255 2 2 100 11 1936 1 2008 11 28 12 1937 2 3
256 50 32 1957 4 5 1 1936 1937 2 1957 34 1959 6 4 1871 15 1882 7 1963 8 1966 1866 12 Y. A. R. C 9 41 1966
257 1970 10 1866 11 1975 20 12 51 1976 50 2,000 m 13 OB 1 8 9
258 日本におけるボート競技の起源についての考察 図1 ヘンリー ローヤル レガッタ 明治 38 年 (1905 年) れた艇とオールで進みタイムを競う競技であるボー 艇で, バージ クラブを創立したのが最初とさ トへと分化していったのではないかと考えられる れ, さらに最初のボートレースとして記録され またイギリスで誕生し諸外国でも行われるよう ているのは, 明治 2 年 (1869 年) 4 月英国ビク になっていた競技用ボートは, 外国人居留地に住 トリア女王の誕生日を祝う記念レースである むイギリス人などを仲介として本国から取り寄せ この競漕は横浜に停泊中の英国軍艦の水兵たち られるようになっており, その競技用ボートと, の間で争われたという (14) 幕末の日本を訪れた艦艇が使用していたボートの ふたつが幕末前後の日本に存在していたのではな いかと思われる そして, 当時の日本に レガッタ という言葉 つまりこの記述によれば, 日本でボートを最初 に漕いだのは長崎在住のオランダ人だと伝えられ ている 競技用の滑席艇を漕いだ記録の起源は, を表す的確な訳語が誕生していなかったために, 慶応 2 年 (1869 年) であろうと思われる また 本来ヨットや櫓を漕ぐ和船も含めて条件や距離を 最初のボートレースとして記録に残されているの 変えて同じ大会で種目ごとに速さを競い合うとい は, 明治 2 年 (1869 年) 4 月であるとされている う試合内容が競技用ボートを用いて行うボートレー が, 水兵によるレースに使用された艇の種類が書 スの事を意味するようになっていったと思われる かれていない以上, 厳密には競技用のボートを用 のである いた最初のボートレースとは考えにくいと思われ これらの認識の違いによる影響は, 漕艇 75 年 (日本漕艇協会, 1995) に書かれたわが国最初の ボートという項目にも見られる る おそらくこの明治 2 年 (1869 年) を最初のボー トレースとするという, 記述の根拠になっている のは, ボート五十年に書かれている以下のような 日本で最初にボートを漕いだのは長崎在留の 記述によるものと思われる オランダ人だと伝えられるが, 正確な記録は残っ ていない 確かな記録に残るものは, 慶応二年 おそらくバージ倶楽部の選手も, 滑席艇で参 (1866 年) 横浜 山下町の海岸でイギリス人が 加したことであろう (15) 中心となって, 本国から持ってきた数隻の滑席
259 16 17 1996 2 5 24 18 1944 2002 1988 1976 3 1870 AC AlexanderCameronSim 9 23 KobeRegatta Athletic Club KRAC KRAC 12 24 1 19 3 1870 4 1871 4 20 4 1871 21 52 1977 16 2004 1 4 2 22 2 M. C. 6 1859 7 1860 3 1863
260 日本におけるボート競技の起源についての考察 また同年 9 月になると通商条約を締結した諸国 留地の拡張と整備を幕府に要求するようになって の軍艦が横浜港に姿を見せ始め, 常時 20 隻前後 いった さらに居留地内の行政権を握ると, 居留 が停泊しては交代で上陸し居留地民を警備してい 地内で本国の生活様式そのままの日常を過ごして たと思われる いったと思われる また 10 月上旬には 24 隻の軍艦が停泊していた したがって軍人や市民の健康状態を改善すると が, 一番軍艦の数が多かったのは 16 隻を数えた いう名目で, スポーツ施設などの建設を幕府に要 イギリスであった また 24 隻の軍艦の乗組員と 求するようになっていくが, そのことが逸早くイ 駐屯していた部隊の合計人数は約 8,000 名にも上 ギリスで誕生したスポーツの多くが行われるよう る そして当時外国人居留地にいた外国人の内訳 になった一因と思われる では, 総数 209 人中の 91 人をイギリス人が占め ておりその比率は約 44 にも上る 横浜のボートは文久 3 年 (1863 年) 頃から港 に停泊中のイギリス艦隊の乗組員によって行われ このことは明治新政府に対して影響力を強化し ていたレガッタに, 居留地の外国人が参加するよ たいというイギリス側の思惑があったものと思わ うになっていったのは慶応元年 (1865 年) 頃で れるが, このことが後に開国したばかりの日本が あるといわれているが, どのような種目に参加し イギリス的なスポーツ観の影響を強く受けていっ たのかという詳細な記録はない また慶応 2 年 (1866 年) イギリス人が中心と たことになるのではないかと思われる すなわちスポーツを行うものはルールを順守し, なり, 通称フランス波止場 (現在の中区山下町 さらに紳士的でなければならないとか, スポーツ 12 番地) にボートハウスを建設しバージー ク を通して強い肉体を育成することが良い兵士の育 ラブというクラブが創設された 成につながるという, 当時の大英帝国として世界 そして明治 4 年 (1871 年) に行われた神戸 に名をはせていたイギリスで生まれたアスレティ 横浜インターポート レガッタ競技会を期して横 シズム思想 (23) の影響を強く日本が受けていくこ 浜レガッタ競技クラブとニッポンレガッタ競技ク とになると思われる ラブの二つが統合して出来たのが横浜 アマチュ また居留地に居住していた外国人たちは, この ア ローイング クラブ (YARC) であろうと ように多くの軍隊を駐屯させていたが, 次第に居 思われる 図 2 は 横浜海岸ボートクラブ とい 図2 横浜海岸ボートクラブ
261 40 1907 6 1917 12 2 24 4 1871 John Reddie Black 4 2 2 25 4 2 29 1 2 2 2 1 30 4 1871 1 KRAC 2 26 S Harold S. Williams 27 4 8 28 4 1871 1 4 1 31 4 1871
262 2 3 1865 1861 9 26 J. C. F. W. Hallowes R. N. Chairman W. M. Robinet H. Howard Church F. A. Francis Groom 1 4 1,5 5 25 2 2 1,5 15 2 5 3 2 3 4 1 5 75 4 1 5 2 20 2 10 5 1 3 30 6 1,5 5 25 2 10 3 5 7 3 2 5 30 8 4 1 5 2 20 2 10 1864 46 Holme Ringer Co F. T. B. T. B. Glover 32 A. J. A. J. Glover 4 4 2 2 1 1 1 2
263 YARC KRAC 18 1885 4 2 1869 4 1861 9 26 44 1969 39 1964 49 1974 32 3 1856 Willem Johan Cornrlis ridder Huijssen van Kattendijke 33 2 1855 1 1 1 2 1855 2 34 1 4
264 2 1869 5 24 4 1871 1 2 1869 5 24 1861 9 26 2 1855 2 1866 1 2 3 1937 p. 1385. 4 5 1957 p. 9. 6 1959 p. 247. 7 p. 845. 8 1963 p. 624. 9 1966 p. 93. 10 11 1970 p. 331. 12 1, p.37. 13 1829 14 75 1995 p. 12. 15 1957 p. 13. 16 17 18 1996 p. 30. 19 1976 p. 15. 20 1976 p. 27. 21 1976 p. 28. 22 Regatta 23 19 24 1977 pp. 105, 107, 112. 25 4 4 5 4 4 26 1 2 2 2
265 27 S. 4 2004 28 p. 145. 29 p. 146. 30 p. 146. 31 T. B. Thomas Blake Glover 1865 32 Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke 33 1974 34 p. 27. 1984 1937 1991 100 1992 1988 1970 1953 1968 1976 1973 2002 1981 1996 2005 2000 1936 1957 2001 100 2000 1995 2004 1980 1976 1974 2005 1995 75 1959 1963 1983 1976 2003 2002 100 2001 100 2004 100 2004 4 1977 1975