1968. 11. 6 が3年 前 に亡 くな られ た こ とは借 しい こ とで あ とで あ る 吉 井 助 教 授 は一 度 は教 授 にな られ た った が即 日退 職 となっ た な お,当 時 高 橋 研 三 先 生 は 上 野黒 門 町 で盛 大 ま た京 都 大 学 で は和 辻 先 生 の 後 任 に 星 野 教 に 開 業 して お られ た す で に衆 知 の ご と く先 生 授,金 沢 久 保 護 躬 教 授,千 葉 細 谷 教 授, 名 は 日本 に は じ めて 扁桃 全摘 出術 を取 り入 れ られ 古 屋 八 木 沢 教 授,新 潟 鳥 居 教 授 等 がそ れ ぞ た 方 で,そ の 後 多 少 の 改 良 はあ つ た が現 在 な お れ後 任 に な られ た 摘出術はいわ ゆる高 橋 式 器 械 に よつ て行なわ 以 上述 べ た私 の 先輩 諸先 生 の方 々 は,わ が 日 れ て い る 先 生 は この 外 独 特 の 鼻 内 手術 で も有 本 耳鼻 咽 喉 科 学 の 開拓 者 で あ り,ま た わ が国 の 名 で あ る 今 日90才 以 上 で な お 手 術 を して お 耳鼻 咽喉 科 学 を今 日の 隆盛 に もつ て こ られ た 功 られ る こ とは敬 服 の外 は ない 労 者 で あ るの で あ る 田先 生 定 年 退 職 さ わ れ わ れ は 明 治 百 年 に 当 つ て故 人 を しの ん で れ 後 任 と して増 田胤 次 先 生 が教 授 に な られ た 敬 意 を表 し,先 輩 諸 先 生 の御 健 康 と御 自愛 を切 東 京 大 学 で は大 正13年,岡 教 授 候 補 者 と して は こ の外 九 大 の久 保 教 授, に祈 る も ので あ る (昭 和43年8 月 15 日) 吉 井 助 教 授,田 所 講 師 な どが あ げ られ た との こ 九大耳鼻咽喉科学教室 と創立者久保猪 之吉先生 九州大学教授 河 田 政 一 わ が 国 の文 教 政 策 の発 展 時 代 とい うか飛 躍 時 之吉 先 生 は 九州 大 学 は 九州 帝 国 大 学 と して先 ず 代 とい うべ き か 明 治後 期 に 九州 東 北 の2つ の 設 け られ 医科 大学 を根 幹 と して順 次他 の分 科 を 綜 合 帝 国 大学 を新 設 す る案 は 当 時朝 野 に 多 大 の 増 設 す るの が よろ し く,尨 大 な一 分 科 大 学 をつ 論 議 を捲 き起 こ した もの の よ うで あ る く る よ り小 さい 分科 を沢 山 設 け た方 が得 策 で あ 文 豪高 山 樗 牛 が 主 幹 を して い た 雑 誌 太 陽- こ の 綜 合 雑 誌 の大 正 時 代 の 印 象 的 な 表 紙 は筆 者 な ど も子 供 心 に記 憶 してい る -誌 上にそ の頃 東 京 帝 大 医 科 大 学 の耳 鼻 科 の助 手 で あつ た 久 保 猪 る こ と,そ の 費用 は軍 事 費 に比 較 す れ ば微 々 た る も ので あ る 旨 を論 じた 久 保 先 生 は文 部 省 在 外 研 究 員 と し て 明 治36 年5月 ドイ ツ に 出発 した そ し て そ の年12 月 に福 岡 医科 大 学 助 教 授 に任 ぜ られ た ので あ る 久 保 先 生 は第 一 高 等 中学 後 の一 高 に在 校 中 国 文学 の教 授 と して教 え を受 けた 落 合 直 文 門 下 の 逸 才 と して 明治 歌 壇 に も新 風 を起 こ され た 旗 頭 で あ りい か づ ち(雷)会 を牛 耳つ て お られ た 従 つ て 与謝 野寛 晶 子 夫妻,佐 園,尾 上 柴舟,斎 々木 信 綱,金 子 薫 藤 茂 吉 の 諸 氏 と親 しか つ た の も当 然 で あ る 九 大 医 学 部 が 福 岡 医 科 大 学 の 形 で 出 発 した の は明 治36年4月1日 で あ り,耳 鼻 咽 喉 科 学 教 ( 4 5 5) 29