中 山 高 安 著 ( 鳥 居 本 ー 金 沢 ー 石 動 ) 北 陸 道 ( 一 ) シニア 世 代 の 退 屈 しのぎと 健 康 のために 街 道 を 歩 く 21 電 子 版
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-13- ( 一 一 七 三 ー 一 二 六 二 ) 諡 号 ( 死 者 へのおくり 名 )は 見 真 大 師 である ( 一 四 一 五 ー 一 四 九 九 )
-14- 諡 号 は 慧 燈 大 師 である 松 尾 芭 蕉 ( 一 六 四 四 ー 一 六 九 四 )は 伊 賀 上 野 に 生 まれた 江 戸 時 代 の 俳 人 で 主 な 紀 行 日 記 に 野 晒 紀 行 笈 の 小 文 更 科 紀 行 奥 の 細 道 嵯 峨 日 記 などがある 奥 の 細 道 は 元 禄 二 年 ( 一 六 八 九 ) 江 戸 深 川 を 出 発 して 北 陸 から 美 濃 を 経 て 伊 勢 路 に 入 ろうとして 大 垣 で 筆 を 止 める
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-42- 趾 の 石 碑 がある 右 側 に があり 間 もなく 国 道 八 号 線 に 合 流 する
-43- が 立 っていて 右 側 には 表 忠 碑 と 白 銅 座 明 神 がある 白 銅 座 明 神 は 速 水 村 に 中 世 より 医 業 を 受 け 継 ぎ 名 望 を 博 した 松 井 家 の 守 護 神 の 跡 地 だとある 更 に 右 側 に があって 国 道 に 合 流 する 青 名 交 差 点 の 左 奥 に があり その 先 はしばらく 何 もないようである フレンドマー トやコネリがある 先 に 宇 根 交 差 点 があり をくぐる 高 月 南 交 差 点 を 越 え 二 百 メートルぐらい 先 左 側 にタイヤガーデンが ある 所 から 右 斜 めに 進 む 突 き 当 たって 右 へ 曲 がり 北 国 街 道 とJR 高 月 駅 の 掲 示 で 左 へ 曲 がるが 直 進 すれば 北 陸 本 線 高 月 駅 である 〇 旧 道 は 左 へ 曲 がると 左 側 に 豪 邸 があり 小 川 を 渡 ると があって その 先 右 側 に 小 さな 地 蔵 堂 がある 旧 道 は 直 進 して 高 月 中 学 校 の 前 を 通
輦 -44-
-45- り 高 月 町 役 場 交 差 点 で 国 道 に 合 流 する
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-52- があり そのすぐ 先 に 菅 山 寺 の 入 口 とあって ここから 国 道 と 分 かれて 右 斜 めに 進 む
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-54- 輦 上 蹟 とある その 先 にある 山 崎 食 品 店 の 四 十 メートルほど 先 右 側 に があり 更 に 百 メ ートルほど 先 の 四 つ 辻 の 右 角 に がある
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-63- があり 右 側 に 北 善 酒 造 がある
-64- 燧 ヶ 城 址 は 平 家 物 語 や 源 平 盛 衰 記 などで 知 られる 海 抜 二 七 〇 mで こ こは 木 の 芽 峠 へ 通 じる 北 陸 道 と 山 中 峠 への 道 筋 と 日 野 川 と 並 行 する 栃 の 木 峠 へ 通 じる 北 国 街 道 が いずれもこの 麓 で 交 わる 重 要 な 場 所 である 兌 換 の 藩 札 の 発 行 が 認 められ 福 井 藩 内 では 藩 札 が 強 制 されたので 藩 南 端 の 今 庄 では 旅 人 や 商 人 が 金 銀 と 藩 札 に 両 替 するための 御 札 場 を 設 けた 更 に 左 側 の 本 陣 跡 と 今 庄 についての 掲 示 があり 向 かい 側 の 昭 和 会 館 に 田 中 和 吉 の 像 があって 脇 本 陣 跡 があるが この 手 前 を 右 へ 曲 がれば 北 陸 本 線 今 庄 駅 である
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-78- があるが ここは 本 陣 を 兼 ねていた 石 倉 家 で 建 物 は 金 沢 市 の 江 戸 村 に 移 されていると 書 いてある これを 見 て 江 戸 村 には 金 沢 の 豪
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-81- 商 山 川 家 が 残 されていたのを 思 い 出 す すぐ 左 側 には があり そこからしばらくそのまま 進 むと 大 松 トンネルをくぐる 国 道 三 〇 五 号 線 とクロスする 戦 没 者 慰 霊 碑 が 多 く 旧 道 はJRと 並 行 して 直 進 するが これは 県 道 二 四 七 号 線 である 関 ヶ 鼻 の 地 に 入 る 左 側 に があり 右 側 に 疎 水 が 現 れると 熊 野 神 社 から 二 百 メートルほど 先 左 側 に がある その 百 メートルほど 先 で 関 ヶ 鼻 は 終 わり その 先 左 側 に 元 国 華 小 学 校 学 有 林 の 石 碑 があり 更 に 関 ノ 越 八 十 八 ヶ 所 森 林 公 園 の 案 内 板 がある
-82- 輦 所 の 石 碑 がある 左 手 奥 の 王 子 保 小 学 校 を 見 て 次 の 四 つ 辻 の 左 角 に
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-85- JAがあり ここを 左 折 すれば 北 陸 本 線 王 子 保 駅 である 〇
-86- その 先 右 側 にキョーセーという 会 社 の 手 前 で 左 斜 めに 進 み 右 側 の 一 本 松 を 見 て 陸 橋 でJRを 渡 る 国 道 に 合 流 して 五 差 路 の 交 差 点 から 前 方 に 二 本 の 道 が 続 いているが JR 沿 いでない 方 が 国 道 三 六 五 号 線 になった 旧 道 である 南 一 丁 目 とあ る 右 側 に があり 左 側 に 醤 油 醸 造 元 がある
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側 に や があり 更 に がある だったという そのすぐ 左 側 に 大 聖 不 動 明 王 の 石 柱 は とあり 右 地 元 の 古 老 に 訊 くと 国 道 になる 前 は 街 道 の 中 央 に 川 が 流 れ 松 並 木 に 整 備 して 用 水 と 並 行 して 旧 北 陸 道 には 並 木 が 植 えられた と 伝 えられる 日 野 川 から 取 り 入 れた 用 水 により 府 中 全 域 を 潤 すよう 〇 一 )から 町 造 りや 道 路 整 備 などと 並 行 して 町 用 水 の 大 改 修 を 行 った 旧 北 陸 道 と 町 用 水 は 府 中 に 封 じられた 本 田 富 正 が 慶 長 六 年 ( 一 六 崩 御 に 伴 って 建 立 された 角 に があり ここの 昭 和 天 皇 御 製 の 大 きな 石 碑 は 昭 和 天 皇 の 疎 水 を 渡 る 右 角 に がある その 向 かいの 右 者 を 供 養 するため 有 志 により 弘 化 四 年 ( 一 八 四 七 )に 再 建 された が 焼 失 したといわれる 天 明 天 保 の 大 飢 饉 で 餓 死 した 三 千 人 を 越 す 死 月 光 寺 は 永 正 年 間 ( 一 五 〇 四 ー 二 一 )に 創 立 され 銅 仏 庵 と 称 された -88-
-89- 輔 け たといわれる そして 蓮 如 上 人 の 懇 望 により 越 前 に 止 まり 永 正 十 二 年 ( 一 五 一 五 ) 当 地 に 開 山 したと 伝 えられる 北 野 神 社 は 天 暦 七 年 ( 九 五 三 )に 創 建 され 天 保 年 間 ( 一 八 三 〇 ー 四 四 ) 現 在 地 に 移 された 安 置 している 天 神 坐 像 は 市 指 定 文 化 財 である この 辺 りの 旧 道 沿 いに 鎌 や 包 丁 など 打 刃 物 問 屋 群 があり 西 側 一 帯 に 打 刃 物 の 工 場 群 が 見 られたという 今 もここの 沿 道 には が 多 く その 看 板 は 目 を 引 くものがある その 左 側 奥 には がある 龍 門 寺 城 は 正 安 元 年 ( 一 二 九 九 ) 創 建 された この 地 は 府 中 の 南 端 に あたることから 軍 事 上 の 要 所 とされ 天 正 元 年 ( 一 五 七 三 ) 織 田 信 長 が
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-91- 朝 倉 攻 めの 際 ここに 本 陣 を 構 えた 朝 倉 氏 滅 亡 後 には 一 向 一 揆 勢 によ り 支 配 され この 討 伐 のため 信 長 は 攻 め 入 らせて 再 び 龍 門 寺 城 に 入 って いる もう 既 に 府 中 宿 に 入 っているのだろう 間 もなく 蓬 莱 交 差 点 に 達 す る この 筋 違 いで 前 方 に 伸 びる 道 の 角 には 府 中 札 の 辻 とあり が あるが 旧 道 はこれより 一 本 西 側 の 道 である 尚 ここまでの 旧 道 も この 西 側 の 道 を 南 に 伸 ばしたように 資 料 の 地 図 にはあるが これは 中 世 以 前 の 道 らしく その 資 料 の 文 章 の 方 にも 実 際 に 歩 いてみても 地 元 で 聞 いても 歩 いてきた 道 でよいらしい
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- 101 - 桟 瓦 葺 の 四 脚 門 形 式 の 建 物 で 貞 享 五 年 ( 一 六 八 八 )に 建 てられたものである
- 102 - 洪 舊 所 跡 とある 鳥 羽 二 丁 目 に 入 り 交 差 点 を 横 切 る と 福 井 市 に 入 る その 先 で 横 切 る 県 道 とは 違 って 旧 道 の 方 は 閑 静 である 下 江 尻 町 に 入 り 左 側 に がある 点 滅 交 差 点 を 越 えると 左
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- 105 - 側 の 奈 良 時 代 の 高 僧 泰 澄 大 師 誕 生 地 遺 跡 があり 更 に 進 む と 左 側 の 祖 師 聖 人 蓮 如 上 人 御 遺 跡 がある しばらく 何 もなく 進 むと 左 側 に と があり その 先 左 側 に 古 い 家 が 何 軒 か 並 ぶ 中 に がある この 辺 りからが 麻 生 津 宿 だったのだろうか すぐ 川 を 渡 ると 麻 生 津 郵 便 局 が あり 左 へ 曲 がりすぐ 右 へ 曲 がって 皆 川 病 院 の 脇 を 通 る すぐ 右 側 に 月 泉 寺 とあるが 奥 にあるらしい 六 十 メートルほど 先 右 側 の には 親 鸞 聖 人 六 十 三 歳 木 造 御 自 作 とある その 四 十 メートル ほど 先 右 側 の には 松 平 昌 勝 公 御 祈 念 所 とある 右 側 に があり すぐ 右 側 に があって この 辺 りも 大 き な 家 が 並 んでいる その 先 の 三 股 は 右 の 二 本 は 県 道 に 出 てしまうので 左 の 川 に 接 する 道 を 進 む
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- 134 - 榛 ノ 木 原 交 差 点 を 越 えると 金 津 高 校 は 左 へ 二 〇 〇 mとある 市 姫 三 丁 目 となり 左 側 に があり 向 かい 側 に とあるが
道 とのT 字 路 で 右 へ 曲 がる 花 乃 杜 一 丁 目 は 上 りで 途 中 に 小 さな 地 蔵 堂 右 側 に があり すぐ 左 側 に があって 次 の 右 から 来 る 手 に 縄 文 遺 跡 があり その 裏 の 台 地 には 弘 法 大 師 創 建 の 総 持 寺 がある 大 鳥 神 社 は 江 戸 時 代 に 商 売 繁 盛 の 神 毘 沙 門 堂 と 呼 ばれた 境 内 の 山 永 臨 寺 は 順 徳 天 皇 の 遺 骨 が 佐 渡 より 京 へ 環 遷 のとき 一 泊 したという 差 点 を 右 へ 曲 がれば 金 津 小 学 校 があり 右 側 に がある 左 へ 曲 がった 旧 道 の 右 奥 に があり 更 に 稲 荷 神 社 がある 次 の 交 〇 線 芦 原 温 泉 駅 である 十 日 交 差 点 で 旧 道 は 左 へ 曲 がり 北 金 津 宿 へ 入 るが 右 折 すれば 北 陸 本 その 先 で 渡 る は 南 金 津 宿 と 北 金 津 宿 を 結 ぶ 重 要 な 橋 だった 元 に 戻 り もう 一 本 西 側 の 道 を 進 むと 六 日 区 本 陣 の 建 物 は 山 車 蔵 で めば 蓮 如 上 人 御 旧 跡 の の 前 を 通 って 竹 田 川 に 出 てしまう そこで あわら 市 役 所 前 交 差 点 の 右 角 に 保 育 園 と があり この 道 を 進 脇 にある 神 社 の 由 来 だけが 記 載 してあるのは 分 からない - 135 -
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- 137 - がある 花 乃 杜 二 丁 目 で 右 側 に 金 津 村 田 製 作 所 と 向 かいにあわらサンホ ームがある 左 側 で 目 に 付 くのは で 塚 は 大 きくないが 立 派 な 塚 木 が 残 っている 当 時 の 千 束 一 里 塚 は 東 側 に 二 本 と 西 側 に 一 本 の 榎 があり 木 陰 で 休 息 し 甘 い 果 実 を 食 べ 旅 の 疲 れを 癒 やしたという 現 在 のものは 西 の 一 里 塚 だけである 最 初 は 上 りが 少 しきつかったが その 後 は 平 坦 な 道 である 集 落 のはず れで 目 につく 大 きさの があり この 二 股 は 後 方 の の 前 を 通 る 左 の 道 を 進 む ここは 花 乃 杜 五 丁 目 で 県 道 二 九 号 線 に 合 流 する 螺 という
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- 139 - 会 社 である この 辺 りは 嫁 威 の 地 で 右 から 来 る 道 との 合 流 点 に があ り ここに 嫁 おどし 谷 の 由 来 が 書 いてある 更 に 二 百 メートルほど 先 右 側 に 金 津 繊 維 という 会 社 がある 嫁 おどし 谷 とは 蓮 如 上 人 が 吉 崎 の 山 にいるとき 山 十 楽 の 嫁 が 夫 や 子 供 二 人 に 先 立 たれ 世 の 無 常 を 感 じて 仏 法 に 帰 依 し 毎 晩 のように 吉 崎 へ 通 っていた それを 止 めさせようとした 姑 は 或 る 夜 ひそかに 鬼 の 面 をか ぶって この 谷 から 躍 り 出 たが 嫁 は 恐 れず 念 仏 を 唱 えながら 吉 崎 へ 向 か った 姑 も 己 の 行 為 を 恥 じて 蓮 如 上 人 の 御 化 導 を 頂 き 信 者 になった
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- 153 - があり すぐ 左 側 に があ る この 神 社 は 古 いらしく 寿 永 二 年 ( 一 一 八 三 ) 源 平 合 戦 で 焼 失 再 建 されたり 宝 暦 六 年 ( 一 七 五 六 )の 百 姓 一 揆 などでは 百 姓 の 集 合 場 所 に なったという 左 側 にJRが 最 接 近 してきて 左 側 の 田 んぼの 中 に 明 治 三 十 年 の 土 工 職 倉 持 三 蔵 の 小 さな 碑 があり この 右 側 に 加 賀 染 匠 という 会 社 がある
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- 155 - を 渡 ると 左 側 に があり すぐ 右 側 に 八 日 市 公 民 館 があり その 手 前 に 白 水 の 井 戸 は 右 へ 一 八 〇 mという 標 識 があるが これ は 蓮 如 上 人 巡 錫 の 地 とある その 先 はすぐ 左 へJRをくぐり 県 道 三 九 号 線 に 合 流 して 右 へ 進 む 高 架 橋 をくぐると 右 側 に がある この 一 里 塚 も 明 治 時 代 前 期 に 民 間 に 払 い 下 げられ 水 田 になった 都 もどり 地 蔵 とは 鎌 倉 時 代 初 期 の 歌 人 西 行 が 弟 子 の 西 住 と 諸 国 行 脚 をした 折 大 聖 寺 川 上 流 西 住 村 に 滞 在 し 渓 谷 の 美 しさを 愛 でたとい う やがて 西 行 が 京 へ 帰 るとき 西 住 とこの 辺 りで 別 れ この 場 所 にはいつ しか 地 蔵 が 祀 られ 人 々は 都 もどり 地 蔵 と 呼 んだ もろともにながめな がめて 秋 の 月 ひとりにならんことぞかなしき と 西 行 は 詠 んだという
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- 172 - 梯 川 沿 いに 進 むと 左 側 に 梯 大 橋 モニ ュメントがある その 先 の を 渡 ると 右 側 に があり 車 は 右 へカーブしていくが 本 来 は 真 っ 直 ぐな 道 だったらしく 石 段 を 下 るとそ の 道 に 出 る その 右 側 に 茶 屋 町 会 館 があり 橋 を 渡 ってきた 車 道 と 合 流 する その 先 の 梅 田 町 交 差 点 で 県 道 一 六 九 号 線 に 合 流 し 島 田 町 交 差 点 の 手 前 に 忠 魂 碑 があり 渡 った 所 に がある 旧 道 は 高 架 橋 をくぐり JRをくぐっていくが そのとき 左 手 を 見 ると 北 陸 本 線 明 峰 駅 がある これは 地 元 の 願 いで 作 られた 新 しい 駅 らしい
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- 205 - とある そ して 次 の 東 山 交 差 点 までの 右 奥 にひがし 茶 屋 街 がある
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- 208 - があり 右 側 に 北 鉄 バス 車 庫 と 左 側 にコスモGSがあ る 右 側 に 松 田 弥 三 次 郎 君 之 碑 があり その 先 に がある 国 道 との 合 流 点 に があり 今 日 は 町 内 の 人 たちが 読 経 により 詣 でている そのすぐ 先 の 百 坂 バス 停 で 国 道 一 五 九 号 線 に 合 流 して
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が 見 られるが 余 り 太 くない この 左 側 は である ある その 先 に 松 の 木 が 点 在 して 高 架 橋 の 手 前 の 約 百 メートルに 松 並 木 に 二 本 の 太 い 松 の 真 ん 中 に 石 碑 があり と 右 側 の の 先 で 森 本 大 橋 を 渡 ると 左 側 に がある 更 差 点 を 過 ぎる 館 の 前 を 通 る 左 側 にJAがあり 右 側 に 消 防 署 があって 森 本 支 所 前 交 またいでいる 高 架 橋 を 下 りながら 左 手 に 森 本 中 学 校 を 見 て 森 本 公 民 森 本 北 交 差 点 から 県 道 二 〇 五 号 線 を 進 むが この 道 は 上 り 坂 でJRを 〇 えて 森 本 駅 前 交 差 点 を 過 ぎる 差 点 を 過 ぎる 森 本 南 交 差 点 を 過 ぎると 北 陸 本 線 森 本 駅 が 左 手 に 見 右 側 に があり をくぐって 金 沢 北 陵 高 校 前 交 進 むと 左 側 に 交 通 安 全 世 界 の 願 いのモニュメントがある - 211 -
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- 215 - がある 旧 道 は 四 ツ 角 交 差 点 で 右 へ 曲 がるが この 左 角 の には 至 る 金 沢 四 里 富 山 十 三 里 とある このバックに 建 っているのは 長 生 舞 や 能 登 路 の 醸 造 元 の で ここの 包 装 紙 には 寛 政 年 間 の 酒 造 の 図 が 描 かれ
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駐 車 場 と 野 球 場 が 並 び その 先 の 公 衆 トイレとの 間 の 道 を 下 る 台 から 聞 こえる 玉 の 音 はテニスコートらしく 右 側 に が 現 れ り 更 に 右 側 にトステックという 会 社 がある 運 動 公 園 に 来 ると 左 側 高 右 側 に 日 本 フィルター 工 業 左 側 の 高 台 への 細 い 階 段 には とあ の 角 に があって 旧 道 は 左 の 運 動 公 園 の 方 へ 向 かう へカーブして 倉 見 川 を で 渡 る その 先 には 集 落 が 現 れて 二 股 左 側 に 戦 没 者 慰 霊 碑 があり 高 校 前 バス 停 と 倉 見 口 バス 停 を 過 ぎて 右 幡 踏 切 で 渡 るとき 左 手 を 見 ると 七 尾 線 中 津 幡 駅 がある 化 二 年 ( 一 八 四 五 )の 石 碑 がある 県 道 津 幡 交 差 点 を 越 え 七 尾 線 を 津 交 差 点 から 百 メートルほど 先 の 民 家 の 角 に せったい 茶 と 刻 まれた 弘 達 するが ここで 右 折 すれば 北 陸 本 線 津 幡 駅 である がある 総 門 川 を で 渡 り 国 道 一 五 九 号 線 との 津 幡 交 差 点 に 道 標 がある 所 で 右 へ 曲 がると 七 ー 八 十 メートル 先 左 側 に ている この 向 かい 角 に 高 札 場 があったという - 217 -
- 218 - を 見 るとすぐ があり この 先 から 民 家 が なくなる 二 股 に があって 熊 出 没 注 意 と 掲 示 してあるので 鈴 をつけて 左 の 道 へ 進 む 昔 この 道 は 倶 利 伽 羅 の 長 楽 寺 への 参 詣 道 として 大 変 にぎわった また 源 平 倶 利 伽 羅 合 戦 で 勝 利 した 木 曽 義 仲 が 京 へ 上 った 道 であり 奥 の 細 道 行 脚 の 芭 蕉 も 歩 き 加 賀 の 殿 様 が 江 戸 への 参 勤 交 代 で 通 った 道 である 北 陸 道 の 道 標 の 手 前 に 地 蔵 堂 があり 階 段 が 右 へカーブする 所 に
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- 221 - がある 更 に 階 段 を 上 ると があり これが 車 止 めにもなっているから 車 は 入 れない ここから 下 りに 入 り 舗 装 道 路 に 出 て 右 へ 曲 がり 五 十 メートル 先 で 左 へ 曲 がって ここから 上 り 道 で 途 中 から 砂 利 道 になる やがて があり 左 へ 曲 がると 舗 装 道 路 には 龍 ヶ 峰 城 跡 について 掲 示 があって その 先 左 側 に とある 龍 ヶ 峰 城 跡 は 北 陸 道 を 眼 下 に 見 下 ろす 交 通 の 要 衝 で 一 向 一 揆 に 加 担 する 土 豪 村 上 右 衛 門 が 在 城 したとされ 天 正 年 間 ( 一 五 七 三 ー 九 一 ) には 上 杉 謙 信 の 本 陣 になり 更 に 佐 々 成 政 が 使 用 して 前 田 利 家 との 戦 禍 に 巻 き 込 まれたという
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( 著 者 経 歴 ) 中 山 高 安 (なかやまたかやす) 1939 年 東 京 都 に 生 まれる 1964 年 慶 應 義 塾 大 学 工 学 部 卒 業 鐘 紡 に 入 社 コンピューター 関 係 のSEから 営 業 部 長 まで 歴 任 1987 年 コンピューターネットワーク 会 社 の 取 締 役 として 出 向 1990 年 コンピューターソフトウェアー 会 社 の 代 表 取 締 役 として 出 向 1995 年 定 年 退 職 後 経 営 コンサルタント 会 社 を 設 立 第 二 の 人 生 を 模 索 しながら 文 筆 活 動 随 筆 第 二 の 人 生 小 説 マンマシン 随 筆 人 生 いろいろだから 楽 しいだから 生 きてく 紀 行 文 ウォーキング 旧 中 山 道 ( 日 本 橋 ー 分 去 れ) 絵 のない 絵 本 ー 私 は 猫 です(1)(2) 2002 年 紀 行 文 街 道 を 歩 く のシリーズを 始 める 中 山 道 ( 日 本 橋 ー 分 去 れ) 中 山 道 ( 分 去 れー 大 井 ) 中 山 道 ( 大 井 ー 京 都 ) 北 国 街 道 川 越 街 道 日 光 道 中 2003 年 日 光 御 成 道 と 日 光 西 街 道 日 光 例 幣 使 街 道 千 人 同 心 日 光 道 2004 年 水 戸 道 中 奥 州 街 道 ( 宇 都 宮 ー 白 河 ) 2005 年 奥 州 街 道 ( 白 河 ー 古 川 ) 奥 州 街 道 ( 古 川 ー 龍 飛 崎 ) 陸 前 浜 街 道 ( 水 戸 ー 仙 台 ) 2006 年 出 羽 三 山 参 詣 道 ( 仙 台 ー 鶴 岡 ー 新 庄 ) 山 陽 道 ( 京 都 ー 西 宮 ) 山 陽 道 ( 西 宮 ー 三 原 ) 山 陽 道 ( 三 原 ー 下 関 ) 2007 年 長 崎 街 道 ( 門 司 ー 長 崎 ) 薩 摩 街 道 ( 山 家 ー 鹿 児 島 ) 2008 年 北 陸 道 ( 鳥 居 本 ー 金 沢 ー 石 動 ) 北 陸 道 ( 石 動 ー 高 田 ー 出 雲 崎 ) 2009 年 全 国 の 街 道 を 歩 く 2010 年 関 東 の 旧 鎌 倉 街 道 ( 上 道 山 ノ 道 と 中 道 下 道 )の 地 図 街 道 を 歩 く 北 陸 道 1( 鳥 居 本 ー 金 沢 ー 石 動 ) 2011 年 8 月 25 日 電 子 版 発 行 著 者 注 文 出 版 中 山 高 安 350-1151: 埼 玉 県 川 越 市 今 福 1472-20 TEL&FAX:049-248-2674