平安京周辺の山林寺院の実態視察

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す 遺跡の標高は約 250 m前後で 標高 510 mを測る竜王山の南側にひろがります 千提寺クルス山遺跡では 舌状に 高速自動車国道近畿自動車道名古屋神戸線 新名神高速道路 建設事業に伴い 平成 24 年1月より公益財団法人大 張り出した丘陵の頂部を中心とした 阪府文化財センターが当地域で発掘調査


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Ⅰ. 八王子城跡の中世城郭としての価値八王子城は 関東に覇を唱えた戦国大名北条氏の統治手法である支城領支配における 武蔵国の西南部と相模国の西部の一部を支配していた支城の一つである 八王子城の城主である北条氏照は 兄である北条四代目当主氏政を支え 甲斐の武田氏や越後の上杉氏との戦いや同盟の中心的な役

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表紙



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ごあいさつ

豊 住 直 樹 岩 沢 雅 司 渡 邉 幸 彦 7 中 林 信 男 高 橋 功 7 竹 原 奈 津 紀 滝 沢 義 明 コ 9 片 見 明 コ ム ム 高 橋 進 小 峰 直 ム 中 島 克 昌 55 0 松 島 誠 55 滝 邦 久 関 竹 夫 嶋 田 道 夫 信 7 栗 原 孝 信 ム 竹 井


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Bエリア Fエリア D01 a 駅 前 1 2 丁 目 F01 c 富 田 町 字 権 現 林 他 D02 a 大 町 1 2 丁 目 F02 a 富 田 町 字 上 ノ 台 他 D03 b 中 町

黄 檗 宇 治 大 久 保 線 宇 治 大 久 保 淀 線 103 ー 21 ー 京 阪 淀 駅 ー 240 ー 240A 立 命 館 宇 治 経 由 250 ー 250A ー 立 命 館 宇 治 経 由 平 野 町 黄 檗 公 園 ニ

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現地説明会資料

図 1 平成 19 年首都圏地価分布 出所 ) 東急不動産株式会社作成 1963 年以来 毎年定期的に 1 月現在の地価調査を同社が行い その結果をまとめているもの 2

別添

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新潟県連続災害の検証と復興への視点

男 子 2 Cクラス 男 子 団 体 総 合 ( 中 学 生 ) 第 1 位 下 小 路 中 学 校 村 上 山 口 篠 澤 城 内 第 2 位 北 陵 中 学 校 伊 藤 佐 藤 森 中 村 Cクラス 男 子 個 人 総 合 ( 中 学 生 ) 第 1 位 関 口 汰

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測量士補 重要事項 基準点測量 基準点の選点

学位論文内容の要旨 愛知学院大学 論文提出者 論文題目 伊藤秀真 寂円禅師研究 ( 論文内容の要旨 ) 福井県大野市に位置する宝慶寺は 寂円禅師によって開かれた寺院である 寂円禅師の法を嗣いだ義雲禅師は 宝慶寺二世 永平寺五世中興である 義雲禅師以降の永平寺住持職は 義雲 曇希 以一と次第し 三十八

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Transcription:

- 京都伝統文化の森推進協議会 ( 文化的価値発信事業 )- 平安京周辺の山林寺院跡と戦国期山城跡の実態視察 ( 財 ) 京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫 1 とき平成 24 年 11 月 12 日 ( 月 ) 午後 1 時 30 分 ~ 午後 4 時 30 分 2 視察場所京都市左京区鹿ケ谷 粟田口如意ヶ嶽町 如意ヶ嶽 (465m) を中心とした遺跡 1 如意寺跡 2 如意ヶ嶽城跡ほか 3 コース 1 比叡平 ( 池谷地蔵に駐車 )~2 雤神社 ( 赤龍社跡 )~3 如意寺本堂跡 ~ 4 深禅院跡 ~5 大慈院跡 ~6 西方院跡 ~6 如意ヶ嶽城跡 ~ 池谷地蔵 ( 車 )~ 比叡平 ( 徒歩約 3km) 4 各遺跡の状況 銀閣寺 比叡平 鹿ケ谷 池谷地蔵 6 如意ヶ嶽城跡 5 大慈院跡 6 西方院跡 4 深禅院跡 2 赤龍社跡 ( 雤神社 )3 如意寺本堂跡 (1) 如意寺跡 ( 文章は 京都新聞連載記事 より抜粋 ) 東山三十六峰の銀閣寺裏にある一峰を国土地理院ほか一般の地図には 大文字山 と記載されているが 歴史的には 如意ヶ嶽 が正しい 如意寺は大津市にある天台寺門宗総本山園城寺 ( 三井寺 ) の別院で 如意ヶ嶽南麓の京 近江を結ぶ古道 如意越え に沿った南北約 2.5km の山中に 平安時代中期から 15 世紀の応仁 文明の乱頃まで存続した大規模な山林寺院で 鎌倉時代に最盛期を迎える 鎌倉末から南北朝初期に境内を描いた紙本着色 園城寺境内古図 如意寺幅 ( 重文 園城寺所蔵 ) が伝えられ 古絵図上方の東から西の下方へ 本堂地区のほか深禅院 赤龍社 大慈院 西方院 寶厳院 熊野三所など 67 以上の堂塔社殿が峰々を覆い尽くすが如く建ち並び 往時の寺勢を端的に物語っている 下方には楼門ノ滝が描かれ この滝は現在も鹿ケ谷を落ち下り 滝を那智の大滝に例えて滝の上方に熊野三所を祀ったとみられる 最下方には鹿ケ谷門が描かれ 近江の園城寺は京の東山裾に西門を開い -1-

古道 如意越え に沿って点在する遺跡分布図 ( 如意寺跡 如意ヶ嶽城跡ほか ) 園城寺所蔵 園城寺境内古図 如意寺幅 ( 重文 ) 如意寺古絵図のカラー写真と加筆修正した図 -2-

園城寺境内古図 如意寺幅( 重文 ) 左 : 赤龍社 ( 現 : 雨神社 ) と右 : 本堂部分ていたのである 如意寺跡は この古絵図が伝えられているにも関わらず 1985 年 ( 昭和 60) まで 楼門ノ滝とその東上方にある熊野三所跡付近のみ遺跡が明らかで 本堂跡を含む大半が未確認であった 1985 年夏から古絵図を頼りに寺跡探索を開始し 足かけ2 年を費やして如意寺跡の全容が判明した 絵解きのヒントは定点となる楼門ノ滝の他に 古絵図の本堂下方の赤龍社に描かれた池で 山中に池が存在する場所は限られた地形と推定 現在も山中に祭祀されている雤神社は 西方以外三方を山の斜面に囲まれ 社殿傍らには今も湧水する場所があり 地形をよく観察すると僅かに堤状の地形が残っている その北方で平坦な祠跡を確認したことから 古絵図に描かれた池はすでに埋没し その上に雤神社が祭祀されていることが判明 雤神社は如意寺の赤龍社の跡を踏襲することが判明した この雤神社は祈雤の信仰があり 大津市比叡平の南方 左京区如意ヶ嶽町に伝如意寺の石仏を本尊とする池の谷地蔵の南西 560mの山中にあって 比叡平バス停から山道を歩いて 30 分程の所にある この雤神社を基点に園城寺に伝わる古絵図を頼りに山中を広く探索し 南東 320m 程の山腹で本堂跡を見つけた 本堂のエリアは 急峻な南向きの谷筋を 120m 四方程の範囲を雛壇状に切り盛りして 本堂 食堂 講堂などの主要伽藍跡が広範に点在し 古絵図の正確さもさることながら驚くほど遺跡が良好に残る 本堂基壇跡は 谷の一番上方の約 50m 四方もある平坦地の北奥にあり 基壇上には牛が伏せたような自然石が乗っていた 古絵図を見ると食堂と楼門の間に住吉大明神礼拝座石と書かれた同形の石が画かれており 後世に誰かが本堂跡に移動させたものと考えられる また 基壇形状を残す講堂跡には礎石も残り 谷下から本堂へ上る石段の痕跡も地形としてそのまま残っている 雤神社のすぐ南西側の山腹には深禅院跡があり 約 50 m 四方の平坦地が広がる ここには古絵図に十一重の石塔が描かれ 妙法堂ほかの建物があった 現在も一部の礎石がそのまま残り ここでは五輪石塔の破片などを見つけている 園城寺古絵図 如意寺幅( 重文 ) 大慈院 西方院部分 -3-

園城寺古絵図 如意寺幅 ( 重文 ) 大慈院と張り紙部分 次に 如意寺の西域であるが 如意ヶ嶽頂上のすぐ南西麓の鹿ケ谷には寶厳院跡があり 南麓には大慈院跡 西方院跡などがある アクセスは 尼門跡寺院として有名な霊鑑寺の横を登るのが一般的で この谷筋が 1177 年に平家討伐の密議が行われた法勝寺執行の俊寛の山荘があったとする歴史上有名な鹿ケ谷である 鹿ケ谷を流れる桜谷川に沿って登る途中に楼門ノ滝があり 滝の名は滝上にあった如意寺の楼門に由来し この付近には不動堂があった 滝上には 1935 年建立の 俊寛僧都忠誠之碑 なる石碑が立っている そこは古絵図に描かれた如意寺の楼門跡であって 俊寛の山荘跡ではありえない 滝上から少し歩くと熊野三所があった大きな平坦地が続き その東と西端に谷を塞ぐ形で土塁跡が残る この付近は水の確保が容易で 中世期に山城の一部として大きく土地を改変されたと考えられる さらに東へまっすぐ進むと道の傍らに大きな自然石があり その右手山腹に寶厳院般若台跡が礎石とともに良好に残る そこを過ぎ 年中湧水する桜谷川の水源を越えて 尾根上に出たすぐ左手が如意ヶ嶽の頂上である その山頂から僅か 200mほど南下方の谷筋にあったのが大慈院である 大慈院跡平坦地の前面には階段地形がそのまま残り 古絵図には谷下に瓦葺きの西方院が画かれる 古絵図の大慈院には 鎌倉右大将家の朝敵の怨霊を宥めんがため之を建立 平家一族の姓名を記し 弥陀丈六の尊像に納める と記した貼紙があり 源頼朝が滅ぼした平家の怨霊を恐れ 供養目的に建立された寺院であった この寺院跡は 等高線に沿って西方へ伽藍跡を示す平坦地が続いており 古絵図に描かれていない寺院の存在が考えられる 如意寺は史料からは天慶元年 (938) までさかのぼれるが 大慈院 西方院付近からは9 世紀代の遺物も見つかっており さらに大慈院南方約 800mの尾根上に9 世紀中頃創建の安祥寺上寺跡がある 安祥寺伽藍縁起資財帳 には安祥寺の四至の記録に 北を限る檜尾古寺の所 とあり 檜尾古寺と称した平安時代前期に遡る寺の存在が浮かび上がる 如意寺跡は ( 財 ) 古代学協会により 1990 年から 96 年にかけて本堂跡付近を中心に調査が行われ大きな成果があったが 如意寺跡西域はまだ未調査であり 多くの謎を秘めた如意寺跡の全容解明はまだまだこれからである (2) 如意ヶ嶽城跡如意ヶ嶽城は 京都五山送り火 大 の火床背後にある最高峰 (466m) の山頂を主郭とした山城跡である この如意ヶ嶽南麓を通り 最短距離で京 近江を結んでいた古道の如意越えは 戦略的に重要で 山をめぐって様々な記録に登場する -4-

南北朝期の建武 3 年 (1336)1 月 南朝方が如意越えを用いて2 万余りの軍勢が京に向けて立つ という記録のほか 同年 6 月には 当時 後醍醐天皇の御在所になっていた延暦寺に向けて 如意ヶ嶽など延暦寺周辺に足利方の軍勢が陣取っている 応仁 文明の混乱期に入って 文明元年 (1469)5 月 近江の豊後守多賀高忠が如意ヶ嶽に陣取るが 六角亀寿丸の蜂起により 高忠は陣を放棄して近江に戻り 翌文明 2 年 (1470)6 月に如意ヶ嶽に城を構えている また明応 8 年 (1499)9 月には土一揆が如意ヶ嶽で蜂起するが 安富筑後守 薬師寺安芸守らに攻め破られている その後 永禄元年 (1558)6 月には 大樹 (13 代将軍足利義輝 ) が如意ヶ嶽城に入り 柵を築いて烽火を上げるが 三好日向守 ( 長逸 ) や松永弾正久秀らの軍勢に攻められ 城を奪われている このように京 近江の間にあって重要な戦略的拠点となった如意ヶ嶽城跡は 現在の三等三角点のある頂上を主郭とし 周辺には土塁 曲輪 堀切 竪堀 虎口などの跡が地形上で良好に確認できる さらに東方尾根伝いには三重の堀切があり さらに主郭から東方の近江側へ 500m 程の尾根上には 土塁に囲まれた出丸跡が設けられ 山道に沿って竪堀や切り通し 土橋などが残る しかし 山頂部に築かれた山城は水の確保が極めて困難であることから 南西麓の鹿ケ谷にあった如意寺の寶厳院及び熊野三所境内付近を陣営地とするため 東西に土塁が設けられて土地が大きく改変されてしまったものと考えられる 如意ヶ嶽城東方の出丸跡付近の切り通し 近江側から見えない場所に設けられた土橋 本丸跡の如意ヶ嶽頂上 何気なく通る如意ヶ嶽頂上付近の道に土塁跡 ( 門跡 ) や竪堀跡などが良好に残る -5-

如意ヶ嶽城跡の地形復元図現状地形曲輪の縄張り図 ( ネット情報 ) 上空からの写真と遺跡の位置 ( グーグルアース ) 鹿ケ谷寶厳院 如意ヶ嶽城跡 大慈院 西方院 深禅院跡 赤龍社跡 ( 雤神社 ) 本堂跡 比叡平 -6-