1 中 世 前 期 から 南 北 朝 期 の 下 総 国 ~ もともとは 下 総 国 の 政 治 の 中 心 であった 東 葛 (1) 下 総 国 府 の 置 かれた 市 川 の 国 府 台 下 総 の 国 の 政 治 上 の 中 心 は 古 代 は 国 府 のあった 現 在 の 市 川 中 心 部 から 北 に 位 置 する 国 府 台 辺 りであった 国 府 の 近 くには 国 分 僧 寺 国 分 尼 寺 があり それら があった 場 所 は 後 に 述 べる 国 分 氏 ゆかりの 国 分 という 地 名 で 呼 ばれている 現 在 あ る 真 間 山 弘 法 寺 も 国 府 台 と 一 続 きの 台 地 上 にあり その 台 地 の 下 の 市 川 真 間 辺 り は 万 葉 集 で 詠 われた 真 間 の 手 児 奈 の 伝 説 で 有 名 である 平 安 時 代 関 東 では 平 将 門 の 乱 などあったが 坂 東 平 氏 は 着 々と 勢 力 を 確 立 して いった そのなかで 平 忠 常 を 祖 とする 千 葉 介 常 胤 上 総 介 広 常 は 両 総 で 勢 力 を 伸 ばし 平 治 の 乱 で 源 義 朝 が 敗 れた 結 果 流 されていた 伊 豆 を 脱 出 した 頼 朝 を 庇 護 し た 治 承 四 年 (1180) 頼 朝 の 挙 兵 のおり 頼 朝 とそれに 従 う 千 葉 介 常 胤 がその 六 子 ( 太 郎 胤 正 相 馬 次 郎 師 胤 武 石 三 郎 胤 盛 大 須 賀 四 郎 胤 信 国 分 五 郎 胤 通 東 六 郎 胤 頼 )を 伴 って 参 会 したのも 下 総 国 府 であった (2) 千 葉 氏 の 台 頭 千 葉 常 胤 は 上 総 介 平 広 常 が 頼 朝 にとって 誅 されると その 領 地 をも 併 合 し 有 力 な 鎌 倉 御 家 人 としての 地 位 を 確 立 した 千 葉 氏 の 本 拠 地 は もともとは 大 椎 であった が 今 の 千 葉 市 中 心 部 に 進 出 し 千 葉 城 ( 亥 鼻 城 )を 根 拠 とした 常 胤 の 子 らは 下 総 の 各 地 に 散 って 多 くの 子 孫 を 残 していった 太 郎 胤 正 は 宗 家 として 千 葉 庄 千 田 庄 などの 下 総 の 所 領 を 継 承 したほか 上 総 介 広 常 の 上 総 の 遺 領 や 北 九 州 の 小 城 な どを 伝 領 した 相 馬 次 郎 師 常 は 相 馬 御 厨 を 継 承 した( 後 に 奥 州 行 方 郡 などを 領 して 子 孫 の 主 流 は 奥 州 相 馬 氏 となった) 相 馬 郡 は 千 葉 常 胤 の 一 族 である 常 晴 が 常 胤 の 父 常 重 に 領 地 を 譲 ったことから もともと 千 葉 氏 とゆかりが 深 く 相 馬 御 厨 が 伊 勢 神 宮 に 寄 進 されたとはいえ 事 実 上 の 支 配 者 は 千 葉 氏 であった その 千 葉 氏 の 主 要 な 根 拠 地 で ある 相 馬 を 相 馬 師 常 が 継 承 したことは 嫡 子 である 胤 正 についで 次 男 である 師 常 が 重 視 されていたことを 示 している 武 石 三 郎 胤 盛 は 千 葉 の 武 石 郷 と 陸 奥 の 宇 多 伊 具 亘 理 の 三 郡 を 大 須 賀 四 郎 胤 信 は 下 総 香 取 郡 大 須 賀 保 と 陸 奥 岩 城 郡 などを 領 した 国 分 五 郎 胤 通 は 葛 飾 郡 国 分 郷 香 取 郡 大 戸 庄 などを 領 し 東 六 郎 胤 頼 は 香 取 郡 木 内 庄 立 花 庄 三 崎 庄 など を 領 した 東 氏 の 子 孫 は 美 濃 郡 上 郡 にも 領 地 をもち 移 住 して 美 濃 東 氏 となった 有 名 な 東 常 縁 は その 美 濃 東 氏 の 出 身 である また 元 寇 に 備 え 鎌 倉 幕 府 の 御 家 人 は 九 州 へ 下 向 一 部 はそのまま 九 州 に 留 まる ことになり 千 葉 氏 の 本 宗 であるはずの 宗 胤 が 下 向 して 九 州 千 葉 氏 が 生 まれ 後 に 下 総 千 葉 氏 と 対 立 することになった 1 森 湖 城
(3) 相 馬 氏 の 繁 栄 と 奥 州 への 移 転 相 馬 氏 は 相 馬 御 厨 の 事 実 上 の 支 配 者 として 繁 栄 した 相 馬 御 厨 が 香 取 の 海 手 賀 沼 の 水 運 を 利 用 して 現 在 の 利 根 川 下 流 地 域 や 江 戸 川 流 域 とも 交 易 が 可 能 であったことも 一 つの 要 因 であろう しかし 相 馬 氏 の 繁 栄 は 分 割 相 続 が 繰 り 返 されたことや 家 督 相 続 の 争 いから 次 第 に 翳 りがみえてくる 鎌 倉 中 期 相 馬 胤 綱 の 没 後 未 亡 人 である 相 馬 尼 は 嫡 子 胤 継 を 義 絶 ( 尼 の 子 胤 村 が 多 くを 相 続 ) さらに 胤 村 の 死 後 も 家 督 争 いが 起 った 結 局 胤 村 没 後 は 師 胤 が 陸 奥 国 行 方 郡 内 を 譲 与 され 奥 州 に 基 盤 胤 氏 の 子 孫 は 下 総 に 留 まり 南 北 朝 期 には 奥 州 相 馬 氏 は 北 朝 下 総 相 馬 氏 は 南 朝 につ いたため 下 総 相 馬 氏 は 勢 いを 失 い 守 谷 を 拠 点 としたものの その 他 相 馬 郡 に 残 存 した 所 領 に 分 散 する 奥 州 に 移 った 相 馬 氏 からも 相 馬 岡 田 氏 など 庶 流 が 分 立 した 相 馬 氏 の 一 族 である 戸 張 氏 や 藤 ヶ 谷 相 馬 氏 ( 藤 ヶ 谷 氏 )は 戦 国 時 代 にも 残 ったが 後 述 するように 別 の 土 地 に 退 転 または 高 城 氏 配 下 となった 2 室 町 時 代 前 期 の 争 乱 ( 関 東 武 士 の 独 立 性 を 背 景 とした 伝 統 的 権 威 同 士 の 権 力 争 い) (1) 鎌 倉 公 方 南 北 朝 の 争 乱 を 経 て 室 町 の 世 となり 京 に 開 かれた 室 町 幕 府 は 建 武 新 政 で 鎌 倉 に 置 かれた 鎌 倉 府 を 引 き 続 き 関 東 統 治 の 拠 点 とした 足 利 尊 氏 が 弟 直 義 を 滅 ぼし 足 利 幕 府 の 権 力 を 確 立 しようとしていたことから 足 利 幕 府 の 東 国 支 配 の 機 関 として 位 置 づけられた 鎌 倉 府 の 代 表 が 鎌 倉 公 方 であり 千 葉 氏 はその 鎌 倉 公 方 基 氏 を 支 える 立 場 にあった 一 面 鎌 倉 府 は 東 国 武 士 の 自 立 の 拠 り 所 であり 鎌 倉 公 方 も 中 央 政 界 とは 独 自 の 立 場 を 志 向 するようになる 基 氏 の 後 鎌 倉 公 方 は 子 の 足 利 氏 満 に 引 き 継 がれ さらにその 子 足 利 満 兼 が 三 代 目 の 鎌 倉 公 方 となり 満 兼 のあとは 幸 王 丸 のちの 持 氏 となった 東 国 に 独 自 の 権 威 を 確 立 しようとする 鎌 倉 公 方 とそのもとで 実 力 をつけてきた 上 杉 氏 は 代 を 経 るごとに 対 立 を 深 めた < 鎌 倉 公 方 ゆかりの 報 国 寺 > 2 森 湖 城
(2) 上 杉 禅 秀 の 乱 その 足 利 持 氏 に 対 して 応 永 23 年 (1416)10 月 鎌 倉 公 方 を 支 えるはずの 関 東 管 領 上 杉 禅 秀 が 反 乱 を 起 こす 上 杉 禅 秀 は 応 永 23 年 (1416) 甲 斐 守 護 の 武 田 信 満 などを 巻 き 込 んで 足 利 持 氏 に 対 して 反 乱 を 起 こしたが 幕 府 と 駿 河 の 今 川 勢 が 鎌 倉 公 方 を 救 援 し 上 杉 禅 秀 は 敗 れて 自 害 足 利 基 氏 は 御 所 を 脱 出 して 反 撃 し 翌 応 永 24 年 (1417)1 月 上 杉 禅 秀 は 自 決 した 千 葉 氏 は 上 杉 禅 秀 の 親 戚 であったために 当 初 上 杉 禅 秀 の 側 につくが すぐに 降 参 した (3) 永 享 の 乱 その 当 時 鎌 倉 公 方 足 利 持 氏 は 自 分 が 将 軍 の 後 継 者 となろうとしていたた め 将 軍 足 利 義 教 中 央 の 幕 府 と 対 立 し 室 町 幕 府 に 連 なる 東 国 の 佐 竹 宇 都 宮 小 栗 などの 領 主 層 を 討 伐 するなど 反 幕 府 的 な 行 動 をとっていた 持 氏 の 反 幕 府 的 な 行 動 をおさえていた 関 東 管 領 上 杉 憲 実 は 持 氏 から 疎 んぜ られ やがて 両 者 は 対 立 するようになった 永 享 10 年 (1438)6 月 には 持 氏 が 嫡 子 賢 王 丸 ( 義 久 )の 元 服 を 幕 府 に 無 断 を 行 なったことから 関 東 管 領 上 杉 憲 実 と 対 立 し 上 杉 憲 実 が 上 州 平 井 城 に 逃 れると これを 討 つために 持 氏 は 軍 勢 を 差 し 向 けた 永 享 10 年 (1438)8 月 上 野 に 下 国 した 上 杉 憲 実 に 室 町 幕 府 は 今 川 氏 篠 川 公 方 白 河 結 城 氏 らに 命 じて 合 力 させ 持 氏 は 自 ら 出 陣 した 千 葉 胤 直 は 持 氏 に 随 って 出 陣 し 持 氏 を 諫 めたが 容 れられず 退 陣 翌 永 享 11 年 (1439)2 月 足 利 持 氏 とその 嫡 子 義 久 は 自 害 これを 永 享 の 乱 と いう 永 享 の 乱 の 対 立 構 図 ( 将 軍 ) 足 利 義 教 ( 鎌 倉 公 方 ) 足 利 持 氏 ( 関 東 管 領 ) 上 杉 憲 実 今 川 氏 など 一 色 氏 結 城 氏 3. 古 河 公 方 の 誕 生 と 享 徳 の 大 乱 ( 関 東 戦 国 時 代 の 始 まり 馬 加 氏 系 千 葉 氏 の 成 立 ) (1) 古 河 公 方 足 利 成 氏 と 下 総 の 動 乱 永 享 の 乱 の 翌 年 持 氏 遺 児 の 安 王 丸 春 王 丸 を 擁 した 持 氏 残 党 は 結 城 氏 朝 とともに 結 城 城 に 籠 り 結 城 合 戦 が 戦 われる 嘉 吉 元 年 (1441)4 月 結 城 城 は 落 城 結 城 氏 朝 も 敗 死 し 捕 まった 安 王 丸 春 王 丸 は 美 濃 で 斬 られた 生 き 残 った 足 利 万 寿 王 丸 は 鎌 倉 に 復 帰 文 安 6 年 (1449)6 月 鎌 倉 公 方 と 3 森 湖 城
なる 後 の 古 河 公 方 足 利 成 氏 である 享 徳 3 年 (1454)12 月 足 利 成 氏 の 近 習 結 城 武 田 里 見 らは 関 東 管 領 上 杉 憲 忠 を 謀 殺 したのに 端 を 発 し 文 明 14 年 (1483)の 都 鄙 合 体 まで20 年 以 上 にわたり 成 氏 方 と 上 杉 氏 が 各 地 で 戦 う 享 徳 の 大 乱 となる 享 徳 の 大 乱 の 対 立 構 図 ( 将 軍 ) 足 利 義 政 ( 古 河 公 方 ) 足 利 成 氏 山 内 扇 谷 上 杉 氏 堀 越 公 方 足 利 政 知 馬 加 系 千 葉 氏 小 山 氏 など 太 田 道 灌 武 蔵 千 葉 氏 ( 対 立 講 和 対 立 ) 享 徳 4 年 (1455)6 月 自 らが 宇 都 宮 氏 討 伐 などで 留 守 をしている 最 中 に 幕 命 を 受 けた 今 川 氏 に 鎌 倉 を 占 拠 された 足 利 成 氏 は 鎌 倉 に 帰 ることがで きず 古 河 に 本 拠 を 構 え 古 河 公 方 となった 長 禄 2 年 (1458) 将 軍 義 政 は 異 母 兄 政 知 を 新 しい 鎌 倉 公 方 として 送 り 込 む が 関 東 の 武 士 たちの 支 持 を 得 られず 鎌 倉 に 入 れないために 伊 豆 の 堀 越 にとどまった( 堀 越 公 方 ) 長 禄 3 年 (1459)には 反 公 方 勢 力 が 武 蔵 の 五 十 子 に 以 後 18 年 間 陣 を 張 るなど 関 東 の 反 公 方 勢 力 の 動 きも 活 発 化 した 一 方 下 総 国 では 享 徳 4 年 (1455 7 月 に 改 元 して 康 正 元 年 ) 関 東 の 覇 者 を 目 指 す 足 利 成 氏 に 呼 応 して 千 葉 氏 の 庶 子 であった 馬 加 康 胤 は 千 葉 氏 重 臣 である 原 胤 房 とともに 反 成 氏 で 関 東 管 領 上 杉 氏 に 近 い 千 葉 介 胤 直 一 族 を 千 葉 城 に 攻 め さらに 千 葉 城 を 脱 出 し 千 田 庄 の 志 摩 城 や 多 古 城 に 拠 っ た 千 葉 介 胤 直 一 族 を 土 橋 の 如 来 堂 やその 周 辺 で 自 刃 に 追 い 込 んだ 康 正 元 年 (1455)11 月 東 常 縁 は 千 葉 氏 の 分 家 にあたる 国 分 大 須 賀 ら 一 族 を 率 いて 馬 加 氏 の 本 拠 である 馬 加 城 を 攻 め 康 正 2 年 (1456)4 月 に は 馬 加 康 胤 胤 持 父 子 の 拠 る 千 葉 城 を 攻 撃 した 馬 加 康 胤 胤 持 父 子 は 東 軍 に 追 い 詰 められ 千 葉 城 を 脱 出 上 総 国 八 幡 で 抵 抗 したが 結 局 馬 加 康 胤 は 自 刃 胤 持 も 戦 死 した その 後 の 千 葉 家 当 主 は 馬 加 康 胤 の 庶 長 子 弟 養 子 と 続 柄 に 諸 説 あるが 岩 橋 殿 といわれていた 岩 橋 輔 胤 が 継 ぎ 輔 胤 は 原 胤 房 と 下 総 国 内 で 分 散 して 東 常 縁 軍 に 抵 抗 を 続 けた 本 佐 倉 城 を 築 城 したのは その 岩 橋 輔 胤 または 文 明 3 年 (1473)に 輔 胤 が 出 家 退 隠 して 家 督 を 継 いだ 千 葉 介 孝 胤 である 築 城 時 期 は 文 明 年 間 終 り (1486) 頃 といわれる 結 局 東 常 縁 らに 馬 加 康 胤 胤 持 は 討 たれたもの の 康 胤 の 庶 子 といわれる 岩 橋 輔 胤 が 勢 力 を 盛 り 返 し 千 葉 宗 家 を 継 ぎ 以 降 馬 加 系 千 葉 氏 が 歴 代 の 千 葉 氏 宗 主 となり 原 氏 は 千 葉 氏 の 宿 老 として 4 森 湖 城
その 勢 力 を 強 大 なものとした 馬 加 系 千 葉 氏 が 宗 家 となって 居 城 は 常 胤 以 来 の 千 葉 城 から 本 佐 倉 城 へ 移 された 本 佐 倉 が 馬 加 系 千 葉 氏 の 拠 点 とされたのには 輔 胤 が 岩 橋 を 拠 点 として 地 理 的 に 近 く 築 城 するのに 適 した 地 と 目 星 を 付 けていたこともあろうが 印 旛 沼 の 水 運 を 使 って 足 利 成 氏 のいた 古 河 と 連 絡 がとりやすくする 一 方 で 武 蔵 から 遠 い 内 陸 部 に 拠 点 を 移 して 武 蔵 千 葉 氏 や 上 杉 氏 からの 攻 撃 を 臼 井 などの 防 衛 線 で 防 ぐ 意 図 があったと 思 われる 一 方 胤 直 の 弟 で 自 刃 した 胤 賢 の 子 実 胤 自 胤 は 土 橋 の 如 来 堂 を 逃 れ 一 時 東 常 縁 や 両 上 杉 氏 に 後 援 されて 市 川 城 に 拠 ったが それは 長 く 続 かな かった 足 利 成 氏 は 康 正 2 年 (1456) 正 月 胤 賢 の 子 実 胤 自 胤 の 拠 る 市 川 城 を 急 襲 したため 実 胤 は 武 蔵 の 石 浜 城 へ 自 胤 も 武 蔵 赤 塚 城 へ 落 ちてい き 武 蔵 千 葉 氏 として 馬 加 系 千 葉 氏 と 対 立 を 続 けていくことになる (2) 境 根 原 合 戦 以 降 の 古 河 公 方 の 勢 力 と 周 辺 勢 力 の 角 逐 享 徳 の 乱 の 間 上 杉 家 のなかの 扇 谷 上 杉 氏 が 家 宰 太 田 道 灌 の 活 躍 もあ って 台 頭 してきたが 一 方 の 関 東 管 領 職 を 歴 任 する 山 内 上 杉 家 では 家 宰 職 の 相 続 をめぐって 文 明 8 年 (1476) 正 月 長 尾 景 春 が 乱 を 起 こした 当 時 も 両 上 杉 氏 は 古 河 公 方 足 利 成 氏 と 戦 っていたが 長 尾 景 春 は 成 氏 に 味 方 し 文 明 8 年 (1476)6 月 には 武 蔵 国 五 十 子 で 上 杉 勢 を 攻 撃 している そし て 18 年 続 いた 五 十 子 の 陣 は 崩 壊 長 尾 景 春 はその 後 も 上 杉 方 を 包 囲 上 杉 方 では 乱 拡 大 を 防 ぐため 古 河 公 方 と 和 睦 停 戦 することにした ま た 古 河 公 方 方 も 兵 を 休 めることに 同 意 し ここに 和 睦 が 成 立 する しかし 古 河 公 方 との 和 睦 が 成 立 した 以 降 も 長 尾 景 春 の 挙 兵 には 古 く からの 有 力 豪 族 で 平 塚 城 城 主 であった 豊 島 泰 経 が 同 調 蜂 起 するなど 武 蔵 国 だけでなく 相 模 国 など 広 範 囲 に 戦 われた 文 明 10 年 (1478)に 足 利 成 氏 と 和 睦 した 扇 谷 上 杉 氏 の 家 宰 太 田 道 灌 は 軍 勢 を 整 え 当 時 古 河 公 方 足 利 成 氏 と 上 杉 氏 の 和 睦 に 反 対 し 反 足 利 成 氏 になってい た 千 葉 孝 胤 を 攻 めるべく 弟 の 太 田 図 書 資 忠 と 千 葉 氏 宗 家 を 馬 加 康 胤 らに 追 わ れ 武 蔵 石 浜 城 主 となった 千 葉 自 胤 らを 下 総 に 向 けて 出 陣 させた 千 葉 孝 胤 やそ の 重 臣 原 氏 らもこれを 迎 え 撃 つために 軍 勢 を 率 いて 西 進 し 12 月 10 日 に 葛 飾 の 境 根 原 ( 柏 市 酒 井 根 )で 両 軍 は 激 戦 を 繰 り 広 げた 末 千 葉 軍 の 大 敗 となった 千 葉 軍 のうち 原 氏 木 内 氏 といった 重 臣 たちが 討 死 を 遂 げた 柏 市 域 の 高 田 に 拠 っていた 匝 瑳 勘 解 由 や 我 孫 子 の 野 嶋 入 道 今 泉 入 道 も 戦 死 したが こ ちらは 武 蔵 千 葉 氏 方 である 5 森 湖 城
< 境 根 原 合 戦 場 跡 > (3) 臼 井 城 の 攻 防 戦 いに 敗 れた 千 葉 孝 胤 は 臼 井 城 に 拠 って 再 度 太 田 軍 と 戦 うことになる 翌 文 明 11 年 (1479) 年 1 月 18 日 太 田 図 書 資 忠 武 蔵 の 千 葉 自 胤 らの 軍 勢 は 千 葉 孝 胤 の 拠 る 臼 井 城 を 包 囲 したものの 守 りの 固 さに 攻 めあぐね 長 陣 となった このため 上 杉 家 の 将 兵 たちの 間 に 長 陣 を 厭 い 帰 国 するものが 相 次 いだ そこで 太 田 道 灌 は 千 葉 自 胤 に 指 示 して 房 総 の 武 将 の 千 葉 氏 離 れを 画 策 し 千 葉 自 胤 は 上 総 国 庁 南 城 の 武 田 三 河 信 興 入 道 道 鑑 と 丸 ヶ 谷 城 主 の 武 田 上 総 介 を 孝 胤 に 背 かせた 武 田 三 河 入 道 は 千 葉 自 胤 と 共 に 下 総 国 海 上 郡 飯 沼 ( 銚 子 市 飯 沼 )を 支 配 していた 海 上 備 中 守 師 胤 を 降 伏 させるなど 臼 井 城 周 辺 に 揺 さ 振 りを 掛 けていった しかし 惣 構 で 堅 固 な 守 りの 臼 井 城 を 落 とすのは 容 易 でなく 太 田 図 書 資 忠 千 葉 自 胤 らもこれ 以 上 長 陣 を 敷 いても 効 果 なしとして 7 月 15 日 に 一 旦 引 き 揚 げようとした これに 対 し 臼 井 城 から 兵 が 打 って 出 て 戦 い となり 太 田 図 書 をはじめ 五 十 七 人 の 将 兵 が 討 ち 取 られた 太 田 図 書 が 討 死 し たのは 現 在 墓 のある 第 2 郭 の 空 掘 の 西 側 だったという 太 田 図 書 らは 討 死 した が 太 田 軍 の 反 撃 で 臼 井 城 は 結 局 落 とされた 千 葉 自 胤 は 臼 井 城 に 城 代 を 置 き 武 蔵 国 に 引 き 揚 げたが 臼 井 城 はまもなく 千 葉 孝 胤 に 奪 回 された < 臼 井 城 跡 にたつ 太 田 図 書 の 墓 > 6 森 湖 城
4. 小 弓 公 方 の 成 立 と 第 一 次 国 府 台 合 戦 まで ( 伝 統 的 権 威 の 分 裂 抗 争 と 上 総 武 田 氏 里 見 氏 の 台 頭 ) (1) 上 総 武 田 氏 の 下 総 侵 攻 下 総 が 動 乱 にあった 頃 上 総 でも 武 田 氏 ( 甲 斐 の 武 田 と 同 族 )が 近 隣 の 小 土 豪 を 屈 服 させていた その 上 総 武 田 氏 の 初 代 は 古 河 公 方 足 利 成 氏 によって 上 総 国 の 支 配 を 認 められて 同 国 を 支 配 した 武 田 信 長 である 康 正 元 年 (1455) 武 田 信 長 は 里 見 義 実 らとともに 山 内 上 杉 房 顕 の 拠 る 武 蔵 国 騎 西 城 を 攻 め 翌 康 正 2 年 (1456) 年 成 氏 が 千 葉 実 胤 自 胤 を 市 川 城 に 攻 めた 際 にも 子 の 信 高 らとともに 上 総 地 方 へ 侵 攻 した 上 総 に 入 った 信 長 は 庁 南 真 理 谷 の 二 城 を 築 いて 根 拠 と し 庁 南 城 は 上 総 東 部 を 制 し 真 理 谷 城 は 上 総 西 部 を 鎮 する 役 割 を 担 った さら に 久 留 里 や 椎 津 造 南 峰 上 笹 子 などに 城 を 築 いて 一 族 を 配 置 し 支 配 体 制 を 確 立 していった そして 真 理 谷 城 には 嫡 男 の 信 高 を 入 れ 自 らは 庁 南 城 に 拠 った 戦 国 前 期 になると 真 里 谷 に 拠 った 真 里 谷 武 田 氏 ( 真 里 谷 氏 )が 上 総 国 西 部 から 中 部 一 帯 を 領 有 する 大 勢 力 となり 北 上 して 下 総 国 境 の 生 実 をうかがうことに なる 小 弓 城 ( 南 生 実 の 小 弓 城 ではなく 北 生 実 城 )を 守 る 原 氏 は その 上 総 真 里 谷 城 主 であった 武 田 信 保 と 度 々 所 領 争 いを 行 っている 本 土 寺 過 去 帳 によると 文 明 3 年 (1471)に 小 弓 館 を 攻 められて 討 死 した 原 越 前 入 道 道 喜 という 人 物 がいるが この 時 に 小 弓 城 は 落 ちたものと 思 われる しかし 永 正 6 年 (1509)には 原 胤 隆 が 連 歌 師 の 宗 長 を 招 いて 連 歌 を 行 っているから その 間 のどこかで 奪 還 したものと 思 われる 原 胤 清 の 子 胤 貞 の 代 には 臼 井 城 に 入 り 臼 井 の 実 質 的 な 領 主 を 兼 ね 小 弓 臼 井 両 城 主 と 呼 ばれた (2) 小 弓 公 方 足 利 義 明 武 田 信 保 は 恕 鑑 の 号 で 知 られ 智 勇 に 優 れた 人 物 で 上 総 における 真 里 谷 家 の 勢 力 を 拡 大 するため 兄 の 古 河 公 方 であった 足 利 高 基 と 対 立 して 僧 体 となり 空 然 と 名 乗 って 奥 州 を 放 浪 していた 足 利 義 明 を 永 正 年 間 の 初 め 頃 に 連 れてきて 新 たな 鎌 倉 公 方 として 擁 立 小 弓 城 ( 北 生 実 城 以 下 同 じ)に 移 座 させるという 策 略 を めぐらした その 頃 小 弓 城 では 永 正 6 年 (1509) 11 月 に 小 弓 城 主 原 胤 隆 に 連 歌 師 宗 祇 の 高 弟 である 柴 屋 軒 宗 長 が 招 かれて 浜 野 の 本 行 寺 を 旅 宿 として 滞 在 し 原 胤 隆 と 連 歌 に 興 じている 永 正 14 年 (1517) 下 総 進 出 を 願 う 真 里 谷 武 田 信 保 ら 上 総 武 田 氏 は 古 河 公 方 足 利 高 基 の 弟 足 利 義 明 を 主 将 として 安 房 里 見 氏 とも 結 んで 小 弓 城 を 攻 め つい にこれを 攻 め 落 とした この 戦 いで 原 ニ 郎 ( 胤 隆 あるいは 一 族 の 友 幸 か) や 高 城 越 前 守 父 子 は 7 森 湖 城
滅 亡 ( 実 際 は 原 胤 隆 は 八 幡 庄 の 真 間 山 弘 法 寺 の 寺 領 を 安 堵 していることから 少 なくとも 天 文 2 年 (1533)まで 生 存 していたのが 分 かっており 八 幡 庄 辺 りに 逃 れ たものと 思 われる 城 代 として 城 を 守 っていたとされる 原 友 幸 小 西 原 氏 原 肥 前 守 胤 継 の 子 も 根 木 内 城 に 逃 れた 討 死 した 高 城 越 前 守 は 胤 広 とされる) 高 城 下 野 守 ( 高 城 胤 正 )は 逐 電 した また 甲 斐 に 原 友 胤 父 子 は 逃 れ 友 胤 の 子 は 有 名 な 原 虎 胤 に 成 長 する 翌 永 正 15 年 (1518) 足 利 義 明 は 入 城 して 小 弓 公 方 小 弓 御 所 と 称 して やがて 古 河 公 方 と 同 様 関 東 に 覇 をとなえるべく 後 北 条 氏 と 激 突 することになる 足 利 義 明 を 還 俗 させ 小 弓 城 にいれたのは 武 田 信 保 であったが 足 利 義 明 は 小 弓 公 方 となって 独 自 に 動 くようになり 武 田 信 保 が 足 利 義 明 の 勘 気 を 受 けたまま 病 死 す ると その 子 信 隆 は 後 北 条 氏 綱 のもとに 身 を 寄 せた 一 方 古 河 公 方 足 利 高 基 は 永 正 16 年 (1519 年 ) 椎 津 城 に 結 城 氏 をはじめと した 軍 勢 を 差 し 向 け 小 弓 方 を 攻 めた なお 現 在 松 戸 市 根 木 内 にある 根 木 内 城 付 近 でも 古 河 公 方 派 であった 千 葉 宗 家 原 高 城 の 勢 力 と 小 弓 足 利 義 明 の 勢 力 との 戦 闘 が 行 われ 永 正 18 年 (1521)に 名 都 借 で 合 戦 があったほか 年 不 詳 だが やはり 永 正 年 間 には 根 木 内 城 近 くの 行 人 台 城 でも 合 戦 があった (3) 里 見 氏 武 田 氏 の 内 訌 と 小 弓 公 方 永 正 15 年 (1518) 里 見 氏 の 当 主 里 見 義 通 がなくなると その 子 義 豊 は 既 に 元 服 していて 家 督 を 継 承 し 稲 村 城 に 入 った しかし 北 条 氏 綱 の 策 動 により 義 豊 追 い 落 しを 図 った 叔 父 実 堯 正 木 通 綱 らの 動 きを 察 知 し 実 堯 を 誅 殺 したところ 実 堯 の 子 義 堯 が 仇 討 と 称 し 後 北 条 氏 を 後 ろ 楯 として 反 逆 して 義 豊 を 殺 害 した そ して 義 堯 が 里 見 氏 の 当 主 となったが 真 里 谷 武 田 信 保 が 足 利 義 明 の 勘 気 を 蒙 ると 後 北 条 氏 と 袂 を 分 かち 武 田 信 隆 の 追 放 に 加 担 した こうして 里 見 氏 は 後 北 条 氏 と 再 び 対 立 することになる 武 田 氏 の 内 訌 については 武 田 信 隆 の 異 母 弟 信 応 が 信 隆 と 反 目 し 足 利 義 明 と 結 んだ 武 田 信 隆 は 子 の 信 政 とともに 椎 津 城 に 籠 り 後 北 条 氏 の 援 軍 を 待 ったが 小 弓 公 方 軍 に 攻 められ 脱 出 する その 天 文 6 年 (1537)の 内 訌 の 際 武 田 信 隆 は 後 北 条 氏 の 後 援 で 峰 上 城 に 立 て 籠 り 一 時 後 北 条 氏 に 走 っていた 里 見 義 堯 の 囲 みを 受 けている こうした 小 弓 公 方 の 一 連 の 動 きは 里 見 氏 武 田 氏 の 内 訌 とあいまって 古 河 公 方 後 北 条 氏 対 小 弓 公 方 里 見 氏 の 対 立 を 鮮 明 とさせ ついに 天 文 7 年 (1538) 国 府 台 合 戦 ( 第 一 次 )が 戦 われる (4) 松 戸 の 相 模 台 で 戦 われた 第 一 次 国 府 台 合 戦 天 文 7 年 (1538)10 月 武 蔵 相 模 の 後 北 条 氏 と 雌 雄 を 決 するため 小 弓 公 方 義 8 森 湖 城
明 武 田 里 見 軍 は 国 府 台 に 出 陣 したが 配 下 の 西 上 総 の 諸 士 椎 津 村 上 ら は 相 模 台 に 在 陣 して 後 北 条 軍 の 太 日 川 渡 河 を 見 張 った 小 弓 公 方 方 は 約 三 千 後 北 条 軍 は 約 七 千 の 軍 勢 であったという 江 戸 城 から 出 陣 した 北 条 氏 綱 の 約 三 千 の 後 北 条 軍 は 10 月 7 日 に 松 戸 へ 渡 河 椎 津 村 上 らの 小 弓 軍 を 破 って 南 下 こ れを 知 った 足 利 義 明 は 千 の 手 勢 を 率 いて 北 上 して 交 戦 義 明 本 人 とその 子 義 純 弟 基 頼 ら 約 140 名 が 討 たれた こうして 小 弓 軍 は 惨 敗 国 府 台 に 陣 を 張 った 里 見 義 尭 率 いる 里 見 軍 は 早 々に 戦 を 見 限 って 安 房 に 帰 陣 したという 第 一 次 国 府 台 合 戦 の 対 立 構 図 ( 伝 統 的 権 威 がまだ 表 面 に 出 ている) ( 古 河 公 方 ) 足 利 晴 氏 ( 小 弓 公 方 ) 足 利 義 明 北 条 氏 綱 里 見 義 尭 武 田 信 応 など つまり 第 一 次 国 府 台 合 戦 は 小 弓 公 方 軍 対 後 北 条 軍 という 色 彩 が 強 く 安 房 の 里 見 はアリバイ 的 に 参 加 したという 可 能 性 が 高 い 小 弓 公 方 足 利 義 明 は 嫡 子 義 純 弟 基 頼 のほか 安 房 の 里 見 義 尭 土 気 の 酒 井 定 治 真 里 谷 武 田 信 応 庁 南 武 田 宗 治 に 出 陣 を 要 請 し 国 府 台 に 陣 取 って 防 御 工 事 を 行 っていた そして 義 明 は 力 を 過 信 して 後 北 条 軍 の 渡 河 を 許 したうえ 自 ら 手 勢 を 率 いて 戦 い 討 死 している 後 北 条 軍 には 千 葉 宗 家 は 直 接 加 わっていないが 高 城 氏 が 後 北 条 軍 に 味 方 して 参 戦 しており その 戦 功 で 現 在 の 神 奈 川 県 海 老 名 市 などの 領 地 を 与 えられている さて 小 弓 公 方 なき 後 小 弓 城 はどうなったかが 問 題 であるが 天 文 8 年 (1539) に 後 北 条 氏 が 奪 還 城 の 東 側 に 有 吉 城 を 築 いて 里 見 軍 に 備 えた その 後 永 禄 4 年 (1561)に 里 見 の 重 臣 正 木 時 茂 時 忠 の 兄 弟 が 下 総 に 侵 攻 浜 野 の 本 行 寺 には 正 木 時 忠 の 制 札 が 交 付 された また 永 禄 5 年 (1562)には 後 北 条 氏 の 攻 勢 で 古 河 に 居 られなくなった 足 利 藤 氏 らは 古 河 城 を 退 去 里 見 氏 のもとに 身 を 寄 せる 一 方 後 北 条 氏 が 擁 立 する 足 利 義 氏 は 小 金 から 佐 貫 城 へ 移 座 した 第 一 次 国 府 台 合 戦 の 舞 台 となった 相 模 台 には 城 跡 の 遺 構 らしいものがない ただ 戦 死 者 の 塚 と 伝 える 経 世 塚 があり 現 在 は 聖 徳 学 園 構 内 にある これは2 基 の 円 墳 で 古 代 の 古 墳 であり その 上 に 中 世 の 板 碑 がのっている なお 学 園 関 係 者 によれば この 経 世 塚 は 前 は 別 の 場 所 にあったが 事 情 により 現 在 地 にう つされたとのことで 時 々 近 所 のお 年 寄 りが 写 真 を 撮 りにくることがあるという 経 世 塚 ( 以 下 の 写 真 )は もともとは 古 墳 であり 第 一 次 国 府 台 合 戦 とは 関 係 ないの であるが 何 時 の 頃 か 結 び 付 けられて 今 日 にいたっている 9 森 湖 城
5. 第 二 次 国 府 台 合 戦 ( 伝 統 的 権 威 は 無 力 化 新 興 勢 力 の 角 逐 後 北 条 氏 勝 利 へ) (1) 下 総 をめぐる 後 北 条 氏 と 里 見 氏 の 戦 い 永 禄 7 年 (1563)の 第 二 次 国 府 台 合 戦 は 北 条 氏 康 の 率 いる 後 北 条 軍 約 二 万 と 里 見 義 弘 および 里 見 を 支 援 する 太 田 康 資 資 正 の 約 一 万 二 千 の 軍 勢 の 戦 いと なった その 際 里 見 軍 が 後 北 条 方 の 籠 る 葛 西 城 を 攻 撃 したのが 戦 いの 端 緒 と なったが これも 結 局 後 北 条 方 が 勝 利 し 里 見 氏 は 里 見 弘 次 や 正 木 大 膳 らの 部 将 が 討 死 して 敗 走 太 田 氏 も 本 拠 地 の 岩 槻 などに 落 ちていった この 両 度 の 国 府 台 合 戦 は 国 府 台 城 および 周 辺 で 戦 われ 第 一 次 合 戦 時 は 松 戸 台 での 激 戦 が 前 哨 戦 になっている 後 北 条 氏 は 第 一 次 合 戦 時 に 扇 谷 上 杉 氏 を 河 越 城 に 破 っ た 勢 いで 太 日 川 の 対 岸 にある 国 府 台 からは 4km 位 西 に 位 置 する 葛 西 城 を 攻 略 し 上 杉 家 臣 大 石 氏 を 破 って 岩 槻 の 太 田 氏 も 攻 めた その 際 小 弓 公 方 里 見 氏 側 は 国 府 台 に 陣 取 っている 第 二 次 合 戦 の 際 には 上 述 のように 後 北 条 氏 は 葛 西 城 を 根 城 として 里 見 方 の 守 る 国 府 台 に 対 している 第 二 次 国 府 台 合 戦 の 対 立 構 図 ( 伝 統 的 権 威 衰 退 実 質 的 権 力 前 面 に) 北 条 氏 康 氏 政 里 見 義 尭 義 弘 北 条 綱 成 北 条 氏 照 太 田 資 正 太 田 康 資 正 木 時 茂 なお この 合 戦 でも 高 城 氏 は 後 北 条 氏 の 陣 営 にあって 唯 一 の 地 元 の 地 理 に 明 るい 武 将 として 後 北 条 氏 の 勝 利 に 貢 献 した (2) 上 杉 氏 から 後 北 条 氏 が 奪 取 し 拠 点 とした 葛 西 城 葛 西 城 は 国 府 台 城 の 太 日 川 ( 現 江 戸 川 )を 挟 んだ 対 岸 の 地 である 現 在 の 10 森 湖 城
東 京 都 葛 飾 区 青 戸 7 丁 目 の 環 状 7 号 線 が 通 る 葛 西 川 ( 現 中 川 ) 西 岸 の 平 坦 な 場 所 にあって 国 府 台 合 戦 時 に 後 北 条 軍 の 基 地 となった 葛 西 城 は 葛 西 川 ( 現 中 川 )を 天 然 の 水 堀 とし 近 くに 船 着 場 を 備 えた 平 城 であった 国 府 台 からは 西 北 西 約 4Kmの 地 点 にあり かつては 国 府 台 の 台 地 上 から 見 通 せたであろう 現 在 葛 西 城 址 は 環 状 7 号 線 がその 中 央 部 分 を 南 北 に 通 り 道 路 の 西 が 御 殿 山 公 園 東 が 葛 西 城 址 公 園 という 公 園 になっていて 地 表 面 を 見 る 限 り 特 に 遺 構 は 残 っていない 過 去 の 発 掘 調 査 では 上 杉 氏 当 時 の 幅 7 8m 程 の 堀 が 確 認 され 一 町 四 方 規 模 の 方 形 城 館 であったことが 分 かっている その 後 天 文 7 年 (1538) 第 一 次 国 府 台 合 戦 の 際 北 条 氏 綱 が 奪 取 した 後 遠 山 直 景 を 城 代 にして 城 域 を 拡 張 し 町 場 の 整 備 などが 行 われた 後 北 条 氏 の 時 代 には 葛 西 城 は 大 幅 に 手 を 加 えられ 主 郭 を 区 画 する 堀 は 幅 18mと 大 規 模 なものとなり 土 塁 も 築 かれた 痕 跡 があるが その 外 側 にも 郭 が 展 開 して 東 西 約 300m 南 北 約 400mの 城 域 をもっていた 後 北 条 氏 が 城 を 改 修 した 後 永 禄 3 年 (1560)には 上 杉 謙 信 の 関 東 出 兵 により 小 田 原 城 が 攻 められた 際 に 葛 西 城 も 反 後 北 条 氏 勢 力 の 手 に 落 ち 岩 槻 太 田 氏 が 支 配 するところとなる その 後 永 禄 5 年 (1562)に 後 北 条 氏 が 本 田 氏 を 使 って 葛 西 城 乗 っ 取 りを 計 り 太 田 康 資 の 指 揮 で 後 北 条 氏 が 奪 還 した そして 永 禄 7 年 (1564)の 第 二 次 国 府 台 合 戦 の 折 には 北 条 氏 康 がここに 本 陣 をしいた 実 はこの 葛 西 城 跡 から 若 い 女 性 の 頭 骨 が 発 掘 で 見 つかっている 上 杉 氏 時 代 の 古 い 堀 跡 に 打 ち 捨 てられるようにあったため 上 杉 氏 当 時 の 城 を 後 北 条 氏 が 落 とした 際 の 犠 牲 者 ( 例 えば 城 代 大 石 氏 の 姫 )と 推 定 される 三 太 刀 振 るわ れて 斬 首 された 跡 が 残 っており 戦 国 時 代 の 合 戦 の 過 酷 な 一 面 を 語 っている (3) 後 北 条 軍 の 逆 転 勝 利 と 里 見 軍 の 敗 走 合 戦 は 永 禄 7 年 (1564)1 月 8 日 後 北 条 方 の 遠 山 直 景 富 永 直 勝 ら 第 一 陣 が 矢 切 のからめきの 瀬 を 渡 ったところで 里 見 軍 の 正 木 大 膳 の 軍 勢 がこれを 襲 って 始 まり 里 見 軍 が 緒 戦 の 勝 利 をおさめたといわれる ところが その 日 の 夜 後 北 条 軍 は 里 見 軍 が 休 息 しているところに 夜 襲 をかけ 里 見 軍 は 完 膚 なき までに 叩 きのめされたという しかし この 遠 山 直 景 富 永 直 勝 らを 里 見 軍 が 襲 って 勝 利 をおさめたのは 永 禄 7 年 ではなく 永 禄 6 年 であったという 説 もあ る いずれにせよ 里 見 軍 は 破 れ 太 田 資 正 らも 落 ちていった その 際 の 里 見 軍 の 敗 走 経 路 を 述 べると 市 川 から 海 神 へ 入 り 夏 見 台 を 経 て 船 橋 城 のあった 城 の 腰 を 通 って 峰 台 にいたり そこで 殿 軍 が 戦 闘 を 行 っ たと 言 われている すなわち 峰 台 の 慈 雲 寺 では 里 見 軍 の 殿 軍 が 追 撃 する 後 北 条 軍 を 迎 撃 し 敗 走 するという 合 戦 が 戦 われたという 慈 雲 寺 は 里 見 氏 所 縁 の 11 森 湖 城
寺 で この 寺 の 鐘 を 国 府 台 城 で 使 用 し 鐘 をつるした 松 から 鐘 が 川 に 落 ちて そこが 鐘 ヶ 渕 といわれるという 伝 承 がある < 国 府 台 断 岸 之 図 江 戸 名 所 図 会 巻 之 七 揺 光 之 部 > 一 方 戦 いに 勝 った 後 北 条 氏 とそれに 連 なる 原 氏 高 城 氏 らは 勢 いづいた この 合 戦 での 高 城 胤 辰 の 活 躍 は 知 られているが 高 城 氏 を 派 遣 して 自 らは 動 か なかったとされる 千 葉 宗 家 の 千 葉 胤 富 も 出 陣 したと 千 葉 大 系 図 には 見 える なお この 第 二 次 国 府 台 合 戦 後 後 北 条 軍 は 上 総 の 奥 まで 侵 攻 し その 際 に 小 弓 城 を 奪 還 し 原 氏 を 小 弓 に 戻 したらしい その 時 原 氏 は 南 生 実 の 小 弓 城 を 城 割 ( 破 )して 北 生 実 の 北 生 実 城 に 移 ったとされている しかし 実 際 には 発 掘 調 査 で 後 代 の 遺 物 も 発 見 されているため 各 種 文 献 で 小 弓 城 と 表 記 さ れるのは 北 生 実 城 のことで 南 生 実 の 小 弓 城 は 継 続 して 使 用 されたと 思 われる 6. 戦 国 大 名 高 城 氏 と 小 金 城 小 金 城 は 意 外 に 古 く 根 木 内 城 に 高 城 氏 が 拠 っていた 16 世 紀 初 頭 以 前 から 存 在 し 使 用 されていたようである その 前 期 小 金 城 は 本 城 中 城 馬 屋 敷 外 番 場 西 側 の 郭 構 成 であ り その 主 郭 と 見 られる 馬 屋 敷 の 西 側 下 に 根 郷 屋 の 地 名 が 残 る この 前 期 小 金 城 は 高 城 氏 が 根 木 内 城 を 本 拠 としていた 時 の 支 城 であるが 原 氏 が 当 地 を 支 配 していた 際 の 拠 点 も 小 金 にあったという あるいは 前 期 小 金 城 には 原 氏 が 拠 っていて その 後 高 城 氏 に 譲 渡 したとも 考 えられる 12 森 湖 城
< 小 金 城 の 古 い 縄 張 り 図 > 八 木 原 文 書 小 金 城 主 高 城 家 之 由 来 というものでは 享 禄 三 庚 寅 吉 辰 根 木 内 城 西 隔 廿 余 丁 有 一 高 丘 西 南 荒 沢 一 片 而 生 苜 蓿 蘆 葦 泥 土 深 絶 舟 船 人 馬 之 便 東 北 者 広 野 渺 々 而 谿 間 寂 莫 国 中 無 双 之 要 害 也 阿 彦 丹 後 浄 意 以 縄 張 築 後 囲 平 山 城 始 名 小 金 城 とあり 享 禄 3 年 (1530)に 高 城 氏 の 家 臣 阿 彦 丹 後 浄 意 が 縄 張 を 行 い 天 文 6 年 (1537)に 竣 工 したという しかしながら 現 在 は 八 木 原 文 書 の 信 憑 性 については 疑 問 が 持 たれており 最 近 の 小 金 大 谷 口 城 および 根 木 内 城 の 調 査 研 究 などから 根 木 内 城 が 手 狭 に なったために 高 城 氏 が 小 金 大 谷 口 城 を 築 城 したのではなく 高 城 氏 が 小 金 に 移 る 以 前 に 小 金 城 は 存 在 し 前 述 のように 原 氏 がその 主 であって のちに 高 城 氏 に 譲 ったというのが 真 相 かもしれない 金 杉 口 の 東 方 には 新 義 真 言 宗 豊 山 派 の 大 勝 院 があり これも 城 址 の 一 部 で あるが もとは 根 木 内 城 の 近 隣 にあったという また 前 記 文 中 に 見 られるよ うに 城 もまわりは 葦 が 生 えた 低 湿 地 で 西 側 は 旧 利 根 川 などの 水 運 を 利 用 で きる 環 境 にあったと 思 われる つまり 小 金 大 谷 口 城 はその 要 害 性 だけでなく 南 の 松 戸 城 や 馬 橋 との 水 運 による 連 絡 が 可 能 であるため 当 地 に 立 地 したと 考 えられる 柏 市 域 にいた 豪 族 高 田 の 匝 瑳 氏 や 戸 張 の 戸 張 氏 が 上 杉 氏 武 蔵 千 葉 氏 の 側 に 立 って 戦 ったのとは 対 照 的 に 高 城 氏 は 古 河 公 方 後 北 条 氏 の 側 に 立 って 13 森 湖 城
いた ちなみに 戸 張 氏 とは 千 葉 常 胤 の 次 男 相 馬 師 常 の 三 男 行 常 が 戸 張 八 郎 を 称 したといわれ さらにその 子 行 胤 は 戸 張 太 郎 と 称 して 戸 張 氏 の 始 祖 となった この 戸 張 の 地 は 相 馬 師 常 から 行 常 に 相 続 され 戸 張 太 郎 と 称 した 行 胤 が 継 承 し て 戸 張 氏 は 代 々 領 主 であったようである 戸 張 氏 については 本 土 寺 過 去 帳 にも 記 載 が 見 られる 柏 市 街 のなか アミュゼ 柏 の 南 に 隣 接 する 曹 洞 宗 の 長 全 寺 は 山 号 を 戸 張 山 といい 元 は 戸 張 氏 の 氏 寺 として 戸 張 の 集 落 にあったが 近 世 になり 水 戸 街 道 が 賑 うようになってから 現 在 の 場 所 に 移 って 来 たのだという 戸 張 氏 は 戦 国 時 代 である 元 亀 天 正 年 間 には 簗 田 氏 に 属 し 下 河 辺 庄 吉 川 郷 ( 現 在 の 埼 玉 県 吉 川 市 )に 移 住 したが 戸 張 に 本 土 寺 過 去 帳 に 出 てくる トハリ に 関 連 した 別 の 氏 族 立 沢 氏 や 岩 立 氏 が 文 明 年 間 頃 に 戸 張 において 勢 力 を 伸 ばすと そ の 圧 迫 で 戸 張 氏 の 勢 力 は 衰 退 し その 後 高 城 氏 が 進 出 するに 及 んで あくまで 後 北 条 氏 の 旗 下 に 甘 んじたくなかった 戸 張 氏 は 吉 川 に 退 転 せざるを 得 なかったのでは ないかと 思 われる また 高 田 の 匝 瑳 氏 は 後 北 条 氏 が 江 戸 城 を 落 とし 武 蔵 千 葉 氏 が 後 北 条 氏 に 屈 服 した 頃 に 戸 ヶ 崎 に 移 ったようである 高 城 氏 は 千 葉 に 原 原 に 高 城 両 酒 井 といわれたように 千 葉 氏 の 一 族 で 重 臣 である 原 氏 の 重 臣 という 立 場 で やがて 千 葉 宗 家 および 原 氏 からも 独 立 性 を 高 め 小 田 原 の 後 北 条 氏 の 他 国 衆 として 事 実 上 臣 従 しながら 下 総 地 方 西 部 に 勢 力 を 拡 大 した 小 金 領 といわれたのは 現 在 の 野 田 市 南 部 から 流 山 柏 我 孫 子 松 戸 市 川 鎌 ヶ 谷 船 橋 の 各 市 域 であり その 他 にも 高 城 氏 は 印 旛 郡 の 一 部 二 郷 半 ( 二 合 半 ) 領 ( 埼 玉 県 三 郷 市 ) 葛 西 領 の 一 部 や 神 奈 川 県 海 老 名 市 などに 領 地 をもっていた( 古 下 野 守 胤 忠 知 行 高 附 帳 など 古 文 書 による) 永 禄 9 年 (1566) 上 杉 謙 信 が 小 金 領 に 侵 入 した 際 には 小 金 大 谷 口 城 は 整 備 されており 籠 城 によって 上 杉 謙 信 の 攻 撃 をしのぎ 囲 みをといた 上 杉 軍 は 船 橋 から 臼 井 に 向 うことになる 永 禄 9 年 の 上 杉 軍 進 攻 以 降 小 金 大 谷 口 城 は 戦 いの 舞 台 となることはなかっ たが 戦 国 時 代 も 終 わりの 天 正 18 年 (1590) 豊 臣 秀 吉 の 臣 浅 野 長 吉 に 攻 めら れ 落 城 した ここに 戦 国 大 名 高 城 氏 の 小 金 支 配 は 幕 を 閉 じ 高 城 氏 は 任 官 運 動 の 末 高 城 胤 則 胤 重 が 旗 本 となったが 多 くの 家 臣 は 帰 農 した 以 上 参 考 文 献 : 城 郭 と 中 世 の 東 国 所 収 享 徳 の 乱 における 城 郭 と 陣 所 峰 岸 純 夫 (2005) 千 葉 氏 室 町 戦 国 編 千 野 原 靖 方 (1997) ほか 筆 者 : 森 湖 城 ( 軍 事 史 学 会 会 員 ) 論 文 桶 狭 間 合 戦 当 時 と 事 後 の 水 野 氏 の 動 向 ( 水 野 氏 史 研 究 会 )など 14 森 湖 城