中 山 高 安 著 ( 石 動 ー 高 田 ー 出 雲 崎 ) 北 陸 道 ( 二 ) シニア 世 代 の 退 屈 しのぎと 健 康 のために 街 道 を 歩 く 22 電 子 版
-7-
-8-
-9-
-10-
-11-
-12-
-13-
-14-
-15-
-16-
-17-
-18-
-19-
-20-
-21-
-22-
-23-
-24-
-25-
-26-
-27-
-28-
-29-
-30-
-31-
-32-
-33- 輦 所 になったという
-34-
-35-
-36-
-37-
-38-
-39-
-40-
-41- に 突 き 当 たって 右 へ 曲
交 差 点 を 渡 ると 二 股 で 左 へ 進 み 両 側 に 田 んぼが 多 い 所 を 過 ぎると 左 ぐ 先 の 鷲 塚 北 交 差 点 を 渡 る 寸 前 の 右 手 に がある っ 直 ぐな 道 で 手 崎 交 差 点 を 渡 り やがて 点 滅 信 号 から 右 へカーブして す 奥 に と 左 側 に 加 茂 社 があって すぐ 左 側 に 墓 地 がある 旧 道 は 真 この 道 標 で 左 へ 曲 がり 加 茂 社 沿 いに 進 むと すぐ 左 側 の 小 さな 御 堂 の の 上 部 は 折 れているのだろうか 便 局 があり 左 向 かい 角 に 左 いわせ 右 とやまという があるが そ その 百 五 十 メートルほど 先 左 角 に があり 右 角 に 手 崎 簡 易 郵 ら 来 る 道 と 合 流 する 少 し 手 前 に 墓 石 ほか 題 目 碑 など 六 基 が 立 っている くる 右 奥 に があり その 先 にも 大 小 の 地 蔵 堂 が 出 てくる 右 か その 先 の 二 股 は 左 へ 進 むが ここからは 小 さな 御 堂 を 含 めて 幾 つも 出 て はモダンな 小 杉 郵 便 局 の 建 物 が 残 っている 噌 醤 油 醸 造 の は 天 保 元 年 ( 一 八 三 〇 )の 創 業 である すぐ 隣 に 安 太 郎 翁 寿 像 と 加 茂 社 の 石 柱 がある すぐ 右 側 に 結 城 酒 店 と 左 側 に 味 がる 左 奥 に を 見 てから 下 条 川 を で 渡 ると 右 角 に 片 口 -42-
-43-
細 い 道 になる すぐ 右 側 に があり 左 側 に の 石 柱 があ 射 水 市 加 茂 の 地 に 入 る 左 側 にJAがあり 本 堂 橋 を 渡 って 二 車 線 の ある 両 側 は 田 んぼで 開 け 新 鍛 冶 川 を で 渡 る は 馬 耕 調 馬 師 とあり 門 人 の 名 が 記 されていて その 横 には 馬 頭 観 音 が 白 石 の 地 から 小 杉 の 地 に 入 る 右 側 に があるが ここに 新 しい 家 ばかりだが なかなか 感 じが 良 い 家 並 みである ぐ 先 右 側 の 家 も 立 派 である 家 並 みは 約 四 百 メートル 続 いて ほとんどが 所 々に 御 堂 があり 左 側 に 加 茂 社 と 隣 の 奥 に があるが す が 流 れる があり そのすぐ 先 から 車 道 と 歩 道 の 間 を 疎 水 る 渡 り 終 えると 左 側 に 地 蔵 堂 と 石 碑 があり 白 石 の 地 に 入 る 左 側 の 左 側 の 小 さな 地 蔵 堂 を 見 て 百 メートルほど 先 の 新 堀 川 を で 渡 〇 と 左 側 に 地 蔵 堂 があって 集 落 が 始 まり 左 側 に がある 側 に 北 陸 宇 部 コンクリートがある 国 道 八 号 線 を 小 白 石 交 差 点 で 渡 る -44-
-45-
かつて 道 番 人 の 屋 敷 跡 で 富 山 藩 加 賀 藩 の 領 境 の 史 跡 である ( 一 六 六 五 )には 道 路 管 理 のため 道 番 を 置 いた ここの 道 標 がある 場 所 は で 藩 は 承 応 三 年 ( 一 六 五 四 )から 道 路 工 事 を 始 め 完 成 後 の 寛 文 五 年 道 番 の 道 標 がある 岩 瀬 小 杉 の 街 道 は 参 勤 交 代 が 通 った 重 要 な 道 路 所 で 右 へ 曲 がるが ここに してある そのまま 進 むと 本 江 道 番 バス 停 がある 四 つ 辻 で 右 角 に がある 辻 でも 直 進 すると 県 道 二 〇 四 号 線 となっていて 集 落 が 現 れる 碑 がある 二 股 は 右 へ 行 くが 左 へ 行 けば 山 屋 三 箇 の 地 である 次 の 四 つ 県 道 四 一 号 線 との 加 茂 交 差 点 を 渡 り を 渡 る 才 川 条 蔵 の 石 がかたまっていて 右 側 にJAを 見 て 田 畑 の 中 の 道 になる トルほど 先 右 側 に 下 村 郵 便 局 があり 更 に 右 側 にも 石 碑 や 石 仏 や 御 堂 る この 先 にも 立 派 な 御 堂 が 二 つあり 右 角 に がある その 百 メー すぐ 左 側 に の 寺 号 石 があり 駐 在 所 があって 下 村 小 学 校 があ なる る 右 側 の 忠 魂 碑 がある 角 には 名 取 嘉 助 の 碑 があり その 先 は 道 も 広 く -46-
-47-
-48-
-49-
-50-
-51-
-52-
-53-
-54-
-55- 籟 荘 という 社 会 福 祉 の 施 設 がある そのすぐ 左 側 に
-56- がある 精 霊 塚 の 百 メートルほど 先 左 側 に 御 堂 があり その 辺 りから 左 手 を 望 むと 海 と 松 林 が 見 える 左 側 の 石 塀 の 中 にある 自 然 石 の 塚 は 楼 塚 と 刻 ん であるのだろうか 更 に 松 林 の 中 に 戦 没 者 慰 霊 碑 が 数 基 あるが ここには がある 左 側 にコンビニがあり すぐ 田 畑 新 町 交 差 点 がある 古 志 の 松 林 とは 岩 瀬 より 常 願 寺 川 に 至 る 約 一 里 余 りの 間 は 白 砂 青 松 の 海 岸 地 帯 で 多 幹 性 の 黒 松 の 老 樹 が 枝 を 支 え 道 をはさんで 両 側 に 並 び 風 光 明 媚 な 越 中 舞 子 と 称 されている 慶 長 六 年 ( 一 六 〇 一 ) 加 賀 藩 二 代 藩 主 前 田 利 長 が 江 戸 参 勤 交 代 のため 往 復 した 浜 街 道 に 植 樹 させ たものと 伝 えられている
-57-
-58- 〇
-59-
-60-
-61-
-62-
-63-
-64-
加 島 町 三 区 公 民 館 があり 右 側 の のすぐ 先 に 立 山 細 くなる があるが この 辺 りは 旧 家 らしい 家 が 所 々にある 左 側 の 消 防 団 から 道 は 左 側 に 高 月 東 部 公 民 館 があり 右 側 に や 更 に 領 家 町 公 民 館 人 を 救 出 し 残 る 一 人 を 救 出 中 に 激 波 の 直 撃 を 受 けて 殉 職 した 県 警 察 機 動 隊 が 緊 急 出 動 し 隊 員 の 安 井 利 英 さんは 単 身 で 護 岸 堤 の 一 押 し 寄 せ 釣 り 人 が 護 岸 堤 に 孤 立 して 助 けを 求 めていた このため 富 山 殉 職 碑 は 昭 和 五 十 四 年 三 月 三 十 一 日 夜 この 海 岸 に 荒 れ 狂 う 高 波 が ほど 先 左 側 に 勇 者 の 碑 という がある 近 い 道 を 進 む すぐ 左 側 に 南 無 阿 弥 陀 仏 の 題 目 碑 があり 三 百 メートル 高 月 町 交 差 点 の 左 側 に があり この 交 差 点 から 海 に 一 番 洋 高 校 がある 躬 橋 で 渡 ると 左 側 は 海 で 右 側 に 海 -65-
-66- 大 岩 道 の があって この 二 股 は 左 斜 めに 進 む この 道 標 は 江 戸 時 代 に 一 般 庶 民 の 信 仰 登 山 も 認 められ 立 山 大 岩 の 登 拝 者 も 全 国 から 集 まっ たための 道 案 内 の 道 標 で 文 化 八 年 ( 一 八 一 一 )のものである 百 メートルほど 先 で 右 へ 曲 がり 正 面 に 脇 本 陣 だった を 見 て すぐ 左 へ 曲 がる 次 の 四 つ 辻 を 右 へ 曲 がって 直 進 すれば 北 陸 本 線 中 滑 川 駅 である 川 に 突 き 当 たると 宿 場 回 廊 の 掲 示 があるが この 後 にも 宿 場 回 廊 の 掲 示 が 所 々にある この 目 の 前 の 落 合 橋 でなく 川 沿 いに 左 へ 曲 がって 次 の を 渡 る 百 メートルほど 先 左 側 のミニパークに がある
-67-
-68- 右 奥 に があり トムトムという 衣 料 の 安 い 店 は 都 会 の 量 販 店 と 遜 色 ない 値 段 である そのすぐ 先 左 側 に 中 町 会 館 があり すぐ 斜 め 向 かいに がある 左 側 に があり 角 には 常 夜 灯 があって 裏 に 琴 比 羅 社 があ る 檪 原 神 社 は 延 喜 式 にもあるというから 古 いもので 天 明 三 年 ( 一 七 八 三 )には 新 明 社 と 記 され この 常 夜 灯 は 船 舶 航 行 用 のものだという この 境 内 には 芭 蕉 句 碑 しばらくは 花 のうえなる 月 夜 かな がある 道 が 広 くなる 四 つ 辻 から 昔 は 斜 めに 入 る 道 があったらしい だから 今 は 四 つ 辻 を 右 へ 曲 がると は 左 側 にあるが 本 来 は 右 側 にあったらしい 今 は 前 方 の 滑 川 病 院 との 中 間 で 左 へ 曲 がると 左 側 に がある
檪 坪 -69-
-70-
-71-
-72-
-73-
-74-
-75-
-76-
-77-
-78-
-79-
-80- とある そのす ぐ 先 で 黒 瀬 川 を で 渡 る
-81- 舊 蹟 の 石 碑 と 親 鸞 聖 人 御 腰 掛 石 があ る 左 奥 に があり 大 町 交 差 点 に 達 するが ここを 左 折 すればす ぐ がある 三 本 柿 とは 承 元 元 年 ( 一 二 〇 七 ) 親 鸞 聖 人 が 越 後 へ 流 される 途 中 こ の 地 に 宿 泊 した 家 で 串 柿 を 差 し 上 げたところ その 種 の 三 粒 を 火 で 焼 く と 一 夜 で 芽 を 出 したという 左 手 に 黒 部 市 役 所 があり 左 角 に 北 陸 銀 行 があって すぐ 四 つ 辻 にな るが ここで 左 折 すれば 電 鉄 東 三 日 市 駅 がある 旧 道 は 四 つ 辻 の 先 で 左 へ
-82-
その 先 の 長 屋 交 差 点 に 称 名 寺 は 左 四 百 メートルという 標 識 がある 左 神 聖 なあらたかな 山 から 流 れ 出 た 浄 水 だとある には 水 琴 窟 が 設 けてある 箱 根 とは 大 きな 山 や 神 聖 な 山 のことをいい る するとすぐ 左 側 に が 今 も 湧 き 出 していて 休 憩 所 の 脇 電 鉄 を 舟 見 踏 切 で 渡 り 間 もなく 分 かれた 県 道 一 四 号 線 と 合 流 す である この 二 股 は 県 道 と 分 かれて 右 の 道 を 行 く れは 大 正 六 年 七 月 十 七 日 戦 艦 春 日 の 要 員 がインド 洋 で 戦 死 した 慰 霊 碑 県 道 一 四 号 線 が 高 架 になる 二 股 の 入 口 に があり こ 〇 この 交 差 点 を 過 ぎると 左 側 に 電 鉄 の 踏 切 が 見 える 荻 生 交 差 点 と 荻 生 東 交 差 点 の 辺 りを 左 折 すれば 電 鉄 荻 生 駅 であり り 左 側 は 道 を 広 げるためか 部 分 的 に 建 て 直 しが 始 まっているらしい の 中 に もう 一 軒 家 があるように 見 える その 先 の 左 側 に があ この 辺 りまで 三 日 市 の 宿 場 だったのだろうか 右 側 の 家 は 総 ガラス 張 り カーブすると 電 線 が 現 れ 始 める -83-
-84- 側 に 新 川 農 林 振 興 センターがあり をくぐる 隣 に 建 設 中 の 高 架 橋 は 北 陸 新 幹 線 だろう 左 側 に 蓮 如 上 人 舊 蹟 や 若 狭 川 塚 などの があり ここで 右 手 を 見 ると 三 十 メートルほど 先 に 電 鉄 踏 切 が 見 える
-85-
-86-
-87-
るT 字 路 で 左 手 を 覗 くと 電 鉄 下 立 駅 手 前 の 踏 切 が 見 える この 駅 が 電 るのが である 右 角 に 石 仏 がある 四 つ 辻 を 越 え ミラーがあ トンネルの 道 でなく 次 の 踏 切 で 電 鉄 を 渡 ると 大 きな 忠 魂 碑 が 立 ってい 側 へ 続 いていたようだが 今 そのような 道 はないから 右 折 する 道 を 探 す 側 の 石 段 を 上 る 所 に 石 碑 がある 昔 はこの 辺 りで 右 斜 めに 電 鉄 の 向 こう その 先 左 側 に がある 所 は 五 差 路 だが 意 識 せずに 直 進 し 左 下 が 田 んぼになっている 所 で 右 手 を 見 ると 電 鉄 下 立 口 駅 が 見 える 舟 子 川 を で 渡 り 左 側 に 下 立 第 五 区 集 会 所 があり その 先 の 崖 という 大 きな 記 念 碑 があり そのすぐ 右 側 には 戦 没 者 慰 霊 碑 がある 右 手 に 電 鉄 が 並 行 しているのが 分 かる 左 側 の 東 山 公 園 には 豊 水 潤 圃 人 福 祉 センター 農 村 活 性 センターなどが 並 んでいる には 宇 奈 月 浦 山 郵 便 局 がある 更 に 左 側 には 老 があり その 先 左 側 -88-
-89- 鉄 と 接 する 最 後 の 駅 で この 先 は 泊 宿 まで 最 寄 り 駅 はない
-90-
-91-
-92-
-93-
-94-
-95-
-96-
-97-
-98-
-99-
- 100 -
- 101 -
- 102 -
- 103 - 甕
- 104 -
- 105 -
- 106 -
- 107 -
- 108 - 趾
趾 - 109 -
- 110 - は その 二 十 メートルほど 先 右 側 に 奥 の 細 道 市 振 の 宿 という があり すぐ 芭 蕉 の 句 が 掲 示 してある 桔 梗 屋 跡 とは 元 禄 二 年 ( 一 六 八 九 ) 七 月 十 二 日 ( 陽 暦 八 月 二 十 六 日 ) 芭 蕉 が 奥 の 細 道 の 途 中 で 一 夜 の 宿 をとった 所 で 一 つ 家 に 遊 女 も ねたり 萩 の 月 の 名 句 を 詠 んだ
- 111 -
- 112 - 如 砥
- 113 - との 掲 示 があって 右 上 の 岩 盤 を 見 ると 約 一 メートルの 真 四 角 の 文 字 が 四 つ 刻 まれている ここは 親 不 知 の 最 難 関 の 天 険 の 真 上 にあたり 足 下 百 メートルに 波 寄 せる 渚 が 昔 の 北 陸 道 で 旅 人 は 命 がけで 通 行 した 明 治 十 六 年 に 絶 壁 を 削 って この 道 ができた 喜 びを 一 枚 岩 に 刻 んで 表 したのが 如 砥
- 114 -
- 115 -
- 116 - 如 砥 嶮
- 117 -
- 118 -
- 119 -
- 120 -
- 121 -
- 122 -
- 123 -
- 124 -
- 125 -
- 126 -
- 127 -
- 128 -
- 129 -
- 130 -
- 131 - があり そのすぐ 先 で 早 川 に 突 き 当 たる すぐ 先 の 早 川 橋 西 詰 交 差 点 で 国 道 と 合 流 して 早 川 を 早 川 橋 で 渡 る と 右 手 にJRが 見 えて 左 手 は 海 である 百 五 十 メートルも 行 くと 左 側 に とあり すぐ 先 の 公 園 に が ある
- 132 -
- 133 -
- 134 - 舊
- 135 -
- 136 -
- 137 -
- 138 -
- 139 - と 筒 石 保 育 園 があり 右 下 に がある この 二 股 で 左 へ 曲 がって 細 道 を 下 り 筒 石 郵 便 局 の 前 を 通 る 下 ってすぐ 一 番 手 前 の 細 道 へと 右 に 曲 がると 路 地 のような 車 一 台 が 入 れない 道 に 民 家 が 密 集 している を 渡 ると 左 手 の 国 道 との 間 に もう 一 本 の 道 があるが これが 教 えてくれた 産 業 道 路 だろうか 旧 道 は 民 家 に 突 き 当 たる 手 前 で 右 へ 曲 がり そのまま 進 んで 国 道 に 合 流 する
- 140 -
- 141 -
- 142 -
- 143 -
- 144 -
- 145 -
- 146 -
- 147 -
- 148 -
- 149 -
- 150 -
- 151 -
- 152 -
- 153 -
- 154 -
- 155 -
- 156 -
- 157 -
- 158 - がある 長 浜 東 バス 停 の 先 は 二 股 で 右 へ 進 む と この 道 には 民 家 が 連 なっている J R を で 渡 るが この 辺 りからが 長 浜 宿 だろう か 尚 左 の 国 道 には 新 しい 家 で 旅 館 や 民 宿 が 多 い
- 159 -
- 160 -
- 161 -
- 162 -
- 163 -
- 164 -
- 165 -
- 166 -
- 167 -
- 168 -
- 169 -
- 170 - 舊 舊
- 171 -
- 172 -
- 173 -
- 174 -
- 175 -
- 176 -
- 177 -
- 178 -
- 179 -
- 180 -
- 181 -
- 182 -
- 183 -
- 184 -
- 185 -
- 186 -
- 187 -
- 188 -
- 189 -
- 190 -
- 191 -
- 192 -
- 193 -
- 194 -
- 195 -
- 196 -
- 197 -
- 198 -
褶 線 - 199 -
- 200 -
- 201 -
- 202 -
- 203 -
- 204 -
- 205 -
- 206 -
- 207 -
- 208 -
- 209 -
- 210 -
- 211 -
- 212 -
- 213 -
- 214 -
- 215 -
- 216 -
- 217 -
- 218 -
- 219 - が あり 隣 の 官 軍 松 代 藩 士 の 墓 は 地 震 でずれたらしく 隣 に 立 っていた 石 碑 も 倒 れている 更 に 百 メートルほど 先 にも 良 寛 碑 があり その 後 方 を 見 ると 国 道 は 夕 日 ライン 橋 を 通 っている この 良 寛 碑 には 錫 を 振 って 親 故 に 別 れ 手 を 挙 げて 闉 に 謝 す 納 衣 聊 か 破 れを 補 ひ 一 鉢 知 る 幾 春 ぞ とある
- 220 -
- 221 -
- 222 -
- 223 -
- 224 -
- 225 - 盧 元 坊 もここに 杖 を 止 めた そこで 出 雲 崎 の 俳 人 が 宝 暦 五 年 ( 一 七 五 五 ) 三 代 にわたる 俳 人 が 当 地 で 詠 んだ 句 を 刻 んだ
- 226 -
- 227 -
- 228 -
- 229 -
- 230 -
- 231 -
- 232 -
- 233 -
- 234 - (
( 著 者 経 歴 ) 中 山 高 安 (なかやまたかやす) 1939 年 東 京 都 に 生 まれる 1964 年 慶 應 義 塾 大 学 工 学 部 卒 業 鐘 紡 に 入 社 コンピューター 関 係 のSEから 営 業 部 長 まで 歴 任 1987 年 コンピューターネットワーク 会 社 の 取 締 役 として 出 向 1990 年 コンピューターソフトウェアー 会 社 の 代 表 取 締 役 として 出 向 1995 年 定 年 退 職 後 経 営 コンサルタント 会 社 を 設 立 第 二 の 人 生 を 模 索 しながら 文 筆 活 動 随 筆 第 二 の 人 生 小 説 マンマシン 随 筆 人 生 いろいろだから 楽 しいだから 生 きてく 紀 行 文 ウォーキング 旧 中 山 道 ( 日 本 橋 ー 分 去 れ) 絵 のない 絵 本 ー 私 は 猫 です(1)(2) 2002 年 紀 行 文 街 道 を 歩 く のシリーズを 始 める 中 山 道 ( 日 本 橋 ー 分 去 れ) 中 山 道 ( 分 去 れー 大 井 ) 中 山 道 ( 大 井 ー 京 都 ) 北 国 街 道 川 越 街 道 日 光 道 中 2003 年 日 光 御 成 道 と 日 光 西 街 道 日 光 例 幣 使 街 道 千 人 同 心 日 光 道 2004 年 水 戸 道 中 奥 州 街 道 ( 宇 都 宮 ー 白 河 ) 2005 年 奥 州 街 道 ( 白 河 ー 古 川 ) 奥 州 街 道 ( 古 川 ー 龍 飛 崎 ) 陸 前 浜 街 道 ( 水 戸 ー 仙 台 ) 2006 年 出 羽 三 山 参 詣 道 ( 仙 台 ー 鶴 岡 ー 新 庄 ) 山 陽 道 ( 京 都 ー 西 宮 ) 山 陽 道 ( 西 宮 ー 三 原 ) 山 陽 道 ( 三 原 ー 下 関 ) 2007 年 長 崎 街 道 ( 門 司 ー 長 崎 ) 薩 摩 街 道 ( 山 家 ー 鹿 児 島 ) 2008 年 北 陸 道 ( 鳥 居 本 ー 金 沢 ー 石 動 ) 北 陸 道 ( 石 動 ー 高 田 ー 出 雲 崎 ) 2009 年 全 国 の 街 道 を 歩 く 2010 年 関 東 の 旧 鎌 倉 街 道 ( 上 道 山 ノ 道 と 中 道 下 道 )の 地 図 街 道 を 歩 く 北 陸 道 2( 石 動 ー 高 田 ー 出 雲 崎 ) 2011 年 8 月 25 日 電 子 版 発 行 著 者 注 文 出 版 中 山 高 安 350-1151: 埼 玉 県 川 越 市 今 福 1472-20 TEL&FAX:049-248-2674