ロシア史研究会大会報告要旨

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ロシア史研究会大会報告 農奴解放の開始から大改革へ 吉田浩 ( 岡山大学 ) はじめに 1861 年に農奴解放令が出されてから今年で 150 年になる 農奴解放は 続いておこなわれた 大改革 開始のきっかけとなる出来事であり 原因 でもあるので 近代ロシアの画期とされる 農奴制を基盤としていたロシア帝国で なぜ皇帝が自らそれを廃止しようとし さらなる改革につながっていったのか この問題はこれまでも様々に論じられてきた だが ロシア農奴解放そのものを課題の中心に置いた研究や農奴解放への関心は 近年 率直にいえば低調である その理由の一つは ロシア ( ソ連 ) アメリカ 日本それぞれにおいて 決定版 といえるような研究が早い時期に刊行されていたことにある ロシアではザイオンチコフスキー アメリカではエモンズとフィールド 日本では増田富寿 菊地昌典による農奴解放研究である 1 事実経過の説明についてこれらの著書の価値は現在も衰えていないが 農奴解放という事業は国家全体に影響をおよぼすものであり 農奴解放の全体を網羅したものではないし 事実認識などについて古くなった点もある 農奴解放から 150 年が過ぎた今年 この時代について新しい視点から再考することには意義があると思う 農奴解放の研究は大きく原因 経過 結果と分けられるが 今回は特に原因に焦点をあてながら見直し作業をおこなってみたい 農奴解放が決断された理由として あるものだけをとりだして決定的要因とするよりも さまざまな状況や出来事の組み合わせとして説明されるのが通例となっている 2 現在一般的となっている説明はつぎのような考え方である クリミア戦争の敗北により ロシアは自らの軍事 経済 社会 教育などの分野で 1 Зайончковский П.А. Отмена крепостного права в России. М., 1954. 増田富寿 ロシヤ農村社会の近代化過程 御茶の水書房 1958 年 菊地昌典 ロシア農奴解放の研究 御茶の水書房 1964 年 Terence Emmons, The Russian Landed Gentry and the Peasant Emancipation of 1861, Cambridge, 1968. Daniel Field, The End of Serfdom: nobility and bureaucracy in Russia, 1855-1861. Harvard University Press, 1976. 英語圏におけるロシア史研究をテーマにしているボリシャコヴァは 農奴解放研究が低調になった原因を近代化論や近代化への関心の低下に求めている Большакова О.В. Между двумя юбилеями: ангоязычная историография отмены крепостного права // Российская история. 2011. 4. С.23. 2 鈴木健夫 近代ロシアと農村共同体 創文館 2004 年 99-101 頁 1

の後進性を認識し 農奴制を恥であるという観念が広がり改革をもとめる声が高まった それを背景にアレクサンドル 2 世のイニシアティヴにより解放が決定され ニコライ 1 世時代に育っていた自由主義的開明官僚により具体案が作成され農奴解放が実行された 3 この考え方のもとでは アレクサンドル 2 世によるモスクワの郡貴族団長たちを前にした 1856 年 3 月の 下からおこるより上からおこなった方がよい という有名な演説や 1857 年 11 月の西部諸県総督ナジーモフ宛の農奴制廃止の原則について述べた勅書などが農奴解放の起点とされる この見方は全体としてみれば誤りはないが 予定調和的であり 後からみて農奴解放につながった出来事を強調するきらいがある この点について私は 2007 年のロシア史研究会大会報告で これらの 原因 について 必要条件 ではあるが一般的説明にすぎるのではないかと述べた アレクサンドル 2 世のイニシアティヴが改革を決定し前進させたことも通説となっているが なぜ農奴制が国家の基盤となっているロシア帝国で 皇帝は決心したのであろうか 専制国家では皇帝の命令が絶対だとしても なぜ貴族は自らの特権を失うことになる農奴解放を受け入れたのであろうか この点について従来の説明は十分でないように思われる 本報告では 通説の不十分な点を指摘しつつ 1861 年に実現した農奴解放は 19 世紀初頭アレクサンドル 1 世時代以来に進められてきた部分的農奴解放を拡大する形での漸進的な改革を内務次官リョーフシンが準備した第一段階があり その時期に起こった差し迫った理由をきっかけとして加速化の必要が生じ 後任のニコライ ミリューティンの主導する 農奴解放だけでない大改革につながる根本的農奴解放の実現に至ったという仮説を提示したい 従来繰り返し説かれてきたアレクサンドル 2 世のイニシアティヴについて ザハーロヴァは次のように述べている 皇帝は生まれながらの改革者だから改革をおこなったのではなく 軍人としての教育も受けた彼はクリミア戦争の敗北を軍人として受入れ 皇帝として国の威光の回復を何より重んじたから改革をおこなおうと決心した ジュコフスキーやチュッチェフの教育の影響 個人的性格として親切で温かい心 人道性への理解をもっていたことも幸いして 伝統にとらわれない決定が可能となった そして 1856 年 3 月のモスクワの郡貴族団長を前にした演説で解放の実行を仄めかしたのちには 改革の立場を後退させなかった 4 3 Захарова Л.Г. Великие реформы 1860-1870-х годов: поворотный пункт Российской истории? // Отечественная история 2005, 4. Polunov Alexander, Russia in the nineteenth Century: Autocracy, Reform, and Social Change, 1814-1914, M.E.Sharpe, 2005. 4 Захарова. Великие реформы. С. 152. Larissa Zakharova, The Reign of Alexander II: a watershed? in Dominic Lieven ed., Imperial Russia, 1689-1917 (Cambridge History of Russia, Vol. 2, 2006), 2

しかし 1856 年演説の農奴解放にかかわる箇所には曖昧な表現が用いられており 解釈の余地が残るものである 演説については二つの史料が残っている 5 演説の速記とその後に皇帝が手を加えたまとめたもので 前者によれば農奴解放の噂を否定することに重点がおかれ 後者によれば改革を実行する皇帝の意思が強調されるというのが菊地昌典の解釈である 6 二つの史料に共通する部分をとりあげると以下のようになる 私が農奴を解放したいという噂がある それは正しくない だが そのために農民と領主との間に敵対的感情が生じている だから遅かれ早かれ われわれはこの方向へ進まねばならないと確信している したがってこれが下からおこるより上からおこった方がずっとよいという私の意見に諸君が同意してくれると考えている この時点では皇帝は迷っており 観測気球として解放を仄めかしてみたと解釈するのが自然ではないだろうか 事実 この時点では急いで改革をしなければならない差し迫った理由がなかったことは 研究史の示すとおりである ソ連史学で支配的であった農民運動契機説については 近い将来に農民運動がおこることを上層支配層が心配していたことは確かであるが 実際の農民運動は農奴解放が決定してからむしろ頻発した 7 また 農奴制は資本主義へと進むにあたって時代遅れであったとしても 経済システムとしてはまだ十分に機能しており 大改革期以降の経済的発展の重要な過程は 1861 年以前に始まっていた 8 1850 年代に播種面積は拡大し 1856 年は豊作で 穀物輸出をおこなっていた 農奴解放を求める社会の動きはクリミア戦争敗戦後に高まっていたとしても それが直接皇帝に農奴解放を決意させたとは思えない 9 リョーフシンの改革案 ではどの時点で実現された形での農奴解放へ進むことになったのだろうか その前に 1856 年 3 月演説を受けての内務省を中心とする政府上層の動きをみてみたい 内 p.595. チェルヌーハもアレクサンドル 2 世の性格に触れ 彼はもともと改革案をもっていたのではなく 時代と社会が彼を改革者にしたと述べている Чернуха В.Г. Великие реформы. // Власть и реформы. СПб., 1996. С.286. 5 Попельницкий А. Речь Александра II, сказанная 30-го марта 1856 г. // Голос минувшего. 1916, 5-6. С.392-397. 6 菊池 ロシア農奴解放の研究 274 277 頁 7 Field, The End of Serfdom, p.52. 農奴解放に対する農民運動の影響は 開始のきっかけというより それによって土地なし解放という選択肢が狭まったことである Захарова Л.Г. //Захарова Л.Г., Эклов Б., Бушнелл Дж.(Под ред.) Великие реформы в России 1856-1874. М., 1992. С.30-31. 8 Готрелл П. Значение великих реформ в экономической истории России. //Захарова Л.Г., Эклов Б., Бушнелл Дж.(Под ред.) Великие реформы в России 1856-1874. М., 1992. С.123. 9 M.Pintner, Reformability in the Age of Reform and Counterreform, in ed. Robert Crummey, Reform in Russia and the USSR (University of Illinois Press, 1989), p.88. 3

務大臣ランスコイは内務次官のリョーフシンからの問いかけに対し 残念だ と語った 彼は農奴解放令の起草を実質的にリードしたニコライ ミリューティンの上司として 1861 年 4 月まで内務大臣をつとめたが 1855 年に大臣に任命された際 貴族に与えられた不可侵の特権を守る と演説しており 10 もともと守旧派であった その前任者ビビコフは貴族に不利益ともなる土地台帳改革をすすめたので この任命は貴族の伝統的特権を皇帝が守るサインとして受け取られた 11 解放に前向きだったリョーフシンは皇帝の真意について大臣を通じて尋ねると 解放への意思は確かであることがわかり 演説の前後に具体的指示が何もなかったにもかかわらずリョーフシンは解放の実現へむけて皇帝を助けようと決意した 12 ランスコイは農奴解放準備の初期においてはリョーフシンの考えを追認していくことになる 当時 国家評議会では貴族所領の細分化制限に関する法案が審議されており 内務大臣報告を起草したリョーフシンは 止まることなく 速すぎることもなく 注意深く領主農民の解放という目的にむけて進まねばならないという文言を盛り込んだ 報告案は 56 年 4 月 9 日に大臣に承認され 皇帝は 徐々に進める方法が取られなければならないが 同時に システマチックかつ十分に用心深く全体的プランの作成にとりかからなければならない と鉛筆で記入して返してきた 13 その後 国家評議会で新遺言法制定の動きがあり 遺言によって土地付きで農民を解放することを禁止する内容となっていた これはアレクサンドル 1 世の時代につくられた自由耕作民 (вольные хлебопащцы ないし свободные хлебопашцы) の改正法に紛れ込んでいた内容の追認であった 自由耕作民制度は 1803 年に設けられ 領主 = 農民間の合意により農奴が土地付きで解放され 実質的には国有地農民と同程度の負担をする農民となるもので 農民には土地の売買や 細分化しない限り (8 デシャチーナが基準 ) 遺贈の自由が認められた 14 領主が遺贈により自由耕作民として農奴を解放することを法制定当初は禁止しておらず 氏族財産 獲得財産共にその対象としていたが 徐々に制限がつけられ 1842 年版のロシア帝国法律集成では獲得財産としての農奴についても貴族による遺贈を禁止するものとなった リョーフシンはアレクサンドル 1 世やニコライ 1 世が農奴解放を望んでいたと述べつつ アレクサンドル 1 世によって開かれた農民に自由を与える出口が 1842 年の法改正によって閉じられてしまったと評している 15 そのような考えを皇帝に伝えたのが 6 月のことであるが 以上のことから政府上層 10 Хрущов, Дмитрий Петрович (ред.) Материалы для истории упразднения крепостного состояния помещичьих крестьян в России в царствование Императора Александра II. Т.1. Берлин, 1860. С.103. 11 N.G.O.Pereira, Alexander II and the Decision to Emancipate the Russian Serfs, 1855-1861, Canadian Slavonic Papers, 12 (March 1980), p.103. 12 Левшин А.И. Достопамятные минуты моей жизни. Записка Алексея Ираклиевича Левшина // Русский архив. Авг. 1885. С.477-478. 13 Левшин, Достопамятные минуты, С.480. 14 1825 年までに 47153 人 ( 男性 ) が 1825 年から 48 年までに 67149 人がこのカテゴリーとなり 1858 年には国有地農民の 3% 弱を占めた ПСЗ.-1. 20620. 1803/2/20. Законодательство первой половиной XIX века. М., 1988. С.30-37.Отечесьвенная история. Энциклопедия в пяти томах. Т.1. М., 1994. С.450-451. リョーフシンは 1803 年から 1857 年までで 14500 人という数字を挙げている Левшин, Достопамятные минуты, С.514. この法律の適用が広がらなかった理由は 貴族の自発的希望をきっかけとしていたこと および 農民に与える土地は農民自らが買い取るか 地主が無償で譲渡する必要があったことである 15 Левшин, Достопамятные минуты, С.483. 4

では農奴解放が現実のこととは考えられていなかったことがわかる さらにその後 アレクサンドル 2 世の戴冠式にあわせてリョーフシンはモスクワへ向かい 貴族団長たちと懇談したが 多くの者は農奴解放について考えておらず 興味を示したのは西部諸県の貴族のみであった この時に西部 3 県総督ナズィーモフとも会談し 農奴解放に協力することの確約を得て そのことを西部 3 県での土地台帳委員会に土地台帳制度の見直しを依頼することに関する 10 月 26 日付け内務大臣報告に盛り込み皇帝に伝えた 16 56 年 12 月 20 日付け皇帝への内相報告にリョーフシンは自ら研究した農奴制の歴史を盛り込み 農奴解放のあらゆる側面をじっくりと注意深く検討し 実現するための常設の委員会の設置を提案した それは皇帝の考えと合致し 秘密委員会 ( のちの農民問題総委員会 ) が設置されることとなった 17 この委員会では農民の人格を無償で解放するか否か 土地付きで解放するか否かなどについてさまざまに意見が出されたが この点については多くの研究で論じられているから 特に重要と思える点についてのみ述べたい 第一に ランスコイ ( とリョーフシン 内務大臣名による解放に関する前向きな提案は基本的にリョーフシンが起草していたが リョーフシンは委員会メンバーではない ) が自由耕作民法および義務的農民法 (1842 年 ) 18 を解放案の基礎に置くべきであり 両法の欠点は貴族の自発的申し出による解放であるために広がらなかったのであるから 法改正などの工夫をすることで適用層が広がるようにすべきであると 1857 年 7 月の秘密委員会で提案したことである 19 第二にバルト諸県での解放を手本とし 地主に土地所有権を認め 農民に負担を一定とした安定した土地用役権を与えることで 浮浪の防止 解放された農民の保護 貴族直営地における働き手の確保という問題をクリアしようとしたことである 20 秘密委員会ではランスコイ = リョーフシン案は採用されず 現時点での全面的な解放は不可能とされ 結論として三期に分けた漸進的 解放 案がつくられ 8 月に皇帝の裁可を得た 第一期は準備期で 領主が農民との合意による解放をしやすくする環境を整える 第二期は移行期で 領主 = 農民間の合意ではなく 義務的な解放への移行となるが ゆっくり人格の自由を獲得する 第三期は完成期で 農奴は完全に自由身分となる というものである この解放案の実現に 50 年はかかるだろうから 秘密委員会メンバーは第一期を生きながらえることはできず だから第二期 第三期について詳しい規定がなされなかったのだとリョーフシンは評している 21 57 年 10 月 土地台帳制度の見直しに関する検討の結果を報告するためにナズィーモフがペテルブルクに来た 西部諸県貴族の反応は言葉を濁すようなもので 結論は 農奴解放をやるのであれば それまで土地台帳制度の改革をおこなうべきではないというものであった ナズィーモフは農奴解放のためには 3 県 ( ヴィリノ コヴノ グロドノ ) 合同特別委員会を開く必要があると考え その指針となるものを政府に作っ 16 Левшин, Достопамятные минуты, С.484-486. 17 Левшин, Достопамятные минуты, С.491-493. 18 ПСЗ.-II. 15462. 1842/4/2.Законодательство первой половиной XIX века. М., 1988. С.37-43. 義務的農民制度のメリットは領主が土地所有権を持ち続けることにより領主負担が軽減され この制度を利用しやすくなったことであるが 地主と農民間の土地用益契約は 永遠 (навсегда и ненарушимо) のものとされ ( 第 8 項 ) 農民の自由への道筋が曖昧になったこと 地主は農民にたいする裁判権を持ち続けること ( 第 6 項 ) が新たな欠点となった 19 Левшин, Достопамятные минуты, С.494-495, 513-515. 20 Левшин, Достопамятные минуты, С.504. 21 Левшин, Достопамятные минуты, С.523. 5

てもらいたいということで皇帝に会い 11 月 20 日の有名な勅書が出されることになる 皇帝は 8 日間のうちにナズィーモフへの解答を用意するよう命じたので 秘密委員会は内務大臣と国有財産大臣に 3 日間で勅書案を作成するよう委託した リョーフシンはランスコイに勅書案を作るよう命じられるが 秘密委員会に提出した提案が検討されていない段階でロシアの将来を決定する農奴解放の指針を急いで作ることに難色を示した だがランスコイは 皇帝の命令を取り消すことはできない として助手をつけ 仕事にとりかからせた 勅書は 領主農民の生活改善案を作成する県委員会の設置をみとめ 審議には以下のことが原則とされた 貴族の土地所有権の確認 農民は菜園地を買戻すこと 農民には生活や義務遂行に必要な耕地の用益権が与えられること 貴族に世襲領地警察権 (вотчинная полиция) が与えることなどである 22 農民に用益権が認められたとはいえ基本的にこれは土地なし解放案であり バルト諸県での農奴解放が先例としたうえで 浮浪者をださず 税収と貴族直営地の人手という目的で完全な土地なしではないよう工夫されたものであり 現存する領地経営を破壊することなく徐々におこなうように と記されていた また 人格の解放については触れられていなかった つまりこの段階では 皇帝はまだ解放を急いではいないし 大改革につながるような改革が考えられていなかった 貴族にとっても受入れやすい 解放 案であった ただし この時点でリョーフシンとランスコイの解放実現についての立場が逆転することになる リョーフシンはあくまで漸進的改革を考えており 解放の審議についての公表にも慎重な立場であったが ランスコイは皇帝の命令には逆らえないとしてリョーフシンに勅書の草案作成を命じたし ナズィーモフあて勅書を公表した 23 12 月にはペテルブルク総督あてにナズィーモフ宛勅書とほぼ同じ内容のものが出され その動きはその後ヨーロッパロシア諸県へと広がっていった 1858 年 1 月には秘密委員会が農民問題総委員会と名称を変更した 諸県で県委員会が形成され ナズィーモフ宛勅書にある原則とほぼ同じ指針にしたがい 農奴解放案が具体的に練られるという大きな前進がみられる段階に移る これは政府が農奴解放を本気で考えていることを示すというグラスノスチの成果とされるが 他方で特権が侵されるとして反対を表明する貴族が出てくることも意味する 各県委員会で解放そのものに反対したり 農奴の人格は政府が買取ることで解放とせよという意見が出されるなど 県委員会で緊張が高まっていた 1858 年夏に アレクサンドル 2 世は中央ロシアを旅行した ウォートマンはこれを 皇帝が姿を現すことで貴族 民衆双方に解放を納得させるボナパルティズム的方法ととらえている 24 しかし貴族を納得させるに十分であったとは思えない 県貴族委員会の解放案を法律にまとめるという技術的仕事をまかされた法典編纂委員会が 1859 年 2 月につくられ ( 活動開始は 3 月 ) 県委員会から出された意見の枠を離れて実質的に農奴解放令作成を主導し しかも地方自治改革や司法改革を必然化させる内容となっていくのは何故か この点に示唆を与えてくれるのが ホックとドルビーロフの研究よって明らかになった銀行危機と改革の加速化の関係 22 Сборник правительственных распоряжений по устройству быта крестьян, вышедших из крепостной зависимости. Изд. 2-е. Т.1. СПб., 1862. С. 2. 23 菊地昌典はこの過程について記述しているが ランスコイをはじめからの改革派として描き リョーフシンを漸進的改革派のリョーフシンをとりのぞきたがっていたと描いているのは誤りである 菊地 前掲書 300 頁 24 Richard Wortman, Rule by Sentiment: Alexander II s Journeys through the Russian Empire //, American Historical Review, vol.95, no.3, pp.756-764. 6

である 25 二人は農奴解放が国家の仲介する買戻しという形に進んだ理由を銀行改革に求めている ロシアの近代化と銀行危機 クリミア戦争の遂行およびその敗北により 国家経済が危機に陥った 1853 年から 56 年には国家財政赤字が 5200 万ルーブルから 3 億 7 百万ルーブルに増加し 金準備額は半減以上となり兌換を停止せざるをえなくなった 深刻な危機ではあったが 農奴解放を決意させるほどのものではなかった 他方で クリミア戦争敗北の原因のひとつに交通や通信手段の未発達であるという反省に基づき 鉄道や汽船会社育成政策がとられることになった その結果として 1857 年から 59 年の間に 75 の株式会社がつくられ そのほとんどは鉄道と汽船会社である 1857 年 1 月には鉄道勅令が出され 4000 キロメートルの敶設計画が承認された 同年 7 月には 遊休資金を鉄道株購入に向けるという目的もあり官営信用機関預金利子が 1% 引き下げられ個人向けの預金利率は 4% が 3% に 貸付利率は 5% が 4% となった しかしこの結果 1858 年終わりから 59 年にかけて預金の引出しが止まらなくなり 銀行危機を招くことになった のちに蔵相クニャジェヴィチが明らかにしたところによれば 1857 年 8 月からの 22 ヶ月で 銀行の出金が入金を 1 億 4 千 300 万ルーブルうわまわることになり 銀行手持ちの現金は 1857 年 6 月に 1 億 5 千万ルーブルだったのが 1859 年 6 月には 2 千万ルーブルに減少した 26 この危機にたいして専門家の意見は割れ 対策は紆余曲折の道をたどった 結局のところ銀行改革委員会が作られ 銀行債が発行されるなどして預金高を増やし 1860 年 5 月に国立銀行が設置され 同年 9 月までに 2 億 7 千万の預金が確保されることになった この金融危機は 1858 年 12 月に顕在化しはじめたが限られた専門家にしか知られておらず 1860 年末まで公表されなかった ドルビーロフによれば銀行危機がわかった時には農民改革準備はすでに進んでおり 皇帝は状況をよく知らなかったのでその決意とは無関係であるとしている 27 だがドルビーロフは 1859 年 2 月に皇帝がコンスタンティン大公に 財政問題の解決なしに 農民問題の解決は不可能である と語ったことも合わせて引用している 他方でホックは銀行改革委員会と 買戻し法起草のための特別財政委員会 (59 年 4 月設置 ) 25 Steven L.Hoch, The Banking Crisis, Peasant Reform, and Economic Development in Russia, 1857-1861, American Historical Review, vol. 96, no.3, 1991. Долбилов М.Д. Александр II и отмена крепостного права // Вопросы истории. 1998. 10. Долбилов М.Д. Проекты выкупной операции 1857-1861 гг.: к оценке творчества реформаторской команды // Отечественная история. 2000. 1. 和田春樹は 買戻し操作はこげついた旧官営信用機関の貸付金を農民の犠牲において回収する方策であったことを 既に 1971 年に指摘している 26 Hoch, The Banking Crisis, p.801-803,806. 27 Долбилов. Александр II. С.34-35. 7

においてそれぞれ 8 人のメンバー中 5 人が両者を兼務していることに注目している 28 いずれにせよ 銀行危機は農奴解放事業に二つ点で影響を与えた 一つは 銀行を救うために農奴解放が国家の仲介する買戻しという形でおこなわれることになったことである 和田春樹は 買戻し操作はこげついた旧官営信用機関の貸付金を農民の犠牲において回収する方策であったことを 既に 1971 年に指摘している 29 もう一点は 1859 年 4 月に農奴主所領抵当信用が停止されたことである この頃およそ 60% の農奴に抵当が設定されていた 30 農奴を担保としての貸付けが停止され 返済引き延ばしも禁止されたので 貴族は農奴と土地を手放さざるをえなくなり 土地付きの農奴解放を受け入れざるをえなくなったのである 結論 農奴解放の必要性はアレクサンドル 1 世 ニコライ 1 世の時代から認識されており 解放をめぐっていくたびも議論されてきていた また 1861 年以前にも 自由耕作民制度や西部ロシアでの農奴解放 土地台帳制度など ロシア農奴解放の前提となる別の形での 解放 が実践されていた アレクサンドル 2 世による解放もはじめはその延長線上に考えられていたのである 1856 年 3 月におこなわれたアレクサンドル 2 世による 下からおこるより上からおこなった方がよい という演説を受け 内務次官リョーフシンによって道がつくられた したがってその時点で考えられていた解放は漸進的なものであり 大改革へとつながるような行政制度の根本的な変更をともなうものではなかった ナズィーモフ勅書をスクレビツキーは 政府が大改革への道を進むという公的な表明の第一歩 と呼んだが 31 その内容はリョーフシン的な農民の範疇だけに終わる解放をめざしたものであった このように考えることにより アレクサンドル 2 世の演説が 解放の噂があるが それは正しくない という気弱な表現を含んでいたことや ナズィーモフ宛勅書が農奴解放の原則を掲げつつ 土地な 28 Hoch, The Banking Crisis, p.808. 兼任しているのはブンゲ ラマンスキー カーゲメイステル レイテルン N. ミリューティン 29 和田春樹 ロシア 大改革 の時代 岩波講座世界歴史 20 近代 7 岩波書店 1971 年 274 頁 30 Hoch, The Banking Crisis, p.804. 同じ月 リョーフシンが内務次官を辞職し ニコライ ミリ ューティンが後任次官となった 31 Скреюбцкий А. Крестьянское дело в царствование императора Александра II. Т.1. Бонн-на Рейне. 1862. С.1. たしかにこの勅書をきっかけとして解放へと進んだし これが後に形成される全国での県貴 族委員会での議論の原型となったのであるが 勅書の画期的意義は 内容というよりそれを公表した という点にある 8

し となっていることの説明がつく この時点までは 19 世紀前半にあった 解放 の流れをくむ漸進的 穏健な解放がめざされていたのである その後 クリミア戦争敗北の反省にたち 大国ロシアの再建のためにおこなわれた鉄道や造船会社の発達を促すためにとられた政策が銀行危機をひきおこし 実現されたような 国家が介入する買戻しを含む農奴解放へ導いた その結果 国家機構全体の改革が不可避となり大改革につながったと考えられる ドミトリー ミリューティンは 1880 年代半ばに示唆的な言葉を残している 1861 年 2 月 19 日の法令は個別の独立した法律にとどまり得なかった それは国家構造全体を再編する礎石であったのだ 32 農奴制の廃止により国家を支える基礎形態が変更され 伝統的に貴族が負うとされてきた公の問題 = 行政の一部が自治という形で農民に移された それは地域行政全般の問題に広がり 内務省で 1857 年から審議されはじめ 58 年 3 月には内務省にゼムスキー部が設けられた その後農奴解放令法典編纂委員会が開かれると同時にニコライ ミリューティンを委員長とする地域行政改革委員会が開かれた 実際の自治形態については農民改革および租税改革が決まらねば議論できないため実質的には 1862 年以降にもちこされ 1864 年にゼムストヴォの設置という形で実現することとなった 全身分的組織の形成は農民の法的地位の変更により可能になり それを側面から支えるものとして体刑の廃止 (1863 年 4 月 17 日 ) 国民皆兵制 (1874 年 1 月 1 日 ) が実施されることになる 1864 年の司法改革を含めたこれら諸改革は全身分的な社会制度の建設という意味で市民社会の基礎を作るものであるが 改革がこのような方向へ進んだ源にはリョーフシンの農奴解放案からニコライ ミリューティン主導のものへの質的変化があった 農奴解放は フィールドやザハーロヴァの述べるように段階的に形づくられてきた その画期としてナズィーモフ宛勅書 県委員会形成 法典編纂委員会の設置などが挙げられてきたが 実現された形での農奴解放には 銀行危機が決定的な影響を与えたのである 32 Милютин Д.А. Воспоминания, 1865-1867. М., 2005. С.202. 9