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岩手県立博物館研究報告 第31号 2014年3月 日記 岩手県立図書館蔵 から知られている 奈良養斎日記 弘化二年八月六日条 一 烏山藩中粕谷永七 画名月嶺来也 実は鹿角花輪川口永八弟也 月嶺はこの時 粕谷姓を名乗っている 月嶺を永七 兄を永八と書いているが 栄七 栄八であろうか 養斎は現在の鹿角市尾去沢の出身で 月嶺の兄を知ってい るような書きぶりである 月嶺と養斎は後に親しく交際があったが そのことにつ いては後述する 弘化二年冬 と年紀のある作品が鹿角で二点確認されており 冬には生まれ故 郷の花輪で揮毫していたものとみられる 翌年二月二日 月嶺は盛岡藩に召し出さ 二 南部利済時代の職務 弘化三年 一八四六 盛岡藩出仕 奥詰 二 月嶺は盛岡藩への出仕を機に 名を栄七から七之助に改めたらしく 藩の記録に は川口七之助として登場する 七之助は亡父の名であった 盛岡藩 覚書 弘化三年 一八四六 二月二日条 老中列座帯刀申渡之 一 花輪御給人勇治大伯父 古七之助妾腹之子 川口七之助 御遣方有之 弐人扶持被下置被 召出 御代官召連罷出 於柳之間 盛岡藩 覚書 弘化三年 一八四六 三月二日条 一 川口七之助并花巻御給人高瀬新八儀被 召出之永代證文 御目付を 以相渡之 月嶺は 御遣方 があり二人扶持で召し出された この時の証文は盛岡市先人記 念館に所蔵されている 絵師としての腕を見込まれたことは疑いが無いが 月嶺が 支給された二人扶持は小禄といってよい 同年十月二十六日に奥詰を拝命した 盛岡藩 覚書 弘化三年 一八四六 十月二十六日条 一 藤井又蔵 川口七之助 奥詰被 仰付 御目付を以申渡之 月嶺とともに奥詰を拝命した藤井又蔵 一八六七 は長州の出身で 盛岡 藩医大島周意に弟子入りして盛岡城下への永住を許されていた者だが この年三月 に五十石で召し出され 助教を仰せ付かっていた 覚書 弘化三年一月十三日条 93 れた 花輪で月嶺の絵が評判となり 藩主南部利済 一七九七 一八五五 の知る 写真2 風鳥写生 鳥写生綴の内 弘化2年 1845 6月21日 岩手県立博物館蔵 ところとなって召し抱えられたと伝えられるが 仕官の目処か希望があっての帰郷 であったかもしれない 以上が盛岡藩出仕以前の概略である 写真 1 江戸現在広益諸家人名録 二編 天保13年刊 1842 岩手県立博物館蔵