 物 の 多 様 化 つ ま り 新 作 物 の 導 入 は す で に 年 代 か ら 日 本 移 民 が お こ な っ て き た な か で 著 名 な の は 養 鶏 ラ ミ ー 紅 茶 ジ ュ ー ト コ シ ョ ウ な ど だ が こ の 伝 統 は 今 日 ま で 続 い て ブ ラ ジ ル の 農 作 物 の 種 類 を 豊 か に し て き た 花 草 栽 培 を 一 つ の 産 業 の 地 位 に 引 上 げ あ と 野 菜 果 物 に お け る 新 品 種 の 導 入 は 2 0 数 種 に の ぼ る こ の 新 品 種 の 導 入 栽 培 技 術 の 革 新 で 単 に 国 内 市 場 の 品 物 を 豊 か に し た だ け で な く そ れ が 新 し い 輸 出 作 物 と し て の 地 位 を 獲 得 し た も の も 数 多 く あ る 作 物 の 多 様 化 と 合 わ せ て 考 え ら れ る こ と に 農 業 地 帯 の 拡 散 が あ る 年 代 ま で 日 系 農 家 の 生 産 地 帯 は 若 干 の 例 外 を 除 け ば サ ン パ ウ ロ 州 と パ ラ ナ 州 リ オ 州

12 そ れ に ア マ ゾ ン 河 流 城 の 一 部 に 限 ら れ て い た そ れ が 年 代 か ら ま ず ブ ラ ジ ル 南 部 の 農 業 者 が ミ ナ ス 州 以 北 に 入 り 込 み そ の 直 後 に 日 系 農 業 者 も 全 ブ ラ ジ ル 的 に 拡 散 を 始 め た す で に ミ ナ ス バ イ ア マ ラ ニ オ ン ピ ア ウ イ 州 な ど の セ ラ ー ド 地 帯 ( 熱 帯 サ バ ン ナ ) か ら さ ら に は サ ン フ ラ ン シ ス コ 河 流 城 の カ ー チ ン ガ 地 帯 ( 熱 帯 半 砂 漠 ) ま た は 東 北 伯 の 海 岸 地 帯 ア マ ゾ ン 上 流 地 帯 に ま で 日 系 農 業 者 の 活 躍 が み ら れ る よ う に な っ た ブ ラ ジ ル の 東 北 地 帯 と い え ば 熱 帯 し か も 内 陸 部 は 熱 帯 サ バ ン ナ 気 候 で あ る が そ こ へ ブ ラ ジ ル で も っ と も 農 業 技 術 の 高 い と い わ れ る 日 系 人 と ブ ラ ジ ル 南 部 の 農 業 者 が 入 り 込 ん だ 彼 ら は ま ず 気 象 デ ー タ ー の 収 集 か ら 始 め こ の 地 方 の 自 然 条 件 を マ ス タ ー す る と 同 時 に さ ま ざ ま な 作 物 の 試 験 栽 培 を お こ な っ て 適 作 物 を み つ け 出 し た す で に ゴ ヤ ス 州 で は 相 当 規 模 の 水 田 が 造 営 さ れ 米 の 生 産 量 は 大 幅 に 増 加 し つ つ あ る サ ン フ ラ ン シ ス コ 河 流 城 で は 多 種 の 果 実 野 莱 類 の 生 産 か ら そ れ ら の 加 工 ま で が 始 ま り 東 北 伯 海 岸 地 帯 で は パ パ イ ヤ メ ロ ン マ カ ダ ミ ヤ ナ ッ ツ や 多 く の 香 辛 料 作 物 の 生

13 産 地 帯 が 現 わ れ 始 め て い る 日 系 人 は 農 畜 産 の 生 産 面 だ け で な く 生 産 物 の 流 通 加 工 面 に も 大 き な 役 割 を 果 し て き た コ チ ア ス ー ル ブ ラ シ ル な ど 日 系 農 業 組 合 の 発 展 は ま さ に そ の 典 型 で あ る ま た こ の 流 通 加 工 の 分 野 は も ち ろ ん 肥 料 農 薬 飼 料 農 業 機 械 な ど 生 産 資 材 の 分 野 に も 大 小 さ ま ざ ま の 地 元 日 系 企 業 さ ら に 日 本 か ら の 進 出 企 業 も 参 加 し て 大 き な 貢 献 を な し た ( こ れ ら に つ い て は 第 2 章 に 記 載 し た ) ブ ラ ジ ル の 農 業 の 近 代 化 は 年 代 か ら 始 ま っ た と も い え る 農 業 の 近 代 化 と い え ば 農 業 者 の 近 代 化 に は か な ら な い が 広 い 知 識 と 経 営 能 力 を 備 え た 農 業 者 が い な け れ ば 条 件 に 恵 ま れ た 土 地 が あ っ て も か っ て の ブ ラ ジ ル 東 北 地 方 の 砂 糖 プ ラ ン テ ィ シ ョ ン の よ う に 農 業 は 衰 え て し ま う こ の 面 で は 日 系 農 業 者 は 早 く か ら 次 の 世 代 の 農 業 者 の 育 成 に 努 力 し て き た そ の 一 つ と し て ブ ラ ジ ル 国 際 農 友 会 の よ う な 組 織 を 作 り 農 業 先 進 国 こ お い て 若 い 農 業 者 を 研 修 さ せ て き た そ し て こ れ ら の 後 継 者 は す で に セ ラ ー ド に お い て あ る い は サ

14 ン フ ラ ン シ ス コ 河 流 城 の 潅 水 農 業 に お い て 地 域 の リ ー ダ ー と し て め ざ ま し い 活 躍 を お こ な っ て い る 年 に 始 ま っ た 日 系 人 の ブ ラ ジ ル 農 業 に 対 す る 貢 献 は 今 後 も 拡 大 す る こ と は あ っ て も 減 少 す る こ と は な い そ れ ど こ ろ か ブ ラ ジ ル 農 業 が 5 0 億 を 越 し た 地 球 上 の 人 間 の 食 糧 供 給 セ ン タ ー の 一 つ と し て 世 界 と 結 び つ く 将 来 は 今 ま で に 増 し た 大 き な 役 割 を 果 す こ と に な る で あ ろ う 以 下 日 本 移 民 が ブ ラ ジ ル 農 業 の 近 代 化 に 果 し た 役 割 を 新 作 物 の 導 入 と 育 成 集 約 的 農 業 の 確 立 新 し い 農 業 の 展 開 農 業 協 同 組 合 の 創 設 と 発 展 の 項 目 に 分 け そ の あ ら ま し を の べ る こ と に す る I. 新 作 物 の 導 入 と 育 成 ブ ラ ジ ル の 農 作 物 の 種 類 は き わ め て 少 な か っ た 1 8 世 紀 末 の 主 な 作 物 と し て は マ ン ジ オ カ 芋 ト ウ モ ロ コ シ フ ェ イ ジ ョ ン 豆 で 果 物 と し て は バ ナ ナ マ ン ゴ ー オ レ

15 ン ジ の ほ か 地 元 原 産 の ゴ ヤ ー バ ( ば ん じ ろ う ) パ パ イ ヤ パ イ ナ ッ プ ル な ど を 利 用 し 野 菜 と し て 玉 ね ぎ カ ボ チ ャ 里 芋 ニ ン ニ ク 甘 橘 コ ウ ベ な ど ほ か に 特 殊 作 物 と し て は コ ー ヒ ー カ カ オ 棉 タ バ コ サ ト ウ キ ビ 椰 子 な ど が あ っ た だ け で 栽 培 さ れ た 作 物 は 2 0 種 て い ど だ っ た と 思 わ れ る こ の 作 物 の 種 類 が 豊 か に な る の は 1 9 世 紀 に 外 国 移 民 が 入 国 す る よ う に な っ て か ら で あ る 外 国 移 民 は そ れ ぞ れ 自 国 で 慣 れ 親 し ん で い た 作 物 を 持 込 み ブ ラ ジ ル の 農 作 物 の 種 類 を 豊 か に し た こ の 分 野 で 最 も 大 き な 役 割 を 果 し た の は イ タ リ ア 移 民 と 日 本 移 民 で あ っ た つ ぎ に そ れ ら に つ い て の べ る が 数 が 多 い の で 経 済 価 値 の 少 な い も の は 除 く こ と に し た な お 各 作 物 の 末 尾 に サ ン パ ウ ロ 州 青 果 物 配 給 セ ン タ ー ( C E A G E S P ) へ の 年 度 入 荷 量 を 掲 げ た が 馬 鈴 薯 玉 ね ぎ ニ ン ニ ク 鶏 卵 に つ い て は コ チ ア 産 業 組 合 中 央 会 と ス ー ル ブ ラ ジ ル 農 産 組 合 中 央 会 の 両 組 合 は 独 自 に 集 配 し て い る の で そ の 入 荷 量 を 併 記 し た

16 サ ン パ ウ ロ 近 郊 の ト マ ト 圃 場 料 理 に ト マ ト を 多 く 使 う イ タ リ ア 人 の 激 増 で 日 本 移 民 の 集 約 農 業 化 は 一 層 促 進 さ れ た 1. 果 実 類 ブ ラ ジ ル で は ス イ カ メ ロ ン イ チ ゴ も 果 実 と し て 取 り 扱 わ れ て い る の で こ の 項 に そ れ を 入 れ た 果 実 の 名 称 は 日 本 で の 呼 名 学 名 科 名 ブ ラ ジ ル 名 の 順 に し た

17 ア ボ ガ ド ( P e r s e a a m e r i c a n a M i l l ) ク ス ノ キ 科 A b a c a t e コ ロ ン ビ ア エ ク ア ド ル メ キ シ コ が 原 産 で ブ ラ ジ ル に は ~ 4 2 年 頃 に ペ ル ー か ら ア マ ゾ ン に 入 り さ ら に 南 下 し て 広 く 知 ら れ る よ う に な っ た の は 帝 政 時 代 ( ~ 年 ) と い わ れ て い る 年 米 国 フ ロ リ ダ 大 学 H e n r y 教 授 が ミ ナ ス 州 ヴ イ ソ ー ザ 農 業 大 学 を 中 心 に 栽 培 指 導 を お こ な っ た カ ン ビ ー ナ ス 農 事 試 験 場 と 一 部 の 苗 木 商 が 北 米 か ら ア ボ ガ ド の メ キ シ コ 系 グ ワ テ マ ラ 系 そ の 他 の 交 配 種 苗 木 を 5 5 種 導 入 し そ れ か ら 選 抜 さ れ た も の が 現 在 の 栽 培 種 と な っ た サ ン パ ウ ロ 州 イ タ ペ チ ニ ン ガ の 生 産 者 伊 藤 泰 蔵 は 年 自 園 か ら 果 型 が 大 型 ( 1 個 g r ) で 品 質 の 良 好 な コ リ ン ガ 種 を 選 抜 1 6 万 本 の 首 木 を 作 っ て 全 伯 に 配 付 普 及 に 努 め た 現 在 の 営 利 用 品 種 で は 最 良 と い わ れ て い る 年 コ チ ア 組 合 で は 北 米 か ら 輸 出 用 小 型 品 種 を 導 入 し て 試 験 中 で あ っ た が 最

18 近 そ の 優 良 性 が 認 め ら れ 苗 木 の 配 付 を お こ な っ て い る ま た パ ラ ナ 州 で 牧 山 親 子 に よ っ て 選 抜 さ れ た 冷 涼 地 帯 向 け の ド ゥ ラ ー ド 種 の 栽 培 が 増 加 中 で あ る 年 度 入 荷 量 2 2 k g 入 : 箱 パ イ ナ ッ プ ル ( A n a n a s c o m o s u s L i n n ) ア ナ ナ ス 科 A b a c a x i ブ ラ ジ ル 中 央 部 と 北 部 の 原 産 と い わ れ る パ イ ナ ッ プ ル は 1 6 世 紀 に は す で に ブ ラ ジ ル で 栽 培 さ れ て お り 主 な 品 種 は ブ ラ ン コ 種 と ア マ レ ー ロ 種 で あ っ た 年 サ ン パ ウ ロ 州 キ ロ ン ボ 植 民 地 在 住 の 今 井 豊 吉 は セ ッ テ バ ラ ス の 安 藤 由 蔵 が シ ン ガ ポ ー ル か ら 導 入 し た と 思 わ れ る ス ム ー ス カ イ エ ン 種 ( 缶 詰 原 料 と し て 大 栽 培 に 適 す る ト ゲ な し 種 ) の 首 を 譲 り 受 け そ れ を 増 植 し て 普 及 し た 現 在 ミ ナ ス サ ン パ ウ ロ マ ッ ト グ ロ ッ ソ 州 で は 在 来 種 に 替 り つ つ あ る 輸 出 は ほ と ん ど こ の 品 種 で そ れ を 目 的 と し た サ ン パ ウ ロ 州 バ ウ ル ー の 吉 浦 悟 小 田 順 介 な ど 日 系 農 業 者 に よ る 大 栽 培 も 多 く 最 近 の セ ラ ー ド 開 発 で の 栽 培 作 物 の 一 つ と 目 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 k g 入 : 箱 1 7 k g 入 : 箱

19 ス モ モ ( P r u n u s S a l i c i n a 日 本 種 P r u n u s d o m e s t i c a 欧 州 種 ) バ ラ 科 A m e i x a ス モ モ に は 3 つ の 系 統 が あ る 日 本 中 国 で 生 れ た 日 本 系 ス モ モ 欧 州 か ら 西 部 ア ジ ア で 生 れ た 欧 州 系 ス モ モ 北 米 大 陸 で 生 れ た 北 米 系 ス モ モ で あ る が ブ ラ ジ ル で の 栽 培 の 中 心 は 欧 州 系 ( 加 工 用 ) と 日 本 系 ( 生 食 用 ) で あ る ブ ラ ジ ル に は 早 く か ら 日 本 か ら 北 米 を 経 由 し て き た サ ン タ ロ ー ザ ケ ル シ ー パ ウ リ ス タ な ど 日 本 系 ス モ モ が あ っ た が い ず れ も 庭 先 の 果 樹 で 商 品 と し て の 経 済 性 を も た な か っ た 日 本 移 民 は そ れ か ら 選 抜 し た も の を 経 済 栽 培 の 軌 道 に 乗 せ た 現 在 の 主 要 栽 培 品 種 で あ る カ ル メ ジ ン 種 は 年 カ ン ビ ー ナ ス 農 試 で 改 良 さ れ た も の で あ る が そ の 交 配 選 抜 固 定 普 及 は 各 地 の 日 系 栽 培 者 が 委 託 さ れ て お こ な っ た 年 度 入 荷 量 7, 3 k g 入 : 箱 2 5 k g 入 : 箱 2 k g 入 : 箱 輸 入 量 1 0 k g 入 : 箱

20 カ キ ( D i o s p y r o s K a k i L i n n. F ) カ キ ノ キ 科 C a q u i カ キ の 原 産 地 は 日 本 で あ る カ キ 属 に は 約 種 あ る が そ の 大 半 は 日 本 に 存 在 し て い る ブ ラ ジ ル へ の カ キ の 導 入 は 年 頃 ペ レ イ ラ パ レ ッ ト が フ ラ ン ス か ら 初 め は 種 子 で 後 に 苗 木 で 導 入 し た と い わ れ る つ ま り 日 本 か ら フ ラ ン ス に 渡 っ た も の が ブ ラ ジ ル に 来 た わ け で あ る 品 種 は 禅 寺 丸 峰 屋 衣 紋 富 士 妙 丹 美 濃 な ど 渋 柿 で あ っ た 甘 柿 の 優 良 品 種 は 日 本 人 に よ っ て 日 本 か ら 導 入 さ れ た 年 に 松 本 年 に 吉 岡 西 岡 渡 部 ら が そ れ ぞ れ 富 有 次 郎 を 導 入 し て 普 及 し た 渋 柿 は 吉 岡 が 美 濃 会 津 身 不 知 栗 原 が 改 良 蜂 屋 平 核 無 を 導 入 し た 郷 愁 の 果 実 と も い え る カ キ の 日 本 移 民 へ の 普 及 は 早 か っ た 独 立 後 自 家 用 果 樹 と し て ま ず と り あ げ た の が カ キ で あ っ た し か し 完 熟 し た も の を す す っ て 食 べ る と い う ブ ラ ジ ル 人 の 食 習 慣 の た め カ キ と く に 甘 柿 の 経 済 栽 培 が 軌 道 に 乗 っ た の は 年 以 後 の こ と で あ る 最 近 は 甘 柿 の 消 費 が 増 加 し て 各 地 で 増 植 が 進 め ら れ て お り 少 量 で は あ る

21 が 富 有 の ヨ ー ロ ッ パ 輸 出 が 始 ま っ て い る 年 度 入 荷 量 4, 5 k g 入 : 箱 2 7 k g 入 : 箱 バ ン ジ ロ ウ ( P s i d i u m g u a j a v a L i n n ) フ ト モ モ 科 G o i a b a 原 産 地 は 南 ア メ リ カ と い わ れ る が 明 ら か で な い た し か な 記 録 で な い が 導 入 は ブ ラ ジ ル 発 見 後 と い わ れ 各 州 で 野 性 化 し た も の を 見 る こ と が で き る ブ ラ ジ ル で 生 果 用 と し て バ ン ジ ロ ウ の 経 済 栽 培 を 初 め て お こ な っ た の は イ タ ケ ー ラ の 渡 部 作 蔵 で あ る 年 開 墾 地 で み つ け た 野 生 の 古 木 を 残 し モ モ と 同 様 の 管 理 を し て 市 場 に 出 し た と こ ろ ダ ー ス 2 ミ ル ( 当 時 鶏 卵 が ダ ー ス 2 ミ ル ) で 売 れ 有 望 と い う こ と で 増 植 し 一 般 に も 奨 励 し た 野 生 の 果 物 を 栽 培 果 樹 と し て 一 般 に 広 め た 前 例 は 少 な い 現 在 リ オ 州 サ ン パ ウ ロ 州 に 生 食 用 の 栽 培 が 増 加 し 周 年 栽 培 も 技 術 的 に 成 功 し 年

22 間 を 通 し て 出 荷 が あ る リ オ 州 の 生 産 者 小 川 真 一 は 改 良 サ ン タ ア リ セ 小 川 白 色 1 号 2 号 赤 色 3 号 赤 色 の 選 抜 に 成 功 リ オ サ ン パ ウ ロ 市 場 で 人 気 を 博 し 増 植 が 進 ん で い る ま た カ ン ビ ー ナ ス の 熊 谷 兄 弟 が 熊 谷 種 ア チ バ イ ア の 森 西 が 森 西 種 を 選 抜 両 種 と も 品 質 が 良 い の で 栽 培 が 広 が っ て い る 日 系 の ミ ラ ン ド ポ リ ス 農 業 組 合 で は そ の 加 工 品 を 製 造 し て い る 年 度 入 荷 量 2 0 k g 入 : 箱 3, 7 k g 入 : 箱 パ パ イ ア ( C a r i c a P a p a y a L i n n ) パ パ イ ア 科 M a m a o パ パ イ ア は 中 央 ア メ リ カ の 原 産 で 世 界 中 の 熱 帯 亜 熱 帯 地 域 に 広 く 分 布 し て い る ブ ラ ジ ル で は 食 後 の 果 物 と し て も っ と も 一 般 的 な も の で あ る ブ ラ ジ ル で の 栽 培 歴 は 明 ら か で は な い が 北 は パ ラ ー 州 か ら 南 は パ ラ ナ 州 ま で 古 く か ら 栽 培 さ れ て お り そ の 栽 培 の 容 易 さ の た め こ れ と い っ た 改 良 種 は な い

23 年 フ ザ リ ウ ム 病 に 悩 む ピ メ ン タ ド レ イ ノ ( こ し ょ う ) に 替 る 作 物 と し て パ ラ ー 州 の 丸 岡 大 屋 山 瀬 ら は 天 理 教 東 京 大 芝 大 教 会 長 日 木 原 明 広 の 尽 力 で ハ ワ イ 大 学 農 学 部 で 改 良 さ れ た ハ ワ イ マ モ ン の 種 子 を 導 入 し て 栽 培 し た そ の あ と 台 湾 で 改 良 さ れ た タ イ ワ ン マ モ ン も 導 入 さ れ 両 種 と も 美 味 な の で 高 級 果 実 と し て サ ン パ ウ ロ リ オ な ど 大 都 市 だ け で な く 地 方 都 市 に も 消 費 が 及 び 最 近 は ヨ ー ロ ッ パ 市 場 へ の 輸 出 が 進 ん で い る 年 度 入 荷 量 在 来 種 3 4 k g 入 : 箱 ハ ワ イ 種 6 k g 入 : 箱 ペ カ ン ( C a r y a P e c a m E n g l e r e t G r a e b n e r ) ク ル ミ 科 P e c a ペ カ ン は ク ル ミ 科 で 穀 果 類 ヒ ッ コ リ ー と 呼 ば れ る 種 類 群 に 入 る ブ ラ ジ ル に は 年 ア メ リ カ 移 民 に よ っ て 導 入 さ れ た が 栽 培 は 一 般 化 し な か っ た 年 パ ラ ナ 州 ウ ラ イ の 寺 部 正 行 年 プ レ ジ デ ン テ プ ル デ ン テ の 柿 原 義 治 ら が 広 面 積 の 栽

24 培 を お こ な い ま た 年 日 本 の 賀 川 豊 彦 が ペ カ ン 苗 を も っ て 来 伯 し 多 く の 日 本 人 が 耕 地 に 数 本 づ つ 苗 を 植 え 種 子 を 蒔 い た 最 近 北 パ ラ ナ で 病 気 に 強 い 諸 川 種 1 2 が 育 成 さ れ パ ラ ナ 州 ウ ラ イ を 中 心 に 栽 培 さ れ 生 産 さ れ て い る メ ロ ン ( C u c u m i s m e l o, L ) ウ リ 科 M e l a o ブ ラ ジ ル に は ヨ ー ロ ッ パ 移 民 に よ っ て 導 入 さ れ た リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 で は 古 く か ら 栽 培 さ れ 年 ま で は ブ ラ ジ ル 最 大 の 生 産 地 で あ っ た 年 以 降 は サ ン パ ウ ロ 州 奥 地 で 栽 培 が 急 速 に 伸 び て 最 大 の 生 産 地 と な っ た が 年 に は バ イ ア 州 ベ ル ナ ン ブ ー コ 州 パ ラ ー 州 な ど 東 北 伯 に 伸 び 現 在 リ オ グ ラ ン デ ド ノ ル テ 州 が 最 大 の 生 産 地 と な っ て い る 年 サ ン パ ウ ロ 州 プ レ ジ デ シ テ ブ ル デ ン テ の 大 西 ら が コ チ ア 産 業 組 合 と 協 力 し て イ ス パ ニ ア 系 メ ロ ン の テ ン ド ラ ル ア マ レ ー ロ か ら 選 抜 採 種 し て ブ ラ ジ ル に 適 し た 系 統 を 見 つ け 出 し 年 そ れ を 品 種 と し て 固 定 し ア マ レ ー ロ C A C 種 と 名 付 け て 全 伯 に 普 及 し た 現 在 の 栽 培 品 種 は ほ と ん ど こ れ で あ り こ れ が 本 格 的 に 普 及 ( ま だ 品 種 名 が つ い て い な か っ た 年 末 か ら 有 利 品 種 と し て 普 及 し 始 め た ) し

25 た 年 以 降 は そ れ 以 前 に 欧 州 ア ル ゼ ン チ ン な ど か ら 年 間 1 2 万 箱 以 上 も あ っ た 輸 入 メ ロ ン が 皆 無 と な り そ れ ば か り で な く 最 近 の 東 北 伯 の 栽 培 の 伸 び で 輸 出 も 始 ま り 近 い 将 来 に は 世 界 的 な メ ロ ン の 大 生 産 国 と な る 可 能 性 が 非 常 に 強 い 現 在 の メ ロ ン 生 産 の 大 半 は 日 系 農 業 者 に よ る 年 度 入 荷 量 1 3 k g 入 : 箱 2 2 k g 入 : 箱 6 k g 入 : 箱 リ ン ゴ ( M a l u s p u m i l a. L ) バ ラ 科 M a c a ブ ラ ジ ル へ は 欧 州 移 民 が 種 子 で 導 入 し た も の が 多 い 初 め 南 伯 3 州 で 栽 培 さ れ た が 当 地 の 気 候 に 適 合 し た 品 種 が な く 良 好 な 結 実 が み ら れ ず 営 利 栽 培 ま で い か な か っ た た だ サ ン パ ウ ロ 州 ピ エ タ ー デ の ア ル ヴ ィ ン ブ ル ッ ク ネ ル が 実 生 選 抜 し た 暖 地 リ ン ゴ は サ ン パ ウ ロ 州 の 海 岸 山 脈 を 中 心 と し た 小 地 域 で あ る 程 度 の 営 利 栽 培 を お こ な っ て い た が 量 的 に も 質 的 に も 問 題 に な ら ず 市 場 は ア ル ゼ ン チ ン か ら の 輸 入 リ ン ゴ で 占 め ら れ て い た

26 年 サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 フ ラ イ ブ ル ゴ で 公 的 機 関 が 試 作 し た リ ン ゴ の 中 か ら ス タ ー ク リ ム ソ ン ゴ ー ル デ ン デ リ シ ャ ス が 選 ば れ サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 を 中 心 と し た パ ラ ナ 州 リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 の 標 高 m 以 上 の 高 原 地 帯 で 本 格 栽 培 が 始 ま っ た 年 日 本 の 国 際 協 力 事 業 団 か ら サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 に 派 遣 さ れ た 後 沢 憲 志 ( 農 学 博 士 ) は 6 年 間 の 技 術 指 導 の か た わ ら 日 本 か ら 導 入 し て 試 作 中 の 数 種 の リ ン ゴ の 中 か ら 中 心 品 種 と し て 富 士 を 決 定 サ ン ジ ョ ア キ ン 市 を 中 心 に コ チ ア 産 業 組 合 の り ん ご 生 産 団 地 を つ く り 約 h a に 富 士 を 植 付 け 年 に は 7 2 万 箱 以 上 の 生 産 を あ げ た こ れ ら の 成 功 に よ り ブ ラ ジ ル の リ ン ゴ 生 産 は 激 増 し そ の 消 費 量 も 増 え 年 に 3 0 万 ト ン の 生 産 量 は 年 に は 3 6 万 ト ン と な り 輸 入 量 は 年 ご と に 減 り 8 6 年 に 8 万 ト ン で あ っ た も の が 年 に 5 万 4 千 ト ン と な っ て い る な お 生 産 時 期 の 違 う 北 半 球 ( と く に ヨ ー ロ ッ パ ) へ の 輸 出 も 始 ま っ て い る 年 度 入 荷 量 2 1 k g 入 :

27 ビ ワ ( E r i o b o t r y a J a p o n i c a, L i n d l e y ) バ ラ 科 N e s p e r a ビ ワ は ブ ラ ジ ル に 古 く か ら み ら れ リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 に は 再 生 林 の 雑 木 の 中 に 大 木 と な っ た 自 然 生 え が あ る 初 期 の ポ ル ト ガ ル 船 員 が も ち 込 ん だ も の と 思 わ れ る ビ ワ は 日 本 と 中 国 が 原 産 な だ け に 営 利 栽 培 は 日 系 農 業 者 が 多 い 初 期 の 日 本 人 移 住 者 が 日 本 か ら 苗 で 持 ち 込 ん だ 茂 木 ク ス ノ キ 田 中 な ど が 初 め の 栽 培 品 種 で あ っ た が 後 に 茂 木 種 か ら 選 抜 さ れ た イ タ ケ ー ラ 早 生 が サ ン パ ウ ロ 州 に 広 く 普 及 し た 現 在 の 栽 培 品 種 の 主 な も の は 日 本 か ら 導 入 さ れ た ミ ズ ホ 種 と 大 房 種 前 者 の ほ う が 圧 倒 的 に 多 い ビ ワ は 摘 果 や 袋 か け な ど 管 理 に 人 手 を 多 く 要 す る の で 増 植 の 速 度 は に ぶ く 生 産 量 は 少 な い し た が っ て ほ と ん ど 全 部 が 高 級 果 実 と し て 取 扱 わ れ 最 近 は 少 量 で あ る が ヨ ー ロ ッ パ へ 輸 出 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 5 k g 入 : 箱

28 ナ シ ( P y r u s c o m m u n i s. L ) バ ラ 科 P e r r a ブ ラ ジ ル に は リ ン ゴ や モ モ と 同 じ よ う に 欧 州 系 の 移 民 が 持 ち 込 ん だ と 思 わ れ る 欧 州 系 の ナ シ が あ る が 良 い 結 実 を み て い な い 日 系 農 業 者 が 試 験 機 関 を 通 じ あ る い は 個 人 で 日 本 か ら 導 入 し た 品 種 の 中 で 西 洋 ナ シ の 雑 種 支 那 ナ シ ( ヤ ー リ ツ ー リ ) 西 洋 ナ シ と 東 洋 ナ シ の 交 配 種 日 本 ナ シ ( 晩 三 吉 2 0 世 紀 ) が 有 望 と さ れ て い る ま た 最 近 サ ン パ ウ ロ 向 け 栽 培 種 と し て 日 本 か ら 新 水 幸 水 が 導 入 さ れ す で に 商 業 生 産 が 始 ま り 高 級 果 実 と し て 好 評 を 得 て い る ブ ラ ジ ル の ナ シ 栽 培 は 最 近 の マ ル メ ロ の イ 矮 性 台 木 使 用 で 経 済 栽 培 へ の 始 期 が 早 ま り ま た 矮 性 で 管 理 が 容 易 に な っ た た め 急 激 に 栽 培 が 伸 び る 見 込 み で あ る か っ て の リ ン ゴ と 同 様 輸 入 量 は 現 在 万 箱 と 非 常 に 多 い の で 将 来 は 大 い に 有 望 で あ る ナ シ の 高 級 品 種 の 生 産 の ほ と ん ど を 日 系 農 業 者 が 占 め て い る 年 度 入 荷 量 1 7 k g 入 : 箱

29 モ モ ( P r u n u s p e r s i c a L. B a t s e h ) バ ラ 科 P e s s e g o モ モ の 原 産 地 は 学 名 に ペ ル シ ャ と あ る が 最 近 は 中 国 の 華 北 の 高 原 地 帯 だ と い わ れ て い る ブ ラ ジ ル に は ポ ル ト ガ ル の 初 期 移 民 が 持 ち 込 ん だ と 思 わ れ る 現 在 北 は ミ ナ ス 州 か ら 南 は リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 に わ た る 広 い 範 囲 に モ モ の 古 い 放 任 樹 が あ る が 営 利 栽 培 を お こ な っ た の は 日 系 農 業 者 が 初 め て で わ ず か 6 0 年 の 歴 史 し か も っ て な い 現 在 の 栽 培 品 種 の 多 く は 放 任 樹 を 日 系 農 業 者 が 育 成 し 淘 汰 選 抜 し た も の で あ る そ の う ち の 代 表 的 な も の は サ ン パ ウ ロ 州 イ タ ケ ー ラ の 吉 岡 兄 弟 ( 義 一 省 太 一 ) が 作 っ た ギ イ チ 種 タ イ チ 種 ロ ザ ー ダ デ イ タ ケ ー ラ 号 号 沢 部 が 関 係 し た サ ワ ベ 種 な ど で こ れ ら の 品 種 は サ ン パ ウ ロ 州 の モ モ の 4 0 % を 占 め て い る と い わ れ る た だ 栽 培 面 で は 最 近 は 日 系 農 家 の 割 合 が 減 少 し ( 約 2 0 % ) 大 部 分 は 非 日 系 の 果 樹 園 に 移 っ た 年 度 入 荷 量 2, 3 4 k g 入 : 箱 1 0 k g 入 : 箱 2 5 k g 入 : 箱

30 ポ ン カ ン ( C i t r u s r e t i c u l a t a B i a n c o ) ミ カ ン 科 P o n c a 原 産 地 は イ ン ド 北 部 で イ ン ド 中 国 南 部 台 湾 ハ ワ イ マ レ ー フ イ リ ッ ピ ン な ど に 産 す る ブ ラ ジ ル に は 日 本 人 移 民 が 日 本 か ら 導 入 し た 年 桑 原 久 次 郎 が 日 本 か ら 持 参 し た 2 本 の ポ ン カ ン 苗 を 在 来 の レ モ ン 苗 に 接 木 し て 2 本 3 本 と 増 や し た も の が そ れ と い わ れ 系 統 と し て 高 橋 系 ポ ン カ ン と 低 系 ポ ン カ ン の 二 つ が あ る 初 め は 近 隣 の 日 系 農 業 者 だ け の 栽 培 で あ っ た が サ ン パ ウ ロ 州 を 中 心 と し た ブ ラ ジ ル 人 に も 徐 々 に 普 及 し 現 在 で は ブ ラ ジ ル 人 の 大 栽 培 も あ る 年 度 入 荷 量 2 7 k g 入 : 箱 イ チ ゴ ( F r a g a r i a c h i l o e n s i s D u c h ) バ ラ 科 M o r a n g o ブ ラ ジ ル に お け る イ チ ゴ の 栽 培 歴 は 浅 く 5 0 年 に し か な ら な い 営 利 栽 培 が 本 格 的 に お こ な わ れ る よ う に な っ た の は 第 2 次 大 戦 後 で 本 多 慶 次 郎 が 在 来 種 か ら 選 抜 の ホ ン ダ 種 を 年 に 作 出 ス ザ ノ イ タ ケ ー ラ の 日 系 農 業 者 が 栽 培 し た も の が 始 め と い わ れ る

31 そ の あ と ビ ラ シ カ ー バ 農 試 な ど か ら 優 良 種 が ぞ く ぞ く 作 出 さ れ コ チ ア 産 組 南 伯 組 合 の 無 ビ ー ル ス 病 株 の 配 付 栽 培 者 の 苦 心 に よ る 高 地 育 首 高 地 栽 培 な ど の 栽 培 技 術 も 確 立 し て 栽 培 は サ ン パ ウ ロ 近 郊 は も ち ろ ん の こ と リ オ 市 ブ ラ ジ リ ア 市 ク リ チ ー バ 市 ポ ー ル ト ア レ グ レ 市 近 郊 な ど で も 盛 大 に お こ な わ れ て い る 年 度 入 荷 量 3, 2 k g 入 : 箱 イ タ リ ア ブ ド ウ ( V i t i s v i n i f e r a. L ) 巨 峰 U v a I t a l i a K Y O H O 現 在 の ブ ラ ジ ル の 生 食 用 高 級 ブ ド ウ で あ る イ タ リ ア ブ ド ウ と 巨 峰 の 生 産 に 関 し て も 日 系 農 業 者 の 力 が 大 き い イ タ リ ア ブ ド ウ は 年 フ ェ ラ ー ス デ パ ス コ ン セ イ ロ ( S. P ) の 臼 井 晋 が ル シ ア ー ノ ホ レ ン チ が イ タ リ ア か ら 導 入 し た ブ ド ウ 苗 の う ち ベ ロ バ ー ノ 6 5 号 に 着 目 し ブ ラ ジ ル で の 栽 培 法 を 確 立 し て 普 及 指 導 し た も の で あ る 現 在 で は サ ン パ ウ ロ パ ラ ナ ベ ル ナ ン ブ ッ コ バ イ ア 州 に も 普 及 し 高 級 生 食 用 ブ ド ウ と し て 確 固 た

32 る 地 位 を 占 め て い る 年 パ ラ ナ 州 バ ン デ ィ ラ ン テ の 奥 山 孝 太 郎 は 自 園 の イ タ リ ア ブ ド ウ か ら 色 つ き の 枝 変 り を 発 見 そ れ を 繁 殖 固 定 さ せ ル ビ ー オ ク ヤ マ と 命 名 し て 普 及 し た こ の 枝 変 り は イ タ リ ア ブ ド ウ と 栽 培 管 理 が 同 様 で 味 果 型 重 量 も ほ と ん ど 変 り な い が 熟 期 に 入 る と 着 色 し 完 熟 と 共 に 真 っ 赤 に な る の で 収 穫 適 期 を 誤 る こ と が な い つ ま り 早 採 り で 糖 度 の 少 な い も の を 出 荷 す る と い う こ と が な く な る の で 生 食 用 高 級 ブ ド ウ と し て の 声 価 は い よ い よ 高 ま る こ と に な る 日 本 で も 品 種 登 録 さ れ 生 産 が 増 加 し て い る 日 本 で つ く ら れ た 有 名 な 巨 峰 種 を 日 系 栽 培 者 が 日 本 か ら 導 入 し た 花 振 り や 脱 粒 の 欠 点 に 多 少 の 研 究 余 地 が あ る が 黒 紫 色 の 高 級 ブ ド ウ と し て 評 価 を 得 つ つ あ る 高 級 生 食 用 ブ ド ウ の 生 産 の 9 0 % は 日 系 農 業 者 に よ る も の で あ り ヨ ー ロ ッ パ 向 け 輸 出 も 順 調 に お こ な わ れ て い る 年 度 入 荷 量 イ タ リ ア 種 8 k g 入 : 箱 ル ビ 一 種 8 k g 入 : 箱

33 ス イ カ ( C i t r u l l u s v u l g a r i a. S C H R A D ) ウ リ 科 M e l a n c i a 原 産 は ア フ リ カ で あ る ブ ラ ジ ル に は 北 米 の 南 北 戦 争 ( ~ 6 5 ) の 後 に 移 住 し て き た ア メ リ カ 農 業 者 が 北 米 の 種 子 を も ち 込 み サ ン パ ウ ロ 州 の ア メ リ カ ー ナ で 自 家 用 に 植 え た も の が 広 ま っ た と い わ れ る 第 2 次 大 戦 後 サ ン パ ウ ロ 州 バ ス ト ス の 日 系 農 業 者 が 日 本 か ら 導 入 し た 大 丸 大 和 種 は 品 質 良 好 輸 送 性 貯 蔵 性 が 良 か っ た の で 当 時 ま で の サ ン タ バ ル バ ラ 種 ( 北 米 系 ) を 圧 倒 し 現 在 で は ほ と ん ど こ の 品 種 に な っ て い る 最 近 に な っ て 日 系 農 業 者 が 日 本 か ら 小 玉 西 瓜 の い ろ い ろ な 品 種 を 導 入 し た が そ の う ち の ニ ュ ー 小 玉 が 定 着 栽 培 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 k g ウ メ ( P r u n u s m u m e S I E B. e t Z U C C ) ブ ナ 科 A m e i x a b r a v a 中 国 と 日 本 が 原 産 地 で ブ ラ ジ ル へ は 日 本 移 民 が 携 行 し た と 考 え ら れ る が そ の 多 く

34 は 生 育 し な か っ た 台 湾 梅 は 年 こ ろ 台 湾 人 の 孫 河 福 が 梅 の 種 を と り よ せ サ ン パ ウ ロ 州 ボ ツ カ ツ で 育 成 し た も の が 始 め で あ る が 現 地 の 日 本 人 老 人 ク ラ ブ が 主 に な っ て そ れ を 増 植 し 各 地 に 苗 を 分 譲 し た 現 在 で は サ ン パ ウ ロ 近 郊 各 地 に 栽 培 が 広 ま り 梅 漬 梅 酒 の 原 料 と な っ て い る ク リ ( C a s t a n e a c r e n a t a. S I E B e t N U C C ) ブ ナ 科 C a s t a n h a 今 か ら 約 年 前 ペ レ イ ラ パ レ ッ ト が 各 種 の 温 帯 果 樹 を ヨ ー ロ ッ パ か ら 導 入 し た が そ の と き 日 本 栗 の 苗 も い っ し ょ に 導 入 し た と い わ れ る し た が っ て 日 本 移 民 が 来 伯 し た と き に は す で に ブ ラ ジ ル 南 部 の あ ち こ ち に 放 任 さ れ た 日 本 栗 が あ っ た 年 サ ン パ ウ ロ 州 イ タ ケ ー ラ の 松 本 圭 一 は 日 本 か ら 多 数 の 栗 の 品 種 を 導 入 し 自 園 あ る い は 他 園 に 依 託 し て 栽 培 試 験 を お こ な い ブ ラ ジ ル に 適 合 し た 品 種 を 選 出 し そ の 普 及 に 努 め た ブ ラ ジ ル で 有 望 と い わ れ る 栗 の 品 種 は 極 早 生 で 森 早 生 玉 造 K M - 1 早 生

35 種 で は 丹 沢 伊 吹 出 雲 大 国 中 生 種 で は 筑 波 有 麿 晩 熟 種 で は 岸 根 晩 赤 な ど が あ る ク リ は 1 2 度 C の 等 温 線 を 中 心 と し た 北 緯 3 0 度 か ら 4 5 度 の 範 囲 に 自 生 し て い た も の で あ る か ら 高 温 多 湿 の ブ ラ ジ ル で 良 栄 を 得 る に は 相 当 の 技 術 を 必 要 と す る 上 収 穫 後 の 保 存 が 限 ら れ る 栗 の 需 要 の 多 い ク リ ス マ ス 以 前 に 生 産 が な い の で 栽 培 は 一 般 化 し て い な い 2. 野 菜 類 ブ ラ ジ ル で は バ レ イ シ ョ を 雑 穀 類 と し て い る が こ の 項 に 入 れ た レ タ ス ( L a c t u c a s a t i v a L ) キ ク 科 A l f a c e レ タ ス の 品 種 は 非 常 に 多 い 原 産 地 は 小 ア ジ ア 内 郡 コ ー カ サ ス 地 帯 中 東 か ら 地 中

36 海 沿 岸 と さ れ て い る ブ ラ ジ ル で も っ と も 経 済 性 の 高 い も の は 結 球 レ タ ス の う ち の バ タ ー ヘ ッ ド 型 で あ る こ の 型 は 6 0 ~ 8 0 日 の 早 生 で 比 較 的 つ く り や す い が 輸 送 性 が な い の で 栽 培 は 都 市 近 郊 に 限 ら れ る 代 表 的 な 栽 培 品 種 は ホ ワ イ ト ボ ス ト ン で あ る が こ れ は 暑 さ と ビ ー ル ス に 弱 い カ ン ビ ー ナ ス 農 試 の 永 井 洋 は こ の ホ ワ イ ト ボ ス ト ン を 基 礎 に ビ ー ル ス に 強 い 春 か ら 夏 に か け て 栽 培 で き る ブ ラ ジ ル 4 8 種 を 作 出 し 普 及 し た レ タ ス の ほ と ん ど は 日 系 農 業 者 が 生 産 し て い る 年 度 入 荷 量 1 2 k g 入 箱. 4 k g 入 り 箱 ニ ン ニ ク ( A l l i u m S a t i v u m L ) ユ リ 科 A l h o ブ ラ ジ ル に 導 入 さ れ た の は 非 常 に 古 く 初 期 の ポ ル ト ガ ル 人 に よ る も の と 考 え ら れ す で に 植 民 地 時 代 か ら 料 理 の 重 要 な 香 辛 料 と な っ て い た ニ ン ニ ク の 繁 殖 は 種 子 に よ ら ず 栄 養 体 繁 殖 で お こ な わ れ る の で ブ ラ ジ ル に 適 合 し た 新 し い 品 種 を つ く り 出 す こ と は

37 非 常 に む ず か し い そ の た め 各 国 か ら 多 数 の 優 良 品 種 を 導 入 し 試 作 を く り 返 し て ブ ラ ジ ル の 気 候 風 土 に 適 合 し 栽 培 可 能 な も の だ け を 残 し て い く と い う 方 法 が と ら れ て き た 年 か ら 在 来 種 の 選 抜 を お こ な っ て き た サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 ラ ー モ ス 植 民 地 の 長 南 ら 生 産 者 は 長 南 種 の 作 出 に 成 功 年 末 に お こ な わ れ た 全 国 ニ ン ニ ク 共 進 会 で 最 優 秀 賞 を 獲 得 し た こ の た め 現 在 ブ ラ ジ ル の 南 部 諸 州 で の 栽 培 品 種 は 長 南 種 が 多 く な り 生 産 も 増 加 し て い る 年 度 入 荷 量 1 0 k g 入 箱 コ チ ア 組 合 入 荷 量 箱 ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 入 荷 量 箱 馬 鈴 薯. ジ ャ ガ イ モ ( S o l a n u m t u b e r o s u m. L ) ナ ス 科 B a t a t a 年 ご ろ 奥 地 の コ ー ヒ ー 農 場 か ら サ ン パ ウ ロ 近 郊 に 移 っ た 日 系 農 業 者 は 当 時 イ ス パ ニ ア ポ ル ト ガ ル 系 農 家 に よ っ て 極 め て 粗 放 的 に つ く ら れ て い た 馬 鈴 薯 の 栽 培 を と り あ げ ま ず 種 い も の 選 別 か ら は じ め よ り 生 産 性 の 高 い パ ラ ナ オ ウ ロ を 選

38 抜 し た そ の 上 施 肥 消 毒 と 当 時 と し て は 最 尖 端 を ゆ く 栽 培 法 を 確 立 し て 経 済 栽 培 の 先 鞭 を つ け た こ れ ら の 日 系 農 業 者 は 馬 鈴 薯 の 栽 培 で 近 郊 集 約 農 業 の 原 型 を つ く っ た ば か り で な く コ チ ア 組 合 南 伯 組 合 モ ジ 組 合 な ど 有 力 な 農 業 協 同 組 合 を 生 み 出 す 原 動 力 と な っ た そ の あ と 馬 鈴 薯 の 経 済 栽 培 は サ ン パ ウ ロ 近 郊 か ら ア ル タ ソ ロ カ バ ー ナ モ ジ ア ナ ブ ラ ガ ン サ 南 ミ ナ ス 南 パ ラ ナ へ と 広 が っ た ま た 南 部 の サ ン タ カ タ リ ー ナ や リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル で は 馬 鈴 薯 を 主 食 と す る 欧 州 移 民 が 導 入 さ れ た の で 早 く か ら 自 家 用 に 栽 培 さ れ て い た が 市 場 向 け 大 規 模 栽 培 者 は ほ と ん ど な か っ た な お 最 近 の 馬 鈴 薯 栽 培 は 以 前 の 投 機 的 な 栽 培 型 は 影 を ひ そ め 堅 実 な 栽 培 計 画 で 行 わ れ る よ う に な っ た ま た コ チ ア 組 合 は 最 近 馬 鈴 薯 の 半 加 工 品 の 販 売 を 開 始 し 目 下 急 速 に 消 費 が 拡 大 し つ つ あ る 年 度 入 荷 量 6 0 k g 入 コ チ ア 組 合 入 荷 量 3. 3

39 俵 ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 入 荷 量 俵 ナ ス ( S o l a n u m m e l o n g e n a. L ) ナ ス 科 B e r f n g e l a ナ ス の 栽 培 品 種 の 原 生 地 は イ ン ド と 考 え ら れ て い る ブ ラ ジ ル に は い つ 入 っ た か 明 ら か で な い が お そ ら く 中 央 ア ジ ア の ト ル コ 人 レ バ ノ ン 人 移 民 に よ っ て 導 入 さ れ た も の と 考 え ら れ て い る 初 め は 北 米 か ら 種 子 が 入 っ て い た が 在 来 種 の ほ う が 市 場 性 に あ っ た も の が 多 い の で そ れ を 基 に ビ ラ シ カ ー バ 農 大 の 生 田 博 が 一 代 雑 種 ビ ラ シ カ ー バ 4 1 号 ビ ラ シ カ ー バ 号 を つ く っ て 普 及 し た そ の ほ か 日 系 の 一 般 栽 培 者 も 選 抜 に 努 め そ れ ぞ れ の 地 域 に 合 っ た 市 場 性 の 高 い も の を 選 び 出 し て い る 有 名 な エ ン ブ 一 種 は エ ン ブ ー の 篠 原 ら が 選 抜 固 定 し た も の で あ る 最 近 は 日 本 か ら 日 本 種 を 導 入 し て 栽 培 し て い る 者 が 多 い が 小 型 細 手 も の は 日 系 人 の 消 費 だ け で ま だ 一 般 的 な 市 場 性 は 少 な い 年 度 入 荷 量 1 2 k g 入 : 箱

40 ア ー チ チ ョ ー ク ( C y n a r a s c o l y m u s. L ) キ ク 科 A I c a c h o f r a 原 産 地 は 地 中 海 沿 岸 と い わ れ て い る 初 め は 葉 だ け を 食 べ て い た が 花 を 食 べ る 現 在 の 品 種 に 変 っ た イ タ リ ア 系 移 民 が も っ て 来 た と 思 わ れ る も の が サ ン パ ウ ロ 州 サ ン ロ ッ ケ 付 近 に 古 く か ら あ っ た が そ の 栽 培 法 を 確 立 し 経 済 作 物 に し た の は 日 系 農 業 者 で こ こ 3 0 数 年 の こ と で あ る 現 在 で は 周 年 収 穫 の 技 術 も 確 立 し て 地 域 の 特 産 物 と な っ て い る 生 産 の 9 0 % は 日 系 農 業 者 の も の で あ る 年 度 入 荷 量 0, 1 k g 束 : 束 ニ ン ジ ン ( D a u c u s c a r o t a. L ) セ リ 科 C e n o u r a ニ ン ジ ン の 原 産 地 は ア フ ガ ニ ス タ ン で あ る ブ ラ ジ ル で は 第 2 次 大 戦 ま で フ ラ ン ス か ら 種 子 を 輸 入 し そ の あ と フ ラ ン ス の ナ ン テ ス 系 を 北 米 で 改 良 し た も の を 北 米 か ら 入 れ 最 近 は 北 米 種 を い れ て 栽 培 を お こ な っ て い る 年 ビ ラ シ カ ー バ 農 大 の 生 田 博 が 日 本 か ら 各 種 の ニ ン ジ ン を も っ て 来 た そ

41 の う ち の 黒 田 五 寸 は 尻 細 で あ る が 長 さ は ナ ン テ ス と 同 様 色 は よ り 優 れ て 特 に 夏 蒔 き の と き 黒 葉 枯 病 に 強 い と い う 特 徴 を も っ て い た の で 尻 の 太 い ナ ン テ ス を 目 標 に 黒 田 五 寸 の 選 抜 を 始 め や や 目 標 に 近 い 黒 田 改 良 種 を つ く っ て 普 及 さ せ た こ れ は 市 場 性 が 良 く 夏 蒔 き に は 欠 く こ と の で き な い 重 要 な 品 種 で あ る ま た パ ラ ナ 州 ロ ン ド リ ー ナ 近 郊 の 上 佐 義 雄 は ブ ラ ジ ル 在 来 種 に ナ ン テ ス 種 を 交 配 選 抜 育 成 し て 夏 期 の 端 境 期 に 出 荷 で き る ロ ン ド リ ー ナ 種 を 作 出 し て 普 及 現 在 ブ ラ ジ ル の 各 地 で 栽 培 さ れ る よ う に な っ た 年 度 入 荷 量 2 5 k g 入 : 箱 ピ ー マ ン ( C a p s i c u m a n n u u m. L ) ナ ス 科 P i m e n t a o 原 産 地 が 南 米 だ け に 在 来 種 が 多 く サ ン パ ウ ロ 州 ミ ナ ス 州 パ ラ ナ 州 で は そ の う ち の ブ ラ ジ ル に 適 し た も の を 使 い 北 伯 や リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 で は 北 米 産 の 種 子 を 使 っ て い た 年 ご ろ ス ザ ノ の 栽 培 者 の 間 で 選 抜 さ れ て で き た カ ス カ ド ウ ラ 種 は ビ ー

42 ル ス 病 に や や 強 く 豊 産 日 も ち も よ い の で サ ン パ ウ ロ パ ラ ナ ミ ナ ス の 各 州 で 広 く 使 わ れ た 年 カ ン ビ ー ナ ス の 池 田 虎 之 輔 は こ の カ ス カ ド ゥ ラ の 収 穫 末 期 に ビ ー ル ス の 害 を 受 け て い な い 株 を 選 ぶ と い う 仕 事 を 7 年 間 く り 返 し て カ ス カ ド ゥ ラ 種 よ り は る か に ビ ー ル ス に 抵 抗 力 の あ る イ ケ ダ 種 を つ く る こ と に 成 功 し た 年 コ チ ア 組 合 で 品 種 比 較 試 験 を お こ な っ た 結 果 カ ス タ ド ウ ラ は ル ビ ー キ ン グ ( 在 来 種 ) の 3 倍 の 収 量 イ ケ ダ は カ ス カ ド ゥ ラ の 3 倍 の 収 量 と い う 成 績 で あ っ た イ ケ ダ は カ ス カ ド ゥ ラ と 同 様 の 市 場 性 を も つ の で ビ ー ル ス 病 の 多 い 地 帯 で の 最 も 実 用 的 な 品 種 と な っ た ま た リ オ 州 の 渡 部 が 作 出 し た ア ー ベ ラ 種 は Y ビ ー ル ス に 非 常 に 強 く 果 は イ ケ ダ と 同 様 な の で 市 場 性 が 高 く リ オ 州 で 栽 培 が 多 い 現 在 の ブ ラ ジ ル の ピ ー マ ン は カ ス カ ド ゥ ラ イ ケ ダ ア ベ ー ラ ア グ ロ ノ ミ コ 1 0 G マ ル ガ レ ッ テ カ ン ガ レ ッ テ の 6 種 で 占 め ら れ て い る な お こ れ ら を 元 に し て 各 地 の 生 産 者 あ る い は 日 系 の 種 苗 会 社 が そ れ ぞ れ 特 長 の あ る も の を 作 出 し て 普 及 し て い る 日 系 以 外 の 農 業 者 の 大 栽 培 も ふ え た が な お ピ ー マ ン

43 生 産 の 大 半 は 日 系 農 業 者 で あ る 年 度 入 荷 量 1 2 k g 入 : 箱 パ ー ス ニ ッ フ ( A r r a c a c i a x a n t h o r r h i z a. B A N K ) セ リ 科 M a n d i o q u i n h a 原 産 は ア ン デ ス 山 脈 の 東 部 と い わ れ ブ ラ ジ ル で は 南 部 の 冷 涼 地 帯 で 栽 培 が 多 い ま だ 世 界 的 な 野 菜 に 入 ら な い が サ ン パ ウ ロ で は 重 要 な 野 菜 の 一 つ と な っ て お り 年 間 5 5 万 箱 ( 2 5 k g 入 ) は ど の 入 荷 が あ る サ ン パ ウ ロ 州 の 主 な 産 地 は ピ エ タ ー デ イ ビ ウ ナ サ ン ト ア マ 一 ロ な ど の 日 系 集 団 地 で 日 系 農 業 者 が 在 来 種 か ら 市 場 性 の 高 い も の を 選 抜 し 馬 鈴 薯 や ト マ ト の 裏 作 と し て の 有 利 な 栽 培 法 を 確 立 し た 年 度 入 荷 量 2 5 k g 入 : 箱 キ ュ ウ リ ( C u c u m i s s a t i v u s. L ) ウ リ 科 P e p i n o 原 産 地 は イ ン ド の ヒ マ ラ ヤ 山 麓 地 帯 と い わ れ て い る キ ュ ウ リ の 導 入 は 古 く 明 ら か で な い が ブ ラ ジ ル に は 欧 州 系 移 民 が も ち 込 ん だ も の と 思 わ れ る

44 現 在 市 場 の 大 半 を 占 め る 青 大 種 は ( ブ ラ ジ ル 人 も ア オ ダ イ と い う ) 年 代 に 移 民 が 日 本 か ら 持 ち こ ん だ も の で あ る 長 年 の 採 種 の く り 返 し で 日 本 の 青 大 種 と は 異 な っ た も の に な っ て い る が 市 場 性 が 高 い の で 現 在 も な お 栽 培 者 産 組 試 験 場 の 間 で 選 抜 採 種 が お こ な わ れ 有 望 な 青 大 の 新 種 が ぞ く ぞ く 発 表 さ れ て い る こ の 品 種 な し で は ブ ラ ジ ル の キ ュ ウ リ は 語 る こ と は で き な い 年 代 か ら あ と 日 系 農 業 者 が 日 本 か ら い ろ い ろ な キ ュ ウ リ の 品 種 を 導 入 し て い る が こ れ ら も ブ ラ ジ ル 人 の 間 に 徐 々 に 浸 透 し て 人 気 を 拍 し つ つ あ る 年 度 入 荷 量 2 4 k g 入 : 箱 ト マ ト ( L y c o p e r s i c u m e s c u l e n t u m. M I I L ) ナ ス 科 T o m a t e ペ ル ー を 中 心 と し た ア ン デ ス 山 脈 の 中 腹 に 野 生 種 が あ る の で こ の 地 帯 が 原 産 地 と 考 え ら れ て い る し た が っ て 中 南 米 で の 栽 培 の 歴 史 は 古 く 栽 培 種 は 紀 元 前 の イ ン デ ィ ア ン の 移 住 に よ っ て 中 米 や メ キ シ コ そ の 他 に 伝 え ら れ た と 想 像 さ れ る

45 ブ ラ ジ ル で は サ ン パ ウ ロ 州 に イ タ リ ア 移 民 が ふ え て 今 世 紀 初 め 頃 か ら ト マ ト の 生 産 と 消 費 が 増 え た そ の こ ろ 小 資 本 で 独 立 し た 日 本 移 民 が 営 農 の 中 に ト マ ト 栽 培 を と り 入 れ 近 代 的 な 栽 培 法 を お こ な っ た こ と と リ オ サ ン パ ウ ロ な ど の 大 都 市 の 人 口 膨 張 に よ る 消 費 の 増 大 と が 相 ま っ て 生 産 は 年 ご と に 増 大 し た と く に サ ン パ ウ ロ を 中 心 に イ タ リ ア 系 住 民 の 多 い こ と が ト マ ト を 多 く 使 用 す る イ タ リ ア 料 理 の 普 及 と と も に ト マ ト の 消 費 増 大 に つ な が っ た ト マ ト は 他 の 作 物 に 比 べ て や や 栽 培 が む ず か し く 生 産 費 も 多 く か か る が 収 益 も 大 き い の で 日 系 農 業 者 は 好 ん で 営 農 に と り 入 れ そ れ ぞ れ の 地 域 で 有 利 性 を 高 め る た め 品 種 の 選 抜 を 積 極 的 に お こ な っ た 約 6 0 年 前 ト マ ト の 経 済 栽 培 が 始 ま っ た こ ろ の 品 種 は イ タ リ ア 系 在 来 種 の レ イ ウ ン ベ ル ト を は じ め シ ャ カ レ イ ロ カ ン ピ ネ イ ロ で い ず れ も 果 型 が 小 さ く 品 質 も 悪 か っ た 当 時 ス ザ ノ の 花 城 が レ イ ウ ン ベ ル ト と シ ャ カ レ イ ロ を 栽 培 中 に こ 両 種 の 自 然 交 配 か ら 両 品 種 の 長 所 を 合 わ せ も っ た も の を 発 見 し て こ れ

46 を 育 成 採 種 し た 年 コ チ ア 組 合 は リ オ 州 サ ン タ ク ル ー ス 植 民 地 に 入 植 し た 1 0 数 家 族 の 組 合 員 に こ の 種 子 を 送 り 集 団 的 に 栽 培 出 荷 さ せ た と こ ろ リ オ 市 場 で 品 質 が 良 好 と い う 声 価 を 得 て 市 場 の 仲 買 人 に ト マ ト サ ン タ ク ル ー ス と 呼 ば れ る よ う に な り そ れ が 今 日 に 引 継 が れ て サ ン タ ク ル ー ス 種 と な っ た そ の あ と 現 在 に 至 る ま で 各 地 の 熱 心 な 生 産 者 産 業 組 合 種 子 業 者 ら が こ の サ ン タ ク ル ー ス か ら 選 抜 採 種 し て い る も の が 多 く 有 名 な も の だ け で 2 0 数 品 種 に 及 ぶ そ の う ち 日 系 人 の 関 与 し た も の を 列 挙 す る C A C - A 種 と C A C - B 種 は コ チ ア 組 合 で 選 抜 採 種 ス ー ル ブ ラ ジ ル 種 は 南 伯 組 合 で 選 抜 採 種 ピ エ ダ ー デ ジ カ ン テ 種 は ピ エ ダ ー デ の ド ラ ジ ン ニ ョ 区 の 生 産 者 が 選 抜 採 種 サ マ ノ 種 は イ ビ ウ ー ナ の サ マ ノ が 選 抜 採 種 コ バ ヤ シ 種 は サ マ ノ 種 か ら リ ベ ロ ン プ レ ッ ト の 小 林 が 採 種 モ ン マ 種 は サ ン ト ア マ 一 ロ の 門 馬 が 選 抜 採 種 カ ダ 種 は ピ エ タ ー デ の ド ラ ジ ン ニ ョ 区 の 生 産 者 が 選 抜 採 種 サ ン タ エ リ ー ザ 種 と ア ン ジ ェ ラ 種 は カ ン ビ ー ナ ス 農 試 の 永 井 が 選 抜 採 種 ミ ゲ ー ル ペ

47 レ イ ラ 種 と サ ン ト ア ン ト ニ オ 種 L 4 種 は リ オ 州 ミ ゲ ー ル ペ レ イ ラ の 渡 辺 が 選 抜 育 成 ヨ コ タ 種 は ピ ラ ー ル ド ス ー ル の 横 田 が 選 抜 採 種 オ オ サ ワ 種 は イ ン ダ イ ア ツ ー バ の 大 沢 が 選 抜 採 種 他 に サ ラ ダ 専 用 と し て ト マ テ カ キ と い わ れ る 大 型 の 平 た い グ ル ー プ が あ る こ れ に は 前 出 の カ ン ピ ー ナ ス 農 試 の 永 井 リ オ 州 ミ ゲ ー ル ペ レ イ ラ の 渡 辺 が 在 来 種 に 北 米 や 日 本 か ら の 導 入 種 を 交 配 し て ブ ラ ジ ル に 適 応 し た も の を 選 抜 し た も の が あ る 最 近 サ ン カ ル ロ ス の 大 石 は 北 米 種 か ら 選 別 し て 尻 腐 れ に 強 い 大 石 種 を 作 出 し た ト マ ト は ブ ラ ジ ル で は 量 金 額 と も 最 重 要 の 野 菜 で そ の 栽 培 の 8 0 % は 日 系 農 業 者 と み ら れ て い る 年 度 入 荷 量 2 5 k g 入 : 箱 ト マ ト カ キ 2 4 k g 入 : 箱 サ ヤ イ ン ゲ ン 豆 ( P h a s e o l u s v u l g a r i s. L ) マ メ 科 F e i j a o V a g e m

48 原 産 地 は メ キ シ コ 南 部 か ら 中 央 ア メ リ カ に か け て で あ る ブ ラ ジ ル で の 栽 培 歴 は 明 ら か で は な い が 欧 米 か ら も ち 込 ま れ た 栽 培 種 を ブ ラ ジ ル で 採 種 し ブ ラ ジ ル の 名 が つ け ら れ た と 思 わ れ る 現 在 の ブ ラ ジ ル の 栽 培 種 は 莢 の 平 た い マ ン テ ィ ガ 種 と 莢 の 丸 い マ カ ロ ン 種 で あ る が コ チ ア の 日 系 農 業 者 は そ の 中 間 の リ オ コ チ ア 種 を 選 抜 市 場 で 好 評 を 博 し て い る ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 は ス ー ル ブ ラ ジ ル カ ン ピ ネ イ ロ を 作 出 日 系 採 種 業 者 の ア グ ロ フ ロ ー ラ は ナ モ ラ ー ダ 種 と セ ニ ヨ リ ッ タ 種 を 作 出 し て 大 い に 普 及 し て い る そ の ほ か ト ッ パ ン 種 イ タ チ ー バ 種 ブ ラ ジ リ ア 種 な ど 各 地 で 地 域 に 適 合 し た 品 種 が 育 成 さ れ 栽 培 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 1 9 k g 入 : 箱 オ ク ラ ( H i b i s c u s e s c u l e n t u s. L ) ア オ イ 科 Q u i a b o オ ク ラ の 原 産 地 は 東 北 ア フ リ カ と い わ れ ブ ラ ジ ル に は 奴 隷 が も ち こ ん だ も の と 思 わ れ る が そ の 時 期 は 明 ら か で な い

49 年 リ オ 州 ビ ラ ネ マ の 国 沢 寿 春 は サ ン パ ウ ロ 州 奥 地 か ら 在 来 種 の 白 オ ク ラ を 導 入 し 試 作 2 年 の あ と 経 済 栽 培 に 移 っ た が 白 オ ク ラ は 収 量 が 少 な く 市 場 性 も 悪 か っ た の で そ の 欠 点 改 良 に 努 め 年 に 自 園 で 1 本 の 節 間 の 短 か い ( つ ま り 収 量 が 多 い ) 果 型 の 良 い 緑 色 オ ク ラ を 発 見 し た そ れ か ら 大 事 に 採 種 し 3 年 か か っ て 選 抜 固 定 さ せ キ ア ー ボ ビ ラ ネ マ と 命 名 し て 一 般 に 普 及 し た こ の 品 種 は 果 型 果 色 も 味 も よ く 収 量 も 多 い の で 現 在 の ブ ラ ジ ル の オ ク ラ の 代 表 的 品 種 と な っ て い る 他 に リ オ 農 大 の ス ド シ ノ ブ が 育 成 し た サ ン タ ク ル ス 4 7 号 と カ ン ビ ー ナ ス 農 試 が 育 成 し た カ ン ビ ー ナ ス 2 号 が 有 名 で あ る 年 度 入 荷 量 1 6 k g 入 : 箱 日 本 カ ボ チ ャ (Cucurbita moschata.duch)ウリ 科 AboboraJapone sa ブ ラ ジ ル で カ ボ チ ャ と し て 栽 培 し て き た も の は 西 洋 カ ボ チ ャ ( m a x i m a ) に 類 す る も の と ぺ ポ カ ボ チ ャ ( p e p o ) に 類 す る も の で あ っ た 年 代 に 入 っ て 日

50 系 農 業 者 が 日 本 か ら 日 本 カ ボ チ ャ の 鉄 カ ブ ト や エ ビ ス 種 を 導 入 し て 栽 培 を 始 め て い た が 最 近 は 一 般 食 用 の ほ か ス ー プ 用 あ る い は 菓 子 の 原 料 と し て の 需 要 が 多 く な り ブ ラ ジ ル 農 業 者 の 間 に も 増 植 が 進 め ら れ て い る サ ン パ ウ ロ 市 場 で は 日 本 カ ボ チ ャ を ア ポ ー ボ ラ ジ ャ ボ ネ ー ザ あ る い は ア ボ ー ポ ラ ホ ッ カ イ ド ウ と い う 名 で 取 扱 っ て い る 年 度 入 荷 量 3 5 k g 入 : 箱 k g 売 り : k g キ ャ ベ ツ ( B r a s s i c a o l e r a c e a. L ) ア ブ ラ ナ 科 R e p o l h o 原 産 地 は 地 中 海 沿 岸 地 方 と い わ れ る ブ ラ ジ ル へ の 導 入 時 期 は 明 ら か で な い が サ ン パ ウ ロ 州 で は 欧 州 系 移 民 が 古 く か ら 栽 培 し て い た と い う 現 在 世 界 の キ ャ ベ ツ の 品 種 は 多 く 種 近 く も あ る と い う ブ ラ ジ ル で で き た 品 種 は 導 入 種 が 馴 化 し た サ バ ウ ー ナ ( 別 名 ロ ッ コ 種 ) と 日 本 種 を 交 配 し た 一 代 雑 種 だ け で 他 は す べ て 輸 入 種 で あ る

51 年 ご ろ サ ン パ ウ ロ 州 モ ジ ダ ス ク ル ー ゼ ス の イ ス パ ニ ア 系 農 業 者 が と り 残 し た キ ャ ベ ツ が 大 霜 で 偶 然 に も 抽 台 結 実 し て い る の を 発 見 し た 彼 は こ の 種 子 を 蒔 い て そ の 中 か ら 低 温 要 求 度 の 低 い 毎 年 採 種 で き る も の を 選 抜 し 固 定 し た こ の 品 種 は 抽 台 し な い も の が 抽 台 し た と い う こ と で 気 狂 い ( ロ ッ コ ) 種 と 名 づ け ら れ た が 後 に 地 名 の サ バ ウ ー ナ 種 と 改 名 さ れ た 年 代 に 入 っ て 日 系 農 業 者 は 日 本 か ら キ ャ ベ ツ の い ろ い ろ な 品 種 を 導 入 し 試 作 し て ブ ラ ジ ル の 気 候 に 合 っ た も の を 栽 培 種 と し た 日 本 キ ャ ベ ツ は ロ ッ コ 種 に 比 べ 耐 病 性 は や や 劣 る が 味 が 非 常 に 良 い の で わ ず か 3 ~ 4 年 の 間 に ロ ッ コ 種 に 代 わ る 代 表 的 な 栽 培 品 種 と な っ た ビ ラ シ カ ー バ 農 大 の 生 田 博 は 日 本 種 の 耐 病 性 が 劣 る と い う 欠 点 を 除 く た め ロ ッ コ 種 を 交 配 し て 耐 病 性 の あ る 一 代 雑 種 を つ く っ た こ の 品 種 は 年 か ら 一 般 に 配 付 さ れ た 現 在 の 栽 培 種 は 夏 ま き 理 想 四 季 ど り 晩 抽 理 想 松 風 葉 深 な ど す べ て が 日 本 種 で 日 本 か ら 種 子 を 輸 入 し て 栽 培 し て い る 味 の 良 さ が 短 い 期 間 で ブ ラ ジ ル 人

52 の 味 覚 を 変 え 在 来 品 種 を 駆 逐 し た 一 つ の 実 例 で あ り 栽 培 も 日 系 農 業 者 に 多 い 年 度 入 荷 量 3 5 k g 入 : 俵 ハ ナ ヤ サ イ (Brassica oleracea.l)アブラナ 科 Couve Flor 原 産 地 は 地 中 海 沿 岸 と い わ れ る ブ ラ ジ ル へ の 渡 来 は 明 ら か で は な い が リ オ サ ン パ ウ ロ パ ラ ナ リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル の 各 州 の 山 脈 に 接 し た 比 較 的 涼 し い 多 雨 地 帯 で 広 く 栽 培 さ れ 重 要 な 野 菜 の 一 つ と な っ て い る 花 芽 の 集 合 部 分 ( 花 球 ) を 利 用 す る こ の 作 物 は 花 芽 の 分 化 を 起 す 温 度 感 応 の 差 に よ り 品 種 の 早 晩 性 が 強 く 表 わ れ る し た が っ て 栽 培 地 域 に 適 合 し た 品 種 を 得 る た め の 選 抜 育 成 が 古 く か ら お こ な わ れ 在 来 種 輸 入 種 か ら の 選 抜 種 が 多 い リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 の 山 口 と 中 村 は リ オ グ ラ ン デ 種 を サ ン パ ウ ロ 州 の 安 楽 は 安 楽 種 を つ く っ た が こ れ ら は 早 生 と ご く 早 生 の 端 境 期 を ね ら っ た も の で あ る 最 近 サ ン パ ウ ロ 州 ジ ヤ ラ グ ア の 宮 井 は 花 揃 い が よ く 高 温 に 敏 感 で な い つ ま り 暑 い 時 期 に も つ く り や す い 宮 井 種 を 発 表 し た い ず れ も 主 要 栽 培 品 種 の 一 つ と

53 な っ て い る 他 に 各 農 事 試 験 場 日 系 採 種 業 者 の 手 に な っ た 有 名 品 種 が 普 及 し 各 地 で 栽 培 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 1 2 k g 入 : 箱 ハ ク サ イ (Brassica pekinensis RUPR)アプラナ 科 AcelgaJa p o n e s a 中 国 の 原 産 で あ る ハ ク サ イ は 古 く か ら 日 本 に 伝 わ り 日 本 人 と な じ み の 深 い 高 菜 で あ る ブ ラ ジ ル に は 日 系 農 業 者 が 導 入 し ブ ラ ジ ル の 日 系 人 を 対 象 に つ く り 始 め た が 最 近 は ハ ク サ イ の 微 妙 な う ま さ を ブ ラ ジ ル 人 が 知 り は じ め サ ラ ダ ス ー プ 用 と し て 需 要 が 多 く な り ご く 最 近 は 日 系 人 よ り ブ ラ ジ ル 人 の 方 が 多 く 消 費 す る よ う に な っ た 主 な 栽 培 種 は 日 本 か ら 輸 入 の 耐 病 4 0 日 で 栽 培 の 大 半 は 日 系 農 業 者 で あ る 年 度 入 荷 量 2 7 k g 入 : 箱 タ マ ネ ギ ( A l l i u m c e p a. L ) ユ リ 科 C e b o l a

54 タ マ ネ ギ の 原 産 地 は 中 央 ア ジ ア と い わ れ て い る ブ ラ ジ ル に は ヨ ー ロ ッ パ 移 民 に よ っ て リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 に 導 入 さ れ そ の あ と 南 部 諸 州 に 現 在 は さ ら に 北 上 し て ベ ル ナ ン ブ ッ コ 州 に ま で 栽 培 が 広 が っ て い る 栽 培 地 域 も 広 く 品 種 も 多 く 気 象 条 件 も 違 う の で 一 概 に は い え な い が タ マ ネ ギ は 一 般 に 粗 放 栽 培 が 多 く 単 位 面 積 当 り の 収 量 は 他 の 主 要 生 産 国 に 比 べ る と 半 分 以 下 と な っ て い る し か し 日 系 栽 培 者 の 場 合 は 潅 水 消 毒 施 肥 を 積 極 的 に お こ な い ブ ラ ジ ル の 平 均 収 量 の 3 ~ 4 倍 の 単 位 収 量 を あ げ て い る の が 通 例 で あ る 最 近 は そ の 管 理 技 術 が 次 第 に 周 囲 に 普 及 し 全 体 的 な 生 産 が 向 上 し つ つ あ る 年 度 入 荷 量 2 0 k g 入 : 俵 コ チ ア 組 合 入 荷 量 : 俵 ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 入 荷 量 : 俵 シ ョ ウ ガ ( Zingiber officinale Roscoe)ショウガ 科 Gengibre 原 産 地 は 熱 帯 ア ジ ア で ブ ラ ジ ル に は 1 7 世 紀 に オ ラ ン ダ 人 が も ち 込 み 当 時 は ブ ラ

55 ジ ル と オ ラ ン ダ 両 国 の 交 易 上 重 要 な 産 物 で あ っ た と い わ れ る 現 在 サ ン パ ウ ロ 州 が 主 産 地 で 年 間 ト ン ほ ど の 生 産 が あ る が ほ と ん ど が 欧 米 に 輸 出 さ れ 貴 重 な 外 貨 を 稼 い で い る 現 在 の 栽 培 品 種 は 大 型 種 が 多 く オ タ フ タ タ カ ハ シ オ ウ シ ョ ウ ガ イ ン ド シ ョ ウ ガ な ど 大 部 分 は 日 本 か ら 導 入 し た も の で あ る 最 近 は セ ラ ー ド で も 栽 培 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 1 6 k g 入 : 箱 葉 付 シ ョ ウ ガ 0, 7 5 k g 入 : 束 長 ネ ギ ( A l l i u m f i s t u l o s u m L ) ユ リ 科 C e b o l i n h a ブ ラ ジ ル で は 細 ネ ギ が 肉 の 味 付 け に 多 く 使 わ れ て い る が 最 近 は 普 通 食 に も 使 わ れ は じ め 需 要 が 増 え て い る 栽 培 に は ほ と ん ど 日 本 か ら の 導 入 品 種 が 使 わ れ て い る 年 度 入 荷 量 0, 6 k g 束 : 束

56 サ ト イ モ ( C o l o c a s i a e s c l e n t a E N G L ) サ ト イ モ 科 I n h a m e ス ー プ 用 に 最 近 は 需 要 が 多 い し た が っ て 価 格 は 安 定 し て い る 日 本 か ら 導 入 し た 土 垂 石 川 早 生 黒 軸 な ど が 評 判 が よ い 年 度 入 荷 量 2 2 k g 入 : 箱 ダ イ コ ン ( R e p h a n u s s a t i v u s. L ) ア プ ラ ナ 科 R a b a n o 最 近 ブ ラ ジ ル 人 の 間 に サ ラ ダ と し て の 需 要 が 増 え て い る 品 種 は 日 本 か ら 導 入 の 美 濃 早 生 交 配 夏 美 濃 早 生 1 ~ 3 号 が 多 く 栽 培 さ れ て い る 年 度 入 荷 量 束 3, 8 k g : 束 ゴ ボ ウ ( A r c t i u m l a p p a. L ) キ ク 科 B a r d a n a 野 生 種 は 欧 州 シ ベ リ ア 中 国 に あ り 欧 州 の 一 部 で ゴ ボ ウ の 若 い 時 の 葉 と 根 を 食 用 に す る と こ ろ も あ る と い わ れ る が 根 菜 と し て 重 要 な 野 菜 と な っ て い る の は 日 本 だ け で あ る ブ ラ ジ ル に は 日 本 人 が も ち 込 み 日 本 人 の 郷 愁 の 食 物 と な っ て い た が 最 近 は

57 ブ ラ ジ ル 人 が 日 本 料 理 店 あ る い は 近 隣 親 戚 の 日 系 人 ( 子 弟 の 結 婚 に よ る ) 家 庭 で そ の 味 を 覚 え ゴ ボ ウ と 名 ざ し で 買 う も の が 増 え て き た し か し ブ ラ ジ ル 人 の 一 般 的 な 食 料 と は ま だ 言 え な い 年 度 入 荷 量 束 1 k g : 束 エ ン ド ウ 豆 ( P i s u m s a t i v u m. D. C ) マ メ 科 E r v i l h a 中 央 ア ジ ア か ら 地 中 海 沿 岸 を 原 産 地 と し 南 欧 州 で 栽 培 種 と な っ た だ け に ブ ラ ジ ル に は 南 欧 系 移 民 が も ち 込 ん だ も の と 思 わ れ る 年 の 末 サ ン パ ウ ロ 州 イ タ ペ チ ニ ン ガ の 大 川 は 欧 州 か ら 導 入 の 赤 花 大 莢 系 を 選 抜 淘 汰 し て さ ら に 大 莢 で 早 生 の 大 川 種 を つ く っ た コ チ ア 組 合 は そ の 優 秀 性 を 認 め 大 川 に 採 種 を 依 頼 し 組 合 員 へ の 普 及 に 努 め た の で 現 在 の 生 産 の 大 部 分 は こ の 品 種 年 ご ろ ピ ラ ー ル ド ス ー ル の 村 松 は 晩 生 の 村 松 種 を つ く り ご く 最 近 に は モ ジ ダ ス ク ル ー ゼ ス の 鶴 賀 が 大 川 種 か ら 選 抜 し て さ ら に 有 望 な ツ ル ガ

58 種 を つ く っ て 普 及 し て い る 年 代 に 入 り 上 記 の サ ヤ エ ン ド ウ の 他 に 加 工 用 粒 エ ン ド ウ の 生 産 が セ ラ ー ド 農 業 者 に よ っ て 始 め て 可 能 と な っ た エ ン ド ウ の 生 産 は す べ て 日 系 農 業 者 に よ る 年 度 入 荷 量 1 2 k g 入 : 箱 3 0 k g 入 : 箱 タ ケ ノ コ (Phyllobstachys.SP)イネ 科 Broto de bambu ブ ラ ジ ル に は 蓬 莱 竹 に 属 す と 思 わ れ る 地 下 茎 の ご く 少 な い あ る い は 全 く な い 株 立 ち の 竹 が 多 く あ る が そ の タ ケ ノ コ は あ く が 強 く 食 用 と し て は 適 当 で な い ブ ラ ジ ル で 食 用 に さ れ て い る タ ケ ノ コ は す べ て 日 本 人 が 日 本 か ら も ち 込 ん だ 日 本 竹 の も の で あ る 年 サ ン パ ウ ロ 州 コ チ ア 郡 の 下 元 亮 太 郎 と 矢 野 政 美 は 日 本 か ら 孟 宗 竹 真 竹 ハ チ ク を 導 入 し 繁 殖 し て 普 及 し た タ ケ ノ コ も ゴ ボ ウ と 同 様 初 め は 日 系 人 だ け の 食 物 で あ っ た が 最 近 は ブ ラ ジ ル 人 が サ ラ ダ の 一 つ と し て 好 ん で 食 べ る パ ル ミ ッ ト ( ヤ シ の 新 芽 ) と タ ケ ノ コ の 味 が よ く 似 て い る の で パ ル ミ ッ ト の 替 り と し て の 需 要

59 が 増 え て い る 年 度 入 荷 量 2 3 k g 入 : 箱 3. 繊 維 作 物 ラ ミ ー ( B o e h m e r i a n i v e a. G A U D I C H ) イ ラ ク サ 科 R a m i 今 世 紀 の 初 め に サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 で 牛 の 飼 料 用 と し て 試 作 さ れ て い た ま た 年 に 中 国 系 品 種 が 導 入 さ れ て サ ン パ ウ ロ 州 サ ル ト グ ラ ン デ で 栽 培 さ れ た と い わ れ て い る が ラ ミ ー の 本 格 的 な 栽 培 加 工 普 及 は 日 本 人 が お こ な っ た 年 コ チ ア 組 合 の 村 上 誠 基 が 日 本 の 宮 崎 農 試 か ら 取 寄 せ た 品 種 を 改 良 し て 村 上 種 を 作 出 サ ン パ ウ ロ 州 内 に 広 め た ま た 同 年 に 松 井 丙 吉 ( 海 外 興 業 職 員 ) は マ レ ー 産 の も の と い わ れ る ラ ミ ー 苗 を も ち 込 ん で 海 輿 の ア ニ ュ ー マ ス 農 場 と パ ラ ナ 州 ウ ラ イ で 試 植 し た こ の 苗 は 台 湾 太 茎 白 色 皮 で 試 根 の 結 果 は 良 好 だ っ た さ っ そ く 日 本 か ら 脱 皮 機 を と り 寄 せ 本 格 的 栽 培 に 移 っ た の は 翌 年 で あ っ た

60 年 東 京 麻 糸 株 式 会 社 は パ ラ ナ 州 ウ ラ イ に h a の 土 地 を 購 入 2 名 の 指 導 員 を 派 遣 し て ラ ミ ー 栽 培 に 当 ら せ た し か し 脱 皮 機 に 欠 陥 が あ る な ど で ラ ミ ー の 生 産 が 軌 道 に 乗 っ た の は 第 2 次 声 戦 後 で あ っ た 年 海 興 関 係 者 に よ る ブ ラ ジ ル ラ ミ ー 会 社 ( C I B R A M ) の 加 工 設 備 が で き つ い で 年 ウ ラ イ に ラ ミ ー 王 と 呼 ば れ る 市 村 の 加 工 場 が つ く ら れ 栽 培 か ら 加 工 ま で 一 貫 し て 日 系 人 が お こ な う こ と に な っ た そ の 後 化 学 繊 維 の 出 現 で 多 少 の 浮 き 沈 み は あ っ た が 現 在 は 再 び 天 然 繊 維 の 盛 況 期 に 至 っ て い る 現 在 主 産 地 の ウ ラ イ に ご く 近 い ロ ン ド リ ー ナ に 東 洋 繊 維 が 工 場 を 建 設 し て い る 製 品 は ほ と ん ど 輸 出 で あ る イ グ サ ( J u n c u s e f f u s u s ) イ グ サ 科 J u n c o 年 サ ン パ ウ ロ 州 レ ジ ス ト ロ の 吉 村 茂 は 日 本 か ら 移 住 す る 時 に 岡 山 か ら 数 株 の イ グ サ を も ち 込 み 自 園 の 低 湿 地 に 移 植 し た そ の う ち の 一 株 が た び 重 な る リ ベ イ ラ 河 の 氾 濫 に 耐 え て 繁 茂 し た の で そ れ を 増 植 し た 日 本 で は イ グ サ は 年 1 回 の 刈 取 り 収 穫 し か で き な い が レ ジ ス ト ロ で は 3 回 の 収 穫 が 可 能 で あ っ た の で 年 海

61 外 興 業 株 式 会 社 の 斡 旋 で 日 本 か ら ム シ ロ 編 機 を 導 入 し て 本 格 的 栽 培 に 移 っ た 初 め は イ グ サ で つ く っ た ゴ ザ 手 芸 品 な ど は コ チ ア 組 合 で 販 売 し た の で 生 産 は 年 ご と に 上 昇 し た が 年 に 至 っ て ゴ ザ 類 は 工 業 製 品 と み な さ れ コ チ ア 組 合 で は 取 扱 う こ と が で き な く な っ た そ こ で 年 1 1 月 イ グ サ 生 産 者 3 0 家 族 は 独 自 の 組 合 を つ く り 生 産 か ら 加 工 販 売 ま で を お こ な い 地 域 の 特 産 物 と し て の 地 位 を 確 保 し 現 在 に 至 っ て い る 生 産 者 は す べ て 日 系 農 業 者 で あ る ジ ュ ー ト ( C o r c h o r u s C a p s u l a r i s. L ) シ ナ ノ キ 科 J u t a 原 産 地 は 中 国 南 部 と い わ れ 栽 培 は イ ン ド パ キ ス タ ン な ど で 古 く か ら お こ な わ れ て い た が 当 時 は イ ン ド が 英 領 で あ っ た の で 英 国 が 独 占 の 形 で 世 界 に 供 給 し て い た 年 か ら 3 0 年 に か け て ブ ラ ジ ル は 農 業 国 で あ り な が ら コ ー ヒ ー を 筆 頭 と す る 多 く の 農 産 物 の 包 装 袋 の 原 料 で あ る ジ ュ ー ト を イ ン ド か ら 高 額 で 毎 年 輸 入 し て い た 当 時 の ブ ラ ジ ル 政 府 は こ の 事 態 を 重 視 し 国 産 化 を 考 え 関 係 者 は ア マ ゾ ン で の ジ ュ ー

62 ト 生 産 を 日 本 人 移 民 に 期 待 し た 辻 小 太 郎 ( 当 時 神 戸 高 商 講 師 ) は ア マ ゾ ン 一 帯 の 視 察 の 途 次 立 寄 っ た サ ン パ ウ ロ 州 農 務 局 か ら イ ン ド 産 と 思 わ れ る ジ ュ ー ト 種 子 を 2 k g わ け て も ら い ア マ ゾ ン で の 最 初 の 試 作 を お こ な っ た 年 マ ナ ウ ス で の こ と で あ る そ の あ と 上 塚 司 の 指 導 と 後 援 で 移 住 し て い た 日 本 高 等 拓 殖 学 校 の 卒 業 生 を は じ め 多 く の 人 た ち の 手 で 2 度 3 度 と 試 植 さ れ た が 結 果 は 4 ~ 5 m に 伸 び る も の が そ の 3 分 の 1 に も 満 た ず 極 め て 不 良 だ っ た た め 栽 培 者 の ほ と ん ど が 失 望 し ジ ュ ー ト 栽 培 を 断 念 し て し ま っ た と こ ろ が 年 に 5 2 才 で ア マ ゾ ン に 入 植 し た 尾 山 良 太 は 暮 れ の 1 2 月 2 0 日 に 自 園 の 生 育 不 良 の ジ ュ ー ト の 中 か ら 突 然 異 変 と も 思 わ れ る 2 本 の ジ ュ ー ト を 発 見 し そ の う ち の 1 本 か ら 辛 う じ て 1 0 粒 の 採 種 に 成 功 そ の 種 子 の 増 殖 を 計 り 年 4 月 か ら 繊 維 の 調 整 を 始 め 初 め て k g の ア マ ゾ ン 産 ジ ュ ー ト が 世 に 送 り 出 さ れ た こ れ が 後 に オ ヤ マ 種 と 名 づ け ら れ た そ の こ ろ ブ ラ ジ ル の ジ ュ ー ト の 輸 入 量 は 年 に 2 万 4 千 ト ン 3 6 年 に 2 万

63 7 千 ト ン 3 7 年 に 3 万 4 千 ト ン 金 額 に し て 5 6 万 5 千 ポ ン ド の 巨 額 に 達 し て い た が こ の ジ ュ ー ト オ ヤ マ 種 が 普 及 し て か ら は 輸 入 が 年 を 迫 っ て 減 少 し ジ ュ ー ト は 当 時 の 州 経 済 の 3 0 % を 担 う ほ ど に な っ て い る こ の オ ヤ マ 種 は ~ 6 6 年 の 間 に 政 府 機 関 の 手 に よ っ て 改 良 さ れ 年 に 7 千 ト ン に 下 っ た 生 産 量 が 6 5 年 に は 6 万 ト ン 以 上 に な っ た な お こ こ 2 0 年 ほ ど 前 ま で は 日 系 農 業 者 が ジ ュ ー ト の 直 接 の 栽 培 者 で あ っ た が 最 近 は ブ ラ ジ ル 人 が 直 接 の 栽 培 を お こ な い 日 系 人 は そ の 雇 主 あ る い は ジ ュ ー ト の 仲 買 人 と な っ て い る も の が 多 い 4. 花 卉 庭 園 樹 花 卉 類 ブ ラ ジ ル で 花 が 経 済 栽 培 で き る よ う に な っ た の は 今 か ら 3 5 年 ほ ど 前 か ら で あ る か ら そ の 歴 史 は ご く 短 か い そ れ 以 前 は 移 住 者 が 携 行 し た そ れ ぞ れ の 国 の 種 子 は 庭 先

64 に 植 え ら れ て 郷 愁 の 花 と し て 眺 め ら れ て い た に 過 ぎ な い 年 サ ン パ ウ ロ 州 ス ザ ノ の 石 橋 初 雄 は オ ラ ン ダ か ら グ ラ ジ オ ラ ス の 優 良 種 を 導 入 5 年 間 の 試 作 で ブ ラ ジ ル の 適 応 品 種 を 選 抜 し そ れ を 繁 殖 し て 普 及 し た 年 サ ン パ ウ ロ 州 ア ナ ハ イ チ の 松 岡 春 寿 は ウ ル グ ァ イ か ら シ ム 系 の カ ー ネ ー シ ョ ン と ブ ラ ジ ル に な か っ た 菊 の 品 種 を 導 入 し て 繁 殖 し 2 年 目 か ら 花 つ く り を 志 す 青 年 た ち に 苗 を 分 譲 す る と と も に そ の 栽 培 技 術 を も 指 導 し た 年 前 出 の 石 橋 は ア ル ゼ ン チ ン か ら 菊 と カ ー ネ ー シ ョ ン 年 に は 日 本 か ら バ ラ ツ ツ ジ ツ バ キ 松 杉 な ど 多 数 の 品 種 を 導 入 ブ ラ ジ ル に 適 し た 優 良 品 種 を 選 ん で 繁 殖 し 普 及 し た 年 代 の 末 に 石 橋 松 岡 ら 先 覚 者 の 技 術 指 導 を 受 け た 青 年 た ち か ら 更 に 幾 何 級 数 的 に 増 加 し た 日 系 花 作 り は 約 家 族 を 数 え 現 在 で は ブ ラ ジ ル 花 卉 産 業 を 担 う 中 核 と な り そ の う ち の 相 当 数 の も の は 輸 出 を も 狙 っ た 花 卉 栽 培 を 大 が か り に お こ な っ て い る 前 記 し た よ う に こ こ 3 5 年 ほ ど 前 は ブ ラ ジ ル の 花 の 栽 培 種 は 先 覚 者 が 苦 労 し て 外

65 国 か ら 導 入 し 繁 殖 し た も の で あ っ た が 最 近 は ブ ラ ジ ル 経 済 の 発 展 と 共 に 花 の 需 要 は 急 激 に 増 え 更 に 外 国 か ら の 導 入 も 容 易 に な っ た の で 日 系 と オ ラ ン ダ 系 栽 培 者 は 機 会 あ る ご と に 日 本 や ア メ リ カ ヨ ー ロ ッ パ な ど か ら 有 望 な 品 種 を 導 入 し て 栽 培 し て お り 国 内 ば か り で な く 輸 出 を 専 門 と す る 栽 培 者 も 増 え て い る 庭 園 樹 数 多 く の 庭 園 樹 が ブ ラ ジ ル に 導 入 さ れ て い る が そ の 導 入 の 経 緯 の 明 ら か で な い も の が 多 い 日 本 移 民 が 移 住 の 際 に 種 子 あ る い は 苗 を 持 ち 込 ん だ も の が 相 当 あ っ た と 想 像 さ れ る が そ の ほ か 植 物 園 な ど 公 的 機 関 が 日 本 か ら 直 接 あ る い は 北 米 や ヨ ー ロ ッ パ を 経 由 し て 導 入 し た も の も 多 い よ う で あ る 年 サ ン パ ウ ロ 州 ス ザ ノ の 花 卉 庭 木 栽 培 者 の 石 橋 初 雄 は 日 本 か ら 庭 園 用 と し て バ ラ ツ ツ ジ ツ バ キ 山 吹 な ど の 花 木 や 松 杉 イ チ ョ ウ 楓 ナ ン テ ン ヒ バ 八 手 竹 な ど の 庭 木 を 導 入 そ れ を 育 苗 し て 同 業 者 に 分 譲 し 更 に 全 伯 に 普 及 さ せ た ち な み に 石 橋 が 年 に 分 譲 し た 苗 木 は 4 0 万 本 に の ぼ っ た と い う

66 最 近 は 日 本 庭 園 に 関 心 を も つ ブ ラ ジ ル 人 が 増 え 庭 園 樹 の 需 要 も 徐 々 に 増 え て い る が 更 に 高 速 道 路 や 発 電 所 の 築 堤 な ど の 保 護 林 兼 鑑 賞 樹 と し て の 需 要 も 増 え 生 産 が 間 に 合 わ な い ほ ど の よ う だ 5. 香 辛 嗜 好 作 物 コ シ ョ ウ (Piper nigrum.l)コショウ 科 Pimenta do Reino 原 産 地 は 西 イ ン ド と い わ れ 1 2 世 紀 か ら ア ラ ブ 商 人 を 通 じ て ヨ ー ロ ッ パ に 知 ら れ て い る ブ ラ ジ ル に は 1 7 世 紀 に な っ て 導 入 さ れ た が 品 種 が 劣 っ て い た こ と と 栽 培 技 術 が 確 立 さ れ て い な か っ た こ と で 大 規 模 栽 培 に は 至 ら な か っ た そ の コ シ ョ ウ の 優 良 品 種 を 導 入 し 栽 培 技 術 を 確 立 し て 経 済 栽 培 の 軌 道 に 乗 せ た の は 日 本 人 移 民 で あ る 年 日 本 で 設 立 し た 南 米 拓 殖 会 社 は 翌 2 9 年 に 現 地 代 行 機 関 の コ ン パ ニ ヤ ニ ッ ポ ニ カ デ プ ラ ン タ ソ ン ド ブ ラ ジ ル を パ ラ ー 州 ベ レ ン に 設 け ア カ ラ 植

67 民 地 ( 後 の ト メ ア ス ー 植 民 地 ) の 開 設 に 乗 り 出 し 同 年 9 月 に 入 植 し た 第 1 回 移 民 に カ カ オ を 主 作 と し 米 コ シ ョ ウ そ の 他 を 補 助 作 物 に し た 営 農 を 指 導 し た こ の 時 の コ シ ョ ウ は ブ ラ ジ ル 在 来 種 で 実 の 成 り が 少 な く 経 済 性 は な か っ た 年 8 月 ハ ワ イ 丸 の 輸 送 監 督 臼 井 牧 之 助 ( 南 拓 社 員 ) は ブ ラ ジ ル へ の 途 次 シ ン ガ ポ ー ル の 植 物 園 で 2 0 本 の コ シ ョ ウ 苗 を 購 入 船 内 で そ れ を 育 成 ア カ ラ 植 民 地 の ア サ イ ザ ー ル 試 験 場 に 植 え た 年 4 月 経 営 不 振 の 南 米 拓 殖 株 式 会 社 は 業 務 縮 小 を 決 定 し 8 回 以 降 の 移 民 に は カ カ オ 栽 培 に 当 ら せ た が す べ て 徒 労 に 終 り カ カ オ 直 営 農 場 の 閉 鎖 ア サ イ ザ ー ル 試 験 場 の 廃 止 モ ン テ ア レ グ レ 植 民 地 カ ス タ ニ ヤ ー ル 農 場 の 閉 鎖 な ど を 実 行 し た こ の 時 ア サ イ ザ ー ル 試 験 場 の 閉 鎖 業 務 に 従 事 し て い た 尾 花 福 太 郎 は 試 験 場 の 片 す み に す く す く 伸 び て い る 3 本 の コ シ ョ ウ の 若 木 を 見 つ け た 臼 井 敏 之 助 が シ ン ガ ポ ー ル か ら も っ て 来 た 東 洋 の コ シ ョ ウ で あ っ た そ れ を 居 合 わ せ た 加 藤 友 治 と 斉 藤 円 治 ( 南 拓 閉 鎖 後 試 験 場 を 買 い 取 っ た ) に 一 本 づ つ 分 け た 加 藤 と 斉 藤 は 入 植 以 来 適 性 作 物 を 発 見 す る た め 自 国 で い ろ い ろ な 植 物 を 試 験 栽 培 を お こ な っ て い た の で 喜 ん で も ち 帰 り 早

68 速 植 え て み た こ の あ と こ れ を 徐 々 に 増 や し て 日 本 人 農 家 に 配 付 し た 年 8 月 第 2 次 世 界 大 戦 が 終 る と と も に ブ ラ ジ ル の コ シ ョ ウ が 値 上 り を は じ め 4 5 年 に k g 3 0 ク ル ゼ イ ロ で あ っ た も の が 翌 4 6 年 に は 8 5 ク ル ゼ イ ロ に 高 騰 し た こ れ は コ シ ョ ウ の 主 要 産 地 で あ る イ ン ド イ ン ド ネ シ ア マ レ ー シ ア が 戦 火 に 荒 さ れ た か ら で あ る こ の 当 時 前 出 の 加 藤 友 治 斉 藤 円 治 の 育 成 し た 東 洋 コ シ ョ ウ は 約 本 に 増 え て い た コ シ ョ ウ の 高 騰 に 刺 激 さ れ た 入 植 者 は 在 来 種 コ シ ョ ウ の 手 入 れ を お こ な う と と も に 加 藤 斉 藤 か ら 東 洋 の コ シ ョ ウ 苗 を 譲 り 受 け て 新 植 し た 年 ア カ ラ 産 業 組 合 の 決 算 で コ シ ョ ウ の 売 上 高 が 前 年 の 7 倍 増 と な り 植 民 地 の 全 員 が コ シ ョ ウ を 主 作 と す る こ と を 決 め 加 藤 斉 藤 が 熱 心 に そ れ を 指 導 し た 年 ア カ ラ 産 業 組 合 は ト メ ア ス 一 産 業 組 合 と し て 正 式 に 認 可 さ れ 植 民 地 名 も ト メ ア ス ー 植 民 地 と 改 め た 年 コ シ ョ ウ は 組 合 の 販 売 高 の 1 位 と な り

69 サ ン パ ウ ロ に 販 売 所 を 設 け た こ の 年 か ら コ シ ョ ウ の 値 は 徐 々 に 上 り は じ め 年 と 高 騰 し ア マ ゾ ン の 黒 ダ イ ヤ と い わ れ た コ シ ョ ウ ブ ー ム が 起 っ た こ の と き の ト メ ア ス ー 植 民 地 の コ シ ョ ウ 栽 植 本 数 は 3 3 万 2 千 本 に 達 し て い た ( 現 地 で は コ シ ョ ウ シ ン ガ プ ー ラ 種 と 呼 ん で い た ) 年 東 南 ア ジ ア の コ シ ョ ウ 栽 培 の 回 復 と と も に 徐 々 に 値 下 り 徴 候 を み せ 5 5 年 に k g ク ル ゼ イ ロ で あ っ た も の が 5 6 年 に は 年 に は 原 価 を 割 る 3 4 ク ル ゼ イ ロ と 下 落 し 大 不 況 と な っ た こ の 不 況 も 年 に は 一 段 落 し 徐 々 に 値 段 が 回 復 ト メ ア ス ー の コ シ ョ ウ 生 産 も ト ン を 越 え ア ル ゼ ン チ ン 北 米 英 国 に 輸 出 す る な ど 好 況 が 6 0 年 末 ま で 続 い た 年 代 に 入 っ て ト メ ア ス ー は ま た も や 苦 境 に 追 い こ ま れ た 数 年 前 か ら 発 生 し 始 め た コ シ ョ ウ の 病 害 ( フ ザ リ ウ ム 菌 と ウ イ ル ス 病 ) が あ っ と い う 間 に 第 1 第 2 ト メ ア ス ー 植 民 地 の 全 域 に 広 が り 生 産 が 急 落 し た か ら で あ る 最 盛 期 の ~ 7 0 年 ご ろ は 組 合 員 が 人 を 越 え コ シ ョ ウ の 生 産 も ト ン に 達 し て い た が そ の 直 後 に 組 合 員 は 名 と な り 生 産 も ト ン を 下 回 り 年 に

70 は ト ン と い う み じ め な 状 況 に な っ た コ シ ョ ウ の 病 害 に と り つ か れ た 組 合 員 が そ の 後 に と っ た 対 応 策 は 3 つ あ っ た 1 つ は 病 害 地 帯 の ト メ ア ス ー か ら の 離 村 で あ り 比 較 的 富 裕 な も の が 主 と し て サ ン タ レ ン ( パ ラ 州 第 2 の 都 市 ) 周 辺 に 転 住 し て 新 た に コ シ ョ ウ 栽 培 を 始 め る そ の 第 2 は 植 民 地 に 残 り 病 害 対 策 と し て 廃 コ シ ョ ウ 園 を 利 用 し た 経 営 の 多 角 化 路 線 で あ る 4 ~ 5 年 で コ シ ョ ウ の 病 害 が 出 る の で 苗 を 植 え 込 む と 同 時 に メ ロ ン パ パ イ ア マ ラ ク ジ ャ ( パ ッ シ ョ ン フ ル ー ツ ) マ ン ジ ョ カ な ど 短 期 換 金 作 物 を 植 え 経 営 を 多 角 化 し ょ う と す る も の で す で に ハ ワ イ 種 マ モ ン は 主 要 作 物 の 一 つ と な っ て い る 第 3 の 対 応 策 は 組 合 の 集 団 の 力 を 結 集 し て 新 植 民 地 を 建 設 し よ う と い う も の で あ る す で に こ の 計 画 は 具 体 化 さ れ ア イ ウ ウ ス 一 区 に 約 1 1 万 h a の 払 い 下 げ を 受 け て い る 日 本 か ら こ の 病 害 退 治 の た め 派 遣 さ れ た 一 戸 稔 博 士 ( 農 林 省 農 林 技 術 研 究 所 線 虫 研 究 室 長 ) の 研 究 に よ れ ば コ シ ョ ウ の 病 害 根 ぐ さ れ 病 は 根 こ ぶ 線 虫 が 高 密 度 に 寄 生

71 す る こ と に 強 く 関 連 す る 病 気 だ と い い こ れ に は 熱 帯 特 有 の 気 象 土 壌 生 物 条 件 を 総 合 し た 根 本 的 な 対 策 が 必 要 で あ る と い う 年 末 現 在 の 組 合 員 の 永 年 作 物 植 付 本 数 を つ ぎ の よ う に ト メ ア ス 一 組 合 で は 発 表 し て い る そ れ に よ る と 多 角 営 農 化 は め ざ ま し く 進 ん で い る が な お コ シ ョ ウ は 主 作 物 と な っ て い る コ シ ョ ウ = 本 ゴ ム = 本 カ カ オ = 本 デ ン デ = 本 タ ッ プ ア ス ー = 本 グ ァ ラ ナ = 本 コ ー ヒ ー = 本 カ ジ ュ = 本 マ ラ ク ジ ャ = 本 マ モ ン = 本 リ モ ン = 本 グ ラ ビ オ ー ラ = 本 コ コ ヤ シ = 本 カ ス タ ー ニ ア = 本 マ ン ゴ ス チ ン = 本 ア サ イ = 本 コ シ ョ ウ は 現 在 病 害 地 を 遠 く 離 れ た バ イ ア 州 エ ス ピ リ ッ ト サ ン ト 州 で も 栽 培 が 始 ま っ て い る 年 の ブ ラ ジ ル 全 体 の 生 産 量 は ト ン で あ る が そ

72 の 9 0 % は パ ラ ー 州 の 生 産 で ト ン ブ ラ ジ ル の 輸 出 量 は ト ン 金 額 に し て ド ル と な っ て い る 茶 ( T h e a S i n e n s i s. L ) ツ バ キ 科 C h a 年 中 国 か ら 茶 を 導 入 し リ オ の 王 室 植 物 園 に 植 え ら れ た も の が ブ ラ ジ ル の 茶 栽 培 の 始 め と い わ れ の ち に 中 国 か ら 移 民 を 入 れ て そ の 加 工 も お こ な っ た こ こ で 採 取 さ れ た 種 子 が ミ ナ ス リ オ サ ン パ ウ ロ の 諸 州 に 普 及 し て 栽 培 が 増 え 1 9 世 紀 半 ば に は す で に 1 0 数 ト ン の 茶 が ヨ ー ロ ッ パ へ 送 ら れ た と い う 1 9 世 紀 後 半 に は サ ン パ ウ ロ 市 内 で も か な り 栽 培 が あ り 近 郊 の ア ナ バ イ ア カ ン ピ ー ナ ス サ ン ロ ッ ケ も 産 地 と な り ミ ナ ス 州 の オ ウ ロ プ レ ッ ト と 競 い 合 っ て い た し か し コ ー ヒ ー 栽 培 の 拡 大 で ブ ラ ジ ル の 茶 栽 培 は わ ず か の 間 に 衰 退 し た 年 各 地 に 茶 が 野 生 化 し て 残 っ て い た サ ン パ ウ ロ 州 ス ザ ノ の 萩 原 喜 作 の 妻 が 野 生 化 し た 茶 の 実 を と っ て 植 え た の が 日 本 人 が 茶 を 手 が け た 始 め と い う そ の あ と 揮 旗 深 志 も モ ジ で 茶 の 栽 培 を お こ な っ た こ の 茶 は シ ナ 茶 ( T h e a s i n e n s

73 i s ) で あ っ た 年 に サ ン パ ウ ロ 州 レ ジ ス ト ロ に 入 植 し た 岡 本 寅 蔵 は 年 ご ろ シ ナ 茶 の 種 子 を サ ン パ ウ ロ で 入 手 し レ ジ ス ト ロ に 栽 植 し た 当 時 の 消 費 は 日 本 人 を 対 象 に し て い た た め 緑 茶 で そ の 量 は ご く 僅 か で あ っ た 年 代 終 り の 岡 本 茶 工 場 と 茶 園

74 年 代 に 入 っ て ブ ラ ジ ル 人 の 需 要 に 応 じ て 紅 茶 の 製 造 を 始 め た が シ ナ 種 か ら は 良 質 の も の が ど う し て も 得 ら れ な か っ た そ こ で 年 岡 本 は 墓 参 に 日 本 へ 行 っ た 帰 り セ イ ロ ン に 立 寄 り リ ブ ト ン の 製 茶 工 場 を 見 学 や っ と の 思 い で ア ッ サ ム 茶 の 種 子 粒 を 入 手 そ れ を 船 内 で 発 芽 さ せ て 6 5 本 の 首 木 を と っ た こ れ が レ ジ ス ト ロ の 茶 の 親 と な り 国 内 需 要 を 賄 い 外 貨 獲 得 の 重 要 な 輸 出 産 物 の 一 つ と な っ た こ こ で 製 茶 に つ い て 概 観 す る と 岡 本 寅 蔵 が シ ナ 茶 を 栽 培 し そ れ が 緑 茶 と し て 売 り 出 さ れ た の は 年 ご ろ で あ っ た 翌 3 1 年 レ ジ ス ト ロ 地 方 と し て は ご く ま れ で あ っ た 降 霜 に 見 舞 わ れ コ ー ヒ ー 樹 が 被 害 を 受 け 茶 の 造 成 に 転 向 す る 日 系 農 業 者 が 続 出 し た 年 岡 本 の 持 ち 帰 っ た セ イ ロ ン 茶 が 普 及 し て か ら 栽 培 者 が 一 層 増 え た さ ら に 第 2 次 大 戦 中 に は ア ジ ア か ら の 茶 の 輸 入 が 無 く な っ た ヨ ー ロ ッ パ か ら の 茶 の 注 文 が 増 え レ ジ ス ト ロ に 群 小 の 製 茶 工 場 が 乱 立 し 多 い と き は 4 2 工 場 を 数 え る に 至 っ た こ れ が 大 戦 終 結 と と も に そ の 劣 悪 不 統 一 な 品 質 の た め 国 内 国 外 市 場 を 失 な い た ち ま ち 経 営 困 難 に 陥 り 大 半 は 脱 落 し た

75 年 コ チ ア 組 合 は 組 合 員 の 茶 の 品 質 の 統 一 を 図 る た め 共 同 茶 精 選 所 を 設 置 し た 年 レ ジ ス ト ロ の 山 本 周 作 は 北 米 の S t a n d a r d B r a n d 社 と 提 携 し て 年 産 ト ン の 本 格 的 工 場 を 設 置 コ チ ア 組 合 も ほ ぼ 同 じ 規 模 の 中 央 工 場 を 設 立 し た 両 者 と も イ ン ド セ イ ロ ン 東 ア フ リ カ な ど 世 界 市 場 の 代 表 的 な 生 産 地 に 人 を 派 遣 し て 調 査 を お こ な い オ ラ ン ダ 日 本 か ら 専 門 技 師 を 招 き 英 国 か ら 製 茶 機 械 を 輸 入 す る な ど そ の 近 代 化 に 努 め て 海 外 市 場 へ の 道 を 開 い た 多 く の 曲 折 は あ っ た が レ ジ ス ト ロ 地 区 の 日 系 人 に よ る 茶 生 産 は ブ ラ ジ ル の 日 系 人 の 独 占 産 業 の 一 つ と し て 健 全 な 発 展 を つ づ け 年 で 産 出 量 ト ン に 達 し そ の ほ ぼ 全 量 が 輸 出 さ れ て い る 年 度 コ チ ア 組 合 入 荷 量 : k g グ ワ ラ ナ ( Paullinia cupana.hbk)ムクロジ 科 Guarana

76 ア マ ゾ ナ ス 州 マ ウ エ ス 地 方 が 原 産 地 で ア マ ゾ ニ ア 一 帯 に 野 生 が 多 く 採 取 は ほ と ん ど そ れ か ら お こ な わ れ て い た グ ワ ラ ナ の 利 用 価 値 が 知 ら れ る よ う に な っ た の は 1 9 世 紀 初 め フ ラ ン ス へ 入 っ た と き か ら と い わ れ る コ シ ョ ウ の 項 で 説 明 し た よ う に 年 代 に 入 っ て コ シ ョ ウ が 根 腐 れ 病 で 不 振 と な っ て 以 来 グ ワ ラ ナ が に わ か に 注 目 さ れ 栽 培 を 手 が け る 日 系 農 業 者 が 増 え て き た 年 上 野 ア ン ト ニ オ 鳥 毛 栄 之 助 お よ び 日 系 開 発 会 社 の 三 者 は マ ナ ウ ス か ら 約 3 0 k m の 地 点 で h a に 1 5 万 本 の グ ワ ラ ナ を 植 付 け 本 格 栽 培 を お こ な っ て い る こ の よ う な グ ワ ラ ナ の 大 栽 培 が お こ な わ れ る よ う に な っ た の は 最 近 の こ と で あ る そ れ は グ ワ ラ ナ の 発 芽 能 力 が 低 い 育 苗 期 間 が 長 い 原 産 地 マ ウ ェ ス 地 方 以 外 は 栽 培 が 困 難 と い っ た こ と で 生 産 増 強 が で き な か っ た も の を 現 地 の 公 的 試 験 期 間 が そ の 欠 点 を 解 決 す る 挿 木 繁 殖 に よ る 育 苗 捜 術 を 確 立 し て 優 良 母 樹 の 選 抜 を 可 能 と す る 画 期 的 な 技 術 を 生 み 出 し そ の 上 大 手 清 涼 飲 料 会 社 の 参 入 例 え ば ア ン タ ル チ カ 社 の マ ウ エ ス 郡 へ の 直 営 農 場 の 設 置 コ カ コ ー ラ 社 の 大 量 買 付 け ま た 日 本 北 米 西 ド イ ツ の

77 需 要 な ど 好 条 件 が か さ な っ た か ら で あ る ブ ラ ジ ル の グ ワ ラ ナ の 生 産 量 は 年 に ト ン で あ っ た も の が 年 に は ト ン と 年 を 追 う ご と に 増 え て い る が 国 内 の 需 要 も 増 え 生 産 量 の わ ず か 1 0 % ほ ど し か 輸 出 に ま わ さ れ て い な い 6. 雑 穀 作 物 ダ イ ズ ( G l y c i n e M a x. L ) マ メ 科 S o j a ダ イ ズ は 外 貨 獲 得 の 花 形 と し て ま た セ ラ ー ド 開 発 の 主 要 作 物 の 一 つ と し て 最 近 華 々 し く 登 場 し た が ブ ラ ジ ル へ の 導 入 歴 は 古 い F J ベ ル ネ ッ チ の ブ ラ ジ ル の 大 豆 の 歴 史 に よ れ ば 年 グ ス タ ー ボ ド ゥ ト ラ は 家 畜 の 牧 草 用 と し て バ イ ア 州 に 最 初 の 大 豆 を 導 入 し た 年 カ ン ピ ー ナ ス 農 試 は グ ス タ ー ボ の 導 入 し た 大 豆 を と り よ せ 稲 科 牧 草 と の 混 植 試 験 を お こ な っ た

78 ま た こ れ と は 別 に リ オ グ ラ ン デ ド ス ー ル 州 で 北 欧 移 民 が 今 世 紀 初 め か ら 栽 培 を 試 み て い る こ の あ と に 登 場 す る の が 日 本 人 移 民 が 行 李 の 底 に ひ そ め て も っ て 来 た 大 豆 で あ る こ の 大 豆 は 小 面 積 に 植 え ら れ 味 噌 や 納 豆 豆 腐 に な っ て 初 期 移 民 の 郷 愁 を い や し た ば か り で な く 後 に こ の 種 子 は カ ン ピ ー ナ ス 農 試 で の 大 豆 改 良 に 使 用 さ れ た こ の 当 時 の 大 豆 は 主 と し て 家 畜 の 牧 草 用 と し て 栽 培 さ れ て い た が 年 代 に 入 っ て こ れ が 抽 料 作 物 家 畜 の タ ン パ ク 飼 料 作 物 と し て 世 界 に 認 め ら れ ブ ラ ジ ル 南 部 諸 州 の 経 済 栽 培 が 急 速 に 拡 大 し た そ の あ と カ ン ピ ー ナ ス 試 験 場 マ メ 科 植 物 研 究 員 宮 坂 四 郎 は 多 く の 優 良 品 種 を 育 成 し て 州 別 に 適 合 す る 指 定 品 種 を 作 出 し た の で 年 代 に 入 っ て か ら は ミ ナ ス ゴ ヤ ス マ ッ ト グ ロ ッ ソ 州 な ど の セ ラ ー ド 地 帯 に も 大 豆 栽 培 が 拡 大 さ れ 現 在 の 盛 況 に 至 っ て い る な お ブ ラ ジ ル と 関 係 の 深 い 石 川 島 造 船 の 土 光 社 長 は ブ ラ ジ ル 農 業 に お け る 大 豆 の 重 要 性 に 着 目 研 究 費 を 負 担 し 現 在 セ ラ ー ド で 広 く 栽 培 し て い る ド コ ー 種 が 生 れ

79 た 年 の ブ ラ ジ ル の 大 豆 生 産 量 は 万 ト ン で 世 界 第 2 位 で あ る コ メ ( O k y z a s a t i v a L ) イ ネ 科 A r r o z 米 の 栽 培 に 関 し て は 初 期 移 民 が コ ー ヒ ー 農 園 を 出 て す ぐ サ ン パ ウ ロ と ミ ナ ス の 州 境 に あ る グ ラ ン デ 川 沿 岸 で 米 作 を お こ な っ た と の 記 録 が あ る 水 田 耕 作 に つ い て は 古 く は レ ジ ス ト ロ 植 民 地 と 鐘 ヶ 江 久 之 助 前 田 常 左 工 門 な ど 数 多 く の 日 本 人 移 民 が 各 地 で 適 性 品 種 を 選 ん で 大 規 模 に お こ な っ て き た が た だ 日 本 人 農 家 に よ る 水 田 は 現 在 も ほ ぼ 日 本 米 に 限 ら れ て い る ソ バ (Fagopyrum Sagittatum GILIB)タデ 科 Trigo Sarraceno ブ ラ ジ ル に は 欧 州 か ら 導 入 さ れ 南 部 3 州 で 古 く か ら 栽 培 さ れ て い た 日 本 人 が 日 本 か ら も ち 込 ん だ 種 子 は ソ バ 粉 を 対 象 に 初 め は 自 家 消 費 用 と し て 小 規 模 に 栽 培 さ れ て い た が の ち に 精 麹 所 へ の 販 売 第 2 次 大 戦 後 は 日 本 へ の 輸 出 と 栽 培 は 徐 々 に 伸 び て

80 き た コ ー ヒ ー そ の 他 サ ン パ ウ ロ 州 カ ン ビ ー ナ ス の 東 山 農 場 支 配 人 で あ っ た 山 本 喜 誉 司 は 年 か ら 4 0 年 に か け て コ ー ヒ ー の 害 虫 で あ る ブ ロ ッ カ を 退 治 す る た め 天 敵 の ウ ガ ン ダ 蜂 を 導 入 し て 高 い 効 果 を あ げ た 後 に そ の 研 究 論 文 で 農 学 博 士 号 を 受 け た し か し こ の 駆 除 法 は 大 規 模 栽 培 の コ ー ヒ ー 園 で は 技 術 的 に む ず か し か っ た の か あ ま り 利 用 さ れ て い な い そ の ほ か ブ ラ ジ ル の 伝 統 的 作 物 で あ る コ メ 綿 落 花 生 ト ウ モ ロ コ シ サ ト ウ キ ビ ハ ッ カ な ど の 品 種 改 良 栽 培 方 法 の 決 定 な ど は ほ と ん ど 政 府 の 公 的 試 験 機 関 が お こ な っ て き た が 日 系 移 住 者 は 単 位 収 量 の 増 大 な ど 実 際 栽 培 面 で 大 き な 貢 献 を な し て き た

81 7. 新 し い 作 物 こ の 項 で は ご く 最 近 日 系 移 住 者 が 公 的 機 関 や 専 門 業 社 あ る い は 日 本 か ら 直 接 種 苗 を 導 入 し ま た ブ ラ ジ ル 自 生 の も の に 手 を 加 え て 種 苗 を と り 経 済 栽 培 に 移 し た 新 し い 作 物 と 現 在 試 験 栽 培 中 の 作 物 を と り あ げ た ア セ ロ ー ラ ( M a l p i g h i a g l a b r a ) キ ン ト ラ ノ オ 科 A c e r o l l a 原 産 地 は 明 ら か で な い が 一 般 に 中 米 の カ リ ブ 海 に 浮 ぶ 西 イ ン ド 諸 島 と い わ れ て い る 一 見 サ ク ラ ン ボ ウ に 似 た 赤 い 果 実 で あ る が そ の ビ タ ミ ン C の 含 有 量 は ど の 果 物 よ り も 多 く 果 汁 g 中 m g と い わ れ レ モ ン の そ れ の 3 0 培 以 上 と い わ れ て い る ブ ラ ジ ル に は 年 ベ ル ナ ン ブ ッ コ 農 大 教 授 の マ リ ア セ レ ー ネ が プ ェ ル ト リ コ か ら 帰 国 の 際 種 子 を 携 え て 来 た も の が 初 め と い わ れ る ブ ラ ジ ル で ア セ ロ ー ラ の 経

82 済 栽 培 に 成 功 し て い る の は パ ラ ー 州 カ ス タ ニ ヤ ー ル 地 区 で あ る こ れ は 同 地 域 の 下 前 原 輝 男 が ア マ ゾ ニ ア 熱 帯 農 業 総 合 試 験 場 ( I M A T A M ) か ら 首 を 導 入 し 増 植 し た も の で あ る 現 在 日 本 の 日 冷 が ジ ュ ー ス そ の 他 の 加 工 を 引 受 け す で に 3 ~ 4 年 前 か ら 日 本 に 輸 出 し 日 本 で は ア セ ロ ラ ド リ ン ク の 名 称 で 一 般 に 売 出 し 大 ヒ ッ ト し た 現 在 で は 1 0 社 以 上 が ア セ ロ ー ラ の 製 品 化 を お こ な っ て い る ア セ ロ ー ラ は ト メ ア ス 一 地 区 で も 栽 培 が 始 ま っ て い る 同 地 区 に は ジ ュ ー ス 加 工 場 が あ る の で こ れ か ら 大 き く 伸 び る と 考 え ら れ る ク プ ア ス ー ( T n e o b r a m a g r a n d e f l o r ) ア オ ギ 科 C u p u a G d カ カ オ と 同 属 で あ る が 最 大 の 花 を も ち 花 榎 の 長 さ 約 5 c m の 暗 赤 色 果 長 c m 果 径 1 0 ~ 1 5 c m の 楕 円 錐 状 で 重 さ 1-2 転 2 0 個 ほ ど の 種 子 の ま わ り に 果 肉 が ま と ま り つ い て い る 果 肉 は ジ ュ ー ス 種 子 か ら は 白 チ ョ コ レ ー ト が 作 ら れ る

83 現 在 の ク プ ア ス ー の 最 大 の 栽 培 地 は パ ラ ー 州 の ト メ ア ス ー 植 民 地 で あ る 主 作 の コ シ ョ ウ の 病 害 で 同 植 民 地 は 1 0 年 ほ ど 前 か ら 作 物 の 多 角 か を 進 め て き た が そ の 重 要 作 物 の 一 つ と し て ク プ ア ス ー が と り 上 げ ら れ 年 末 現 在 本 の 植 付 け が 終 っ て い る ク プ ア ス ー は コ シ ョ ウ と 同 時 に 植 付 け 4 ~ 5 年 で コ シ ョ ウ が 病 害 で タ メ に な っ た あ と 定 植 4 年 目 か ら 結 実 す る ク プ ア ス ー を 収 穫 す る 8 9 年 の 加 工 製 品 生 産 量 は 6 0 ト ン の 予 定 同 植 民 地 の ク プ ア ス ー 栽 培 の 先 駆 者 は 渡 辺 勝 利 で あ る 彼 は 年 に 本 後 に 本 の 定 植 を お こ な い 現 在 年 間 1 本 か ら 2 0 k g の 生 某 を 収 穫 し て い る 冷 凍 加 工 は J I C A の 援 助 の も と に 年 か ら 稼 働 し て い る ト メ ア ス ー 農 村 振 興 協 会 ( A S F A T A ) の 加 工 場 で お こ な っ て い る チ ョ ウ ジ (Caryoplls aromaticas)フトモモ 科 Cravo deindia ふ と も も 科 の チ ョ ウ ジ は ザ ン ジ バ ル ペ ン バ マ タ カ ス カ ル セ イ ロ ン イ ン ド マ レ ー シ ァ な ど が 主 産 地 で あ る ブ ラ ジ ル に は 1 8 世 紀 の 終 り に ド レ イ が 歯 の 痛 み 止

84 め 用 と し て 携 行 し た も の と 思 わ れ る が ブ ラ ジ ル 人 も ド レ イ も チ ョ ウ ジ の 首 の 育 て 方 が わ か ら ず そ れ か ら ~ 年 の 間 一 地 域 の 家 庭 用 と し て 作 ら れ て い た だ け で 7-8 年 前 ま で は マ ダ カ ス カ ル か ら 毎 年 ト ン も 輸 入 さ れ て い た 今 か ら 3 0 数 年 前 バ イ ア 州 イ ツ ベ ラ ー に 入 植 し た 余 湖 清 は イ ツ ベ ラ ー の 町 で 年 近 い 古 木 の チ ョ ウ ジ を 見 つ け そ の 下 に 落 ち て い た 実 を 拾 い 集 め そ れ か ら 首 を 作 っ て 周 囲 に 普 及 し た 現 在 イ ツ ベ ラ ー か ら カ マ ム タ ベ ロ ア バ レ ン サ な ど バ イ ア 州 の 日 系 農 業 者 に 広 ま り 総 生 産 量 は ト ン に 達 し そ の 7 0 % を 輸 出 し て い る マ カ ダ ミ ア (Macadamia ternifolia.f.muell)ヤマモガシ 科 Macada mia マ カ ダ ミ ア は オ ー ス ト ラ リ ア の フ ィ ー ン ズ ラ ン ド 南 部 と ニ ュ ー サ ウ ス ウ ェ ル ズ 北 部 沿 岸 が 原 産 地 と い わ れ 原 住 民 の 間 で は 早 く か ら 貴 重 な 果 実 と し て 利 用 さ れ て い た 世 界 最 大 の マ カ ダ ミ ア 生 産 地 ハ ワ イ に は 年 種 子 で 入 り 改 良 を 重 ね て 重 要 な 果

85 樹 と な り 現 在 で は 世 界 総 量 の 9 0 % を 生 産 す る 大 栽 培 地 と な っ て い る そ の 他 の 生 産 地 と し て カ リ フ ォ ル ニ ア オ ー ス ト ラ リ ア 南 ア フ リ カ ロ ー デ シ ア ケ ニ ア グ ワ テ マ ラ コ ス タ リ カ な ど が あ る が い ず れ の 国 も 栽 培 規 模 拡 大 に 拍 車 を か け て い る と い わ れ る ブ ラ ジ ル に は 年 頃 カ ン ビ ー ナ ス 農 試 が 導 入 し て ブ ラ ジ ル に 適 し た 品 種 の 選 定 を 続 け K E A U D O, W A I A S O L, K E A U M I, K A K E R E, K E A U H O U な ど の 優 良 品 種 を 発 表 し て そ の 栽 培 を 奨 励 し た す で に サ ン パ ウ ロ 州 で は 5 0 万 本 が 植 付 け ら れ 3 年 後 に は 万 本 に ま た サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 政 府 も 9 3 年 ま で に 万 本 の 栽 植 計 画 を 立 て て い る 日 系 移 住 者 の 栽 培 も あ ち こ ち に 見 ら れ る が ま だ 大 規 模 栽 培 は 少 な い キ ウ イ フ ル ー ツ (Actinidia chinenis planchon)サルナシ 科 K i w i 中 国 の 揚 子 江 流 域 の 原 産 で 自 生 の も の が ミ オ タ オ ヤ ン タ オ と 呼 ば れ て 地 方

86 市 場 で 珍 重 さ れ て い る 年 に な っ て 植 物 学 者 の 手 に よ っ て 世 界 各 地 の 有 名 植 物 園 に 移 入 さ れ た そ の う ち の 一 つ ニ ュ ー ジ ラ ン ド で は 一 園 芸 家 が こ の 果 物 に 関 心 を も ち 果 樹 園 で 栽 培 し 商 品 化 に 成 功 し た 同 国 で は 年 国 鳥 の キ ウ イ の 名 を 借 用 し て キ ウ イ フ ル ー ツ と 名 づ け 大 々 的 に 宣 伝 し て 世 界 に 知 ら れ る よ う に な っ た 現 在 の 生 産 量 は 中 国 が 年 産 1 1 万 ト ン で 世 界 最 大 で あ る が ほ と ん ど が 国 内 消 費 の た め 国 際 的 に は ほ ぼ 全 生 産 量 ( 年 4 万 ト ン ) を 輸 出 に ま わ し て い る ニ ュ ー ジ ラ ン ド の ほ う が 有 名 で あ る 日 本 に は 年 に 種 子 で 導 入 さ れ ご く 短 期 間 に 広 ま っ た そ れ は キ ウ イ フ ル ー ツ が ま た た び 科 に 属 し こ れ と 近 縁 の サ ル ナ シ が 日 本 の 各 地 に 自 生 し て い る こ と で 栽 培 が 容 易 と 考 え ら れ た か ら で あ ろ う ブ ラ ジ ル に は 年 に カ ン ビ ー ナ ス 農 試 と り メ イ ラ の ジ ェ ル ベ ル ゲ ェ ル 種 苗 会 社 が 導 入 し ま た そ の 頃 に 訪 日 し た 日 系 移 住 者 が 日 本 か ら 持 ち 帰 っ た 種 苗 も 多 く 現 在 で は サ ン パ ウ ロ 州 イ ビ ウ ー ナ 地 区 の 本 格 栽 培 を 始 め と し て エ ス ピ リ ト サ ン ト 州 ミ

87 ナ ス 州 パ ラ ナ 州 サ ン タ カ タ リ ー ナ 州 の 各 地 で の 試 験 栽 培 を 含 め る と 日 系 の 栽 培 者 は 名 を 越 え て い る も の と 考 え ら れ る レ イ シ (Litchi chinesis sonnerat)ムクロジ 科 Lichia 原 産 地 は 中 国 南 部 か ら イ ン ド シ ナ 半 島 を 経 て ビ ル マ に か け フ イ リ ッ ピ ン を 含 む 東 南 ア ジ ア 熱 帯 圏 で あ る 果 形 は イ チ ゴ 大 き さ は 径 2 ~ 3 c m 外 皮 は ウ ロ コ 状 で あ る が 真 っ 赤 で 美 し い 白 色 透 明 な 果 肉 は 甘 い ジ ュ ー ス を 含 み ほ ど 良 い 酸 味 と 香 り を も つ ブ ラ ジ ル へ の 導 入 は 古 く 年 隣 国 の 佛 領 ギ ヤ ナ か ら リ オ の 植 物 園 に 送 ら れ た そ の あ と 各 地 の 公 的 機 関 で 選 抜 さ れ B R E W S T E R, A M E R I C A N, B E N F A L の 3 品 種 が リ メ イ ラ の ジ ェ ル ベ ル ゲ ェ ル 種 苗 会 社 か ら 売 出 さ れ た 現 在 レ イ シ の 日 系 移 住 者 の 経 済 栽 培 は サ ン パ ウ ロ 州 の カ ン ピ ー ナ ス リ メ ー イ ラ バ ウ ル ー バ ス ト ス な ど で お こ な わ れ て い る が 市 場 入 荷 量 は ま だ 少 量 で あ る

88 マ ン ゴ ス チ ン (Garcinia mangostana.linn)オトギリソウ 科 Mango stao 昔 か ら 果 物 の 女 王 と い わ れ る マ ン ゴ ス チ ン は 東 南 ア ジ ア の マ レ ー 半 島 ス ン ダ 諸 島 が 原 産 地 と い わ れ て お り ジ ャ ワ ス マ ト ラ な ど で は 普 通 の 庭 木 と し て ど こ に で も 植 え ら れ て い る 現 在 の 栽 培 地 域 は イ ン ド シ ナ 南 部 タ イ ビ ル マ マ レ ー 半 島 ス マ ト ラ ジ ャ ワ 西 印 度 諸 島 イ ン ド 南 部 セ イ ロ ン 島 フ イ リ ッ ピ ン の ミ ン ダ ナ オ 島 ハ ワ イ な ど と 非 常 に 広 範 囲 で あ る ブ ラ ジ ル で は ト メ ア ス ー 植 民 地 を 含 ん だ パ ラ 州 の ベ レ ン 近 郊 と バ イ ア 州 ウ ナ 植 民 地 の 近 く の イ リ ェ ウ ス で す で に 日 系 農 家 が 収 穫 を 始 め ア マ ゾ ナ ス 州 マ ナ ウ ス 地 区 の そ の 他 で 試 験 栽 培 が お こ な わ れ て い る マ ン ゴ ス チ ン は 自 然 環 境 に 対 す る 適 応 性 が 割 合 に 狭 く 種 子 の 発 芽 力 が 少 な く 苗 づ く り が む ず か し い 収 穫 ま で 長 い 年 月 ( 8 ~ 1 0 年 ) を 要 す る な ど 経 済 栽 培 に は 困 難 な 面 も 多 い が 国 内 外 に 市 場 が 約 束 さ れ て い る の で 将 来 性 は 大 き い

89 ア ブ リ コ ー (Mammea americana.l)オトギリソウ 科 Abrico do P a r a 原 産 地 は 西 イ ン ド 諸 島 と 熱 帯 ア メ リ カ で あ る が 現 在 で は 世 界 の 各 地 に 分 布 し て い る し か し い ず れ も 庭 木 て い ど で ま と も な 栽 培 は 少 な い ア ブ リ コ ー は マ ン ゴ ス チ ン と 同 じ オ ト ギ リ ソ ウ 科 の 果 樹 で あ る が 果 実 は 大 き く 円 く 1 k g ほ ど に な る 味 は 甘 酸 っ ぱ く ア ン ズ の よ う な 香 り が あ り 利 用 価 値 が 高 い ブ ラ ジ ル で は ア マ ゾ ナ ス 州 パ ラ ー 州 に 多 く リ オ 州 以 北 の 各 地 に も あ る ア マ ゾ ナ ス 州 マ ナ ウ ス 近 郊 の エ フ イ ジ ェ ー ニ オ デ サ ー レ ス 移 住 地 の 佐 藤 五 郎 と パ ラ ー 州 カ ス タ ニ ャ ー ル の 大 屋 昇 は 自 生 の ア ブ リ コ ー か ら 選 抜 し て 優 良 木 を 選 抜 し て 栽 培 中 で あ る が 1 本 か ら ~ 個 の 収 穫 が あ り 地 元 ベ レ ン マ ナ オ ス 市 場 で 好 評 を 拍 し て い る 大 屋 昇 の 所 属 す る ア マ ゾ ニ カ 農 協 で は 現 在 本 の 苗 を 育 て て お り こ れ を 組 合 員 に 配 付 し て 近 く 本 格 栽 培 に 乗 り 出 す こ と に な っ て い る

90 オ ー ル ス パ イ ス (Pimenta officinalis.lindl)フトモモ 科 Pimen ta de Jamaica 原 産 地 は ジ ャ マ イ カ キ ュ ー バ ハ イ チ な ど で 最 大 の 生 産 地 は ジ ャ マ イ カ で あ る こ れ の 末 完 熟 果 を 採 取 し て 天 日 乾 燥 し た も の は シ ナ モ ン ( 桂 皮 ) ニ ク ヅ ク 丁 字 な ど の 香 り を そ な え て い る の で ( オ ー ル ス パ イ ス 総 べ て の 香 辛 料 ) と 名 づ け ら れ た 学 名 に コ シ ョ ウ P i m e n t a と あ る が こ れ は 間 違 い で 丁 字 と 同 じ フ ト モ モ 科 の 植 物 で あ る オ ー ル ス パ イ ス の 原 産 地 以 外 で の 経 済 栽 培 は む ず か し い 過 去 に シ ン ガ ポ ー ル 台 湾 セ イ ロ ン 島 な ど で 試 作 し た が 結 実 し な か っ た と い う 記 録 が あ り 原 産 地 の ジ ャ マ イ カ で も 半 野 生 の も の か ら 収 穫 す る 時 代 が 長 か っ た と い わ れ て い る 最 近 こ の む ず か し い オ ー ル ス パ イ ス の 栽 培 に 主 作 物 の パ パ イ ヤ の 病 害 に 悩 む バ イ ア 州 テ ィ シ ェ ラ デ フ レ イ タ ス 地 区 の 日 系 移 住 者 が 挑 戦 試 植 を 始 め ま だ 少 量 で あ る が 生 産 が 始 ま っ て い る 年 の 予 定 は 1 5 ト ン で あ る

91 8. 養 鶏 畜 牛 養 蚕 養 魚 < 養 鶏 ~ 2 6 年 ご ろ 奥 地 の コ ー ヒ ー 耕 地 か ら サ ン パ ウ ロ 近 郊 の ジ ュ ケ リ ー コ チ ア ス ザ ノ な ど に ジ ャ ガ イ モ や ト マ ト そ の 他 の 野 菜 作 り に 入 っ た 日 本 移 民 が 鶏 糞 の 高 い 肥 効 を 知 り 簡 単 な 囲 い で 鶏 を 閉 じ 込 め 2 0 ~ 3 0 羽 の 庭 先 養 鶏 を や っ た が こ れ が 日 本 人 養 鶏 の 始 ま り で あ る 年 フ ラ ン ス か ら 羽 の 白 色 レ グ ホ ン を 入 れ ブ ラ ジ ル 養 鶏 の 元 祖 と い わ れ た イ タ カ ケ セ ツ ー バ の グ ラ ン ジ ャ マ ン ジ ー か ら モ ジ の 田 辺 重 明 滋 野 甚 一 イ タ ケ ー ラ の 永 島 巌 松 本 圭 一 ら 養 鶏 の 先 駆 者 た ち が い ち 早 く 種 鶏 を 分 け て も ら っ て 養 鶏 場 を つ く り 翌 2 7 年 か ら 白 色 レ グ ホ ン の 成 鶏 と 卵 を 売 り 出 し て い た コ チ ア 組 合 で は 創 立 5 周 年 に 農 産 品 評 会 を お こ な っ た が そ の と き ジ ャ ガ イ モ や ト マ ト と 並 べ て 白 色 レ グ ホ ン の 成 鶏 と 卵 も 出 品 し て 養 鶏 へ の 関 心 を 高 め た ジ ャ ガ イ モ の コ チ ア 村 で 養 鶏 に 手 を つ け た 最 初 の 人 は 仲 川 賢 一 と い わ れ る 1 9 3

92 0 年 ご ろ 採 糞 を 目 的 に 自 レ グ を 飼 い 始 め た が や が て 本 格 的 に 養 鶏 に 取 組 み 採 卵 を 目 的 と し た 生 産 性 の 高 い 鶏 の 作 出 に 没 頭 し 3 4 年 か ら 3 5 年 の 一 年 間 に 卵 鶏 と 卵 鶏 を 一 羽 づ つ 作 り 出 し 業 界 を 驚 か せ た こ の 頃 サ ン ミ ゲ ー ル パ ウ リ ス タ ス ザ ノ モ ジ 方 面 で は 5 0 羽 羽 の 飼 育 は 普 通 と な り 羽 飼 育 も み ら れ る よ う に な り そ の 生 産 卵 の 販 売 が 問 題 に な っ て き た コ チ ア 組 合 で は 3 4 年 度 か ら 野 菜 販 売 所 の 片 隅 で 試 験 的 に 鶏 卵 を 並 べ て み た と こ ろ こ の 年 は 1 件 当 り 3 ~ 4 個 と い う 小 口 取 引 で あ っ た が 年 間 に ダ ー ス の 売 上 げ を 記 録 し て 鶏 卵 の 有 望 性 を 実 証 し た 翌 3 5 年 か ら 鶏 卵 コ ー ナ ー を 設 け て 本 格 的 に 販 売 を 開 始 し た そ の 頃 の 出 荷 は せ い ぜ い 1 0 ダ ー ス が 単 位 で あ っ た が 養 鶏 家 数 と 飼 育 羽 数 が ど ん ど ん 増 え て い っ た の で 出 荷 量 は 急 増 し た 3 6 年 度 の 販 売 量 は 2 万 8 千 ダ ー ス に 達 し た 年 は 奥 地 か ら の 転 住 日 系 人 も 相 当 な 数 に 上 り そ の 養 鶏 熟 も 高 ま っ て だ れ も が 養 鶏 技 術 の 不 足 を 感 じ は じ め て い た 時 で あ っ た サ ン パ ウ ロ 総 領 事 館 勧 業 部 は そ れ を

93 察 知 有 力 者 に 諮 っ て 養 鶏 普 及 会 成 立 に 協 力 し た そ の あ と 勧 業 部 長 の 江 越 信 胤 は 日 本 に 帰 る に 当 っ て 普 及 会 に 日 本 の 原 種 鶏 を 贈 る こ と 約 束 し た こ の 約 束 が 実 現 し た の は 年 1 1 月 3 日 で あ っ た 1937 年 11 月 3 日 サントスに 着 いた 日 本 からの 原 種 鶏 45 羽 ブラジル 養 鶏 の 発 展 に 大 きく 寄 与 し た

94 サ ン ト ス 港 に 着 い た の は 白 色 レ グ ホ ン 1 5 羽 ロ ー ド ア イ ラ ン ド レ ッ ド 1 5 羽 プ リ モ ス ロ ッ ク 1 5 羽 の 計 4 5 羽 で あ っ た こ の う ち ロ ー ド 1 5 羽 と プ リ モ ス 1 5 羽 は こ の 年 カ シ ン ギ 一 に 創 立 し た 日 本 農 事 協 会 の 養 鶏 部 に 白 色 レ グ 1 5 羽 は コ チ ア 組 合 で 引 受 け 古 田 土 芳 次 に 飼 育 を 依 頼 し た 年 4 月 コ チ ア 組 合 は 日 本 か ら 1 万 卵 入 立 体 孵 化 機 ( マ ス タ ー ピ ー ス 型 ) を 導 入 し た そ れ に 応 じ 古 田 土 芳 次 田 辺 重 之 細 川 賢 一 は 前 か ら 飼 っ て い た 種 鶏 と 日 本 か ら 送 ら れ た 種 鶏 を 集 め コ チ ア 組 合 の 代 行 機 関 と し て 初 生 雛 を 組 合 員 と 一 般 農 業 者 に 配 給 す る K T K 協 会 を サ ン パ ウ ロ 市 カ シ ン ギ 一 に つ く っ た コ チ ア 組 合 が K T K 協 会 に 仕 事 を 代 行 さ せ た の は 組 合 と し て 養 鶏 事 業 を 始 め る の は 時 期 尚 早 で あ っ た し 日 本 か ら の 種 鶏 は コ チ ア 組 合 だ け へ の も の で な く ブ ラ ジ ル の 日 本 人 農 業 者 全 部 に 贈 ら れ た も の と 考 え た か ら で あ る こ の 日 本 か ら の 原 種 鶏 を 父 祖 と す る 年 間 卵 鶏 の 初 生 雛 が 販 売 さ れ る よ う に な っ た の は 年 7 月 6 日 か ら で あ り こ の 年 度 だ け で 約 3 万 羽 が 組 合 養 鶏 家 と 一 般 養 鶏 者 に 販 売 さ れ ブ ラ ジ ル 養 鶏 の 改 善 発 展 に 大 き な 貢 献 を な す こ と に な っ た

95 養 鶏 の 普 及 と 技 術 の 指 導 に つ い て は ( 産 青 連 ) の 農 村 青 年 講 習 会 と 青 年 会 の 組 織 を 利 用 し K T K 協 会 そ の 他 か ら 講 師 が 出 向 し て 講 習 を お こ な っ た が 青 年 ら が 帰 途 に つ く と き 各 自 が 羽 づ つ 初 生 雛 を 持 ち 帰 り 地 元 で の 養 鶏 普 及 に 努 力 し た ノ ロ エ ス テ 線 ア ル タ パ ウ リ ス タ 線 沿 線 の 養 鶏 は こ う し て 発 展 し 年 間 卵 鶏 の 初 生 雛 の 販 売 が 始 ま っ て 大 戦 を 挟 ん だ 約 1 0 年 間 に サ ン パ ウ ロ 全 州 に 養 鶏 が 普 及 し 完 全 に ひ と つ の 産 業 と し て 発 展 し た 年 の 第 2 次 世 界 大 戦 勃 発 以 来 年 ま で の 約 2 0 年 間 は 戦 争 戦 後 の 混 乱 ア メ リ カ で の ニ ュ カ ッ ス ル 病 の 発 生 な ど が あ っ て 外 国 か ら の 種 鶏 の 導 入 は 一 切 な か っ た が サ ン パ ウ ロ 州 農 務 局 の 調 べ に よ れ ば 年 に 日 系 農 家 は 全 州 鶏 卵 生 産 量 の 9 0 % を 占 め て い た 年 種 鶏 輸 入 禁 止 令 が 解 け 翌 6 2 年 か ら ア メ リ カ 鶏 が ど っ と 入 り こ み 始 め た 種 鶏 輸 入 禁 止 令 の 解 除 を 待 っ て い た 伊 藤 種 鶏 場 で は 4 元 交 配 法 で つ く っ た 種 鶏 ( こ の 交 配 法 は 1 0 年 間 の 特 許 を も っ て い た が 期 限 切 れ の 寸 前 で あ っ た ) を も つ 北 米 の ハ

96 イ ラ イ ン 社 と 早 速 提 携 ハ イ ラ イ ン 種 を 導 入 し て 一 般 に 分 譲 を 開 始 し た こ の 種 鶏 は 旧 式 の 遺 伝 方 法 で つ く ら れ た ブ ラ ジ ル 鶏 に 比 べ 抗 病 性 産 卵 性 は 極 め て 良 く 飼 育 希 望 者 は 門 前 市 を な す あ り さ ま で 他 の 種 鶏 業 者 も 北 米 鶏 の 導 入 に 踏 み 切 ら ざ る を 得 な か っ た 年 す で に ハ イ ラ イ ン 種 と 同 じ 方 法 で 独 自 の 鶏 種 を つ く り ハ イ ラ イ ン 社 の 特 許 期 限 の 切 れ る の を 待 っ て い た キ ン バ ー バ ビ コ ッ ク シ ェ ー バ な ど 有 名 種 鶏 業 社 は 期 限 切 れ と 同 時 に い っ せ い に ブ ラ ジ ル に 進 出 ブ ラ ジ ル 種 鶏 界 は 北 米 鶏 一 色 に 塗 り つ ぶ さ れ た こ れ は ブ ラ ジ ル だ け で な く 日 本 も 欧 州 諸 国 も そ の 例 外 で は な か っ た こ の 時 北 米 の 各 社 は 産 卵 鶏 だ け で な く 革 命 的 と も い え る 高 能 力 の 肉 用 鶏 を 進 出 さ せ ブ ラ ジ ル の 肉 用 鶏 を も 北 米 一 色 に 塗 り 替 え た 年 に は 日 本 の イ ワ ヤ 種 後 藤 種 エ ン ヤ 種 も 進 出 し 北 米 鶏 に 交 っ て 健 闘 し た 現 在 の 日 系 養 鶏 業 者 の 中 に は 産 卵 鶏 1 0 万 羽 か ら 万 羽 と い う 企 業 的 大 規 模 養 鶏 も あ る が 大 半 は 1 万 羽 か ら 3 万 羽 て い ど の 飼 育 規 模 と 推 定 さ れ る

97 ま た 肉 鶏 飼 育 は 大 手 資 本 と の 契 約 生 産 が 多 く ほ と ん ど が 非 日 系 で 日 系 に よ る 大 型 肉 鶏 飼 育 は 少 な い 年 度 入 荷 量 ( 鶏 卵 ) 3 0 打 入 : 箱 コ チ ア 組 合 入 荷 量 箱 ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 入 荷 量 箱 ( 鶏 肉 ) コ チ ア 組 合 入 荷 量 k g 畜 牛 日 系 人 で 大 が か り な 牧 畜 を 営 む 者 が 最 近 多 く な っ て い る が 種 牛 を 改 良 育 成 し て そ れ を 普 及 販 売 し て い る 者 は ご く 少 な い そ の う ち の 1 人 サ ン パ ウ ロ 州 の 吉 雄 弘 は 約 1 万 頭 の 肉 牛 を 飼 育 し な が ら ネ ロ ー レ の 原 種 を イ ン ド そ の 他 か ら 導 入 し 純 粋 血 統 の 維 持 を 図 る と と も に 品 種 改 良 を 重 ね て 各 地 で お こ な わ れ る 数 々 の 畜 産 展 で 最 高 賞 を と る 優 秀 な ネ ロ ー レ 種 を 多 数 つ く り あ げ サ ン パ ウ ロ 州 は も ち ろ ん ブ ラ ジ ル の 各 州 あ る い は 近 隣 諸 国 に ま で そ れ を 普 及 し て い る

98 ま た 吉 雄 は 精 液 販 売 会 社 を つ く り 種 牛 同 様 全 伯 近 隣 諸 国 に 精 液 を 分 譲 し 優 良 肉 牛 の 普 及 に 務 め て い る な お 日 本 企 業 で 畜 牛 牧 場 を も つ も の は 1 0 社 を 越 え て い る 乳 牛 に つ い て は ヤ ク ル ト 社 が そ れ を 行 な っ て い る 養 蚕 養 蚕 に ご く な じ み の 深 か っ た 日 本 人 移 民 が ブ ラ ジ ル で 養 蚕 に 関 心 を も っ た の は 当 然 の こ と で あ る 第 1 回 移 民 の 茨 木 友 次 郎 は 渡 航 に 当 っ て 蚕 棚 を 携 行 し た が サ ン パ ウ ロ の 移 民 収 容 所 で 養 蚕 道 具 と 説 明 し て も 解 っ て も ら え な か っ た と い う 年 サ ン パ ウ ロ 州 イ グ ア ペ 植 民 地 の 創 設 者 青 柳 郁 太 郎 は 州 政 府 に 依 頼 し て 桑 の 苗 を と り よ せ 年 に な っ て イ タ リ ア か ら 蚕 種 を 導 入 養 蚕 を 試 み た が 良 好 な 成 績 は 得 ら れ な か っ た 年 サ ン パ ウ ロ 州 リ オ タ ラ 一 ロ 耕 地 で 通 訳 を し て い た 佐 藤 次 郎 が 耕 地 内 の 垣 根 に 桑 樹 の 茂 っ て い る の を み て 耕 主 に 交 渉 し て 農 商 務 省 か ら 蚕 種 を と り よ せ 妻 の 副 業 と し て 3 年 間 養 蚕 を お こ な っ た し か し 専 業 と し て 養 蚕 を と り あ げ た の は 第 2

99 回 移 民 の 小 野 豊 三 で 年 ご ろ 数 名 の 同 志 と と も に ガ ル サ 植 民 地 で 養 蚕 を 始 め た 年 サ ン パ ウ ロ 州 政 府 も よ う や く 養 蚕 業 に 関 心 を も ち は じ め カ ン ビ ー ナ ス に 州 政 府 の 補 助 に よ る 内 国 絹 業 会 社 S e d a N a c i o n a l S. A を 設 立 蚕 種 の 育 成 配 付 な ど そ の 普 及 に 努 め た 年 ブ ラ ジ ル 拓 殖 組 合 は バ ス ト ス チ ェ テ ア リ ア ン サ の 3 移 住 地 の 入 植 者 に 副 業 奨 励 の 意 味 で 養 蚕 を と り あ げ バ ス ト ス と チ エ テ の 両 移 住 地 に 小 規 模 な 製 糸 工 場 を つ く っ た ( 後 の プ ラ タ ク 製 糸 ) こ れ に よ っ て 移 住 地 は 女 子 供 で も や れ る 養 蚕 の 副 業 で 経 済 的 プ ラ ス と な り 養 蚕 に 経 験 の あ る 移 住 者 は 養 蚕 を 主 と す る 営 農 に 切 り 替 え て い っ た ブ ラ タ ク 製 糸 は 日 本 か ら 蚕 種 を 輸 入 し て 従 来 の 蚕 種 の 改 良 を お こ な っ た ほ か 養 蚕 移 民 の 導 入 最 新 式 自 動 繰 糸 機 の 輸 入 な ど ブ ラ ジ ル 生 糸 の 品 質 向 上 に 努 め た の で 養 蚕 の 機 運 は 一 層 高 ま っ た 当 時 ブ ラ ジ ル の 紡 績 界 で 消 費 す る 生 糸 の 9 0 % は 日 本 や イ タ リ ア か ら 輸 入 し て い

100 た が 第 2 次 世 界 大 戦 と 同 時 に 輸 入 は 不 可 能 と な り 政 府 も 国 内 産 業 奨 励 策 を と っ た の で 大 戦 終 結 ま で の 数 年 間 ブ ラ ジ ル の 養 蚕 業 は 戦 前 の 1 0 数 倍 に 達 す る 活 況 を み せ た 戦 後 ま も な く 日 本 イ タ リ ア の 養 蚕 業 が 復 活 し 世 界 市 場 へ の 生 糸 供 給 が 始 ま る と 同 時 に ブ ラ ジ ル 生 糸 の 輸 出 は 止 ま り 大 量 の ス ト ッ ク を か か え 繭 価 の 大 暴 落 と な っ て 蚕 糸 業 界 は 最 大 の パ ニ ッ ク に 見 舞 わ れ た 更 に ナ イ ロ ン な ど の 化 学 繊 維 の 出 現 に よ っ て 生 糸 の 消 費 量 は 激 減 し た こ の よ う な 状 態 が し ば ら く 続 き 養 蚕 家 も 製 糸 工 場 も か ろ う じ て 生 き 延 び た と い う あ り さ ま で あ っ た 年 ブ ラ タ ク 製 糸 が ス イ ス の 国 際 生 糸 検 査 所 に 送 っ た 見 本 が 日 本 や 中 国 イ タ リ ア の そ れ に 劣 ら ぬ 優 良 品 と の 折 紙 が つ け ら れ 世 界 市 場 に 通 用 す る こ と に な っ た あ わ せ て 最 大 の 生 糸 輸 出 国 で あ っ た 日 本 が 戦 後 の め ざ ま し い 経 済 復 興 に よ る 生 活 の 向 上 で 生 糸 の 国 内 需 要 が 激 増 し 世 界 的 な 生 糸 不 足 と な っ て ブ ラ ジ ル 蚕 糸 業 界 も 再 び 陽 の 目 を み る こ と と な っ た 年 ブ ラ ジ ル か ら 始 め て 日 本 へ 9, 2 ト ン ( 俵 ) の 生 糸 を 輸 出 し た 年 に は ト ン ( 俵 ) の 輸 出 と な っ た た め 養 蚕 家 の 生 産 意 欲 は 盛 り

101 上 っ た こ の 頃 か ら 日 本 の 生 糸 会 社 が 続 々 と ブ ラ ジ ル に 乗 り 出 し 再 び 養 蚕 ブ ー ム が わ き 起 り 生 糸 の 生 産 量 は 年 = 俵 年 = 俵 年 = 俵 年 = 俵 と 急 増 し た 現 在 ブ ラ ジ ル の 製 糸 会 社 は 7 社 そ の う ち 6 社 は 日 系 で 8 3 / 8 4 年 度 の ブ ラ ジ ル の 生 糸 生 産 量 ( ト ン ) に 占 め る 割 合 は つ ぎ の よ う に な っ て い る ブ ラ タ ク ( 5 1, 8 % ) カ ネ ボ ウ ( 1 6, 4 % ) グ ン サ ン ( 8, 9 % ) コ ウ ぺ ス ( 1 0, 4 % ) 昭 栄 ブ ラ タ ク ( 8, 7 % ) ミ ナ シ ル ク ( 2, 7 % ) ニ ジ マ ス そ の 他 の 飼 育 ブ ラ ジ ル で は 州 の 水 産 試 験 場 や 欧 州 系 の 移 民 に よ っ て ニ ジ マ ス の 養 殖 が た び た び 試 み ら れ た が い ず れ も 成 功 し な か っ た 輸 入 し た 種 卵 の 孵 化 率 が 悪 か っ た か ら で あ る 年 ご ろ コ チ ア 青 年 出 身 の 小 池 清 は サ ン パ ウ ロ 州 カ ン ボ ス ド ジ ョ ル ド ン に あ る 州 試 験 場 で 1 年 半 に わ た っ て ニ ジ マ ス の 孵 化 養 殖 に 従 事 し た が そ の 間 に ニ

102 ジ マ ス の 孵 化 率 を 従 来 の 4 0 % か ら 9 0 % に 上 げ る こ と に 成 功 し た 年 サ ン パ ウ ロ の レ ス ト ラ ン の 経 営 者 で あ る エ ヴ ァ リ ス ト コ モ ラ ッ チ が 資 金 を 出 し 小 池 清 が 技 術 を 提 供 す る ニ ジ マ ス 養 殖 の 共 同 事 業 を カ ン ボ ス ド ジ ョ ル ド ン で お こ な う こ と に な っ た 小 池 は 同 年 1 2 月 か ら 稚 魚 養 殖 出 荷 販 売 ま で の 一 貫 し た 施 設 を つ く り は じ め 翌 年 か ら 養 殖 を 始 め 常 時 8 万 尾 ( 稚 魚 か ら 成 魚 ま で ) を も つ 飼 育 場 を つ く り あ げ た 採 種 卵 も お こ な っ て い る こ の 成 功 に 刺 激 さ れ た 各 地 の 養 殖 希 望 者 が 多 数 こ の 飼 育 場 を 訪 れ 現 在 で は リ オ 州 や サ ン タ カ タ リ ナ 州 で も ニ ジ マ ス 養 殖 が お こ な わ れ て い る 一 般 に 日 系 農 業 者 は 水 利 を 考 え て 農 地 を 購 入 し て い た の で 農 地 の 低 地 に は 池 や 沼 を も つ も の が 多 く 古 く か ら そ こ で 鯉 の 飼 育 を お こ な っ て き た な か に は 飼 育 池 1 0 ア ル ケ ー ル ( 平 方 m ) 鯉 出 荷 専 用 車 を 数 台 持 つ と い う 大 型 飼 育 家 も い る が 一 般 に は 自 家 消 費 て い ど の 飼 育 規 模 で あ る 最 近 は 商 社 や 大 資 本 に よ る エ ビ カ メ 食 用 蛙 ワ ニ な ど の 飼 育 も は じ ま っ て い る

103 が こ れ は 一 般 化 さ れ て い な い Ⅱ 集 約 的 農 業 の 確 立 サ ン パ ウ ロ 大 学 教 授 オ ラ シ ー ノ ゲ イ ラ ( O R A C Y N O G U E I R A ) は 年 サ ン パ ウ ロ で 開 か れ た ブ ラ ジ ル 移 住 6 0 年 シ ン ポ ジ ュ ウ ム で 日 本 移 民 と サ ン パ ウ ロ 市 の 発 展 と 題 し て 報 告 を お こ な っ た が そ の 中 で 次 の よ う に の べ て い る 今 世 紀 の 初 め に 始 ま っ た 日 本 人 の 移 住 は イ タ リ ア 人 ポ ル ト ガ ル 人 ス ペ イ ン 人 な ど の 移 住 に 比 べ て 時 期 的 に 新 し く 数 的 に も 僅 少 で あ る が き わ め て 重 要 な 役 割 を 果 し て き た そ れ は と く に 日 本 人 移 住 者 が 野 菜 果 物 鶏 卵 の よ う な 国 内 消 費 食 料 の 生 産 と そ の 商 品 化 に 果 し て き た 役 割 に つ い て い う こ と が で き る い い か え れ ば 市 民 の 食 生 活 を 支 え る 食 料 生 産 の 面 で 日 本 人 が 貢 献 し た と い う 事 実 を 度 外 視 し て サ ン パ ウ ロ の 今 日 の 都 市 化 と 工 業 化 と を 理 解 す る こ と は で き な い と い う こ と で あ る し か も 農 土 の 管 理 や 処 理 を は じ め 各 種 の 農 事 試 験 を 通 じ て よ り 効 果 的 な 品 種 の

104 育 成 や 種 苗 の 生 産 あ る い は 小 農 地 に よ る 野 莱 果 樹 畜 産 を と り 入 れ た 集 約 的 営 農 方 法 の 確 立 協 同 組 合 運 動 の 展 開 農 産 物 の 商 品 化 に 至 る ま で ブ ラ ジ ル 農 業 の 近 代 化 に 及 ぼ し た 日 本 人 の 影 響 は す こ ぶ る 大 き い 以 上 の ノ ゲ イ ラ 教 授 の 報 告 は 年 の も の で あ る が 日 本 移 民 の ブ ラ ジ ル に お け る 功 績 を 一 口 に い い あ ら わ し た 言 葉 と し て 2 0 年 後 の 今 日 で も ま こ と に 適 切 な も の で あ る 1. 日 本 で の 経 験 を 近 郊 で 生 か す モ ジ ア ナ 方 面 の コ ー ヒ ー 園 労 働 者 と し て 入 っ た 初 期 移 民 は そ の 契 約 期 間 を 終 え た の ち あ る い は 契 約 を 途 中 で 放 棄 し て 各 地 に 散 っ た が そ の 一 部 の も の が サ ン パ ウ ロ 市 近 郊 に 入 っ て き た の は ~ 1 5 年 の こ と で あ る そ れ 以 後 も 独 立 し た 移 民 た ち は サ ン パ ウ ロ 州 奥 地 に 集 団 地 を 形 成 し て 入 植 す る が 同 時 に サ ン パ ウ ロ 近 郊 各 地 へ の 入 植 も 徐 々 に 増 加 傾 向 を た ど り と く に 第 2 次 世 界 大 戦 後 は 奥 地 か ら の 市 内 と 近 郊 へ の 転 住 者 は 急 激 に 増 加 し た

105 年 に お こ な わ れ た ブ ラ ジ ル 移 民 実 態 調 査 の 数 字 を み る と 市 内 を 除 く サ ン パ ウ ロ 近 郊 へ の 流 入 流 出 家 族 数 は つ ぎ の よ う な 推 移 を 示 し て い た 年 代 流 入 流 出 差 引 ~ 1 7 年 ~ 2 7 年 ~ 3 7 年 ~ 4 7 年 ~ 5 8 年 上 の 数 字 で わ か る よ う に 近 郊 か ら 出 て い く 流 出 も 相 当 あ る が 近 郊 へ 入 っ て く る 流 入 の ほ う が は る か に 多 い こ の 近 郊 集 中 の 理 由 は い ろ い ろ あ げ ら れ る が そ の 最 大 の 理 由 は 移 民 そ れ ぞ れ の も つ 日 本 で の 農 業 経 験 を 高 度 に 生 か す こ と の で き る 農 業 経 営 を こ の 近 郊 で や れ る こ と が 可 能 と わ か っ た か ら で あ る 森 喜 一 ( 日 本 農 業 に お け る 資 本 主 義 の 発 達 P ~ ) は 第 1 回 移 民 が

106 ブ ラ ジ ル に 入 っ た 年 ( 明 治 4 1 年 ) か ら 年 ( 大 正 元 年 ) ま で の 5 年 間 の 平 均 で 日 本 農 家 の 土 地 所 有 面 積 は わ ず か の 1, 1 h a そ の 家 族 数 は 6 人 と の べ て い る そ の た め 日 本 の 農 家 で は 一 定 の 耕 地 か ら 高 い 収 益 を 上 げ る た め 自 分 た ち が 食 べ る だ け の 自 給 作 物 の 栽 培 か ら 消 費 者 の 要 求 す る 商 品 作 物 に 転 換 し ( 明 治 以 降 日 本 で は 雑 穀 に 替 っ て 野 菜 果 樹 養 畜 が 伸 び つ つ あ っ た ) し か も 耕 地 の 利 用 度 を 高 め る た め 適 合 す る 新 品 種 を 導 入 す る と か あ る い は 輪 作 多 毛 作 を 考 え 肥 料 も 多 投 し 防 除 作 業 も お こ な っ て 生 産 を 上 げ そ の う え 耕 地 内 だ け で や れ る 養 畜 養 蚕 な ど も お こ な っ て 収 益 を 増 す と い う い わ ゆ る 集 約 度 の 高 い 農 業 を や っ て い た の で あ る が 日 本 移 民 に は そ の 経 験 を も っ た も の が 多 か っ た 奥 地 農 業 で は こ の 経 験 を 充 分 に 発 揮 す る 余 地 は な か っ た が 近 郊 に お い て は そ れ が や れ ま た サ ン パ ウ ロ 市 と い う 世 界 で も ま れ な 急 激 な 成 長 を 遂 げ つ つ あ る 工 業 都 市 の 人 口 増 加 が そ れ を 必 要 と し て い た の で あ る そ う し た 状 況 の な か で 近 郊 に 入 植 し た 初 期 移 民 は ま ず い ず れ も ジ ャ ガ イ モ を

107 も っ て そ の 生 活 活 動 を 開 始 し つ い で 徐 々 に 需 要 が 増 え て き た 野 菜 果 樹 養 鶏 を と り あ げ そ れ を 組 み 合 わ せ て 日 本 で 経 験 し た 集 約 的 農 業 を ほ ぼ そ の ま ま ブ ラ ジ ル で お こ な っ た の で あ る が こ の こ と が そ れ ま で ブ ラ ジ ル に 存 在 し な か っ た 集 約 的 近 郊 型 園 芸 農 業 を 生 む こ と に な っ た の で あ る 2. 初 期 のジャガイモ 栽 培 ~ 1 5 年 に 日 本 人 移 民 が 入 っ た コ チ ア は サ ン パ ウ ロ 市 か ら 西 方 約 2 0 k m の 地 点 に 在 る ジ ェ ズ イ ッ ト 僧 が 土 人 教 化 を 目 的 に つ く っ た 部 落 で あ っ た か ら 早 く か ら 拓 け て い た が 樹 木 を 伐 っ て 火 を つ け 土 地 を 耕 や さ ず に 植 穴 だ け を 掘 っ て 種 を 蒔 く と い う 土 着 民 式 農 法 を 長 年 や っ て い た の で 地 力 は 衰 え 日 本 移 民 が 着 い た と き に は 痩 せ 地 に 好 ん で 生 え る バ ル バ デ ポ ー デ ( ひ げ 草 イ ネ 科 の 雑 草 ) が 茂 る 荒 蕪 地 で あ っ た こ れ は コ チ ア だ け で な く 初 期 に 開 拓 さ れ た サ ン パ ウ ロ 周 辺 は ど こ も ほ ぼ 同 じ で あ っ た が た だ こ の よ う な 土 地 は 適 当 な 手 入 れ を お こ な え ば 地 力 は 回 復 さ せ る こ と が

108 で き た し た が っ て こ の よ う な 土 地 が あ っ た の は 小 資 本 で 自 営 農 を め ざ し た 日 本 移 民 に と っ て は 極 め て 都 合 の よ い こ と で あ っ た し 外 国 移 民 の 到 来 で サ ン パ ウ ロ 市 は 成 長 期 に 入 り 人 口 は 急 増 し そ の 食 料 補 給 を ね ら っ て の 近 郊 農 業 は 有 利 と い う 時 期 で も あ っ た こ の よ う な と き に コ チ ア に 入 っ た 日 本 移 民 は 土 着 民 の ま ね を せ ず ま ず 固 い 赤 土 に 鍬 を 入 れ て 日 本 式 に 耕 や し ウ ネ を つ く っ て 土 着 民 か ら 買 っ た ジ ャ ガ イ モ の 種 を 蒔 い た ジ ャ ガ イ モ は 消 費 も 多 く 値 段 も 良 か っ た こ と は 入 植 前 に す で に 知 っ て い た し か し ジ ャ ガ イ モ ら し い 芋 が で き る よ う に な っ た の は 低 湿 地 の 腐 葉 土 を 畑 に 入 れ て か ら で あ る そ れ も 連 作 の 無 肥 料 な の で 2 年 ほ ど で 地 力 が 衰 え よ い 芋 が と れ ず 生 活 に 事 欠 く こ と さ え あ っ た そ の こ ろ オ ザ ス コ 市 に 屠 殺 工 場 が あ り そ の 残 物 を 肥 料 と し て 売 り 出 し て い る こ と を コ チ ア の カ ト リ ッ ク 僧 か ら 聞 き 代 表 2 ~ 3 人 が 買 っ て 試 し た 結 果 は 今 ま で に な い 良 い 成 績 で あ っ た そ れ 以 来 ほ ぼ 全 員 が そ の 肥 料 を 使 う よ う に な っ た

109 肥 料 を 使 う よ う に な っ て か ら は 今 ま で の 耕 作 法 で は 間 に 合 わ ず 日 本 式 の 鋤 を つ く り 馬 耕 を お こ な う こ と に な っ た 鋤 に 使 う 丸 木 は 山 か ら 採 っ て 来 て 削 っ て 穴 を あ け 刃 先 は 鍬 の 古 い の を 鍛 冶 屋 で 形 よ く 切 っ て も ら い そ れ を 丸 木 に 打 ち つ け た 当 時 の 最 新 式 の ア ラ ー ド ( 鋤 ) で あ っ た が こ れ が 成 功 し 今 ま で の 耕 作 法 を - 新 し 作 業 は め ざ ま し く は か ど っ た 土 着 民 か ら 買 っ た 種 い も は い ろ い ろ な 種 類 が 混 じ っ て い た の で 芋 を 掘 る と き は 一 株 一 株 掘 っ て 選 り 分 け 後 に コ チ ア の オ ー ロ 芋 と 評 判 を と る 種 い も の 選 抜 を お こ な っ た 堆 肥 が 良 い と 聞 き 痩 せ 馬 を 買 っ て 小 屋 に 立 飼 い に し 朝 晩 野 原 の 草 を 刈 っ て 馬 に 踏 ま せ た も の が あ り 草 を 刻 ん で 畑 に 撒 き 鋤 き 込 ん だ も の も あ る ボ ル ド ー 液 で の 消 毒 を 日 本 の 古 本 で 勉 強 し そ れ を つ く っ て 散 布 し 高 い 効 果 を あ げ た も の も い た 植 付 け に は ム チ ロ ン ( 共 同 作 草 ) を と り 入 れ 近 隣 の も の す べ て が 集 り 戸 毎 に 割 当 て ら れ た 畑 の 植 付 を 一 日 で 終 る よ う に し た こ れ が 部 落 み ん な に 家 族 的 な 親 し み を も た せ 肥 料 の 買 入 れ 植 付 の 制 限 芋 の 出 荷 な ど 全 村 的 な 連 帯 協 調 が な け れ ば や れ な

110 か っ た む ず か し い 問 題 も ス ム ー ズ に 取 り 運 び コ チ ア の ジ ャ ガ イ モ 生 産 は 順 調 に 伸 び て い っ た ( 左 ) 丸 木 で つ く っ た 手 製 の ア ラ ー ド ( 右 ) ジ ャ ガ イ モ の 植 付 け は 共 同 で 割 当 分 を 一 日 で 植 え た ( 下 ) ジ ャ ガ イ モ の 出 荷 5 3 k g 入 2 0 俵 を ピ 二 エ ロ ス ま で 往 復 二 日 が か り

111 以 上 で わ か る と お り 日 本 移 民 は そ れ ま で の 焼 畑 農 業 か ら 文 字 通 り 日 本 式 の 耕 作 農 業 を お こ な い 肥 料 農 薬 も 使 い 農 具 も 自 ら つ く り さ ら に 自 分 た ち の 手 で 種 芋 の 品 質 改 良 を お こ な う な ど 試 行 錯 誤 を く り 返 し 創 意 工 夫 を 加 え な が ら 近 郊 農 業 を 確 立 し て い っ た の で あ る 3. 野 莱 つ く り 最 初 の 栽 培 作 物 は ジ ャ ガ イ モ の 単 作 で あ っ た 年 代 の サ ン パ ウ ロ 市 の 人 口 は 5 7 万 9 千 人 と 記 録 さ れ て い る が 野 菜 類 の 需 要 は ポ ル ト ガ ル 人 の ご く 小 規 模 な 菜 園 農 業 で こ と た り 日 本 移 民 が 当 時 の 市 民 に 馴 染 み の な い 日 本 の 野 菜 を 本 格 的 に つ く っ て も 商 品 と な り 得 な か っ た し た が っ て 近 郊 に お け る 商 品 作 物 は し ば ら く ジ ャ ガ イ モ に 限 ら れ て い た こ う し た ジ ャ ガ イ モ 生 産 者 を 中 心 と し て 年 代 の 終 り 頃 か ら 近 郊 各 地 に い く つ か の 日 系 農 業 組 合 が 誕 生 し た が こ れ ら の 組 合 が ジ ャ ガ イ モ の み で な く 野 菜 類 を 本 格

112 的 に 取 り 扱 う よ う に な っ た の は 年 以 後 の こ と で あ る 年 に お け る サ ン パ ウ ロ 市 の 人 口 は す で に 万 人 と な っ て い た イ タ リ ア 移 民 を 主 体 と す る 人 口 の 増 加 で ト マ ト を 主 と し た 野 菜 の 需 要 も よ う や く 高 ま っ て き た 一 方 年 に お と づ れ た 経 済 恐 慌 か ら 奥 地 の コ ー ヒ ー あ る い は 綿 作 を お こ な っ て い た 移 民 の 中 に は 小 資 本 で 再 起 を は か る 道 を 求 め 近 郊 の 野 菜 作 り を 目 ざ し て 移 転 し て く る も の が 多 く ま た 近 郊 で も ジ ャ ガ イ モ の 生 産 コ ス ト が 割 高 で 誰 に で も 栽 培 で き る と い う も の で は な か っ た こ と か ら 野 菜 農 に 切 り 替 え る も の も あ っ て 近 郊 の 野 菜 栽 培 者 の 数 は 急 激 に 増 え て い っ た す で に 年 に は コ チ ア 郡 内 に も 少 数 の 野 菜 栽 培 者 が 集 っ て コ チ ア 野 菜 出 荷 組 合 ( 後 に コ チ ア 組 合 野 菜 部 と な る ) を 結 成 す る に 至 り さ ら に 3 4 年 に は サ ン パ ウ ロ 総 領 事 館 勧 業 部 の 肝 入 り で サ ン パ ウ ロ 近 郊 野 菜 栽 培 者 が 打 っ て 一 丸 と な る た め 聖 市 近 郊 野 菜 栽 培 者 共 同 出 荷 所 設 立 が 見 ら れ る ほ ど に な っ た こ の 共 同 販 売 所 は 間 も な く 分 裂 状 態 と な っ た が こ れ が き っ か け で 各 組 合 も 野 菜 を 取 扱 う こ と に な っ た 年 1 月 に コ チ ア 郡 に で き た 上 記 の コ チ ア 野 菜 出 荷 組 合 が 正 式 に コ チ ア 組 合 野

113 菜 部 と な っ た の は 2 年 半 後 の 3 3 年 8 月 で あ る コ チ ア 組 合 6 0 年 史 で は 野 菜 部 が 発 足 し た こ の 年 7 月 に 大 降 霜 8 月 に は 寒 波 の 襲 来 が あ っ て サ ン パ ウ ロ 市 場 へ の ト マ ト の 入 荷 は 激 減 し ト マ ト は 暴 騰 し て 争 奪 の 的 と な っ た こ の 高 相 場 に 魅 せ ら れ た 近 郊 の 数 百 家 族 と 推 定 さ れ る 野 菜 栽 培 者 が 一 斉 に ト マ ト を 植 付 け た た め 3 3 年 末 か ら 始 ま っ た 出 荷 の た め 翌 年 1 月 か ら 2 月 に か け て サ ン パ ウ ロ 市 場 は ト マ ト の 大 洪 水 と な っ て 価 格 は 大 暴 落 し た 一 日 に 箱 も 出 荷 さ れ る と 売 り よ う も な か っ た そ れ が 数 千 箱 の 出 荷 で 一 箱 2 5 ~ 4 0 ミ ル の も の が 1 0 ミ ル を 割 り 4 ミ ル 2 ミ ル と 下 っ て い っ た と 野 菜 栽 培 の 揺 藍 期 に す で に 生 産 過 剰 に よ る ト マ ト の 大 暴 落 が あ っ た こ と を 伝 え て い る が こ れ を 契 機 に ト マ ト 単 作 者 の 多 く は ジ ャ ガ イ モ キ ャ ベ ツ ニ ン ジ ン な ど も と り 入 れ た 野 菜 作 り に 変 り 組 合 加 入 者 も 急 増 し て い っ た コ チ ア 組 合 野 菜 部 に 例 を と る と 開 設 の 年 の 末 に 約 7 0 名 で あ っ た 野 菜 組 合 員 が 翌 3 4 年 に は 名 3 5 年 に は 名 と 全 組 合 員 の 約 半 数 を 占 め る よ う に な っ た そ の 後 も 近 郊 野 菜 栽 培 者 は 増 加 の 一 途 を た ど り 年 2 月 に 出 さ れ た 野 菜 生 産

114 者 関 係 の 新 聞 広 告 に は 聖 州 郊 外 2 千 家 族 の 野 菜 栽 培 者 と の 文 字 が 見 ら れ る こ う し た 日 本 人 の 野 菜 つ く り が 増 え た こ と に よ り 単 に 野 菜 の 生 産 量 が 増 加 し た の み な ら ず 野 菜 の 種 類 の 面 に お い て も 新 品 種 の 導 入 が お こ な わ れ て 豊 富 と な り さ ら に 品 種 の 改 良 あ る い は 日 本 な ど か ら の 優 良 品 種 の 導 入 に よ り 品 質 の 面 で も い ち じ る し く 向 上 し た こ う し た こ と は ま た サ ン パ ウ ロ 市 民 の 食 生 活 の 面 に お い て も 単 に そ れ を 豊 か に し た ば か り で な く 徐 々 に 未 知 の 野 菜 類 を 普 及 さ せ る に 至 り 従 来 の 食 生 活 を 大 き く 変 革 さ せ る ま で に な っ た 4. 養 鶏 前 記 の 野 菜 栽 培 と 並 ん で 日 本 移 民 が 近 郊 農 業 の 中 で 確 立 し て い っ た も の に 養 鶏 産 業 が あ る が そ れ に つ い て は 第 I 項 の 新 作 物 の 導 入 と 育 成 の 8 ) 養 鶏 の 項 ( P ) で 述 べ て い る の で こ こ で は 省 略 す る

115 5. 果 樹 栽 培 果 樹 栽 培 と く に 温 帯 果 樹 栽 培 は 野 菜 栽 培 養 鶏 と な ら ん で 近 郊 型 集 約 農 業 の 主 軸 を な す も の で あ る 日 本 移 民 が 永 年 作 物 で あ る 果 樹 の 栽 培 を 本 格 的 こ 手 が け る よ う に な っ た の は ジ ャ ガ イ モ や 野 菜 の 栽 培 養 鶏 な ど で 自 分 の 土 地 を も ち 経 済 に あ る て い ど 余 裕 が で き て か ら で あ る ブ ラ ジ ル に は 古 く か ら ヨ ー ロ ッ パ 移 民 が 導 入 し た ブ ド ウ カ キ ナ シ ス モ モ ク リ な ど 日 本 移 民 に も な じ み の 深 い 果 樹 が あ っ た が そ の い ず れ も 自 家 用 生 産 の 城 を 出 ず 商 品 と し て の 生 産 は ほ ん の 一 部 に つ い て し か お こ な わ れ て い な か っ た そ れ ら の 在 来 種 の 果 樹 に せ ん 定 摘 果 施 肥 な ど 綿 密 な 管 理 の 手 を 加 え さ ら に 品 種 改 良 を お こ な い あ る い は よ り よ い 品 種 を 導 入 し て 商 品 と し て 生 産 の で き る 果 樹 栽 培 を き ず き あ げ た の は 日 本 移 民 で あ る

116 こ の あ と 近 郊 型 の 集 約 農 業 が 奥 地 に も 波 及 す る よ う に な っ て か ら は 前 項 の 新 作 物 の 導 入 と 育 成 で の べ た よ う に ブ ラ ジ ル 原 産 あ る い は 古 く か ら ブ ラ ジ ル に 在 っ た 熱 帯 果 樹 亜 熱 帯 果 樹 の ア ボ カ ー ド パ イ ナ ッ プ ル パ パ イ ア マ ン ゴ ー ば ん じ ろ う メ ロ ン ス イ カ な ど ご く 粗 放 的 に 栽 培 さ れ て い た も の も と り あ げ て 前 と 同 様 に 栽 培 方 法 の 改 善 品 種 改 良 新 品 種 の 導 入 を 積 極 的 に お こ な っ て 経 済 栽 培 の 基 礎 を つ く っ た 現 在 で は そ れ ら の 大 規 模 栽 培 が あ ち こ ち で お こ な わ れ 国 内 消 費 を 賄 っ た う え 欧 米 各 国 へ の 輸 出 も で き る ほ ど に な っ て い る 6. 奥 地 に 波 及 し た 集 約 的 農 業 コ ー ヒ ー 農 場 の 契 約 労 働 者 と し て 渡 航 し て き た 日 本 移 民 は そ の 契 約 終 了 後 多 く の も の が 独 立 自 営 農 民 と し て 各 地 の 日 本 人 集 団 地 へ 入 植 し た が こ れ ら の 入 植 地 は 永 続 性 の あ る も の で は な か っ た ほ と ん ど の 耕 地 で は コ ー ヒ ー あ る い は 棉 作 の 単 作 を 現 地 人 と 同 じ よ う に 無 肥 料 の

117 地 力 掠 奪 農 法 で や っ て い た か ら 地 力 の 衰 え る 数 年 後 に は さ ら に 未 開 の 土 地 を 求 め て 移 転 せ ざ る を 得 な か っ た か ら で あ る こ の 当 時 の 日 本 移 民 の 移 転 の 回 数 を 年 の 日 本 移 民 実 態 調 査 で は 一 世 帯 あ た り の 移 転 回 数 は 平 均 6 回 半 と 記 し て い る こ う し た 出 稼 ぎ 的 不 安 定 な 心 情 が な く な り 大 地 に 腰 を す え た 態 度 が 見 え は じ め た の は 日 本 が 敗 戦 に 終 っ た 第 2 次 大 戦 以 後 の こ と で あ る 戦 後 サ ン パ ウ ロ 市 内 や 近 郊 に 移 転 す る も の が 多 か っ た が こ れ は お そ ら く 永 住 の 居 を 定 め る 最 終 的 な 移 転 で あ っ た と 考 え ら れ る こ う し た 常 な き 移 動 と い う 不 安 定 な 状 態 が 終 り 永 住 の 地 が 定 ま る と と も に 奥 地 農 業 も 開 拓 は 地 力 掠 奪 の た め の 開 拓 で な く な り 肥 料 や 農 薬 を 積 極 的 に 使 い 出 し さ ら に ト ラ ク タ ー な ど の 機 械 化 も 普 及 し そ の 結 果 と し て 栽 培 規 模 も 拡 大 し 生 産 性 も 高 ま り 日 本 人 移 民 の 経 済 的 状 況 は い ち じ る し く 向 上 し た さ ら に 年 か ら 7 0 年 代 の 初 め に か け て サ ン パ ウ ロ 市 を 中 心 と し た ブ ラ ジ ル の 主 要 都 市 を 結 ぶ 道 路 網 が 完 備 し ま た 地 方 都 市 市 場 が 発 展 す る よ う に な っ て か ら

118 は 奥 地 農 業 も 従 来 の 単 作 と い う 不 安 定 な 営 農 を 脱 し 野 菜 果 樹 養 鶏 を と り 入 れ た 多 角 営 農 に 変 る こ と が で き た の で あ る 現 在 で は サ ン パ ウ ロ 市 か ら 1 千 キ ロ も 離 れ た 奥 地 に お い て も い わ ゆ る 近 郊 型 の 集 約 農 業 を 行 な い 現 地 人 で も 手 入 れ の で き る コ ー ヒ ー や 棉 と い っ た も の は こ れ ら の 日 雇 人 に ま か せ 日 本 人 移 民 自 身 は 高 級 な 技 術 を 必 要 と す る イ タ リ ア ブ ド ウ な ど そ の 他 の 作 物 に 力 を 入 れ て い る と い う も の が 多 く な っ て い る い わ ば 大 型 の 近 郊 農 業 が 奥 地 に 普 及 し た と い う こ と で あ る が こ う し た 単 作 農 を 典 型 と し た 奥 地 農 業 が 近 郊 型 の 農 業 に 変 り 得 た の は 先 に あ げ た 流 通 機 構 が 完 備 し た と い う こ と の ほ か 協 同 組 合 の 組 織 機 能 の 充 実 が 大 き な 要 因 と な っ て い る 日 本 移 民 の 集 団 す る 各 地 域 に は 日 系 の 農 業 組 合 ま た は サ ン パ ウ ロ に 本 拠 を 置 く 大 手 組 合 の 出 張 所 が 設 け ら れ て 独 自 の 組 合 活 動 を お こ な っ て き た こ れ ら の 農 業 組 合 は 一 般 に は 生 産 の 指 導 に は じ ま り 生 産 資 材 の 配 給 生 産 物 の 集 荷 輸 送 そ し て 最 終 的 な 販 売 輸 出 に 至 る ま で の 組 合 活 動 を お こ な っ て い る が 最 近 は 極 端 に い え ば 農 業 者 は 組 合 の 指 導 に 従 っ て 生 産 活 動 だ け を や っ て お れ ば そ れ で よ

119 い というほどの充実ぶりをみせている 道路網の発達とともに この組合組織の充実が 数百キロも離れた奥地においても サンパウロ市やリオ市など大都市を市場とした近郊型の作物をとり入れることを可能に し とかく不安定であった奥地農業を安定させ さらに発展させることになったので ある サンパウロ州奥地での加工トマト栽培

120 7 集約農業の果してきた役割と現在 日本移民の集約農業が ブラジル農業に与えた影響は非常に大きい 前にのべたとおり 初期移民がジャガイモで始まり 野菜 養鶏 果樹を加えて近郊 型集約農業の形態をつくり上げたが それら初期移民の耕作規模は極めて小さく ほと んどが10ha以下の規模であった この10haという規模は ブラジルでは 生産性のない規模 とされており 農地 改革に際してブラジル農地改革院が零細農 ミニフンジオ として整理する対象となっ ていた その生産性のないものと規定されている規模の耕地面積で 日本的な集約農法を導入 し高度な技術を用い 肥料を使用し 農薬を散布して高い収益性を示したことは ブラ ジルの一般的な農業水準からみると まことに驚異的なことであった 広大な未利用地をもつブラジルにおいては 生産を上げるという概念は とりもなお きず原始林を伐採し 耕地面積を押し拡げることであった 原始林を焼き払い 堆積さ

121 れている有機質を利用して無肥料栽培をおこない 数年にして地力を消耗しつくすと さらに新しい原始林を求めて開拓前線を拡げていく こうした地力掠奪農法が 20世紀前半までブラジル農業の一般的な形で 日本移民 もその初期 コーヒー園労働者から独立したあと1950年代まで このような掠奪農 法をもっぱらにして サンパウロ奥地の原始林を伐り開き地力を蚕食しながら移動し て 隣接パラナ州まで移っていった 日本人集団地の離合集散が常ならなかったのは多くはそのためであり 自衛のために 農業組合を設立しても崩壊することが多かったのは 構成員である組合員の移動が激し かったからである こうした奥地農業のあり方にあきたらなかった一部の日本移民が サンパウロ近郊に 来てみると 近郊の土地もすでに一度は略奪されて捨てられた土地であり 無肥料では ろくな収穫は望めなかった そこで知恵を働かし 屠殺物の残物を利用して施肥をおこ ない 農具をつくり 文字通りの耕作をすることになったのである 近郊農業において 日本移民は生きるために 初めて日本で経験した農業技術を生か

122 したのである こうした農業のあり方は移民たちが自ら生きるためのものであったが 結果として ブラジル農業に全く新しい型をもたらすこととなった それは 生産の増強とは 開拓前線の拡大ばかりでなく 単収の増強ということもあ り得るのだ ということを示したのであり 一度利用しつくした土地も再び利用し 生 産することが可能なのだということも ブラジル農業界に教えるものであった こうした集約農業の形態は 時代とともに形を徐々に変えながら奥地にまで及び かって牧場でしかあり得なかった荒廃した土地を再び利用して 果樹 野菜 養鶏の生 産地としてよみがえらせたのである こうして生産された各種産物は1300万の大サンパウロ都市圏市民の食卓を賄った のみならず 整備された幹線道路綱を利用し 数千キロ離れたブラジル東北部の都市ま でうるおしている さらに ブラジリア首都圏 リオ ベレン ポルト アレグレ クリチーバ ベロ オリゾンテ サルバドール マナウス ヴイトリアなど各州都をはじめとして 地方各

123 都市の近郊にも 日系人の手によってこの集約農業が移植され それぞれ発展して 地 方農業のあり方に大きな示唆を与えている 現在 この集約農業の形態は大きく変っている サンパウロ州の工業の発展は サン パウロ近郊の農業活動を圧迫し 工場が建設され そして住宅地が外側へ広がるたび に 農地は縮小され あるいは更に奥へと移動することを余儀なくされている 30年前に桃と養鶏で名を成したイタケーラ植民地は 今はその片鱗すらも留めぬ市 街地となり それに続くスザノ モジ ダス クルーゼスも次第に農業経営はむずかし くなってきた この傾向は1970年代からとくに顕著となり アチバイアのような近郊集約農のモ デルとされていた場所ですら 別荘地化して 異質の発展を遂げつつあるが このアチ バイアの現象は 近郊の各地で普通にみられる現象となっている 日本移民が初めに組み合わせた野菜 養鶏 果樹の形も変らざるを得なくなった 養 鶏は 住宅地が接近したことで衛生上の問題があり また道路網の完備で 近郊での小 羽数飼育の旨味が減ったなどで 廃止するか 奥地へ移動して大型養鶏に切替えるかの

124 選択を迫られ 果樹もまた 比較的広い面積を必要とし 人手も工業にとられて優秀な 労力が得られない 木も老齢化したなどで 奥地に適地を求めて移らざるを得なくなっ た そのため近郊では 遠距離輸送の無理なサラダ用野菜や花卉などの集約農 あるい は花卉専業の大型農家が増えている また サンパウロから100キロ以上離れたブラガンサ パウリスタのジャガイモ カンビーナス インダイアツーバのトマトも さらに奥地 あるいは他州で栽培される ようになっている カキ モモ ビワなどの温帯果樹はイタケーラ スザノ モジなどのセントラル鉄道 沿線から アチバイア カンビーナス方面に移り さらにミナス州南部の山地などへ分 散している イタリアブドウは主として気候上の理由で分散しているが 初期の産地は大きく後退 し 代ってサンパウロ州南西部及び西北部地帯 さらに北パラナ ピラポーラ ミナス 州 ジュアゼイロ バイア州 と広がって それぞれ違った時期の収穫期をもつ生産団 地が形成されている

125 ひるがえっで 伝統的なコーヒー 棉花 コメ トウモロコシ 落花生の栽培で特徴 づけられていた奥地農業をみると 最近20年間にかなり移り変りをみせている 相次 ぐ降霜と地力低下のためにコーヒーは大きく後退し 棉花 コメなどの雑作も縮小さ れ 替って大豆 採卵養鶏 果樹 砂糖キビ栽培 牧畜が伸びつつある 中でも州西部 地区のオレンジ生産はめざましく 減少するコーヒーに替って主要な輸出作物となって きた また 地方都市の発展とともに 野菜の需要も増えたことから リベイロン プレッ ト アララクァラ バウルー アラサツーバ プレジデンテ プルデンテなどの奥地都 市の周辺に それぞれ小規模な近郊農業が成り立ち 野菜や果実の生産が増え 以前は サンパウロ市周辺に集中していた生鮮農産物の供給源が多地方に分散した 従って 野菜 果実 鶏卵の供給という意味では サンパウロ州内における近郊と奥 地の区別はほとんど無くなり サンパウロ近郊が耕作地の問題で伸び悩む代りに 広い 土地をもつ奥地農業がその不足を補い 州内全体の需給バランスをとっている という のが現状である

126 以上 日本移民が日本からもってきた集約農業が どう変ったかを大ざっばにみてき たが 形がどう変っても 野口弥吉 農学大辞典 のいう 一定の耕地面積に資本 技 術 農機具 農薬 肥料 諸資材のような生産手段 と労働力 雇傭労力を含む を追 加的に投下して 単位面積からの収益を高める という集約農業の神髄を生かしている ことは明らかであり 次項でのべるセラード開発も 生産団地も 発展した集約農業の 新しい一つの型である ということがいえるであろう Ⅲ 新しい農業の開発 ブラジル農業は1970年代から変化した 1960年代半ばから急激に発展してき た大豆 小麦 米 トウモロコシなどの栽培は 機械化により それぞれに耕地面積を 拡大した この農法を早くからとり入れたリオ グランデ ド スール州 サンパウロ州 パラ ナ州などでは1960年代末から農地不足に悩み 上記地方の農業者は南4州以北の農

127 業未発達地帯に入り込み 高い技術水準で 新しい農業地帯を拓いた そのパイオニア は南部リオ グランデ ド スール州の農業者であった 彼らは1960年代に ごく 短期間で マット グロッソ州に大豆 小麦 トウモロコシ 米の大栽培地をつくりあ げた この農地不足は日系農業者にも痛感されていたところであり たちまち これに 追従することになった ただ インフラストラクチャーのできている南部4州と違い 市場からの距離が遠い しかも農業者不在といった新地帯の開発は おのずから違った形態の農業が生れること になる 一つは集団開拓地 他は特定作物の生産団地という二つの概念である ここで政府の開発事業だが この時期に急に始まったものではなく 政府は前世紀の 後半から 国内各地に大農業団地を拓いてきているが そのいづれも農作物生産地とし て成功したものはなかった このため 政府は最近 ブラジル南部の有力な農業団体に プロジェクト段階から協 力を要請するようになり ここに日系農業協同組合も参加を求められることになった

128 その一つがセラード農業だった 1 ブラジルのセラード ブラジルのセラードの面積は約1億8千万ha 下図の通り ゴヤス ミナス マッ トグロッソ ピアウイ マラニオンの各州にわたって分布し ブラジル全土のほぼ20 日本全土の約5倍 を占める ブラジルのセラードは 南部アジア アフリカ オーストラリアにおける熱帯サバン ナ気候と同じ気候帯に属する このセラードに共通した気候 土壌は次の通りである ①年間降雨量は平均1500mm前後である 地域によってバラつきがあり セラー ド全体の65 は降雨量1200 1800mmの範囲内にあるが 2000mmを 越す多雨地帯 1000mm以下の寡雨地帯もある きびしい乾期は4月 9月と続 く

129 第一図 セラードの分布図

130 ②セラード全面積の約90 は養分欠乏の酸性土壌であるが 地形は平坦か あるい は軽い波状形のところが全体の70 を占めている セラードのほとんどは排水性は良 好であるが 土壌の保水性は弱い 農業にとっては 土質は極めて貧しく 5カ月以上もの乾期があるという きびしい 自然条件をもつこのセラードの開発が 急激に関心を高めたのは ブラジル南部に未開 発農地が少なくなったことと 高度の技術と労働意欲のある農業者ならセラードでも農 業は可能と判断されたからである また アマゾニアの森林地帯の開発よりもセラードの開発のほうが 資金的にも容易 で 環境破壊のリスクが少ないということもあった なお ブラジルのセラードの開発は すでに50億を越えた地球上の人間の今後の食 糧確保のため とくに南部アジア アフリカ オーストラリアなど熱帯サバンナ開発の ため なんとしてもその開発技術の確立が必要だとの基本認識があった

131 a 政府のセラード開発案 ブラジル政府は 新しい農業技術を駆使すれば 5000万haのセラード地域が農 畜産開発に利用できるとして 1975年1月20日 連邦法令第75 730号に よってポロセントロ POLOCENTRO Programa olvimento dos de Desenv Cerrados セラード開発プロジェクト を設定 し ミナス ゼラエス マット グロッソ ゴヤスの4州に分布するセラード12地域 に 1975年から1979年までの間に370万haのセラードを農畜産の生産地と して開拓する うち180万haは農業に 120万haは畜産に 残りの70万ha は森林に向けたいとした 以上がブラジル政府のセラード開発案であるが この案の発表以前に コチア産業組 合は ミナス州政府 連邦政府と提携して ミナス州においてPADAP計画によりセ ラード開発に先鞭をつけていた

132 b 日系農業者がPADAPの先駆 PADAP Programa o Alto de Assentamento Dirigid Paranaiba はミナス州内の パラナイーバ河上流開発計画 である コチア産業組合はその中心となるサンゴタルドに事業所をおいた サンゴタルドからミナス州都のベロ オリゾンテには300km サンパウロ市へは 740kmリオ市へは800kmであるが すべてが舗装道路で結ばれ 交通事情は良 好である 標高は1150 1190mとやや高く ほぼ平坦地でシャッパドンと呼ばれてい る 国道に治って 354号線 南北に伸びる台地状のセラードは 雨期の豪雨を 東 側ではインダイア川 とボラシュード川に落したあと サンフランシスコ河に注がせ 西側ではパラナイーバ川からパラナ河に流す 分水嶺の台地となっている この台地の上で あちこちにオーリョ デ アグアと呼ばれる湧水が噴き出し 細流 をなして東西の斜面へ流れ落ちていく その斜面下方に比較的肥沃な土壌が堆積する地

133 帯があり 地元の住民はこの土地を利用して自家用のマンジョカ芋とフエイジョン豆 トウモロコシなどを栽培してきた この小面積の農耕と高台の低木を焼いてつくる木炭以外には産業らしいものはなかっ たこの地帯が ミナス州政府とコチア組合及び組合員の協力によって 一大農業地帯に 変貌したのである C PADAPの成績 PADAPは 大豆 陸稲 小麦 コーヒーの栽培で始まった 陸 稲 初年度 800ha がベラニコ 雨期の中にある小乾期で 1 2週間 から30日に及ぶ例もある とイモチ病の被害で ha当2俵 翌農年 1400h a もha当1 5俵といった惨たんたる成績で このあと長く放棄された 80年代 に入ってから耕地の輪作の関係で若干の稲作をとり入れたが 全体で100 250h aていどである

134 大 豆 初年度 74 75農年 2000haの植付けでha当りの平均収量は 僅か6 7俵であった これが2年目 18俵 3年目 20俵 と次第に増加してい き 6作目 79 80農年 には1万9千haの栽培面積の平均でha当り36俵に 達した このあと81年から83年までに 大豆栽培の内容が変る それまでは冬作に小麦を 栽培するため大豆は早生種であった それがこの時点から晩生種が導入された これは 80年から83年までの天候異変と潅水設備のピポーセントラルの導入が始まったこと による 天候異変というのは この地帯の年平均降雨量1500mmといわれているのに 8 0年 1960mm から83年 2485mm までは多雨量が続いた そのため早 生 種 大 豆 の 収 穫 期 に な っ て も 収 穫 が で き ず 放 棄 し た 8 3 年 5 0 0 0 h a こ の こ と から晩生種の導入が始まったが ha収量は早生種 30 35俵 晩生種 45 4 7俵 と晩生種のほうが10俵ほど多い トウモロコシ 80年代の始めからトウモロコシが加わった これは単に相場の影

135 響からだけでなく 大豆単作の連作障害を防ぐためにとられた方法である これの平均 収量は当初 80 81年 にha当り65俵だったものが次第に向上して 近年では 100俵になっている 小麦 セラードの穀物栽培は夏期 雨期 は大豆 トウモロコシで良いとしても 問題は冬期作である ここでは初めから小麦が目標とされていた これは当地方の標高 が 1100mと高く このため亜熱帯圏ながら5月から8月までの月間平均気温は2 0度以下 湿度は50 台ということで 小麦作可能とみられていた たしかに小麦作 は可能であった 乾期とはいえ 13年間の平均降雨量は4月に95mm 5月に60mmある この ため初年度 75年 ha当り14俵だった平均収量は 4年目 78年 には23俵 となった 79年 81年 83年のような天候異変で不作となったこともあるが 天 候に恵まれればha当り34 35俵に達し 89年などは非潅水区で平均60俵は堅 いといわれる畑もあった が小麦作が安定したのは 1983年に導入された最初の潅 水機ピボーセントラル11台が稼働を始めたからである

136 83年は異常降雨でとくにその威力を発揮できなかったが 翌年からは60 70俵と 確実に生産性をあげ 小麦作は安定してきた ただ政府の農政変更で この小麦作の行 方も混沌としている 1988年にこの地区にはピボーセントラルが39台設置されて いる コーヒー コーヒーの植付面積は87 88年で4436ha これから6万俵 精 選 が生産された 89年は 84 85年に定植された230万本が生産樹齢に達し て かなり生産は増えるはずである セラードのどこでもとはいえないが サン ゴタルドの強みは 地味 気候が好適 で 高品質のコーヒーがとれることである 以上の作物に加えて ピポーセントラルが導入されたあとは 乾期作物に次のような ものがとりあげられ 当地方の農業を安定させつつある d 新たな乾期作物

137 エンドウ豆 85年から始まり ha平均収量は非潅水13 20俵 潅水20 3 6俵をあげ 現在は潅水栽培700ha 非潅水栽培1100haであるが これは缶 詰会社との契約栽培である 加工用トマト 乾期4 7月の気温は北海道北部の真夏の気温と変らない この5カ 月間の雨量は255mmと少ないが 当然 湿度も50 台と乾燥しているので病虫害 は少ない そこに適当に潅水をおこなえば と試験栽培中である ジャガイモ 試験栽培中 15haの栽培面積でha当り370 400俵の平均収 量 ニ ン ジ ン h a 当 り 収 量 1 5 0 0 箱 2 5 k g 入 で 今 や 重 要 な 作 物 と な っ て い る ニ ン ニ ク h a 当 り 収 量 4 7 0 0 箱 1 0 k g 入 野 菜 種 子 種 子 会 社 の 依 託 で ニンジン キュウリ トマト ピーマン オクラ ハナヤサイなどの採種をおこ なっている ちなみに 3年で一応のメドが立ち 6年で軌道に乗ったPADAPは 9農年目の 1983年には 管轄するサン ゴタルド事業所の販購買事業量を 88あるコチア組

138 合事業所 支所を含む のトップに立たせ 今なおそれを維持させている 左 上 小麦 小麦作は年々生産性が上がっているが 問題は政府の価格政策 左 下 コーヒー サン ゴタルドは地味 気候が好適なので 高品質のコーヒーがとれる 右 上 バタタ ジャガイモはha当り370 400俵とれ いがいな収益となった 右 下 ピボーセントラル 大型灌水機ピボーセントラルの導入で新たな乾期作物の栽培が可能 と な っ た

139 2 日伯協同の開発事業 1974年 ブラジルを訪れた日本国総理大臣田中角栄は セラード開発のための 経 済協力プログラムを検討したい との提言をおこなった 日伯両国政府によるセラード 構想はこの時から公式の場で論議されるようになった その頃 すでにコチア組合が推進する前述のPADAPは第1陣24家族の入植が始 まっており 一方ブラジル農務省は広大なPOLOCENTRO セラード開発プロ ジェクト の案を作成中であった 76年にガイゼル大統領が訪日 経済協力に関する総合プログラムについての両国政 府の声明書に調印したあと 事務レベルでの細目検討がおこなわれ 実務担当機関とし て CAMPO Companhia ricola de Desenvolvimento Ag Brasil Japao 日伯農業開発会社 を日伯共同出資で設立 した 77年9月にパウリネリ農相が訪日 両国政府間で セラード農業研究協力 がとり きめられ ブラジルはEMBRAPA Empresa Brasileira de

140 Pesquisa A g r o p e c u a r i a ブ ラ ジ ル 農 畜 産 研 究 公 社 が C E AC Centro de Pesquisa Agropecuaria dos P C e r r a d o s 国 立 セ ラ ー ド 農 業 研 究 所 を 設 立 ブ ラ ジ リ ア 郊 外 に 試 験 圃 場 を 開いたのに対し 日本側は78年度より国際協力事業団を通じて 専門家から成るチー ムを派遣して研究に協力した 実務機関であるCAMPOに対する資金準備のために 両国ではそれぞれ投資会社が 設立されていた ブラジルではBRASAGRO Empresa timento Agroindus trial de Inves B r a s i l e i r a ブ ラ ジ ル農工投資会社 が誕生し ミナス州開発銀行 ブラジル銀行など44企業が出資に参 加した 日本側ではJADECO Japan al Devel opment Brasil Agricultur C o r p o r a t i o n 日 伯 農 業 開 発 協 力 株 式 会社 が設立され この両社の出資により78年11月CAMPOの創立総会がおこな われ これより実施計画がスタートした

141 a 第1次セラード開発計画の概要 ブラジル農務省が企画しCAMPOが実施する計画は段階的なものでその第1段階が PRODECER I Prbgrama os de Desenvolvimento d C e r r a d o s I 第 1 次 セ ラ ー ド 開 発 計 画 と 呼 ば れ ミ ナ ス 州 北 西 部 のイライ デ ミナス コロマンデル パラカツーの3地区における合計58 771 haの土地が対象とされた それぞれ パイロット計画 と呼ばれる事業計画が作製さ れ 94家族の植民事業と2企業農場 およびCAMPO直営農場造成が実施された インフラストラクチャーの一部はPOLOCENTROの資金が転用され また一部 はミナス州政府が負担して 延べ215kmにわたる道路建設と163kmの配電工事 が実施された PRODECERに対する総投資額は5000万ドルでJADECO 49 とBR ASAGRO 51 がそれぞれ出資し 日本側ではJICA Japan ernational Cooperation Int A g e n c y 国 際 協 力 事 業 団

142 を通じて 更に2500万ドルの融資をおこなうことになった PRODECER Iは もともと日本政府がブラジル側に提案して始まった経済協力事業であるが ブラ ジル農務省の意向で 日系の農業協同組合または農業企業の参加を当初から考えてお り PADAPを通じてセラード開発の経験をもつコチア組合に対しては特別な期待が 寄せられていた 日伯の両政府よりの要請を受けたコチア組合はこの計画への参加を決定し50家族が 入 植 し ほ か 日 系 で は セ ラ ー ド 農 産 開 発 会 社 一 C D A C 1 0 1 2 0 h a が 日 系社会有志の資本で設立され 参加している a 1 コチア組合のパラカツー団地 コチアの計画地は パラカツー市から北西へおよそ100kmの所に位置する2万2 千haの土地で標高は800 1000m やや起伏がある パラカツー市から主な都 市までの距離はブラジリアに220km ウベルランジア400km ベロ オリゾン

143 テ545km リオ1009km サンパウロ980kmで 港湾設備をもつビトリア までは1086km サントスへは1058kmとなっている このあたりの気候条件は 年間平均最高気温38度C 最低18度C 平均降雨量1 200 1300mmで乾期は長い 植生はカンポリンボ 草原 からセラード 低木疎林 にわたり変化がある 高地 では緩やかな地形で排水良好な砂質土壌が主体で 所どころに見られる陥凹地には水源 があり 小川が流れ排水不良の土壌も存在する 大部分の土地は機械化農業に適する この土地を平均400haで50区画に分割 組合員に分譲した この計画地の主要 作物は次の通りである 大豆は初年度のha当り840kg 16俵 から82年度 は1467kg 24俵 84年度は2184kg 35俵 と成績をあげ 今ではこ の団地の主作物となっている 米はha当り 613 1359kgと生産性が上下しているが これは主として夏 の降雨が不規則なことによるものである パラカツ一地方の気象上の特徴は雨期の降雨 分布が不規則なことで 集中豪雨があるかと思えば 次の数週間は一滴も降らず強烈な

144 直射日光が照りつける この現象を現地ではベラニコと呼んでいる コーヒーは84年から収穫が始まったが 不規則な降雨による影響を受けて栽培はや やむずかしいと判断されていた しかし品種選定と肥培管理 とくに有機質肥料を多用 することによって干害が緩和されることが立証され それを実行した一部の組合員は 一般が大減収した86年の収穫でも ha当り20俵以上の好成績をあげている 今日 ではコーヒーは大豆とともにパラカツー営農団地の二大作物とされている トウモロコシは有機質に富む肥沃な土壌を好む作物であるからセラードの痩せ地では無 理と敬遠されてきたが 大豆とコメを3回収穫して土壌養分が増え 物理 化学的性質 が良くなってきた84年度の試作 506ha では ha当り2550kg 42 俵 と セラードではまずまずの成績を収めた そして85年と86年にはEMBRA PAが作出したセラード用の品種を導入 肥培管理も充分におこなったところ 収量は ha当4000 5000kgと向上した この成績はサンパウロやパラナの肥沃な土地における伝統的なトウモロコシ産地と比 較しても遜色はなく セラードでも経済栽培が可能なことを立証している

145 とくに大豆の裏作として栽培すると成績が良く パラカツーでは限られた雨期を有効 に利用するために まず大豆の早生種を早めに播種して これを雨期の最中 1 2 月 に収穫したあと すぐにトウモロコシを植える つまり半年間の雨期に2作おこな うわけである この方式でトウモロコシの団地内の平均収量はha当り82俵 中には 100俵を越す高収量の畑もある a 2 CDACのサンタ マリア農場 1979年の創業であるセラード農産開発株式会社 CDAC は 日伯経済協力によ るプロデセール セラード開発計画 に参加した農業企業である 株主には 日伯両国合弁のCAMPO 日伯農業開発会社 をはじめ 日本側出資会 社 の J A D E C O 日 伯 農 業 開 発 協 力 会 社 コ ロ ニ ア 側 出 資 会 社 の セ ラ ー ド 農 産 出 資 株式会社 それにミナス州立銀行 南米銀行グループ5社 ブラジル東京銀行 ブラジ ル三菱銀行 ブラジル住友銀行 山本グループ5社が名を連ねている

146 サンタ マリア農場はミナス州パラカツー郡 前出のコチア組合パラカツー団地に近 接し 自然条件はほぼ同じであり コチア団地と同種の作物を栽培している b 第2次セラード開発計画の概要 第1次セラード計画がミナス州の3地区で実施され 82年9月に日本側のブラジル 中央銀行に対する貸付が完了し プロジェクトの計画が終ったとき 連邦農務省はその 延長として第2期計画の実施を検討していた 83年2月 ブラジル政府は日本政府にその内容を提示して意向を打診し 同年10 月スタビレ農相が訪日 拡大計画についての協力を正式に要請した これを受けてJI CAは2度にわたる調査団を派遣し その報告に基づいて協力の方針を固め 84年5 月 フイゲイレード大統領が訪日した折 中曾根首相との間で合意に達した 85年2月 特別プログラムとしてPRODECER Ⅱ 第2次セラード開発計 画 が決定され 翌3月 中銀 CAMPOと日本側との間でプロジェクト契約が締結

147 されて スタートした 所要資金は3億ドル これを日伯両国政府が折半し 実務は第 1次と同じくCAMPOが担当している 事業実施地区は ミナス ゴヤス 南マット グロッソ マット グロッソ バイア の5州 このうちPOLOCENTROが実施され 成果をあげた3州では その延長 としての 拡大計画 が またPOLOCENTROの恩恵が少なかったマット グ ロッソと全く対象外であったバイア州では パイロット計画 が通用された 総面積は 19万ha 第1次計画の3倍強の規模であった この第2次計画では 第1次計画の体験から 農業協同組合を主体とする事業計画が 作成された 参加意志を表明した農協組合は次の通りである コ チ ア 組 合 バ イ ア 州 フ ォ ル モ ー ザ ド リ オ プ レ ッ ト 郡 日 系 ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 ミ ナ ス 州 グ ア ル ダ モ ー ル 郡 日 系 C O A C E R A L バ イ ア 州 フ ォ ル モ ー ザ ド リ オ ブ レ ッ ト 郡 日 系 COOPERLUCAS マット グロツソ州ビウーバ地区

148 COOPERCANA マット グロッソ州アナテーラ地区 COOPERVAP ミナス州エントレ リベイロ地区 FEMECAP ミナス州ボンフィノポリス地区 COCARI ゴヤス州ハイネイラス地区 CAMAS 南マット グロッソ州アルポラーダ地区 COOPA GO ミナス州ブリディス郡 COOPA DF ミナス州ピラチンガ郡 CPLAC ゴヤス州ニッケランジア郡 PRODECER Ⅱは その開始が軍政から民政への交替期 さらにブラジル経済 の混乱が始まった時と重なり ブラジル政府では貸付利子の決定などがおくれ このた め 各組合もなかなか正式決定ができず 86年から88年までと相当のムラができ て 実行期間の延長がなされている

149 b 1 コチア組合のオウロ ベルデ計画 土地の取得に手間どっていたコチア組合は 86年末にようやく登記を終り 87年 からスタートすることになった フォルモーザ ド リオ ブレット郡に広がる組合員 所有地30万haのほぼ中央部に 13 558haの土地を入手 約400haづつ 34区画に分割した この地区は組合内部ではオウロ ベルデ地区と呼んでおり 84 年以来 南隣の コチア バレイラス セラード開発組合 が開墾中の土地を含めて すでに100余名の組合員が存在する 土地の取得に手間どったが 88 89農年には 既に計画地面積の大部分が作付さ れた しかし まだ2作目ということと天候の関係もあり 大豆の収量はha当り144ト ンと僅かである その作柄の悪さに加え 大豆の国内相場の安値が スタート直後の入 植者を苦しめた ただし3 4年を要する土作りか終った後に潅水設備が導入されれば 栽培作物も多

150 様化し 現在と全く異なった農業地帯が出現するものと期待される b 2 スール ブラジル組合のグアルダ モール計画 PRODECER Ⅱ ミナス州グアルダ モール郡に購入した第2次セラード開発 計画の造成地は 33区画のうち87年度に18名が入植し うち16名が2600h aの大豆を植付け 88年度に3800トンの収穫を得た また8名が135haの コーヒーを植付けた あと88年に15名が入って入植が終り 1区画保有した組合試験場の整備も終え て 開発計画の全面積が本格的に動き出した ただ ここも現在のところ スタートか ら間もなくで また潅水設備も末導入 91年にピポー セントラルを設置の予定 の ため 栽培可能の作物の種類も少ないが 既に潅水設備導入後の営農方針を試験場を中 心に研究がすすめられている

151 b 3 コアセラル組合のフォルモーザ計画 コ ア セ ラ ル C O A C E R A L こ の 組 合 は 棉 作 ア ル コ ー ル 精 製 コ ー ヒ ー 栽 培ではブラジル農業界を代表する規模をもつ 上野 岡本グループがPRODECER Ⅱに参加するために 新たにつくった組合である この組合に割当てられた15 000haの土地は コチア組合のオウロ ベルデ地 区の北側の地続きで バイア州とピアウイ州の州境にある 気候条件はオウロ ベルデ とほぼ同じである 1区画420haづつ30区画に分け すでに満植であるが うち 17名はパラナ州の日系農業者である 開発は1987年初頭から始まり 4月には3 0区画すべてが拓かれ この年に大豆と米の植付けが終ったが 前述のコチア組合のオ ウロ ベルデと同線 天候による作柄不良 国内相場の安値で苦境に立った しかし すでに土作りを終え 潅水設備の導入体制ができているので ここにも コ チア組合のオウロ ベルデと同様 導入後は現在と全く変った農業地帯が出現するもの

152 と期待されている C ブララジル全産業に大きなインパクト 1970年代から始まったセラード農業は 公式発表では 1985年までに1020 万ha 1988年までに1295万haが開発されたといわれる 1985年のブラ ジルの全耕作地面積は5238万haであったから 同年でセラード農作地は全耕作面 積の約20 に達している このセラード農業は 1988年に全国の大豆生産量の45 トウモロコシは36 米の生産量の47 を占めたと発表されている また憶測ながらコーヒー生産量も 約40 を占めた つまりセラード農業は幾つかの作物ではブラジル農業のなかに相当な比重を占めるまで になってきた セラード農業は ブラジルの全農業 さらには全産業に相当に大きなインパクトを与

153 えた 農業設備機具類 インフラストラクチャー面にも資金が投入され 幾つかの農業 都市も発達した ただ現在のところセラード農業は 相当高水準の技術をもつ農業者が資金を投入した 場合に は 農 業 生 産 が 可 能 な こ と を 実 証 し た 段 階 と い え る 米 大 豆 の 生 産 が 多 い が こ れは開発初期には この二作物以外は栽培不可能なためで とくに米の場合には その 生産は一時期のものに過ぎない またセラードが内陸部に所在するため 陸上運賃が極 めて割高なブラジルでは 他地域とコスト面では競争不可能と見られる地域が多い 80年代前半に一種のセラード農業ブームが現出したため 南部の農業者は土地の安 価さ 地形 地質だけにひかれてマット グロッソ ゴヤス マラニオン ピアウイ バイア州などのセラード地帯にまで入り込んだが あと経済的に行きづまり放棄された ものも少なくない とくに80年代後半になってからのブラジル経済混乱からのハイ パーインフレ 政府の農作物低価格 農業金融高金利政策 割高な諸税公課などは 長 期の安定資金の準備のなかった農業者によるセラード開発に大きなダメージを与えてい る

154 ただ コスト高でも熱帯サバンナは土壌改良の結果で農業が可能なこと とくに乾期 にも潅水用の水が不足しない地域は 潅水により多くの作物を含めた効果的農業の可能 なことを実証し 市場に比較的近い地帯に幾つもの新しい農業地帯が定着してしまっ た セラード農業は 今後にも 開発段階からの経済性ある技術の開発 また自然環境保 全の方法 適作物の発見 安定的営農形態の研究など 多くの研究を必要とする このセラード開発のために従事する全農業者 またその中の日系農家の比率は資料が 少ないが 得られた資料から判断すると 参加している日系農家は 少なくとも全体の 20 に達するものとみられている 3 生産団地開発事業 a サン フランシスコ河流域開発計画

155 サン フランシスコ河は全長3616km 北海道から沖縄までの距離にほぼ匹敵す る 水源をミナス州南部の山脈地帯に発し バイア州を北上 ベルナンブーコ州に入 り アラゴアスとセルジッペの州境を蛇行して大西洋に入る この大河の流域50数ヵ所に拠点を置き 潅漑農業で 東北伯のカアチンガ 乾燥疎 林地帯 地域の零細農を救助しよう という壮大な国家計画 これがサン フランシス コ河流城開発事業である この事業は内務省 当時 CODEVASF Cia DesenvoIvim ento do Vale do Sao de Francisc o サ ン フ ラ ン シ ス コ 流 域 開 発 公 社 が 担 当 し 1 9 7 4 年 か ら 始 ま っ た セ ラ ー ド開発事業と同様 コチア組合とスール ブラジル組合は協力を求められ これに参加 した ここでは第1号のピラポーラ計画に参加し すでに10年を経過しているコチア 組合の果実営農団地の事例を紹介する a 1 ピラポーラ果実団地

156 コチア組合は 1979年3月 CODEVASFに対する協力事業の第1号として パイロット ビラポーラ に参加した 場所はミナス州北部のビラポーラ郡 サン フランシスコの大河とヴェリーアス河の合流点に近く ピラポーラから12km 州都 ベロオリゾンテへは330km 首都ブラジリアへは約500kmの地点で 流通市 場 インフラ面は他の開発地に比べて申し分なく 何よりの魅力は潅漑設備が完備して いることであった 総 面 積 は 1 6 8 5 h a パ イ ロ ッ ト プ ロ ジ ェ ク ト 本 格 的 な 事 業 に 先 立 つ 試 験 的 事業 であるから 規模はごく小さい そのうちの900haをコチア組合が引受け 15に分割して組合員農業者を入れた 入植者はサンパウロ州 パラナ州で果樹栽培の 経験をもつ 中堅の農業者がほとんどであった メロンは潅漑によって成育がよく 10月には最初の収穫ができたが そのほとんど は上級品で 初期の運転資金獲得に大いに役立った このあとほぼ6ヵ月ごとにメロン を植付け 同時にパパイア ハワイの育苗をおこなった パパイア ハワイは定植後約 10カ月で収穫を始め 2年間にわたって収穫できるが この団地は折からのパパイア

157 景気の波に乗り 栽培熱は一層加速した この頃 1980年 からイタリア ブドウの植付けも始まった この団地からは南

158 伯地方の端境期 7月 12月 に出荷できるので 非常に有利であった また ブド ウと並行して永年作物のマンゴも植え 収穫も始まっている 1988年10月現在の団地の果樹栽培面積はつぎの通りであるが 始め15名であっ た入植者は33名に増え 団地内の予冷用冷蔵庫 パッキング ハウスはフル運転をお こなっている ブ ド ウ 2 1 0 h a マ ン ゴ 2 6 3 h a パ パ イ ア 2 7 h a メ ロ ン 4 0 h a ピ ン ニ ア 1 7 h a レ モ ン 3 2 h a マ カ ダ ミ ア 2 h a a 2 タラサー果実団地 ピラポーラに次ぐ第2の協力事業として CODEVASFのプロジェクト クラ サーにコチア組合が参加したのは1983年で すでに6年を経過した 場所はバイア 州北端のジュアゼーロ市から東北方へ約90kmの州道210号線沿いにある 南緯9 度 標 高 3 7 0 m サ ン フ ラ ン シ ス コ 河 の 右 岸 に 当 る 総 面 積 は 約 4 0 0 0 h a

159 コチア組合はその2分の1の2000haを引受けたが CODEVASFによる潅漑 可能面積はそのうちの926haである 入植戸数は27戸 1戸当りにすると約35 haの潅漑可能面積となる この団地は前出のビラポーラと同様 生産 流通 市場 インフラストラクチャー面 の条件は大体そろっている 入植者のほとんどは南伯での果樹栽培経験者であった 営農もビラポーラと同様 初期の換金作物に短期作のメロン 永年作にイタリア ブ ドウをとりあげた この地方がメロンの最適地であることは すでに周辺地帯に入って 栽培をおこなっている日系農業者の実績が証明済であったし ブドウについては サ ン フランシスコ河の対岸 ベルナンブコ州の山本守らが 10年も前から大がかりに 栽培し 好成績をあげていたことは 果樹栽培者なら誰でも知っていた メロンは成育が早く 年中栽培が可能な上 4 11月の高値の時期に出荷できたの で 初期にそれで充分な資金をつくり それぞれがイタリア ブドウを植えた このブ ドウもピラポーラ同様 7 12月が出荷期で南伯の端境期に当る それに北伯市場も 大きく伸びてきた

160 86年末で ブドウの植付面積は207ha そのうち172haが生産段階に入っ て122 000箱の出荷 メロンは63haで85 000箱の出荷である 以上のビラポーラ クラサーのほかサン フランシスコ河流城には ジュアゼーロ ペトロリーナ マニソーバ トゥロン マンデカルー マサンガーノ ベベドウロなど の開発計画があるが 流域の各地には それとは別に 早くから多数の日系農業者が進 出し それぞれ平均100haの農地をもって営農している b サン ジョアキンのリンゴ生産団地 1973年3月 コチア組合は サンタ カタリーナ州の高原地方に リンゴ生産団 地 を造成することを決めた 当時リンゴは国内消費の99 約20万トンを輸入に 依存していた すでにブラジル農務省は 国内産業の育成と外貨節減という 二つの目的を同時に達 成できるリンゴの国内生産を 国家計画の一つとして検討していたが コチア組合も国

161 内に大きな潜在需要があり 将来の産業としても大きく発展することを認め1960年 代の後半に検討をし始めていた しかし 60年代の栽培技術はまだ未熟で 気候や品 種など未知の点が多すぎ すぐに手を出すことはできなかった サンパウロ州カウカイアの果樹栽培者 西森多光 コチア組合員 は 1963年に ブルックネル種の試植を始めていた 冬の気温の高すぎるサンパウロ郊外での栽培品種 は 当時これしかなく 市場性のある良質のリンゴの生産はむずかしかった 翌64年 に西森は サンタ カタリーナ高原の産地 当時 標高1000 1500mの高原 で リンゴ栽培が可能であることが立証され わずかな生産者が散在していた を視察 し や は り リ ン ゴ は 冷 涼 気 候 帯 で な け れ ば と 判 断 し こ の 地 方 へ の 進 出 を 考 え始めたが 技術面の不安で自重した 70年代に入って 技術情報も入るようになり 同志をすぐって リンゴ栽培研究グ ル ー プ を つ く っ た 同 じ こ ろ コ チ ア 組 合 販 売 部 で は リ ン ゴ は 果 実 部 門 の 目 玉 商 品としてぜひ必要 という結論に達していた このそれぞれの未熟な構想に火をつけ 一挙に生産団地計画という具体的プランにま

162 左 右 サン ジョアキンのリンゴ団地全景 手前の石垣は畑の置石を積んだもの 開拓はまず石の根起し作業から始まった で進展させたのは 1971年3月30日に来伯した リンゴの権威 後沢憲志博士 世界的に有名な フジ種 を作出した であった 博士は ブラジル農務省の要請で リンゴ栽培指導のため サンタ カタリーナ州ヴ イデイラにある州立農事試験場に着任してすぐ ブラジルの主なリンゴ栽培地を視察し

163 た サンパウロ州では西森多光らリンゴ栽培研究グループと懇談したが それは彼らに 深い感銘を与え リンゴ栽培への意欲を更にかき立てる刺激剤となった 1972年9月 後沢博士がコチア組合井上会長と懇談 サンタ カタリーナ州におけ るリンゴ栽培の将来性について説明したことから コチア組合理事会の関心は高まり リンゴ団地構想は急速に進展した 74年4月 博士から 良さそうな土地が見つかった という連絡が入り 技術者と 生産者はサン ジョアキンに向った 博士の調査によると ブラジルの中では このサ ン ジョアキンがもっとも好適な気候条件をもっている しかし この地方の欠点は石 が多すぎて 土地の利用率が低いということであった だが リンゴ栽培に命をかける生産者にと っ て は 問 題 で は な か っ た 石 は 大 部 分 が バ ラ バ ラ に 散 っ て い る 置 石 な の で 手 間 は かかっても除去はできるし 土壌の改良も可能だが もっとも大事な気候条件は人力で 変えることはできない 生産者の力強い宣言で この土地を購入することになっ た

164 サンタ カタリーナ州政府は 農務省の指導のもとに 2年前から サンタ カタ リーナ州における温帯果樹振興計画 というプロジェクトをもっていた コンデル レ イス州知事は早速奔走し ブラジルの農業融資の中でも初めてといわれる 農地融資 42億3千万クルゼイロを 州銀を通じて中銀から貸し出されるよう計らってくれた これは 土地の選定を終えた一行が その足で州知事に会い 協力を要請して わず か10数日後の5月6日のことであった このほかの融資措置や 道路 電化工事など 営農団地造成に必要なすべての計画は 73年にスタートしたPADAP アルトパラ ナイーバ計画 をモデルにして作成された 74年8月5日 土地割の抽選がおこなわれ コロニア コチア と呼ばれる第1営 農団地づくりが始まった 75年1月にはサン ジョアキンから17km離れたボアーバ区に第2営農団地をつ くり 8月にはその隣に第3営農団地 76年9月に第1営農団地の隣に第4営農団地 を造成した

165 4つの団地を合わせて54区画 440haに植えられたリンゴ樹は352 000本 であった これが 78年から結実し始め 80年には26 113箱を収穫 81年には18 0 000箱に増え 全営農団地が一斉に経済生産に入った82年には 440 00 0箱もの収穫となった コチア組合は76年1月にサン ジョアキンに事務所を開設 79年3月にパッキン グハウスを建設 続いて選別機などの工事をおこない 83年2月には生産者待望の冷 蔵設備の第1期工事が完了 収容能力2000トンの冷蔵庫が稼働に入った 85年に は 第 2 期 工 事 2 0 0 0 ト ン 8 7 年 に は 第 3 期 工 事 も 終 っ て リ ン ゴ 生 産 団 地 の 冷 蔵能力は計8000トンとなった これは 販売のコントロールに欠かせない武器で フジ ムツといったリンゴの高級種 を 半年以上も貯蔵して 8月以降の高値の時期に市場に出荷することができるからで ある

166 この能力が大きいほど生産者の利益も高まるわけで リンゴ団地と冷蔵施設は切っても 切り離せない関係にある サン ジョアキン地方の産業はこれまでパラナ松を主とした林業と 生産性の低い牧 畜のみであったが このリンゴ生産団地ができ めざましい成績を上げるようになって からは周囲にリンゴ栽培が一斉に始まり サン ジョアキン郡は州有数のリンゴ栽培地 として蘇えった サン ジョアキン郡の調べによれば 1974年のリンゴ栽培面積は 440haであったが1988年には2330haとなり 生産量は2 120 00 0箱となっており 税収も倍増の1 240 000ドルとなっている また このコチア組合のサン ジョアキン進出の前後から サンタ カタリーナ州の リンゴ生産は急増した 1975年度に3150haであったサンタ カタリーナ州の リンゴ栽培面積は 1988年には12 700haとなり 生産量も203 100 トンに昇りなお増植中である コチア組合でまとめた 1986年から1990年までのブラジルのリンゴの生産 量 消 費 量 輸 入 量 は 次 の よ う に な っ て い る 1 9 8 9 年 以 降 は 推 定 単 位 は ト ン

167 消 費 国 1987年 30万 32万 産 22万 25万 28万 量 8万 7万 6万 量 内 輸 1986年 生 入 1988年 1989年 1990年 34万 36万 38万 30 6万 36万 5 4万 2万 生産団地開発事業として サン フランシスコ河流城開発計画とサン ジョアキン のリンゴ生産団地をとりあげた これらはいずれも ごく短い期間で相当な成績をあ げ 将来 の新農業開発に大きな期待をもたせている ただ現実には 1980年代後 半からブラジル経 済政策の大混乱 ハイパーインフレなどのため 短期的には困難 に直面しているところも でている IV 農業協同組合の創設と発展 外国移民がブラジルの農業面で発展させたものに 農業協同組合 がある 日本移民

168 も早くから特色のある農業協同組合をつくりあげた この組織が単に生産面だけでな く 生産物の流通面まで含めて ブラジル社会に及ぼした影響は大きい ブラジル政府が 近代的な独立した 協同組合法 を施行したのは1932年のこと であるが これ以前は 1907年発布の会社法の中で 協同組合の設立 運営などを 規定していた 日本移民はこれに先だつ1918年 すでにミナス州コンキスタで 日 伯 農 業 組 合 S i n d i c a t o Agricola Nippo Brasile iro を創設した この組合は米価不況と借地だった米作者の離散のため 数年にし て崩壊しているが ブラジル初期の協同組合法に先だつ10数年に 日本人は協同組合 と呼ばれるものをつくっていたことになる ブラジル初期の協同組合法 日系以外の協同組合運動については 第1部第3章 日本移民と産業組合の項を また当時の移住地事情については 第1部第2章 初期移 民 農業組合への胎動の項を参照のこと 日本における協同組合運動は大正後半にお いて盛んとなり これらの気運を日本で身近かに経験して来た日本移民たちが 移住先 の環境の中で 自衛手段として協同組合の設立を熱望したのは当然であるが 異国の社

169 会において生きのびるために こうした組織はより切実な希望であった 1920年代後半より 日系集団地にこうした農協は次々と誕生を見 移民たちの生活 安定に役立ったばかりでなく ブラジルの農業経営形態の面においても 従来のファ ゼンダ 大農場 規模の農場とは異なり 小農形態においても経営のなりたつことを可 能とした また 更には 不備であった生産物流通機構を改革し 主要都市への食料供給を円滑に し 食品革命ともいえる変化を与えた 今日では生鮮食品供給の組織として 欠くこと のできない地位を占めるに至った 現在 ブラジル政府は日系移民のつくりあげた農協組織を模範として 協同組合組織 の普及を図っているばかりでなく 組合を通じてブラジルの地域開発に寄せる期待も大 きく とくに広大な面積をもつセラード地域の開発利用には 日系組合との合弁的開発 計画を樹て 先駆的な開発実施もおこなっている

170 協同組合の誕生と発展 1 a 小農の自衛組織として 日系組合の設立は 日本の協同組合運動に負うところがあるにしても そういった組 織への欲求は外国で移民たちが農業で安定した生活を得るために 手段としてより切実 なものであった 農業を営むために集団地をつくる必要があった移民たちは その生産 する物を販売する段階で言葉が解らず 市場取引も満足にできないため 商人に買いた たかれ 常に苦渋をなめなければならなかった こうした移民たちが生きてゆくために は 共同の組織によるほかなかったのである そして その自衛組織として農業組合が 導入された コンキスタの米作組合は別として 組合設立の胎動はその後も度々あったが 部落の 経済的事情などがあり なかなか実現を見ず 1927年の暮れに至り サンパウロ近 郊コチアに コチア産業組合が始めて誕生をみた ブラジル初期の協同組合法による設

171 立であったため 名称は有限責任株式会社コチアじゃがいも生産者農業組合 Soci edade Cooperativa imitada dos de Produtores Responsabilidade de Batata em L Cotia として会社法に基づいて設立された ここでコチア組合設立までの経緯を簡単にたどってみると次の通りである サンパウロ近郊20km余に隣接するコチア村に日本人が入って来たのは1914年 のことである サンパウロ市で大工職をしていた者 あるいは配耕された奥地コーヒー 耕地から移って来た者たちであった 彼らはここでジャガイモの生産に携わった 地力 が衰えると肥料の施用を行うようにし 屠殺残物を肥料として購入使用した 日本移民 がブラジルでも肥料を用いた始りである 雑多な在来種の中からバタタ オウロという優良種を選抜し ボルドー液に始まる消 毒剤の使用に踏みきり 多収穫を得るとともに 近代的な集約農を確立していった 部落に日本人会はごく初期から設立され 親睦団体としての役割 あるいは子弟教育 の役割を果していたが 生産活動が盛んとなり やがて1919年 会の音頭で肥料の

172 共同購入に踏みきる ここで日本人会は初めて組合的な役割を果たすことになり 部落 の日本人たちは 農業組合事業に対する意識を深めるようになった 施肥の効用により 生産規模が広げられるにつれ 家族労働では間に合わず労働者と して近隣のカポクロ 土着農民 が使用されたが 労働力不足のため労賃がせり上るよ うになった これに対し 日本人会は協定をつくり せり上げ防止に努めた 更にジャ ガイモの生産過剰による値下りに対処し 植付け制限を実施して実をあげ 販売に際し てそれまで市場の習慣であった計量に当ってリットル制をキロ制に変えることを商人に 認めさせるなど 種々の体験を通して組合結成への気運は徐々に盛り上ってきた 1921年 日本人会全員を組合員として農業組合を組織し 市場における生産物収容 倉庫の建設 生産物搬出道路の舗装をおこなうこととなったが 倉庫敷地購入の日 予 期せぬ大霜にあい 組合設立計画は一朝にして消え去った 以後1926年まで 入植 家族は増えながらも 組合結成への動きは見られなかった しかし この年に至り おびただしいジャガイモ生産の増加を見 連日市場に搬入さ

173 れるイモは場外に山積みされるまでになった その結果 商人たちにつけ込まれ 値段 をたたかれ 更に盗難にあい 雨にあい品傷みがでるなど 販売上不利な面が続出した 折から日本総領事館は補助金を供与し 組合創立の必要性を日本移民集団地に呼びか けていた また 訪日していた下元健吉は 当時日本で盛んとなっていた産業組合運動 の息吹きにふれて帰って来た この下元の音頭取りによって組合設立運動は本格的に動 き出し コチア周辺の日本人83名が集まり 1927年12月 遂にコチアじゃがい も生産者組合が結成されている b サンパウロ市の膨張と共に発展 このあと サンパウロ州一円に広がる各日本人集団地では コチア同様の経過をた どった後 農業組合が続々と生れた 近郊では サンパウロ市の北方ジュケリー マイ リポラン にジュケリー農業組合 現在のスール ブラジル農協組合 が1929年に 設立された

174 しかし サンパウロ奥地に生れた組合は コンキスタの日伯農業組合同様 日ならず して消滅するものが多かった その原因の主なものは 構成員である組合員の移動に あった 当時の奥地農業は 新地を開いての無肥料 掠奪農業であり したがって地力の衰退と ともに新たに新地を求めて移動してゆくことになる そのため開拓入植地の日本人集団 地もその離合集散は常ならなかった 組合存続も当然不可能となることをまぬがれな かった また当時の移民に組合運営の知識が少なくこのため経営難となったものは少なくな い ブラジルのように国土が広大な割に消費地が少ないというところは 消費地に遠い小組 合の存立は難かしかった コチア組合も創立直後 1929年の世界恐慌のあおりをくい 倒産の危機に見舞わ れたが この難局を切り抜けた後は なお紆余曲折はありながらも 確実な成長を続け ていった

175 こうして創立後崩壊することなく順調に伸びてこられた組合は 単にコチア組合ばか りでなく サンパウロ市郊外に誕生したいくつかの組合がある 1932年に初めて協同組合法が施行され 連邦政府 州政府内に協同組合奨励局も設

176 置され コチア組合も有限責任会社からコチア産業組合 Cooperativa gricola de A Cotia と名称を変更し 名実ともに協同組合として活動 することとなった サンパウロ近郊に生れた組合が崩壊することなく順調に進展できたことは それなり の理由があった 29年の恐慌でコーヒーや棉花栽培をおこなっていた日本人の中に は 小資本で再起できる道を求めてサンパウロ近郊に移り 小面積経営で野菜作りをす るものも多くなり これらのものたちが近郊の組合に参加し 組合は従来のジャガイモ に加えて野菜も取扱うようになり 組合員が増加するとともに 取扱い生産物もトマ ト 野菜 果実というように増加していった これらの生産物の販売が年々増加していったことの裏には サンパウロ市が工業都市 として この時期に急激に膨張していったことがある 当時のサンパウロ市の人口をみ ると 日本移民が近郊に入りはじめた1920年当時は57万9千人であったものが 20年後の1940年には132万6千人となっている 20年間で129 増加し た

177 サンパウロ市人口の増加 年度 人口数 年度 人口数 1890 64 934 1960 3 825 351 1900 239 820 1970 5 978 977 1920 579 033 1980 8 493 598 1940 1 326 261 1985 10 063 110 1950 2 198 096 出所IBGE ブラジル年鑑 1987年 こうした膨張する消費市場を背景とし得たことが 近郊に生れたジャガイモを始めと し て 生 鮮 野 菜 の 生 産 を 中 心 と す る 組 合 に と っ て は 幸 い で あ っ た サ ン パ ウ ロ 市 及 び そ の周辺地区の都市化は食糧消費の絶対量を増大させたのみでなく 同時に食生活の変動 をともなったために 野菜 果実 とくにトマトの消費が激増した まさに このよう な状況に応じて日本人の組織運営になる農業協同組合が登場し これに対する食料供給

178 の 面 で 決 定 的 役 割 を 果 す こ と に な っ た ジ ョ ゼ ア ル ツ ー ル リ ー オ ス ゙ ブラジル の農業構造と日本人 ブラジル移住60年シンポジウム 所収 と評価されている如 く 近郊日系組合は サンパウロ市に食料供給をおこなうとともに 都市の人口増加に よって更に成長をとげることができたのである 後に第2次世界大戦の勃発により 多くの日本人企業の資産は凍結の憂き目にあった が 都市への食料供給の面で 決定的役割を果す 日系組合はついに凍結の対象とはな り得なかった 逆にこれらの日系組合が その順調な発展を期し得たのもまた サンパ ウロ市の飛躍的な人口増加によるものであった点からみれば 日系組合とサンパウロ市 の発展はいわば相互補完的な関係において可能であったといえるであろう C 国際市場にも進出 近郊の組合は この急激に増加する都市の食品需要に応ずるため その生産活動地域 を 拡大していく必要があり 近郊地域から次第にサンパウロ奥地 あるいは隣接諸州

179 へと伸 びていき かって経営不振におちいった奥地組合などもその傘下に収めて飛躍 的な発展を とげた 参考までにこの発展の度合いを コチア組合の組合員数をもって 見ると下記の如くである 1927年 83名 1937年 1 303名 1947年 3 930名 1957年 5 846名 1967年 13 306名 1987年 14 470名 1966年に組合法の改正があり 以後は中央会組織となり 10地方単協を傘下に 収めているが 1988年現在10単協に属する組合員は16 309名である ここに特記せねばならないのは 組合員はそのまま生産者数を意味しないことであ る 1人の組合員の名義は一世帯を代表するばかりでなく その世帯が保有する雇用労働 力が含まれている

180 近郊に誕生し 成長し現在残っている日系組合は コチア及びスール ブラジルの二 大組合であるが このいずれもがジャガイモ生産を主とした組合であり やがてサンパ ウロ市場において野菜類が商品として売れるようになると これを取扱うようになり 更に鶏卵 果実というように取扱う生産物を増してゆき 活動地域が奥地にまで進展す るようになると 棉花 コーヒー その他雑穀顆をも取扱うようになり 今日に至って いる 取扱い生産物の種類はそれぞれ250種類ほどに上っている また これらの生 産物を速かに販売市場に直結させるために 国としてのインフラストラクチャーの完備 していなかったブラジルにあって 組合は独自の流通網を築き上げていった すなわち 集荷 及び生産資材配給のためのトラック輸送網を活動地域内に張るとともに 主要消 費都市には生産物販売所を設け集荷から販売までの一環した流通機構を確立した これ らは単に奥地生産者組合員に大きな経済的利益をもたらしたのみでなく 各消費都市 への生鮮食品供給の面でも大きな役割を果した 更に 今日これらの組合は国内市場のみならず 国際市場にも進出し コーヒー バ ナナ 大豆 果実 野菜 鶏肉 鶏卵に至るまで 独自に輸出までおこなっている ま

181 た 生産資材の輸入も自らおこない 参加組合員の利益を計っている 更にまた 生産 物をより有利に販売するため 二次製品としての加工をも独自におこなっており 屠殺 場 搾油工場 製茶工場などが併設経営され コチア組合などは近く紡績工場を創業さ せるべく建築中である d 大戦の抑圧で 質的転換 同胞移民の利益擁護として生れたのが農業組合としての組織であった そして その 役割を遂行しながち成長してゆく段階の中で 組合は質的に変換していった それほと りもなおきず 日系以外を含めた小規模経営農家の利益擁護団体としての組合であり より幅の広い本来の組合主義へと進展していったのである その質的転換はむしろ第2 次世界大戦の戦時の抑圧を通しておこなわれていったとみられる 戦前における日系組合は 日本を通して組合主義がもたらされたせいもあるだろう が それは完全な日本の産業組合運動の延長であり 単に日本人小農擁護組織であるば

182 かりでなく 日本の産組運動がたどったのと同様の日本国家主義的イデオロギーにも影 響を受けた しかし 大戦の勃発により 敵性資産として ブラジル政府の監督下にお かれた 抑圧の期間を通して 日系組合は逆に日系という狭い枠から脱皮していった それは 敵性資産でありながら 他の日系資産と同様にはブラジル政府が凍結し得ないまでに必 要欠くべからざる 生鮮食品供給組織として重要な存在となっていたからである 単なる日本移民農業者擁護組織にとどまらず ブラジル一般の小農経営者の利益擁護 組織として 質的な変貌をとげる契機を この戦争を通して得た日系組合は 戦後日系 以外の中小農業者の参加も急激に増加し 更に組織としての進展をみた e 中小農家安定に大きな役割 かくして 移民80年の歴史の中において コチア産業組合の如きは ブラジルのみ ならず 南アメリカ諸国においても最大の規模を誇るまでに成長しており ブラジルの

183 他の企業の中においても その販売額においては上位にランクされている ブラジルでは1932年の協同組合法施行以来 政府は組合奨励局を設け その普及 に努めているが 一般に個人主義的傾向が強く 協同組合主義の普及はむずかしいもの があり 組合が創立されても その存続はなかなか困難である 今日 協同組合が普及しているのは外国移民の導入の多かったミナス州 サンパウロ 州 リオ グランデ ド スール州 パラナ州 サンタ カタリーナ州というように南 部諸州に伝統的に組合活動が多い これらの組合活動のうちで主なものは ミナス州を 中心とする農畜産組合 リオ グランデ ド スール州を中心とする小麦生産者組合 米生産者組合 ブドウ酒生産者組合 サンパウロ州を中心とするコーヒー生産者組合 砂糖 アルコール生産者組合 牛乳生産者組合といったところである これらの協同組合がほとんど 単一生産物の生産組合であるのに対し 日系の組合は いずれも創立当初から販売 購買 信用 利用などの各部門を兼備した総合組合であっ た これは日本の産業組合に範をとった ためのものであったが こうした総合組織のも

184 のであった組合は 未開発なブラジルの農村にあっては農家のために最も有効な機能を 果すものであった 農家は組合に参加し 生産活動に従事していれば 生産物の販売は もちろん 必要生産資材の配給 生産資金の融資 生産の指導など 全般にわたって組 合が代行してくれたからである こうした点において日系組合が開発の充分でない農村 地域において 中小農家安定に果した功績は大きなものがある ブラジル政府当局は こうした日系のあり方に範をとって 後進地域の農村に コベ ラチーバ ミスタ Cooperativa Mixta 総合組合 を奨励し 指導 に当っているが 先にものべたラテン的個人主義傾向の強い国民性と さらに農民層の 教育レベルの低さもあってか これらの組合の運営はいずれも思わしくなく 協同組合 普及は常に伸びなやんでいる 以上のようなわけで 協同組合に関する限り 今日もな お外国移民系組合がもっとも充実した組織と活動を維持している この様に日系組合がブラジル社会の中で飛躍的に発展しえた理由は 先にものべたよ うに 時期的にサンパウロ市の工業都市としての発展期と期を一にしたことがあるが さらにその背景として これらの組合を創立運営した構成員たちが日本人であり しか

185 も彼らが日本の農民層の出身であったことが大いにあずかっているであろう 日本人移 民たちはコーヒー労働者としてコーヒー耕地へ配耕されたが 労働契約を終って 独立 農として出発するに際し ほとんど例外なく日本人集団地を形成して入植した 日本人 にとって集団化することは 営農上 また生活の上でも必要欠くべからざることであっ たが この集団志向は時としてブラジル社会への不同化という非難をこうむった しか し 個人として無力を移民でも この集団によってはじめて持てる力を発揮し得たので ある 協同組合主義が集団の個々に簡単に理解され 難なく受け入れられて創立発展の 基盤となりえたのも この日本人の集団志向 日本農民の伝統的な部落共同体意識が あったからであろう 2 日系組合の現状と将来 a 現存する日系協同組合

186 ブラジルに 最初の協同組合法が1907年に出されてから1915年までに14組 合 1916年から1926年までに43組合 1927年から1932年の現協同組 合法が発布されるまでに 日系 非日系合わせて 145の組合が登録された その中 につぎの日系の8組合が含まれていた コ チ ア 組 合 2 7 年 レ ジ ス ト ロ 組 合 2 8 年 桂 組 合 同 セ ッ テ バ ー ラ ス 組 合 同 ジ ュ ケ リ ー 組 合 ス ー ル ブ ラ ジ ル 組 合 2 9 年 平 野 組 合 カ フ ェ ラ ン ジ ャ 組 合 3 0 年 イ ガ ラ バ ー バ 組 合 3 1 年 プ ロ ミ ッ ソ ン 組 合 3 1 年 当時 サンパウロ総領事館に農事部があったが 1929年に日本に拓務省が設置さ れ 海外の拓殖事業の指導 奨励もおこなうことになり 総領事館の農事部は勧業部と 改称し 拓務省の管轄となった 勧業部は農業技術の指導にとどまらず 営農指導まで おこなったが とくに日本移民の生活の安定と経済基礎の確立を計るため 日本で実績 をあげていた 産業組合 をモデルとした 農業組合の設立を奨励 助成した その助成の一つとして 農業組合が正常な活動をした場合 設備投資に要した資金の 一部を日本政府の補助として斡旋したが 上記の8組合は施設建築に当って それぞれ

187 その補助金を受けた この日本政府の補助は8組合が受けたあと間もなく中止となった が 組合設立の気運は各地方に高まった 1932年に 協同組合を特殊法人として認 め 免税措置などを定めた現協同組合法が発令され 翌33年に協同組合奨励局が設置 されてからは 組合設立は一層促進され 34年には日系組合は倍増の16組合となっ た サンパウロ総領事館は この農業者による協同組合結成に深い関心を寄せ その組織 網を強化することを考え 1934年2月に第1回在伯邦人産業組合常務者懇談会を開 いたが 早くも4月には 地方に散在する日系組合の連絡 統一を図り 全体的な組合 活動を促進することを目的とした サンパウロ産業組合中央会を誕生させることになっ た この中央会の創立総会は1934年4月23日におこなわれたが 当日 つぎの日 系16組合が参加を表明した コチア ジュケリー プロミッソン イガラパーバ 桂 平野 バストス レジスト ロ モジ ダス クルーゼス グワランタン イタケーラ セードロ ウニオン セッ

188 テ バーラス カンポ グランデ ビラ ノーバ これには内陸部で棉を扱う組合が増えているが これは1930年のコーヒー暴落 霜害 植付制限令などで 多数のコーヒー農業者が棉作に転向したからである 193 8年から40年にかけて 折からの棉景気でさらに棉作者は増え パラグワス一 マリ リア アラサツーバ ポンペイア プレジデンテ プルデンテ タクアリチンガ モン テ アルト ツパン ビリグイ ロンドリーナ トレス バラスなどにも棉作者の組合 が設立された そのあと 大戦中には生糸の輸入禁止で 俄かに盛んになった養蚕の組 合もこれに加わって ブラジルが独伊に宣戦を布告した1942年には 28の登録組 合と35の任意組合があった 戦時中の日系の産業組合は ブラジルの組合法によって設立された内国団体であった から そのまま経営を続けることができたが 組合の経営者は強制的に内国人におきか えられ 組合によっては商社なみに英 米のブラック リストに加えられた組合もあっ たため経済活動に支障をきたし 経営困如こ陥いって破綻する地方組合もあった 1945年の敗戦のあとに続いた日系社会の 勝ち負け 問題は 組合事業をも混乱に

189 追い込み 地域住民としての連帯意識を失なわせることになった 加えて戦時中の移動禁止で 各地に足留めされた形で営農していた農家は 地力の 低下を主な理由として 戦後は他の新しい地域に向って移動することになった そのた め組合の精綿工場や精米所はたちまち入荷減を招き 組合の経営は一層困難になって閉 鎖する組合が続出した また戦中の生糸輸入禁止で増えた養蚕組合も 戦後の不況で棉 作組合同様の苦境に陥ちいった 各組合はこの戦中戦後の悪条件を切り抜けるため懸命 な努力を払ったが 大半は脱落することになった そのあと 道路網が完備し 農業の近代化が始まると 地方の小組合の組織ではこれ に対応できず コチアやスール ブラジルなど大手組合に吸収合併されるものが多くな り サンパウロ州奥地に残存する日系組合は10指で数えられるように減少した 現 在 活 動 中 の 日 系 組 合 は つ ぎ の 通 り で あ る 名 称 や 建 物 は 残 っ て い て も 活 動 停 止 の も の は 除 く 南 伯 地 方 コ チ ア ス ー ル ブ ラ ジ ル カ フ ェ ラ ン ジ ャ ア リ ア ン サ チエテ バストス マリリア ミランド ポリス オウリンニョス カンポ グラ ンデ イポチ一

190 北伯地方 ここではパラー州 アマゾーナス州 マラニオン州 ロライマ州 ロン ドニア州 アクレ州を北伯地方としたが この地方には ほとんど活動していないもの も入れて20近くの移住地がある 創立当初はそれぞれ農業組合に近い働きをする組織 をもっていたが 不況による入植者の離散その他で解散したものが多く 現在は下記の 5日系組合が活動中である トメアスー総合農業協同組合 パラー州 1931年野菜組合で発足 1935年ト メアス一農協 1949年トメアスー総合農協 1967年第2トメアス一農協を合 併 モンテ アレグレ農業開発総合組合 パラー州 1958年モンテ アレグレ農 協設立 INCRAの斡旋でモンテ アレグレ農業開発総合組合 組合員230名 う ち日系20名 アマゾニカ農業組合 パラー州 1972年創立 1977年スール ブラジル組合と提携 パラエンセ産業組合 パラー州 1939年ベレン地区で結成 1972年サンタ イザベル地区に移転 コチア組合と提携 エフィゼニオサーレス 農業協同組合 アマゾーナス州 1959年マナオス地区に設立 東北伯地方 バイ ア州 セアラー州 ベルナンブッコ州 リオ グランデ ド ノルテ州など東北伯一帯

191 をこの地区に入れた この地方には1950年代の終りから60年代 70年代の初め にかけて10指に余る日本人植民地ができたが 北伯同様 適作物が無く輸送が困難な どで 組合らしきものはできても ほとんどが機能しなかった 70年代以降はコチ ア スール ブラジルなど大手組合の現地事業所に属し 生産団地などで営農している ものが多くなった その他 ミナス州 ゴヤス州 マット グロッソ州など 1970年代以降に開発 された地方では 倉庫 精選工場 輸送 販売などの関係で ほとんどがコチア スー ル ブラジル または非日系の大手組合の傘下に入って営農をおこなっている 以上の日系農協のうち コチア産業組合中央会とスール ブラジル農業協同組合中央 会の事業規模のあらましを次に示す b コチア産業組合中央会 ブラジル名をCooperativa Agricola de Cotia Co

192 operativa Centralという 創立は1927年で 今日までに60年の歴史を有している ブラジルにおいては最 も古い歴史をもつ農協の一つであるとともに その規模においても南アメリカ最大とい われる サンパウロ近郊に83名のジャガイモ生産者をもって発足した組合は 現在 サンパウロ パラナ マット グロッソ リオ ミナス サンタ カタリーナ バイア 州にまたがっている10単協をその傘下に収めており それに属する組合員は16 3 09名 1988年 に上る 1 9 8 8 年 度 の コ チ ア 組 合 の 事 業 規 模 を 数 字 で 示 す と 次 の 通 り で あ る 単 位 は 1 0 0 0クルザード 1988年12月の1USドルは661クルザード 資本金 諸積立金 固定資産 3 070 817 14 707 137 39 375 439 事業分量 販 売 購 買 227 338 793 129 477 134 97 8 61 659 1988年度の取扱い生産物は250種にものぼるが 主要生産物は下記の通りであ る

193 品 名 ジャガイ モ 大 豆 棉 鶏 卵 食 鶏 小 麦 コ ー ヒ ー ト マ ト 玉 ネ ギ トウモロコシ ニ ン ニク 果 実 類 読 莱 類 取扱量 3 321 460俵 7 538 649俵 1 170 246俵 1 907 338箱 16 394 654kg 5 464 109俵 656 984俵 2 608 800箱 1 451 030俵 2 323 191俵 284 589箱 金 額 11 216 900 20 830 800 7 082 800 7 731 800 4 508 500 22 267 900 2 546 000 3 485 500 3 017 300 3 392 500 1 150 000 16 529 900 6 159 900 併設施設としては 農事試験場 種鶏場 屠殺工場 コーヒー精選工場 搾油工場 製茶工場 パッキング工場 ラミー工場などがあるが 現在 紡績工場を建築中である コーヒー 大豆 綿花 紅茶 果実 野菜 鶏肉などを直接輸出し 1987年には

194 3 537万ドルの外貨を獲得した 近年は政府の要請にこたえ ミナス州 バイア 州 マット グロッソ州などのセラード開発にも進出して 着々実績を上げている C 南伯農業協同組合中央会 ブラジル名をCooperativa Central Agricola Sul Brasilという コチア組合より2年遅れた1929年 同じくサンパウロ近郊のジュケリー 現マイ リ ボラン に創立された コチア組合と同様にジャガイモ生産者49名によって出発 したもので その発展経路も似ている 現在の組合月数は40単協で10 074名で ある 1988年度の事業規模は下記のとおりである 単位は1000クルザード 1988年12月の1USドルは661クルザード 事業分量 販 売 24 649 360 16 932 372

195 購 買 7 716 988 1988年度の取扱い生産物は200種以上にのぼるが 主要販売品目は次のとおりで ある 品 名 取扱量 ジャガイモ 金 額 373 455俵 1 613 379 大 豆 405 362俵 1 403 751 鶏 卵 439 585箱 1 713 111 小 麦 536 846俵 2 038 465 コ ー ト 玉 ヒ マ ネ ー 果 野 ン 実 菜 ニ 類 類 1 405 826 ト 592 477箱 837 257 ギ 477 927俵 1 003 404 トウモロコシ ニ 83 529俵 34 257俵 ク 146 342箱 66 161 315 495 4 835 426 1 652 645 併設施設としては 農事試験場 種鶏場 屠殺場 コーヒー精選工場 植林場などが

196 ある コチア組合と同様 政府の要請にこたえミナス州のセラード開発計画に進出して いる d 競合する商業資本 日系組合はたびたび繰り返すように 日本移民たちの利益擁護から始まった その 当初 においては 市場の悪徳商人に対抗するのが目的であったが 今日 逆にその主 要生産物 であるジャガイモ 野菜類 トマトあるいは果物といったものにおいては 市場値を操作 し得るほどの占有率を占めるまでになっている つまり 生鮮農産食品の世界において は 今日もはやおそるべき敵対者をもたない段階にあり その限りにおいて 日系農協 は農協としての所期の目的を達成したのである しかしながら 中小農業者の利益擁護 団体として組合は 従来と違った新たな難関に直面していることもまた事実である 各組合とも現在単なる農産物生産組合としての段階を脱し それらの生産物の加工

197 コ チア 産 業 組 合 中 央 会 が パ ラ ナ 州 ア サ イ に 建 築 中 の 紡 績 工 場 あるいは輸出の面まで進出している 膨大な施設をもち 輸出入まで自らの手でおこ なっているこれらの農協は すでに60年前の農協の姿はどこにもなく 一大企業の様 相を呈している 今日の農協に競合するものは商業資本であり 国際資本である これ らに対して いかに成長していくかは 今後の問題である

198 後継者の育成に真剣だ 日系組合は この60年の歴史の中で 単に日系農業者の擁護の役割を果しただけでな く ブラジルの農業の発展の面で大きな役割を果してきた 中小農の安定 農産物の流 通 供給 生産体制の改革の面で 貢献した点はとくに大きいといえよう

199 参 考 文 献 ブ ラ ジ ル の 日 本 移 民 ブ ラ ジ ル 日 系 人 実 態 調 査 委 員 会 東京大学出版社 1964年 ブ ラ ジ ル の 農 業 1 9 7 3 年 2 月 7 8 年 1 月 号 コ ペ ラ ソ ン 出 版 社 農 業 宝 典 一 養 鶏 家 畜 編 1 9 6 3 年 コ ベ ル コ テ ア 出 版 社 農 業 宝 典 一 野 菜 雑 作 編 1 9 6 7 年 コ ペ ル コ テ ア 出 版 社 農 業 宝 典 一 果 樹 果 菜 編 1 9 6 9 年 コ ペ ル コ テ ア 出 版 社 ブ ラ ジ ル 移 民 史 年 表 半 田 知 雄 編 サ ン パ ウ ロ 人 文 科 学 研 究 所 1 9 7 6 年 コ テ ア 組 合 三 十 年 の 歩 み ア ン ド ウ ゼ ン パ チ コ テ ア 産 業 組 合 1 9 5 9 年 4 0 年 の 歩 み と 現 状 コ テ ア 産 業 組 合 1 9 6 3 年 コ テ ア 産 業 組 合 6 0 年 の 歩 み コ チ ア 産 業 組 合 中 央 会 1 9 8 7 年 ア グ ロ ナ ツ セ ン テ 3 4 3 8 号 ア グ ロ ナ ツ セ ン テ 出 版 社 移 民 の 生 活 の 歴 史 半 田 知 雄 サ ン パ ウ ロ 人 文 科 学 研 究 所 1 9 7 0 年 パ ラ ー 州 事 情 在 ベ レ ー ン 日 本 国 総 領 事 館 1 9 7 7 年 農 学 大 辞 典 野 口 弥 吉 編 養 賢 堂 1 9 6 1 年

200 ブ ラ ジ ル 史 ア ン ド ウ ゼ ン パ テ 岩 波 書 店 1 9 8 3 年 わ れ ら 新 世 界 に 参 加 す 移 住 7 0 周 年 シ ン ポ ジ ウ ム 毎 日 新 聞 社 1 9 7 8 年 日 本 農 業 に 於 け る 資 本 主 義 の 発 達 森 喜 一 白 揚 社 1 9 4 7 年 ブ ラ ジ ル 農 業 ハ ン ド ブ ッ ク 一 野 菜 雑 作 編 国 際 協 力 事 業 団 1 9 8 4 年 ブ ラ ジ ル 農 業 ハ ン ド ブ ッ ク ー 果 樹 編 国 際 協 力 事 業 団 1 9 8 7 年 ブ ラ ジ ル 農 業 ハ ン ド ブ ッ ク ー 畜 産 養 蚕 編 国 際 協 力 事 業 団 1 9 8 7 年 ブ ラ ジ ル 移 住 6 0 年 シ ン ポ ジ ウ ム ラ テ ン ア メ リ カ 協 会 1 9 6 9 年 ア マ ゾ ン 地 域 の 農 産 業 と 日 本 人 国 際 協 力 事 業 団 1 9 8 8 年 日 本 移 民 が ブ ラ ジ ル 南 部 の 農 業 開 発 に 及 ぼ し た 影 響 外務省領事移住部 1972年 ブ ラ ジ ル 社 会 に 対 す る 日 系 人 の 役 割 と 貢 献 外 務 省 領 事 移 住 部 1 9 7 8 年 1 9 8 8 年 度 事 業 報 告 ス ー ル ブ ラ ジ ル 農 協 中 央 会 1 9 8 9 年 1 9 8 8 年 度 事 業 報 告 コ テ ア 産 業 組 合 中 央 会 1 9 8 9 年 中 央 会 3 5 年 の 歩 み サ ン パ ウ ロ 産 業 組 合 中 央 会 1 9 6 9 年

201 第2章 日本移民の商業 工業と進出企業 I 日本移民の商業進出 日本移民は戦前はもちろん 戦後移住も原則として農業移住が中心だったから 当 然な がら日本人の商業進出は遅かった ブラジルにおける日本人の商業進出にはいく つかのタ イプがある 以下戦前と戦後に分けて商業を概観してみる 1 戦前の日系商業 a 最初から商業進出を目指したもの いわば草創期における進出企業で これには笠戸丸移民以前にサンパウロに進出した 藤崎商会と1910年リオに開店した蜂谷商会があげられる

202 1906年 サンパウロ市の中心サン ベント街に 仙台の藤崎商会が オ ジャポ ン エン サンパウロの名の下に支店を開設し 日本製の雑貨を主体に商業活動を行 なった まだ 日本商品はおろか 日本人そのものが珍しかった時代であるから 開店 2日目からは警官が出動して警備と整理に当るほどの盛況であったという 藤崎商会は その後も順調に活動を続けたが 本店の店主 藤崎三郎助が1926年に死亡したこと と 第1次世界大戦後の不況によって 本店が苦境に陥ったことを理由に 1932年 に閉鎖されている また 名古屋に本拠を持つ蜂谷商会は1910年 リオで同名の会社を設立 陶磁 器 雑貨の輸出入 卸売業を開始した 同社はその後順調に発展 第2次世界大戦直前 には ブラジルに輸入する日本製陶磁器の80 のシェアーを有していたといわれる b 農業移民を便法として商業進出を目指したもの これは元来 日本で商人であった者が 資本やその他の事情で いきなり商業進出が できないため まず農業移民の形でブラジルに渡り 短期間で商業に転じた組である

203 したがって ある程度の資本をもって来ているのが特徴で 1920年代から30年代 初期にかけ サンパウロ市で店を開いたものが多かった 羽瀬商会 遠藤商会 カーザ中矢 国井商店 伊藤商会などである これらの商店 は 自らも雑貨の輸入小売り販売を行なうとともに 出張販売員 ビアジャンテ を地 方の日本人商店へ送り 卸売りを行なった ビアジャンテは コミュニケーションの手 段の発達していない当時の移民社会における情報の担い手であったと同時に 商業の実 際的訓練を施す学校の役割をも果したことは ビアジャンテ出身で のちに商人として 名を成したものが多いことをみてもわかる C 移民共同体の中から自然発生した商業 同じ頃 サンパウロの入り口の一つに位置するピニェイロス地区に居住する約200 家族の日系人と近郊のブタンタン カシンギ タボン カンポ リンポ コチアなどの 地方の日系人農家を顧客として商業中心地が形成されており 地方の小都市でも 規模 は小さいながら 同様の傾向が見られた

204 聖州新報の移民25周年記念鑑 1933年 には 日本人移民入植地方の主要都市 における日本商店の数を次のように記録している サンパウロ 159店 バストス 26店 サントス 99店 カンポ グランデ 35店 バウルー 30店 レジストロ 16店 リンス 39店 プロミッソン 37店 アラサツーバ 39店 リベロン ブレット プレジデンテ プルデンテ 7店 24店 これらは 多く日本人を顧客とする農産物仲買商 雑貨商 菓子商 飲食店 旅 館 理 髪 店 自 動 事 業 運 送 店 青 物 商 薬 局 家 具 商 で あ っ て そ の 他 に は 玩 具 店 豆腐屋 書籍店 馬車屋 果物店などが散見するにとどまっている

205 d 野菜市場への進出 日本人の商業進出で比較的多かったものに野菜市場への参入がある 移住者が次第にサンパウロ市に集中するようになってくると サンパウロ市の近郊 で これらの日本人向けの小規模の野菜栽培が始まる 1911年にサンパウロ市の近 郊 サンタナ タイパスに日系人の野菜栽培者が入植したのを初めとして モルンビー マイリポラン モイーニョ ヴェーリョなどで日系人が野菜栽培を開始した しかし これら栽培者の主要作物はジャガイモであり その他の野菜栽培は副次的で 少数の日 本人向けのものであったようである 野菜栽培は 初め現地のブラジル人 ほとんどがポルトガル系であった と 同種の ものを同規模で栽培していたが 都市の拡大と需要の急増に伴い 益々遠隔地に拡散 し 規模も大きくなった それとともに ようやく飽和状態 過当競争の害も出始め 卸売市場の仲買人の買い叩きに合うようになった これに対抗して 農業者が団結して 日系最初の協同組合であるコチア産業組合を結成したのが1927年であるが その経 緯は第2部第1章に譲り 純粋な商人としては 1928年 今井宇八が日系人の仲買

206 商として サンパウロの青物卸売市場に始めて進出し 翌1929年 田場ウシが青物 小売市場に日系人として始めて進出した その後 これらの市場に入り込んだ日系人は 引きも切らず 1941年 第2次世界大戦の始まる頃には 実数は定かでないが 市 場の商人の全体のほぼ3分の2に達したといわれる CEAGESP サンパウロ青果 物配給センター における日系農業者のシェアを下表に示す

207 一方 フェーラ リーブレ 露店市場 で野菜を商う兼業農家も次第に増え 彼ら は やがて卸売市場で野菜を仕入れて売る純然たる商人に変っていったのである この ような経過はサンパウロ州 パラナ州 リオ デ ジャネイロ州の日系人口の多い都市

208 でもほぼ同様である e 農産物仲買商と精選業者 1920年代になると 商才があり 多少の資金力も有する農業移民の中から農産物 仲買いを始めるものが出てくる 扱う商品は 米 コーヒー 少し下っては棉が主なと ころで 最初は日本人移民の生産物を集めて精選工場に運ぶ 小規模な仲介業として出 発している 日本移民25周年記念鑑 には穀物仲買商として サンパウロに2店 サントスに6 店 バウルに2店 アラサツーバに4店 プレジテンテ プルデンテに1店 バストス に5店 プロミッソンに10店という数が記載されている しかし やがてこの中から 米 コーヒー 棉の精選工場を自分で持ち 会社組織に するものがあらわれてくる いわゆるマキニスタ 精選業者 といわれる人達で 代表 的なところでは藤原久人商会 上野商会 和田商会などがある マキナと呼ばれる精選工場は 工場という名前はつくものの 籾や殻付コーヒーを脱

209 穀したり 柿の場合は実棉から種子を分離するだけのことなのである 機械も簡単なも のだった 精選業者は自分達のことをIndustria e Comercio 商 工業 と称したが 実際には工業よりも商業の方に比重がかかるのが実態だった ただ し コーヒー精選工場や繰り綿工場は 原料倉庫や製品倉庫の大きなものが必要だか ら 外見は大きな工場に見えるのがふつうだった f 洗 染 業 日系人の商業進出の中の一つとして 洗染業を逸することはできない 香山六郎が 移民40年史 に記している所によると 1940年代の終りに サンパウロ市15 00店の洗染業者のうち 約3分の2は 日系人の経営する所であったという さらに 1958年に調査された ブラジル日本移民 によると 全ブラジルにおいて 435 6人が洗染業に従事している 種々の事情で 農業を放棄して都会に出た日系人にとって 一番手っ取り早い職業は洗 染業であった これならば家族労働と小額の資本があれば開業でき さしたる商才も必

210 要としなかったからである この業種の人々は 営業区域の地理に明るく 日系政治家 の選挙地盤ともなり また 公益事業の無償奉仕員ともなったことは特筆する必要があ る 例えば日本移民50周年記念事業である コロニア実態調査 において 掴みにく い都市在住の日系人の調査を引受けたのは洗染業の人々であった このほか日系人に多 いサービス業種として理髪理容業 写真業があり 1958年の実態調査では それぞ れ2013人 1122人という就業人口が記録されている g 金融業 サービス業 戦前 金融業は 植民会社などの日本からの直接投資による企業によって行なわれ た まず 1932年 カーザ東山が資本金200コントスの金融店 カーザ バンカリ ア 東山 を開設した カーザ東山は1927年 東山農事株式会社が3500コント スを投資して設立したブラジルの現地会社である 日本の本社は三菱財閥の総帥であっ た岩崎文弥が 1919年 同家の個人出資をもって設立した海外投資会社で 農牧業

211 の開発を目的としていた 始め サンパウロ州にカンピーナス農場を開設し 1928年にはサントス市に水上 商会合名会社を設立してコーヒーの委託販売を開始し 1937年にはパウリセイア絹 織会社を買収するなど 積極的な活動を行なった これらの活動中 カーザ バンカリ ヤ 東山 のちの東山銀行は営農資金貸出 当時 端的に青田貸しと呼ばれていた と 小口預金の取扱い機関として 日系金融機関の先駆をなしたのである 一方 ブラジル拓殖組合 ブラ拓 も 1937年 日南産業株式会社が資本金10 00万円で日本において設立されるとともに この会社のブラジルにおける代行機関と して営利事業を行なうようになり カーザ バンカリア ブラ拓 ブラ拓商事 ブラジ ル鉱業株式会社 ブラ拓綿花会社 ブラ拓絹糸などがその主要なもので この他 組合 の管理下に 精米工場8 コーヒー精選工場4 線綿工場4 製糖工場1 蚕種製造所 2 乾まゆ工場2 製油工場2 抽加工場3 タバコ乾燥場3 製糸工場4 製衣工場 4 瓦工場4 煉瓦工場4 農機修理工場9 製材工場4を有していた このうちカー ザ バンカリア ブラ拓は1937年に設立されて 金融事業を営むようになったので

212 ある カー ザ バ ン カ リ ア ブ ラ 拓 本 店 内 部 さらに同年 カーザ バンカリア 海興が設立されて 日系金融店の業績は急激に伸 長したのである カーザ バンカリア ブラ拓の後身である南米銀行が1960年に発行した 南米銀 行20年史 によると これら3つの金融店の業績は下記の通りである

213 東山 ブラ拓 海興3社の計 年 次 営業所数 資本金と 預 金 貸付金 積立金 1930年 15 620 1939年 18 969 1940年 29 1 952 1941年 35 3 300 註 単位1000クルゼイロ 16 932 30 581 44 091 58 004 13 672 25 526 35 384 50 754 このほかに 日系の金融機関としては ブラスコット金融店があり その営業権は第 2次大戦後 住友銀行がブラジルに進出する際に買取っている 海興金融店の営業権は ポプラール銀行が継承した さらに特筆しなくてはならないのは 東京銀行の前身横浜正金銀行の役割である 同 行は為替銀行として 既に1919年にリオ デ ジャネイロに支店を設けて活動して いたが 別掲の平生ミッションの訪伯以後 上記の日系金融店の親銀行の役割を果し た 当時の日系金融店の主要な業務はコーヒー 綿花を中心とする営農資金の貸付で

214 あったが その資金の供与は 最終的には 横浜正金銀行によって行なわれたのである 2 戦後の日系商業 1958年の コロニア実態調査 は 戦争中の日本移民の地位の向上を 統計的に 裏づけている この表を見ると 1937年から1947年の10年間に コーヒー栽培者の全農業 者に対する比率は 32 1 から23 6 に減り これとともにコロノとして就労 する比率もコーヒー栽培者の46 2 から16 4 に減っている これに対して 自作農の比率は逆に38 8 から69 7 に激増しているのである 最も目覚しい 変化は コロノの労働に頼るコーヒー栽培から自作農 借地農を原則的な営農形態とす る棉作農業者と近郊型作物農業者への転出である 棉作農業者の全農業者に対する比率は1932年の14 0 から 1937年の3 9 0 に達し 戦時中は殆ど移動がなかった また 近郊型農業者の全農業者に対す

215 る比率は 1937年の14 5 から1942年の19 9 1947年は27 5 と激増している 年 代 別 農 業 生 産 の 特 色

216 これを全農業者の地位別構成で見ると 1937年に35 5 であった自作農は 42年に44 9 1947年には51 2 と激増し コロノの比率は1937年 の19 5 から1947年には6 6 と激減している また 当時の土地利用の形 態は無肥料栽培が多く とくに奥地 農業者は借地農形態を好んだという事情を 19 37年の借地農33 1 が 1947年になっても33 9 と殆ど変らない数字 が よく現わしている 戦時を含んだこの10年間に 現実にあるいは潜在的に 全農業者の90 以上が自 作農になったということができるであろう 戦後の日本移民の商工業進出は 農村経済を基盤とし そこから余剰資金を汲みあげ て作られ 発展したものが多く 一見 農業とは無縁と思われる分野でも 企業の資本 構成を仔細に見ると 地方の富農が出資者として名を連ねていることが多いのである 戦前から継承している日系金融機関で 南米銀行とよい対照をなすものは 東山銀行 の場合である 有限会社カーザ バンカリア 東山は 1943年に早くも精算体制に 入ったが ようやく1951年に精算が解除され 1952年 資本金500万クルゼ

217 イロで再出発した同社は 1954年に1000万クルゼイロに増資し 名称も株式会 社東山銀行とあらためた 1973年 日本の三菱銀行の株式を78 6 に増やし 社名もブラジル三菱銀行と改めて 外資銀行となったのである Ⅱ 1 1 日本移民の工業進出 手工業からの出発 日本移民の工業進出の場合も だいたい商業進出同様の経過を辿る 最初から高度の 技術と資本を持ち込んだ ジアスターゼ製造の大河内薬化学研究所のような例外もない ではなかったが ほとんどが日本人移民を対象とした小規模な家内工業 手工業から出 発している すなわち 大工 鍛冶屋 家具製造 機械機具修理小工場 ブリキ屋 精米 製油 コーヒー精選 醤油味噌製造 ピンガ製造 日本酒醸造 製菓などがこれである 斎藤広志著 ブラジルの日系人 の統計によると 1940年においても 工業に従

218 事する日系人の割合は 3 0 を示しているに過ぎない しかし 農業から小規模の 工業への移行は 農業から商業への移行より むしろ容易であったことが認められてい る 2 最初から工業進出を目指したもの 個人の移住者として 最初から 高度の技術と資本を持込んだほとんど唯一の例とも いうべきものは 大河内辰夫であろう 北海道大学の農学部農芸化学科を卒業後 19 16年にアメリカに渡り 高峰譲吉のもとで研究に従事した大河内は 1923年にブ ラジルに渡り 1925年にブラジル人と共同で製薬会社を設立した 1927年 独 立して大河内薬化学研究所を創立し 当初 家庭常備薬 のち高品位のジアスターゼの 製造販売に移った 製品は現在でも 製薬 食品の原料として広い範囲に利用されてい る 3 農業移民から工業進出を目指したもの 日系移民が農業移民に限られたことは すでに述べた通りであるが その中には 日

219 本あるいはブラジルでかなりの技術を身につけた者が混じっていて 技術と資本を蓄積 して工業に進出するものが次第に現われてきた 現在 噴霧機 散粉機の一流メーカーとなっている西村俊治のジャクト農機株式会社 の歴史は 日系人の工業進出の一つの典型として興味深い 京都府立第一工業学校を卒業し 1932年にブラジルに渡った西村は コロノ 家 事使用人と 移民が都会に出るための型通りの経歴を踏んだのち セブンスディ アド ベンチストの経営になる学校で1年間学び サンパウロのある工場で職工となる つい で 友人と共同で機械の修理工場を営み 1939年に 当時の開拓前線であったポン ペイアで 修理工場を開いた その時の看板は よろず修理引受けます というもので あった 西村は 農具 馬具の修理製作はもとより バケツ ピストルの修理 空き缶 利用の水呑みなどの製作など 文字通り よろず製造修理引受け所として営業し 蓄積 した資金で溶接機を購入した 戦争中 工業製品の輸入が停止したこと サンパウロか ら遠隔の地であったことから 製材所 精綿所の機械 自動車部品の修理 製造などが 西村の修理所に舞込み 彼はその好況を利用して 工作機械を買込み 事業を拡大して

220 いったのである このタイプに属するものとしては 鋳物 ボール盤製造の宿屋商工 自動車部品製造 の加藤精機 洗濯機メーカーの一色機械製作所及び児玉洗濯機械 製紙機械メーカーの 池森機械製作所などがある 4 農業部門 商業部門からの工業進出 a 戦前の工業進出 その一つは蚕種業である 代表としてブラ拓製糸の場合を見よう ブラ拓は1930年代の始めから バストス チエテ アリアンサの3移住地の入植者 に対 して養蚕を奨励した 戦前 生糸は 茶と並んで日本の主要輸出品の一つであ り 日本か らの移住者の中にも 養蚕の経験者が多かったこと 営農の多様化をブラ 拓が奨励したこ とによる 1932年 ブラ拓は日本から上田平吉技師を呼び 蚕種 製造所を設置した 1940年 バストス チエテの両工場はブラ拓製糸有限会社とし て独立した

221 しかし 第2次大戦時には敵性資産として工場がブラジル側に管理されたり 戦後は 生糸の相場が暴落するなどで多難な時期を迎えたこともあったが 1960年代から本 格的な軌道にのった その後 ブラ拓は日本から優良品種を導入し 新式機械 技術も 導入し 生糸の改良とコストの削減を図って 国内市場はもとより 日本 台湾 ヨー ロッパまで製品を輸出するに至っている 農業からの工業進出で もう一つ特筆すべきものは製茶業である レジストロの岡本寅蔵が サンパウロ近郊の中国種の種を入手したのが1922年 これか ら2000本ほどの苗を得て 1934年頃までには80アルケール 約19 5ha の茶園を造成した これを基盤に製茶が開始されたのは1929年頃で 始めは緑茶 後に紅茶の製造に 進んだ 1934年にはレジストロ周辺で約17の工場が操業していたといわれる 技 術的にも足もみから 半鉄半木製の揉捻機 鋳物製の揉捻機へ その他の機械も ドラ ム缶利用が自動乾燥機へ さらには大型萎凋機の導入へと進み 燃料も薪から重油 さらには電力へと発展した この間 次第に資本の集中がおこなわれ 現在ではシャ

222 リベイラの岡本寅蔵 コチア産業組合のシャ ツピー 山本スタンダード商会のテン ダー リーフが日系の大手製茶業者で リブトンがジェシー レーヴェル社から発売さ れている他は ほとんど日系業者の独占となっている 中尾熊喜によると ブラジル農業で施肥が始まったのは 1917年にサンパウロ 市近郊コチア方面の日本人ジャガイモ栽培者が オザスコ市のコンチネンタル プロダ クト社から屠殺の残りを買入れて使用したものが始まりで そののち15年間は 日本 人の需要が 国産 輸入の肥料の需要の全てであったという 1930年 カナカオ肥 料会社が骨粉 ニカワ製造を始めたのが日系人の肥料生産の始めで 当時 年産ニカワ 200トン 骨粉3000トンは1工場としてはブラジル最大の規模であった 同社は 1940年にジャグアレー肥料株式会社に改組された これに続いては 1940年に池田骨粉工場が年産1000トンの骨粉の製造を開始 している

223 加藤精密工業の工場内設備 左は1932年時 右は1968年時 1945年 海興の支配人であった竹中儀助が開店したアルマゼン パウリセイアは 海興の業務を継承し 1954年には株式会社竹中商店と改組し 肥料の配給と販売を 行なうようになっている 商業からの工業部門への投資も 戦争中から開始されている 羽瀬作良はサントス付 近にある低品質のテングサを原料として寒天の製造を行ない またハッカの精製に乗出

224 し 1944年には粟津幾太郎とともに インプレラ時計会社を設立した 寒天は戦後 優良品の輸入開始とともに中止され ハッカ精製工場も戦後のハッカの価格暴落ととも に閉鎖されたが インプレラ時計会社は 後に日本のセイコー社と合弁で ブラスセイ コーを設立してブラジルでは先駆的な時計製造会社となった 会社は 戦中 もっぱら 鳩時計を製作したが その理由は ゼンマイの原料である鋼の輸入が途絶したため ゼ ンマイを必要としない鳩時計を選んだというのは ブラジルの当時の工業水準を物語っ ている また 日系人を顧客としていた日本酒の醸造所を始めた東山農牧工業 1934年設 立 味 噌 醤 油 の 中 矢 父 子 商 会 1 9 3 0 年 設 立 中 矢 合 資 会 社 1 9 4 9 年 設 立 などは 戦後 日本食ブームに乗ってブラジル人にも販路を広げるに至る この他 平生使節団の影響によって行なわれた 主として綿の買付けに関連の繰綿工 場 綿実製油工場などがある

225 b 戦後の工業進出 日系人の凍結資産が解除された時 旧持主に戻ってきた資産は驚くほど少なくなっ てい た 商品は売食いし 預金はインフレで目減りしていたからである しかし 反 面 凍結中の不動産の値上りで思わぬ利益を得た場合もあった 例えば 東山銀行の資 産が凍結解除された時 不動産の一部を処分して資本を充実したという事実がある 総じて工業関係者は 日本からの直接投資によるものを除く他 凍結の影響はあまり 大きくなかったようであるが それでも資産の一部あるいは全部の没収におびえなくて はならない戦後の5年間の足かせが無くなったことは 日系人の工業部門の発達に 大 きく寄与したということができるであろう あたかも1956年 ジュッセリーノ ク ビチェック大統領が 50年間を5年で というスローガンで 急速な工業化政策を とったため 日系人の工業進出も これにつれて盛んになったということができる 例えば 農産物仲買商 貿易商の山本勝造は 1958年 日本からの佐渡島金属と 合弁で特殊電球の製造会社サドキン電球株式会社を設立し 1967年からは東北ブラ ジルのレシーフェに電球を製造するサドキン ノルデステを設立している

226 これも 農産物仲買商の田中義数は 日本から機械 技術を導入して 1964年 段ボールの製造会社パペロツキ商工株式会社を設立した 両者とも 自己資本だけでなく 現地の日系の資金を資本に導入していることが特徴 である また 趣味のラジオ製作から出発 1960年代からのモータリゼーション普及で成 功を収めたカー ラジオのモトラジオ商工 自動車部品の中田商工 建設業の山懸建設 なども 異色の戦後工業進出組である 農業資本から工業へのもっとも顕著な例はサンスイ プラスチック工業株式会社であ ろう 1966年 主としてジャガイモの大手栽培者の出資によって プラスチックの 農業用製品の製造から始めた同社は 現在ではプラスチック サイロ 倉庫 テントな どの大手メーカーとして 業界の首位を占める会社となっている 食品業界では 1961年にパウリスタ延長線を中心に農産物の仲買を行なっていた 3人の商人によって始められたパカエンブ製油株式会社 及びこれも農産物仲買商がグ アララペスに設立し その後 トーメンが継承したメヌー印の食用油メーカーのトーメ

227 ン製油などが業界屈指の企業に育っている しかし ここに挙げた各社は いずれも やや著しい特色を有する企業として列挙し たに過ぎず 商業部門と同じく 日系人の工業進出は 地場産業に関する限り 枚挙に いとまがない状況となっている さらに 農業人口の工業進出は 戦後一貫した傾向と なっている 1958年の コロニア実態調査 では 工業の就業人口は全体の7 2 に過ぎないが 1988年の 日系人口調査 統計では15 8 に達している こ れは日系人の農業離れとしてとらえることも もちろん可能であるが ブラジル人全体 の農業人口の減少と 第2次 第3次産業の増加と同一の傾向を辿っていると見るべき ものであろう 戦後 プラジルが工業化政策をとるに至り それにつれて 工業技術移民の途が開け ることとなった これに対応して 日本側も移住行政の一環として この問題をとり上 げるに至ったのである

228 5 戦後の技術移民が果した役割 1953年 リオ デ ジャネイロ州のガスパリアン紡績工場へ 16名の技術者が 移住就職したのが技術移住の始めである ついで 1957年 名古屋の豊和工業株式会社が サンパウロ州モジ ダス ク ルーゼス市に紡績機械工場を設立し 同工場への技術移住者の募集を日本海外協会連合 会 海協連 に依頼してきた 相次いでの大量の求人を受理した海協連では 技術移住 の 推 進 を は か る 目 的 で 工 業 移 住 課 を 新 設 し 本 格 的 な 斡 旋 業 務 に 乗 出 し た の で あ る 956年 サンパウロ市に設置されたJAMI Cを通じて 海協連はサンパウロ市及 びその周辺の企業200社を対象として 求人開拓を開始した その結果 13社21 9人の求人を受け 第1回生として 5社向け32人を募集した この趨勢をいちはやくとらえたのは 元外交官でサンパウロ総領事を勤めたことのあ る内山岩太郎である 内山はブラジル在任当時 日本からの移住者が ブラジルの国内

229 において 生活習慣 言語の相違から辛酸をなめていたことを見て 移住者の教育訓練 の必要性を痛感したといわれる 1962年当時 県知事の職にあったが 神奈川県の 県立秦野高等職業訓練学校に工業技術移住課を設け 全国から訓練生を募集して 工業 技術者の移住を促進することとした 一般に 泰野生 と呼ばれているこの訓練学校卒業生の移住者は その後18年間に 310人に達し 全工業移住者の約4分の1を占めることになった 1978年 この 施設は県立横浜高等職業訓練学校に移されたが 1980年 新外国人法の施行の年 ブラジル側の移住政策の転換により 工業移住者の受入れが停止されたのを機会に 同 年9月末に閉鎖されている この訓練生は 機械工 仕上工を主体とする技能者で 地場資本 進出企業 純ブラ ジル企業 外資企業など各方面に就職し のち企業の幹部 中堅の職員 あるいは独立 の経営者となっている者が多い 戦後の農業移住が急速に衰える1960年代の後半から 逆に工業技術移住者は増え てくる

230 日本からの進出企業が増加したことも主な原因だが 既に海外移住が単なる労働力の移 動ではなくなった時代に入ったからである この情勢に対応するため 1966年 海 外移住事業団 JAPAN EMIGRATION SERVICE 運営によるサン パウロ技術センター 後の工業移住センター が設立され 工業移住あっせん態勢が拡 充される 1974年8月 海外移住事業団の業務は新たに設立された国際協力事業団 JI CA JAPANINTERNATIONAL COOPERATION AGENC Y に引継がれる 工業技術移住はJICAの現地法人であるJAMIC移植民会社 J EMI S金融会社により従前通り続けられた ところがブラジル政府の要求で 1981年9月 JAMIC J EMI Sは解 散を余儀なくされ 工業抜術移住も受け皿がないまま 一旦中絶してしまう これに関 しては1985年 ブラジル在住日本人工業技術移住者によって結成されている工業移 住者協会が ブラジル政府により技術移住者導入業務の代行機関として認められ 細々 ながらも工業移住のルートはつながって 今日に至っている

231 現在 新規の工業技術者の移住はごく少ないが 戦後2000名近くの技術移住者が 日系工業界及びブラジル工業界の発展に果した役割は決して小さくはない 技術移住 でもうひとつ見逃せないのは産業開発青年隊である が これについては戦後移住史に 述べられているので ここでは省略する Ⅲ 進 出 企 業 1 戦前の進出企業 戦前の進出企業としては まず初期の藤崎商会 蜂谷商会のような雑貨を取扱った商 店があげられるが これについては商業の項で述べているので本章では省略する この2つの商店の例を除くと 戦前のブラジル進出企業は①日本政府の国策に基いた 移植民事業会社と②純粋な企業進出を試みた民間会社 及び③第2次世界大戦前にブラ ジルに進出 大量の綿花を買付けて日本に送った日本の商社に分けられる どの系統の

232 企業も日本移民や日本移民の集団である日系社会と深いかかわり合いを持ったことは同 じであるが 性格はかなり異なっている 以下 3つの系統の企業を概観してみる a 国策に基づいた移植民事業会社 この系統に属するものとしては 移民会社が合併してできた海外興業株式会社 海興 1 9 1 7 年 設 立 各 県 単 位 の 海 外 移 住 組 合 が 連 合 し て つ く っ た 海 外 移 住 組 合 連 合 会 とそのブラジル法人 有限会社ブラジル拓殖組合 ブラ拓 1929年設立 があげら れる また北伯アマゾンのアマゾニア産業会社アマゾン興業会社などもこの仲間に入る こ れらの会社はいずれも日本政府の援助や協力指導の下に発足した移植民事業会社で 民 間企業が参入したケースもあったが 全体としては官民による国策会社である 更に 直接の移植民業務ではないが 間接的に移植民事業と密接な関係にあった 横 浜正金銀行や移民を運んだ大阪商船もこのカテゴリーに属している 横浜正金銀行 現在の東京銀行 は1919年リオ デ ジャネイロに支店を開設

233 日本移民の郷里送金や日本からのブラジル送金 貿易決済に大きな役割を果たしたし 大阪商船は1920年 日本政府よりの受託命令で 移民を運ぶための南米定期航路を 開設 1941年まで移民船を運航している 以上の移植民事業会社のうち 代表的な例としてブラ拓をとり上げ かんたんに紹介 する ブ ラ 拓 は バ ス ト ス チ エ テ ト レ ス バ ラ ス 現 ア サ イ ア リ ア ン サ 最 初 は 信 濃 鳥取 富山の各県海外移住協会の直営であったが 後にブラ拓が肩代りした に直営移 住地を経営し 日本からの入植者に分譲した ブラ拓の母体である海外移住組合連合会 は海外発展を目指した日本の国策会社であり 移住地買付けの土地代は政府の貸付金で まかなった 移住地はブラジルとは限らなかったが ブラジルが主だった ブラ拓の移住地には産業施設として 精米所 精綿工場 コーヒー精選工場 製材所 煉瓦製造所 発電所 農事試験所 日用品販売所などを設置した また公共施設として 診療所 薬局 学校などもつくっている プラ拓の移住地経営は試行錯誤をくり返しながらも順調に進むが 海外移住地での各

234 種事業を行うため 1937年 日本政府は今までの移住組合連合会を改組し 新たな 国策会社として日南産業株式会社を発足させる これは従来のように移住地経営一本槍ではなく 他の産業分野にも積極的に進出しよ うというもの その第1号が後の南米銀行となる カーザ バンカリア ブラタクであ り 続いてブラ拓商事 ブラ拓鉱業 ブラ拓綿花 ブラ拓建築 ブラ拓製糸などができ る b 純粋な民間企業の進出 このタイプは①のような 日本政府の移住振興政策にのっとった会社の進出ではな く 純民間の営利事業として植民地建設を目指した企業である こ れ に は 東 山 農 事 会 社 の ブ ラ ジ ル 事 業 体 で あ る カ ー ザ 東 山 1 9 2 7 年 野 村 合 名 会 社 海 外 事 業 部 の 野 村 南 米 農 場 1 9 2 6 年 関 西 川 西 財 閥 投 資 の 日 伯 拓 殖 バ ー ラ マ ンサ農場などがある この系列の進出企業は 殖産を目的とした純粋な利潤追求の企業 体として進出したところに特徴があり 移植民事業には関係せず 自己の農場の労働者

235 には主として現地からブラジル人を雇用した カーザ東山に例をとって説明すると カーザ東山の母体である東山農事株式会社は1 919年設立された 農業 牧畜を目的とした日本最初の海外投資会社である ブラジ ル以外でも台湾 朝鮮 南洋地域でも開発事業を行っている 三菱財閥の当主 岩崎文 弥個人の出資経営である ブラジルではカンビーナスに東山農場を開設した 1927年 のを手はじめに サ ン ト ス の 水 上 商 会 合 名 会 社 1 9 2 8 カ ー ザ バ ン カ リ ア 東 山 1 9 3 3 東 山 農 産 加 工 会 社 1 9 3 4 東 山 絹 織 有 限 会 社 1 9 3 7 東 山 鉄 工 所 1 9 3 7 な ど を開設した C 綿花買付商社の進出 1936年以降 日本商社によるブラジル綿花買付ブームがはじまり 日米開戦の1 941年ま で続く この時の綿ブームは 原料確保を目指した日本政府と綿業界 余

236 剰綿花の輸出先 を求めたブラジル政府 棉作者である日本移民の経済的利害関係が一 致してブームを現出 している これは珍らしい現象で こういう例は後にも先にもな い 少し詳しく見てみよう 経済使節団の来伯 戦前の日伯経済交流の中で 日本にとっても ブラジルにとっても またブラジルの 日本移民にとっても大きな影響を与えたのは 1935年日本より来伯した経済使節団 平生釟三郎団長 だった この使節団は表面的には日本商工会議所派遣の民間使節団 になっていたが 実際は日本政府派遣の綿花買付使節団だったのである サンパウロ州内の棉作は 1917年ごろから奥ソロカバナを中心に栽培されていた が 数量的には微々たるものだった しかし 1930年 ブラジル政府が実施した コーヒー樹新植禁止令で 代替作物としての棉作が急速に拡大 コーヒーを植えられな い日本移民の棉作者も急増する サンパウロ州における生産高は1931年の1万7千 から1934年には9万 に 増える 州内紡績業の需要量は約4万5千 であるから残り半分は輸出に振り向けねば

237 ならず ブラジル政府としても輸出先の開拓に迫られていた 一方 日本側ではそれまで主としてアメリカ綿 インド綿を大量に輸入して紡績用に 使用していたが 米 英との仲が次第に険悪になるにつれ アメリカ インド以外から の原綿買付が重大問題になってくる サンパウロ州産の精綿60梱がはじめて日本にサ ンプル輸出されたのは1934年である こうした情勢の中で ブラジル綿花買付を主目的とする経済使節団が来伯 大きな成 果をあげる 使節団の来伯した1935年の綿花対日輸出量2487 は 翌1936 年 に は 4 0 6 8 6 と 飛 躍 的 な 伸 長 率 を 示 す 表 1 及 2 1930年代になって サンパウロ州の棉作がふえ出すと アンダーソン クレイト ン サンブラ マックファーデンなど 世界的な綿業商社がサンパウロ奥地へ進出 繰 綿工場をつくって綿花の買付にのり出す イタリア系ブラジル財閥マタラーゾも負けじ とのり出すようになる 日本の商社で一番早かったのは日伯綿花社で1936年の進出 ついで経済使節団の 報告に刺激された商社がどっと進出する 1937年には東洋綿花 日本綿花 三井物

238 産が 1938年には兼松 伊藤忠も参加して サンパウロ州奥地で華々しい綿の買付 合戦が展開される ブラジル綿花の飛躍的な対日輸出増大は 綿花の主要生産者である日本移民にも歓迎 された 日本移民のつくる綿はほとんど日本の商社に持込まれた 1939年における サンパウロ州各地方別日系棉作農家の実績は 表2 の通りで サンパウロ州の実棉生産総量の50 に達している 綿花の生産と対日輸出は 194 1年末の日米開戦まで好調を続ける 1942年以降は日米の開戦で ブラジルからの対日輸出はまったく途絶えるが 棉景 気そのものは相変らず続き 日本移民棉作農家は当初 日本政府関係者が予想したよう な 経済的困難には陥らなかった

239 表1の1 ブラジル綿花日本輸入数量と価格調 単位1 000円 年別 1933 1934 1935 1936 1937 数 量 kg 価 格 円 79 552 61 873 1 653 654 1 269 773 2 487 274 3 005 431 40 686 077 42 724 070 51 455 330 47 890 122 資 料 中 南 米 地 方 に 対 す る 移 住 奨 励 方 針 に 関 す る 件 別 表 7

240 表1の2 対日貿易額 単位1 000円 1931 41年 年別 日本へ 日本から 1931 453 642 1932 754 1 330 1933 1 008 2 766 1934 3 292 3 065 1935 4 006 5 926 1936 47 352 8 840 1937 62 810 17 305 1938 46 174 10 388 1939 74 662 15 609 1940 68 095 22 945 1941 95 805 14 433 資料 1931 39年 記録より作成 帝 国 統 計 年 鑑 第 5 1 5 4 5 9 回 1 9 4 0 4 1 年 外務省

241 表2 日系棉作者の栽培面積と生産量 地 帯 面 積 ア ル ケ ー ル 実 棉 生 産 量 1 0 0 0 ア ロ ー バ モジアナ沿線 13 110 1 966 パウリスタ沿線 59 330 8 899 ソロカバナ沿線 48 589 7 288 ドーラデンセ線 12 578 1 886 アララクワラ線 19 340 2 901 ゴヤ ス線 518 77 ノロエステ沿線 20 832 3 124 その他 844 126 計 175 139 26 270 耕作世帯数 32 000世帯 サンパウロ州耕作世帯の 40 サンパウロ州棉作地の 38 サンパウロ州実綿生産総量の 50 ブラジル全生産量の 28

242 以上 戦前の日本よりの進出企業を概観した ブラ拓のような移植民事業と企業体 カーザ東山のような民間企業 綿花買付商社と形態の違いはあるが 共通しているの は 日本の進出企業は日本移民と深いかかわりを持っていたということである した がって戦前の進出企業は 移民を運んだ大阪商船 郷里送金 貿易決済などの窓口と なった横浜正金銀行を含め すべての企業が 移民関連企業 だったのである 2 戦後の進出企業 a 初期の進出企業と日系コロニア 戦後 日伯の貿易のはじまったのは以外に早く 既に1948年には3国間貿易を通 じ 僅かではあるが綿花 ひまし油 雲母などが日本に輸出されている 1949年に は在日本GHQ 連合軍総司令部 経済局とブラジル政府間に貿易支払い暫定協定が結 ばれ 1950年以降 ようやく日伯の直接貿易が再開される 1951年のサンフランシスコ講和条約調印後は日本商社の海外支店も認められるよう

243 になり 商社の海外進出が本格化する ブラジルとは1952年9月に日伯通商協定が 結ばれ 日伯貿易の軌道が敷かれる 1948年から60年まで日伯貿易実績は 表 3 の通り

244 表3 ブラジルの対日本貿易表 単位1000 年別 輸出FOB 輸入CIF 1918 875 28 19 1 925 137 50 10 847 1 287 51 16 450 21 052 52 18 978 15 823 53 40 812 11 434 合 計 903 2 062 12 134 37 502 34 801 51 916 54 68 315 79 156 147 471 55 56 214 45 080 101 294 56 31 172 49 967 87 139 57 37 470 23 245 60 715 58 22 690 41 874 64 564 59 36 356 37 353 73 709 60年6月未 7 552 計 365 656 資料 各年伯国政府統計による 26 224 352 360 33 776

245 ブラジルへ進出した日本企業も当初はほとんどが商社ばかりで 主な会社を年代別に 挙げると以下のようになる 1 9 5 1 年 兼 松 江 商 5 2 年 野 村 貿 易 5 4 年 第 一 物 産 三 井 物 産 5 5 年 目 綿 実 業 丸紅 三菱商事 56年日商岩井 57年伊藤忠 東洋綿花 一方 ブラジルの日系コロニア企業も 戦時下の資産凍結令の解除もあって 徐々に 活動を開始 1951年5月にはブラジル日本商工会議所を再開 会頭に宮坂国人が就 任する この商業会議所は 1962年 現在のブラジル日本商工会議所に改称する 日本から商社が進出した当時 日本の商社やコロニアの貿易商社が輸入した商品は日 本製食料飲料 織物 布地製品 紙製品 用紙 医薬品 化学薬品 化学合成品 金属 製 品 陶 器 な ど で 表 4 ほ と ん ど が 日 系 社 会 で 要 求 さ れ 消 費 さ れ る も の ば か り で あった

246 表4 伯国の対日輸入内訳 単位1000ドル 商 品 類 別 食 料 飲 料 原 材 料 ミネラル ワックス パラフィン 薬 材 化 学 品 参加 チ タ ン 炭 酸 ソ ー ダ 尿 素 肥 料 繊 維 品 非 金 属 陶 器 金 属 製 品 機 械 内 燃 機 関 繊 維 機 械 シ ン 機 ボールベアリ ン グ 電 機 々 械 発 電 機 無 電 機 1957年 67 731 619 0 3 212 422 44 1 093 900 786 6 805 0 619 366 397 660 888 1 828 15 828 1958年 459 1 024 916 916 2 634 298 5 679 1 217 14 176 19 264 327 1 579 8 3 0 303 1 904 62 803

247 真 鉄 自 軍 光 カ 玩 鉄 銅 ブ 鉄 鉄 ア 工 合 空 道 動 車 及 車 管 輌 品 部 艦 学 メ 機 ラ 医 具 械 療 機 類 鋼 板 リ 板 キ 線 材 鋼 ル ミ 地 具 計 金 類 422 1 351 249 2 815 356 101 64 5 012 760 2 892 1 221 637 101 382 24 989 496 6 421 2 958 988 244 128 10 652 2 217 2 340 477 403 1 986 408 41 874

248 表5 伯国の対日輸出内訳 単位1000ドル 商品別 1957年 砂 糖 コーヒー豆 コ コ ア豆 ココバター 大 豆 羊 毛 綿 花 鉄 鉱 石 銑 鉄 合 計 1 762 1 549 768 9 784 23 210 4 485 2 563 44 990 1958年 6 764 1 579 435 563 3. 471 12 524 1 229 27 101 資料 ブラジル貿易統計内訳表及び日本通産省貿易統計年表による 参考 サンパウロ新聞年鑑1958年度 ブラジル経済情報特別号 また ブラジルからの対日輸出も依然として綿花をはじめとし 砂糖 羊毛などの買 付が主力をなしていた これらの輸出商品買付にはコロニアの日系商社が全面的に協力

249 したから 戦後においても 初期の日伯貿易は日系コロニアを基盤にしていたというこ とができる しかし 日伯の貿易はブラジル側の度重なる経済政策の改変により 1954年をピー クに縮小をはじめる 日本側商社はこの打開策として 1955年1月 ブラジル政府 が発令したSUMOC 通貨管理局 指令第113号の無為替輸入制度を積極的に利用 する これはブラジル政府が外貨導入を認めたもの 積極的な外貨導入政策はクビチェック大統領の就任で一層拍車がかかった 1956 年1月 大統領に就任したジュセリーノ クビチェックは 50年を5年で のス ローガンを掲げ 壮大な開発計画と工業化政策を推進した 外資を導入して 自動車工 業をはじめ製鉄 化学工業 電源開発 幹線道路の建設など 大きなプロジェクトが 次々に打出され 外資との提携によって実行に移された クビチェックの外資導入政策には各国と共に 日本も参加する 当時日本では第3次鳩 山内閣が成立 日ソ国交回復 国連加盟決定など 国際信用の回復期にあり 海外投資 を行う下地ができていたのである

250 外資導入に伴う無為替輸入許可のおかげで1960年までに多くの工業が日本から進 出 資本を投下した 1960年の日本進出企業 工業 の会社名と資本金は 表6 の通りである 表6 日本進出企業資本表 単位1千クルゼイロ 石 川 島 造 船 650 000 長 岡 商 工 10 000 新 潟 鉄 工 10 000 味 の 素 7 000 豊 和 工 業 198 000 ヤンマーデイゼル 20 000 倉 敷 紡 績 200 000 佐 渡 島 金 属 4 000 日 商 農 工 30 000 丸 栄 陶 器 22 000 西 沢 ミ シ ン 21 000 麻 生 産 業 54 000 海外機械興発 13 200 日 本 冷 凍 35 000 日 本特殊陶業 12 000

251 大 久 三 ト 洋 保 洋 ヨ 漁 田 毛 タ 業 70 000 鉄 工 150 000 織 10 000 自動車 171 000 都 築 紡 績 30 000 ウジミナス製鉄 3 200 000 大 日 本 紡 300 000 鐘 紡 150 000 計 5 509 400 東 洋 紡 173 000 パイロット万年筆 14 500 2 750万ドル 資料 邦字新聞及び日本商工会議所資料 日本企業のブラジル投資は 沈滞気味だった商社の貿易活動を活性化する 外資導入 に 伴う プラント 機械 資材 部品が商社を通じ 大量に輸入されたからである この無為替輸入は無制限に認められていたわけではない ブラジル政府はブラジルに進 出した工業が使用するプラント 機械 資材 部品などの国産化を義務づけていた し かし 国産化体制が完了するまではやむを得ず輸入を認めるとの方針をとったのであ

252 る このように戦後の日本からの企業進出はまず総合商社が進出 その後無為替輸入の恩 典を利用したメーカーの進出が行われるが メーカーの進出は商社の仲介によるところ が大きい その商社の大半と一部メーカーには進出当初 日系コロニアの企業が代理店 として全面協力したし 更に原料 資材 労務の提供源として日系コロニアの果した役 割は大きかった 戦後初期における日本企業の進出は商社であれメーカーであれ 日系 コロニアを足がかりにしていたのである 日本の進出企業は概して規模も小さく また他国企業との合弁を好まなかった この ため ブラジル法人として独立してはいても 日本の本社の1支店 1工場の立場にあ り 日本よりの直接指示で運営されることが特徴である この中での例外は日伯合弁のウジミナス製鉄所で 資本金40億クルゼイロ 日本側 16億 ブラジル側24億 年産銑鉄50万 当時としては巨大プロジェクトだっ た 1957年日伯両国の調印式が行われ 58年会社発足 第1号高炉の火入れは1 962年10月である

253 1961年 ジャニオ クァドロスは史上最高の得票数で大統領に就任したが 7ヵ月 後に突如辞任 ジョン ゴラールが代った ゴラールの大統領就任以降 政治的 経済 的混乱が続き インフレは悪化 社会不安は高まる 1964年3月31日 軍部がゴラール政権追放を叫んでクーデターを起し 軍事政権 を樹立する 政府は軍政令を発令して多数の政治家 議員の追放及び参政権の剥奪をす る 1964年4月15日 国会はウンベルト カステーロ ブランコ将軍を新大統領に選 出 ここに軍事政権がはじまる 新政権はインフレ抑制の措置として 国民総生産を減 ずることなく 財政緊縮政策を採用した これは次のコスタ エ シルバ政権にも踏襲 され 経済成長に著しい成果を挙げ゙ ブラジルの奇跡 につながる カステ一ロ ブランコ大統領はロベルト カンボス企画相とオタビオ ブリョンエス 蔵相を起用して財政の建直しをはじめる カンボスの計画は1965 67年の3ヵ年 内にインフレを抑制 国際収支を改善 雇用政策を再建して地域格差の是正をはかると いうもの

254 そのために対米関係を修復し 外資導入をはかり 金融を引締め 賃金を抑え 漸進 的なインフレの抑制と経済成長を両立させようとした この政策は奏効し インフレ率 は66年に38 5 に落ち 経済成長も回復する カンボスはこの時に外資優遇策を 打出し 外国資本を国家資本 国内民間資本と共にブラジル経済を支える3本の柱のひ とつとする基本政策を確立した つづくコスタ エ シルバ及びエミリオ メジシ両大統領の時代 デルフィン ネッ ト蔵相 レイス ペローゾ企画相の下で ブラジルの奇跡 長が実現する また 世界で一番長い橋 と呼ばれた経済の高度成 と呼ばれた 日伯経済関係の緊密化が行わ れたのもこの時代である b 起るブラジル進出ブーム 1970年代に入ると 脳出血で倒れたコスタ エ シルバ大統領に代って エミリ オ ガラスタス メジン将軍が就任 第3次軍事政権を担当することになった その頃 には中 長期開発計画も完成されており 第1次国家開発計画が実施に移され 電力を

255 はじめ基幹産業の開発が積極的に進められていた とくにEMBRATEL ブラジル 通信公社 による大陸横断マイクロ ウエーブ幹線架設工事と人工衛星地上局が日本始 め世界の有力メーカーによる国際入札で順調に進み 国内通信の総合開発が進められ た 1974年3月 メジシ大統領に代りエルネスト ガイゼル将軍が選ばれる ガイゼル は蔵相にヴァルガス経営大学のエンリッケ シモンセン教授を迎え オイル ショック の難問題を担当させる 1970年代 1970 1979年 の日伯経済交流の主なものは次のとおりであ る 1970年 愛知外相一行来伯 第2回目伯政府間定期協議会東京で開催 日本側団 長 愛知外相 伯国側団長 バルポーザ外相 1971年 日伯技術協力基本協定発行 土光ミッション 土光敏夫東芝社長 外21 名来伯 1972年 ブラジル経済使節団 団長 レイス ペローゾ企画相 一行訪日 ブラジ

256 ル経済使節団 団長 デルフィン ネット蔵相 一行80名訪日 経団連ブラジル使節 団 団長 植村会長 外31名来伯 大蔵省主任企画調査団 団長 中山日本興業銀行 頭取 来伯 1973年 中小企業海外投資調査団 団長 高橋尚ジェトロ理事外15名 来伯 サ ンパウロ州官民合同経済使節団 団長 ミゲール コラスオノ州企画長官一行 3 0名 訪日 中南米投資調査団 団長 伊部住友銀行副頭取一行 来伯 大阪商工会議所使節 団 団長 市川忍丸紅会長 一行来伯 日本生産性本部使節団 団長 砂野川崎重工社 長 一行来伯 ジェトロ主催 日本産業見本市 サンパウロ アニエンピーで開催 藤山元外相が見本 市特使として来伯 澄田日本輸出入銀行総裁一行来伯 海外鉱業使節団一行来伯 大来 経済協力基金総裁来伯 自民党海外経済協力委員会 団長 田中委員長 一行来伯 デ ルフィン ネット蔵相訪日 パッサリンニョ教育文化相訪日 日本自動車部品ミッショ ン来伯 プラチーニ モラエス商工相訪日 1974年 土光経団連副会長来伯 通産省 企画実態調査団 一行来伯 中部生産

257 性本部南米経済使節団 団長 岩田日本陶器社長 一行来伯 第1回 日伯民間経済合同委員会 リオ デ ジャネイロにて開催 日本側 平井富 三郎経団連日伯経済委員長ほか52名 伯国側 トーマス ポンペウ デ ソウザ ブ ラジル工業連盟会長ほか38名 田中角栄総理一行来伯 ディアス レイテ鉱山動力相訪日 マルシオ連邦下院議長訪 日 第11回日本産業見本市船 さくら丸 リオ デ ジャネイロ港にて展示 1975年 名古屋商工会議所経済使節団 団長 三宅会頭 一行来伯 対ブラジル貿 易促進使節団 団長 山下英明前通産次官 一行来伯 ラプラタ経済使節団 団長 永 野日本商工会議所会頭 一行来伯 倉石元農相一行来伯 福田副総理一行来伯 日伯国 会議員連盟結成 1976年 河本通産相一行来伯 ウエキ鉱山動力相訪日 第2回 日伯民間経済合同委員会 東京にて開催 日本側 平井富三郎経団連日伯経

258 済委員会委員長ほか54名 伯国側 クラウジオ バルデイラ ABDI S ブラジ ル基幹産業振興会 会長 ほか17名 ガイゼル大統領訪日 随行 シルベイラ外相 セベロ ゴーメス商工相 ウエキ鉱山 動力相 ベローゾ企画庁長官ほか 併せて第1回日伯閣僚協議会を開催 1970年代は いわゆるブラジル ブームを迎え 進出件数はめざましいものがあっ た とくに前半のオイル ショックまでは雪崩現象の感すらあった しかし 進出の形態は 従前のものとかなり異なり 既存企業の買収 ジョイント ベンチャー 共同出資 技 術提携を主体とするマイノリティ参加が目立って多くなる 業種も本社のイメージとほ ど遠い投資が多かった C 大型プロジェクトの参入 ガイゼル大統領の訪日は 1976年9月15日より5日間 現職大統領として初め ての公式訪問だった 両国が発表した共同コミニュケの内容は 日伯経済関係のハイラ

259 イトとして記憶に新しい 特に今日の日伯経済交流のシンボルとされる両国合弁の巨大プロジェクトは この時 点で始まっている その主なものは次の通りである 1 アマゾン地方 パラー州 におけるアルミ精錬工場設立に関する合意 年産64万トンのアルミ精錬工場を日本側49 ブラジル側51 の出資により 1977年に着工する計画 2 CENIBRA CELULOSE NIPO BRASILEIRO 日伯合 弁による紙パルプ製造会社 の設立とFLONIBRA FLORESTAMENTO NIPO BRASILEIRO プロジェクトに対する協力 森林 パルプ資源開発プロジェクトの一つである合弁事業CENI BRAが近く操 業開始 バイア エスピリット サント及びミナス州にまたがった同種プロジェクトF LONI BRAにも同様に最善の努力を払う 3 ツバロン製鉄所の第2期工事の建設並びにウジミナス製鉄所の第2期拡張工事と 第3期拡張計画に対する双方の協力

260 4 NIBRASCO COMPANHIA E NIP0 BRASILEIRO D PELOTIZACAO ペレット製造 合弁事業 1977年末に操業開始予 定 が 両国の当事者間の協力で順調に進展していることを認めた 5 双方は 日本鉄鋼業に対するブラジル鉄鉱石の安定供給の拡大を図ることが両国 の利益となるという認識で一致した カパネマなどのブラジル鉄鉱山開発計画に関し 両国の当事者間で協力が進展していることを認めた これら日伯合弁事業ならびに協力事業はいずれも長期安定的に製品の一部を対日輸出 されることを確認した 6 セラード地帯における農業開発推進計画と合弁による農業開発会社の設立に合 意 両国政府は パイロット プロジェクトが満足すべき成果を挙げたことに留意 農業 生産活動の支援と推進を図るため 農業開発会社が近く設立されることを確認 このほか両国政府間の協力に関しては

261 7 両国閣僚会議の設立決定 8 科学技術分野での協力決定 など 計17項目のプロジェクトが発表された ガイゼル大統領訪日後の1977年からの日伯経済交流の主なものは次の通りであ る 1977年 パウリネリ農相訪日 岸元首相一行来伯 京都商工会議所南米経済使節団 団長 森下会頭 一行来伯 国際資金循環調査団一行来伯 日伯租税条約修正補足書 発効 大阪商工会議所中南米経済使節団 団長 浅井会頭 一行釆来伯 ブラジル通商使節団 団長 ペローゾ企画庁長官 一行訪日 桜内建設相来伯 ノゲイラ運輸相訪日 カルモン デ サー商工相訪日 経済4団体 経団連 日経連 日商 同友会 一行来伯 1979年 コスタ カバルカンチ イタイプー水力公団総裁訪日 日本商工会議所 経済使節団来伯 第2回日伯閣僚協議会ブラジルで開催 日本側 園田外相 渡辺農水

262 相 江崎通産相 森山運輸相参加 このような激しい日伯交流の背景には まずブラジル側では 大規模な基幹産業とイ ンフラの設備投資に必要な融資の導入 高騰するインフレ対策 成長を続ける産業に不 可欠の石油の輸入とオイル高の問題 及び米国のドル防衛策による国際金利の高騰など がある 一方日本側では貿易黒字減らし 円高対策としての輸入促進 海外生産拠点を求める 海 外 投 資 志 向 第 2 次 オ イ ル シ ョ ッ ク に よ る 省 エ ネ 省 力 対 策 に 真 剣 に 取 り 組 ん で いたことがあげられる d 撤退 休眠企業もでる 1970年代の前半に起きたブラジル ブームで 進出した日本企業も 70年代の 後半から80年代の前半にかけてのブラジルの外債 貿易収支悪化 赤字財政などの影 響をうけて 多事多難の時代を迎える 進出企業にとって最も辛い点は極度の輸入規制であった 進出初期のメーカーは原材

263 料の相当部分 部品は輸入を見込んでの操業開始であったものが多かっただけに 輸入 規制は打撃だった この時期に休眠 これがほとんど あるいは撤退する企業が続出した はっきりした資料は得られないが 休眠 撤退を合わせて約100社にのぼるものと 推定される ブラジルの経済環境悪化のため 最近の日本の技術から大幅に遅れたとい われているが 困難を克服して残った企業は いずれも製品の自製率が100 近くに なり 図らずして技術移転もできて 人 物両面の国産化が同時にできたといわれる なお 進出企業の社員の子弟が在学するサンパウロ日本人学校 小 中学校のみ の 生徒数は 1976年当時約1000人であったものが この時期に半減している e セラード プロジェクト始まる フィゲレード政権の終りに近い1984年5月 大統領が訪日 その具体的成果の主 なもの は下記の通りである ① 総額13億ドルを超える対伯経済協力 ② 短期輸出保険の再開 ③ 科学技

264 術協定 の調印 ④ ブラジルに対する日本の信頼性の回復 上記の①の経済援助の 内容を見ると 単位100万ドル 1 セラード プロジェクト 152 2 潅漑計画 52 3 輸出入銀行信用供与 352 4 通産省輸出保険 民間銀行融資 200 5 銀行融資計画 565 計 1 1980年代の日伯経済交流の主なものは次のとおりである 1980年 土光経団連会長来伯 日伯貿易交流促進ミッション 戸崎伊藤忠社長団 長 一行140名来伯 レゼンデ運輸相訪日 ソアレス社会保障相訪日 デルフィン ネット企画相訪日 1981年 田中六助通産相来伯 園田外相釆伯 秋山参議院副議長来伯 デルフィ ン ネット企画相訪日 サンパウロ州経済ミッション 団長 マルフ州知事 一行訪日

265 1982年 鈴木総理一行来伯 ゲレイロ外相訪日 日本機械輸出ミッション来伯 大 来佐武郎外務省顧問 元外相 来伯 1983年 中部生産性経済ミッション来伯 経団連経済使節団 団長 平井富三郎日 伯経済委員会委員長 一行来伯 デルフィン ネット企画相訪日 渡辺美智雄前大蔵大 臣来伯 マセード労相訪日 1984年ガルヴェアス蔵相訪日 第3回 日伯民間経済会同委員会 日本で開催 フィ ゲレード大統領訪日 経団連ミッション 団長 武田日伯経済委員会委員長 一行来伯 小此木通産相一行9名来伯 デルフィン ネット企画相訪日 1985年 福田元首相一行来伯 アルシェル科学技術相訪日 パジアノット労相訪 日 安部外相来伯 1986年 第4回 日伯民間経済合同委員会 リオ デ ジャネイロで開催 日本 側 武田豊経団連日伯経済委員会委員長 伯団側 アルバーノ フランコCNl会長 ブ ラ ジ ル 工 業 連 盟 タ ヴ ァ ー レ ス 運 輸 相 訪 日 ア ル シ ェ ル 科 学 技 術 相 訪 日 サ ヤ ジ 企

266 画相訪日 1987年 沖縄商工会議所ミッション 団長 末吉会頭 外8名来伯 渡辺美智雄自 民党政調会長来伯 フナロ蔵相訪日 f 軍政の終了と経済危機 1964年に始まった21年間の軍政は 第1次 第2次国家開発計画を協力に推進 し 隆盛なる経済基盤を築いたが オイル ショックと国際経済変動に揺さぶられ ま た長年の軍政に飽きた国民は政治の改革を求めるようになる その結果 遂に1985年民政移管が行なわれることとなり 新共和国元年として民 主政治がはじまった しかし国民の期待を担って誕生した新民主政権はハイパーインフ レーションと内外債 不況 失業による社会不安の中での出発となった 不幸にして就 任直前に病死したタンクレード ネーベス大統領を引継いで就任したサルネイ大統領は まずインフレ撲滅が救国策であると強く国民に訴え協力を求めた 特に経済担当閣僚 大蔵省 企画省 に人材を起用してショック療法といわれる経済政策を打ち出した

267 次にその主なものを挙げると 1986年2月 クルザード計画 フナ一ロ ブラン フナーロ大蔵大臣とサヤジ企画庁長官コンビによる 無期限物価凍結 為替レート固定 1000分の1のデノミネーション 通貨価値修正廃止 通貨をクルゼイロからクルザードに変更 当初昂進するインフレ 月率16 4 年率420 に不安を抱いていた国民に熱 狂的な支持 を受け 約半年間は1 で推移 画期的なインフレ抑制策として充分な効 力を発揮した しかし物価凍結の一方 実質給与の上昇による購買力の増加と需要の過熱から一般消 費物 資が不足し始め ヤミ値が横行するなど問題が深刻化する 1986年11月 I 第2次クルザード計画 PI 工業製品税 の引上げによる5品目の値上げ 自動車80 煙草45 125 飲料100 燃料60

268 公共料金の値上げ 電話料35 家庭電気料35 郵便80 BNH 国立住宅貯蓄銀行 の廃止 国営企業8社の統廃合など行政整理 為替のミニ切下げ再開 これら一連の政策は過熱需要の抑制策として打出されたのだが 11月総選挙対策の ため調整が遅滞し 物価凍結の段階的解除の方策を失したことなどが致命的要因となっ て1年で崩壊する インフレは毎月加速し月率25 年率1000 の破局的段階に進展 一方内需過熱 に伴う輸入急増と輸出減退を促すこととなった さらに2月のモラトリアム宣告は対外 信用を著しく失墜せしめ 最後にサヤジ企画庁長官 フナロ大蔵大臣が失脚することと なった 1987年6月 新クルザード計画 ブレッセル プラン プレッセル大蔵大臣と ティシェイラ企画庁長官コンビによる 1000分の1のデノミをし 通貨クルザードを新クルザードに改めた 90日間の物価凍結 公共料金の値上げ 燃料 電気 電話など

269 新指数URP 参考価格指数 の設定 物価凍結期間中の給料凍結 為替は95 上乗せ切下げ実施 フナロ大蔵大臣に代って登場したプレッセル新大蔵大臣は クルザード計画を修正し て中期インフレ抑制策を実施した 内需一時抑制と輸出奨励という現状に則したもの で 熱狂的な支持はないが ショックの度合も少ないという政策といえる ショック政 策に引きずり回され 先行き不安が増大した結果 不況を招き半年を経ずして失敗に 終った 3 進出企業の果した役割 戦後ブラジルに進出した日本企業も早いものは40年になる これは戦後の初期に日 系コロニアを足がかりにして進出したという 特殊な事情があったからであるが その 後の進出企業の歴史も決して平坦なものではなかった

270 まず進出企業のあまりにも日本的な性格が異文化のブラジル社会から反発されると同 時に 本来同根の日系コロニアからも批判を受けることになる ブラジル側 あるいは 日系コロニア側から見た進出企業批判はかなりパターン化されており それだけに根強 いものがあるが 要約すると以下のようになる 1 駐在員は常に日本の本社の意向を伺い 現地の事情を無視して本社の方針を押しつ ける 2 ブラジル語を覚えないし 覚えようとも努力しない 3 ブラジル文化への理解がまったくなく 日本方式のみ押しつけようとする 4 日系企業は常に駐在員が上にいるため 日系人を含めたブラジル人の昇進の途が閉 ざされてい る 5 駐在員と現地社員との身分 給与格差がひどすぎる 6 駐在員は駐在員同士で行動し 現地の人間とはうちとけない こうした現地側の不満は戦後日本企業が進出した当初から存在し 現在にいたるまで 残っている問題である 日本企業のブラジル現地法人は100 親会社の出資か 90

271 以上親会社がマジョリティをもった会社であるため 親会社からの上意下達による日 本的経営が強くおし出され その結果 さまざまなトラブルが発生したことも事実であ る 1970年代までは日本の会社にも社員にも国際感覚が乏しく 異文化を理解 受容す る能力に欠けていたのである こうした事態を是正するために サンパウロのブラジル日本商工会議所の企業行動基 準委員会は ブラジル国における経済行動の具体的指針 を作成して 企業の現地との 融合化にのり出す この行動基準は 各企業が長期的観点に立ち 労使関係に配慮を行い 現地資本参加 の途を開き 合弁 株式の公開に努め 現地の習慣を尊重すること 派遣者の選定につ いてその適性に配慮し 長期派遣を心がけ また現地で教育と訓練につとめるものとい い また産業を育成し 再投資を促進し 現地企業や社会と協調すべきことがうたわれ ている 進出企業のカルチャーショックの問題も永い歴史の中でとらえれば やはり過渡的

272 一時的な現象にすぎないといえる 何故なら 進出企業も時間が経てば 現地文化に対 応する知識と経験を積み 現地社会に適応できるからである 日本からの進出企業も時代によって変化し 戦後の日系コロニアに全面的に依存した 時代は 地域もサンパウロが中心だったがSUDAM アマゾン開発庁 SUFRAM A マナウス自由貿易地域 計画による進出企業の地方拡散 官民レベルの経済協力的 大型プロジェクトへの参加 利益再投資分野として農牧業や不動産事業への進出 ブラ ジルや他国企業とのジョイント ベンチャーにおけるマイノリティ参加など 業種も対 象地城も会社の形態も多種 多様になっている まだ問題はあるにしても 日系進出企業の現地化は着実に進んでいる さらに進出企業の果した役割りとして見逃せないのは ブラジル産業の興隆 貿易の 拡大 地域開発への寄与 雇用の増大といった直接的な経済効果のほかに 日本的経営 の効率のよさがブラジルの産業部門に理解され 浸透していったことである TQC 全社的管理システム はすでにかなりの程度ブラジル企業に受入れられている

273 別表に示すごとく 1987年12月における日系企業の投資残高は29億6100 万ドルに達している アメリカ 西ドイツについで第3位の投資国である また 日本 の大蔵省国際金融局の統計による1951 88年の直接投資累計は約55億ドルであ る 日本の進出企業は 政府間ベースによる国際協力事業としての大型プロジェクトを除 けば概して企業規模は小さい しかし 日本の企業進出は比較的規模の小さい民間企業 が数多く進出するところにむしろ特徴があるといえるのである 参考資料 ブラジルの対外債務と日本民間銀行の貸出額 1985年から1989年までのブラジルの対外債務は ブラジル中央銀行の調べに よれば 下表の通りで 1989年度には1147億4千100万ドルにのぼってい る

274 ブラジルの対外債務残高 単位 100万ドル そのうち日本からは121億9千620万ドルで銀行別では次のようになっている フォーリャ デ サンパウロ紙 1987年9月2日 単位は100万ドル

275 東京銀行 1 121 三菱銀行 862 住友銀行 857 長期信用銀行 61 3 富士銀行 578 三和銀行 569 興業銀行 563 第一勧銀 46 東海銀行 444 三井銀行 381 日本クレジット 286 大和銀行 269 三菱トラスト 5 323 太陽神戸 218 安田トラスト 208 住 友トラスト 196 横浜銀行 190 三井銀行 171 埼玉銀行 141 協 和銀行 137 北海道拓銀 134 東洋銀行 144 その他の企業 は121億9千620万ドル を含め総額 なお 他の国では 米国が177億6千30万ドルで 全体の17 44 西独38億9千190万ドル 仏国5億9千985万ドル 英国 85億1千710万ドル イタリア7億ドル スイス9億2千275万ドルとなってい る

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280 第3章 教育 文化 宗教 I 戦後のコロニアの子弟教育 戦後のコロニアの子弟教育は 日本語教育と上級学校進学の動向の二面に分けて考 える 必要があると思われる 1 日本語教育 1930年代後半から厳しさが度を加えた外国語による児童教育への制限と監視 それ から遂に日語学校閉鎖の後 子弟に対する日本語教育はどうなっていたのであろうか 1937年 38年頃からの10年間くらいは日系社会の 暗黒時代 といってよい 時期であって 恐らく日本語による児童教育など到底考えられない状況であった しか し 祖国日本の戦勝は殆どの者が信じて疑わないところであったから 間もなく天下晴

281 れて教えられる時が来ると誰もが信じて耐えていたのである それは子弟教育のことば かりではなかった 日本が 盟主 となるであろう東アジアへの再移住も 実現の確かなものと考えられ ていたから 危険をおかしてまで日本語教育をする必要もない というのが一般的な父 兄の心情であった 1949年は まだ日系社会の 戦後混乱期 にあったが 戦前から日語教育界にあっ た 人 達 に よ っ て 全 伯 教 育 協 議 会 が 生 れ た し か し こ れ は 長 続 き し な か っ た 移 民 7 0 年 史 3 1 2 1954年7月 学校経営者 教師ら約100名が参加して サンパウロ市のドン ペドロ2世日語学校において第1回サンパウロ州公認日語学校連絡協議会が開かれた これが戦後における日本語学校の大きな統一行動の初めである こうして1955年1 月16日に創立されたのが 伯国公認日語学校連合会 日学連 註 日学連が伯国の名 を冠したのは1956年1月14日の総会から であり この組織は 1988年2月 20日に創立総会を開いて独立法人となった日本語普及センターに 同年9月24日

282 発展的 に合体吸収されるまで続くのである この初めての会議への参加者が約100名もあったということは 既にこの頃は日語 学校を経営する団体や個人がかなりあったことを示しているが これらの日語学校の教 育方針あるいは考え方は 如何なるものであったろうか 第2次世界戦争における祖国日本の 勝敗゙ をめぐる混乱の後遺症は 少なくとも 表面から消え るだけでも10年近くを要すのであるが この点から考察しても 日本 語による子弟教育の方針の主流は はっきりと戦前のそれの延長線上にあったと見て間 違いない 戦後のある時期までは 日本の勝利を信じるものがほぼ90 を占めるといった状態 であった 父兄の子弟教育方針への希望 期待も 祖国は勝っている という見方を根 底としたものであったし 教師の多くにもこの傾向はあり または父兄への迎合 妥協 からも 戦前の考え方の延長線上のものを匂わせなければ 受け容れられなかったとい う事情も指摘できる もちろん 終戦後の日本の大きな変動と改革をはっきり認める教 師達もあって この事実を基にしての子弟教育を考えた訳であるから 二つの流れの上

283 での教師間の意見 感情の相剋もあったとみなければならない 日学連内部における一 応の一本化までには幾つかの曲折があったのである 日語新聞が刊行されるのは 終戦翌年1946年からであるが それにもかかわらず 日語学校が1950年代に入るまで再開されなかった理由について 日学連編纂の 幾 山 河 1 9 6 6 年 8 月 刊 行 は ① 母 国 の 地 位 転 換 註 敗 戦 に よ る 日 本 の 国 際 的 地 位の変化のことであろう によるコロニアとしての自重 ②時局をめぐるコロニア内部 の対立 ③日語教育反対論の台頭 ④非合法的再開に対する自粛などを挙げ 特に④を 最大の理由としている 戦後 日本人の新しい移住が始まるのは1953年からである 新しい移民の中には 戦後の教育を受けた者 教職経験者なども含まれていたから この頃から徐々に日系社会における日語教育に対する 意識転換 が起り始めた また1949年6月からは移民の日本訪問も始まっていて 公私共に日伯間の人的交 流は次第に多くなったため いやおうなく敗戦後の祖国の実情は 終戦後から続いた 希望観測的 夢想的 日本の姿に代わって 伝えられて来るようになったのであ

284 る このような状況の中でアンドウ ゼンパチ 安藤潔 戦前から言論活動 文化活動を 行 な っ た 主 著 ブ ラ ジ ル の 歴 史 を 中 心 と す る グ ル ー プ に よ っ て 月 刊 エ ス ペ ラ ン サ 誌が1956年1月に創刊され 誌上で日本語教育の在り方を論じ また広く呼び か け て 問 題 討 議 の 会 議 を 開 い た り し て 啓 蒙 運 動 を 展 開 し た エ ス ペ ラ ン サ は 2 年 で 廃 刊 そうしたこともあって ブラジルの日系社会における児童への日本語教授は ブラジ ルの国情 生活環境を踏まえて ブラジル人である日系子弟の生活の実際に即した内容 の教科書の編纂 刊行を行なって それに拠るべきである との主張が世論の趨勢と なってきた 終戦後 日語教育が始められた頃は まだ日本からの新しい教科書の導入 は少なく 多くは戦前のものが使用されていた もっとも戦前の教科書に依らなけれ ば 納得できないという空気が父兄側教師側双方にあったことは既に触れたところであ る 1959年 日伯文化普及会 前出 は 日本語教科書刊行委員会 委員長 山本喜

285 誉 司 を 設 け 編 集 専 任 委 員 を 置 い て 編 纂 に 着 手 し た こ れ が 第 一 期 日 本 語 教 科 書 全 8巻で 1961年4月に完成した 次いで第二期高学年用4巻は1964年6月に編 集を終り 第一期8巻は1963年11月 公認教科書としてサンパウロ州学務局の認 可を得て頒布されたのである 因みに第一期分8巻の刊行は日本の帝国書院が刊行費を 援助している 1960年代初め頃の日語学校数について前出 幾山河 は 現況を詳細に調査するこ とは誠に困難 としながら 北パラナ 南パラナ ソロカバナ ノロエステ 南パ ウリスタ 奥パウリスタ 中央線 アララクァラ サンパウロ市 サンパウロ市近郊の 10区域に大別して調査 推定600校はあるだろうと記している 一方 ブラジル日本語普及会の1977年の調査では 学校名 教師名 生徒数の判 明している日本語学校の数は サンパウロ市内44校 近郊60校 パウリスタ線9 校 ノロエステ線22校 ソロカバナ線17校 パラナ州53校 リオ デ ジャネイ ロ州13校 アマゾン地方20校 計244校となっている なお この調査では 日

286 系の日語学習者8242人を世代別にみると 1世1 2世29 3世67 4 世3 となっている 両調査の時期には14 15年の間があるが 学校数の大きな差が目につく 2 日本語普及活動一本化の動き 日本語の教授あるいはその普及という 根底においては同一の性格 目的をもつ日系 社会としての事業を進展させるのに 幾つもの団体が存在する必要はない 一本化すべ きであるという意見は早くからあった 日伯文化普及会日本語普及部から独立した日本語普及会と日学連の一体化は多くの機 会に試みられたが その都度成功しなかった ようやく1988年の9月になって 前 述のように日学連が日本語普及センターに吸収されて一本化が実現するのである 日 本 語 普 及 セ ン タ ー 1 9 8 5 年 5 月 日 伯 文 化 連 盟 1 9 5 6 年 1 1 月 創 立 の 日 伯 文化普及会の後身 Alianca Cultural Brasil J a p a o 日 学 連 ブ ラ ジ ル 日 本 文 化 協 会 の 3 着 で 日 本 語 普 及 セ ン タ ー 文 協 の 専 門 委 員 会 が

287 運 営 を 作 り 1 9 8 8 年 2 月 か ら 独 立 の 組 織 とな っ た ここで 現在における日本語教育 教授 普及の唯一の中心機関となった日本語普及 センターについてその成り立ちをもう少し細かく辿っておきたい サンパウロ 現ブラジル 日本文化協会が創立されたのは1955年12月17日で あるが その1年後の1956年11月17日に日本文化普及会が創立された この会 の初代会長には サンパウロ市創設400年祭の祭典委員長だった詩人のギレルメ デ アルメイタが推されてなったが 会の主目的としては 当時はまだ対日本観の厳し かったブラジルに 知日ブラジル人をひとりでも多く増やすための日本文化の普及活動 を行なおう ということがあり この中に日本語普及部が設けられた こ の 日 本 語 普 及 部 は 1 9 6 4 年 8 月 ブ ラ ジ ル 日 本 語 普 及 会 と し て 独 立 の 会 と なったが1978年に至って再び日本文化普及会と合体して この時から日本文化普及 会は現在の日伯文化連盟と名称が変更されたのである 1 9 8 5 年 5 月 1 日 ブ ラ ジ ル 日 本 文 化 協 会 文 協 日 伯 文 化 連 盟 日 文 連 及 び

288 日学連の3者の問で合意が成立し 一体となって日本語普及事業を行なうという目的の もとに 日本語普及センター が発足し 文協の中の一専門委員会として事業を進める ことになったものであるが 時代の趨勢として普及センターの独立組織化が要望され 前出の如く 1988年2月20日に創立総会の開催となった この後 同年6月25日に日文連日本語研究部が 次いで9月24日に日学連が最終 的に普及センターに合体し ここで初めて日本語普及活動の一体化が実現したのであ る 文協 日文連 日学連3者間の日本語普及活動の一本化が1985年に合意に達しな がら真の一本化までになお3年もの時間を経過しているが これの理由には 日系子弟 児童 を対象とする日本語教授という問題における関係者間の意見 思想 の違いが 挙げられる この相違は複雑で微妙かつ根深い要因を多く含み 俄かに断定的に言うことはできない が 一応次のように分けられる ①現在のブラジルにおける日系社会の現状 環境の中にあっては日本語の教授は 外

289 国 語 と し て 行 な う の が 適 切 で あ る と す る も の で ブ ラ ジ ル の 学 校 で の 情 操 教 育 人 間 教 育 の 不 足 は 日 本 語 教 師 の 工 夫 に よ っ て 補 い 得 る ま た 日 本 文 化 の 理 解 は 日 本 語 の 習 熟 に よ っ て 自 ら 道 は 開 け る し 日 本 的 と い う こ と の 押 し つ け は ブ ラ ジ ル 人 である日系子弟の 素直な育ちを歪めるのではないか とするものと言ってよい ②日本語を教えることによって 日本伝統の良風美俗を子弟に伝え 日本の文化を伝 承 さ せ る 言 い 換 え れ ば 日 本 語 教 育 を 通 し て あ る い は 日 本 語 と 共 に 子 供 達 に 日 本 人 と し て の 心 の し つ け そ の 精 神 文 化 を 教 え る の う そ ん 誌 第 1 1 8 号 一 1 9 8 9 年 9 月 ま た 日 系 社 会 の 人 々 が 日 本 語 学 校 に 期 待 す る も の は 日 本 的 な し つ け を 子 供 達 に し て ほ し い 引 用 同 前 等 に 代 表 的 な も の を 要 約 で き る の で は な い か と 思 わ れ る ①の立場は 日本人の後裔に対する人間教育は 日本語教授を通してでなければ不可能 というものではない とし ②の立場は 日本人らしい人間 あるいは特質を備えた の教育を日本語で としている訳である

290 このような日本語教授 教育 に対する二つの意識 思想 の流れの存在が 日本語 普及事業組織の一本化を容易ならしめなかった最大の理由と考えられる いま 日本語普及センターによって 組織の一本化はできた形であるが 上述の二つ の異なる意識の流れそのものがすべて解消された とは決して言えないのが現状であろ う 3 ゙ 教 育 熱 心 について 日本移民は子弟教育に熱心 と常に言われてきた 開拓地に 都市部に集団ができ ると 必ずそこでは 日本語学校 が営まれた 第2次大戦後もこのことには変りはな い 後述する子弟の上級学校進学の急増も 教育熱心 の現われと見られるものである この面では 父兄達は自らの生活を犠牲にするほどの苦労節約にも耐えて学資を貢ぐこ とも行なわれたのである しかし こと 日本語の教授 ということになると 果して熱心という評価に耐える ほどのものがあったのかどうか疑問である 特に家庭内におけるそれへの父兄の対し

291 方 あるいは努力は甚だ心もとない状況にあったと言える 子弟に日本語を教えるほど の力が 移民である大方の父兄にはなかった という事情があったとしても やはり本 質的な教育への理解がなかった あるいは浅かった という点が指摘できる 学校に通わせておけば足りる という程度の認識であったのかも知れないのである このことは 戦前戦後を通じて常に問題になった教師の待遇にも現われているのでは ないか 前 出 幾 山 河 9 2 頁 は こ の こ と に つ い て 日 語 学 校 で 徴 収 す る 月 謝 額 に つ い ては全伯平均は僅か389クルゼイロであり 驚くべき低い月謝により運営されている ことが判明した 日本円に換算し2200円程度にしか相当しない 月謝収入に生活を 依存している教師として 今日の物価高のブラジルでは 到底最低生活を維持し得るに 足るだけの金額ですらない こうした低月謝によって教師の副業従事 転職 質の低下 などの問題が派生し従って日語教育の停滞という結果がもたらされるのである 低月謝 の原因としては 何よりも父兄側の認識不足を挙げねばならない 日語教育の必要性を 認めながらも 月謝値上げに対しては抗議するという父兄側の矛盾した意識の中に 実

292 は今日の目語教育不振を解く健の一つが潜んでいるのではなかろうか と訴えている 日本語以外の語学教育 例えば英 彿語 には高額授業料を惜しまないのに 日本語 の場合は確かに 幾山河 が記すような態度を父兄はとってきている これが゙ デモ先 生 シカ先生 を生み あるいは老齢教師に頼らざるを得ない状況を生んだので あった 日語教師の日本への 出稼ぎ゙ は1985年頃から始まっているが 皮肉なことに そのことによって生じた教師不足のために 待遇の改善が真剣に考えられるようになっ たのである 家庭内における日本語の伝授ということではよくドイツ人の場合と比較される ドイ ツ人家庭すべてに当てはめて言える事柄であるかどうか その資料はないが 都市居住 のドイツ系家族で 幼児がその父母 きょうだいとドイツ語で語り合っているのは よ く見かける風景である

293 4. 上級学校への進学 第2次世界戦争の前にも 移民の子弟で大学過程まで収めた者はかなりな数にのぼる であろうが それらは主として都市部で商工業に携わってある程度 成功 した移民 の子弟や 当時としては高給を受け得る職場にある者の子弟に限られていた 農業経営 者の子弟と言うのは指で数えられる程度であった 農村地帯の子弟が高等教育を受けるようになる傾向が次第に強まるのは 戦後でも1 950年から1960年代にかけてであるが これにはブラジルの学校制度が変り 高 等教育の夜間制が確立されたことに関係している 例えば 農業組合などが継続開催した組合員子弟対象の講習会 あるいは海外実習生 派遣事情において 1950年代から60年代の前半頃までは 参加青年男女で中学課 程を終えた という者さえも少なかった それが1970年代になると次第に高校また は大学在学中や卒業生も加わって来るように変っていったのである 祖国の敗戦と敗戦後の悲惨な状況が伝わってくると 移民達は抱き続けていた帰郷の 願望をなげうたなければならなくなる 好むと好まざるに拘わらず 定住を覚悟しなけ

294 ればならなくなったのである 戦後の日系社会の混乱期を経て 生活が次第に平常に復してくると ブラジルにおい ての子弟の将来という問題が親達の最大の関心事となってきたのである 子弟の未来は 親である移民達がなめて来たような苦しいものであってはならない ブラジルの社会の中で 少なくとも移民達がおかれてきた低い地位を受けつぐもので あってはならない といった気持を親たちの誰もが抱いたのであった それには教育以外にはない ということになる 親達が骨身を削っても 子弟を都市 で勉学させるというケースが多くなるのである これは移民の社会的地位の向上を願う ゙ 上昇志向 の現われといわれるべきものかも知れない 子弟の教育の便を得るため に 都市あるいは都市周辺への移動の波が起るのも 終戦後において甚だしい 移動の 波が起る理由の一つには1920年代から拓かれた内奥地の地力が著しく減退して 植 民地の崩壊も始まり 他のいずれかへの転出を計らねばならなくなっていた事情もあっ た

295 社会的地位の向上には まず何よりも経済力をつけることである つまりより早い金 儲けの道を手にするための大学進学が親の気持にも子弟の気持にもあったのである そのため 大学で選ばれる分野も 経済的な向上と結びつき易いものになる傾向が強 かった 医科 歯科 薬学科 法科 商科 工科などが主な対象となったのである 近 年 は コ ン ピ ュ ー タ 経 営 学 な ど が 加 わ る 大 学 を 出 た 子 供 の 経 済 力 の 向 上 に よ っ て 親の生活と社会的地位の向上安定を得ようという気持であるが これはあながち移民で あった親達の゙ エゴ 利己心 と決めつける訳にはいかないであろう 事実 親達 の 骨身を削る 努力によって 子弟のブラジル社会への進出が早められ 経済基盤を 築くのに役立ったことは疑いないのである 5 日系学生の志向 戦前戦後を通じて日語教育に最も関係の深かった者の一人 二木秀人は 日本移民70 周年に日伯毎日新聞が刊行した別冊特別記念号に 日系学生の志向と考察 を寄稿して

296 いるが それによると1949年に自らが調査したサンパウロ州立総合大学における日 系学生数は98名になっていて 全在校生3889名に対して2. 5 である また同 年同大学の日系受験者は79名で うち医科20名 工科28名 歯科10名 建築科 7名 農科5名などの数字が見られる ところが 1978年5月の同人の調査では サンパウロ州立総合大学学生総数3万 5千人中 日系は各学部の平均で15 を占め そのうち会計科356人中 日系は1 07人で30 経済科860人中192人で20 経営学科833人中167人で 同じく20 となっている サンパウロ総合大学以外の主要大学においても日系学生の比率は大きく 同じ調査 で マッケンジー大10 以上 FEI工大16 5 マウア工大13 1 AB C医大9 3 サントアンドレ文理大9 9 等の数字が挙げられている 全大学生 数の中の日系学生数の比率が著しく高くなっていることをこれらの数字は示し また日 系学生が志向する分野の傾向をも物語っている

297 サンパウロ市及びその周辺諸都市以外の地方に所在する大学における日系学生数を把 握する資料はないが 州内のマリリア プレジデンテ プルデンテ アラサツーバ リ ンス パラナ州のロジドリーナ マリンガ クリチーバ またリオ州の各大学に在学す る日系の比率もかなり高いものであることが推測される なおサンパウロ人文科学研究 所の貴近の資料によると サンパウロ総合大学における日系学生入学比率は16 に達 している 現在のブラジルの人口1億4千万 うち日系120万人として比率は0 85 サ ンパウロ州に限れば日系は2. 7 になるので 人口比率に対して 日系学生数の比 率は甚だ高いものであることが知られる Ⅱ 文学活動の流れ 移民生活の中で 生業以外の面で最も広く互いにつながりを持ちながら 絶えること なく行われて来たのは文学とスポーツであった 前者は精神活動としての性格が強く

298 後者は娯楽に発して青少年の心身鍛練という意味を持たせての活動 といった面が強 かったと考えられる 移民が関わった文芸分野 ジャンル には短歌 俳句 川柳 詩 民謡 童謡を含む 等の韻文から 小説 随筆 紀行 評論と いわゆる散文と称せられるものすべてがあ る 以上のうち 比較的に誰にも作り易く 小詩型であるが故に 親しまれ易い短歌 俳 句 川柳等は 移民の始まりと共にブラジルに持ち込まれた 笠戸丸移民の輸送監督として渡伯した上塚周平 俳号飄骨 が ブラジル上陸の第一 夜を過した1908年6月19日に作ったとされる ブラジルの初夜なる焚火祭かな は 記録に残っている移民俳句の 第1号 とされている また短歌では 笠戸丸移 民よりも前に渡航していた鈴木貞次郎 南樹 が 与謝野寛 晶子夫妻が主宰した文学 誌 明星 に拠っていたと伝えられているから 当然いくつかのブラジルに生活する者 としての作品があったと見なければならない 鈴木南樹は 1920年代の前半頃までは移民の間での先達的短歌作者とみられ 彼

299 を中心とした愛好者数人のグループが サンパウロで歌会を催し 手書き歌集を作って 回覧した その中に南樹の次の歌がある 山羊の乳しぼる娘をぬすみ見つイペの花みつ吾ただならず 1910年代前半頃の作とされている いずれにしても この時代に何らかの形の ゙ 文芸活動 を行ない得た者は極めて 僅 か の 数 に 過 ぎ ず 移 民 文 芸 と し て 真 の 意 味 で の 芽 が 生 ま れ る の は 1 9 1 0 年 代 後半に入って発行され始めた邦字新聞によってである コロニア文芸にとって幸いであったのは これら新聞 後に雑誌も加わる の主宰者 あるいは関係者に 文芸愛好者または関心を持つものが多かったことである 例えば聖 州 新 報 社 主 香 山 六 郎 素 骨 毒 露 公 孫 樹 南 米 新 報 主 宰 坂 井 田 南 舟 日 本 新 聞 翁 長 助 成 白 水 郎 農 業 の ブ ラ ジ ル の 揮 旗 深 志 ら は 読 者 文 芸 を 優 遇 し 自 ら も 作 品 活 動 を 行なった コロニア文芸の育成と興隆の上で 邦字新聞 雑誌が果した役割は量り知れ ないものがある

300 ただし 創刊初期においては印刷事情ほか経営上の問題などで読者文芸を扱うだけの 余裕はなかった 移民の数も増え 新聞各自もそれなりの刊行態勢がようやく調う19 20年代に入って ぼつぼつ文芸作品 極めて幼稚なものが主だが は現われ始める このようにして形作られたものの上に立って コロニア文芸は1920年代の後半頃 から30年代初頭にかけて盛んな活動期に入り 各ジャンルにおいての 組織化 句 会 歌会の誕生と機関紙の刊行など も行われるようになった 初期のコロニア文芸が概ね望郷の念に溢れた感傷的なもの あるいは日本で習い覚え た内容と形式をそのまま引きずったものであったのに対して この時期からより現実的 な素材への目と表現方法を持つようになって来るのであるが 短歌でいえば写実的傾向 の 芽 生 え で 写 実 主 義 を 標 梯 し た 短 歌 結 社 ア ラ ラ ギ の 準 同 人 岩 波 菊 治 の 渡 伯 が 1925年であるのは 象徴的な出来ごとであった 文芸機関誌として おそらく一番早く刊行されたのは サンパウロ州ノロエステ線奥 のアリアンサ移住地で1931年に出された おかば である 俳句と短歌を主とする も の で 後 年 こ の 二 つ の 文 芸 分 野 で 真 の 意 味 の 先 達 と な っ た 木 村 圭 石 貫 一 郎 佐 藤

301 念 腹 謙 二 郎 岩 波 菊 治 ら が 相 交 流 し た こ と に よ り 文 芸 活 動 が 起 っ た と 考 え ら れ 1 927年頃に おかば会 が作られたが これが文芸誌 おかば 創刊の母体となっ た お か ば は 初 め 謄 写 版 刷 り で あ っ た が の ち に 活 字 印 刷 と な る 活 字 で 印 刷 し た 文芸誌としても これが日系社会での第1号であった これ以後 大きな移民集団地の幾つかでは謄写版の文芸誌が発行されるようになり また青年会機関誌も作品発表の場となり 青少年の表現欲を促したのである 1 短 歌 戦前戦後を通じ 日本の短歌結社の流れを汲むものとしての立場をとる作歌者は若干 あったが コロニア短歌界の中での派閥的なものはなかった 作歌者の多くは結社の意 味といったものも知らなかったし また日本の一つのグループに所属する必要も感じな かったのである 戦前から アララギ その他の結社雑誌へのブラジルからの投稿はあ り 戦 後 に な る と 林 間 槻 の 木 ま ひ る 野 コ ス モ ス 歩 道 等 の 会 員 と なり作品を寄せる者の数もある程度は増えたが 一方では日本の結社誌につながること

302 を潔しとせず また日本の歌壇における或る種の風潮 その中には素材の 異国調 へ の 無 批 判 的 な 評 価 も 含 ま れ る に 迎 合 す る 作 品 を 忌 避 す る 作 者 も 多 く 存 在 し た 移 民 の短歌は 移民みずからのものである とする立場 とこれを捉えることは可能であろ う 邦字新聞各紙は文芸欄の中に 歌壇 を設け それぞれの選者を置いた 選者には移 民である作者の中の 幾らか 先進的 な力量があると認められたものが選ばれて なった 移民社会の最初の歌集は 聖州新報がその歌壇の投稿作品を以って編んだ 移り来 て で 1937年の刊行である こうした時代の趨勢の中で 専門短歌誌を持とうという気運が一部の作歌者の間に生 じたのは当然の成り行きであった 時のサンパウロ駐在総領事坂根準三 横浜正金銀行リオ デ ジャネイロ支店長椎木 文也が それぞれ日本の有力結社に属する作者であって この二人が専門歌誌発行の精 神 的 経 済 的 な 一 つ の 支 え と な っ た こ と に 加 え 岩 波 菊 治 ア ラ ラ ギ 系 阿 部 太 青

303 杜 若山牧水の 創作 系 の存在が創刊のエネルギーを結集せしめたとも言えるであ ろうが このようにして1938年10月に専門歌誌 椰子樹 が生れたのである 1930年代には サンパウロ市以外にもマリリア パラグワス一 バウルー クラビ ニヨス等の地方に短歌会があり 謄写版刷りの短歌を主とする文芸誌が発行されていた が 椰 子 樹 が 創 刊 さ れ る と そ れ ら に 拠 っ て い た 作 者 た ち の す べ て が 椰 子 樹 の 会 員 と な り 椰 子 樹 は 以 後 コ ロ ニ ア の 短 歌 作 者 の 最 大 の 拠 り ど こ ろ 現 在 は 唯 一 の短歌誌 として 今日に至るのである 短歌が 移民の郷愁と感傷め遣り場といった性格からはっきり離れ 文芸 文学とし ての短歌へ という志向が強く自覚され始めるのも この頃からといって誤りではない であろう 椰子樹 は1941年10月 11号を出したところで廃刊に追い込まれる 第2 次世界戦争下でのブラジル国内事情が 日本語による刊行物を許さなくなったからであ る 椰 子 樹 の 場 合 は 何 も 政 府 が 目 を つ け た と い う 事 情 に よ る も の で は な い が 危 険 な こ と で も あ っ た し 椰 子 樹 に 拠 っ て い た 者 た ち に は 刊 行 を 継 続 す る 意 欲 も 方

304 法も失なわれていた そうして6年後 1947年の12号から復刊となるのであるが この間モジ近郊居 住の数人の会員が中心となって ひそかに 林泉 と呼ぶ手書き謄写版の歌誌を発行 し これが第4号まで続いたところで 椰子樹 の復刊が実現するのである この 林 泉 の発行は 戦時下の 敵性国人 の立場に置かれた作歌者達にとっては 椰子樹 復刊までの つなぎ の役割をはたしたものであり また復刊への土台となったもの である 椰子樹 は戦時下6年間の休刊時代を除き 年4 6回の刊行が概ね順調に続き 1 988年6月現在まで通巻216号となっている 1930年代における日系社会の短歌人口は200 250人と推定され 地方短歌 会 1 5 2 0 と 見 ら れ て い る が 移 民 7 0 年 史 2 5 4 頁 現 在 の 椰 子 樹 会 員 は 2 00余名 これに新聞歌壇投稿者を加えると 短歌人口は250 3 0 0 名と推定され る の で 人 口 だ け で み る と 5 0 年 前 と 殆 ど 増 減 は な い こ と に な る ただ 日系社会の人口の都市集中化の影響で地方歌会の存続が困難になり 今も続い

305 ているものは10指にも足りなくなっており 地方で刊行されていた歌誌も全く姿を消 している しかし コロニア短歌にとっても最も大きい問題は 作歌者たちの老齢化で ある これはあらゆる文芸分野にとっての問題であるのだが 短歌は文語体を主として 用い而も韻文であるところから 日本語へのかなりの程度の習熟を必要とするという条 件のために 現在は ゙ 後継者 が生れるのは殆ど絶望と言ってよい状態にある 老齢 化によって減少する作歌者の数を補う方法がない訳である いまのコロニアの作歌者 は 成人して移住した僅かな幾人を除いて 殆どが準2世によって占められている そ うして 椰子樹 による平均年齢はおよそ70才と推定されている 戦後に発刊された諸新聞は各自歌壇を設けてコロニア短歌の興隆に尽した それは現 在も続いていて 椰子樹 と共にコロニア短歌を支える役目を果している 移民70周年を記念する事業として 椰子樹社が中心となって刊行した コロニア万 葉 集 は 移 民 の 生 活 と 心 情 を 表 現 し て い る 作 品 と 言 う 視 点 に 立 っ て 戦 前 戦 後 の 作品から収集編纂したものであるが 移民の精神史の一半を描くもの 或いは 時代の 証言としての移民の歌 として高い評価を受けた

306 コロニア万葉集 は 戦前作品991首 戦後作品5643首 計6634首 作 者数戦前269人 戦後1109人 計1378人によって成っているが 応募 抽出 を合わせての選考対象作者数は1599人 戦前311 戦後1288 同作品数は1 万5062首 戦前1600 戦後1万3462 である 2 俳句 同じく五 七音と文語体を基本とする韻本短詩型ではあっても 短歌に比べてより短 かく相寄って楽しむ 娯楽性 という雰囲気を持ち得る俳句は 移民社会に文芸活動の 行なわれ始めた当初から 作者は他の分野に比べて数が多かった 前出 おかば が創 刊された1930年代の初め頃で 全ブラジルの俳句会は既に40以上あり 俳句人口 は 4 0 0 人 あ っ た と い わ れ る 移 民 7 0 年 史 2 5 3 頁 ま た そ れ ぞ れ の 会 が 謄 写 版 刷 りの句誌をもっていた 初めに掲げた上塚周平の作品をブラジル俳句第1号と確認する術はないが 内容は確 かにそれにふさわしい

307 だが ブラジルの移民社会に俳句を根強く育て上げたのは 新聞 雑誌の文芸欄と言 う発表の舞台が提供されたと言う幸運に恵まれたことは否定できないとしても 192 7年5月に移住した佐藤念腹の力量と闘志であった としなければならない そもそも念腹の移住の目的はブラジルに俳句を普及させることにあった と言われる ほ ど で 師 の 高 浜 虚 子 か ら 念 腹 は 出 立 に 際 し 畑 打 っ て 俳 諧 国 を 拓 く べ し の 餞 け の 句 を 贈 ら れ て い る ホ ト ト ギ ス の 客 観 写 生 花 鳥 諷 詠 を 唯 一 の 俳 句 道 と し て 信 奉 し た念腹は 他の文芸ジャンルとの交流はおろか 俳句の他流との接触をも肯じようとし なかった 弟子にも許さなかった また日系社会の他の文芸指導者と言われた人々とは異なり 句誌経営と作句指導をそ の職業とした という点でも特異な存在であった 新聞 雑誌文芸欄での指導のほか に 第2次大戦終結後3年の1948年に 念腹は俳句誌 木蔭 を創刊して指導を強 化した これによって念腹は 俳諧王国 をブラジルにうち立てたのであった 木蔭 の会員はだいたい800人であったと言われている そして念腹を絶対的に 信奉する集団でもあった

308 戦前において最も有力な俳句誌として創刊されたものに 1937年の 南十字星 がある これはサンパウロ駐在総領事市毛孝三 暁雪 の斡旋 助力があり 木村圭石 佐藤念 腹ほか 当時の有力俳句作者が発起人であったが 僅か3号で廃刊になった 短期間で 挫折した原因は詳らかでないが 有力者間に俳句の在り方に対する意見の相克があっ た という想像は許されるであろう 戦前から 客観写生を信奉するホトトギス派に対立するものとして 主観を尊重する 所 謂 現 代 俳 句 新 興 俳 句 の 作 者 も 存 在 し た が ホ ト ト ギ ス の 念 腹 に 比 肩 し 得 る ほ どの吃立した指導者と言ったものは存在しなかった そのため まとまった大きな力と はなり得なかったが しかしこの派の活動は活発となり 戦後になってそれぞれのグ ループが機関誌をもつようになった 1972年に幾つかの句会の集合体として ブラジル俳句作家協会 が作られ 2年 後に ブラジル俳人協会 と改称 機関紙として 季刊ブラジル俳句 を創刊した こ の現代俳句を標榜する作句者たちの数はおよそ300名である

309 佐藤念腹は1979年12月に逝去したが その直前の10月 木蔭 は通巻372 号 で 廃 刊 1 1 月 か ら は こ の 後 を 継 ぐ 朝 蔭 が 発 行 さ れ 始 め た 朝 蔭 は 体 裁 編 集方式とも 木蔭 と全く変るところがない 1986年に到り 伝統俳句 はさらに2つの個人経営月刊俳誌が加わる いずれも 3 月 創 刊 の 蜂 鳥 と 小 雷 で あ る が 現 在 は 朝 蔭 蜂 鳥 小 雷 3 誌 の 鼎 立 時代の様相を呈している 地方俳句誌としては1977年創刊のマリリアのイペー吟社 機関誌 イぺ が月刊謄写版刷で発行されている 新 興 俳 句 の 方 で は 定 期 季 刊 も し く は 不 定 期 刊 行 の 形 で 麻 原 点 同 素 体 火 焔 樹 ブ ラ ジ ル 俳 句 な ど が 発 行 さ れ て い る 日 系 社 会 の 諸 文 芸 の う ち で 数 的 に 作 者が最も多いのは俳句で およそ800 1000名という推測がある 短歌の場合とは異なり 殆ど全伯的に各地に俳句会があり その作品は前出句誌及び 新聞の文芸欄に発表されており 全伯的規模の俳句大会が毎年幾つか開催されていて 盛況と称することができる また3日刊新聞が俳壇を設け それぞれの選者を置いて指 導に当たらせているのは短歌と同じである

310 しかし作者の老齢化はここでも不可避の事柄であって 若い世代からの参加が到底期 待できないとすれば コロニア俳句 の衰微は当然の成り行きとしなければならない 句集 もしくは句 文集の刊行数が多いことも コロニアの文芸ジャンルの中では目 立っている また日本の有力俳句誌 結社 とのつながりが強く広いこともブラジル俳 句界の特徴である なお 農業誌 アグロ ナッセンテ 及び のうそん にも俳壇が設けられて 活発 な発表がみられる 俳句がブラジルの文化人 文芸人の間で関心を持たれ始めたのは古いことである 近 年 は か な り 勢 い を も っ て 普 及 し つ つ あ る ハ イ カ イ 研 究 グ ル ー プ グ レ ミ オ イペー があり 時に応じて研究会を開き 年1回のブラジル語俳句の大会を開催して いる 日本移民がもたらした文芸形式の中で ブラジル人の間に普及し始めているのは 俳句だけである

311 3 川柳 戦前の゙ コロニア川柳 の拠点となったのは雑誌 農業のブラジル で1929年に 柳壇が設けられている 新聞が作品発表の場であった短歌 俳句とは この点で異なっ ている 人事 風俗 世事の諸相を鋭く捉えて諷刺するのがこの詩型の特徴であるから 移民 の生活には素材は幾らでもあった ただしブラジルの移民生活での経験 見聞がなけれ ば注釈抜きでは理解の及ばない作品も多かった 例えば その親父指を三本出して見せ 南天坊 は 移民間に適齢期の娘が少なかった時代には ゙ 娘三コント という値 段一三コント払えば娘を嫁にくれてやろう があったことを知らなければ この句は何 のことか分からないであろう 作者数は俳句 短歌より少なく 農業のブラジル での発表者は延べで300人と推 定されている 戦後の川柳界は戦前よりも盛んである 3日刊紙もそれぞれ柳壇を設け 特定の選者

312 を抱えている 戦後に創刊された雑誌 よみもの がいち早く川柳欄を設けたのが 隆 盛のいとぐちとなった 1 9 5 0 年 全 伯 の 作 者 の 拠 り ど こ ろ と な る 川 柳 の ち ブ ラ ジ ル 川 柳 が 創 刊 さ れ た 川柳の傾向にも 伝統的な詠風と前衛的といえるものがあるが 現在ではどうやら その中間的なところで落ちついている という見方ができるようである 1950年代の初め頃は各地の吟社数も10指に余るほどであったが やがてその殆ど が消滅する 原因は中心的な存在であった作者の他地方への転住である グループとし て盛んな活動を見せているのは ロンドリーナ パラナ州 の 親和 くらいのもので ある 専門誌としては 季刊的な ブラジル川柳 が全伯誌的な性格を持ち 前記 親和 社が不定期ながら 親和 を刊行している ブラジル川柳界の一つの特色は 海外作者との連絡をとり 国際的な活躍をしている ことで 各国での大会には相互に作品の応募が行なわれている 現在作者数は潜在的な ものを含めて100名程度とみられる

313 4. 詩 歌謡 民謡 童謡を含む 戦前の文芸の中で発表活動の淋しかったのは詩である 新聞が発行され始めると 詩 の形をしたものが時々現われるが ひどく稚拙なものであった 新聞自身 これらを発 表するのに 歌壇 というタイトルをつけたりしていて 扱う側の認識も漠然としたも のであったことが窺われる 1930年代に入って 発表活動もやや活発化し 作品にも質的向上がみられるよう になるが 作者は少なかった 1937年に創刊をみた 地平線 は 詩だけでなく 文芸作品の質 ということに目 を開かせるのに功績があった といえるようである 戦後の1950年代に入ると 個人あるいは合同の詩集の刊行が見られるようにな る 詩の質ということでは 戦前のそれとは比較にならない向上がみられる だが 新 聞 雑誌への発表は 他の短詩型に比べ 至って少ない 会員制度の専門詩誌としては1976年創刊の 亜熱帯 がある また 亜熱帯 に 先立ち コロニア文学 から派生した コロニア詩歌 が1974年に創刊されたが

314 小 新 聞 型 月 刊 コ ロ ニ ア 文 学 廃 刊 後 の 綜 合 文 学 誌 コ ロ ニ ア 詩 文 学 の 創 刊 は こ れ を母体としたものである 5 小 説 その他 1910年代の後半からサンパウロ州内奥地に日本移民の集団地 いわゆる植民地が作 られ始める 1920年代に入るとこの趨勢は益々活発になっていった 植民地は その殆どがコーヒー耕地のコロノ 契約雇用労働者 を経験したものが集 まり 原生林を拓いて作ったものであるが 新聞の発行が軌道に乗り 意見発表の場が できると 移民とは何か 移住とは何かというような問題が 新聞自体の主張として また移民の中の 思想家 によって論じられることが多くなった 植民文学 つまり移民生活の実体とその感情生活を主題とする小説を待望する声が 現 わ れ る の は 1 9 2 0 年 後 半 に 入 っ て か ら で あ る 植 民 文 学 論 と 呼 ぶ べ き も の も 新聞にしばしば発表された 移民社会で最初に新聞に発表された小説は1923年にブラジル時報に発表された坂

315 井 田 人 間 の 狂 伯 爵 と さ れ て い る 移 民 7 0 年 史 2 5 2 頁 こ の 作 品 は 社 会 主 義的イデオロギーを含むものと言われているが 以後新聞紙上に現われる数々の作品 は 当然のことながら極めて水準の低い 異国情緒 エキゾチック に溺れた興味本意 のものが殆どであった 1932年にはブラジル時報が 植民文芸懸賞短編小説 の募集を始め これは193 7年の第4回まで続けられた またこれに続く形で日伯新開 聖州新報 農業のブラジ ルなどの紙誌に小説の発表が行なわれるようになり 移民の創作欲 発表欲を刺激し た 移民が書く小説の水準もこの時代になると高まってきて 現在においてもなお鑑賞 に堪える作品も出現する いわば コロニア小説 の最初の興隆期をなしたのである 前出 地平線 の創刊も このような気運の中においてであった 戦後におけるコロニアの小説は 1948年創刊の娯楽雑誌 よみもの が1947 年に始めた短編小説の募集で幕をあけた この時の応募作品は172篇にのぼったとい われるが 如何に多くの者が 世界大戦を挟む前後7 8年の間に 言いたいこと 表 現したいことを抱え込み鬱積させていたかを物語るものと言える 他の文芸ジャンルで

316 もこれは同じであった 太平洋戦の祖国日本の敗北が 移民の精神に与えた衝撃は計り知れないものであっ た 腰掛け出稼ぎ移民 から永住への意識転換は 敗戦の苦渋の中から生じたもので あった 文芸 文学の上にも それは大きな影響を与えた このことが直ちに小説作品の上に 現われてくる訳ではなかったが 移民とは 移住とはを問い 見詰めることの深度は 戦前のそれとは比ぶべくもないものとなった よみもの 廃刊後 この雑誌の母体であったパウリスタ新開が毎年短編小説を募り 作品を発表していたが 1957年の創刊10年の記念事業として パウリスタ文学 賞 を設けた これは以後毎年募集と発表を行なっている その他の ゙ 小説発表の場 の動きを列挙すると 1949年創刊日伯毎日新聞が 小説を掲載するようになり 1951年に懸賞超短編小説と銘打って募集を始めたが

317 長くは続かなかった 1951年創刊 パラナ文芸 が盛んに小説を発表し この時 代の文芸興隆の一翼をになう形を見せる 1960年 コチア産業組合機関誌 農業 と協同 が同名文学賞を設定 1971年の第11回まで継続 1964年 前出の 日伯毎日新聞が再び 日伯毎日文学賞 を設定したが2回だけで終る 1971年 サンパウロ新聞が同名文学賞を設けたが1回だけで中止 1969年創刊の教養誌 のうそん が1979年に のうそん文学賞 を設定 現在まで募集と発表を継続 戦後のコロニアの小説について語る場合 1966年に創刊された コロニア文学 誌を除くことはできない これの創刊は 戦後の 文芸のルネッサンス ともいうべ き興隆の気運を土壌としたものであった 1953年から始まった戦後の移住者の中から新しいエレメントが小説分野に加わって 釆たことも この文学誌を生むもう一つの契機となった この点では 戦後移住者から の 参 加 が 極 め て 少 な い 短 歌 俳 句 等 の 短 詩 型 の 場 合 と は 異 な っ て い る コ ロ ニ ア 文 学 はコロニア一般からもかってない関心を寄せられて会員は一時期800人を数えた 現代的背景と経験の異なる 戦前移民と戦後移住の作者たちの 移民の姿と 他国移

318 住の意味を探ろうとする真剣な姿勢がこの時代の各文学賞作品に見られた と言える コロニア文学 は1977年の第32号を以て廃刊となったが 10余年にわたり 創作発表の場となり 多くの ゙ 才能 を登場させた功績は大きい この間 戦前戦 後を通じての小説のアンソロジーと言うべき コロニア小説選集 3巻を刊行してい る このような昂揚した状況の中で ブラジル日本文化協会はコロニアの文筆活動を励ま す 目 的 で 1 9 6 8 年 に コ ロ ニ ア 文 学 賞 を 設 定 し た 1 9 8 1 年 度 か ら コ ロ ニ ア 文 芸 賞 と 改 称 選 考 委 員 会 を 設 け て そ の 年 の 最 も 秀 れ た 作 品 或 い は 文 筆 活 動 個 人またはグループ を選び 表彰している コロニア文学 の後を継ぐ形で コロニア詩文学 が同名の会を作って創刊された 小説ほか散文を主体としながらも あらゆる文芸分野を含んでいることは コロニア文 学 の場合と同じである ただ これの創刊の経緯としては コロニア文学 を継承す るというよりも コロニア文学 から派生していた コロニア詩歌 を母体としたもの

319 である なお コロニア詩文学 は創刊の中心的存在だった武本由夫の死後 その名を冠した 武本文学賞 を設け 小説 体験記 随筆 紀行 詩 短歌 俳句 川柳を対象とし て毎年 募集と授賞を行なっている 註 本稿は 移民70年史 及び コロニア詩文学 掲載 コロニア文芸史 を多く 参 考 と し た Ⅲ 美 術 日系コロニアの文化活動で 美術部門ほどブラジル社会に浸透しているものはない それは もはや日系という狭い社会の枠を越えて ブラジルの美術界に大きな影響力を もつに至っている 日系コロニアに美術運動らしいものが現われるのは1930年以降のことである 1 931年1月 リベルダーデにあった日本倶楽部で コロニア初の公募展が開かれた この催しが コロニアの美術家たちを結集させる大きなきっかけとなった

320 1933年の暮れから翌年1月にかけて サンパウロ州の官展 サロン パウリスタ デ ベーラス アルテスの第1回展が開かれ これには佐藤豊松 富岡清治 半田知雄 の 3 人 が 出 品 し て 以 後 常 連 の サ ロ ン 出 品 者 と な る が ほ か 多 く の 日 系 画 家 も こ れ に出品した 1 9 3 5 年 3 月 サ ン パ ウ ロ 美 術 研 究 会 聖 美 会 が 創 立 さ れ た 発 起 人 は 富 岡 半田 田中垂人 根本市五郎 西田春一 高岡由也 玉木勇治 桧垣肇 高橋吉左工門 であった 翌36年からは展覧会その他を催し 1940年ま でそれが続いた 1939年リオ在住の高岡由也は リオ国展に自画像を出品して 日 本人としては初の銀賞を受けた 戦後は敗戦によるショックとそれに続く日系社会の対立という異常な状況の中で 再 び画家仲間が相集う機会を得たのは 1947年3月になってからである リオからサ ンパウロに転住した高岡の奔走で サンパウロ美術研究会は サンパウロ造形美術研究 会 略称は従来どおり 聖美会 として再発足した

321 しかし この時には半年あまりや月1回の集会も中止する状態におちいった その原 因を半田は 中堅会員が生計のために忙殺されるような苦境だからだ と指摘してい る 絵では食えない時代だったのである 聖美会初期のリーダーたち 当時のコロニアの暗い世相に明るい話題を投げかけたのは ジョルジ森 フラビオ シロー 田中の両2世であった 15才の少年ジョルジ森は1947年の2月と8月に 個展を開いて好評を得 フラビオ シロー 田中は 太い線と大胆な色彩による描写力

322 で将来を嘱望された 後年あいついで2人はフランスに渡り ヨーロッパ画壇で活躍す ることになった 1948年に鈴木威 建築技師 の個展を皮切りに 高岡 半田の個展がおこなわれた が 日系人以外の間にも好評で 売上点数も多かった この頃 半田 高岡 玉木を中 心とする研究グループ グルッポ キンゼ が生れたが このグループの3分の1は新 進のブラジル人画家であった 1950年代に入ると ブラジル美術界の動きも括発となり 近代美術の開花期を迎 えた それを象徴するものが 1951年に設立された サロン パウリスタ デ アルテ モデルナ と リオ デ ジャネイロ市の サロン ナショナル デ アルテ モデル ナ であり この年の10月にサンパウロ近代美術館が主催し 市が後援して開かれた サンパウロ ビェナール の開設であった とくにサンパウロ ビェナールは絵画 彫刻 デッサン 版画 建築を含む総合的な国際展であった 第1回ビェナールには13人の日系画家が入選したが フランスからは サロン ド

323 メ に属する作家たちが出品しており それらの作品は戦後の美術家が新しい概念とし て受入れていた非具象 半抽象に属するものであった ブラジル美術界の活気はコロニアの画家にも刺激を与え 聖美会の動きも活発になっ た 1952年5月に聖美全主催の第1回コロニア展が開かれ フラビオ シロー 田中 が第1回のコロニア賞を獲得した 以後コロニア展は毎年開かれるようになるが 第2 回のコロニア賞は間部学 第3回は福島近が受賞し やがて彼らはブラジル画壇に活躍 の場を広げていく コロニア画壇にも新しい時代が到来したのであった デビュー以来 精力的な活動を続けていた間部は 1956年にサンパウロ近代美術 展で小金賞 翌57年には大金賞を受賞さらに58年には同展で州知事賞を受け 59 年にはブラジルにおける美術の年間綜合最優秀賞の第1回レイネル賞 さらに第1回バ リー青年ビェナールにはブラジル代表として参加 ブラウン賞 最高賞 を獲得した 戦後日本からの移住が再開された1950年代の後半から60年代の初めにかけて 戦後の日本で美術運動の洗礼を受けた若い画家や彫刻家の移住が目立った この当時移

324 住し 現在ブラジル画壇の第1線で活躍している作家をあげると 抽象画には若林和 夫 近藤敏 越石幸子 楠野友繁 鈴木幸男 金子謙一 榊原久雄らがおり 具象画に は木暮光孝 白井久雄 三浦義幸 中島岩夫 田中慎二らがいる 彫刻では土本真澄 小原久雄 豊田豊といった人たちが代表的な作家といえよう 現在 コロニア内で工芸熱は盛んで 日本の伝統工芸の普及と紹介を目的にした工芸 作家協会は1968年に発足して以来 毎年工芸展を開いている 会の中心となって活 動しているのは 陶芸の鈴木章子 仲谷哲昇 漆工芸の今雪晧三 永田昌三 金属工芸 の竹川輝信染色の金子謙一らである 聖美会が発足に当って とり決めた目的の一つに 年少者の指導 があるが それは 1958年から 子供のための絵画教室 として始まり 現在も続いている 情操教育 面の少ないブラジルでは画期的なことであり 最近は外国との交流もある 1970年になるとコロニア展の出品者は100名を越える一大勢力となったが コロ ニア画壇の内部もまた複雑になってきた 聖美会は画業一筋では生活のできなかった時

325 代の1935年に研究会として 画家仲間の親睦機関として生れたものであったから 戦後移住の新しい会員と 戦前からの古い会員とでは 考え方に相違が現われるのは当 然のことであった とくに戦後の具象から抽象 さらには1960年頃から抽象美術の変質 具象傾向の 再台頭と極端な世界的流行が現われたこの時期には 理論上の対立は避けられないこと であった 聖美会は目的を失なった 解散すべきだ という意見が出たのもこの年である ブ ラジル作家として世界の舞台で活躍できる作家を数多く輩出したコロニア展は こうし て発展的解消をすることになり 1972年からは新たに サロン 文協 として再発 足した また 1960年代の後半から後述の現在も活躍中の2世の活躍も目立ってくる 1979年9月 パラナ州開発銀行が主催した日系画家招待展がクリチーバ市でおこな われた これには日系を代表する32人の作家が参加した この79年の最後を飾った のは大竹とみえで その年の美術活動に対して与えられる 美術家連盟の最優秀賞 を

326 受賞した 1980年代の日系美術界は 先駆者の半田 抽象派の間部 福島 大竹 若林など の活躍とともに 60年代にブラジルにやってきた作家たちも独自の表現手法に一層磨 きをかけ さらに多くの新しい2世作家が出現したことが80年代のきわだった特徴で ある これらの新しい作家群を 美術の習得過程とその活動範囲で大別すると ①美術単科 大学の教師と学生 ②サンパウロ大学建築学部の教師と学生 ③はこれらと別の過程で 勉強し 日系コロニアとも離れた独立グループに属するものの3つに分けることができ る ①のグループには中野トシフミ 大類ラエルチ 曽我部ミルトン ヒロ カイ 橋本マ ダレーナ 岡本綾男 奥村リージア 石川マリオらがおり ②の建築学部出身グループ には福島隆 金子太郎 若林亮 リカルド ウーなどがいる 彼らは桶野友繁など実作者の教師たちから激しく刺激されながら 技法と理論におけ る実験的な試作を数多く繰返している その作品は 今後の発展に大きく期待されるも

327 のをもっている 1 9 3 6 年 か ら 1 9 7 0 年 ま で の コ ロ ニ ア 展 そ れ を 引 継 い だ サ ロ ン 文 協 は 1 988年で第17回目を迎え また1968年に始めた 工芸展 は第21回 195 8年に始めた 児童絵画展 は第27回 1984年に第1回を催した 陶芸展 は第 5回を迎えているが それぞれ年毎に参加数と出品数が増え 多数の新人作家を生み出 している とくに1980年以降の サロン文協 は戦後移民と日系2 3世 また日系以外の 一般の出品が多くなっている この現象は 日系コロニアの芸術活動が すでに日系と いう枠を越えて ブラジル社会に浸透していることを示すものである 本稿は ブラジル日本移民70年史 1980年と ブラジルにおける日系人 その生き方と 芸 術 1 9 8 8 年 発 行 を 参 考 と し た

328 Ⅳ スポーツ 移民初期 サンパウロ州内各地に植民地が作られ そこでの生活が幾らか落ちつく頃 までは 移民には娯楽 集団的 というものはなかった それでも モジアナ線のグワタパラ耕地のような日本人コロノの多くいたところでは 娯楽としてのスポーツが考えられたのだろう 1914年8月31日に天長節を祝って 相撲大会を催したという話が伝えられている これが日系社会における相撲大会と呼ば れるものの初めであろう 出場力士は30名余であった 相撲は何ひとつ用具を必要としないし また日本人の老若男女すべてが知っているス ポーツであったから 一番手っ取り早く試みられた訳である サンパウロ州内奥地に植民地が生れると 娯楽と親睦を兼ねた各種のスポーツが考え られるようになり 以後こんにちに到るまで 移民社会老若男女共通の娯楽としての役 割を果たすことになった

329 a 相撲 1920年代の初期 最も早く多くの植民地が作られるのはノロエステ鉄道沿線であ るが スポーツの興隆もこの地方が先駆けとなったのであった 相撲もまずこの地方に おいて盛んになり 以後 南聖 ソロカバナ パウリスタ各地方でも始められるように なるのであるが 後に触れる陸上競技や野球のように 植民地内の競技から地域の競 技 さらに一鉄道沿線単位の競技を経て最終的には全伯的な地域対抗競技 全伯大会 というはっきりした形はとらなかった その理由の一つとして考えられるのは 1951年8月ブラジル相撲を指導するため に来伯した日本相撲協会の笠置山が指摘して ブラジルの相撲は日本の宮相撲や職業相 撲の最も悪い面の様式を取り入れているが これは改革を要する 日本の青年相撲か学 生相撲のように体育化し お花の如きはいち早く廃止するよう 青年相撲は素人相撲で あることを認識されたい といっているように 青年の純粋なスポーツとして中々受け 容れられない面があったのではないか という点である 1962年9月 伯国相撲連盟 ブラジル拳闘連盟所属 が組織されてから アマチュ

330 ア スポーツとしての形を完全に整えて こんにちに到っている 戦後移住者の中に秀 れた相撲人がいたことも刺激になって ブラジル育ちの青少年の中に豊かな素質のある 者が現われるようになっている 日本の学生相撲との交流 選手団の日本派遣も行われるようになり 職業相撲界入り も後を断たないという状況にもある 日系以外のブラジル人の中からも秀れた選手が現 われ始め 現在では相撲は日系コロニアだけのスポーツではなくなっている 全伯相撲連盟主催の全伯相撲大会は 1962年8月のモジ大会を第1回とし 以後 毎年開催され 幼年 少年 準青年 青年 一般 各部が年齢別カテゴリーによる競技 選手権 を挙行している また色々な祝賀行事の中の一イベントとしての大会も数多 く挙行されるようになっているが どちらかというと野球や陸上競技ほどには一般的に は普及しないまま今日に到った 1988年度の主な行事としては 伯国相撲連盟主催第10回聖州幼 少年 準青 年相撲選手権大会 2月21日 サント アンドレー市営スポーツ センター 出場1 0 チ ー ム 選 手 3 0 0 名 1 9 才 ま で 優 勝 パ ウ リ ス タ 主 催 同 第 2 7 回 全 伯 相 撲

331 選手権大会 5月15日 ボンレチ一ロ 聖州 出場チーム サント アマ一ロ AB C レステ オエステ ノルテセントラル サンパウロの7チーム 選手数250名 団 体 優 勝 オ エ ス テ カ テ ゴ リ ー は 青 年 準 青 年 少 年 幼 年 ミ リ ン A B C 日 本移民80周年記念大会 7月23 24日 モジ市ナウチコ モジアーノ クラブ競 技場 参加チームはサンパウロ サント アマ一ロ ABC セントラール レステ オエステ ノルテ スドエステ ノロエステ パウリスタ パラナ 南リオ グラン デ リオ デ ジャネイロなど4州13チーム 参加選手400名 この大会には日本 相撲連盟派遣の 高校 中学ブラジル遠征団 36人とパラグワイから10名が参加し た b 陸上競技 移民社会のスポーツの 花形 は かっては陸上競技と野球であった この二つは 比較的に小さな集団地 植民地においても必ずといっていいほど普及していた 陸上競投は 投擲関係の幾つか以外には用具が不要であることで簡単に単独で練習す ることができたので 運動会の延長のような気安さで普及は容易であった 当初は競技

332 用スパイクなど持っているものは稀であった 陸上競技は植民地内競技から 一駅内植民地対抗 そこで選手を選抜しての一鉄道沿 線 あるいは集団の多して一地方 内対抗 またそこで選手を選抜して全伯選手権とい う パ タ ー ン が 確 立 さ れ た ス ポ ー ツ で あ っ た 因 み に 野 球 の 場 合 は 一 鉄 道 沿 線 対 抗 大 会 で の 優 秀 チ ー ム が 全 伯 大 会 に 出 場 し た 1930年 プロミッソンで開催された汎ノロエステ陸上競技大会は 移民社会で初め ての大きく組織された競技会であったが サンパウロ市及びその近郊には青年会の中に 陸上競技部が設けられたのが多くなっていたので 呼びかけ会って1931年4月29 日 サンパウロ市のクラブ パウリスターノ競技場を借りて開催したのが第1回全伯邦 人陸上競技大会であった 参加チームはサンパウロ ノロエステ コチア レジストロ の4チームである 1930年代後半は戦前における全盛期で ブラジルの一流選手に比肩するほどの好 記録を生む者も現われるようになった 1933年には日本選手団6名のスポーツ使節 の来伯があり日伯対抗競技が催され 1939年には日本の陸上競技界の至宝南部忠平

333 サンパウロでの全伯陸上入場式 が指導に来て 競技の水準を高めるのに貢献した こうした中で最も華やかな行事と なったのは 日本の 皇紀2600年記念全国大会 にコロニアから6名の選手を派遣 したことであった 第2次大戦下で中断されていた全伯邦人大会が復活するのは1947年の第11回か らで 翌1948年からは少年少女の全伯大会も開催されることになった これは後に 全伯陸上 に包括されて今日に到っている

334 陸上競技は 勝敗のほかに記録の更新が目標の第1とされるが 1931年の第1回 全伯邦人大会の記録と1988年までの各種目最高記録は次の通りである 全伯邦人陸上競技大会記録の変遷 100m 200m 400m 800m 1 500m 5 000m 10 000m 110m障害 400mリレー 1 600mリレー 走高跳び 走幅跳び 棒高跳び 三段跳び 砲丸投げ 円盤投げ 1931年第1回 12秒2 25秒6 57秒8 2分17秒4 4分52秒2 8分54秒2 0分27秒2 15秒8 49秒0 4分04秒5 1m60 5m90 3m00 11m59 9m14 27m74 1988年までのコロニア最高記録 10秒1 20秒9 48秒7 1分55秒7 3分54秒8 14分04秒5 31分56秒4 15秒4 41秒8 3分18秒3 2m 0 0 7m37 4m07 15m15 14ml 0 40m 0 0

335 槍投げ 鉄槌投げ 40m57 37m20 68m76 40m46 年齢層別に少年少女男女の競技が行われるようになったのは戦後のことである もち ろん戦前においても日本人学校では競技は行われ 対抗競技も開催されてはいたが 現 在ほど組織化されたものではなかった 第2次大戦終結後のコロニアの 勝ち負け問題 は陸上競技界にも波及して 二つの 全伯邦人 が存在するという歪んだ状況が1950 1955年の間にあったが 1 955年から2世を主体とするビラチニンガ文化 体育協会 サンパウロ市 が主催す る一つの大会に統合された 1950年に南部忠平が5名の選手を引率して再度来伯し コロニア競技界だけでな く ブラジルの選手団にも大きな刺激を与えた 現在3年毎に日本陸上連盟の招待で国民体育大会 国体 に選手団を派遣し 見るべ き成績を挙げているし ブラジルの競技界においても注目される選手が出るまでに 日

336 系陸上競技は向上している 1988年度の主な行事 ピラチニンガ文化体育協会 アテ ア ビスタ会共催第 52回全伯日系競技大会 7月30 31日 イビラプェーラ競技場 選手566名 男 子 1 3 3 0 才 3 6 2 名 女 子 同 1 7 4 名 参 加 ア ナ ス ピ 協 会 青 年 部 聖 市 近 郊 連 盟 スドエステ パウリスタ ノロエステ パラナ アララクアラ ブラジリアの8 チーム 綜合優勝聖市近郊連盟 カテゴリー 少年 準青年 一般 ピラチニンガ文 化体協主催 アテ ア ビスタ会後援第31回少年少女陸上競技大会 5月8日 イビ ラプェーラ競技場 12チーム750名 44種目 綜合優勝スドエステ 第13回 ミリン大会 9月18日イビラプェーラ競技場 18チーム1006名 団体優勝ベラ ビスタ オザスコ C 野 球 野球は相撲と共に移民社会の中で始められたスポーツでは最も古い歴史を持つもので ある ただ野球は サンパウロ市居住者の間で先ず始められ 後に植民地の造成期に農 業地帯に広がったという点で 発祥と普及の仕方が陸上競枚とは異なっている

337 初めてブラジルで野球試合が行われたのは1910年代の初め頃 サンパウロ市に あったライト電力配給会社 ブラジル電話公社 米国総領事館 アルモール屠殺会社等 の 米 国 人 作 業 員 ら の 間 に お い て で パ ウ リ ス タ 野 球 連 盟 刊 ブ ラ ジ ル 野 球 史 上 日 本 人の野球はそれに刺激されてのものであったと見られる 1916年 野球同好者が集 まってチームを作りこれに当時の初代総領事松村貞雄が用具一式を調達するために50 0ミルレイスを寄付した という話が残っている 試合の相手は前記米 国人チームであったと推測されるのである これらの事情が動機となり1916年9月28日に 伯国日本人青年会 が発足し 野球ほか日本人間の諸行事を中心となって催すことになるが 1920年5月に至っ て はっきりした組織の日本移民最初の ミカド倶楽部 が誕生するのは このような 動きを土台としたものであった 日本移民の植民地造成期に入るのは1910年代後半からで 1920年代になると 急速にサンパウロ州西半分の地域に大小の植民地が増えるのであるが 野球は相撲や陸 上競技とは異なり 球 グローブ ミット バット等の用具が必要であるため 植民地

338 創設初期の事情では容易には取りかかれなかったという一面がある 山の丸木を削って バットを 農作物用麻袋を裁って熊手のような守備用具を 糸をぐるぐる巻きにし 町 の靴屋で購めて来たナメシ皮で覆ったポールを といったぐあいに愛好者自ら知恵をし ぼって作る ということも行われた アラツーバ球場での全伯野球大会入場式 曲りなりにも皮製の守備用具 ボールや町の木工所製のバットが地方のチームに行き 渡るようになったのは1920年代も終りから1930年代にかけての頃である 用具

339 入 手 が 比 較 的 に 容 易 だ っ た ブ ラ 拓 海 興 そ の 他 の 農 場 移 住 地 の 場 合 は 別 1 9 3 0 年代になると少年野球も次第に勃興し 次の野球全盛時代の土台となるのである 1920年代に盛んであった地方としては サンパウロ市 レジストロ アニューマ ス海外興業農場 それにノロエステ線のアリアンサといったところである 珍しいのは 1925年にモジアナ線セラーナ駅トランスバール耕地の日本人コロノが二つのチーム を 作 っ て 試 合 を し て い る こ と で あ る ブ ラ ジ ル 野 球 史 5 3 頁 各地で試合が盛んになるにつれて 全伯的な大会開催の声があがるようになり 19 36年9月3 7日 サンパウロ市クルーベ アンタルチカ蹴球場で第1回全伯青年野 球大会が開催された この時の参加はバストス チエテ パラグワス 地元サンパウロ の4チームで リーグ戦式による優勝はチエテであった ただし それ以前にも 伯国 日本人野球リーグ戦 と名づけた大会が1924年から1929年まで毎年1回開催さ れていたが アリアンサ チームの3連覇の後 立ち消えとなっていたので この全伯 野球はそれの復興という意味を持つものであった そうして1941年の第6回まで継 続開催されている なお 日本人の商社 企業の多いサンパウロ市では各目の野球部を

340 持つものがかなりあり 年中対抗試合や実業リーグ選手権が行われ 野球のメッカの観 を呈していた 陸上競技の場合に似て 一植民地内で始まった野球は一駅管内植民地チームの対抗試 合 そこから選手を選抜しての 鉄道沿線各駅チームの選手権大会 その優勝チームが 全伯大会に出場するというパターンができ上った サンパウロ市の場合は実業リーグで 選手を選び代表チームを結成して出場した 第2次大戦終結後は ブラジル人理解者にも呼びかけて 1946年9月24日 ブ ラジルの体育法に則る公式の パウリスタ野球連盟 が設立された 以後この連盟主催 の全伯青年野球選手権大会が1947年から年1回開催されている パウリスタ球連主 催または共催 後援で現在開催されている選手権大会は次の通り ①ミリン 9 10才 ②インファンチール 11 12才 ③プレ インファンチー ル 13 14才 ④ジュニオール 15 16才 ⑤ジュペニール 17 18才 ⑥アドゥルト 18才以上 全伯青年 ⑦セミ べテラーノ 35 40才 ⑧ベテ ラ ー ノ 4 0 5 0 オ ⑨ ス ー ベ ル ベ テ ラ ー ノ 5 0 才 以 上 ⑲ 全 伯 選 抜 地 域 対 抗

341 幼年 少年 準青年 青年 OB このように選手権大会が多く存在し 国際大会出 場も頻繁に行われて一見盛んとみられる野球であるが 往年の植民地の殆どが消失し サンパウロ市をはじめとする地方都市部への日系人の著しい集中が行われた結果とし て 現在では野球振興の底辺をなすものとしての まとまりのある日系集団 が薄弱化 するか或いは片寄った形になったことを認めなければならない 今では各鉄道沿線で 野球チームが存続するところは極めて僅かな数に過ぎない 維持費が他のスポーツに比 べて多大であることもチーム存続の大きな障害になる 国際大会出場などの華やかさが ある一方で 野球は一定の地域に片寄った形で続けられており 往時のような 全日系 コロニア 的状況にはないといえる 日系以外への普及も 関係者の努力にもかかわら ず 今に到っても殆ど無いに等しいのである 1988年の主要行事 第16回全伯クラブ対抗少年野球大会 2月5 7日 ボ ン レチ一ロ野球場 参加16チーム 優勝トヨタ 第40回全伯選抜青年野球大会 4月29 5月1日 ボン レチ一ロ球場 優勝ソロカバナ 参加10チーム 第

342 41回全伯少年 ジュニオール 野球選手権 5月8 10日 ボン レチ一ロ球場 参加17チーム 優勝コベル コチア 第42回全伯青年野球大会 クラブ対抗 9月16 18日 コチア 南伯 ボン レチ一ロの3球場 参加12チーム 優勝コ ベル コチア 第5回全伯ミリン野球大会 クラブ対抗 11月4 6日 ボン レチ一ロ球場 参加15チーム 優勝ロンドリーナ 第17回全伯クラブ対抗少年野 球大会 11月13日 ボン レチ一ロ球場 参加15チーム 優勝モジ ダス ク ルーゼス 第30回全伯ジュペニール野球大会 7月1 3日 ボン レチ一ロ球 場 参加10チーム 優勝コベル コチア 第16回全伯クラブ対抗少年野球大会 2月5 7日 ボン レチ一ロ球場 参加16チーム 優勝トヨタ 第18回クラブ 対抗女子ソフト ボール大会 5月14 15日 ボン レチ一ロ球場 参加11チー ム 優勝クリチーバ なお 甲子園出場チームから選抜された日本選抜高校チームが9月2日着伯 各地を 転戦して5勝2敗 また慶応大学チームが7月28日着伯 各地で親善試合を行ない 10戦全勝した これらは移民80年を記念しての日伯野球の交流であった

343 d 柔 道 柔道は同じく格闘技のスポーツでありながら相撲とは異なり かなりな知識と技術を 有する者の指導を必要としたから それほど早く移民の間に普及したとはいえなかっ た しかし ブラジルと柔道との関係は以外に早く生じている 後 に 日 伯 新 聞 の 社 主 に な っ た 三 浦 鑿 さく は 1 9 0 9 年 に 既 に リ オ デ ジ ャ ネ イ ロ市でブラジル海兵団の柔道教師をしていたと伝えられているし 1911年には 日 本移民の馬鈴薯栽培の祖といわれる馬見塚竹蔵がサンパウロ州警察で教え 後道場を開 いたという記録が残っている また前田光世六段 コンヂ コマ が1916年にアル ゼンチンを経てブラジルに入りサンパウロ ミナス両州の都市で興業試合を行い いっ たん帰国後再渡伯して1920年パラ州ベレン市で指導に当っていたことが知られてい る しかし 本格的に普及が始まったのは講道館三段大河内辰夫が1924年に移住して 来てからである 1930年代の初め頃になると 移民の中にかなりな実力者がまじる ようになり それが道場を開いて青少年の指導に当る気運が生れた 1933年 大河

344 内を中心として柔 剣道家の協力のもとに 伯国柔剣道連盟 を結成することになり 6月18日サンパウロ市のカルモ労働会館において連盟発会式と第1回武道大会を開催 した この年には続いてモジ タス クルーゼスに連盟中央線支部が作られ 以後パウリス タ ノロエステ ソロカバナ各鉄道沿線地域に幾つかの支部が結成された この柔剣道 連盟は1941年までに9回の武道大会を開催するが 第2次大戦下の事情のため 1 942年に解散する なお1939年の第7回大会には 日本外務省が講道館有段者2 名を派遣した 1930年代の後半頃には個人経営の道場がかなりあったが これが戦後の柔道界の 復活と共にブラジル人間に柔道を普及するのに大きな役割を果したのである 日系子弟 の道場通いも急速に増える傾向となる 1953年 大河内は 講道館柔道 の普及を計る目的のもとに講道館に要請し 日 本選手権保持者吉松七段 大沢五段と引率者高垣八段の派遣となり これを機会にコロ ニア柔道界を一丸としての全伯大会が開催された この時代になると 日系以外のブラ

345 ジル人の強豪が現われるようになり アルセニオ コスタ マルチンス及びヅルバー ル カストロ エ シルバーはこの大会の成績により講道館から五段を贈られた 1957年 大河内の主導で サンパウロ講道館有段者会 が設立され これを土台と して1958年 サンパウロ州柔道連盟 が結成された この頃から国際的な交流も頻繁になり 各種大会へ選手団が派遣される 移民が導入 したスポーツとしては 柔道が最も広くブラジル人の間に普及するのであるが これに はスポーツとしての娯楽性のほかに 護身術として秀れたものであることが認められた のも原因としてよい 1 9 6 2 年 柔 道 連 盟 は そ れ ま で 所 属 し て い た ブ ラ ジ ル 拳 闘 連 盟 か ら 独 立 し て リオ デ ジャネイロ市に本部 各州に支部をもつ ブラジル柔道連盟 となった 日本から指導に来た有段者の中には永住する者もあり とくに石井五段 岡野六段 関根五段らがブラジル柔道界全般の水準を高めた功績は大きい 中でも石井五段は帰化 ブラジル人となって1972年のミュンヘン オリンピックにブラジル代表として出 場 銅メダルを獲得した また1984年のロスアンゼルス オリンピックでは 71

346 kg級恩村ルイス 86kg級のカルモナが銅メダル 95kg級のビエイラが銀メダ ルをブラジルにもたらした さらに1988年のソウル オリンピックではアウレリオ ミゲールが87 95k g級で優勝する偉業を成し遂げた ブラジルは現在世界屈指の柔道人口を擁する国になっており 国際大会での上位入賞 者が増えている いずれの大会にも日系選手の参加が多く 上位入質に名を連ねている 移民がもたら したスポーツのうちで 現在ブラジルに最も普及しているのが柔道であって ゙ JUD OCA 柔道家 は既にブラジルの言葉と化している 1988年度の主要行事 パウリスタ柔道連盟主催選手権大会 男女 5月14 15日 シリオ クラブ体育館 第31回ブラジル ジュニオール セニオール選手 権大会 6月4 5日 サン ジョゼ ド リオ プレト体育館

347 e 剣 道 ブラジルでは簡単には調達できない用具を必要とするため 中々移民たちには取り かかれないスポーツであった 従ってごく一部ながらまとまった練習ができるようにな るのは1920年代の終り頃から30年代初頭にかけてでサンパウロ市の聖州義塾とか エメボーイ農業実習場などの教育機関内に限られていた 既に柔道の項でみたように 1933年に結成された伯国柔剣道連盟主催の大会に3 0名の選手が出場したのが剣道大会と呼べるものの最初であった 以来この連盟主催の 武道大会に剣道の部が設けられて次第に盛んになる気運を生み 1941年の戦前最後 の大会への参加は団体10 選手百数十名であった 終戦後いち早く活動を始めたのは スザノ モジ ダス クルーゼスをはじめとする セントラール鉄道沿線地域とサンパウロ市近郊の集団地のそれで これらが合同して1 947年には伯国中央線剣道連盟が生まれた これは前出の戦前の柔剣道連盟中央線支 部が改称 再発足したものである しかし 戦後のコロニア挙げての混乱は剣道界にも波及し 幾つかの催された大会は

348 片寄ったものになることを余儀なくされた 1959年の初め頃 ようやく全伯剣道連盟の新生となり この年3月には全日本剣道 連盟の海外支部第1号として加盟 11月21 22日サンパウロ市で第1回全伯剣道 大全を開催した この時点における連盟傘下のクラブ 団体所属会員は全ブラジルで3000人余と称 せられた また1964年からは有段者剣道大会が毎年開催され こんにちに到ってい る 現在 サンパウロ州では中央組織としてパウリスタ剣道連盟があり 各州剣道クラブ の中央機関として全伯剣道連盟がある 国際交流も最近ではかなり頻繁になり 3年毎 に開かれる世界剣道選手権大会には毎回選手団を送り 優秀な成績を挙げている 柔道 ほどの広い普及は現段階では望み難いとしても 今後に期待できるスポーツの一つであ る 1988年度主要行事 第6回全伯有段者剣道選手権大会 1月31日 ピラチニン ガ文化体育協会体育館 参加チーム5州23クラブ 210人 第6回サンパウロ州

349 剣道選手権大会 個人戦 4月17日 ブラジル日本文化協会体育館 カテゴリー男 女別 幼少年 幼年 少年 段外 初段 4段以上 第6回全伯幼少年剣道選手権大 会 7月17日 イビラプェラ綜合体育館 f 水上競技 日系社会において 組織的な水泳の修練 競技が行われるようになったのは第2次大 戦終結後のことである 1930年代に斉藤魏洋がブラジル海軍に招かれて水泳の指導 をし また佐藤寛一がYMCAでコーチをし有力選手を育てたことが知られている 佐 藤の指導は戦後にも及んでいる ゙ フジヤマのトビウオ 一行がブラジルを訪れ パカエンブー競技場プールで開かれ たブラジル水泳選手権大会に出場したのは1950年3月23 26日のことで 戦後 のコロニア挙げての゙ 大事件 かつ 欣快事 であった 開会式にはサンパウロ州政府 の好意によって日章旗が翻えり 君が代 が軍楽団によって奏せられ まだ戦後の暗い 時代が後を引いていたコロニアの人心を一挙に明るくしたのであった

350 日本水上選手団のブラジル訪問は 1949年に北米に招かれた古橋広之進ら日本選 手が幾つかの世界新記録を出し フジヤマのトビウオ の名を奉られ 戦後沈滞の極み にあった日本人を驚喜させ 自信を取り戻させるのに一役果したことに刺激され コロ ニアでもこれを招いて 勝ち組負け組の混乱が未だに沈静していない日本人間にも明る い空気を呼び込もう という計画が州政府の賛同を得て実現したのである 遊 佐 監 督 以 下 村 山 修 一 主 将 古 橋 広 之 進 橋 爪 四 郎 浜 口 喜 博 ら は パ カ エ ン ブ ー 競技場 リベロン プレト マリリヤ リンス アラサツーバ サントス リオ デ ジャネイロ ニテロイ プレジデンテ プルデンテ ロンドリーナ リオ プレトの各 市における競技で 世界新記録2 南米新2 日本新1の記録を樹立し コロニアの゙ 暗雲 を一気に吹き払ったかの観があった このことがコロニア全般の水泳競技への関 心を高めたのは疑う余地がない

351

352 マリリア市のヤーラ クラブは当時水上競技で好選手を出しつつあったが 中でも岡 本哲夫は1952年のヘルシンキ オリンピックにブラジル代表として出場 1500 m競泳で銅メダルを得 ブラジルの水上競技では最初の五輪入賞者となった この競技 での1位は米国の紺野 2位日本橋爪 3位岡本で 奇しくも日系の3人が金 銀 銅 メダルに輝いたのである この時代から後 日系子弟の水上競枚への出場は国内的にも国際的にも多くなり 同 時に記録も著しく向上した 日系によって組織された水上競技大会が初めて実現するのは1967年1月22日 サンパウロ州立体育館で開催された第1回全伯邦人水泳大会においてである 1988年の行事 第22回全伯日系水上競技大会 11月19 20日 イビラ プェーラ体育館 カテゴリー 男女共 はジュベニール 一般 インファンチールA B ジュベニールA B 安養寺盃 古橋広之進盃 吉田光男盃争奪戦 この争奪戦は 日 系 に 限 ら な い

353 g 卓 球 球さえ手に入れば 後の用具全部が手製で間に合わないこともない卓球 ピンポン は移民の生活の中で早く親しまれたスポーツである 家庭内で グループの中で簡単に 男女共に楽しめるものであった 戦前にも親睦試合 対抗試合は行われていたが 選手権大会というものがコロニアで 始まるのは1950年に目伯毎日新聞が主催したサンパウロ近郊卓球大会が最初で 参 加選手80余名であった 1951年からはこれが 全伯邦人卓球大会 と改称されて 毎年開催されることになり 規模も大きくなっていった 1950年代は日本の卓球界が世界的な好選手を輩出するようになったが これはコロ ニアの卓球人に刺激を与えた ブラジルの日系人にとっても 体格 体力などの面から いって男女共により適合性があるため 国内的に高水準の選手がまず生れることになっ た 1958年の移民50周年を記念して日本から萩村伊知朗 田中利秋2選手が来伯 日系卓球界を指導した 1959年には 戦後移住の平崎義積がブラジル卓球ランキン

354 グ1位 高橋正剛がサンパウロ州準青年ランキング1位 女子では平崎美保子がサンパ ウロウロ州 ラ ン キ ン グ 1 位 高 橋 笑 子 が 準 青 年 南 米 及 び ブ ラ ジ ル 1 位 な ど を 筆 頭 にす る 活躍が記録されるようになったも この頃から日系選手がブラジル代表団の主力とし て国際大会に頻繁に出場することになるが 1988年度の主な行事としては 1 月 北アイルランド大会参加 続いて西独 ベルギー オランダ フランスで親睦試 合 汎アメリカ ゙ 最優秀32人 選手権大会 4月10 17日 キューバ パ ウリスタ卓球連盟主催選手権大会 3月13日 イビラプェラ体育館 州内35地区3 40選手参加 総合優勝スザノ どのチームも日系が主力を構成しているのが目立つ 第38回全伯日系卓球選手権大会 全伯卓球連盟 日伯毎日新聞共催 7月29 31日 イビラブェラ体育館 全伯12区690選手参加 第7回矢尾板盃卓球大全 8月6日 イビラプェラ体育館 29地区420人参加 パウリスタ卓球連盟幼少 年卓球大会 9月18日 アグア ブランカ州立体育館 24地区430人参加 パ ウリスタ卓球連盟主催幼少 青年 婦人大会 10月1 2日 サント アンドレ市営 体育館 22地区470人参加

355 日系 を冠しない諸大会でも 日系選手は各カテゴリー毎に上位の成績を占め 卓球は柔道と共にブラジルの第1線級の選手を多く出している点で特色あるスポーツと いえる h テニス 相撲 陸上 野球 卓球などは 移民の集団化と共にいつからとなく どこからとな く自然に始められ広がったスポーツといえるがテニスはその 形がかなり異なっている いわゆる 奥地 ゙ 発祥 と広がり方の では ボールを始めラケット ネットな どの用具を手に入れるのが難しかったし コート作りも他のスポーツに比べて技術を要 した このような理由から テニスはサンパウロ市ほか幾つかの都市の居住者に限ら れ しかも公館や商社筋の関係者が主なプレイヤーであった 記録によると サンパウロ市居住日本人のテニスの始まりは1921年頃で 192 6年に市内ブルックリン パウリスタ区に日本人クラブがコート2両を作るまでは エ スツダンテス街付近のコート 正式のコートだったか否かは不明 で同好者が楽しむ程

356 度だったといい 同じ頃リオ デ ジャネイロ市でも数人が始めていた 1927年9月に開催された全サンパウロ選手権大会で パウリスターノ スポーツ クラブに所属していた水上不二夫が優勝したのは移民社会スポーツにとって大きな出来 事 で あ り 同 年 1 1 月 1 3 日 に は 日 本 倶 楽 部 庭 球 選 手 権 大 会 1 9 2 8 年 に は 日 伯 新聞社主催の大会が開催されるなど かなり活気づいて来るのである 以後1930年 代の初めにかけてノロエステ ソロカバナ パウリスタ各地方の一部都市 植民地で盛 んになっていった 1937年12月のサンパウロ州選手権大会において 渡伯後間のない藤倉二郎 日本 デ杯選手 が優勝した 庭球は日系社会のスポーツとしては普及の点では他に劣った が ブラジルのスポーツ界における成績という点では先駆け的存在だったといえるので ある サンパウロ市 ノロエステ鉄道地方を主とするテニス興隆の趨勢の中で1941年8 月 全伯邦人都市対抗第1回大会 がサンパウロ市サント アマーロのコートで開催さ れた この時の優勝はマリリアで ほか参加チームはプロミッソン サントス コチ

357 ア サンパウロであった 戦後になると 1947年にコチア クラブのコートで第1回邦人全伯大会が挙行さ れ パウリスタ コチア サントス サンパウロ ノロエステ各チームが出場した 以 後毎年この大会は開催されているが 1950年代の後半頃からは2世の優秀選手が出 るようになった 女性の目ざましい進出もこの時代からである 1988年の行事 第42回全伯日系テニス選手権大会 7月13 17日 コベ ル コ チ ア コ ー ト カ テ ゴ リ ー 男 子 単 複 A B C 級 プ レ べ テ ラ ー ノ ス ー ベル ベテラーノ エスペシアル ジュペニール インファンチール プリンシビアン テ 女子同 B級 プレ ダーマ ダーマ ジュペニール インフアンチール プリン シビアンテ i 空 手 戦 後 に 普 及 し た も の に 空 手 が あ る 戦 前 に お い て は 空 事 唐 手 は 沖 縄 県 特 有 の

358 武技といった認識の程度であったが 戦後移住者の中にかなり多くの日本での練達者が あり ブラジルの都市部で道場を開き普及に努めた ブラジル人にも急速に普及し ア カデミア デ カラテ の看板は到るところで見られるようになった 柔道よりも護身術 一面では攻撃的 型 が強烈でもある として 直接性 が形の 上に表われている点もあって 特に日系以外に関心を持たれ 受け入れられたとみるこ とができる ただ柔道の場合は講道館という強い統一組織体が存在するが 空手にはそれはなく 幾 つもの流派がある そのため 一つにまとまって全伯大会 日系であると否そを問 わず 或は選手権大会とかはない 流派毎の選手権大全 また国際大会が開催され 交 流は活発である 空手人口といったものの把握は現段階では難しい j ゴルフ 戦前にも一部の日系企業 商社 総領事館関係者間で楽しまれてはいたが 一般移民 社会にとってはエンもユカリもないものであった

359 戦前の動きでは 1936年に蜂谷専一などを中心にタペサリニァ ゴルフ クラブ が作られた事実があるが 愛好者の殆どが既存クラブに入会してプレイをするといった 程度であった ゴルフが広く日系社会の男女間に普及し始めるのは1950年代の後半から1970 年代へかけての時代に 日本からの企業進出が゙ ブーム とも呼べる勢いで行われ それらの関係者にゴルフを楽しむものが多かったのが刺激となったものである 日本に おける経済発展と国民の生活水準向上に伴うゴルフ愛好者の増大がブラジルの日系社会 にまで波及したともいえる この勢いに乗って 日系会員を主として創立されたアルジャー PL レーク サイ ドなどのクラブがあり それぞれ完備したゴルフ場を所有している 珍しい存在として は日系集団地バストスにクラブと競技場があることである 全伯的規模の日系人の大会としては 1970年からパウリスタ新開主催の 全伯日 系ゴルフ大会 が始まり 1988年10月に第19回大会を主催している その他に も サ ン パ ウ ロ 新 聞 社 日 本 航 空 主 催 の 大 会 も 催 さ れ て お り サ ン パ ウ ロ 州 選 手 権 大 会

360 で好成績を収めるプレイヤーも生れている 現在日系コロニアのゴルフ人口は2000 余と推定されている k サッカー サッカーの国ブラジルではあるが 日系人の選手権大会といった規模のものは開催さ れていない しかし 用具はボール一つで簡単に取りかかり易く 誰でも一応は心得て いる競技であるため 室内サッカーと共にいろいろなグループ間の対抗試合は常に行わ れている 稀にはブラジルのプロの世界に現われる日系選手もあるが 一流まで成長し たというのは皆無に等しい それよりも 日本のサッカー熱の勃興につれて 日本から 武者修行 として来伯 プロ クラブに所属して技術を磨く青少年が現われ始めてい る その中のある者は一流クラブに所属してもてはやされることもあるが やがては帰 国して日本の社会人チームに所属する ということが生じている 1 バレー ポール バスケット ボール

361 サッカーと同様 各グループによる競技はおこなわれているが 全日系選手権大会 といったものはおこなわれていない m ゲートボール 近年 これほど急速に広く普及したスポーツはない ちょっとした日系人の集まれ るところには 必ずといえるほどにチームがあり 絶えず試合が行われている 全伯ゲート ポール協会 が結成されて全伯選手権大会が開催されている 主とし て壮年層あたりから老年層に至る男女によってチームが構成され試合ができるというこ のゲームの 性格 が 娯楽と健康維持を兼ねたものとして受け入れられ普及した コロニアに導入されたのは1977年で 第1回全伯大会は1983年7月17日 5チームの参加でスザノ文化協会運動場で開催された 1988年の行事 第6回全伯ゲート ボール選手権大会 全伯ゲート ボール協会 とサンパウロ新聞社との共催 3月5 6日 サンパウロ市サガ コート 参加252 チーム

362 第4回全伯婦人大会 全伯ゲート ボール協会主催 月日不明 参加65チーム 第3回世界選手権大会 6月20日 パカエンブー競技場 優勝ドラセーナ n ラジオ体操 広 い 意 味 で は ス ポ ー ツ の 分 野 に 入 る が ゙ 競 技 性 を も っ て い な い の で よ り 健 康 増 進 的な性格のものである ただし戦前からラジオ体操は日本で全国的に普及していたの で 移民とは馴染みが深かった 幾つかの団体 あるいは個人的な指導をした記銀は 残っているが 活発に普及し始めるのは戦後の1960年代に入ってからである 19 7 8 年 に 誕 生 し た リ ベ ル ダ ー デ 体 操 会 サ ン パ ウ ロ 市 が リ ベ ル ダ ー デ 商 工 会 の 1部門となり 普及と指導の中心となった 1985年にはブラジル サンパウロ体操連盟が結成され 現在21団体 会員1千数 百名 10 は日系以外 が加盟し 日本及び南米諸国との国際的交流も始められてい る

363 Ⅴ 趣味 娯楽 移民の生活の中で趣味 娯楽として出発した多くの行事も 戦後の日系人の都市部集 中や経済的な余裕 また新しい移住者のエレメントが加わってそれぞれの分野の活動が 広がり層が厚くなってくると 指導的な立場にあった者はやがて 専門家 となり それを職業とするようになる そ れ ら の 好 例 と し て は 音 楽 声 楽 を 含 む 歌 謡 民 謡 も 舞 踊 日 舞 が 主 洋 舞 は 僅 少 生 花 茶 道 な ど が 挙 げ ら れ る こ れ ら は グ ル ー プ 流 派 毎 に 会 を 組 織 し 協会 連盟等の名を冠し 指導者を中心にして発表会を催すなどの活動を行う 中の或 る分野は日系以外に広がっているが まだ範囲は極めて狭い 洋舞の場合 特殊な例として 弓場バレー団 がある これはサンパウロ州ノロエス テ線ミランドポリス駅゙ 弓場村 在住者 つまり農業に携わる者が作ったもので 日系 面も農業者の文化活動としては異色かつ高度のものと言える

364 映画や演劇は 移民の多くは自ら参加するという形で起ったものではなく 観る 受 け入れる 娯楽としての存在であった 映画は日本で制作したものが輸入され 戦前は主として幾つかの゙ 映画社 がそれぞ れに巡回姓を持って地方の移民集団地を訪れ上映した 戦後はこれが都市の映画館経営 者 に 受 け 継 が れ 巡 回 映 画 は 消 滅 し た 日 系 人 の 都 市 集 中 や 移 民 が 作 っ た 集 団 地 植民地 の多くが姿を消したのが原因である 都市部 主としてサンパウロ市 の映 画館も 近年の著しいビデオの普及 移民の老齢化の影響を受けて観客数が激減したの と 日本映画の輸入の困難がこれに加わって 1980年代後半には日系人経営の映画 館はすべて廃業に追い込まれた しかし 映画は1920年代後半の地方巡回に始ま り 長く移民の娯楽面に大きな役割を担ったものである 演劇 芝居 は幾つかの地方巡回劇団が生まれ 或るものは相当長い年月続いたが 演劇活動そのものが移民の間に広がった訳ではなかった 芝居は記念日 祝祭日などの 催しものの一つとして 素人の寄り集まりで行われた これは現在も続いているが そ れも散発的で僅かなものである

365 趣味と娯楽は それに携わる者の気持の上では非常に区別しにくい 趣味はより精神 的な楽しみ 娯楽はより表面的な楽しみ とでも言えるかも知れない 例えば対照的な ものとして囲碁 将棋と いま流行のカラオケを考えてみるのもいいであろう ただ 単なる趣味娯楽から出発したものであっても それが 芸 として或る高度に達せば おのずから芸術と称し得るものとなる それは前記のあらゆる分野について言えること で 日系社会においても必ずしも多くないが 皆無ではない 芸術祭 と呼称されるものが 大きな規模で催されるようになったのも戦後ここ 数 十 年 来 の こ と で あ る 芸 術 と い う 言 葉 が ど の く ら い の 範 囲 を 含 む も の か 確 定 は で きないが芸能祭の 出し物 に含まれるのは おおよそ次のようなものである 民謡 演劇 日本舞踊 バレー 音楽 歌謡曲 浪曲 詩吟 剣舞 奇術など 及び 郷 土 芸 能 的 な も の 伝 統 的 な も の こ れらのすべて 或いは幾つかが 芸能祭 において一堂に会して上演される訳であるが 芸 としての水準となると千差万別というほかはない 娯楽 趣味の中で より 頭脳的 な要素をもつものとして特色があるのは囲碁と

366 将棋である この二つは 恐らく笠戸丸の移民と共にもたらされたと言えるものだが 碁における盤 白黒の石 将棋における盤と駒は 紙を用いて作ることが出来るもので あり 時間をかければ木材を削ったり 土をこねたりしての用具造りが可能であった 特別な競技場の必要もないから 打ち方 指し方の知識さえあれば誰にでもできる娯楽 であった a 囲 碁 第2次大戦前の1938年に サンパウロ市囲碁会館 がコンデ デ サルゼータス 街に設けられたこともあったが 何々大会 何々選手権といった催しが゙ 全伯 或いは 全州 の名を冠して挙行されるようになるのは戦後のことで 1948年に第1回全 伯囲碁大会が開催され これを機として ブラジル棋院 が創立された 現在は198 8年12月に完成した独自の本部建物 日本棋院南米囲碁会館 を所有している これ は日本棋院の海外会館の第1号である また1976年10月には 南米囲碁連盟 が結成され ブラジル アルゼンチン

367 チリー ボリビア ペルー メキシコの6ヵ国が参加しており 代表決定戦を経て国際 大会への選手派遣も行われるようになっている 1928年にブラジルに来たことのある岩本薫九段 当時六段 は 戦後も何回となく 訪れ ブラジル囲碁界を指導し刺激を与えさらに前記の全館を完成させた功績は大き い 将棋 囲碁より 庶民的競技 とされる将棋は 植民地や都市の住人間で親しまれて普 及度という点では囲碁を凌ぐものがあった 1930年代から 各地で大会と称するものが開催されていたが 1948年にパウリ スタ新聞社の主催で第1回全伯将棋大会が開催され 第2回からは日伯毎日新聞社の主 催となった 1955年 ブラジル将棋連盟 が設立され ブラジル日本文化協会建物内に会所を 持っている 地域毎の選手権大会が開催され 全伯的な行事としては 四大棋戦 と称 されている老中棋戦 王将戦 全伯名人戦 最強者戦の四選手権大会があり 他に普及

368 を計る目的の チビッ子 女流 学生 大会があり 数少ないながら日系以外からの有 段者も生まれている ただ 将棋は駒毎に名称と階級があり 名称が漢字で書かれていて親しみにくいの か 日系以外への普及は極めて微々たるものである 囲碁における岩本薫九段の場合に似て 将棋では永世名人大山康晴がブラジルの将棋 界と緊密な関係にあり 既に数回来伯して指導に当っている 娯楽 趣味に関する記述の終りに 現今のカラオケ ブームに触れておく必要がある 県人会をはじめとして カラオケ 部のない団体は少ないという状態にあり もちろ んカラオケ設備をもつレストラン バーは無数に存在する 親睦を目的の集まりでは必 ずといっていい程にカラオケで唄われ 人集めの一手段になった観があり 何々大会 県人会対抗と とどまるところを知らない盛況で 日系以外にも普及して カラオケ は今では ブラジル語 として通用するようになった

369 Ⅵ ブラジルに於ける日系人の宗教生活と日系宗教 この項では 日系ブラジル人の宗教生活と日系宗教のブラジルでの布教の歴史をみる ことにしよう ここでは次のような時代区分を用いて それぞれの時期の宗教生活や日 系宗教教団の布教の様子を概観し その特徴を眺める 第1期一 宗教の空白期 この時期は年代的にみると 1908年の移住開始から20年代頃までであり 多く の日本人移民は直接的にはイタリア移民に代わる労働力として コーヒー農園に コロ ノ として導入された この時期 ほとんどの日本人移民には 出来るだけ早く金を儲 けて日本へ帰国しようという考えがあり いわば こうした 短期的な出稼ぎ 目的が 日 本 人 の 生 活 と 行 動 を 規 制 し て い た 尤 も 1 9 1 0 年 代 に は 短 期 的 な 出 稼 ぎ か ら 長期的な出稼ぎ へと目的を変更し サンパウロ州内陸部には日本人移民の集団居 住地が形成され始めてはいる しかし ここでは 日本人の生活の典型を コロノ と

370 しての生活に求めることにする 一口に言えば この コロノ 時代の日本人移民の宗 教生活は活発であったとはいえない この活発でなかった理由はいかなるものだったの であろうか この時期に関しては この不活発性の様々な要因を明らかにしていきた い 第2期一植民地での宗教生活 この時期は年代的にみると 1920年代から30年代の終り頃までの時期に相当 する この時期には長期的な出稼ぎへの変更を背景として サンパウロ州内陸部を中心 に日本人によ って植民地 移住地が形成されていった また 日本人移民の経済的な 地位もコロノを脱 して 借地農を経て 独立農へと上昇してきた時期であった 30 年代後半には 日本人の 植民地はその数が6 700を数えている また1925年 からは 日本政府の渡航費援助が開始 され 30年代には当初より自営開拓を目的と する移住地の建設も行われ また数的にも日 本移民の全盛期とも言える時期であっ た その一方で 早くも10年代から起っていたサン パウロ市への移動に拠って コ ンデ街を中心として 日本人街が出現したのもこの時期の 初めであった ここでは日

371 本人の宗教生活の場としての植民地での宗教生活の一端に触れ また 都市部でのキ リスト教系の布教 或いは天理教や生長の家など日系宗教の初期布教 について述べて おこう 第3期一離村向都時代 第2期とも重なる時期もあるが 年代的にはヴァルガスの 一連のナショナリゼー ショ ン政策が開始され それが現実的心理的な制限となっていた30年代の終りか ら 第2次世界大戦の勃発と日本の敗戦を経て 日系社会に起こった 勝ち負け 問題 等が終息した50年代初頭までの時期である この時期には初期においては 長期的な 出稼ぎ の 都市的な発現形態であった自営業種への転向や後にはサンパウロ市の産業 化を背景とする就業機会の増加あるいは日系人の社会的経済的な上昇の手段として選ば れた高学歴取得などを背景とする日系人の都市移動が活発になった時期であった そし て こ の 4 0 年 代 の 後 半 に は 出 稼 ぎ 主 義 に 代 わ っ て 永 住 主 義 が 日 本 の 敗 戦 や 子弟の教育などとの関連から台頭してきた 50年代にはいっての 日本宗教の復活 は 戦前に日系人が持っていた世界観一天

372 皇 崇 拝 を 中 心 と す る の 崩 壊 都 市 移 動 と そ れ に 伴 う 階 層 移 動 都 市 へ の 適 応 永 住 主義 の台頭などを要因としておこった この時期については 戦時中の宗教活動に簡 単 に 触 れ た の ち に 日 本 宗 教 の 復 活 の 諸 要 因 を 述 べ る こ と に し よ う 第4期 都市時代 日系宗教の復活とその後の展開第1期 宗教の空白期 この時期は50年代以降現在までである 当初 日本人移民の90 以上は農村部に はいったが 40年代以降活発になった都市移動及び都市化の結果 現在に於いては約 90 が都市住民となっている しかも日系人は 都市にしろ 農村にしろ 自らの社 会経済上昇の戦略の結果として 中産階級を占めるに至っている まず ここでは 日本宗教の復活 の一面を 50年代から布教活動を実施するよう になった日系宗教教団の布教の概略から示そう 続いて 60年代後半と現在の 主要 な日系宗教教団の教勢とを比較することで 日系宗教の受容主体 信者 の変化に注目 し な が ら 6 0 年 代 以 降 に 起 こ っ た 変 化 を ブ ラ ジ ル 社 会 の 変 動 と 日 系 宗 教 教 団 側 の 布 教体制との双方から 概観することにしよう 50年代から開始された日本宗教の復活

373 は当初は日系人間に起こった現象であったが 70年代以降では日系宗教の信者は 日 系人という民族的な枠を越えて 非日系人へと拡がっているのである それでは 各時期の日系人の宗教生活について 見ていくことにしょう 1 第1期 宗教の空白期 ファゼンダに入った 宗教的行事はほとんどなかった マラリアのために犠牲者をだ したところもあった お経もない簡単な葬式がでた 墓には卒塔婆の代わりに白木の十 字架をたて 裏側には横に ほとけ の生年月日 没年の日付を書き たてには俗名 行年何才と書いた そして表には南無阿弥陀仏あるいは南無妙法蓮華経と記した 土ま んじゅうの上に ブリキ製ペンキ塗りの花輪をおく これは風雨にさらされてもながもちした 線香をあげ あるいはろうそくをたてた 会 葬者は無言で合掌するか 口の中で念仏か題目をとなえた 遺族はコロニアの家にもどって 一室に 多くの場合寝室に 小さい棚をつくり そ こに ほとけ の生前の写真をかざり 野の花をささげ 線香をあげる 線香のないと

374 きはろうそくをたてた しばらくのあいだは 毎日灯明としてカンテラをとぼす 初七 日には 近所の人を呼んで法事らしさものをいとなむ むろん坊さんはいな るから 読経はない にわかづくりの仏壇に合掌したのち んげん豆のあんと麦粉でつくっただんご いのであ みんなで夕食を食べる い の おしるこ や細いマカロンでつくった うどん をふるまう 半田知雄1970 712 この時期 さらに言えば 戦前までの日本人移民の宗教生活は活発なものであったと はいえない 何故 この時期に於いて 日本人移民の宗教生活は活発ではなかったので あろうか 日本人の宗教生活は伝統的には イエ 制度を基盤とした 先祖祭祀 と共 同体 ムラの氏神祭祀をふたつの軸として展開されてきたといえる 伝統的なイエに あっては 先祖祭祀は家督の相続継承者である者一即ち 多くの場合は長男 長子 が 行うべき役割であった つまり 家督を相続しイエを継承する者が 先祖の供養を行う 義務をおわされたのである ここで日本人移民の主体についてみると 多くの場合はイ

375 エから分家ないし転出し 新しいイエを興すべき イエの次 三男という 非相続者 であって この点を先祖祭祀との関連で言えば 彼等の多くは祀るべき祖先をまだ有し ていない 自己が祖先となって祀られるべき一者であったし 氏神祭祀の単位である 将来のイエの創始者であった また 彼等は一時的には日本の共同体やイエを 出稼 ぎ という目的から 離れる一時的な不在者であって 決して正規の成員としての地位 を 失 う も の で は な か っ た そ れ ゆ え カ ミ サ マ や ホ ト ケ サ マ の こ と は 日 本 で 留 守 を 頼 ん で き た の で あ っ た し か し な が ら ブ ラ ジ ル の 慣 れ な い 環 境 下 で 客 死 す る も のもでた こうした際には 前述のような臨時的な葬送儀礼が行われたが その一方 で そ の 魂 は 日 本 へ と 飛 ん で い く も の と さ れ た W i l l e m s 1 9 4 8 9 8 これは 死者の供養が行われるのは帰るべき日本の共同体のイエでなければならなかっ たことを 象徴的に表現した言説である ブラジル日系人の場合 こうした先祖祭祀の 問 題 が 頭 を もたげてく る の は 土 地 や 財 産 へ の 執 着 あ る い は 2 世 の 成 長 等 が イ エ 意 識 の 台頭や永住を決意させるようになった戦後になってからのことであった このような事情が移民側から なぜ日本宗教が初期に於いては活発でなかったのかを

376 日本の社会構造との関連で説明するものであるとすれば 以下は日本政府乃至日本の宗 教教団側あるいは初期の移民が持っていた事情であるといえる 1918年 本派本願寺がブラジルに開教師を派遣しようとした際 外務省は在伯日本 公使館に意見を求めた その折りの回答は次のようなものであった 我が帝国は信教自由の国なるが故に 在ブラジル移民中には 或いは神道を奉ずる者 あり 或いは仏教に帰依する者あり また若干のキリスト教徒もあり なかんづく仏教 徒は其の数多きも その宗派多岐なるを以て 若し布教使を派遣することとせば 真宗 本願寺のみでは 到底事足りぬこととなるであらう 殊に我が移民の経済は 宗教より も更に現実には其の必要を痛感せる医療及び児童の教育の為にさへ その資力足らざる 者多き状態であるから さまで布教使の派遣を渇望していない なは今一つ考慮すべき 点は ブラジルには比較的微弱ながら 一条の排日暗流があって その排斥の理由とし て 人種 言語 風俗等の外に 宗教の異なる点が度々指摘されているから 僧侶 お よ び 神 官 等 の 派 遣 は お こ な は れ な い 事 こ そ 望 ま し い ブ ラ ジ ル に 於 け る 日 本 人 発 展 史 1953 209

377 この回答には 1 本願寺の布教使のみを派遣すると他の宗教に対して歯止めが利かなくなる 2 移民の側に 布教使の生活を維持させるだけの経済的条件がない 3 移民がそれほどには布教使の派遣を望んでいない 4 排日感情が存在する と い う 4 つ の 自 粛 理 由 が 存 在 し て い た 中 牧 1 9 8 9 3 8 4 こ う し た 回 答 か ら 外務省は1918年以降第2次世界大戦後まで ブラジル向けの カトリック教以外の 布教使の渡航は厳重に制限することになった ブラジル天理教伝道史によれば 天理教 の一布教使は出国に際して ブラジルでは布教しないという一筆をかかされたという 1 と 4 の事由はいわば 日本政府の移民政策上の考慮であったといえるが そ れらは日本人が 仮住まい の地であり 微弱ながら 排日感情のある ブラジルに於 いて 文化的な伝統の相違から生じる様々な問題を回避する上での ひとつの措置或い は 指 導 で あ っ た 即 ち ブ ラ ジ ル に 移 住 せ る 我 が 同 胞 は ブ ラ ジ ル 人 の 多 数 が 加 特 力教徒たることを深く心に留め ブラジル人から見て異教たる神道や仏教の礼拝は 出

378 来るだけ此を内輪にし 神社仏閣の如き人目に立ちやすきものを建立するなどは差し控 へ た 方 が 我 が 民 族 発 展 の 将 来 の 為 に 寧 ろ 賢 明 な る 措 置 で あ ろ う と 思 ふ 野 田 1 9 2 6 477 このようなブラジルの日本政府の出先機関からの指示は 当時の日本人移民の心のた たずまいとそれに規制された行動とも整合的であった 即ち 当時の日本人移民には 出 稼 ぎ 意 識 が 強 固 で あ り 註 1 そ れ 故 に た と い ブ ラ ジ ル 社 会 の 枠 組 内 で 長 期 に わたって生活を続けていても 本来的には日本社会の正規の成員であるという考えは強 固であり 一時的な留守成員であるにすぎず ブラジルでは 客 であるに留まってい た 前 山 1 9 8 7 9 そ し て こ の 客 で あ る と い う こ と は 現 在 座 し て い る イ エ の メ ン バ ー で は な く そ の イ エ の 在 り 方 に 責 任 を も た ず お 世 話 に な っ て い る 者 であるから そのイエの 家風 に対して口出しをしてはならず おとなしくして いて やがては礼を言って自分のイエに帰属すべき存在 であり それ故に 仏教を持 込んだり 政治を持込んだりして迷惑をかけてはならない という風に考えていたので あ る 前 山 1 9 8 2 1 9 4 こ う し た 日 本 人 移 民 の 考 え 方 に 反 し て 1 9 3 2 年

379 にはミナス ジェライス州の いわゆる三角ミナスに於いて大本教の布教使4人がその 宗教活動により ブラジル官憲に拘留されたのである この当時 サンパウロ市で発行 されていた邦字紙はその社説で 次のように この布教使の行動を非難している 註 1 出 稼 ぎ 意 識 に 関 し て は 1 9 3 8 年 当 時 で 日 系 人 の 8 5 は 帰 国 を 望 み 1 0 が 永 住 を 望 ん で い た に 過 ぎ な か っ た 輪 湖 1 9 3 9 1 カトリック教を事実の国教とするブラジルへは他宗の宣伝は差し控えねばならぬ裡に も我々日本人の如く是からいよいよ多数にブラジルへ移住して 日伯親善を図らねばな らぬ者にとっては 層一層注意して 他宗の宣伝若しくはそれに類似の行為を断然差し 控え 宗教上ブラジル人に危惧と不安を与えざるよう気を付けねばならぬとして 吾人 は 常 に 筆 と 口 に 警 告 を 繰 り 返 し て 来 た の で あ る 伯 刺 西 爾 時 報 1 9 3 2 5 2 5 つまり これは 邦字紙上に於いて 当時の日本人が持っていた考え方が明確に表現 されたものであったといえるのである

380 前述の理由 2 に関しては 初期移民の就労状況を視察して在伯日本公使館書記官 であった野田良治が次のような報告を残している 1ヵ年勤勉就労の結果 男子2名女子1名の家族にて僅々440ミリレイス 即ち邦 貨に換算して凡そ270円に足らず この金額は家族3名が伯国に渡航するために費や したる費用金額を支弁するに足らず いわんや此の270円といへる純収は成績最良の 移 民 に し て 其 の 最 も 少 な き 者 に 至 っ て は 漸 く 1 か 年 の 生 計 を 維 持 し た る に 過 ぎ ざ る や したがって 多くの初期移民にあっては 自己と家族の生活を支え 渡航費用を返済す るのにも窮する状態であり 宗教活動を行い 布教使の生計を維持する余裕などはな かったのである この移民の経済的な条件に加えて 地理的に広大な地域に散在する移 民を対象に布教を行うことは日本の宗教教団にとっても経済的に困難なことであった 1924年にブラジルを視察した本派本願寺の布教使松原致遠は次のように報告して いる 我が移植民が甚だ広大なる地域に点々散在するため 仮に寺院を建立するとしても また布教使を巡回せしむるとしても 極めて多額の費用を必要とし 在ブラジル信徒側

381 に於いては勿論 本山側に於いても 到底その負担に耐へずとの特殊事情を看破して 帰 朝 し た ブ ラ ジ ル に 於 け る 日 本 人 発 展 史 1 9 5 3 2 0 9 以 上 の よ う に 移 民 日本政府及び宗教教団の三者がそれぞれの立場で有する理由のために初期日本移民の宗 教生活は低調なものであった 初期移民の生活の中に 僅かに 宗教的なもの を認め 得るのは 葬式の際と ほとけ を出した家族に於ける仏壇や神棚の礼拝にすぎなかっ た 半 田 1 9 7 0 7 1 9 の で あ る 既に この期の半ば 1910年代には早くも日本人植民地が各地で形成されはじ め 他方 1914年にはサンパウロ市に日本領事館が設立され コンデ街を中心にし て日本人街が形成され始めていた 日本人植民地やサンパウロ市に於ける宗教事情に関 しては次節でみることにしよう 2 第2期一植民地での宗教活動 a 植民地の形成と宗教生活

382 入植当時はまだ若くて元気で 行く先も考えず一念金儲けに走ったが さて其の結果 はどうか 金が出来たか 出来ん 地位が出来たか 否残ったものは只此の痩躯とみに くい根性 これでは錦を着て祖国へ遊ぶことも夢より外に道がない と考へめぐらす 時 行く先此の体はどうなるか という深い煩悩に沈む どうも心に物足りなさを感ず る この煩悩の心を鎮め苦悩を忘れるにはどうしても仏の力でなくては浄ふする事が出 来 ん 平 野 廿 五 周 年 史 御真影が礼拝の神体であり 教育勅語が経文であり 君が代が聖歌であり 校長が司 祭 で あ り 日 本 学 校 が 氏 神 様 で あ っ た 前 山 隆 1 9 8 4 4 5 1 1 コーヒー農園での契約賃金労働者 コロノ としての収入は少なく 金を儲けて 錦 衣帰国 することは不可能であった というのは 日本人移民のほとんどはサンパウロ のコーヒー衰退期に渡航してきており コロノとしての農園での労働では経済的な上昇 達成が不可能であるいう構造的な理由のほかに不作 過剰生産 恐慌などにあって所与

383 の目的を達成出来なかったのである しかしながら その一方で コーヒーの衰退期にあたっていたために 将来のコーヒー 栽培地として予定されていた開拓前線の土地がこま切れで安く しかも好条件で売り出 されたため コロノ労働者たちもその土地を分割払いで購入したり 借地することが可 能となった 日本人移民は短期的な出稼ぎを長期的な出稼ぎへと切替え 分益農 借地 農 自作農として小商品生産者に転換していったのである この際 日本人は単独では なく 日本人という繋がりを利用して集団的に借地 或いは土地を購入して 植民地 コロニア を建設していったのである 植民地のムラ作りには日本の村落共同体に根 を持つ文化的な枠組みが援用された こうした日本人植民地は早くも1910年代に形 成され始め 30年代後半には南東部ブラジルで6 700もの植民地が存在してい た 註2 ムラ作りの契機とそのやり方については前山 1968 125 が次のように簡単に 述べている ブラジルの移民社会において同族や親類関係による結合形態を喪失した日本移民たちは

384 同県人 同船者 同じコーヒー農場で働いた仲間 あるいは単に日本人同士であるというだけ の理由 で 赤の他人との間に 疑制的な親類関係を結び またはそのような感情に包まれて 共 同 し て 視 察 土 地 を 見 て 歩 く こ と を し 借 地 ま た は 購 入 の 土 地 を 選 定 し 集 団 的 に 居 住 し 家屋の建設 森林の伐採 植え付け 収穫その他には相互扶助的な労働関係を形成し 正月の日本人会の祝賀式

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