十 字 架 上 の 叫 び [ 受 難 物 語 講 解 第 25 回 ] マルコの 福 音 書 15 章 33~34 節 熊 谷 徹 2014 年 4 月 6 日 ( 第 1 主 日 )
序 十 字 架 上 の 七 つの 言 葉 ; 1 紀 元 30 年 4 月 7 日 金 曜 日 主 イエスは 十 字 架 につけられた 時 刻 は 25 節 にあるように 午 前 9 時 であった その 日 主 イエスは 十 字 架 上 で7つの 言 葉 を 発 した 十 字 架 上 の 七 つの 言 葉 と 言 われている 第 一 の 言 葉 は 父 よ 彼 らを 赦 したまえ である 自 分 を 十 字 架 に 釘 付 けにしようとしていた 人 達 のために 父 よ 彼 らを 赦 したまえ と 罪 の 赦 しを 祈 られたのである 十 字 架 上 の 第 二 の 言 葉 は 悔 い 改 めた 強 盗 に 言 った 言 葉 ; あなたは 今 日 わたしと 共 にパラダイスにいる という 言 葉 である 第 三 の 言 葉 は 最 愛 の 母 マリヤを 愛 する 弟 子 ヨハネに 託 して 言 った 言 葉 ; あなた の 子 あなたの 母 という 言 葉 である 1 全 地 をおおった 闇 ; こうして 主 イエスは 十 字 架 上 で 3 つの 言 葉 を 発 した その 後 沈 黙 の 時 が 流 れた 1 時 間 2 時 間 と 12 時 になった 真 昼 にも 拘 らず 突 如 あたりが 暗 く なった 日 食 ではない 実 に 不 思 議 な 闇 が 全 地 を 覆 った マルコの 福 音 書 1 5 章 33 節 である; さて 十 二 時 になったとき 全 地 が 暗 くなって 午 後 三 時 まで 続 いた eg ペテロの 福 音 書 という3 世 紀 頃 に 書 かれた 書 物 がある それによると こ の 時 の 暗 闇 は ユダヤ 全 土 に 及 ぶもので 人 々は ともし 火 を 持 ってめぐり 歩 か ねばならなかった ほどであった こう 記 されている; 真 昼 であったが 闇 が 全 ユ ダヤを 覆 い 人 々は 太 陽 が 沈 んでしまったのではないだろうか と 大 騒 ぎし 思 い 悩 んだ ペテロの 福 音 書 は 外 典 であるが 真 昼 の 暗 闇 が 当 時 の 人 々に 与 えた 不 吉 な 予 感 を 伝 えている この 暗 闇 が 皆 既 日 食 ではなかったことは 明 らかである と いうのは ユダヤ 最 大 の 祭 り 過 越 祭 が 開 催 されていた 時 即 ち3 月 から4 月 で あり その 時 期 に 皆 既 日 食 は 生 じないからである そこである 人 は ブラック シ ロッコ(シロッコ 風 が 砂 漠 の 砂 塵 を 空 高 く 巻 き 上 げる 為 に 暗 くなる)という 現 象 だ
ろうと 推 測 している それが 何 であれ この 時 にこういう 現 象 が 起 きたということ 2 は 奇 跡 的 なことである それがどういう 現 象 であったにせよ この 暗 闇 は 神 の 特 別 の 介 入 によって 生 じた 特 別 の 暗 闇 なのである 2 十 字 架 上 の 第 4の 言 葉 ; 重 苦 しい 沈 黙 と 不 気 味 な 暗 闇 が3 時 間 も 続 いた 午 前 9 時 から 既 に6 時 間 十 字 架 上 のキリストの 苦 しみは 次 第 に 増 加 して 行 った 心 身 ともに 極 限 状 態 が 近 づいていた 三 時 になった 時 主 イエスは 激 しい 苦 しみの 中 から 力 を 振 り 絞 って 大 声 で 叫 ばれた 34 節 である; そして 三 時 に イエスは 大 声 で エロイ エロイ ラマ サバクタニ と 叫 ばれた それは 訳 すと わが 神 わが 神 どうしてわたし をお 見 捨 てになったのですか という 意 味 である これが 十 字 架 上 の 第 四 の 言 葉 である エロイ エロイ ラマ サバクタニ(eloi eloi lama sabachthani) これはアラム 語 をギリシャ 語 化 したもので マルコ 自 身 がギリシャ 語 に 訳 したように わが 神 わが 神 どうして[あなたは]わたしをお 見 捨 てになったのですか という 意 味 であ る 2 第 4の 言 葉 の 真 意 ; 1マルコは イエスは 大 声 で 叫 ばれた と 記 す 主 イエスは 絶 叫 したのである このキリストの 絶 叫 の 言 葉 の 意 味 を 正 しく 理 解 することは 極 めて 困 難 である そ のため この 言 葉 は 誤 解 され 続 けて 来 た そもそも この 時 主 イエスの 言 葉 を 聞 いた 人 達 がこの 言 葉 を 誤 解 していた 35 節 を 見 ると 既 にこの 言 葉 を 誤 解 し た 人 達 が 登 場 する; そばに 立 っていた 幾 人 かが これを 聞 いて そら エリヤ を 呼 んでいる と 言 った 36 節 もそうである 兵 士 達 は 待 て エリヤがや って 来 て 彼 を 降 ろすかどうか 見 ることにしよう と 言 った 彼 らは 主 イエスが 叫 んだ エローイ エローイ という 叫 びを エーリーヤー エ
ーリーヤー と 叫 んでいるように 勘 違 いした エーリーヤー は 紀 元 前 9 世 紀 3 の 大 預 言 者 で 終 末 時 代 に 再 び 到 来 すると 信 じられていた イエスはエリヤの 名 を 叫 び 助 けを 求 めているのだ とこの 兵 士 たちは 思 ったのである そして そ の 時 から 今 日 に 至 るまで 主 イエスのこの 叫 びは 誤 解 され 続 けている 2その 代 表 的 な 例 が 故 遠 藤 周 作 氏 のベストセラー イエスの 生 涯 である 彼 の 解 釈 は 概 略 こうである; イエスはこの 時 詩 篇 22 篇 を 朗 誦 していたのだ その 冒 頭 はこのイエスの 叫 びと 同 じである だが その 終 わりは 神 への 絶 対 的 信 頼 と 勝 利 の 確 信 で 閉 じられている イエスは 絶 望 や 抗 議 の 言 葉 を 発 したのでは なく 詩 篇 22 篇 に 託 して 勝 利 の 歌 を 歌 い 始 めたのだ 3しかし もし 遠 藤 氏 が 言 うように 神 への 賛 美 と 勝 利 を 歌 いたかったのなら 冒 頭 の 言 葉 ではなくて 最 後 の 勝 利 の 部 分 を 歌 えば 良 かった 筈 である また この 後 のキリストの 言 葉 ( 第 5から 第 7の 言 葉 )はいずれも 極 めて 短 い 渇 く 完 了 した 父 よ わが 霊 を 御 手 に 委 ねます である 臨 終 の 時 が 目 前 に 迫 っていた その 他 諸 々の 理 由 から 遠 藤 氏 のような 解 釈 は 殆 ど 不 可 能 だと 言 わざるを 得 な い そもそもこの 言 葉 は 詩 篇 22 篇 1 節 の 正 確 な 引 用 ではない( 正 確 な 引 用 なら ば eli eli lama azabtani となる) また 主 イエスは 大 きな 声 で 叫 んだ (eboesen phone megale) のであって 大 きな 声 で 歌 い 始 めた とは 記 されてい ない そもそも 延 々と6 時 間 もの 間 十 字 架 に 架 けられた 後 大 声 で 歌 を 歌 い 始 めることなど 可 能 だろうか もしも 勝 利 と 賛 美 の 箇 所 を 歌 いたかったのなら そ の 箇 所 だけを 歌 えば 良 いのである 全 部 で31 節 もある 長 い 詩 篇 を 最 初 の 第 1 節 から 歌 い 始 める 必 要 などない また この 後 主 イエスはごく 短 時 間 の 間 に 第 五 の 言 葉 わたしは 渇 く (ヨハネ 19:28) 第 六 の 言 葉 完 了 した (ヨハネ19:30)と 言 った いずれもたったの 一 語 である そして 最 後 に 力 を 振 り 絞 って 第 七 の 言 葉 父 よ わが 霊 を 御 手 に 委 ね ます と 大 声 で 叫 んで 息 を 引 き 取 られた のである(ルカ23:46) いずれも 短 い
言 葉 である このことは 主 イエスがどんなに 苦 しい 状 態 であったかを 物 語 って 4 います 死 はすぐそばまで 来 ていた そのような 中 で やっとの 思 いで 叫 んだ 言 葉 それが エロイ エロイ ラマ サバクタニ わが 神 わが 神 どうしてわたしを お 見 捨 てになったのですか なのである これは まぎれもなく 大 声 で 叫 んで 言 った 言 葉 であり 主 イエスの 絶 叫 である 3 御 子 が 御 父 に 捨 てられた 瞬 間 ; 1 eg 小 説 家 芥 川 龍 之 介 は これは 恐 るべき 絶 望 の 叫 びである と 言 った 我 々も 芥 川 とは 少 し 違 う 意 味 に 於 いてであるが この 叫 びを 絶 望 の 叫 び と 受 け 止 めたい これはまさしく 神 への 絶 望 の 叫 び であり 神 に 捨 てられた キ リストの 叫 び なのである キリストはこの 瞬 間 本 当 に 父 なる 神 から 見 捨 てら れた のである しかし それにしても どうして 父 なる 神 が 最 愛 の 御 子 を 見 捨 てた のであ ろうか?そんなことがあり 得 るのだろうか?その 有 り 得 ないことがここで 現 実 に 起 きたのである それは キリストがこの 瞬 間 に 罪 人 そのものとみなされたからである 宗 教 改 革 者 ルターはこう 言 った; この 瞬 間 主 イエスは 呪 われた 者 としての 苦 しみを 味 わわれたのである と パウロは コリント 人 への 手 紙 第 二 5 章 21 節 で こう 語 っている; 神 は 罪 を 知 らない 方 を 私 達 の 代 わりに 罪 とされました それ は 私 達 が この 方 にあって 神 の 義 となるためです このパウロの 言 葉 が キリストのこの 叫 びの 謎 を 解 く 鍵 である 罪 を 知 らない 方 とはキリストのことである キリストは 罪 無 き 神 の 御 子 である 神 は 最 愛 の 御 子 キリストを 私 達 の 代 わりに 罪 とされた 私 達 の 罪 をキリストに 背 負 わせ 私 達 の 代 わりにキリストを 罪 人 として 私 達 の 罪 を 裁 いたのである 罪 に 対 する 裁 きを 受 けた 瞬 間 それがこの 瞬 間 だった その 時 キリストは 神 から 見 捨 てられた 者 として 叫 んだのである; エロイ エロイ ラマ サバクタニ わが 神 わが 神 ど うしてわたしをお 見 捨 てになったのですか と
2もう つ 重 要 なことを 付 け 加 えておきたい それは どうして と 訳 された 5 言 葉 (eis ti)には 何 のために という 意 味 があるということである 即 ち キリスト のこの 叫 びは わが 神 わが 神 何 のために わたしをお 見 捨 てになったので すか という 意 味 も 込 められている ということである それでは 父 なる 神 は 何 のために キリストを 見 捨 てた のか? 何 のために? それは 私 達 人 間 の 罪 を 赦 すために; 人 類 を 救 うために である 神 は 義 なる 神 である 神 の 義 は 罪 を 裁 く そうでなければ 神 の 義 が 立 たない 義 なる 神 は 同 時 に 愛 の 神 である 罪 を 裁 くと 同 時 に 罪 人 を 愛 するお 方 である 神 の 義 と 愛 が クロス( 交 叉 ) した 場 所 それが ザ クロス 十 字 架 なのである 義 なる 神 は 罪 無 き 御 子 に 人 間 の 罪 を 背 負 わせることによって 人 間 の 罪 に 対 する 裁 きを 行 なったのである それによって 人 間 を 罪 と 滅 びから 救 おうとされたのである これが 罪 なきキリストが 十 字 架 で 死 なれた 死 の 意 味 である これが 十 字 架 でキリストが 神 に 見 捨 てられた 理 由 である 神 は 私 達 を 救 うために 私 達 を 見 捨 てる 代 わりに 十 字 架 上 のキリストを 見 捨 てたのである 3キリストは わが 神 わが 神 どうして わたしをお 見 捨 てになったのです か と 絶 叫 された どうして キリストは 神 に 見 捨 てられなければならなかったの か? それは 罪 人 を 救 うためにそれが 必 要 不 可 欠 だったからである 罪 なき 神 の 御 子 が 罪 人 の 身 代 わりとなって 罪 の 裁 きを 受 けなければならなかったので ある 主 イエスは わが 神 わが 神 何 のために わたしをお 見 捨 てになったので すか と 絶 叫 された 何 のために キリストは 神 に 見 捨 てられ ねばならなかっ たのか? それは 赦 すため である キリストはすべての 人 を 赦 すために 十 字 架 に 死 なれたのである キリストは その 手 足 に 釘 を 打 ち 込 んだ 兵 士 を 赦 すため に; 十 字 架 上 の 強 盗 を 赦 すために; 十 字 架 の 下 で 罵 る 人 々を 赦 すために 十 字 架 に 死 なれたのである 神 は 私 達 の 罪 をキリストに 負 わせ 罪 無 き 方 を 罪 とし て その 罪 を 裁 いた その 裁 きの 瞬 間 キリストは 神 に 見 捨 てられた のである 私 達 罪 人 を 罪 と 滅 びから 救 うため 私 達 の 罪 を 赦 すために キリストは 神 に 捨
てられた のである 6 キリストが 私 達 の 代 わりに 神 に 見 捨 てられたからこそ 私 達 は 神 に 見 捨 てられ ることはなくなったのである 神 が 私 達 罪 人 を 見 捨 てる 代 わりに 最 愛 の 御 子 キ リストを 見 捨 てたからである それは 私 達 を 愛 して 下 さったから; 私 達 が 滅 びるの を 悲 しまれたから; 私 達 を 救 いたかったからである キリストが 神 から 見 捨 てられた のは 私 達 を 罪 と 滅 びから 救 うため; 私 達 の 罪 を 赦 すため; 私 達 が 永 遠 の 命 を 持 つためなのである 聖 書 は 告 げる; 神 は 実 に そのひとり 子 をお 与 えになった ほどに 世 を 愛 された それは 御 子 を 信 じる 者 が ひとりとして 滅 びることなく 永 遠 のいのちを 持 つためである ヨハネの 福 音 書 3 章 16 節 結 わたしはあなたを 決 して 見 捨 てない (ヘブル13:5); 1 最 後 にジェームズ ストーカーの 名 著 キリストの 最 期 の 一 節 を 紹 介 したい 彼 はこう 書 いている; この 叫 びそのものは 絶 望 の 声 かもしれないが しかし 強 い 信 仰 を 含 んでいた 彼 が 両 手 で 永 遠 者 をいかにしっかりつかんでおられるか わが 神 わが 神 という 言 葉 を 聞 くがよい これは 祈 りである ( 中 略 ) わが 神 と 呼 び 得 る 人 は 決 して 見 捨 てられない ( 中 略 )イエスは 絶 望 の 叫 びをあげること によって 絶 望 を 克 服 された 神 に 見 捨 てられたと 感 じて 神 の 腕 の 中 に 飛 び 込 んでいかれた すると 神 の 守 りの 御 手 は 暖 かく 彼 を 抱 きかかえた ( 村 岡 崇 光 訳 ) ストーカーは わが 神 わが 神 という 言 葉 を 聞 くがよい これは 祈 りである と 言 った キリストは 最 後 の 最 後 まで わが 神 と 祈 っておられた 十 字 架 上 の 第 一 の 言 葉 は 父 よ 彼 らを 赦 したまえ という 祈 りであり 最 後 の 言 葉 は 父 よ わ が 霊 を 御 手 に 委 ねます という 祈 りだった また ストーカーは わが 神 と 呼 び 得 る 人 は 決 して 見 捨 てられない と 言 った 彼 が 言 うとおりである 絶 望 の 淵 の 中 から 神 に 向 かって わが 神 と 叫 ぶこ とのできる 人 は 決 して 見 捨 てられることはないのである 2キリストは 十 字 架 の 上 で わが 神 わが 神 どうして わたしをお 見 捨 てにな
7 ったのですか 何 のために わたしをお 見 捨 てになったのですか と 叫 んだ キリストは 私 達 を 救 うために 神 に 見 捨 てられた のである キリストの 十 字 架 の 死 のゆえに 我 らは 罪 を 赦 され 救 われたのである キリストが 我 らのために 十 字 架 にかかり 我 らの 代 わりに 罪 とされ 我 らに 代 わって 罪 の 裁 きを 受 けた そ れゆえにキリストは 神 に 捨 てられた のである そして キリストが 神 に 捨 てられ たが 故 に 私 達 は 罪 を 赦 されたのであす キリストの 打 ち 傷 の 故 に 私 達 は 癒 さ れ (1ペテロ 1:24) 救 われたのである キリストは 私 達 を 救 うために 神 に 見 捨 てられた そのお 方 があなたにこう 仰 っている; わたしは 決 してあなたを 離 れ ず あなたを 見 捨 てない ヘブル 人 への 手 紙 13 章 5 節 である