仁杉・一杉氏の出自



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協 議 会 事 務 局 長 民 生 委 員 協 議 会 会 長 身 体 障 害 者 協 議 会 会 長 老 人 クラブ 連 合 会 会 長 ( 平 成 25 年 6 月 1 日 現 在 ) 母 子 寡 婦 福 祉 会 会 長 手 をつなぐ 育 成 会 会 長 中 馬 惠 雄 元 野 濱 子 里 島

目 標 を 達 成 するための 指 標 第 4 章 計 画 における 環 境 施 策 世 界 遺 産 への 登 録 早 期 登 録 の 実 現 史 跡 の 公 有 地 化 平 成 27 年 度 (2015 年 度 )までに 235,022.30m 2 施 策 の 体 系 1 歴 史 的 遺 産 とこ

豊 住 直 樹 岩 沢 雅 司 渡 邉 幸 彦 7 中 林 信 男 高 橋 功 7 竹 原 奈 津 紀 滝 沢 義 明 コ 9 片 見 明 コ ム ム 高 橋 進 小 峰 直 ム 中 島 克 昌 55 0 松 島 誠 55 滝 邦 久 関 竹 夫 嶋 田 道 夫 信 7 栗 原 孝 信 ム 竹 井

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表紙(第1巻)

地 区 追 浜 N0 施 設 名 契 約 年 月 日 備 考 21 追 浜 下 水 ポンプ 場 旧 海 軍 天 神 用 地 平 成 7 年 7 月 18 日 22 市 道 敷 ( 第 4,818 号 ) 旧 第 一 海 軍 技 術 廠 昭 和 26 年 3 月 2

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2 前 項 に 定 める 日 に 支 給 する 給 与 は 総 額 給 与 を12 分 割 した 額 ( 以 下 給 与 月 額 という ) 扶 養 手 当 住 居 手 当 通 勤 手 当 単 身 赴 任 手 当 寒 冷 地 手 当 及 び 業 績 手 当 並 びに 前 月 分 の 超 過 勤 務

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同 上 5,000 山 奥 町 山 奥 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 40,000 三 万 谷 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 5,000 田 尻 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 95,000 間 戸 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室

男 子 敗 者 復 活 戦 湖 南 北 湖 南 北 袋 井 商 農 北 西 5 西 北 西 商 横 須 賀 日 体 南 新 居 池 新 天 竜 小 笠 西 商 市 北 立 5 3 北 市 立 聖 隷

為 が 行 われるおそれがある 場 合 に 都 道 府 県 公 安 委 員 会 がその 指 定 暴 力 団 等 を 特 定 抗 争 指 定 暴 力 団 等 として 指 定 し その 所 属 する 指 定 暴 力 団 員 が 警 戒 区 域 内 において 暴 力 団 の 事 務 所 を 新 たに 設

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青 森 5-9 青 森 市 本 町 5 丁 目 4 番 27 本 町 , , 青 森 5-10 青 森 市 本 町 2 丁 目 5 番 3 本 町 , , 青 森 5-11 青 森 市 中 央 1 丁

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須 磨 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 垂 水 警 察 神 戸 市 垂 水 区 神 戸 市 のうち 垂 水 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 神 戸 水 上 警 神 戸 市 中 央 区 水

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見 学 の 手 順 1 土 岐 市 美 濃 陶 磁 歴 史 館 に 連 絡 見 学 予 定 日 の1ヶ 月 以 上 前 に 見 学 日 の 確 認 と 打 ち 合 せ 日 時 について 土 岐 市 美 濃 陶 磁 歴 史 館 ( 土 岐 市 文 化 振 興 事 業 団 )に 連 絡 する 他 校 他

三 和 シヤッター 工 業 株 式 会 社 ( 中 核 事 業 会 社 ) 人 事 異 動 [ 取 締 役 監 査 役 執 行 役 員 ] 長 野 敏 文 代 表 取 締 役 社 長 取 締 役 専 務 執 行 役 員 ビル 建 材 事 業 本 部 長 髙 山 盟 司 取 締 役 専 務 執 行 役

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黄 檗 宇 治 大 久 保 線 宇 治 大 久 保 淀 線 103 ー 21 ー 京 阪 淀 駅 ー 240 ー 240A 立 命 館 宇 治 経 由 250 ー 250A ー 立 命 館 宇 治 経 由 平 野 町 黄 檗 公 園 ニ

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2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 平 成 27 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 役 名 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 2,142 ( 地 域 手 当 ) 17,205 11,580 3,311 4 月 1

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男 子 敗 者 復 活 戦 5 北 日 体 袋 4 北 掛 川 東 掛 川 工 新 居 5 北 立 7 城 4 6 北 市 工 立 南 開 誠 館 掛 川 北 城 北 工 市 立 市 袋 湖 南 北 商 代 北 商 湖 東 4 8 商

平 政 種 郵 便 物 認 可 信 無 埋 般 触 機 可 能 面 幅 繋 待 道 口 ギ 握 定 友 共 感 現 揺 ぶ 趣 志 向 析 展 揺 ぶ 始 博 爆 博 ネ 無 料 ゾ 閉 鎖 室 建 物 空 移 = ゴ 続 難 夢 室 校 病 院 東 六 木 降 湾 ガ 熱 狂 渦 巻 6 員 録

( 株 ) 荒 井 建 設 興 業 市 内 南 房 総 市 和 田 町 布 野 205 番 地 水 道 施 設 工 事 特 定 B ( 株 ) 安 房 環 境 衛 生 市 内 南 房 総 市 千 倉 町 瀬 戸 2344 番 地 76 管 工 事 一 般 B 安 房 住 宅 設 備 機 器 ( 有

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全設健発第     号

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目 次 本 編. 地 価 公 示 価 格 一 覧 表 ページ. 地 価 公 示 価 格 選 定 替 廃 止 等 一 覧 7ページ 3. 地 価 公 示 地 価 調 査 共 通 地 点 の 価 格 一 覧 表 8ページ 資 料 編 4. 宇 都 宮 市 ( 用 途 地 域 別 ) 均 価 格 変 動

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様式1

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Transcription:

第 2 章 伊 豆 の 土 豪 伊 東 氏 藤 原 南 家 工 藤 氏 伊 東 氏 祐 清 流 伊 東 氏 北 条 家 に 仕 えた 仁 杉 氏 1) 藤 原 氏 から 工 藤 氏 へ 平 安 の 中 期 藤 原 南 家 武 智 麻 呂 から 数 えて 九 代 目 為 憲 ( 平 将 門 の 追 討 に 功 のあった 常 陸 介 藤 原 惟 幾 の 子 藤 原 鎌 足 から11 代 目 )は 仁 寿 8 年 (852) 木 工 介 ( 助 )を 任 じ られた 木 工 介 は 木 工 寮 の 次 官 木 工 寮 (もくのりょう)は 和 名 でコダクミノツカサ( 古 多 久 美 乃 豆 加 佐 )と 呼 ばれた 造 営 材 木 の 採 集 神 社 用 具 の 製 作 職 工 の 支 配 などを 担 当 する 部 門 宮 内 省 に 属 し 律 令 時 代 は 二 条 の 南 神 泉 苑 の 東 にあったという 木 工 寮 の 長 官 は 木 工 頭 (ムクノカミ)で 定 員 は 一 人 相 当 官 位 は 従 五 位 上 次 官 の 木 工 介 ( 助 ) 助 も 定 員 一 人 で 相 当 官 位 は 正 六 位 下 為 憲 は 木 工 介 を 任 じられたため 木 工 の 藤 原 氏 という 意 味 で 工 藤 氏 を 称 した 同 じようないわれの 藤 原 家 の 姓 は 多 い 例 えば 兵 藤 氏 権 藤 氏 佐 藤 ( 左 衛 門 佐 の 佐 ) 氏 などである 地 方 の 役 人 として 赴 任 し その 国 名 の 一 字 をつけた 加 賀 の 加 藤 氏 尾 張 の 尾 藤 氏 遠 江 の 遠 藤 氏 近 江 の 近 藤 氏 武 蔵 の 武 藤 氏 伊 勢 の 伊 藤 氏 なども 藤 原 南 家 の 出 である 藤 原 氏 から 工 藤 氏 藤 原 鎌 足 不 比 等 武 智 麻 呂 乙 麿 是 公 雄 友 弟 河 高 扶 清 河 維 織 為 憲 ( 木 工 介 工 藤 氏 の 祖 ) 2) 工 藤 氏 から 各 地 の 伊 東 氏 へ 為 憲 の 孫 工 藤 維 景 は 押 領 使 に 任 じられ 伊 豆 に 下 向 その 後 駿 河 守 として 伊 豆 国 狩 野 に 居 住 した その 子 維 職 は 伊 豆 国 の 東 海 岸 田 方 郡 伊 東 に 居 を 構 えて 伊 東 氏 を 名 乗 り その 一 族 は 河 津 を 本 拠 とする 河 津 氏 宇 佐 美 を 本 拠 とする 宇 佐 美 氏 狩 野 を 本 拠 とする 狩 野 氏 など それぞれ 本 拠 の 地 名 を 名 乗 る 土 豪 となり 伊 豆 各 地 に 勢 力 を 拡 大 していった この 工 藤 伊 東 一 族 は 源 平 が 争 った 時 期 には 平 家 側 と 源 氏 側 に 分 かれてお 互 いに 争 い 頼 朝 が 鎌 倉 幕 府 を 開 いてからも 本 家 相 続 領 地 争 いなど 伊 豆 を 舞 台 に 骨 肉 相 食 む 争 いをして 来 た 頼 朝 の 時 代 に 起 きた 有 名 な 曽 我 兄 弟 のあだ 討 ち 事 件 は この 相 続 争 いのひとつであ り 主 役 の 曽 我 兄 弟 は 河 津 を 本 拠 としていた 河 津 三 郎 の 遺 児 敵 役 の 工 藤 祐 経 は 伊 豆 に 下 向 した 維 職 の 曾 孫 にあたる 伊 東 氏 の 当 主 であったが 頼 朝 の 命 令 により この 当 時 は 工 藤 家 の 本 流 として 工 藤 氏 を 称 していた 工 藤 祐 経 は 建 久 4 年 (1193) 曽 我 兄 弟 に 討 たれたが その 子 孫 は 伊 豆 のみならず 1021

全 国 に 展 開 している 祐 経 の 次 男 祐 長 は 奥 州 安 積 の 地 に 移 り 今 の 郡 山 の 基 になる 集 落 を 開 いた 津 軽 の 工 藤 氏 は 建 武 元 年 (1334) 工 藤 貞 行 が 大 光 寺 合 戦 で 南 朝 方 に 属 して 活 躍 し 山 辺 郡 二 想 志 郷 ( 青 森 県 黒 石 市 )を 与 えられた 一 族 の 末 裔 と 考 えられる この 外 厨 川 工 藤 氏 は 工 藤 景 光 の 子 行 光 が 祖 行 光 は 平 泉 の 討 伐 に 功 を 挙 げて 岩 手 郡 の 地 頭 となって 一 族 は 糠 部 郡 各 地 に 広 がったが 南 北 朝 時 代 に 南 部 氏 に 討 たれて 没 落 した 南 北 朝 時 代 には 一 族 が 分 裂 して 争 い 三 戸 工 藤 氏 と 八 戸 工 藤 氏 が 残 った 青 森 県 岩 手 県 には 今 も 工 藤 姓 が 多 く 青 森 市 弘 前 市 五 所 川 原 市 をはじめ 津 軽 の 市 町 村 では 最 多 姓 となっているところが 多 く 県 全 体 でも 圧 倒 的 な 最 多 姓 であるとい う 静 岡 愛 知 に 多 い 久 野 氏 は 工 藤 祐 経 の 孫 伊 東 祐 光 の 後 裔 であり 駿 河 久 能 を 領 した ので 久 能 後 に 久 野 氏 と 称 した また 祐 継 系 の 伊 東 氏 が 祐 時 のとき 日 向 国 の 地 頭 職 を 与 えられ その 子 祐 朝 祐 光 らが 日 向 に 土 着 し 日 向 伊 東 氏 の 祖 となった 日 向 伊 東 氏 は 日 南 地 方 の 豪 族 となり 江 戸 時 代 は 飫 肥 藩 主 として 幕 末 まで 続 いた このように 工 藤 氏 の 子 孫 は 各 地 に 広 がって 脈 々とその 血 を 現 代 につないでいる 本 朝 武 家 諸 姓 分 脉 系 圖 ( 以 下 本 朝 ) 諸 氏 本 系 帳 ( 以 下 諸 氏 ) および 仁 杉 氏 系 図 ( 以 下 系 図 )では 為 憲 から4 代 目 の 維 永 までを 為 憲 時 理 時 信 維 永 とし 共 通 しているが それ 以 降 は 祐 親 までは 微 妙 な 差 異 がある 本 朝 維 永 維 職 家 継 祐 隆 祐 親 諸 氏 維 永 維 景 維 職 家 継 祐 隆 祐 家 祐 親 系 図 維 永 維 景 維 職 家 継 祐 家 祐 親 諸 氏 系 図 では 維 永 の 次 に 維 景 が 見 られるが 本 朝 では 維 景 を 飛 ばして 維 職 となる 逆 に 本 朝 諸 氏 では 家 継 ( 史 料 によっては 家 次 )の 次 が 祐 隆 となっ ているが 系 図 では 祐 隆 の 記 述 がない また 諸 氏 系 図 では 祐 親 の 前 は 祐 家 であるが 本 朝 では 祐 隆 から 直 接 祐 親 となっている 本 朝 の 系 図 を 詳 細 に 読 むと 祐 隆 に 祐 家 ( 伊 東 太 郎 大 夫 )という 子 がいるが 仁 杉 家 につながる 伊 東 家 の 家 督 を 継 いだのは 祐 親 となっている これらの 系 図 は 江 戸 時 代 後 期 になってから 作 成 され 幕 府 に 提 出 されたものであり その 時 点 あるいはその 以 前 から 家 にとって 都 合 の 良 いように 改 竄 されていることが 少 なくない 従 って 以 下 に 述 べる 伊 東 氏 の 出 自 歴 史 は 必 ずしも 史 実 とはいえない 部 分 もある 事 を 留 意 しておかなければならない 1022

3) 伊 東 祐 親 駿 河 や 伊 豆 に 土 着 して 武 士 とな った 工 藤 氏 の 一 族 の 家 継 が 伊 東 に 本 拠 をかまえるようになり 伊 東 氏 を 名 乗 った その 子 が 祐 親 である 祐 親 は 伊 豆 の 多 くの 土 豪 が 頼 朝 の 傘 下 に 入 る 中 で 平 家 方 として 生 きた 男 曽 我 兄 弟 の 祖 父 頼 朝 と 子 までなした 八 重 姫 の 父 として 史 書 にも 頻 繁 に 登 場 する 伊 東 市 の 郷 土 の 英 雄 毎 年 祐 親 祭 が 開 催 される 祐 親 伊 東 久 次 郎 寂 心 入 道 保 元 平 治 乱 属 源 義 朝 尽 軍 功 治 承 四 年 (1180) 庚 子 十 月 十 九 日 於 豆 州 鯉 名 泊 為 於 大 野 藤 内 遠 景 涼 有 下 知 預 祐 親 婿 三 浦 介 義 澄 寿 永 元 年 (1182) 壬 寅 二 十 四 頼 朝 卿 看 祐 親 之 罪 科 蚩 然 寂 心 耻 前 非 於 三 浦 之 宿 所 而 令 自 害 葬 伊 豆 久 須 美 庄 伊 東 郷 岡 山 号 東 林 寺 寂 心 ( 本 朝 の 記 述 以 下 同 じ) 3-1) 家 督 相 続 祐 隆 ( 始 めは 祐 継 )は 狩 野 四 郎 大 夫 を 名 乗 り 従 五 位 下 伊 豆 国 の 狩 野 久 須 美 河 津 の3 庄 を 領 した 狩 野 庄 に 住 んでいたが 後 に 久 須 美 庄 の 伊 東 邑 ( 現 在 の 伊 東 市 ) に 住 んだという 後 に 出 家 し 久 須 美 入 道 と 名 乗 ったという 記 録 がある 祐 隆 には 祐 家 光 家 茂 光 祐 継 ( 次 ) 祐 親 の4 人 の 男 子 があり 祐 家 が 伊 東 太 郎 大 夫 を 名 乗 って 家 督 を 継 いだが 相 続 する 子 がないうちに 死 んだため 祐 親 が 相 続 した 3-2) 頼 朝 の 想 い 人 八 重 姫 祐 親 は 保 元 平 治 の 乱 で 源 義 朝 に 従 い 軍 功 があったが その 後 平 氏 方 についた 同 じ く 伊 豆 の 有 力 豪 族 であった 北 条 時 政 とともに 伊 豆 蛭 ケ 小 島 に 流 刑 となった 頼 朝 の 監 視 人 に 任 命 された 祐 親 には3 人 の 娘 がおり 長 女 は 三 浦 半 島 の 雄 三 浦 義 澄 に 嫁 ぎ もう 次 女 は 工 藤 祐 経 の 妻 となり 後 に 土 肥 野 太 郎 に 再 嫁 している そして3 女 ( 八 重 姫 とも)が 頼 朝 の 想 い 人 になった 後 に 江 戸 幕 府 が 大 学 頭 の 林 家 に 命 じて 編 纂 させた 歴 史 本 朝 通 鑑 に 伊 東 祐 親 の 女 に 通 ず 男 を 生 む 名 は 千 鶴 とある 祐 親 はこの 頃 大 番 役 として 京 に 上 って 留 守 だった 期 間 は 三 年 間 任 を 終 えて 伊 豆 に 戻 ると 屋 敷 の 花 畑 に 見 慣 れぬ 幼 児 が 乳 母 とともにいた 1023

その 乳 母 に 問 うと 窮 して 逃 げ 去 った その 妻 を 詰 る 妻 曰 く 是 れ 三 娘 人 に 通 じて 産 む 所 なりと 祐 親 はこの 頃 大 番 役 として 京 に 上 っ て 留 守 だった 期 間 は 三 年 間 任 を 終 えて 伊 豆 に 戻 ると 屋 敷 の 花 畑 に 見 慣 れぬ 幼 児 が 乳 母 とともにい た その 乳 母 に 問 うと 窮 して 逃 げ 去 った その 妻 を 詰 る 妻 曰 く 是 れ 三 娘 八 重 姫 供 養 塔 ( 伊 豆 の 国 市 韮 山 町 人 に 通 じて 産 む 所 なりと 中 条 ) 更 に 問 い 詰 めると 相 手 は 頼 朝 だという 祐 親 は 激 怒 した 平 氏 に 知 れればどう なるかを 恐 れたのだ 結 局 遂 に 家 僕 に 命 じ 千 鶴 ( 丸 )を 捕 らえ 之 を 白 滝 に 沈 め 而 して 其 女 を 他 人 に 嫁 せり と わずか 三 歳 だった 千 鶴 丸 を 柴 漬 にして 殺 害 してしまった 泣 き 叫 ぶ 千 鶴 丸 に 橘 の 一 枝 を 持 たせてなだめたという 言 い 伝 えがあるという さらに 頼 朝 と 別 れさせた 八 重 姫 は 他 所 に 嫁 がせて 事 態 の 収 拾 を 図 った 再 嫁 させた 先 は 本 朝 によると 平 氏 の 末 流 で 伊 豆 国 目 代 を 勤 めていた 平 兼 隆 であった 目 代 は 現 地 に 赴 任 しない 国 司 ( 貴 族 )の 代 わりに 任 命 された 監 視 役 である 兼 隆 は 伊 豆 田 方 郡 山 木 に 住 んでいたので 山 木 判 官 と 呼 ばれている ちなみに 司 馬 遼 太 郎 の 街 道 を 行 く によれば 大 番 で 京 にいた 北 条 時 政 は 娘 の 政 子 が 頼 朝 と 情 を 通 じた 事 を 国 元 からの 手 紙 で 知 り 一 緒 に 京 へ 上 っていた 山 木 判 官 と 伊 豆 へ 馬 をならべて 戻 る 途 上 政 子 をどうか と 持 ちかけたところ 判 官 は 前 後 もなく 承 知 したという 政 子 が 先 だったのか 八 重 姫 が 先 だったのかわからないが 同 じように 娘 が 頼 朝 と 通 じてしまった 祐 親 と 北 条 時 政 の 対 処 の 仕 方 は 対 照 的 であり その 後 の 運 命 を 大 きく 変 えてしまった 祐 親 は 娘 を 無 理 やり 別 れさせ 生 まれた 子 供 を 抹 殺 し 後 に 頼 朝 に 許 されず 自 害 した が 時 政 は 娘 を 頼 朝 の 正 夫 人 とし それを 最 大 の 武 器 として 頼 朝 の 重 臣 となり やがて 鎌 倉 幕 府 そのものを 乗 っ 取 って 130 年 間 にわたる 一 族 の 栄 華 の 礎 を 築 いた なお 伊 東 市 史 では 八 重 姫 の 再 嫁 先 は 江 間 小 四 郎 としている 江 間 は 後 に 源 氏 の 御 家 人 になっている 3-3) 頼 朝 に 敵 対 頼 朝 がまだ 静 かに 蛭 ケ 小 島 で 流 人 として 念 仏 三 昧 の 頃 祐 親 は 時 の 権 力 者 である 平 家 の 傘 下 にあった 祐 親 の 長 女 が 嫁 いだ 三 浦 氏 も 坂 東 平 氏 の 一 族 である 頼 朝 が 石 橋 山 で 挙 兵 した 時 も 祐 親 は 平 氏 方 について 頼 朝 に 敵 対 行 動 をとった 石 垣 山 の 背 後 の 山 に 陣 を 占 め 3 百 余 騎 をひきいて 頼 朝 の 隙 をうかがっていた 1024

結 局 頼 朝 の 蜂 起 は 不 成 功 に 終 わり 戦 いに 敗 れた 頼 朝 は 海 路 房 総 半 島 に 逃 れた 娘 が 頼 朝 と 通 じてしまったという 事 態 は 平 氏 の 思 惑 を 恐 れる 祐 親 に 孫 の 殺 害 という 残 酷 な 処 置 をさせたが さらに 祐 親 はこの 噂 が 広 まることを 恐 れ ついには 頼 朝 をも 殺 して 禍 の 根 を 絶 とうと 計 画 した 安 元 元 年 (1175)9 月 のことである 伊 東 祐 親 木 像 ( 東 林 寺 蔵 ) しかし 祐 親 の 子 祐 清 がこれを 察 知 し 密 かに 頼 朝 にこれを 通 報 した 頼 朝 はあやうく 走 湯 山 に 難 を まぬがれた ほどなくして 治 承 4 年 (1180) 再 起 したが この 時 も 祐 親 は 平 氏 についたが 世 の 風 向 きが 変 わり 関 東 の 有 力 豪 族 がこぞって 頼 朝 になびいたため 平 氏 は 敗 戦 を 重 ねた 平 氏 の 海 上 作 戦 に 参 加 するため 伊 豆 鯉 名 浦 ( 賀 茂 郡 竹 麻 村 )で 船 を 整 えていた 祐 親 の 行 動 を 察 知 した 天 野 藤 内 遠 景 は 祐 親 を 捕 らえ 黄 瀬 川 東 岸 に 陣 する 頼 朝 の 前 に 引 き 連 れた 祐 親 の 娘 婿 三 浦 義 澄 は 頼 朝 挙 兵 以 来 の 最 大 功 績 伊 東 市 史 より 者 のひとりであったが 舅 のために 必 死 に 頼 朝 に 助 命 嘆 願 した 信 頼 厚 い 三 浦 義 澄 のとりなしではあったが 我 が 子 を 殺 し 更 に 自 分 を 襲 撃 しようと しただけでなく 苦 しかった 挙 兵 のころに 敵 方 平 氏 についた 祐 親 を 頼 朝 はすぐには 許 さなかった しかしようやく 一 命 を 助 けられ 三 浦 屋 敷 に 預 かりの 身 となった 祐 親 はこれを 恥 じ 三 浦 氏 の 邸 内 で 自 害 して 果 てた 寿 永 元 年 (1182)2 月 15 日 のことだった 伊 東 東 林 寺 山 門 祐 親 の 墓 3-4) 墓 所 祐 親 の 墓 所 は 伊 東 市 伊 東 郷 の 岡 に 自 分 が 創 建 した 東 林 寺 に 葬 られたが これとは 別 に 葉 山 に 供 養 塚 が 築 かれている 1025

葉 山 マリーナの 近 くに 旗 立 山 と 呼 ばれ 古 くは 三 浦 一 族 の 物 見 砦 ( 鐙 摺 砦 )があった 小 山 がある 今 は 海 岸 との 間 に 道 路 があるが 往 時 は 海 に 屹 立 して 物 見 には 最 適 な 山 であっただろう この 頂 上 広 場 の 北 端 に 小 さな 石 塔 の 塚 があり 近 くに 説 明 板 がある また 三 浦 一 族 研 究 という 研 究 の 第 七 号 に 三 浦 澄 子 氏 の 三 浦 半 島 の 伊 東 祐 親 伝 承 という 論 文 があり この 供 養 塚 について 詳 しく 述 べられている ( 史 料 編 参 照 ) 葉 山 マリーナ 近 くの 鐙 摺 砦 跡 祐 親 供 養 塔 の 説 明 板 3-5) 曽 我 の 仇 討 一 族 の 間 で 繰 り 広 げられた 所 領 争 いは 曽 我 物 語 として 名 高 い この 曽 我 物 語 では 祐 親 は 欲 深 い 人 間 として 描 かれている 祐 親 の 父 が 早 逝 した 当 然 遺 領 は 祐 親 が 引 き 継 ぐと 思 っていたが 一 族 を 束 ねてい た 祖 父 の 家 継 は 庶 子 の 祐 継 ( 祐 親 には 叔 父 にあたる)に 相 続 させ 一 族 の 惣 領 となった 祐 親 は 伊 豆 河 津 に 所 領 をもらって 分 家 した やがて 祐 継 が 病 死 した 祐 継 は 死 ぬ 前 に 祐 親 を 枕 元 に 呼 び 祐 経 ( 祐 継 の 遺 児 )のことを 頼 む と 懇 願 した 盗 賊 に 財 産 を 預 けるようなものである 祐 親 は 日 ならずして 祐 経 の 所 領 をすべて 奪 って 一 族 の 長 におさまった このため 幼 い 祐 経 には 遺 恨 が 残 った 成 長 した 祐 経 は 頼 朝 の 有 力 な 家 人 となり 伊 東 氏 の 本 流 である 工 藤 氏 を 名 乗 っていた が 成 長 して 後 もかつて 祐 親 に 所 領 を 奪 われた 事 を 忘 れず 報 復 に 祐 親 とその 子 河 津 三 郎 を 殺 そうと 刺 客 を 放 った 刺 客 の 矢 は 河 津 三 郎 に 命 中 し 彼 は 落 命 した 三 郎 の 未 亡 人 は5 歳 3 歳 だった2 人 の 男 子 を 連 れて 相 模 の 曽 我 祐 信 に 嫁 いだ こ の2 人 の 子 が 後 の 曽 我 十 郎 祐 成 と 曽 我 五 郎 時 致 である さまざまな 苦 難 を 経 た 末 に 兄 弟 は 建 久 4 年 (1193) 父 の 仇 祐 経 を 討 つ 機 会 に 恵 まれた 源 頼 朝 が 富 士 の 裾 野 で 巻 狩 りを 行 った 巻 狩 りとは 勢 子 が 山 の 上 の 方 から 鹿 や 猪 を 追 い 出 し 下 の 方 で 待 ちかまえた 武 士 たちが 獲 物 を 射 る 催 しで 単 なる 娯 楽 ではなく 模 擬 軍 事 演 習 を 兼 ねていた 有 力 な 家 臣 や 御 家 人 たちが 大 勢 参 加 する 政 治 的 示 威 でもあったので 祐 経 もこの 巻 狩 1026

に 参 加 していた 兄 弟 は 祐 経 の 宿 所 を 探 りあて 警 備 が 手 薄 な 時 間 を 狙 っていた 5 月 28 日 の 夜 兄 弟 は 祐 経 の 宿 所 に 忍 び 入 り 祐 経 を 討 ち 取 った 苦 節 18 年 目 にし ての 本 懐 だった 2 人 は 周 囲 の 武 士 たちに 捕 えられ 翌 日 尋 問 が 行 われた 頼 朝 は 兄 弟 を 勇 気 ある 武 士 の 誉 れ として 許 そうとしたが 祐 経 の 子 が 強 く 嘆 願 し 2 人 は 処 刑 された これが 曽 我 物 語 曽 我 の あだ 討 ち の 概 要 である 工 藤 伊 東 一 族 の 間 で 親 子 2 代 にわたって 繰 り 広 げた 骨 肉 の 争 いであった 左 の 写 真 は 箱 根 にある 曽 我 兄 弟 の 墓 ( 左 の 2 基 ) 祐 親 には 祐 通 祐 泰 祐 清 の3 人 の 男 子 があった 長 男 祐 通 は 早 世 し 次 男 祐 泰 は 河 津 三 郎 を 名 乗 った あの 曽 我 兄 弟 の 父 である 祐 泰 は 同 族 の 工 藤 祐 経 により 殺 され 遺 児 2 人 も 仇 討 ちの 後 に 花 と 散 ったのでこの 系 統 は 絶 えてしまった 3 男 祐 清 は 後 に 仁 杉 氏 につながる 祐 清 流 伊 東 氏 の 祖 となる 下 は 良 く 知 られる 工 藤 氏 の 系 図 である 各 地 に 一 族 が 展 開 して 行 くなかで 祐 家 祐 親 祐 清 の 系 統 が 後 の 仁 杉 家 につながる 伊 東 氏 の 家 系 となる この 家 系 を 他 の 工 藤 氏 伊 東 氏 の 家 系 と 区 別 するため 祐 清 流 伊 東 氏 と 呼 ぶ 祐 清 流 伊 東 氏 の 傍 流 の ひとつが 後 の 仁 杉 家 と なる 1027