(九州ドイツ)26号-ヨコ組.indb



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Transcription:

57 近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 美 術 雑 誌 と 恩 地 孝 四 郎 野 村 優 子 序 明 治 維 新 以 後 近 代 化 を 目 指 す 日 本 は 積 極 的 に 西 洋 の 技 術 や 知 識 を 摂 取 した 美 術 方 面 においても 同 様 の 努 力 がなされ 日 本 近 代 洋 画 の 発 展 はヨーロッパの 影 響 下 に 置 かれてい る 明 治 大 正 期 に 生 じた 西 洋 美 術 受 容 の 問 題 はこれまでも 盛 んに 論 じられてきた しか し それらは 画 家 の 多 くが 学 んだフランス 絵 画 を 中 心 に 語 られることが 多 く 他 の 国 が 問 題 となることは 少 ない そこで 本 稿 では 近 代 日 本 と 最 も 親 密 な 関 係 にあったドイツを 取 り 上 げ 日 本 の 西 洋 美 術 受 容 の 多 様 性 を 示 すとともに これまであまり 問 題 視 されなかった 日 独 美 術 交 流 について 考 察 を 行 う 近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 は 日 本 とドイツが 敵 国 となった 第 一 次 世 界 大 戦 を 境 として 二 期 に 分 かれる ドイツのイラスト 雑 誌 パン ユーゲント などが 日 本 出 版 界 に 刺 激 を 与 え 木 版 画 復 興 の 契 機 となったのが 第 一 期 であり 国 交 回 復 後 新 たにもたらされた ベルリン ダダやバウハウスの 影 響 が 見 られるのが 第 二 期 である 本 論 が 主 たる 考 察 対 象 とする 第 一 期 には ユーゲントシュティールとドイツ 表 現 主 義 が 日 本 へと 移 入 された 論 を 進 めるにあたり 導 入 として 近 代 日 本 とドイツの 関 わりを 確 認 したあと 受 容 の 舞 台 と なった 美 術 雑 誌 について 考 察 し 最 後 に 第 一 期 ドイツ 美 術 受 容 の 帰 結 として 版 画 家 恩 地 孝 四 郎 (1891-1955)の 例 を 示 したい 近 代 日 本 とドイツ 日 本 が 欧 米 諸 国 と 交 流 を 開 始 した19 世 紀 後 半 明 治 政 府 は 欧 米 から 多 くのお 雇 い 外 国 人 を 招 聘 し 多 方 面 で 指 導 にあたらせた 主 な 官 庁 に 務 めたお 雇 い 外 国 人 の 総 数 を 見 ると イギリス 人 の 登 用 が 際 立 つ しかし 帝 国 大 学 で 教 壇 に 立 つような 知 的 活 動 に 従 事 するお 雇 い 外 国 人 はドイツ 人 が 最 も 多 く お 雇 いドイツ 人 の 半 数 以 上 は 文 部 省 に 所 属 していた 1 ) その 中 でよく 知 られている 者 は 1876 年 より 東 京 医 学 校 で 教 鞭 を 執 った 医 師 エルヴィン フォン べルツ(Erwin von Bälz, 1849-1913) 東 京 帝 大 で 美 学 美 術 史 の 講 義 を 行 った 哲 学 者 ラファエル フォン ケーベル(Raphael von Koeber, 1848-1923) そして 陶 磁 器 分 野 で 功 績 を 残 した 応 用 科 学 者 ゴットフリート ヴァーグナー(Gottfried Wagner, 1831-92)であ る 2 ) 彼 らは 皆 20 年 以 上 日 本 に 滞 在 し 日 本 人 や 日 本 文 化 と 深 く 交 わって 技 術 や 知 識 だけ でなく 精 神 的 な 教 えも 与 えた

58 野 村 優 子 美 学 美 術 史 を 教 えたケーベルはもちろん ベルツやヴァーグナーの 日 本 美 術 に 対 する 寄 与 も 看 過 できない ベルツは 明 治 天 皇 の 侍 医 に 任 命 されるほど 高 名 な 医 師 だったばかりで なく 約 6000 点 にのぼる 日 本 美 術 工 芸 品 を 集 める 収 集 家 でもあった 帰 国 後 シュ トゥットガルトの 旧 産 業 博 物 館 で 日 本 美 術 展 覧 会 を 開 催 し 多 くの 観 客 を 集 めている 3 ) 一 方 技 術 者 として 来 日 したヴァーグナーは 日 本 政 府 が1873 年 開 催 のウィーン 万 国 博 覧 会 正 式 参 加 を 決 めると 技 術 顧 問 に 就 任 し 工 業 が 未 発 達 な 日 本 は 美 術 工 芸 品 を 用 いて 世 界 にアピールとするのが 良 いと 提 言 して 日 本 の 万 博 デビューを 成 功 に 導 いた 明 治 期 の 日 独 美 術 交 流 を 見 ると 日 本 文 化 および 日 本 美 術 紹 介 者 としてのドイツ 人 の 姿 が 浮 かび 上 が る ベルツの 他 にも ベルリン 東 洋 美 術 館 のためにコレクションを 作 り 上 げたオットー キュンメル(Otto Kümmel, 1874-1952) ドイツ 一 の 東 洋 美 術 専 門 家 エルンスト グロッセ (Ernst Grosse, 1862-1927) ハンブルク 美 術 工 芸 博 物 館 の 創 立 者 ユストゥス ブリンクマン (Justus Brinckmann, 1843-1915)など 日 本 美 術 擁 護 者 として 知 られるドイツ 人 は 多 い こう した 彼 らの 活 躍 もあり 1890 年 代 ドイツにもようやくジャポニスムが 到 来 する 版 画 家 エーミール オルリーク(Emil Orlik, 1870-1932)は フランスから 来 るジャポニスム 版 画 に 刺 激 を 受 け 日 本 で 浮 世 絵 を 学 ぶことを 決 意 した 東 京 で 絵 師 彫 師 摺 師 に 師 事 し 木 版 技 法 を 習 得 して それをドイツへと 伝 えている 後 に 彼 の 弟 子 となるフリッツ ルンプ フ(Fritz Rumpf, 1888-1949)も1908 年 に 来 日 し 木 版 彫 刻 を 学 んだ この 頃 にはすでに 美 術 雑 誌 や 輸 入 書 物 を 通 じ 西 洋 美 術 の 動 向 は 日 本 でも 掴 めるようになってはいたものの オ ルリークやルンプフら 現 役 画 家 の 来 訪 は 同 時 代 美 術 の 感 触 を 直 に 伝 えたことであろう 明 治 政 府 にとって 近 代 化 とは 西 洋 化 を 意 味 した そのためには 西 洋 の 知 識 を 輸 入 しなければならない そこで 緊 急 策 としてお 雇 い 外 国 人 が 招 聘 された しかし 政 府 の 最 終 目 標 は 日 本 人 独 自 の 力 で 成 り 立 つ 教 育 システムの 確 立 にあり 日 本 人 指 導 者 を 育 てるた め 文 部 省 留 学 生 として 留 学 を 制 度 化 し 第 二 次 世 界 大 戦 で 中 断 されるまでに 約 3200 人 を 国 外 へと 派 遣 した 4 ) 先 進 国 を 中 心 になされた 留 学 が1880 年 以 降 ドイツに 集 中 するのは 明 治 十 四 年 の 政 変 5 ) における 国 策 の 路 線 変 更 が 大 きく 関 係 している 以 後 ドイツ 型 立 憲 国 家 制 を 目 指 し 始 めた 日 本 は 憲 法 政 治 行 政 はもとより 教 育 大 学 軍 制 など 全 ての 国 家 体 制 をドイツ 化 し ドイツ 重 視 の 教 育 体 制 を 確 立 した 美 術 に 目 を 向 けると 文 部 省 が 美 術 留 学 生 を 採 用 する 例 は 全 体 の 約 1%と 極 端 に 少 な い 6 ) 美 術 留 学 は 申 請 しても 許 可 されないため 画 家 たちは 私 費 で 留 学 した 早 くは 山 本 芳 翠 や 五 姓 田 義 松 が 渡 仏 し 次 いで 黒 田 清 輝 久 米 桂 一 郎 がパリのラファエル コランの もとで 絵 画 を 学 んだ そして 松 岡 寿 はローマへ 原 田 直 次 郎 はミュンヘンへと 向 かってい る 画 家 の 海 外 留 学 が 始 まる19 世 紀 末 ごろには 留 学 先 にもこのようなばらつきが 見 られる のだが 黒 田 清 輝 らが 帰 朝 し 白 馬 会 の 影 響 力 が 強 まると 美 術 留 学 と 言 えばフランス しかもパリという 風 潮 が 広 まり 日 本 の 芸 術 家 は 官 費 私 費 を 問 わずパリを 目 指 すように なった

近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 59 1910 年 代 美 術 雑 誌 に 見 るドイツ 美 術 移 入 フランスを 中 心 に 語 られる 近 代 美 術 史 の 中 で ドイツ 美 術 は 常 にその 周 縁 として 扱 われ てきた しかし ヨーロッパの 中 心 に 位 置 する 利 便 性 から19 世 紀 末 のドイツ 諸 都 市 には 北 欧 や 東 欧 の 文 化 人 が 集 まり その 中 で 国 際 的 影 響 力 を 持 つユーゲントシュティールやドイ ツ 表 現 主 義 は 誕 生 している その 際 こうした 運 動 の 推 進 力 として 出 版 物 が 大 いに 活 用 さ れた 印 刷 技 術 の 発 達 により 絵 画 の 精 巧 な 複 製 が 可 能 となったため 美 術 を 案 内 する 雑 誌 は 増 え 雑 誌 自 体 も 表 紙 絵 や 挿 絵 で 美 しく 装 飾 され 総 合 芸 術 の 様 相 を 呈 するようになっ てきた ベルリンの パン (1895 年 創 刊 ) ミュンヘンの ユーゲント (1896 年 創 刊 )な どイラストを 売 りにした 美 術 雑 誌 はこの 時 期 多 く 創 刊 されている 美 術 雑 誌 の 流 行 に 伴 い 画 家 たちはタブロー 以 外 に 新 たな 活 躍 の 場 を 見 つけることができた 画 家 の 出 版 界 進 出 に 伴 い 木 版 画 が 再 び 脚 光 を 浴 びる 出 版 物 の 挿 絵 として 最 も 古 典 的 な 技 法 である 木 版 画 は 15 世 紀 末 デューラーの 時 代 に 黄 金 期 を 迎 えたあと 新 技 法 に 取 って 代 わられ 19 世 紀 後 半 には 複 製 のためだけの 手 段 に 成 り 果 てていた そして 写 真 の 発 明 により 存 在 意 義 すら 失 おうとしていた 寸 前 に 日 本 から 浮 世 絵 が 届 き 木 版 画 の 新 しい 可 能 性 が 示 されることと なった 表 現 主 義 の 画 家 たちはジャポニスムの 刺 激 によって 再 生 した 木 版 画 を 積 極 的 に 用 い 独 自 の 表 現 手 段 として 昇 華 させている しかし 本 来 アカデミズムは 油 彩 画 を 上 位 に 置 き 木 版 画 を 含 むグラフィック 分 野 を 工 芸 とともに 低 級 だと 見 なしてきた それは 日 本 美 術 界 も 同 様 で 大 正 ロマンを 代 表 するイラストレーター 竹 久 夢 二 (1884-1934)は 大 衆 には 絶 大 な 人 気 を 誇 りながら 美 術 界 での 評 価 は 著 しく 低 い ユーゲントシュティールや 表 現 主 義 に 代 表 されるドイツ 近 代 美 術 は アカデミーにより 軽 視 されてきたイラストレー ション デザイン 工 芸 分 野 を 得 意 としている 日 本 がドイツ 美 術 に 求 めたのもこうした 正 統 美 術 から 外 れた 領 域 に 属 するものであり 受 容 したのは 白 馬 会 を 中 心 とするアカデ ミー 派 とは 相 容 れない 面 々 すなわち 石 井 柏 亭 や 山 本 鼎 など 雑 誌 方 寸 を 発 刊 した 版 画 家 美 術 と 文 学 の 交 流 の 場 パンの 会 の 人 々 夢 二 のもとに 集 った 青 年 画 家 時 代 の 先 を 行 く 新 しい 表 現 を 求 めた 萬 鐵 五 郎 や 東 郷 青 児 などである ドイツ 近 代 美 術 は 美 術 雑 誌 を 通 じて 日 本 へと 移 入 された 個 性 の 解 放 を 説 き 若 者 を 大 い に 啓 蒙 した 雑 誌 白 樺 の 記 念 すべき 創 刊 号 には 児 島 喜 久 雄 (1887-1950)の 獨 逸 の 繪 畫 に 於 ける Neuidealisten が 掲 載 されている 7 ) 独 逸 新 理 想 派 の 画 家 としてアーノルト ベックリン(Arnold Böcklin, 1827-1901) マックス クリンガー(Max Klinger, 1857-1920) ルートヴィヒ フォン ホフマン(Ludwig von Hoffmann, 1861-1945) フェルディナント ホドラー(Ferdinand Hodler, 1853-1918)を 紹 介 した 児 島 の 解 釈 によれば 新 理 想 派 は 観 察 に 主 眼 を 置 く 自 然 主 義 印 象 主 義 の 対 抗 運 動 であり ロマン 的 ならびに 文 学 的 傾 向 が 再 び 主 となって 現 れたものである そして その 画 家 たちの 任 務 とは 日 常 の 現 象 を 越 え て 純 粋 な 美 の 世 界 に 至 らせることにある 8 ) 美 術 と 文 学 が 結 びつき 自 己 の 内 面 を 深 く 見 つめるドイツ 世 紀 末 美 術 は 白 樺 同 人 の 感 性 に 合 い 武 者 小 路 実 篤 柳 宗 悦 らも 続 々と 関 連 記 事 を 寄 稿 した 9 )

60 野 村 優 子 白 樺 における 世 紀 末 ドイツ 美 術 紹 介 の 収 束 とともに 未 来 派 表 現 主 義 立 体 派 と いった 前 衛 美 術 に 関 する 記 事 が 突 如 現 れる 高 村 光 太 郎 の 未 来 派 の 絶 叫 を 端 緒 として 美 術 雑 誌 は 頻 繁 に 前 衛 美 術 を 取 り 上 げた 10) しかし 高 村 が 私 は 今 此 の 運 動 に 就 て 私 自 身 の 意 見 を 述 べようとするのではない 唯 一 部 の 拉 典 文 藝 界 に 稍 烈 しい 騒 擾 を 捲 起 してゐる 此 派 の 主 張 の 要 點 を 話 してみようと 思 ふまでである 11) と 断 るように これらの 記 事 は ヨーロッパで 騒 動 を 起 こしている 美 術 運 動 をアナウンスするに 留 まり 対 する 筆 者 の 批 評 は 加 えられていない 前 衛 美 術 紹 介 の 始 まりは 紹 介 者 も 意 味 を 理 解 せぬまま 興 味 本 位 に 行 われたのだった カンディンスキーを 新 たな 前 衛 画 家 として 発 見 し いち 早 く 俎 上 に 載 せたのは パンの 会 12) の 石 井 柏 亭 (1882-1958)と 木 下 杢 太 郎 (1885-1945)である 二 人 はパンの 会 で 前 述 のドイツ 人 画 家 フリッツ ルンプフと 親 交 を 結 び カンディンスキーを 知 った その 後 木 下 はカンディンスキーの 著 書 芸 術 における 精 神 的 なもの Über das Geistige in der Kunst を 読 み 前 衛 美 術 に 関 する 三 つの 論 文 を 執 筆 している 13) 美 術 新 報 に 掲 載 された 後 ろの 世 界 において 木 下 は 美 術 作 品 の 背 後 にあり 主 体 を 構 成 する 諸 要 素 を 後 ろの 世 界 と 定 義 し 後 ろの 世 界 が 純 粋 で 強 烈 であればあるだけ 芸 術 も 純 粋 強 烈 になり 後 ろ の 世 界 を 確 實 に 把 拄 すると 云 ふことが 藝 術 家 の 任 務 である 14) と 説 く この 後 ろの 世 界 とは カンディンスキー 画 論 の 中 核 をなす 思 想 内 的 必 然 性 Die innere Notwendigkeit を 彼 なりに 解 釈 したものであろう カンディンスキーは 芸 術 における 精 神 的 なもの の 中 で 次 のことを 強 調 する 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 芸 術 家 は 語 るべき 何 かを 持 たなければならない 彼 の 課 題 はフォルムの 支 配 にあるの 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ではなく 内 容 にフォルムを 適 合 させることにあるのだから 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 内 的 精 神 的 必 然 性 に 応 じたものが 美 しく 内 的 に 美 しいものが 美 しいのである 15) 抽 象 化 への 歩 みを 始 めたカンディンスキーにとって どのように 描 くかはもはや 問 題 ではなく 語 るべき 何 か 芸 術 家 の 魂 から 沸 き 上 がる 衝 動 により 表 出 された 何 か こそ 価 値 のあるものだった 芸 術 における 何 を was と どのように wie の 問 題 についてカ ンディンスキーは 現 代 の 絵 画 は どのように 再 現 するかばかりに 気 を 取 られ 肝 心 の 何 を は 姿 を 消 し その 魂 を 失 ってしまったと 考 える これはつまり 内 容 の 喪 失 フォ ルムの 優 勢 を 意 味 する 木 下 はカンディンスキーの 論 を 踏 まえ 内 容 に 関 わる 芸 術 家 の 内 面 世 界 を 後 ろの 世 界 と 称 し それをしっかりと 掴 んで 新 しい 世 界 を 発 見 することが 芸 術 家 の 使 命 だと 主 張 したのだ 続 く 洋 画 に 於 ける 非 自 然 主 義 的 傾 向 ではフュウザン 会 の 展 評 に 絡 め 芸 術 における 精 神 的 なもの の 抄 訳 を 行 っている 木 下 の 訳 文 中 には 傍 点 を 付 した 箇 所 が 三 つあり いずれも 内 心 要 求 の 原 理 に 言 及 している 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 此 人 心 を 自 覺 的 に 動 かすと 云 ふ 事 が 實 に 色 彩 諧 調 の 基 礎 であつて 之 を 内 心 要 求 の 4 4 4 4 4 4 4 原 理 と 名 稱 する

近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 61 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ( 形 も 色 と 同 樣 ) 人 心 を 自 覺 的 に 動 かす と 云 ふ 目 的 の 上 に 諧 調 を 求 めなくてはな らぬ 4 4 即 4 ち 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 内 心 要 求 の 原 理 が 此 場 合 にも 適 用 せらる 可 きである 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ( 外 象 の 選 択 は) 自 覺 して 人 心 を 動 かす と 云 ふ 根 本 義 に 依 つて 決 すべきであつて 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 實 に 亦 内 心 要 求 の 原 理 に 從 ふ 可 きである 16) この 箇 所 から 芸 術 家 が 人 の 魂 を 揺 さぶるような 創 作 を 行 うためには 色 彩 形 態 対 象 の 選 択 が 内 心 要 求 の 原 理 つまり 内 的 必 然 性 により 決 定 されなくてはならないこ とが 理 解 される そして この 内 的 必 然 性 とは 何 かという 核 となる 部 分 も 次 のように 訳 出 された 藝 術 家 は 三 つの 神 秘 的 基 礎 より 成 る 内 的 要 求 を 果 すことが 出 來 る 即 ち 次 の 三 つの 神 秘 的 要 求 である 一 創 造 者 たる 藝 術 家 自 己 の 表 現 をなすこと ( 個 人 的 興 味 ) 二 時 代 の 子 としてその 時 代 の 精 神 を 表 現 すること ( 國 民 性 的 興 味 ) 三 藝 術 の 僕 としての 藝 術 そのものゝ 精 神 を 發 揚 せしむること 17) ここは 木 下 が 美 術 批 評 家 として 声 高 に 主 張 したいことであったろう 当 時 世 間 を 騒 がせ ていた 岸 田 劉 生 (1891-1929)らフュウザン 会 の 画 家 たちはポスト 印 象 派 を 信 奉 し セザン ヌやゴッホの 模 倣 とも 言 える 画 面 作 りをしていた 彼 らは 自 己 表 現 ばかりを 追 求 し その 背 景 に 時 代 精 神 や 芸 術 そのものの 精 神 が 欠 けている 木 下 はそう 主 張 したかったのであ る これらの 論 文 を 読 んで 明 らかなのは 木 下 が 日 本 の 最 新 洋 画 傾 向 を 読 み 解 く 鍵 として カンディンスキーの 論 を 援 用 していることだ 自 身 が 語 るように 木 下 も 数 年 前 に 印 象 派 と 出 会 い 印 象 主 義 以 外 に 繪 畫 はないと 思 ふほどに 感 激 した 18) 一 人 であった 彼 にして みても ここ 数 年 ですっかり 印 象 派 を 古 いものへと 変 えたポスト 印 象 派 以 後 の 絵 画 を 理 解 するには 困 難 が 伴 った そこで 精 神 的 に 共 感 できるカンディンスキーの 思 想 を 手 がかりに 批 評 を 試 みたのだと 言 えよう 木 下 杢 太 郎 がその 動 向 に 関 心 を 示 したフュウザン 会 は 岸 田 劉 生 と 斎 藤 与 里 (1885-1959)を 中 心 に 新 たな 発 表 の 場 を 求 める 若 い 画 家 が 集 まったグループである 展 覧 会 の 開 催 雑 誌 フュウザン の 発 行 といった 勢 力 的 な 活 動 は 革 新 的 美 術 運 動 として 世 の 注 目 を 集 めていた 白 樺 の 理 想 主 義 個 人 主 義 に 感 化 され セザンヌ ゴッホらの 生 き 様 に 感 銘 を 受 けていた 彼 らは 自 ら 新 聞 雑 誌 に 寄 稿 し 新 しい 絵 画 を 擁 護 する 1912 年 頃 から 美 術 雑 誌 上 で 始 まる 前 衛 美 術 紹 介 に 関 してフュウザン 会 が 問 題 となるのは 彼 らがこの 画 風 に 否 定 的 感 情 を 抱 き それを 文 章 化 しているからだ 木 下 杢 太 郎 を 含 む 多 くの 者 にとっ て 彼 らの 絵 と 前 衛 的 絵 画 は 同 種 のものであったが フュウザン 会 は 前 衛 的 傾 向 を 認 めて いない そこで 現 代 の 洋 画 1912 年 10 月 号 の 未 来 派 特 集 に 注 目 したい 未 来 派 を 称 揚 し た 特 集 のように 思 えるが 論 調 は 辛 辣 かつ 嘲 笑 的 で この 画 派 に 対 する 親 しみは 微 塵 も 感 じられない 巻 頭 エッセーを 執 筆 した 斎 藤 は 未 来 派 の 画 風 を 小 細 工 に 過 ぎず そこから

62 野 村 優 子 強 い 力 も 何 も 得 ることができないと 告 げ 岸 田 劉 生 は 未 来 派 を 畸 形 なる 写 実 派 と 見 な し これを 芸 術 として 取 り 上 げるのは 馬 鹿 げていると 相 手 にしない また フュウザン 会 メンバーであり 現 代 の 洋 画 の 編 集 者 でもある 木 村 荘 八 (1893-1958)は 未 来 派 の 画 家 マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti, 1876-1944)に 手 紙 を 出 し その 返 事 とともに 書 籍 や 雑 誌 を 受 け 取 りながら 彼 の 誠 実 さに 対 し 終 始 茶 化 した 調 子 で この 号 は 未 来 派 の 人 々に 一 冊 送 らうと 思 ふ これが 日 本 語 である 事 は 少 し 不 快 である 俺 を 賛 美 している と 思 はせるのは 可 哀 想 だ と 結 ぶ 19) このようにフュウザン 会 による 記 事 はいずれも 主 観 的 で 結 局 未 来 派 を 賎 しめ ポスト 印 象 派 を 高 める 内 容 となっている 若 者 に 絶 大 な 影 響 力 を 持 つフュウザン 会 勢 力 がポスト 印 象 派 を 選 び 取 った 結 果 として 前 衛 美 術 に 本 気 で 取 り 組 む 画 家 は 極 々 稀 となってしまった 恩 地 孝 四 郎 の 抽 象 化 とカンディンスキー 1910 年 代 に 美 術 雑 誌 で 盛 んに 紹 介 された 前 衛 美 術 の 本 格 的 受 容 は 神 原 泰 (1898-1997) や 村 山 知 義 (1901-1977)らによる1920 年 代 の 大 正 期 新 興 美 術 運 動 20) を 待 つことにな る しかし 彼 らの 先 行 者 である 恩 地 孝 四 郎 の 存 在 を 忘 れてはならない 彼 は1910 年 代 に 表 現 主 義 や 未 来 派 に 作 品 を 接 近 させ この 傾 向 に 真 摯 に 取 り 組 んだほぼ 唯 一 の 画 家 であ る 岸 田 劉 生 と 同 じ1891 年 に 生 まれ 東 京 美 術 学 校 でアカデミックな 技 法 を 学 んだにもか かわらず 前 衛 美 術 受 容 を 柔 軟 に 行 い 日 本 で 最 も 早 く 抽 象 表 現 に 辿 り 着 いた 萬 鐡 五 郎 や 東 郷 青 児 など 二 三 の 画 家 も 同 時 期 抽 象 的 絵 画 を 試 みているが それは 中 途 半 端 で 一 時 的 な 現 象 に 過 ぎず 恩 地 のように 画 面 から 完 全 に 対 象 を 消 し その 後 一 貫 した 態 度 で 抽 象 絵 画 を 追 求 した 画 家 は 他 にいない 美 術 雑 誌 を 通 じて 日 本 へと 移 入 されたドイツ 近 代 美 術 が それを 流 し 込 む 先 を 探 していたとするならば 恩 地 孝 四 郎 こそ 時 代 に 先 んずる 受 け 皿 で あったと 言 えよう 恩 地 が 出 版 というメディアを 用 い 木 版 画 を 中 心 に 制 作 を 行 っていた 際 ドイツ 近 代 美 術 が 日 本 の 出 版 界 において 良 き 手 本 となっていた また 出 版 の 現 場 で 生 まれた 木 版 画 復 興 の 動 き いわゆる 創 作 版 画 運 動 に 大 きな 弾 みをつけたのも ドイツ 表 現 主 義 の 木 版 画 である 出 版 木 版 画 さらにはカンディンスキーの 抽 象 画 が 恩 地 とドイ ツ 美 術 を 結 びついている 日 本 の 木 版 画 と 言 えば 誰 もがまず 浮 世 絵 を 思 う しかし 日 本 における 近 代 版 画 の 新 し い 試 みは この 伝 統 様 式 とは 全 く 違 った 文 脈 から 始 まった 19 世 紀 後 半 浮 世 絵 が 大 量 に 流 出 し 印 象 派 など 西 洋 絵 画 に 新 たなインスピレーションを 与 えたことはよく 知 られる だがそれとは 逆 に 日 本 では 急 速 な 近 代 化 が 進 み 精 巧 で 大 量 生 産 可 能 な 西 洋 式 印 刷 を 取 り 入 れたため 版 画 は 実 用 性 重 視 の 複 製 手 段 となって 美 術 的 価 値 を 大 幅 に 下 げていた この 状 況 を 憂 い 日 本 の 木 版 画 に 革 命 を 起 こしたのが 20 世 紀 初 頭 の 創 作 版 画 運 動 である 1904 年 7 月 号 の 明 星 に 掲 載 された 山 本 鼎 の 漁 夫 を 嚆 矢 とするこの 運 動 の 特 徴 として 西 洋 美 術 からの 感 化 自 画 自 刻 自 摺 絵 画 的 版 画 表 現 の 三 つが 挙 げられる 創 造 性 豊 かな 木 版 画 を 目 指 すため 浮 世 絵 のように 絵 師 が 図 案 をまとめ 彫 師 がそれを 板 に 彫 り

近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 63 摺 師 が 紙 に 摺 り 上 げるという 従 来 の 分 業 を 改 め 制 作 プロセスをすべて 一 人 で 行 う 自 画 自 刻 自 摺 を 提 唱 し 絵 筆 の 代 わりに 彫 刻 刀 を 持 ち 紙 ではなく 板 に 描 く 絵 画 的 版 画 表 現 を 目 指 した 実 践 の 場 として 彼 らは 創 作 版 画 を 主 とした 雑 誌 方 寸 を 立 ち 上 げ パ ンの 会 の 仲 間 を 寄 稿 者 に 迎 え ヨーロッパ 世 紀 末 美 術 が 果 たしたような 美 術 と 文 学 の 融 合 を 実 現 させている 1900 年 代 に 活 躍 した 方 寸 に 関 わる 版 画 家 たちを 創 作 版 画 の 第 一 世 代 とするならば 1910 年 代 に 始 まる 第 二 世 代 の 活 動 は 関 係 者 が 二 十 代 前 半 の 若 者 だったこともあり 創 作 版 画 の 青 春 時 代 と 呼 ばれる その 中 で 大 正 期 青 年 のロマンと 感 傷 を 反 映 し 特 別 な 輝 きを 放 つのは 詩 と 版 画 の 雑 誌 月 映 21) [ 図 1]である 美 術 学 校 で 知 り 合 った 恩 地 孝 四 郎 田 中 恭 吉 (1892-1915) 藤 森 静 雄 (1891-1943)の 友 情 の 証 でもあったと 言 われるように 月 映 は 非 常 に 私 的 な 性 格 を 持 っている 通 常 このような 雑 誌 は 同 人 を 集 め 寄 稿 者 を 募 り 互 いの 関 心 を 共 有 しながら 運 営 していくものだが 月 映 の 同 人 は 徹 頭 徹 尾 この 三 人 で 絵 も 詩 も 自 ら 創 作 した しかしこの 閉 ざされた 環 境 こそが 彼 らに 純 粋 で 先 鋭 的 な 思 うま まの 版 表 現 を 可 能 としている 画 家 として 全 く 無 名 だった 彼 らに 何 故 このように 質 高 く 時 代 の 先 を 行 く 雑 誌 を 創 刊 することができたのだろうか それには 竹 久 夢 二 の 存 在 が 大 き い 彼 らは 夢 二 を 慕 い 彼 のもとで 日 々を 過 ごす 若 者 だった 元 来 竹 久 夢 二 にはボヘミ アン 的 なところがあり 画 家 なら 当 たり 前 の 展 覧 会 出 品 を 拒 否 し 文 展 を 蔑 視 していた これは 大 衆 には 絶 大 な 人 気 を 誇 りながら 自 分 を 正 統 な 画 家 として 認 めない 画 壇 への 反 発 でもある 学 校 や 文 展 なんて 糞 喰 らえだった 学 校 にコツコツ 来 てる 奴 はみな 馬 鹿 に 思 え た 22) という 恩 地 の 反 逆 児 的 思 想 も 夢 二 から 受 け 継 いでいる 画 壇 を 敵 とした 夢 二 の 目 が 外 へ 向 かうのも 当 然 で 外 国 の 美 術 雑 誌 を 買 い 集 め 作 画 の 参 考 とした 特 にドイツの ユーゲント がお 気 に 入 りで 切 り 取 った 記 事 を 集 めたスクラップ ブックを 残 してい る 23) 夢 二 とドイツとの 縁 は 意 外 に 深 く 晩 年 に 敢 行 した 欧 米 旅 行 中 ドイツに 長 く 滞 在 し ベルリンではヨハネス イッテン(Johannes Itten, 1888-1967) 主 催 のイッテン シューレ (Itten-Schule)において 日 本 画 講 習 会 を 行 った 帰 国 後 夢 二 は 恩 地 に ドイツは 良 かっ た ミュンヘンなどは 前 から 聞 いたり 見 たりしていたので 外 国 に 来 た 気 がせず 日 本 語 が 通 じないことが 間 違 いのような 気 がした 24) と 語 りかけている 夢 二 の 仕 事 を 間 近 で 見 るうち 出 版 への 興 味 が 芽 生 え 木 版 画 制 作 へと 向 かう 恩 地 に 強 い 刺 激 を 与 える 二 つの 出 来 事 があった それは 現 代 の 洋 画 版 画 号 と デア シュトゥル ム 木 版 画 展 覧 会 である 恩 地 が 木 版 画 を 開 始 した1913 年 には 創 作 版 画 運 動 も 実 を 結 び 大 阪 朝 日 新 聞 が 特 集 を 組 むほど 木 版 画 復 興 の 機 運 は 高 まっていた そして 翌 年 二 月 発 行 の 現 代 の 洋 画 はこの 特 集 を 再 掲 載 し 他 の 記 事 と 併 せて 版 画 号 としている 25) しかし ながら 前 章 で 言 及 した 未 来 派 特 集 と 同 じく 今 回 も 版 画 を 愛 する 者 にとって 心 地 よいもの ではない フュウザン 会 のメンバーが 再 び 批 判 的 記 事 を 執 筆 したからだ 斎 藤 与 里 は 木 版 画 の 価 値 は 趣 味 の 一 点 張 りで 自 分 の 絵 に 自 信 のない 者 がやるものだと 決 めつけ 岸 田 劉 生 は 真 の 表 現 を 求 める 自 分 のような 者 にはこの 手 段 では 自 己 表 現 できないと 過 小 な 評 価 を 下 した 未 来 派 を 一 蹴 した 木 村 荘 八 は 今 回 も 手 厳 しく 木 版 や 草 畫 等 に 無 氣 になってゐられ

野 村 優 子 64 る人間 それでもうやくざな人間だ 藝術の問題ではない やる人間の問題になって來る 26 と版画家の人格さえ否定している フュウザン会を代表する三人の意見は美術を志す若 者を大きく左右したに違いない それほど皆フュウザン会の動向に嘱目し刺激を受けてい た 月映 の田中恭吉も少なからず影響され 木版画はわたしたちの全部ではない 少 なくとも私にとってそれは私の一部だ 中略 他日私は油 その他の作品を公にする機 のあることを待っている 27 と書き残している 一方恩地はこの記事に対する怒りを露に 28 し 版画を侮辱するものを見返すような表現を目指し邁進したのだった 意気込む恩地を 版画号発行直後に開催された デア シュトゥルム木版画展覧会 が 後押しする ベルリン留学中の山田耕筰 1886-1965 と斎藤佳三 1887-1955 がヘルヴァ ルト ヴァルデン Herwarth Walden, 1878-1941 29 より委託され 実現したこの展覧会に は キルヒナー ペヒシュタイン カンディンスキー マルクといったドイツ表現主義の 作家に未来派が加わり 26名による計70点が展示されていた 前衛美術のオリジナル作品 が日本で展示されるのは初めてのことであり ここで見たカンディンスキー作品が誘因と なり萬鉄五郎は一時期抽象的作品を試みている また恩地も 版画に自分を誘ったのは シュトルム集団表現派版画展でみたカンディンスキー作だ 30 と回想した 現代の洋画 で木版画を侮辱された後に 木版画による先鋭的な作品の数々を デア シュトゥルム木版画展 に見て 恩地は自分の進むべき道はやはりこれだと勇気づけられ 抒 たことだろう そうして1910年代の恩地作品を代表する 抒情 シリーズが誕生した 月映 に掲載された恩地作品の過半数をなし 抒情 I 抒情 II 抒情 情 シリーズは III という風にナンバリングされた前期と 抒情 五種 として五枚一組となった後期 に分かれる 前期は画面を直線や曲線で分割し その区画に目などの身体モチーフをはめ 込むキュビスム風な絵が多い 図2 中には われいかる のぞみすてず など副題を 伴う図があり これによりどのような心情を表現したものかを推測できる その後主観的 図3 そ 感情を表現した 抒情 シリーズは一旦廃止され 次には つきにひくかげ 図1 公刊 月映Ⅰ 表紙 1915年 26.2 19.8cm 図2 恩地孝四郎 抒情Ⅰ 1914年 13.3 10.9cm 掲載画像は 図4 を除き 熊本県立美術館所蔵 今西コレクション 図3 恩地孝四郎 つきにひくかげ 1914年 12.8 13.6cm

近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 65 らにかかるもの やまひ 地 を 這 ふ など 天 地 を 表 すタイトルを 用 い それまでの 幾 何 学 的 形 態 を 有 機 的 なものへと 変 化 させながら 客 観 的 事 象 を 絵 画 化 した この 時 期 に 見 られる 大 きな 飛 躍 は 今 までほとんどモノクロームだった 画 面 に 色 が 差 しているところだ ここに カンディンスキーの 影 響 を 認 めることができる 恩 地 が 確 実 に 目 にしたカンディンスキー 作 品 として 現 代 の 洋 画 版 画 号 掲 載 の 図 が 挙 げられる [ 図 4] 馬 に 乗 る 三 人 の 騎 士 を 描 いたこの 木 版 画 の 中 でカンディンスキーは 他 の 版 画 家 には 見 られない 画 面 処 理 を 行 っ た 騎 士 の 後 ろに 浮 かぶ 赤 と 青 の 不 定 形 な 色 面 に 注 目 したい これらの 形 態 は 何 か 具 体 的 な 事 物 を 表 現 しているわけではなく 画 面 に 調 子 をつけるため 模 様 のように 用 いられてい る 赤 青 黒 の 三 色 刷 りであるのに 色 鮮 やかな 感 じは 赤 と 青 が 交 わって 出 来 た 混 色 を 四 色 目 として 利 用 したことによる 色 を 色 そのものとして 用 いるこの 方 法 は 斬 新 なもの で 恩 地 の 愚 人 願 求 や つきにひくかげ に 見 られる 黒 面 の 向 こうに 見 える 不 定 形 な 色 の 模 様 も カンディンスキーから 着 想 を 得 たと 言 えよう 月 映 第 五 輯 から 抒 情 シ リーズは 復 活 し 抒 情 五 種 となって 再 び 作 者 の 感 情 が 読 み 取 れるタイトルが 付 され た 月 映 第 五 輯 を 開 き 恩 地 担 当 頁 を 捲 っていくと まず 具 象 的 モチーフを 持 つ 最 後 の 作 品 太 陽 額 に 照 る [ 図 5]が 現 れ 次 に 極 端 に 簡 略 化 され 黒 面 を 多 く 残 した 生 はさみ し 夜 半 目 ざめて 泪 ながれながる くるしみのうちに 懐 に 入 るものあり と 続 く 天 上 から 下 る 雷 を 幾 何 学 的 に 表 現 した 四 枚 目 苦 悩 のうちに 光 る で 画 面 に 変 化 をつけた 後 日 本 で 最 も 早 く 抽 象 表 現 に 到 達 した 作 品 と 言 われる あかるい 時 31) [ 図 6]が 登 場 する 黒 で 統 一 されてきたところに 突 然 赤 一 色 の 画 面 が 飛 び 込 み 生 はさみし くるしみ 苦 悩 といった 暗 い 感 情 が 俄 に 色 づく 印 象 を 与 える 抒 情 五 種 に 苦 悩 を 経 て 明 るみに 達 するというストーリーを 与 えるため 恩 地 は 作 品 をこのような 配 列 にしたのだろう 以 前 の 作 品 にも 完 全 抽 象 と 言 えるものがあるにもかかわらず あとの あかるい 時 を 日 本 抽 象 画 の 始 まりとするのは ここに 至 るまでの 作 品 群 が 抽 象 と 具 象 の 間 で 揺 れているの に 対 し あかるい 時 以 降 は 完 全 な 抽 象 表 現 で 貫 かれているからである [ 図 4] W. カンディンスキー 赤 青 黒 の 中 の 三 人 の 騎 士 1911 年 22.0 22.2cm [ 図 5] 恩 地 孝 四 郎 太 陽 額 に 照 る 1915 年 14.3 12.5cm [ 図 6] 恩 地 孝 四 郎 あかるい 時 1915 年 13.6 9.8cm

66 野 村 優 子 恩 地 は 新 傾 向 絵 画 の 中 でも 特 にカンディンスキーから 多 くのものを 受 け 取 った 一 人 の 芸 術 家 として 世 に 飛 び 出 そうと 奮 い 立 っていたその 頃 恩 地 はカンディンスキーの 絵 画 や 思 想 に 出 会 う 日 本 の 中 央 画 壇 には 興 味 がなく 美 術 学 校 も 無 味 乾 燥 に 思 えて ただ 近 頃 活 発 化 してきた 岸 田 劉 生 らの 運 動 には 心 が 騒 いだ 自 己 を 鼓 舞 する 強 い 思 いが 膨 らみ それ は 月 映 というかたちで 結 実 した しかし 憧 憬 の 眼 差 しで 見 つめていたフュウザン 会 に 木 版 画 を 否 定 され 怒 り 失 望 し そしてポスト 印 象 主 義 に 染 まった 彼 らの 絵 画 を 越 える 新 しい 表 現 を 目 指 して 木 版 画 へと 向 かったのだ そこで 眼 に 留 まったのがカンディンス キーの 絵 画 であり 自 分 の 内 面 に 溢 れる 感 情 を 具 体 的 事 物 に 頼 ることなく 表 現 するという 発 想 が 気 に 入 って 自 己 の 歩 む 道 が 決 定 する カンディンスキーが 説 く 色 彩 と 形 態 は 人 の 魂 を 揺 さぶる 手 段 であり 芸 術 家 は 内 的 必 然 性 に 基 づいてこれを 選 択 し 創 作 しなければな らないという 思 想 を 恩 地 は 受 け 止 め 日 々 沸 き 上 がる 喜 怒 哀 楽 の 感 情 を 色 と 形 で 表 現 しよ うとした 青 年 らしく 新 鮮 な 画 でありながらその 内 にはしっかりと 生 命 が 息 づく そのよ うな 絵 画 を 生 み 出 す 手 段 として 恩 地 は 木 版 画 と 抽 象 を 選 び 取 ったのである 結 び 恩 地 孝 四 郎 が 抽 象 画 へと 辿 り 着 いた 時 点 で 第 一 期 ドイツ 美 術 受 容 はひとまず 終 焉 を 迎 え る 恩 地 がドイツ 美 術 から 啓 示 を 受 け 達 成 した 抽 象 画 を 受 け 継 ぐ 追 従 者 は すぐには 現 れ なかった 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 し 日 独 の 国 交 が 一 時 断 絶 して 終 戦 を 迎 えると 両 国 の 関 係 は 幾 分 違 うものへと 変 質 していた 1920 年 代 にピークを 迎 えるドイツ 留 学 は 徐 々に 減 少 し 始 め 日 本 に 及 ぼすドイツの 影 響 力 も 次 第 に 薄 れていく しかし 日 独 の 美 術 交 流 は その20 年 代 に 再 燃 した 黄 金 の20 年 代 ベルリンでドイツ 美 術 と 出 会 った 村 山 知 義 や 仲 田 定 之 介 (1888-1970)はそれを 日 本 へ 持 ち 帰 り より 大 規 模 で 過 激 な 第 二 期 ドイツ 美 術 受 容 を 展 開 させた この 動 きは 大 正 期 新 興 美 術 運 動 となり 第 一 期 には 見 られないほど 大 きな 成 果 を 挙 げている 本 稿 で 明 らかとなったのは 第 一 次 大 戦 前 のドイツ 美 術 受 容 は 油 彩 画 に 重 きを 置 く 画 壇 の 主 流 から 外 れたグラフィックや 木 版 画 においてなされたという 事 実 だ そのため 印 象 派 やポスト 印 象 派 といったフランス 美 術 の 受 容 により 展 開 していた 日 本 近 代 洋 画 の 中 で は 目 立 ちにくい 存 在 となっていた 日 本 の 西 洋 美 術 受 容 史 においてドイツの 存 在 が 希 薄 なのは 受 容 する 日 本 の 側 がドイツの 美 術 傾 向 に 対 して 積 極 的 でなかったという 理 由 も 挙 げられる 日 本 がドイツ 美 術 を 受 容 した1910 年 代 は ドイツ 表 現 主 義 が 盛 り 上 がりを 見 せ 国 際 的 に 重 要 な 芸 術 活 動 となっていた 日 本 人 はこの 表 現 主 義 運 動 に 即 座 に 反 応 して おきながら 活 動 の 真 の 意 味 を 理 解 せず 興 味 本 位 に 伝 えたため 前 衛 絵 画 に 本 気 で 取 り 組 もうとする 画 家 は 現 れなかった この 傾 向 に 真 摯 に 取 り 組 んだ 唯 一 の 画 家 が 恩 地 孝 四 郎 で あり 彼 は 中 央 画 壇 から 外 れた 自 由 な 立 場 にいたので 思 うままの 表 現 を 追 求 することが できたのである

近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 67 注 1) 梅 溪 昇 お 雇 い 外 国 の 研 究 ( 上 ) 青 史 出 版 2010 年 37 頁 ( 第 1 表 )および 54-58 頁 ( 第 10 表 ) お 雇 いイギリス 人 の 総 数 からすると 文 部 省 所 属 の 者 は 一 割 程 度 であるのに 対 し お 雇 いドイツ 人 の 半 数 は 文 部 省 に 所 属 していた 2)ケーベルは 正 確 にはドイツ 系 ロシア 人 であるが ドイツ 風 教 育 を 受 け 自 身 をド イツ 人 だと 見 なしていた 唐 木 順 三 編 ベルツ モース モラエス ケーベル ウォシュバン 集 ( 明 治 文 学 全 集 49) 筑 摩 書 房 1968 年 279-281 頁 3) 図 録 江 戸 と 明 治 の 華 皇 室 侍 医 ベルツ 博 士 の 眼 岐 阜 市 歴 史 博 物 館 他 2008 年 27 頁 4) 辻 直 人 近 代 日 本 海 外 留 学 生 の 目 的 変 容 文 部 省 留 学 生 の 派 遣 実 態 について 東 信 堂 2010 年 3-4 頁 5)1881( 明 治 14) 年 に 起 きた 国 会 開 設 憲 法 制 定 をめぐる 政 治 的 事 件 国 会 即 時 開 設 を 主 張 する 大 隈 重 信 一 派 は 漸 進 派 の 伊 藤 博 文 らによって 罷 免 され 政 府 は1890 年 の 国 会 開 設 憲 法 制 定 を 公 約 した その 際 憲 法 はプロイセンの 欽 定 憲 法 を 手 本 とした 6) 辻 前 掲 書 巻 末 文 部 省 留 学 生 一 覧 表 参 照 文 部 省 留 学 生 延 べ 総 数 3209 名 に 対 し 美 術 関 係 の 留 学 生 は34 名 美 術 学 校 から 官 費 で 留 学 生 を 送 りだすことは 上 申 すれば100%に 近 い 割 合 で 派 遣 してもらえる 帝 大 と 比 べて 困 難 な 状 況 だっ た ( 石 附 実 近 代 日 本 の 海 外 留 学 史 ミネルヴァ 書 房 1972 年 108-109 頁 ) という 報 告 がある 7) 児 島 喜 久 雄 独 逸 の 絵 画 に 於 ける Neuidealisten ( 白 樺 1 巻 1 号 1910 年 4 月 ) 獨 逸 新 理 想 派 の 畫 家 ( 承 前 ) ( 白 樺 1 巻 2 号 1910 年 5 月 ) 挿 畫 に 就 て: フエルデイナント ホオドラア ( 白 樺 1 巻 7 号 1910 年 10 月 ) マックス クリンゲル( 獨 逸 新 理 想 派 畫 家 三 ) ( 白 樺 1 巻 9 号 1910 年 12 月 ) ルウド ヰヒ フオン ホオフマン ( 白 樺 2 巻 8 号 1911 年 8 月 ) 参 照 8) 児 島 挿 畫 に 就 て:フエルデイナント ホオドラア 63 頁 児 島 マックス ク リンゲル( 獨 逸 新 理 想 派 畫 家 三 ) 2 頁 9) 武 者 小 路 実 篤 個 性 と 個 性 ( 白 樺 1 巻 4 号 1910 年 7 月 ) 小 泉 鐵 ( 訳 ) マックス クリンゲルに 就 きて 二 つ 武 者 小 路 実 篤 クリンゲルの 貧 窮 を 見 て ( 白 樺 2 巻 5 号 1911 年 5 月 ) 小 泉 鐵 第 三 王 國 ルウドウヰヒ フ オン ホオフマンの 五 十 年 を 祝 するにあたりて ( 白 樺 2 巻 8 号 1911 年 8 月 ) 柳 宗 悦 フォーゲラーの 藝 術 筆 者 不 詳 ヴォルプスヴェーデの 畫 家 ( 白 樺 2 巻 12 号 1911 年 12 月 ) しかし 白 樺 同 人 のドイツ 世 紀 末 美 術 への 熱 も1912 年 以 後 急 速 に 冷 め 彼 らの 関 心 はポスト 印 象 派 へと 移 行 した 10) 高 村 光 太 郎 未 来 派 の 絶 叫 ( 現 代 の 洋 画 創 刊 号 1912 年 4 月 ) 未 来 派 の 絵 画 ( 太 陽 18 巻 6 号 1912 年 5 月 ) 煙 無 形 フュウチュアリズムを 紹 介 す

68 野 村 優 子 ( 美 術 新 報 11 巻 7 号 1912 年 5 月 ) 伊 国 未 来 派 の 宣 言 ( 現 代 の 洋 画 3 号 1912 年 6 月 ) 長 谷 川 天 渓 将 来 派 の 絵 画 展 覧 会 ( 文 章 世 界 7 巻 8 号 1912 年 6 月 )など 参 照 11) 高 村 未 来 派 の 絶 叫 7 頁 12)ベルリンの 美 術 雑 誌 パン から 名 を 取 った パンの 会 は 発 起 人 である 木 下 杢 太 郎 の 言 によると 一 の 藝 術 運 動 で 因 循 な 封 建 時 代 の 遺 風 に 反 對 する 歐 化 主 義 運 動 ( 野 田 宇 太 郎 パンの 會 近 代 文 藝 靑 春 史 研 究 六 興 出 版 社 1959 年 3 頁 )であり 隅 田 川 をパリのセーヌ 河 に 見 立 て カフェならぬ 西 洋 料 理 店 に 集 い 語 り 合 った 懇 親 会 である 石 井 柏 亭 山 本 鼎 森 田 恒 友 ら 方 寸 の 画 家 の 他 木 下 杢 太 郎 北 原 白 秋 ら スバル 系 の 詩 歌 人 当 代 一 の 彫 師 である 伊 上 凡 骨 自 由 劇 場 の 小 山 内 薫 市 川 左 団 次 高 村 光 太 郎 永 井 荷 風 変 わり 種 としてドイ ツ 人 画 家 フリッツ ルンプフなどが 参 加 し ジャンルを 越 えた 芸 術 交 流 の 場 と なっていた 13) 木 下 杢 太 郎 元 素 的 概 念 的 ( 読 売 新 聞 1912 年 6 月 30 日 ) 後 ろの 世 界 ( 美 術 新 報 12 巻 1 号 1912 年 1 月 ) 洋 画 に 於 ける 非 自 然 主 義 的 傾 向 ( 上 中 下 ) ( 美 術 新 報 12 巻 4/ 5/ 6 号 1913 年 2/ 3/ 8 月 ) 参 照 14) 木 下 後 ろの 世 界 10 頁 15)Wassily Kandinsky: Über das Geistige in der Kunst. 9. Aufl., Bern: Benteli 1970, S. 134-135. 引 用 箇 所 はイタリック 体 で 書 かれている 16) 木 下 洋 画 に 於 ける 非 自 然 主 義 的 傾 向 ( 中 ) 3-5 頁 17) 同 上 6 頁 18) 木 下 洋 画 に 於 ける 非 自 然 主 義 的 傾 向 ( 上 ) 10 頁 19) 斎 藤 与 里 未 來 派 の 繪 岸 田 劉 生 専 横 にして 僭 越 なる 彼 等 木 村 荘 八 斷 は り 書 ( 現 代 の 洋 画 7 号 1912 年 10 月 ) 6 頁 以 下 20)この 呼 称 を 提 唱 した 五 十 殿 利 治 氏 によると 大 正 期 新 興 美 術 運 動 とは 1920 年 ロシ ア 未 来 派 の 画 家 ダヴィド ブリュルーク(David Burliuk, 1882-1967)の 来 日 に よって 始 まり 神 原 泰 らが 結 成 した アクション ドイツから 帰 国 した 村 山 知 義 を 中 心 とする マヴォ の 活 動 を 経 て 25 年 頃 まで 続 いた 急 進 的 美 術 運 動 である 立 体 派 未 来 派 表 現 主 義 ダダ 構 成 主 義 の 刺 激 を 強 く 受 け 神 原 村 山 の 他 普 門 暁 古 賀 春 江 柳 瀬 正 夢 など 若 い 芸 術 家 が 多 数 参 加 した 五 十 殿 利 治 大 正 期 新 興 美 術 運 動 の 研 究 スカイドア 1998 年 21)1914 年 9 月 から15 年 11 月 にかけて 機 械 刷 200 部 限 定 で 第 七 輯 まで 公 刊 される 四 六 倍 判 (26.5 19.5cm)の 木 版 や 詩 を 刷 り 込 んだ 薄 い 冊 子 夢 二 の 出 版 物 や 白 樺 の 版 元 洛 陽 堂 が 出 版 を 引 き 受 けた 結 核 による 田 中 恭 吉 の 死 とともに 終 刊 を 迎 える 22) 恩 地 孝 四 郎 過 去 捜 索 ( エッチング 86 号 1939 年 12 月 初 出 ) 恩 地 孝 四 郎 著 恩 地 邦 雄 編 装 本 の 使 命 阿 部 出 版 1992 年 353 頁

近 代 日 本 のドイツ 美 術 受 容 69 23) 高 橋 律 子 竹 久 夢 二 社 会 現 象 としての 夢 二 式 ブリュッケ 2010 年 301 頁 24) 恩 地 孝 四 郎 竹 久 夢 二 追 悼 ( アトリエ 1934 年 10 月 初 出 ) 恩 地 孝 四 郎 著 恩 地 邦 雄 編 抽 象 の 表 情 阿 部 出 版 1992 年 418 頁 25) 日 曜 附 録 版 畫 展 覽 會 ( 大 阪 朝 日 新 聞 日 曜 附 録 1913 年 11 月 16 日 初 出 ) 現 代 の 洋 画 ( 版 画 号 ) 23 号 1914 年 2 月 26) 同 上 現 代 の 洋 画 斎 藤 与 里 木 版 畫 岸 田 劉 生 木 版 畫 に 就 いて 木 村 荘 八 木 版 畫 といふもの 36 頁 以 下 27) 資 料 田 中 恭 吉 書 簡 集 宮 城 県 美 術 館 研 究 紀 要 4 号 1989 年 48 頁 28) この 木 村 君 の 文 章 にはフンガイした そのころ 幼 い 血 を 湧 かしたものだった 中 略 その 頃 は 今 に 見 ろ を 内 心 に 叫 んだものだった 恩 地 孝 四 郎 版 画 を 始 めた 頃 の 思 い 出 抽 象 の 表 情 470 頁 29)ヴァルデンは1910 年 代 から 雑 誌 デア シュトゥルム Der Sturm を 軸 に 芸 術 擁 護 運 動 を 展 開 し ベルリンを 前 衛 芸 術 の 中 心 地 へと 導 いた 30) 小 野 忠 重 近 代 日 本 の 版 画 三 彩 社 1971 年 38 頁 瀬 木 慎 一 現 代 美 術 のパ イオニア 美 術 公 論 社 1979 年 89-90 頁 31) 抒 情 シリーズの 中 で 唯 一 二 重 括 弧 付 タイトルとなっている 桑 原 規 子 氏 はこの タイトルがベルギー 出 身 の 象 徴 派 詩 人 エミール ヴェルハーレン(Émile Verhaeren, 1855-1916)の 詩 集 明 るい 時 (Les Heures claires, 1896)から 取 られ た 可 能 性 が 高 いことを 指 摘 している 桑 原 規 子 1910 年 代 における 恩 地 孝 四 郎 の 抒 情 竹 久 夢 二 との 関 係 を 中 心 に 現 代 芸 術 研 究 2 号 筑 波 大 学 芸 術 系 五 十 殿 研 究 室 発 行 1998 年 43-44 頁

70 野 村 優 子 Die Rezeption der deutschen Kunst im modernen Japan: Kunstmagazine und Kōshirō Onchi Yuko NOMURA In der Moderne war der Einfluss der europäischen Malerei auf Japan enorm groß. Der Impressionismus kam Ende des 19. Jahrhunderts auch nach Japan und wurde schnell zu einem akademischen Stil. Wenn man über den Einfluss europäischer bildender Kunst auf Japan spricht, denkt man meist sofort an die französische Kunst. Der deutsche Einfluss wird selten thematisiert. Das überrascht jedoch, weil die damaligen diplomatischen Beziehungen Japans zu Deutschland viel stärker waren, als zu anderen europäischen Ländern. Die japanische Regierung nahm sich Deutschland zum Vorbild und errichtete ein ähnliches Staatssystem. Vor allem schätzte sie die deutsche Wissenschaft sehr hoch. Einerseits studierten etwa viele Japaner in Deutschland, andererseits gingen viele Deutsche als Lehrer nach Japan. Obwohl Japan und Deutschland so enge Beziehung hatten, kann man im Kunstbereich nur sehr wenig deutschen Einfluss finden. Warum das so ist wird im vorliegenden Aufsatz näher untersucht. Der untersuchte Zeitraum reicht dabei von der zweiten Hälfte des 19. Jahrhunderts bis zum ersten Weltkrieg. Im ersten Teil werden die Beziehungen zwischen Japan und Deutschland dargestellt und Belege für den Vorzug, den Deutschland für Japan zu dieser Zeit hatte, vorgestellt. Im zweiten Teil geht es um die japanischen Kunstmagazine. Die deutsche Kunst gelangte nicht direkt, etwa durch Maler vermittelt, sondern indirekt durch Artikel und Reproduktionen in den Magazinen nach Japan. Wie genau in diesen Medien deutsche Kunst dargestellt wurde, behandelt dieser Teil des Aufsatzes. Im dritten Teil wird ein Beispiel für die Rezeption deutscher Kunst durch einen japanischen Maler untersucht. Unter dem Einfluss der Malerei Kandinskys entwarf Kōshirō Onchi eigene abstrakte Bilder und wurde von da an als Pionier der japanischen abstrakten Malerei angesehen. Die vorliegende Arbeit macht deutlich, wie die starke Fokussierung auf französische Kunst die Rezeption der deutschen Kunst in Japan behinderte. Eine Vorliebe, wenn nicht gar eine allgemeine Liebhaberei für französische Kunst war im damaligen Japan weit verbreitet, besonders für den Impressionismus und Post-Impressionismus. Weil die japanische Akademie den Impressionismus als ihren Stil wählte und die jüngere Generation dazu durch den Post-Impressionismus in Opposition stand, gab es fast keinen Raum für die Aufnahme deutscher Kunst. Infolgedessen hinterließ die deutsche Kunst ihre Spuren fast nur im Bereich der graphischen Werke oder Holzschnitte, die im japanischen akademischen Betrieb, des Primats der Ölmalerei wegen, allerdings geradezu verachtet wurden.