柑橘は みかんやオレンジ レモンなど幾つかのグル-プに分けられますが どのグル-プにも属さないものを雑柑と呼んでいます 雑というと 素性のわからない粗悪な感じを受けますが もともと柑橘は原始みかんや原始ブンタンなどによる雑種の集まりです 見かけの上で 似たグル-プがないだけのこと 遺伝的には ブンタンの血をひくものが多く含まれています 今回は 雑柑のなかで夏橙 ( ナツダイダイ ) と 名前の由来となった橙 ( ダイダイ ) や遺伝的に近いといわれる伊予柑 ( イヨカン ) について その歴史を訪ねてみます ダイダイ 橙 ( だいだい ) は 正月のしめ縄につく 200 ク ラムほどの丸い果実 熟した色は まさに 橙色 そのものです 皮は硬く 多汁ですが 酸味が強く苦味もあり 食べるのには向きません ほろ苦いことから別名 ビタ-( 苦い ) オレンジともいわれ レモンやスダチなどと同じ香酸カンキツに属します 果実を採らずに木に残しておくと 次の年に成った果実と一緒に着いていて 代を重ねることから代々 ( だいだい ) と呼ばれ 子孫繁栄に通じる縁起の良い果実とされました また 冬になると 果実の色が緑色から橙色に変わり 初夏まで置いておくと再び緑色に戻るため 色が回 ( めぐ ) る様子から回青橙 ( かいせいとう ) の名もあります このほか かぶす や 臭橙 ( しゅうとう ) と呼ばれるものもあり これらも橙の一種です ちなみに 愛媛には 伊予緋かぶ という蕪を漬け込んだ緋色の漬物があり 緋色に発色させるため使われるのが かぶす です かぶす という言葉は 果皮を焼いて蚊を燻( いぶ ) したことから来ているようです 橙の存在は和名類聚抄 (938) に見られるほど日本では歴史が古く 日本書紀にある謎の柑橘ではないかと言われています 垂仁天皇の命を受けた田道間守 ( たじまのもり ) が常世 ( とこよ ) の国から持ち帰った非時香菓 ( ときじくのかぐのみ ) ではないかというのです この非時香菓は わが国の歴史上 最初に登場する柑橘ですが 未だにどんな柑橘を指すのか決着はついておりません 橙は常に実がついているため 確かに時を選ばない果実 ( 非時香菓 ) であり インド原産であることも暖かい常世の国と一致します また 田道間守が持ち帰った果実は 八竿八縵 ( やほこやかげ ) の姿をしており 串団子のように果実を串に刺したり 干し柿のように縄にぶら下げたりしています 少々手荒な扱いですが 種子は乾燥すると発芽しないので 果実のまま縄に結んで運んでいたのでしょう ただ 縄にぶら下がった果実は しめ縄につく橙を思い浮かべてしまいます 日本書紀には 非時香菓は今でいうタチバナのこと とあり 橙も古くは安倍太知波奈 ( あべたちばな ) と呼ばれていただけに 橙が非時香菓であってもおかしくはないように思います
ナツダイダイ 夏みかん 夏橙 ( ナツダイダイ ) は 夏みかんや夏柑とも呼ばれ 5 月から 6 月にかけて食べ頃になる丸い 500g ほどの果実です 果皮は厚く種があり とにかく酸っぱい初夏の果物 橙に似て 実が長く木につき 夏に食べられるので夏橙の名がありますが 前述の橙とは別の種類です 夏みかん (=ナツダイダイ) より早めに酸がぬけて食べやすいのが 川野ナツダイダイ 夏みかんの枝変わりで 甘夏と呼ばれています 夏みかんは 昭和 40 年代に甘夏に取って代わられ 今では姿を見ることはほとんどありませんが 愛媛県庁の前庭に残っています 川野ナツダイダイ ( 甘夏 ) 左 上 由来は 江戸時代の元禄の頃 (1700) 日本海に面した山口県長門市青海島に住んでいた西本家のお蝶という女性が 暴風雨の吹いた翌朝に浜辺で漂着した果実を拾い 種を播いて出てきたのが夏みかんです 果皮は厚くて粗く 酸っぱいだけで 化け物と呼ばれたそうですが 後年 杉七左衛門が萩に移しかえ 夏にたまたま樹に残っていた果実を食べて その美味しさに気づいた ( 安部熊之輔氏 ) といいます 酸っぱくて食べられないので樹上に残しておき たまたま夏に食べて美味しさに気づくというのは 晩柑類によくある話 その後 文久 2 年 (1862) に児玉少介がこれを栽培して広がりはじめ のちに児玉みかんと呼ばれるのは この人の名に由来します 夏みかんは 明治の廃藩置県で禄を離れた士族たちの救済作物として 明治 9 年から 13 年にかけて山口県で広がり いまも萩の武家屋敷に多く植えられているのは その名残りといいます 愛媛の夏みかん 愛媛でも夏みかんは 全国一の生産量を誇るほど盛んに作られた時期があり 三崎半島や八幡浜の日土 ( ひづち ) 吉田 宇和島などにも多く見られました 明治 12 年に 宇和島市の中臣次郎氏が夏みかんの苗を萩から求めたのが始まりとされ 当初は農家の自家用として広がり その後 西宇和郡や宇和島市周辺で本格的な栽培が広がります 西宇和郡では 日土村の二宮嘉太郎氏と三崎の宇都宮誠集氏が先駆けとなって広がりますが 明治 19 年に二宮氏に苗を提供したのが 松山市持田の旧里正 ( 庄屋 ) である三好保徳氏です この人物は 明治 17 年頃に萩から夏みかんの苗を購入して自宅近くに植え 21 年には松山市祝谷の山腹を開墾して夏みかんの園地を作っているほか 22 年には萩を訪れ のちに伊予柑と呼ばれる穴門 ( あなど ) みかんを導入するのです
伊予柑のル-ツ 伊予柑の両親は不明ですが みかんとオレンジの雑種 ( タンゴ-ル ) だろうと言われてきました たしかに 山口では紅みかんと呼ばれ ついで穴門みかんになり 愛媛に来てからは 一時期 伊予みかんと呼ばれたように まるでみかんの親戚のような名前がついています しかし 最近の研究によると伊予柑は 橙や夏みかんと同じく みかんとブンタンの雑種由来のものと考えられています しかも 遺伝的には夏みかんに近いというのです 伊予柑のもとになった穴門みかんは 夏みかんと同じ萩の出身です 夏みかんの枝変わりか夏みかんと他の柑橘の雑種であったとしても不思議はないでしょう ( 右 : 伊予柑の樹 ) 伊予柑の原木 穴門みかん (= 伊予柑 ) は 山口県萩市の中村正路氏が明治 19 年に発見し 明治 22 年に松山市持田の三好保徳氏が 同地を視察中に目にとまり 穂木を得たとされています さらに明治 34 年には 中村氏から親木のほか 仕立てた苗を譲られたと言われています 山口県の農業試験場におられた中村光夫氏によると 中村正路氏の屋敷にも穴門みかんは植わっていたのですが 原木とは考えにくいと言います それより 昭和 51 年当時 屋敷から 1 キロほど離れた萩市川島に 幹の周り 119cm 樹高 6.4m 樹幅 7m の樹齢 100 年以上と思われる穴門みかんの大樹があり 明治 22 年に松山へ苗木を送った原木だろうと言われるのです 古老の話では 明治のはじめ 萩では奨励すべき柑橘を色々と試作したらしく 明治 30 年代の萩市内には 別名 紅みかん と呼ばれた穴門みかんの大木が数本あり その内の何本かを中村氏が屋敷に植えていたのでしょう 残念ながら 原木は昭和 52 年の寒波で枯死しますが 接木によって育成された後継樹が残されていると言います 伊予柑導入のきっかけ 三好保徳氏は 視察の途中で穴門みかんを目にしたようですが 発見されたばかりの柑橘を 偶然にしてはよく目にしたもので 発見者である中村正路氏と何か関わりがあったのではないかと思ってしまいます 中村氏は 万延元年 萩に生まれ 若い頃から山口県の蚕業巡回指導員になって 養蚕業の振興にたずさわっています 明治 25 年には県の養蚕業奨励会長に就任し 大正 8 年には山口県で初めての製糸工場を萩に設立するなど 山口県内はもとより 全国の蚕業の振興に力をそそぎ のちに朝鮮まで指導におもむくなど 養蚕との関わりが深い人物でした とすると 果樹園芸家の三好氏とは関係が薄いように思われますが 意外なことに伊予蚕業沿革史に三好保徳氏の名が出てきます 明治 25 年の主要な蚕種製造者に名前が見られるのです これは 父の豊保氏が滋賀から招いた養蚕教師の小倉輿五郎から蚕種の技術を学び 兄の保俊氏が上州の田嶋弥平に就いて養蚕 製糸を修得して その後 松山で興した蚕種製造業を
保徳氏が引き継いだもの 三好家と中村氏は養蚕に関して接点があったのです しかも 保徳氏が萩を訪れた明治 22 年には 中村氏が養蚕技術の研修のため蚕室や製糸場などを開設し 視察や研修生の受け入れを始めています 当時としては画期的な施設であり 保徳氏が視察のために訪れたとしても不思議はないでしょう 果樹に熱心な保徳氏が 中村氏の屋敷を訪ねた際 庭で穴門みかんを目にし 原木も見に行ったのかもしれません 屋敷は毛利家の別荘といわれる広い邸宅で 庭は果樹類を植えておくだけの広さがあったようです なお 依頼をうけて苗木を松山へ送ったのは 苗木の育成販売を生業としていた村上源蔵氏とされています 伊予柑の園地 ( 松山市 ) 伊予柑の進化 実は 昭和 40 年頃まで愛媛の伊予柑は 700ha ほどの作付けしかなく 温州みかんのおよそ 1/20 しかありませんでした それが 40 年代後半になって みかんに代わる柑橘として注目され 酸が少なく食べやすい 宮内伊予柑 の登場によって急速に広がったのです 宮内伊予柑 は 松山市平田の宮内義正氏によって発見された枝変わりですが その後も吉田町の大谷政幸氏が 大谷伊予柑 を発見し 松山市の樋口光雄氏が 勝山伊予柑 を見つけるなど 次々と新たな品種が生まれています こうした枝変わりは 突然変異が枝に出るものですが その確率は 4 万株に 1 枝ほど
10ha(100,000 m2 ) の園地にすると一枝の割合ですが 優れた変異より劣った変異が多いだけに よほど作り手に鋭い目と強い運があったのでしょう 雑種はもともと遺伝的に変異を起こしやすく 枝変わりも出やすい性質があるだけに 愛媛における 120 年を超える歳月が 伊予柑という独自の柑橘を作り上げたといっても良いかもしれません 品種には 生まれて直ぐに脚光を浴びるものもあれば 夏橙や伊予柑のように長い雌伏の時を経るものが少なくありません その間を熱心な人々によって つなげられるかどうかが 品種の命運を左右しているようにも思えます 参考資料 半田高, 大垣智昭 (1985): 形態形質の数量化によるカンキツ類の分類. 園学雑.54(2):145-154 平井正志, 小崎格, 梶浦一郎 (1986): アイソザイム解析によるカンキツの類縁関係の解析. 育種学雑誌 36: 377-389 平井正志, 梶浦一郎 (1987): カンキツ類のアイソザイム遺伝解析. 育種学雑誌 37: 377-388 田中輸一郎日本柑橘図譜. 養賢堂安部熊之輔 (1904): 日本の蜜柑. 明治農学全集果樹愛媛県果樹園芸史 (1968): 愛媛県青果農業協同組合連合会村上節太郎 (1967): 柑橘栽培地域の研究岩政正男 (1979): 作物品種名雑考 柑橘. 農業技術 34(9)409-413 岩政正男 (1976): 柑橘の育種に関する諸問題 5 農業および園芸 51 巻 (8)91-95 中村光夫 (2000): 伊予柑のル-ツとその子孫. 農業技術 55(3)19-24 村上是哉 (1926): 伊予蚕業沿革史和田茂樹 (1983): 愛媛子どものための伝記 NO2 篠原朔太郎 三好保徳 岡部仁左衛門 : 愛媛県教育委員会高木信雄 (1988): 伊予柑のすべて. 愛媛県青果農業協同組合連合会山口勝市, 大和田厚, 水谷恒雄 (1977): 話題の柑橘 100 品種. 愛媛県青果農業協同組合連合会 愛媛県農林水産研究所 池上正彦