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1 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -2: 体系の構造と哲学の概念 体系の構造と哲学の概念 神学大全 全体の概略的構造 序論 : 聖なる教え について 第 1 部 : 神について (De Deo) [1] 神の本質に属することがら [2] 神のペルソナの区別に関することがら ( 三位一体論 ) [3] 神からの被造物の発出に関することがら ( 天使 物体 人間 ) 第 2 部 : 理性的被造物の神への運動について (De motu rationalis creaturae in Deum) [1] 人間の生の究極目的 [2] それによって人間が究極目的へと至る あるいはそれから逸れることがら (1) 行為と情念 (2) 行為の原理 ( 内的原理としての徳 外的原理としての法と恩寵 ) 第 3 部 : われわれにとって神へ向かう道である 人間である限りでのキリストについて (De Christo qui, secundum quod homo, via est nobis tendendi in Deum) [1] 救い主について ( 受肉論 イエスの生涯 ) [2] 秘蹟について [3] 復活と最後の審判

2 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -3: 神と創造 神と創造 神学大全 第 1 部第 2 問 第 26 問 ( 神の存在と一なる本質 ) [A] 神の存在証明 第 2 問 [B] 神がそのようなものであるか むしろどのようなものでないか (I) それ自体として神がどのようなものか (a) 単純性 (b) 完全性 (c) 善性 (d) 無限性 (e) 遍在性 (f) 不変性 (g) 永遠性 (h) 一性 (II) 神はわれわれの認識との関係でどのようなものか (III) 神の名称 第 3 問第 4 問第 5-6 問第 7 問第 8 問第 9 問第 10 問第 11 問第 12 問第 13 問 [C] 神のはたらき (I) 神の知 (a) それ自体としての神の知 (b) イデア論 (c) 真理論 虚偽論 (d) 生命 第 14 問第 15 問第 問第 18 問 (II) 神の意志 (a) それ自体としての意志 第 19 問 (b) 意志だけに属することがら 1) 神の愛 第 10 問 2) 神の正義とあわれみ 第 21 問 (c) 意志と知性の両方に関わることがら 1) 神の摂理 第 22 問 2) 神の予定 第 23 問 3) 生命の書 第 24 問 (III) 神の能力 [D] 神の至福 第 25 問 第 26 問

3 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -3: 神と創造 -32- 神学大全 第 1 部第 44 問 第 119 問 ( 被造物の神からの発出 ) [A] 被造物の産出 (I) 万物のの第一原因 (II) 流出の様態 (III) 被造物の持続の根源 第 44 問 第 45 問 第 46 問 [B] 被造物の区別 (I) 被造物の区別一般 (II) 善悪の区別 第 47 問 第 問 (III) 霊的 物体的被造物の区別 (a) 天使 (b) 物体 (c) 人間 第 問 第 問 第 問 [C] 被造物の保存と統宰 (I) 一般論 第 103 問 (II) 統宰の結果 (a) 第一の結果である被造物の保存第 104 問 (b) 第二の結果である被造物の変化 1) 神による被造物の変化第 105 問 2) 被造物同士の変化第 問テキスト 1 (A) Respondeo dicendum quod Deum esse quinque viis probari potest. Prima autem et manifestior via est, quae sumitur ex parte motus. (B) Certum est enim, et sensu constat, aliqua moveri in hoc mundo. (C) Omne autem quod movetur, ab alio movetur. (C-1) Nihil enim movetur, nisi secundum quod est in potentia ad illud ad quod movetur: movet autem aliquid secundum quod est actu. Movere enim nihil aliud est quam educere aliquid de potentia in actum: (C-2) de potentia autem non potest aliquid reduci in actum, nisi per aliquod ens in actu: sicut calidum in actu, ut ignis, facit lignum, quod est calidum in potentia, esse actu calidum, et per hoc movet et alterat ipsum. (C-3) Non autem est possibile ut idem sit simul in actu et potentia secundum idem, sed solum secundum diversa: quod enim est calidum in actu, non potest simul esse calidum in potentia, sed est simul frigidum in potentia. (C-4) Impossibile est ergo quod, secundum idem et eodem modo, aliquid sit movens et motum, vel quod moveat seipsum. (C) Omne ergo quod movetur, oportet ab alio moveri. (D) Si ergo id a quo movetur, moveatur, oportet et ipsum ab alio moveri; et illud ab alio. Hic autem non est procedere in infinitum: quia sic non esset aliquod primum movens; et per consequens nec aliquod aliud movens, quia moventia secunda non movent nisi per hoc quod sunt mota a primo movente, sicut baculus non movet nisi per hoc quod est motus a manu. (E) Ergo necesse est devenire ad aliquod primum movens, quod a nullo movetur: et hoc omnes intelligunt Deum. (Summa theologiae I, q.2, a.3, corpus)

4 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -3: 神と創造 -33- (A) 答えて言わなければならない 神が存在するということは五つの道によって証明されうる さて 第一の道は [ 他より ] より明白なものであって 運動という面から得られるものである (B) すなわち この世界において何からのものが動いているということは確実であり 感覚によって確保されている (C) ところで 動いているものはすべてそれとは別のものによって動かされている それは次の理由による (C-1) 何ものも それへと動いているものに対して可能態にある限りにおいてでなければ 動くことはない それに対して 何かが [ 他のものを ] 動かすのはそれが現実態にある限りである 実際 動かすと言うことは何かを可能態から現実態へと引き出すこと以外の何ものでもないからである (C-2) ところが 何かが可能態から現実態へともたらされるのは 現実態にある何らかの存在者によってだけである たとえば 火のような現実態において熱いものが 可能態において熱いものである木材を現実態において熱いものとするのであり このことによって火は木材を動かし変化させるのである (C-3) ところで 同じものが同じ観点で同時に現実態にありかつ可能態にあることは不可能であり 可能なのは異なる観点のものにおいてである 実際 現実態において熱いものが同時に可能態において熱いものであることができず 同時に可能態において冷たいものなのである (C-4) それゆえ 同じ観点で同じ様態において 何かが動かしかつ動かされるということ すなわち何かが自分自身を動かすということは不可能である (C) それゆえ 動いているものはそれとは別のものによって動かされているのでなければならない (D) それゆえ もしそれによって動かされているものが動いているならば それもまた別のものによって動かされているのでなければならない そして その別のものもまたそれとは別のものによって動かされているのでなければならない ところが ここで無限に進むことはできない なぜなら そうだとすれば何か第一の動者が存在しなくなり その結果それ以外の別の動者も存在しないことになってしまうからである というのも たとえば杖が [ 何か別のものを ] 動かすのは 杖が手によって動かされているからでしかないように 二次的なもろもろの動者は第一の動者によって動かされているのでないならば [ 他のものを ] 動かすことがないからである (E) それゆえ 何ものによっても動かされことのない何らか第一動者に達することが必然なのである そして これをすべての人は神だと理解しているのである ( 神学大全 第 1 部第 2 問第 3 項主文 )

5 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 人間存在と認識 神学大全 第 1 部人間論 (75 問 102 問 ) の構成 [A] 人間の自然本性 (natura) について (I) 魂の本質 (essentia) について (a) 魂それ自体について (b) 魂と身体の合一について 第 75 問第 76 問 (II) 魂の能力 (potentia) について (a) 能力一般について ( 本質と魂の関係 ) (b) 能力の間の区別と感覚的能力について (c) 知性的能力について (d) 欲求能力一般について (e) 感覚的欲求能力について (f) 意志について (g) 自由決定力について 第 77 問第 78 問第 79 問第 80 問第 81 問第 82 問第 83 問 (III) 魂のはたらき (operatio) について (a) 身体と合一した魂のはたらきについて 1) 物体の認識について 何を通じて認識するか第 84 問 どのように認識するか第 85 問 何を認識するか第 86 問 2) 自己の認識について第 87 問 3) 非物体的なものの認識について第 88 問 (b) 身体から分離した魂のはたらきについて第 89 問 [B] 人間の最初の産出 (productio) について (I) 人間そのものの産出について (a) 魂に関して (b) 男の産出 (c) 女の産出 (II) 産出の目的 ( 神の像 ) (III) 最初に産出された人間の状態 (IV) 最初の人間の産出の場所について 第 90 問第 91 問第 92 問第 93 問第 問第 102 問

6 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -35- 神学大全 第 1 部第 84 問 - 第 86 問細目次 第 84 問 :[ 身体と ] 結合した魂は自己より下位の物体的なものをどのように認識するか (a.1) 魂は物体を知性によって認識するか (a.2) 魂は物体を自己の本質を通じて知性認識するか (a.3) 魂はすべてのものを自己に自然本性的に備えられた形象を通じて知性認識するか (a.4) 可知的形象 (species intelligibilis) は何らかの分離形相から魂のうちに流入するのか (a.5) 知性的魂は質料的事物を永遠の理拠 (rationes aeternae) において認識するのか (a.6) 知性的認識は感覚的事物から受け取られるのか (a.7) 知性は表象像 (phantasma) への自己を向けることなしに 自己のもとにある可知的形象を通じて現実に知性認識し得るのか (a.8) 知性の判断は感覚の機能停止によって妨げられるか 第 85 問 : 知性認識の様態と秩序について (a.1) われわれの知性は物体的で質料的事物を表象像からの抽象 (abstractio) を通じて知性認識するのか (a.2) 表象像から抽象された可知的形象はわれわれの知性に対して 知性認識されるものとして関係しているのか (a.3) われわれの知性的認識においてはいっそう普遍的なものの方がより先であるのか (a.4) われわれは複数のものを同時に知性認識できるのか (a.5) われわれの知性は複合 分割すること (componendo et dividendo) によって知性認識するのか (a.6) 知性は偽であり得るか (a.7) 同一の事物を或る人が他の人よりもよりよく知性認識することができるのか (a.8) 知性は可分的なものよりも不可分的なものをさきに知性認識するのか 第 86 問 : われわれの知性は物質的事物の何を認識するのか (a.1) われわれの知性は個 (singularia) を認識するのか (a.2) われわれの知性は無限なものを認識できるのか (a.3) 知性は偶然的なことがら (contingentia) を認識できるものであるのか (a.4) われわれの知性は未来のことがらを認識するか

7 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -36- テキスト 1 Utrum quinque genera potentiarum animae sint distinguenda. Genera vero potentiarum animae distinguuntur secundum obiecta. Quanto enim potentia est altior, tanto respicit universalius obiectum, ut supra dictum est. Obiectum autem operationis animae in triplici ordine potest considerari. Alicuius enim potentiae animae obiectum est solum corpus animae unitum. Et hoc genus potentiarum animae dicitur vegetativum, non enim vegetativa potentia agit nisi in corpus cui anima unitur. Est autem aliud genus potentiarum animae, quod respicit universalius obiectum, scilicet omne corpus sensibile; et non solum corpus animae unitum. Est autem aliud genus potentiarum animae, quod respicit adhuc universalius obiectum, scilicet non solum corpus sensibile, sed universaliter omne ens. Ex quo patet quod ista duo secunda genera potentiarum animae habent operationem non solum respectu rei coniunctae, sed etiam respectu rei extrinsecae. Cum autem operans oporteat aliquo modo coniungi suo obiecto circa quod operatur, necesse est extrinsecam rem, quae est obiectum operationis animae, secundum duplicem rationem ad animam comparari. Uno modo, secundum quod nata est animae coniungi et in anima esse per suam similitudinem. Et quantum ad hoc, sunt duo genera potentiarum, scilicet sensitivum, respectu obiecti minus communis, quod est corpus sensibile; et intellectivum, respectu obiecti communissimi, quod est ens universale. Alio vero modo, secundum quod ipsa anima inclinatur et tendit in rem exteriorem. Et secundum hanc etiam comparationem, sunt duo genera potentiarum animae, unum quidem, scilicet appetitivum, secundum quod anima comparatur ad rem extrinsecam ut ad finem, qui est primum in intentione; aliud autem motivum secundum locum, prout anima comparatur ad rem exteriorem sicut ad terminum operationis et motus; ad consequendum enim aliquod desideratum et intentum, omne animal movetur. (Summa theologiae I, q.78, Corpus) 魂の五つの種類の能力を区別すべきであるかだが 魂の能力の種類は対象によって区別される すなわち 先の述べたように 能力がより高い能力であればあるほどそれだけより普遍的な対象と関わる ところで 魂のはたらきの対象は三つの秩序のもとに考察される 魂のある種の能力の場合には その対象は魂と合一した物体 [ 身体 ] だけであり この種の能力は 栄養摂取的 と呼ばれる 栄養摂取的能力は魂が合一している物体 [ 身体 ] においてしか作用しないからである だが 魂には別の種類の能力があって それはより普遍的な対象すなわち可感的物体のすべてに関わるのであって 魂と合一した物体とだけ関わるわけではないのである だが魂のさらに別の種類の能力があって それはいっそう普遍的な対象に すなわち可感的物体だけではなく普遍的にすべての存在者に関わるのである 以上から明らかなように 後者二つの種類の魂の能力は [ 自己に ] 結合した事物だけではなく 外的事物にもかかわるはたらきを有している ところで はたらきを為すものはそれに関してはたらきを為している自己の対象と何らかの仕方で結合していなければならないのであるから 魂のはたらきの対象である外的事物と魂とは二つの観点で関係づけられるのでなければならない その一つは その対象が本来的に魂と結合し 自己の類似性を通じて魂のうちに存在するという観点である この観点で二つの種類の能力がある つまり 一つは可感的物体という共通性の程度が少ない対象に関して可感的能力があり 他に普遍的存在者という最も共通的な対象に関して知性的能力があるのである

8 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -37- もう一つは 魂それ自体が外的対象へと傾き志向するという観点である そしてこの関係においても 魂には二つの種類の能力がある つまり 一つは欲求能力であり これは魂が志向において第一のものである目的としての外的事物に関係づけられることによるのである もう一つは場所的運動能力である これは魂がはたらきと運動の終局としての外的事物と関係づけられることによるのである 実際 どんな動物も 何か欲求し意図するものを追い求めて 運動するのである ( 参照 : アリストテレス 魂について 第 2 巻 3 章 414a29-32) テキスト 2... appetitus naturalis est inclinatio cuiuslibet rei in aliquid, ex natura sua, unde naturali appetitu quaelibet potentia desiderat sibi conveniens. Sed appetitus animalis consequitur formam apprehensam. Et ad huiusmodi appetitum requiritur specialis animae potentia, et non sufficit sola apprehensio. Res enim appetitur prout est in sua natura, non est autem secundum suam naturam in virtute apprehensiva, sed secundum suam similitudinem. Unde patet quod visus appetit naturaliter visibile solum ad suum actum, scilicet ad videndum, animal autem appetit rem visam per vim appetitivam, non solum ad videndum, sed etiam ad alios usus. (Summa theologiae I, q.78, a.1, ad 3) 自然本性的欲求とは どんな事物でもそれの自然本性から持っている 何らかのものへの傾向性である だから どの種の能力でもその自然本性的欲求によって 自己に適合するものを欲するのである だが 動物的欲求は把握された形相を追い求める そして このような欲求には魂の特殊な能力が要求されるのであって 把握だけでは十分ではない というのは 事物が欲求されるのは その事物がそれ自身の自然本性において存在している限りにおいてであるのだが 事物が把握力のうちに存在するのは事物の自然本性にそくしてではなく それの類似にそくしてなのである だから 明らかなことであるが 視覚は自然本性的に可視的なものを欲求するが それは視覚の活動すなわち見ることに関してだけであるが それに対して動物が欲求力によって視られた事物を欲求するのは 単に視るためだけではなく 何か他の益のためでもあるのである

9 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -38- 神学大全 第 1 部第 84 問 - 第 86 問細目次 第 84 問 :[ 身体と ] 結合した魂は自己より下位の物体的なものをどのように認識するか (a.1) 魂は物体を知性によって認識するか (a.2) 魂は物体を自己の本質を通じて知性認識するか (a.3) 魂はすべてのものを自己に自然本性的に備えられた形象を通じて知性認識するか (a.4) 可知的形象 (species intelligibilis) は何らかの分離形相から魂のうちに流入するのか (a.5) 知性的魂は質料的事物を永遠の理拠 (rationes aeternae) において認識するのか (a.6) 知性的認識は感覚的事物から受け取られるのか (a.7) 知性は表象像 (phantasma) への自己を向けることなしに 自己のもとにある可知的形象を通じて現実に知性認識し得るのか (a.8) 知性の判断は感覚の機能停止によって妨げられるか 第 85 問 : 知性認識の様態と秩序について (a.1) われわれの知性は物体的で質料的事物を表象像からの抽象 (abstractio) を通じて知性認識するのか (a.2) 表象像から抽象された可知的形象はわれわれの知性に対して 知性認識されるものとして関係しているのか (a.3) われわれの知性的認識においてはいっそう普遍的なものの方がより先であるのか (a.4) われわれは複数のものを同時に知性認識できるのか (a.5) われわれの知性は複合 分割すること (componendo et dividendo) によって知性認識するのか (a.6) 知性は偽であり得るか (a.7) 同一の事物を或る人が他の人よりもよりよく知性認識することができるのか (a.8) 知性は可分的なものよりも不可分的なものをさきに知性認識するのか 第 86 問 : われわれの知性は物質的事物の何を認識するのか (a.1) われわれの知性は個 (singularia) を認識するのか (a.2) われわれの知性は無限なものを認識できるのか (a.3) 知性は偶然的なことがら (contingentia) を認識できるものであるのか (a.4) われわれの知性は未来のことがらを認識するか

10 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -39- テキスト 3 Utrum intellectus possit actu intelligere per speciem intelligibiles quas penes se habet, non convertendo se ad phantasmata. Respondeo dicendum quod impossibile est intellectum nostrum, secundum praesentis vitae statum, quo passibili corpori coniungitur, aliquid intelligere in actu, nisi convertendo se ad phantasmata. ( ) Huius autem ratio est, quia potentia cognoscitiva proportionatur cognoscibili. Unde intellectus angelici, qui est totaliter a corpore separatus, obiectum proprium est substantia intelligibilis a corpore separata; et per huiusmodi intelligibilia materialia cognoscit. Intellectus autem humani, qui est coniunctus corpori, proprium obiectum est quidditas sive natura in materia corporali existens; et per huiusmodi naturas visibilium rerum etiam in invisibilium rerum aliqualem cognitionem ascendit. De ratione autem huius naturae est, quod in aliquo individuo existat, quod non est absque materia corporali, sicut de ratione naturae lapidis est quod sit in hoc lapide, et de ratione naturae equi quod sit in hoc equo, et sic de aliis. Unde natura lapidis, vel cuiuscumque materialis rei, cognosci non potest complete et vere, nisi secundum quod cognoscitur ut in particulari existens. Particulare autem apprehendimus per sensum et imaginationem. Et ideo necesse est ad hoc quod intellectus actu intelligat suum obiectum proprium, quod convertat se ad phantasmata, ut speculetur naturam universalem in particulari existentem. (Summa theologiae I, q.84, Corpus) 知性は表象像への自己を向けることなしに 自己のもとにある可知的形象を通じて現実に知性認識し得るのか現在の生の状態によれば われわれの知性は受動的な身体と結合しているので 何かを現実態において知性認識するのは 自己を表象像に向けているのでなければ不可能である ( 中略 ) さて この理由は以下の通りである 認識能力は認識されうるもの [ 対象 ] と釣り合っている それゆえ 天使の知性は全面的に物体から分離しているので その知性の固有対象は物体から分離した可知的実体なのである そして天使の知性はこのような可知的なものを通じて物質的なものを認識する それに対して 人間知性は身体と結合しているので その固有対象は物体的質料の内に現存する何性あるいは本性なのである そして そのような可視的事物の本性を通じて不可視的事物の何らかの認識にまで高まってゆくのである ところで このような [ 物質的な ] 本性の特質とは 何らかの個のうちに現存するということであって その個は物体的質料なしには存在しないのである 例えば この石のうちに存在するということが石の本性の特質であるし この馬のうちに存在するということが馬の本性の特質なのである その他のものもそうである それゆえ 石や質料的事物のどれをとっても その本性が完全に真の意味で認識されるのは その本性が個別のうちに現存するものとして認識される限りにおいてでしかないのである ところで 個別をわれわれは感覚と想像力を通じて把握する それゆえ 知性が自己の固有対象を現実態において認識するためには 自己を表象像へと向け 普遍的本性を個別のうちに現存するものとして観ることが必要なのである

11 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -40- テキスト 4 Utrum sit ponere intellectum agentem. Respondeo dicendum quod, secundum opinionem Platonis, nulla necessitas erat ponere intellectum agentem ad faciendum intelligibilia in actu; sed forte ad praebendum lumen intelligibile intelligenti, ut infra dicetur. Posuit enim Plato formas rerum naturalium sine materia subsistere, et per consequens eas intelligibiles esse, quia ex hoc est aliquid intelligibile actu, quod est immateriale. Et huiusmodi vocabat species, sive ideas, ex quarum participatione dicebat etiam materiam corporalem formari, ad hoc quod individua naturaliter constituerentur in propriis generibus et speciebus; et intellectus nostros, ad hoc quod de generibus et speciebus rerum scientiam haberent. Sed quia Aristoteles non posuit formas rerum naturalium subsistere sine materia; formae autem in materia existentes non sunt intelligibiles actu, sequebatur quod naturae seu formae rerum sensibilium, quas intelligimus, non essent intelligibiles actu. Nihil autem reducitur de potentia in actum, nisi per aliquod ens actu, sicut sensus fit in actu per sensibile in actu. Oportebat igitur ponere aliquam virtutem ex parte intellectus, quae faceret intelligibilia in actu, per abstractionem specierum a conditionibus materialibus. Et haec est necessitas ponendi intellectum agentem. (Summa theologiae I, q.79, a.3 Corpus) 能動知性を措定すべきであるのか プラトンの見解によるならば 可知的なものを現実態にするためには能動知性を措定する必要は少しもないであろう 必要があるとすれば 以下において述べられるように それはおそらく知性認識者に可知的な光を与えるためであろう というのも プラトンは自然物の形相が質料なしに自存すると考えた したがって 非質料的であることが何かが現実態において可知的であることの理由である故に そのような [ 自然物の ] 形相が可知的であると考えたからである そしてこのような形相を形象あるいはイデアと呼んだのであり そのイデアを分有することによって [ 一方で ] 物体的質料も形成されて個物がそれ固有の類と種とにおいて自然本性的に構成される また [ 他方では その分有によって ] われわれの知性も形成されて 事物の類と種についての知識をもつようになる このようにプラトンは述べたのである だがアリストテレスは 自然物の形相は質料なしに自存するとは考えなかった だが 質料のうちに実在している形相は現実態において可知的ではない だから われわれが知性認識している可感的事物の本性あるいは形相は現実態において可知的ではないという帰結になったのである さて どんなものでも現実態にあるなんらかの存在者を通じてでなければ 可能態から現実態に引き出されることはない よって 知性の側に何らかのちからを措定し それが質料的諸条件から形象を抽象することを通じて 現実態において可知的なものを作り出すのでなければならなかったのである そしてこれが能動知性を措定する必要性なのである

12 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -41- テキスト 5 Utrum intellectiva cognitio accipiatur a rebus sensibilibus. Intellectum vero posuit Aristoteles habere operationem absque communicatione corporis. Nihil autem corporeum imprimere potest in rem incorpoream. Et ideo ad causandam intellectualem operationem, secundum Aristotelem, non sufficit sola impressio sensibilium corporum, sed requiritur aliquid nobilius, quia agens est honorabilius patiente, ut ipse dicit. Non tamen ita quod intellectualis operatio causetur in nobis ex sola impressione aliquarum rerum superiorum, ut Plato posuit, sed illud superius et nobilius agens quod vocat intellectum agentem, de quo iam supra diximus, facit phantasmata a sensibus accepta intelligibilia in actu, per modum abstractionis cuiusdam. Secundum hoc ergo, ex parte phantasmatum intellectualis operatio a sensu causatur. Sed quia phantasmata non sufficiunt immutare intellectum possibilem, sed oportet quod fiant intelligibilia actu per intellectum agentem; non potest dici quod sensibilis cognitio sit totalis et perfecta causa intellectualis cognitionis, sed magis quodammodo est materia causae. (Summa theologiae I, q.84, a.6 Corpus) 知性的認識は可感的事物から受け取られるのかそれに対して [ デモクリトスとちがって ] アリストテレスは知性は身体との交流のないはたらきを持つと考えた だが 物体的なもののどんなものも非物体的なものに自己を刻印づけることはできない それゆえ アリストテレスによるならば 知性的はたらきの原因となるには 可感的物体の刻印だけでは十分ではなく なにかより高貴なものが必要とされる アリストテレス自身が言っているように 作用をなすものは作用を受けるものよりもより誉められるべきものだからである とはいっても プラトンが考えたような意味において われわれにおける知性的はたらきの原因となるのは何らかの上位の事物の刻印だけであるということではない そうではなく 先にすでにわれわれが述べた能動知性とアリストテレスが呼ぶ上位のより高貴な作用者が 感覚から受け取られた表象像を 何らかの抽象という仕方で 現実態において可知的なものとするという意味なのである それゆえこれに従えば 知性的はたらきというものは 表象像の側からはその原因は感覚であることになる しかし 表象像は可能知性を変化させるには十分ではなく 能動知性によって現実態において可知的なものとなることが必要なのであるから 感覚的認識が知性的認識の全体的で完全な原因であると言うことはできず むしろ感覚的認識はある意味で原因の質料なのである

13 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -4: 人間存在と認識 -42- テキスト 6 Utrum species intelligibiles a phantasmatibus abstractae, se habeant ad intellectum nostrum sicut id quod intelligitur. Et ideo dicendum est quod species intelligibilis se habet ad intellectum ut quo intelligit intellectus. Quod sic patet. Cum enim sit duplex actio, sicut dicitur IX Metaphys., unaquae manet in agente, ut videre et intelligere, altera quae transit in rem exteriorem, ut calefacere et secare; utraque fit secundum aliquam formam. Et sicut forma secundum quam provenit actio tendens in rem exteriorem, est similitudo obiecti actionis, ut calor calefacientis est similitudo calefacti; similiter forma secundum quam provenit actio manens in agente, est similitudo obiecti. Unde similitudo rei visibilis est secundum quam visus videt; et similitudo rei intellectae, quae est species intelligibilis, est forma secundum quam intellectus intelligit. Sed quia intellectus supra seipsum reflectitur, secundum eandem reflexionem intelligit et suum intelligere, et speciem qua intelligit. Et sic species intellectiva secundario est id quod intelligitur. Sed id quod intelligitur primo, est res cuius species intelligibilis est similitudo. (Summa theologiae I, q.85, a.2 Corpus) 表象像から抽象された可知的形象は われわれの知性に対して< 知性認識されるもの>として関係しているのかそれゆえ 可知的形象は知性に対して<それによって知性が知性認識するもの>として関係していると言わねばならず このことは次のようにして明らかである 形而上学 9 巻において述べられているように 作用には二種がある 一つは作用者のうちにとどまる作用であり 見ることや知性認識することがその例である もう一つは外的な事物へと移りゆく作用であり 熱くすることや切ることがその例である だが どちらの作用も何らかの形相にそくして生じるのである そして 外的事物へと向かう作用がそれにそくして生起する形相は 作用の対象の類似である たとえば 熱くしているものの熱は熱くされるものの類似なのである それと同様に 作用者のうちにとどまる作用がそれにそくして生起する形相も対象の類似なのである それゆえ 視覚がそれにそくして見る [ という作用をなす ] のは可視的事物の類似であり 知性がそれにそくして知性認識する形相とは知性認識される事物の類似なのであり その類似が可知的形象なのである とはいえ 知性は自分自身に対して反省作用をおこなうので 同じ反省作用にそくして自分が知性認識していること自体をも知性認識するのである だからこの意味で可知的形象は二次的な意味では< 知性認識されるもの>ではある しかしながら 第一義的な意味で< 知性認識されるもの>とは事物であり 可知的形象はそれの類似なのである

14 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 幸福と行為 神学大全 第 2 部の構成 I. 人間の生の究極目的 (I-II, qq.1-5) II. 究極目的にそれによって到達する ( 逸れる ) もの (II 部の残り ) 一般的に 個別的に (I-II) (II-II) 神学大全 第 2-1 部の構成 (I) 人間の行為それ自体について (1) 人間に固有の行為 ( 意志的なことがら voluntarium) (qq.6-21) (2) 動物と共有する行為 ( 情念 passiones) (qq.22-48) (II) 人間の行為の原理について (1) 内在的原理 (A) 習慣一般 (habitus) (qq.49-54) (B) 善き習慣 a) 徳 (virtus) (qq.55-67) b) 聖霊の賜物 (q.68) c) さまざまな至福 (q.69) d) 聖霊の享受 (q.70) (C) 悪しき習慣 = 悪徳 (vitium) と罪 (peccatum) (qq.71-89) (2) 外在的原理 (A) 法 (lex) a) 法一般について (qq.90-92) b) 永遠法 (lex aeterna) (q.93) c) 自然法 (lex naturalis) (q.94) d) 人間の ( 人定 ) 法 (lex humana) (qq.96-97) e) 旧法 (qq ) f) 新法 ( 福音の法 ) (qq ) (B) 恩寵 (gratia) (qq )

15 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -44- 神学大全 第 2-1 部第 1 問 第 5 問細目次 第 1 問 : 人間の究極目的について (a.1) 目的のために行為するということは人間に適合するか (a.2) 目的のために行為すると言うことは理性的本性に固有なことであるか (a.3) 人間の行為の種類は目的から得られるのか (a.4) 人間の生には何らかの究極目的があるのか (a.5) 一人の人間に複数の目的があり得るのか (a.6) 人間は自分が意志していることのすべてを究極目的のために意志しているのか (a.7) 万人に一つの究極目的があるのか (a.8) その [ 人間の ] 究極目的において他の被造物も合致するのか 第 2 問 : 人間の至福は何に存するのか (a.1) 人間の至福は金銭に存するのか (a.2) 人間の至福は名誉 (honor) に存するのか (a.3) 人間の至福は栄誉あるいは栄光 (fama seu gloria) に存するのか (a.4) 人間の至福は権力に存するのか (a.5) 人間の至福は何らかの身体的善さに存するのか (a.6) 人間の至福は快楽に存するのか (a.7) 人間の至福は魂の何らかの善さに存するのか (a.8) 人間の至福は何らかの被造的善さに存するのか 第 3 問 : 至福とは何か (a.1) 至福とは何か非被造のものであるか (a.2) 至福ははたらき (operatio) であるか (a.3) 至福は感覚的部分のはたらきであるのか それとも知性的部分だけのはたらきであるのか (a.4) もし至福が知性的部分に属するとすると 知性のはたらきであるのか それとも意志のはたらきであるのか (a.5) 至福は観想的知性のはたらきであるのか それとも実践的知性のはたらきであるのか (a.6) 至福は観想的諸学の考察に存するのか (a.7) 至福は分離実体すなわち天使を認識することに存するのか

16 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -45- (a.8) 人間の至福は神の本質の直視 (visio) に存するのか 第 4 問 : 至福のために必要とされることがらについて (a.1) 至福には喜び (delectatio) が必要とされるか (a.2) 至福においてより主要なのは喜びよりも直視であるか (a.3) 至福には把捉 (comprehensio) が必要であるか (a.4) 至福には意志の正しさ (rectitudo) が必要であるか (a.5) 人間の至福には身体が必要であるか (a.6) 至福には身体の何らかの完全性が必要であるか (a.7) 至福には何らかの外的善が必要であるか (a.8) 至福には友人の交わり (societas) が必要であるか 第 5 問 : 至福の獲得について (a.1) 人間は至福を得ることができるのか (a.2) 或る人間が別の人間よりもより至福であることができるか (a.3) この世で至福であり得る人はいるのか (a.4) 所有されている至福を手放すことはできるのか (a.5) 人間は自分の自然本性によって至福を獲得することができるのか (a.6) 人間は何らかの上位の被造物の作用を通じて至福を得るのか (a.7) 人間が神から至福を得るためには何らかの善き業が必要とされるのか (a.8) すべての人間は至福を欲しているのか

17 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -46- テキスト 1 Utrum homini conveniat agere propter finem. Respondeo dicendum quod actionum quae ab homine aguntur, illae solae proprie dicuntur humanae, quae sunt propriae hominis inquantum est homo. Differt autem homo ab aliis irrationalibus creaturis in hoc, quod est suorum actuum dominus. Unde illae solae actiones vocantur proprie humanae, quarum homo est dominus. Est autem homo dominus suorum actuum per rationem et voluntatem: unde et liberum arbitrium esse dicitur facultas voluntatis et rationis. Illae ergo actiones proprie humanae dicuntur, quae ex voluntate deliberata procedunt. Si quae autem aliae actiones homini conveniant, possunt dici quidem hominis actiones; sed non proprie humanae, cum non sint hominis inquantum est homo. Manifestum est autem quod omnes actiones quae procedunt ab aliqua potentia, causantur ab ea secundum rationem sui obiecti. Obiectum autem voluntatis est finis et bonum. Unde oportet quod omnes actiones humanae propter finem sint. (Summa theologiae I-II, q.1, a.1 Corpus) 目的のために行為する (agere) ということは人間に適合するか次のように答えるべきである 人間によってなされる諸行為 (actiones) のうちで 固有の意味で 人間的な 行為と言われるのは人間である限りでの人間に固有な行為だけである ところで 人間が他の非理性的被造物と異なるのは 人間は自己の行為の主であるという点においてである それゆえ 固有の意味で 人間的な 行為と呼ばれるのは 人間がその行為の主であるような行為だけなのである さて 人間が自己の行為の主であるのは理性と意志を通じてである だから自由決定力も意志と理性の能力であると言われるのである それゆえ 固有の意味で 人間的な 行為と言われるのは 熟慮された意志に発する行為のことである だが 何か他の行為が人間に適合するとした場合には それらが 人間の 行為であると言われることは可能であるが 固有の意味では 人間的な 行為ではないのである なぜなら それらの行為は人間である限りでの人間に属しているのではないからである さて 何らかの能力に発する行為のすべてについて その能力を対象の観点において原因としてもつことは明らかである ところが 意志の対象は目的であり善である それゆえ 人間的な行為のすべては目的のためにあるのである テキスト 2 Utrumunius hominis possint esse plures ultimos fines. Respondeo dicendum quod impossibile est quod voluntas unius hominis simul se habeat ad diversa, sicut ad ultimos fines. Cuius ratio potest triplex assignari. Prima est quia, cum unumquodque appetat suam perfectionem, illud appetit aliquis ut ultimum finem, quod appetit, ut bonum perfectum et completivum sui ipsius. ( ) Oportet igitur quod ultimus finis ita impleat totum hominis appetitum, quod nihil extra ipsum appetendum relinquatur. Quod esse non potest, si aliquid extraneum ad ipsius perfectionem requiratur. Unde non potest esse quod in duo sic tendat appetitus, ac si utrumque sit bonum perfectum ipsius. Secunda ratio est quia, sicut in processu rationis principium est id quod naturaliter cognoscitur, ita in processu rationalis appetitus, qui est voluntas, oportet esse principium id quod naturaliter desideratur.

18 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -47- Hoc autem oportet esse unum, quia natura non tendit nisi ad unum. Principium autem in processu rationalis appetitus est ultimus finis. Unde oportet id in quod tendit voluntas sub ratione ultimi finis, esse unum. (Summa theologiae I-II, q.1, a.5 Corpus) 一人の人間に複数の究極目的はあり得るか次のように答えるべきである 一人の人間の意志が異なった [ 複数の ] ものを究極目的とすることは不可能である この根拠は三つを指定することができる 第一 それぞれのものは自己の完成を欲求しているから 或る人が自分の欲求しているものを究極目的として欲求するのは その究極目的を完全な善であり自己自身を充足させる善としてである ( 中略 ) それゆえ 究極目的とは人間の欲求全体を充たすものであり その外に何も欲求されるべきものが残らないものでなければならない 自己の完成のために何か外的なものが必要とされるならば このようにはなり得ないのである それゆえ 欲求が二つのものの両方が自己の完成された善であるものとしてそれらへと志向することはあり得ないのである 第二の理由 理性の歩みにおける原理 [ はじまり ] は自然本性的に認識されるものであるが それと同じように意志という理性的欲求の歩みにおいて原理 [ はじまり ] であるのは自然本性的に欲せられるものである だが これは一つのものでなければならない なぜなら 自然は一つのものにしか志向しないからである ところが 理性的欲求の歩みにおける原理 [ はじまり ] とは究極目的である それゆえ 意志が究極目的の観点で志向するものとは一つでなければならないのである ( 後略 ) テキスト 3 Utrum sit unus ultimus finis omnium hominum. Respondeo dicendum quod de ultimo fine possumus loqui dupliciter, uno modo, secundum rationem ultimi finis; alio modo, secundum id in quo finis ultimi ratio invenitur. Quantum igitur ad rationem ultimi finis, omnes conveniunt in appetitu finis ultimi, quia omnes appetunt suam perfectionem adimpleri, quae est ratio ultimi finis, ut dictum est. Sed quantum ad id in quo ista ratio invenitur, non omnes homines conveniunt in ultimo fine, nam quidam appetunt divitias tanquam consummatum bonum, quidam autem voluptatem, quidam vero quodcumque aliud. Sicut et omni gustui delectabile est dulce, sed quibusdam maxime delectabilis est dulcedo vini, quibusdam dulcedo mellis, aut alicuius talium. Illud tamen dulce oportet esse simpliciter melius delectabile, in quo maxime delectatur qui habet optimum gustum. Et similiter illud bonum oportet esse completissimum, quod tanquam ultimum finem appetit habens affectum bene dispositum. (Summa theologiae I-II, q.1, a.7 Corpus) 万人に一つの究極目的があるのか次のように答えるべきである 究極目的については二通りの語り方が可能である 一つは 究極目的の特質に即してであり もう一つは究極目的の特質が何において見いだされるかに即してである それゆえ 究極目的の特質に関しては 万人は究極目的への欲求という点で一致している なぜなら 万人は自己の完成を満足させることを欲しているからであり その自己の完成が記述のように究極目的の特質なのである それに対して この特質が何の内に見いだされるかということに関しては 万人が究極目的において一致しているわけではない というのも 充たされた善として富を欲求する人もいれば 快楽を欲する人もいるし 何か他のものを欲する人もいるからである それはちょうど どんな味覚にとっても甘いものが快いのであるにしても 或る人にとってはワインの甘さが最も快く 或る人にとては蜜の甘さや何かそのようなものが最も快いようなものである そうであるにしても 甘いもので端的な意味でより快いものとは

19 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -48- 最善の味覚を有している人が最も快を感じる甘いもののことなのである それと同様に 最も充足的な善とはよく状態づけられた感情を持つ人が究極目的として欲求しているような善なのである テキスト 4 Utrum in illo ultimo fine aliae creaturae conveniant. Respondeo dicendum quod, sicut Philosophus dicit in II Physic. et in V Metaphys., finis dupliciter dicitur, scilicet cuius, et quo, idest ipsa res in qua ratio boni invenitur, et usus sive adeptio illius rei. Sicutsidicamusquodmotuscorporisgravisfinis est vel locus inferior ut res, vel hoc quod est esse in loco inferiori, ut usus, et finis avari est vel pecunia ut res, vel possessio pecuniae ut usus. Si ergo loquamur de ultimo fine hominis quantum ad ipsam rem quae est finis, sic in ultimo fine hominis omnia alia conveniunt, quia Deus est ultimus finis hominis et omnium aliarum rerum. Si autem loquamur de ultimo fine hominis quantum ad consecutionem finis, sic in hoc fine hominis non communicant creaturae irrationales. Nam homo et aliae rationales creaturae consequuntur ultimum finem cognoscendo et amando Deum, quod non competit aliis creaturis, quae adipiscuntur ultimum finem inquantum participant aliquam similitudinem Dei, secundum quod sunt, vel vivunt, vel etiam cognoscunt. (Summa theologiae I-II, q.1, a.8 Corpus) その究極目的において [ 人間以外の ] 他の被造物も一致しているのか次のように答えるべきである 哲学者 [ アリストテレス ] が 自然学 第 2 巻と 形而上学 第 5 巻で述べているように 目的は二通りに語られる つまり その [ 目的 ] と そこにおける [ 目的 ] すなわち善の特質がそこに見いだされる事物とその事物の使用あるいは獲得の二つである 実際 われわれは重い物体の運動の目的は 事物としては 低い場所 であるとも語るし 使用としては 低い場所に存在すること とも語る また どん欲な人の目的は事物としては金銭であり使用としては金銭の所有であると語るのである それゆえ 目的である事物に関して人間の究極目的について語る場合には 人間の究極目的において他のすべてのものが一致するのである なぜなら 人間の究極目的と他のすべての事物の究極目的はともに神だからである それに対して 目的の追求に関して人間の究極目的について語る場合には この人間の目的において非理性的被造物は共通ではない というのは 人間や他の理性的被造物は究極目的を神を認識し愛することによって追究するのだが このことは他の被造物には適合しない 他の被造物は究極目的を得ようとしているが それはそれが存在し 生き あるいは認識をするという限りにおいて 何らかの神の類似を分有している限りにおいてのことだからである

20 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -49- テキスト 5 Utrum beatitudo sit operatio. Praeterea, beatitudo permanet in beato. Operatio autem non permanet, sed transit. Ergo beatitudo non est operatio. Ad quartum dicendum quod, cum beatitudo dicat quandam ultimam perfectionem, secundum quod diversae res beatitudinis capaces ad diversos gradus perfectionis pertingere possunt, secundum hoc necesse est quod diversimode beatitudo dicatur. Nam in Deo est beatitudo per essentiam, quia ipsum esse eius est operatio eius, qua non fruitur alio, sed seipso. In Angelis autem beatis est ultima perfectio secundum aliquam operationem, qua coniunguntur bono increato, et haec operatio in eis est unica et sempiterna. In hominibus autem, secundum statum praesentis vitae, est ultima perfectio secundum operationem qua homo coniungitur Deo, sed haec operatio nec continua potest esse, et per consequens nec unica est, quia operatio intercisione multiplicatur. Et propter hoc in statu praesentis vitae, perfecta beatitudo ab homine haberi non potest.( 中略 ) Quantum ergo ad illam beatitudinem perfectam, cessat obiectio, quia una et continua et sempiterna operatione in illo beatitudinis statu mens hominis Deo coniungetur. Sed in praesenti vita, quantum deficimus ab unitate et continuitate talis operationis, tantum deficimus a beatitudinis perfectione. Est tamen aliqua participatio beatitudinis, et tanto maior, quanto operatio potest esse magis continua et una. Et ideo in activa vita, quae circa multa occupatur, est minus de ratione beatitudinis quam in vita contemplativa, quae versatur circa unum, idest circa veritatis contemplationem. ( 後略 ) (Summa theologiae I-II, q.2, a.3 arg 4 et ad 4) 至福ははたらきであるのか [ 異論 4] さらに 至福は至福なるもののうちにとどまるものである ところが はたらきはとどまるのではなく 過ぎ去るものである それゆえ 至福ははたらきではない [ 異論解答 4] 第 4 に対しては次のように言うべきである 至福は何らかの究極的完全性を意味するのであるから 至福を受け入れる様々な事物が完全性の様々な段階に達しうるということに即して 至福はさまざまに語られるのである 実際 神において至福は本質によって存在する なぜなら 神の存在そのものがそのはたらきであり そのはたらきによって神は他のものを享受するのではなく自分自身を享受するのである また 至福なる天使においては究極の完全性は何らかのはたらきに即して存在し そのはたらきによって天使は非被造の善と結びついているのである そしてこのはたらきは天使においては一つで永続的なものである それに対して この世の状態にある人間の場合には 究極の完全性はそれによって人間が神と結びつくはたらきに即して存在するが このはたらきは連続的ではあり得ないし したがって一つでもない 断続的であることによって多数となるからである このことのために この世では人間は完全な至福を得られないのである ( 中略 ) それゆえそのような完全な至福に関しては 当の異論は当たらない なぜなら その至福の状態においては人間の精神は一つの 連続的で永続的なはたらきによって神と結びつくからである しかし 現在の生においては われわれはそのような一で連続的なはたらきを欠く限りにおいて 至福の完全性を欠いているのである とはいえ [ 不完全な至福も完全な ] 至福の何らかの分有である だから はたらきがより連続的で一であればあるほどいっそう至福なのである だから 多くのことに関わり合う活動的生の方が 一つのことつまり真理の観照に関わる観照的生よりも 至福の特質をより少なく持っているのである ( 後略 )

21 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -50- テキスト 6 Utrum beatitudo hominis sit in visione divinae essentiae. Respondeo dicendum quod ultima et perfecta beatitudo non potest esse nisi in visione divinae essentiae. Ad cuius evidentiam, duo consideranda sunt.primo quidem, quod homo non est perfecte beatus, quandiu restat sibi aliquid desiderandum et quaerendum. Secundum est, quod uniuscuiusque potentiae perfectio attenditur secundum rationem sui obiecti. Obiectum autem intellectus est quod quid est, idest essentia rei, ut dicitur in III de anima. Unde intantum procedit perfectio intellectus, inquantum cognoscit essentiam alicuius rei. Si ergo intellectus aliquis cognoscat essentiam alicuius effectus, per quam non possit cognosci essentia causae, ut scilicet sciatur de causa quid est; non dicitur intellectus attingere ad causam simpliciter, quamvis per effectum cognoscere possit de causa an sit. Et ideo remanet naturaliter homini desiderium, cum cognoscit effectum, et scit eum habere causam, ut etiam sciat de causa quid est. Et illud desiderium est admirationis, et causat inquisitionem, ut dicitur in principio Metaphys. ( 中略 ) Si igitur intellectus humanus, cognoscens essentiam alicuius effectus creati, non cognoscat de Deo nisi an est; nondum perfectio eius attingit simpliciter ad causam primam, sed remanet ei adhuc naturale desiderium inquirendi causam. Unde nondum est perfecte beatus. Ad perfectam igitur beatitudinem requiritur quod intellectus pertingat ad ipsam essentiam primae causae. Et sic perfectionem suam habebit per unionem ad Deum sicut ad obiectum, in quo solo beatitudo hominis consistit, ut supra dictum est. (Summa theologiae I-II, q.3, a.8 Corpus) 人間の至福は神の本質の直視に存するのか次のように答えるべきである 究極的で完全な至福は神の本質の直視においてしかあり得ない このことを明らかにするためには二つのことを考察すべきである 第 1 には 人間は欲求し探求すべきものがなにか自分に残っている限り完全な意味で至福ではないということである 第 2 には どのような能力であってもその完全性は対象の観点で認められるということである さて 魂について 第 3 巻で述べられているように 知性の完全性は 何であるのかということ つまり事物の本質である それゆえ 知性の完全性が現れてくるのは何らかの事物の本質を認識している限りにおいてなのである したがって 何らかの知性が何らかの結果の本質を認識しているが 原因の本質はその結果の本質によっては認識され得ないという場合 すなわち 原因について 何であるのか が知られていない場合には その知性は結果を通じて原因の あるかどうか を認識し得るにしても 端的な意味で原因に到達しているとは言われない だから 人間が結果を認識し 結果が原因を有していることを知っているときにも 原因について 何であるのか を知りたいという欲求は残っているのは自然本性的なことなのである そして 形而上学 の冒頭で語られているように この欲求は驚きに属し 探求の原因となるのである ( 中略 ) したがって 人間知性は被造の何らかの結果の本質を認識しながら 神について あるかどうか しか認識しない場合には その完全性は端的な意味では第 1 原因に達しているのではなく 人間知性には原因を探求しようという自然本性的欲求がまだ残っているのである だからまだ完全な意味で至福ではないのである それゆえ 完全な至福のためには知性が第 1 原因の本質にまで達することが要求されるのである 先に述べられたように人間の至福が存しているのは神においてのみであるから その神を対象として以上の意味で合一することによって知性は自己の完全性を有することになるのである

22 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -51- テキスト 7 Utrum ad beatitudinem requiratur rectitudo voluntatis. omnis actus voluntatis praeceditur ab aliquo actu intellectus: aluquis tamen actus voluntatis est prior quam aliquis actus intellectus. Voluntas enim tendit in finalem actum intellectus, qui est beatitudo. Et ideo recta inclinatio voluntatis praeexigitur ad beatitudinem, sicut rectus motus sagittae ad percussionem signi. (Summa theologiae I-II, q.4, a.4 ad 2) 至福には意志の正しさが必要とされるか意志のすべての活動には知性の何らかの活動が先行する だが 意志の或る種の活動は知性の或る種の活動に先立っている 実際 至福という知性の目的となる活動へと向かうのは意志だからである それゆえ 意志の正しい傾向が至福には前もって要求されるのであり それは的に当たるには矢が正しく動くことが前もって要求されるようなものである テキスト 8 Utrum in humanis actibus inveniatur volutarium. non omne principium est principium primum. Licet ergo de ratione voluntarii sit quod principium eius sit intra, non tamen est contra rationem voluntarii quod principium intrinsecum causetur vel moveatur ab exteriori principio: quia non est de ratione voluntarii quod principium intrinsecum sit principium primum. Sed tamen sciendum quod contingit aliquod principium motus esse primum in genere, quod tamen non est primum simpliciter sicut in genere alterabilium primum alternas est corpus caeleste, quod tamen non est primum movens simpliciter, sed movetur motu locali a superiori movente. Sic igitur principium intrinsecum voluntarii actus, quod est vis cognoscitiva et appetitiva, est primum principium in genere appetitivi motus, quamvis moveatur ab aliquo exteriori secundum alias species motus. (Summa theologiae I-II, q.6, a.1 ad 2) 人間の行為には意志的なものが見出されるか原理のすべてが第一原理であるというわけではない それゆえ 意志的なものの概念にはそれの原理が内にあることが属しているにしても その内的な原理が外的な原理を原因としたり動かされたりするということは 意志的なものの概念に反しないのである その内的原理が第一原理であるということが意志的なものの概念には属していないからである とはいえ次のことは知っておかねばならない すあんわち 運動のある種の原理が類においては第一原理であるが 端的には第一原理ではないということは起こるのである たとえば 質的変化をするものの類において 質的変化を起こす第一のものは天体であるが それは端的な意味での第一動者ではなく 場所的運動の点でより上位の動者によって動かされているのである よってこの意味で 意志的な行為の内的原理とは認識力と欲求力であるが それは欲求的運動の類においては第一原理であるにしても 運動の別の種に関しては何らかの外的な原理によって動かされているのである

23 2006 年度 西洋中世哲学史講義 4 節 -5: 幸福と行為 -52- テキスト 9 Utrum voluntas moveatur a Deo solo sicut ab exteriori principio. Deus movet voluntatem hominis, sicut universalis motor, ad universale obiectum voluntatis, quod est bonum. Et sine hac universali motione homo non potest aliquid velle. Sed homo per rationem determinat se ad volendum hoc vel illud, quod est vere bonum vel apparens bonum. Sed tamen interdum specialiter Deus movet aliquos ad aliquid determinate volendum, quod est bonum: sicut in his quos movet per gratiam, ut infra dicetur. (Summa theologiae I-II, q.9, a.6 ad 3) 外的原理としては神だけが意志を動かすのか神が人間の意志を動かすのは普遍的動者としてであり 善という意志の普遍的対象へと動かすのである そして この普遍的な動かしがないならば 人間は何かを意志することが出来ないのである とはいえ 人間は理性によって [ 個別的な ] これとかあれとかを意志するように自己を決定するのであるが そのこれとかあれは本当の善であることもあるし見せかけの善であることもあるのである ただし 神は時に特別な仕方で 特定の人々が善である何かを限定的に意志するようにと動かすことことがある たとえば 後に述べられることになるが 恩寵によって神が動かしている人々の場合がそうなのである テキスト 10 Utrum voluntas moveatur de necessitate ab exteriori motivo quod est Deus sicut Dionysius dicit, 4 cap. de Div. Nom, ad providentiam divinam non pertinet naturam rerum corrumpere, sed servare. Unde omnia movet secundum eorum conditionem: ita quod ex causis necessariis per motionem divinam consequuntur effectus ex necessitate; ex causis autem contingentibus sequuntur effectus contingenter. Quia igitur voluntas est activum principium non determinatum ad unum, sed indifferenter se habens ad multa, sic Deus ipsam movet, quod non ex necessitate ad unum determinat, sed remanet motus eius contingens et non necessarius, nisi in his ad quae naturaliter movetur. (Summa theologiae I-II, q.10, a.4 Corpus) 意志は神という外的な動因によって必然的に動かされるのかディオニシウスが 神名論 第 4 章で述べているように 神の摂理に属しているのは 事物の本性を破壊することではなく 事物の本性を保存することなのである それゆえ 神は万物をその条件に応じて動かしている つまり 必然的原因から神の動かしを通じて必然的に結果が帰結するし 偶然的原因からは結果は偶然的に帰結するのである それゆえ 意志は能動的原理であり 一つに決定されているのではなく多なるものに無差別に関わっているのである以上 神は意志を動かすのではあるが 必然的に一つのものへと意志を決定するのではなくて 意志の運動は偶然的に非必然的なままにとどまるのである ただし 意志が自然本性的にそれへと動かされることがらの場合は除かねばならないが

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