第 292 回 平 成 26 年 9 月 月 例 会 1 竹 村 紘 一 あつじさだゆき 主 君 を 何 回 も 変 えたこと( 浅 井 長 政 阿 閉 貞 征 磯 野 員 昌 織 田 信 澄 羽 柴 ( 豊 臣 ) 秀 長 羽 柴 ( 豊 臣 ) 秀 保 豊 臣 秀 吉 豊 臣 秀 頼 徳 川 家 康 徳 川 秀 忠 徳 川 家 光 ) 築 城 術 に 秀 れてい たこと 機 を 見 るに 敏 であり 落 日 の 豊 臣 家 を 見 限 り 家 康 に 尽 くし 外 様 ながら 願 い 譜 代 の 家 として 家 康 の 絶 大 な 信 頼 を 得 た 人 物 として 知 られるが 武 勇 の 人 でありながら 細 やかな 配 慮 も 出 来 る 人 物 で 高 虎 の 家 臣 に 対 する 接 し 方 には 味 わい 深 いものがあり 人 を 大 事 にする 人 となり が 表 れているように 思 う まずは 戦 国 の 名 将 と 評 価 して 良 いと 思 われる 高 虎 の 戦 歴 姉 川 の 戦 いが 初 陣 であったという それ 以 降 も 武 功 を 重 ねた 大 兵 で 膂 力 強 く 武 勇 には 長 け ており 戦 場 での 働 きも 目 覚 ましいものがあったが 目 立 った 戦 功 は 余 り 伝 えられていない 高 虎 は 六 尺 二 寸 を 誇 る 大 男 だったと 言 われている 当 時 としては 並 外 れた 巨 漢 である 高 虎 の 身 体 は 弾 傷 や 槍 傷 で 隙 間 なく 右 手 の 薬 指 と 小 指 は 千 切 れ 左 手 の 中 指 も 短 く 爪 は 無 かった 左 足 の 親 指 も 爪 が 無 く 満 身 創 痍 の 身 体 であり 七 十 五 歳 で 高 虎 が 死 去 した 際 に 若 い 近 習 が 遺 骸 を 清 めて 驚 いたと 言 われている 天 正 四 年 (1576)に 信 長 の 重 臣 羽 柴 秀 吉 の 弟 秀 長 ( 後 の 豊 臣 秀 長 )に 三 百 石 で 仕 え る 天 正 九 年 (1581)には 但 馬 国 の 土 豪 を 討 った 功 績 により 三 千 石 の 所 領 を 加 増 され 鉄 砲 大 将 となった 秀 長 のもとでは 中 国 攻 め 賤 ケ 岳 の 戦 いなどに 従 軍 する 賤 ケ 岳 の 戦 いで 佐 久 間 盛 政 を 銃 撃 して 敗 走 させ 戦 勝 の 端 緒 を 開 く 抜 群 の 戦 功 を 挙 げたため 千 三 百 石 を 加 増 さ れた 天 正 十 四 年 (1586) 関 白 となった 秀 吉 は 秀 吉 に 謁 見 するため 上 洛 することになった 徳 川 家 康 の 屋 敷 を 聚 楽 第 の 邸 内 に 作 るよう 秀 長 に 指 示 秀 長 は 作 事 奉 行 として 高 虎 を 指 名 した 高 虎 は 渡 された 設 計 図 に 警 備 上 の 難 点 があるとして 独 断 で 設 計 を 変 更 費 用 は 自 分 の 持 ち 出 しとした その 後 家 康 に 引 見 され 設 計 図 と 違 う 点 を 尋 ねられると 天 下 の 武 将 である 家 康 様 に 御 不 慮 があれば 主 人 である 秀 長 の 不 行 き 届 き 関 白 秀 吉 様 の 面 目 に 関 わると 存 じ 私 の 一 存 で 変 更 いたしました 御 不 興 であれば ご 容 赦 なくお 手 討 ちください と 返 した 家 康 は
高 虎 の 心 遣 いに 感 謝 したという 天 正 十 五 年 (1587)の 九 州 征 伐 では 日 向 根 白 坂 の 戦 いで 島 津 軍 に 攻 められた 味 方 を 救 援 する 活 躍 を 見 せて 二 万 石 に 加 増 される この 戦 功 により 秀 吉 の 推 挙 を 受 けて 正 五 位 下 佐 渡 守 に 叙 任 する 天 正 十 九 年 (1591)に 秀 長 が 死 去 すると 秀 吉 の 甥 で 秀 長 の 養 子 の 秀 保 に 仕 え 秀 保 の 代 理 として 翌 年 の 文 禄 の 役 に 出 征 文 禄 四 年 (1595)に 秀 保 が 早 世 ( 暗 殺 説 あり)したため 出 家 して 高 野 山 に 上 るも その 将 才 を 惜 しんだ 豊 臣 秀 吉 が 高 虎 と 親 しい 生 駒 親 正 に 説 得 させて 召 還 したため 還 俗 し 五 万 石 を 加 増 されて 伊 予 国 板 島 ( 現 在 の 宇 和 島 市 ) 七 万 石 の 大 名 となる 秀 長 を 懸 命 に 支 えていたのが 高 虎 であることは 秀 吉 も 良 く 承 知 していたよ うである 慶 長 二 年 (1597)からの 慶 長 の 役 にも 水 軍 を 率 いて 参 加 した 漆 川 梁 海 戦 で 朝 鮮 水 軍 の 武 将 元 均 率 いる 水 軍 を 殲 滅 するという 武 功 を 挙 げ 南 原 城 の 戦 いと 鳴 梁 海 戦 にも 参 加 し 帰 国 後 に 大 洲 城 一 万 石 を 加 増 されて 八 万 石 となる この 時 期 に 板 島 丸 串 城 の 大 規 模 な 改 修 を 行 い 完 成 後 に 宇 和 島 城 に 改 称 している 朝 鮮 の 文 官 姜 沆 を 捕 虜 にして 日 本 へ 移 送 したのもこの 時 期 である 姜 沆 は 後 に 看 羊 録 を 著 している 彼 が 日 本 で 見 聞 したこと 日 本 の 内 情 や 国 土 の 特 徴 諸 大 名 の 情 勢 などを 細 か く 記 したもので 朝 鮮 王 朝 に 対 する 提 言 集 的 な 側 面 が 強 い 一 方 見 聞 の 中 での 様 々な 情 動 を 見 事 な 漢 詩 で 記 しているのもこの 看 羊 録 である 関 ケ 原 の 戦 いでの 藤 堂 高 虎 の 活 躍 慶 長 三 年 (1598)8 月 の 秀 吉 の 死 去 直 前 から 徳 川 家 康 に 急 接 近 する これは 高 虎 は 元 々 家 康 と 親 交 があって 家 康 の 高 邁 な 志 を 理 解 しており 他 の 大 名 たちは 後 漢 末 の 劉 表 のように ただ 領 地 を 守 ることに 汲 々としており 天 下 を 治 める 事 はできないが 家 康 は 北 宋 の 太 祖 趙 匡 胤 の 如 き 人 物 で 天 下 を 治 める 力 があると 考 えていたからだといわれている 自 らを 趙 匡 胤 を 盛 り 立 てた 趙 普 に 比 していたようである 豊 臣 氏 の 家 臣 団 が 武 断 派 文 治 派 に 分 裂 すると 高 虎 は 武 断 派 の 諸 将 に 先 んじて 徳 川 家 康 側 に 与 した 慶 長 五 年 (1600) 家 康 による 会 津 征 伐 に 従 軍 し その 後 の 合 渡 川 の 戦 いに 参 戦 する 9 月 15 日 の 関 ヶ 原 本 戦 では 大 谷 吉 継 隊 と 死 闘 を 演 じた また 留 守 中 の 伊 予 国 における 毛 利 輝 元 の 策 動 による 一 揆 を 鎮 圧 している( 毛 利 輝 元 の 四 国 出 兵 ) さらには 脇 坂 安 治 小 川 祐 忠 朽 木 元 綱 赤 座 直 保 らに 対 して 東 軍 への 寝 返 りの 調 略 を 行 っている 高 虎 の 働 きは 福 島 正 則 黒 田 長 政 に 次 ぐもので 家 康 は 大 いに 多 とし 戦 後 これらの 軍 功 により 家 康 から 宇 和 島 領 を 含 む 今 治 二 十 万 石 に 加 増 されている
高 虎 の 築 城 術 と 築 城 歴 築 城 技 術 に 長 け 黒 田 官 兵 衛 加 藤 清 正 と 並 び 築 城 三 名 人 の 一 人 とされている 高 虎 の 築 城 は 石 垣 を 高 く 積 み 上 げることと 堀 の 設 計 に 特 徴 があり 同 じ 築 城 の 名 手 でも 石 垣 の 反 りを 重 視 する 加 藤 清 正 と 対 比 される 主 に 関 与 した 城 は 次 の 通 り 丹 波 出 石 城 大 和 郡 山 城 聚 楽 第 ( 縄 張 り) 紀 伊 猿 岡 山 城 改 築 伏 見 城 ( 秀 吉 の 命 により 助 工 ) 伊 予 宇 和 島 城 伊 予 大 洲 城 近 江 膳 所 城 ( 築 城 助 工 及 び 縄 張 り) 伊 予 今 治 城 伏 見 城 の 修 理 助 役 江 戸 城 大 修 理 の 縄 張 り 伊 勢 津 城 の 大 改 築 伊 賀 上 野 城 の 大 改 築 丹 波 篠 山 城 丹 波 亀 山 城 の 普 請 の 手 伝 い 日 光 東 照 宮 の 造 営 奉 行 京 都 二 条 城 の 縄 張 り 和 歌 山 城 の 石 垣 工 事 大 坂 城 の 修 復 上 野 寛 永 寺 造 営 に 関 与 ( 藤 堂 家 の 下 屋 敷 ) 寛 永 二 年 に 本 堂 が 完 成 山 城 淀 城 築 城 の 普 請 手 伝 い 京 都 南 禅 寺 に 三 門 を 造 営 寄 付 家 康 の 信 頼 と 宗 派 に 関 する 逸 話 家 康 は 高 虎 の 才 と 忠 義 を 高 く 評 価 し 外 様 大 名 でありながら 譜 代 大 名 格 ( 別 格 譜 代 )として 重 用 した 軍 陣 にあっては 先 鋒 を 譜 代 の 井 伊 直 政 と 外 様 の 藤 堂 高 虎 としその 間 に 堀 直 寄 が 陣 を 構 えよと 伝 えたと 伝 えられている 如 何 に 信 頼 が 厚 かったかの 証 左 であると 思 われる 元 和 二 年 (1616) 死 に 際 した 家 康 は 高 虎 を 枕 頭 に 招 き そなたとも 長 い 付 き 合 いであ り そなたの 働 きを 感 謝 している 心 残 りは 宗 派 の 違 うそなたとは 来 世 では 会 うことができ ぬことだ と 言 った その 家 康 の 言 葉 に 高 虎 は なにを 申 されます それがしは 来 世 も 変 わら ず 大 御 所 様 にご 奉 公 する 所 存 でございます と 言 うと 高 虎 はその 場 を 下 がり 別 室 にいた 天 海 を 訪 ね 即 座 に 日 蓮 宗 から 天 台 宗 へと 改 宗 の 儀 を 取 り 行 い 寒 松 院 の 法 名 を 得 た 再 度 家 康 の 枕 頭 に 戻 り これで 来 世 も 大 御 所 様 にご 奉 公 することが 叶 いまする と 言 上 し 涙 を 流 し た 家 臣 処 遇 に 見 る 高 虎 の 人 柄 高 虎 は 家 臣 の 採 用 や 登 用 についてはその 出 自 に 拘 ることなく 実 力 と 独 自 の 鑑 識 眼 によって 評 価 し 処 遇 した 織 田 信 長 と 似 た 面 である 信 長 と 異 なるのは 高 虎 は 人 情 味 が 細 やかで 家 臣 の 立 場 に 立 って 物 事 を 考 えることが 出 来 たことであろう 先 天 的 な 資 質 もあろうが 後 天 的 な 努 力 によるものが 大 きいと 思 われるのである これには 高 虎 自 身 が 若 年 より 近 江 浅 井 家 に 仕 える あつじ さだゆき かずまさ 軽 輩 の 家 に 生 まれ 以 降 阿 閉 淡 路 守 貞 征 磯 野 丹 波 守 員 昌 津 田 信 澄 羽 柴 秀 長 羽 柴 秀 保 豊 臣 秀 吉 徳 川 家 康 と 歴 仕 して 幾 度 か 辛 酸 を 舐 めた 戦 国 屈 指 の 苦 労 人 であったことに 起 因 するものが 多 分 にあると 思 われる 近 江 水 口 で 四 万 石 に 封 じられたばかりの 石 田 三 成 が 勇 名 天 下 に 隠 れなき 島 左 近 を 招 聘 した 際 に
その 半 分 に 当 る 二 万 石 ( 一 万 五 千 石 とも)という 破 格 の 待 遇 を 与 えた 話 は 人 口 に 膾 炙 しており 極 めて 有 名 である 左 近 のケースは 際 立 っているが 家 臣 を 高 禄 で 召 し 抱 えたのは 三 成 に 限 らず 戦 国 の 気 風 ともいうべきもので 福 島 正 則 浅 野 幸 長 らも 有 能 な 家 臣 の 招 聘 には 極 めて 熱 心 で 高 虎 の 場 合 も 同 様 である 慶 長 五 年 から 十 年 にかけて 多 数 の 人 物 が 高 虎 の 家 臣 となったが ほと んどが 西 軍 所 属 の 大 名 の 家 臣 達 で 特 に 多 かったのが 石 田 三 成 長 宗 我 部 盛 親 来 島 長 親 らの 家 臣 であった 急 激 に 大 身 の 大 名 となったために 多 くの 家 臣 を 召 し 抱 える 必 要 があったことは 間 違 いないが 敵 対 した 大 名 の 家 臣 が 多 いのは 注 目 に 値 する 家 康 の 信 頼 が 厚 い 高 虎 だけにか かる 採 用 が 出 来 たのであろう また 元 和 元 年 の 大 坂 夏 の 陣 後 七 手 組 の 組 頭 真 野 豊 後 守 頼 包 ( 木 村 重 成 の 舅 として 有 名 ) や 湯 浅 右 近 将 監 直 治 ら 旧 豊 臣 秀 頼 家 臣 達 が 二 十 余 人 も 高 虎 の 家 臣 となった 真 野 は 以 前 から 高 虎 に 通 じて 城 内 の 情 報 を 流 していたので その 縁 で 落 城 後 高 虎 に 召 し 抱 えられたとの 説 があ る 召 し 抱 えた 家 臣 名 は 紙 面 の 都 合 で 省 略 する 藤 堂 高 虎 と 加 藤 嘉 明 嘉 明 は 高 虎 とは 文 禄 慶 長 の 役 で 水 軍 の 将 として 同 僚 になるが 何 かと 相 性 が 悪 く 仲 は 悪 かったが 高 虎 は 蒲 生 家 が 改 易 になり 会 津 四 十 万 石 が 空 いた 時 に 要 衝 会 津 の 鎮 将 としては 嘉 明 が 最 適 の 人 物 であると 将 軍 秀 忠 に 推 薦 し 秀 忠 はそれを 了 承 したのであった それを 聞 いた 嘉 明 は 平 素 の 不 仲 にも 拘 わらず 高 虎 が 自 分 を 押 して 呉 れたことを 感 謝 し 高 虎 を 訪 問 し 従 来 の 行 き 違 いを 詫 びたと 云 うものである 国 の 大 事 に 際 しては 私 情 を 挟 まない 高 虎 の 堂 々たる 士 魂 が 表 れている 美 談 として 人 口 に 膾 炙 した 話 となっているが 全 く 逆 の 異 説 も 遺 されている 総 括 高 虎 に 関 して 世 に 豊 臣 恩 顧 の 身 でありながら 家 康 の 腰 巾 着 のような 存 在 となり 豊 臣 家 滅 亡 に 荷 担 した 裏 切 り 者 との 評 もあるが それは 余 りにも 一 方 的 な 批 判 であり 酷 に 過 ぎる 時 代 の 先 を 見 通 す 目 と 人 を 見 る 目 を 有 した 処 世 に 長 けた 人 物 であったと 言 うべきであろう 好 むと 好 ま ざるは 別 として このことはこの 時 代 を 生 きる 武 将 にとっては 必 要 なことであったのではなか ろうか 高 虎 から 主 君 を 裏 切 った 事 実 は 無 いのである それぞれの 主 君 に 忠 義 を 尽 くしたと 言 えるのである 世 に 高 虎 を 豊 臣 恩 顧 大 名 とするが 福 島 正 則 や 加 藤 清 正 とは 出 自 にせよ 処 遇 にせよ 全 く 異 な るのである 人 格 者 で 苦 労 人 であった 秀 長 には 高 虎 も 心 服 して 忠 実 に 仕 えているが 秀 吉 に 対 しては 距 離 をおいて 接 していたように 思 えるのである 派 手 ではったりが 多 い 性 格 の 秀 吉 には 付 いて 行 けない 面 があったのかも 知 れない 家 康 に 知 られるようになってからは 特 に 顕 著 にな ったようである
秀 吉 の 命 で 小 牧 の 合 戦 の 後 に 上 洛 した 家 康 を 聚 楽 第 の 敷 地 内 に 邸 宅 を 建 てて 応 接 する 奉 行 役 に 任 ぜられた 時 が 家 康 との 最 初 の 出 会 いとされるが 互 いに 思 惑 はあったかも 知 れぬが ともかくも 初 対 面 の 時 から 馬 があったと 云 うか 相 性 が 良 かったようである 家 康 と 高 虎 の 出 会 いが 豊 臣 家 滅 亡 の 萌 芽 となった 面 が 相 当 にあるように 思 えるのである 十 五 歳 の 姉 川 の 初 陣 から 寛 永 七 年 ( 一 六 三 ) 七 十 五 歳 で 没 するまでと 戦 国 屈 指 の 戦 歴 の 武 将 にしては 個 人 的 な 武 功 噺 が 余 り 伝 わっていない 高 虎 であるが 武 勇 に 秀 でていたことは 間 違 いないところであり 特 に 築 城 術 と 兵 に 将 たる 才 能 は 抜 きん 出 たものがあったと 云 えるのでは なかろうか また 政 治 家 としても 優 れた 才 能 を 発 揮 している 武 勇 だけではなく 津 藩 の 藩 政 の 基 礎 を 築 き 上 げた 内 政 手 腕 のほか 文 学 や 能 楽 茶 の 湯 を 嗜 む 文 化 人 でもあった http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%97%a4%e5%a0%82%e9%ab%98%e8%99%8e - cite_note-28 三 大 築 城 名 人 の 一 人 と 言 われるほどの 城 郭 建 築 の 名 人 として 知 られる 慶 長 の 役 では 順 天 倭 城 築 城 の 指 揮 を 執 った この 城 は 明 朝 鮮 軍 による 陸 海 からの 攻 撃 を 受 けたが 全 く 敵 を 寄 せ 付 けず 撃 退 に 成 功 し 城 の 堅 固 さが 実 戦 で 証 明 された また 層 塔 式 天 守 築 造 を 創 始 し 幕 府 の 天 下 普 請 で 伊 賀 上 野 城 や 丹 波 亀 山 城 などを 築 いた 本 領 の 津 藩 のほかに 幕 府 の 命 で 息 女 の 輿 入 れ 先 である 会 津 藩 蒲 生 家 と 高 松 藩 生 駒 家 さらには 加 藤 清 正 死 後 の 肥 後 熊 本 藩 は 藩 主 忠 広 が 幼 少 のため 高 虎 が 後 見 人 務 めて 家 臣 団 の 対 立 を 調 停 したりして 都 合 百 六 十 万 石 余 りを 実 質 的 に 統 治 した これらの 大 名 家 は 高 虎 の 存 在 で 辛 うじて 家 名 を 保 っていたが 高 虎 の 死 後 はこ とごとく 改 易 されている 余 談 になるが 高 虎 で 感 心 しないのは 養 子 である 藤 堂 高 吉 ( 丹 羽 長 秀 の 三 男 )に 対 する 処 遇 である 子 供 に 恵 まれない 高 虎 が 種 々の 事 情 から 高 吉 を 養 子 に 迎 えるが 四 十 六 歳 の 時 に 実 子 が 生 まれた しばしばあることであるが 高 虎 も 人 の 子 実 子 に 跡 を 継 がせたいと 思 う そして 実 子 ( 後 の 高 次 )を 二 代 目 に 据 え 高 吉 を 家 臣 とするのである この 辺 の 事 情 については 別 な 機 会 に 話 をさ せて 頂 きたい ( 了