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今 湊 の 誕 生 C Geoscience,NTT DATA,RESTEC/Included C JAXA -4-
木 曾 街 道 のこと -5-
願 隆 寺 と 今 湊 神 社 颶 紀 念 之 碑 (そうぐきねんのひ) -6-
古 い 社 殿 今 湊 神 社 船 乗 りの 神 様 金 刀 比 羅 宮 梨 木 町 の 歴 史 を 伝 える 梨 木 神 社 -7-
湊 川 の 戦 い -8-
織 田 信 長 と 上 杉 謙 信 はだれだろう? 織 田 信 長 について 織 田 信 長 は 1 5 3 4 年 に 生 まれた 戦 国 時 代 の 武 将 で す 14 歳 で 今 川 氏 と 戦 い ました 1 5 5 9 年 に 尾 張 国 ( 愛 知 県 )を 統 一 し 1560 年 に 桶 狭 間 の 戦 いで 今 川 義 元 の 軍 を や ぶ っ た 1 5 6 7 年 に 美 濃 国 ( 岐 阜 県 )を 支 配 下 に 入 れ る 1 5 7 0 年 の6 月 に 姉 川 の 戦 いで 浅 井 朝 倉 連 合 軍 をやぶる 1 5 7 2 年 の1 2 月 三 方 ヶ 原 の 戦 いで 織 田, 徳 川 連 合 軍 が 武 田 信 玄 の 軍 に やぶ れる 1 5 7 5 年 に は 長 篠 の 戦 い で 武 田 勝 頼 を 破 り 天 下 統 一 に 王 手 をかける そ の あ と 1 5 8 2 年 に 部 下 の 明 智 光 秀 に お そ わ れ ( 本 能 寺 の 変 ) 自 害 ( 自 殺 )し た が 部 下 の 羽 柴 ( 豊 臣 ) 秀 吉 が 光 秀 を 倒 し 天 下 統 一 を 果 たした 上 杉 謙 信 について 上 杉 謙 信 は 元 の 名 は 長 尾 景 虎 長 尾 氏 は 越 後 ( 今 の 新 潟 県 )の 守 護 の 上 杉 氏 守 護 代 をつとめる 家 がらだった 長 尾 景 虎 は 若 い こ ろ か ら 仏 教 を 深 く 信 じ ま た 自 分 を 信 じて 頼 ってきた 者 を 決 して 見 捨 てない 信 義 にあつい 人 物 だった 1 5 5 2 年 北 条 氏 康 に 関 東 を おわれ 自 分 を 頼 っ て き た 関 東 管 領 の 上 杉 憲 政 の 願 いを 受 け 関 東 へと 出 陣 それ 以 降 景 虎 と 北 条 氏 と の 戦 い は 1 4 回 に お よ び 7 回 は 関 東 で 冬 を こ し 1 5 6 1 年 に は 敵 の 本 拠 地 の 小 田 原 城 を 包 囲 す る と ころまでいっている この 年 に 景 虎 は こうした 行 動 に 感 謝 した 上 杉 乗 政 から 関 東 管 領 の 地 位 と 上 杉 の 姓 を ゆ ず ら れ た ( そ の 後 出 家 し て 謙 信 を 名 乗 る) 武 田 信 玄 と の 川 中 島 の 戦 いは 戦 国 時 代 の 大 きな 戦 いとして 有 名 -9-
北 前 船 と 湊 町 日 本 海 を 行 き 来 した 北 前 船 北 前 船 が 湊 か ら お 米 を 運 ん で そ れ を ま た 北 前 船 で 北 海 道 ま で 売 り に 行 っ て そ の 売 っ た お 金 で 北 海 道 と か に う っ て い る も の を 買 っ て そ れ を こ ん ど は 大 阪 へ 持 っ て い っ て そ こ で 売 っ て そ の 売 っ た お 金 買 っ た 大 阪 の 物 を ま た ど こ か で 売 っ て そ こ で ま た 買 っ て そ れ を 湊 で 売 っ て ま た 湊 で お 米 を つ ん で こ ん ど は 青 森 と か そ う い う 所 へ 行 っ て ま た 売 っ て そ の お 金 で そ こ の 物 を 買 っ て ま た ち が う 所 へ 行 っ て そ う い う こ と を く り 返 し て 北 前 船 海 の 上 のデ パ ー ト は 商 売 し て い ま し た -10-
どんな 人 が 北 前 船 に 乗 っていたのか? 北 前 船 にはこんな 人 が 乗 っていました!! 船 頭 さん( 船 長 さん) 船 の 最 高 責 任 者 知 工 さん( 事 務 長 ) 会 計 の 責 任 者 表 さん 航 海 士 片 表 さん 表 さんのフォロー 親 父 さん 若 衆 以 下 の 労 働 管 理 者 若 衆 さん 航 海 作 業 一 般 炊 さん 食 事 などの 雑 用 え ら い 荒 尾 さんの 家 は 代 々 船 頭 さんを していたそうです 船 乗 り た ち の 一 年 ( 湊 村 の 歴 史 よ り ) 村 井 家 ( 船 主 ) 文 書 より 勇 力 丸 出 納 帳 入 金 2 千 両 なり ( 今 のお 金 でいうと 2 億 円!!) -11-
湊 の 北 前 船 船 主 と 船 の 数 文 政 とは 1818 年 から1829 年 まで ( 江 戸 時 代 ) そのころの 湊 の 人 口 は1848 人 1848 人 の 中 に 357 人 の 船 乗 りがいた!! ということだ!? 7 区 のヒミツのほこら 湊 になぜ?ほこらがあるのか!? -12-
北 前 船 の 船 乗 りのお 給 料 は 何 万 円 なの~?? 湊 に 湊 が あったのに どうしてなくなったのだろう?? -13-
昔 の 湊 のことについて! み ん な の 家 は 何 町? 町 の 名 前 が 書 か れ て い ま す 文 政 四 年 の 湊 村 の 地 図 明 治 35 年 の 湊 町 の 様 子 -14-
手 取 川 の 渡 し 船 について 渡 し 場 の 決 まり サムライや 奉 公 人 は 無 料 船 賃 は 高 すぎてはならない 夜 中 でも 船 を 出 さねばならない (1674 年 の 加 賀 藩 の 決 まり) 9-15-
湊 の 偉 人 熊 田 源 太 郎 源 太 郎 の 日 就 会 -16-
呉 竹 文 庫 熊 田 源 太 郎 さんは 京 都 の 東 本 願 寺 に 今 のお 金 で2 億 円 にもおよぶ 門 を 寄 付 したのです 寄 付 したわけは 自 分 も 船 乗 りた ち もお 参 りする 本 願 寺 をよくするために 門 を 寄 付 しました でも 源 太 郎 さんは お 金 持 ちだからこそ 本 願 寺 に 門 を 寄 付 し た ん だ な で も そ ん な 事 は 昔 の 湊 だったら 当 たり 前 だったからこそだ ったからだよね 村 井 吉 左 衛 門 ( き ち ざ え も ん ) さ ん は なんと! 熊 田 源 太 郎 さんと 一 緒 に この 湊 小 学 校 をたてるためのお 金 をき ふ し て く れ た の で す そ れ に 村 井 さ ん の 家 には 北 前 船 を6そうももっていて お 金 もザルでさらえて 千 両 箱 にいれて いたんだそうです!! 本 当 に 源 太 郎 さ ん た ち は 本 当 に お 金 持 ちだったんだ~ -17-
湊 と 船 乗 りさん - 船 のりさんのお 話 1-7 区 の 安 江 さん 安 江 さ ん は 1 7 才 ぐ ら い で 船 員 さ ん に な っ た そ う で す 安 江 さ ん が 船 の り さ ん に な っ た き っ か け は 有 名 な 船 長 にあこがれたからだそうです 給 料 は 学 校 の 先 生 より 高 くて ふつうの 陸 の 仕 事 の3 倍 の 給 料 がもらえたそうです 安 江 さんは 石 油 を 運 ぶタンカーに 乗 っていて 一 そ う の タ ン カ ー に 昔 は5 0 人 く ら い だ っ た そ う です 今 は16 人 くらいの 人 が 乗 っています ( 今 はだいたいがコンピューターで 動 く) 船 員 さんたちは4 時 間 働 いて8 時 間 休 むという ふうに 仕 事 していたそうです 船 の 大 きさは 重 さ 24 万 トン 長 さ330メートル はば65メートルだ そうです 安 江 さ ん が 乗 っ て い た 船 で は 広 い 甲 板 で 運 動 会 が 開 か れ ました 競 技 は アメひろいなどが ありました - 船 のりさんのお 話 2-3 区 の 今 村 さんのおじいちゃん (おばあちゃんに 聞 きました) 今 村 さんのおじいちゃんは 甲 板 長 という 仕 事 で 舵 や 整 理 をしていたそう です 舵 (かじ)というのは 方 向 を 変 えたり 運 転 をする 人 です 荷 物 を 運 ぶ 船 に 乗 っていたのだそうです 今 村 さんのおじいちゃんが 船 乗 りになったわけは 給 料 がたかいし 船 がす きだから 船 乗 りになったそうです なぜ 給 料 がたかい かというと 湊 村 には 職 業 が 少 ないから 大 半 の 男 の 人 は 船 乗 り の 仕 事 し か な か っ た そ う で す 1 月 1 1 日 に 船 手 祭 と い う 大 イ ベ ン ト が あ り 船 乗 り の 妻 た ち が 中 心 に な っ て 船 の 安 全 を 祈 っ た の だ そ う で す 今 村 さんのおじいさんが 船 に 乗 っていたころには 湊 だ けで100 人 の 船 乗 りさんはがいたそうです! -18-
- 船 のりさんのお 話 3- 十 区 の 二 口 さん 二 口 さ ん は 3 6 年 間 に い ろ ん な 船 に 乗 っ た た と え ば 客 船 や 貨 物 船 や コンテナ 船 とかに 乗 ったな~ と 話 していまし た 船 員 に な っ た ば か り の 時 は 船 酔 い が す ご か っ た け ど 1 年 ち か く 乗 っ て い た ら 船 酔 い に な れ た と 言 っ て い ま し た 二 口 さ ん は 船 技 長 の な か で も 電 気 の 仕 事 を し て い た そ う です 昔 は 船 の りさんが 多 く 昭 和 30 年 くらいには130 人 も 船 のりさんがいた - 太 平 洋 戦 争 と 船 のりさん- 太 平 洋 戦 争 がはじまると 湊 村 の 船 員 は 戦 争 で 使 う 物 を 運 ぶ 船 の 船 員 として 戦 争 にいきました 戦 争 に 負 けてく ると ゆそう 船 は 敵 の 攻 撃 を 受 けて たく さん しずみ ました 湊 村 の 船 員 は23 人 が 戦 死 したそうです 湊 村 から 戦 争 に 行 った 人 たちは 中 国 フィリピン ベトナム インド ネシア 東 南 アジア グァム サイパンなど 西 太 平 洋 の 戦 争 に 送 られ ました また 湊 国 民 学 校 ( 湊 小 学 校 )の 先 生 たちも 戦 争 に 行 ったそう です 森 田 さんのおじいさんも 海 軍 の 軍 人 さんとして 戦 死 されたそう です -19-
湊 町 の 開 田 に つ く し た 中 村 市 松 市 松 の 挑 戦 中 村 市 松 さんは 若 い 頃 から 外 国 航 路 の 船 員 として 働 き 船 長 を 最 後 に 退 職 湊 にもどって きてから 浜 田 の 開 発 に 努 力 し ました ([ 翁 ]はおじいさん という 意 味 ) -20-
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日 本 の 渚 1 0 0 選 小 舞 子 の 浜 湊 小 学 校 と 小 舞 子 浜 -22-
現 在 の 湊 町 平 成 20 年 の 湊 町 掘 り 抜 き! 平 成 の 名 水 100 選! 掘 り 抜 き とは 湊 に 流 れている 地 下 水 をくみ 上 げ て い る 場 所 の こ とです なんと 白 山 か ら 100 年 もかけて 湊 町 にきた 地 下 水 なのです その 掘 り 抜 き は 湊 に 一 つ で は あ り ま せ ん な ん と 五 つ も あるんです しかも 名 水 100 選 に 選 ばれるほど おいしい 水 なんです でも 今 は 大 きな 工 場 が 水 をくみ 上 げるので 地 下 水 は ど ん ど ん 少 な く な っ て き て し ま っ て い る のです 平 成 の 名 水 1 0 0 選 に 選 ば れ た ほ ど の き れ い な 水 だ か ら な く し て し ま っ た ら と っ て も も っ た い な い!! 地 下 水 を 取 りすぎた り しな いように してい きたいですね みんな 大 好 き! 足 湯! 健 康 増 進 セ ン タ ー に あ る まーる い 足 湯 い つ で も 町 の 人 たちでにぎわっています あんまり 知 らない 人 でも 気 軽 に 話 せ て な か よ く な っ て し ま うのが 不 思 議 です フードがあって 冬 でもぽか ぽかです -23-
湊 小 学 校 の 誕 生 と 今 まで 湊 小 学 校 の 誕 生 校 舎 が 今 の 場 所 に 立 つ 校 舎 が 大 きくなる -24-
今 の 校 舎 が 建 てられる -25-
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