Title カオダイ 教 におけるフォ ロアン(Phò loan)とサイ バン (Xây bàn) --カオダイ 教 形 成 過 程 におけるサイ バンを 中 心 として-- Author(s) 髙 津, 茂 Citation 人 文 學 報 (2015), 108: 127-141 Issue Date 2015-12-30 URL http://hdl.handle.net/2433/204500 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University
人 文 学 報 第 108 号 (2015 年 12 月 ) ( 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 ) カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) と サイ バン (Xây bàn) カオダイ 教 形 成 過 程 におけるサイ バンを 中 心 として 髙 津 茂 * は じ め に カオダイ 教 が 玉 隍 上 帝 を 至 高 の 神 として 祀 る 点 においては 宋 代 道 教 の 影 響 を 窺 わせる 1) が, その 玉 隍 上 帝 の 神 意 を 受 け 止 める 方 法 は 必 ずしも 道 教 によるもののみではない カオダイ 教 に おける 神 意 を 伺 う 方 法 は 一 般 に 求 機 (Cầu coʼ) と 称 するが, 大 きく 以 下 の 4 つの 方 法 があ る (1) 扶 機 (Phò coʼ) もしくは 扶 鸞 (Phò loan) と 称 されるもので, 中 国 における 扶 乩 に 当 たる カオダイの 扶 機 は,ゴ ヴァン チュウ (Ngô Vãn Chiêu) に 始 まるとされる 2) が, 神 意 を 伺 う 方 法 としては,メコンデルタにおける 五 支 明 道 (Ngũ Chi Minh Ðạo) 3) 等 の 影 響 に よると 思 われる (2) サイ バン (Xây bàn) と 称 される 19 世 紀 にアラン カルデック 4) により 体 系 化 された フランスのスピリティスム (Spiritism) の 中 の 叩 音 通 信 (typtologie) がヴェトナムに 伝 わったもの (3) シン サム (Xin Xăm) と 称 され, 日 本 の 御 神 籤 に 当 たり, 竹 のくじ 札 を 振 り 出 して 運 勢 を 占 う 方 法 (4) チャップ ブット (Chấp bút 執 筆 ) と 称 され, 童 子 が 白 紙 の 上 に 筆 記 用 具 の 柄 を 置 き, 紙 の 上 に 字 を 書 きだすために 神 聖 なるものが 降 って 筆 を 握 る 腕 に 入 るのを 待 つ 方 法 カオダイ 教 は 1975 年 の 解 放 以 降, 神 意 を 伺 うことは 迷 信 としてヴェトナム 政 府 の 宗 教 委 員 会 から 公 式 には 禁 止 されている それゆえか 近 年 これまでに 降 された 聖 書 聖 言 協 選 (Thánh Ngôn Hiệp Truyê n) 5) 以 外 の 神 意,なかでもこれまであまり 明 らかにされてこなかったサイ * たかつ しげる 星 槎 大 学 127
人 文 学 報 バンによって 降 された 膨 大 な 神 意 を 1995 年 サイ バンによる 教 えの 歴 史 6) として 女 性 頭 師 フゥオン ヒィエウ (NŨʼ ÐẦU SUʼ HUʼOʼNG HIỀU) が 編 集 しウエッブ 上 で 一 次 資 料 が 公 表 さ れつつある 同 書 を 参 照 して 本 小 稿 ではカオダイ 教 の 形 成 過 程 を 中 心 に 上 述 した 4 つの 神 意 を 伺 う 方 法 の 中 でも (1) 扶 機 もしくは 扶 鸞 と (2) サイ バンを 中 心 に,カオダイ 教 の 中 での 意 義 を 比 較 しつつ 論 ずるものとする Ⅰ カオダイ 教 におけるフォ ロアン ( 扶 鸞 Phò loan) もしくはコ ブット (Coʼ Bút 機 筆 ) 1.カオダイ 教 における 扶 機 もしくは 扶 鸞 カオダイ 教 において 神 霊 との 通 交 を 求 めることを 求 機 (Cầu coʼ) といい,そのための 壇 を 壇 機 (Ðàn coʼ) という 機 (coʼ) の 本 来 の 意 味 は, 各 神 霊 と 通 交 するための 用 具 を 指 す 各 神 霊 と 通 交 するために 用 いる 物 である 機 とは, 紙 を 貼 り 黄 色 の 布 でしっかりと 包 み 込 んだ 竹 や 籐 を 編 んで 作 った 竹 籠 の 開 口 部 に, 竿 の 頭 部 に 鳳 の 頭 の 形 状 を 彫 刻 した 木 製 の 長 い 竿 や 籐 製 の 主 軸 の 竿 を 差 し 込 み, 壇 に 神 霊 が 降 った 際 に, 字 を 記 すために 用 いるものである この 機 を, 神 霊 が 降 る 貴 い 機 を 言 うことから, 玉 機 (Ngọc coʼ) と 言 う この 玉 機 のサイズが 小 さい 場 合 には 小 玉 機 (Tiê u Ngọc coʼ) と 称 し,サイズが 大 きな 場 合 には 大 玉 機 (Ðại Ngọc coʼ) という 至 尊 (Ðúʼc Chí Tôn) や 仏 母 (Ðúʼc Phật Mâ u) を 請 う 時 には, 大 玉 機 を 使 わねばならない 諸 々の 神 (Thần), 聖 (Thánh), 仙 (Tiên), 仏 (Phật) を 請 うための 機 は,いわゆる 玉 機 ある いは 小 玉 機 (Tiê u Ngọc coʼ) という 128
カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) ( 髙 津 ) 上 は 鳳 の 頭 の 形 を 刻 んだ 大 玉 機 Ðại Ngọc coʼ chạm hính dầu chim loan. 下 は 龍 の 頭 の 形 を 刻 んだ 大 玉 機 Ðại Ngọc coʼ chạm hính dầu rồng. それゆえ,この 道 具 としての 機 を 求 めるということは, 神 聖 なるものが 降 りてきて 玉 機 を 揺 り 動 かし, 字 を 記 して 教 えを 諭 す 文 を 新 たに 創 り 出 すことを 請 い 求 めることを 意 味 する カオ ダイ 教 における 扶 機 や 扶 鸞 とはこの 求 機 もしくは 壇 機 のことである カオダイ 教 の 聖 会 (Hội Thánh) 組 織 には 大 きく 以 下 の 3 つの 組 織 がある 1 バッ クゥアイ ダイ (Bát Quái Ðài 八 卦 台 ); 形 而 上 の 組 織 2 クゥ チュン ダイ (Cu ʼu Trùng Ðài 九 重 台 ); 宗 門 の 運 営 を 掌 る 組 織 3 ヒェップ ティエン ダイ (Hiệp Thiên Ðài 協 天 台 ); 至 上 の 神 の 託 宣 をうかがう 霊 媒 の 集 団 この 求 機 もしくは 壇 機 はカオダイ 教 の 中 でも 特 別 な 霊 媒 集 団 であるヒェップ ティエ ン ダイに 属 する 者 のみに 許 されており, 誰 でもが 行 うことのできるものではない 特 にヒェップ ティエン ダイは,ホ ファップ (Hộ Pháp 護 法 ) を 頂 点 に, 神 々と 人 間 と の 間 の 会 同 の 場 であり, 地 上 における 立 法 府 の 役 割 を 担 い, 霊 的 な 力 を 代 表 して 司 法 権 と 支 配 権 を 持 つ 神 の 託 宣 を 握 り,その 託 宣 に 適 う 宗 律 をつくり, 神 の 託 宣 に 則 った 運 営 が 行 われて いるかの 司 法 権 を 握 るがゆえに, 協 天 台 の 長 たる 護 法 の 力 は 強 く,カオダイ 教 の 歴 史 の 中 で, 護 法 ファム コン タック (Phạm Công Tắc) が 絶 大 な 力 を 得 た 2. 求 機 壇 機 の 概 要 機 を 求 めたい 時 には,ヒェップ ティエン ダイの 二 人 の 職 色 (Chúʼc sắc) が 機 を 扶 ける 童 子 (đồng tu ʼ) となり, 機 を 求 める 壇 (Ðàn cầu coʼ) を 立 てねばならない この 機 を 求 める 壇 を 縮 めて 壇 機 (Ðàn coʼ) といい,この 壇 機 では, 尊 敬 に 値 する 道 徳 的 な 一 人 が 壇 主 (Chu đàn) と 129
人 文 学 報 なり, 二 人 の 童 子 が 機 を 扶 ける 一 人 は 筆 に 仕 え, 機 が 書 き 出 した 字 を 読 むための 読 み 手 (độc gia ) となり,もう 一 人 が 機 が 降 した 文 を 記 述 するための 書 記 (Ðiê n ký) となり, 複 数 の 者 が 壇 に 仕 える 二 人 の 童 子 が 機 を 扶 けに 入 ってから, 壇 主 となった 者 はご 利 益 があるように 祈 り, 機 の 籠 を 両 手 に 持 って 捧 げて 待 つ 神 聖 なものが 壇 に 降 って 来 ると, 玉 機 が 動 き 出 し, 盤 面 に 字 の 形 を 記 し 始 める これを 読 み 手 が 声 をあげて 読 み, 書 記 が 記 録 する この 記 録 が 神 の 託 宣 であり, 時 に 壇 主 の 祈 りに 含 まれる 問 いへの 回 答 と 解 される このようにして 神 意 が 伝 えられる 教 えを 開 く 数 年 前, 壇 機 を 立 て, 壇 主 と 壇 に 仕 えた 各 位 はチョイ コン (Tròʼi Còn) と 謂 わ れる 求 機 経 (Kinh Cầu coʼ) を 読 まねばならなかった このチョイ コンの 起 源 とは, 丁 巳 (1917) 年,ゴ ヴァン チュウが, 母 親 の 治 療 薬 を 請 うために,カン トォ (Cần Thoʼ) 省 の カイ ケェ (Cái Khế) でヒェップ ミン ( 協 明 ) 壇 (đàn Hiệp Minh) に 仕 えた その 時,ゴ ヴァン チュウ 師 は 薬 の 処 方 と 10 句 からなる 詩 を 恩 上 たる 神 より 授 けられた 後 にゴ ヴァ ン チュウは 4 句 をつなぎ 足 して 求 機 経 とし,この 詩 の 最 初 の2 字 を 取 って,この 経 詩 の 名 前 をチョイ コンと 謂 った このエピソードは,カオダイ 教 における 求 機 もしくは 壇 機 という 神 意 を 伺 う 方 法 が 1917 年 からゴ ヴァン チュウによって 伝 えられていることを 物 語 っている 7) 3.6 壇 機 普 度 (Sáu Ðàn coʼ Phô Ðộ) 1924 1927 年 まで, 至 尊 は 衆 生 を 普 度 し, 至 尊 や 各 神 聖 なるものが 教 えを 諭 す 機 を 降 し, 門 弟 が 教 えに 入 門 することを 承 認 するために 6 か 所 の 壇 機 を 立 てることを 許 された 8) とされ る 要 は,7 10 年 後 にはゴ ヴァン チュウに 降 った 神 意 を 伺 う 扶 鸞 を 行 う 壇 が 6 か 所 に 拡 大 したことを 示 すものである その 6 か 所 とは, 1 カウ コ 壇 (Ðàn Cầu Kho) ドアン ヴァン バン (Ðoàn Văn Ba n) の 家 に 在 り,ヴゥオ ン ク ゥ アン キ ィ (Vuʼoʼng Quan Kỳ) が 壇 の 証 人 となり,グゥエン チュン ハ ウ (Nguyê n Trung Hậu) とチュオン フゥ ドゥク (Truʼoʼng Hũʼu Ðúʼc) が 扶 鸞 を 行 った 2 チョ ロン 壇 (Ðàn Chọʼ Lóʼn) 旧 上 議 員 レェ ヴァン チュン (Lê Văn Trung) の 家 に 在 り, 主 人 とレェ バァ チャン (Lê Bá Trang) が 交 替 で 壇 の 証 人 となり,カオ ホアイ サン (Cao Hoài Sang) とカオ クゥイン ズィウ (Cao Quỳnh Diêu) が 扶 鸞 を 行 った 3 タン ディン 壇 (Ðàn Tân Ðịnh) グゥエン ゴック トォ (Nguyê n Ngọc Thoʼ) の 家 に 在 り, 主 人 が 壇 の 証 人 となり,ファム コン タック (Phạm Công Tắc) とカオ クゥイン クゥ (Cao Quỳnh Cuʼ) が 扶 鸞 を 行 った 4 トゥ ドゥク 壇 (Ðàn Thu Ðúʼc) ゴ ヴァン ディエウ (Ngô Văn Ðiều) の 家 に 在 り, 主 人 が 壇 の 証 人 となり,フゥイン ヴァン マイ (Huỳnh Văn Mai) とヴォ ヴァン グゥ 130
カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) ( 髙 津 ) エン (Võ Văn Nguyên) が 扶 鸞 を 行 った 5 タン キム 壇 (Ðàn Tân Kim) グゥエン ヴァン ライ (Nguyê nvăn Lai) 委 員 の 家 に 在 り, 官 吏 グゥエン ゴック トゥオン (Nguyê n Ngọc Tuʼoʼng) とレェ ヴァン リック (Lê Văn Lịch) が 交 替 で 壇 の 証 人 となり,カ ミン チュオン (Ca Minh Chuʼoʼng) とファム ヴァン トゥオイ (Phạm Văn Tuʼoʼi) が 扶 鸞 を 行 った 6 ロク ジャン 壇 (Ðàn Lộc Giang) イェト マ ジョン (Yết MaGiống) のフゥオク ロン 寺 (chùa Phuʼóʼc Long) に 在 り, 官 吏 マック ヴァン ギィア (Mạc Văn Nghĩa) が 壇 の 証 人 となり,チャン ズイ ギィア (Trần Duy Nghĩa) とチュオン ヴァン チャン (Truʼoʼng Văn Tràng) が 扶 鸞 を 行 った 通 常 のこの 6 壇 機 の 他 にも, 至 尊 は 普 度 のための 機 を 扶 けるために 必 要 な 別 の 場 所 での 大 壇 を 立 てるよう 教 えられた とある 9) ことから, 壇 があったものと 思 われる 一 回 の 壇 機 に 参 加 する 人 はみな, 当 然 のこととして, 斎 戒 し, 心 が 清 浄 であることが 要 求 さ れねばならず, 個 人 的 なことや 俗 世 間 のことを 話 すのではなく, 教 えに 関 する 心 の 傾 向 を 話 さ ねばならない 経 典 が 下 されているときには, 隠 れて 無 秩 序 に 念 じる 必 要 は 無 いとされた 4.ティエウ ゴック コ (Tiê u Ngọc coʼ 小 玉 機 ) を 使 っての 降 霊 霊 媒 が 神 の 啓 示 を 受 けるには, 紙 を 張 った 竹 籠 に, 長 さ 約 40 センチの 竹 製 の 柄 を 差 し 込 ん だ, 機 筆 (Coʼ Bút) と 呼 ばれる 一 種 の 筆 記 具 が 用 いられる 霊 媒 が 竹 籠 を 持 ち, 竹 の 柄 の 先 に 取 り 付 けた 木 釘 を 溶 いた 白 墨 に 浸 し, 机 の 上 にのせる それが 依 代 となって, 神 意 が 自 動 筆 記 されていく 10) これを 側 に 控 える 第 三 者 が 声 に 出 して 読 み 上 げたものを 書 記 者 が 書 き 写 し, 神 霊 からのメッセージとする この 点 では 基 本 的 に 大 玉 機 と 同 様 である 降 霊 に 携 わる 者 の 数 や 呼 び 出 す 靈 によって 大 小 が 区 別 された ところが 求 機 壇 機 が 人 口 に 膾 炙 していくと 悪 用 や 誤 用 が 目 立 つようになっていったようで, 衆 生 の 中 には, 至 尊 の 命 令 もなしに, 機 を 求 める 壇 を 無 理 に 立 てようとして, 厳 かさもない 不 潔 な 多 くの 壇 が, 道 徳 的 にも 怪 しい 証 人 の 下 で, 至 尊 の 任 命 に 依 らないものが 扶 鸞 を 行 い, 壇 に 仕 えることを 渇 望 し,いつも 仙 仏 を 自 称 する 真 霊 に 入 られ, 衆 生 を 邪 道 に, 導 く とい うことが 神 意 によって 示 され,1927 年 6 月 1 日 に 至 尊 は 機 筆 普 度 を 停 止 する よう 諭 し た 11) 機 筆 を 奨 励 しない 理 由 には, 神 霊 と 通 交 するための 用 具 という 意 味 の 機 ではなく,その 用 具 に 降 る 神 霊 をも 機 と 解 するが,その 機 が 1 ティエン コ (Tiên coʼ 仙 機 ),2 タ コ (Tà coʼ 邪 機 ),3 ニョン コ (Nhoʼn coʼ 仁 機 ) であるのかを 区 別 するのが 難 しいため,カオダイ 教 内 部 では 各 信 徒 がこの 交 霊 方 法 を 使 用 することを 奨 励 しなくなった もし 各 信 徒 が 各 々の 機 を 理 解 したい 時 には 聖 書 とされる タイン ゴン ヒェップ トゥエン ( 聖 言 協 選 Thánh Ngôn HiệpTuyê n) 12) を 読 むようにとしている 要 は 審 神 者 の 方 法 が 確 立 されていなかったためであ 131
人 文 学 報 り,これ 以 降 は 求 機 や 壇 機 は 原 則 的 には 協 天 台 に 限 定 された 5.コ ブット (Coʼ Bút 機 筆 ) の 種 類 と 条 件 について 機 筆 は 機 を 請 い ( 求 機 ) 筆 を 受 け 取 る ( 執 筆 ) 儀 礼 であり,カオダイ 教 の 一 つの 基 礎 を 為 す ものであって,この 宗 教 の 出 自 を 呈 示 したものであり,この 宗 教 を 解 き 伝 える 方 法 でもある 求 機 執 筆 とは, 交 霊 方 法 であって,カオダイでは 通 交 方 法 と 称 している カオダイの 教 えは, 機 筆 によって 創 立 し, 機 筆 を 通 して 真 の 教 えを 解 き 伝 えている 機 筆 は ダイ ダオ タム キ フォ ド (ÐạiÐạo Tam Kỳ Phô Ðộ 大 道 三 期 普 度 ) の 根 本 的 な 基 礎 の 一 つ であり, 機 筆 を 通 して, 教 えの 律 法 が 施 行 される その 機 筆 には 以 下 の 3 種 がある 13) 1) コ ブット フォ ド (Coʼ Bút Phô Ðộ 機 筆 普 度 ) この 機 筆 は, 衆 生 が 奉 壇 に 参 加 して,カオダイの 信 徒 になりたいと 望 んだ 時, 直 接 門 弟 を 承 認 するために 上 帝 が 使 用 する この 機 筆 は 最 初 の 年 には 止 めていて,その 後 教 えの 中 での 各 職 色 の 系 統 が 比 較 的 安 定 してから 行 われた 上 帝 は 各 職 色 にフォ ド (Phô Ðộ 普 度 ) を 交 付 する 2) コ ブット フォン タイン (Coʼ Bút Phong Thánh 機 筆 封 聖 ) この 機 筆 は, 二 人 の 童 子 の 中 で ( 二 人 の 童 子 は 協 天 台 の 人 間 でなければならない), 法 支 部 (chi Pháp) あるいは 道 支 部 (chi Dao) に 最 初 に 一 人 の 童 子 が 属 さなければならない 時 に 使 う 法 と 道 の 二 支 部 の 中 にタップ ニィ トイ クァン (Thập Nhị Thòʼi Quân 十 二 時 君 ) 14) まだ 在 世 していない 時 には, 機 筆 封 聖 も 停 止 する の 各 位 がみな 3) コ ブット ザイ ダオ (Coʼ bút dạy Ðạo 教 えを 伝 える 機 筆 ) この 機 筆 は, 衆 生 が 無 形 の 神 々を 直 接 礼 拝 し 学 習 するためのものであり,それゆえ 禁 じられ ていない ザオ フウ (Giáo Hũʼu 教 友 ) の 品 級 以 上 の 各 職 色 は, 常 に 新 たな 機 を 求 めねばなら ない この 機 筆 は 禁 じられていないが, 自 分 の 家 や 個 人 や 集 会 における 壇 機 は 悉 くみな 固 く 秘 密 が 保 持 されていなければならず, 外 部 に 伝 えもれることがあってはならない とあることから, 必 ずしもすべての 求 機 や 壇 機 が 協 天 台 に 独 占 されたのではなく, 教 友 の 品 級 以 上 の 各 職 色 には 秘 密 保 持 の 原 則 の 下 にコ ブット ザイ ダオが 認 められていたことが 知 れる ただ, 機 筆 には 次 の 二 つの 条 件 が 付 けられている 1 ティエン コ (Thiên coʼ 天 機 ) を 尋 ねることはできない 2 外 部 に 伝 え 洩 らすことはできない 重 要 なことは,だれもが 求 機 の 意 図 を 持 っており, 資 格 や 条 件 が 十 分 であるのか 不 十 分 であ るのかは, 自 らを 見 直 さなければならないということである では, 何 を 以 って 資 格 の 有 無 を 判 断 するのか 資 格 があると 認 めることのできる 正 しい3つの 条 件 とは 以 下 のごとくである 1 偉 大 なる 衆 生 をいたわる 愛 情 を 持 って 6ヶ 月 以 上 の 長 い 斎 戒 をせねばならない 2 各 神 々も 多 事 多 忙 のため, 各 神 々の 貴 重 な 時 間 を 失 わせてはならず, 個 人 的 な 事 柄 を 問 う 132
カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) ( 髙 津 ) ことなく, 教 えに 関 して 尋 ねなければならない 3 最 小 限 3 人 の 人 が 居 らねばならない 2 人 が 奉 筆 し,1 人 が 壇 を 証 する 人 である 壇 を 証 する 人 は, 道 徳 的 で 教 えの 行 いの 高 い 人 物 で 無 ければならない もし 可 能 であるなら, 理 想 的 には 1 回 の 壇 機 は 最 小 7 人 である この 7 という 数 は,タット ティン (Thất Tinh 七 星 ) の 象 徴 であり, 次 のように 配 置 する チュン ダン (chúʼng đàn 壇 を 証 する 人 ) 1 人 :( 無 形 の 各 境 界 にまで 通 じる, 十 分 強 力 な 思 想 に 基 づく 請 願 の 言 葉 を 発 するため, 落 ち 着 いた 精 神 と 定 まった 心 を 持 った 者 ) 童 子 2 人 :( 霊 媒 ) 書 記 1 人 :( 各 主 な 文 字 を 読 み 取 り 文 となすために 正 しく 変 換 し, 記 録 する 者 ) ホ ダン (hộ đàn 護 壇 ) 1 人 :( 邪 な 怪 しい 気 が 侵 入 する 前 にのみならず 壇 を 鎮 めるために 定 まった 心 と 神 を 鎮 める 術 について 通 暁 していなければならない ) ハウ ダン (hầu đàn 壇 に 奉 仕 する 人 ) 2 人 :( 線 香 蝋 燭 茶 水 酒 等 に 気 を 配 る ) 15) 以 上 のようなフォ ロアンによる 機 筆 が,カオダイ 教 の 神 意 を 伺 う 基 本 的 方 法 であり,この 方 法 によりカオダイ 教 は 創 立 され, 教 えが 伝 えられ, 律 法 が 施 行 されてきたとするのがゴォ ヴァン チュウを 始 祖 と 仰 ぐ 内 教 心 伝 (Nội Giáo Tâm Truyền) のグループであり, 後 のタイニ ン 派 のグループでもある Ⅱ.カオダイ 教 におけるサイ バン (Xây bàn) カオダイ 教 が 教 団 として 植 民 地 政 庁 に 認 可 される 以 前 の 時 期,カオ クゥイン クゥ (Cao Quỳnh Cuʼ),ファム コン タック (Phạm Công Tắc),カオ ホアイ サン (Cao Hoài Sang) ら フランスの 学 校 であるシャッスル ローバーを 出 た 3 人 は 機 筆 を 知 らず,ただフランスから ヴェトナムに 伝 わった 神 霊 学 (Thần Linh Học) の 各 書 に 依 ったサイ バンを 知 るだけであった このサイ バンによりこの 3 氏 達 は,1925 年 には 瑶 池 宮 の 七 娘 (Thất Nuʼoʼng Diêu Trì Cung) と 接 触 することができ,その 後 七 娘 が 初 めてこの 3 氏 達 に 神 聖 な 方 々を 請 うためには 機 筆 を 用 いた 方 がサイ バンよりも 速 くて 便 利 であることを 案 内 した 2015 年 は 瑶 池 金 母 をカオダイ 教 が 祀 って 90 周 年 に 当 たり,カオダイ 教 タイニン 派 は 台 湾 の 道 院 をはじめ 日 本 の 大 本 も 招 待 し, 旧 暦 の 8 月 15 日 に 当 たる 9 月 27 日 にタイニンでの 祀 典 が 盛 大 に 挙 行 された また,タイ ニン 派 以 外 の 各 支 派 はハノイに 集 い, 祀 典 を 行 った 1.サイ バン (Xây bàn) の 定 義 と 淵 源 ヴェトナム 語 におけるサイ (Xây) とは 回 転 する, 強 く 動 く という 意 味 であり,バン (bàn) とは テーブル, 卓 を 指 す 要 は, 木 製 のテーブルが 繰 り 返 し 揺 れて (まっすぐな 方 向 133
人 文 学 報 に 揺 れてはまた 揺 れ 戻 す),テーブルの 脚 が 床 を 叩 くことによって,コツコツという 音 を 発 する ことであり,この 叩 音 現 象 は 生 きとし 生 ける 人 間 と 亡 霊 との 間 に 交 わされる 目 に 見 えない 世 界 での 一 つの 交 渉 方 法 と 解 するのがカオダイ 教 における 理 解 である その 淵 源 は,1848 年 アメリカ 合 衆 国 ニューヨーク 州 ハイズヴィルに 居 住 するドイツ 系 移 民 フォックス 家 で,15 歳 のマーガレットと 12 歳 のケイトが, 壁 の 中 でのコツコツ 音 とアルファ ベットとの 対 応 関 係 に 気 付 いたことから 始 まり,6 年 後 の1854 年 頃 にはアメリカの 降 霊 術 愛 好 者 は300 万 人 以 上 に 上 ったと 言 われる この 叩 く 音 とアルファベットとの 対 応 関 係 は,1845 年 ワシントン ボルティモア 間 における S F B モースによる 世 界 最 初 の 実 用 電 信 であっ たモールス 信 号 の 原 理 が 影 響 したものと 解 される この 霊 界 との 通 交 方 法 との 解 釈 は 瞬 く 間 に ヨーロッパに 伝 わり,1853 年 9 月 6 日 にヴィクトル ユゴーをジャージィー 島 にジラルダン 夫 人 が 訪 ねた 際 に, 当 時 パリで 一 大 センセーションを 起 こしていた 降 霊 術 が 同 夫 人 によって 伝 えられたことがオーギュスト ヴァクリーの 覚 書 の 1853 年 9 月 11 日 ( 日 ) より 知 られ,1853 年 冬 にはフランスで 降 霊 術 の 大 流 行 が 起 こり, 1853 年 秋 から 1855 年 10 月 までユゴーは 降 霊 術 の 実 験 に 明 け 暮 れた 16) この 文 豪 ヴィクトル ユ ゴーの 降 霊 術 の 実 験 がヴェトナムに 神 霊 学 として 伝 わり, 後 にタイニン 派 の 指 導 者 となる3 人 に よって 試 されたがゆえにヴィクトル ユゴーはカ オダイ 教 正 殿 の 入 り 口 正 面 に 掲 げられる 絵 の 中 に 神 と 人 類 愛 愛 と 正 義 を 諭 す 人 物 として 描 かれ ており, 単 なる 著 名 な 文 豪 としてのみではなく 三 聖 の 一 人 月 心 真 人 (Ðúʼc Nguyệt Tâm Choʼn Nhoʼn) で あり, 白 雲 洞 にてグゥエン ビン キィエム ( 阮 秉 謙 Nguyê n Bı nh Khiêm) の 弟 子 となった 人 物 として 信 仰 を 集 めている 2.カオダイ 教 におけるサイ バン カオダイ 教 におけるサイ バンの 理 解 とは, 目 に 見 えない 世 界 の 神 霊 がテーブルに 入 る 儀 式 に 降 ってくることを 求 めて,テーブルが 揺 れて 揺 れ 戻 し,テーブルの 脚 が 床 をコツコツと 音 を 立 てて 叩 き, 音 を 発 することで,このコツコツという 音 を 拠 り 所 として 掲 示 された 字 母 に 従 っ て 各 字 を 規 定 することである すなわち,テーブルが 1 回 コツンと 音 を 立 てたら A の 字,2 回 コツン コツンと 音 を 立 て たら Ă の 字,3 回 コツン コツン コツンと 音 を 立 てたら Â の 字,4 回 コツン コツン コ 134
カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) ( 髙 津 ) ツン コツンと 音 を 立 てたら B の 字,5 回 コツン コツン コツン コツン コツンと 音 を 立 てたら C の 字,6 回 コツン コツン コツン コツン コツ ン コツンと 音 を 立 てたら D の 字,7 回 コツン コ ツン コツン コツン コツン コツン コツンと 音 を 立 てたら Đ の 字,といった 具 合 にヴェトナム 語 の 字 母 と 叩 音 との 対 応 関 係 が 規 定 され,それによっ て 神 霊 の 託 宣 を 知 る 方 法 である 3.カオダイ 教 の 歴 史 とサイバン 1924 年 に 上 述 したカオ クゥイン クゥ,ファ ム コン タック,カオ ホアイ サンらの 3 氏 は, フランス 神 霊 学 会 会 員 のポール モネ (Paul Monet) 大 尉 と 親 しい 間 柄 となった 3 氏 は 目 に 見 えない 各 神 霊 と 会 話 をして 通 交 するために 霊 媒 として 神 がか りになることをモネによって 知 っていた このことは,3 氏 にとって,とても 思 ってもみない 興 味 深 いことで, 目 に 見 えない 世 界 の 何 かについてもっと 知 りたいという 強 い 意 志 が3 氏 には あった ヴェトナムにおける 神 霊 学 研 究 界 には 多 くの 人 がいたが,なかでもクゥ 氏 は 目 に 見 え ない 各 神 霊 と 通 交 するのを 1 度 目 撃 し,あらゆる 方 法 で 目 に 見 えない 世 界 と 連 絡 することを 希 望 していた このことは, 時 々 氏 の 心 を 奪 い 操 り, 志 を 同 じくする 人 が 幾 人 かいた 乙 丑 年 6 月 5 日 (1925 年 7 月 25 日 土 曜, 夜 ),サイゴン,タイ ビン 市 場 近 くのハン ズア 舗 のカオ ホアイ サンの 家 でサイ バンが 開 始 された この 土 曜 の 午 後, 事 務 所 の 仕 事 は 終 わりカオ クゥイン クゥとタックは,それぞれにサン 氏 の 家 に 近 いため,この 世 の 世 事 の 状 態 を 久 闊 を 叙 してカオ ホアイ サンと 一 緒 に 語 り 合 う ために,サンの 家 に 遊 びに 行 った 夜 更 けまで 一 杯 のお 茶 で 話 し 合 ってカオ クゥイン クゥ は 神 霊 が 催 促 しているらしい,もしくは 超 能 力 が 心 を 動 かしたため, 新 たにその 場 にいない 亡 霊 と 接 触 するためのサイ バンを 行 ってみることを 思 いついた タックとサンの 二 氏 は 互 いに 同 じ 気 持 ちを 持 って 呼 びかけに 応 えた その 時 カオ クゥイ ン ズィウと 氏 の 二 人 の 息 子 カオ クゥイン ドックとグゥエン ヴァン タン ( 養 子, 号 は フエ チュオン) も 人 力 車 でサンの 家 へ 来 たばかりであった 各 氏 は 寄 り 集 まり, 円 テーブル を 担 いで 運 び,サン 氏 の 家 の 三 又 の 場 所 に 置 いた この 円 テーブルは 5 寸 の 径 で 8 寸 位 の 高 さ の 中 柱 と 三 本 脚 を 持 ち,テーブルが 揺 れ 揺 れ 戻 して 脚 が 床 に 当 たってコツコツと 音 を 立 てや すいように,2 3 寸 程 中 柱 を 高 くしてあった 円 い 天 板 の 上 には,3 本 のお 線 香 を 差 し 入 れる 135
人 文 学 報 小 さな 節 があった 全 員 が 円 テーブルの 周 囲 に 座 り, 天 板 の 上 に 両 の 掌 を 伏 せて 親 指 を 互 いに 重 ねて 置 き,この 人 の 伏 せた 指 は 隣 接 する 人 の 伏 せた 手 の 指 に 重 ねて 置 く すると, 霊 が 降 っ て 静 かに 清 らかに 席 に 着 いたのか,テーブルがその 方 向 に 傾 げ 始 め, 傾 げた 方 向 と 反 対 側 に 誰 かが 押 し 戻 しているように 傾 げる 幾 人 かが 互 いに 質 問 をすると, 誰 一 人 押 し 合 いへし 合 いし ていることがないのに, 亡 霊 がテーブルに 入 り 込 んだかのように,テーブルが 傾 げ 始 め 床 を 軽 くコツンコツンと 音 を 立 て 始 めた それに 引 き 続 いて,テーブルが 脚 でコツンコツンと 拍 子 を とって 字 を 示 し 始 める テーブルが 1 回 音 を 立 てたら 各 氏 は A と 読 み,2 回 音 を 立 てたら Ă と 読 み,3 回 音 を 立 てたら Â, ひたすらこのようにして,テーブルがいったん 止 まるとど の 字 かが 分 かる その 字 をとってひたすら 字 となしたものをつなげて, 意 味 を 持 った 単 語 とす る この 夜 には 多 くの 亡 霊 がテーブルに 入 り 込 み,コツコツと 音 を 立 ててフランス 語 で 示 した り,またハノイの 学 生 はコツコツと 音 を 立 ててヴェトナム 語 で 表 した これがカオダイ 教 の 歴 史 における 最 初 のサイ バンの 時 間 であり, 多 くの 亡 霊 がテーブルに 入 り たがり, 互 いに 争 って 会 話 したがるのには 理 由 が あった 各 氏 を 驚 かせたのは,テーブルを 回 し 始 め,テーブルが 規 則 正 しくコツコツと 音 を 立 てる 中 でためらったりすると, 字 をなさず 単 語 にもな らないためにうんざりしてさらに 続 ける 気 がしな い ためらい 過 ぎた 時 にはクゥ 氏 は, 餓 鬼 か 魔 魂 がテーブルに 入 り 込 んで 荒 らしているのかの 決 心 がつかずに 迷 ってためらい 過 ぎたので,クゥ 氏 は サイ バンを 一 旦 やめて, 明 晩 また 試 すことを 約 束 した 17) 1925 年 12 月 15 日 ( 乙 丑 の 年,10 月 30 日 ),A. Ă. Âと 称 する 靈 が 3 人 の 下 に 降 り, 次 のように 諭 Minh họa : các đấng tiền khai tập xây bàn された 1925 年 12 月 16 日 (この 年 の 11 月 上 旬 ), 三 人 は 天 に 望 んで 教 えを 求 めねばならない 目 上 の 者 の 恩 恵 に 浴 すであろうゆえ, 天 が 掌 握 する 9 つの 神 を 祀 るための 線 香 などを 載 せる 祭 壇 の 台 の 間 を 清 潔 にして 祈 るよう 目 を 配 られよ 18) ここでいう 3 人 とは, 言 うまでもなくカオ クゥイン クゥ,ファム コン タック,カ オ ホアイ サンであり,A. Ă. Âと 称 する 霊 を 仮 称 していたカオダイ 上 帝 (Cao-Đài Thuʼọʼng- Đế) に 望 んだことは,3 人 が 邪 な 点 は 改 め 正 しきに 帰 すよう 導 き 賜 うことであった 翌 朝,カオ クゥイン クゥは 自 宅 の 近 くにあるティ 氏 ông Tý (o ʼ đuʼòʼng Bourdais) の 大 玉 136
カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) ( 髙 津 ) 機 (Đại Ngọc Coʼ) を 借 用 しに 行 った A. Ă. Âと 称 する 霊 の 諭 された 言 葉 を 思 い 出 し,3 人 は 小 さなテーブルの 置 かれた 石 の 敷 き 詰 められた 外 に 膝 まずいて,9 つの 神 を 祀 るための 線 香 な どを 載 せる 祭 壇 にもたれて, 祈 った このようにしてサイ バンを 繰 り 返 すうちに 至 上 の 神 カオダイが 降 って,3 氏 にチョロンに 居 る 植 民 地 評 議 会 議 員 であったレェ ヴァン チュンを 訪 ねてカオダイ 教 の 創 設 をお 願 いする ようにとの 託 宣 が 降 り,3 氏 はその 託 宣 に 従 い 面 識 のなかったレェ ヴァン チュンに 宗 教 法 人 としてのカオダイ 教 の 創 設 を 依 頼 し,レェ ヴァン チュンはこれを 受 け 入 れて 同 じカオダ イの 教 えを 信 奉 するゴォ ヴァン チュウを 始 祖 と 仰 ぐ 内 教 心 伝 グループをも 取 り 込 み, 初 代 教 宗 としてカオダイ 教 が 創 設 された それゆえ,サイ バンによる 神 託 を 得 た3 氏 を 始 祖 とす るグループを 外 教 公 伝 (Ngoại Giáo Công Truyền) グループという 4.3 氏 の 入 信 前 の 職 業 と 入 門 後 の 地 位 1 カオ クゥイン クゥ (Cao Quỳnh Cuʼ) (1888-1929) は,フランス 植 民 地 政 庁 下 で 鉄 道 公 共 労 働 局 の 書 記 としてサイゴンで 勤 務 していた 入 門 後 には 協 天 台 の 高 僧 としての 地 位 を 確 立 したが, 早 くにして 他 界 した 2 ファム コン タック (Phạm Công Tắc) (1890-1959) は, 同 じく 植 民 地 政 庁 の 関 税 専 売 局 の 書 記 としてサイゴンで 勤 務 していた 入 門 後 は 護 法 の 地 位 につき,レェ ヴァン チュン 亡 き 後 は 第 2 代 のタイニン 派 代 表 (1934-56 年 ) として, 現 在 に 及 ぶタイニン 派 中 興 の 基 盤 を 創 設 し, 絶 大 な 影 響 力 を 行 使 した 3 カオ ホアイ サン (Cao Hoài Sang) (1901-1971) も 同 じく 植 民 地 政 庁 で 関 税 専 売 局 の 書 記 としてサイゴンで 勤 務 していた 入 門 後 は 協 天 台 の 高 僧 尚 生 としての 地 位 にあり,ファ ム コン タックがプノンペンに 退 いた 後 には, 第 3 代 のタイニン 派 代 表 (1956-71) に 就 任 した この 履 歴 は,カオダイ 教 タイニン 派 の 指 導 部 がその 創 成 期 からサイ バンによる 外 教 公 伝 グ ループの 3 人 を 中 心 に 築 かれたことを 明 確 に 物 語 ると 言 ってよいものと 思 う お わ り に カオ クゥイン クゥ,ファム コン タック,カオ ホアイ サンの 3 人,そしてカオ クゥイン ズィウ (Cao Quỳnh Diêu) を 加 えても4 人 の 行 ったサイ バン (Xây Bàn) は,ヴェ トナムに 伝 わった 西 洋 の 神 霊 学 の 各 書 物 を 根 拠 にしたものであり,この 時 期 のサイ バンは, コツコツとテーブルがたたく 方 式 (cách bàn gõ) によるものであった ただ,サイ バンは 非 常 に 煩 瑣 で, 利 便 性 から 少 しづつフォ ロアンへと 神 意 をうかがう 方 法 が 移 ったと 言 えよう 137
人 文 学 報 以 上 のことからカオダイ 教 の 形 成 過 程 には 神 意 の 伺 い 方 により 大 きく 二 つのグループがあっ たと 言 えよう 一 つは, 内 教 心 伝 (Nội Giáo Tâm Truyền) グループであり,ゴォ ヴァン チュウを 始 祖 と して 大 玉 機 (Đại Ngọc Coʼ) や 小 玉 機 (Tiê u Ngọc Coʼ) によるフォ ロアンによる 神 託 を 得 るグ ループを 指 し, 後 のカオダイ 11 派 はこれに 属 し,その 多 くは 解 放 勢 力 側 に 付 いた 二 つは, 外 教 公 伝 (Ngoại Giáo Công Truyền) 派 であり,サイ バンによる 神 託 を 得 ることに 始 まり, 後 1929 年 前 後 に 利 便 性 から 神 託 を 得 る 方 法 はフォ ロアンへと 変 わるもののカオ クゥイン クゥ,ファム コン タック,カオ ホアイ サンの 3 人 を 中 心 とする 派 で,タイ ニン 派 がこれに 当 たる 同 派 は 保 守 的 復 古 主 義 的 な 性 格 を 持 ちながらもフランスから 弾 圧 さ れると 親 日 に, 日 本 が 敗 北 すると 親 仏 に,さらには 親 米 へと 外 国 勢 力 を 利 用 しながら 解 放 を 迎 えた このことは, 単 に 神 意 を 伺 う 方 法 だけの 問 題 ではなく,より 複 合 的 な 要 因 によるものと 思 われる 後 考 を 俟 つ なお,カオダイ 教 におけるサイ バンによる,もしくはサイ バンの 特 性 として 以 下 の 3 点 を 指 摘 しておきたい 1 カオダイ 教 は, 在 地 のヴェトナム 南 部 の 宗 教 環 境 や 中 国 民 間 信 仰 の 影 響 の 中 でのみ 成 立 し たのではない 逆 に 言 えば,フランス 式 の 教 育 を 受 け, 植 民 地 政 庁 の 官 吏 となったような 社 会 階 層 に 位 置 する 人 たち,すなわちプチブル 階 層 の 人 たちが 行 った 神 霊 学 に 影 響 を 受 け たサイ バンという 方 法 によってカオダイ 教 タイニン 派 の 指 導 層 が 形 成 された 19) 2 フランスの 神 霊 学 の 影 響 はサイ バンという 神 意 をうかがう 方 法 としての 影 響 は 認 められ たが,サイ バンで 降 った 霊 やその 神 意 の 内 容 はヴェトナムの 道 教 や 中 国 民 間 信 仰 の 影 響 がみられるものであった 3 カオダイ 教 の 一 部 で 利 用 されたサイ バンはアラン カルデックやヴィクトル ユーゴか らの 神 霊 学 に 依 る 点 が 大 きい また,この 時 期 の 社 会 経 済 政 治 的 な 背 景 の 下 での 宗 教 環 境 について,グゥエン スゥア ン ギィア (Nguyê n Xuân Nghĩa) は, 1920 年 代 以 降, 各 メシアニズム 宗 教 運 動 は 全 く 特 別 な 背 景 のもとに 出 現 した カオダイ 教 が 正 式 に 成 立 した 1926 年 は, 民 治 伝 説 で 広 く 知 られた ファン チュウ チン (Phan Châu Trinh) が 帰 国 して1 年 後 のことであった グゥエン ア ン ニン (Nguyê n AnNinh) グループの 運 動 が 出 現 したのもこの 時 期 であり,この 1925 年 は ファン ボイ チャウ (Phan Bội Châu) が 逮 捕 された 年 でもあり,ホー チ ミン (Hồ Chí Minh) がヴェトナム 青 年 革 命 同 志 会 (Việt Nam Thanh niên Cách mạng Ðồng chí hội) を 立 上 げた 年 でもある またカオダイ 教 の 成 立 は, 当 時 施 行 されたヴァレンヌ (Varenne) 全 権 による 改 良 政 策 と 分 けて 考 えることはできない 逆 に, 第 二 次 世 界 大 戦 が 始 まった 1939 年 とその 翌 年 の 南 圻 蜂 起 (kho ʼi nghĩa Nam kỳ) (1940 年 11 月 23 日 ) が 勃 発 した 抗 仏 という 背 景 のもとでホアハ 138
カオダイ教におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) (髙津) オ教 (Hòa Ha o) は出現した 20) と指摘して カオダイ教の改良主義的性格を指摘し カソ リックの影響を認めているが サイ バンに代表されるフランス神霊学の影響については言及 していない それゆえ 外教公伝派の持つトランス ナショナルな あるいは外部勢力を利用 し外部勢力に依存しつつ存続を図ろうとする性格は サイ バンを始めた 3 氏たちの出身社会 階層の性格が固定されたことによるものとも思われる Tap chí Dân tôc hoc, sô 2-1985 p. 58 に加筆 図 メコンデルタにおけるカオダイ教の宗教的位置とサイ バン 注 1) 砂山稔 玉皇上帝と宋代道教 編集代表 野口鐵郎 講座 道教 第 1 巻 道教の神々と経 典 平成 11 年 雄山閣出版 参照 2) 3) Huê Khai ; Ngô Vǎn Chiêu Nguʼ òʼ i Môn Đê Cao Đài Đâ u Tiên, Nhà Xuâ t Ban Tôn Giáo, Hà Nôi, 2008, pp. 17-18 髙津 茂 ヴェトナム南部メコン デルタにおける五支明道 (Ngũ Chi Minh Đao) とカオダ イ教 共生科学研究 (星槎大学紀要) 8 号 2012 4) カオダイ教では アラン カルデックことイポリット レオン デニザール リヴェイユを今 でも篤く崇拝している なお アラン カルデックについては 三浦清宏 近代スピリチュアリ ズムの歴史 5) 心霊研究から超心理学へ 2008 年 講談社 186-188 頁参照 茂 近世ヴェトナムの 万教合一論 日本共生科学会 共生科学 Vol. 1, 2010, pp. 103 - 髙津 111 Đao suʼ xây bàn, quyên môt (phâ n 1) http : //vietngu.caodai.net/index.php/lch-s-cao-ai/164-o s-xay-ban-quyn-mt-phn-1 6) Lich Suʼ Quan Phu Ngô Văn Chiê u(1878-1932). Nguʼ òʼ i sáng lâp Đao Cao Đài, In Lâ n Thúʼ TUʼ, Nhà in Trâ n Minh Châu, Saigon, 1956, pp. 7-8 7) Câ u coʼ -Đàn coʼ, CAO ĐÀI TÙʼ ĐIÊN Q. 1, Soan gia : Hiê n Tài Nguyê n Vǎn Hô ng, bút hiêu Đúʼ c Nguyên. p. 82 8) Câ u coʼ -Đàn coʼ, CAO ĐÀI TÙʼ ĐIÊN Q. 1, p. 82 n ban nǎm  t Dâu-2005, Biên 10) KHAO LUÂN XÂY BÀN & COʼ BÚT TRONG ĐÂO CAO ĐÀI,  Soan Hiê n Tài Nguyê n Vǎn Hô ng, pp. 46-47 9) 139
人 文 学 報 11) Q. 1/87. Thành giáo dạymối Đạo pha i tra i qua lǎ mnô i gay go đê gieo mối chánh truyền cho đoàn hậu tấn. (có dạy đến việc ngo l ng coʼ bút). 01-06-1927 (âl. 02-05-Đinh Mão). THÁNH NGÔN HIỆP TUYÊ N Quyê n1& 2Hội Thánh giũʼ ba n quyền. Ấnba nnǎm Nhâm Tý (1972). Nhà in Trung Tâm Giáo Hóa Thiếu Nhi Thu Đúʼc. Đã huệu đính dụʼa theo ấn ba nnǎm Ky Dậu (1969) & Canh Tuất (1970). pp. 169-170 12) カオダイ 教 には 宗 派 により 独 自 の 聖 書 を 持 つ 派 が, 現 在 3 派 ある タイニン 派 の タイン ゴ ン ヒェップ トゥエン ( 聖 言 協 選 Thánh Ngôn Hiệp Tuyê n) 以 外 にも,チュウ ミン 派 (Phai Chiấu Minh) では 大 乗 真 教 (Ðại Thùʼa Choʼn Giáo) を 聖 書 とし,カオダイ カウ コォ タム クゥアン 聖 会 (Hội Thánh Cao Đài Cầu Kho Tam Quan) は 三 乗 真 教 経 (Kinh Tam Thùʼa Choʼn Giáo) を 聖 書 としている それゆえ, 支 派 により 読 むべき 聖 書 は 異 なること がある 13) Phan Văn Tân : Lịch Su ʼ Cọ Bút Đạo Cao Đài, Hồn Quê Xuất Ba n, Thiền Giang. 1967 14) 十 二 時 君 とは, 護 法 -PHÁP) の 権 能 の 下 におかれた 4 位 ( 接 法 (Tiấp-Pháp) 開 法 (HŌ (Khai-Pháp) 憲 法 (Hiấn-Pháp) 保 法 (Ba o-pháp)) と 教 えに 関 する 上 品 (Thuʼọʼng-Phâ m) の 権 の 下 におかれた 4 位 ( 接 道 (Tiấp-Đạo) 開 道 (Khai-Đạo) 憲 道 (Hiấn-Đạo) 保 道 (Ba o- Đạo)) と 上 生 (Thuʼọʼng-Sanh) の 権 能 の 下 におかれた 4 位 ( 接 世 (Tiấp-Thấ) 開 世 (Khai- Thấ) 憲 世 (Hiấn-Thấ) 保 世 (Ba o-thấ)) の 12 位 の 時 君 (Thòʼi-quân) を 十 二 真 君 (Thập Nhị Choʼn Quân) と い う そ の 性 格 は 以 下 を 参 照 の こ と http : //www-personal. usyd. edu. au/ cdao/booksv/dichlycaodaiebooks/ebook-thapnhithoiquan/tntq-ch0100.htm 15) 髙 津 茂 (2010),pp. 103-111 16) 稲 垣 直 樹 ヴィクトル ユゴーと 降 霊 術 水 声 社,1993 年,21-45 頁,91-111 頁 参 照 17) KHA O LUẬN XÂY BÀN & COʼ BÚT TRONG ĐẠO CAO ĐÀI, pp. 16-28 18) Ngày 16-12-1925 (âl. 01-11-Ất Su ʼu) : Vọng Thiên Cầu Đạo. ĐẠO SUʼ Quyê n I : Đạo Su ʼ Xây Bàn nǎm ấtsu ʼu (1925), Theo Ấn nnǎm Ất Họʼi (1995), Biên Soạn : nũʼ ðầu suʼ HUʼOʼNG HIẾU, Ba Hội Thánh Giũʼ Ba n Quyền, pp. 64-66 19) Nguyê n Xuân Nghĩa : Vài Nhận Xét Vê` Các Phong Trào Tôn Giáo Cúʼ u Thê o ʼ Đô`ng Bǎ`ng Sông Cu ʼ u Long, Tạp chídân tộc học, số 2, 1985, pp. 53-54 には, カオダイ 信 成 は,より 複 雑 に 区 別 される まず 初 めに 創 立 時 の 社 会 的 成 分 はフランスのために 仕 事 をする 職 員 やサイゴンに 居 る 大 資 産 家 やメコンデルタの 地 主 であった 各 童 子 やフォ ロアンに 仕 える 者 の 多 くは 小 職 員 であっ た 最 後 に, 信 徒 の 大 部 分 は 各 行 政 公 署 の 人 員 であり, 労 働 者, 農 民, 学 生 であった 都 市 から 創 立 されたにもかかわらず,1975 年 以 前 まではベン チェ (Ben Tre),ヴィン ロン (Vinh Long),バック リュウー (Bac Lieu) のようなメコンデルタ 農 村 部 において 力 強 く 拡 張 した と 記 している 20) Nguyê n Xuân Nghĩa (1985), pp. 52-53 140
カオダイ 教 におけるフォ ロアン (Phò loan) とサイ バン (Xây bàn) ( 髙 津 ) 要 旨 ヴェトナムの 新 宗 教 カオダイ 教 は, 四 種 類 の 神 意 をうかがう 法 がある (1) 扶 機 (Phò coʼ) もしくは 扶 鸞 (Phò loan) と 称 されるもので, 中 国 における 扶 乩 に 当 たる カオダイの 扶 機 は, ゴ ヴァン チュウ (Ngo Van Chieu) に 始 まるとされるが, 神 意 を 伺 う 方 法 としては,メコン デルタにおける 五 支 明 道 (Ngu Chi Minh Dao) 等 の 影 響 によると 思 われる (2) ヴェトナム 語 でテーブルターニングを 意 味 するサイ バン (Xây bàn) で,これは 19 世 紀 にアラン カル デックにより 体 系 化 されたフランスのスピリティスム (Spiritism) の 中 の 叩 音 通 信 (typtologie) がヴェトナムに 伝 わったものである (3) シン サム (Xin Xăm) は, 日 本 の 御 神 籤 に 当 たり, 竹 のくじ 札 を 振 り 出 して 運 勢 を 占 う 方 法 である (4) チャップ ブット (Chấp bút 執 筆 ) は, 一 種 の 自 動 筆 記 で, 童 子 が 白 紙 の 上 に 筆 記 用 具 の 柄 を 置 き, 神 が 腕 に 入 って 字 を 書 き 出 す のを 待 つ 方 法 である 本 稿 ではカオダイ 教 の 形 成 過 程 を 中 心 に 上 述 した 4 つの 神 意 を 伺 う 方 法 の 中 でも (1) 扶 機 もしくは 扶 鸞 と (2)サイ バンを 中 心 に,カオダイ 教 の 中 での 意 義 を 比 較 す る ゴォ ヴァン チュウを 始 祖 として,フォ ロアンによる 神 託 を 得 る 内 教 心 伝 (Nội Giáo Tâm Truyền) グ ル ー プと,サイ バンによる 神 託 に 始 まる 外 教 公 伝 (Ngoại Giáo Công Truyền) 派 は 政 治 的 立 場 も 異 なる タイニン 派 は 外 教 公 伝 として 始 まり,1925 年 から 1927 年 ごろの 最 初 の 時 期 ファム コ ン タック Phạm Công Tǎ c,カオ ホアイ サン Cao Hoài Sang,カオ クゥイン クゥ Cao QuỳnhCuʼ,らは 機 筆 を 知 らず,ただフランスからの 神 霊 学 Thần Linh Học の 各 書 に 依 るのみで あった ただ,サイ バンによりこの 3 氏 達 は,1925 年 9 月 には 瑶 池 宮 の 七 娘 等 と 接 触 するこ とができ,その 後 七 娘 が 初 めてこの 3 氏 達 に 九 天 玄 女 や 瑶 池 金 母 といった 神 聖 な 方 々の 教 えを 請 うていくためには 機 筆 を 用 いた 方 がサイ バンよりも 速 くて 便 利 であることを 案 内 した そ のため 1927 年 から 1928 年 頃 からタイニン 派 でも 機 筆 ( 扶 鸞 ) を 用 いるようになったと 思 われる キーワード:カオダイ 教,フォ ロアン,サイ パン,アラン カルデック,スピリチズム, Nội Giáo Tâm Truyền, Ngoại Giáo Công Truyền Summary Caodai, a Vietnamese new religious movement, has four ways of reading divine will. (1) Phò coʼ /Phòloan, which corresponds to Fuji in China. It is said to have been first used by Ngo Van Chieu in 1917 under the influence of the Mekong Deltaʼs Ngu Chi Minh Dao. (2) Xây bàn. Table turning in English, this is a way to communicate with dead spirits and was transmitted to Vietnam from France as a part of Alan Kardecʼs spiritism. (3) Xin Xăm, a divination method that uses bamboo sticks. (4) Chấp bút, a kind of automatic writing (psychography) by a small child whose arm is thought to be controlled b y a divinity. In this paper, I compare the meanings of Phòcoʼ /Phòloan and Xây bàn, and conclude that the Nội Giáo Tâm Truyê`n group, which was founded by Ngô Văn Chiêu, and the Ngoại Giáo Công Truyê`n group differed in their political opinions. The Tay Ninh sect began as Ngoại Giáo Công Truyền, andduring its initial period (around 1925-1927), Phạm Công Tǎ c, Cao Hoài Sang, Cao Quỳnh Cuʼ, etc. did not know about Phòcoʼ [LD1], relying only on the books of Thần Linh Học from France. However, in September 1925, for the first time these three founders of the Tay Ninh sect met Thất Nuʼoʼng Diêu Trì Cung, Cu ʼu Thiên Huyền Nũʼ, and Diêu Trì Kim Mâ u, who told them that Phòcoʼ is a considerably more convenient and faster method than Xây bàn for requesting teachings from holy people such as Diêu Trì Kim Mâ u. It appears that for this reason Phòcoʼ was adopted in Tay Ninh sect around 1927 or 1928. Keywords : Caodai, Phòloan, Xây bàn, Allan Kardec, Spiritism, Nội Giáo Tâm Truyền, Ngoại Giáo Công Truyền 141