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イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 中 沢 敦 夫, 吉 田 俊 則, 藤 田 英 実 香 富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 第 63 号 抜 刷 2015 年 8 月

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 中 沢 敦 夫, 吉 田 俊 則, 藤 田 英 実 香 (6654 1146 年 続 き) ( 332 )そのとき,スヴャトスラフ [C43] はユーリイ [D17] に 向 けて 使 者 を 遣 った ユーリ イ [D17] はかれ スヴャトスラフ に 対 して,かれのために 兄 弟 のイーゴリ [D42] を 探 すこと を 誓 約 する 十 字 架 接 吻 を 行 った そしてユーリイ [D17] は,かれ スヴャトスラフ を 助 けるするために 出 発 した イジャスラフ [D112:I] は,ユーリイ [D17] がスヴャトスラフ [C43] を 助 けるために ノヴゴ ロド セヴェルスキイ へ 向 かっているとの 報 を 聞 いた そこで,イジャスラフ ムスチスラ ヴィチ [D112:I] は,リャザンのロスチスラフ ヤロスラヴィチ [C54] に 向 けて, 平 原 を 経 由 し て 1) 使 者 を 遣 った 2) そして,イジャスラフ [D112:I] 自 身 は 馬 に 乗 ると,スヴャトスラフ [C43] を 討 伐 するために ノヴゴロド セヴェルスキイ へ 向 かった そこには,ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] の 二 人 のダヴィド [C3] の 息 子,かれの 息 子 ムスチスラフ [I1] がいた ロスチスラフ [C54] はイジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] の 要 請 に 聴 き 従 って, かれ イジャスラフ の 領 地 の 防 衛 を 行 いはじめた 3) ユーリイ [D17] のもとに,ロスチスラフ [C54] がかれ ユーリイ の 領 地 を 攻 め 取 ろうと 1)キエフからリャザンまでの 使 者 の 派 遣 は,デスナ 川 からオカ 川 を 経 由 する 水 路 で 到 達 することも 可 能 だ が, 途 中 のヴャティチの 地 で, 使 者 がユーリイの 援 軍 に 捕 らえられることを 危 惧 して,ペレヤスラヴリ 領 内 から 平 原 (ステップ)を 横 断 する 行 路 で, 使 者 を 派 遣 したということ 2)ロスチスラフ [C54] に 反 抗 した 甥 のウラジーミル [C511] が,1146 年 にスヴャトスラフ [C43] の 陣 営 に 身 を 寄 せており([ イパーチイ 年 代 記 (2):347 頁, 注 368] 参 照 ),この 時 のロスチスラフにとってス ヴャトスラフは 潜 在 的 な 敵 手 だった そのため,イジャスラフ [D112:I] はロスチスラフに 対 して,ユ ーリイ [D17] の 行 軍 の 側 面 からの 妨 害 阻 止 を 要 請 する 使 者 を 派 遣 したのである またソロヴィヨフによれば,ロスチスラフ [C54] は, 自 分 の 父 ヤロスラフ スヴャトスラヴィチ [C5] を 1128 年 にチェルニゴフから 追 放 しており,オレーグ [C4] の 息 子 たちには 友 好 的 ではなかったとして いる [Соловьев 1988: С. 431] 3) イジャスラフの 領 地 を 防 衛 する 行 動 とは, 次 の 一 節 から 分 かるように,リャザンからユーリイの 領 地 であるロストフ=スーズダリ 地 方 へ 向 けて 軍 を 派 遣 して,ユーリイの 背 後 を 襲 い,その 動 きを 牽 制 す ることを 指 している - 329 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 しているという 知 らせが 入 った そこで,ユーリイは 自 分 の 息 子 イヴァンコ 4) [D172] をス ヴャトスラフ [C43] のもとへ 援 軍 のために 送 り 出 した そして, 自 分 自 身 はコゼリスク 5) (Козельск) から 自 領 地 のロストフ=スーズダリ 地 方 へ 戻 ってしまった イヴァンコ ユーリエヴィチ [D172] は,ノヴゴロド セヴェルスキイ のスヴャトスラ フ [C43] のところに 来 た スヴャトスラフは かれ イヴァンコ にクルスク (Курск) をはじ めとするセイム 川 沿 岸 地 方 を 与 えた 6) そして, スヴャトスラフ [C43] は 自 分 の 家 臣 たちと 評 議 して, 自 分 の 司 祭 を 使 者 として, ダヴィドの 二 人 の 息 子 たち ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] のもとに 遣 って,こ う 伝 えた わが, 兄 弟 たちよ そなたたち 二 人 はわが 地 を 掠 奪 し,わが 家 畜 の 群 れとわが 兄 弟 イーゴリ [D42] を 取 り 上 げ, 穀 物 を 焼 いた 資 産 を 台 無 しにしてまった( ) 7) 333 悪 魔 の 中 傷 によって, 二 人 はそれでは 満 足 しなかった 二 人 はイーゴリ [D42] が 持 っ ていた 莫 大 な 物 資 の 倉 庫 がある 村 8) を 襲 った そこには 多 くの 備 蓄 があり, 納 屋 や 地 下 蔵 には 酒 や 蜜 酒 があり,そこには 重 い 物 資,すなわち 鉄 や 銅 があった その 量 のあまりの 多 さに,す べてを 荷 車 で 運 び 出 すことはできなかった ダヴィドの 息 子 たち ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] は, 自 分 たちと 兵 たちの ための 分 を 荷 車 に 積 んで 奪 い 取 るよう 命 じ,その 後, 倉 庫 と 聖 ゲオルギー 教 会 9),そして 倉 庫 4) ユーリイのおそらく 二 番 目 の 息 子 父 ユーリイとともにスーズダリを 出 陣 した かれについては, 1147 年 2 月 に 病 死 したことの 他 には 記 録 はない 本 稿 注 52 を 参 照 5) コゼリスク (Козельск) は,オカ (Ока) 川 の 支 流 ジズドラ (Жиздра) 川 沿 いの 城 市 で,スーズダリ 地 方 とノヴゴロド セヴェルスキイのほぼ 中 間 地 点 に 位 置 している 6) セイム 川 沿 岸 の 拠 点 城 市 クルスク は 1141 年 からスヴャトスラフ [C43] の 領 地 になっている([ イ パーチイ 年 代 記 (2):324 頁 ] の 1141 年 の 記 事 を 参 照 ) かれはノヴゴロド セヴェルスキイ 防 衛 戦 の 直 前 にもクルスクに 立 ち 寄 って, 住 民 に 忠 誠 を 誓 わせている([ イパーチイ 年 代 記 (2): 注 362] 参 照 ) ことからも 拠 点 城 市 であることがわかる これをユーリイ [D17] の 息 子 に 与 えることは,ユーリイの 援 助 を 強 く 頼 っていたことを 示 している 7) すべての 写 本 について,この 個 所 がおよそ 7 行 分 の 文 言 が 欠 落 している 15 世 紀 の ヴォスクレセン スカヤ 年 代 記 の 並 行 部 分 には 欠 落 がなく,その 部 分 を 訳 すと 次 のようになる 今,それに 加 えて,そなたたちはわしまでも 殺 そうというのか 二 人 はこう 答 えた 兄 イー ゴリ [C42] のことは 放 っておけ, 和 議 に 応 ぜよ かれ スヴャトスラフ [C43] は 答 えた わが 魂 が 肉 体 にあるうちは, 兄 を 見 放 すことはできない [ПСРЛ Т.7, 2001: С. 36] 8) この 村 の 位 置 については 不 明 だが,イーゴリ [C42] とスヴャトスラフ [C43] の 拠 点 都 市 であるノヴゴ ロド セヴェルスキイの 周 辺 にあることは 確 かである ルィバコフによる 歴 史 地 図 では, イーゴリの 村 (Игорево село) として,デスナ 側 右 岸 のノヴゴロド セヴェルスキイからごく 近 い, 南 へ 10km ほどの 地 点 にマッピングされている [Рыбаков 1951] 9) イーゴリ [C42] の 手 で 領 地 の 村 に 建 設 された 教 会 イーゴリの 洗 礼 名 が ユーリイ=ゲオルギー と 推 定 されることから([Войтович 2006: С. 399, прим. 1766: Литвина Успенский 2006: С. 561-562]),かれの 守 護 聖 人 を 祀 った 家 内 教 会 だったのだろう - 330 331 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 付 きの 脱 穀 場 を 焼 くように 命 じた 脱 穀 場 には 900 束 の 穀 物 があった ダヴィドの 二 人 の 息 子 イジャスラフ [C35] とウラジーミル [C34] はムスチスラフ イジャス ラヴィチ [I1] と 会 合 し, 合 議 して,イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] に 対 して 使 者 を 派 遣 した 10) そしてかれら 自 身 は,キリスト 降 誕 祭 11) にプチヴリ 12) へ 向 けて 進 軍 を 始 めた こうして,かれらは プチヴリ の 城 市 への 突 撃 を 行 ったが,プチヴリの 住 民 は,イジャスラ フ [D112:I] がキエフの 軍 勢 を 率 いてやって 来 るまでは,かれらに 降 伏 することはなかった 13) かれら 住 民 たち は 城 市 から 出 て 懸 命 に 戦 い,ダヴィドの 二 人 の 息 子 たちはやって 来 て,か れらに 向 かって 言 った 戦 いはやめよ われらは,お 前 たちを 捕 虜 にとらないことを, 聖 な る 聖 母 のイコンに 接 吻 して 誓 おう しかし,かれら 住 民 たち は,かれらに 降 伏 し なかった イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] は, 自 分 の 部 隊 を 率 いてかれらのところに 到 着 し た かれら プチヴリの 住 民 たち はイジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] に 使 者 を 派 遣 して,かれに 拝 礼 して 14),このように 言 った 公 よ,われらはあなたを 待 っていました わ れらに 対 して 十 字 架 接 吻 の 誓 い をせよ 15) イジャスラフ [D112:I] はかれらに 対 して 十 字 架 接 吻 の 誓 い をなし,かれらの 代 官 16) を 連 れ 去 ると, 自 分 の 代 官 をかれらのもとに 据 えた また,そこ プチヴリの 城 内 にあったスヴャトスラフ [C43] の 倉 庫 は, 334 四 つに 分 けられた 17) また, 家 畜 小 屋, 納 屋, 物 置 のような 資 産 も 四 つに 分 けられた 地 下 蔵 には 10)ダヴィドの 二 人 の 息 子 は,ノヴゴロド セヴェルスキイの 城 を 陥 落 できなかったため, 自 分 たちは 転 戦 してプチヴリ 城 へと 向 かい,キエフのイジャスラフ [D112:I] にも 使 者 を 遣 って,プチヴリへの 遠 征 を 要 請 したのである 11)1146 年 12 月 25 日 に 相 当 する 12) プチヴリ (Путивль) はセイム (Сейм) 川 沿 岸 にあるチェルニゴフ 公 領 の 主 要 都 市 のひとつで, 当 時 はスヴャトスラフ [C43] の 公 領 としてかれの 代 官 が 置 かれていた 13)プチヴリ 人 がダヴィドの 二 人 の 息 子 に 強 く 抵 抗 しながら,イジャスラフには 城 市 を 明 け 渡 した 理 由 に ついて,ソロヴィヨフは,ドニエプル 川 の 左 岸 地 方 では,スヴャトスラフ [C] の 家 門 の 者 は 概 して 好 ま れない 傾 向 にあったと 説 明 している [Соловьев 1988: С. 431] 14) 拝 礼 は 城 市 を 明 け 渡 すときの 儀 礼 15)さきにダヴィドの 二 人 の 息 子 が 提 案 したように, 降 伏 した 場 合 には 住 民 を 捕 虜 に 獲 らないことを 誓 う 内 容 の 十 字 架 接 吻 のこと 16)それまでプチヴリの 支 配 公 だったスヴャトスラフ [C43] によって 置 かれていた 代 官 のこと 17) プチヴリを 攻 めた 主 要 な 四 人 の 公 である,イジャスラフ [D112:I] と 息 子 のムスチスラフ [I1],ダヴ ィドの 二 人 の 息 子 (イジャスラフ [C35] とウラジーミル [C34])が 掠 奪 品 を 分 け 合 ったということだろ う - 331 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 500 ベルコフスク 18) の 蜜 酒, 酒 瓶 80 本 があった 主 の 昇 天 教 会 にあったものは,みな 剝 がす ように 奪 われた それは, 銀 製 の 容 器, 奉 献 台 の 覆 い 布, 奉 事 用 の 絹 の 布 (これらはみな 金 糸 の 刺 繍 がある),2 台 の 蝋 燭 台, 香 炉, 表 装 した 福 音 書, 書 物, 鐘 などであり, 公 スヴャ トスラフ の 財 産 は 何 一 つ 残 されることはなかった みな 分 けられ,700 人 の 奴 隷 19) もまた 同 様 だった スヴャトスラフ [C43] のところ 20) に 報 告 がもたらされた イジャスラフ ムスチスラヴィ チ [D112:I] がやってきて, プチヴリの 城 市 を 攻 略 し, 城 内 のすべてのスヴャトスラフ [C43] のものを 奪 い 取 ったという また,かつてはかれの 父 オレーグ スヴャトスラヴィチ [C4] の 家 臣 で,いまはウラジーミル [C34] のところにいる 男 21) から,イジャスラフ [D112:I] 自 身 が 進 軍 して 来 て,ノヴゴロド セヴェルスキイ を 包 囲 しようとしているという 知 らせが,か れ スヴャトスラフ [C43] のもとに 届 けられた スヴャトスラフ [C43] はこのことを,イヴァ ンコ ユーリエヴィチ [D172] と 22) イワン ロスチスラヴィチ ベルラドニク [A1221], 自 分 の 従 士 たち, 原 野 のポロヴェツ 人 23) である 母 方 の 伯 叔 父 たち 24), すなわち チュンラク オ スロコヴィチ (Тюнрак Осулокович) とその 兄 弟 のカモサ (Камоса) 等 に 告 げて,こう 言 った わ しを 討 とうして,イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] がやって 来 る 自 分 たちのことに 18) ベルコヴェフスク (берковск) は ベルコヴェツ (берковец) とも 言 い, 当 時 の 重 量 単 位 でプード (пуд) の 10 倍 に 相 当 する [СлРЯ XI-XVII, Вып.1: С. 147] が 実 重 量 は 不 明 後 代 (17 世 紀 頃 )の 1 プ ード= 16.4kg 換 算 では 500 ベルコヴェフスクは 82 トンになり, 蜜 酒 の 量 としては 多 すぎることから, 当 時 のプードはかなり 軽 かったのだろう 19) 奴 隷 (челядь) の 語 は 原 初 年 代 記 912 年 のオレーグとビザンティン 皇 帝 との 協 定 書 の 文 言 に 最 初 に 売 買 の 対 象 としての 奴 隷 として 言 及 され,それ 以 降 の 年 代 記 記 事 でも 奴 隷 とするために 捕 獲 した 戦 争 捕 虜 の 意 味 で 使 われている ここでも, 住 民 とは 別 に, 城 市 内 で 使 役 されていた 戦 争 捕 虜 出 身 の 奴 隷 たちを 指 しているのだろう なお,この 語 については, 邦 語 の 研 究 がある [ 石 戸 谷 1963][ 石 戸 谷 1980:93 ~ 135 頁 ] 20)この 時 点 でスヴャトスラフ [C43] はノヴゴロド セヴェルスキイの 城 内 で 籠 城 軍 の 指 揮 を 執 っていた 21) 6655(1147) 年 の 項 に,スヴャトスラフ [C43] に 同 行 していた かれの 父 の 家 臣 ピョートル イリイ チ がネリンスク 付 近 で 90 歳 で 没 したという 記 事 がある これと 同 じ 人 物 である 可 能 性 が 高 いだろう 本 稿 注 67 を 参 照 22) ヴォスクレセンスキイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では,ここに ウラジーミル スヴャトスラヴィチ [C511] へ (Володимеру Святославичю) と 名 前 が 追 加 されている 23) ドン 川 とドニエステル 川 に 挟 まれたステップ 地 帯 に 展 開 し,ルーシに 服 属 していたポロヴェツの 集 団 ([ イパーチイ 年 代 記 (2):337 頁, 注 304] 参 照 ) 24)1146 年 秋 ころの 記 述 に, その 頃,スヴャトスラフ [C43] はポロヴェツ 人 の 首 長 である 母 方 の 伯 叔 父 たちのところに 使 者 を 遣 った そして,かれら ポロヴェツ 人 300 人 が 急 いでかれ スヴャトス ラフ [C43] のもとにやって 来 た とある([ イパーチイ 年 代 記 (2):348 頁, 注 370] 参 照 ) このとき に 援 軍 としてやって 来 た 母 方 伯 叔 父 (уй) たちが,ポロヴェツの 首 長 オスロクの 二 人 の 息 子,チュン ラクとカモサであることがわかる - 332 333 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) ついて 考 えようではないか かれらは 言 った 公 よ, 時 を 移 さず 馬 で 行 きなさい そなたが ここにとどまっていても 何 にもなりません 兵 糧 の 穀 物 がないのです 森 林 の 地 25) へ 行 き なさい そこからなら, 自 分 の 父 26) であるユーリイ [D17] に 使 者 を 派 遣 するのに 近 いでしょう こうして,スヴャトスラフ [C43] はノヴゴロド セヴェルスキイ を 脱 してコラチェフ 27) (Корачев) へ 向 かって 逃 げ 出 した かれの 従 士 団 は,ある 者 たちはかれの 後 を 行 き, 別 の 者 た ちはかれを 見 捨 てた かれの 妻 と 子 供 たちは スヴャトスラフに 同 行 し, 335 夫 の 嫂 にあ たるイーゴリ [C42] の 妻 も 伴 って 一 緒 に 行 った ノヴゴロド セヴェルスキイの 部 隊 も 連 れ て 行 った 28) イジャスラフ [C35] は, 大 いに 怒 って 自 分 の 兄 弟 たち イジャスラフ [D112:I] とウラジーミ ル [C34] に 向 かって 言 った かれ スヴャトスラフ [C43] がわしから 逃 げ 出 したのなら, かれのあとを 追 わせてくれ そして,かれの 妻 子 をかれから 取 り 上 げてしまおう かれの 財 産 を 奪 い 取 ってしまおう こうして,かれ イジャスラフ [C35] は,イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] と 自 分 の 兄 弟 のウラジーミル [C34] に 頼 み 込 むと, 出 発 した 29) そのとき,イジャスラフ [D112:I] からシヴァルン 30) (Шварн) と 兄 弟 イジャスラフ [D112:I] の 従 士 団 を 借 り 受 けて 行 った か 25) ノヴゴロド セヴェルスキイから 見 ると 北 方 の,いわゆるヴャティチの 地 が 森 林 の 地 (лесная земля) であり,これに 対 して 南 方 が 平 原 (ステップ) 地 帯 ということになる 26) 1147 年 の 記 事 にある,ユーリイ [D17] が 派 遣 した 使 者 の 口 上 では,ユーリイ [D17] はスヴャトスラ フ [C43] を 兄 弟 よ と 呼 んでおり( 本 稿 注 60 参 照 ),この 個 所 で,ユーリイ [D17] がスヴャトスラフ [C43] にとって 自 分 の 父 とされているのは 一 見 すると 奇 妙 である ただ, 長 幼 の 序 列 をはっきりさ せるために 兄 弟 で 息 子 である 者 よ と 呼 び 掛 ける 例 もあることから( 本 稿 注 288 参 照 ),ここではユ ーリイ [D17] に 対 するスヴャトスラフ [C43] の 従 属 的 な 関 係 を 示 すために,このような 呼 称 が 使 われて いると 考 えるべきだろう 27) コラチェフ (Корачев) は,ブリャンスク 近 郊 の 都 市 で 現 在 の カラチェフ (Карачев) を 指 している ノヴゴロド セヴェルスキイから 北 東 へ 約 170km に 位 置 し,そこからデスナ 川 を 遡 行 して 到 達 するこ とができる 28) 写 本 はこの 個 所 に 欠 落 がある ヴォスクレセンスカヤ 年 代 記 によれば, ノヴゴロド セヴェルス キイの 住 民 はイジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I],ダヴィド [C3] の 二 人 の 子,スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] に 使 者 を 遣 って 言 った スヴャトスラフ [C43] はわれらを 見 放 して,コ ラチェフへ 行 った イジャスラフ [C35] は [ПСРЛ Т.7, 2001: С. 37] となる 29)このイジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35] の 主 導 によるシヴァルンをともなった 先 遣 隊 について, ラ ヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では イジャスラフ [D112:I] はシュヴァリンとダヴィドの 子 イジャス ラフ [C35] にかれ スヴャトスラフ [C43] を 追 わせた として,キエフ 大 公 イジャスラフ [D112:I] の 命 令 によるものとして 描 いている 30) 年 代 記 の 索 引 によると,イジャスラフ [D112:I] が 連 れてきたキエフの 軍 司 令 官 としている [ПОКАЖЧИК] - 333 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 れは,プチヴリからセフスコ 31) (Сѣвьско),そしてボルドィジ 32) (Болдыжь) へと 向 かった そ のコラチェフへの 道 のりは, 障 害 のないものだった そこ コラチェフのスヴャトスラフ [C43] のもと へ 穀 物 補 給 隊 が 慌 ててやって 来 た 敵 の ベレンディ 人 が, 自 分 たちの 3 人 の 家 来 を 捕 虜 にしたというのである スヴャトスラ フ [C43] は 討 伐 隊 がやって 来 たことを 知 ると, 対 抗 するために 原 野 のポロヴェツ 人 を 派 遣 して, 敵 のベレンディ 人 数 人 を 捕 獲 した 33) さらにこの 捕 虜 の 口 から スヴャトスラフ [C43] に 情 報 がもたらされた イジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35] が,かれ スヴャトスラフ [C43] を 討 伐 すると 虚 勢 を 張 って, 自 分 の 兄 弟 たちから 従 士 団 を 借 り 受 け, 輜 重 の 荷 車 を 伴 わずに, 3000 の 騎 馬 兵 のみを 率 いてやって 来 るという スヴャトスラフ [C43] は, 自 分 が 生 き 延 びて, 妻 子 と 従 士 団 を 捕 虜 として 引 き 渡 すか,ある いは 自 ら 戦 いに 斃 れるかの 選 択 を 迫 られた スヴャトスラフ [C43] は 兄 弟 たちと,またポロヴェ ツ 人, 自 分 の 家 臣 たちと 相 談 して, 神 と 聖 なる 聖 母 に 望 みをかけ,かれ イジャスラフ [C35] を 迎 え 撃 つために コラチェフの 城 砦 を 出 陣 した 1 月 16 日 木 曜 日 34) のことだった 336 その 日 は, 聖 使 徒 ペトロの 枷 の 安 置 の 記 念 日 だった その 結 果, 神 と 生 命 を 与 える 十 字 架 の 力 が,かれら イジャスラフ [C35] とその 部 隊 を 追 い 払 ったのである イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] とウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34] は, 自 分 たちの 兄 弟 イジャスラフ [C35] をシヴァルンとともに 派 遣 してから, 自 分 たちもその 後 を 追 っ て 進 軍 した かれらが,ボルドィジ (Болдыжь) の 森 まで 来 て, 食 事 のために 幕 営 を 張 ってい たとき, 一 人 の 家 臣 がイジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] のところに 駆 けつけて,かれ に 言 った スヴャトスラフ [C43] は,そなたの 兄 弟 イジャスラフ [C35] とそなたたちの 従 士 団 を 撃 ち 破 りました イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] はこれを 聞 いて,スヴャトスラフ [C43] への 怒 り を 募 らせた 勇 敢 で, 戦 いに 長 けていたかれ イジャスラフ [D112:I] は, 自 分 の 軍 隊 を 集 めると, スヴャトスラフ [C43] を 討 つために,コラチェフへ 向 けて 進 軍 を 始 めた ウラジーミル ダヴィ ドヴィチ [C34] もかれと 一 緒 だった スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] もかれ と 一 緒 だった かれらは, 敗 走 してきた 従 士 団 と 遭 遇 して,もと 来 た 道 を 再 びコラチェフへと 31) セフスコ (Сѣвьско) は,プチヴリから 北 北 東 約 100km に 位 置 する 城 砦 都 市 32) ボルドィジ (Болдыжь) は,プチヴリから 北 北 東 約 145km,コラチェフから 南 方 に 約 75km に 位 置 する 城 砦 都 市 で,プチヴリとコラチェフの 中 間 地 点 にあった 33)ベレンディ 人 に 捕 まった 3 人 も, 対 抗 策 として,スヴャトスラフ [C43] 陣 営 が 捕 まえた 数 人 のベレン ディ 人 も, 相 手 方 についての 情 報 を 取 るための 捕 虜 (языки) である 34)1147 年 1 月 16 日 は 木 曜 日 であり,この 日 に 当 たっている - 334 335 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 軍 を 進 めさせた イジャスラフ [C35] もしばらくは 姿 を 見 せなかったが, 真 昼 時 にはかれらの ところにやって 来 た イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] とウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34] は,その 日 まる 一 日 かけて 進 軍 し,ほとんど 深 夜 になる 頃 にコラチェフの 近 くまできて,コラチェフの 手 前 で 宿 営 を 張 った 就 寝 の 頃 合 いになって,コラチェフからかれらのところに 報 がもたらさ れた すなわち, スヴャトスラフ [C43] は, 仲 間 からの 通 報 によって,イジャスラフ ムス チスラヴィチ [D112:I] がコラチェフに 向 けて 兄 弟 たちとともに 討 伐 軍 を 進 め,コラチェフ 付 近 で 多 く 掠 奪 を 行 っていることを 知 り,ヴャティチの 森 35) の 向 こうへ 逃 げてしまった という のである イジャスラフ [D112:I] は, 自 分 の 二 人 の 兄 弟,ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] に 言 っ た 337 そなたたちが 望 んでいた 領 地 は,わしがそなたちのために 獲 得 した ノヴゴロド セヴェルスキイ のことである スヴャトスラフ [C43] の 領 地 はそなたたちのものである こう 言 うと, イジャスラフ [D112:I] 自 身 はキエフに 帰 ってしまった また, イジャスラフ [D112:I] はこうも 言 った この 領 地 の 中 のイーゴリ [C42] のものは, 奴 隷 であれ 物 資 であれ,わしのものである スヴャトスラフ [C43] のものは, 奴 隷 であれ 物 資 であれ,われらで 分 けようではないか そして,そのようになされた さて,イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] がキエフに 戻 ってくると,イーゴリ [C42] は 地 下 牢 の 中 で 病 みついており, 病 状 は 甚 だしく 重 かった イーゴリ [C42] はイジャスラフ [D112:I] に 使 者 を 遣 って, 依 頼 と 拝 礼 を 行 って,こう 言 った 兄 弟 よ わしはひどく 病 んでいる 剃 髪 することを 許 可 してほしい すでに 公 座 にあったときから,わしには 剃 髪 したいとの 思 い があった 今 まさにそれを 必 要 としている わしはひどく 病 んでいるのだから もはや 生 きる ことは 望 んでいない かれ イジャスラフ [D112:I] は 同 情 して 答 えて 言 った もしそなた に 剃 髪 したいとの 思 いがあるのなら, 望 むとおりにすればよい そうでなくとも,そなたは 病 んでいるのだから,わしはそなたを 解 放 するつもりである こうして, イジャスラフ [D112:I] は 使 者 を 遣 って, 地 下 牢 の 覆 いを 外 すように 命 じ, 重 病 人 を 地 下 牢 から 引 き 出 すと, ペレヤスラヴリのヨハネ 修 道 院 の 庵 室 へと 運 ばせた よう やく 8 日 目 に 神 はかれに 魂 を 取 り 戻 させた 36) しかし,かれは 食 べることも 飲 むこともでき なかった イジャスラフ [D112:I] は かれを 剃 髪 するよう 主 教 エフィーミイに 命 じた その 35) 前 注 25 の 森 林 の 地 に 相 当 する スヴャトスラフ [C43] はオカ 川 に 沿 って 北 へ 向 かって 逃 げたこ とになり, 以 下 の 記 述 からコゼリスク (Козельск) に 到 着 したことが 分 かる 36) 意 識 を 回 復 させたということ - 335 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 後, 神 はかれ イーゴリ の 病 気 を 癒 した かれはキエフの 聖 テオドロス 修 道 院 37) に 運 ばれた そこで, 典 院 と 修 道 士 たちが 呼 ばれ, 自 らへの 約 束 が 適 って, 338 聖 テオドロス 修 道 院 でス ヒマ 修 道 士 の 剃 髪 が 行 われた 38) ダヴィドの 二 人 の 息 子 ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] はドブリャンスク 39) (Дьбряньск) へ 向 けて 出 発 した また,スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] はコラチェフへ 向 かった かれ スヴャ トスラフ [C411:G] は,コゼリスク 40) (Козельск) にいる 自 分 の 叔 父 スヴャトスラフ [C43] に 使 者 を 遣 って,こう 言 った イジャスラフ ムスチスラヴィチ [D112:I] はキエフに 戻 りましたが, ダヴィドの 二 人 の 息 子 ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] は,スモレンスクのロス チスラフ [D116:J] とともに,あなたを 攻 めようとしています こうして,ダヴィドの 二 人 の 息 子 たちはやって 来 ると,ドブリャンスクで 陣 を 張 った 他 方, スヴャトスラフ [C43] はコゼリスクを 離 れてデドスラヴリ 41) (Дѣдославль) まで 行 き,さらに, スヴャトスラフ [C43] はオセトル 川 42) (Осетр) 方 面 へ 向 かった だがこの 場 所 で,イヴァンコ ベルラドニク [A1221] は,かれ スヴャトスラフ [C43] を 裏 切 っ てスモレンスク 公 ロスチスラフ [D116:J] のもとに 走 り,その 際 にスヴャトスラフ [C43] から 銀 200 グリヴナと 金 12 グリヴナを 奪 い 去 った さて,スヴャトスラフ [C43] はポルテスク 43) (Полтеск) の 城 砦 に 到 着 した そこへ,ユーリ 37)1129 年 にムスチスラフ [D11] が 定 礎 した 修 道 院 で,かれの 一 族 の 菩 提 寺 の 役 割 を 果 たしていた [ イ パーチイ 年 代 記 訳 注 (2) 注 109] も 参 照 38) ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では エフィーミイは キエフに やって 来 て,かれ イーゴリ [C42] を 剃 髪 した 1147 年 の 1 月 5 日 のことであった と 日 付 が 記 されている なお, スヒマ 修 道 士 (въ схиму) とは, 修 道 士 のなかでももっとも 厳 しい 戒 律 を 自 らに 課 した 苦 行 僧 を 指 す ここではイーゴ リに 完 全 に 俗 世 への 復 帰 を 諦 めさせることを 意 味 しているだろう 39) 現 在 のロシアの 都 市 ブリャンスク (Брянск) のことで,デスナ 川 沿 岸 に 位 置 している コラチェフの 南 西 約 40km と 近 い 位 置 にある 40) 本 稿 注 5 を 参 照 41) デドスラヴリ (Дѣдославль) について,ナソーノフは,ウパ (Упа) 川 上 流 域 の 城 市 で,コゼリスク からは 約 150km 西 方 に 位 置 する 現 在 の Дедилово 村 のこととしている [Насонов 2002] 42) オステル(オショトル)(Остер; Осётр) 川 はオカ (Ока) 川 支 流 で,デドスラヴリとコルテスク( 次 注 参 照 )の 中 程 の 地 域 を 流 れている 43) イパーチイ 年 代 記 において ポルテスク (Полтеск) の 地 名 は ポロツク を 指 すときに 用 いら れているが,ここでは ポロツク はあり 得 ない 諸 注 では,この 部 分 は コルテスク (Колтеск) の 誤 記 (すべての 写 本 について)と 見 なされている コルテスクはオカ (Ока) 川 右 岸 に 位 置 する 城 砦 都 市 で, デドスラヴリから 北 へ 約 100km 離 れた,ヴャティチの 地 の 北 辺 に 位 置 している - 336 337 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) イ [D17] がかれを 援 助 するために,1000 人 の 鎧 を 装 備 した 44) 45) ベロゼロ 人 部 隊 を 派 遣 した スヴャトスラフ [C43] は 精 兵 を 選 りすぐると,ベロゼロ 人 を 率 いて,ダヴィドの 二 人 の 息 子 た ちを 討 つためにデドスラヴリへと 進 軍 しようとしていた しかしその 時,イヴァンコ ユーリ エヴィチ [D172] が 体 調 を 崩 し,ひどく 病 みついた そのために,スヴャトスラフ [C43] は 進 軍 をやめたが, 部 隊 を 解 散 することはしなかった ダヴィドの 二 人 の 息 子 たちも,ユーリイ [D17] がかれ スヴャトスラフ [C43] に 援 軍 を 派 遣 したことを 聞 いて,スヴャトスラフ [C43] を 敢 えて 攻 めようとはしなかった そのかわり, ヴャティチ 人 を 召 集 すると,かれらに 向 かって 言 った 見 よ,これがわれらとそなたたちの 敵 である かれ スヴャトスラフ [C43] を 捕 らえよ 捕 獲 した 捕 虜 はおまえたちのものだ 46) それから, ダヴィドの 二 人 の 息 子 たちは デドスラヴリから 引 き 揚 げていった 47) その 頃,ユーリイ [D17] の 二 人 の 息 子,ロスチスラフ [D171] と 339 アンドレイ [D173] が, ロスチスラフ ヤロスラヴィチ 48) [C54] を 討 伐 するためにリャザンに 進 軍 していた ロスチス ラフ [C54] はリャザンを 脱 出 して,ポロヴェツ 人 のもとへ,エリトゥク (Ельтук) のもとへと 身 を 寄 せた 49) 44) 鎧 を 装 備 した と 訳 した 語 は 原 文 で 写 本 によって бренидьец, бернистец,( ヴォスクレセンスカヤ 年 代 記 ニコン 年 代 記 では бронник)などと 異 同 がある 年 代 記 ではこの 個 所 だけの 語 彙 で,おそらく, 鎧 を 意 味 する броня から 派 生 した 語 と 考 えられる [Goranin 1995: p.55 n. 384] 45) ベロゼロ(ベロオゼロ)は, 原 初 年 代 記 862 年 の 項 にリューリクの 兄 弟 シネウスが 座 した 地 とし て 記 されている 古 い 城 市 だが,ノヴゴロドから 東 北 東 に 約 400km と, 遙 か 北 方 に 位 置 している ただ, 地 理 的 にはシェクスナ 川 =ヴォルガ 川 水 系 によって,ロストフ スーズダリの 地 と 関 係 が 深 く,11 世 紀 後 半 にはこの 地 の 公 国 の 領 地 になっていた 1096 年 にはベロゼロ 人 はムスチスラフ [D11] の 配 下 と して,スーズダリ 人,ロストフ 人 とともに,チェルニゴフ 公 オレーグ [C4] と 戦 っている スーズダリ がユーリイ [D17] の 支 配 下 に 置 かれたのちは,この 公 の 軍 勢 の 一 部 として 戦 うようになった 46) ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] らチェルニゴフ 諸 公 はヴャティチの 地 を 自 分 の 所 領 の 一 部 だと 考 えているふしがあり,この 発 言 にはスヴャトスラフ [C43] を, 自 分 たちとヴャティチ 人 にとっ ての 共 通 の 敵 だとして, 連 帯 意 識 を 植 え 付 けようとする 意 図 があったと 考 えられる 47)ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] は,チェルニゴフに 戻 ったと 考 えられる 48) 本 稿 注 2 にもあるように,リャザン 公 のロスチスラフ [C54] は,ユーリイ [D17] の 領 地 ともっとも 近 い 場 所 にいるイジャスラフ [D112:I] の 同 盟 者 である ユーリイは, 遠 征 の 際 に 背 後 を 突 かれないた めに, 息 子 たちに 命 じてこのリャザン 公 の 排 除 を 図 ったのである 49) エリトゥク はポロヴェツの 首 長 (ハン)の 名 前 この 記 事 を 根 拠 に,P. トロチコはロスチスラフ [C54] がポロヴェツの 首 長 エリトゥクの 娘 と 結 婚 していた,つまり 舅 のところに 身 を 寄 せた 可 能 性 を 指 摘 している [Толочко 2014: С. 158] - 337 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 その 頃,スヴャトスラフ [C43] は, 自 分 の 兵 50) をポロヴェツ 人 のもとへと 帰 した かれらに 多 くの 贈 物 を 与 えた かれらについては,わたしたちが 以 前 に 書 いたように 51),かれら スヴャ トスラフ [C43] たち とともに 多 くのポロヴェツ 人 が 従 軍 していたのである その 頃,イヴァンコ ユーリエヴィチ [D172] が 逝 去 した 乾 酪 の 週 の 月 曜 日 2 月 24 日 52) の 前 日 の 夜 のことだった 夜 が 明 けて,かれの 二 人 の 兄 弟,ボリス [D170] とグレーブ [D178] がやっ て 来 た 二 人 は 大 いに 泣 いた それから,かれの 遺 体 を 布 で 巻 くと, 二 人 は 遺 体 を 運 んで, 悲 しみながらスーズダリの 父 ユーリイ [D17] のもとへと 出 発 した さて,スヴャトスラフ [C43] は 戻 ってくると, 出 発 してオカ 川 を 遡 行 し,ポロトヴァ 53) (Поротова) 川 の 河 口 にあるロブィンスク (Лобыньск) 城 砦 に 到 着 して,そこで 陣 を 張 った ユー リイ [D17] は,そこにいるかれ スヴャトスラフ [C43] のもとへ 54), 多 くの 贈 物 を 送 った かれの 妻 には 絹 織 物 や 毛 皮 などを かれの 従 士 団 にも, 多 くのものを 送 り 与 えた 6655 1147 年 ユーリイ [D17] がノヴゴロドの 領 地 を 掠 奪 するために 軍 を 進 めた やって 来 ると,ノーヴィ トルグ 55) (Новый Торг) とムスタ 56) (Мста) 川 全 域 を 占 領 した 57) 50) 自 分 の 兵 を( ) 帰 す (отпусти воѣ своѣ) は 内 容 的 に 辻 褄 が 合 わないことから,воѣ を вуѣ す なわち,ポロヴェツ 人 を 率 いてやって 来 た 自 分 の 母 方 の 伯 叔 父 (вуй) と 誤 記 と 解 釈 することも 可 能 である [Вілкул 2004: С. 71, прим. 40] 51) 本 年 代 記 の 1146 年 秋 ころの 記 述 に, その 頃,スヴャトスラフ [C43] は ポロヴェツ 人 の 首 長 で ある 母 方 の 伯 叔 父 たちのところに 使 者 を 遣 った そして,かれら ポロヴェツ 人 300 人 が 急 いでか れ スヴャトスラフ [C43] のもとにやって 来 た とある 個 所 を 指 している([ イパーチイ 年 代 記 (2): 348 頁, 注 370] 参 照 ) 52)1147 年 の 乾 酪 の 週 (масленная неделя, масленица) は,2 月 24 日 ( 月 曜 日 )から 3 月 2 日 ( 日 曜 日 ) までの 期 間 を 言 う 53) ポロトヴァ 川 (Поротова) は,オカ 川 左 岸 を 北 西 の 方 向 に 流 れる 支 流 54) ヴォスクレセンスカヤ 年 代 記 ではこの 個 所 に 使 者 を 遣 って 伝 えた わが 息 子 について 嘆 くこと はない 神 がかれを 取 り 上 げてしまったからには, 別 の 息 子 をそなたに 派 遣 しよう (река: «не тужи о сыну моемъ; аще того Богъ взялъ, то другой ти послю») との, 追 加 的 な 文 言 がある 55) ノヴゴロド 地 方 とロストフ スーズダリ 地 方 の 境 界 にあり,ヴォルガ 川 上 流 の 支 流 トヴェルツァ (Тверца) 川 左 岸 の 城 市 トルジョク (Торжок) とも 呼 ばれる 歴 史 的 にノヴゴロドと 北 東 ルーシとの 間 の 係 争 地 でもあった 56) ノヴゴロドに 近 いイリメニ 湖 (Ильмень) の 東 を 流 れ,この 湖 に 注 ぐ 川 その 上 流 は,トルジョクの あるトヴェルツァ 川 と 連 水 陸 路 で 繋 がっており,ヴォルガ 川 とノヴゴロドを 結 ぶ 戦 略 的 に 重 要 な 川 だっ た 57) 当 時 ノヴゴロドはキエフ 大 公 イジャスラフ [D112:I] の 弟 にあたるスヴャトポルク [D114] が 公 とし て 座 していた このノヴゴロド 遠 征 は,イジャスラフ [D112:I] やロスチスラフ [D116:J] の 勢 力 を 削 ぐ ための 牽 制 という 意 味 もあったと 考 えられる - 338 339 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 他 方,ユーリイ [D17] は, ロブィンスクにいる スヴャトスラフ [C43] に 使 者 を 遣 って, スモレンスクの 領 地 を 略 取 するようかれに 命 じた そして,スヴャトスラフ [C43] は 軍 を 進 め, ゴリャヂ 58) (голядь) 人 を 捕 らえ,ポロトヴァ 59) (Поротва) 川 上 流 域 を 略 取 した このようにして, スヴャトスラフ [C43] の 従 士 団 は 多 くの 捕 虜 を 獲 得 した ユーリイ [D17] は スヴャトスラフ [C43] へ 使 者 を 遣 って 言 った 兄 弟 よ,わしのとこ ろへ,モスクワ 60) (Москва) へ 来 るがよい スヴャトスラフ [C43] は 340 自 分 の 子 供 オレー グ [C431] と 少 数 の 手 勢 とともにやって 来 た またウラジーミル スヴャトスラヴィチ 61) [C511] も 伴 っていた オレーグ [C431] は 先 発 してユーリイ [D17] のとこに 行 き,かれに 狩 猟 豹 62) を 贈 っ た 後 からその 父 のスヴャトスラフ [C43] がやって 来 た こうして, 親 愛 の 挨 拶 を 行 った 聖 なる 聖 母 讃 美 の 日 63) の 前 日, 金 曜 日 のことだった こうして 楽 しく 祝 った 翌 日,ユーリイ [D17] は 大 がかりな 昼 食 を 設 けるよう 命 じ,かれら 客 人 たち へ 大 いなる 敬 意 を 表 し,スヴャトスラフ [C43] に 多 くの 品 を 贈 与 し, 和 気 あいあいとしていた また,か れの 息 子 オレーグ [C431] とウラジーミル スヴャトスラヴィチ [C511] にも 贈 物 を 与 えた また,スヴャトスラフ [C43] の 家 臣 たちにも 宴 席 を 設 けた こうしてから, 客 人 を 帰 路 につか せた ユーリイ [D17] は 自 分 の 息 子 をかれ スヴャトスラフ [C43] のもとに 派 遣 することを 58) ゴリャヂ 人 (голяди) は,この 頃 スモレンスク 領 に 隣 接 していたプロトヴァ 川 上 流 域 に 古 来 から 居 住 していたバルト(リトアニア) 系 の 民 族 他 のバルト 系 諸 族 と 離 れ,スラヴ 系 のヴャティチ 人 とクリヴ ィチ 人 と 隣 合 っていたことからその 後 同 化 された 59) プロトヴァ 川 (Протова) とも 表 記 し, 北 西 から 南 東 に 向 かってオカ 川 右 岸 のロブィンスクに 流 れ 込 む 支 流 上 流 域 はスモレンスク 地 方 との 境 界 にあたる 60) モスクワ (Москва) の 地 名 はこの 個 所 が 初 出 当 時 はロストフ スーズダリ 地 方 とチェルニゴフ 地 方 の 境 界 地 帯 に 位 置 していた スヴャトスラフ [C43] はロブィンスクからオカ 川 を 下 り,コロムナ (Коломна) の 地 点 からモスクワ 川 に 入 ったと 考 えられる 61) ウラジーミル [C511] はスヴャトスラフ [C43] の 従 甥 にあたる 前 注 2 の 1146 年 秋 頃 に ヤロスラ フ [C5] の 孫 であるウラジーミル スヴャトスラヴィチ [C511] がその 伯 父 ロスチスラフ [C54] のも とから 逃 げ 出 してノヴゴロド セヴェルスキイ のスヴャトスラフ [C43] のところに 身 を 寄 せていた とあるが,それ 以 来 スヴャトスラフ [C43] と 行 動 をともにしていた 62)この 狩 猟 豹 (пардус) については, イパーチイ 年 代 記 1160 年 の 項 でも,やはりスヴャトスラフ [C43] が 贈 与 した 品 として 言 及 されている スヴャトスラフとドン 流 域 ポロヴェツ 人 との 関 係 を 考 える と, 当 時 ステップ 地 帯 に 生 息 していた 狩 猟 用 のアジア チータ (Asiatic cheetah; Acinoyx jubatus venaticus) である 可 能 性 が 高 い [Словарь-СПИ 4: С. 57] ルーシでこの 豹 が 広 く 知 られていたことは,キエフの ソフィア 大 聖 堂 南 塔 の 壁 画 や, 1073 年 スヴャトスラフ 文 集 の 挿 絵 などからも 推 察 することができる 63) 聖 母 讃 美 の 日 の 前 日 (на Похвалу святѣй Богородици) は, 大 斎 (великий пост) 第 5 週 の 土 曜 日 にあたる 祭 日 で, 至 聖 なる 聖 母 讃 美 の 祭 日 (Похвала Пресвятой Богородицы)もしくは アカフ ィストの 土 曜 日 (Суббота акафиста) と 呼 ばれ, 聖 母 の 庇 護 よる 異 教 徒 からの 帝 都 防 衛 を 記 念 した 祭 日 移 動 祭 日 で 1147 年 は 4 月 5 日 に 相 当 する その 前 日 の 4 日 は 金 曜 日 になる - 339 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 約 束 し,そのようにした 64) さて,スヴャトスラフ [C43] はそこ モスクワ からロブィンスク (Лобыньск) に 戻 ると, そこからさらにネリンスク 65) (Нериньск) へと 向 かい,オカ 川 を 渡 ったところで 陣 を 張 った 受 難 週 間 前 の 柳 の 日 曜 日 の 前 日 66) だった そこで,かれの 父 オレーグ [C4] の 家 臣 だった 長 老 修 道 士 ピョートル イリイチが 逝 去 した すでに 老 齢 のため, 馬 に 乗 ることはできなかっ たのである 90 歳 だった 67) その 年 の 夏 68),イジャスラフ [D112:I] はクリム クリメント スモリャティチ (Клим Смолятич) を 府 主 教 に 任 命 し,ザルーブ 69) (Заруб) から キエフへ 異 動 させた かれはスヒ マ 修 道 士 だった かれは 書 物 をよく 理 解 し, 哲 学 者 でもあり,このような 者 はルーシの 地 には かつてはいなかった このような 府 主 教 叙 任 がなされたの は,チェルニゴフの 主 教 が わたしの 知 るところで は, 主 教 たちが 一 同 に 会 して 府 主 教 を 叙 任 することは 適 正 なことである と 言 ったからであっ た こうして,チェルニゴフの 主 教 オヌーフリイ,ベルゴロドの 主 教 フェオドル,ペレヤスラ ヴリの 主 教 341 エフィーミイ,ユーリエフの 主 教 デミヤン,ヴラジミルの 主 教 フェオドル, ノヴゴロドの 主 教 ニフォント,スモレンスクの 主 教 マヌイルが 会 合 した 64) これは, 以 下 に 述 べられる,ユーリイ [D17] が 息 子 のグレーブ ユーリエヴィチ [D178] を,スヴャ トスラフ [C43] のもとに 援 軍 として 派 遣 したことを 指 している 本 稿 注 89 を 参 照 65)この 地 名 については 特 定 できる 定 説 はない モスクワからオカ 川 を 上 ってロブィンスクに 戻 った 後 の 行 動 であることから,さらにオカ 川 をさらに 上 流 方 面 に 行 った 途 上 の 村 の 名 と 推 定 される またモスク ワでの 祝 宴 から 7 日 ほどしか 経 っていないことから,ロブィンスクからさほど 遠 くない 地 点 であること が 分 かる 66)1147 年 4 月 12 日 土 曜 日 に 相 当 する 67) 1146 年 の 項 で,スヴャトスラフ [C43] は かつてはかれの 父 [C4] の 家 臣 で,いまはウラジーミル [C34] のところにいる 男 からキエフ 大 公 イジャスラフ [D112:I] 進 軍 についての 情 報 を 得 ている ピ ョートル はこの 人 物 である 可 能 性 が 高 い 本 稿 注 21 を 参 照 68) ラヴレンチイ 年 代 記 の 短 い 並 行 記 事 ではこの 叙 任 の 日 付 を,7 月 27 日 (1147 年 )の 聖 パンテレ イモンの 日 としている 69) ザルーブ (Заруб) はペレヤスラヴリからドニエプル 川 を 渡 河 した 対 岸 にある 城 市 ここに 聖 母 就 寝 祭 に 奉 献 した 修 道 院 があり,このときまでクリメントはスヒマ 修 道 士 として 修 行 をしていた [ イパーチ イ 年 代 記 (2) 注 328] も 参 照 なお,заруб を 隠 遁 の 意 味 の 普 通 名 詞 (затвор と 同 義 )として, 隠 遁 生 活 から 引 き 出 して の 意 味 とする 解 釈 もある [Поппэ 1996: С. 456] - 340 341 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 二 人 の 主 教 70) がこう 言 った 総 主 教 抜 きで, 主 教 たちが 府 主 教 を 叙 任 してよいなど, 教 会 法 にはない 府 主 教 は 総 主 教 が 叙 任 するものである われら 二 人 はそなた クリメント に 拝 礼 して 服 従 せず,ともに 奉 事 を 執 行 しない なぜなら,そなたは 聖 ソフィア 教 会 71) で 総 主 教 からの 祝 福 を 受 けていないのだから もしそなたが 考 えを 改 めて 総 主 教 の 祝 福 を 受 けたときに は,われら 二 人 はそなたに 拝 礼 して 服 従 しよう われら 二 人 は 府 主 教 ミハイル 72) から,われ らは 府 主 教 抜 きで, 聖 ソフィア 教 会 73) で 奉 事 をなすべきではない,との 手 書 きの 文 書 をすで に 受 け 取 っているのだ かれ クリメント はこれについて,かれら 二 人 に 対 して 強 い 不 満 を 持 った チェルニゴフ の 府 主 教 オヌーフリイは 言 った わしの 知 るところでは,われらが 叙 任 をなすのは 適 正 である われらのもとには 聖 クレメンス 74) の 頭 部 の 聖 骸 がある これを 用 いるのは,ギ 70) 原 文 では, 主 教 の 名 が 列 挙 されたあとで, 双 数 形 の 動 詞 рекоста, не поклонивѣ が 使 われているだ けで,この 二 人 が 誰 であるか 明 示 されていない ただ, 文 脈 からみて 主 教 列 挙 の 最 後 の 二 人 である ノヴゴロドの 主 教 ニフォントとスモレンスクの 主 教 マヌイルと 見 るべきであろう ニフォントの 反 対 に ついては, ノヴゴロド 第 一 年 代 記 の 6657(1149) 年 の 項 で ノヴゴロドの 大 主 教 ニフォントがルーシ へ 行 った かれはイジャスラフ [D112:I] と 府 主 教 クリムに 呼 ばれたのである というのは,イジャス ラフは 帝 都 へ 使 者 を 遣 らずに,ルーシの 地 方 の 主 教 たち 共 にかれを 叙 任 してしまったからである しか し,ニフォントこう 言 っていた 府 主 教 に なるのはふさわしくなかった 大 本 山 から 祝 福 を 受 けて おらず, 叙 任 されていないのだから [ ノヴゴロド 第 一 年 代 記 [I]:48 頁 ] として,クリムの 選 出 に 反 対 であったことは 明 らかである マヌイルはギリシア 人 で,またスモレンスク 主 教 座 創 設 はキエフ 府 主 教 ミハイルの 手 で 行 われたことから([ イパーチイ 年 代 記 (2): 312 頁, 注 148] 参 照 ),コンスタンティ ノポリス 総 主 教 の 按 手 礼 によるロシア 府 主 教 の 叙 任 を 強 く 主 張 したのだろう なお, ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では イジャスラフは 勝 手 に 6 人 の 主 教 とともにルーシの 修 道 士 クリムを 府 主 教 に 叙 任 した として,ニフォント 以 外 の 6 人 を イジャスラフ 支 持 派 としており,ここではマヌイルもそ の 中 に 含 まれていると 考 えられる 71) コンスタンティノポリスの 総 主 教 座 教 会 である 聖 ソフィア 大 聖 堂 ( 現 在 のイスタンブールのアイヤ ソフィア)のこと 72) 前 任 のキエフ 府 主 教 で,キエフ 大 公 位 を 巡 る 政 争 の 時 期 にキエフを 去 って,コンスタンティノポリス に 戻 り,1145 年 にはこの 地 で 没 している 手 書 き 文 書 はミハイルがルーシを 去 る 際 に,ニフォント もしくはマヌイルに 手 渡 したものだったのだろう イジャスラフ 大 公 [D112:I] の 手 によるクリメント 叙 任 は, 親 イジャスラフの 教 会 人 を 任 命 することで, 府 主 教 の 空 位 を 埋 める 政 治 的 なものだった 73)キエフの 府 主 教 座 教 会 聖 ソフィア (св. София) 大 聖 堂 のこと 74) 聖 クリメント (Климент) は,1 世 紀 末 のローマの 聖 人 クレメンス 一 世 のことで, 第 3 代 のローマ 司 教 をつとめた クリミア 半 島 に 流 刑 され,この 地 で 殉 教 したという 伝 説 から, 最 初 のルーシの 地 への 宣 教 者 として 崇 敬 された パンノニアの 伝 承 では,スラヴの 宣 教 者 コンスタンティノス(キュリロス)が ケルソネスで 聖 人 の 聖 骸 を 発 見 したとされ, 原 初 年 代 記 988 年 の 項 にはウラジーミル 聖 公 [08] が, その 聖 クレメンスの 聖 骸 を 持 って, 皇 女 アンナを 連 れてケルソネスからキエフに 戻 ったとされている 伝 承 では,この 聖 骸 は 聖 クレメンスの 頭 部 の 一 部 であり,この 時 代 には,キエフの 聖 ソフィア 聖 堂 に 安 置 されていたとされている - 341 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 リシア 人 が 聖 ヨハネの 手 75) によって 叙 任 を 行 っているのと 同 様 なのである こうして, 主 教 たちは 協 議 して, 聖 クレメンスの 頭 の 聖 骸 によって 府 主 教 の 叙 任 を 行 った さて,スヴャトスラフ [C43] はやって 来 ると,ネリンスク 76) で 陣 を 張 った そのとき,かれ のところへポロヴェツ 人 のかれの 母 方 の 伯 叔 父 たち 77) から, 使 者 が 派 遣 されてきた 使 者 には,ポロヴェツ 人 ヴァシーリと 60 人 の 家 来 たちが 同 行 していた 使 者 は 伯 叔 父 たちの 言 葉 を 伝 えて こう 言 った そなたは 健 やかであるか われらが 軍 勢 を 引 き 連 れてそちらに 向 かうよう,そなたは 命 令 しないのか その 頃,ルーシから 下 級 従 士 たちがやってきて 78), 342 かれ スヴャトスラフ [C43] に, ウラジーミル [C34] はチェルニゴフに,イジャスラフ [C35] はスタロドゥーブにいるとの 報 告 を 行 った スヴャトスラフ [C43] は,デドスラヴリ 79) (Дѣдославль) に 行 った そこのかれのと ころへ 別 のポロヴェツ 人 たち,すなわちトクソバ 族 の 者 たち (токсобичи) 80) がやって 来 た ス ヴャトスラフ [C43] は,かれらの 護 衛 としてスディミル クチェビチ (Судимир Кучебич) と ゴレン (Горѣн) をつけ,かれらをスモレンスク 人 討 伐 に 派 遣 した かれらは,ウグラ 川 の 上 流 域 81) で 掠 奪 を 行 った その 頃,ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] の 代 官 たちが,ヴャティチの 地,すな わちブリャンスク 82) (Бряньск),ムツェンスク 83) (Мьченьск),ブレヴェ 84) (Блеве) などから 逃 75) 伝 承 によれば, 洗 礼 者 ヨハネの 右 手 の 聖 骸 は 10 世 紀 にコンスタンティノポリスにもたらされ, 12 世 紀 の 末 までは 聖 物 として 宮 殿 に 安 置 されて, 高 位 聖 職 者 の 叙 任 に 用 いられていたという 76) 本 稿 注 65 を 参 照 77) 本 稿 注 24 を 参 照 78)この 下 級 従 士 たち (дѣцкы) とは 情 報 収 集 のために ルーシ すなわち,チェルニゴフ=キエフ= ペレヤスラヴリ 方 面 に 派 遣 していたスヴャトスラフ [C43] 配 下 の 下 級 従 士 たちを 指 している 79) デドスラヴリ はオカ 川 から 支 流 のウパ 川 に 入 って 遡 った 上 流 域 にある 城 砦 もしくは 村 で,ポロヴ ェツ 人 が 居 住 する 原 野 に 接 している 本 稿 注 41 を 参 照 80) トクソバ 族 の 者 たち (токсобичи) とは,ドン 川 ドネツ 川 上 流 域 に 展 開 していたポロヴェツ 人 の 部 族 名 81) ウグラ 川 上 流 域 (верхъ Угры) とは,スモレンスク 地 方 とチェルニゴフ 地 方 の 境 界 一 帯 のスモレン スク 側 の 領 地 を 指 している スヴャトスラフ [C43] は,スモレンスクのロスチスラフ [D116:J] の 援 軍 の 力 を 削 ぐために,ポロヴェツ 人 部 隊 を 派 遣 したと 考 えられる 82) 先 のドブリャンスク (Дъбряньск) と 同 じ 83) 現 在 のロシア 連 邦 オリョール 州 の 都 市 で,オカ 川 支 流 ズーシャ 川 右 岸 位 置 し,ブリャンスクからは 西 方 144km と 離 れている 84) 文 脈 から 見 て,スモレンスク 地 方 とヴャティチの 地 の 境 界 にあることから,ナソーノフは,デスナ 川 の 支 流 ボルヴァ (Болва) の 水 源 近 くに 位 置 する オブロヴィ (Обловь) 城 砦 と 特 定 している ブリャ ンスクからは 北 北 東 に 約 130km の 位 置 にある - 342 343 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) げ 出 してきた スヴャトスラフ [C43] は,そこ デドスラヴリ からデヴャゴルスク 85) (Девягорьск) へ 行 き,すべてのヴャティチの 地 を 占 領 した すなわちブリャンスク (Брянеск), ヴォロビイン 86) (Воробиин),デスナ 沿 岸 地 帯 (Подесьнье),ドマゴシ 87) (Домагошь),ムツェン スク (Мценеск) の 近 くまで 達 した その 頃,かれ スヴャトスラフ [C43] のところにブロドニク 人 88) たち (бродничи) がやっ て 来 た ポロヴェツ 人 も 多 数 がかれのところへやって 来 た かれの 母 方 の 伯 叔 父 たちの 配 下 の 者 たちだった その 頃,イジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35] がノヴゴロド セヴェルスキイ からチェ ルニゴフへと 移 った その 頃,グレーブ ユーリエヴィチ [D178] がデヴャゴルスクのスヴャトスラフ [C43] のと ころに 来 た 89) かれ スヴャトスラフ [C43] は,その 地 から,スヴャトスラフの 息 子 オレー グ [C431] とユーリイの 息 子 グレーブ [D178],ポロヴェツ 人 たちを 引 き 連 れて,ムツェン スクへと 行 った そして,かれら ポロヴェツ 人 に 多 くの 贈 物 を 与 え,イジャスラフの 息 子 ムスチスラフ [I1] を 討 伐 するために, クロム (Кром) 90) の 城 市 へと 向 かった そこへ,ウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34] と スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] から 派 遣 された 91) 使 者 たちが 追 いかけて 来 て, スヴャトスラフ [C43] に 対 して 言 っ た これについて,われらに 対 する 不 満 を 持 つな われらは, 一 人 の 人 間 のようになろうで はないか われらのことを 悪 く 思 わないでほしい われらに 十 字 架 接 吻 の 誓 いを せよ 自 分 の 父 の 地 を 343 取 るがよい われらが 略 取 したそなたのものは,そなたに 返 そう 85)デドスラヴリとムツェンスクの 中 間 にある 村 の 名 で,デドスラヴリからは 南 西 に 約 50km 離 れている 86) ボロベイナ (Воробуйна) とも 言 い,ナソーノフによれば,デスナ 川 支 流 スドスチ (Судость) 川 上 流 付 近 に 位 置 ある 村 落 で,ブリャンスクのさらに 西 方 約 50km に 位 置 する 87)ズーシャ 川 の 河 岸 の 城 砦 で,ムツェンスクの 下 流 の 北 西 約 25km に 位 置 する 88)アゾフ 海 沿 岸 からドン 川 下 流 域 に 居 住 していたチュルク 遊 牧 民 とスラブ 系 移 住 民 が 混 成 した 民 族 集 団 と 考 えられているが 詳 細 は 不 明 89)グレーブ [D178] の 派 遣 については, 本 稿 注 64 を 参 照 90) フレーブニコフ 写 本 には クロム (Кром) の 地 名 が 明 記 されている オカ 川 上 流 域 にある 城 砦 で, ムツェンスクからは 南 西 に 84km の 位 置 にある なお,この 時 にムスチスラフ [I1] はクルスクにいたこ とから, クロム は 後 代 の 加 筆 で, 年 代 記 記 者 は クルスク の 城 市 を 念 頭 に 置 いていた 可 能 性 もある 91) ソロヴィヨフによれば,スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] は 叔 父 のスヴャトスラフ オリゴヴィチ [C43] と 共 に,ウラジーミル [C34] 等 に 敵 対 していたが,ここでは 仲 介 役 となっており, おそらく 事 前 にダヴィドの 二 人 の 息 子 (ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35])と 交 渉 したものと 思 われる [Соловьев 1988: С. 435] - 343 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 こうして,かれらは 十 字 架 接 吻 を 行 ったが,それを 守 ることはなかった 92) その 年,ウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34] とイジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35] が,チェ ルニゴフからキエフ 公 イジャスラフ [D112:I] へ 使 者 たちを 遣 って 言 った 兄 弟 よ スヴャト スラフ オリゴヴィチ [C43] がわが 領 地 であるヴャティチを 占 領 した われら 二 人 はかれを 討 伐 に 行 くつもりである われら 二 人 は,かれを 追 い 払 い, 次 はスーズダリのユーリイ [D17] を 討 伐 に 行 く そして,かれと 和 議 を 結 ぶか,かれと 戦 うかしよう 93) イジャスラフ ムスチ スラヴィチ [D112:I] は, 二 人 のダヴィドの 子 ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] お よびスヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] と 協 議 して,ユーリイ [D17] およびスヴャ トスラフ [C43] をともに 討 伐 することに 合 意 した 94) 当 時,スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] は,イジャスラフ [D112:I] から 与 え られたボジスキ (Божьски),メチボジエ (Мечибожие),コテルニツァ (Котелниця) など 全 部 で 5 つの 城 市 の 支 配 をしていた 95) かれはイジャスラフ [D112:I] のもと キエフ にやって 来 て, 次 のように 言 って 請 願 を 始 めた 父 よ わたしをチェルニゴフへと 先 に 行 かせて 下 さい そ の 地 にはわたしの 資 産 がすべてあります わが 兄 弟 のウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] に 対 して, 自 分 に 領 地 を 与 えるよう 求 めたいのです かれ イジャスラフ [D112:I] は 答 えて 言 った 息 子 よ そのようにすることはそなたにとって 良 いことだ 先 行 して 準 備 をせよ 行 って, 遠 征 の 支 度 をするがよい こうしてスヴャトスラフ [C411:G] はチェルニゴフへ 出 発 92) この かれら とはウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34],イジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35], スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] の 三 人 を 指 しており,この 十 字 架 接 吻 とは,この すぐあとに 述 べられている,この 三 人 とキエフ 大 公 イジャスラフ [D112:I] が,ユーリイ [D17] および スヴャトスラフ [C43] を 討 伐 する 大 遠 征 を 取 り 決 めた 際 に 交 わされた 宣 誓 の 十 字 架 接 吻 と 理 解 すべ きだろう 93) すでにこのときには, 前 注 92 の 十 字 架 接 吻 によって 二 人 のダヴィドの 子 たちは,スヴャトスラフ [C43] との 一 応 の 和 解 を 完 了 させていた ソロヴィヨフが 指 摘 するように,このダヴィドの 子 たちの 発 言 は,イジャスラフ [D112:I] をドニエプル 東 岸 におびき 寄 せるための 策 略 であることは 確 かである [Соловьев 1988: С. 435] そうであれば, 前 注 92 の それを 守 ることはなかった との 記 述 は,この 後 の 記 事 で 現 れる,ダヴィドの 子 たちが 最 終 的 にはこの 十 字 架 接 吻 に 反 してイジャスラフ [D112:I] と 和 解 するエピソードを 指 しており, 兄 弟 に 対 する 批 判 的 な 立 場 から 発 言 されている 94) その 夏 からここまでの 段 落 は, ラヴレンチイ 年 代 記 にほぼ 同 様 の 内 容 の 並 行 記 事 がある 95)イジャスラフ [D112:I] がスヴャトスラフ [C411:G] にキエフの 南 西 方 面 ( 南 ブク 川 上 流 域 )の 5 つの 城 市 を 与 えたことは,1146 年 の 記 事 でボジスキイとメジボジエの 名 をあげて 述 べられている([ イパー チイ 年 代 記 (2)]:348 頁, 注 371, 372 を 参 照 ) ここではもう 一 つコテルニツァ(コテルニチ)の 名 が あがっているが,この 城 市 については 1143 年 の 記 事 で 言 及 されている ([ イパーチイ 年 代 記 (2)]: 330 頁, 注 251 を 参 照 ) - 344 345 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) した さて,チェルニゴフの 諸 公 96) は 協 議 して,イジャスラフ [D112:I] に 向 けて 使 者 を 遣 り,か れに 出 陣 するように 督 促 して,こう 言 った われらの 地 は 滅 ぼうとしているのに,そなたは 来 ようとしないではないか イジャスラフ [D112:I] は 自 分 の 貴 族 たちと, 配 下 のすべての 従 士 たち, 344 キエフ 人 を 召 集 してこう 言 った われらは,わが 兄 弟 であるウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34] とイジャ スラフ ダヴィドヴィチ [C35],さらにスヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] と 協 議 をして 決 めた われらは,わが 父 方 の 叔 父 のユーリイ [D17] とスヴャトスラフ [C43] を 討 つた めに,スーズダリに 遠 征 したいと 思 う なぜなら,かれ ユーリイ [D17] はわが 敵 スヴャト スラフ オリゴヴィチ [C43] を 味 方 として 受 け 入 れたのだから 弟 のロスチスラフ [D116:j] は,その 場 所 でわれらと 合 流 することになろう かれはスモレンスク 人 とノヴゴロド 人 ととも にわしのもとに 駆 けつけるであろう キエフ 人 たちはこれを 聞 いて 言 った 公 よ,ロスチスラフ [D116:J] と 一 緒 に 自 分 の 叔 父 ユー リイ [D17] を 討 伐 に 行 ってはなりません かれ ユーリイ とは 話 をして 合 意 したほうがよ いでしょう オレーグの 一 族 97) を 信 用 してはなりません かれらと 共 に 遠 征 をしてはなりま せん イジャスラフ [D112:I] はかれら キエフ 人 たち に 言 った かれらはわしへの 十 字 架 接 吻 を 行 い,われらはかれらと 相 談 をしたのだ わしはいかにしてもこの 遠 征 を 延 期 したくな い そなたたちも 武 装 して 準 備 せよ キエフ 人 たちは 言 った 公 よ,われらのことを 怒 らな いでほしいが,われらはウラジーミル [D1] の 一 族 98) に 手 を 上 げることはできません オレー グの 一 族 であれば,われらは 郎 党 を 引 き 連 れて 討 伐 をいたしましょう すると,イジャスラ フはかれらに 向 かって 言 った わしの 後 からついて 行 く 者 が 善 き 者 である 96) チェルニゴフの 諸 公 の 表 現 は,ウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34] とイジャスラフ ダヴィド ヴィチ [C35] の 二 人 を 指 している 以 下 も 同 じ 97) オレーグの 一 族 は 原 文 では Ольговичи で, 文 字 通 りは オレーグの 子 供 たち キエフ 人 の 口 か ら 発 せられるこの 言 葉 は,オレーグ [C4] の 子 孫 だけでなく,ダヴィド [C3] の 息 子 たちも 含 んだ,スヴ ャトスラフ ヤロスラフ [C] 以 降 のチェルニゴフ 支 配 公 一 族 を 全 体 として 指 している 98) ウラジーミル 一 族 の 原 文 は Володимире племя で, 原 初 年 代 記 では племя の 語 は 通 常 旧 約 の 族 長 の 名 とともに 用 いられ, ウラジーミル 一 族 のようにルーシの 公 の 名 とともに 用 いられるのは キ エフ 年 代 記 の 1140 年 の 記 事 でノヴゴロドの 使 者 の 口 から 発 されるのが 初 めてである この 年 代 記 では, この 言 い 回 しはその 後 何 度 も 使 われている これは,モノマフの 子 孫 を 正 統 な 支 配 公 族 とする 立 場 をあらわすための 表 現 と 理 解 することができるだろう なお ラヴレンチイ 年 代 記 では, イパーチ イ 年 代 記 との 共 通 資 料 を 用 いた 部 分 を 除 いて, ウラジーミル 一 族 の 表 現 は 用 いられていない - 345 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 イジャスラフは こう 言 うと, 多 数 の 軍 兵 を 集 めて 進 軍 を 開 始 した まず,アリト (Лто) 99) 川 まで 行 き,そこからネジャチン 100) (Нежатин) 方 面 へと 進 み,ネジャチンから 行 軍 してルソ チナ 101) (Русотина) で 自 分 の 部 隊 に 陣 を 張 らせた そこから,ウレブ (Улеб) 102) を 使 者 としてチェ ルニゴフへ 派 遣 した 103) 自 分 の 兄 弟 のウラジーミル [D115] はキエフに 残 した ウレブはチェルニゴフの 城 内 に 入 った 345 かれは,ウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34], イジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35],スヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G] が,ス ヴャトスラフ オリゴヴィチ [C43] に 対 して 同 盟 を 誓 う 十 字 架 接 吻 をしており, 策 略 によっ てイジャスラフ [D112:I] を 殺 そうとしていることを 知 った ウレブはこのことを 聞 き 知 ると, 急 いで 自 分 の 公 イジャスラフ [D112:I] のもとへ 駆 けつけた そして,チェルニゴフの 諸 公 がか れ イジャスラフ [D112:I] を 裏 切 って,かれに 敵 対 する 十 字 架 接 吻 の 宣 誓 を 行 ったとい うことを, 直 々に 伝 えた そこにまた,チェルニゴフにいる 味 方 の 者 から 次 のような 情 報 がもたらされた 公 よ,そ の 場 所 からどこへも 行 かないでください かれら ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] は 欺 いてあなたを 呼 び 寄 せようとしています そして,あなたを 殺 すか,イーゴリ [C42] の 身 代 わりとして,あなたを 捕 らえようとしています かれらは,スヴャトスラフ オリゴヴィ チ [C43] に 対 して 同 盟 を 誓 う 十 字 架 接 吻 をしたのです かれらは,ユーリイ [D17] を 討 伐 することをあなたと 合 意 しておきながら,そのユーリイ [D17] のもとへ, 十 字 架 を 手 にした 使 99) 表 記 の 上 では リト 川 (Лто) となっているが, 現 在 の アリト 川 (Альт) のこと ここは 聖 ボリス 公 の 殉 教 の 地 で,その 上 流 域 はキエフから 南 東 に 東 に 50km ほど ([ イパーチイ 年 代 記 (1): 266 頁, 注 124] も 参 照 ) 100) ネジャチン (Нѣжатин) は,1078 年 10 月 にネジャチナ 原 の 合 戦 (Битва на Нежатиной Ниве) が あったことで 名 が 知 られるが 場 所 の 詳 細 は 不 明 ドニエプル 左 岸 のゴロデツ 付 近 と 推 定 され,キエフか らは 100km 以 内 である 101) ルソチナ (Русотина) についても 詳 細 は 不 明 だが,マフノヴェツは,トルベジ 川 右 岸 にある 現 在 のルサニウ 村 (с. Русанів) に 同 定 している [Покажчик] その 場 合,キエフから 東 に 45km ほどしか 離 れていない なお ラヴレンチイ 年 代 記 はイジャスラフ [D112:I] が 陣 営 を 張 った 場 所 をスーポイ 川 (Супой, 現 在 の Супій)(のおそらく 上 流 域 )としており,これは イパーチイ 年 代 記 の 後 の 記 事 の 記 述 ( 本 稿 注 142 参 照 )と 合 致 する その 場 合 はキエフから 東 へ 約 85km ほどの 地 点 になる 102)キエフの 千 人 長 ([ イパーチイ 年 代 記 (2)] の 注 334 を 参 照 ) 103) ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 にも,イジャスラフ [D112:I] の 行 軍 の 行 程 が 記 されているが, そこでは ドニエプル 川 を 渡 り,チェルトルィ 川 (Черторыя) のほとりに 陣 を 敷 き,そこでウレブを 派 遣 してから 自 分 はスーポイ (Супой) 川 に 向 かった とあり, イパーチイ 年 代 記 の 記 述 とは 符 合 して いない - 346 347 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) 者 104) を 派 遣 したのです イジャスラフ [D112:I] はこれを 聞 くと,もとの 場 所 へと 引 き 返 した 105) かれ イジャスラフ [D112:I] は 自 分 の 使 者 たちを,チェルニゴフのウラジーミル [C34] と その 兄 弟 イジャスラフ [C35] のもとへ 派 遣 して,かれらに 対 してこう 言 った 見 よ,われら は 大 いなる 遠 征 を 計 画 した われらの 祖 父 たち,われらの 父 たち が 決 めたこと を 確 認 して おり,われらはそのことを 十 字 架 に 接 吻 し て 誓 っ たのだ 106) もう 一 度, 合 意 107) をしよう ではないか この 遠 征 について 異 議 を 唱 えないこと,いかなる 内 通 も 行 わないこと,この 遠 征 を 信 義 をもって 遂 行 し, 敵 対 者 たちと 戦 うことを かれら ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] はかれ イジャスラフ [D112:I] に 答 えて 言 った いったい,われらが 十 字 架 接 吻 して 誓 ったこと は 無 意 味 だとでもいうのか われら 二 人 は,そなたへ 宣 誓 の 十 字 架 接 吻 をしたではないか われらに,いかなる 過 ちが あるというのか こうして,かれらははぐらかして, 十 字 架 接 吻 を 免 れようとしていた イジャスラフ ムスチスラフヴィチ [D112:I] が 派 遣 した 使 者 の 一 人 108) が 言 った 味 方 であ ることを 十 字 架 接 吻 で 誓 う ことに,いかなる 悪 しきことがあろうか 346 これは,われ ら 自 身 を 救 うことになるのだから しかし,かれらは,はぐらかすばかりだった さて,イジャスラフ [D112:I] は,この 使 者 に 対 して かれらが 味 方 であること を 誓 う 十 字 架 接 吻 をしようとしないのなら,かれらに,わしから 聞 いた 次 の 言 葉 を 伝 えよ とあら かじめ 言 い 含 めていたのだった そこでイジャスラフ [D112:I] の 使 者 はかれらに 言 った そ なたたちが 十 字 架 接 吻 の 誓 い を 守 っているかどうかについては, 兄 弟 たちよ,わしはそな たたちに 打 ち 明 けよう もう,わしの 耳 に 届 いているのだ,そなたたちがわしを 欺 こうとして 104) このときユーリイ [D17] がダヴィドの 二 人 の 息 子 たちに 十 字 架 接 吻 をしたことは,のちのイジャス ラフ [C35] の 言 葉 からも 分 かる( 本 稿 注 263 を 参 照 ) なお,ここでは 使 者 を 通 じて 十 字 架 接 吻 の 儀 礼 を 行 うために, 十 字 架 を 持 参 したと 考 えられる 105) これはキエフに 帰 ったのではなく,ルソチナ で 自 分 の 部 隊 に 張 らせた 本 営 へ 戻 ったということ 以 下 の 記 述 にみるように,イジャスラフ [D112:I] は 状 況 の 急 変 を 受 けて,この 本 営 から 各 地 へ 使 者 を 遣 り, 最 終 的 にはキエフ 人 を 動 員 して,ここからダヴィドの 子 たちを 討 伐 するチェルニゴフへの 遠 征 に 出 発 し ている 106) 1146 年 の 末 ~ 1147 年 初 めに,キエフ 大 公 イジャスラフ [D112:I] が 自 ら 遠 征 して,ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] の 二 人 を 支 援 し,スヴャトスラフ [C43] をコラチェフから 追 い 払 い,ヴャ ティチの 地 を 一 時 制 圧 したときに 結 んだ 約 束 ( 協 定 )が 踏 まえられている ( 本 稿 335 頁 参 照 )そこで イジャスラフ [D112:I] は, 二 人 の 父 の 地 であるヴャティチの 地 とノヴゴロド セヴェルスキイは 領 地 としてかれらに 渡 し, 前 大 公 のイーゴリが 持 っていた 動 産 ( 奴 隷 や 物 資 )だけを 戦 利 品 として,キ エフに 帰 還 している 107) 再 度, 十 字 架 接 吻 によって 誓 うということ 108) マホヴェツによれば,この 使 者 こそが,イジャスラフ 大 公 の 側 近 のキエフ 貴 族 ピョートル ボリス ラヴィチだという [Літопис руський, 1989: С. 210 прим. 16] - 347 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 いることを そなたたちは,スヴャトスラフ オリゴヴィチ [C43] に 十 字 架 接 吻 を 行 って,こ の 遠 征 の 途 上 でわしを 捕 らえるか,イーゴリの 代 わりにわしを 殺 すことを 誓 った ことを 兄 弟 たちよ,そうだろう,それともそうでないのか かれら ウラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] はなにも 答 えることができなかった ただ, 互 いを 見 交 わして, 長 い 間 黙 っていた それから,ウラジーミル [C34] はイジャスラフ [D112:I] の 使 者 に 言 った ここから 出 て 行 け,しばらく 待 っておれ そなたを 再 びここへ 呼 び 戻 すから こうしてかれらは 長 い 間 評 議 した なぜならば, 策 略 が 露 見 したからである かれらは 再 び 使 者 を 呼 び 出 すと イジャスラフ [D112:I] に 宛 てて こう 言 った 兄 弟 よ,われら 二 人 は, 確 かに スヴャトスラフ オリゴヴィチ [C43] へ その 味 方 とな ることを 誓 う 十 字 架 接 吻 をした われらは,そなたがわれらの 兄 弟 イーゴリ [C42] を 拘 束 し ていることが 無 念 だったからである だが,かれ イーゴリ [C42] はすでに 修 道 士 であり, スヒマの 戒 律 を 受 けてさえいるではないか われらの 兄 弟 イーゴリ [C42] を 解 放 せよ そ うすれば,われらはそなた の 配 下 として 馬 を 連 ねよう 109) 兄 弟 よ,われらがそなたの 兄 弟 イーゴリ [C42] を 預 かっていたほうが,そなたにとっても 好 ましいのではないか こうしてイジャスラフ [D112:I] の 使 者 は イジャスラフのもとに 戻 った 使 者 は, 二 人 ウ ラジーミル [C34] とイジャスラフ [C35] がかれ イジャスラフ [D112:I] を 裏 切 ったことを, イジャスラフ [D112:I] に 伝 えた イジャスラフ [D112:I] は 再 び 自 分 の 使 者 に 十 字 架 接 吻 文 書 110) を 持 たせて,かれら ウラジー ミル [C34] とイジャスラフ [C35] のもとに 派 遣 して,かれらにこう 言 った そなたたちはわ しに, 生 涯 の 同 盟 を 誓 った 十 字 架 接 吻 をしたのではなかったか だから,わしはそなた たちに,スヴャトスラフ [C43] とイーゴリ [C42] の 領 地 を 与 えたのである わしはそなたたち 二 人 とともに,スヴャトスラフ [C43] を 347 追 い 払 い, 領 地 をそなたたちのために 獲 得 し, ノヴゴロド セヴェルスキイ とプチヴリをそなたたちに 与 えた われらは かれ スヴャ トスラフ [C43] の 資 産 を 奪 い 獲 り,かれの 財 産 を 分 けた また,イーゴリの 財 産 はわしが 獲 っ た それが 見 よ, 兄 弟 たちよ,そなたたち 二 人 はこの 十 字 架 の 誓 約 に 違 反 した そして, わしを 欺 いて 呼 び 寄 せ, 殺 そうとした どうか, 神 とわしに 与 えたように, 神 と 生 命 を 与 える 十 字 架 がわしとともに 在 りますように こう 言 って,かれらに 対 して 十 字 架 接 吻 文 書 を 破 棄 109) そなたの 配 下 として 馬 を 連 ねる (подлѣ тебе ѣздити) は 年 代 記 に 公 の 言 葉 として 何 回 か 出 現 する, 相 手 への 服 従 をあらわす 儀 礼 的 な 定 型 句 110) ここでは,イジャスラフ [D112:I] が 二 人 のダヴィドの 子 たちに 与 えた 誓 約 文 書 を 指 しているのだろ う - 348 349 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) した 111) その 時,イジャスラフ [D112:I] は 自 分 の 使 者 を,スモレンスクの 自 分 の 弟 ロスチスラフ [D116:J] のもとへと 派 遣 して,こう 言 った 弟 よ 見 よ, 先 に ウラジーミル ダヴィドヴィ チ [C34] とイジャスラフ ダヴィドヴィチ [C35] が,われら 二 人 に 対 して 十 字 架 接 吻 を 行 い, われら 二 人 と 協 同 して,われらの 叔 父 ユーリイ [D17] を 討 伐 する 相 談 をして われらは 合 意 した ところが,かれらはわしを 欺 いてわしを 殺 そうとしたのだ しかし, 神 と 十 字 架 の 力 が 顕 れた 弟 よ,われらが 叔 父 を 討 伐 するために 行 くと 取 り 決 めた 場 所 112) に,もはや 行 っ てはならない その 代 わりにわしのもとへ,こちらへ 来 い そちらでは,ノヴゴロド 人 とスモ レンスク 人 たちに 命 じて,ユーリイ [D17] の 動 きを 抑 えさせよ 113) そしてまた,そなたが 同 盟 の 誓 いを 立 てた 者 たち 114) のもとへ,またリャザン 115) など 各 地 へ 使 者 を 派 遣 せよ またその 時,イジャスラフ [D112:I] は,キエフの 自 分 の 弟 ウラジーミル [D115] に 向 けて 使 者 を 派 遣 した 116) イジャスラフ [D112:I] は,かれをキエフへ 残 していたからである また, 府 主 教 クリムと 千 人 長 ラザリ 117) (Лазорь) にも 使 者 を 派 遣 した そして イジャスラフ [D112:I] は かれら 三 人 にこう 言 った 348 聖 ソフィア 教 会 の 屋 敷 のところにキエフ 人 を 呼 び 集 めよ わしの 使 者 が,わしの 言 葉 をキエフ 人 たちに 話 すことができるように かれはチェ ルニゴフの 諸 公 の 欺 瞞 について 証 言 するだろう キエフ 人 たちは, 身 分 の 低 い 者 から 高 い 者 までみな, 聖 ソフィア 教 会 の 屋 敷 の 前 に 集 ま 111) 十 字 架 接 吻 文 書 (крестная грамота) 破 棄 については,6652 1144 年 の 項 にウラジミルコ [A121] がフセヴォロド [C41] に 対 して 発 した 十 字 架 接 吻 文 書 を 破 棄 したという 記 録 がある 112) イジャスラフ [D112:I] が 指 揮 する 遠 征 軍 とロスチスラフ [D116:J] の 部 隊 が 合 流 する 手 はずになっ ていた 地 点 スモレンスク 公 領 とロストフ=スーズダリ 公 領 の 国 境 のあたりだったと 考 えられる 113) イジャスラフ [D112:I] は,ユーリイ [D17] がチェルニゴフの 諸 公 の 側 について 援 軍 を 出 すことを 恐 れて,その 動 きの 牽 制 を 要 請 したのである 114) 同 盟 の 誓 いを 立 てた 者 たち (ротники) とは,キエフ 大 公 イジャスラフ [D112:I] が 指 揮 をとっ てのユーリイ [D17] 討 伐 の 大 遠 征 に 参 加 することを,ロスチスラフ [D116:J] に 誓 っていた 者 たち を 指 す ротник が 非 キリスト 教 的 な 語 彙 であることから, 特 にポロヴェツ 人 の 同 盟 者 を 指 している 可 能 性 が 高 い いずれにせよ,このような 者 たちに, 状 況 が 変 わって 遠 征 は 行 われなくなったことを 伝 え る 使 者 を 派 遣 せよということであろう 115) 当 時,リャザンは,ユーリイ [D17] の 二 人 の 息 子 ロスチスラフ [D171] とアンドレイ [D173] の 勢 力 下 に 置 かれていた ロスチスラフ [D116:J] がそこへ 使 者 を 遣 って, 状 況 の 変 化 を 説 明 するというこ とだろう 116) ここは 単 数 の 使 者 (посолъ) となっているが, ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では 二 人 の 家 臣 ドブルィンコとラヂロ (2 мужа, Добрынку и Радила) を 派 遣 したと, 使 者 の 名 が 明 記 されている 117) 1142 年 の 記 事 に 言 及 されているキエフの 千 人 長 (тысяцкий),ラザリ サコフスキイ (Лазорь Саковьский) のこと [ イパーチイ 年 代 記 (2):326 頁, 注 233] も 参 照 - 349 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 り, 民 会 を 開 いた そして,かれらに 向 かって,イジャスラフの 使 者 が 言 った そなたたち に, 自 らの 公 が 接 吻 の 挨 拶 を 送 る 先 に,わしはそなたたちに 言 明 した わしは,わが 兄 弟 た ちのロスチスラフ [D116:J],ウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34],イジャスラフ ダヴィドヴィ チ [C35] と 相 談 して, 自 分 の 叔 父 ユーリイ [D17] を 討 つために 行 軍 することにしたと そして, わしとともに 遠 征 に 行 くよう,そなたたちに 呼 びかけた すると,そなたたちはわしに 言 った ウラジーミル モノマフ [D1] の 一 族 であるユーリイ [D17] に 手 を 上 げることはできないが, オレーグの 一 族 を 討 伐 するのならば, 郎 党 を 引 き 連 れて 一 緒 に 遠 征 に 行 ってもよいと い ま,わしはそなたたちに 次 のように 言 明 する ウラジーミル ダヴィドヴィチ [C34],イジャ スラフ ダヴィドヴィチ [C35],さらにスヴャトスラフ フセヴォロドヴィチ [C411:G](この 者 にわしは 多 くの 善 行 を 施 してきたのだが)は,わしに 誓 いの 十 字 架 接 吻 をなした とこ ろが, 今 ではかれらは,わしに 隠 れて,スヴャトスラフ オリゴヴィチ [C43] に 同 盟 を 誓 う 十 字 架 接 吻 を 行 い,ユーリイ [D17] に 使 者 を 遣 り,わしを 欺 いて,わしを 捕 まえるか,イーゴ リ [C42] のゆえにわしを 殺 そうとしているのだ しかし 神 はわしを 護 り,また,かれらがわし への 誓 いを 行 った かの 十 字 架 もわしを 護 ってくれた キエフの 兄 弟 たちよ, 先 にそなたた ちが 望 んだこと,わしに 約 束 してくれたことを, 今 まさに 為 すがよい わしの 後 について, チェルニゴフのオレーグの 一 族 を 討 伐 に 行 くのだ 身 分 の 低 い 者 から 349 高 い 者 まで 馬 を 持 つ 者 は 馬 で, 持 たない 者 は 舟 で もはや,かれらは,わし 一 人 を 殺 そうとしているのでは なく,そなたたちを 根 絶 やしにしようとしているのだから キエフ 人 たちは 言 った 神 が,われらの 公 の 兄 弟 の 118) 大 いなる 欺 瞞 から,あなたを 救 い 出 したことは,われらにとって 喜 ばしいことです あなたが 望 むように,われらは 郎 党 を 引 き 連 れて,あなたのあとから 行 きましょう すると 一 人 の 男 がこう 言 った われらは 自 分 たちの 公 のためであれば 喜 んで 行 こう だが, 先 ずわれらは, 次 のことを 思 慮 しようではないか かつて,イジャスラフ ヤロスラヴィチ [B] の 時 代 に,かの 悪 党 どもが 牢 屋 を 破 壊 してフセスラフ [0811:L] を 解 放 し, 自 分 たちの 公 に 据 え 118) 原 文 は братью нашю と 双 数 生 格 形 をとっており,チェルニゴフにいるウラジーミル [C34] とイジ ャスラフ [C35] の 二 人 のダヴィドの 息 子 を 指 している наш の 形 容 語 はここでは われらの 公 (すぐ 下 にもイジャスラフ [D112:I] を 指 して 用 いられている)の 意 味 で 用 いられている - 350 351 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) て,そのことによってわれらの 城 市 に 多 くの 悪 事 をなしたことを 119) かのイーゴリ [C42] は, われらの 公 イジャスラフ [D112:I] の 敵 である ところが われらの 敵 は 牢 屋 にでは なく, 聖 テオドロス 修 道 院 にいるではないか かれを 殺 してから, 自 分 たちの 公 のためにチェ ルニゴフへ 進 軍 しよう そして,かれら チェルニゴフ 諸 公 と 決 着 をつけようではないか これを 聞 いた 民 衆 は,その 場 からイーゴリ [C42] のいる 聖 テオドロス 修 道 院 へと 向 かい 始 めた ウラジーミル [D115] はかれらに 言 った わが 兄 イジャスラフ [D112:I] は,そんなこと をそなたたちに 命 じていない イーゴリ [C42] のことは 衛 視 が 見 張 っている われらは 兄 が 命 じたとおり, 出 発 しようではないか すると,キエフ 人 たちが 言 った 120) あなたたち 兄 弟 にとっても,われらにとっても, もし 温 情 をかければ,この 一 族 にとって 結 局 うまく 決 着 す ることができなかったことは 121),われらの 知 るところではないですか 122) 府 主 教 はかれら キエフ 人 たち を 制 止 した 千 人 長 ラザリも,ウラジーミル [D115] の 千 人 長 ラグイロ 123) (Рагуйло) も,なんとかイーゴリ [C42] が 殺 されないようにと 制 止 した しかし, かれら キエフ 人 たち はわめき 声 を 上 げ,イーゴリ [C42] を 殺 害 するために 出 発 した ウラ ジーミル [D115] はそのあとを 馬 で 追 いかけた 民 衆 は 橋 124) を 渡 っていた かれ ウラジーミル はかれらの 傍 らを 馬 で 通 りぬけることができず, 馬 を 右 に 向 けて,グレーブの 屋 敷 の 傍 らを 進 119) 原 初 年 代 記 6576(1068) 年 の 記 事 にある,ポロヴェツ 人 に 敗 北 したイジャスラフ [B] から 離 反 した, キエフ 人 の 暴 動 によるフセスラフ [0811:L] の 解 放 と,かれの 大 公 就 位,キエフ 公 館 の 掠 奪,イジャス ラフ [B] のポーランド 亡 命 などの 一 連 の 事 件 を 指 している なお, ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では,イーゴリ [C42] を 80 年 前 のフセスラフと 結 びつけて 語 る 一 人 の 男 についてのエピソードはなく,キエフ 人 たちはイーゴリを われらの 敵 とみなし て 殺 そうとしたと 単 純 に 書 かれている 現 代 の 事 件 を 過 去 の 事 件 と 結 びつけ( 動 機 付 け)るのは 年 代 記 記 者 の 常 套 手 段 であることから 見 て,このエピソードは 年 代 記 記 者 による 創 作 である 可 能 性 が 高 い ([Фроянов 2012: С. 239] も 参 照 ) 120) ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 ではこの 個 所 に, われらはあなたの 兄 がそんなことは 言 ってい ない, 命 令 していないといのは 承 知 の 上 だ しかし,イーゴリを 殺 そうと 願 っているのはわれらなのだ というキエフ 人 の 言 葉 が 見 える 121) この 一 族 (племя) は 年 代 記 におけるこの 言 葉 の 用 法 から 見 て モノマフ 一 族 を 指 している 1139 年 から 1146 年 までのキエフにおける オレーグ 一 族 支 配 に 不 満 を 募 らせてきたキエフ 人 の 気 持 ちを 代 弁 した 言 葉 だろう 122) 1068 年 の 暴 動 以 来,キエフではフセスラフ [0811:L],イジャスラフ [B],スヴャトスラフ [C] と 次 々 と 大 公 が 代 わり,ウラジーミル モノマフ [D1] の 父 フセヴォロド [D] がキエフの 大 公 に 就 いたのはよ うやく 1079 年 のことであった そのことを 指 しているが,これも 年 代 記 記 者 の 創 作 だろう 123)ラグイロは, 当 時 ウラジーミル [D115] に 勤 務 していたキエフ 在 地 の 千 人 長 1169 年 の 記 事 にもそ の 名 があることから, 当 時 はまだ 若 かったと 考 えられる 124)キエフの, 聖 ソフィア 聖 堂 があるヤロスラフ 区 とテオドロス 修 道 院 のあるウラジーミル 区 をつなぐ 門 (ソフィア 門 )の 前 の 壕 に 掛 けられた 橋 のこと - 351 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 んだ 125) キエフ 人 たちはウラジーミル [D115] の 前 方 で 歩 みを 速 めた 350 イーゴリ [C42] はこれを 聞 き 付 けると, 聖 テオドロス 教 会 へと 向 かった 悲 しみに 打 ちのめ された 恭 順 の 思 いで, 心 底 より 息 をつき, 涙 を 流 して,ヨブ 126) の 身 に 起 きたすべてのことを 想 いながら, 自 らの 心 の 中 で 次 のように 思 慮 した このような 受 難 と 様 々な 死 が 義 人 たちを 見 舞 ってきたのだ それは,あたかも 聖 なる 預 言 者, 使 徒, 殉 教 者 たちが 受 難 の 冠 を 受 け, 主 に 倣 っておのれの 血 を 流 したのと 同 じである また, 聖 なる 殉 教 司 祭, 修 道 聖 人 の 師 父 たちが, 多 くの 悲 惨, 激 しい 苦 痛, 様 々な 死 を 受 けたこと, 炉 にかけられた 黄 金 のごとく 悪 魔 の 惑 わし を 受 けたことと 同 じである 主 よ,これらの 方 々の 祈 りによって, 右 手 の 羊 たちとともに, 汝 の 選 ばれた 群 れの 中 にわたしをお 加 え 下 さい また, 義 しき 信 仰 の 聖 なる 諸 帝 が 自 らの 血 を 流 し, 自 らの 民 のために 苦 しみを 受 けたと 同 じように さらに,われらが 主 なるイエス キリス トよ, 尊 き 血 によって 悪 魔 の 欺 瞞 からこの 世 を 贖 い 給 え このように 唱 えて 自 らを 慰 め, 再 び 次 のように 言 った 主 よ,どうかわれの 無 力 なること を 見 給 え,わが 恭 順 なること, 今 われを 捕 らえているひどい 悲 しみと 嘆 きを 見 給 え われは 汝 を 恃 んで 堪 え 忍 びます 救 世 主 よ, 汝 が われを 信 じる 者 は 死 すとも 永 遠 に 生 きる 127) と 言 っ たのですから 主 よ, 汝 がわが 魂 を 慎 ませることに,すべて 感 謝 をいたします この 暗 く,む なしく,はかない 世 から 別 の 世 界 へ 移 ることをお 助 け 下 さい 汝 の 王 国 にあっては,われ を, 汝 に 適 うすべての 義 人 たちとともに 351, 汝 の 朽 ちることなき, 言 葉 にならぬ 至 福 に 与 る 者 となし 給 え, 主 よ もし 今,わが 血 が 流 されるならば,われは,わが 主 のための 殉 教 者 に なるでありましょう かれら キエフ 人 たち は, 凶 暴 な 獣 のように,かれ イーゴリ [C42] に 襲 いかかり,い つものように 聖 テオドロス 教 会 で 聖 体 礼 儀 を 奉 じていたとき 128),かれに 掴 みかかって,その 修 道 衣 を 剥 ぎ 取 った かれはかれらに 言 った おお, 無 法 者 よ, 敵 悪 魔 どもよ,キリス トのあらゆる 義 を 貶 める 者 どもよ なぜ, 盗 賊 のように,われを 殺 そうとするのか そなたた 125) グレーブの 屋 敷 (Глѣбов двор) は,キエフの 千 人 長 ウレブ (Улѣб) が 城 内 に 持 っていた 屋 敷 のこ と([ イパーチイ 年 代 記 (2)] の 注 334 を 参 照 ) ウラジーミル [D115] は 民 衆 の 大 群 にせき 止 められ, 馬 でウラジーミル 区 に 直 接 入 ることができなかったため, 東 側 のイジャスラフ=スヴャトポルク 区 を 経 由 して, 迂 回 するかたちでウラジーミル 区 へ 向 かったのである 126) ヨブ は 旧 約 聖 書 ヨブ 記 の 主 人 公 で, 忍 耐, 神 への 献 身, 謙 譲 を 体 現 した 人 物 として 当 時 の 文 献 では 言 及 されている なお, 心 底 より 息 をつき( ) 思 慮 した の 文 言 は イパーチイ 年 代 記 1175 年 のアンドレイ 敬 神 公 [D173] 謀 殺 の 記 事 の 中 でも 反 復 されている 127) ヨハネ 福 音 書 6:47,11:25 などからの 引 用 128)この 場 面 で,イーゴリ [C42] が 死 を 前 に 祈 っていた 聖 母 イコンについての 伝 承 があり, 胸 像 のエ レウサ 型 聖 母 子 像 が イーゴリの 聖 母 (Игоревская икона Божей Матери) として 伝 わっている [Грушевський Т. 2: С. 156, прим. 2][Святая русь Т.1: С. 549-550] - 352 353 -

イパーチイ 年 代 記 翻 訳 と 注 釈 (3) キエフ 年 代 記 集 成 (1146 ~ 1149 年 ) ちはわしに 十 字 架 接 吻 をして,わしを 自 分 たちの 公 とすると 言 ったではないか 129) そのこと については,わしはこれまで 口 にしたことはなかった なぜなら, 神 の 助 けによりわしは 修 道 士 の 位 を 受 けたのだから 群 衆 の 中 の 狡 猾 で 不 敬 な 者 どもは,ますます 声 を 張 りあげて 言 った 叩 き 殺 せ, 叩 き 殺 せ そして,かれの 上 衣 を 剥 ぎ 取 った かれは, 大 きな 声 で 言 った おお, 呪 われた 者 どもよ 自 分 のやっていることを 知 らないのだ これは, 無 知 ゆえにやっているのだ わが 身 体 を 裸 の まま 放 り 出 すがよかろう わしは 裸 でわが 母 の 胎 から 来 たのだから, 裸 でそこへ 帰 ろう 130) このように 言 っているかれを, 人 々は 捕 まえて, 修 道 院 から 連 れ 出 した ウラジーミル [D115] は 修 道 院 の 門 のところでかれに 遭 遇 した イーゴリ [C42] はかれを 見 て ああ, 兄 弟 よ, わしはどこへ 連 れて 行 かれるのか と 言 った ウラジーミル [D115] は 馬 から 飛 び 降 りると, 馬 の 上 掛 けでかれ イーゴリ を 覆 って,キエフ 人 たちに 向 かって 言 った わが 兄 弟 たちよ, 352 そのような 悪 行 をなすな,イーゴリ [C42] を 殺 すな そして,ウラジーミル [D115] はかれ イー ゴリ を, 自 分 の 母 131) の 屋 敷 132) の 門 のところまで 連 れて 行 った しかし,その 場 で 人 々は イー ゴリ [C42] を 殴 打 し 始 め,イーゴリ [C42] を 打 ちながら,ウラジーミル [D115] をも 殴 っていた ミハイル 133) はこれを 見 て 馬 から 飛 び 降 り,ウラジーミル [D115] に 加 勢 をしようとした ウラ ジーミル [D115] は,イーゴリ [C42] を 防 御 しながら,イーゴリを 自 分 の 母 親 の 屋 敷 の 中 に 引 っ 張 り 込 んで, 門 扉 を 閉 めた 134) 人 々は ミハイルを 打 ち,かれが 身 に 付 けていた 十 字 架 を 鎖 ごともぎ 取 り,かれが 持 って いた 黄 金 のグリヴナ 金 貨 も 奪 った 大 勢 が 総 掛 かりでイーゴリを 殴 っていたので,ウラジーミ ル ムスチスラヴィチ [D115] はこれを 馬 で 蹴 散 らし, 馬 から 飛 び 降 りると,イーゴリ [C42] 129) キエフ 公 フセヴォロド [C41] の 死 の 直 後,1146 年 8 月 にキエフ 人 がイーゴリに 対 してなした 忠 誠 の 誓 いを 指 している [ イパーチイ 年 代 記 (2):340 頁 ] 130) 群 衆 の 言 葉 と 上 衣 を 剥 ぎ 取 る は, 福 音 書 のキリスト 磔 刑 エピソードをふまえている わし は 裸 からここまでの 文 言 は, 旧 約 ヨブ 記 1:21 からの 引 用 131) ウラジーミル [D115] の 母 は,かれの 父 ムスチスラフ [D11] が 1122 年 に 後 妻 として 迎 えたノヴゴロ ド 市 長 官 ドミートリイの 娘 1155 年 の 記 事 でウラジーミル [D115] は 継 母 の 子 (мачешич) と 呼 ば れていることからみて,かれと 母 親 とは 特 別 な 強 いつながりを 持 っていたことが 推 定 される [ イパー チイ 年 代 記 (2): 注 30] を 参 照 132) 以 下 に 示 される ムスチスラフの 館 (дворъ Мстиславль) を 指 している 本 稿 注 135 参 照 133) 1169 年 の 記 事 にウラジーミル [D115] の 家 臣 (муж) として, 千 人 長 のラグイロと 並 んでミハル (Михал) という 人 物 が 言 及 されており, 同 一 人 物 と 推 定 される ウラジーミル [D115] 配 下 の 在 地 貴 族 だったのだろう 134) ラヴレンチイ 年 代 記 の 並 行 記 事 では,この 個 所 に そしてイーゴリを 内 壁 の 上 に 入 れた 隠 した (Игоря пусти на Кожюховы сѣни) と 追 加 的 な 文 言 があり,さらに 民 衆 はウラジーミルの 母 親 の 館 に 侵 入 して, 内 壁 からイーゴリを 引 きずり 出 して 殺 害 している - 353 -

富 山 大 学 人 文 学 部 紀 要 の 上 に 覆 い 被 さった さて,イーゴリ [C42] は 立 ち 上 がり,ムスチスラフ [D11] の 屋 敷 135) へ 入 った さて, 人 々は, ウラジーミル [D115] を 捕 まえ,イーゴリ [C42] を 助 けたこと ゆえに,かれを 殺 そうとした さて, 群 衆 のうち 取 り 囲 んでいた 者 たちが,イーゴリ が 屋 敷 に 入 ったのを 見 て,ムスチス ラフの 屋 敷 へ 殺 到 した さて, 群 衆 が 移 動 して, 屋 敷 の 門 扉 を 破 壊 し, イーゴリ を 打 ち 始 めた イーゴリ [C42] は 打 たれながら 言 った 主 宰 よ わが 霊 魂 を 汝 の 手 に 引 き 渡 します わが 魂 を 汝 の 世 界 にお 引 き 取 り 下 さい 無 法 者 どもは 容 赦 なくかれを 打 ち,その 身 体 を 完 全 に 裸 にして 放 り 出 し, 両 足 を 縄 で 縛 ると 引 き 摺 りはじめた そして,まだ 生 きているかれに 向 かって, 王 たる 神 聖 な 身 体 に 向 かって 罵 りながら,ムスチスラフの 屋 敷 から 353 バーバ 市 場 (Бабин торжек) を 経 て, 公 の 館 (Княжь двор) 136) まで 身 体 を 引 き 摺 って 行 った そして,その 場 でかれの 命 を 絶 った さて,このようにして,オレーグ [C4] の 息 子 であるイーゴリ 公 [C42] は 殺 されたのである 自 分 の 父 の 国 の 善 き 護 り 手 であったかれは, 神 の 手 にその 霊 魂 を 引 き 渡 した かれは 朽 ちる べき 人 間 の 衣 を 脱 ぎ 捨 て, 朽 ちることない,キリストの 大 いなる 受 難 の 衣 をまとい, 苦 しみを 受 けて,キリストによって, 朽 ちることのない 冠 を 戴 冠 されたのだった こうして,9 月 19 日 金 曜 日 に 神 のもとへと 身 まかった その 場 所 からかれ の 遺 体 は 荷 車 に 載 せられて,ポドリエ 地 区 の 市 場 へと 運 ばれ, 無 法 者 たち, 分 別 のない 者 たち, 両 目 が 盲 いた 者 たちがかれ の 遺 体 を 侮 辱 した かれらは, 復 讐 する 者 は 神 であり, 神 は 無 辜 の 者 の 血 を 贖 うことを 知 っていたにもかかわらず また, 信 心 深 い 人 々がやって 来 て,かれの 血 を 取 り,またかれが 身 に 付 けていた 下 着 の 一 部 を 取 った これ は, 自 らの 救 いのためであり, 病 の 治 癒 のためであった それから,かれの 裸 の 身 体 を 自 分 た ちの 衣 服 で 覆 った 遺 体 が 市 場 で 放 置 されたことについてウラジーミル [D115] に 報 告 があった そこに 千 人 長 が 派 遣 された かれは 馬 でやって 来 て,イーゴリ [C42] が 殺 されて 放 置 されているのを 見 て, こう 言 った 見 よ,すでにお 前 たちはイーゴリ [C42] を 殺 してしまった かれの 遺 体 を 葬 ろう キエフ 人 たちは 言 った かれを 殺 したのはわれわれではありません オレーグの 息 子 スヴャ 135) ムスチスラフの 館 (дворъ Мстиславль) は,ウラジーミル [D115] の 自 分 の 母 の 館 と 同 じ ウラジーミルの 母 はムスチスラフの 死 後 も 夫 の 館 に 住 み 続 けていたのだろう 本 稿 注 132 参 照 136) ムスチスラフの 館 バーバ 市 場 公 の 館 はキエフのウラジーミル 区 のテオドロス 修 道 院 から 道 を 挟 んだ 北 西 側 に 隣 接 していた なお, ラヴレンチイ 年 代 記 では バーバ 市 場 を 経 て 聖 なる 聖 母 教 会 まで,すなわち, 十 分 の 一 税 聖 母 教 会 (Десятинная Богородичина церковь) までイーゴリの 体 を 引 き 摺 っていったことになっている - 354 355 -