聾巖李賢輔の隠逸生活

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1 聾 巖 李 賢 輔 における 帰 去 来 の 真 実 日 本 熊 本 大 学 朴 美 子 一 序 李 賢 輔 の 生 日 歌 并 序 ( 聾 巖 集 巻 三 )に 致 仕 投 閒 亦 過 一 紀 其 晩 年 去 就 逸 樂 行 迹 盡 于 此 三 短 歌 聊 書 以 自 誇 云 ( 致 仕 閒 に 投 じ 亦 た 一 紀 を 過 ぐ 其 れ 晩 年 の 去 就 行 迹 に 逸 楽 す るは 此 の 三 短 歌 に 尽 きたり 聊 か 書 して 以 て 自 ら 誇 るのみ) とある 官 職 を 辞 めてから 十 二 年 が 過 ぎて 晩 年 の 去 就 や 行 迹 に 逸 楽 したことが 三 短 歌 に 尽 きていると 述 べられている 三 短 歌 とは 効 嚬 歌 聾 巖 歌 生 日 歌 の 三 つの 短 歌 を 指 す 李 賢 輔 はこれらの 短 歌 に 人 生 のすべてを 表 し ていたと 言 っても 過 言 ではない 従 って この 三 つの 短 歌 を 通 して 李 賢 輔 の 帰 去 来 に 対 する 真 実 が 確 認 できると 考 えられる これまでの 研 究 論 文 の 多 くは 漁 夫 辞 に 関 するもの 陶 淵 明 及 び 効 嚬 歌 に 関 するもので ある (1) これらの 論 文 の 内 聾 巖 の 浪 漫 性 は 老 荘 思 想 から 出 たのではない と 述 べられているが (2) 李 賢 輔 の 友 人 の 詩 文 には 李 賢 輔 の 山 水 を 楽 しむ 姿 に 招 隠 を 思 わせる 老 荘 思 想 が 含 まれていること を 認 めたものが 見 られる また 効 嚬 歌 に 関 する 論 文 には 不 備 が 見 られる (3) さらに 効 嚬 歌 の 結 句 についての 解 釈 は 二 つに 分 かれているが 解 釈 が 分 かれる 理 由 は 効 嚬 にまつわる 典 故 の 追 究 が 不 十 分 であるためと 考 えられる 本 稿 では これらの 問 題 に 着 目 して 効 嚬 歌 聾 巖 歌 生 日 歌 を 具 体 的 に 分 析 し 究 明 することにより 李 賢 輔 の 生 き 方 帰 去 来 に 対 する 真 実 を 明 らか にしようと 思 う 二 三 短 歌 二 の 一 効 嚬 歌 効 嚬 歌 は 陶 淵 明 の 帰 去 来 辞 を 本 にした 作 である 効 嚬 歌 ( 聾 巖 集 巻 三 )に 歸 去 來 歸 去 來 말분이오가리업새, 田 園 이 將 蕪 하니아니가고엇델고, 草 堂 애 清 風 明 月 이나명들명기다리나니( 帰 去 来 帰 去 来 話 しだけで 行 く 人 はいない 田 園 があれようとしているのに 行 かなくてどうする 草 堂 に 清 風 明 月 が 出 没 して 待 っている(のに)) と 歌 う この 歌 は 漢 文 とハングルが 混 じっているが 研 究 者 の 間 では 結 句 の 草 堂 に 清 風 明 月 が 出 没 して 待 っている(のに) に 関 して いる と い るのに と 二 つの 分 かれた 解 釈 を 行 っている そのことについて 成 昊 慶 氏 は 一 つは 曖 昧 な 主 観 的 解 釈 で いま 一 つは 原 因 や 根 拠 を 持 つ 必 然 的 な 解 釈 であると 述 べる (4) しかし 分 かれた 二 つの 解 釈 を 解 明 するには この 詩 の 題 名 からその 根 源 を 探 らなくてはならない 効 嚬 は 莊 子 の 天 運 篇 第 十 四 に 見 える 言 葉 であり 荘 子 の 中 心 思 想 である 荘 子 の 天 其 れ 運 るか を 理 解 すること により 分 かれた 二 つの 解 釈 が 解 明 できる 莊 子 天 運 篇 に 故 西 施 病 心 而 矉 其 里 其 里 之 醜 人 見 而 美 之 歸 亦 捧 心 矉 其 里 其 里 之 富 人 見 之 堅 閉 門 而 不 出 貧 人 見 之 挈 妻 子 而 去 之 走 彼 知 美 矉 而 不 知 矉 之 所 以 美 惜 乎 而 夫 子 其 窮 哉 ( 故 に 西 施 心 を 病 みて 其 の 里 に 矉 せしに 其 の 里 の 醜 人 見 て 之 を 美 とし 帰 るも 亦 た 心 を 捧 げて 其 の 里 に 矉 せり 其 の 里 の 富 める 人 之 を 見 て 堅 く 門 を 閉 ざして 出 でず 貧 しき 人 之 を 見 て 妻 子 を 挈 えて 之 を 去 てて 走 げたり 彼 の 矉 むるを 美 しとするを 知 るも 矉 むるの 美 しき 所 以 を 知 らざ るなり 惜 しいかな 而 の 夫 子 は 其 れ 窮 しまんか) と 記 載 されている 矉 は 顰 嚬 とも 同 義 語 で ある これは 醜 人 が 西 施 の 眉 をひそめた 格 好 を 見 て 美 しいと 感 じ 自 分 も 西 施 と 同 じく 眉 をひそめ

2 262 동아시아 인문전통과 문화역학 たという 話 しである 眉 をひそめることがどうして 美 しく 見 えるのか 醜 人 はその 根 本 の 理 由 が 分 からないままにただ 真 似 をしていた そのために 余 計 に 誤 解 を 招 いて 回 りを 驚 かせるようになった のである この 話 しは 本 質 を 知 らずに 外 観 だけをまねることに 対 する 皮 肉 であり 間 違 った 真 似 を してはいけないとの 教 訓 である 李 賢 輔 は 効 嚬 歌 に 人 々は 陶 淵 明 の 帰 去 来 に 憧 れているが それは 話 しだけに 止 まっており 実 践 はしていないと 述 べている これは 憧 れて 真 似 だけしないで 本 質 を 直 視 すべきであると 主 張 するものである もしも 陶 淵 明 が 帰 去 来 したように 帰 去 来 を 実 践 す るならば 田 園 は 荒 れることにならないからである また 莊 子 天 運 篇 に 至 貴 國 爵 并 焉 至 富 國 財 并 焉 至 願 名 誉 并 焉 是 以 道 不 渝 ( 至 貴 は 国 爵 をば 并 けて 至 富 は 国 財 をば 并 けて 至 願 は 名 誉 をば 并 けて 是 を 以 て 道 は 渝 らず) とある これは 荘 子 の 無 為 自 然 の 世 界 を 表 している 無 為 自 然 の 道 が 得 られれば 国 家 が 与 えてく れる 爵 位 や 財 産 名 誉 など 棄 てて 顧 みない なぜならこれらの 物 は 一 時 的 なものであり 無 為 自 然 の 道 は 悠 久 不 滅 なものであるからだ しかし 人 々は 目 の 前 にある 富 だけを 求 めているので 真 の 道 が 分 からないのである 李 賢 輔 の 効 嚬 歌 第 一 二 句 の 歸 去 來 歸 去 來 話 しだけで 行 く 人 はいな い 田 園 が 將 に 蕪 んとするのに 行 かなくてどうする にはこれら 荘 子 の 無 為 自 然 に 生 きることを 実 践 したいという 願 望 が 含 まれているのである 李 賢 輔 の 効 嚬 歌 の 第 三 句 の 草 堂 に 清 風 明 月 が 出 没 して 待 っている(のに) 句 は 莊 子 天 運 篇 に 日 月 星 辰 行 其 紀 吾 止 之 於 有 窮 流 之 於 無 止 ( 日 月 星 辰 其 の 紀 を 行 る 吾 れ 之 を 窮 り 有 るに 止 め 之 を 止 る 無 きに 流 す) によるものと 考 えられる 日 月 星 辰 はそれぞれの 軌 道 を 運 行 する そして 私 は 有 限 なる 万 物 の 世 界 に 止 め ある 時 には 無 限 な 世 界 に 遊 ぶという すなわ ち 万 物 の 世 界 には 調 和 があり 万 物 が 表 れるかと 思 うと 沈 みがある また 春 が 来 れば 夏 が 来 て 秋 冬 が 来 るという 季 節 の 変 移 があるように この 句 は 有 限 の 万 物 に 遊 びつつ 無 限 の 超 越 的 世 界 に 入 ることを 表 しているのである 効 嚬 歌 并 序 に 嘉 靖 壬 寅 秋 聾 巖 翁 始 鮮 圭 組 出 國 門 賃 歸 船 飲 餞 于 漢 江 醉 臥 舟 上 月 出 東 山 微 風 乍 起 詠 陶 彭 澤 舟 搖 搖 以 輕 颺 風 飄 飄 而 吹 衣 之 句 歸 興 益 濃 怡 然 自 笑 乃 作 此 歌 歌 本 淵 明 歸 去 來 辭 而 作 故 稱 効 嚬 ( 嘉 靖 壬 寅 の 秋 聾 巖 翁 始 めて 圭 組 を 鮮 し 国 門 を 出 でて 帰 船 を 賃 り 漢 江 に 飲 餞 し 舟 上 に 酔 臥 す 月 東 山 より 出 で 微 風 乍 ち 起 こる 陶 彭 澤 の 舟 揺 揺 とし て 以 て 軽 颺 たり 風 飄 飄 として 衣 を 吹 くの 句 を 詠 ずれば 帰 興 益 す 濃 し 怡 然 として 自 から 笑 い 乃 ち 此 歌 を 作 る 歌 は 淵 明 の 帰 去 来 辞 に 本 づきて 作 る 故 に 効 嚬 と 称 す ) と 述 べられている 効 嚬 歌 は 李 賢 輔 が 七 十 六 歳 のおりに 朝 廷 から 故 郷 に 帰 る 時 船 に 乗 って 作 ったものである この 注 に 述 べているように 李 賢 輔 は 陶 淵 明 の 舟 揺 揺 以 軽 颺 風 飄 飄 而 吹 衣 の 句 を 引 用 して 帰 郷 の 喜 びを 表 していた 以 上 のことを 通 して 李 賢 輔 の 効 嚬 歌 には 陶 淵 明 の 帰 去 来 を 真 似 るだけに 留 まっていなか ったのである また 効 嚬 歌 は 世 俗 的 拘 束 や 固 執 から 離 脱 して 無 為 自 然 の 道 に 遊 ぶことを 訴 え ており 李 賢 輔 は 帰 郷 によって 無 為 自 然 の 道 が 実 践 できることに 十 分 満 足 していたことが 分 かる 二 の 二 聾 巖 歌 聾 巖 歌 ( 聾 巖 集 巻 三 )に 聾 巖 애올라보니 老 眼 이 猶 明 이로다 人 事 이 變 한달 山 川 이똑가샐가 巖 前 에 某 水 某 丘 이어제본닷하예라( 聾 巖 に 登 ってみると 老 眼 はなお 明 らかだ 人 事 が 変 わるだって 山 川 が 同 じくなくなるだろうか 巖 前 に 某 水 某 丘 が 昨 日 見 たようだ) と 述 べられている この 歌 は 李 賢 輔 の 七 十 六 歳 の 作 で 故 郷 に 帰 ってすぐに 聾 巖 に 登 って 山 川 をめぐりながらの 感 慨 を 表 し たものである その 序 に 巖 翁 久 仕 於 京 始 還 于 郷 登 聾 巖 周 覧 山 川 不 無 令 威 之 感 而 猶 喜 其

3 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 263 舊 遊 陳 迹 之 依 然 又 作 此 歌 ( 巖 翁 久 しく 京 に 仕 え 始 めて 郷 に 還 りて 聾 巖 に 登 り 山 川 を 周 覧 するに 令 威 の 感 無 きにあらず 而 して 猶 お 其 の 旧 遊 陳 迹 の 依 然 たるを 喜 び 又 た 此 の 歌 を 作 る) とある 李 賢 輔 は 昔 のままにある 山 川 を 眺 めながら 喜 びを 表 している 都 で 長 らく 官 職 についてお り 帰 りたいと 思 ってもなかなか 思 うとおりにならなかった それは 天 子 の 許 しがおりず 朝 廷 を 離 れることができなかったからである そこで 病 気 などによる 願 い 出 により ようやく 許 可 が 出 たので 故 郷 に 帰 ることができた 帰 郷 の 喜 びは 大 きく 昔 と 変 わらないままの 山 水 に 親 しみを 感 じ て 喜 びは 増 したのである 李 賢 輔 と 交 流 があった 李 滉 ( 一 五 〇 一 一 五 七 〇 )は 李 賢 輔 の 聾 巖 生 活 についていくつもの 詩 を 残 している そのうちの 一 首 拝 聾 巖 先 生 先 生 令 侍 兒 歌 東 坡 月 夜 飲 杏 花 下 詩 次 其 韻 示 之 滉 亦 奉 和 呈 上 ( 退 溪 集 巻 一 )に 病 臥 山 中 九 十 春 起 拝 巖 仙 春 喚 人 巖 中 老 仙 惜 光 景 獨 立 汀 洲 詠 白 蘋 ( 病 みて 山 中 に 臥 す 九 十 の 春 起 して 巖 仙 の 春 人 を 喚 ぶを 拝 す 巖 中 の 老 仙 光 景 を 惜 み 獨 り 汀 洲 に 立 ちて 白 蘋 を 詠 ず) とあり 聾 巖 李 相 公 招 滉 同 遊 屏 風 庵 ( 退 溪 集 別 集 巻 一 )には 雨 霽 天 空 積 水 平 閒 騎 果 下 傍 沙 汀 胡 僧 絶 壁 庵 開 晝 仙 老 清 秋 屐 上 屏 窈 窕 巖 泉 供 佛 祖 風 流 杯 酒 答 山 靈 何 能 小 作 壺 中 隱 靜 裏 工 夫 討 汗 青 ( 雨 霽 れ 天 空 は 積 水 平 らかに 閒 かに 果 下 に 騎 りて 沙 汀 に 傍 ら 胡 僧 絶 壁 の 庵 昼 開 け 仙 老 清 秋 の 屐 屏 を 上 る 窈 窕 たる 巖 泉 佛 祖 に 供 し 風 流 の 杯 酒 山 霊 に 答 う 何 んぞ 能 く 小 さく 壷 中 隠 を 作 し 静 裏 の 工 夫 汗 青 を 討 ねん) と 述 べられている 李 滉 は 李 賢 輔 を 巖 仙 老 仙 仙 老 と 仙 人 扱 いをしている また 李 滉 は 李 賢 輔 の 住 いについて 結 屋 崖 邊 石 磴 斜 憑 闌 如 在 羽 人 家 公 能 解 紱 歸 田 早 我 亦 攜 壺 賞 景 多 ( 屋 を 崖 邊 石 磴 の 斜 めな るに 結 び 闌 に 憑 るは 羽 人 の 家 に 在 るが 如 し 公 能 く 解 紱 して 帰 田 すること 早 く 我 れも 亦 た 壷 を 攜 えて 賞 景 すること 多 し) ( 愛 日 堂 後 臺 上 陪 李 府 尹 遊 賞 時 公 辤 慶 尹 家 居 ( 退 溪 集 別 集 巻 一 ))と 述 べている 李 府 尹 は 李 賢 輔 を 指 す 李 滉 は 李 賢 輔 が 帰 ってから 供 に 過 ごす 時 間 が 多 か ったが 李 賢 輔 の 住 まいがまるで 羽 人 家 であると 表 現 している すなわち 李 滉 は 聾 巖 の 住 む ところは 人 間 の 世 界 ではない 仙 人 の 住 む 所 であると 述 べているのである それでは 李 賢 輔 の 帰 去 来 の 生 活 仙 人 のような 生 活 を 李 賢 輔 と 交 流 があった 友 達 の 詩 を 通 して 窺 うことにするが まず 李 賢 輔 と 最 も 交 流 が 深 かった 李 滉 の 詩 から 具 体 的 に 見 てみよう 罇 酒 相 攜 許 入 舟 仍 於 高 座 笑 臨 流 玲 瓏 玉 界 卥 櫳 靜 縹 緲 仙 娥 鼓 笛 稠 世 路 向 時 眞 失 脚 菊 花 今 日 滿 簪 頭 何 因 得 脱 浮 名 繋 日 日 來 從 物 外 遊 ( 罇 酒 相 い 攜 えて 舟 に 入 るを 許 し 仍 ち 高 座 に 於 いて 笑 いて 流 に 臨 む 玲 瓏 たる 玉 界 卥 櫳 静 かに 縹 緲 たる 仙 娥 鼓 笛 稠 し 世 路 向 時 真 に 脚 を 失 し 菊 花 今 日 満 ちて 頭 に 簪 す 何 に 因 りて 浮 名 に 繋 がれて 脱 して 日 日 来 たりて 物 外 に 從 いて 遊 ぶを 得 んや) ( 昨 拝 聾 巖 先 生 退 而 有 感 作 詩 二 首 その 二 ) 花 發 仙 壇 麗 日 華 千 春 光 景 此 時 多 玉 罇 瀲 灩 流 霞 液 雲 幔 依 俙 薄 霧 紗 閬 苑 瑤 池 囗 囗 囗 童 顔 鶴 髪 帯 微 酡 我 今 卻 笑 桃 源 客 一 返 無 由 再 到 何 ( 花 は 仙 壇 に 発 きて 日 華 麗 しく 千 春 の 光 景 此 時 多 し 玉 罇 瀲 灩 たり 流 霞 の 液 雲 幔 依 俙 たり 薄 霧 の 紗 閬 苑 瑶 池 囗 囗 囗 童 顔 鶴 髪 微 酡 を 帯 ぶ 我 れ 今 卻 って 桃 源 の 客 を 笑 う 一 た び 返 れば 由 し 無 し 再 び 何 こに 到 るに) ( 次 聾 巖 先 生 韻 退 渓 集 続 集 巻 二 ) 前 者 は 世 間 に 縛 られることなく 世 間 からの 脱 出 口 であるこここそ 無 何 有 の 世 界 であると 述 べ

4 264 동아시아 인문전통과 문화역학 る 後 者 は 霞 を 飲 み 仙 人 の 生 活 を 行 う 様 子 を 述 べる その 昔 一 人 の 漁 父 が 一 度 桃 源 を 尋 ねたもの の その 後 再 び 桃 源 境 を 尋 ねることができなかったが しかし 私 は 今 桃 源 境 にいるのだと 誇 らしげ に 述 べている 無 論 ここには 李 滉 の 李 賢 輔 に 対 する 世 辞 が 含 まれていると 考 えられるが それに しても 李 滉 が 李 賢 輔 に 関 連 する 詩 文 のほとんどに 仙 という 文 字 を 用 いているのをみると 李 賢 輔 が 世 俗 を 超 越 しようとする 生 活 をしていたのは 確 かであると 考 えられる 李 滉 の 昨 拝 聾 巖 先 生 退 而 有 感 作 詩 二 首 ( 退 溪 集 續 集 巻 二 )のその 一 に 自 媿 塵 心 渾 未 断 商 巖 仙 境 得 陪 遊 ( 自 ら 媿 ず 塵 心 渾 て 未 だ 断 たざるに 商 巖 の 仙 境 陪 遊 するを 得 たるを) ( 八 句 中 結 句 )と 述 べられており 恐 らく 李 滉 は 李 賢 輔 の 気 高 い 遊 びに 倣 って ともに 自 然 を 愛 でることにより 自 分 も 世 俗 の 心 を 遮 断 しようとしていたのであろう 李 彦 迪 ( 一 四 九 一 一 五 四 六 )の 送 李 府 尹 親 老 辭 職 還 郷 三 首 ( 晦 斎 集 巻 二 ) その 三 に 烟 霞 境 外 探 玄 化 功 業 人 間 賛 大 猷 ( 烟 霞 の 境 外 玄 化 を 探 り 功 業 の 人 間 大 猷 を 賛 す) と 述 べられて いる (5) 李 賢 輔 の 故 郷 での 生 活 が 仙 人 の 生 活 のようだと 述 べているのである また 李 彦 迪 の 書 李 知 事 愛 日 堂 ( 巻 三 )には 疊 石 構 亭 臨 水 曲 天 成 佳 勝 付 幽 人 聾 巖 境 爽 非 凡 界 愛 日 情 深 見 性 眞 ( 畳 石 亭 を 構 えて 水 曲 に 臨 み 天 佳 勝 を 成 して 幽 人 に 付 す 聾 巖 境 爽 にして 凡 界 に 非 らず 愛 日 の 情 深 くして 性 真 を 見 わす) とある 李 賢 輔 は 浮 き 世 から 離 れて 静 かに 暮 らす 人 で 愛 日 堂 で の 生 活 は 平 凡 な 世 界 ではないと 述 べる 李 彦 迪 の 詩 もまた 李 滉 の 詩 のように 李 賢 輔 の 生 活 が 仙 人 に 似 た 生 活 であったことを 窺 わせる さらに 周 世 鵬 ( 一 四 九 五 一 五 五 四 )の 次 汾 上 醉 時 歌 韻 敬 謝 靈 芝 大 仙 侍 史 ( 武 陵 雜 稿 原 集 巻 一 )に 靈 芝 大 仙 是 木 公 視 岱 如 毫 海 如 勺 ( 霊 芝 大 仙 是 れ 木 公 岱 は 毫 の 如 く 海 は 勺 の 如 きを 視 る) とあり 続 けて 聾 巖 簟 石 仙 遨 同 氷 夷 起 舞 鵾 絃 急 局 邊 豈 無 爛 柯 兒 不 信 人 間 光 景 促 仙 女 哦 詩 愜 宮 商 仙 童 解 楫 工 前 却 源 花 杳 杳 出 洞 來 飛 絮 雪 落 侑 仙 酢 大 仙 時 作 鸞 鳳 吟 衆 仙 和 之 蒼 壁 裂 仙 乎 仙 乎 氣 成 霞 崖 杉 岸 柳 森 幢 節 ( 聾 巖 簟 石 の 仙 遨 びを 同 じくし 氷 夷 起 舞 すれ ば 鵾 絃 急 なり 局 辺 豈 に 爛 柯 の 児 無 からんや 信 ぜず 人 間 の 光 景 を 促 がすを 仙 女 詩 を 哦 い 宮 商 を 愜 くし 仙 童 楫 を 解 きて 前 却 を 工 みにす 源 花 杳 杳 として 洞 より 出 で 来 たり 飛 絮 雪 落 ちて 仙 酢 を 侑 く 大 仙 時 に 鸞 鳳 吟 を 作 し 衆 仙 之 に 和 すれば 蒼 壁 裂 く 仙 や 仙 や 気 霞 と 成 り 崖 杉 岸 柳 幢 節 森 たり) と 述 べられている その 注 に 木 公 既 爲 東 方 男 仙 之 長 則 今 之 木 公 非 相 公 而 何 ( 木 公 既 に 東 方 男 仙 の 長 と 為 れば 則 ち 今 の 木 公 相 公 にあらずして 何 ぞや) とあり 続 いて 皆 用 神 仙 中 語 彼 果 仙 耶 此 果 非 仙 耶 ( 皆 な 神 仙 中 の 語 を 用 う 彼 れ 果 して 仙 なるか 此 れ 果 して 仙 にあ らざるか) とある また この 詩 には 附 李 聾 巖 醉 時 歌 本 韻 の 記 載 が 見 られ 李 聾 巖 が 酔 時 歌 を 詠 じた 作 に 周 世 鵬 が 次 韻 したことが 述 べられている 周 世 鵬 もまた 李 賢 輔 を 仙 人 扱 いをしており 李 賢 輔 の 遊 びはあたかも 仙 界 におけるものであり 人 間 世 界 では 見 られない 光 景 であると 考 えてい たのである 李 賢 輔 自 身 の 詩 にもまた 平 凡 ではない 仙 界 での 遊 覧 のごとき 生 活 がうたわれている 李 賢 輔 の 題 靈 芝 精 舎 ( 聾 巖 集 巻 一 )の 注 に 壬 寅 秋 余 以 年 老 致 仕 來 家 家 饒 泉 石 非 無 臺 榭 遊 覽 之 所 而 塵 紛 世 念 不 能 無 惱 於 其 間 乃 募 素 欵 僧 人 稍 有 幹 才 名 為 祖 澄 者 助 給 資 財 營 構 精 舎 數 間 于 此 不 數 月 而 舎 成 只 令 澄 僧 徃 來 消 遣 作 我 頗 養 之 地 也 舎 南 百 歩 外 有 峰 斗 起 松 樹 羅 生 除 地 爲 臺 是 山 之 洞 門 也 自 下 而 來 者 到 此 休 憩 山 路 危 險 或 下 馬 歩 進 距 舎 數 十 歩 有 坑 谷 路 斷 積 石 爲 補 作 爲 層 階 但 可 通 人 不 得 通 馬 旁 築 高 臺 亦 令 坐 歇 客 至 于 此 則 騶 従 皆 除 而 杖 屨 單 行 不 使 喧 閙 於 舎 門 ( 壬 寅 の 秋 余 年 老 を 以 て 致 仕 して 家 に 来 たる 家 に 泉 石 を 饒 ら し 台 榭 遊 覧 の 所 無 きに 非 ず 而 して 塵 紛 世 念 其 の 間 に 惱 む 無 き 能 わず 乃 ち 素 欵 の 僧 人 を 募 り 稍 や 幹 才 の 名 づけて 祖 澄 と 為 す 者 有 り 助 けて 資 財 を 給 い 精 舎 数 間 を 此 に 営 構 し 数 月 ならずし

5 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 265 て 舎 成 る 只 だ 澄 僧 をして 徃 来 して 消 遣 せしめ 我 が 頗 る 養 うの 地 を 作 る 舎 の 南 百 歩 の 外 峰 斗 起 こる 有 り 松 樹 羅 生 す 地 を 除 いて 臺 と 為 す 是 れ 山 の 洞 門 なり 下 自 りして 来 たる 者 此 に 到 りて 休 憩 す 山 路 は 危 険 にして 或 いは 馬 より 下 りて 歩 みて 進 む 舎 より 距 ること 数 十 歩 坑 谷 有 りて 路 断 つ 石 を 積 みて 補 を 為 し 作 りて 層 階 と 為 す 但 だ 人 を 通 すべきも 馬 を 通 ずるを 得 ず 旁 らに 高 臺 を 築 き 亦 た 坐 して 歇 ましむ 客 此 に 至 れば 則 ち 騶 従 皆 な 除 いて 杖 屨 して 単 行 し 舎 門 を 喧 閙 せしめず) とある また その 題 靈 芝 精 舎 ( 聾 巖 集 巻 一 ) 詩 二 首 中 その 一 に 生 來 成 癖 烟 霞 趣 白 首 膏 盲 未 易 攻 家 近 聾 巖 嫌 在 俗 靈 芝 新 占 藥 頭 峯 ( 生 来 烟 霞 の 趣 を 癖 と 成 し 白 首 の 膏 盲 未 だ 攻 め 易 からず 家 は 聾 巖 に 近 く 俗 に 在 るを 嫌 う 霊 芝 新 たに 薬 頭 峯 を 占 む) と 述 べられている この 注 及 び 詩 から 考 えられることは 李 賢 輔 は 世 俗 を 忘 れるためにさらに 山 の 奥 へと 入 っていき 険 しい 山 を 開 拓 して 精 舎 を 構 えている それは 精 舎 の 回 りには 世 俗 の 騒 音 など 寄 せたくないと 願 っているからである この 詩 では 僧 侶 の 助 けを 得 ており 名 前 を 寺 院 とする 面 に おいては 仏 教 を 思 わせるが しかし 烟 霞 趣 は 山 水 の 良 い 景 色 を 愛 でることを 靈 芝 は 仙 界 の 不 老 草 を 意 味 し また 日 日 來 從 物 外 遊 玉 罇 瀲 灩 流 霞 液 童 顔 鶴 髪 帯 微 酡 といった 表 現 や 深 い 山 中 に 修 業 の 場 を 構 えている 姿 には ただ 自 然 を 楽 しむだけに 留 まらない 積 極 性 が 認 められる のである (6) 李 滉 李 彦 迪 と 周 世 鵬 の 詩 文 は 李 賢 輔 の 生 活 を 身 近 に 眺 めながら 感 じたさまを 述 べたものであ る 彼 らは 李 賢 輔 が 世 間 を 超 越 する 雰 囲 気 の 山 水 を 愛 でる 姿 から 仙 人 扱 いをしていた また 李 賢 輔 自 分 も 仙 界 を 連 想 させる 雰 囲 気 を 描 いていた その 自 然 を 貴 び 山 水 を 求 める 仙 人 生 活 には 老 荘 の 感 情 が 含 まれているのである これまでのことを 通 して 鄭 英 文 氏 が 主 張 するように 聾 巖 の 浪 漫 性 は 老 荘 思 想 から 出 たのではないとは 断 言 できないと 考 えられる 二 の 三 生 日 歌 効 嚬 歌 聾 巖 歌 よ り 十 年 余 り 経 っ て 作 っ た 作 生 日 歌 に 功 名 이그지이실가 壽 夭 도 天 定 이라 金 犀 대구븐허리예 八 十 逢 春 긔몃해오 年 年 에오낫나리 亦 君 恩 이샷다( 功 名 におわりがあろうか 寿 夭 も 天 の 定 めだ 金 犀 に 曲 げた 腰 に 八 十 逢 春 それ 幾 年 な のか 年 年 に 今 日 のような 日 亦 君 恩 であろう) と 述 べられている 生 日 歌 は 八 十 五 歳 の 作 であ り 功 名 と 長 寿 を 全 うして 君 恩 にも 恵 まれたことが 述 べられている 李 賢 輔 にとって 功 名 を 求 め る 寿 命 は 天 にあるとし 君 の 恩 に 感 謝 すると 言 ったことなどは 儒 学 者 のあるべき 道 理 である 李 賢 輔 は 天 子 の 恩 を 思 う 気 持 ちを 持 ち 続 けていたのである 我 屋 南 山 下 數 間 補 茅 茨 此 屋 豈 爲 華 身 安 心 自 怡 官 遊 四 十 年 出 入 寄 於 玆 里 閈 亦 親 睦 歳 久 皆 相 知 花 朝 與 月 夕 鷄 黍 無 間 稀 年 來 衰 且 病 乞 退 惟 其 時 家 在 嶺 之 南 魂 夢 尋 常 馳 行 將 掛 手 板 歸 袖 風 披 披 同 遊 二 三 子 日 日 來 相 隨 討 論 前 日 歡 去 留 倶 依 依 徂 玆 燈 夕 遊 最 未 忘 于 斯 持 歸 聾 巌 舎 羅 列 聚 郷 兒 還 如 與 諸 公 會 集 終 南 陂 ( 我 が 屋 は 南 山 の 下 数 間 茅 茨 を 補 う 此 の 屋 豈 に 華 と 為 さんや 身 安 らかにして 心 自 ら 怡 ぶ 官 遊 すること 四 十 年 出 入 して 玆 に 寄 す 里 閈 亦 た 親 睦 し 歳 久 しくして 皆 な 相 い 知 る 花 朝 と 月 夕 と 鶏 黍 間 無 く 稀 れ 年 来 衰 且 つ 病 退 かんことを 乞 うは 惟 れ 其 の 時 家 は 嶺 の 南 に 在 り 魂 夢 尋 常 に 馳 る 行 くゆく 将 に 手 板 を 掛 けんとす 帰 袖 に 風 披 披 たり 同 じく 二 三 子 と 遊 び 日 日 来 た りて 相 い 随 う 討 論 す 前 日 の 歓 び 去 留 倶 に 依 依 たり 玆 の 燈 夕 の 遊 を 徂 き 最 も 未 だ 斯 を 忘 れ ず 持 ちて 聾 巖 舎 に 帰 す 羅 列 して 郷 児 を 聚 む 還 た 諸 公 と 終 南 の 陂 に 会 集 するが 如 し) 題 終 南 遊 録 後 ( 聾 巌 集 巻 一 ) この 詩 には 李 賢 輔 が 南 山 に 茅 葺 きの 家 を 構 えて 心 安 らかに 自 然 とともに 生 活 する 様 子 が 述 べら

6 266 동아시아 인문전통과 문화역학 れている ここに 出 入 りしながら 四 十 年 あまり 官 職 生 活 をしたと 述 べているが 彼 が 官 職 で 活 躍 す るようになったのは 三 十 二 歳 の 時 式 年 文 科 の 丙 科 に 及 第 した 時 であることから 考 えると この 詩 は 晩 年 の 作 であると 分 かる また 南 山 は 終 南 の 地 を 意 味 するが 終 南 がどこなのかは 明 らかでは ない ただ 我 屋 南 山 下 と 家 在 嶺 之 南 句 があり 屋 と 家 を 分 けて 書 いているのをみると 終 南 はおそらく 故 郷 嶺 南 から 離 れたところであり 李 賢 輔 は 都 にある 終 南 ですみかを 構 えて 仮 住 ま いをしていたように 見 られる 李 賢 輔 が 生 きた 時 代 には 戊 午 士 禍 己 卯 士 禍 乙 巳 士 禍 などが 起 こり 多 くの 仕 官 たちが 処 刑 される 波 瀾 万 丈 の 政 界 中 李 賢 輔 も 災 傷 に 関 する 報 告 書 に 誤 りがあったために 職 を 降 りたことがある 即 ち 李 賢 輔 において 終 南 での 生 活 は 安 らぎの 日 々のみではなかった 上 京 し て 仕 官 できなかった 時 期 もあり 仕 官 を 辞 めさせられ 時 期 があり 終 南 は 李 賢 輔 に 多 くの 喜 怒 哀 楽 を 与 えた 場 所 であった 李 賢 輔 が 退 渓 の 書 に 答 えた 答 退 溪 書 ( 聾 巖 集 巻 二 )には 僮 霖 連 惡 江 水 漲 溢 阻 路 不 通 孤 寓 小 閣 牆 頽 屋 漏 晝 無 所 寄 夜 不 能 寐 欝 欝 幽 懷 誰 與 開 展 不 審 溪 邊 茅 舎 將 何 過 了 ( 僮 霖 連 ねて 悪 く 江 水 漲 って 溢 れ 路 を 阻 みて 通 らず 孤 寓 小 閣 墻 頽 れ 屋 漏 れ 昼 寄 る 所 無 く 夜 寐 る 能 わず 欝 欝 たる 幽 懐 誰 か 与 に 開 展 せんや 渓 辺 の 茅 舎 を 審 らか ず 将 た 何 ぞん 過 ぎおわるをや) とあり また 再 白 ( 聾 巖 集 巻 二 )には 昨 還 于 家 霖 雨 復 作 家 庭 汚 漏 遠 近 所 聞 皆 驚 歎 之 事 氣 亦 不 平 ( 昨 家 に 還 れば 霖 雨 復 た 作 り 家 庭 汚 れ 漏 る 遠 近 聞 く 所 皆 な 驚 歎 の 事 にして 気 も 亦 た 平 かならず) と 述 べられている この 詩 には 家 のへいは 壊 れて 家 屋 に 雨 が 漏 れて 困 っていた 様 子 が 述 べられている 長 雨 のために 江 の 水 があふれ 道 路 は 通 れず 李 賢 輔 の 家 も 被 害 を 受 けた 長 雨 の 影 響 があるにせよ 彼 の 家 は 決 して 丈 夫 ではな く 立 派 なものではないのである 従 って 彼 の 終 南 での 生 活 は 誇 るものではなかったと 推 測 できる また 晩 年 の 作 盆 魚 行 録 奉 李 景 明 昆 季 求 和 ( 聾 巖 集 巻 一 )には 南 山 生 活 の 苦 しみが 述 べられている その 詩 に 仲 夏 晷 刻 長 恒 陽 又 方 熾 我 屋 南 山 前 裭 職 閒 無 事 門 絶 剥 啄 驚 塊 坐 困 晝 睡 童 稚 悶 寂 寥 罩 取 魚 兒 至 繊 鱗 四 五 箇 喁 噞 憐 憔 悴 斗 水 儲 瓦 盆 放 之 而 爲 戯 始 舎 圉 圉 然 漸 蘇 如 起 醉 俄 然 作 隊 行 交 頭 疑 湊 餌 撥 刺 或 欲 飛 盆 中 游 自 恣 然 非 得 其 所 爾 生 還 可 瘁 方 此 大 旱 餘 川 澤 皆 枯 匱 盆 水 朝 夕 渇 糜 爛 安 可 避 呴 沫 以 爲 恩 不 思 終 委 棄 魚 兒 反 笑 余 對 臆 陳 其 志 吾 觀 世 上 人 儿 海 沈 名 利 隨 行 而 逐 隊 添 丐 恩 光 被 青 雲 鳳 池 裏 揚 揚 方 得 意 風 波 一 夕 起 將 身 無 處 置 姑 息 活 躯 命 人 與 物 無 異 而 余 聞 其 言 感 歎 心 還 悸 冥 頑 無 知 物 所 言 何 有 智 余 居 嶺 之 南 京 師 爲 旅 寄 既 非 爲 禄 仕 亦 無 百 口 累 遷 延 將 數 年 光 陰 同 隙 駟 雖 言 恩 未 報 亦 是 貪 爵 位 白 髪 走 紅 塵 寧 不 被 譏 刺 頃 聞 來 使 言 莬 裘 營 已 既 往 追 已 不 及 來 者 猶 可 企 行 將 掛 手 板 亟 把 南 轅 轡 魚 兒 復 魚 兒 此 言 當 籍 記 江 湖 浩 萬 里 永 作 相 忌 地 ( 仲 夏 晷 刻 長 し 恒 に 陽 に して 又 た 方 に 熾 し 我 が 屋 南 山 の 前 裭 職 閒 にして 事 無 し 門 は 絶 ゆ 剥 啄 の 驚 きを 塊 坐 して 昼 睡 に 困 ず 童 稚 寂 寥 たるに 悶 え 罩 もて 魚 児 の 至 るを 取 る 繊 鱗 四 五 箇 喁 噞 として 憔 悴 を 憐 れむ 斗 水 瓦 盆 に 儲 え 之 を 放 ちて 戯 れを 為 す 始 め 舎 ること 圉 圉 然 たるも 漸 く 蘇 ること 酔 より 起 きる が 如 し 俄 然 として 隊 行 を 作 し 頭 を 交 わして 餌 に 湊 まるかと 疑 う 撥 刺 として 或 いは 飛 ばんと 欲 し 盆 中 に 游 びて 自 ら 恣 にす 然 れども 其 の 所 を 得 るに 非 ざれば 爾 じの 生 は 還 た 瘁 すべし 此 の 大 いに 旱 する 餘 に 方 り 川 澤 皆 な 枯 匱 す 盆 水 朝 夕 に 渇 し 糜 爛 安 んぞ 避 くるべけんや 呴 沫 して 以 て 恩 と 為 し 終 に 委 棄 するを 思 わず 魚 児 反 って 余 を 笑 う 臆 に 対 して 其 の 志 を 陳 ぶ 吾 世 上 人 を 観 るに 儿 海 名 利 に 沈 む 随 行 して 隊 を 逐 う 添 えて 恩 光 被 むるを 丐 う 青 雲 鳳 池 の 裏 揚 揚 と して 方 に 意 を 得 たり 風 波 一 夕 起 きれば 身 を 将 て 置 くに 処 無 し 姑 息 躯 命 を 活 し 人 と 物 と 異 な る 無 し 而 して 余 其 の 言 を 聞 き 感 歎 して 心 還 た 悸 す 冥 頑 にして 物 を 知 る 無 し 言 う 所 何 んぞ 智 有 らん 余 嶺 の 南 に 居 り 京 師 旅 寄 を 為 す 既 に 禄 仕 を 為 すに 非 らず 亦 た 百 口 の 累 無 し 遷 延 す

7 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 267 ること 将 に 数 年 光 陰 隙 駟 に 同 じ 恩 未 だ 報 いずと 言 うと 雖 も 亦 た 是 れ 爵 位 を 貪 る 白 髪 紅 塵 に 走 り 寧 んぞ 譏 刺 を 被 らざるや 頃 聞 く 来 使 の 言 莬 裘 の 営 むこと 已 に 既 にすと 往 追 するも 已 に 及 ばざるも 来 る 者 は 猶 お 企 つべし 行 きて 将 に 手 板 を 掛 け 亟 かに 南 の 轅 轡 を 把 らん 魚 兒 復 た 魚 兒 此 の 言 當 に 籍 記 すべし 江 湖 萬 里 浩 く 永 く 相 い 忌 むの 地 と 作 す) ) とある この 詩 は 七 十 四 歳 の 五 月 の 作 である 我 屋 南 山 前 の 南 山 は 恐 らく 終 南 ではないかと 思 われる 自 分 の 置 か れた 状 況 を 旱 に 苦 しむ 魚 と 照 らし 合 わせて 己 の 意 志 のよわさを 魚 児 によって 悟 っている また 彼 は 今 故 郷 の 嶺 南 にいると 述 べていることから 朝 廷 を 離 れた 状 態 である 李 賢 輔 は 官 職 に 就 いて いる 間 いくつかの 職 を 替 わっており ある 時 期 には 獄 中 生 活 をし ある 時 期 には 職 を 辞 していた 世 間 には 名 利 を 求 める 人 が 多 く 自 分 は 身 を 置 く 場 所 も 無 くなっている 結 句 に 江 湖 浩 萬 里 永 作 相 忌 地 と 述 べられていることから 今 嶺 南 で 生 活 をしながら むかし 終 南 にいた 頃 官 職 のた めに 京 師 に 出 かけたことを 回 想 しているものと 思 われる 川 で 自 由 に 泳 いでいた 魚 が 狭 いところに 閉 じこめられて 苦 しむ 姿 を 自 分 に 投 影 し 終 南 で 自 由 な 生 活 ができなかったことを 回 想 している そして 故 郷 の 山 水 に 出 かけることによって 官 職 への 失 望 と 苦 労 を 幾 分 晴 らそうとしたのであろう しかしながら 盆 魚 行 録 奉 李 景 明 昆 季 求 和 詩 に 雖 言 恩 未 報 亦 是 貪 爵 位 白 髪 走 紅 塵 寧 不 被 譏 刺 と 述 べており 李 賢 輔 は 天 子 によりなかなか 官 職 を 辞 めることができなかったし ま た 李 賢 輔 自 身 も 容 易 には 官 職 を 辞 められなかったのである 李 賢 輔 が 八 十 歳 ( 一 五 四 六 )の 時 に 書 いたと 思 われる 再 次 各 贈 兩 翁 ( 聾 巖 集 巻 一 ) 二 首 中 の 一 首 目 に 儒 術 辛 勤 未 有 終 憐 君 才 命 不 同 逢 蓬 蒿 久 歛 連 雲 翮 樑 棟 無 心 臥 壑 松 憤 懣 有 時 發 長 嘯 昏 冥 聊 復 倒 深 鍾 世 人 爭 務 爲 拘 檢 放 達 如 君 莫 可 容 ( 儒 術 辛 勤 して 未 だ 終 り 有 らず 君 の 才 命 同 じく 逢 わざるを 憐 れむ 蓬 蒿 久 しく 歛 して 雲 翮 に 連 なり 樑 棟 無 心 にして 壑 松 に 臥 す 憤 懣 時 有 りて 長 嘯 を 発 し 昏 冥 聊 か 復 た 深 鍾 を 倒 す 世 人 争 い 務 めて 拘 検 を 為 すも 放 達 なること 君 の 如 きは 容 るるべき 莫 し) と 述 べられている 両 翁 は 琴 正 叔 と 権 虞 卿 の 二 人 を 表 すが この 詩 には 琴 正 叔 に 呈 したものである 琴 正 叔 は 才 能 がありながら 世 間 を 離 れて 自 然 の 中 で 無 心 にかつ 気 ままに 生 きていた 儒 学 を 重 んじる 当 時 の 観 念 から 考 えると 両 翁 の 行 動 は 許 し 難 いものである なぜなら ば 孔 子 の 主 張 のように 世 間 が 好 くない 時 は 世 間 に 出 るべきで 世 間 が 安 定 する 時 は 隠 遁 すべきこ とに 反 するからである この 詩 は 李 賢 輔 の 儒 学 に 対 する 信 条 が 窺 える また その 二 首 目 に 慙 吾 孤 陋 栢 生 石 得 子 薫 陶 蒿 倚 松 薄 命 未 収 才 八 斗 無 能 還 添 粟 千 鍾 從 前 窮 達 何 須 較 共 喜 樽 前 矍 鑠 容 ( 吾 が 孤 陋 にして 栢 石 より 生 ずるを 慙 じ 子 薫 陶 として 蒿 松 に 倚 るを 得 ん 薄 命 未 だ 才 の 八 斗 を 収 めず 無 能 還 た 粟 千 鍾 を 添 ならす 従 前 の 窮 達 何 ぞ 較 るを 須 いん 共 に 喜 ぶ 樽 前 矍 鑠 たる 容 を) と 述 べられている この 詩 は 権 虞 卿 に 呈 したものである 権 虞 卿 は 優 れた 徳 や 栄 達 を 持 っているの に 自 分 は 無 能 でかつ 貧 困 であると 言 う 李 賢 輔 は 両 翁 に 憧 れていながらも 朝 廷 で 殺 し 合 いが 発 生 しても 自 分 に 与 えられた 任 務 を 勤 めていたのである 三 結 李 賢 輔 の 三 短 歌 である 効 嚬 歌 聾 巖 歌 生 日 歌 の 考 察 を 通 して 李 賢 輔 の 帰 去 来 を 窺 った 李 賢 輔 は 効 嚬 歌 では 無 為 自 然 を 聾 巖 歌 では 仙 人 生 活 に 憧 れる 生 活 を 描 き 理 想 と 現 実 の 間 を 彷 徨 しながら 生 きていた しかし 生 日 歌 に 描 いたように 彼 の 終 着 地 は やはり 天 子 の 恩 を 思 う 儒 学 の 道 君 臣 としての 道 であった 即 ち 李 賢 輔 の 晩 年 における 帰 去 来 への 生 き 方 は 儒 学 が 土 台 となっており その 上 にかつ 老 荘 思 想 が 存 在 していたのである 李 賢 輔 は 老 年 に 漁 父 歌 を 残 していた 彼 が 理 想 と 現 実 の 間 を 彷 徨 しながら 生 きたことから 考 えれば 漁 父 のように 動 きある 生 活 気 ままな 生 活 もまた 李 賢 輔 の 憧 れる 帰 去 来 生 活 の 一 部 であると 看 取 できる

8 268 동아시아 인문전통과 문화역학 注 1 漁 父 歌 に 関 する 論 文 としては 梁 煕 讃 李 賢 輔 漁 父 歌 にみえる 二 つの 現 実 に 関 する 認 識 構 造 ( 時 調 学 論 叢 第 十 九 輯 ) 鄭 武 龍 聾 巖 李 賢 輔 の 長 短 漁 父 歌 研 究 (Ⅰ)(Ⅱ) ( 韓 民 族 語 文 學 第 四 十 二 輯 四 十 三 輯 )などがある また 自 然 観 や 帰 去 来 に 関 する 論 文 としては 成 昊 慶 聾 巖 李 賢 輔 の 生 と 詩 歌 ( 震 檀 學 報 第 九 十 三 號 ) 鄭 英 文 聾 巖 の 文 學 に 表 れる 自 然 觀 ( 崇 實 大 学 院 修 士 論 文 ) 沈 載 完 歸 田 録 研 究 : 聾 巖 李 賢 輔 の 時 調 文 學 ( 安 東 文 化 第 13 輯 )などがある さらに 聾 巖 李 賢 輔 の 生 涯 と 文 学 ( 朱 昇 澤 しょんび( 士 人 ) 精 神 と 安 東 文 化 ) 李 賢 輔 帰 郷 の 詩 歌 辞 的 意 義 ( 崔 載 南 叙 情 詩 歌 の 認 識 と 美 学 )などがある 2 鄭 英 文 氏 注 1 論 文 38 頁 65 頁 3 沈 載 完 氏 注 1 論 文 には 創 意 と 構 成 の 妙 は 聾 巖 少 年 の 詞 章 種 績 不 見 労 苦 而 功 倍 於 人 とした 天 資 を 想 起 させる 効 嚬 というが 優 れた 彼 の 創 意 を 本 歌 に 探 してみることができる (92 頁 )と 述 べられている また 鄭 英 文 氏 注 1 論 文 には 李 賢 輔 自 分 は 帰 去 来 するのを 清 風 と 明 月 が 待 つ から 行 かないわけには 行 かないと 述 べる 自 然 が 自 分 を 待 つと 言 うことは 帰 去 来 が 自 分 の 意 志 ではないことを 表 している すな わちここでの 自 然 は 聾 巖 の 欲 求 充 足 のための 媒 介 物 になっている (26 頁 )と 述 べられる また 朱 昇 澤 注 1 論 文 には 効 嚬 歌 に 効 嚬 の 故 事 を 用 いて 李 賢 輔 自 ら 陶 淵 明 を 効 嚬 していたと 述 べられて いる(259 頁 ) 4 成 昊 慶 氏 注 1 論 文 231 頁 5 この 詩 の 一 首 目 には 李 賢 輔 が 親 孝 行 であることが 二 首 目 には 登 山 臨 水 千 年 恨 恋 闕 思 親 兩 地 愁 と 国 を 思 うことと 親 を 思 うことの 間 で 彷 徨 していることが 述 べられる 6 山 水 喜 幽 遐 ( 金 丹 城 枕 流 亭 次 李 明 仲 其 一 聾 巖 集 巻 一 ) 未 負 幽 栖 志 ( 金 丹 城 枕 流 亭 次 李 明 仲 其 二 聾 巖 集 巻 一 ) 亦 自 卜 深 幽 幽 谷 少 塵 愁 ( 奉 賡 溪 堂 絶 句 聾 巖 集 巻 一 )などの 句 に 見 られる 幽 字 には 李 賢 輔 の 自 然 に 対 する 奥 深 さが 窺 える < 要 旨 > 韓 国 朝 鮮 時 代 の 古 典 文 学 において 多 くの 詩 人 や 文 人 は 高 麗 時 代 と 同 様 に 陶 淵 明 を 称 賛 する 詩 文 や 帰 去 来 に 和 した 和 帰 去 来 辞 を 残 している 朝 鮮 時 代 に 生 きた 李 賢 輔 もまた 陶 淵 明 を 愛 した 一 人 である 李 賢 輔 は 陶 淵 明 の 生 き 方 を 愛 でた 帰 去 来 に 関 する 詩 文 を 残 しており 自 らも 帰 去 来 ができたことを 表 した 効 嚬 歌 を 詠 っている また 李 賢 輔 は 当 時 において 早 くも 隠 居 したい 気 持 ちを 表 した 漁 父 辞 を 残 しており 後 世 の 詩 人 や 文 人 に 影 響 を 与 えている 本 発 表 は 李 賢 輔 における 帰 去 来 を 究 明 するものである これまでの 研 究 をみてみると まだ 解 明 されないところが 多 く しかも 間 違 った 解 釈 がみられる 鄭 英 文 氏 の 聾 巖 の 文 学 に 表 れた 自 然 観 ( 崇 實 大 学 院 1996)には 聾 巖 の 浪 漫 性 は 老 荘 思 想 から 出 たのではなく 聾 巖 の 理 念 は 徹 底 的 な 儒 教 である 興 趣 をもつ 聾 巖 に 道 学 者 的 な 姿 は 発 見 できない と 述 べられているが 李 賢 輔 及 び 彼 の 友 人 の 詩 文 には 李 賢 輔 の 山 水 を 楽 しむ 姿 に 招 隠 を 思 わせる 老 荘 思 想 が 含 まれているこ とを 認 めたものである また 効 嚬 歌 の 結 句 草 堂 に 清 風 明 月 が 出 没 して 待 っている(のに) についての 解 釈 は いる と いるのに と 二 つに 分 かれている 成 昊 慶 氏 聾 巖 李 賢 輔 の 生 と 詩 歌 ( 震 檀 學 報 第 九 十 三 號 ) には 二 解 釈 に 対 して 一 つは 過 去 の 経 験 をもとにした

9 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 269 主 観 的 解 釈 で もう 一 つは 原 因 や 根 拠 を 持 つ 必 然 的 な 解 釈 であると 述 べられている 解 釈 が 分 かれ る 理 由 は 効 嚬 にまつわる 典 故 の 追 究 が 不 十 分 であるためと 考 えられる すなわち 二 解 釈 の 解 明 に 当 たってはこの 詩 の 題 名 からその 根 源 を 探 らなければならない 本 発 表 では これらの 点 を 究 明 することにより 李 賢 輔 の 帰 去 来 の 真 実 を 明 らかにしようと 考 える まず 李 賢 輔 自 分 と 李 賢 輔 の 友 人 である 李 滉 李 彦 迪 と 周 世 鵬 などの 詩 文 を 通 して 李 賢 輔 の 山 水 を 楽 しむ 姿 に 招 隠 を 思 わせる 老 荘 思 想 が 含 まれていることを 究 明 する また 効 嚬 歌 の 結 句 の 二 解 釈 の 解 明 について 効 嚬 にまつわる 典 故 の 分 析 を 行 う 必 要 がある 効 嚬 は 莊 子 の 天 運 篇 第 十 四 に 見 える 言 葉 であり 中 心 思 想 である 天 其 運 乎, 地 其 處 乎, 日 月 其 爭 於 所 乎, 孰 主 張 是, 孰 維 綱 是, 孰 居 無 事, 推 而 行 是 句 を 理 解 することにより 分 かれた 二 つの 解 釈 が 究 明 でき る これらの 問 題 に 関 する 分 析 を 具 体 的 に 行 い 李 賢 輔 の 隠 逸 のあり 方 を 再 構 築 して 李 賢 輔 の 生 き 方 帰 去 来 の 真 実 を 明 らかにすることが 本 稿 のねらいである 李 賢 輔 は 朝 鮮 時 代 初 の 漁 父 歌 を 改 作 しており 韓 国 の 隠 逸 文 学 研 究 において 重 要 な 人 物 であ る これらの 作 業 は 朝 鮮 時 代 における 隠 逸 のあり 方 の 一 面 を 知 ることができると 同 時 に 漁 父 辞 研 究 の 土 台 になり 得 ると 思 われる <요약> 聾 巖 李 賢 輔 의 진정한 歸 去 來 일본 쿠마모토대학 박 미자 韓 国 朝 鮮 時 代 의 古 典 文 学 을 살펴보면,다수의 시인과 문인은 고려시대처럼 도연명을 친송하는 시문, 歸 去 來 를 和 한 和 歸 去 來 辭 등을 남기고 있다. 조선시대 李 賢 輔 역시 陶 淵 明 을 사랑한 문인중의 한사람이다. 李 賢 輔 는 陶 淵 明 의 삶을 노래한 詩 文 을 남기고 있고, 자기자신 스스로도 歸 去 來 를 했다고 노래했다. 그 사실은 그의 노래 効 嚬 歌 에서 엿볼 수가 있다. 또한, 李 賢 輔 는 그 당시 어느누구보다도 먼저 漁 父 辭 를 개작해 은거하고 픈 마음을 노래했는데, 그후 漁 父 辭 는 문인들 사이에서 애창되어졌고, 그 중에는 漁 父 의 삶을 살기를 염원하고 실천하는 이들도 나타났다. 이번에 본인은 李 賢 輔 문학의 歸 去 來 에 관해서 발표를 하고자 한다. 지금까지 연구되어온 논문을 보면 아직도 解 明 이 안된 부분, 수정되어야 할 부분이 눈에 띈다. 예를들면, 鄭 英 文 씨는 聾 巖 의 문학에 나타난 자연관 ( 崇 實 大 学 院,1996)에서 聾 巖 의 浪 漫 性 은 老 荘 思 想 에서 나온것이 아니다, 농암의 이념은 철저한 儒 敎 였다 興 趣 를 누리는 농암에게 도학자적인 모습은 발견되지 않는다 라고 말하고 있다. 그러나, 李 賢 輔, 그의 友 人 들의 시가를 살펴보면 老 荘 思 想 을 배제할수가 없다. 또한 効 嚬 歌 의 結 句 草 堂 애 清 風 明 月 이 나명들명 기다리나니 에 관해서 硏 究 者 사이에 기다리나니 와 기다리니 의 두 해석을 하고 있다. 成 昊 慶 씨는 논문 聾 巖 李 賢 輔 의 삶과 시가 ( 震 檀 學 報 第 九 十 三 號 2002)에서, 하나는 과거의 경험을 바탕으로 한 주관적 판단을, 또하나는 원인이나 근거가 되는 뜻을 나타낸다는 것으로 해석하고 있다. 이 効 嚬 歌 의 結 句 에 보이는 두 해석을 해명하기 위해서는 効 嚬 歌 인 제목을 살펴볼 필요가 있다. 이러한 점들을 분석함으로써 李 賢 輔 의 진정한 歸 去 來 를 규명하려고한다.

10 270 동아시아 인문전통과 문화역학 그 작업으로 먼저 李 賢 輔 자신과 李 賢 輔 의 友 人 인 李 滉 李 彦 迪 과 周 世 鵬 등의 시문을 통해서 李 賢 輔 가 山 水 를 즐기는 모습에서 招 隠 을 연상하는 老 荘 思 想 이 포함되어 있는 것을 밝히고자 한다. 効 嚬 歌 結 句 의 두 갈래 해석 해명에 있어서는, 効 嚬 에 얽힌 典 故 를 살펴볼 필요가 있다. 効 嚬 은 莊 子 天 運 篇 第 十 四 에 있는 표현인데, 그 중심사상인 天 其 運 乎, 地 其 處 乎, 日 月 其 爭 於 所 乎, 孰 主 張 是, 孰 維 綱 是, 孰 居 無 事, 推 而 行 是 句 를 理 解 함으로써 두 갈래의 해석을 이해 할수가 있다. 위의 문제점을 중심으로, 李 賢 輔 의 三 短 歌 인 効 嚬 歌 聾 巖 歌 生 日 歌 를 구체적으로 분석함으로서, 李 賢 輔 의 진정한 歸 去 來 의 삶을 밝히고자 한다. 李 賢 輔 는 朝 鮮 時 代 로는 처음으로 개작한 작품 漁 父 歌 로 인해, 한국의 은일문학연구에 중요한 인물인 만큼, 이 연구는 朝 鮮 時 代 에 있어서 隠 逸 文 学 의 한 면모를 알수있는 계기가 될것이고, 동시에 漁 父 辞 研 究 의 토대가 되리라고 생각된다. < 摘 要 > 聾 巖 李 贤 辅 归 去 来 诗 的 奥 义 日 本 熊 本 大 学 朴 美 子 在 韩 国 朝 鲜 王 朝 时 期 的 古 典 文 学 作 品 中 有 很 多 诗 人 和 文 人 们 为 了 效 仿 高 丽 王 朝 时 代 创 作 了 不 少 为 陶 渊 明 歌 功 颂 德 以 及 模 仿 其 归 去 来 诗 而 和 的 和 归 去 来 辞 的 诗 歌 李 贤 辅 也 正 是 这 么 一 位 追 求 者 他 崇 拜 陶 渊 明 热 衷 地 模 仿 陶 的 人 生 观 为 后 人 留 下 了 有 名 的 归 去 来 诗 他 为 了 表 明 自 己 也 同 样 拥 有 归 去 来 之 心 境 吟 咏 有 効 嚬 歌 一 首 在 朝 鲜 王 朝 的 文 人 中 他 早 就 有 隐 居 之 心 这 在 他 的 渔 父 辞 作 品 中 可 以 推 察 出 他 的 隐 遁 思 想 对 韩 国 后 期 的 文 人 骚 客 们 均 颇 有 影 响 力 本 次 发 表 目 的 在 于 详 细 解 读 李 贤 辅 的 归 去 来 一 诗 在 以 往 的 研 究 史 中 李 贤 辅 诗 作 的 解 读 工 作 并 未 能 完 成 同 时 还 有 不 少 误 解 之 处 比 如 : 1996 年 郑 英 文 氏 曾 在 他 的 名 为 聾 巖 李 贤 辅 文 学 作 品 中 所 表 达 的 自 然 观 论 文 中 ( 刊 登 在 崇 实 大 学 院 ) 指 出 : 聾 巖 李 贤 辅 的 浪 漫 主 义 之 风 格 并 不 是 来 自 于 老 庄 思 想 他 的 文 学 理 念 中 包 含 着 彻 头 彻 尾 的 儒 教 观 念 在 其 文 学 作 品 中 没 有 发 现 对 道 家 的 兴 趣 爱 好 确 确 实 实 在 李 贤 辅 与 他 的 诗 友 之 唱 和 诗 文 中 涉 足 于 山 水 之 中 尽 情 享 受 大 自 然 的 美 景 抒 发 老 庄 思 想 的 招 隐 情 怀 的 诗 句 不 乏 其 数 另 外 对 効 嚬 歌 诗 中 的 待 清 风 明 月 于 草 堂 一 句 的 注 释 也 频 有 异 议 一 种 解 释 为 欲 待 另 一 种 则 认 为 应 是 久 待 2002 年 成 昊 庆 氏 的 聾 巖 李 贤 辅 的 人 生 和 诗 歌 ( 震 檀 学 報 第 九 十 三 号 ) 的 论 文 中 对 以 上 二 种 解 释 的 产 生 原 因 提 出 : 前 一 种 是 凭 借 着 对 往 经 验 而 归 总 出 的 主 观 性 解 释 ; 后 一 种 则 是 因 为 某 种 原 因 或 依 据 而 产 生 出 的 必 然 性 解 释 然 而 我 个 人 认 为 这 二 种 不 同 的 解 释 之 所 以 会 发 生 关 键 问 题 还 应 归 结 到 对 读 诗 中 所 引 用 的 典 故 大 家 理 解 不 够 充 分 有 关 换 而 言 之 欲 解 释 清 楚 这 二 种 不 同 的 译 法 必 须 要 先 从 读 诗 的 诗 题 去 刨 根 问 底 所 以 说 本 次 发 表 就 正 是 欲 以 这 个 方 法 来 明 确 地 指 出 李 贤 辅 的 归 去 来 诗 之 真 正 含 义 首 先 我 通 过 分 析 李 贤 辅 和 他 的 诗 友 李 滉 李 彦 迪 周 世 鵬 等 人 的 唱 和 诗 来 证 明 李 贤 辅 所 拥 有 的 乐 于 驻 足 于 山 水 之 间 内 心 充 满 了 老 庄 思 想 之 情 怀 的 事 实 其 次 通 过 对 効 嚬 歌 结 句 出 典 的 二 种

11 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 271 不 同 解 释 的 分 析 来 考 证 其 真 正 的 出 处 我 以 为 効 嚬 一 词 出 自 于 庄 子 < 天 运 篇 > 的 第 十 四 段 它 的 主 要 内 容 是 天 其 运 乎 地 其 处 乎 日 月 其 争 于 所 乎 孰 主 张 是 孰 维 纲 是 孰 居 无 事 推 而 行 是 只 要 能 准 确 理 解 这 一 主 题 思 想 二 种 不 同 解 释 的 分 歧 点 就 迎 刃 而 解 了 本 发 表 的 目 的 就 是 针 对 这 二 种 解 释 进 行 具 体 地 分 析 重 新 考 证 李 贤 辅 地 隐 遁 思 想 并 通 过 了 解 李 贤 辅 的 人 生 观 以 及 诚 深 性 地 对 归 去 来 诗 进 行 出 典 的 考 证 来 掌 握 其 诗 的 真 正 寓 义 李 贤 辅 在 朝 鲜 王 朝 初 期 曾 改 作 过 渔 父 歌 是 韩 国 隐 逸 文 学 代 表 诗 人 通 过 一 系 列 地 精 心 考 证 和 比 较 欲 即 可 了 解 朝 鲜 王 朝 的 隐 遁 风 潮 又 期 待 在 不 久 的 将 来 能 对 渔 父 辞 一 诗 重 新 做 进 一 步 地 解 释

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13 동아시아에 있어서 剪 燈 新 話 의 수용양상 - 愛 情 類 작품을 중심으로 - 박 애화 ( 고려대학교 석사 ) Ⅰ. 들어가며: 명나라 瞿 佑 에 의해 창작된 剪 燈 新 話 는 한국을 비롯하여 일본, 베트남에도 그 번안작이 있다는 것은 주지의 사실이다. 지금까지 각 나라에서 剪 燈 新 話 관련 작품에 대한 비교연구 가 활발하게 진행되어 왔는데 그 관련 작품들을 도표로 표시하면 아래와 같다. 國 家 作 品 名 作 者 年 代 中 国 剪 燈 新 話 瞿 佑 1378 年 韓 国 金 鰲 新 話 金 時 習 1465 年 경 日 本 伽 婢 子 浅 井 了 意 1666 年 越 南 傳 奇 漫 錄 阮 嶼 年 본 발표에서는 이 네 작품을 비교연구 대상으로 정하고, 가장 유사한 작품을 선정하여 1:1 형식의 기존 비교방법이 아닌 비슷한 유형의 작품군에 대한 유형별 비교, 분석을 통해 작품의 전체적인 특성에 대해 알아보고자 한다. 특히 애정류( 愛 情 類 ) 작품에 대해 유형별 분류를 하고 그 내용에 대한 구체적인 비교분석을 통해 각 작품에 나타나는 공통점과 차이점, 그리고 작품 속에 함축된 각 나라 나름의 문화적인 요소와 주제의식을 파악하여 현재까지 이루어진 연구의 보완, 재고의 기회를 갖고자 한다. Ⅱ. 1. 본론 작품의 분류 역대의 문언소설은 개인 신상의 사적인 것을 쓴 별전류( 別 傳 類 ) ( 史 傳 類 라고도 할 수 있 다.), 무용적인 것이나 의협적인 것을 기술한 의협류( 義 俠 類 ), 연애이야기를 말한 염정 류( 艶 情 類 ) 및 신괴스럽고 괴이한 것을 적은 신괴류( 神 怪 類 ) 의 종류로 구분되어 왔지만 각 나라 작품 특성상 본고에서는 작품들을 크게 애정류( 愛 情 類 ) 와 비애정류( 非 愛 情 類 ) 작품군1) 으로 분류를 하고 애정류 작품의 비교분석에 중점을 두고 있다. 다음은 剪 燈 新 話 金 鰲 新 話 伽 婢 子 傳 奇 漫 錄 에 나타나는 애정류 소설의 효과적 1) 애정류와 비애정류 작품군 분류는 주로 중국, ( 乔 光 辉 明 代 剪 灯 系 列 小 说 研 究 北 京 : 中 国 社 会 科 学 出 版 社, 2006 年 12 月 ) 일본 ( 吉 由 樹 子 伽 婢 子 恋 愛 譚 に見 る了 意 の性 愛 観 活 水 日 文 ( 第 39卷 )pp.29-41; 吉 由 樹 子 伽 婢 子 における 恋 愛 譚 と和 歌 的 伝 統 活 水 日 文 ( 第 36卷 )pp.1-14; 堤 邦 彦 伽 婢 子 の 幽 霊 女 房 譚 新 日 本 古 典 文 学 大 系 ( 月 報 97第 75卷 )pp.1-4) 학자들의 분류방법을 참조하였다. 애정류 작품의 유형분류에 있어서 주로 전혜경의 韓 中 越 傳 奇 小 說 의 비교 연구: 剪 燈 新 話 金 鰲 新 話 傳 奇 漫 錄 을 중심으로 ( 숭실대학교 대학원. 박사학위논문. 1995) 를 참조하였다. 다른 점이라면 기존의 연구에서 다루지 않았던 일본의 작품 伽 婢 子 를 추가하였다. 또한 분류방법에 있어서는 위 논문은 당 전기 분류 기준을 도입하여 작품을 크게 염정류와 신괴류 두 가지 유형으로 분류 하였는데 일본의 伽 婢 子 내지 다른 작품에서 당전기와 변별되는 작품들이 다소 들어있기 때문에 본 발표는 작품들을 크게 애정류와 비애정류 두 가지 유형( 기존의 선행연구에서 염정류에서 배제된 일부 작품에 대해 본고에서는 작품 특성상 애정류 작품으 로 간주하고 분류하였다. ) 으로 분류하고 애정류 작품군 내부에서 유형별 분류를 통해 비교를 시도해 보고자 한 다.

14 274 동아시아 인문전통과 문화역학 인 비교를 위해 남녀 주인공의 만남의 양상에 따라 아래 세 가지 유형으로 나누어 본 것이다. 첫째: 현실계-- 현실계 生 男 과 生 女 ( 현실계 男 女 ) 의 이합을 다룬 작품군 ( 현실 세계에서 남 녀 주인공이 만나 서로 사랑을 하는 작품) 둘째: 현실계에서 비현실계- 현실계 生 男 과 生 女 의 이합이 비현실계까지 이어지는 작품군 (남녀 주인공이 현실에서 만나 사랑을 하다 한 사람 혹은 두 사람 모두 그 어떠한 계기로 죽게 되어 후에 유령으로 나타나 그 사랑이 비현실계까지 이어지는 작품) 셋째: 비현실계-- 生 男 과 비현실계의 女 鬼 ( 유령, 꽃의 정령, 동물의 환신 등) 의 이합 혹은 生 男 이 女 鬼 의 복수로 죽게 돼 나중에 男 鬼 와 女 鬼 가 함께 나타나는 유형의 작품 이상의 분류를 작품과 연결하여 도표로 만들면 다음과 같다. ( 도표: 첨부자료 참조) 2. 작품을 통해 본 현실계에서 비현실계로 이어지는 작품군의 특성 현실에서 비현실로 이어지는 작품군, 즉 현실에서 인간인 두 남녀가 만나 사랑을 하다 어떠 한 계기로 여자가 먼저 죽음을 맞이하게 된다. 이런 스토리 구성은 剪 燈 新 話 에서 金 鳳 釵 記 와 愛 卿 傳 두 편이 보이고 金 鰲 新 話 는 李 生 窺 墻 傳, 伽 婢 子 는 真 紅 撃 帯, 遊 女 宮 木 野, 死 亦 契, 歌 を媒 として契 る 총 네 편이 보이며 傳 奇 漫 錄 은 麗 娘 傳 한 편이다. 일본의 真 紅 撃 帯, 遊 女 宮 木 野 는 각각 金 鳳 釵 記 와 愛 卿 傳 의 충실한 번안이고 歌 を媒 として契 る 는 李 生 窺 墻 傳 의 번안작인 것은 이미 선행연구에서 밝혀진 바 있다. 아래 작품 속 등장인물, 애정갈등, 이야기의 종결방식 등에 있어서 작품들이 어떠한 수용양상을 보이고 있는지 살펴보도록 하겠다. 1) 등장인물 등장인물은 소설 전반을 이끄는 주체로서 소설에서 그 중요성은 간과할 수 없다. 작자들은 흔히 인물 설정에 있어서 자신의 취향이나 지향에 걸맞는 인물 형상을 창조하는데 국적이 서 로 다른 작자 또한 인물설정 면에서의 相 異 함이 더 뚜렷할 것이다. 먼저 현실계에서 비현실계 로 이어지는( 男 + 女 -> 男 + 女 鬼 ) 작품 속에 나타나는 남녀 주인공의 인물설정을 보도록 하자. 金 鳳 釵 記 와 愛 卿 傳 의 등장인물을 보면 남주인공과 여주인공의 이름이 모두 밝혀져 있고 신분 또한 관가나 대대로 벼슬을 지내온 부유한 집 아들, 여주인공 또한 재색겸비하고 지체 높 은 집 딸이나 명기로 설정이 되어 남녀 신분에 있어서 서로 대응된다. 李 生 窺 墻 傳 의 인물설정을 보면 남녀 주인공 모두 학식과 교양이 있고 숙덕재학을 겸비 한 양반사회의 전형적 인물상을 그려내고 있다. 李 生 은 18세의 유학을 공부하는 준수한 용모 를 가진 서생이고 崔 氏 또한 15-16세 정도의 무남독녀인 양가집 규수로서 재색을 겸비하고 학식과 교양이 있는 아련한 여인이다. 두 사람 모두 정확한 이름은 밝히지 않았지만 성만 보더 라도 완전한 조선인이고 상류 사회의 신분을 지닌 이로서의 전형임에 틀림이 없다. 伽 婢 子 는 번안작이라는 특수성으로 인해 작품의 내용과 구성상 원전과 흡사하지만 인 물설정에 있어서는 남녀 주인공 이름과 신분 모두 전형적인 일본인으로 나타나고 있다. 이와 같은 인물설정은 작품이 그 나라 실정에 부합되는 본토화 과정에 큰 역할을 했다고 해도 무리

15 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 275 는 아니다. 遊 女 宮 木 野 는 愛 卿 傳 의 번안작으로 신분설정에 있어서 원전의 명기인 애경 대신 일본인에게 익숙한 유녀로 설정이 되어 독자들에게 친근감을 주고 있다. 李 生 窺 墻 傳 의 영향을 받은 歌 を媒 として契 る 에서 남주인공의 나이는 원전의 18세로부터 21세로 바뀌 었으면 여주인공도 15-16세에서 17-18세로 바뀌어 약간의 차이를 보이고 있으나 신분설정에 있어서는 큰 차이가 없다. 金 鳳 釵 記 의 번안작인 真 紅 撃 帯 에서 남녀 주인공 모두 상인 집 아들이나 부가 집 딸로 설정이 되어 원전의 관가 집 자식이라는 설정과 차이를 보이고 있 다. 이와 같이 了 意 는 伽 婢 子 가 번안작인 만큼 전체적인 이야기 구성은 그대로 수용을 하 면서도 인물설정에 있어서는 본토화시키려는 노력을 엿볼 수 있다. 전체적으로 봤을 때 伽 婢 子 의 남자 주인공은 주로 상인이나 일반 서민, 서생과 같은 평범한 신분이다. 이러한 평민신 분의 인물설정은 작자가 서문에서 밝힌바와 같이 목적으로 쓴 책이라는 그의 취지와 부합된다. 伽 婢 子 는 일반서민을 대상으로 교화를 傳 奇 漫 錄 의 남녀 주인공 佛 生 과 麗 娘 은 서로 동갑이고 남녀 모두 지체 높은 집 가문의 자식으로 剪 燈 新 話 의 인물설정과 극히 유사하다. 이를 통해 베트남이 중국과 지정학적인 연계가 많음으로 인해 중국의 영향을 가장 많이 받았음을 알 수 있다. 2) 남녀의 애정갈등 현실에서 비현실로 이어지는 작품군의 전반적인 이야기 구성을 보면 처음 두 남녀가 만나 사랑을 하는 과정에서 사랑에 대한 태도는 남자에 비해 여자가 더 적극적이다. 뿐만 아니라 남 자는 여자와 만나 사랑하는 과정에 흔히 애정과의 갈등( 주관적, 사회적 혹은 기타) 을 겪게 되 는데 이 또한 두 남녀가 이별이란 불행을 맞이하게 되는 직접적인 계기가 된다. 작자가 살았던 시대나 지리적 환경, 각 나라의 문화적 차이 그리고 작품을 통해 나타내려는 작자의 주제의식 이 모두 다른 만큼 각 작품에 나타나는 애정갈등도 여러 형태로 나타나고 있다. 瞿 佑 의 剪 燈 新 話 에서 남자의 애정갈등은 주로 전란이나 남자의 공명, 출세가 주를 이루 고 있음을 다음의 인용문을 통해 알 수 있다. 얼마 후에 최씨는 다른 지방으로 멀리 벼슬자리를 떠났는데 한번 가더니 십오 년 동안이나 일 자 무소식이었다. 2) ( 金 鳳 釵 記 ) 얼마 지나지 않아 조생은 부친의 옛 동료가 이부상서가 되었다는 편지를 보내와 대도로 그를 불러 올려 강남의 한 벼슬자리를 주려 한다고 했다. 조생은 가자니 늙은 어머니와 혼자 남은 아 내가 걱정이 되었고 안가자니 모처럼 생긴 출세의 기화를 놓치는 것 같아 주저하며 결정하지 못 했다. 3) ( 愛 卿 傳 ) 이상의 인용문을 통해 알 수 있듯이 剪 燈 新 話 에서 남자의 애정갈등은 주로 공명 또는 출세와의 갈등이다. 金 鳳 釵 記 에서 興 哥 는 벼슬하는 아버지를 따라 다른 지방으로 갔다가 15년 동안 소식이 없자 여자는 남편에 대한 그리움에 마음에 병이 들어 죽게 되는 비극을 맞 이하게 된다. 또한 愛 卿 傳 에서 조생은 출세의 기회를 놓치기 아까워 결혼한 지 얼마 되지 않은 아내를 두고 대도로 올라갔다가 張 士 誠 의 亂 으로 돌아오는 길이 끊기고 아내 또한 정절 을 지키기 위해 자결을 하게 된다. 즉 남자가 공명과 애정 사이에서 갈등하다가 결국 출세의 2) 既 而 崔 君 游 宦 遠 方, 凡 一 十 五 載, 并 無 一 字 相 聞. 3) 未 久, 趙 子 有 父 黨 為 史 部 尚 書, 以 書 自 大 都 召 之, 許 授 以 江 南 一 官. 趙 子 欲 往, 則 恐 貽 母 之 憂 ; 不 往, 則 又 失 功 名 之 會, 躊 躇 未 決.

16 276 동아시아 인문전통과 문화역학 길을 선택하게 되고, 전란으로 오랜 시간 동안 되돌아 올 수 없는 사이 여자가 죽게 되는 것이 다. 이러한 갈등구조는 瞿 佑 자신의 처지와 연관이 있지 않을까 생각된다. 어렸을 때부터 문학 적 재능이 출중한 瞿 佑 지만 한 번도 제대로 뜻을 펴지 못한 그의 기구한 운명과 인생이 남자 의 공명, 출세를 내세우는 형식으로 작품 속에 투영되었다고 말할 수 있겠다. 그리고 전란이 빈번하고 사회가 불안정한 원말명초시대를 살아온 작자는 전란이 백성들에게 가져다주는 비극 상을 작품을 통해 여실히 반영하고 있다. 아래 李 生 窺 墻 傳 의 인용문을 보도록 하자. 어느 날 저녁에 이생의 아버지가 물었다. 네가 아침에 집을 나갔다가 저물어 돌아오는 것은 옛 성인이 남기신 인의의 격언을 배우려는 것이다. 그런데 요사이는 저물녘에 집을 나가 새벽에 돌아오니 이게 어찌된 일이냐? 필시 경박한 놈의 짓을 하여, 남의 집 담장을 넘어가서 단향목이 나 꺾고 다니는 것일테지. 일이 만일 환하게 드러나면 남들은 내가 자식을 엄히 가르치지 못하였 다고 책망할 것이다. 또 만일 네 놈이 만나는 그 아가씨가 지체 높은 집안의 딸이라면 반드시 네 미친 짓 때문에 저쪽 가문을 더럽혀 남의 집에 누를 끼치게 될 것이야. 어허, 이 일은 작은 일이 아니로다. 빨리 영남으로 내려가서 노복들을 데리고 농사 감독이나 하거라. 그리고 다시는 돌아 오지 말아라. 4) ( 李 生 窺 墻 傳 ) 나도 젊어서부터 책을 잡소 경전을 팠으나 늙도록 성공을 하지 못했소. 그러자 노복들은 도망 가서 흩어지고 친척의 도움도 적어서 생활이 어렵고 살림이 고단하다오. 그런데 하물며 지체 높 고 번성한 집안에서 어찌 한낱 빈한한 선비를 마음에 두어 사위로 삼으려 하신단 말이오? 이는 반드시 일 좋아하는 사람들이 내 가문을 지나치게 칭찬해서 귀댁을 속인 것일 겝니다. 5) ( 李 生 窺 墻 傳 ) 위의 두 인용문을 통해 알 수 있듯이 李 生 窺 墻 傳 에 나타나는 애정갈등은 주로 당시 엄 격한 사회윤리제도, 신분제도와 자유연애를 갈망하는 두 청춘남녀 간의 갈등이다. 그럼에도 불 구하고 두 사람은 온갖 시련을 극복하고 결혼하지만 결국엔 紅 巾 敵 의 亂 으로 인해 남녀가 離 散 되고 崔 氏 女 는 정절을 지키기 위해 도적에게 살해된다. 이와 같이 처음 두 남녀의 애정갈등 은 주로 사회윤리제도와의 갈등이지만 나중에 전란이 애정갈등의 주된 원인으로 전환되면서 결국 비극을 맞이하게 된다. 다음은 伽 婢 子 에 나타나는 남자의 애정갈등을 나타내는 대목이다 년 가을, 아사쿠라의 잔당이 봉기를 해서 이타도리. 기노메도우게. 하치후세. 이마죠. 히우 치. 스이즈. 류몬지 등 각 지역의 요새에 할거했다. 그러던 중에 와카바야시 나가토 수령이 가와 노의 새로운 성에 칩거하고 있는 사이, 노부나가. 노부타다 부자가 팔 만 여 기의 군사를 이끌고 쓰루가에 진을 쳤다. 노부나가는 기노시타 도기치로에게 명령하여 가와노 성을 에워싸게 했다. 히가키는 와카바야시 일족이었기 때문에 쓰루가에 있다가 처벌받을 것이 두려워 일가를 이끌고 연고를 찾아 교토로 올라갔다. 히가키는 교토로 간지 5년이 지나도록 쓰루가에는 전연 기별을 하 지 않았다. 6) ( 真 紅 撃 帯 ) 4) 一 夕, 李 生 之 父 問 曰, 汝 早 出 而 暮 還 者, 將 以 學 先 聖 仁 義 之 格 言. 昏 出 而 曉 還, 當 爲 何 事? 必 作 輕 薄 子, 踰 垣 墻, 折 樹 檀 耳. 事 如 彰 露, 人 皆 譴 我 敎 子 之 不 嚴, 而 如 其 女, 定 是 高 門 右 族, 則 必 以 爾 之 狂 狡, 穢 彼 門 戶, 獲 戻 人 家, 其 事 不 小. 速 去 嶺 南, 率 奴 隸 監 農, 勿 得 復 還! 卽 於 翼 日, 謫 送 蔚 州. 5) 吾 亦 自 少, 把 冊 窮 經, 年 老 無 成. 奴 僕 逋 逃, 親 戚 寡 助, 生 涯 疏 闊, 家 計 伶 俜, 而 況 巨 家 大 族, 豈 以 一 介 寒 儒, 留 意 爲 贅 郞 乎? 是 必 好 事 子, 過 譽 吾 家, 以 誣 高 門 也. 6) 天 正 三 年 の秋 朝 倉 が余 党 がおこり 出 て 虎 杖 木 芽 峠 鉢 伏 今 条 火 燧 吸 津 竜 門 寺 諸 方 の要 害 に楯 ごもる その中 に

17 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 277 교토에는 세이로쿠의 외숙부가 있었다. 세이로쿠의 어머니의 동생으로 계속해서 병을 앓다가 죽음을 예감하고 사람을 보내어 말하기를 세이로쿠를 보내 달라, 말할 것이 있다. 라는 전언 이 왔다. 어머니는 너무나 슬퍼하며 어서 올라가 보거라. 마음은 날아가고 싶지만 여자의 몸이 기에 그럴 수도 없구나. 너는 남자이니 무엇이 어렵겠냐. 어서 가서 외삼촌의 임종을 보고 오렴. 하고 말했다. 세이로쿠는 어떻게 해야 할까 결정하기 어려워 괴로워했다. 7) ( 遊 女 宮 木 野 ) 어느 날 나가타니의 아버지가 너는 학업을 등한시하고 있는 게 아니냐...( 중략)이는 반드시 경 박하고 추잡한 일을 하고 다니면서 남의 벽을 허물고 담장을 넘으면서 옳지 못한 행동을 하는 것 이라 생각된다. 이 일이 드러나면 몸은 살아있어도 진흙탕에 빠지고 이름은 흙먼지를 뒤집어써 추문에 시달리고 세상에 나설 수 없는 존재가 돼버린다. 만약 너와 정분이 난 처녀가 명가의 규 수라면 반드시 너 때문에 가문을 욕되게 하고 그녀 자신은 초라하고 볼품없는 신세로 전락할 뿐 만 아니라 그 죄과가 우리 집안에도 미칠 것이다. 이 일은 대단히 중요한 일이다. 오늘부터 문 밖 출입을 금한다. 라며 방에 나가타니를 가두고 심하게 책망을 했다. 8) ( 歌 を媒 として契 る ) 伽 婢 子 에서 애정갈등은 전란 또는 사회윤리나 신분제도도 존재하지만 다른 세 작품에서 는 전혀 보이지 않는 애정과 부모에 대한 효와의 갈등이 두드러지게 나타나고 있다. 愛 卿 傳 의 번안작인 遊 女 宮 木 野 에서는 원작의 공명, 출세와 애정과의 갈등과는 달리 자식의 효를 강조하기 위한 갈등, 즉 남자가 신혼임에도 불구하고 외숙부의 임종을 지키기 위 해 어머니의 부탁으로 아내를 집에 두고 교토로 갔다가 전란으로 길이 끊겨 1년 동안 돌아오 지 못한다. 그 사이 아내는 적들에게 붙잡혀 정절을 지키기 위해 자진을 하게 된다. 그리고 死 亦 契 에서는 엄격한 신분제도를 반영하고 있는 비천한 가문의 자식으로 태어난 나머지 자기 여인을 지키지 못하고 결국에는 보다 생활이 윤택한 사촌형에게 빼앗기고 마는 갈등구조 도 등장한다. 歌 を媒 として契 る 는 李 生 窺 墻 傳 의 번안작인 만큼 처음엔 신분제도와 자 유연애와의 모순이 주를 이루지만 두 남녀가 시련을 극복하고 맺어진다. 그러나 그 행복은 얼 마 지속되지 못하고 끝내는 応 仁 의 乱 으로 정절을 지키려던 여인이 살해당하고 만다는 원전과 흡사한 갈등구조를 보이고 있다. 이와 같이 伽 婢 子 에서는 여러 가지 애정갈등이 나타나며 특히 다른 작품에서 볼 수 없는 효와 애정갈등이 등장한 것이 특징이다. 다음은 麗 娘 傳 에서 발췌한 인용문이다. 이생은 여랑이 진말의 건신 연간에 질간진( 陳 渴 眞 ) 의 화( 禍 ) 를 만나 궁녀가 되는 바람에 크게 낙담했다. 9)...( 중략) 호 왕조 말에 명나라 장수 장보가 군대를 나누어 쳐들어와 서울을 공격했 다...( 중략) 그러니까 5 일 전이겠군요. 명군이 한창 떠날 채비를 할 때, 완씨는 주씨와 정씨 두 若 林 長 門 守 は河 野 の新 城 にこもりしかば 信 長 信 忠 父 子 八 万 余 騎 を率 して 敦 賀 に着 ぢんあり 木 下 藤 吉 郎 におほせ て 河 野 の城 をとりかこませらる 檜 垣 平 太 は 若 林 が一 門 なれば 敦 賀 にありて 尤 られむ事 をおそれ 一 家 を開 の きて 所 縁 につきて 京 都 にのぼり 五 年 までと ゞ まりつ ゝ その間 に敦 賀 のかたへは 風 のたよりもなし 7) 京 都 に叔 父 あり 清 六 が母 のため 弟 なり しきりに 心 地 わづらひしかば 死 べくおぼえて 人 をくだしていひけるやう 清 六 をのぼせ給 へ いひをくへき 事 侍 り といふに 母 かぎりなくかなしく 思 ひ いそぎのぼりてみよ お ぢぁら女 の身 なれば 飛 立 ばかりに思 へども をもかなはず 和 殿 は男 なれば 何 かくるしかるべき その有 様 見 とゞ けて給 といふ 清 六 いかゞ すべきと 案 じわづらふ 8) ある日 兵 部 が父 とひけるやう なんぢは 学 文 に物 うき心 のつき侍 へるかや ( 中 略 ) かならず 軽 薄 濫 行 のたぐひ をもとめて 人 の壁 をこぼち 墻 をこえて まさなきふるまひするかとおぼゆ その事 あらはれ 侍 べらば 身 は生 なが ら泥 淤 にしづみ 名 はそれながら 塵 芥 にけがされ 世 になしものとなりはつべし 若 又 かたらふ 女 さだめて 高 家 のむ すめならば 罪 科 はさだめてわが 門 族 におよばむ その事 きはめて 大 事 也 今 日 よりして 門 より外 に出 べからず と て 一 間 の所 にをしこめて ことの 外 にいましめたり 9) 胡 建 興 已 卬, 遭 噶 眞 之 禍, 女 遂 入 宮, 生 大 失 所 望.

18 278 동아시아 인문전통과 문화역학 부인에게 이렇게 말했다고 합니다. 우리는 연약한 아녀자 몸으로 운명이 기구하여 나라와 집이 망해 흘러 흘러 여기에까지 오게 되었어요. 이제 다시 명군과 함께 북으로 간다한들 그곳은 낯 선 타향일 테니, 고향이 멀지않은 이곳에서 죽는 것이 이국에서 죽어 고혼이 되는 것보다는 낫지 않겠어요? 그 뒤, 세 사람은 모두 스스로 목숨을 끊었는데 명나라 장군은 그 절개를 동정하여 예를 다해 산등성이에 묻어 주었다고 합니다. 10) ( 麗 娘 傳 ) 傳 奇 漫 錄 麗 娘 傳 에 나타나는 애정갈등은 주로 전란으로 인해서 생긴 것이다. 질간진 의 화를 만난 여랑은 내전과 명나라의 침입으로 인해 궁녀로 전락되고, 그 후 명나라 군에게 쫓기는 신세로 지내다가 끝내 자결을 하고 마는 여인의 불운 내지 강한 애국심을 보여주고 있 다. 이는 내란과 명나라의 침입을 받고 있었던 베트남 내유외환의 특수한 역사적 시기, 전쟁과 명나라에 대한 작자의 분노를 작품을 통해 여실히 보여주고 있다. 3)유령의 출현과 결말 이상에서 서술한 바와 같이 현실에서 비현실로 이어지는 작품 군, 특히 남녀의 사랑이 비현 실로 이어지는 주된 원인은, 남자나 사회와의 애정갈등이고 여자는 갈등의 직접적인 희생자가 된다. 현실계에서 부부나 약혼 관계에 있었던 두 남녀는 결국 여인의 죽음으로 가슴 아픈 이별 을 하게 되는데, 이야기는 이것으로 끝을 맺는 것이 아니라 죽은 여인은 결국 여귀로 나타나 남자와 짧은 만남을 가졌다가 다시 사라지면서 이야기가 종결된다. 다음은 생남과 여귀의 만남과 이별의 계기, 이야기의 종결방식에 있어서 각 작품들이 어떤 공통점과 차이점이 있는지 살펴보도록 하겠다. 金 鳳 釵 記 의 번안 작인 真 紅 撃 帯 에서는 원전과 같이 언니가 동생의 몸에 빙의되어 나타나 원전의 신물인 < 금봉채> 대신 < 撃 帯 > 를 매개로 남자와 만나 1년 동안 사랑을 하게 된다. 愛 卿 傳 과 李 生 窺 墻 傳, 遊 女 宮 木 野 에서는 주로 죽은 여인을 다시 한 번 만나 보고 싶다는 남자의 간절한 마음에 감동해 여인이 나타나는데, 특히 遊 女 宮 木 野 에서는 다 른 작품과 달리 여인이 나타나 생전에 자신의 정절을 지키고, 부모에 대한 효도를 다한 덕택에 남자아이로 다시 태어날 수 있었음을 강조하여 작품의 교훈적 의미를 부여하고 있다. 歌 を媒 として契 る 와 麗 娘 傳 은 여인이 한 번만이라도 나타나달라는 남자의 애원에 의해 현실이 아닌 남자의 꿈속에 나타났다는 특수한 공간설정에서 다른 작품들과 차이점을 보 이고 있다. 伽 婢 子 의 死 亦 契 에서는 권세가인 사촌형에게 빼앗긴 아내가, 이미 저세상 사람이 된 것도 모르는 채 소식이 없는 아내를 원망하며 지내고 있었는데, 어느 날 여인 스스 로 유모와 함께 나타났다는 설정을 통해 일본 여성의 강한 집착심을 엿볼 수 있다. 흔히 작자는 이야기의 종결방식을 통해 독자들에게 작품의 창작 의도나 메시지를 전달하는 데, 현실에서 비현실로 이어지는 작품 군 또한 그들의 이야기 결말구조에 공통점과 차이점들이 보인다. 먼저 金 鳳 釵 記 와 愛 卿 傳 의 번안 작인 真 紅 撃 帯 와 遊 女 宮 木 野 는 원작의 종 결방식을 그대로 따르고 있다. 즉 金 鳳 釵 記 와 真 紅 撃 帯 두 편 모두 동생의 몸에 빙의 되어 나타난 유령인 언니가 동생의 병을 치유해주고, 사랑했었던 남자와 자신의 여동생과의 혼 인을 맺어주는 해피엔딩의 결말구조에 치우치고 있다. 愛 卿 傳 과 遊 女 宮 木 野 의 여주인공 愛 卿 과 宮 木 野 는 이 세상 남자아이로 환생했고, 남자 또한 그 집안과 친척관계를 맺어 지금까 10) 胡 氏 末, 明 將 張 輔 分 兵 入 寇, 侵 掠 京 城...( 中 略 ) 前 五 日, 北 軍 方 欲 旋 駕, 阮 氏 謂 朱, 鄭 二 夫 人 曰 : 我 輩 質 輕 蒲 柳, 命 薄 朱 鉛, 國 破 家 亡, 流 離 至 此. 若 更 從 出 塞, 便 是 他 鄕 風 景 ; 曷 若 委 填 丘 壑, 密 邇 鄕 關, 免 作 北 朝 孤 鬼 矣! 因 皆 自 盡, 將 軍 憫 其 有 操, 以 禮 葬 在 山 椒.

19 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 279 지 왕래를 끊지 않았다는 설정 면에서 큰 차이가 없다. 李 生 窺 墻 傳 에서 여인이 이승에서 3 년이란 인연이 다했음을 고하고 흔적을 감추자 이생은 여인의 부탁대로 유골을 거두어 부모의 묘소 곁에 부장해주고 장례를 지낸 뒤 그리움에 못 이겨 끝내 죽음을 맞이하게 되는 비극적인 결말을 가져오게 된다. 李 生 窺 墻 傳 의 번안 작인 歌 を媒 として契 る 에서는 남자가 끝내 죽음을 맞이하는 원작 과 똑같은 결말구조를 보이고 있지만 여인의 유골을 거두어 주거나 장례를 치러주는 대목이 삭제되어 있어 차이점을 보이고 있다. 死 亦 契 에서 겐고는 히코하치의 조언으로 그제야 아 내와 유모가 유령임을 알아채게 되었고, 두 사촌형제는 서로 화해하고 함께 고야산으로 들어가 도를 닦았다는 결말구조를 갖고 있는데, 이 역시 가족단위를 중심으로 하여 독자들에게 교훈적 역할을 하려는 서문의 취지와 부합된다. 歌 を媒 として契 る 와 死 亦 契 에서 남자가 출가를 하든가 도를 닦았다는 대목이 나오는 데, 이는 작자 자신이 승려인 것과 불교의 무상관으로 현실을 도피하려는 그의 의도를 엿볼 수 있다. 麗 娘 傳 의 결말에서는 이생이 슬픈 마음으로 고향으로 돌아와서 다시 장가들지 않고 黎 太 祖 의 휘하에 들어가 명나라 침략자를 물리치는데 큰 힘이 됐다는 설정을 통해 작자는 작 품창작에 있어서 항상 명나라의 침입이란 역사적 배경을 염두에 두고 있음을 알 수 있다. 이는 당시 명나라의 침입을 받았던 베트남 백성들에게 강한 애국심을 불러일으켰고, 자주독립을 갈 망하는 베트남 인민들의 염원을 작품을 통해 표출하는 작용을 한 점에서, 다른 세 작품과 비교 해 볼 때 민족적 정서가 가장 높은 작품이라 할 수 있겠다. Ⅲ. 결론: 앞서 剪 燈 新 話, 金 鰲 新 話, 伽 婢 子, 傳 奇 漫 錄 남녀의 만남의 양상에 따른 애 정류 작품의 분류와 현실에서 비현실로 이어지는 작품군의 인물설정, 애정갈등, 그리고 결말구 조에 대한 비교, 분석을 통해 알 수 있듯이, 작품마다 전체적인 이야기 흐름은 비슷하지만 원 전의 내용을 그대로 답습한 것이 아니라, 원작에 대한 작자의 변용과 재창조의 과정을 거쳐 자 국화 한 흔적을 엿볼 수 있었다. 게다가 당시 각 나라의 풍속이나 문화, 시대적 배경, 작자의 창작의도에 대해서도 적절하게 잘 표현을 하였다. 또한 이 네 작품은 공통의 한자문화권속에 있는 中 韓 日 越 네 나라의 소설비교에 있어서도 좋은 참고적 가치가 될 것이다. < 摘 要 > 剪 灯 新 话 在 东 亚 的 流 传 与 接 受 - 以 爱 情 类 作 品 为 中 心 - 朴 爱 花 ( 高 丽 大 学 硕 士 ) Ⅰ. 引 论 : 众 所 周 知 明 朝 瞿 佑 所 撰 写 的 剪 灯 新 话 在 韩 国 日 本 以 及 在 越 南 都 有 它 的 翻 案 作 各 个 国 家 对 剪 灯 新 话 以 及 相 关 作 品 的 研 究 也 非 常 活 跃, 剪 灯 新 话 其 关 联 作 品 如 下 图 所 示 :

20 280 동아시아 인문전통과 문화역학 國 家 作 品 名 作 者 年 代 中 国 剪 灯 新 话 瞿 佑 1378 年 韓 国 金 鳌 新 话 金 时 习 1465 年 左 右 日 本 伽 婢 子 浅 井 了 意 1666 年 越 南 传 奇 漫 錄 阮 屿 年 本 文 以 以 上 四 个 作 品 为 研 究 对 象 在 方 法 论 上, 先 前 的 研 究 主 要 是 选 定 最 为 类 似 的 单 一 作 品 进 行 一 对 一 的 比 较, 但 本 文 从 类 似 的 作 品 群 着 手, 通 过 比 较 和 分 析, 试 图 把 握 作 品 整 体 的 特 征 根 据 内 容 对 爱 情 类 作 品 进 行 了 分 类, 通 过 对 内 容 具 体 的 比 较 分 析, 总 结 作 品 的 共 同 点 与 不 同 点, 把 握 隐 含 在 作 品 中 的 各 个 国 家 所 特 有 的 文 化 因 素 和 作 者 的 主 题 思 想, 希 望 通 过 此 文 论 能 起 到 完 善 和 反 思 先 前 研 究 的 作 用 Ⅱ. 正 论 1. 作 品 的 分 类 ( 参 照 附 表 ) 2. 阳 间 的 爱 情 延 续 到 阴 间 的 作 品 群 特 征 考 察 各 个 作 品 的 人 物 爱 情 纠 葛 故 事 的 终 结 方 式 上 的 传 承 状 况 1) 人 物 在 人 物 设 定 上 各 个 国 家 的 作 者 试 图 把 人 物 塑 造 成 本 土 形 象 金 鰲 新 話 塑 造 了 典 型 的 朝 鲜 人 的 形 象, 伽 婢 子 塑 造 了 平 民 百 姓 的 形 象 伽 婢 子 的 作 者 在 序 言 中 曾 提 到 撰 写 伽 婢 子 的 目 的 在 于 教 化 百 姓, 作 品 的 人 物 设 定 与 作 者 的 这 一 写 作 旨 意 相 符 三 个 作 品 中, 传 奇 漫 錄 与 剪 灯 新 话 的 人 物 设 定 极 为 相 似, 从 中 可 以 看 出, 由 于 越 南 和 中 国 在 地 政 学 上 密 不 可 分 的 关 系, 越 南 受 中 国 作 品 的 影 响 非 常 深 2) 男 女 的 爱 情 纠 葛 剪 灯 新 话 中 呈 现 的 男 人 的 爱 情 纠 葛 主 要 是 爱 情 与 功 名 的 纠 葛 这 可 能 与 作 者 瞿 佑 本 身 的 生 活 经 历 以 及 他 的 遭 遇 有 关 李 生 窺 墻 傳 中 体 现 的 是 当 时 的 社 会 伦 理 制 度 身 份 制 度 与 渴 望 自 由 恋 爱 的 一 对 青 春 男 女 之 间 的 纠 葛 伽 婢 子 中 的 爱 情 纠 葛 因 于 战 乱 社 会 伦 理 以 及 身 份 制 度, 同 时 还 存 在 爱 情 与 对 父 母 的 孝 之 间 的 矛 盾, 这 是 其 他 三 个 作 品 所 不 具 有 的 特 征 传 奇 漫 錄 中 的 爱 情 纠 葛 主 要 由 战 乱 引 起 的 当 时 越 南 处 于 因 内 乱 和 明 朝 的 入 侵, 内 忧 外 患 的 特 殊 历 史 时 期, 作 品 如 实 地 反 映 了 作 者 对 战 争 和 明 朝 的 痛 恨 之 心 3) 幽 灵 的 出 现 以 及 结 尾 翻 案 作 品 的 结 尾 结 构 很 大 一 部 分 保 留 了 原 作 的 结 构, 但 又 有 细 微 的 差 别 例 如, 金 鰲 新 話 的 结 尾 体 现 了 逃 避 现 实 的 消 极 悲 观 的 内 容, 伽 婢 子 的 结 尾 有 教 化 的 寓 意, 传 奇 漫 錄 结 尾 体 现 了 高 昂 的 民 族 情 绪 Ⅲ. 结 论 : 受 剪 灯 新 话 的 影 响 改 编 的 三 个 作 品 整 体 的 故 事 情 节 与 原 作 大 致 相 同 但 可 以 看 出 改 编 和 再 创 作 的 过 程 当 中 作 者 试 图 在 作 品 中 形 成 自 己 国 家 所 特 有 的 风 格 通 过 比 较 分 析 可 以 得 出 各 个 作 品 都 很 好 地 反 映 了 当 时 各 个 国 家 的 风 俗 文 化 时 代 背 景 以 及 作 者 的 写 作 意 图

21 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 281 < 要 旨 > 東 アジアに於 ける 剪 燈 新 話 の受 容 様 相 - 愛 情 類 作 品 を中 心 に- 朴 愛 花 ( 高 麗 大 学 修 士 ) Ⅰ. 初 めに: 明 の 瞿 佑 という人 によって創 作 された 剪 燈 新 話 は韓 国 は勿 論 のこと日 本 ベトナムにもその 翻 案 作 があることは周 知 のことである いままでそれぞれの国 で 剪 燈 新 話 関 連 作 品 の比 較 研 究 が活 発 に行 われていたが その関 連 作 品 の概 要 は次 のとおりである 國 家 作 品 名 作 者 年 代 中 国 剪 燈 新 話 瞿 佑 1378 年 韓 国 金 鰲 新 話 金 時 習 1465 年 頃 日 本 伽 婢 子 浅 井 了 意 1666 年 越 南 傳 奇 漫 錄 阮 嶼 年 本 稿 は上 記 した四 つの作 品 を比 較 研 究 の対 象 とする また方 法 論 においても 既 存 のもっとも類 似 な作 品 を選 定 して1:1 に比 較 する方 法 論 ではなく 類 似 類 型 の作 品 群 を比 較 分 析 することで作 品 の全 体 的 な特 徴 を検 証 する 特 に愛 情 類 作 品 については類 型 別 に分 類 してその内 容 を具 体 的 に 分 析 することでその 共 通 点 差 異 点 および作 品 の中 に含 蓄 されている国 ごとの文 化 要 素 と主 題 意 識 を把 握 し また本 稿 をもっていままでのこの分 野 での研 究 を補 完 再 考 したいと思 う Ⅱ. 本 論 1. 作 品 の 分 類 ( 添 付 資 料 の図 をご 参 照 ) 2. 作 品 を通 してみた現 実 世 界 から非 現 実 世 界 に繋 がっていく作 品 群 の特 徴 作 品 のなかの 登 場 人 物, 愛 情 葛 藤, ストーリーの終 結 方 式 に於 いてどういう受 容 様 相 を見 せている かを検 証 する 1) 登 場 人 物 登 場 人 物 を設 定 においては各 作 品 とも人 物 を自 国 の風 俗 に合 わせて現 地 化 しようする作 者 の意 図 が見 られる 伽 婢 子 で平 民 を登 場 人 物 にしたのは 作 者 が序 文 で述 べたように著 作 の目 的 が 一 般 庶 民 の教 化 にあるという作 者 の趣 旨 と符 合 している また 金 鰲 新 話 でも完 全 な朝 鮮 人 像 を描 いたが 傳 奇 漫 錄 では 剪 燈 新 話 の人 物 設 定 と非 常 に類 似 していることが見 られる これはベトナムが地 政 学 的 に中 国 と深 く関 わっていてもっともその影 響 を受 けていたことが分 か る 2) 男 女 の愛 情 葛 藤 剪 燈 新 話 では男 における愛 情 葛 藤 はおもに功 名 出 世 による葛 藤 である これは瞿 佑 自 身 の 境 遇 とも関 連 しているのでないかと思 う 李 生 窺 墻 傳 に見 られる愛 情 葛 藤 は当 時 の厳 格 な社 会 倫 理 制 度 身 分 制 度 と自 由 恋 愛 を渇 望 する二 人 の青 春 男 女 との葛 藤 である 伽 婢 子 では戦 乱 社 会 倫 理 また身 分 制 度 による愛 情 葛 藤 も見 られるが 他 の三 つの作 品 にな い愛 情 と親 に対 する孝 との葛 藤 も存 在 する 傳 奇 漫 錄 での愛 情 葛 藤 は主 に戦 乱 によって生 じたもので この時 期 ベトナムは内 乱 と明 の侵 略 という内 憂 外 患 の特 殊 の歴 史 時 期 であって 作 品 を通 して戦 争 と明 に対 する作 者 の怒 りの感 情

22 282 동아시아 인문전통과 문화역학 が見 られる 3) 幽 霊 の出 現 と結 末 各 作 品 の結 末 構 造 は原 作 を受 容 しながらも少 し異 なるところがある 例 えば 金 鰲 新 話 は現 実 を逃 避 しようとする消 極 悲 劇 的 な結 末 構 造 で 伽 婢 子 は教 訓 の意 味 が加 味 された結 末 構 造 が特 徴 であり 傳 奇 漫 錄 は 溢 れる 民 族 情 緒 が見 られる結 末 構 造 である Ⅲ. 結 論 : 剪 燈 新 話 の影 響 を受 けて創 作 されて三 つの作 品 は全 体 的 な流 れとしては原 作 と似 ているが 著 者 における変 容 と再 創 作 の過 程 を経 て自 国 化 された痕 跡 が見 られた それに当 時 各 国 の風 俗 や 文 化 時 代 背 景 著 者 の創 作 意 図 が作 品 によく反 映 されたと言 うことが本 稿 を通 して検 証 するこ とができた

23 浄 土 巡 歴 譚 攷 ~ 日 蔵 夢 記 について 菊 地 真 はじめに 本 稿 は 浄 土 巡 歴 譚 としての 日 蔵 夢 記 を 東 アジア 文 学 史 上 にどう 位 置 づけるかに 関 する 最 新 の 調 査 報 告 である 日 蔵 夢 記 はテキストの 発 見 も 研 究 対 象 として 取 り 上 げられたのも 古 いこと ではない それでも 神 道 研 究 山 岳 修 験 道 研 究 御 霊 研 究 等 それぞれの 視 点 から 日 蔵 夢 記 への アプローチがされてきている( 金 原 理 菅 原 道 真 研 究 史 ( 国 文 学 解 釈 と 鑑 賞 第 37 巻 12 号 ) 1992 年 10 月 山 本 五 月 吉 原 浩 人 編 菅 原 道 真 天 神 信 仰 研 究 文 献 目 録 抄 ~1990 年 以 降 ( 国 文 学 解 釈 と 鑑 賞 第 67 巻 4 号 )2002 年 4 月 にこれまでの 研 究 が 整 理 されている) 私 もその 冥 界 巡 歴 譚 と 経 典 との 関 連 について この 文 献 の 東 アジアの 冥 界 巡 歴 説 話 受 容 相 の 詳 細 について ま た 同 時 代 の 東 アジア 冥 界 巡 歴 説 話 全 般 の 傾 向 の 中 でどういう 位 置 にあるかについて 研 究 報 告 して きた( 二 つの 天 神 伝 説 ~ 藤 原 保 忠 をめぐる 日 蔵 夢 記 と 大 鏡 ( 平 成 16 年 度 説 話 文 学 会 春 期 大 会 研 究 発 表 )2004 年 6 月 ) 扶 桑 略 記 の 道 真 霊 観 ~ 日 蔵 夢 記 との 比 較 を 通 じて ( 平 成 17 年 度 中 古 文 学 会 春 期 大 会 研 究 発 表 2005 年 5 月 ) 'Le leggenda di Tenjin nell' Okagami ( 大 鏡 の 天 神 伝 説 )' Il Giappone che cambia vol.27 Associazione Italiana per gli Studi Giapponesi(イタ リア 日 本 研 究 学 会 )2005 年 9 月 日 蔵 夢 記 の 年 紀 記 事 攷 ~ 道 賢 銘 経 筒 銘 文 との 比 較 考 察 ( 平 成 17 年 度 和 漢 比 較 文 学 会 大 会 研 究 発 表 )2005 年 10 月 日 蔵 夢 記 の 経 典 受 容 ~ 冥 界 巡 歴 譚 と しての 比 較 研 究 ( 平 成 19 年 度 仏 教 文 学 会 大 会 研 究 発 表 )2007 年 6 月 冥 界 巡 歴 譚 出 発 場 面 に 関 する 和 漢 比 較 考 証 ~ 古 代 中 国 伝 奇 から 日 蔵 夢 記 へ~( 第 99 回 和 漢 比 較 文 学 会 例 会 ( 西 部 ) 於 京 都 女 子 大 学 2008 年 4 月 ) 今 回 は 巡 歴 対 象 となった 冥 界 を 浄 土 に 限 定 して 平 安 時 代 の 兜 率 天 浄 土 受 容 相 に 関 する 先 行 研 究 の 成 果 を 踏 まえ 経 典 漢 籍 等 の 東 アジア 冥 界 巡 歴 説 話 を 資 料 に 比 較 文 学 的 調 査 した 結 果 を 報 告 する 日 蔵 夢 記 に 関 する 研 究 そのものがあまり 多 いとはいえない 加 え て 兜 率 天 浄 土 巡 歴 場 面 は 日 蔵 夢 記 にのみあって 流 布 している 扶 桑 略 記 所 引 道 賢 上 人 冥 途 記 にはない このため 研 究 対 象 として 取 り 上 げられるのが 遅 れたため この 箇 所 に 論 点 を 絞 った 先 行 研 究 は 皆 無 である 日 蔵 の 兜 卒 天 浄 土 巡 歴 に 関 して 以 下 の 問 題 がある: 1 実 在 した 人 物 名 が 数 多 く 出 てくること 2すでに 金 峯 山 浄 土 に 越 境 した 日 蔵 がさらに 別 の 浄 土 である 兜 率 天 にいくこと 3 兜 率 天 での 描 写 が 天 女 とか 男 女 交 接 など 極 楽 浄 土 と 異 なる 場 面 の 多 いこと なお 本 稿 の 永 久 寺 本 日 蔵 夢 記 本 文 は 北 野 天 満 宮 蔵 私 に 同 神 宮 より 許 可 を 得 て 撮 影 した 写 真 より 翻 刻 したものである 1. 日 蔵 夢 記 兜 率 天 巡 歴 譚 の 確 認 日 蔵 夢 記 は 七 つの 場 面 から 成 る: 1 道 賢 ( 日 蔵 )が 金 峯 山 修 行 中 絶 命 2 金 峯 山 浄 土 3 日 本 大 政 威 徳 天 ( 菅 原 道 真 ) 城 4 兜 率 天 浄 土 5 地 獄 6 満 徳 法 主 天 ( 宇 多 法 皇 ) 城 7 日 蔵 蘇 生

24 284 동아시아 인문전통과 문화역학 兜 率 天 巡 歴 譚 は 日 本 大 政 威 徳 天 城 で 現 在 の 国 土 災 難 の 原 因 が 菅 原 道 真 の 怨 心 にあることを 明 か された 話 の 後 地 獄 巡 見 で 醍 醐 天 皇 霊 に 救 済 を 求 められる 譚 の 前 にある その 本 文 は 以 下 のとおり である: 兜 率 天 巡 見 譚 五 丁 オモテ~ 七 丁 オモテ a 菩 薩 又 曰 仏 子 汝 見 斗 率 天 不 答 令 見 之 菩 薩 申 手 教 西 南 方 空 見 指 末 即 至 斗 率 天 遥 見 有 七 宝 垣 其 光 甚 朗 耀 也 垣 上 垣 傍 有 無 数 億 千 宝 樹 仏 子 経 宝 林 中 漸 至 一 高 楼 下 千 万 億 宝 珠 以 為 荘 厳 如 是 楼 閣 其 数 不 可 称 計 也 一 々 楼 前 衆 宝 林 間 有 流 泉 浴 池 以 無 量 宝 樹 交 雑 荘 厳 其 水 色 種 々 光 深 映 徹 其 水 上 有 無 量 宝 楼 一 々 楼 下 生 衆 宝 蓮 花 其 蓮 花 上 有 数 十 天 女 以 七 宝 瓔 珞 荘 厳 其 身 出 微 妙 音 歌 詠 遊 戯 亦 虚 空 中 無 量 楽 音 又 宝 林 間 無 数 百 千 男 女 交 接 快 楽 仏 子 臨 宝 泉 上 滲 手 瀬 口 其 水 香 美 凡 界 無 比 類 身 心 歓 喜 合 掌 佇 立 b 時 十 六 人 人 天 女 来 囲 繞 仏 子 讃 嘆 仏 子 問 此 之 七 宝 楼 閣 是 何 物 一 第 一 天 女 以 和 歌 答 之 五 十 八 ツ 白 玉 瑕 不 付 ヌ 人 ノ 入 リ 久 ル 門 ニ 也 波 安 良 奴 止 云 天 共 散 之 奴 又 見 従 西 方 一 天 人 来 容 儀 甚 端 正 数 十 天 女 囲 繞 之 見 仏 子 云 我 是 日 本 延 喜 王 東 宮 太 子 也 性 正 直 愛 楽 仏 法 衆 生 此 天 処 也 又 見 一 天 人 来 一 諸 天 女 囲 繞 見 仏 子 云 我 是 日 本 大 将 也 我 在 世 時 帰 依 仏 法 不 信 邪 法 尽 忠 竭 孝 不 狂 世 務 尤 生 此 天 我 旧 宅 坐 純 金 明 王 我 朝 夕 所 持 念 供 養 也 云 諸 多 省 繁 云 々 c 又 見 静 観 観 賢 正 宝 等 僧 正 寛 平 全 等 老 僧 共 来 執 仏 子 讃 云 善 哉 善 哉 我 金 峯 牟 尼 神 通 力 得 詣 此 天 甚 希 有 也 甚 奇 特 也 当 共 入 内 院 礼 拝 天 主 即 相 引 共 入 内 院 荘 厳 不 可 勝 計 有 一 師 子 坐 高 大 如 山 無 数 妙 法 厳 飾 七 宝 大 蓮 花 開 敷 繞 其 坐 其 上 虚 空 有 微 妙 大 宝 帳 以 百 千 万 妙 毛 飾 之 以 真 珠 為 羅 網 懸 無 量 宝 鈴 無 量 天 人 大 衆 恭 敬 囲 繞 無 数 天 女 或 執 妙 蓮 花 或 執 白 払 三 方 行 立 有 無 数 楼 閣 太 摩 尼 珠 周 匝 厳 飾 荘 厳 不 可 具 述 大 宝 座 上 有 金 色 妙 蓮 花 其 蓮 花 上 有 真 金 色 光 凝 湛 最 清 浄 眼 界 不 能 見 此 即 慈 尊 妙 色 身 也 仏 子 五 体 投 地 恭 敬 礼 拝 即 自 光 明 中 有 音 告 曰 仏 子 汝 時 未 至 早 帰 本 土 随 釈 迦 遺 教 勤 恪 精 進 不 行 放 逸 生 涯 畢 後 宜 生 於 我 天 也 其 音 声 柔 軟 和 雅 聴 即 流 涙 不 覚 即 生 至 金 峯 白 斗 率 天 既 見 終 ( 口 語 訳 a 菩 薩 はまた そなたは 兜 率 天 を 見 たいですか いやですか と 言 うので 私 は 見 させてください と 答 えました 菩 薩 は 手 を 伸 ばして 西 南 方 の 空 を 示 しました 菩 薩 の 指 の 先 を 見 るととたんに( 兜 率 天 に 来 ていました はるかに 見 わたせば 七 宝 の 垣 が 有 ります その 七 宝 の 光 はたいそうきらきらと 輝 いていました 垣 の 上 垣 のかたわらに 無 数 の 宝 でできた 樹 が 立 ち 並 んでいます 私 は 宝 樹 林 の 中 を 通 り 抜 けて ようやく 一 棟 の 高 楼 の 下 に 来 ました 高 楼 は 千 万 億 の 宝 珠 でおごそかに 装 飾 されています このような 楼 閣 が 数 え 切 れないほどありました 一 つ 一 つの 楼 の 前 には たくさんの 宝 樹 林 の 間 に 流 泉 浴 池 があります 無 数 の 宝 樹 が 雑 木 林 となっ て その 泉 や 池 を 飾 っていました そこにたたえられた 水 に 宝 樹 のさまざまな 色 の 光 が 奥 深 く 映 えています その( 池 )のほとりに 数 知 れぬほどの 宝 楼 群 が 建 ち 並 んでいました 一 つ 一 つの 楼 の 下 には たくさんの 宝 でできた 蓮 華 が 咲 いています その 蓮 華 の 上 に 数 十 人 の 天 女 がいまし た 彼 女 たちは 七 宝 の 瓔 珞 で その 身 を 飾 っています この 上 なくすばらしい 音 楽 を 演 奏 しながら 歌 を 歌 ったり 詩 を 詠 じたりして 遊 び 戯 れていました そして 大 空 から 絶 え 間 なく 音 楽 が 何 曲 も 聞 こえます また 宝 林 の 間 では 数 知 れぬ 男 女 が 性 交 し 快 楽 を 楽 しんでいます 私 は 宝 泉 の 上 に 来 て 手 をすすぎ うがいをしました その 水 は 香 ばしく またおいしくて 俗 界 のそれとは 比 べものになりません 私 は 身 も 心 もありがたさにふるえて 合 掌 したままたたずんでいました b この 時 合 わせて 十 六 人 の 天 人 と 天 女 がやって 来 て 私 を 取 り 囲 み 賛 美 しました 私 は この

25 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 285 七 宝 楼 閣 では 何 をもって 第 一 とするのですか と 尋 ねました 第 一 の 天 女 が 五 戒 十 善 法 八 斎 戒 という 白 玉 のように 尊 い 仏 の 教 えを 傷 つけることなく 守 り 通 した 人 の 入 る 門 ではないのでし ょうか いや まがうかたなくその 門 なのです と 和 歌 で 答 えました こう 言 いおわると 天 人 と 天 女 たちは 散 り 散 りに 行 ってしまいました 見 ると 西 から 一 人 の 天 人 が 来 ました その 姿 形 は とても 端 正 です 数 十 の 天 女 が 彼 を 取 り 囲 んでいます 私 を 見 ると 私 は 日 本 延 喜 王 ( 醍 醐 天 皇 ) の 東 宮 太 子 ( 保 明 親 王 )です 私 は 生 前 正 直 で 仏 法 と 衆 生 を 大 事 にしました それで 今 この 天 界 にいるのです と 言 いました また 一 人 天 人 がやって 来 ました 多 くの 天 女 が 取 り 囲 んでいます 私 を 見 ると 私 は 日 本 大 将 ( 藤 原 保 忠 )です 私 は 在 世 中 仏 法 に 帰 依 し 邪 法 を 信 じず 朝 廷 に 忠 を 親 には 孝 を 尽 くし 国 家 社 会 のことでは 公 正 に 処 してきました だからいちばんにこの 天 界 に 生 まれました 自 宅 には 純 金 の 不 動 明 王 が 鎮 座 ましましていました 私 は 一 日 中 一 心 に 供 養 してい ました などと 言 います いろいろ 多 くの 話 がありましたが 繁 雑 なので 省 略 します c また 見 ると 静 観 観 賢 聖 宝 などの 僧 正 が 寛 平 全 等 といった 老 僧 と 一 緒 にやって 来 ます 私 を 迎 えて すばらしい 私 たちが 信 奉 する 金 峯 牟 尼 の 神 通 力 が あなたをこの 天 界 に 来 させた めったにないことです まさに 仏 の 力 です いっしょに 内 院 に 入 ってこの 天 界 の 主 弥 勒 仏 を 礼 拝 しょう と 賛 美 しました そこで 手 をとりあって 内 院 に 入 りました 内 院 を 飾 る 立 派 な 荘 厳 具 は 数 え 尽 くせません 獅 子 座 が 一 つあります その 高 く 大 きいことは まるで 山 のようでした 数 え 切 れない 素 晴 らしい 宝 で 荘 厳 され 七 宝 の 大 きな 蓮 花 が 咲 き 開 いてその 座 を 取 り 囲 みます 座 の 上 の 空 間 には とてつもなく 大 きくて 美 しい 垂 れ 幕 がかかっていました 無 数 のえもいわれない 草 木 で その 垂 れ 幕 は 飾 られます 真 珠 仕 立 ての 羅 網 に 無 数 の 宝 物 で 仕 立 てられた 鈴 がかかっていました 無 数 の 天 人 や 僧 が 恭 しく 礼 拝 しています 獅 子 座 を 取 り 巻 く 無 数 の 天 女 は 白 い 払 子 を 手 に 持 ちま す 獅 子 座 の 方 角 以 外 の 三 方 向 に 無 数 の 楼 閣 が 立 ちならび 大 摩 尼 珠 がそれを 荘 厳 しています そ の 壮 麗 な 様 は 言 葉 にできません 豪 華 な 宝 仕 立 ての 座 上 に 金 色 の 蓮 華 があります その 蓮 華 の 上 に 金 色 の 光 が 輝 きます あまりにも 清 く 澄 んだ 様 は 清 浄 の 極 で 見 通 しきれません これこそ 弥 勒 仏 のお 姿 です 私 は 五 体 投 地 して 恭 しく 礼 拝 します すると 輝 く 光 の 中 から 声 がしました その 声 は 仏 弟 子 よ まだそなたがここに 来 るべき 時 ではありません すぐにそなたのもとの 世 界 に 帰 りな さい 釈 迦 如 来 の 遺 された 教 えに 従 い 忠 実 に 修 行 を 続 け 怠 けたりしなければ その 生 涯 を 終 え た 後 この 世 界 に 転 生 できるでしょう と 告 げました その 声 は 柔 らかくて 聴 いて 心 和 むものでし た 私 は 涙 が 流 れました すると 意 識 がなくなり そのままの 姿 で 金 峯 山 に 戻 っていました 私 は 兜 率 天 を 見 て 参 りました と 菩 薩 に 申 し 上 げました ) 兜 率 天 巡 歴 譚 は 三 つの 部 分 に 分 かれる: a 五 丁 オモテ~ 六 丁 オモテ 太 政 威 徳 天 に 札 の 謎 を 解 いてもらい 道 賢 は 日 蔵 と 改 名 金 峯 山 頂 に 帰 ると 菩 薩 に 兜 率 天 行 きを 命 じられる 兜 率 天 は 宝 樹 泉 楼 閣 が 並 び 天 人 と 天 女 が 音 楽 を 奏 でる 浄 土 である b 六 丁 オモテ~ 六 ウラ 天 女 が 日 蔵 に 和 歌 を 送 った 続 いて 保 明 親 王 とか 藤 原 保 忠 静 賢 など の 知 った 人 が 現 れる c 六 丁 ウラ~ 七 丁 オモテ 日 蔵 は 兜 率 天 内 院 に 詣 で 弥 勒 仏 に 拝 謁 感 涙 を 流 すや 金 峯 山 上 に 帰 っていた 地 獄 から 天 の 一 部 までは 欲 界 ( 食 欲 淫 欲 睡 眠 欲 等 欲 望 のある 世 界 )と 見 なされるが その 天 の 一 部 で 欲 界 に 属 する 世 界 を 六 欲 天 といい 上 位 から 他 化 自 在 天 化 楽 天 兜 率 天 夜 摩 天 忉 利 天 四 王 天 で 下 位 の 二 つまでが 須 弥 山 にあり 地 居 天 と 呼 ばれ 上 位 の 四 天 は 空 中 にあり 空 居 天 と

26 286 동아시아 인문전통과 문화역학 いう 兜 率 天 は 第 四 天 にあたる 日 蔵 夢 記 の 兜 率 天 浄 土 描 写 記 事 は 基 本 的 には 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 天 経 弥 勒 下 生 経 弥 勒 下 生 成 仏 経 弥 勒 大 成 仏 経 を 出 典 としている これら 仏 経 典 は 日 蔵 夢 記 に 限 らず およそ 日 本 における 冥 界 巡 見 記 の さらに 仏 画 仏 像 や 仏 教 説 話 に おける 兜 率 浄 土 描 写 の 原 典 となったことは 早 くから 指 摘 されている( 岩 本 裕 目 連 救 母 伝 説 国 語 国 文 35/ 年 参 考 ) 2. 実 在 した 人 物 名 が 数 多 く 出 てくる 問 題 この 問 題 については 愚 考 を 含 む 先 行 研 究 がすでにある しかし 他 の 問 題 とも 関 連 することなの で 本 稿 ではそれを 確 認 しておく 兜 率 天 には 平 安 中 期 に 実 在 した 高 僧 たちが 多 く 現 れる [ 兜 率 天 の 高 僧 たち 六 ウ] 又 見 るに 静 観 観 賢 正 宝 等 の 僧 正 寛 平 全 等 の 老 僧 共 に 来 た り 仏 子 を 執 り 讃 へて 云 はく 善 いかな 善 いかな 我 が 金 峯 牟 尼 の 神 通 力 此 の 天 に 詣 るを 得 しむ 甚 だ 希 有 なり 甚 だ 奇 特 なり 当 に 共 に 内 院 に 入 り 天 主 を 礼 拝 すべし 即 ち 相 引 きて 共 に 内 院 に 入 る 静 観 ら 三 人 は 僧 正 という 公 認 の 地 位 にありつつ 修 験 道 との 関 わりが 指 摘 される 僧 である 寛 平 全 等 老 僧 は 醍 醐 寺 系 真 言 宗 に 属 する 僧 か 修 験 道 の 僧 として 当 時 名 が 知 られていた 人 物 だろう か 本 文 の 問 題 もあるようで 未 詳 である 静 観 ~ 正 宝 ( 聖 宝 )~ 観 賢 は 三 代 の 師 弟 関 係 にある 静 観 は 興 福 寺 本 僧 綱 補 任 巻 二 裏 書 静 観 僧 正 伝 逸 文 に 聖 宝 の 弟 子 という 記 事 があり 醍 醐 寺 蔵 本 伝 法 灌 頂 資 師 相 承 血 脈 には 増 命 の 師 となっている 聖 宝 は 承 平 七 ( 九 三 七 ) 年 に 朝 命 によっ て 書 かれた 醍 醐 根 本 僧 正 伝 には 於 金 峯 山 建 堂 幷 造 居 高 六 尺 金 色 如 意 輪 観 音 幷 彩 色 一 丈 多 門 天 王 金 剛 蔵 王 菩 薩 像 於 現 光 寺 造 弥 勒 丈 六 幷 一 丈 地 蔵 菩 薩 像 金 峯 山 要 路 吉 野 河 辺 設 船 申 置 渡 子 傜 丁 六 人 とある( 大 隅 和 雄 聖 宝 理 源 大 師 1976 参 照 ) 本 文 献 のこの 箇 所 にこれ ら 醍 醐 寺 系 真 言 宗 系 統 の 僧 の 名 が 並 び 見 えることは 日 蔵 夢 記 を 語 り 始 めた 人 物 を 推 定 してい く 上 で 重 要 な 示 唆 となる 東 寺 長 者 補 任 には 日 蔵 夢 記 のこの 部 分 の 引 用 が 見 える ( 山 本 五 月 道 賢 上 人 冥 途 記 の 成 立 ( 仏 教 文 学 22 平 成 10.3) 兜 率 天 巡 歴 に 先 立 つ 金 峯 山 浄 土 での 蔵 王 菩 薩 と 日 蔵 の 会 話 にも 実 在 の 僧 の 名 があがる [ 金 峯 山 浄 土 三 ウ]( 蔵 王 菩 薩 ) 汝 護 法 菩 薩 を 師 と 為 し 重 ねて 浄 戒 を 受 けよ と 仏 子 言 はく 護 法 菩 薩 を 知 らず 名 は 是 れ 誰 々 と 菩 薩 曰 はく 諸 菩 薩 日 本 国 に 多 く 仏 法 僧 を 興 す 護 法 たるべき 者 仁 斅 上 人 是 なり と 云 々 仁 斅 (にんかう)は 平 安 前 期 興 福 寺 の 法 相 宗 僧 で 台 密 も 兼 学 した 円 宗 如 無 玄 宗 に 師 事 し 一 乗 院 定 昭 の 師 である 天 暦 2(948) 年 に 権 大 僧 都 法 務 天 暦 3(949) 年 に 75 歳 で 没 先 行 研 究 には 仁 斅 が 東 寺 長 者 補 任 に 嵯 峨 僧 都 と 号 したことと 本 文 献 後 段 の 嵯 峨 野 大 沢 池 の 登 場 との 関 連 を 示 唆 する( 竹 井 明 男 永 久 寺 本 道 賢 上 人 冥 土 記 に 関 する 二 三 の 問 題 古 代 文 化 39-1,1987)ものや 仁 斅 の 弟 子 である 定 昭 が 本 文 献 の 創 作 に 関 わっているのではないかと 推 論 する ( 山 本 五 月 道 賢 ( 日 蔵 ) 伝 承 の 展 開 ( アジア 遊 学 22 論 争 道 賢 経 筒 の 真 贋 平 成 12.12))も の 等 がある 私 はこれに 加 えて 日 蔵 夢 記 は 摂 関 家 に 親 しく 出 入 りする 僧 としての 仁 斅 に 期 す る 何 かがあったものと 推 測 する 仁 斅 は 後 撰 和 歌 集 に 歌 が 入 集 している 左 大 臣 の 家 に 脇 息 心 ざし 贈 るとてくはへける けふそくをおさへてまさへよろづよに 花 のさかりを 心 しづかに( 巻 二 十 慶 賀 )

27 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 287 詞 書 にいう 左 大 臣 とは 藤 原 実 頼 であるから 仁 斅 は 実 頼 と 親 交 があったようである 日 蔵 夢 記 では 醍 醐 天 皇 霊 宇 多 法 皇 霊 がともに 忠 平 あての 伝 言 を 日 蔵 に 託 している その 日 蔵 を 仁 斅 に 師 事 させようというのであるから 日 蔵 夢 記 には 国 政 に 指 針 を 与 えようという 著 述 意 図 があ ると 推 測 できる 静 観 観 賢 正 宝 にしても 僧 正 という 国 政 に 影 響 を 及 ぼし 得 る 地 位 にある 僧 た ちである 彼 らが 選 ばれていることの 一 つの 意 義 はここにあったのではないか [ 保 明 親 王 霊 六 ウ] 又 見 るに 西 方 従 り 一 天 人 来 たり 容 儀 甚 だ 端 正 なり 数 十 の 天 女 之 を 囲 繞 す 仏 子 を 見 て 曰 はく 我 は 是 日 本 延 喜 王 の 東 宮 太 子 なり 性 正 直 にして 仏 と 法 と 衆 を 愛 楽 せしがゆへに 此 の 天 処 に 生 ずるなり と 日 本 延 喜 王 の 東 宮 太 子 とは 醍 醐 天 皇 皇 子 で 皇 太 子 であった 保 明 親 王 のことである その 早 死 は 道 真 霊 の 怨 念 によると 当 時 の 世 間 は 考 えた 癸 未 延 長 元 年 三 月 二 十 一 日 依 皇 太 子 臥 病 大 赦 天 下 子 刻 皇 太 子 保 明 親 王 薨 年 二 十 一 天 下 庶 人 莫 不 悲 泣 其 声 如 雷 挙 世 云 菅 帥 霊 魂 宿 忿 所 為 也 ( 日 本 紀 略 ) 延 喜 二 三 年 癸 未 三 月 二 十 一 日 皇 太 子 保 明 親 王 無 病 薨 年 二 十 一 歳 妖 怪 見 宮 闈 訛 言 満 閭 巷 主 上 恐 懼 臣 下 驚 動 四 月 二 十 日 故 太 宰 菅 帥 詔 復 本 位 閏 四 月 十 一 日 改 延 喜 二 十 三 年 為 延 長 元 年 天 下 咳 病 多 以 爰 亡 矣 ( 扶 桑 略 記 ) 保 明 親 王 は 昌 泰 の 変 の 時 にはまだ 世 にいないから 関 与 しようもない 彼 の 死 は 道 真 霊 によってひ きおこされた 国 難 の 一 方 的 被 害 者 である 浄 土 に 往 生 しても 不 自 然 ではない 保 明 親 王 霊 が 浄 土 にいることは 問 題 ない 問 題 があるのはこれに 続 く 藤 原 保 忠 の 形 象 であるが これについての 私 見 は 既 に 公 開 している(KIKUCHI, Makoto 'Le leggenda di Tenjin nell' Okagami ( 大 鏡 の 天 神 伝 説 )' Il Giappone che cambia vol.27 Associazione Italiana per gli Studi Giapponesi(イタリア 日 本 研 究 学 会 )2005 年 9 月 )ので 本 稿 ではその 概 要 のみ 記 す [ 藤 原 保 忠 霊 六 ウ] 又 一 天 人 来 るを 見 る 諸 の 天 女 囲 繞 せり 仏 子 を 見 て 云 はく 我 是 日 本 大 将 なり 我 世 に 在 りし 時 仏 法 に 帰 依 し 邪 法 を 信 ぜず 忠 を 尽 くし 孝 を 竭 くし 世 務 を 狂 らず 尤 も 此 の 天 に 生 ず 我 が 旧 宅 に 純 金 の 明 王 を 坐 す 我 朝 夕 に 持 念 供 養 するな り と 日 本 大 将 とは 藤 原 保 忠 である 寛 平 2(890) 年 に 藤 原 時 平 の 長 男 として 生 まれた 母 は 一 品 式 部 卿 本 康 親 王 女 廉 子 延 長 8(930) 年 大 納 言 承 平 2(932) 年 兼 右 大 将 同 6(936) 年 没 日 蔵 夢 記 のように 多 くの 記 録 書 史 料 はこの 人 物 が 篤 信 で 仕 事 のできる 名 臣 である 一 方 音 楽 にも 長 じた と 伝 える これと 別 の 人 物 像 を 伝 えようとしているのが 大 鏡 である かくてこのおとど( 菅 原 道 真 )つくしにおはしまして 延 喜 三 年 癸 亥 二 月 二 十 五 日 にうせ 給 し ぞかし 御 年 五 十 九 にて さて 後 七 年 ばかりありて 左 大 臣 時 平 のおとど 大 臣 の 位 にて 十 一 年 ぞおはしける 本 院 大 臣 と 申 この 時 平 のおとどの 御 女 の 女 御 もうせ 給 御 孫 の 春 宮 も 一 男 八 條 大 将 保 忠 卿 もうせ 給 にきかし この 大 将 冬 はもちゐのいと 大 なるをば 一 ちひさき をば 二 をやきて やき 石 のやうに 御 身 にあててもちたまへりけるに ぬるくなれば ちゐさき をばひとつづ おほきなるをばなかよりわりて 御 車 副 になげとらせ 給 ける あまりなる 御 用 意 なりかし そのよにもみみにもとどまりて 人 の 思 ければこそ かくいひつたへためれ この とのぞかし やまひづきて さまざま 祈 りし 給 薬 師 経 読 経 まくらがみにてせさせ 給 に 所 謂 宮 毘 羅 大 将 とうちあげたるを 我 を くびる とよむ 也 けり とおぽしけり 臆 病 にや がてたえいり 給 へば 経 の 文 といふ 中 にも こはきものの 気 にとりこめられ 給 へる 人 に げに

28 288 동아시아 인문전통과 문화역학 あやしくはうちあげてはべりかし さるべきとはいひながら ものはおりふしのことだまも 侍 こと 也 あさましき 悪 事 を 申 をこなひたまへりし 罪 により このおとど( 時 平 )の 御 末 はお はせぬなり ( 時 平 伝 ) 保 忠 は 治 病 のための 薬 師 経 読 経 の 所 謂 宮 毘 羅 大 将 という 声 を 自 分 を くびる と 聞 き 誤 り 臆 病 心 の 余 りに 息 絶 えた 仏 典 にくらく 信 心 のない 愚 者 という 人 物 像 を 伝 えている これは 大 鏡 独 自 の 見 方 であり 史 料 も 同 時 代 文 学 もこれと 正 反 対 の 保 忠 像 を 伝 える 保 忠 の 早 死 は 時 平 一 族 に 祟 る 道 真 の 怨 霊 によるもので 時 平 流 滅 亡 の 一 現 象 ととらえるのも 大 鏡 に 始 まる 見 方 であっ て 史 料 の 伝 える 史 実 も 史 学 の 現 行 の 通 説 もこれとは 違 う( 菊 地 真 大 鏡 の 養 子 攷 ( 水 門 19 号 2001 年 2 月 )) 3.すでに 金 峯 山 浄 土 に 巡 歴 してきた 日 蔵 がさらに 別 の 浄 土 である 兜 率 天 にいく 問 題 日 蔵 夢 記 の 主 人 公 の 冥 界 への 出 発 譚 は 三 段 階 にわたっている まず 本 文 を 確 認 しておこう [ 道 賢 ( 日 蔵 ) 冥 界 へ 一 ウ] 即 ち 命 過 ぎて 崛 の 外 に 出 で 立 つ 仏 経 を 担 負 すること 山 に 入 る 時 の 如 し 眼 を 四 方 に 廻 らし 行 くべき 方 を 見 るの 間 崛 の 内 より 一 の 禅 僧 出 で 来 て 手 に 金 瓶 の 水 を 盛 るを 執 り 弟 子 に 与 へて 服 せしむ 其 の 味 骨 髄 に 入 り 甚 だ 甘 く 善 し 其 の 禅 僧 云 はく 我 は 是 れ 執 金 剛 神 なり 常 に 此 の 窟 に 住 み 釈 迦 の 遺 法 の 守 護 たり 我 上 人 の 年 来 の 法 なる 施 に 感 じて 忽 ち 雪 山 に 往 きて 此 の 水 を 取 りて 施 すのみ と 云 々 又 数 十 丈 の 童 子 の 種 々の 飲 食 を 大 いなる 蓮 の 葉 に 盛 り 捧 げ 持 ちて 侍 りて 立 つあり 禅 僧 云 はく 所 謂 二 十 八 部 衆 なり と 云 々 須 臾 の 間 西 の 巌 (いはを)の 上 より 一 の 宿 徳 の 和 上 来 下 す 即 ち 左 手 を 申 (の)べて 弟 子 に 授 けて 執 らしめ 相 導 き 直 道 す 巌 上 に 攀 り 雪 数 千 丈 を 窺 う 適 (まさ)に 其 の 頂 に 至 り 見 れば 即 ち 一 世 界 皆 悉 く 下 地 なり 此 の 山 極 めて 最 勝 なり 其 の 地 平 正 (たひらか)にして 純 一 (もはら) 黄 金 なり 光 明 甚 だ 照 耀 し 果 樹 悉 く 七 宝 なり 金 樹 は 銀 花 開 く 銀 樹 は 金 果 実 る 雑 色 荘 厳 甚 だ 微 妙 なり 北 方 に 一 つの 金 山 あり 其 の 山 の 下 に 窟 あり 其 の 門 広 大 にして 種 々の 荘 厳 皆 是 れ 七 宝 なり 大 和 尚 云 はく 我 は 是 牟 尼 の 化 身 蔵 王 菩 薩 なり 此 の 土 は 是 れ 金 峯 山 浄 土 なり と (こうして 私 は 死 んで 霊 となって 笙 の 窟 から 外 に 出 ました 仏 と 経 を 背 負 う 姿 は 生 きて 山 に 入 った 時 と 同 じで した 目 を 四 方 にめぐらして 行 く 方 向 を 見 さだめているうちに 窟 の 内 から 一 人 の 僧 が 出 て 来 ました ( 僧 は) 手 に 金 の 瓶 を 持 ち その 水 を 注 いで 私 に 与 え 飲 ませてくれました その 味 は 骨 の 髄 にまでしみ 入 るように とても 甘 くおいしいのでした その 僧 は 私 は 執 金 剛 神 で す 常 にこの 窟 に 住 んでいて 釈 迦 如 来 の 遺 された 法 を 守 護 しています 私 は 上 人 の 長 年 の 仏 法 に 則 った 施 に 心 動 かされていたので 上 人 の 災 難 を 見 て 急 いで 雪 山 に 行 って この 水 を 汲 んで こうして 差 し 上 げたのでした などと 言 いました また 背 が 数 十 丈 もある 童 子 で いろ いろな 食 物 を 大 きな 蓮 の 葉 に 盛 り 捧 げ 持 ち 控 えて 立 っている 者 たちがいました この 僧 は いわゆる 二 十 八 部 衆 です などと 言 いました しばらくして 西 の 岩 の 上 から 一 人 の 堂 々 とした 僧 が 下 りてきました 彼 は 左 手 を 差 し 出 して 私 につかませると 正 しい 道 を 案 内 して くれました 岩 の 上 に 登 ると 雪 の 高 さが 数 千 丈 に 達 するのを 見 ました 山 頂 に 達 して 見 ると 世 界 はみな 下 界 のかなたにありました この 山 は 極 めて 景 色 がよいです その 山 頂 は 平 らで 山 塊 の 全 てが 黄 金 です すばらしく 照 り 輝 いていました そこに 生 えている 果 樹 はことごとく

29 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 289 七 宝 でした 金 の 樹 には 銀 の 花 が 咲 いてます 銀 の 樹 には 金 の 実 が 実 っています さまざまな 色 に 飾 りつけられていることと 言 ったら 筆 舌 に 尽 くし 難 い 美 しさでした 大 和 尚 は 私 は 釈 迦 如 来 の 化 身 蔵 王 菩 薩 です ここは 金 峯 山 浄 土 です と 言 いました ) 日 蔵 が 絶 命 すると 最 初 に 自 崛 内 一 禅 僧 の 姿 をした 執 金 剛 神 が 出 来 て 日 蔵 の 飲 食 を 用 意 し てくれる そこへ 一 宿 徳 和 上 がやってきて 日 蔵 の 手 をとって 自 らを 我 是 牟 尼 化 身 蔵 王 菩 薩 也 と 明 かし 浄 土 金 峯 山 浄 土 に 導 く 日 蔵 はここを 基 地 として 日 本 大 政 威 徳 天 城 兜 率 天 地 獄 満 徳 法 主 天 城 の 巡 歴 に 旅 だち そのつど 蔵 王 菩 薩 に 復 命 するのである 日 蔵 は 生 き 身 のまま で 仏 の 神 通 力 により 異 界 を 巡 歴 する この 巡 歴 のあり 方 そのものについては 今 春 問 題 を 提 起 しつつ 私 見 を 世 に 問 うた( 冥 界 巡 歴 譚 出 発 場 面 に 関 する 和 漢 比 較 考 証 ~ 古 代 中 国 伝 奇 から 日 蔵 夢 記 へ~ ( 第 99 回 和 漢 比 較 文 学 会 例 会 ( 西 部 ) 於 京 都 女 子 大 学 2008 年 4 月 )) [ 大 威 徳 城 行 三 ウ] 一 時 許 を 経 て 太 政 天 退 出 せんと 欲 する 時 仏 子 を 見 て 云 はく 此 の 仏 子 に 我 が 住 む 所 の 大 威 徳 城 を 相 示 し 還 し 遣 はさんと 欲 するは 如 何 と 菩 薩 之 を 許 す 即 ち 相 共 にす 白 馬 に 乗 ること 太 政 天 の 輿 に 近 し 行 くこと 之 数 百 里 にして 一 の 大 池 有 り 広 大 にして 辺 際 を 知 らず 宛 も 大 海 のごとし 微 妙 の 蓮 花 有 り 異 類 の 鳥 池 辺 に 交 遊 す 及 (と も)に 皆 金 色 なり 光 明 照 燿 す 無 数 の 龍 有 り 其 の 池 の 中 に 一 の 大 嶋 有 り 広 さ 百 里 許 に して 白 瑠 璃 を 地 と 為 す 玉 樹 行 烈 し 無 数 量 無 辺 の 雑 宝 花 菓 実 有 り 香 遍 く 満 つ ( 二 時 間 ばかり 経 って 太 政 天 はこれから 退 出 しようとする 時 私 を 見 つけて この 仏 子 に 私 が 住 んでいる 大 威 徳 城 を 見 せて またここに 帰 したいと 思 いますが どうでしょうか と 言 いまし た 菩 薩 は 許 しました そうして 一 緒 に 行 くことになりました 私 は 白 馬 に 乗 り 太 政 天 の 輿 の 近 くを 進 みました 数 百 里 行 くと 一 つの 大 きな 池 がありました とても 広 く 果 てしな く まるで 大 海 のようです えもいえない 蓮 の 花 が 咲 き 誇 り さまざまな 鳥 が 池 辺 で 飛 び 交 っ て 遊 びます それら 皆 全 て 金 色 です 明 るい 光 が 照 り 輝 いて 無 数 の 龍 がいます その 池 の 中 に 一 つの 大 きな 島 がありました 広 さは 百 里 ほどで 地 面 は 白 瑠 璃 です 玉 の 樹 がならび 無 数 の 宝 玉 の 花 たちが 咲 き 果 実 がなっています その 香 りは 島 全 体 に 満 ちていました ) [ 大 威 徳 城 より 帰 還 五 ウ] 仏 子 教 へ 命 (のたま)ふことを 奉 りて 已 に 了 る 還 りて 金 峯 に 至 る 上 の 如 く 披 陳 するなり ( 私 は 教 わったこと 言 いつけられたことをしっかり 憶 えて 帰 りました 来 た 道 を 戻 って 金 峯 山 頂 に 着 きます 私 は 蔵 王 菩 薩 に 以 上 のことを 報 告 しました ) ここでは 乗 白 馬 近 於 太 政 天 輿 が 巡 歴 記 事 である 基 本 的 には 本 人 が 馬 に 乗 って 行 ったと 解 釈 すべきところだが 同 伴 した 太 政 天 ( 道 真 霊 )の 神 通 力 がこれに 加 わって 速 度 を 上 げて 大 威 徳 城 に 至 ったものとみなせる 帰 還 記 事 は 簡 略 なので 不 祥 ながら 基 本 的 には 自 力 で 帰 還 したと 解 釈 すべ きか [ 兜 率 天 行 五 ウ] 菩 薩 又 曰 はく 仏 子 汝 斗 ( 兜 ) 率 天 を 見 んやいなや と 答 ふ 之 を 見 せしめよ と 菩 薩 手 を 申 (の)べ 西 南 方 の 空 を 教 ふ 指 の 末 を 見 るに 即 ち 斗 率 天 に 至 る ( 菩 薩 はまた そなたは 兜 率 天 を 見 たいですか いやですか と 言 うので 私 は 見 させてく ださい と 答 えました 菩 薩 は 手 を 伸 ばして 西 南 方 の 空 を 示 しました 菩 薩 の 指 の 先 を 見 る ととたんに 兜 率 天 に 来 ていました ) [ 兜 率 天 より 帰 還 七 オ] 其 ( 弥 勒 菩 薩 )の 音 声 柔 軟 にして 和 雅 なり 聴 くもの 即 ち 涙 を 流 し 覚 えずして 即 ち 生 きながら 金 峯 に 至 り 斗 率 天 を 既 に 見 終 へり と 白 す 菩 薩 云 ふ 汝 我 が 教 へに 随 ひ (その 声 は 柔 らかくて 聴 いて 心 和 むものでした 私 は 涙 が 流 れました すると 意 識 がなくなり そのままの 姿 で 金 峯 山 に 戻 っていました 私 は 兜 率 天 を 見 て 参 りま

30 290 동아시아 인문전통과 문화역학 した と 菩 薩 に 申 し 上 げました 蔵 王 菩 薩 は そなたが 私 の 教 えに 従 い と 言 いました ) 金 峯 山 浄 土 から 兜 率 天 に 行 くには 菩 薩 申 手 教 西 南 方 空 見 指 末 即 至 斗 率 天 とある 大 威 徳 城 に 至 る 場 面 と 違 い 蔵 王 菩 薩 の 神 通 力 ではどのように 移 動 したのかも 考 える 間 もなく 兜 率 天 にその 身 はあった その 帰 還 も 聴 即 流 涙 不 覚 即 生 至 金 峯 というものでやはり 一 瞬 に 空 間 移 動 させら れている これが 弥 勒 菩 薩 の 神 通 力 によるものか 蔵 王 菩 薩 によるものかはともかく 往 路 と 同 じく 菩 薩 の 神 通 力 によるものであることは 間 違 いない 太 政 天 ( 道 真 霊 )と 菩 薩 では 神 通 力 の 格 が 違 う のであろう [ 地 獄 行 七 オ] 菩 薩 亦 云 はく 汝 無 懺 破 戒 にして 我 が 教 に 随 はずんば 当 に 地 獄 に 堕 つ べし 其 の 地 獄 の 相 及 び 閻 羅 王 界 見 んや 不 や と 答 へて 言 はく 欲 はくは 見 む と 菩 薩 即 ち 手 を 申 べ 北 方 幽 邃 の 黒 山 を 教 へ 指 さすと 与 (とも)に 道 現 る 身 即 ち 閻 羅 王 宮 に 在 り ( 菩 薩 はまた そなたが 罪 を 悔 いることなく 戒 を 破 り 私 の 教 えに 従 わなければ 当 然 地 獄 に 墜 ちます その 地 獄 の 様 子 と 閻 魔 王 界 を 見 ますか どうですか と 言 いました 見 たいと 思 います と 返 事 しました すると 菩 薩 は 手 を 伸 ばし 北 の 方 の 静 かな 黒 山 を 教 え 指 さすと 道 が 現 れました すると 私 はこの 身 のまま 閻 羅 王 の 宮 にいました [ 地 獄 より 帰 還 十 一 オ] 即 ち 相 共 に 閻 羅 宮 に 還 り 至 る 王 即 ち 合 掌 して 讃 ふ 讃 ふ 希 有 なり 希 有 なり 真 の 仏 子 なり 即 身 にして 天 堂 を 見 亦 地 獄 を 見 る 精 進 して 主 上 を 救 済 せよ と 仏 子 聞 き 了 り 拝 して 帰 去 す 即 ち 金 峯 に 在 り 菩 薩 曰 はく 汝 地 獄 を 見 て (そ して 一 緒 に 閻 羅 宮 に 帰 り 着 きました 閻 羅 王 はそこで 私 に 合 掌 して 讃 えました そして 何 と 希 有 なことか 生 き 身 で 天 堂 を 見 また 地 獄 をも 見 た このうえはいよいよ 精 進 して 行 きとし 生 ける 者 をお 救 いなさい と 賛 美 しました 私 はそれを 聞 くと ( 閻 羅 王 を) 礼 拝 をして( 王 宮 を) 立 ち 去 った と 思 うやもう 金 峯 山 にいました 蔵 王 菩 薩 が そなたは 地 獄 を 見 て と 言 いました ) これも 行 きは 菩 薩 即 申 手 教 北 方 幽 邃 之 黒 山 与 指 道 現 身 即 在 閻 羅 王 宮 還 りは 仏 子 聞 了 拝 帰 去 即 在 金 峯 と 兜 率 天 往 還 と 同 様 の 記 述 がある 菩 薩 の 神 通 力 によることは 明 らかである [ 満 徳 法 主 天 宮 城 行 十 一 ウ] 復 た 次 いで 仏 子 汝 満 徳 法 主 天 宮 城 を 見 んや 不 (いな)や と 答 へて 云 はく 之 を 見 むことを 願 ふ 其 の 満 徳 法 主 天 は 日 本 金 剛 蔵 王 なり と 是 れな り 我 が 前 より 去 来 し 汝 速 やかに 往 き 詣 でよ と 即 ち 左 手 を 申 べて 東 方 を 教 ふ 手 の 末 を 見 るに 即 ち 満 徳 城 に 至 る ( 蔵 王 菩 薩 は 仏 子 よ そなたは 満 徳 法 主 天 の 宮 城 を 見 ませんか と 言 います ぜひ 見 せてください 満 徳 法 主 天 は 日 本 金 剛 蔵 王 ( 宇 多 法 皇 )ですから と 答 えました そうなのです 私 のもとからたって はやく 参 上 しなさい と 仰 るや 左 手 をの ばし 東 の 方 角 を 示 しました 私 が 手 の 先 を 見 るや もうすでに 満 徳 城 にいました ) [ 満 徳 法 主 天 宮 城 より 帰 還 十 五 ] 仏 子 天 王 の 命 を 奉 じること 已 に 了 り 即 ち 本 の 宝 殿 の 窟 に 至 り 如 上 の 事 を 以 て 一 々 金 剛 蔵 王 に 申 す ( 私 は 法 主 天 の 命 令 を 聞 き 終 えるやいなや 金 峯 山 の 宝 殿 の 窟 に 帰 っていました 法 主 天 の 御 在 所 でこれまでのことを 一 つ 一 つ 金 剛 蔵 王 菩 薩 に 報 告 申 しあげました ) この 往 還 も 兜 率 天 地 獄 の 時 と 基 本 的 に 同 じである 以 上 要 するに 日 蔵 が 冥 界 に 入 り 込 んだ 後 今 いる 地 点 から 他 域 に 行 く 行 き 方 には 行 く 先 の 世 界 の 主 に 導 かれていく 場 合 と 派 遣 を 命 じた 菩 薩 の 神 通 力 で 往 還 する 場 合 の 二 通 りあった 日 蔵 にとっての 最 初 の 冥 界 行 は 笙 の 窟 から 蔵 王 菩 薩 に 導 かれて 金 峯 山 浄 土 に 至 る 移 動 であった 大 威 徳 天 城 の 往 還 の 場 合 は 太 政 威 徳 天 ( 道 真 霊 ) 自 身 が 金 峯 山 浄 土 に 詣 でて そこから 日 蔵 を 導 いた 後 の 三 場 面 では 兜 率 天 の 弥 勒 菩 薩 も 地 獄 の 閻 羅 王 も

31 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 291 満 徳 法 主 天 宮 城 の 満 徳 法 主 天 ( 宇 多 法 皇 霊 )も 金 峯 山 に 来 ていないこれは 蔵 王 菩 薩 と 弥 勒 菩 薩 閻 羅 王 満 徳 法 主 天 の 関 係 を 明 らかにすることよりも 日 蔵 の 冥 界 巡 歴 譚 を 滞 りなく 進 行 させる 事 を 優 先 したためでいわば 省 筆 であろう さらに 一 つの 推 論 が 得 られる 日 蔵 を 自 らの 意 思 で 自 分 の 領 界 に 招 いたのは 蔵 王 菩 薩 と 太 政 威 徳 天 ( 道 真 霊 )だけである 日 蔵 夢 記 はこの 二 人 を 特 別 視 し ている その 理 由 は 本 書 の 数 カ 所 にわたって 強 調 されている 蔵 王 菩 薩 の 法 力 によって 太 政 威 徳 天 ( 道 真 霊 )を 正 しく 祭 ることを 伝 えることが 日 蔵 夢 記 の 存 在 理 由 であるからであろう 4. 兜 率 天 描 写 が 極 楽 浄 土 と 異 なるものに 記 事 量 を 多 くしている 問 題 日 蔵 夢 記 兜 率 天 記 事 には 七 宝 の 垣 宝 樹 宝 珠 宝 楼 閣 流 泉 浴 池 宝 蓮 花 法 を 説 く 教 主 の 存 在 など 阿 弥 陀 経 等 いわゆる 浄 土 三 部 経 に 説 かれた 阿 弥 陀 如 来 を 教 主 とする 極 楽 浄 土 と 似 た 描 写 が 多 い その 反 面 極 楽 浄 土 にはない 天 女 男 女 交 接 場 面 がある 特 に 天 女 は 日 蔵 に 歌 を 贈 る 場 面 など 記 事 分 量 も 多 い 日 蔵 夢 記 は 兜 率 天 の 極 楽 浄 土 にはない 女 性 の 艶 美 に 満 ちあふれた 浄 土 を 強 調 している ここで 日 本 の 兜 率 天 浄 土 信 仰 について 確 認 しておこう 朝 鮮 半 島 から 日 本 に 弥 勒 兜 率 天 浄 土 信 仰 が 伝 わったことは 古 く 敏 達 天 皇 13(583) 年 9 月 に 百 済 から 献 上 された 石 像 は 弥 勒 仏 である 推 古 天 皇 31(623) 年 に 新 羅 より 献 上 された 仏 画 は 蓮 糸 で 織 られた 兜 率 曼 荼 羅 であった この 兜 率 天 浄 土 絵 は 5 世 紀 始 めに 漢 訳 された 弥 勒 下 生 経 以 下 の 弥 勒 関 連 経 典 を 踏 まえている 弥 勒 信 仰 も 一 種 の 浄 土 信 仰 であったことは 5 世 紀 中 頃 訳 された 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 及 び 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 にも 詳 しい 浄 土 描 写 記 事 があることでもわかる 7 世 紀 の 中 国 では 道 綽 や 善 導 が 阿 弥 陀 信 仰 を 鼓 吹 する 一 方 で 玄 奘 らは 兜 率 上 生 信 仰 を 体 系 化 していた 玄 奘 の 門 下 に 智 達 智 通 道 昭 ら 日 本 からの 入 唐 留 学 僧 もいた 彼 らは 師 玄 奘 の 教 説 として 兜 率 天 浄 土 信 仰 を 故 国 に 伝 え 広 めたのであった( 岩 本 裕 極 楽 と 地 獄 1965 年 参 考 ) 兜 率 天 浄 土 信 仰 と 極 楽 浄 土 信 仰 が 中 国 で 優 劣 議 論 がされている 最 中 それも 極 楽 浄 土 優 越 論 が 優 勢 な 状 況 下 にありながら 本 邦 に 先 行 して 広 まったのは 兜 率 天 浄 土 信 仰 であった その 理 由 につい て 平 安 時 代 の 浄 土 信 仰 は 阿 弥 陀 如 来 の 極 楽 浄 土 は 報 見 浄 土 なので 欲 望 を 捨 てきれない 凡 人 では 往 生 できないが 欲 望 を 持 ったままでも 受 け 容 れてもらえる 六 欲 天 の 兜 率 天 浄 土 の 方 ならば 比 較 的 容 易 に 往 生 できるという 教 説 もあり 兜 率 天 浄 土 信 仰 は 盛 行 した( 小 野 玄 妙 弥 勒 三 部 経 解 題 国 訳 一 切 経 経 集 部 二 昭 和 8 年 など)という 説 明 が 早 くからされていた しかしそのような 消 極 的 理 由 だけでは 唐 の 仏 教 界 で 交 わされていた 議 論 の 水 準 にも 達 したものといえず 十 分 に 納 得 いく 説 明 が 模 索 され 続 けた 北 魏 の 弥 勒 兜 率 天 往 生 信 仰 も 土 着 信 仰 との 親 和 性 で 受 容 されやすかった( 塚 本 善 隆 支 那 仏 教 史 研 究 1942 年 p577) ことを 援 用 して 兜 率 天 が 天 部 であることで 本 邦 固 有 の 神 祇 思 想 との 関 係 で 入 りやすかった( 辻 善 之 助 日 本 仏 教 史 上 世 編 1944 年 p599) とする 説 日 本 古 代 統 治 機 構 が 求 めていた 啓 蒙 思 想 は 何 かという 発 想 から 弥 勒 信 仰 の 呪 術 性 現 世 利 益 的 性 格 が 律 令 国 家 の 古 代 的 性 格 と 合 致 する( 伊 野 部 重 一 郎 弥 勒 信 仰 について 高 知 大 学 学 術 研 究 報 告 二 巻 二 号 p6) とする 説 古 代 日 本 貴 族 の 精 神 世 界 のあり 方 を 史 料 から 推 察 した 上 で 極 楽 浄 土 信 仰 の 厭 離 穢 土 という 発 想 は 律 令 貴 族 の 現 世 には 果 報 を 尽 くし 死 後 には 地 獄 でなく 極 楽 に 生 まれたいと 願 う 二 世 安 楽 的 要 素 に 応 えきれていないが 弥 勒 信 仰 はそれに 応 えていた( 井 上 光 貞 日 本 浄 土 教 成 立 史 の 研 究 1956 年 p24~p25)とする 説 などがある これらをそれぞれ 是 認 した 上 で 古 来 弥 勒 を 重 んずる 法 相 宗 が 奈 良 時 代 に 盛 んであった 弥 勒 信 仰 の 持 戒 為 本 思 想 が 儒 教 の

32 292 동아시아 인문전통과 문화역학 以 礼 為 本 と 親 近 性 があり 仏 儒 帰 一 に 腐 心 していた 律 令 社 会 の 要 請 に 応 えるものであった( 速 水 侑 弥 勒 信 仰 1971 年 p75~p89) と 結 論 づけた 説 もある 以 上 要 するに 土 着 信 仰 を 発 展 させ た 信 仰 と 外 来 思 想 直 系 の 信 仰 貴 族 の 信 仰 と 庶 民 の 信 仰 体 制 に 好 ましい 信 仰 と 個 人 の 信 仰 という それぞれの 二 極 があって 兜 率 天 信 仰 は 前 者 に 極 楽 浄 土 信 仰 は 後 者 に 相 応 しいというのである 日 蔵 夢 記 は 真 言 系 とはいえ 土 着 信 仰 に 深 く 根 を 持 つ 山 岳 修 験 道 を 根 本 とするものである 登 場 人 物 は 菅 原 道 真 保 明 親 王 藤 原 保 忠 醍 醐 天 皇 宇 多 法 皇 と 上 級 貴 族 ばかりである 日 蔵 の 山 ごもりの 目 的 は 年 来 天 下 国 土 の 災 難 一 つに 非 ず 見 るに 随 い 聞 くに 触 れ 身 半 ば 死 するが 如 し 加 ふるに 以 て 私 の 為 には 物 怪 の 夢 想 紛 紜 して 休 まず 天 文 陰 陽 頻 りに 不 祥 を 告 ぐ 仍 って 霊 験 の 助 を 蒙 らんが 為 に 万 事 を 抛 ちて この 山 に 攀 登 し 深 きより 弥 よ 深 く 入 り 勤 修 精 進 を 企 つ 是 れ 則 ち 先 に 天 下 を 鎮 護 し 後 に 身 の 上 を 祈 念 せんが 為 なり( 一 オ) とあり これに 応 じるように 地 獄 巡 見 譚 に 醍 醐 天 皇 霊 から 日 蔵 への 依 頼 として 努 力 努 力 して 我 が 辞 せしが 如 く 主 上 に 奏 すべ し 我 身 は 鉄 窟 に 在 りて 大 苦 毒 を 受 くれば 幼 主 は 位 に 居 りて 安 穏 に 坐 さず 我 身 は 切 々に 辛 苦 たり 早 々に 救 済 し 給 へ 又 摂 政 大 臣 に 申 さるべし 我 が 苦 の 為 に 一 万 の 卒 塔 婆 を 起 立 し 三 千 の 度 者 を 給 ふべし 又 国 母 白 さるべし と 云 々( 十 オ~ 十 ウ) とあり 宇 多 法 皇 霊 からも 仏 子 汝 我 が 此 の 慇 懃 なる 数 を 当 に 主 上 並 びに 摂 政 大 臣 に 献 ずべし 宜 しく 早 く 先 帝 の 生 天 及 び 天 下 の 安 穏 の 為 に 天 祠 を 造 立 し 彼 の 太 政 天 を 勧 請 し 咎 を 謝 し 福 を 祈 るべし( 十 三 オ) と 命 じられ ている 日 蔵 の 営 為 が 律 令 国 家 鎮 護 の 為 にされていることは 明 らかである 以 上 のことを 先 行 研 究 の 到 達 した 基 準 にあてはめれば 日 蔵 夢 記 の 浄 土 が 極 楽 浄 土 ではなく 兜 率 天 浄 土 となるのは 当 然 であった 先 行 研 究 の 到 達 した 結 論 が 日 蔵 夢 記 にもあてはまることは 当 該 文 献 が 平 安 中 期 の 浄 土 信 仰 の 動 向 に 忠 実 であったことでもある こうした 日 蔵 夢 記 の 基 本 性 格 を 踏 まえつつ 兜 率 天 描 写 箇 所 について 検 討 しよう 日 蔵 が 兜 率 天 記 事 は 宝 林 の 中 の 流 泉 浴 池 の 讃 から 始 まる [ 兜 率 天 の 描 写 六 オ] 千 万 億 の 宝 珠 以 て 荘 厳 と 為 す 是 くの 如 き 楼 閣 其 の 数 称 計 すべから ざるなり 一 々の 楼 の 前 衆 くの 宝 林 の 間 に 流 泉 浴 池 有 り 無 量 の 宝 樹 を 以 て 交 雑 して 荘 厳 す 其 の 水 の 色 種 々の 光 深 く 映 徹 す 其 の 水 の 上 に 無 量 の 宝 楼 有 り 一 々の 楼 の 下 に 衆 くの 宝 蓮 花 の 生 ず 其 の 蓮 花 の 上 に 数 十 の 天 女 有 り 七 宝 の 瓔 珞 を 以 て 其 の 身 を 荘 厳 す 微 妙 なる 音 を 出 して 歌 詠 遊 戯 す 亦 虚 空 の 中 に 無 量 の 楽 音 あり 又 宝 林 の 間 に 無 数 百 千 の 男 女 交 接 し 快 楽 す 一 見 して 絵 画 的 な 描 写 であることが 理 解 できよう 六 世 紀 から 十 世 紀 にかけて 弥 勒 浄 土 変 と か 兜 率 天 曼 荼 羅 と 呼 ばれる 兜 率 天 の 華 麗 さを 描 いた 絵 図 が 東 アジアで 盛 んに 描 かれた( 岩 本 裕 極 楽 と 地 獄 p ) 世 相 を 背 景 にしていると 推 測 される これの 出 典 となっていると 思 われ る 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 は 日 蔵 夢 記 ほど 絵 画 描 写 的 な 記 述 ではない 時 に 諸 の 園 中 に 八 色 瑠 璃 渠 有 り 一 一 の 渠 五 百 億 宝 珠 有 りて 用 いて 合 成 す 一 一 の 渠 中 八 味 水 有 りて 八 色 具 足 す 其 の 水 上 湧 きて 渠 棟 間 を 游 く 四 問 外 に 四 花 化 生 す 水 は 華 中 より 出 づること 宝 花 流 の 如 し 一 一 華 上 二 十 四 天 女 有 り 身 色 微 妙 なること 諸 菩 薩 の 荘 厳 身 相 の 如 し 手 中 自 然 五 百 億 の 宝 器 に 化 す 一 一 器 中 天 諸 甘 露 自 然 に 盈 満 す 左 肩 に 無 量 の 瓔 珞 を 荷 佩 し 右 肩 に 復 た 無 量 の 楽 器 を 負 ふ 雲 の 空 に 住 するが 如 く 水 従 り 出 でて 菩 薩 六 波 羅 蜜 を 讃 歎 す 若 し 兜 率 天 上 に 往 生 するもの 有 らば 自 然 に 此 の 天 女 の 侍 御 を 得 ( 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 大 正 蔵 14 巻 419a-b) 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 では 情 景 描 写 よりも 兜 率 天 界 中 に 起 こったり 存 在 したりする 現

33 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 293 象 間 の 因 果 関 係 を 説 明 することに 重 点 がある 日 蔵 夢 記 の 先 に 引 用 した 記 事 がこれを 直 接 の 典 拠 としたとするには 両 者 の 記 事 内 容 に 距 離 があるように 思 われる やはり 兜 率 天 を 描 いた 絵 図 か ら 作 られたのであろう 大 陸 で 描 かれた 弥 勒 浄 土 変 は 敦 煌 第 156 洞 等 に 残 されているし こう した 絵 画 が 日 本 に 早 くから 伝 わっていたことは 日 本 書 紀 第 二 十 二 推 古 天 皇 31 年 (623) 年 に 百 済 より 蓮 糸 で 仕 立 てられた 兜 率 曼 荼 羅 が 献 じられた 記 事 から 明 らかである 宝 林 の 間 に 無 数 百 千 の 男 女 交 接 し 快 楽 す は 弥 勒 下 生 経 弥 勒 大 成 仏 経 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 には 見 られないが 弥 勒 経 典 の 解 説 書 である 隋 の 吉 蔵 撰 弥 勒 経 遊 意 はこ れに 言 及 している 問 ふ 六 欲 天 の 諸 事 人 間 と 同 じなるや 不 や 答 ふ 同 じ 身 も 有 り 同 じならざる 者 もあり 男 天 女 身 を 嫁 娶 し 陰 陽 を 行 ふこと 一 一 人 間 に 同 じ 又 諸 天 等 池 に 入 り 沐 浴 するとき 諸 香 樹 下 枝 条 垂 曲 す 諸 園 林 に 入 れば 無 数 の 天 女 鼓 楽 し 強 すら 歌 ひ 讃 歎 して 相 向 ふ ( 弥 勒 経 遊 意 大 正 蔵 38 巻 270b-c) 天 人 が 園 林 に 入 ると 天 女 が 相 向 ふ つまり 相 手 をするという 日 蔵 夢 記 のように 交 接 とまではっきりとは 表 現 していないが これも 同 意 である 弥 勒 経 遊 意 は 奈 良 朝 現 在 一 切 経 疏 目 録 ( 石 田 茂 作 1930 年 )には 見 られないが 先 述 のように 多 くの 遣 唐 僧 が 玄 奘 の 教 説 等 弥 勒 信 仰 を 学 んだ 中 にあって このような 解 釈 のあることは 知 られていたことは 容 易 に 推 測 できる ま た 弥 勒 経 遊 意 に 長 阿 含 与 大 智 論 楼 炭 経 等 也 ( 弥 勒 経 遊 意 大 正 蔵 38 巻 270c)とあるよ うに 兜 率 天 の 描 写 は 長 阿 含 経 や 大 楼 炭 経 の 楽 園 記 事 も 参 考 にされた 北 方 天 下 中 央 に 浴 池 有 り 鬱 難 陀 と 名 づく 広 長 四 千 里 其 の 水 涼 軟 且 つ 清 し 七 重 壁 有 り 水 底 の 沙 皆 金 難 陀 浴 池 東 園 有 り 賢 上 と 名 づく 七 重 欄 楯 七 重 交 露 七 重 行 樹 有 りて 周 匝 囲 繞 す 男 子 女 人 若 し 淫 欲 の 意 起 こらば 相 視 て 語 る 所 無 く 男 子 便 ち 前 に 在 り 女 人 後 に 随 ひて 行 き 園 観 に 至 りて 中 に 入 り 共 に 相 娯 楽 すること 二 日 三 日 若 しくは 七 日 に 至 る 各 自 意 に 随 ひ 罷 り 去 り 相 属 さざるなり ( 大 楼 炭 経 巻 一 大 正 蔵 1 巻 280a-c) このような 知 識 をもとに 弥 勒 浄 土 変 や 兜 率 曼 荼 羅 は 作 られ その 絵 画 資 料 をもとに 日 蔵 夢 記 の 兜 率 天 描 写 記 事 は 作 られたのであろう 反 面 絵 画 資 料 では 兜 率 天 も 極 楽 浄 土 も 近 似 し てしまっている 日 蔵 夢 記 がことさら 極 楽 浄 土 と 違 う 記 述 をしているのは 一 見 似 た 楽 園 図 の 違 いを 兜 率 天 信 仰 の 側 から 述 べたからではないだろうか 日 蔵 夢 記 には 夥 しい 天 女 描 写 がある 保 明 親 王 と 藤 原 保 忠 はそれぞれ 数 十 の 天 女 之 を 囲 繞 す[ 六 ウ] る 記 事 を 先 に 見 た 兜 率 天 への 往 生 者 を 接 待 する 天 女 は 若 し 兜 率 天 上 に 往 生 するも の 有 らば 自 然 に 此 の 天 女 の 侍 御 を 得 ( 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 大 正 蔵 14 巻 419b)の 経 典 根 拠 がある また 日 蔵 夢 記 には 弥 勒 菩 薩 の 御 座 を 荘 厳 する 天 女 の 記 事 がある 即 ち 相 引 きて 共 に 内 院 に 入 る 荘 厳 勝 げて 計 ふべからず 一 つの 獅 子 座 有 り 高 大 なること 山 の 如 し 真 珠 を 以 て 羅 網 と 為 し 無 量 の 宝 鈴 を 懸 く 無 量 の 天 人 大 衆 ( 恭 敬 囲 繞 す 無 数 の 天 女 或 は 妙 蓮 花 を 執 り 或 は 白 払 を 執 る 大 宝 の 座 上 に 金 色 の 妙 蓮 花 有 り 其 の 蓮 花 上 に 真 の 金 色 の 光 有 り 凝 湛 なること 最 も 清 浄 にして 眼 界 見 ること 能 はず 此 れ 即 ち 慈 尊 の 妙 色 身 なり これはほぼ 同 様 の 記 事 が 経 典 にある 爾 る 時 百 千 無 数 の 天 子 天 女 眷 属 各 宝 華 を 持 ち 以 て 座 上 に 布 す 是 の 諸 蓮 華 自 然 に 皆 五 百 億 の 宝 女 出 づ 手 に 白 払 を 執 り 帳 内 を 侍 立 す ( 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 大 正 蔵 14 巻

34 294 동아시아 인문전통과 문화역학 419b) 兜 率 天 の 様 子 を 描 写 する 記 事 においては 日 蔵 夢 記 は 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 を 直 接 の 出 典 としていないと 結 論 づけたが こうした 天 女 と 往 生 者 とか 天 女 と 弥 勒 菩 薩 のように 兜 率 天 内 の 人 とか 事 項 の 関 連 づけに 関 しては 日 蔵 夢 記 は 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 の 記 事 に 忠 実 といえる 日 蔵 夢 記 兜 率 天 記 事 中 主 人 公 の 日 蔵 と 天 女 が 直 接 会 話 する 場 面 は 眼 目 とも 言 うべき 箇 所 で ある [ 天 女 の 和 歌 六 オ] 時 に 十 六 人 の 人 天 女 来 たりて 仏 子 を 囲 繞 し 讃 嘆 す 仏 子 問 ふ 此 の 七 宝 楼 閣 是 れ 何 物 を 一 とせんや と 第 一 の 天 女 和 歌 を 以 て 之 に 答 ふ いつつとお やつつしらたま きずつけぬ ひとのいりくる かどにやはあらぬ と 云 ひて 天 共 散 じぬ この 歌 は 梅 城 録 と 一 乗 拾 玉 抄 勧 発 品 に 別 出 している 日 蔵 夢 記 に 曰 く 道 賢 は 蔵 王 菩 薩 の 神 力 を 借 り 慈 氏 尊 を 兜 卒 天 宮 に 礼 せり 其 の 初 め 門 に 入 るや 楼 閣 重 々 宝 樹 荘 厳 たり 時 に 十 六 の 天 女 珠 瓔 で 体 を 被 われ 来 たり 迎 へて 称 賛 せり 道 賢 問 ひて 曰 く 七 宝 楼 閣 は 何 人 の 住 む 処 ぞ と 第 一 の 天 女 和 歌 を 以 て 之 に 答 ふ 五 つ 十 八 つ 白 玉 瑕 付 けぬ 人 の 入 りくる 門 にやはあらぬ 言 ひ 已 わりて 分 かれ 散 じぬ 予 試 みに 之 を 解 す 梵 網 戒 を 以 て 如 意 珠 に 比 せらる 則 ち 五 戒 十 戒 八 斎 等 能 持 して 犯 さず 其 の 浄 潔 たること 猶 明 珠 白 玉 の 瑕 無 き 類 の 者 の 由 に 生 ぜる 所 也 故 に 云 く 白 玉 瑕 無 き 人 の 入 り 来 るの 門 に 非 ずや と ( 梅 城 録 ) これによれば いつつとお やつつしらたま は 仏 教 の 説 く 五 戒 十 戒 八 斎 で それを 護 持 するもの がこの 浄 土 の 門 を 入 ることを 許 されると 解 釈 している その 一 方 で 異 文 もある 又 日 蔵 上 人 都 率 天 ニ 登 リ 内 院 ヘ 入 ントスレバ 童 子 出 テ 歌 ヲ 読 ム 五 ツ 八 ツ 十 ヲ 白 ラ 玉 ノ 曇 リナキ 人 ノ 出 テ 入 門 ト 知 ラズヤ ト 詠 ジテ 押 返 也 五 ツト 者 五 戒 八 ト 者 八 斎 戒 十 ト 者 十 戒 也 此 内 ニ 少 シモ 曇 有 ルニ 依 テ 彼 ノ 聖 人 ハ 返 サルル 也 之 ヲ 以 テ 思 フニ 何 ナル 余 法 ノ 行 人 也 トモ 法 花 ノ 行 者 ニ 非 ンバ 弥 勒 菩 薩 常 恒 ニ 御 説 法 有 ル 都 率 ノ 内 院 ヘハ 生 レ 難 キ 也 ( 一 乗 拾 玉 抄 勧 発 品 ) 詠 んだ 場 所 が 兜 率 天 の 内 院 であること 詠 んだのが 童 子 であること 和 歌 も 三 句 結 句 に 大 きな 異 同 があり 日 蔵 が 内 院 に 入 れなかった 異 伝 となっている 釈 教 歌 では 当 該 歌 のように 五 つ 十 八 つ 白 玉 と 数 詞 を 重 ねて 詠 み 出 す 例 は 少 なくない 二 つなく 三 つなき 法 を 聞 きつれば 五 つの 障 りあらじとぞ 思 ふ ( 宝 物 集 第 九 冊 和 泉 式 部 ) これは 二 と 三 を 足 して 五 という 趣 向 であるが 当 該 歌 にはそのようなものはない 五 ツ 十 八 ツ 白 ラ 玉 を 梅 城 録 は 五 戒 十 戒 八 斎 一 乗 拾 玉 抄 も 五 ツト 者 五 戒 八 ト 者 八 斎 戒 十 ト 者 十 戒 也 と 理 解 するのは 共 通 している 新 勅 撰 集 の 釈 教 歌 にもこの 表 現 は 見 ら れる あまの 戒 うけ 侍 りけるに ねむごろに 十 の 戒 めうけつれば 五 つのさはりあらじとぞおもふ ( 新 勅 撰 集 巻 十 釈 教 大 僧 正 観 修 ) 五 戒 と 八 斎 戒 は 梅 城 録 一 乗 拾 玉 抄 の 解 釈 のとおりであろう しかし 十 に 関 しては 十

35 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 295 善 法 ではないか 若 し 比 丘 及 び 一 切 大 衆 有 りて 弥 勒 の 為 に 弟 子 と 作 らんと 欲 する 者 は 当 に 是 の 観 を 作 すべ し 是 の 観 を 作 す 者 は 応 に 五 戒 八 斎 戒 具 足 戒 を 持 し 身 心 精 進 断 結 を 求 めず 十 善 法 を 修 すべ し ( 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 大 正 蔵 14 巻 419c) 持 す と 断 結 を 求 めず 修 す は 厳 密 には 守 る と 行 い 続 ける であるが どちらも 仏 の 教 のとおりのことを 弛 むことなく 続 けることでは 同 義 であるから 当 該 歌 の 傷 つけぬ に 当 ては まり 得 る 白 玉 瑕 付 けぬ の 白 玉 は 仏 の 定 めた 法 の 意 味 である 仏 法 を 珠 玉 に 喩 えた 例 は 他 にも ある のりの 玉 いとどふかくぞおもほゆる 水 も 心 もすめるなが 谷 ( 大 納 言 公 任 集 松 ヶ 崎 の 阿 闍 梨 ) この 珠 玉 に 喩 えられ 仏 法 について 当 該 歌 では 仏 の 戒 律 に 限 定 できる 日 蔵 夢 記 本 文 で は 弥 勒 菩 薩 の 日 蔵 への 諭 しとして 釈 迦 の 遺 教 に 随 ひ 勤 恪 精 進 して 放 逸 を 行 はざれば 生 涯 畢 り て 後 宜 しく 我 天 に 生 ずへきなり( 七 オ) とある この 逆 として 蔵 王 菩 薩 が 汝 無 懺 破 戒 にし て 我 が 教 に 随 はざれば 当 に 地 獄 に 堕 つべし( 七 オ) とあるのだからここでいう 釈 迦 の 遺 教 とは 戒 律 であることは 明 らかである 梅 城 録 に 梵 網 戒 を 以 て 如 意 珠 に 比 せらる 則 ち 五 戒 十 戒 八 斎 等 能 持 して 犯 さず 其 の 浄 潔 たること 猶 明 珠 白 玉 の 瑕 無 き 類 の 者 の 由 に 生 ぜる 所 也 とあり 一 乗 拾 玉 抄 も 和 歌 本 文 が 違 うが 同 旨 である 先 に 引 用 した 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 にも 兜 率 天 に 往 生 するためには 五 戒 八 斎 戒 具 足 戒 を 持 し 身 心 精 進 断 結 を 求 めず 十 善 法 を 修 すべし とあった この 経 典 の 後 半 にも 兜 率 天 往 生 を 願 う 人 は 戒 律 を 重 んぜよという 記 述 がある 若 し 兜 率 陀 天 に 生 ぜんと 欲 する 者 有 あらば 当 に 是 の 観 を 作 し 念 を 繋 ぎ 思 惟 し 兜 率 陀 天 を 念 じ 仏 の 禁 戒 を 持 すこと 一 日 より 七 日 に 至 り 十 善 行 十 善 道 を 思 念 すべし 此 の 功 徳 を 以 て 回 向 し 弥 勒 の 前 に 生 ぜんことを 願 う 者 は 当 に 是 の 観 を 作 すべし ( 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 大 正 蔵 14 巻 420b) 極 楽 往 生 に 比 べて 兜 率 天 往 生 は 持 戒 を 要 件 として 重 んずる 兜 率 天 信 仰 の 持 戒 為 本 という 発 想 は 儒 教 の 礼 に 通 ずるもので 儒 教 的 官 僚 制 と 鎮 護 国 家 仏 教 の 両 立 を 必 要 とする 律 令 国 家 にお いて 兜 率 天 信 仰 はのぞましい 信 仰 と 考 えられていた( 速 水 侑 弥 勒 信 仰 p58-89) 天 女 の 歌 は 単 なる 快 楽 ではなく 兜 率 天 信 仰 の 肝 要 を 敷 衍 するためにされたものであった 経 典 の 天 女 記 事 中 に 天 女 の 詠 歌 が 悟 達 への 導 きとなるという 記 述 がある 一 一 閻 浮 檀 金 光 中 に 五 百 億 諸 天 宝 女 出 づ 一 一 宝 女 立 樹 の 下 に 住 し 百 億 宝 無 数 瓔 珞 を 執 り 妙 音 楽 を 出 だす 時 に 楽 音 中 不 退 転 地 法 輪 の 行 を 演 説 す 諸 欄 楯 の 間 自 然 に 九 億 天 子 五 百 億 天 女 化 生 す 其 光 明 中 諸 楽 器 を 具 す 是 くの 如 く 天 楽 鼓 せずとも 自 から 鳴 ず 此 の 声 出 づる 時 諸 女 自 然 に 衆 くの 楽 器 を 執 り 競 ひ 起 ちて 歌 舞 す 詠 歌 する 所 の 音 十 善 四 弘 誓 願 を 演 説 す 諸 天 聞 く 者 皆 無 上 道 心 を 発 す 時 に 諸 閣 間 百 千 天 女 有 り 色 妙 なること 無 比 にして 手 に 楽 器 を 執 る 其 の 楽 音 中 苦 空 無 常 無 我 諸 波 羅 蜜 を 演 説 す ( 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 大 正 蔵 14 巻 418c-419b) 当 該 歌 の 天 女 の 和 歌 も 引 用 した 経 典 にいう 演 説 にあたると 考 えて 良 いであろう 先 行 研 究 に は 都 卒 天 内 で 天 女 から 和 歌 一 首 をよみ 贈 られたりするところは 何 かしら 中 国 の 真 人 伝 とか 真 君 伝 とかの 命 録 死 生 之 録 などを 連 想 する どこか 道 教 的 色 彩 が 感 ぜられる ( 川 口 久 雄 敦 煌

36 296 동아시아 인문전통과 문화역학 変 文 の 素 材 と 日 本 文 学 ~ 唐 太 宗 入 冥 記 と 北 野 天 神 縁 起 ~ 仏 教 文 学 研 究 昭 和 42)と 指 摘 するも のもあるが いささか 当 を 得 ていないことはこれまでの 検 討 で 明 らかであろう 当 該 歌 は 釈 教 歌 の 伝 統 表 現 を 踏 まえた 上 に 弥 勒 三 部 経 の 教 義 を 加 味 した 兜 率 天 に 行 きたけれ ば 戒 律 を 守 れ という 趣 旨 の 歌 なのである これが 律 令 体 制 側 の 代 弁 となっている 側 面 も 確 認 しておこう まとめ 日 蔵 の 兜 卒 天 浄 土 巡 歴 に 関 して 以 下 の 結 論 を 得 た: 1 実 在 した 人 物 名 が 数 多 く 出 てくることについては すでに 先 行 研 究 があり 日 蔵 夢 記 の 成 立 にかかわることとかこの 文 献 の 他 と 比 較 した 基 本 的 性 格 について 指 摘 していることを 確 認 した 本 稿 では 日 蔵 夢 記 が 僧 俗 ともに 国 政 に 関 与 し 得 る 人 物 に 限 って 実 名 が 挙 げられていることに 注 目 し 当 該 文 献 が 国 政 の 指 針 たらんとした 意 図 があると 推 測 した 2すでに 金 峯 山 浄 土 に 越 境 した 日 蔵 がさらに 別 の 浄 土 である 兜 率 天 にいく 方 法 は 二 通 りあって 行 く 先 の 地 域 の 主 が 迎 えに 来 て 導 いてくれる 場 合 と 派 遣 を 命 じた 菩 薩 の 神 通 力 で 往 還 する 場 合 があ った 日 蔵 を 迎 えに 来 るのは 道 真 霊 と 蔵 王 菩 薩 の 二 人 であることは 蔵 王 菩 薩 の 法 力 によって 太 政 威 徳 天 ( 道 真 霊 )を 正 しく 祭 ることを 伝 えることが 日 蔵 夢 記 の 存 在 理 由 であるからであろう 3 兜 率 天 での 描 写 が 天 女 とか 男 女 交 接 など 極 楽 浄 土 と 異 なる 場 面 の 多 いことは 日 蔵 夢 記 が 兜 率 天 記 事 を 作 るにあたっては 基 本 的 には 弥 勒 下 生 経 や 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 などの 弥 勒 信 仰 関 連 経 典 を 出 典 としつつも 絵 画 資 料 も 参 考 としていたと 推 定 できる 天 女 から 和 歌 を 贈 られ る 場 面 も 基 本 的 には 観 弥 勒 菩 薩 上 生 兜 率 陀 天 経 等 に 説 かれた 兜 率 天 信 仰 の 持 戒 為 本 を 説 く ものであった 以 上 < 摘 要 > 纵 观 永 久 寺 日 藏 梦 记 净 土 巡 历 谈 考 证 以 日 藏 梦 记 为 中 心 日 本 菊 地 真 纵 观 永 久 寺 日 藏 梦 记 ( 以 下 略 称 为 日 藏 梦 记 ) 的 先 行 研 究, 历 来 都 是 从 两 个 方 面 展 开 的 : 一 是 基 于 山 岳 信 仰 的 研 究, 二 是 出 发 于 民 间 传 承 的 脉 络 笔 者 对 于 日 藏 梦 记 在 文 学 史 上 如 何 定 位 这 一 问 题 怀 有 很 大 的 兴 趣, 到 目 前 为 止 发 表 了 多 篇 相 关 研 究 : 如 日 藏 梦 记 中 的 藤 原 保 忠 逸 话 ( 平 成 十 六 年 度 说 话 文 学 会 春 季 大 会 ) 日 藏 梦 记 和 大 镜 北 野 天 神 缘 起 中 天 神 传 说 的 关 系 (AISTUGIA/ 意 大 利 日 本 研 究 学 会 2004 年 度 大 会 ) 日 藏 梦 记 和 < 五 台 山 经 筒 刻 文 > 的 关 系 ( 平 成 十 七 年 度 和 汉 比 较 文 学 回 大 会 ), 等 等 近 来, 则 将 研 究 的 焦 点 放 在 了 冥 界 巡 历 谈 和 日 藏 梦 记 的 周 边 文 献 的 关 联 上 在 平 成 十 九 年 度 佛 教 文 学 会 大 会 上, 发 表 了 日 藏 梦 记 的 地 狱 巡 历 谈 和 经 典 的 关 联 一 文, 探 讨 了 其 地 狱 巡 历 谈 是 如 何 受 到 佛 家 经 典 以 及 唐 代 传 奇 等 东 亚 文

37 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 297 学 影 响 的 ; 并 于 韩 国 日 语 日 文 学 会 二 〇 〇 七 年 度 秋 季 国 际 学 术 大 会 上, 发 表 了 笔 者 相 关 的 创 见 本 次 发 表 则 主 要 把 目 光 集 中 被 视 为 巡 历 对 象 的 冥 界 也 就 是 净 土 上 面, 进 行 考 察 日 藏 梦 记 共 有 七 个 部 分, 分 别 是 : 日 藏 去 冥 界 的 经 过 金 峰 山 净 土 的 场 面 在 道 真 灵 领 内 的 场 面 兜 率 天 净 土 的 巡 历 场 面 地 狱 巡 历 场 面 在 宇 多 法 皇 灵 的 馆 聆 听 传 给 现 世 的 指 示 的 场 面 回 到 现 世 的 经 过 日 藏 梦 记 是 扶 桑 略 记 的 广 本 ( 广 本 的 意 思 是 说 在 众 多 传 本 中, 日 藏 梦 记 是 内 容 比 较 多 的 一 个 版 本 ) 在 这 七 个 部 分 中, 扶 桑 略 记 中 没 有 的 部 分 是 兜 率 天 净 土 巡 历 的 场 面 因 此, 关 于 这 个 地 方 基 本 上 没 有 什 么 先 行 研 究 对 于 兜 率 田 净 土 巡 历 的 场 面, 有 如 下 的 三 个 问 题 : 第 一, 已 经 在 金 峰 山 净 土 巡 历 过 的 日 藏 还 去 了 别 的 净 土, 也 就 是 去 了 兜 率 天 第 二, 关 于 兜 率 天 的 净 土 描 写 有 与 天 女 的 对 话 以 及 在 园 池 内 的 交 接 场 面 描 写 等 这 些 都 是 与 极 乐 净 土 的 不 同 之 处 第 三, 出 现 了 很 多 事 实 上 都 存 在 的 人 物 基 于 以 上 的 视 点, 笔 者 将 借 助 拙 著 日 藏 梦 记 全 释 今 年 预 定 出 版 中 的 本 文 以 及 训 读 基 本 的 经 历 与 佛 教 经 典 汉 籍 以 及 日 本 的 说 话 等 比 较 进 行 论 述 以 上 <요약> 扶 桑 略 記 天 慶 4 년 条 収 録 道 賢 上 人 冥 途 記 의 광본 日 蔵 夢 記 浄 土 巡 歴 譚 攷 ~ 日 蔵 夢 記 について 日 本 菊 地 真 扶 桑 略 記 天 慶 4 년 条 収 録 道 賢 上 人 冥 途 記 의 광본 日 蔵 夢 記 는 최고로 오래된 천신 설화로, 주인공의 명계 순견담으로서 전개되고 있다. 주인공 일장은 延 喜 5 년(905)생 寛 和 원년(985)몰. 今 昔 物 語 集 등에는 신선의 술사적( 術 師 的 ) 진언 수행자로 활약 했었던 설화 가 있다. 이때까지 日 蔵 夢 記 를 둘러싸고 신도연구 산악수험도연구 고령연구등 각각의 시점 에서의 시도가 행해져왔다.본인은 그 중에서도 日 蔵 夢 記 를 동아시아 문학사상에 있어서 어 떤 위치에 덧붙일 수 있는지에 대하여 관심을 가지며, 이때까지 연구해 왔던 부분들은 발표를 통하여 보고해 왔다. 최근에는 명계순력담과 경전과의 관련에 대하여, 이 문헌의 동아시아의 명계 순력설화 수용상의 상세에 대해서 동 시대의 동아시아 명계 순력설화 전반의 경향에 있 어서 어떻게 위치 정할 수 있는지에 대하여 보고하고자 한다. 이번에는 순력 대상이 된 사후세 계를 극락 정토로 한정하여, 平 安 시대의 천상계의 정토 수용상에 관한 선행연구의 성과를 덧붙 여서,경전 한적등의 동아시의 명계 순력설화를 자료로 하여 비교 문학적조사를 한 결과를 보고 하고자 한다. 천상계 정토순력 장면은 日 蔵 夢 記 에는 있으나, 약본에 해당하는 扶 桑 略 記 所 引 의 道 賢 上 人 冥 途 記 에는 없기 때문에, 특히 연구대상으로서 채택 되어지기가 늦어진 부 분이다. 일장의 천상계 정토순력에 관해서는 이하의 문제점이 있다.:1이미 금봉산 정토에 순 력하고 온 일장이 한층더 다른 정토인 천상계로 가는 점 2천상계 정토에서의 선녀와 남녀교 제등 극락정토와 다른 장면의 묘사가 많이 되어 있는 점 3실존한 인물명이 수없이 나오는 점 1에대해서, 일장의 명계순력담은, 실은 세 단계에 걸쳐서 기술되어있다. 최초에는 執 金 剛 神 이 나타나 일장의 사후세계에서의 음식을 준비한다.거기에 일장보살이 와서 일장을 금봉산 정토에 안내하는 것이 두번째 단계이다. 세번째 단계로서 일장은 이 금봉산 정토를 기지로서 일본대

38 298 동아시아 인문전통과 문화역학 정위덕천성 천상계 지옥 만덕법주천성을 순력하여, 그때마다 복명한다. 이같은 복잡한 구조를 가진 명계 순력담은 고대 동아시아 전체를 둘러봐도 드문 일이다.이 명계 순력담을 창출한 주 변 환경으로서, 동아시아의 일화 전승은 어떠하였는가? 고대 일본설화 전승, 고대 중국전기 변 문, 경전등과의 비교조사를 함으로, 日 蔵 夢 記 를 그 속에서 어떤 위치에 정할 수 있는가를 검토하고자 한다. 2에 대해서는 일반적으로 천상계 정토와 극락정토는 비슷함 점이 많다고 말 해지고 있는 바이다. 그럼에도 불구하고, 마치 의도적인 것인 마냥 일장의 천상계 순력기사에 는 극락정토와는 다른 기술이 많이 보여진다.선녀에 대한 많은 기술, 남녀의 교제장면의 묘사, 왕생의 조건으로서 지계( 持 戒 )를 요청하는 것등이 이에 해당한다. 이것에 대하여 平 安 시대의 천상계 신앙에 관한 선행연구의 성과를 日 蔵 夢 記 에 대해서도 적용 할 수 있는지를 검토한 다. 그것을 전제로 동아시아 명계 순력담을 자료로서 비교 문학적 고찰을 덧붙여 日 蔵 夢 記 를 천상계 순력기사의 동아시아 문학으로서의 동시대성과 독자성을 적출한다. 또한, 이때까지 상세하게 논의되지 않았던 선녀가 일장에서 보낸 와카에대해서도, 선녀와 관련하여 논하고자한 다. 3에 대해서 천상계 순력 기사에는 藤 原 保 忠 皇 太 子 保 明 親 王 静 観, 正 宝 ( 聖 宝 ), 観 賢 가 등장한다. 静 観 聖 宝 観 賢 의 승려에 대한 선행연구는 있으며 藤 原 保 忠 에 관한 연구보고는 이전에 발표를 끝냈다. 이번 발표에는 보명친왕의 日 蔵 夢 記 속의 일화에 한정한다. 扶 桑 略 記 등 사료에 의하여 사실의 보명친왕을 확인하고, 그 일화나 전설에 대하여 동시대 문헌과 日 蔵 夢 記 를 비교한다.거기에 경전이나 고대중국전기 변문에 있어서 사후세계로 간 왕적의 망혼담군 속에서 日 蔵 夢 記 보명친왕 담을 어떤 위치에 놓을수 있을지를 검토한다. 이상을 정리하여, 日 蔵 夢 記 천상계 순력담의 동아시아 설화 문학사상의 위치에 대하여 검토한다.

39 王 世 貞 晩 年 의 吳 中 文 人 과의 교유시 연구 - 性 靈 的 詩 性 의 存 在 與 否 A Study on the Poems of Wang Shi Zhen which were written to give his friends of Wu-Zhong during his Late Period 元 鍾 禮 ( 大 韓 民 國 Catholic 大 學 校 동아시아 言 語 文 化 學 部 敎 授 ) 目 次 一. 序 論 二. 王 世 貞 晩 年 의 生 涯 三. 王 世 貞 晩 年 의 吳 中 文 人 과의 交 遊 詩 1 - 性 靈 的 경향의 작품 3.1 해탈적 자유로운 마음 상황을 노래한 시들 - 道 家 的 忘 機 사상을 노래한 시편들 3.2 園 林 의 淸 遊 之 樂 을 노래한 시편들 3.3 審 美 的 遊 戱 의 쾌락을 읊은 시편들 3.4 江 南 才 子 의 통속적 애정을 노래한 시편들- 白 居 易 와 蘇 軾 의 典 故 이용 3.5 江 南 才 子 의 藝 術 을 찬양한 시편들 四. 王 世 貞 晩 年 의 吳 中 文 人 과의 交 遊 詩 2- 古 文 家 의 면모가 남아 있는 작품 4.1 入 仕 축하의 시편들 4.2 儒 家 的 價 値 觀 을 반영한 시편들 4.3 江 南 才 子 의 藝 術 을 찬양한 시편들 五. 結 論 一. 序 論 王 世 貞 ( , 字 元 美, 號 鳳 洲 또는 弇 州 山 人 )은 明 代 의 저명한 문학가요, 사학자이 며, 22세에 진사 급제하여 刑 部 主 事 로 관리생활을 시작하여 65세에 南 京 刑 部 尙 書 로 퇴임한 명나라 官 員 이었다. 그는 문학뿐만 아니라 經 學 과 史 學 에도 박학다식하여 弇 州 山 人 四 部 稿 174권과 弇 州 山 人 續 稿 207권 및 弇 山 堂 別 集 100권 嘉 靖 以 來 首 輔 傳 8권 觚 不 觚 錄 1권 讀 書 後 8권 輯 王 氏 書 晝 苑 등이 있다. 명나라 世 宗 (재위 ) 嘉 靖 26년에 진사 급제한 그는 李 攀 龍 과 더불어 後 七 子 를 결성 하여 李 夢 陽 과 何 景 明 등의 前 七 子 의 복고운동을 계승하다가 이반룡 사후 萬 曆 年 間 ( 1573~1620) 전반의 시단을 이끌었고, 世 宗 시절에는 당시 무소불위의 권력자 大 學 士 嚴 嵩 (1480 ~ 1567, 1569?)에게 저항을 하다가 억압을 받았고 1), 神 宗 시절에도 역시 정권을 쥔 대학사 張 居 正 에게 비판적 견해를 표명하여 누차 탄핵을 받다가 관직을 물러났다. 그는 젊어서는 이몽양과 이반룡의 <산문은 前 漢, 시는 盛 唐 >이라는 주장에 동조하여 中 唐 1) 그다 30세이던 가정 34년에 世 宗 재위 시절의 집권자였던 대학사 嚴 崇 을 비판하다가 사형을 당한 楊 繼 盛 에게 탕 약을 제공하고 후칠자를 비롯한 동료들과 그의 장례를 치러주는 등 동정심을 발휘한 일로 엄숭의 미움을 산 일이 있는데, 嘉 靖 38년 2월에 부친인 兵 部 左 侍 郞 王 忬 가 濼 河 를 침공해온 把 都 兒 를 막지 못하여 遵 化 遷 安 薊 州 玉 田 등이 적에게 함락되고 三 屯 營 이 위협을 받자 엄숭 일파는 왕여를 탄핵하여 하옥시키고 그 다음 해에 사형을 시켰 다.

40 300 동아시아 인문전통과 문화역학 이후의 글은 읽지 말라는 문학적 태도를 견지하였다. 그러나 만년에는 白居易와 蘇軾의 글을 좋아하고, 歸有光의 자연스러운 필치를 칭찬한 바 있다2). 명말의 孫鑛3)은 왕세정의 만년의 작 품을 公安派의 端倪라고 비난하기도 했다4). 본고는 왕세정 만년의 작품 가운데 그가 吳中 문인들과 주고 받은 시에 자유로운 경향이 더 극명하게 나타날 수 있다는 가정 하에 그가 張居正을 비판하는 < 地震疏> 를 올린 관계로 파면 을 당해 관직을 물러나 고향에서 살기 시작한 吳中의 문인들과 주고받은 交遊詩를 찾아서 과 연 그의 만년의 시에 白居易와 蘇軾 계열의 性靈主義的 경향이 있는지의 여부를 알아보려 한 다. 필자가 그의 65년의 인생 가운데 51세 이후의 시를 연구 대상으로 정한 이유는 이 시기 이 후 그의 주거지가 南京과 太倉 등 강남 지역으로 제한되었고, 그가 50세이던 만력 3년에 180 권의 弇州山人四部稿 편집되어 만력 4년에 판각되었기 때문이다. 51세 이후 그는 더 이상 타 지역으로 宦遊를 하지 않아 고향 사람들과 교제가 많을 수밖에 없는 공간에 거주하였고, 저 술 여정으로는 제1기를 마무리짓고 제2기를 시작한 셈이다. 즉 51세 이전의 작품은 弇州山 人四部稿 에 수록되어 있고, 그 이후의 작품은 弇州山人續稿 에 수록되어 만년과 그 이전 의 작품이 확연이 구분되기 때문이다. 구체적 연구방법으로는 弇州山人續稿 에 수록된 교유시가 있는 吳中 문인과의 주고받은 교유시를 찾아서 그의 인생관과 작법을 찾아보는 방법을 택할 것이다. 二. 왕세정 만년의 생애 왕세정의 51세 이전의 생애에 대해서는 주요 사항만 아래의 표로 정리하고, 51세 이후의 삶에 대해서만 문장으로 기술하기로 한다. 期間 所在地 所爲(事件) 嘉靖 5년 江蘇 太倉 세정 탄생 嘉靖 22년 太倉 18세, 가을에 스승 季德甫와 함께 應天 향시에 급제 嘉靖 26년 嘉靖 27년 嘉靖 34년 嘉靖 35년 北京 北京 북경 嘉靖 38년 靑州 嘉靖 39년 북경 隆慶 2년 大名 22세, 進士及第, 大理左寺에서 政務 見習, 李先芳과 교우 23세, 30세, 31세, 34세, 刑部主事(正六品), 李攀龍 謝榛 등과 詩社활동5) 하옥된 楊繼盛에게 탕약 제공, 장례 집행 山東按察司의 靑州兵備副使(正四品)으로 전출 발령 3월, 동생 王世懋 進士에 급제, 5월, 부친 王忬 하옥 6월, 사직하고 즉시 상경 부친 구명을 위해 嚴嵩에게 청원, 35세 10월, 부친이 처형을 당함 43세, 4월 河南按察司 兵備副使에 기용됨. 2) 王世貞 <归太仆赞序> : 不事雕飾而自有風味, 超然當名家矣. ( 弇州續稿 巻150), 黃淳耀 <徐宗題制義序>: 弇 州晩年頗好唐宋而不薄歸熙父, 則亦自公發其端. ( 陶菴全集 巻8) 3) 孫鑛: 字 文融, 號 月峯. 萬厯 甲戌 進士. 官은 南京兵部尙까지 지냈다. 4) 孫鑛 <與余君房論文書>: 自空同倡爲盛唐漢魏之說, 大歴以下悉捐棄. 天下靡然從之. 此最是正路無可議者. 然天下事 但入正路即難, 即作人亦如此. 久之覺束縛不堪, 則逃而之初唐. 已又進之六朝. 在嘉靖中最盛. 然此路實隘而不弘近, 遂 有舍去近體, 但祖漢魏之論. 然有言之者鮮, 行之者則以此一路枯淡, 且說物情不盡耳. 近十餘年以來, 遂開亂道一派, 昨 某某皆此派也. 然此派亦有二支: 一長吉 玉川, 一子瞻 魯直. 某近李 盧, 某近蘇 黃. 然某猶有可喜, 以其近於自 然. 某則太矯揉耳. 文派至亂道, 則極不可返, 邇來作人亦多此派. 此實闗係世道, 良足歎慨. 然弇州晩年諸作, 實已透漏 亂道端倪. 蓋氣數人情至此不得不然, 亦非二三人之過也. ( 孫月峰集 卷九)

41 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 301 隆 慶 3년 隆 慶 4년 湖 州 44세, 5월~6월 杭 州 嘉 州 湖 州 三 府 의 장마와 홍수, 기근 에 효과적으로 대처함. 45세, 정월 山 西 按 察 司 按 察 使 ( 正 三 品 )로 승진함, 10월에 모친 사망으로 귀향 隆 慶 5년 太 倉 모친 喪 中 萬 曆 원년 武 昌 48세, 湖 廣 按 察 使 를 제수 받음. 萬 曆 2년 隕 陽 49세, 9월, 右 副 都 御 史 ( 正 三 品 ) 로 승진. 萬 曆 3년 江 陵 의 四 部 稿 편집 萬 曆 4년 51세, 四 部 稿 판각 50세, 御 使 ( 正 三 品 ), 3-4 月 張 居 正 의 처남이 포함된 강릉 시 위 생원들 처벌, 5 月 < 地 震 疏 >를 올려 張 居 正 을 비방. 180권 위의 표를 보면 왕세정은 가정 26년부터 35년까지 10년 동안 중앙직으로 북경에서 근무하고, 양계성과의 친분 및 嚴 崇 에 대한 저항으로 지방직으로 전출되었다가 3년 후 그 관직마저 사직 하고 낙향하여 15년 동안 고향에서 지내다 융경 2년 43세에 재기용되어 8년에 걸쳐 6년 동안 지방직으로 타향을 돌아다니다 귀향한 것이다. 이제 그 이후의 생애를 보기로 하자. 萬 曆 4년 가을에 王 世 貞 은 南 京 大 理 寺 卿 ( 正 三 品 ) 을 제수받았으나, 그 직책에 부임하기도 전에 南 京 給 事 中 楊 節 의 탄핵을 받았다. 神 宗 은 이 탄핵 을 받아들여 발령을 취소하고 다른 직책으로 부를 때까지 대기하라 하였다. 明 史 < 王 世 貞 傳 >에 의하면 神 宗 은 張 居 正 때문에 楊 節 의 탄핵을 받아들였다고 한다. 張 居 正 은 정권을 잡자 王 世 貞 과 進 士 同 年 인 관계로 그를 자기 사람으로 끌어들이고자 하였으나, 王 世 貞 이 달가워하 지 않았을 뿐만 아니라 萬 曆 3년 荊 襄 地 震 當 時 에 < 地 震 疏 >를 올려 그를 불편하게 만들고 또 妻 男 件 도 유감으로 느끼고 있던 차에 楊 節 의 탄핵을 접하자 즉각 그를 파면하도록 한 것이라 고 한다. 王 世 貞 은 고향으로 돌아간 뒤 弇 山 園 6)에 묻혀 三 萬 餘 卷 의 藏 書 를 읽고 정리하며 때때로 찾 아오는 名 士 들과의 교류로 소일했다. 이 무렵 그의 명성은 은퇴 전보다 더욱 더 높아졌다. 萬 曆 6년 10월에 王 世 貞 은 應 天 府 尹 에 부임하라는 명령을 받았으나 부임길에 南 京 의 御 史 臺 에서 자기를 탄핵하고 있다는 소식을 듣고 뱃길을 돌려 고향으로 돌아갔다. 萬 曆 7년 ( 己 卯, 서기 1579년, 王 世 貞 54세) 南 京 給 事 中 王 良 心 福 建 都 御 史 王 許 之 등이 연 이어 王 世 貞 을 사치스럽고 더럽고 제멋대로라고 탄핵하는 上 訴 文 을 올렸고, 神 宗 은 이를 받아 들여 王 世 貞 에게 歸 鄕 하여 다음 발령을 대기하라고 하였다. 이 무렵에 王 世 貞 은 王 錫 爵 과 왕래하며 그의 딸 王 燾 貞 7)을 스승으로 모시고 道 敎 를 신봉하 였다. 萬 曆 9년 ( 辛 巳, 서기 1581년, 王 世 貞 56세) 여름에 給 事 中 牛 維 垣 과 御 史 孫 承 南 이 曇 陽 子 5) 李 攀 龍, 謝 榛, 吳 維 嶽 王 宗 沐 袁 福 徵 등등 6) 隆 慶 6년부터 王 世 貞 은 小 祇 林 에 樓 閣 을 더 짓고 나무를 더 심고 바위 등으로 더 장식하여, 그곳은 東 吳 에서 제일 아름다웠다고 하는데, 그는 山 海 經 에 나오는 弇 山 園 이라는 명칭을 취하여 小 祇 林 을 弇 山 園 이라고 개칭했 다. 7) 王 燾 貞 : 王 錫 爵 의 딸로 號 는 曇 陽 子 이다. 그녀는 嘉 靖 37년 (서기 1558년) 생인데, 다섯 살 때부터 觀 音 大 士 像 과 비슷한 모양으로 종이를 오려 벽에 붙여놓고 그것을 향해 절을 하고 아침마다 이불 속에서 콩알을 만지며 아미타 불을 100여 마디 외운 다음 일어나곤 했다고 하는데, 후에 성장하여 朱 眞 君 ( 道 敎 에서 造 物 主 를 指 稱 하는 말) 을 섬기며 道 經 이라는 禪 語 를 써내곤 했다고 한다. 王 世 貞 은 萬 曆 8년 4월부터 당시 22세인 그녀를 스승으로 섬기며 王 錫 爵 과 함께 曇 陽 館 을 지어주는 등 열성적 信 徒 가 되었다. 江 西 로부터 入 覲 하였다가 잠시 고향에 들렸던 그 의 동생 王 世 懋 도 曇 陽 子 의 제자가 되었다. 曇 陽 子 는 이 해 가을 9월 9일에 세상을 떠났는데, 王 世 貞 은 그녀의 사후에 王 錫 爵 의 부탁을 받고 < 曇 陽 大 師 傳 >( 弇 州 山 人 續 稿 卷 78) 을 썼다.

42 302 동아시아 인문전통과 문화역학 件 으로 王 錫 爵 과 王 世 貞 兄 弟 를 誣 妄 하다고 탄핵하였다. 이로 인하여 그의 동생 世 懋 도 사직을 하고 고향으로 돌아와 弇 山 園 에서 半 里 정도의 거리에 있는 城 의 서남쪽에 澹 圃 라는 집을 짓고 살게 되었다. 萬 曆 10년 6월에 張 居 正 이 죽었고 가을에 王 世 貞 의 아들 士 騏 가 鄕 試 에 壯 元 及 第 하였다. 萬 曆 11년 王 世 貞 은 五 子 篇 二 友 篇 末 五 子 篇 등을 다시 썼다. 萬 曆 12년 正 月 에 王 世 貞 은 應 天 府 尹 으로 起 用 되었다. 2월에는 南 京 刑 部 右 侍 郞 으로 승진되 었으나 그는 사직을 원하는 상소문을 올리고 귀향했다. 萬 曆 15년 ( 丁 亥, 서기 1578년, 王 世 貞 62세) 10월에 王 世 貞 은 南 京 兵 部 右 侍 郞 발령을 받 고 辭 免 을 원하는 상소문을 올렸으나 받아들여지지 않아 이듬 해 3월에 부임하였다. 그의 동생 世 懋 는 萬 曆 15년에 병으로 南 京 太 常 寺 卿 을 사퇴하고 귀향하였다가 萬 曆 16년 6월에 죽었다. 王 世 貞 은 동생이 죽은 직후와 7월에 사직을 간청하는 상소문을 올렸으나 받아들여지지 않았다. 萬 曆 16년에 王 世 貞 은 < 爲 光 復 孔 廟 舊 典 訂 定 從 祀 諸 儒 以 昭 聖 化 以 慰 衆 心 疏 > 8) 라는 상소문을 올렸다. 이 상소문에서 그는 嘉 靖 이래 孔 廟 에서 佾 舞 와 籩 豆 ( 祭 器 )를 줄인 것은 잘못이라고 지적하고, 宰 我 와 子 貢 을 十 哲 의 대열에서 빼내어 兩 廡 로 내려앉히고 대신 有 若 과 南 宮 으로 충원해야 하며, 范 仲 淹 도 모셔야 한다고 주장하였다. 또 이 해에는 南 京 兵 部 尙 書 吳 文 華 가 南 京 의 九 卿 을 이끌고 司 禮 監 張 鯨 9)을 처벌하기를 청 원하는 상소문을 올렸는데 이 상소문을 王 世 貞 이 썼다. 10) 萬 曆 17년 ( 己 丑, 서기 1589년, 王 世 貞 64세) 3월에 神 宗 에게 親 政 을 권유하고 張 鯨 등을 더 이상 重 用 해서는 안 된다는 상소문을 올렸는데 이 상소문도 역시 王 世 貞 이 썼다. 11) 王 世 貞 은 이 해 6월 4일에 三 品 이 考 滿 되어 都 城 을 향해 출발하였으나 淮 安 에 도착했을 때 南 京 刑 部 尙 書 로 발령이 났다는 명령을 듣고 길을 돌려 귀향하여 형부상서로 취임했다. 9월 24일에 南 京 廣 西 道 監 察 御 史 黃 仁 榮 은 王 世 貞 의 임기만료( 考 滿 )에 대한 보고가 잘못되었다며 王 世 貞 을 탄핵했다 12). 조정에서는 王 世 貞 이 前 職 在 任 時 過 誤 가 없으므로 大 計 13)에서 탄핵을 받은 것과 동일시 할 수는 없다는 해석을 내리고 王 世 貞 으로 하여금 계속 직무를 계속하도록 하였다. 그 러나 王 世 貞 은 隱 退 하고 싶은 생각이 굳어져 辭 退 를 청원하는 상소문을 올렸으나 받아들여지 지 않았다. 萬 曆 18년 ( 庚 寅, 서기 1590년, 王 世 貞 65세) 정월에 王 世 貞 은 다시 辭 職 願 을 올렸다. 3월 15일에 허락하는 공문이 내려오자 그는 그 다음 날 즉시 고향을 향해 출발하여 4월에 집에 도 착했다. 집에 도착한 후 그는 문을 닫아 걸고 손님을 거절하고 詩 文 도 별로 짓지 않으며 지내 다가 동짓날에 僧 侶 한 사람과 偈 에 관해서 談 笑 하다가 世 上 을 떴다. 그의 著 書 로는 弇 州 山 人 四 部 稿 와 弇 州 山 人 續 稿 및 弇 山 堂 別 集 嘉 靖 以 來 首 輔 傳 觚 不 觚 論 讀 書 後 輯 王 氏 書 晝 苑 등이 있다. 위의 내용을 다시 정리해 보면 만력 4년(51세)에 은퇴한 왕세정은 장거정이 죽을 때까지 기용되지 못하다가 장거정 사후 만력 12년(59세)에 잠시 기용되었으나, 이미 도교를 신봉하기 8) 弇 州 山 人 續 稿 卷 143 9) 張 鯨 : 太 監 張 宏 의 名 下 로서 同 廠 을 관장했다. 그는 성격이 굳고 과단성이 있어서 神 宗 은 그를 편애하였다. 그는 뇌물을 많이 받는 등 권력을 남용하는 사례가 많았는데 萬 曆 16년에 집중적으로 많은 사람들의 탄핵을 받았다. 10) 弇 州 山 人 續 稿 卷 143, < 會 劾 司 禮 張 鯨 疏 > 11) 弇 州 山 人 續 稿 卷 143, < 披 誠 獻 言 仰 裨 聖 德 聖 政 疏 > 12) 王 世 貞 은 副 都 御 史 大 理 卿 應 天 尹 侍 郞 등의 正 三 品 을 역임했으므로 前 俸 을 합하면 기간이 충족되었기 때문에 刑 部 尙 書 로 승진되었던 것인데, 黃 仁 榮 은 탄핵을 받은 적이 있으므로 그의 前 俸 은 합산하면 안 된다는 논리로 그를 탄핵했다고 한다. 13) 明 代 에 3년에 한 번씩 地 方 官 에 대하여 행하는 考 察 로 京 官 에 대한 京 察 에 상응하는 말.

43 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 303 시작한지라 벼슬 생활에 의미를 못 느껴 곧 그만두고 고향으로 돌아가 살다가 만력 15년(62 세)부터 만력 18년(65세)까지 마지막 4년은 또 충실한 유가적 관원의 자세로 되돌아가 司禮監 환관 張鯨을 퇴출시키기 위해 정열적으로 활동한 모습을 보여 주었음을 알 수 있다. 三. 王世貞 晩年의 吳中文人과의 交遊詩 1 - 性靈的 경향의 작품 3.1 해탈적 자유로운 마음 상황을 노래한 시들 - 道家的 忘機 사상을 노래한 시편들 돌아온 후 원어 종백에게 드림(歸後呈元馭宗伯)>14) 얼음과 서리 때문은 아니지만 통곡의 길은 끝이 났습니다. 이제 마을 사람들을 따라서 봄바람이나 따라다닐 것입니다. 벼슬 하나 하다가 계륵을 만났다고 저를 불쌍해하지 마소서! 모든 일의 머리는 다 公에게 속해 있으니까요. 靜寂을 익혔더니 지난날의 단점을 알게 됩니다. 말을 피하자니 어찌 친구들과 같이 어울리기를 기대할 수 있겠습니까? 꽃을 꺾느라 바지가랑이를 걷어 올리는 즐거움도 있고 더러운 물 속에 핀 연꽃도 적지 않습니다. 不為 氷霜哭路窮, 將從里社逐春風. 一官鷄肋毋憐我, 萬事龍頭盡屬公. 習靜稍知前日短, 避言那望故人同. 采芳倘 有褰 裳興, 未少蓮花濁水中. 이 시는 왕세정이 관직을 떠나 고향으로 돌아온 뒤, 자기보다 8세 젊은 王錫爵 ( )15)에게 보낸 시이다, 왕석작은 王世貞과 아주 친한 동향(太倉) 후배였다. 그는 嘉靖 41년 (1562年)의 會試 一等, 廷試 二等으로 翰林院 編修를 제수받았고, 祭酒 侍讲学士 등을 거쳐 萬曆 5년에는 詹事로서 翰林院을 관장했다. 萬曆 6년에 禮部右侍郞으로 승진하였으나, 張居正 이 喪을 마치자마자 朝廷으로 돌아와 달라는 九卿들의 連署에 참여하기를 거부하여 고향으로 물러갔다. 그러나 그는 만력 12년 겨울에 禮部尙書兼文淵閣大學士로 재기용되어 機務에 참여 하게 되었다. 그리고 왕세정의 사망 후인 만력 21년(1593년)에는 內閣 首輔가 되었다. 萬曆 22년 2월에는 吏部尙書兼建極殿大學士로 轉補되었으나, 言官의 공격을 받고 스스로를 비판하 는 상소를 올리고 5월에 퇴직하였다. 만력 35년 1607년)에 병이 나 은퇴하였다. 사직 후에도 朝廷에서는 그에 대해서 太子太保를 加赠하고, 建極殿을 짓도록 허락해주고, 道里费를 하사하 는 등 예우를 해주었다. 죽은 뒤엔 太保를 추증하고 文肃이라는 시호를 내리고, 장례를 치러주 고, 칙령으로 專祠를 지어 주었다. 그의 저서로는 王文蕭集 과 疏草 가 있다. 14) 弇州續稿 卷十五 15) 字가 元馭, 號는 荊石으로 王世貞의 동향(太倉人). 그는 江南의 직조와 江西의 도자기 산업에 대하여 궁중용 최 고급 사치품을 제조를 중지시키고, 雲南의 贡金을 경감해주고 河南의 饑荒을 구제해주기를 주청하여 모두 허락 을 받았다. 萬曆 22년 2월에는 吏部尙書兼建極殿大學士로 轉補되었으나, 言官의 공격을 받고 스스로를 비판하는 상소를 올리고 5월에 퇴직하였다. 만력 35년 1607년)에 병이 나 은퇴하였다. 사직 후에도 朝廷에서는 그에 대해 서 太子太保를 加赠하고, 建極殿을 짓도록 허락해주고 道里费를 하사하는 등 예우를 해주었다. 죽은 뒤엔 太保를 추증하고 文肃이라는 시호를 내리고 장례를 치러 주고 칙령으로 专祠를 지어 주었다. 그의 저서로는 王文蕭 集 과 疏草 가 있다.

44 304 동아시아 인문전통과 문화역학 이 시의 제목에 보이는 宗伯 이라는 말은 禮部尙書에 대한 對稱이고, 왕세정은 만력 4년과 12년, 18년에 귀향한 바 있으므로 이 시는 왕석작이 예부상서를 지내고 있던 기간인 만력 12 년이나 만력 18년의 귀향 후에 쓴 것으로 추측된다. 그러나 이 시에서 鷄肋 을 거론한 것으로 보아 만력 18년의 귀향 후에 쓴 것일 가능성이 훨씬 크다. 왜냐하면 앞에서 본 바와 같이 만 력 12년의 귀향은 왕세정 본인이 원해서 이루어진 것이고, 만력 18년의 귀향 결심은 그가 만 력 17년 9월에 南京 廣西道監察御史 黃仁榮의 탄핵을 받은 데에서부터 비롯되었기 때문이다. 왕세정은 만력4년부터 만력 12년까지 왕석작은 만력 6년부터 만력 12년까지 태창에 머물렀 었는데, 둘이 함께 왕석작의 딸 王燾貞을 스승으로 모시고 道敎를 신봉했었다는 사실을 앞에서 언급한 바 있다. 이 시의 내용은 그 무렵 세상 문제에 집착하지 않는 사고방식을 익혔으므로 道伴인 왕석작에게 지금 은퇴하여 바지 가랑이를 걷어 올리고 연못에 들어가 흙탕 속에 핀 연 꽃을 따고 習靜하며 養心을 하고 있는 자기 심경을 이해시키며 자기 걱정을 하지 말라고 당부 한 것이다 <원어 종백과 가어 및 내 동생 경미 두 학헌과 함께 양 대종백을 모시고 달밤에 강물을 따라 가다가 서쪽 별장에 배를 대고 지음(與元馭宗伯, 家馭及吾弟敬美二學憲, 陪楊大宗伯, 月夜 沿流泊西墅作)>16)17) 누자성 성곽에 저녁 안개가 핀다. 깊은 정적 속에 앉아 곱디고운 달을 다투어 감상한다. 물결 따라 난들이 휘어지니 여기가 어딘지 알겠다. 밀납 바른 나막신 신고 가끔씩은 숲을 뚫고 다녀본다. 마음 속 얘기를 할 때 모두들 허심탄회하고 곧 이어 조정과 시정 얘기를 하는데 다소 추상적이라도 무방하다. 機忘을 이미 믿고 나니 갈매기들 속에서 자는 잠이 익숙하다. 관직을 떠났거늘 어찌 술로 자신을 가련해 하고 위로하는 고생을 할까? 婁子城頭18)生暮烟, 坐深爭愛月娟娟. 蘭橈信水知何處, 蠟屐 穿林亦偶然. 但語襟期俱有素, 即 談朝市不妨玄. 機忘已信眠鷗熟, 綬解那勞醉尉憐. 이 시는 왕세정 형제와 왕석작 형제가 楊大宗伯이라는 禮部尙書 출신의 어른을 모시고 달밤에 뱃놀이를 하다가 쓴 시이다. 이 시의 제목에 나오는 楊大宗伯은 楊成인 것 같다. 왕세정이 만든 <南京禮部尚書表>에 의 하면 楊成은 吳縣 사람으로 萬曆 11년부터 南京禮部尚書를 지냈고19), 만력 16년에는 南京吏部 尙書, 17年에는 南京兵部尙書를 지낸 바 있다. 그러므로 이 시는 그가 남경에부상서를 지내고 있던 만력 11년부터 만력 12년에 왕석작이 재기용되어 북경으로 떠나기 전 사이에 쓰인 것으 로 생각된다. 태창의 누자성에 저녁 안개가 서리고 달이 고즈넉이 뜬 밤, 다섯 사람이 그 옛날 西晉의 竹 16) 17) 18) 19) 原註 : 州司不出候公, 故云 弇州續稿 卷 十七 왕세정의 고향인 太倉州은 婁東이라고 불린다. 이곳에 옛날에는 婁子國이 있었다고 한다. 楊成, 直隸吳縣人, 嘉靖丙辰進士, 萬厯十一年任.( 弇山堂别集 卷49)

45 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 305 林七賢처럼 조정 인물들에 대해서도 이러니저러니 떠들고, 蘇州 市井에 떠도는 얘기들도 주고 받으며 淸談을 나눈다. 人事考課에 반영하는 것도 아니니 굳이 꼭 사실에 부합할 필요도 없다. 陶淵明이 山海經 을 읽을 때 굳이 참이냐 아니냐 를 따지지 않았듯이 그들의 대화도 굳이 참이냐 아니냐를 따질 필요가 없이 되는 대로 아무렇게나 함부로 말하는 즐거움을 왕세정은 不妨玄 으로 풀었다. 이렇게 얘기만 나누어도 충분히 행복하니 관직을 박탈당했다고 울분을 토 하는 화풀이 술을 마실 필요가 없다는 말과 물결 따라 난들이 휘어지니 여기가 어딘지 알겠 다 라는 말로 왕세정은 지금 자기가 누리고 있는 자유의 행복이 바로 仙的 境界라고 주장하고 있는 것이다. 그가 이 시에서 사용한 機忘 이란 忘機 의 도치이다. 忘機 는 機心을 잊는다 는 말인데, 이 경우 기심은 사악한 마음 이라는 뜻이 아니라 이해득실과 잘잘못을 따지는 모든 世俗的 思考方式 을 다 일컫는 말로 생각되며, 이 시기 왕세정의 철학관과 인생관 및 가치관을 통틀어 일컫는 총체적 개념어라고 할 수 있다. 3.2 園林의 淸遊之樂을 노래한 시편들 吳中은 園林의 고장이다. 지금도 蘇州에는 수많은 園林이 남아 관광명소가 되어 있다. 왕세 정은 太倉縣(鎮洋縣) 隆福寺의 서쪽에 弇山園이라는 園林을 조성했다. 이 원림은 넓이가 七十 餘畝였고, 그 속에 산봉우리 셋을 만들어 上弇 中弇 下弇이라고 불렀는데, 亭榭와 꽃과 나무 가 지극히 아름다웠다고 한다. 왕세정의 동생 世懋는 澹圃園을 지었고, 世貞의 아들 士驥는 賁 園을 지었다고 한다20). 吳中 名士들은 園林을 오가면서 詩酒의 모임을 가지며 교류를 하였는 데, 왕세정의 시편 가운데 이런 종류의 교유시를 몇 편 보기로 한다 <편지를 써서 가어 제학에게 장공 학사와 함께 지당화를 보러 오라 요구하다(折簡, 要家 馭提學, 同長公學士, 看地棠花)> 엄산원 천여 그루 나무들이 비단처럼 비스듬히 늘어져 있소. 비가 질투하고 바람이 속여도 그냥 그것들을 내버려두었었소. 오로지 그대 형제들이 좋아하는 것만은 사랑하여 그 중에 지당화만은 남겨 놓았소. 弇 園千樹錦横 斜, 雨妬風欺一任他. 唯愛君家兄弟好, 就中留得地棠花. 家馭은 왕석작의 동생 王鼎爵의 字이다. 그는 隆慶 戊辰년의 進士로 萬歴元年에 禮部精膳司主 事를 지냈고, 그 후에 儀制司員外郎을 거쳐서 河南提學副使를 지냈다. 이 시는 王鼎爵에게 자기 정원의 지당화를 감상하러 형과 함께 오라는 초대장 같은 것이다. 초대장도 시로 보내고, 왕씨 형제들은 이 초대에 응하여 지당화를 감상하면 또 시를 써야 할 것이다. 시가 일종의 사교문화였던 것이다. 엄산원은 넓이가 70여 무라니까 그 속에 심겨진 나무가 천여 그루라는 것은 과장이 아닐 것 이다. 아름다운 정원을 가진 사람들은 자기 정원에 손님을 초대하여 정원의 아름다운 풍경을 감상하기 좋아한다. 詩酒 문화를 가진 중국에서는 시가 남성들 간의 사교의 장이었고, 소통의 媒體였다. 왕세정이 이 시를 쓴 것은 아마 늦은 봄이었을 것이다. 수많은 꽃나무에 꽃들이 피 20) 江南通志 卷33

46 306 동아시아 인문전통과 문화역학 어 나무마다 비단을 펼쳐 놓은 것처럼 곱기가 그지없었는데, 늦봄의 봄비가 많이 내리고 바람 이 세게 불어 수많은 꽃들이 다 떨어져버렸으나, 왕석작과 왕정작 두 형제가 좋아하는 地棠花 는 안 떨어지고 그대로 있으니 와서 보시라고 초대한 것이다. 지당화란 棣棠의 별명이라고 하 는데, 棣棠은 산앵도나무라고 한다. 이 꽃은 개화시기가 좀 늦은 모양이다. 하여간 전원으로 돌아간 도연명은 화재와 흉년으로 乞食까지 한 적이 있는데, 왕세정의 만년은 거대한 원림을 소유하고 이렇게 즐거운 생활을 했던 것이다. 도연명에 비하면 훨씬 더 물질적 결핍으로부터 자유로왔다고 할 수 있다. 그러므로 그만큼 더 심미체험에 시간과 마음을 쓸 수 있었을 것이 다 <원어 종백 댁에 머물러 국화를 감상하는데 갑자기 자목련 한 그루가 특이하여 그에 대 해 쓴다(元馭宗伯留賞菊, 忽有紫牡丹一株, 異而賦之)>21) 학사의 은어가 늦지 않게 구워지는데 별 일 없이 도팽택령처럼 동쪽 울타리 옆에 섰다. 누가 만년에 친구 셋도 없다고 했던가? 선뜻 하늘의 향기 같이 향기로운 꽃가지 하나 빌려 주소서! 자줏빛 꽃을 내려주시면 유독 채색 옷을 빛나게 해 주리다: 노란 국화와 어울리니 둘 다 황금 술잔에 올려드릴 만합니다. 공은 위대하게도 춘추의 필력을 갖고 있다는 걸 내가 아니 이 풍광과 함께 이때를 표현할 수 있을 것이오! 學士銀魚焚不遲, 居然陶令傍東籬. 誰云晚 節無三友, 忽許天香借一枝. 賜紫獨應誇彩服, 配黄 雙可薦金巵. 知公大是春秋筆22), 能遣風光並 此時. 노란 국화가 핀 가을 날, 왕세정이 왕석작의 집을 방문하여 국화가 피어 있는 동쪽 울타리 밑 에서 도연명의 隱逸을 생각하며 은어를 구워 안주를 만들고 있는데 봄에나 피는 자목련이 가 을을 제철인 줄 알고 잘못 핀 게 눈에 띄어 이 시를 썼다는 것인데, 보랏빛 목련꽃이 채색 옷 을 빛내게 하겠다느니 국화의 노란색과 자목련의 보랏빛이 잘 어울리니 술잔 장식으로 올리겠 다느니 하는 표현이 고도로 발달한 審美的 遊戱는 아니지만 그래도 아무 근심걱정 없는 친구 끼리의 단란한 회합의 즐거움을 소박하게 잘 표현해 주고 있다 <곡우날 경미와 함께 술통을 들고 가어 원어를 방문하여 원어의 정원에서 마시다(穀日 同敬羙携榼訪家 元馭, 因飲元馭園亭23)> 朋好簮全盍, 園亭酒更宜. 賞能偏榖 日, 歸不待爪期. 箕潁人從厭, 羲皇爾自私. 21) 弇州續稿 卷 十五 22) 왕석작은 春秋日録左氏釋義評苑 20권을 萬曆 庚寅(申時行序)년에 출판한 바 있다. 23) 弇州續稿 卷 十二

47 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 307 寜唯嗣宗眼, 桞 亦吐青 枝. 其二 耦 耕吾愛弟, 骸乞爾從兄. 緑 蟻先春色, 黄鸝 不世情. 漸來銀海眩, 忽有玉山傾. 醒則誇醒好, 歡娯 醉裏生 <빗속에 요씨의 오래된 정원을 지나다가 주공가 장유우 첨동도 척불린과 운을 나눠 春 자를 얻었는데, 이 때 공가가 옛날에 논 뒤 거의 50년이 지났다(雨中過姚氏故園, 與周公 瑕 張幼于 詹東圖 戚不磷分韻得春字, 時公瑕舊遊之地, 將五十年矣)>24) 오로지 욕심 없는 놀이만 허용할 뿐 자주 오는 것은 꺼리지 않지만 요씨네 정원은 비록 해묵었으나 손님의 회포는 새롭다. 빗소리는 천여 호의 더위를 선 채로 흩날려버리고 하느님 뜻은 처음엔 굳이 만여 개 우물의 봄을 회피했었다. 특별한 섬을 지나가는 구름은 짙은 먹빛을 뿌리고 평평한 계곡의 줄어든 물엔 자디잔 잔물결이 생긴다. 제방을 따라서 온통 가시나무가 서 있으니 아무래도 주랑의 어둡고 슬픈 정신이리! 但許清 游不厭頻, 姚園雖故客懷新. 雨聲立散千家暑, 天意初廻萬井春. 别 島過雲濃潑墨, 平溪蹙水細生鱗. 沿堤大有金城樹25), 總是周郎 暗愴神. 이 시의 수련과 미련은 제목에서 밝힌 대로 姚園이 周天球( )26)가 50년 전에 와서 놀았던 곳이라는 데에 초점을 맞추고 있다. 왕세정이 서기 1526년 생이고, 주천구는 서기 1514년 생이니까 주천구가 왕세정보다 12세 연상이지만 마지막 구에서 주천구를 周郞 이라고 부른 까닭은 50년 전의 주천구의 나이가 왕세정 현재의 나이보다 적기 때문일 것이다. 姚園은 근심 걱정 없이 淸遊하기에 좋은 곳인데, 주천구는 50년 동안이나 이 좋은 곳에 노러 오지 못 했으니 감회가 새로울 것이고, 제방을 따라 짙푸르게 서 있는 가시나무들은 그 복잡하고 슬픈 마음은 대변해주는 것이라고 말한 것이다. 그러나 왕세정의 이 말은 이 시절 그가 얼마나 슬픔 없이 밝게 지내고 있는지를 역설적으로 말해 준다. 본인 자신의 마음에 오죽 슬픔이 없으면 주천구가 요씨 정원에 지난 50년 간 한 번도 놀러 오지 못한 사실에 대해서 이렇게 호들갑을 떨겠는가! 이 순간의 왕세정 마음의 평안함은 함련과 경련의 경물 풍경이 잘 형상화해주고 있다. 계곡 의 줄어든 물 이라는 말로부터 우리는 그들이 가뭄에 시달려 오랫동안 비를 기다리고 있었음 을 알 수 있다. 때문에 먹구름도 반갑고 빗소리도 고마운 것이다. 비로 인해 계곡물에 생긴 잔 24) 弇州續稿 巻十八 25) 禮説 卷十, 翰林院侍講惠士竒撰, <夏官>:一天下有萬諸侯, 天子中而處. 因天之固得地之利, 内為之城, 外為之郭, 郭之外為之土閬. 地高則溝之, 下則堤之, 命曰金城樹, 以荆棘上相穡著者, 所以為固也. 26) 周天球는 字가 公瑕이고 長洲人이다. 諸生으로, 文徴眀의 제자였다.

48 308 동아시아 인문전통과 문화역학 물결은 또 나머지 목마름을 마저 해소시켜 주니 만물과 더불어 適意로움이 얼마나 기분좋겠는 가? 3.3 審美的 遊戱의 쾌락을 읊은 시편들 <원어 학사와 우리 동생 경미와 이유정 사군의 빙옥당에 모여 심계남 선생의 그림을 꺼 내놓고 보여주고는 시를 쓰라 하여 쓴다(同元馭學士及家弟敬羙, 㑹李惟楨使君氷玉堂, 出沈啟南 先生畵見示, 命作)>27) 의자를 늘어놓고 걸어놓은 것은 다 누구를 위해서인가? 죄송하게도 유익한 벗 셋을 이뤄 함께 뒤를 따른다. 빙옥당 옥병 속의 손님을 찬양하고 난 뒤 이어서 아름다운 그림 밑에 깔린 詩心을 사랑한다. 화려한 창을 든 호위병 세우고 향기 어린 향연을 벌이는 것은 우리 고을의 일 붉은 대문에 살거나 쑥대 문 안에 살거나 예스런 마음 기대하니 흥이 솟으면 허무한 곳을 가리키며 곧 짚신을 신고 떠날 게 의심 안 된다. 陳榻懸來總為 誰, 忝 成三益共追隨. 已誇氷玉壺中客, 更愛丹青 筆底詩. 畵戟淸香28)吾郡事, 朱門蓬户 古心期. 興來指㸃虚 無29)處, 便踏芒鞋去不疑. 위 시의 제목에 보이는 李惟楨使君은 왕세정의 다른 시 <李維楨使君自金華修訊且惠山資有 謝>30)에 보이는 李維楨使君과 동일인물일 가능성이 크다. 李維楨字本寧 湖北京山사람이다. 그 는 隆慶 戊辰 進士로 관직은 庶吉士, 編修, 修撰, 陜西右參議, 提學副使 등을 거쳐 南京禮部尚 書까지 지냈고, 저서로 大泌山房全集 134권이 있다. 그는 胡應麟 屠隆 魏允中 趙用賢 등 과 함께 왕세정을 따른 末五子 중의 한 사람이다. 그는 陜西右參議, 提學副使 등 外僚를 거의 30년을 지냈고, 天啓( )初에 布政使로 귀향했다가 나이 70여세에 다시 등용되었다. 李維楨은 그림을 좋아하여 많은 題畵詩를 썼는데, 이 시의 내용으로 보아 그가 沈周 ( )의 그림을 소장하고 있었던 것 같다. 왕석작과 왕세무 및 왕세정, 그리고 이유정 네 사람이 본 심주의 그림은 창을 든 호위병들을 죽 늘어세우고 벌인 잔치 모습, 이른 바 畵戟 淸香이었던 모양이다. 잔치모습을 그린 그림을 보면서 왕세정이 느낀 沈周의 詩心은 짚신 신고 어디랄 것 없이 허공을 가리키며 먼 길을 떠나고자 하는 마음이었던 것 같다. 形似의 그림에서 그림에 담았을 작가의 마음을 읽어낸 것은 왕세정이 화가 沈周을 流浪的 藝術魂을 가진 화가 로 파악하고 있기 때문에 가능했을 것인데, 이런 감상을 할 수 있다는 것 자체가 왕세정이 이 당시 예술적 상상력을 발휘할 수 있을 만큼 마음이 자유롭고 생활이 한가했음을 말해 준다고 할 수 있겠다. 27) 弇州續稿 卷 十六 28) 韋應物<郡齋雨中與諸文士燕集>( 韋江州集 卷一): 兵衛森畵戟, 宴寢凝淸香. (호위병들 화려한 창 들고 삼엄하 게 서 있고 잔치자리엔 맑은 향기 어렸다.) 29) 杜甫 <送孔巢父謝病歸游江東兼呈李白> 蓬萊織女囘雲車, 指㸃虛無是征路, 30) 弇州續稿 卷 十七

49 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 江南才子의 통속적 애정을 노래한 시편들- 白居易와 蘇軾의 典故 이용 <和王百榖懐出妾>31)32) 이별한 마음 암담하여 막막하기만 해도 다만 서방님 맑은 말씀 한 마디만 기억합니다. 저와 서방님은 둘 다 박명하니 꽃은 봄의 제왕을 따라 오랫동안 정을 나누지 못합니다. 근심 속에 번소가 떠나갈 때의 시를 생각하니 젊은 이 죽은 뒤의 이름을 저버린 듯 합니다. 누가 두 동네 삼백 보 떨어진 이별을 하면서 양관의 이별처럼 애끊는 울음을 운다고 말하던가요? 離懐黯 䨴未分明, 祗憶郎 君一句清. 妾與書生俱薄命, 花隨春帝不長情. 愁囘 樊素33)行時首, 枉却34)紅兒死後名. 誰道兩坊三百歩, 陽關35)分作斷膓 聲. 王穉登( )36)은 吳中에서 시와 篆書 隸書 草書로 유명한 江南才子였다. 文徵明 사 후 30여년 동안 吳門의 문단과 書畵를 이끌었으며 저서로 吳郡丹青志 가 있다. 이 시에 등 장하는 쫓겨난 왕치등의 첩은 马 湘兰 ( )일 가능성이 크다. 마상란은 明代 女诗 人이며 女画 家인데, 어릴 때 불행하여 기생 생활을 했는데, 王稚登과 交谊 가 돈독하여 历 代名媛书 简 에 그녀가 王稚登에게 쓴 书 信이 수록되어 있다. 南京에 살던 그녀는 王稚登의 70세 생일 때 배를 사서 歌妓 수십 명을 태우고 蘇州로 와서 몇 달 동안 가무로 밤을 새우는 잔치를 베 풀고 돌아가 와병하여 56세의 나이로 죽었다고 한다. 왕세정의 이 작품은 왕치등이 첩으로 데리고 있던 마상란을 내보내고 나서, 마상란의 아픔을 헤야려 대신 쓴 일종의 擬閨中 시로 보인다. 남조 이래로 강남에선 이런 종류의 시가 오락 삼 아 자주 지어졌는데, 남조민가 吳聲의 전통이 아닌가 생각된다. 왕세정은 일부러 唐 玄宗의 양 귀비와의 애절한 사람을 노래한 < 長恨歌> 의 작가 백거이가 거느리고 있다가 떠나보내게 된 樊素를 거론하고 송대 시인 소식의 전고까지도 이용하여 명백히 자신이 젊은 시절 금기시햇던 중당시와 송시를 활용하였으며, 후일 袁宏道( )가 性靈的 作風의 祖宗으로 받든 白居 易와 蘇軾 시구 활용에 대한 禁忌를 해제해버렸음을 보여주고 있다. 31) 弇州續稿 巻十四 32) 原註 伯榖曽有句云: 書生薄命元同妾, 為袁少傅所重. 이는 王穉登의 <答逺相公問病二首>에 나오는 시구이다 : 斜風斜雨竹房寒, 雲裏蓬萊枕上看. 愁過一春容鬢改, 吟成五字帯圍寛. 書生薄命元同妾, 丞相憐才不論官. 泣向青天 懐烈士, 古來惟有報恩難. ( 御選明詩 巻85) 33) 白居易 <不能忘情吟>序 : 妓有樊素者, 年二十餘. ( 白氏長慶集 卷71), <春盡日宴罷感事獨吟> : 病共樂天相 伴住, 春隨樊素一時歸. 閒聴鶯語移時立, 思逐楊花觸處飛. ( 白香山詩集 巻36) 34) 蘇軾 <清逺舟中寄耘老>: 人生百年如寄爾, 七十朱顔能有幾? 有子休論賢與愚, 倪生枉却帶經鋤. 天南看取東坡叟, 可是平生廢讀書. ( 東坡詩集註 卷10) 35) 王維 <渭城曲> : 渭城朝雨浥轻尘 客舍青青柳色新. 劝君更尽一杯酒 西出阳关无故人. 36) 字伯谷 百谷 百谷 号半偈长者 青羊君 广长庵主 广长闇主 松坛道人 松坛道士 长生馆主 解嘲客卿 江阴 今江苏 人 移居吴门.

50 310 동아시아 인문전통과 문화역학 3.5 江南才子의 藝術을 찬양한 시편들 <주공가선생의 생신을 축하하여(周公瑕先生夀言)>37) 강남의 검은 오건은 세상 사람들이 제일로 여기고 흩날리는 먹으로 그린 꽃은 날아다니는 용보다 낫다. 어디까지 계속 집집마다 자리를 까는 것인가? 곳곳에서 비석을 갈고 이옹을 기다리네. 禁酒도 귀찮다 아니하고 술병으로부터 은퇴를 하고 글을 쓰면 서로 가지려고 다투고 부러워들 하니 글씨가 농사다. 늦배추와 풋 부추는 주씨가 좋아하시니 산인께 해마다 세공으로 바칠까 하오. 江左烏巾世所宗, 墨花飛灑勝游龍. 家家拂席延何㸃, 處處磨碑待李邕. 止酒不煩壺作隠, 著書爭羡 筆為 農. 晚菘 新韭 周郎 味, 倘 許山人作嵗供. 周公瑕는 앞에서 본 시에서도 이미 본 바 있는 周天球이다. 文徴眀의 제자였던 그는 古學을 좋 아하고 大小篆書와 隸書 行書 草書를 모두 잘 썼다. 文徴眀이 죽은 뒤 豐碑와 大碣은 모두 周天球가 썼다고 한다. 隆慶 년간에 京師에 놀러 간 적이 있는데, 잔치를 벌이며 주고받은 작 품이 당시의 모든 詞客을 능가했다고 한다. 이 시에서 왕세정은 周天球의 생일을 축하하며 예술적 재능을 칭송하고 매년 야채를 공급하 겠다고 약속했다. 제1구의 江左烏巾 은 주천구 에 대한 대칭이다. 아마 그가 늘 검은 건을 쓰 고 다닌 때문일 것이다. 제2구는 주천구의 서예의 예술성에 대한 찬미이다. 3 4구는 주천구의 작품에 대한 수요가 얼마나 많은지를 얘기한 것이고, 5 6구는 주천구의 작업에 대한 집중과 정성이 얼마나 대단한지를 노래한 것이다. 그는 글씨를 쓸 때에는 좋아하는 술도 안 마시고 농 부가 농사에 전념하듯 모든 정성을 다하여 썼던 것이다. 이 시는 일종의 주천구의 서예 전반에 대한 평론이면서 이 시절의 왕세정이 삶의 기초적 고통으로부터 얼마나 멀리 잇었는지, 즉 존 재론적으로 얼마나 본질적인 삶을 향수했는지를 간접적으로 시사하고 있다고 보인다. 四. 王世貞 晩年의 吳中文人과의 交遊詩 2- 古文家의 면모가 남아 있는 작품 4.1 入仕 祝賀의 시편들 <원어 각하가 상경을 하며 나를 들녘 전송 모임에 초대하여 이별을 말한 시 두 편을 쓴 다(元馭閣老將北上, 要余於野次言别, 得二章)>38) 재상의 인장은 제수할 때가 아닌데 천자의 칙서가 특별히 왔군요. 37) 弇州續稿 巻十六 38) 弇州續稿 巻十九

51 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 311 거북이 한 마리처럼 極 기둥 하나를 받칠만 할 테니 삼라만상이 장마를 맞은 듯 혜택을 누리리라 생각합니다. 많은 이들이 商나라 傅说 의 傅巖 꿈이라고 꾸었느냐고 의아해하지만 나는 潁水의 許由 같은 마음을 압니다. 부모님께 反哺의 孝를 다하겠다는 장거정의 연극을 사모하여 따른다 해도 근심은 우애를 중시하는 할미새를 향하여 깊습니다. 조정과 도시가 어찌 아름다움을 좇을 수 있겠습니까? 산림 속에 묻혀 있어도 늘 침투해 오는군요. 남자로 하여금 눈물 흘리게 하지 마소서! 옷깃을 푹 적시곤 하기 쉬우니까요. 相印非時授, 天書特地臨. 一鰲堪立極, 萬象想為 霖. 衆訝商巖39)夢, 吾知潁水心40). 戀從烏鳥劇41), 愁向鶺鴒 42)深. 朝市安從美, 山林老亦侵, 莫教 男子淚, 容易便沾襟. 其二 국토를 지키는 귀한 자리에 임명이 되셨으니 모시고 갈 마차는 竹使符를 지닌 관원들이 전담하고 있소. 모두들 승상기를 맞이하나 그래도 여전히 擧人들이 이용하는 배로군요. 三臺 밖에서 좋은 징후가 나타나는데 덜컥 제 심장이 떨어지는군요. 요임금의 세계가 그대로부터 널리 열리고 어렴풋한 해가 내 옆에서 비치오. 적절함을 취하기가 어려우니 한가로움을 탐하는 것도 禪에 방해가 될 수 있소. 임금님께 보답하기 위해 지금부터는 분수에 따라 태평한 세월을 누립시다. 拜命金甌 貴43), 徴 車竹使44)專. 共迎丞相斾, 還是孝亷45)船. 應象三台外, 降心46)一叟 前. 39) 商巖은 在野에 있는 賢士를 가리킨다. 傅说이 傅巖의 들에서 版과 筑등을 들고 공사를 하다가 商王 武丁의 눈에 띄여 宰相이 된 데에서 유래한 말이다. 40) 謝榛 <湧金亭晩酌> : 許由潁水心何逸, 莊叟濠梁意自同. 寄迹乾坤須縱酒, 不妨醉卧荻花叢. ( 四溟集 卷 5) 41) 張居正 謝准假歸葬疏 顧臣昔者急切求歸 只欲遂烏鳥思親之念. 42) 毛詩曰: 水鳥也. 大雀髙尺尖尾長喙, 頸黑青灰色, 腹下正白, 飛則鳴, 行則揺. 又曰: 鶺鴒在原兄弟急難, 鶺鴒共母 者, 飛鳴不相離. 詩人取以喻兄弟相友之道也. 43) 완정한 疆土 44) 漢書 卷 4<文帝紀> : 九月 初與郡守為銅虎符 竹使符. 45) 擧人의 별명. 한나라 때 武帝가 각 郡國에서 매년 한 사람씩 효성스럽고 청렴 결백한 사람을추천하게 한 데에서 유래한 말. 46) 降心相從 은 자기의 뜻을 굽히고 남을 따르다 는 뜻인데, 이런 의미로 해석하면 叟 를 神宗 으로 해석하게 되는

52 312 동아시아 인문전통과 문화역학 堯天從汝濶, 佛日傍吾偏. 取適難為 境, 貪閒亦礙 禪. 報君從此後, 隨分太平年. 이 시는 만력 12년에 왕석작이 禮部尙書兼文淵閣大學士로 재기용되어 북상할 때 그를 보내는 전별 모임에서 쓴 것으로 보인다. 왕석작은 萬曆 6년에 禮部右侍郞으로 승진되었었으나 張居 正이 부친 喪을 마치자마자 朝廷으로 돌아와 달라는 九卿들의 連署에 참여하기를 거부하고 고 향으로 물러갔다. 만력 10년에 장거정이 사망하고 2년 후인 만력 12년 겨울에 禮部尙書兼文淵 閣大學士로 기용되어 機務에 참여하게 되었던 것이다. 그는 만력 21년(1593년)에는 入阁하여 首輔가 되었으나, 왕세정은 만력 18년에 사망하였으므로 이는 왕세정 사후의 일이다. 그러므로 이 시는 만력 12년에 쓴 것이 확실하다. 중국 중세 사회에서는 부모님이 돌아가시면 3년 동안은 은퇴하여 부모님을 애도하는 데에 전념해야 하는 전통이 있다. 만력 4년 9월에 張居正의 부친상을 당했는데, 만력 5년에 奪情 이라는 개념을 내세워 장거정이 상중임에도 계속 직무를 수행하도록 해야 한다는 주장을 펴는 사람들이 있었다. 그리하여 9월에 다시 張居正을 기용하고 10월에 張居正의 奪情이 부당하다 고 논한 編修 呉中行과 檢討 趙用賢, 員外郎 艾穆, 主事沈思孝 등이 廷杖을 맞고 罷黜을 당했 는데, 그 당시 한림원 詹事로서 翰林院을 관장했던 王錫爵 ( )은 그들이 정장을 맞는 것을 모면시키려고 백방으로 노력하였다. 그래서 장거정은 왕석작에게 원한을 품었다고 한다 送元馭閣老二十里橋同前例得一絶句47) 남자다운 이별을 하려면 감정은 억지로 다스려야지. 더욱이 인간 세상보다 많을 하늘 위의 눈물을 견뎌야 하는데. 欲作男兒别, 將情强折磨. 更堪天上涙, 翻比世間多. 4.2 儒家的 價値觀을 반영한 시편들 - 冠婚喪祭의 大事에 <추운 밤 원어를 그리워하며(寒夜懐元馭)>48) 병이 없는데도 잠이 안 와 담요 한 장을 끌어안고 있소. 겁나게 추워서 아직도 혼자 잠을 못 이루는 것이오. 누가 뼈만 앙상하게 남아 침상에 기대 겨우 지탱하는 자를 불쌍히 여길까요? 베 모자를 쓰고 바람을 무릅쓰고 묘가 있는 들엘 다녀왔습니다. 無病無愁擁一氊, 怯寒猶自不成眠. 데, 고대사회의 습관상 황제를 叟 로 부를 리는 없으므로 降心 을 降心相從 의 의미로 해석하면 안 될 것이다. 47) 弇州續稿 卷 二十一明王世貞撰詩部五言絶句 48) 弇州續稿 卷 二十四眀王世貞撰詩部七言絶句

53 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 313 誰憐雞 骨支牀49)者, 布㡌衝風訪墓田. 이 시는 왕세정이 모친을 여읜 겨울날 외로움 속에서 왕석작을 그리워하며 쓴 것으로 보인다. 병이 없는데도 잠을 못 이루는 것은 蘇州의 겨울은 난방이 안 돼서 춥기 때문이기도 하지만, 어머니를 여읜 슬픔과 그 외로운 순간 옆에서 위로해 줄 왕석작 같은 지기가 옆에 없기 때문 이기도 할 것이다. 그러므로 이 시는 왕세정의 그 순간 느낀 감정을 단순하게 읊은 것이지만 孝와 友愛 사상 등 유가적 인생관이 반영된 작품이며, 그런 측면에서 古文的인 느낌을 지니고 있다고 생각된다 <왕가어제학이 연이어 아들 둘을 얻으니 시로써 축하하며 잔치를 열라고 다시금 촉구한 다(王家馭提學春夏之際連得二丈夫子, 以詩賀之, 再責開宴)>50) 보랏빛 기운이 마을 문 위에 기득하니 상서로운 조짐은 하나가 아니었소. 자랑스럽고 예쁜 아기들이 둘이나 왕- 왕- 울음을 터뜨리며 태어났으니. 하늘나라의 문에서 연속 기린석을 보내고 바다 나라에선 늙은 조개의 진주 빛을 둘씩이나 비춘 것입니다. 같은 나이이니 達과 適이라 이름지어도 되겠습니다. 가을이 되면 없는 글자 가리키느라 다투어 손가락질을 할 것입니다. 다만 탕과 과자를 차리게 하여 자주자주 만납시다. 어찌 공로를 인정받아야만 비로소 뵐 수 있을까요? 紫氣充閭瑞不孤, 為 誇英物重呱呱. 天門累送麒麟石51), 海國雙輝老蚌珠. 同歳 也堪名逹 适, 及秋爭指字之無. 但教 湯餅 頻頻㑹, 何必論功始見呼? 이 시는 王錫爵의 동생 王鼎爵이 아들 둘을 낳게 된 득남축하 시이다 구의 前4字 에서 마치 4字成語 같은 격식의 느낌을 받게 되는데, 타인의 가족의 生死와 연관된 문제를 다 룬 시에서는 편한 대로 생각나는 대로 마구 쓰지 않고 예절을 갖춰 표현한 것이 아닌가 생각 된다 <은무미를 위로하며 그의 딸에 곡을 한다(慰殷無美哭女)>52) 은생이 화씨지벽 같은 영애를 안고 멍하니 섶과 가시로 덮는다. 안원 조터(曹攄)의 글구를 읊조리진 않지만 그러나 오히려 이보 王衍의 감정에 꼭 일치한다. 저녁 머리맡에 흰 비단 옷 입은 모습 끊기고 아침저녁 식사 때는 패옥 소리 안 들린다. 몽읍의 장주 같이 생사를 초월하는 사람 드무니 49) 50) 51) 52) 雞骨支牀 : 부모를 여읜 슬픔으로 야윈 몸을 침상에 기대 지탱하다. 弇州續稿 卷 十七明王世貞撰 神獸의 일종이다. 왕정석의 아기들에 대한 美稱이다. 明詩綜 卷五十九

54 314 동아시아 인문전통과 문화역학 다만 난 적이 없다는 말만 되뇌시오! 殷生抱和璧, 悠然掩柴荆. 不咏 顔逺句53), 却鍾夷甫54)情. 夕枕斷紈影, 朝飡稀珮 聲. 蒙荘 55)亦難鮮, 唯有誦無生.56) 이 시는 딸을 잃은 殷都57)를 위로하려 쓴 시이다. 애가 죽어서 섶과 가시로 덮어 매장을 하고 있는 친구를 보면서 차마 莊子처럼 生死를 똑 같이 보는 초월을 권할 수는 없으니, 안 난 것으 로 여기라고 권하고 있다. 안 난 셈 치더라도 아침 저녁으로 하루 내내, 날마다 아이 생각이 날 테니 해탈은 은도도 못하고, 왕세정도 할 수 없는 것, 이런 문제에 부딪치면 조정을 벗어나 야인 생활을 해도 마음의 자유를 부르짖기는 어려움을 이 시는 보여주고 있다 <答殷無美問疾>58)59) 봄부터의 상황을 다 적고 싶소. 머리가 점점 이전만 못하다오. 쌀뜨물에 담근 물고기도 내 병엔 늦었소. 그물에 갇힌 참새 신세라 친구들도 멀리 하오. 게으름을 피우며 모든 일을 전폐했더니 병은 견딜 만하지만 근심 많아 책 읽기도 그만둘까 하오. 오로지 남은 것은 술 생각 멈추는 것이나 그대 때문에 아직도 머뭇거리고 있소! 欲悉春来 況, 頭顱 漸不如. 泔 魚60)吾事晩, 羅雀故人踈. 懶廢雖堪病, 窮愁可罷書. 唯餘止酒意, 為 爾尚 躊躇 이 시는 殷都의 문병에 대한 답시인데, 병이 위중하여 은도가 알려준 쌀뜨물에 담근 물고기를 먹어도 소용이 없고 이것저것 다 못하겠다면서 말미에서 은도에게 술마시러 와달라고 넌지시 부탁을 하고 있는 게 우습다. 그러나 병자의 이모저모 궁색한 현실적 면모를 그려낸 게 많아서 성령을 묘사한 시라고 볼 수는 없다. 53) 曹摅,字颜远,谯国谯人也. 祖肇,魏卫将军. 摅少有孝行,好学善属文,太尉王衍见而器之,调补临淄令. 县有寡妇,养姑基 谨. 诗品 梁 锺嵘 ; 晋侍中石崇 晋襄城太守曹摅 : 季伦 颜远 并有英篇 54) 西晉 王衍의 字가 夷甫이다. 그는 아내가 돈욕심이 많은 게 싫어서 돈 이라는 말을 입에 담지 않았다고 한다: ( 世說新語規箴 載 王夷甫 王衍的字 雅尚玄遠 常嫉其婦貪濁 口未嘗言 錢 字. 婦欲試之 令婢以錢繞床不 得行. 夷甫晨起 見錢阻行 呼啤曰 舉卻阿堵物 ) 55) 莊周를 이름. 그가 蒙邑의 관리로 있었으므로 蒙莊이라 부르기도 한다. 56) 弇州續稿 巻十二 57) 殷都는 字가 無美이고 蘇州 嘉定人이다. 萬厯 癸未 進士로 尼陵知州, 兵部員外郎, 南京刑部京察을 지냈다. 58) 原註: 殷詩有 肺病春来劇, 新書且絶編 59) 弇州四部稿 巻二十七 60) 荀子 大略 :"曾子食鱼有余 曰:'泔之. '门人曰:'泔之伤人 不若奥之. '曾子泣涕曰:'有异心乎哉?'伤其闻之晩也. " 杨倞注:"泔与奥皆烹和之名 未详其说. "清卢文弨 龙城札记 泔之奥之 :"非烹和也. 曾子以鱼多 欲藏之耳. 泔 米 汁也 泔之 谓以米汁浸渍之. "一说 泔当为"洎" 谓添水以渍之. 见清王念孙 读书杂志 荀子八 "泔之奥之. " 后 因以"泔鱼"为检点过失 悔改前非之意.

55 第10次 東아시아 比較文化 國際會議 江南才子의 藝術을 찬양한 시편들 <왕백곡의 <취소부>를 읽고 제화시를 써서 별나라 뗏목 삼아 드림, 그러나 이것은 옛날 의 통소가 아니므로 신성이라 칭함(讀王百榖吹簫賦, 因題畫贈星槎子61), 然此非古洞簫也, 以故稱 新聲云)>62) 유래가 있는 子野 張先은 피리소리를 유난히도 면밀하게 들어 함양의 簫史의 피리소리라는 것을 들어냈답니다. 그 노래를 吳山을 향해 한 곡 부니 누가 봉황새의 울음 같다고 생각하지 않겠습니까? 由來子野63)聽偏精, 譜得咸陽簫史64)聲. 把向吳山吹一曲, 何人不擬鳯凰鳴. 其二 살짝 천천히 옥으로 된 용정 피리를 꺼내 부니 한 구멍에서 天籟 地籟 人籟 3종의 울림소리가 다 납니다. 만약 왕포가 좋은 부를 지어낸다 할지라도 현명한 군주로 하여금 새 노래를 듣게 할 것입니다. 輕蕉65)徐出玉龍精, 一竅能為 三籟 鳴. 任是子淵66)佳賦就, 可教眀 主聽新聲. 王稚登이 쓴 <吹簫賦>를 읽고 그 작품을 찬양한 시이다. 피리 연주를 들은 것이 아니라 <吹簫 賦>를 읽었을 뿐인데, 두 수의 1 2구에서는 故事를 이용하여 실제로 피리 연주를 들은 것처 럼 읊었다. 3 4구에서는 공히 왕치등이 쓴 작품이 태평성세의 도래를 알리는 작품이니 황제 도 왕포의 통소부보다는 왕치등의 이 부를 볼 것이라 하여 왕치등을 천자가 중용할 것이라는 덕담으로 끝을 맺었다. 名敎的 가치관과 세계관으로 전개된 작품이라고 보인다. 61) 星槎子 : 고대 시화에 나오는 하늘에서 내려왔다는 뗏목, 오늘날의 UFO 같은 것. 귀빈이 오거나 벼슬이 올라가 는 것에 대한 아름다운 표현. 62) 弇州續稿 巻二十二詩部七言絶句 63) 张先 字子野 乌程 今浙江湖州 人. 天圣八年 1030 进士. 历任宿州掾 吴江知县 嘉禾 今浙江嘉 兴 判官. 皇治平元年 1064 以尚书 都官郎 中致仕 元丰元年卒 年八十九. 宋 陳舜俞의 <雙溪行>序 : 熈寧七年 九月, 予逰吳興, 遇致政張郎中子野. 日有文酒之樂時, 學士李公擇為使君幕客, 陳殿丞正臣皆予故人. 一日正臣語予云: 昨日張子野過我吾家, 有侍婢何氏, 故范恪太尉之家妓也. 窺子野於牖, 識子野嘗陪范宴㑹, 因感舊, 泣數行下. 予聞 之惻然, 交語公擇公. 擇益為之悽愴, 即乃載酒選客, 陪子野訪之. 酒行, 正臣不肯出何氏, 侑諸客飲, 獨使在屛障中歌及 作笛與胡琴, 數弄而罷. 其聲調無不清妙. 唯子野以舊恩, 得附屛障間, 問范之廢興及所由來. 子野曰: 此范當年最所愛 者 於是諸客人人憐之, 又嘉其藝之精, 而恨其不得見也. 予因作<雙溪行>, 雙溪吳興之水苕霅云也. ( 都官集 巻 12) 64) 列仙傳 箫史者 秦穆公时人也 善吹箫 能致孔雀 白鹤于庭. 穆公有女字弄玉 好之. 公遂以女妻焉. 日教弄 玉作凤鸣. 居数年 吹似凤声 凤凰来止其屋. 公为作凤台. 夫妇止其上不下数年 一旦皆随凤凰飞去. 65) 輕蕉는 輕悄의 의미로 쓴 것으로 보아야 할 것으로 생각된다. 66) 王褒 : 字子渊, 资中人, 西汉辞赋家. 宣帝 때, 益州刺史 王襄이 그를 朝廷에 추천하였다. <洞萧赋>와 <聖主得贤 臣颂>을 지은 바 있다.

56 316 동아시아 인문전통과 문화역학 五. 結 論 이상의 연구를 통해서 본인은 왕세정이 51세 이후 만년에 吳 中 의 문인들과 교우하면서 쓴 시 가운데 상대적으로 많은 작품들이 도가적 자유를 구가한 내용으로 되어 있는 것을 관찰했다. 물론 古 文 家 나 儒 家 的 경향도 그는 병용하고 있지만 그런 작품의 수는 상대적으로 적었다. <요약> 왕세정은 65세에 생을 마쳤다. 그의 시가 작품은 弇 州 山 人 四 部 稿 와 弇 州 續 稿 두 책 에 실려 있는데, 50세까지의 작품은 弇 州 山 人 四 部 稿 에 실려 있고, 그 이후의 작품은 弇 州 續 稿 에 실려 있다. 65세의 삶을 산 왕세정의 만년을 51세부터 잡는 것은 數 値 上 무리가 없는 데다가 그의 문집이 마침 51세를 전후로 하여 나뉘어 있고, 이 시기 이후 그가 거주한 공간이 남경과 太 倉 으로 제한돼 있어 吳 中 ( 蘇 州 ) 친구들을 만나기가 쉬웠다는 점에서 51세 이 후를 만년으로 본 것은 타당하다고 생각한다. 본 논문은 弇 州 續 稿 에 실린 왕세정이 五 中 의 文 化 人 士 들과 주고받은 시 가운데에서 일 부를 찾아 그 속에 道 家 的 이거나 性 靈 主 義 的 경향이 있는지를 찾아보았는데, 연구결과 상대적 으로 많은 작품들이 도가적 자유를 구가한 내용으로 되어 있는 것을 관찰했다. 물론 古 文 家 나 儒 家 的 경향도 그는 병용하고 있지만 그런 작품의 수는 상대적으로 적었다. < 摘 要 > 王 世 貞 享 年 65. 他 的 詩 歌 收 錄 在 弇 州 山 人 四 部 稿 和 弇 州 續 稿 兩 部 書. 50 歲 以 前 的 作 品 收 錄 在 弇 州 山 人 四 部 稿, 其 以 後 的 作 品 收 錄 在 弇 州 續 稿. 從 51 歲 到 65 歲, 則 16 年, 這 16 年 屬 於 他 生 最 後 三 分 之 一. 所 以 我 們 把 王 世 貞 的 晩 年 從 51 歲 算 起, 數 値 上 不 是 無 理 的. 並 且 他 的 文 集 剛 好 以 51 歲 爲 基 準 分 開, 從 此 以 後 他 居 住 的 空 間 也 限 在 南 京 和 太 倉 兩 地, 容 易 接 觸 吳 中 ( 蘇 州 ) 文 化 人 士, 所 以 我 還 認 爲 我 把 他 的 晩 年 從 他 的 51 歲 算 起 是 妥 當 的. 本 篇 論 文 從 收 錄 在 弇 州 續 稿 的 王 世 貞 與 五 中 文 化 人 士 交 友 過 程 中 所 寫 的 詩 篇 當 中, 調 査 過 道 家 的 或 者 性 靈 主 義 的 傾 向. 硏 究 結 果 發 現 相 對 的 更 多 的 作 品 帶 有 這 種 傾 向. 固 然 他 在 那 個 時 候 向 五 中 文 人 也 寫 過 古 文 家 或 者 儒 家 式 的 作 品, 可 是 那 種 作 品 相 對 地 小 了. 關 鍵 語 王 世 貞 晩 年, 吳 中 文 人, 道 家 的 忘 機, 園 林 淸 遊 之 樂, 審 美 的 遊 戱, 江 南 才 子 의 通 俗 的 愛 情,

57 一 時 之 選 柳 得 恭 並 世 集 初 探 姚 大 勇 1 中 國 明 清 時 期 朝 鮮 派 遣 來 華 的 使 臣, 多 以 詩 文 記 述 出 使 中 國 的 行 程, 年 與 歲 深, 為 數 益 夥, 歷 數 百 年 之 久, 遂 成 犖 犖 大 觀, 傳 世 之 數 百 種 燕 行 ( 朝 天 ) 錄, 洵 為 探 究 當 時 中 國 與 朝 鮮 間 經 濟 文 化 政 治 方 面 交 往 的 寶 藏 當 時 來 華 的 朝 鮮 使 節, 不 僅 忠 謹 地 完 成 出 使 異 邦 的 使 命, 而 且 誠 摯 與 中 國 人 士 交 往, 有 的 更 與 中 國 人 結 下 了 深 厚 的 情 誼 在 朝 鮮 眾 多 赴 華 使 臣 中, 柳 得 恭 堪 稱 其 中 的 代 表, 他 曾 於 清 乾 隆 五 十 五 年 (1790) 和 嘉 慶 六 年 (1801) 兩 番 出 使 中 國, 與 中 國 文 士 交 往 頗 密, 他 所 撰 的 燕 台 再 遊 錄 細 緻 介 紹 了 他 在 中 國 的 經 行 交 遊, 見 聞 感 受, 此 書 現 已 引 起 學 界 的 注 意, 多 有 介 紹 和 研 究 2 他 編 選 的 另 一 部 漢 文 詩 選 並 世 集, 也 體 現 了 中 國 朝 鮮 日 本 安 南 琉 球 等 國 文 士 的 交 往, 反 映 了 當 時 以 中 國 為 主 體 的 漢 語 詩 壇 的 發 展 水 準, 以 及 中 國 文 化 在 東 亞 地 區 的 傳 播 和 作 用 本 文 對 此 詩 選 試 予 探 究, 以 見 其 在 史 學 和 文 學 上 的 地 位 和 價 值 一 柳 得 恭, 字 惠 甫 惠 風, 號 古 芸 堂 歌 商 樓 泠 齋 等, 生 於 朝 鮮 英 祖 二 十 五 年 (1749), 正 祖 三 年 ( 一 七 七 九 ) 任 奎 章 閣 檢 書, 撰 有 二 十 一 都 懷 古 詩 京 都 雜 誌 古 芸 堂 筆 記 四 郡 志 泠 齋 集 等 詩 文 著 作 3 慶 元 年 (1796, 丙 辰 年 ) 正 月 初 七 ( 人 日 ) 據 柳 得 恭 並 世 集 4 自 序 後 所 署 丙 辰 人 日 書 于 古 芸 齋 中, 知 此 書 成 于 嘉 並 世 集 序 言 中, 柳 得 恭 自 謂 朝 鮮 文 士 不 能 像 前 輩 崔 致 遠 李 齊 賢 那 樣, 與 中 土 文 士 聯 鑣 並 驅 於 詞 翰 之 林, 不 能 知 同 時 中 國 人 之 詩, 對 此 種 狀 況 深 以 為 憾, 及 讀 陳 其 年 篋 衍 集 沈 歸 愚 國 朝 詩 別 裁, 並 覺 中 土 人 文 之 盛, 而 獨 未 知 不 先 不 後 與 我 同 時 者 為 何 人 也 言 詩 而 不 求 諸 中 國, 惡 乎 可 哉? 輒 錄 其 唱 酬 篇 章 及 因 風 寄 聲 流 傳 海 外 者, 手 自 點 定 為 二 卷, 附 以 日 本 安 南 琉 球 三 國 詩 若 干 首, 與 吾 黨 二 三 子 共 之 有 懲 于 朝 鮮 文 士 對 同 時 中 國 人 之 詩, 側 耳 而 無 所 聞, 及 至 數 世 之 後, 刻 集 東 來, 然 後 始 知 的 狀 況, 柳 得 恭 在 並 世 集 中, 有 意 識 選 入 的 就 是 當 時 中 國 ( 另 有 少 部 分 其 他 國 家 ) 詩 人 的 同 時 代 詩 作, 書 名 並 世, 也 即 為 同 時 代 之 意, 其 所 選 者, 為 與 其 同 時 代 的 詩 人 詩 作 記 述 異 域 經 歷 者, 所 在 多 有, 但 是 編 選 同 時 的 中 國 詩 歌, 且 具 較 高 水 準, 則 較 為 少 見, 在 眾 多 燕 行 使 者 中, 僅 柳 得 恭 一 例, 也 惟 有 如 其 與 清 人 具 深 交 往 于 文 學 富 大 功 力, 對 詩 壇 能 真 瞭 解 者 方 可 秉 此 選 政 並 世 集 中 所 選 的 詩 人 有 李 調 元 袁 枚 紀 昀 翁 方 綱 王 鳴 盛 王 昶 錢 大 昕 蔣 士 銓 這 些 名 家 大 家, 乾 隆 後 期 詩 壇 上 有 名 的 詩 人 可 說 悉 數 列 入 除 了 這 些 有 名 的 詩 人 之 外, 還 有 1 本 文 所 謂 朝 鮮, 除 特 別 說 明 外, 均 指 朝 鮮 王 朝 ( ) 2 相 關 論 著 見 韋 旭 升 中 朝 文 士 之 間 的 交 遊 讀 柳 得 恭 燕 台 再 遊 錄, 國 外 文 學 1991 年 第 3 期 ; 王 錦 民 柳 得 恭 與 清 朝 士 人 的 交 遊, 北 京 大 學 韓 國 學 研 究 中 心 編 韓 國 學 論 文 集 第 二 輯, 北 京 大 學 出 版 社,1993 年 ; 王 靜 柳 得 恭 燕 台 再 遊 錄, 收 入 陳 尚 勝 等 著 朝 鮮 王 朝 ( ) 對 華 觀 的 演 變 朝 天 錄 與 燕 行 錄 初 探, 山 東 大 學 出 版 社,1999 年 ; 謝 正 光 嘉 慶 初 年 京 師 之 學 人 與 學 風 讀 柳 得 恭 燕 台 再 遊 錄, 九 州 學 林 三 卷 三 期 (2005 年 ) 另 詹 杭 倫 李 調 元 與 韓 國 詩 人 交 往 紀 實, 李 調 元 學 譜, 天 地 出 版 社 ( 成 都 ), 1997 年 ; 王 振 忠 朝 鮮 柳 得 恭 筆 下 清 乾 嘉 時 代 的 中 國 社 會 以 哈 佛 燕 京 圖 書 館 所 藏 抄 本 泠 齋 詩 集 為 中 心, 中 華 文 史 論 叢 2008 年 第 2 期 ( 總 第 九 十 輯 ) 對 此 也 有 論 述 3 柳 得 恭 生 平 見 韓 國 語 國 文 學 編 纂 委 員 會 編 國 語 國 文 學 資 料 事 ( 辭 ) 典, 韓 國 辭 典 研 究 出 版 社 ( 首 爾 ), 1998 年 2 月 第 1 版, 下 冊 第 頁, 另 參 見 韓 金 台 俊 著 朝 鮮 漢 文 學 史, 張 璉 瑰 譯, 社 會 科 學 文 獻 出 版 社 ( 北 京 ),1996 年 8 月 第 1 版, 第 頁 4 本 文 所 據 並 世 集 版 本, 為 韓 林 基 中 編 燕 行 錄 全 集 第 六 十 冊 影 印 舊 抄 本, 東 國 大 學 校 出 版 部 ( 首 爾 ) 2001 年 10 月 第 1 版 所 引 並 世 集 詩 文 及 序 言, 均 據 此 書

58 318 동아시아 인문전통과 문화역학 一 些 不 甚 知 名 的 文 士, 像 陸 飛 嚴 誠 潘 庭 筠 秦 瀛 李 鼎 元 馮 應 榴 裴 振 徐 大 榕 張 問 陶 等 鄧 以 列 入, 所 選 的 詩 作 也 為 各 人 的 代 表 作 品, 另 上 卷 之 末 所 列 的 金 科 豫 沈 暎 辰 王 瑗 等 十 五 人, 皆 當 時 奉 天 ( 今 瀋 陽 ) 府 監 生, 諸 人 也 多 因 此 詩 選 而 得 以 留 名 存 詩 從 所 選 詩 人 和 所 錄 詩 作 來 看, 均 可 說 是 一 時 之 選 並 世 集 除 主 要 列 入 中 國 詩 人 71 人 之 外, 還 附 有 日 本 10 人, 安 南 5 人, 琉 球 4 人 此 詩 選 不 僅 見 當 時 中 朝 兩 國 以 及 東 亞 地 區 各 國 文 士 的 交 往, 也 反 映 出 清 乾 隆 後 期 詩 壇 的 盛 況, 亦 折 射 出 漢 字 文 化 在 當 時 的 深 遠 影 響 並 世 集 雖 為 詩 選, 但 也 是 記 錄 當 時 中 國 與 朝 鮮 兩 國 文 士 友 好 交 往 的 重 要 史 料 柳 得 恭 的 燕 台 再 遊 錄 直 接 記 述 自 己 與 中 國 人 士 的 交 往, 而 在 並 世 集 中, 不 僅 可 見 他 本 人, 也 可 見 其 他 朝 鮮 使 人 與 中 國 文 士 的 交 往 如 開 卷 第 一 人 陸 飛, 編 者 于 其 小 傳 下 注 雲 : 歲 丙 戌 ( 乾 隆 三 十 一 年,1766 年 ), 洪 湛 軒 大 容 金 養 虛 杜 行 入 燕, 與 起 潛 及 嚴 力 闇 潘 香 祖 證 交 甚 密 1 其 便 面 荷 花 贈 養 虛 丙 戌 二 月 送 養 虛 兄 別 哭 嚴 力 闇 寄 示 養 虛 等 詩 都 是 他 與 東 人 交 往 的 歷 史 見 證 嚴 誠 也 與 陸 飛 一 樣, 與 東 人 交 往 甚 深, 並 世 集 所 選 其 詩, 如 養 虛 尊 兄 過 訪 寓 廬 即 事 有 作 敬 次 原 狀 韻 敬 次 清 陰 先 生 韻 和 養 虛 尊 兄 兼 請 教 定 養 虛 偕 湛 軒 再 造 寓 廬 劇 談 竟 日 仍 次 清 陰 韻 奉 答 養 虛 後 作 醉 養 虛 簡 寄 養 虛 次 韻 洪 書 狀 題 畫 贈 養 虛 次 清 陰 先 生 韻 贈 湛 軒 諸 詩 皆 是 與 洪 大 容 金 杜 行 等 人 的 酬 唱 寄 贈 之 作, 他 後 來 離 家 赴 閩 遠 遊 時, 也 不 忘 二 人, 作 有 南 閩 館 寄 湛 軒 和 南 閩 館 寄 養 虛, 對 海 東 兩 位 知 己, 備 極 思 念 這 些 詩 作 與 交 遊 史 實, 也 可 與 洪 大 容 出 使 中 國 時 所 撰 湛 軒 燕 記 相 印 證, 共 見 當 時 兩 國 文 士 交 誼 之 深 厚 潘 庭 筠, 小 傳 下 注 雲 : 香 祖 ( 潘 庭 筠 一 字 香 祖 ) 美 姿 容, 書 畫 雙 絕 湛 軒 歸 後, 時 時 致 書, 尋 衰 歇 家 叔 父 入 燕, 物 色 之, 李 雨 村 曰 : 潘 與 吾 最 好, 見 在 京 師 為 致 巾 衍 集, 香 祖 喜 而 序 之, 約 會 未 果 而 歸 戊 戌 ( 乾 隆 四 十 三 年,1778) 夏, 李 懋 官 朴 次 修 入 燕 相 訪, 遂 致 書 于 餘 庚 戌 ( 乾 隆 五 十 五 年,1790) 秋, 余 在 燕, 聞 香 祖 深 居 禮 佛, 未 及 訪 太 和 殿 賀 班 相 遇, 接 席 而 話, 依 依 若 平 生 潘 庭 筠 與 朝 鮮 洪 大 容 李 德 懋 朴 齊 家 柳 德 恭 諸 人 之 間, 有 長 達 三 四 十 年 的 交 往 其 奉 和 養 虛 碩 士 城 南 見 訪 之 作 次 清 陰 先 生 韻 贈 湛 軒 次 韻 奉 贈 養 虛 吟 長 兄 等 詩, 均 為 與 洪 大 容 金 杜 行 等 朝 鮮 文 士 的 酬 贈 唱 和 之 作 另 李 鼎 元, 小 傳 下 注 雲 : 李 懋 官 朴 次 修 入 燕, 先 訪 墨 莊 ( 李 鼎 元 字 ), 與 游 潘 香 祖 祝 編 修 唐 鳶 港 諸 公 間 余 在 燕 時, 亦 與 次 修 一 再 訪 之 墨 莊 鳧 塘 同 寓 四 川 會 館, 天 涯 舊 雨, 把 杯 劇 談 辛 酉 ( 嘉 慶 六 年,1801) 再 入 燕, 墨 莊 以 副 價 冊 封 琉 球 而 歸, 官 中 書 舍 人, 數 與 相 會 於 琉 璃 廠 書 肆 李 鼎 元 為 李 調 元 從 弟, 與 當 時 朝 鮮 著 名 文 人 如 李 德 懋 朴 齊 家 柳 德 恭 等 都 有 交 往, 其 贈 幾 何 主 人 題 薑 山 詩 題 洌 上 周 旋 集 鄭 進 士 東 歸 寄 洌 上 諸 子 皆 是 與 東 人 的 題 贈 唱 和 之 作, 題 二 十 一 都 懷 古 詩 即 為 題 柳 得 恭 的 名 作 二 十 一 都 懷 古 詩 紀 昀, 小 傳 下 注 其 與 紀 昀 交 往 史 實 雲 : 余 在 燕, 與 次 修 同 訪 尚 書, 年 位 俱 邵 而 恪 執 賓 主 之 禮, 談 討 竟 晷 後 數 日 命 駕 到 館, 問 兩 檢 書 在 否, 值 余 輩 出 遊, 留 刺 而 去, 館 中 為 之 動 色 辛 酉 (1801) 秋 入 燕, 又 訪 之, 尚 書 年 七 十 余, 不 睫, 作 蠅 字, 可 異 也 書 中 所 選 紀 昀 庚 戌 (1790) 秋 送 惠 風 檢 理 東 歸 送 次 修 檢 理 歸 國 兩 詩 即 是 送 二 人 歸 國 之 作 這 段 記 述 也 適 與 柳 得 恭 後 來 再 游 燕 時 所 撰 燕 台 再 遊 錄 相 合 : 入 燕 京 之 次 日, 訪 紀 曉 嵐 尚 書 昀 引 入 書 堂 中, 茶 訖, 餘 曰 : 拜 別 已 逾 一 紀 矣, 先 生 年 德 兼 邵, 松 柏 益 茂, 寔 幸 再 瞻! 曾 有 詩 扇 之 賜, 至 今 莊 誦 2 除 了 如 紀 昀 李 調 元 這 些 文 壇 大 家, 並 世 集 中 還 記 錄 了 一 些 不 太 知 名 的 人 士, 以 及 他 們 與 海 東 文 士 的 交 往 如 郭 執 桓, 小 傳 下 注 謂 其 能 詩 工 書, 與 沈 德 潛 賈 洛 澤 諸 人 為 友, 同 邑 人 鄧 師 閔 寄 其 繪 聲 園 集 一 卷 于 洪 湛 軒, 湛 軒 托 李 懋 官 撰 序, 余 與 朴 次 修 次 其 集 中 澹 園 八 詠 以 寄 1 編 者 于 所 選 詩 人 名 後 簡 要 記 其 字 型 大 小 籍 貫 履 歷, 其 下 再 以 小 字 注 明 其 與 他 人 ( 主 要 是 朝 鮮 人 ) 的 交 遊 情 況 本 文 所 引 各 人 簡 歷 交 遊, 非 特 別 注 明 外, 均 引 自 書 中 所 述 詩 人 小 傳 及 其 下 注 文 2 見 柳 得 恭 燕 台 再 遊 錄, 燕 行 錄 全 集 第 六 十 冊, 第 265 頁

59 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 再 如 李 美, 小 傳 謂 其 字 純 之, 直 隸 永 平 人 未 言 科 名, 似 僅 為 一 介 布 衣 注 也 謂 : 家 叔 父 ( 柳 琴 ) 自 燕 還 時, 遇 於 村 塾 中, 以 所 著 詩 一 卷 見 贈, 如 花 開 千 里 芙 蓉 國, 鳥 語 三 春 罨 畫 溪, 大 漠 秋 陰 生 碣 石, 太 行 空 翠 接 祁 連, 幾 處 蒼 煙 迷 古 戍, 一 聲 寒 雁 下 汀 洲 等 句, 頗 警 絕 所 錄 詩 句 確 實 頗 為 峭 潔 精 妙, 其 白 佛 院 一 詩 也 是 句 清 語 淡 而 餘 味 悠 長 也 真 得 感 謝 柳 得 恭, 經 他 之 手, 李 美 這 樣 一 位 窮 鄉 僻 壤 村 塾 師 的 詩 作, 才 不 致 完 全 湮 沒, 經 並 世 集 也 才 得 以 觀 其 遺 詩, 吉 光 片 語, 彌 足 珍 貴 另 如 莊 複 朝, 小 傳 下 注 謂 與 其 圓 明 園 朝 房 中 相 晤, 後 再 訪 西 華 門 內 不 值 所 選 其 詩 即 記 述 了 相 訪 的 過 程 : 惠 風 檢 書 枉 顧 不 值, 遂 與 舍 弟 作 半 日 談, 次 日 率 成 二 律 奉 贈 其 詩 即 真 實 記 錄 了 柳 得 恭 來 訪 不 遇, 與 其 弟 交 談 半 日, 並 留 下 數 幅 筆 墨, 對 柳 之 才 華 真 心 佩 服, 對 其 來 未 遇, 更 引 以 為 憾 柳 得 恭 所 交 遊 結 識 的 中 國 文 士, 既 有 身 居 高 位, 也 有 沈 抑 下 僚 的, 卷 上 的 金 科 豫 以 下 十 五 人 即 皆 為 瀋 陽 府 監 生 從 與 這 些 文 士 的 交 遊, 也 見 其 論 交 以 誠, 選 詩 惟 藝, 而 非 以 身 份 門 第 並 世 集 除 記 錄 了 中 朝 兩 國 文 士 交 遊 外, 也 反 映 了 一 些 文 學 史 實 李 調 元 小 傳 下 注 謂 : 丁 酉 ( 乾 隆 四 十 二 年,1777) 春, 家 叔 父 游 燕, 與 雨 村 定 交, 屢 造 其 室, 以 巾 衍 集 示 之, 大 加 稱 賞, 許 序 刻 之 這 簡 短 之 語, 實 概 括 了 中 朝 兩 國 文 學 交 往 的 象 徵 韓 客 巾 衍 集 的 成 書 過 程 乾 隆 四 十 二 年 丁 酉 (1777), 柳 得 恭 叔 父 柳 琴 ( 字 彈 素 ) 2, 選 李 德 懋 朴 齊 家 柳 得 恭 李 書 九 四 人 優 秀 詩 作, 隨 朝 鮮 使 節 往 中 國, 李 調 元 為 之 作 序, 潘 庭 筠 為 之 作 跋, 名 曰 韓 客 巾 衍 集 韓 客 巾 衍 集 這 部 中 國 人 序 跋 的 朝 鮮 人 的 詩 選, 可 說 也 正 與 朝 鮮 人 編 選 的 以 中 國 人 詩 作 為 主 的 並 世 集 相 映 生 輝, 是 中 朝 兩 國 文 化 文 學 交 往 的 一 段 佳 話 李 調 元 與 柳 得 恭, 可 謂 純 為 文 字 之 交, 李 調 元 次 柳 泠 庵 韻 有 序 雲 : 東 國 柳 泠 庵, 詩 人 也 其 叔 彈 素 隨 使 臣 來 燕, 得 閱 其 歌 商 樓 集, 既 批 定 之, 因 和 其 送 叔 詩, 遙 寄 以 當 異 地 知 己, 何 如? 他 日 或 來 中 土, 當 作 竟 夕 談 也 李 調 元 因 柳 得 恭 叔 父 而 知 得 恭 名 並 閱 其 詩, 一 讀 之 下, 大 為 稱 賞, 此 詩 是 僅 閱 其 詩 而 未 見 其 人 時 的 和 作, 共 六 首, 其 三 雲 : 平 生 皮 裏 有 陽 秋, 時 抱 虞 卿 著 述 愁 誰 把 詩 名 傳 海 外, 看 雲 樓 集 客 來 求 並 於 詩 下 注 雲 : 拙 作 刻 本 名 看 雲 樓 集, 公 屢 求 之, 惜 未 有 相 贈 以 為 悵 柳 得 恭 也 在 海 東 早 聞 李 調 元 文 名, 並 欲 閱 其 看 雲 樓 集 柳 琴 歸 國 時, 李 調 元 亦 有 詩 幾 何 主 人 歌 送 彈 素 歸 因 並 寄 賢 侄 泠 庵 送 之, 並 囑 寄 柳 得 恭 從 這 些 均 可 見 中 國 當 世 第 一 詩 家 人 對 東 國 一 流 詩 人 的 欣 賞 與 尊 慕 另 如 翁 方 綱, 小 傳 下 注 雲 其 所 居 構 蘇 齋, 祀 坡 公 庚 戌 (1790) 次 修 之 再 入 燕 也, 訪 覃 溪, 適 值 坡 公 生 日, 見 揭 坡 像 及 王 貽 上 宋 牧 仲 諸 像 於 壘 中, 設 筍 酹 酒, 展 蘇 黃 米 真 跡 與 諸 名 士 縱 觀 之 其 選 詩 翁 方 綱 詩 第 一 首 詩 題 為 己 酉 (1789) 十 二 月 十 九 日, 諸 公 集 蘇 齋 作 坡 公 生 日, 觀 商 邱 宋 漫 堂 小 像 及 西 陂 艸 堂 圖, 用 西 坡 集 中 祭 坡 公 詩 韻, 這 段 真 實 而 生 動 的 記 述 與 詩 相 映 照, 可 見 當 時 翁 方 綱 等 人 蘇 軾 崇 拜 之 盛 並 世 集 也 記 錄 了 當 時 人 的 一 些 評 論 材 料, 如 袁 枚, 小 傳 下 注 雲 : 雨 村 語 家 叔 父 ( 柳 琴 ) 曰 : 見 今 文 章 第 一 如 袁 枚 蔣 士 銓, 俱 翰 林, 高 蹈 不 入 朝, 放 浪 於 江 湖 間 丁 酉 冬, 錄 寄 袁 博 浪 城 杜 牧 墓 二 作, 雲 詩 人 廖 廖 矣, 如 此 公 乃 不 歎 自 鄶 以 下 也 可 見 當 時 李 調 元 對 袁 枚 的 推 崇, 且 並 世 集 所 選 袁 枚 詩, 首 即 博 浪 城 杜 牧 墓 二 首, 無 疑 也 是 受 李 調 元 影 響 另 嚴 誠 雖 英 年 早 逝, 並 世 集 仍 多 錄 其 詩, 並 記 雲 : 力 闇 ( 嚴 讀 字 ) 能 詩 工 隸, 與 兄 九 峰 先 生 果 齊 名, 時 人 比 之 ( 陸 ) 機 ( 陸 ) 雲,( 蘇 ) 軾 ( 蘇 ) 轍 也 讓 後 人 得 以 一 窺 其 風 采 除 了 中 國 人 之 外, 書 中 還 選 收 了 其 他 國 家 人 的 詩 作, 從 中 也 可 見 出 當 時 東 亞 各 國 文 士 之 間 的 交 往 如 安 南 胡 士 棟 的 戊 戌 ( 乾 隆 四 十 三 年,1778) 立 春 後 一 日 奉 呈 朝 鮮 國 使 臣 尹 判 書 阮 仲 鐺 奉 呈 朝 鮮 國 使 臣 尹 判 書 潘 輝 益 奉 呈 朝 鮮 國 進 賀 使 徐 判 書 武 輝 晉 奉 呈 朝 鮮 國 進 賀 使 徐 判 書 1 柳 得 恭 和 澹 園 八 詠 詩 見 其 泠 齋 集 卷 一 2 [ 韓 ] 金 台 俊 朝 鮮 漢 文 學 史 183 頁 ( 民 族 文 化 社 1991 年 3 月 影 印 朝 鮮 語 文 學 會 初 刊 本 ), 張 璉 瑰 譯 朝 鮮 漢 文 學 史 166 頁 ( 社 會 科 學 文 獻 出 版 社 1996 年 8 月 第 1 版 ) 均 謂 柳 琴 為 柳 得 恭 侄, 然 據 柳 得 恭 相 關 論 述, 知 柳 琴 實 為 柳 得 恭 叔 父

60 320 동아시아 인문전통과 문화역학 陶 金 鐘 敬 和 朝 鮮 國 樸 檢 書, 均 為 和 朝 鮮 出 使 中 國 使 節 的 唱 和 之 作, 反 映 了 當 時 朝 鮮 安 南 使 人 同 出 使 到 中 國 時 的 文 字 之 交 琉 球 蔡 文 浦 的 呈 冊 封 天 使, 是 呈 送 給 中 國 出 使 琉 球 的 使 節 馬 繼 漢 陳 天 龍 二 人 均 作 有 壬 子 ( 乾 隆 五 十 九 年,1794) 上 元 圓 明 園 應 制, 二 人 當 時 分 為 琉 球 出 使 中 國 的 正 副 使, 這 兩 首 詩 是 乾 隆 五 十 九 年 (1794) 元 宵 節 時 和 當 時 中 國 乾 隆 皇 帝 的 應 制 詩 另 外 對 於 日 本 人, 本 弘 恭, 記 其 字 世 肅, 浪 華 人 其 下 另 詳 記 : 世 肅 構 蒹 葭 堂 于 浪 華 之 渚, 貯 圖 史, 與 越 後 片 猷 字 孝 秩, 平 安 那 波 斯 曾 字 孝 卿, 合 離 字 麗 玉, 浪 華 福 常 脩 字 承 時, 岡 元 鳳 字 公 翼, 葛 張 字 子 琴, 淡 海 僧 竺 常, 伊 勢 僧 淨 王 相 唱 酬 甲 申 通 信, 時 成 龍 淵 舟 過 浪 華, 世 肅 見 之 托 契, 臨 別 寫 蒹 葭 雅 集 圖 以 贈 之, 筆 意 淡 沲, 學 元 人 當 時 這 些 人 的 聚 會, 世 肅 為 之 畫 成 蒹 葭 雅 集 圖, 一 仿 北 宋 元 祐 時 蘇 軾 等 文 士 聚 會, 米 芾 將 之 畫 成 的 西 園 雅 集 圖 本 弘 恭 的 題 蒹 葭 雅 集 圖 既 是 題 畫, 也 是 送 別 之 作, 合 離 既 有 題 兼 葭 雅 集 圖, 也 有 和 元 玄 川 的 和 韻 之 作 和 元 玄 川 浪 華 舟 中 見 寄 韻, 此 外 岡 田 宜 生 岡 田 惟 周 艸 安 世 源 叔 岡 明 倫 田 吉 記 也 皆 有 送 元 玄 川 之 作 蒹 葭 雅 集 圖 也 可 稱 為 當 時 朝 鮮 日 本 兩 國 文 士 交 往 的 一 個 見 證 征 從 並 世 集 所 記 載 的 當 時 東 亞 各 國 文 士 的 交 往, 可 見 漢 字 與 以 漢 字 為 代 表 的 中 國 文 化 使 當 時 中 國 朝 鮮 越 南 日 本 琉 球 的 文 士 有 人 共 同 的 語 言, 有 了 交 往 對 話 的 平 臺 並 世 集 序 中 以 中 國 為 詩 之 正 宗 : 詩 從 何 興 乎? 非 二 南 十 三 國 之 地 之 興 乎? 夫 土 有 所 宜, 物 有 所 自, 美 玉 雲 藍 田, 丹 砂 說 勾 漏, 薓 稱 上 黨, 茶 言 顧 渚, 今 獨 言 詩 而 不 求 諸 中 國, 是 猶 思 鱸 魚 而 不 之 松 江, 須 金 橘 而 不 泛 洞 庭, 未 知 其 可 也 顯 示 出 其 直 接 學 中 國 當 世 之 詩 的 決 心 另 朝 鮮 古 代 雖 受 中 國 影 響, 但 常 不 是 共 時 態, 而 是 滯 後, 如 約 當 中 國 明 朝 時, 朝 鮮 興 起 了 海 東 江 西 派, 其 所 師 法 的 就 是 數 百 年 前 中 國 盛 極 一 時 的 以 黃 庭 堅 為 首 的 江 西 派, 柳 得 恭 不 是 學 秦 漢 唐 宋 之 詩, 也 不 學 元 明 之 詩, 而 是 直 接 選 與 之 同 時 的 中 國 人 之 詩, 直 接 向 當 時 當 世 學 習 取 法 另 外 其 與 當 時 其 他 朝 鮮 人 之 詩, 也 受 當 時 中 國 一 流 詩 人 的 欣 賞, 可 以 說, 當 時 中 朝 兩 國 一 流 詩 人, 以 漢 字 為 平 臺, 直 接 進 行 交 流 切 磋, 這 在 世 界 文 學 史 上 也 是 少 有 的 現 象 從 並 世 集 所 選 詩 的 內 容 題 材 上 來 看, 除 了 有 與 朝 鮮 人 的 交 往 唱 和 之 作, 還 有 其 他 題 材 的 作 品, 非 僅 憑 交 情 選 詩, 也 不 因 人 而 廢 詩 詩 選 開 篇 第 一 人 陸 飛, 除 了 便 面 荷 花 贈 養 虛 丙 戌 二 月 送 養 虛 兄 別 這 些 與 東 人 的 題 贈 送 別 之 作 外, 另 有 無 錫 丹 徒 揚 州 潯 陽 舟 中 楚 行 絕 句 這 些 紀 行 詩, 清 新 簡 約, 寫 景 如 畫, 似 隨 筆 點 染 而 又 富 深 思 佳 致, 以 婉 約 為 主 調, 卻 自 有 一 種 清 剛 之 氣 南 屏 山 司 馬 溫 公 以 磨 崖 隸 書 歌 用 昌 黎 石 鼓 歌 韻 和 丁 敬 身 丈 觀 忠 天 廟 畫 壁 歌 二 詩 皆 為 七 古 長 詩, 筆 墨 淋 淳, 起 伏 跌 盪, 描 繪 議 論 說 理 結 合, 感 慨 亦 多 李 調 元 名 下 不 乏 與 朝 鮮 人 的 交 往 題 贈 之 作, 另 他 宦 遊 各 地, 筆 下 也 多 有 紀 行 之 作, 有 的 詩 適 見 其 行 蹤, 如 桐 城 道 中 絕 句 臨 江 府 梅 關 和 德 定 圃 座 師 題 壁 韻 英 德 縣 喜 雨 南 海 竹 枝 詞, 寫 出 各 地 不 同 的 景 物 特 徵, 民 情 風 俗, 詩 風 也 有 異 南 海 竹 枝 詞 三 首, 寫 嶺 南 風 情, 畫 出 南 方 炎 熱 之 地 的 特 徵, 語 言 通 俗, 氣 勢 流 暢, 帶 有 濃 郁 的 地 方 色 彩 和 民 歌 情 調 桐 城 道 中 絕 句 二 首 : 清 狂 安 得 米 翁 顛, 來 寫 峰 頭 淡 淡 煙 太 半 人 家 聚 山 罨, 一 灣 流 水 一 灣 田 農 人 望 歲 家 家 共, 客 子 煩 炎 處 處 俱 兩 個 鵓 鳩 鳴 隔 澗, 不 知 作 雨 作 晴 呼 寫 山 中 景 色 人 家, 簡 淡 清 新, 仿 佛 只 是 信 手 記 下, 卻 又 新 人 眼 目, 富 於 餘 味 遠 韻 第 一 首 以 一 灣 流 水 一 灣 田, 顯 出 山 崦 人 家 環 境 之 清 幽 入 勝, 第 二 首 以 隔 澗 而 鳴 的 雙 鵓 鳩, 不 惟 讓 所 繪 景 物 畫 中 有 聲, 且 更 深 一 層 地 統 一 了 詩 前 兩 句 所 言 的 當 地 農 人 與 經 行 此 地 客 子 的 望 歲 與 煩 炎 之 心, 都 在 鳥 聲 中 得 到 了 統 一 梅 關 和 德 定 圃 座 師 題 壁 韻 則 氣 勢 奇 崛, 狀 貌 高 古, 首 聯 直 探 鴻 瀠 手 握 天, 以 誇 張 之 語 顯 磅 礴 氣 勢, 頸 聯 地 關 梅 鋗 通 秦 日, 路 憶 蠶 叢 入 蜀 年, 既 顯 出 南 嶺 之 險, 開 闢 嶺 南 之 難, 又 將 嶺 南 與 秦 川 蜀 中 聯 在 一 起, 指 顧 之 間, 聯 接 千 里, 氣 象 萬 千, 也 為 尾 聯 贊 曲 江 賢 相 鋪 下 堅 實 基 調 從 所 選 二 人 之 詩 來 看, 柳 得 恭 選 詩 並 不 限 於 一 種 風 格, 而 是 眼 界 闊 大, 多 種 風 格

61 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 321 並 存, 不 存 芥 蒂, 不 分 軒 輊 乾 隆 年 間 是 清 代 文 化 的 高 峰 期, 詩 壇 上 先 後 出 現 了 沈 德 潛 (1673~1769) 的 格 調 說, 袁 枚 ( ) 的 性 靈 說 和 翁 方 綱 ( ) 的 肌 理 說 這 幾 種 詩 歌 理 論, 皆 影 響 深 遠, 從 者 甚 眾, 三 人 也 都 為 詩 壇 大 家, 各 領 風 騷 至 柳 得 恭 入 燕 並 編 選 並 世 集 時, 沈 德 潛 已 謝 世, 固 不 入 選, 其 他 兩 位 皆 名 列 集 中 翁 方 綱 的 己 酉 十 二 月 十 九 日, 諸 公 集 蘇 齋 作 坡 公 生 日, 觀 商 邱 宋 漫 堂 小 像 及 西 陂 艸 堂 圖, 用 西 坡 集 中 祭 坡 公 詩 韻, 顯 示 出 對 蘇 軾 的 尊 崇 與 後 人 對 他 的 研 究 與 繼 承, 題 貞 蕤 檢 書 所 藏 蘆 洲 雪 雁 圖 羅 兩 峰 定 為 元 人 筆 者, 貞 蕤 為 與 柳 得 恭 同 時 的 朝 鮮 朴 齊 家 之 號, 雖 為 題 畫 詩, 然 由 畫 上 難 畫 之 景, 生 髮 出 與 海 東 友 人 不 盡 之 情, 空 靈 流 轉 李 調 元 稱 袁 枚 蔣 士 銓 為 當 世 文 章 第 一, 袁 枚 文 名 已 傳 于 東 國, 李 德 懋 欲 請 其 為 自 己 文 集 作 序 丁 酉 冬, 李 調 元 又 錄 寄 袁 枚 博 浪 城 杜 牧 墓 二 詩 給 柳 得 恭, 並 世 集 中 選 錄 的 博 浪 城 杜 牧 墓 謝 太 傅 祠 羅 昭 諫 墓 武 后 乾 陵 戲 馬 台 弔 宋 武 帝 六 首 詩, 皆 為 詠 史 懷 古 之 作, 其 中 博 浪 城 雲 九 鼎 尚 沈 三 戶 起, 六 王 才 畢 一 椎 來, 贊 義 士, 諷 秦 帝 杜 牧 墓 贊 杜 牧 之 風 骨 才 能, 寓 意 更 為 明 顯, 是 感 前 人, 悲 當 世, 歎 自 身 諸 詩 皆 蘊 含 著 生 不 逢 時 懷 才 不 遇 的 感 慨, 均 發 自 肺 腑, 有 股 慷 慨 鬱 勃 之 氣 于 蔣 士 銓, 未 見 其 與 東 人 交 往, 然 並 世 集 中 也 選 了 其 邗 溝 晤 吳 衫 亭 烺 家 春 農 宗 海 兩 舍 人 和 自 題 藏 園 兩 首 詩, 前 者 寓 世 事 之 歎, 蒼 涼 感 喟, 後 者 寫 隱 居 之 處 影 致, 和 婉 細 緻 當 時 著 名 的 詩 派 與 詩 人, 在 並 世 集 中 都 有 所 體 現, 這 也 體 現 了 編 選 者 眼 光 之 開 闊 與 獨 到 除 格 調 性 靈 肌 理 三 家 之 外, 清 初 尚 有 王 士 禛 神 韻 一 派, 王 士 禛 雖 已 早 逝, 然 其 遺 風 在 乾 隆 時 複 振, 其 代 表 即 為 蘇 州 七 才 子 趙 文 哲 與 王 鳴 盛 吳 泰 來 王 昶 黃 文 蓮 錢 大 昕 曹 仁 虎 七 人 號 為 蘇 州 七 才 子, 李 調 元 甚 至 直 稱 趙 文 哲 屬 漁 洋 詩 派 並 世 集 于 蘇 州 七 才 子 之 詩, 多 有 采 擇, 所 選 之 作, 有 的 展 示 了 江 南 如 畫 美 景, 如 王 鳴 盛 的 蕰 州 葓 展 現 了 江 南 水 鄉 情 致, 王 昶 山 塘 雜 詩 二 首, 一 寫 江 南 二 月 晴 天, 一 寫 江 南 雨 景, 杏 花 春 雨, 絲 柳 濃 陰, 細 雨 廉 纖, 春 波 夜 添, 皆 寫 景 如 畫 錢 大 昕 紅 橋 寫 江 南 春 景, 直 似 杜 牧 的 江 南 春 絕 句 諸 人 於 景 物 描 摹 之 中, 又 皆 蘊 無 限 深 情, 如 趙 文 哲 的 秦 淮 雜 感 二 首, 一 以 今 昔 對 比, 襯 出 無 限 淒 涼 之 情, 一 借 化 用 前 人 之 作, 顯 出 韶 光 易 逝, 離 情 不 堪, 皆 情 深 句 婉, 餘 韻 悠 然 另 春 晚, 寫 暮 春 時 景 象, 不 論 是 亂 紅 殘 燭 還 是 畫 船, 皆 情 思 淒 婉, 景 濃 情 深 吳 泰 來 漁 浦 夜 行, 以 江 風 落 日 暮 漲 扁 舟 楓 林 猿 聲, 烘 托 出 客 行 之 悲 錢 大 昕 憶 內 以 薄 寒 疏 雨 引 離 情 別 緒, 曹 仁 虎 送 王 鳳 喈 之 楚 二 首 之 一 以 奏 罷 陽 關 落 照 愁 點 送 別 之 悲, 以 楚 雲 青 山 顯 客 行 之 孤, 之 二 懸 想 遠 地 景 象, 以 旅 途 中 回 望 顯 遠 征 之 悲 這 些 詩 景 物 與 情 感 切 合, 通 過 景 物 之 渲 染 顯 情 思 之 無 限, 感 情 上 偏 於 淒 婉, 而 非 悲 壯, 筆 法 也 也 屬 婉 約, 而 非 豪 放 趙 文 哲 等 人 之 詩, 確 有 漁 洋 詩 的 餘 韻, 另 王 鳴 盛 王 昶 錢 大 昕 諸 人 均 以 學 問 而 非 詩 才 聞 名 於 後 世, 從 並 世 集 所 選 他 們 的 詩 作, 也 看 出 他 們 不 僅 醉 心 於 學 術, 詩 歌 上 也 自 有 佳 作, 可 圈 可 點, 讀 此 詩 選, 亦 可 破 除 後 人 對 他 們 的 誤 解, 也 見 出 選 者 識 力 之 精 深 另 外 一 些 不 太 知 名 的 文 士, 所 選 之 作 亦 自 有 物 色 如 祝 德 麟, 柳 得 恭 對 他 僅 聞 其 而 實 未 相 見 : 余 在 燕 時, 芷 塘 以 禦 史 論 事 革 職 閑 住, 寄 聲 要 相 見, 尋 聞 其 已 買 舟 南 歸 矣 其 望 都 道 中 寫 太 行 山 下 農 村 景 象, 紆 徐 平 緩 雨 中 自 樂 平 出 南 天 門 至 芹 水 驛 寫 山 中 盤 鬱 驚 險 景 象, 奇 崛 勁 健 另 風 陵 渡 寄 家 書 清 冷 蕭 瑟 潼 關 華 陰 偕 鄧 筆 山 禮 岳 即 登 壽 閣 展 眺 蒼 健 雄 壯, 驪 山 溫 泉 灞 橋 又 纖 麗 工 巧 各 詩 風 格 不 一, 祝 德 麟 詩 風 多 樣, 從 所 選 諸 詩 即 可 看 出 又 如 郭 執 桓 似 未 得 功 名, 僅 為 一 介 布 衣, 與 柳 得 恭 也 純 為 文 字 之 交, 其 春 日 北 上 途 次 口 占, 寫 北 方 春 日 山 野 景 象, 清 遠 淡 約, 有 似 詩 經 中 的 日 之 夕 矣, 羊 牛 下 來 而 秋 望 寫 秋 日 淮 目 蒼 茫 風 景, 淒 寒 蒼 健 孤 舟 無 倚 乾 坤 闊, 一 雁 橫 飛 雲 水 悠 更 于 寫 景 之 中 自 然 融 入 自 己 的 現 實 身 世 之 感, 語 帶 悲 涼 從 這 兩 首 詩 也 可 見 其 多 樣 的 詩 風 另 如 羅 聘 嘗 學 畫 于 古 杭 金 冬 心, 詩 亦 韶 豔, 不 為 畫 掩, 並 世 集 中 所 錄 其 送 別 題 畫 詩, 皆 各

62 322 동아시아 인문전통과 문화역학 具 物 色, 又 題 折 枝 梅 贈 泠 齋 檢 書 次 修 檢 書 將 歸 朝 鮮 作 墨 梅 奉 贈 以 當 折 柳, 運 用 中 國 古 代 折 梅 折 柳 贈 遠 的 傳 統, 於 題 畫 之 時, 即 體 現 了 友 情 與 詩 藝, 深 情 滿 幅 寫 蘭 為 柳 惠 風 檢 書 又 題 蘭 扇 贈 惠 風 以 蘭 花 見 情 誼 與 別 情, 和 上 述 兩 首 墨 梅 詩 一 樣, 纖 巧 婉 轉, 特 別 是 又 題 蘭 扇 贈 惠 風 : 湘 水 一 夜 碧, 湘 山 無 限 春 可 憐 香 夢 冷, 不 見 采 蘭 人 借 題 扇 將 惜 別 之 情 表 現 得 婉 轉 深 厚, 而 又 綽 有 六 朝 風 致 此 外 吳 省 欽 的 畫 幅 雜 題 十 一 首, 吳 省 蘭 的 十 國 宮 詞 分 詠 唐 末 五 代 時 十 國 的 君 王, 多 含 諷 意 吳 廷 燮 鄧 尉 香 雪 海 歌 以 長 篇 古 詩 寫 古 鄧 尉 香 雪 海 勝 狀, 境 界 闊 大, 筆 勢 變 幻 從 這 些 詩 人 詩 作 均 可 看 出 柳 得 恭 選 詩 不 拘 一 格, 不 主 一 家, 實 事 求 是, 惟 務 好 詩 的 特 點 清 時 的 滿 洲 蒙 古 人 中, 因 為 親 炙 漢 文 化 日 久, 也 有 學 識 淹 雅, 擅 長 文 詞 者 並 世 集 中 選 了 鐵 保 完 顏 魁 倫 博 明 三 人, 其 中 鐵 保 完 顏 魁 倫 皆 是 滿 洲 正 黃 旗 人, 博 明 是 蒙 古 人, 還 是 元 世 祖 忽 必 烈 的 第 二 十 一 世 孫 此 三 人 雖 非 漢 人, 但 從 所 選 詩 作 來 看, 漢 文 漢 詩 的 造 詣 都 很 高 如 鐵 保, 小 傳 下 注 謂 其 : 善 草 隸, 著 有 虛 問 堂 集, 雨 村 稱 之 曰 旗 下 人 不 可 多 得 從 其 詩 來 看, 確 實 自 具 氣 象, 如 暮 望, 寫 軍 門 晚 望 景 象, 境 界 開 闊, 意 氣 豪 壯, 既 有 承 平 氣 象, 又 不 失 軍 旅 慷 慨 豪 壯 之 氣 晚 行 山 中 寫 山 中 日 落 後 崢 嶸 可 怖 景 象, 自 然 帶 出 世 事 奔 波 之 苦 採 蓮 曲 仿 民 歌 情 調, 摹 寫 採 蓮 人 的 神 態 心 理, 貼 切 傳 神 從 所 選 的 幾 首 詩, 確 可 見 其 不 平 凡 的 詩 文 造 詣 和 多 樣 的 詩 風 另 外 完 顏 魁 倫 的 弄 花 香 滿 衣 一 首 題 贈 朝 鮮 檢 書 柳 惠 風 先 生 寫 花 之 香, 左 盤 右 屈, 多 方 用 筆, 詩 藝 純 熟 博 明 的 客 有 悼 亡 者 題 扇 贈 之 千 叟 宴 紀 恩 詩 恭 和 禦 制 詩 元 韻 描 述 真 切, 多 用 典 故, 且 自 然 貼 切, 見 其 浩 博 淹 雅 從 所 選 日 本 安 南 琉 球 詩 人 作 品 來 看, 雖 多 為 題 贈 唱 和 之 作, 但 也 不 乏 高 致, 於 此 也 可 看 出 這 些 國 家 和 地 區 的 人 所 受 漢 文 化 的 影 響 之 深 如 日 本 合 離 的 題 蒹 葭 雅 集 圖 : 千 里 鄉 為 水, 誰 言 景 似 吳 殷 富 家 多 少, 風 流 客 有 無 只 是 春 晨 飲, 何 如 契 會 圖 回 舟 傳 好 事, 人 尚 在 菰 蘆 不 僅 切 合 當 時 友 人 聚 會 的 情 景, 而 且 也 見 出 中 國 文 化 對 其 浸 潤 之 深 其 和 元 玄 川 浪 華 舟 中 見 寄 韻 全 篇 用 典 多 而 貼 切, 其 頷 聯 風 波 難 再 會, 璧 月 得 雙 清 不 惟 對 仗 新 奇 自 然 工 穩, 而 且 富 含 深 意, 顯 出 離 別 之 際 悵 惘 之 情 另 富 野 義 胤 的 晚 過 興 津 : 漁 家 鹽 井 傍 青 山, 風 定 波 平 望 亦 閑 清 見 寺 前 田 字 浦, 兩 三 舟 趁 暮 鐘 還 據 詩 後 自 注 : 田 字 浦 在 富 士 川 東, 挾 浦 有 松 千 萬 株, 海 人 燒 鹽 於 此 寫 尋 常 燒 鹽 之 所, 平 實 簡 煉 而 又 自 有 風 致 特 別 是 末 句 兩 三 舟 趁 暮 鐘 還, 尤 有 紆 徐 不 盡 之 意, 使 所 繪 之 景 堪 畫 而 又 難 畫 那 波 斯 會 的 早 行 偶 興 : 淡 頭 布 穀 曉 呼 晴, 蘋 葉 蘆 芽 綠 複 生 更 有 層 巒 雲 隱 見, 尋 詩 人 向 畫 中 行 也 是 寫 景 逼 真 切, 有 聲 有 色, 見 出 其 深 厚 的 文 學 和 中 國 文 化 的 功 底 艸 安 世 的 懷 元 玄 川 : 春 暮 天 涯 思 萬 重, 鳥 啼 花 謝 寂 孤 峰 愁 心 一 夜 寄 明 月, 高 照 關 門 淡 墨 松 寫 思 友 之 情, 真 摯 熱 烈 而 愁 心 一 夜 寄 明 月 句, 明 顯 是 化 用 李 白 的 聞 王 昌 齡 左 遷 龍 標 遙 有 所 寄 中 的 我 寄 愁 心 與 明 月 另 外 源 叔 的 奉 送 玄 川 元 公 岡 明 倫 的 奉 送 玄 川 元 公 田 吉 記 的 送 別 玄 川 詞 霸 皆 背 景 闊 大, 離 愁 浩 蕩, 而 多 用 典 故, 且 自 然 貼 切 安 南 人 贈 朝 鮮 使 節 的 幾 首 詩, 除 了 顯 出 其 漢 文 化 的 造 詣, 及 見 到 異 國 使 節 時 的 欣 喜 外, 在 詩 中 還 流 露 出 的 是 對 具 有 共 同 文 化, 由 此 而 感 到 自 豪, 也 更 增 添 了 親 近 感 如 胡 士 棟 詩 中 雲 : 敷 文 此 日 車 同 軌, 秉 禮 從 來 國 有 儒, 阮 仲 鐺 雲 : 克 生 匪 在 綋 夤 外, 為 教 寧 殊 載 籍 中 瀛 海 東 南 天 各 別, 燕 台 玉 帛 地 相 通 潘 輝 益 : 文 獻 夙 征 吾 道 在, 柔 懷 全 仰 帝 恩 覃 武 輝 晉 : 海 之 南 與 海 之 東, 封 域 雖 殊 道 脈 通 同 受 中 國 文 化 的 浸 潤, 令 其 有 共 同 的 語 言 琉 球 馬 繼 漢 陳 天 龍 的 壬 子 上 元 圓 明 園 應 制, 與 中 國 人 所 作 應 制 詩 不 樣, 盡 顯 帝 王 恩 澤, 皇 家 雨 露 蔡 文 溥, 小 傳 下 注 雲 : 居 久 米 村, 著 有 四 本 堂 集, 並 未 言 其 所 居 何 職, 似 僅 為 一 介 平 民, 而 其 呈 冊 封 天 使, 寫 在 中 華 冊 封 琉 球 的 使 臣 到 來 時 的 欣 喜 之 情, 五 色 彩 雲 天 子 詔, 一 泓 秋 水 使 臣 心 既 用 舊 典, 又 合 實 情, 且 可 看 出 杜 詩 的 痕 跡 : 三 顧 頻 煩 天 下 計, 兩 朝 開 濟 老 臣 心

63 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 323 中 國 文 化 東 傳, 影 響 到 琉 球 的 窮 鄉 僻 壤, 市 井 村 儒 程 順 則 的 東 海 : 宿 霧 新 開 敞 海 東, 扶 桑 萬 里 渺 飛 鴻 打 魚 小 艇 初 移 棹, 搖 得 波 光 幾 點 紅 寫 萬 里 東 海 的 磅 礴 氣 勢, 氣 象 宏 大, 且 觀 察 細 切, 選 取 了 宿 霧 新 開 時 分, 更 顯 大 海 的 空 濛 浩 渺, 且 以 打 魚 小 艇 和 萬 里 東 海 對 比, 更 顯 大 海 之 廣 闊, 而 打 魚 小 艇 搖 得 波 光 幾 點 紅, 為 作 者 細 切 觀 察 所 得, 擷 入 詩 中, 更 顯 浩 瀚 大 海 的 萬 千 景 致, 無 窮 變 化 可 以 說 正 是 漢 字 與 以 漢 字 為 代 表 的 中 國 文 化 使 當 時 中 國 朝 鮮 越 南 日 本 琉 球 的 文 士 有 了 共 同 的 語 言, 有 了 交 往 對 話 的 平 臺 並 世 集 是 當 時 漢 字 文 化 圈 內 文 化 交 往 的 結 晶, 對 現 在 的 交 往 也 有 借 鑒 意 義 並 世 集 不 僅 顯 示 出 當 時 東 亞 地 區 文 士 的 交 往, 以 漢 字 為 表 徵 的 中 國 文 化 在 東 亞 地 區 的 流 傳, 及 其 在 促 進 交 往 中 的 作 用 從 此 詩 選 也 可 看 出 到 乾 隆 之 時, 隨 著 中 國 社 會 承 平 局 面 的 延 續, 經 濟 文 化 的 發 展, 詩 壇 的 繁 榮, 中 國 重 新 重 為 東 人 羡 慕 的 對 象 清 初 之 時, 鮮 人 對 滿 清 一 度 鄙 棄, 至 以 蠻 夷 視 之, 經 過 一 百 多 年 的 發 展 後, 隨 著 文 化 的 再 度 繁 榮, 中 國 重 新 走 上 文 明 的 高 峰 朝 鮮 人 對 中 國 詩 歌 的 學 習 由 先 前 的 滯 後 轉 為 直 接 學 習 當 世 之 作 文 化 上 也 重 新 對 中 國 心 儀, 中 國 仍 在 中 國, 中 國 文 化 仍 在 中 國, 中 國 之 詩 也 為 詩 之 正 宗 < 摘 要 > 柳 得 恭 为 朝 鲜 王 朝 时 期 的 著 名 文 人, 其 编 选 的 并 世 集 收 录 了 当 时 中 国 知 名 文 士 如 袁 枚 李 调 元 翁 方 纲 等 人 的 诗 作, 还 附 列 有 同 时 期 日 本 安 南 琉 球 诗 人 的 作 品, 可 说 是 当 时 一 部 国 际 性 的 汉 诗 选 集, 从 所 选 诗 人 和 所 收 诗 歌 来 看, 均 堪 称 一 时 之 选 这 部 诗 选 体 现 了 当 时 东 亚 各 国 间 文 士 的 交 往 与 情 谊, 反 映 了 乾 隆 时 期 中 国 诗 坛 的 繁 荣 和 风 尚, 从 中 也 可 看 出 以 汉 字 为 表 征 的 中 国 文 化 在 东 亚 地 区 的 传 播 及 其 在 促 进 文 化 交 往 中 的 作 用 < 要 旨 > 一 時 代 の 傑 作 選 柳 得 恭 の 并 世 集 初 探 姚 大 勇 柳 得 恭 は 朝 鮮 王 朝 時 代 の 著 名 な 文 人 として 彼 が 編 纂 した 并 世 集 には 当 時 中 国 の 有 名 文 人 例 えば 袁 枚 李 调 元 翁 方 纲 等 の 詩 を 収 録 している また 同 時 期 の 日 本 安 南 琉 球 の 詩 人 たちの 作 品 を 付 け 加 えているので 当 時 としては 国 際 的 な 漢 詩 選 集 だったと 言 えよ う 選 ばれた 詩 人 と 収 録 された 詩 歌 からして 一 時 代 の 傑 作 選 と 言 っても 過 言 ではない この 詩 選 集 は 当 時 の 東 アジア 各 国 の 文 人 たちの 交 流 と 友 情 を 見 せ 乾 隆 時 代 の 中 国 詩 壇 の 隆 盛 と 気 風 をよく 反 映 させている この 文 集 を 通 して 東 アジアでの 漢 字 が 象 徴 する 中 国 文 化 の 伝 播 と 交 流 の 促 進 の 役 割 を 理 解 することができる

64 324 동아시아 인문전통과 문화역학 <요약> 한 시대의 걸작선 柳 得 恭 의 并 世 集 初 探 姚 大 勇 柳 得 恭 은 조선 왕조 시기의 저명한 문인으로 그가 编 选 한 并 世 集 에는 당시 중국의 유명 문인 예를 들어 袁 枚 李 调 元 翁 方 纲 등의 诗 作 品 을 수록하고 있다. 또 동시기 일본 安 南 琉 球 诗 人 들의 작품을 첨부해 놓고 있으므로, 당시로는 국제적인 한시선집( 汉 诗 选 集 )이라고 할 수 있다. 선정된 시인과 수록된 시가로 보아 가히 한 시대의 걸작선 이라고 할 만 하다. 이 诗 选 集 은 당시 동아시아 각국의 문인들의 교류와 우정을 잘 보여주고 있으며, 또한 건륭시기 중국 시단의 번성과 기풍을 잘 반영하고 있다. 이 문집을 통하여 동아시아에서 한자로 상징되는 중국문화의 전파와 문화 교류 촉진 속에서의 그 역할을 알 수 있다.

65 영규율수( 瀛 奎 律 髓 ) 와 石 亭 李 定 稷 의 간오정선( 刊 誤 精 選 ) 具 仕 會 ( 鮮 文 大 ) Ⅰ. 方 回 의 瀛 奎 律 髓 와 石 亭 李 定 稷 의 刊 誤 精 選 宋 末 元 初 의 시인이자 시론가였던 方 回 ( ) 는 당송 시대의 율시 3천여수를 뽑아서 자신의 시학적 관점을 덧붙여 영규율수( 瀛 奎 律 髓 ) 를 지었다. 그는 당시 유행하던 사령파와 강호파의 비속한 시풍을 극복하고 강서시파의 정통성을 내세우고자 그것을 지은 것으로 보인 다. 영규율수( 瀛 奎 律 髓 ) 에서 방회는 杜 甫 를 初 祖 로 삼고 黃 庭 堅 과 陳 師 道, 그리고 陳 與 義 를 三 宗 으로 하여 시를 배워야 한다는 一 祖 三 宗 說 을 주창하였다. 그는 삼종의 근원이 일조에게 있 음을 확인하고 學 詩 의 모범으로 學 杜 를 권하면서, 학두의 방법으로 삼종을 배울 것을 역설하였 다. 영규율수( 瀛 奎 律 髓 ) 에는 방회의 시학이론이 결집되어 있다. 방회는 여기에서 일조삼종설 을 비롯한 창작이론으로서 시안설을 제시하였고, 格 高 나 語 工 등과 같은 미학 준칙을 마련 하기도 하였다. 방회의 영규율수( 瀛 奎 律 髓 ) 는 選 詩 와 評 詩 의 결합적 양식을 지니고 있는데, 그는 이전의 시평 방식을 흡수하고 자신의 시학이론을 결합하여 논의를 전개하였다. 영규율수( 瀛 奎 律 髓 ) 는 후대에 내려오면서 그것에 대한 많은 주석과 비평이 첨가되었는데, 청나라의 기윤( 紀 昀, ) 이 견해를 덧붙인 영규율수간오( 瀛 奎 律 髓 刊 誤 ) 는 그것을 대 표한다. 한국의 石 亭 李 定 稷 은 20세기가 시작되기 직전이 1899년 여름에 방회와 기윤의 견해 에 다시 자신의 비평을 더해서 刊 誤 精 選 을 완성하였다. 말하자면, 석정의 刊 誤 精 選 은 독 창적인 그만의 저작물이 아니라, 방회와 기윤의 그것에다 자신의 견해를 덧붙여 찬술한 시론서 이다. 그것은 일종의 비평에 대한 비평서인 셈이며, 말년에 이른 석정의 시학적 견해를 살필 수 있는 중요한 자료집이기도 하다. 지금까지 刊 誤 精 選 은 이름만 알려졌었지, 공개되거나 구체적으로 논의된 바가 없었다. 이 런 측면에서 간오정선 은 발굴사적 의미도 있겠고, 중한 사이에 있었던 문학적 교류와 영향 을 추측할 수 있는 자료이기도 하다. Ⅱ. 石 亭 李 定 稷 과 刊 誤 精 選 의 撰 述 過 程 석정은 시문 창작에 머물지 않고 그것에 대한 이론에도 많은 관심을 쏟았다. 1894년 봄에 석정은 동학농민전쟁으로 전주에서 모든 재산과 저작물을 잃고서 고향인 김제로 돌아갔다. 당 시 석정은 초로의 55 세였다. 이후로 그는 향리인 김제에서 칩거하면서 저술 작업에 몰두하면 서 여러 저작물을 이뤄냈는데, 간오정선 도 그 중의 하나이다. 석정의 간오정선 은 독자적인 저작물이 아니다. 일찍이 당송시인 385명의 5 7언 율시 3014수를 49 류로 선정하고 그것에 비평을 더해서 편정한 원나라 방회( ) 의 영규율 수 가 있었다. 후대에 청나라 기윤( ) 은 그것에다 평점을 덧붙여 영규율수간오 를 편찬하였다. 이것들은 조선전기 이래로 국내에서도 간행되며 유포되었고, 시를 배우는 많은 사

66 326 동아시아 인문전통과 문화역학 람들이 그것을 참조하였다. 영규율수 는 고려말기에, 아니면 늦어도 조선초기에 이미 국내에 유입되어 널리 유포되었던 것으로 보인다. 그것은 조선초기 성종조에 이르러 문인들이 가장 열 심히 읽는 규범적인 시선집은 영규율수 와 연주시격( 聯 珠 詩 格 ) 이었다는1) 사실에서도 짐 작할 수 있기 때문이다. 영규율수 는 성종대에 간행된 이래 여러 차례 간행되었고, 임란 후 에는 훈련도감 판본이 여러 차례 간행되면서 조선후기 영규율수 유통의 중심 역할을 하였 던 것으로 보인다. 2) 한말에 이르러 석정은 이와 같은 기윤의 영규율수간오 를 텍스트로 하 여 그것에다 자신의 견해를 덧붙여서 간오정선 으로 저작하였다. 방회는 송대에 가장 큰 유파를 이뤘던 강서시파에 속하거나 그것의 영향을 입은 문인이다. 그는 강서시파의 편향을 바로잡고 이 시파의 전통적인 시학이론과 미학준칙을 총결하여 선양 함과 동시에 사령파와 강호파가 조성한 비속한 시풍을 개혁하고자 영규율수 를 엮었다. 3) 영규율수 는 당( 唐 ) 이래로 가속화되기 시작한 선시( 選 詩 ) 의 전통과 송대( 宋 代 ) 에 걸쳐 비약 적인 발전을 이룩한 시화류의 창작 경향을 결합하여, 당송( 唐 宋 ) 두 조대( 朝 代 ) 에 걸친 700여 년간의 율시를 문류별( 門 類 別 ) 로 편정하여 본격적으로 논한 책이다. 4) 여기에서 방회는 율시의 전범으로 두보를 높이고 강서시파의 시학이론을 중시하여 일조삼종 설( 一 祖 三 宗 說 ) 을 주창하였다. 그는 두보( 杜 甫,712~770) 를 초조( 初 祖 ) 로, 황정견( 黃 庭 堅,1045~1105) 과 진사도( 陳 師 道,1053~1102), 그리고 진여의( 陳 與 義,1090~1138) 를 삼종( 三 宗 ) 으로 삼았다. 한편, 방회는 시안( 詩 眼 ) 의 개념을 역동적으로 운용하여 작시에서 자안( 字 眼 ) 의 고착을 인정하지 않았고, 실자( 實 字 ) 못지않게 허자( 虛 字 ) 사용의 중요성을 강조하였다. 나 아가서 시의 한 구절에 안자( 眼 字 ) 가 둘이 있을 수 있다는 구중안( 句 中 眼 ) 을 제시하였다. 그러나 385명의 시인과 율시 3014 수에 비평을 덧붙인 방회의 영규율수 는 방대한 저작 으로 시를 배우려는 많은 사람들이 애독했던 저작물이었다. 그럼에도 불구하고 방회는 송말원 초의 모호한 행적과 영규율수 가 부분적으로 갖고 있는 애매한 선시 기준이나 문학 본령이 바뀐 비평으로 후대인들의 비난을 받았다. 명조의 용준서( 龍 遵 敍 ) 나 청조의 오지진( 吳 之 振, 1640~1717) 처럼 긍정적인 평가가 없던 것은 아니었지만, 청조 이후로는 부정적인 평가가 대 세를 이루었다. 풍반( 馮 班,1602~1671), 허학이( 許 學 夷 ), 기윤( 紀 昀, ), 반덕여( 潘 德 與 ) 등이 방회에 대해 부정적인 평가를 내렸는데, 기윤은 그것의 중심에 있었다. 기윤은 방회가 당송 시인과 율시를 뽑아서 논의했던 영규율수 에 대해 낱낱의 작품에 평 어를 달아서 영규율수간오 로 저술하였다. 여기에서 기윤은 방회의 그것에 대해 부정적인 시 각으로 일관하면서 혹평을 서슴지 않았다. 기윤은 그것에 앞서 영규율수간오 의 서문에서 방 회의 논시 태도와 선시 기준에 대해서 비판의 날을 세웠다. 먼저 그는 방회의 논시의 폐단으로 당원( 黨 援 ), 반부( 攀 附 ), 교격( 矯 激 ) 이라는 세 가지를 들었다. 여기에서 당원 은 당파성 내지 종파성을 말하는데, 방회의 일조삼종설을 비판하는 말 이다. 반부 는 시의 작품성보다는 북송 시대의 도학자들과 같은 인물들에게 주목하여 문학 외 적으로 작품을 대하는 태도를 말한다. 교격 이란 현실을 벗어나 세속에 영합하지 않았던 은사 들에게 좋은 평가를 내리는 논시 태도를 비판한 말이다. 그는 방회의 선시 기준에 대해서도 교어고담( 矯 語 古 淡 ), 표제구안( 標 題 句 眼 ), 호상생신( 好 尙 生 新 ) 이라는 세 가지의 폐단을 들었다. 교어고담 은 고담을 속여 말하는 것으로 방회가 생 1) 이종묵, 해동강서시파 연구, 태학사, 1995, 11 면. 2) 김상일, 영규율수 와 조선시대 수용의 의미, 한국문학연구 23 집, 동국대학교 한국문학연구소, 2000, 135 면. 3) 강성위, 방회의 시학이론 연구, 서울대학교 박사학위논문, 1996, 2 면. 4) 강성위, 위의 논문, 2-3 면.

67 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 327 경함을 고격으로, 고고를 노경으로, 비루하고 저속한 것을 아음이라 하면서 명분으로 두보를 존숭하지만 두보의 정신이나 면목과는 거리가 멀었다는 것이다. 표제구안 은 구안을 표제한다 는 말로써 방회가 본원보다는 말류만을 취하여 매 편마다 일련을 표방하여 거론하고, 매 구절 마다 한 글자를 표방하여 거론하여 천하의 사람들이 여기에 힘쓰도록 하였다는 것이다. 그래서 방회 이후로 온유돈후 의 종지들이 없어져서 후인들이 섬교한 시학에 힘쓰게 되었다는 주장이 다. 호상생신 은 생경하고 신기한 표현을 좋아하여 받든다는 뜻이다. 방회는 생경하고 신기한 표현을 좋아하여 이전 사람들이 말하지 못한 것을 힘써 추구하였다. 기윤에 의하면 이것은 시 와 상관이 없으며 강서파의 선입견을 위주로 하여 변화가 치우쳐 마침내 편벽하여 바른 길로 돌아가지 못하게 되었다는 것이다. 방회의 영규율수 에 대한 기윤의 이와 같은 비판들은 설 득력이 없는 것은 아니지만, 전체적으로 부분을 전체로 확대 해석하거나 현상을 본질로 호도하 는 측면이 없지 않았다. 5) 이에 대해서 석정은 나름대로 자신의 준칙에 의거하여 방회와 기윤의 장단점을 취사하여 비 평하였다. 방회가 강서시파를 편들어 그것을 높이 세웠고 지론이 치우쳐서 이따금 타당성을 잃 었다는 기윤의 비평을 원용하며 석정은 그것이 창을 들고 방에 들어가는 격으로 보았다. 전반 적으로 석정은 방회보다는 기윤의 견해에 동조하고 있다. 그래서 석정은 기윤이 풍아와 이소를 조종으로 삼고 성당 시기의 작품을 칭송하여 아의 순후함에 극치를 궁구하고 사의 말에서 은 미한 종지를 밝혔다고 보았다. 그렇다고 석정이 기윤의 비평을 전적으로 찬동한 것은 아니고 부분적으로 잘못이 있다고 파 악하였다. 석정은 기윤의 그러한 비평적 준범이 옳지만 지나치게 모나고 날카로워서 함축성이 부족하였고, 이백과 두보의 본질과도 거리가 있었고, 성( 性 ) 에 있어서도 거리감이 있어 아쉽다 고 하였다. 그래서 석정은 그와 같은 학설의 순수성과 두 비평의 같고 다른 점을 뽑아가려 석 정 자신의 견해를 덧붙여 간오정선 을 저술했다고 밝히고 있다. 여기에서 석정은 술이부작 ( 述 而 不 作 ) 이라는 동양의 전통적인 학술 태도를 보이는데, 그렇다고 방회와 기윤이라는 문예이 론가에 대한 맹목적인 추종은 아니었다. 전체적으로 석정은 방회보다는 기윤의 관점을 수용하 고 있지만, 여기에서 자신의 입론을 제시하고 있었다. 여기에는 방회나 기윤과는 차별화된 석 정 자신만의 시학적 견해가 투영되어 있었기 때문이다. 한 마디로 간오정선 은 석정이 방회 의 저작과 그것에 대한 기윤의 비평을 취사하여 그것에다 자신의 견해를 덧붙인 비평 의 저작물이라고 말할 수 있다. 비평에 대한 5) 이에 대해서는 강성위의 앞의 논문을 참조하기 바란다. 234~249 면.

68 328 동아시아 인문전통과 문화역학 < 摘 要 > 瀛 奎 律 髓 与 石 亭 李 定 稷 的 刊 誤 精 選 具 仕 會 ( 鮮 文 大 ) Ⅰ. 方 回 的 瀛 奎 律 髓 与 石 亭 李 定 稷 的 刊 誤 精 選 宋 末 元 初 的 诗 人 及 诗 论 家 方 回 ( ) 筛 选 了 唐 宋 律 诗 三 千 余 首, 并 以 自 己 的 诗 学 观 进 行 点 评, 从 而 著 成 瀛 奎 律 髓 一 书 在 此 著 作 中 我 们 不 难 看 出 方 回 在 极 力 抵 制 当 时 流 行 的 四 灵 派 和 江 湖 派 的 庸 俗 诗 风, 并 竭 力 提 倡 江 西 诗 派 传 统 性 的 理 论 倾 向 在 瀛 奎 律 髓 一 书 中, 方 回 将 杜 甫 作 为 学 诗 的 初 祖, 将 黃 庭 堅 与 陳 師 道 以 及 陈 與 義 作 为 学 诗 的 三 宗, 主 张 一 祖 三 宗 说 他 认 为 三 宗 的 诗 学 渊 源 在 一 祖 劝 说 学 诗 当 以 杜 诗 为 模 范, 并 强 调 学 杜 的 最 佳 方 法 应 该 从 学 三 宗 开 始 瀛 奎 律 髓 中 集 合 了 方 回 的 诗 学 理 论, 以 方 回 的 一 祖 三 宗 说 为 主, 在 诗 歌 创 作 理 论 的 范 畴 内, 他 还 提 出 了 诗 眼 说, 以 及 格 高 和 語 工 这 些 类 似 于 美 学 准 则 的 排 列 等 方 回 的 瀛 奎 律 髓 是 選 詩 与 評 詩 两 种 方 式 相 结 合 的 产 物 他 是 采 用 了 前 人 的 诗 歌 评 论 方 式, 并 结 合 自 身 的 的 诗 学 理 论 来 展 开 论 述 的 瀛 奎 律 髓 完 成 以 后 许 多 后 来 人 为 之 加 注, 点 评, 最 具 代 表 性 的 就 是 清 代 的 紀 昀 ( 紀 昀, ) 他 将 自 己 的 见 解 加 入 其 中 著 成 瀛 奎 律 髓 刊 誤 一 书 韩 国 的 石 亭 李 定 稷 于 20世 纪 开 始 前 的 1899年 夏 对 方 回 和 紀 昀 的 见 解 进 行 了 再 次 点 评, 完 成 了 刊 誤 精 選 一 书 也 就 是 说 石 亭 的 刊 誤 精 選 并 非 具 是 有 独 创 性 的 著 作 而 是 在 方 回 和 紀 昀 的 点 评 中 加 入 自 己 的 见 解, 从 而 撰 写 而 成 的 诗 论 著 作 这 部 著 作 可 以 权 当 是 对 于 一 种 点 评 的 点 评, 也 是 考 察 石 亭 晚 年 诗 学 见 解 的 重 要 学 术 资 料 迄 今 为 止 刊 誤 精 選 只 是 书 名 为 人 所 知, 此 书 的 公 开 和 研 究 还 没 有 前 例, 从 这 个 层 面 上 来 讲 刊 誤 精 選 的 研 究 具 有 发 掘 历 史 的 意 义 对 于 中 韩 之 间 曾 经 的 文 学 交 流 与 影 响 来 说, 也 是 一 部 可 以 用 来 揣 度 资 料 Ⅱ. 石 亭 李 定 稷 与 刊 誤 精 選 的 撰 述 過 程 石 亭 李 定 稷 并 非 只 停 留 在 诗 歌 创 作 上, 他 对 诗 歌 的 理 论 也 倾 注 了 大 量 心 血 1894年 春 石 亭 由 于 东 学 农 民 战 争, 失 去 了 在 全 州 所 有 财 产 和 著 作, 回 到 了 故 乡 金 堤 当 时 的 石 亭 已 步 入 晚 年, 时 年 55 岁 在 以 后 的 岁 月 中 他 便 蛰 居 于 乡 下 的 金 堤 埋 头 于 著 书 和 创 作, 在 此 期 间, 他 完 成 了 许 多 著 作, 刊 誤 精 選 就 是 其 中 之 一 石 亭 的 刊 誤 精 選 不 是 独 立 性 的 著 作 元 代 方 回 在 很 早 之 前 就 将 385名 唐 宋 诗 人 的 五 七 言 律 诗 分 成 49 类 进 行 选 定 点 评, 并 撰 写 成 瀛 奎 律 髓 一 书 更 有 后 来 清 代 的 纪 昀 ( ) 在 此 基 础 上 加 入 自 己 的 点 评 撰 写 了 瀛 奎 律 髓 刊 誤 一 书 这 两 部 著 作 自 朝 鲜 前 期 以 来 在 韩 国 国 内 刊 行 并 得 以 广 泛 传 播 许 多 韩 国 学 习 汉 诗 的 人 都 研 读 并 参 考 过 此 书 瀛 奎 律 髓 是 在 高 丽 末 期 或 者 更 晚 一 些 的 朝 鲜 初 期 传 入 韩 国 国 内 的, 并 且 得 到 了 大 范 围 的 传 播 到 朝 鲜 初 期 圣 宗 朝, 文 人 们 最 为 热 心 研 读 的 比 较 规 范 的 诗 选 集 就 是 瀛 奎 律 髓 和 聯 珠 詩 格 1) 事 实 上 由 于 便 于 斟 酌, 瀛 奎 律 髓 自 从 圣 宗 时 代 刊 行 以 来, 多 次 进 行 过 重 刊, 特 别 是 从 壬 辰 倭 亂 以 后 训 练 都 监 版 本 进 行 过 多 次 刊 行, 从 中 我 们 不 难 看 出 朝 鲜 后 期 瀛 奎 律 髓 对 于 中 韩 交 流 所 起 的 重 要 作 用. 2) 到 了 大 韩 帝 国 末 期, 石 亭 精 研 了 纪 昀 的 瀛 奎 律 髓 刊 誤 并 在 其 中 加 入 自 己 的 见 解 撰 写 了 刊 誤 精 選 一 书 1) 이종묵, 해동강서시파 연구, 태학사, 1995, 11 면. 2) 김상일, 영규율수 와 조선시대 수용의 의미, 한국문학연구 23 집, 동국대학교 한국문학연구소, 2000, 135 면.

69 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 329 方 回 在 诗 歌 理 论 思 想 上 隶 属 宋 代 最 大 的 江 西 诗 派 并 深 受 其 影 响 他 矫 正 了 江 西 诗 派 的 偏 颇, 整 理 了 江 西 诗 派 传 统 的 诗 学 理 论 和 美 学 准 则, 并 加 以 弘 扬 光 大 同 时, 为 了 对 四 灵 派 和 江 湖 派 造 成 的 庸 俗 诗 风 进 行 革 新 他 编 撰 了 瀛 奎 律 髓 3) 瀛 奎 律 髓 结 合 了 唐 代 以 来 开 始 加 速 发 展 的 诗 选 传 统 和 在 宋 代 获 得 飞 跃 发 展 的 诗 话 类 创 作 倾 向, 将 唐 宋 两 朝 700余 年 间 的 律 诗 按 门 类 别 进 行 了 编 订 并 加 以 论 述 4) 在 这 里 方 回 将 杜 甫 作 为 律 诗 的 典 范 给 予 了 极 高 的 评 价 以 江 西 诗 派 的 诗 学 理 论 为 中 心 提 出 了 一 祖 三 宗 说 他 将 杜 甫 作 为 初 祖 ( 杜 甫,712~770), 黄 庭 坚 ( 黃 庭 堅,1045~1105) 陈 师 道 ( 陳 師 道,1053~1102) 陈 与 义 ( 陳 與 義,1090~1138) 作 为 三 宗 另 一 方 面, 方 回 灵 活 运 用 诗 眼 的 概 念, 作 诗 时, 并 不 认 为 要 死 抠 字 眼, 他 强 调 虚 字 的 运 用 和 实 字 运 用 同 样 重 要, 认 为 一 句 诗 中 可 以 有 两 个 眼 字, 提 出 了 句 中 眼 的 概 念 尽 管 方 回 的 瀛 奎 律 髓 为 许 多 学 诗 人 所 喜 爱, 然 而 对 于 385名 诗 人 和 3014首 律 诗 进 行 评 论, 其 内 容 量 是 十 分 庞 大 的 方 回 在 宋 末 元 初 摇 摆 不 定 的 行 迹, 瀛 奎 律 髓 中 一 部 分 模 糊 不 清 的 诗 选 标 准, 以 及 与 本 人 的 文 学 才 能 脱 节 的 批 评, 都 受 到 了 后 人 的 诟 病 虽 然 象 明 朝 的 龙 遵 叙 清 朝 的 吴 之 振 ( 吳 之 振, 1640~1717) 一 样 对 他 给 予 肯 定 评 价 的 人 不 是 没 有, 但 是 清 朝 以 后 对 他 的 否 定 几 乎 是 一 种 大 势 冯 班 许 学 夷 纪 昀 潘 德 兴 等 都 对 方 回 进 行 了 否 定 的 评 价, 其 中 纪 昀 是 核 心 人 物 纪 昀 针 对 方 回 筛 选 唐 宋 诗 人 和 律 诗 加 以 评 论 的 瀛 奎 律 髓 在 每 首 作 品 之 后 都 附 上 自 己 的 评 语 编 写 了 瀛 奎 律 髓 刊 誤 一 书 在 书 中, 纪 昀 完 全 站 在 否 定 的 视 角 上 对 方 回 的 观 点 进 行 毫 不 犹 豫 地 苛 评 纪 昀 首 先 在 瀛 奎 律 髓 刊 誤 的 序 文 中 对 方 回 论 诗 的 态 度 和 选 诗 的 标 准 竖 起 了 批 判 的 刀 锋 针 对 方 回 论 诗 的 弊 端, 他 归 纳 为 三 点, 即 党 援, 攀 附 和 矫 激 在 这 里 党 援 指 的 是 党 派 性 和 宗 派 性, 是 对 方 回 一 祖 三 宗 说 的 批 判 攀 附 指 的 是 与 诗 的 作 品 性 相 比, 由 于 北 宋 时 期 对 道 学 和 理 学 的 重 视 在 作 品 的 评 价 中 总 会 掺 入 一 些 文 学 以 外 的 态 度 矫 激 指 的 是 对 于 脱 离 现 实, 不 迎 合 世 俗 的 隐 士 给 予 过 高 评 价 的 论 诗 态 度 他 对 方 回 选 诗 的 标 准 指 出 了 矯 語 古 淡, 標 題 句 眼, 好 尙 生 新 三 个 缺 点 矯 語 古 淡 其 意 为 所 谓 的 古 淡 是 假 话 是 用 来 骗 人 的 其 实 就 是 指 方 回 晚 年 生 硬 的 自 我 标 榜 高 格, 高 古 的 气 节, 而 实 际 上 内 心 世 界 极 其 的 鄙 陋 低 俗 名 义 上 他 虽 然 尊 崇 杜 甫 但 是 他 的 精 神 和 人 品 却 与 杜 甫 相 差 太 远, 实 在 是 不 堪 与 之 相 提 并 论 標 題 句 眼 也 就 是 突 出 句 眼, 是 指 方 回 在 诗 歌 创 作 上 舍 本 逐 末 在 每 首 诗 中 标 榜 强 调 一 联, 在 每 句 诗 中 又 标 榜 强 调 一 个 字 引 导 天 下 人 重 视 局 部 的 纤 巧 而 忽 视 整 体 的 布 局 完 美 使 后 人 失 去 了 温 柔 敦 厚 的 宗 旨 而 致 力 于 字 句 纤 巧 的 锤 炼 好 尙 生 新 指 的 是 喜 好 用 生 硬 新 奇 的 表 现 方 回 喜 欢 用 生 硬 新 奇 的 表 现 并 竭 力 追 求 前 人 未 用 之 语 用 纪 昀 的 话 来 说 这 本 来 就 与 诗 无 关, 是 以 江 西 诗 派 的 成 见 为 主 发 展 而 来, 到 了 方 回 越 发 偏 颇, 最 终 变 得 偏 僻, 再 也 回 不 到 诗 的 正 路 上 来 了 对 方 回 的 瀛 奎 律 髓, 纪 昀 这 样 的 批 判 虽 然 不 能 说 没 有 说 服 力, 但 是 以 偏 概 全, 以 现 象 来 掩 盖 本 质 的 不 足 之 处 还 是 存 在 的 5) 对 此 石 亭 依 据 自 己 的 原 则, 取 方 回 和 纪 昀 二 人 之 长 短 进 行 了 点 评 方 回 站 在 江 西 诗 派 的 立 场 立 论 虽 高, 但 持 论 已 经 偏 颇 纪 昀 的 评 论 虽 然 偶 尔 有 失 妥 当, 但 却 更 为 圆 融 石 亭 借 鉴 二 人 登 堂 入 室 以 观 全 体, 从 整 体 而 言, 与 方 回 相 比, 石 亭 更 为 赞 同 纪 昀 的 见 解 所 以 石 亭 在 纪 昀 将 风 雅 和 离 骚 看 作 诗 歌 的 先 祖, 称 颂 盛 唐 时 期 的 作 品, 追 求 雅 意 淳 厚 极 致 的 辞 意 中 阐 明 了 其 隐 含 的 宗 旨 尽 管 如 此, 也 不 是 说 石 亭 就 对 纪 昀 的 批 评 完 全 赞 同, 它 同 样 也 对 纪 昀 的 部 分 观 点 持 有 保 留 的 意 见 石 亭 认 为 纪 昀 这 样 的 批 评 模 式 虽 然 正 确, 但 过 于 棱 角 分 明 不 留 余 地, 在 含 蓄 性 上 有 所 不 足 在 对 李 白 和 杜 甫 评 价 中 石 亭 认 为 纪 昀 因 李 杜 性 或 未 近, 遂 不 满 焉 也 是 千 虑 一 失 的 败 笔 所 以 石 亭 其 人 和 他 的 学 说 就 和 上 面 的 两 点 评 论 一 样 具 有 一 种 纯 粹 性, 针 对 方 回 和 纪 晓 岚 的 分 歧 点 石 亭 加 入 自 己 的 见 解 编 著 了 刊 誤 精 選 在 这 里 我 们 可 以 很 容 易 的 看 出 在 石 亭 身 上 反 映 出 的 述 而 不 作 的 东 洋 传 3) 강성위, 방회의 시학이론 연구, 서울대학교 박사학위논문, 1996, 2 면. 4) 강성위, 위의 논문, 2-3 면. 5) 이에 대해서는 강성위의 앞의 논문을 참조하기 바란다. 234~249 면.

70 330 동아시아 인문전통과 문화역학 统 学 术 态 度 然 而 面 对 方 回 和 纪 昀 这 样 的 文 学 理 论 大 家, 石 亭 并 没 有 因 为 痴 爱 追 随 而 盲 信 盲 从 从 整 体 上 来 讲, 相 比 较 而 言 石 亭 更 多 的 接 受 了 纪 昀 的 观 点, 同 时 也 提 出 了 自 己 的 理 论 因 为 在 这 里, 方 回 和 纪 昀 的 差 别 化 恰 恰 成 了 石 亭 自 身 诗 学 见 解 的 投 影 总 而 言 之, 刊 誤 精 選 是 在 方 回 的 著 作 和 纪 昀 的 评 论 之 间 进 行 取 舍, 并 附 以 自 身 的 见 解 完 全 可 以 将 其 称 之 为 对 批 评 进 行 批 评 的 著 作 < 要 旨 > 瀛 奎 律 髓 と石 亭 李 定 稷 の 刊 誤 精 選 具 仕 會 ( 鮮 文 大 ) Ⅰ. 方 回 の 瀛 奎 律 髓 と石 亭 李 定 稷 の 刊 誤 精 選 宋 末 元 初 の詩 人 であり詩 論 家 だった方 回 ( ) は 唐 宋 時 代 の律 詩 三 千 余 首 を引 き抜 い て自 分 の詩 学 的 観 点 を付 けたし 瀛 奎 律 髓 をつくった 彼 は当 時 流 行 した四 靈 派 と江 湖 派 の卑 俗 な詩 風 を克 服 し江 西 詩 派 の正 当 性 を主 張 しようと それをつくったとみえる 瀛 奎 律 髓 で 方 回 は杜 甫 を初 祖 とし黃 庭 堅 陳 師 道 陳 與 義 を三 宗 として詩 を習 わなければ ならないという一 祖 三 宗 說 を主 唱 した 彼 は三 宗 の根 源 が一 祖 にあると確 認 し學 詩 の模 範 として 學 杜 を勧 めながら, 學 杜 方 法 で三 宗 を習 うことを力 説 した 瀛 奎 律 髓 には方 回 の詩 学 理 論 が結 集 されている 方 回 はここで一 祖 三 宗 說 をはじめとする創 作 理 論 として志 願 説 を提 示 し 格 高 や 語 工 などのような美 学 準 則 を整 えたりもした 方 回 の 瀛 奎 律 髓 は選 詩 と評 詩 の結 合 的 様 式 を もっているが 彼 は以 前 の詩 評 方 式 を吸 収 し自 身 の詩 学 理 論 を結 合 し論 議 を展 開 した 瀛 奎 律 髓 は後 代 に伝 えられながらそれに対 する多 くの柱 石 と批 評 が添 加 されたが, 清 の紀 昀 ( ) が見 解 を付 けたした 瀛 奎 律 髓 刊 誤 はそれを代 表 する 韓 国 の石 亭 李 定 稷 は二 十 世 紀 が始 まる直 前 1899年 夏 に方 回 と紀 昀 の見 解 にまた自 身 の批 評 を加 えて 刊 誤 精 選 を完 成 させた 言 わば 石 亭 の 刊 誤 精 選 は独 創 的 な彼 のみの著 作 物 ではなく 方 回 と紀 昀 のそれ に自 身 の見 解 を付 けたし撰 述 した詩 論 書 である それは一 種 の批 評 に対 する批 評 書 であるわけ で 末 年 に 至 った石 亭 の詩 学 的 見 解 を調 べることができる重 要 な資 料 集 でもある これまで 刊 誤 精 選 はその名 のみが知 られ 公 開 されたり具 体 的 に論 議 されたことがなかっ た このような側 面 から 刊 誤 精 選 は発 掘 史 的 意 味 もあるであろうし 中 韓 の間 にあった文 化 的 交 流 と影 響 を推 測 することができる資 料 でもある Ⅱ. 石 亭 李 定 稷 と 精 選 の撰 述 過 程 石 亭 の 刊 誤 精 選 は読 者 的 な著 作 物 ではない かつて唐 宋 詩 人 385人 の5 7言 律 詩 3014首 を 49 類 に選 定 してそれに批 評 を付 けたし編 定 した元 の方 回 ( ) の 瀛 奎 律 髓 があった 後 代 に清 の紀 昀 ( ) はそれに評 点 をつけて 瀛 奎 律 髓 刊 誤 を編 纂 した これらは朝 鮮 前 期 以 来 に国 内 でも刊 行 され流 布 し 詩 を習 う多 くの人 がそれを参 照 した 瀛 奎 律 髓 は高 麗 末 期 に あるいは遅 くとも朝 鮮 初 期 にすでに国 内 に輸 入 ( 流 入 ) され広 く流 布 したとみえる そ れは朝 鮮 初 期 成 宗 朝 に 至 って文 人 たちが一 番 熱 心 に読 んだ規 範 的 な詩 選 集 は 瀛 奎 律 髓 と 聯 珠 詩 格 であったという1) 事 実 からも推 しはかることができるからである 瀛 奎 律 髓 は 成 宗 1) 李 鍾 默, 海 東 江 西 詩 派 硏 究, 太 學 社, 1995, p. 11

71 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 331 代 に刊 行 されて以 来 何 回 も刊 行 され壬 乱 以 後 には訓 練 都 監 の版 本 が何 回 も刊 行 されながら朝 鮮 後 期 瀛 奎 律 髓 流 通 の中 心 的 役 割 をしたとみえる 2) 漢 末 に至 り石 亭 かこのような紀 昀 の 瀛 奎 律 髓 刊 誤 をテキストとしてそれに自 身 の見 解 を付 けたし 刊 誤 精 選 として著 作 した 方 回 は宋 代 に一 番 大 きい流 派 を成 した江 西 詩 派 に属 したか それに影 響 を受 けた文 人 である 彼 は江 西 詩 派 の偏 向 を直 し この詩 派 の伝 統 的 な詩 学 理 論 と美 学 準 則 を總 結 宣 揚 すると同 時 に 四 靈 派 と江 湖 派 が作 り出 した卑 俗 な詩 風 を改 革 しようと 瀛 奎 律 髓 を記 した 3) 瀛 奎 律 髓 は 唐 以 来 に加 速 化 し始 めた選 詩 の伝 統 と宋 代 にかけて飛 躍 的 な発 展 を成 した詩 話 流 創 作 傾 向 を結 合 し 唐 宋 二 つの朝 代 にかけた700余 年 間 の律 詩 を門 類 別 に편정( 情 に偏 り) 하여本 格 的 に論 じ た本 である 4) 紀 昀 は方 回 が唐 宋 詩 人 と律 詩 を選 び出 し論 議 した 瀛 奎 律 髓 に対 し各 作 品 に評 語 をつけ 瀛 奎 律 髓 刊 誤 に著 述 した ここで紀 昀 は方 回 のそれに対 し 否 定 的 な視 覚 を貫 きながら酷 評 をためらわなかった 紀 昀 はそれに 先 立 って 瀛 奎 律 髓 刊 誤 の序 文 で方 回 の論 示 態 度 と選 詩 基 準 に対 し鋭 く批 判 した これに対 し石 亭 は自 分 なりに自 らの準 則 に基 づいて方 回 と紀 昀 の長 所 と短 所 を取 捨 し 批 評 し た 方 回 が江 西 詩 派 の肩 を持 ちそれを高 く立 て持 論 が偏 り 時 折 妥 当 性 を 失 ったという紀 昀 の批 評 を援 用 し 石 亭 はそれが槍 を持 ち部 屋 に入 る様 と見 立 てた 全 般 的 に石 亭 は方 回 より紀 昀 の見 解 に同 調 している それで石 亭 は紀 昀 が風 雅 と離 騒 を弔 鐘 として盛 唐 時 期 の作 品 を褒 め称 え我 の 醇 厚 さの極 致 を窮 究 して謝 意 の言 葉 で宗 旨 を明 かしたと見 た だからといって石 亭 は紀 昀 の批 評 に全 面 的 に賛 同 したのではなく 部 分 的 に過 失 があると把 握 した 石 亭 は紀 昀 のそのような批 評 的 な遵 範 が正 しいが とがって鋭 いのが度 を過 ぎて含 蓄 性 が 不 足 し李 白 と杜 甫 の本 質 と距 離 があり 性 に対 しても距 離 感 があり惜 しいと 語 った それで石 亭 は彼 のような学 説 の純 純 性 と 二 つの批 評 の共 通 点 差 異 を引 き抜 こうと石 亭 自 身 の見 解 を付 け たし 刊 誤 精 選 を著 述 したと明 かしている ここで石 亭 は 述 而 不 作 という東 洋 の伝 統 的 な学 術 態 度 を見 せるが だからといって石 亭 と紀 昀 という文 芸 理 論 家 に対 する盲 目 的 な追 従 ではなかっ た 全 体 的 に石 亭 は方 回 より紀 昀 の観 点 を受 容 しているが ここで自 身 の立 論 を提 示 していた ここには方 回 や紀 昀 との差 別 化 された石 亭 自 身 の詩 学 的 見 解 が投 影 されているからである 一 言 で 刊 誤 精 選 は石 亭 が方 回 の著 作 とそれに対 する紀 昀 の批 評 を取 捨 し それに自 身 の見 解 を付 けたし' 批 評 に対 する批 評 ' の著 作 物 ということができる 2) 金 相 一, 瀛 奎 律 髓 と 朝 鮮 時 代 受 容 の 意 味, 韓 國 文 學 硏 究 23 集, 東 國 大 學 校 韓 國 文 學 硏 究 所, 2000, p ) 姜 聲 尉, 方 回 の詩 學 理 論 硏 究, ソウル 大 學 校 博 士 學 位 論 文, 1996, p. 2 4) 姜 聲 尉,, 上 の論 文, p. 2-3

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73 日 本 古 代 文 学 と 六 合 日 本 国 山 梨 学 院 大 学 塩 沢 一 平 1 はじめに 六 合 とは 本 発 表 は 日 本 古 代 文 学 における 六 合 の 受 容 の 様 相 を 探 ることを 目 的 とする 六 合 は 日 本 古 代 文 学 では クニ と 読 まれ 国 の 意 味 として 考 えられている 例 えば 日 本 書 紀 では 彼 地 必 当 足 以 恢 弘 大 業 光 宅 天 下 蓋 六 合 之 中 心 乎 (=その 土 地 は きっと 天 皇 が 大 きな 仕 事 を 成 し 遂 げ それが 天 下 に 満 ち 足 りるところであろう まさしく 国 の 中 心 であろう) と 述 べられている( 神 武 即 位 前 紀 ) もちろん 六 合 には1 四 方 上 下 の 意 味 がある 呂 氏 春 秋 には 神 通 乎 六 合 徳 耀 乎 海 外 (= 君 主 の 精 神 は 四 方 上 下 すなわち 宇 宙 に 到 達 し 主 君 の 徳 は 中 華 文 化 の 圏 外 にも 耀 く) とあり( 巻 17 審 分 覧 ) その 高 誘 注 には 四 方 上 下 為 六 合 也 と 述 べられている これにより 国 の 意 味 としてとらえられるわけである 古 事 記 では 握 乾 符 而 摠 六 合 得 天 統 而 包 八 荒 (= 天 子 としての 印 をもらい 国 を 統 治 し 天 から 正 統 と 認 められ 遠 い 世 界 をも 統 治 する ( 上 巻 序 ))のように 遠 隔 の 八 荒 と 対 をな して まさに 六 合 は 天 地 四 方 の 意 味 として 登 場 している また 六 合 は 六 合 孟 春 与 孟 秋 為 合 仲 春 与 仲 秋 為 合 季 春 与 季 秋 為 合 孟 夏 与 孟 冬 為 合 仲 夏 与 仲 冬 為 合 季 夏 与 季 冬 為 合 ( 淮 南 子 時 則 訓 )のように2 季 節 の 調 和 した 組 み 合 わせを も 指 す また 子 与 丑 合 寅 与 亥 合 卯 与 戌 合 辰 与 酉 合 巳 与 申 合 午 与 未 合 謂 之 地 支 六 合 也 ( 五 経 大 義 )のように3 十 二 支 相 合 をもいう 2 万 葉 集 と 六 合 中 国 詩 文 を 学 んだ 官 人 層 特 に 日 本 の 和 歌 と 舞 を 司 る 歌 舞 所 の 官 人 層 は かなりの 中 国 詩 文 になじんでいたと 考 えられる この 一 角 を 占 めていたとされる 歌 人 の 田 辺 福 麻 呂 の 歌 には2 組 の 歌 がある 万 葉 集 の 巻 六 に 含 まれるものである(1050 番 歌 ~1058 番 歌 表 1) 740 年 ~744 年 くにきょう に 一 時 期 都 となった 久 邇 京 を 詠 んだ 久 邇 京 讃 歌 である 以 下 に 左 右 に 対 応 する 形 で 掲 げ た2 組 の 長 歌 反 歌 である( 反 歌 省 略 ) 2 組 相 互 が 山 川 の 空 間 的 な 対 応 のみならず 春 秋 と いった 季 節 の 対 応 も 相 互 にみられるものとなっている それぞれの 長 歌 は 対 句 が 多 用 されている 例 えば A 川 B 山 C 秋 D 春 a 山 b 急 流 (= 川 ) c 春 d 秋 のように 同 一 長 歌 内 部 で 反 対 の 対 を 形 作 っている しかし 福 麻 呂 の 久 邇 京 讃 歌 は 一 首 内 部 だけが 対 となっているのではない 下 記 のように A 川 に 対 してa 山 B 山 に 対 してb 急 流 (= 川 ) C 秋 に 対 してc 春 D 春 に 対 してd 秋 と 長 歌 どうしの 対 応 部 分 が 反 対 の 対 となっている 左 右 の 歌 が 下 記 のよう に 真 ん 中 を 折 り 目 として 反 対 となっているのである 春 秋 といえば 先 の 淮 南 子 ( 時 則 訓 )の 孟 春 与 孟 秋 為 合 が 想 起 される 福 麻 呂 は 二 首 の 和 歌 を 用 いて 六 合 の2 季 節 の 調 和 した 組 み 合 わせを 表 していると 考 え

74 334 동아시아 인문전통과 문화역학 られる また 山 川 の 対 応 は 空 間 の 対 応 ということから1 四 方 上 下 の 意 味 とつながる とも 考 えられよう 表 1 現 (うつ)し 身 を 持 った 神 である わが 大 君 が わが 大 君 である 神 が 天 下 の 八 島 からなる 日 本 の 中 で 国 は 多 くあるけれども 里 は 多 くあるけれども 山 の 並 び 具 合 が 美 しく 続 く 国 であると 川 の 流 れが 集 まる 郷 であると やましろ 山 城 の 国 の 鹿 背 山 のほとりに 宮 殿 の 柱 を ( 臣 下 が)りっぱにお 作 り 申 し 上 げ ( 大 君 が) 高 々と 統 治 なさる ふたぎ 布 当 の 宮 は 高 々と 統 治 なさる 布 当 の 宮 は A 川 が 近 いので 急 流 の 音 が 清 らかに 聞 こえる B 山 が 近 いので 鳥 の 声 が 響 く たくさんの 木 を 茂 らせ a 山 は 木 が 高 くなっている 流 れ 落 ちる b 急 流 の 音 も 清 らかである C 秋 になると 山 もとどろくほどに 男 鹿 は 妻 のことを 声 を 響 かせて 呼 び D 春 になると 岡 のあたりもいっぱいに 巌 には 花 がたわむほどに 咲 き 鴬 が 来 て 鳴 くc 春 頃 は 巌 には 山 の 裾 野 を 輝 かせて 錦 織 のように 花 がたわむほどに 咲 き 男 鹿 が 妻 を 呼 んで 鳴 くd 秋 は 天 を 曇 らせ 時 雨 が 強 く 赤 みをおびた 紅 葉 が 繰 り 返 し 散 り ああ 美 しい ( 宮 がある) 布 当 の 原 は とても 貴 い 宮 殿 は だからこそ わが 大 君 は 橘 諸 兄 殿 に 従 って そのお 言 葉 をお 聞 き 入 れになって (さす 竹 の= 枕 詞 ) 宮 殿 をここと 定 めたのらしい ( 巻 番 歌 ) 今 後 八 千 年 にわたって 生 まれ 続 けて 天 下 を ご 統 治 なさるだろうと 百 年 の 後 も 変 わるはずがない 宮 殿 であるなあ ( 巻 番 歌 ) つまり 福 麻 呂 は 二 組 の 和 歌 により 六 合 の 意 味 の12という2つの 意 味 を 利 用 して 空 間 的 にも 時 間 的 にも 調 和 した 世 界 を 詠 んでいると 考 えられる 3 福 麻 呂 の 万 葉 歌 の 淵 源 もちろん この 調 和 した 世 界 観 は すべてが 福 麻 呂 によって 創 造 されたものではない 一 首 の 中 での 山 川 春 秋 の 対 応 は 柿 本 人 麻 呂 や 山 部 赤 人 が 既 に 用 いている しかし 二 首 によって 折 り 返 したような 対 応 は 福 麻 呂 唯 一 である この 淵 源 はどこにあるのであろうか 2 で 示 したように 福 麻 呂 は かなりの 漢 詩 文 に 対 する 知 識 をもっていた このことが 関 係 していると 考 えられる 例 えば 詩 経 ( 国 風 )には A 鶉 之 奔 奔 a 鵲 之 彊 彊 人 之 無 良 我 以 為 兄 B 鵲 之 彊 彊 b 鶉 之 奔 奔 人 之 無 良 我 以 為 君 ( 鶉 之 奔 奔 ( 鄘 風 )) のように 先 の 福 麻 呂 歌 のA 川 a 山 B 山 b 川 と 同 じようにA 鶉 之 奔 奔 a

75 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 335 鵲 之 彊 彊 B 鵲 之 彊 彊 b 鶉 之 奔 奔 が 一 作 の 中 で 対 応 しているものが 散 見 される また 福 麻 呂 歌 は 山 川 春 秋 のみならず 上 述 のように 花 花 鳥 鴬 男 鹿 男 鹿 のように 草 木 鳥 獣 までを 対 応 させている これは 芸 文 類 聚 ( 巻 六 總 載 山 )が 引 用 する 韓 詩 外 伝 の 仁 者 何 以 樂 山 山 者 万 物 之 所 瞻 仰 也 草 木 生 焉 万 物 殖 焉 飛 鳥 集 焉 走 獣 休 焉 吐 生 万 物 而 不 私 焉 出 雲 導 風 天 地 以 成 国 家 以 寧 此 仁 者 所 以 樂 山 (= 仁 者 はなぜ 山 を 楽 しむのか 山 は 全 ての 物 が 仰 ぎ 見 るからである 草 木 が 生 まれ 全 ての 物 が 増 え 飛 ぶ 鳥 が 集 まり 走 る 獣 が 休 む 全 ての 物 を 生 み 出 すが 私 的 なものとしない 雲 を 出 現 させ 風 を 導 く 天 地 を 生 成 し 国 家 を 安 寧 にする 以 上 述 べたことが 理 由 となって 仁 者 は 山 を 楽 しむのである)から 直 接 影 響 を 受 けたものと 考 えられる( 注 1) 他 の 万 葉 歌 人 も 花 や 鳥 を 取 り 入 れているが 福 麻 呂 は 韓 詩 外 伝 にあるように 草 木 鳥 獣 のすべてを 詠 み 込 んでいるのである しかもこれを 二 首 で 対 応 させてもいるのである また 福 麻 呂 は 文 選 所 収 の 都 賦 からも 直 接 着 想 を 得 ていると 考 えられる( 注 2) それは 班 孟 堅 が 詠 んだ 西 都 賦 である( 注 3) 漢 の 高 祖 が 洛 陽 から 長 安 に 都 を 定 めた 経 緯 が 語 られ ている 奉 春 (= 婁 敬 ) という 兵 士 が 要 害 の 地 長 安 が 洛 陽 に 勝 ると 建 策 (= 献 策 ) した 高 祖 の 忠 臣 である 張 良 がそれを 推 し 進 め ついに 都 が 長 安 に 完 成 したと 述 べている これは 福 麻 呂 の だからこそ わが 大 君 は 橘 諸 兄 殿 に 従 って そのお 言 葉 をお 聞 き 入 れになっ て(さす 竹 の= 枕 詞 ) 宮 殿 をここと 定 めたのらしい と 非 常 に 似 通 った 表 現 になっている しかも 西 都 賦 の 対 応 部 分 には 六 合 のことばも 用 いられている このように 福 麻 呂 は 久 邇 京 という 都 城 讃 歌 を 作 成 するにあたって 同 じ 都 城 を 詠 んだ 文 選 の 西 都 賦 から 着 想 を 得 ていたと 考 えられる また 芸 文 類 聚 や 毛 詩 からも 同 様 に 着 想 を 得 ながら 万 葉 歌 の しかも 二 首 の 世 界 で 構 成 表 現 していたのである 4 歌 論 修 辞 論 への 階 梯 研 究 実 践 者 としての 福 麻 呂 万 葉 集 最 末 期 に 位 置 する 田 辺 福 麻 呂 は 上 述 のように 歌 の 主 題 もさることながら 対 句 や 対 応 関 係 の 美 に その 面 目 を 躍 如 している その 様 式 美 を 歌 にしているのである それでは なぜ これほどまでの 対 応 した 調 和 世 界 を 福 麻 呂 は 描 き 出 しているのであろうか 万 葉 集 は 日 本 の 和 歌 であるが 言 うまでもなく 万 葉 仮 名 という 漢 字 で 書 かれていた 天 徳 を 讃 美 し 久 邇 京 の 繁 栄 を 願 う 讃 歌 を 文 字 通 りうたった としても 二 首 の 長 歌 を 制 作 するときに 記 録 され 書 き 留 められるのは 漢 字 というタイプフェイスであった 久 邇 京 讃 歌 は 表 2のように 漢 字 表 記 されている 万 葉 最 末 期 は 歌 われる 内 容 から 歌 われる 文 字 知 識 への 関 心 あるいは 修 辞 への 関 心 が 深 まった 時 代 であると 考 えられないだろうか 福 麻 呂 は 知 識 を 駆 使 し 六 合 が 包 摂 する 意 味 の1のみならず 2の 意 味 までを 歌 に 表 現 し た つまり 六 合 という 文 字 が 包 摂 する 意 味 を 分 析 研 究 したものを 芸 術 実 践 として 表 掲 してい ると 考 えられる まさに 和 歌 の 研 究 開 発 研 究 所 であった 歌 舞 所 と 関 係 が 深 い 福 麻 呂 ならではの なせる 技 であった その 文 字 知 識 への 関 心 あるいは 修 辞 への 関 心 は 二 十 九 種 対 に 顕 著 なように のちに 成 立 した 空 海 の 漢 詩 文 論 文 鏡 秘 府 論 と 無 関 係 とはいえないだろう 翻 って 和 歌 に 目 をやると 万 葉 直 後 に 日 本 最 古 の 歌 学 書 歌 経 標 式 が 藤 原 浜 成 の 手 によって 上 梓 される 歌 論 修 辞 論 への 階 梯 として 久 邇 京 讃 歌 があり 研 究 実 践 者 として 福 麻 呂 があったと 考 えられるのではないだろう か

76 336 동아시아 인문전통과 문화역학 表 2 明 津 神 吾 皇 之 吾 皇 神 乃 命 乃 天 下 八 嶋 之 中 尓 國 者 霜 多 雖 有 里 者 霜 澤 尓 雖 有 山 並 之 宜 國 跡 川 次 之 立 合 郷 跡 山 代 乃 鹿 脊 山 際 尓 宮 柱 太 敷 奉 高 知 為 布 當 乃 宮 者 高 所 知 布 當 乃 宮 者 A 河 近 見 湍 音 叙 清 B 山 近 見 鳥 賀 鳴 慟 百 樹 成 a 山 者 木 高 之 落 多 藝 都 b 湍 音 毛 清 之 C 秋 去 者 山 裳 動 響 尓 左 男 鹿 者 妻 呼 令 響 D 春 去 者 岡 邊 裳 繁 尓 巌 者 花 開 乎 呼 理 鴬 乃 来 鳴 c 春 部 者 巌 者 山 下 耀 錦 成 花 咲 乎 呼 里 左 壮 鹿 乃 妻 呼 d 秋 者 天 霧 合 之 具 礼 乎 疾 狭 丹 頬 歴 黄 葉 散 乍 痛 可 怜 布 當 乃 原 甚 貴 大 宮 處 諾 己 曽 吾 大 王 者 君 之 随 所 聞 賜 而 刺 竹 乃 大 宮 此 跡 定 異 等 霜 ( 巻 番 歌 ) 八 千 年 尓 安 礼 衝 之 乍 天 下 所 知 食 跡 百 代 尓 母 不 可 易 大 宮 處 ( 巻 番 歌 ) ( 注 ) 1 辰 巳 正 明 氏 は 柿 本 人 麻 呂 の 吉 野 讃 歌 ( 巻 1 36~38)が 取 り 込 んでいると 考 えている ( 人 麻 呂 の 吉 野 讃 歌 と 中 国 遊 覧 詩 万 葉 集 と 中 国 文 学 笠 間 書 院 1987) 2 塩 沢 一 平 東 アジア 比 較 文 化 国 際 会 議 中 国 大 会 発 表 (2006) 3 以 下 に 原 文 を 掲 げる 漢 之 西 都 在 於 雍 州 寔 曰 長 安 左 據 函 谷 二 崤 之 阻 表 以 太 華 終 南 之 山 右 界 襃 斜 隴 首 之 險 帶 以 洪 河 涇 渭 之 川 流 衆 流 之 隈 汧 涌 其 西 華 實 之 毛 則 九 州 之 上 腴 焉 防 禦 之 阻 則 天 地 之 隩 區 焉 是 故 橫 被 六 合 三 成 帝 畿 周 以 龍 興 秦 以 虎 視 及 至 大 漢 字 受 命 而 都 之 也 仰 悟 東 井 之 精 俯 協 河 圖 之 靈 奉 春 建 策 留 侯 演 成 天 人 合 應 以 發 皇 明 乃 眷 西 顧 寔 惟 作 京 於 是 睎 秦 嶺 目 我 北 阜 挾 灃 灞 據 龍 首 圖 皇 基 於 億 載 度 宏 規 而 大 起 肇 自 高 而 終 平 世 增 飾 以 崇 麗 歴 十 二 之 延 祚 故 窮 泰 而 極 侈

77 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 337 < 摘 要 > 日 本 古 代 文 学 与 六 合 日 本 国 山 梨 学 院 大 学 盐 泽 一 平 探 求 日 本 古 代 文 学 怎 么 接 受 六 合 的 概 念 日 本 古 代 上 六 合 念 kuni 是 国 家 的 意 思 此 如 日 本 书 记. 神 代 里 记 載 日 神 之 光 満 于 六 合 呂 氏 春 秋 他 有 六 合 的 词 ( 这 六 合 是 四 方 上 下 的 意 思 ) 由 此 我 们 可 以 认 为 六 合 是 国 家 的 意 思 古 事 记. 上 巻 序 里 记 載 握 乾 符 而 摁 六 合 得 天 統 而 包 八 荒 ( 意 思 是 他 受 到 图 章 上 帝 承 认 他 统 治 国 家 和 远 方 世 界 ) 由 此 八 荒 ( 远 方 世 界 ) 和 六 合 ( 国 家 ) 旱 在 古 事 记 就 已 経 出 現 了 淮 南 子. 时 则 训 说 : 六 合 孟 春 与 孟 秋 为 為 合 仲 春 与 仲 秋 为 合 季 春 与 季 秋 为 合 孟 夏 与 孟 冬 为 為 合 仲 夏 与 仲 冬 为 合 季 夏 与 季 冬 为 合 这 个 文 章 表 示 各 个 季 节 和 调 和 六 合 五 経 大 义 说 : 子 与 丑 合 寅 与 亥 合 卯 与 戌 合 辰 与 酉 合 巳 与 申 合 午 与 未 合 謂 之 地 支 六 合 也 这 也 表 示 十 二 支 相 合 日 本 古 代 时 日 本 人 开 始 懂 得 用 汉 字 来 记 录 日 语 表 示 事 物 了 学 过 中 国 诗 歌 的 日 本 官 吏 特 別 是 歌 舞 所 ( 就 是 担 任 日 本 诗 歌 和 舞 蹈 的 官 庁 ) 的 日 本 官 吏 他 们 了 解 中 国 诗 文 这 些 官 吏 之 中 有 一 个 诗 人 叫 田 边 福 麻 呂 万 叶 集. 巻 六 记 录 了 他 的 两 首 诗 歌 这 两 首 诗 歌 用 山 和 川 的 字 表 現 空 間 的 相 対 用 春 和 秋 的 季 节 的 相 対 田 边 福 麻 呂 是 万 叶 集 最 末 期 诗 人 他 的 诗 歌 不 但 主 題 很 好 而 且 他 的 手 法 比 其 他 的 诗 人 极 美 他 的 风 格 和 空 海 写 的 文 鏡 秘 府 论 可 能 有 密 着 る 的 关 系 日 本 的 六 合 本 来 是 国 家 的 意 思 但 是 后 来 変 成 国 家 以 外 的 意 思 含 有 空 間 的 季 节 的 相 対 因 此 我 认 为 中 国 的 六 合 概 念 影 响 了 日 本 文 学 里 面 的 六 合 概 念 <요약> 일본고대문학과 육합( 日 本 古 代 文 学 と 六 合 ) 일본 야마나시학원대학( 日 本 国 山 梨 学 院 大 学 ) 시오자와 잇페이( 塩 沢 一 平 ) 일본고대문학에서의 육합( 六 合 ) 수용의 양상을 찾아서. 육합 은 일본고대문학에서 쿠니 로 훈독되어 나라( 国 )를 의미하는 것으로 생각되어진다. 예 를들면 니혼쇼키( 日 本 書 紀 )에 태양신의 빛이 육합(나라)에 가득하다.( 日 神 之 光 満 於 六 合 ) 라고 기술되어 있다. 물론 육합 에는 상하사방( 四 方 上 下 ) 의 의미가 있어(여씨춘추 呂 氏 春 秋 ), 나라 国 로 인식되어져 온 것이다. 고지키( 古 事 記 ) 상권의 천자의 인( 印 )을 받 아 나라( 国 )를 다스리며 하늘로부터 그 정통성을 인정받아 멀리 떨어진 곳까지 통치한다.( 握 乾

78 338 동아시아 인문전통과 문화역학 符 而 摠 六 合 得 天 統 而 包 八 荒 ) 라는 서문의 내용에서 알 수 있듯이 멀리 떨어져 있다는 의미인 팔황( 八 荒 ) 과 대를 이루는 육합 은 그야말로 천지사방( 天 地 四 方 )을 나타내는 의미로서 등 장한다. 그런데 육합 은 육합이란 맹춘( 孟 春 정월)과 맹추( 孟 秋 7 월), 중춘( 仲 春 2 월)과 중추( 仲 秋 8 월), 계춘( 季 春 3 월)과 계추( 季 秋 9 월), 맹하( 孟 夏 4 월)와 맹동( 孟 冬 10 월), 중하( 仲 夏 5 월)와 중동( 仲 冬 11 월), 계하( 季 夏 6 월)와 계동( 季 冬 12 월)을 짝지운 것이다. 라는 회남자 ( 淮 南 子 時 則 訓 )의 기술에서 알 수 있듯이 계절의 조화로운 편성을 나타내기도 한다. 또한 자( 子 )와 축( 丑 ), 인( 寅 )과 해( 亥 ), 묘( 卯 )와 술( 戌 ), 진( 辰 )과 유( 酉 ), 사( 巳 )와 신( 申 ), 오( 午 )와 미( 未 )를 짝지운 것을 지지육합( 地 支 六 合 )이라 한다. 라는 오경대의( 五 経 大 義 )의 기술에서, 육합은 십 이지( 十 二 支 )의 상합( 相 合 )을 나타내기도 한다. 중국시문을 배운 관료층, 특히 일본의 와카( 和 歌 )와 춤을 관장하는 歌 舞 所 의 관료층은 중국 시문에 상당히 익숙한 사람들이었다고 생각되어진다. 그들 중의 한명이었다고 여겨지는 가인 ( 歌 人 ) 타나베노 사키마로( 田 辺 福 麻 呂 )의 노래에는 두 쌍의 노래가 있다. 만요슈( 万 葉 集 )6 권에 포함된 1050 番 歌 ~1058 番 歌 의 두 쌍의 노래에는 서로 산천의 공간적인 대응뿐만 아니 라 春 과 秋 같은 계절의 대응도 나타내고 있다. 만요슈 말기에 활약한 타나베노 사키마로는 노래의 주제 선택에 뛰어났을 뿐만아니라, 댓구나 대응관계의 표현을 통하여 그만의 미의식을 생생히 나타내고 있다. 이러한 양식미를 노래로서 표현하고 있는 것이다. 사키마로의 양식미에 대한 관심은 二 十 九 種 対 에 현저하게 나타나는 것과 같이, 훗날 성립된 쿠카이( 空 海 )의 분쿄히후론( 文 鏡 秘 府 論 )과 무관계라고 할 수 없을 것 이다. 육합 은 종래 나라( 国 ) 천지사방( 天 地 四 方 ) 이라는 공간을 의미하는 뜻으로 수용되 어왔으나, 타나베노 사키마로의 시대에는 秋 春 川 山 등 계절도 포함하는 시간, 공간 적인 대응과 조화를 의미하는 개념으로서 일본문학 속에 도입되어진 가능성이 있는 것은 아 닐까. 또한, 타나베노 사키마로 이전의 노래에 읊혀진 春 秋 의 대응의 연원( 淵 源 )도, 실은 이러한 육합 사상에 있었던 것이 아닐까 생각한다.

79 懐 風 藻 に見 る 松 のイメー ジ研 究 ー その美 意 識 と象 徴 性 についてー 余 淳 宗 ( 韓 国 国 立 全 南 大 学 校 ) 1 はじめに AD3500 年 ごろから BC1500 ー 1700年 ごろの 西 洋 美 術 文 化 が色 彩 の文 化 であったとすれば 同 時 期 に値 する東 アジア ( 韓 国 中 国 日 本 ) の美 術 をはじめ 文 学 などの 色 彩 は文 人 画 ( 水 墨 画 ) に線 描 に現 れているよう に墨 による 白 黒 の世 界 だといってよい さて 東 アジアにおける 文 化 様 式 を幾 つかの 用 語 で示 すと 花 鳥 風 月 雪 月 花 梅 竹 梅 梅 蘭 菊 竹 に峻 別 できるだろう これらの 題 名 が使 われはじめた 時 期 は各 々 異 るが 描 かれる 線 や形 態 などはほとんどが 白 黒 の水 墨 ( 文 人 画 ) であることが 知 られる 絵 画 に対 しては ここでは 触 れずに 主 に東 アジアの 一 部 分 として 欠 かせることができない 日 本 古 代 詩 歌 の中 で 松 が如 何 に現 れ どういうイメ ー ジをもって 詠 まれているのかについて 考 察 することによって 松 が日 本 文 化 の キー ワー ドとなっていく 根 幹 をさぐってみることにする 志 賀 重 昻 は 松 柏 科 植 物 は然 らず 独 り隆 冬 を経 て週 衰 せざるのみならず 矗 々 たる幹 は天 を衝 き 上 に数 千 均 の重 量 ある枝 葉 を負 担 しながら 孤 高 烈 風 を凌 ぎて扶 持 自 ら守 り 節 操 雋 邁 庸 々 他 植 物 に超 絶 するが上 に その態 度 を一 看 せば 幾 何 学 的 に加 ふるに美 術 的 を調 和 する所 誰 が品 望 の高 雅 なるを嘆 ぜざらんや 1) と述 べているのを見 ると 松 が如 何 にして日 本 文 化 の根 幹 をなす象 徴 的 な美 的 存 在 であることが読 み取 れる それで 先 行 研 究 について触 れてみると 斎 藤 正 二 の 植 物 と日 本 文 化 は 古 事 記 日 本 書 紀 に 載 っている古 代 歌 謡 をあげて 松 の詠 まれ方 に関 して述 べており2) 上 原 作 和 は 懐 風 藻 の琴 ー 智 音 の故 事 と歌 語 松 風 の生 成 ー 3) に 以 上 のように 懐 風 藻 の漢 詩 を一 瞥 するだ けでも 伯 牙 と鐘 子 期 にまつわる 智 音 の故 事 から生 まれた琴 曲 流 水 と歌 語 松 風 とが 連 絡 されるというエポックは この漢 詩 集 に遡 源 できることは示 し得 たように思 われる つまり ふたりの男 の友 情 から生 まれた 知 音 の故 事 から琴 曲 流 水 が生 まれ その懐 かしい琴 の 音 色 を もとより 風 と表 象 されている詩 語 が さらに変 換 された歌 語 松 風 として生 成 定 位 しつつある韻 文 史 の断 面 とその課 程 に 懐 風 藻 の文 藻 があるという理 路 である このよう に 懐 かしい風 の音 には あ今 も昔 も変 らぬ 友 情 憧 憬 という青 春 の香 がするようで ある( 下 略 ) 4) と指 摘 しており 森 井 久 美 子 は 松 は漢 詩 の題 材 としても詠 まれ 貞 節 や永 遠 あ るいは無 為 自 然 の 音 ( 松 籟 ) への関 心 が認 められる 松 の性 質 に 理 想 的 な人 間 の在 り方 を託 し たのである 懐 風 藻 の詩 人 も松 の風 や松 の根 に関 心 を示 した 5) 述 べている 本 稿 の研 究 方 法 は 日 本 最 古 の漢 詩 集 である 懐 風 藻 ( 730) をテクストにして 通 事 的 研 究 方 法 をもって 考 察 し 懐 風 藻 における 松 の詠 まれ方 とその 美 意 識 とイメ ー ジの形 成 課 程 を明 白 にしたい 1) 志 賀 重 昻 ( 1995) 日 本 風 景 論 岩 波 文 庫 2) 斎 藤 正 二 ( 2002) 松 植 物 と日 本 文 化 八 坂 書 房 p9 ー 20 3) 上 原 作 和 ( 2001) 懐 風 藻 の琴 ー 智 音 の故 事 と歌 語 松 風 の生 成 ー 懐 風 藻 研 究 第 7 号 p1ー 16 4) 注 4 前 掲 書 p13 ー 14 5) 森 井 久 美 子 ( 2006) 松 の根 と永 遠 への願 いー 古 代 日 本 の詩 歌 を通 してー 万 葉 集 と東 アジア 1 万 葉 集 と東 アジア 研 究 会 編 p 115ー 116

80 340 동아시아 인문전통과 문화역학 2. 松 と友 情 のイメ ー ジ 次 は論 点 を変 えて 懐 風 藻 における 松 と友 情 の問 題 について 述 べて行 くことにする 先 に示 すのは 河 島 皇 子 の 山 斎 (3) という作 品 である ( 前 略 ) 風 月 澄 遊 席 さわやかな 風 澄 んだ月 の光 が宴 席 に流 れ込 む 松 桂 期 交 情 松 や桂 にあやかり 変 らぬ交 友 をつづけたいものだ 6) 題 詞 にあたる 山 斎 は 大 系 頭 注 に 山 斎 山 中 の居 室 書 斎 山 荘 をいう この詩 題 は梁 簡 文 帝 や 北 周 廋 信 その他 の詩 にみえ その内 容 は山 のみならず 池 のある風 景 を詠 む とある また 松 桂 に関 して林 古 渓 氏 によれば 共 に常 緑 の木 で 永 久 に葉 が枯 れない 桂 は支 那 南 方 のもので 芳 香 薬 用 松 は温 帯 にのみ産 する 清 浄 にして節 操 を改 めぬことに 使 ふ 松 桂 は 学 者 道 人 等 が知 友 親 戚 等 と深 く交 はり 芳 香 を発 するが如 くなるにいふ この松 と桂 との心 を以 て お互 に交 情 友 だちづきあいを 永 久 に 続 けたいものである ( 大 系 前 掲 書 ) と指 摘 している 従 って 松 や桂 は常 にかわらぬ 緑 を 保 っているの で 変 わらない 意 の比 喩 になっていると 思 われる この詩 が示 すのは 松 桂 のように 常 に変 わることのないものとしての 交 友 の約 束 する場 で あるから 友 情 を象 徴 していると 思 われる また 安 部 広 庭 の 秋 日 於 長 屋 王 宅 宴 新 羅 客 ( 71) の詩 をみると 山 牖 臨 幽 谷 山 家 の格 窓 は奥 深 い谷 川 に面 し 松 林 懟 晩 流 松 林 は夕 暮 れの流 れに並 び立 つ 宴 庭 招 遠 使 酒 宴 に新 羅 よりの使 者 を迎 え 離 席 開 文 遊 別 離 の宴 席 で詩 文 の遊 びを開 く( 後 略 ) とある 江 口 氏 が ( 上 略 ) 宴 会 の席 上 賑 やかに詠 む類 の詩 とは違 い なにか山 居 悠 々 自 適 する隠 士 の面 影 も感 じられれる その境 地 が共 感 を呼 ぶのであろう 個 性 の感 じられる作 品 であ る 7) と評 しているのをみると この詩 は確 かに宴 席 で詠 まれたのに間 違 いないだろう さらに 松 林 懟 晩 流 宴 庭 招 遠 使 離 席 開 文 遊 とあるのをみると 松 林 は単 純 な風 景 と しての松 の林 ではなく 題 詞 にあるように 長 屋 王 の宅 で新 羅 の客 を送 る宴 とあるところか らもわかるように 松 は友 情 を象 徴 している それで 藤 原 宇 合 の 在 常 陸 贈 倭 判 官 留 在 京 併 序 ( 89) をあげてみることにする ( 前 略 ) 然 而 しかしながら 歳 寒 8) 後 験 松 竹 之 貞 風 生 迺 解 芝 蘭 馥 冬 の松 風 に芝 蘭 のよに逆 境 に遇 うてはじめての節 義 非 鄭 子 産 鄭 の子 産 でなければ が知 られるというも の 事 が生 じて君 子 はその才 徳 を発 揮 する 幾 失 然 明 おおかた春 秋 時 代 の賢 人 然 明 を 見 失 っただろうし 非 齊 垣 公 齊 の垣 公 でなかったならば 何 與 寧 戚 どうして寧 戚 を挙 げ用 いられただろう 6) 引 用 は 小 島 憲 之 ( 昭 和 39 ) 懐 風 藻 文 華 秀 麗 集 本 朝 文 粋 日 本 古 典 文 学 大 系 岩 波 書 店 による また 訳 は 江 口 孝 夫 (2000 ) 懐 風 藻 講 談 社 文 庫 による 以 下 同 じ 7) 江 口 孝 夫 (2000 ) 懐 風 藻 講 談 社 文 庫 p241 8) これに 関 して沢 田 総 清 は( 昭 和 八 )( 懐 風 藻 大 岡 山 書 店 ) はその 出 典 を論 語 の 子 曰 才 寒 然 後 知 松 柏 之 後 凋 な也 をあげ また 芝 蘭 について 孔 子 家 語 与 善 人 居 如 入 芝 蘭 之 室 をあげている p245

81 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 341 知 人 之 難 人 を知 ることのむつかしさは 匪 今 日 耳 今 日 だけのことではない 遇 時 之 罕 時 勢 に遇 うことのまれなのは 自 昔 然 矣 昔 からそうなるのである 大 器 之 晩 大 きな器 量 はすぐには出 来 あがらないが 終 作 宝 質 ついには勝 れたとなる ( 後 略 ) 芝 蘭 之 契 接 無 由 善 き友 との 接 するよすががない 無 由 何 見 李 將 郭 よすががなければ李 膺 も郭 泰 も会 いえなかった 有 別 何 逢 逵 與 猷 別 れが習 い子 猷 も戴 逵 もすれ 違 ったまま 忘 言 罕 遇 従 来 然 意 気 投 合 の友 にめぐりあえないのは昔 よりのこと( 中 略 ) 為 期 不 怕 風 霜 觸 だからこそ願 うのだ 世 の厳 しさにもくじけずに 猶 似 厳 心 松 柏 堅 厳 や松 柏 常 盤 の堅 い友 情 を保 ちつづけたいとの離 別 を いや友 情 を象 徴 的 に示 しているのではないだろうか とあって 詩 序 には単 に 歳 寒 後 験 松 竹 之 貞 とあって 芝 蘭 と 松 竹 がまるで寒 い冬 を乗 り越 えて枯 れずに相 変 わらず 青 々とした様 子 から節 義 に考 えてしまう恐 れがあるが これ は 節 義 ではなく 次 の詩 句 をみると理 解 できるように 友 情 を象 徴 しているに間 違 いな いだろう また 詩 句 をみると 琴 瑟 之 交 遠 相 阻 芝 蘭 之 契 接 無 由 ( 心 のひびきあった友 は遠 く距 たり 住 み 善 き友 との 接 するよすががない) と 為 期 不 怕 風 霜 觸 猶 似 厳 心 松 柏 堅 と詠 んでいる ところで この詩 句 における 松 のイメージを明 らかにするために幾 つかの詩 語 をあげてその 論 理 性 をひろげていくことにしよう まず 詩 序 に 松 竹 之 貞 風 生 迺 解 芝 蘭 馥 という詩 句 が あるが 杉 本 行 夫 は 君 子 は逆 境 に遇 うて其 の節 義 を見 はすに喩 ふ 松 柏 の厳 冬 にも色 を変 へざ るによりて松 柏 を提 起 するを例 とすれど 玆 は柏 の代 りに竹 を用 ふ 9) と指 摘 しており 大 系 に は 芝 蘭 について 芝 蘭 の如 き朋 友 の( 君 子 ) の交 わり 10) とある こうした内 容 から 松 竹 と 芝 蘭 は君 子 の貞 節 とともに 友 情 を表 している詩 語 であるから この詩 における 松 のイメージは変 らぬ友 情 を喩 えているのではないだろうか さらに 当 該 詩 をみると 為 期 不 怕 風 霜 觸 猶 似 厳 心 松 柏 堅 とある 特 に注 目 に値 するのは 琴 瑟 之 交 遠 相 阻 芝 蘭 之 契 接 無 由 と 為 期 不 怕 風 霜 觸 猶 似 厳 心 松 柏 堅 の詩 句 である 芝 蘭 11) と 松 柏 はいつまで も変 らない岩 のように堅 固 な貞 節 友 情 を喩 えている詩 語 として詠 まれているのが察 せられよ う さらに 藤 原 宇 合 の 遊 吉 野 川 ( 92) をみると 芝 薫 蘭 蓀 沢 芝 薫 蘭 蓀 の沢 松 柏 桂 椿 岑 松 柏 桂 椿 の岑 野 客 初 披 薜 野 客 初 めて薜 を披 き 朝 隠 蹔 投 簪 朝 隠 蹔 く簪 を投 ぐ 大 系 の頭 注 によれば 香 草 類 の生 えた沢 芝 は瑞 草 薫 は蘭 の類 香 草 松 も柏 も共 に常 緑 9) 杉 本 行 夫 ( 昭 和 18) 懐 風 藻 弘 文 堂 書 房 10) 注 7 の前 掲 書 11) 余 淳 宗 ( 二 〇 〇 八 ) 東 アジア 古 典 漢 詩 の比 較 文 学 的 研 究 ー 花 鳥 風 月 の美 意 識 とイメー ジの形 成 国 学 院 大 学 大 学 院 博 士 論 文 p 94ー 95 参 照

82 342 동아시아 인문전통과 문화역학 樹 桂 は香 木 二 句 佳 境 吉 野 の風 景 と捉 えている さらに 澤 田 註 釈 は 朝 隠 を 朝 廷 に仕 官 すれども隠 士 の心 操 を守 る義 ( 前 掲 書 ) と述 べている 吉 野 では吉 野 詩 が多 く詠 まれて いて そこは仙 境 として詠 まれる傾 向 にある 野 客 云 々 には そうした仙 境 における隠 士 の 心 操 が描 かれていると思 われる 芝 薫 蘭 蓀 が冒 頭 に詠 まれるのは この詩 の主 題 を導 いてい るといえる 芝 は瑞 草 であり蘭 は仙 人 の草 であり ここでは 隠 士 の精 神 が象 徴 されており 松 柏 と 桂 椿 には友 情 のイメージが込 められているのであろう 3 松 と貞 節 のイメージ 次 に目 を移 して 松 と貞 節 のイメージが詠 まれていると思 われる幾 つかの例 をあげてみる 先 に 大 納 言 中 臣 朝 臣 大 島 の 詠 弧 松 ( 12) をあげてみると 隴 上 孤 松 翠 丘 の上 の松 の一 樹 は緑 あざやかに 凌 雲 心 本 明 高 く秀 でた姿 は高 潔 である 餘 根 堅 厚 地 根 は大 地 をがっしと 抑 え 貞 質 指 高 天 節 操 はひとり 高 く天 を目 指 している とあって 中 国 六 朝 時 代 の 物 を詠 ずることが 流 行 した この作 品 もその流 れにのったものであ る この詩 にはそのものに 托 して自 己 の心 情 を述 べることを 忘 れてない だが心 情 七 八 句 に述 べている が 文 意 がわかりにくく 訴 えが弱 くなっているのが 残 念 である 12) というところから この詩 が中 国 六 朝 の漢 詩 の物 名 詩 の詠 まれ方 によるものであるのが 分 かる また 詩 意 の場 合 1-4 句 までの詩 句 を みると 丘 の上 の松 の一 樹 は緑 鮮 やかに 高 く秀 でた姿 は高 潔 である 根 は大 地 をがっしと 抑 え 節 操 はひとり 高 く天 を目 指 している として 松 の高 潔 さを詠 んでいるのがわかる 他 にも 孫 楚 高 貞 節 というところをみても この詩 における 松 のイメ ー ジが貞 節 であることが 知 られる そこで 問 題 になるのは 斎 藤 正 二 によれば この 詠 弧 松 の思 想 的 主 題 は何 かという 点 の究 明 で ある 第 二 句 凌 雲 の心 本 より明 らけし は じつは 梁 范 雲 詠 寒 松 詩 凌 雲 知 勁 節 負 雪 見 貞 心 を 踏 まえたもの ( 中 略 ) いずれにしても 中 国 の詩 文 のパロデイ ー であることは 疑 問 の余 地 がない 律 令 制 中 央 集 権 国 家 を出 発 させた七 ~ 八 世 紀 の日 本 の支 配 階 級 ( 知 識 人 層 ) は 政 治 制 度 から日 常 生 活 風 習 にいたるまで 東 アジア 世 界 の先 進 国 である 唐 の文 化 を模 倣 し 咀 嚼 することに 懸 命 であった ( 中 略 ) 要 約 すれば 詠 弧 松 一 首 の思 想 的 主 題 は 儒 教 イデオロギ ー の政 治 体 糸 のなかでの 松 の象 徴 を把 握 し ようというところにあった そして それは 古 代 詩 歌 の一 般 的 特 質 でもある 一 つの松 を長 寿 のシン ボルと見 たり 貞 節 の比 喩 と見 たりする 思 考 は 徹 頭 徹 尾 中 国 伝 来 のものであった 13) と指 摘 してい るところからもここで 松 は 貞 節 に喩 えられているのが 明 らかである さて 大 神 高 市 麻 呂 の 従 駕 応 詔 ( 18) をみると ( 前 略 ) 松 岩 鳴 泉 落 松 の聳 える岩 より滝 が流 れて響 きをたて 竹 浦 笑 花 新 竹 藪 つづきの 水 辺 には花 が咲 きほころんでいる とある 問 題 となる詩 句 だけをもう 一 度 あげてみると 意 謂 入 黄 塵 不 期 遂 恩 詔 と 松 岩 鳴 泉 落 竹 浦 笑 花 新 臣 是 先 進 輩 とあって 天 子 の徳 を称 賛 しているのが 知 られる それを 松 岩 竹 な どの典 型 的 な詩 語 をもって 君 臣 和 楽 の精 神 世 界 を喩 えている 沢 田 氏 は 松 岩 の一 聯 は 六 朝 の威 風 を帯 12) 注 8 の前 掲 書 13) 注 3 の前 掲 書 を参 照 他 に斎 藤 は第 七 句 孫 楚 貞 節 を高 くし は 晋 書 孫 楚 伝 楚 少 時 欲 隠 居 謂 済 曰 当 云 欲 枕 石 瀬 流 誤 云 瀬 石 枕 流 か もしくは 同 じ 晋 書 の 孫 興 公 前 種 一 株 枝 高 勢 遠 を踏 まえたもの とする p13 ー 14

83 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 343 びていて 当 時 の詩 の特 徴 を表 わしている 林 羅 山 はこれを 評 して 高 市 曾 免 冠 諫 持 統 帝 遊 幸 見 此 詩 其 作 雖 未 知 其 在 何 時 然 猶 含 諷 諭 之 意 據 破 題 則 老 耄 以 死 自 期 者 也 如 此 而 猶 不 忘 君 者 誰 不 憐 之 乎 と述 べている 14) と評 しているところを 見 ると確 かに この詩 における 松 は 貞 節 に喩 え られているのが 読 み取 れる また 守 麻 田 連 陽 春 の 和 藤 江 守 詠 裨 叡 山 先 之 考 之 旧 禪 処 柳 樹 之 作 ( 105) がある 松 柏 九 冬 堅 松 や柏 は三 月 の冬 にも色 あせない 日 月 荏 苒 去 月 日 はむなしく過 ぎ 去 っていくが 慈 範 独 依 存 亡 父 のあたたかき教 えは昔 のままだ この詩 の中 で特 に 宝 殿 臨 空 構 梵 鐘 入 風 伝 烟 雲 万 古 色 松 柏 九 冬 堅 という表 現 をもっ て 君 子 の貞 節 を象 徴 的 に示 しているのがわかる 沢 田 の指 摘 によれば 松 柏 の 柏 につ いては 群 従 本 作 柏 蓋 柏 柏 俗 字 とあり さらに論 語 の 歳 寒 然 後 知 松 柏 の後 凋 15) をそ の出 典 としてあげている 注 意 すべきは 松 柏 九 冬 堅 であり その意 は あたりにたちこめる 煙 や雲 ( もやの類 ) は万 古 と変 らぬ同 じ色 を呈 している であるから この詩 においての 松 柏 は一 年 中 色 の変 らぬ常 緑 樹 であるので貞 節 の意 味 に詠 まれているのが察 せられよう 4 風 景 としての 松 4. 1 風 景 の賛 美 次 の三 首 は 風 景 としての 松 である 巨 勢 朝 臣 多 増 須 の 春 日 応 詔 ( 20) をみると 岫 室 開 明 鏡 山 の洞 穴 は月 の光 がさしこみ 鏡 のようで 松 殿 浮 翠 烟 松 に囲 まれたご 殿 は緑 のもやに 包 まれる 幸 陪 瀛 洲 趣 幸 いに仙 境 の地 に陪 従 しえたいま 誰 論 上 林 篇 なんで 上 林 の篇 など論 ずる要 がない とある この詩 に関 して 江 口 は 神 仙 の世 界 に憧 れるよりも 政 務 にはげみ 余 暇 に山 川 を遊 覧 する方 がよいといい ( 一 句 ~ 四 句 ) 次 に出 駕 し 魚 鳥 に目 を楽 しませる ( 五 句 ~ 八 句 ) つづいて 琴 詩 酒 の楽 しみをのべ ( 九 句 ~ 一 二 句 ) 最 後 にこの地 こそまさに 仙 境 であると 讃 えあげる ( 一 三 ~ 一 六 句 ) ( 中 略 ) 表 現 が的 確 であるか 疑 いたい この時 代 の詩 とかくすると 表 現 面 に腐 心 し 季 節 を超 越 した修 辞 になったり 観 念 や知 識 が先 行 し 実 感 を薄 めてしまう 恐 れがある 16) と評 しているように ここで 松 は特 別 な意 味 を 持 っていたり あるいは 季 節 感 を表 わす景 物 として詠 まれているのではなくただ の風 景 として 詠 まれているといってよい 次 に 紀 古 麻 呂 の 望 雪 ( 22) をあげてみよう 柳 絮 未 飛 蝶 先 舞 柳 の錦 はまだ 飛 ばないが まず雪 が舞 い 梅 芳 猶 遅 花 早 臨 梅 の香 りはないものの 枯 木 に雪 が開 いた 夢 裏 釣 天 尚 易 涌 夢 での天 上 の楽 も想 像 にかたくにはないが 松 下 清 風 信 難 斟 松 に雪 での清 風 はそうそう 逢 えるものではない とある 江 口 は この詩 について 全 体 に前 置 きが長 く 中 心 とする雪 の景 が展 開 しない 斜 日 黯 黯 もぴんとこない それにつづく 柳 絮 いまだ飛 ばず 花 早 く臨 む も常 套 的 な見 方 で 春 の景 に移 り変 14) 沢 田 総 清 ( 昭 和 8) 懐 風 藻 註 釈 大 岡 山 書 店 p89 15) 注 17の 前 掲 書 p308 ー ) 注 7 の前 掲 書 p100 ー 101

84 344 동아시아 인문전통과 문화역학 わってしまった 感 じ 七 言 の詩 はさすがに 修 辞 なども重 厚 である 五 言 詩 では故 事 伝 説 などの語 がとかく 語 る内 容 を不 鮮 明 誤 解 を招 きやすくするが 七 言 の句 となると 晦 渋 難 解 な語 も 漢 詩 らしく生 きてく る しかし用 語 の不 習 得 か 焦 点 のみえにくい 詩 にしてしまっている 17) と評 している これをもっ て この詩 は 雪 に焦 点 を合 わせているのがわかる この詩 の場 合 落 雪 霏 霏 一 嶺 白 斜 日 黯 黯 半 山 金 柳 絮 未 飛 蝶 先 舞 梅 芳 猶 遅 花 早 臨 夢 裏 釣 天 尚 易 涌 松 下 清 風 信 難 斟 という句 には 雪 と 柳 梅 松 清 風 などが取 り合 わせになって 詠 まれ これは季 節 が冬 から春 へと移 り変 わっていく 季 節 の変 化 を表 わしている また 雪 柳 松 は視 覚 を示 し 梅 は嗅 覚 を 清 風 は聴 覚 を表 わしている 五 感 に富 んでいる 詩 だといっていい したがって この詩 における 松 は自 然 の風 景 として 詠 まれている また 長 屋 王 の 初 春 於 作 宝 楼 置 酒 ( 69) には 魚 驚 乱 藻 濱 魚 は重 なりただよう藻 の中 に跳 る 激 泉 移 舞 袖 激 しく湧 く泉 のほとり 袖 を翻 すと 流 声 韵 松 筠 水 の調 べは松 と竹 とに唱 和 する と詠 む この詩 は第 1 句 と2句 をみると 景 は麗 し 金 谷 の室 年 は開 く 積 草 の春 といっ て この詩 が詠 まれている場 所 が金 谷 であることをいい 季 節 は春 であることを描 いている ま た しかるべき詩 語 を幾 つかあげてみると 松 烟 とあって 杉 本 氏 は 松 も もやも とも に青 緑 色 を呈 せるをいふ 18) と指 摘 している そして 桜 柳 魚 があって 殊 に 桜 柳 には春 の季 節 感 を漂 わせる景 物 である また 松 筠 は松 と竹 をさしている ここで注 目 すべき は前 述 したように 松 烟 と 松 筠 であって これらの詩 語 は景 物 として詠 まれているだけ で象 徴 性 はないといえよう 次 の詩 は藤 原 宇 合 の 秋 日 於 左 僕 射 長 屋 王 宅 宴 ( 90) という作 である 69番 詩 のように 作 宝 楼 にて詠 まれている 石 壁 蘿 衣 猶 自 短 石 垣 のさるおがせはまだ短 く 山 扉 松 蓋 埋 然 長 山 荘 の門 をおおう松 はこんもりとして丈 高 い 遨 遊 已 得 攀 龍 鳳 宴 席 に列 して十 分 に楽 しませていただいた 大 隠 何 用 覓 仙 場 市 の隠 者 はいまさら仙 人 の住 居 を求 める要 は ない この詩 において 蘭 の場 合 宇 合 は 秋 の美 しい景 として 蘭 白 露 菊 丹 霞 を詠 んだ こ れらは 懐 風 藻 の中 でも特 徴 的 な詩 語 である 蘭 菊 松 が一 首 の中 に詠 まれること は これも特 徴 的 な表 現 である では こうした 蘭 菊 松 が同 時 に詠 まれる理 由 はな ぜだろうか それは 大 隠 という語 が 江 口 孝 夫 の 懐 風 藻 によれば 大 隠 者 小 隠 者 に対 して用 いたもので 真 の隠 者 の意 市 中 の隠 者 19) とあるから 蘭 菊 松 が示 している内 容 は 秋 の美 しい景 物 であると同 時 に 仙 居 を求 める隠 者 の象 徴 として詠 まれている のではないだろうか 同 じく藤 原 麻 呂 の 過 神 納 言 墟 ( 95) をも 松 と 竹 がともに詠 まれて春 の季 節 感 を漂 わ せている 松 竹 含 春 彩 松 と竹 とは春 の生 気 に彩 られている 容 暉 寂 旧 墟 月 の 光 は廃 墟 をさびしく照 らしている 清 夜 琴 樽 罷 清 らかな夜 琴 酒 の事 もやみ 17) 注 7 の前 掲 書 p107 ー ) 注 10の 前 掲 書 p170 19) 注 7前 掲 書

85 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 345 傾 門 車 馬 疎 くずれかかった門 前 には訪 れる車 もない ( 後 略 ) とあり 第 2-3 句 をみると 千 年 奉 諫 余 松 竹 含 春 彩 といって 千 年 という長 い年 月 の中 で松 と竹 は春 の生 気 に彩 られているという ここで 松 は 竹 とともに詠 まれ春 の景 物 とし て詠 まれていると思 われる 4. 2 天 皇 の高 徳 賛 美 また 美 努 連 浄 麻 呂 の 春 日 応 詔 ( 24) という詩 を観 てみよう 軽 煙 松 心 入 一 抹 の霞 が松 林 の中 に流 れ入 り 囀 鳥 葉 裡 陳 鳥 は葉 かげに 並 んで 囀 っている 絲 竹 遏 廣 楽 管 絃 の調 べは天 上 界 の楽 のようで と詠 む 江 口 は 描 写 が少 々 平 凡 階 前 桃 花 映 じ 塘 上 条 新 たなり などはどこにでも 見 る句 であろ う 嬌 鴛 戯 れ の 嬌 はどう 解 釈 すべきだろうか 嬌 鴛 は愛 らしいうぐいす 嬌 鴉 はうつくしい 烏 嬌 鳥 はなま めかしい 鳥 の意 である 鴛 鴦 はいつもつがいでいるからあでやかといったのだろうが 嬌 と戯 れがつづくイメ ー ジはいかが なものだろう 戯 は仲 よく 並 んで 水 面 に浮 いている 図 をいっただけなのか この 詩 二 字 熟 語 のアラベスク 20) と評 してい る 殊 に鳥 に焦 点 を合 わせているのが 特 徴 である 主 な景 物 をあげてみると 嬌 鴛 桃 花 柳 条 松 心 鳥 などの 春 景 が 際 立 っており その中 でも 松 心 は大 系 に 松 の貞 心 ここは 松 の心 中 心 部 のあたりをい う これらの 風 物 をみると 春 景 を描 いていると 同 時 に 一 句 と二 句 の 玉 燭 凝 紫 宮 淑 気 潤 芳 春 とあり また 絲 竹 遏 廣 楽 率 舞 洽 往 塵 此 時 誰 不 樂 普 天 蒙 厚 仁 とあるように 天 皇 の徳 を讃 える 詩 であることがわかる 従 って この 詩 における 松 は特 別 なイメ ー ジを 持 っているのではなく 単 純 な風 景 として 詠 まれていると 考 えられよう 話 を変 えて 刀 利 康 嗣 の 侍 宴 ( 35) は 百 味 馨 香 陳 お膳 には美 味 珍 味 が並 んでいる 日 落 松 影 闇 日 は沈 み松 影 もおぼろに 霞 むが 風 和 花 気 新 風 は和 らかで 花 の香 りも新 しい 俯 仰 一 人 徳 伏 して天 子 の高 徳 を仰 ぎ 唯 壽 萬 歳 真 ただ聖 寿 の万 歳 をお祝 い申 し上 げる とあり この詩 において 松 は 日 落 松 影 闇 風 和 花 気 新 俯 仰 一 人 徳 とあるように 天 子 すな わち 天 皇 の高 徳 を讃 える 詩 の素 材 として 描 かれており 同 時 に風 景 として 現 れている それは 万 歳 という 言 葉 の意 味 をみると 天 子 の寿 命 の万 年 なること 天 子 の寿 命 が長 いようにと 祈 ったこと 天 子 をさす 21) と指 摘 しているとこ ろからも 明 白 であるように これは 天 皇 の長 寿 を祈 願 しているので 松 は天 皇 の長 寿 をも 象 徴 していることがわかる 同 じく 安 部 首 名 の 春 日 応 詔 ( 43) にも 湛 露 22) 思 人 智 皇 恩 あつき天 子 は山 川 の景 を愛 され 流 霞 軽 松 筠 たなびく霞 の中 に松 や竹 はあわく漂 う 凝 麾 23) 賞 無 倦 威 儀 をただしく百 官 たちと遊 覧 し飽 くことなく 花 將 月 共 新 花 も月 もいちだんと新 鮮 である 20) 注 7 大 系 の頭 注 を参 照 p113 21) 注 7 の前 掲 書 p140 22) 沢 田 総 清 ( 昭 和 8) 懐 風 藻 註 釈 ( 大 岡 書 店 p 147) によれば 君 恩 の厚 いこと 詩 小 雅 湛 湛 露 斯 匪 陽 不 唏 をその 出 典 にあげている p ) 注 7 の前 掲 書 によれば 威 儀 を正 し 列 をなしているさまと 見 たい と指 摘 している p165

86 346 동아시아 인문전통과 문화역학 と詠 まれている この詩 もやはり 天 皇 の高 徳 を賛 美 していると考 えられるのが 一 ~ 二 の 世 頌 降 平 徳 時 謡 交 泰 春 と五 六 七 句 の 湛 露 思 人 智 流 霞 軽 松 筠 凝 麾 賞 無 倦 にあるよう に 天 皇 の高 徳 を讃 えているに間 違 いない 松 筠 は 松 と 竹 の意 味 であり 一 つの風 景 として詠 まれているが 同 時 に天 皇 の高 徳 を象 徴 しているとも考 えていいだろう 5 松 風 を詠 む詩 後 述 する五 首 の 松 風 という詩 語 にはどういう 意 味 が込 められているのか 考 えてみる 先 に 巨 勢 朝 臣 多 増 須 の 春 日 応 詔 ( 19) を観 てみよう 松 風 催 雅 曲 松 吹 く風 は高 雅 な曲 をかなで 鶯 哢 添 談 論 囀 るうぐいすは 談 論 の興 を添 える 今 日 良 酔 徳 今 日 天 子 の高 徳 に酔 う深 い感 激 を 誰 言 湛 露 恩 なんで 月 並 みなことばで 讃 ええよう と詠 まれ 先 述 した詩 群 とは 違 って 花 鳥 の取 り合 わせの表 現 は見 られないもので 松 風 と 鶯 露 などの詩 語 が見 られるのが 特 徴 的 である いうまでもなく 季 節 は二 句 目 に 春 色 とあるか ら春 景 が詠 まれているのが 分 かる 松 と 松 風 のもっている 意 味 は高 潔 な精 神 世 界 にある だが 作 者 はどうして 鶯 哢 添 談 論 と表 現 しているだろう それは 人 々 が高 尚 な談 論 を交 わしているよう に 鶯 の鳴 き声 を人 々 が群 がって談 論 する様 子 に見 立 てていると 思 われる したがって 松 風 も 鶯 の鳴 く声 も聴 覚 による感 覚 表 現 であると 同 時 に 春 の到 来 を告 げる鳥 として詠 まれており いずれも 天 子 賛 美 の素 材 として 詠 まれているところに 特 徴 が見 られる また 藤 原 臣 史 の 遊 吉 野 ( 31) である 漆 姫 24) 控 鶴 擧 昔 この地 で漆 姫 が鶴 に 乗 って天 上 に去 り 柘 娞 25) 接 魚 通 柘 枝 姫 は魚 と化 し男 に近 づき情 を通 じた 煙 光 岩 上 翠 岩 の上 にもやが 立 ちこめ 翠 はおぼろに 日 影 漘 前 紅 岸 のあたりは 日 がさして 紅 に映 えている 翻 知 玄 圃 近 ここはむしろ 天 帝 のおられる 崑 崙 に近 く 対 翫 入 松 風 松 に吹 く風 を心 ゆくばかり 鑑 賞 している とある さて 論 の展 開 上 時 代 はかなり 下 ることだが 和 歌 史 にける 歌 ことばとしての 松 風 が定 着 し始 めたの は 紀 貫 之 (*~ 九 四 五 ) の時 代 である ( 中 略 ) 藤 原 兼 輔 の和 歌 に 峯 の松 風 と 喩 えられた 琴 の音 にちなむ 詠 は 山 からの 水 が流 れ行 く様 を詠 んでいることからしても 蒙 求 の 伯 牙 絶 絃 の 故 事 で知 られる 海 彼 の二 人 の文 人 に 貫 之 と兼 輔 が自 分 達 の友 愛 と 目 前 の風 景 を琴 曲 流 水 の 琴 の音 に喩 えられた ことを認 定 することが 可 能 だからである 26) と指 摘 しているが これらの 事 実 は 松 風 というのが 単 に和 歌 に 限 っての事 ではなく 中 国 の漢 詩 によるものであることを 裏 付 けているのが 明 白 である した がって この詩 において 松 風 への関 心 を示 しているのがわかる いわば 永 遠 の松 の枝 に吹 く風 は 自 然 の音 楽 を奏 でているのである こうした松 風 への関 心 は おそらく神 仙 の世 界 に聴 く音 楽 であ り この世 の外 の音 楽 として楽 しまれたのだと 思 われる 27) という指 摘 があるように 松 風 は神 仙 24) 大 和 の国 に伝 わる伝 説 で 漆 部 の里 の女 が仙 草 を摘 み 天 に飛 んでいあったという 話 日 本 霊 異 記 に記 されている 25) 大 和 の国 に伝 わる伝 説 で 漁 師 美 稲 のかけた 梁 に 柘 の枝 はたちまち 仙 女 にかわり 契 りを結 んだものの 女 は仙 境 に消 えていったという 話 26) 上 原 作 和 ( 2001) 懐 風 の琴 ー 知 音 の故 事 と歌 語 松 風 の生 成 懐 風 藻 の研 究 ( 第 七 号 ) によると 貫 之 集 巻 一 九 四 後 撰 和 歌 集 夏 部 一 六 七 一 六 八 拾 遺 和 歌 集 雑 上 部 三 七 一 の 松 風 と 琴 の音 を参 照 p3 27) 注 6 の前 掲 書 p115

87 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 347 世 界 の音 楽 に喩 えられているといえよう また 田 辺 史 百 枝 の 春 苑 応 詔 ( 38) を観 てみよう 周 魚 躍 水 兵 魚 は聖 徳 を喜 んで水 辺 で跳 ね躍 る 松 風 韻 添 詠 松 の清 らかな響 きは歌 を添 え 梅 花 薫 帯 身 梅 の香 しい匂 いを身 に帯 びる 琴 酒 開 芳 苑 琴 と酒 の雅 宴 を花 咲 く御 苑 の庭 に開 き 丹 墨 点 英 人 英 才 の人 たちの詩 書 また絵 を天 覧 に供 している とあり 天 子 の恩 を 被 って 魚 は聖 徳 を喜 んで水 辺 で跳 ね躍 る 松 の清 らかな響 きは歌 を添 え 梅 の香 しい匂 いを身 に帯 びる 琴 と酒 の雅 宴 を花 咲 く御 苑 の庭 に開 き 英 才 の人 たちの詩 書 また 絵 を天 覧 に供 している といって 魚 が跳 ね踊 る視 覚 的 なイメージと松 に吹 く風 の音 には聴 覚 が そのうえに 梅 の香 しい匂 いという嗅 覚 という感 覚 的 な表 現 が目 立 ち 琴 詩 酒 とい う三 友 が 揃 っている様 子 を通 して天 子 の徳 を讃 える詩 である やはり この詩 においても 松 風 韻 添 詠 は 賀 宴 における韻 であり これらは 曲 や 韻 というリズムを伴 うものであっ て 実 態 論 に還 元 できない解 釈 は慎 めねばならないが 広 義 には楽 の音 喩 と解 してよいもの である 28) という指 摘 があるように 琴 と絡 み 合 って 適 遇 上 林 会 忝 寿 万 年 春 という天 子 の高 徳 を讃 える内 容 である したがって 松 風 は 音 楽 を喩 える素 材 として描 かれている ことが察 せられよう 同 じく 石 上 乙 麻 呂 の 秋 夜 閨 情 ( 118) をみると 空 思 向 桂 影 空 しく物 さびしく月 影 を仰 ぎ 独 坐 聴 松 風 ひとり坐 して松 風 に耳 をすます 山 川 嶮 易 路 遠 く離 れた山 間 の住 居 で 展 転 憶 閨 中 愛 人 を 思 って寝 返 りをうつばかり と詠 む この詩 は和 歌 で詠 まれる相 思 の歌 と同 じように涙 や泣 くの語 が気 になったのであろう 閨 怨 詩 の紹 介 されることの少 ない中 国 の詩 に対 し 万 葉 の世 界 はもっぱら相 聞 の世 界 である 和 歌 の感 覚 和 歌 に托 す性 情 が漢 詩 の世 界 に入 るのも当 然 である だから逆 に 異 った題 材 として 評 価 を換 えてみるべきである 空 思 桂 影 に向 ひ 独 坐 松 風 を聴 く など 孤 独 な境 遇 がよく出 た句 である しかし青 年 の 若 々しい恋 愛 感 情 ではなく 中 年 初 老 の閉 ざされた性 ( 情 痴 というべ きほどではないが) の嘆 きが聞 かれる 29) と指 摘 しているように この詩 は相 聞 風 の詠 まれ方 によって詠 じられている ここでも 松 風 への関 心 が窺 われ 前 述 した如 く松 の枝 に吹 く風 は 自 然 の音 楽 を喩 え それは また神 仙 世 界 に聴 く音 楽 でもある さらに 葛 井 連 広 成 の 奉 和 藤 政 佳 吉 野 之 作 ( 119) にも 琴 淵 躍 錦 鱗 淵 には魚 が躍 りはねている 月 後 楓 声 落 月 は山 の端 にかくれ楓 には風 音 もなく 風 前 松 響 30) 陳 時 おり松 吹 く音 をかすかに聞 くばかり 開 仁 対 山 路 山 のふところににはいろうと山 路 をたどり 猟 智 賞 河 津 川 の妙 趣 にひたろうと岸 辺 を逍 遥 する とある 囂 塵 は やかましく塵 が多 い うるさいまちなかのけがれ 左 伝 の昭 三 に 公 欲 更 晏 子 之 宅 曰 子 之 宅 近 市 湫 隘 囂 塵 不 可 以 居 とあり 笛 浦 琴 淵 については 吉 28) 注 4 の前 掲 書 p10 29) 注 26の 前 掲 書 p3 68ー ) 大 系 頭 注 に 風 の吹 く中 に松 風 の音 がしきりに 連 なる とある

88 348 동아시아 인문전통과 문화역학 田 博 士 の大 二 本 地 名 辞 典 に 笛 浦 琴 淵 等 の勝 景 は吉 野 川 の中 ならん 詳 ならずとも雖 も笛 浦 延 喜 式 国 栖 村 梄 井 の住 民 なるべし 笛 浦 の名 之 に因 る歟 琴 淵 は雄 略 帝 歌 舞 の故 典 に因 るごと し とあって吉 野 川 の中 にある名 所 である 31) と記 されている 詩 の内 容 は俗 界 から離 れて 吉 野 の山 川 にすむとし 淵 には魚 が跳 ね踊 り 月 は山 の端 に隠 れ楓 に風 の音 が聞 こえず たまに 松 吹 く音 をかすかに聴 くだけである 山 道 を辿 ると川 の妙 趣 に浸 り岸 辺 にを散 歩 するのだとい う これは 松 風 が中 国 漢 詩 と密 接 に関 わっていながら 無 為 自 然 の音 楽 への関 心 を示 すのである すなわち 仙 境 の音 楽 理 想 郷 の音 楽 として喩 えられているのである 6 おわりに 以 上 のことをまとめてみると 河 島 皇 子 の 山 斎 (3) の場 合 松 と 桂 のように常 に 変 わることのないものとしての 交 友 の約 束 する場 であるから友 情 を象 徴 していると思 わ れる 安 部 広 庭 の 秋 日 於 長 屋 王 宅 宴 新 羅 客 ( 71) の 松 林 は単 純 な風 景 としての松 の林 ではなく 題 詞 にあるように 長 屋 王 の宅 で新 羅 の客 を送 る宴 とあるところからもわかるよ うに 松 は友 情 を象 徴 している 藤 原 宇 合 の 在 常 陸 贈 倭 判 官 留 在 京 併 序 ( 89) をあげ たが 芝 蘭 と 松 竹 がまるで寒 い冬 を乗 り越 えて枯 れずに相 変 わらず 青 々とした様 子 か ら節 義 に考 えてしまう恐 れがあるが これは 節 義 ではなく 次 の詩 句 をみると理 解 でき るように 友 情 を象 徴 している また 藤 原 宇 合 の 遊 吉 野 川 ( 92) は 芝 薫 蘭 蓀 が 冒 頭 に詠 まれるのは この詩 の主 題 を導 いているといえる 芝 は瑞 草 であり蘭 は仙 人 の草 であ り ここでは 隠 士 の精 神 が象 徴 されており 松 柏 と 桂 椿 には夕 有 情 のイメージが込 め られていて 大 納 言 中 臣 朝 臣 大 島 の 詠 弧 松 ( 12) をあげてみると 詩 意 は1-4句 までの 詩 句 をみると 丘 の上 の松 の一 樹 は緑 鮮 やかに 高 く秀 でた姿 は高 潔 である 根 は大 地 を がっしと抑 え 節 操 はひとり高 く天 を目 指 している として 松 の高 潔 さを詠 んでいるのが わかる 他 にも 孫 楚 高 貞 節 というところをみてもこの詩 における 松 のイメー ジが貞 節 であることが知 られる 大 神 高 市 麻 呂 の 従 駕 応 詔 ( 18) の場 合 一 つの松 を長 寿 のシンボルと見 たり 貞 節 の 比 喩 と見 たりする思 考 は 徹 頭 徹 尾 中 国 伝 来 のものであった ここで 松 は 貞 節 に喩 えられており また 守 麻 田 連 陽 春 の 和 藤 江 守 詠 裨 叡 山 先 之 考 之 旧 禪 処 柳 樹 之 作 ( 105) が ある この詩 においての 松 柏 は一 年 中 色 の変 らぬ常 緑 樹 であるので貞 節 の意 味 に詠 まれて いるのが察 せられよう 巨 勢 朝 臣 多 増 須 の 春 日 応 詔 ( 20) をみると ここで 松 は特 別 な意 味 を 持 っていたり あるいは 季 節 感 を表 わす景 物 として詠 まれているのではなくただの 風 景 として詠 まれている 紀 古 麻 呂 の 望 雪 ( 22) は 雪 と 柳 梅 松 清 風 などが取 り合 わせになっ て詠 まれ これは季 節 が冬 から春 へと移 り変 わっていく季 節 の変 化 を表 わしている また 雪 柳 松 は視 覚 を示 し 梅 は嗅 覚 を 清 風 は聴 覚 を表 わしている五 感 に富 んでいる詩 だといっていい したがって この詩 における 松 は自 然 の風 景 として詠 まれて いる 長 屋 王 の 初 春 於 作 宝 楼 置 酒 ( 69) には 松 烟 と 松 筠 であって これらの詩 語 は景 物 として詠 まれているだけで象 徴 性 はない 次 の詩 は藤 原 宇 合 の 秋 日 於 左 僕 射 長 屋 王 宅 宴 ( 90) という作 で 蘭 菊 松 が示 している内 容 は 秋 の美 しい景 物 であると 31) 注 9 の前 掲 書 p344

89 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 349 同 時 に 仙 居 を求 める隠 者 の象 徴 として詠 まれている 同 じく藤 原 麻 呂 の 過 神 納 言 墟 ( 9 5 ) には 松 と 竹 がともに詠 まれて春 の季 節 感 を漂 わせている ここで 松 と 竹 は 春 の景 物 として詠 まれている さらに 美 努 連 浄 麻 呂 の 春 日 応 詔 ( 24) は天 皇 の徳 を讃 え る詩 であることがさせられる 従 って この 詩 における 松 は特 別 なイメ ー ジを 持 っているのではなく 単 純 な風 景 として詠 まれている 刀 利 康 嗣 の 侍 宴 ( 35) をみると 松 は 天 子 天 皇 の高 徳 を讃 える詩 の素 材 として描 かれており 同 時 に風 景 として現 れている 同 じく 安 部 首 名 の 春 日 応 詔 ( 43) にも 天 皇 の高 徳 を讃 えている なお 巨 勢 朝 臣 多 増 須 の 春 日 応 詔 ( 19) には 松 風 と 鶯 の鳴 く声 は聴 覚 による感 覚 表 現 であると同 時 に 春 の到 来 を告 げる鳥 として詠 まれており いずれも天 子 賛 美 の素 材 と して詠 まれているところに特 徴 が見 られる 次 の藤 原 臣 史 の 遊 吉 野 ( 31) をみると 永 遠 の松 の枝 に吹 く風 は 自 然 の音 楽 を奏 でてい る こうした松 風 への関 心 は おそらく神 仙 の世 界 に聴 く音 楽 であり この世 の外 の音 楽 とし て楽 しまれたという意 味 があり 松 風 は神 仙 世 界 の音 楽 に喩 えられている また 田 辺 史 百 枝 の 春 苑 応 詔 ( 38) の 松 風 は 音 楽 を喩 える素 材 として描 かれている 同 じく 石 上 乙 麻 呂 の 秋 夜 閨 情 ( 118) も 相 聞 風 の詠 まれ方 によって詠 じられている ここでも 松 風 への関 心 が窺 われ 前 述 した如 く松 の枝 に吹 く風 は 自 然 の音 楽 を喩 え それは ま た神 仙 世 界 に聴 く音 楽 でもある 葛 井 連 広 成 の 奉 和 藤 政 佳 吉 野 之 作 ( 119) にも 松 風 が中 国 漢 詩 と密 接 に関 わっていながら 無 為 自 然 の音 楽 への関 心 を示 すのである すなわち 仙 境 の音 楽 理 想 郷 の音 楽 として喩 えられている < 參 考 文 獻 > 志 賀 重 昻 ( 1995) 日 本 風 景 論 岩 波 文 庫 斎 藤 正 二 ( 2002) 松 植 物 と日 本 文 化 八 坂 書 房 上 原 作 和 ( 2001) 懐 風 藻 の琴 ー 智 音 の故 事 と歌 語 松 風 の生 成 ー 懐 風 藻 研 究 第 7号 森 井 久 美 子 ( 2006) 松 の根 と永 遠 への願 いー 古 代 日 本 の詩 歌 を通 してー 万 葉 集 と東 アジア 1 万 葉 集 と東 アジア 研 究 会 編 小 島 憲 之 ( 昭 和 39) 懐 風 藻 文 華 秀 麗 集 本 朝 文 粋 日 本 古 典 文 学 大 系 岩 波 書 店 江 口 孝 夫 (2000 ) 懐 風 藻 講 談 社 文 庫 杉 本 行 夫 ( 昭 和 18) 懐 風 藻 弘 文 堂 書 房 沢 田 総 清 ( 昭 和 8) 懐 風 藻 註 釈 大 岡 山 書 店 < 要 旨 > AD3500 年 ごろから BC1500 ー 1700 年 ごろの 西 洋 美 術 文 化 が色 彩 の文 化 であったとすれば 同 時 期 に値 する東 アジア ( 韓 国 中 国 日 本 ) の美 術 をはじめ 文 学 などの 色 彩 は文 人 画 ( 水 墨 画 ) に線 描 に現 れているよう に墨 による 白 黒 の世 界 だといってよい さて 東 アジアにおける 文 化 様 式 を幾 つかの 用 語 で示 すと 花 鳥 風 月 雪 月 花 松 竹 梅 梅 蘭 菊 竹 に峻 別 できるだろう これらの 題 名 が使 われはじめた 時 期 は各 々 異 るが 描 かれる 線 や形 態 などはほとんどが 白 黒 の水 墨 ( 文 人 画 ) であることが 知 られる 絵 画 に対 して こ こでは 触 れずに 主 に東 アジアの 一 部 分 として 欠 かせることができない 日 本 古 代 詩 歌 の中 で 松 が如 何 に

90 350 동아시아 인문전통과 문화역학 現 れ どういうイメ ー ジをもって 詠 まれているのかについて 考 察 することによって 松 が日 本 文 化 のキー ワー ドとなっていく 根 幹 をさぐってみることにする 日 本 松 国 説 を唱 えた志 賀 重 昻 は 松 柏 科 植 物 の日 本 国 中 到 る処 に存 在 する 是 日 本 国 民 の気 象 を涵 養 するに 足 るもの 日 本 人 間 ゝ 桜 花 を以 て其 の性 情 を代 表 せしむ 桜 花 固 より美 にして佳 且 つ其 の早 く散 る所 転 た多 情 是 れ人 に憐 まれ惜 まれるゝ 所 なるも ( 中 略 ) 寧 ろ日 本 人 が性 情 の標 準 とな すべくんや 松 柏 科 植 物 は然 らず 独 り隆 冬 を経 て週 衰 せざるのみならず 矗 々 たる幹 は天 を衝 き 上 に数 千 均 の重 量 ある枝 葉 を負 担 しながら 孤 高 烈 風 を凌 ぎて扶 持 自 ら守 り 節 操 雋 邁 庸 々 他 植 物 に超 絶 するが上 に その態 度 を一 看 せば 幾 何 学 的 に加 ふるに美 術 的 を調 和 する所 誰 が品 望 の高 雅 なるを嘆 ぜざらんや と述 べているのを見 ると 松 が如 何 にして日 本 文 化 の根 幹 をなす象 徴 的 な美 的 存 在 であることが読 み取 れる 本 発 表 の研 究 方 法 は日 本 最 古 の漢 詩 集 である 懐 風 藻 ( 730) をテクストにして 通 時 的 研 究 方 法 をもって 考 察 し 懐 風 藻 における 松 の詠 まれ方 とその 美 意 識 とイメ ー ジの形 成 課 程 を明 白 にしたい 河 島 皇 子 の 山 斎 (3) の 松 と 桂 のように常 に変 わることのないものとしての 交 友 の約 束 する場 であるから友 情 を象 徴 していると思 われる 安 部 広 庭 の 秋 日 於 長 屋 王 宅 宴 新 羅 客 ( 71) の 松 林 は単 純 な風 景 としての松 の林 ではなく 題 詞 にあるように 長 屋 王 の宅 で新 羅 の客 を送 る宴 とあるところからもわかるように 松 は友 情 を象 徴 している 他 に 大 納 言 中 臣 朝 臣 大 島 の 詠 弧 松 ( 12) をみると 根 は大 地 をがっしと抑 え 節 操 はひと り高 く天 を目 指 している として 松 の高 潔 さを詠 んでいるのがわかる 他 にも 孫 楚 高 貞 節 というところをみてもこの詩 における 松 のイメー ジが貞 節 であることが知 られる ま た 田 辺 史 百 枝 の 春 苑 応 詔 ( 38) の 松 風 は 音 楽 を喩 える素 材 として描 かれてい る 同 じく 石 上 乙 麻 呂 の 秋 夜 閨 情 ( 118) は この詩 は相 聞 風 の詠 まれ方 によって詠 じら れている ここでも 松 風 への関 心 が窺 われ 前 述 した如 く松 の枝 に吹 く風 は 自 然 の音 楽 を喩 え それは また神 仙 世 界 に聴 く音 楽 でもある 葛 井 連 広 成 の 奉 和 藤 政 佳 吉 野 之 作 ( 119 ) にも 松 風 が中 国 漢 詩 と密 接 に関 わっていながら 無 為 自 然 の音 楽 への関 心 を示 すので ある すなわち 仙 境 の音 楽 理 想 郷 の音 楽 として喩 えられている こうした 松 に関 する イメージは古 代 中 国 漢 詩 風 と同 様 に 懐 風 藻 にも 松 は 友 情 貞 節 風 景 などのイメー ジが詠 まれ さらに 松 風 という詩 語 は音 楽 に喩 えられることが 知 られる < 摘 要 > 怀 风 藻 里 的 诗 词 松 的 意 象 研 究 关 于 它 的 美 意 识 和 象 征 性 韩 国 国 立 全 南 大 学 余 淳 宗 公 元 前 3500年 到 公 元 年 的 西 洋 美 术 可 以 说 是 一 个 色 彩 文 化, 而 同 时 期 的 东 亚 ( 韩 国 中 国 日 本 ) 的 美 术 文 学 等 的 色 彩 就 像 文 人 画 ( 水 墨 画 ) 的 线 描, 是 用 墨 水 勾 勒 的 黑 白 世 界 东 亚 的 文 化 样 式 也 可 以 用 花 鸟 风 月 雪 月 花 松 竹 梅 梅 竹 兰 菊 等 的 用 语 来 区 别 使 用 这 些 用 语 的 时 期 虽 不 同, 但 是 从 绘 画 里 的 线 描 和 形 态 可 知 大 多 数 是 属 于 水 墨 画 ( 文 人 画 ) 的 关 于 绘 画 暂 且 不

91 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 351 论 在 东 亚 文 化 中 松 是 必 不 可 缺 的 关 键 词 之 一, 本 次 发 表 通 过 分 析 诗 歌 里 表 现 的 松 以 及 它 的 意 象, 进 一 步 探 讨 它 成 为 日 本 文 化 关 键 词 的 过 程 提 出 日 本 松 国 说 的 志 贺 重 昂 这 样 说 到 : 日 本 国 到 处 都 是 松 柏 科 植 物, 它 培 养 日 本 人 的 性 情, 日 本 人 以 樱 花 比 喻 他 们 的 性 情, 樱 花 固 然 美 丽, 并 且 迅 速 凋 谢 之 处 益 加 多 情, 故 而 产 生 怜 惜 之 情 ( 中 略 ) 然 而 代 表 日 本 人 性 情 的 标 准, 远 不 及 松 柏 科 植 物 它 独 自 过 隆 冬 从 不 凋 谢 衰 落, 笔 直 的 树 干 一 直 衝 天 并 承 担 着 数 千 斤 重 的 枝 叶, 冒 着 烈 风 孤 高 的 守 候, 节 操 俊 迈, 超 绝 其 他 庸 庸 植 物, 一 看 它 的 气 节, 几 何 学 和 审 美 意 识 结 合, 谁 不 叹 高 尚 品 德 也 根 据 志 贺 的 论 说 可 以 这 样 理 解 : 松 作 为 日 本 文 化 的 基 础, 它 是 一 个 象 征 美 的 存 在 程 论 者 将 日 本 最 古 的 汉 诗 集 怀 风 藻 作 为 文 本, 以 历 时 研 究 方 法 阐 释 松 的 象 征 和 意 象 的 形 成 过 河 岛 皇 子 的 山 斎 ( 3 ) 中 的 松 和 桂 表 示 交 友 约 定 的 场 所, 故 而 象 征 友 情 安 部 广 庭 的 秋 日 於 长 屋 王 宅 宴 新 罗 客 ( 71 ) 里 出 现 的 松 林 不 单 指 一 般 自 然 风 景 的 松 林, 从 長 屋 王 宅 宴 新 羅 客 的 题 词 中 可 见 这 里 的 松 主 要 象 征 友 情 大 纳 言 中 臣 朝 臣 大 岛 在 咏 孤 松 里 咏 到 馀 根 堅 厚 地 贞 质 指 高 天, 在 这 里 松 象 征 着 节 操 田 边 史 百 枝 的 春 苑 应 诏 ( 38 ) 里 的 松 风 比 喻 大 自 然 的 音 乐 石 上 乙 麻 吕 在 秋 夜 闺 情 ( 118) 里 使 用 爱 情 赠 答 诗 的 表 现 手 法 在 这 里 也 能 看 出 作 者 对 松 风 的 关 心, 松 风 暗 喻 大 自 然 的 音 乐, 就 是 所 谓 神 仙 世 界 的 音 乐 葛 井 连 广 成 在 奉 和 藤 政 佳 吉 野 之 作 ( 119) 里 表 现 的 松 风 与 中 国 汉 诗 有 着 密 切 的 关 系, 也 象 征 着 无 为 自 然 的 音 乐, 也 就 是 说 仙 境 的 音 乐 即 桃 源 世 界 的 音 乐 如 上 所 述 怀 风 藻 里 的 诗 词 松 象 征 友 情, 贞 节, 风 景, 同 时 松 风 还 象 征 音 乐, 这 与 古 代 中 国 汉 诗 中 的 诗 词 松 的 意 象 是 一 致 的 < 요약> 懐 風 藻 에 보이는 松 의 이미지研 究 ー 그 美 意 識 과 象 徴 性 에 대해서ー 余 淳 宗 ( 韓 国 国 立 全 南 学 校 ) AD3500 年 경에서 BC1500 ー 1700 年 경의 西 洋 美 術 文 化 가 色 彩 의 文 化 엿다고 한다면, 同 時 期 에 해당하는 東 아시아 ( 韓 国 中 国 日 本 ) 의 美 術 을 비롯하여 文 学 등의 色 彩 는 文 人 画 ( 水 墨 画 ) 에 선명하게나타나 있듯이 墨 의한 白 黒 의 世 界 라하여도 과언이 아니다 그런데 東 아시아에있어서 文 化 様 式 을 몇가지 用 語 로 분류하자면 花 鳥 風 月 雪 月 花 松 竹 梅 梅 蘭 菊 竹 등으로 峻 別 할 수 있다 이들의 題 名 이 사 용되기 시작한 時 期 는 각각 다르지만, 묘사된 線 나 形 態 등은 거의가 白 黒 의 水 墨 ( 文 人 画 ) 인 것을 알 수 있다 絵 画 에대해서는 여기에서는 언급을 하지 않고, 주로 東 아시아의 一 部 分 으로서 빠드릴 수 없는 일 본의 고대시가 속에서 松 가 어떻게, 어떠한 이미지로 읊어지고 있는가에 대해서 고찰함으로써 松 가 日 本 文 化 의 키워드가 된 根 幹 을 밝혀보기로 한다 日 本 松 国 説 를 제창한 志 賀 重 昻 는 松 柏 科 植 物 의 日 本 国 中 이르는 곳에 存 在 한다 이것은 日 本 国 民 의 気 象 을 涵 養 하기에충분한 것 日 本 人 間 들은 桜 花 를 들어 그 성정을 대표하게 하였으며, 桜 花 固 으로부터 美 로써佳 또그빠리저버리는 점, 다정, 이것이 사람들에게 동정을 받고 아쉬워하는 점 등 ( 中 略 ) 오히려 日 本 人 이 性 情 의 標 準 이되 는 것이나 松 柏 科 植 物 은그렇지않다 혼자서 隆 冬 을보내고 週 衰 시키는 것 뿐만아니라 矗 한

92 352 동아시아 인문전통과 문화역학 幹 는 하늘을 찌르고 그 위에 数 千 均 의 重 量 있는 枝 葉 를 負 担 하면서 孤 高 烈 風 를 극복하고 扶 持 스스로 지키고 節 操 雋 邁 庸 々 他 植 物 에 超 絶 하하는 한편 그態 度 를 一 看 하면 幾 何 学 的 으 로 연결시키는 美 術 的 인 調 和 를 이룬 점 누가品 望 의 高 雅 함을 감탄하지 않으리요 라고언급 하는 것을 보면 松 가 어떻게 해서 日 本 文 化 의 根 幹 이루는 象 徴 的 인 美 的 存 在 인 것을 알 수 있다 한편 研 究 方 法 은 日 本 最 古 의 漢 詩 集 인 懐 風 藻 ( 730) 를 텍스트로하여 通 時 的 研 究 方 法 을 통해 考 察 하고 懐 風 藻 에 있어서 松 의표현방법과 그 미의식과 이미지의 형성과정을 명백히 하고자한 다 河 島 皇 子 의 山 斎 (3) 의 松 과 桂 와 같이 항상 변함없는 것으로서 交 友 의約 束 하 는 장소로서 友 情 을 象 徴 하고 있다고 생각 된다 安 部 広 庭 의 秋 日 於 長 屋 王 宅 宴 新 羅 客 ( 7 1 ) 의 松 林 는単 純 한 風 景 으로서의 松 林 이아니라 題 詞 에 있는 것처럼 長 屋 王 宅 에서 新 羅 客 과 송별하는宴 라는 점에서도 알 수 있듯이 松 는 友 情 을 象 徴 하고 있다 한편 大 納 言 中 臣 朝 臣 大 島 의 詠 弧 松 ( 12) 을 보자면 根 는 大 地 에단단히뿌리를내리고 있고 節 操 은 홀 로 높은 하늘을 향하고 있다 로서 松 의高 潔 함을 읊고 있음을 알 수 있다 또한, 孫 楚 高 貞 節 라는 시 귀절을 보더라도 이 詩 에 있어서 松 의 이미지가貞 節 인 것을 살치 할 수 있 다 또한 田 辺 史 百 枝 의 春 苑 応 詔 ( 38) 의 松 風 는 音 楽 을 비유하는 素 材 로서 묘사 되고 있다 그리고 石 上 乙 麻 呂 의 秋 夜 閨 情 ( 118) 은 이 詩 는 相 聞 風 의 표현에 의해 읊어 졌다 여기에서도 松 風 에 대한 関 心 이 엿보이고 前 述 한 바와 같이 松 의 가지에 부는 바 람은 自 然 의 音 楽 을 비유하고 그것은 또, 神 仙 世 界 에서 들을 법한 음악이다 葛 井 連 広 成 의 奉 和 藤 政 佳 吉 野 之 作 ( 119) 에도 松 風 가 中 国 漢 詩 와 密 接 하게 관계되어있으면서도 無 為 自 然 의 音 楽 에 대한 関 心 을 보이는 것이다 즉, 仙 境 의音 楽 理 想 郷 의 音 楽 으로서 비유되어 있 다 이라한 松 에 관한이미지는 古 代 中 国 漢 詩 風 와 같이 懐 風 藻 에도 松 는 友 情 貞 節 風 景 등의 이미지가 읊어 지고, 더 한층 松 風 라는 詩 語 는 音 楽 에 비유 되는 것으로 알려 져 있다

93 부부관계를 중심으로 비교해 본 한국의 < 나무꾼과 선녀>, 일본의 < 우의설화> 고려대학교 박사과정 한명심 가난하지만 착한 총각이 노루나 사슴의 도움을 받아 선녀의 날개옷을 감추고, 선녀와 결혼해 산다는 우리나라의 < 나무꾼과 선녀> 이야기는 세계적인 분포를 보이며, 특히 일본에서는 < 우 의설화> 로 알려져 왔다. 이 두 이야기는 남성이 우의를 벗고 목욕하는 여성을 발견하고 그 우의를 감춘다. 우의를 잃어버린 여성은 날아가지 못하고 남성과 결혼한다. 그러던 중 여성은 우의를 찾아 입고 하늘로 날아간다. 는 공통적인 줄거리에, 여러 가지 삽화들이 첨가되면서 각 각 다양한 변이 양상을 보여주게 된다. 본 발표에서는 부부관계를 중심으로 한국의 < 나무꾼과 선녀> 와 일본의 < 우의설화> 를 비교 해 보고자 한다. 이 두 이야기에서의 부부관계란 남녀 주인공의 지상에서의 결합과 헤어짐, 천 상에서의 결합과 헤어짐을 중심으로 한다. 그러므로 본 발표에서는 이 네 가지 관계양상을 중 심으로 논의를 전개하고자 한다. 1 나무꾼과 선녀 의 개요 ⑴ 선녀 승천형 ( 기본형) 가난한 총각이 홀어머니와 함께 산다. 나무꾼이 포수에 쫒기는 사슴을 구해준다. 사슴 의 보답으로 선녀와 결혼하는 방법을 알려준다. 나무꾼이 선녀의 옷을 숨긴다. 다른 선녀들은 하늘로 올라가고 혼자 남는다. 선녀를 데려와서 행복하게 산다. 사슴은 아이 셋( 넷, 다섯) 을 낳을 때 까지 날개옷을 주지 말라고 한다. 나무꾼은 선녀 의 애원에 아이 둘 ( 셋, 넷) 을 낳았을 때 옷을 준다. 선녀는 아이들을 데리고 승천하 고, 나무꾼은 좌절에 빠진다. ⑵ ⑶ ⑷ 나무꾼 승천형 나무꾼은 사슴의 도움을 받아 두레박을 타고 하늘에 올라가서 처자를 만나 행복하게 산다. 나무꾼 천상 시련 극복형 나무꾼은 천상에서 구박을 받는다. 장인과 장모, 처형들에게 여려 시험을 당한다. 선녀 와 쥐의 도움으로 시험을 통과하여 가족들과 하늘에서 행복하게 산다. 나무꾼 지상 회귀형 나무꾼은 가족이 그리워서 지상에 내려가고 싶어 한다. 선녀는 말에서 내리지 말라( 지 상의 음식을 먹지 말라) 는 금기를 준다. 나무꾼은 선녀가 내준 말을 타고 하강하여 어머니를 만난다. 나무꾼이 실수로 말에서 떨어진다. 천마는 승천하고, 원통한 나무꾼 은 닭( 뻐꾸기) 가 된다. ⑸ 동반 하강형 옥황상제가 지상에 내려가 살라고 한다. 선녀와 아이들이 함께 지상에 내려와 행복 하게 산다.

94 354 동아시아 인문전통과 문화역학 ( 배원룡, 나무꾼과 선녀설화 연구, 집문당, 1993 참조) 2 우의설화 의 개요 ⑴ 남자주인공은, 신의 계시에 의해, 도와준 동물에 의해, 우연히, 연못( 강 호수 바닷가 등) 에 천녀( 天 女 ) 가 내려와 목욕하는 것을 발견한다. ⑵ ⑶ 한 천녀의 옷을 훔치고, 집에 데려와 아내로 삼는다. 아이를 낳는다. 천녀는 스스로, 아이의 암시로, 남편의 부주의로 날개옷을 발견한다. ⑷ 천녀는 그 옷을 입고, 혼자 또는 아이를 데리고 하늘로 올라간다. ⑸ ⑹ ⑺ 남편은 천녀의 지시대로 줄 또는 외 등의 식물을 심어 그것을 타고 하늘로 올라간다. 천녀 가족의 여러 과제( 산 개간, 밭 경작, 콩 심기 등) 을 천녀의 도움으로 해결한다. 마지막 과제에 실패하고 천녀와 1 년에 한번(7월 7 일) 만나게 된다. ( 日 本 昔 話 通 観, 同 朋 舎 참조) 3 나무꾼과 선녀 와 우의설화 의 비교 - 부부관계를 중심으로- 결합의 방법 나무꾼과 선녀 당신하고 나하고 살면 이 옷을 주고 안 살면 안 줄란다. 그란께, 살란다 고 데 꼬 왔단 말이요. ( 선녀와 나무꾼, 한국구비문학대계 6-6, 쪽) 아 이런 참 깊은 산 중에서 울구 있느냐? 구 그러니께루, 아 그런 얘기를 죽 하믄 서, 내 옷을 못 봤느냐? 구. 아 난 이레 나무 저기 하러 왔다가 이렇게 참 가는 길이라. 구. 이렇게 인자 핑계를 댔어요. ( 닭이 높은데서 우는 이유, 한국구비문학대계 3-2, 쪽) 우의설화 어부가 소나무에 걸려 있는 날개옷을 줍는다. 그러자, 미녀가 나타나서 돌려주세요. 라 고 하지만, 돌려주지 않는다. 여자를 데리고 와서 부인으로 삼는다. 숯구이 남자가 일을 하고 있는데 여자가 지나가고, ( 埼 玉 天 人 女 房, 日 本 昔 話 通 観,190 쪽) 하늘의 날개옷을 나무에 걸어 넣고 목욕을 한다. 남자는 날개옷이 너무 아름다워서 훔치고 집에 간다. 여자는 목욕 후, 날 개옷이 없어 숯구이 집에 가서 묻는다. 남자가 모른다고 답하자, 여자는 아내로 해달라 고 말한다. 남자가 가난 때문에 거절하지만 아내가 된다. ( 島 根 天 人 女 房, 日 本 昔 話 通 観, 쪽) 남편의 승천 나무꾼과 선녀 나무꾼은 예전의 사슴을 만나게 되고, 사슴은 내년 칠월 보름달 기달라가지고, 아 가

95 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 355 서 은신허고 있다가 물질러 가는 두레가 내려올 것이니, 그때 두레속에서 들어가시 들 어앉으면, 네 니 마누래 니 아들들을 만날 것인게 내년 칠월 보름날 또 그렇게 해라 그걸 날 달라. 고 그래니까는 주거든. ( 나무꾼과 선녀, 한국구비문학대계 6-8, 쪽) 그래 이 눔을 갖다가시리 저의 문 앞에다가 심 었어. 근데 이 눔이 그저 메칠 내에 그저 나와설라무네 그냥 쑥쑥 자라더니 그냥 하늘 바소까지 하늘에 닿은 것처럼 그냥 자랐어. 그 남기. 그래 이 눔이 하루는 덮어놓고 그 남구엘 기어 올라갔어. 기어올라가니까 하늘이야. ( 뻐꾸기의 유래, 한국구비문학대계 1-3,68-72 쪽) 우의설화 천인은 날개옷 소매에 들어있는 나팔꽃 씨를 유물로서 두고, 남편에게 제가 보고 싶 으면 나팔꽃 덩굴을 타고 하늘로 오도록 전해 주세요. 라고 말하고 하늘로 올라간다. 어머니가 심자, 덩굴의 끝이 모를 정도로 성장한다. 남자가 돌아와 보니까 천인이 없어 어머니에게 묻자, 어머니가 사정을 설명하고, 나팔꽃 덩굴 이야기를 해서 천인 있는 곳 의 객실에 도착하자, 천인이 덩굴을 잘라서 돌아갈 수 없게 되었고 그대로 같이 산다. ( 富 山 七 夕 の 話, 日 本 昔 話 通 観, 쪽) 나무를 심어 둔다. 거기에 매일 좋은 술을 한 되씩 주면 하늘에 도달하니까, 그것을 타 고 오라고 말해놓고 아이를 데리고 승천한다. 남편은 그대로 하지만, 마지막 한 되를 주지 않고 오르니까 도달해 있지 않았고, 아들이 드리워 준 긴 천을 잡고 올라간다. ( 島 根 天 人 女 房, 日 本 昔 話 通 観,347 쪽) 재결합을 위한 조건과 남성의 금기 위반 나무꾼과 선녀 오늘 아침에 당신이 가 인사를 허러 갈 때 큰 황계 수탉이 돼가주구서는 지붕 꼭대기 가 있을꺼야. 그래 장인 왜 거기 올라가 있수? 이러구 절을 해라. 이거야. ( 선녀와 나무꾼, 한국구비문학대계 1-4,710 쪽) 얘! 내가 너를 위해설라무니 음석을 해 놓은 게 있다. 그리구 날마다 기둘렸다. 어서 들어오너라. 그러거든. 들어갔다가는 그럼 못간다. 구. 아 그러니깐 할 수 없이 어미 말에 못 이겨서 그만 말에 서 내렸거든. 말에서 내려서 박국을 먹었어. 박국을 끓였더 라. ( 나무꾼과 선녀, 한국구비문학대계 1-7, 쪽) 우의설화 장인한테서 8되의 밤을 8 반 밭에 심으라고 말하고, 다음날 그것을 한 알도 빠뜨리지 말 고 8 되들이 되에 담으라고 말하는데, 둘 다 처와 새의 원조 등으로 해결한다. 강 저편에 외가 있으니까 김매기를 하라고 말을 듣자, 처가 하나도 먹으면 안 된다 고 말하지만 한 개만 먹는다. 그러자 홍수가 되고 처가 7릴 7 일에 만나자고 외치는데, 남편은 7월 7 일에 만나자고 외친다. 그래서 칠석님은 년 1 회, 7월 7일에만 만날 수 있 다. ( 島 根 天 人 女 房, 日 本 昔 話 通 観,348 쪽) 천녀 집은 백성이었다. 남자가 장모에게, 七 里 四 方 의 밭을 갈아 오이를 심으라고 말을

96 356 동아시아 인문전통과 문화역학 듣고, 천녀의 충고로 과제를 완수하자, 오이가 가득 열린다. 장모가 절대로 오이를 먹지마라 고 하지만, 참을 수 없어 오이를 갉아 먹자, 번개가 치고 홍수가 나서, 남자는 떠내려가 칠석이 된다. ( 秋 田 七 夕 になった 親 父, 日 本 昔 話 通 観,279 쪽) 천인의 아버지는 외밭을 3년 3 개월 지키면 만나게 해준다. 고 한다. 남자가 3년 3개 월을 외밭을 돌보자 외가 열린다. 아버지가 칭찬하며 먹으라고 해서, 하나를 자르자 외 에서 물이 나와 떠내려가고, 천인과 일 년에 한번 만나게 된다. ( 徳 島 うりの 水, 日 本 昔 話 通 観,117 쪽) 3-1 지상에서의 결합과 헤어짐 1) 결합의 방법 강압에 의한 결합과 속임수에 의한 결합이 있는데, 에 비해 많은 편이다. 2) 헤어짐의 과정 일본은 속임수에 의한 결합이 한국 한국의 선녀는 날개옷을 입고 승천할 때 아이를 전부 데리고 간다. 남은 남편에게 승 천 방법을 가르쳐 주지 않는다. 사슴 등의 원조로 승천하게 된다. 일본의 천녀는 혼자 승천 하는 경우와 아이를 데리고 승천하는 경우가 있다. 승천할 때 남은 가족에게 승천 방법 가르쳐 주는 경우가 많다. 천녀는 지상에서는 같이 살 수 는 없지만, 천상으로 올라온다면 같이 살 수도 있는 마음을 나타내고 있다. 남편은 천 녀의 가르침을 받아 승천한다. 3-2 천상에서의 결합과 헤어짐 1) 재결합의 조건: 천상에서의 사위 자격시험. 한국의 나무꾼은 하늘에서의 과제를 선녀와 동물의 도움으로 해결한다. 일본의 천녀의 남편은 천녀와 동물의 도움으로 과제를 해결한다. 천녀의 형제 이야기 는 없다. 2) 헤어짐의 과정: 혼자 선택해야하는 문제. 한국의 나무꾼은 천상의 과제를 합격한 후, 지상의 가족이 보고 싶어 지상으로 내려 오 게 되고, 그 때 금기를 부여받는다. 나무꾼은 금기 불이행으로 인해 지상에 남게 된다. 다. 일본의 천녀의 남편은 마지막 과제인 외( 오이) 관련 금기 불이행으로 칠석 전설이 된 이상의 비교를 통해볼 때 < 나무꾼과 선녀> 에서는 선녀가 천상에서의 자신의 삶을 중요시하 고 있어 지상을 그리워하는 나무꾼과는 결국 헤어질 수밖에 없다. 그러나 < 우의 설화> 의 천 녀는 천상에서의 삶을 중요시하고는 있지만, < 나무꾼과 선녀> 의 선녀보다는 부부관계를 지속 시키려는 데 더욱 적극적임을 알 수 있다. 또 부부관계가 지속되지 못한 이유도 천상에서의 남 편의 금기위반에서 온 것이다. 즉 남편의 부부관계를 지속시키려고 하는 의지가 부족했기 때문 이다.

97 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 357 향후 발표자는 이 두 이야기가 왜 이러한 변이 양상을 보이게 되었는지, 그 요인을 분석해 봄으로써 한국의 < 나무꾼과 선녀> 와 일본의 < 우의 설화> 의 고유한 특징을 밝혀내고자 한다. < 摘 要 > 以 夫 妻 关 系 为 中 心 比 较 韩 国 的 砍 柴 郎 与 仙 女 与 日 本 的 羽 翼 說 话 高 丽 大 学 博 士 课 程 韓 明 心 讲 述 一 个 虽 然 贫 穷, 却 很 善 良 的 青 年, 受 到 獐 或 者 鹿 的 帮 助 偷 藏 仙 女 的 衣 服, 与 仙 女 成 亲 生 活 的 我 国 故 事 砍 柴 郎 与 仙 女 广 布 世 界 各 国, 尤 其 在 日 本 以 羽 翼 說 话 广 为 人 知 这 两 个 故 事 都 有 男 子 发 现 脱 了 羽 翼 洗 澡 的 女 子, 将 其 羽 翼 偷 藏 丢 了 羽 翼 的 女 子 因 为 飞 不 了 留 下 来 与 男 子 结 婚 之 后 女 子 找 到 羽 翼 飞 回 天 上 这 段 相 同 的 故 事 情 节, 而 又 各 自 添 加 了 许 多 插 图 因 此 有 多 种 多 样 的 的 变 化 在 本 论 文 中 要 以 夫 妻 关 系 为 中 心 对 韩 国 的 砍 柴 郎 与 仙 女 和 日 本 的 羽 翼 說 话 进 行 比 较 研 究 在 这 两 个 故 事 当 中 的 夫 妻 关 系 就 是 男 女 主 人 公 在 地 上 结 合 与 分 离, 上 天 结 合 与 分 离 为 中 心 所 以 本 文 以 四 种 情 况 为 中 心 展 开 论 述 1. 地 上 的 结 合 与 分 离 1) 结 合 的 方 法 有 因 为 强 压 而 结 合 和 受 骗 而 结 合 两 种, 而 在 日 本 受 骗 结 合 的 情 况 比 韩 国 多 一 些 2) 分 离 的 过 程 韩 国 的 仙 女 穿 着 翅 膀 衣 服 升 天 的 时 候 将 所 有 的 孩 子 全 部 带 走 并 且 不 告 诉 丈 夫 升 天 方 法 所 以 丈 夫 之 后 要 接 受 鹿 等 的 帮 助 才 能 够 升 天 日 本 的 仙 女 有 自 己 升 天 的 时 候, 也 有 带 着 孩 子 升 天 的 时 候 升 天 的 时 候 告 诉 家 人 升 天 办 法 的 居 多 仙 女 心 中 认 为 如 果 在 地 上 无 法 一 起 生 活, 但 是 到 了 天 上 可 以 一 起 生 活, 丈 夫 按 照 仙 女 教 的 方 法 升 天 2. 天 上 的 结 合 与 分 离 1) 再 次 结 合 的 条 件 : 在 天 上 的 招 婿 资 格 考 试 韩 国 的 砍 柴 郎 通 过 仙 女 和 动 物 的 帮 助 完 成 考 题 日 本 仙 女 的 丈 夫 通 过 仙 女 和 动 物 的 帮 助 完 成 考 题 并 没 有 仙 女 兄 弟 的 故 事

98 358 동아시아 인문전통과 문화역학 2) 分 离 的 过 程 : 应 该 自 己 选 择 的 问 题 韩 国 的 砍 柴 郎 在 通 过 天 上 的 考 试 之 后, 因 为 思 念 地 上 的 家 人 回 到 地 上, 因 此 犯 了 禁 忌 而 留 在 地 上 日 本 仙 女 的 丈 夫 因 为 答 最 后 一 道 题 的 时 候, 犯 了 不 可 以 提 瓜 ( 黄 瓜 ) 的 禁 忌, 之 后 成 为 七 夕 传 说 今 后 发 表 者 会 对 这 两 个 故 事 有 这 样 不 同 变 化 的 原 因 进 行 分 析, 并 对 韩 国 砍 柴 郎 与 仙 女 和 日 本 羽 翼 說 话 固 有 的 特 征 进 行 研 究 < 要 旨 > 韓 国 の < 樵 と仙 女 > 日 本 の < 羽 衣 説 話 > 夫 婦 関 係 を中 心 に 高 麗 大 学 博 士 課 程 韓 明 心 貧 しいが心 優 しい未 婚 の男 性 が鹿 の助 けで仙 女 の衣 を隠 し仙 女 と結 婚 したという韓 国 の< 樵 と仙 女 > の話 は世 界 的 な広 がりをもつ とくに日 本 では < 羽 衣 説 話 > として知 られている 韓 国 と日 本 のこれらの話 は 男 性 が羽 衣 を脱 いで水 浴 している女 性 を発 見 しその羽 衣 を隠 す 羽 衣 をな くした女 性 は飛 ぶことができず男 性 と結 婚 する そのうちに女 性 は羽 衣 を発 見 し天 に 昇 ってい く という内 容 を共 有 し いろいろな挿 話 が加 えられ 各 々 多 様 な様 相 をみせてくれる 本 発 表 では 韓 国 の < 樵 と仙 女 > と日 本 の < 羽 衣 説 話 > とを夫 婦 関 係 を中 心 に比 較 を試 みる これら二 つの話 において夫 婦 関 係 とは 男 女 主 人 公 の 地 上 においての結 合 と別 れ 天 上 におい ての結 合 と別 れ という側 面 からうかがわれると考 えられる そこで これらの関 係 様 相 を中 心 に論 を進 めていくことにする 1. 地 上 においての結 合 と別 れ 1) 結 合 の方 法 強 引 に よ る 結 合 と 騙 し に よ る 結 合 が あ る が 日 本 は 騙 し に よ る 結 合 の 方 が 韓 国 に 比 べ て多 い 2) 別 れの過 程 韓 国 の仙 女 は羽 衣 を着 て昇 天 するとき子 供 を連 れていくが 残 った夫 には昇 天 の方 法 を 教 え な い 鹿 な ど の 援 助 に よ っ て 昇 天 す る 日 本 の 天 女 は 一 人 で ま た は 子 を 連 れ て 昇 天 する 残 った家 族 には昇 天 の方 法 を教 える場 合 が多 い 天 女 は地 上 ではいっしょに暮 すこ とはできないが 天 上 でならいっしょに暮 すことができることを表 している 夫 は天 女 の指 示 通 りにして昇 天 する

99 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 天 上 においての結 合 と別 れ 1) 再 結 合 の条 件 : 天 上 においての婿 としての資 格 試 験 韓 国 の樵 は天 上 で与 えられた課 題 を仙 女 と動 物 の助 けで解 決 する 日 本 の天 女 の夫 は天 女 と動 物 の助 けで解 決 する 天 女 の兄 弟 の話 は出 ない 2) 別 れの過 程 : 一 人 で選 択 する問 題 韓 国 の樵 は天 上 で与 えられた課 題 に合 格 した後 地 上 の家 族 に会 いたくなって 地 上 に降 り てくることになり そのとき禁 忌 を与 えられる 樵 は禁 忌 の不 履 行 により地 上 におかれ る 日 本 の夫 は最 後 の課 題 である瓜 の関 連 の禁 忌 の不 履 行 により 七 夕 伝 説 になる 今 後 発 表 者 は両 国 の話 がみせてくれる変 異 様 相 について その要 因 を分 析 することによ り 韓 国 の < 樵 と仙 女 > と日 本 の < 羽 衣 説 話 > のもつ固 有 の特 徴 を明 らかにしようとする

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101 渤 海 使 節 と 三 勅 撰 漢 詩 文 集 - 王 孝 廉 釈 仁 貞 と 文 華 秀 麗 集 とを 中 心 に- < 要 旨 > 日 本 國 學 院 大 學 波 戸 岡 旭 序 言 渤 海 国 は 使 節 の 大 使 を 第 六 回 目 ( 西 暦 七 六 二 年 )の 時 から 従 来 の 武 官 をやめて 文 官 から 任 命 す ることとし その 目 的 を 当 初 の 軍 事 的 なものから 文 物 の 交 易 を 主 とするものへと 移 行 させていった 日 本 国 側 は 国 家 観 としても また 政 治 外 交 上 においても 渤 海 国 を 日 本 の 蕃 国 と 位 置 づけてい たが しかし 両 国 の 使 節 たちの 往 来 は 政 治 的 外 交 のみでなく 文 物 併 せたさまざまな 文 化 的 交 流 が 盛 んに 行 われたことであった 弘 仁 元 年 ( 八 一 〇 ) 嵯 峨 天 皇 の 即 位 の 後 は 文 運 隆 盛 の 時 を 迎 え 天 皇 を 中 心 とした 宮 廷 漢 詩 壇 が 形 成 されて 活 発 な 文 学 活 動 があった その 成 果 の 一 つとして 凌 雲 集 文 華 秀 麗 集 経 国 集 が 相 次 いで 編 纂 されたのであったが これらの 勅 撰 詩 文 集 は いわゆる 文 章 経 国 的 文 学 観 に 基 づくものであり 当 時 の 宮 中 においては 漢 詩 文 の 政 治 的 役 割 はきわめて 大 きいものがあったこと が 知 られる なかでも 渤 海 使 節 とわが 国 の 接 待 役 の 官 人 との 間 の 詩 の 応 酬 は 数 多 くなされ 時 に よっては 両 国 それぞれの 国 威 に 関 わるまでの 役 割 を 果 たしたこともあった その 渤 海 使 節 との 応 酬 詩 の 多 くは 今 日 散 逸 してしまったが わずかに 嵯 峨 淳 和 朝 の 三 勅 撰 漢 詩 文 集 都 氏 文 集 田 氏 家 集 菅 家 文 草 などに 渤 海 関 連 詩 が 七 十 首 余 り 現 存 する なかでも 文 華 秀 麗 集 には 日 本 側 の 詩 のほか 第 十 七 回 大 使 王 孝 廉 副 使 釈 仁 貞 の 詩 が 掲 載 されているが この 文 華 秀 麗 集 は 序 にも 記 されているとおり 凌 雲 集 を 超 える 精 粋 の 詩 集 という 自 負 のもとに 編 纂 されたものであった 本 稿 は その 詩 集 に 載 る 王 孝 廉 釈 仁 貞 の 作 品 について 考 察 し 併 せて 彼 らの 詩 が 掲 載 された 所 以 について 論 及 したい それは 彼 らの 客 死 という 悲 運 に 同 情 してとか かつての 遣 唐 使 や 空 海 が 王 孝 廉 をよく 知 っていたから とかいう 理 由 だけではなかったのである 二 渤 海 使 との 詩 の 応 酬 の 実 態 は どのようであったか 現 存 するものはさして 多 くはない 第 四 次 ( 天 平 宝 字 二 年 七 五 八 ) 副 使 楊 泰 師 の 夜 聴 擣 衣 奉 和 紀 朝 臣 詠 雪 詩 二 首 が 経 国 集 に 載 るのが 最 初 であり その 後 は 第 十 六 次 ( 弘 仁 一 年 八 一 〇 )の 渤 海 使 節 に 対 する 大 伴 氏 上 の 渤 海 入 朝 一 首 が 凌 雲 集 に 収 載 されているのみである ところが 弘 仁 五 年 八 一 四 の 第 十 七 次 渤 海 大 使 王 孝 廉 の 時 は 漢 詩 の 応 酬 が 活 発 に 行 われ それらの 秀 作 が 文 華 秀 麗 集 に 収 載 されている その 内 訳 は (16) 奉 勅 陪 内 宴 詩 王 孝 廉 (18) 春 日 対 雨 探 得 情 字 王 孝 廉 (39) 在 辺 亭 賦 得 山 花 戯 寄 両 箇 領 客 使 併 滋 三 王 孝 廉 (40) 和 坂 領 客 対 月 思 郷 見 贈 之 作 王 孝 廉

102 362 동아시아 인문전통과 문화역학 (41) 従 出 雲 州 書 情 寄 両 箇 勅 使 王 孝 廉 (17) 七 日 禁 中 陪 宴 詩 釈 仁 貞 (24) 春 日 餞 野 柱 史 奉 使 存 問 渤 海 客 巨 勢 識 人 (31) 書 懐 呈 王 中 書 仲 雄 王 (35) 秋 朝 聴 鴈 寄 渤 海 入 朝 高 判 官 釈 録 事 坂 上 今 雄 (36) 和 渤 海 大 使 見 寄 之 作 坂 上 今 雄 (37) 春 夜 宿 鴻 臚 簡 渤 海 入 朝 王 大 使 滋 野 貞 主 (38) 和 渤 海 入 覲 副 使 公 賜 対 竜 顔 之 作 桑 原 腹 赤 である 文 華 秀 麗 集 は 百 四 十 八 首 の 詩 が 収 載 されているが その 中 渤 海 関 連 詩 が 十 二 首 あり 宮 廷 詩 壇 における 評 価 が 高 かったことを 意 味 するであろう 渤 海 使 節 は 類 聚 国 史 には 大 使 王 孝 廉 副 使 高 景 秀 判 官 高 英 善 王 昇 基 録 事 釈 仁 貞 鳥 賢 偲 訳 語 李 俊 雄 の 名 が 載 るが みな 一 流 の 文 人 であった 渤 海 に 対 する 蕃 国 意 識 は 藤 原 仲 麻 呂 碑 にまっかつこくとあり 強 く 意 識 された 国 境 意 識 があ った 渤 海 は 長 は の 収 載 者 は 二 十 六 人 その 収 載 嵯 峨 天 皇 三 十 四 首 巨 勢 識 人 二 十 首 仲 雄 王 十 三 首 桑 原 腹 赤 十 首 淳 和 天 皇 八 首 小 野 峯 守 八 首 菅 原 清 公 七 首 藤 原 冬 嗣 六 首 朝 野 鹿 取 六 首 滋 野 貞 主 六 首 王 孝 廉 五 首 詩 才 を 愛 で 厚 遇 を 受 けている 良 岑 安 世 四 首 経 国 集 楊 泰 師 二 首 嵯 峨 天 皇 一 首 滋 野 貞 主 二 首 安 倍 吉 人 島 田 清 田 一 首 百 四 十 三 首 中 十 二 首 王 孝 廉 の 作 は 五 首 宴 集 三 首 餞 別 一 首 贈 答 八 首 奉 勅 陪 内 宴 詩 勅 を 奉 じて 内 宴 に 陪 る 詩 海 国 来 朝 自 遠 方 海 国 来 朝 す 遠 方 自 り 百 年 一 酔 謁 天 裳 百 年 一 酔 天 裳 に 謁 す 日 宮 座 外 何 攸 見 日 宮 座 外 何 の 見 る 攸 ぞ 五 色 雲 飛 万 歳 光 五 色 雲 飛 び 万 歳 の 光 七 日 禁 中 陪 宴 詩 七 日 禁 中 にて 宴 に 陪 る 詩 釈 仁 貞 入 朝 貴 国 慙 下 客 貴 国 に 入 朝 して 下 客 たるを 慙 づ

103 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 363 七 日 承 恩 作 上 賓 更 見 鳳 声 無 妓 態 風 流 変 動 一 国 春 七 日 恩 を 承 けて 上 賓 と 作 る 更 に 見 る 鳳 声 無 妓 の 態 風 流 変 動 す 一 国 の 春 王 孝 廉 春 日 対 雨 探 得 情 字 春 日 雨 に 対 す 探 りて 情 の 字 を 得 たり 主 人 開 宴 在 辺 廳 主 人 宴 を 開 きて 辺 廳 に 在 り 客 酔 如 泥 等 上 京 客 酔 ふこと 泥 の 如 く 上 京 に 等 し 疑 是 雨 師 知 聖 意 疑 うらくは 是 れ 雨 師 聖 意 を 知 りて 甘 滋 芳 潤 灑 羈 情 甘 滋 芳 潤 羈 情 を 灑 ぐかと 王 孝 廉 和 坂 領 客 対 月 思 郷 見 贈 之 作 坂 領 客 が 月 に 対 ひて 郷 を 思 ひ 贈 られし 作 に 和 す 寂 寂 朱 明 夜 寂 寂 たる 朱 明 の 夜 団 団 白 月 輪 団 団 たる 白 月 の 輪 幾 山 明 影 徹 幾 山 明 影 徹 り 万 象 水 天 新 万 象 水 天 新 たし 棄 妾 看 生 悵 棄 妾 看 て 悵 を 生 じ 羈 情 対 動 神 羈 情 対 ひて 神 を 動 かす 誰 言 千 里 隔 誰 か 言 はん 千 里 隔 つと 能 照 両 郷 人 能 く 照 らす 両 郷 の 人 を 嵯 峨 天 皇 の 時 代 彼 我 の 意 識 を 越 えて < 摘 要 > 渤 海 使 节 和 敕 撰 诗 文 集 王 孝 廉 释 仁 贞 和 文 华 秀 丽 集 为 中 心 日 本 国 学 院 大 学 波 户 冈 旭 渤 海 国 派 使 节 到 日 本, 从 第 六 次 (762 年 ) 派 遣 开 始 担 任 大 使 由 文 官 代 替 了 武 官, 渤 海 国 将 目 的 放 在 交 易 为 主 的 交 流, 逐 渐 取 代 了 当 初 的 军 事 交 流 从 政 治 上, 日 本 国 将 渤 海 国 视 为 日 本 的 藩 国, 可 是 从 两 国 的 使 节 来 往 来 看, 两 国 不 但 进 行 政 治 外 交 活 动, 而 且 同 时 文 物 交 流, 其 他 文 化 交 流 也 非 常 频 繁 尤 其 是 弘 仁 元 年 (810), 嵯 峨 天 皇 即 位 后 迎 来 了 文 运 昌 盛 的 时 代, 在 宫 廷 设 立 了 以 天 皇 为 中 心 的 诗 坛, 进 行 活 跃 的 文 学 活 动 并 相 继 编 撰 了 凌 云 集 文 华 秀 丽 集 经 国 集, 这 些 都 是 当 时 的 成 果 之 一 这 些 敕 撰 诗 文 集 以 文 章 经 国 的 文 学 思 想 作 为 基 本 理 念, 可 见 在 当 时 的 宫 廷 里 汉 诗 文 的 政 治 作 用 是 非 常 大 的 渤 海 使 节 和 接 待 使 节 的 日 本 官 员 交 流 了 很 多 应 酬 诗, 有 时 这 些 诗 文 也 会 影 响 到 两 国 的 国 威 和 渤 海 使 节 交 流 的 应 酬 诗 如 今 大 部 分 已 经 失 传, 在 嵯 峨 淳 和 时 代 的 三 部 敕 撰 汉 诗 文 集 和 都 氏 文 集 田 氏 文 集 菅 家 文 草 等 诗 集 里, 能 找 到 七 十 几 首 关 于 渤 海 的 诗

104 364 동아시아 인문전통과 문화역학 其 中 文 华 秀 丽 集, 除 日 本 人 的 作 品 以 外 还 收 录 了 第 十 七 次 使 节 团 的 大 使 王 孝 廉 和 副 使 释 仁 贞 的 诗 文 华 秀 丽 集 就 像 序 文 中 所 记 的 那 样, 它 比 凌 云 集 更 精 湛 以 精 华 诗 集 自 负 的 信 念 下 编 撰 的 本 次 发 表 主 要 对 收 录 在 文 华 秀 丽 集 的 王 孝 廉 和 释 仁 贞 的 作 品 作 考 察, 同 时 探 讨 该 诗 集 收 录 这 两 人 作 品 的 缘 由 有 人 认 为 这 是 因 为 同 情 他 们 客 死 的 命 运, 或 者 之 前 的 遣 唐 使 或 空 海 熟 知 王 孝 廉 等 作 为 理 由, 但 论 者 认 为 可 能 还 有 其 他 缘 故 <요약> 渤 海 使 節 과 三 勅 撰 漢 詩 文 集 王 孝 廉 釈 仁 貞 과 文 華 秀 麗 集 을 중심으로 日 本 國 學 院 大 學 波 戸 岡 旭 발해국은 사절 大 使 를 제 6 차 (762 년)부터 무관으로부터 문관을 임명하여 당초의 군사적 목 적으로부터 교역을 중심으로 하는데 이행한 것이다. 일본측은 정치적 측면에서 발해국을 일본의 蕃 国 으로 여기고 있었지만, 양국의 사절의 왕래 는 정치적 외교뿐만아니라 문물을 비롯하여 다양한 형태로 문화적 교류가 빈번했었다. 특히 弘 仁 元 年 (810) 嵯 峨 天 皇 이 즉위한 후에는 문운이 융성하고 천황을 중심으로 한 궁전 시단이 형성되어 문학 활동이 널리 행하였다. 그 성과의 하나로 凌 雲 集 文 華 秀 麗 集 経 国 集 이 연달아 편찬된 것이다. 이러한 칙찬시문집은 文 章 経 国 적인 문학관을 토대로 편찬되어, 이로부터 당시 궁중에 한시문의 정치적 역할이 아주 컸다는 것을 알 수 있다. 그리고 당시 발 해사절이 일본의 접대역을 담당하는 관인들과 주고받은 시는 수없이 많았고, 때로는 양국의 국위에 관련된 역할을 할 때도 있었다. 발해사절과 주고받은 응수시는 오늘날 거의 유실되어 嵯 峨 淳 和 시대의 三 勅 撰 漢 詩 文 集 都 氏 文 集 田 氏 家 集 菅 家 文 草 등의 문헌에 발해와 관련된 시가 약 70 여수 현존하고 있다. 그중에도 文 華 秀 麗 集 에는 일본 측의 시외에 제 17 차 大 使 王 孝 廉 副 使 釈 仁 貞 의시가 기 재되어 있다. 文 華 秀 麗 集 는 서문에서 논한바와 갈이 凌 雲 集 를 능가한 시집의 자부심을 갖고 편찬한 것이었다. 精 粋 로서 본 발표는 이 시집에 실린 王 孝 廉 釈 仁 貞 두 시인의 작품에 대해 고찰하고, 그리고 이들의 시가 시집에 게재된 연유에 대해 언급하고자 한다. 이것은 이들이 객사하여 비참한 운명에 동 정했기 때문이라든가, 혹은 그전의 견당사나 空 海 가 王 孝 廉 을 잘 알고있기 때문이다라는 이유 뿐만이 아니기 때문이다.

105 < 廣 寒 樓 記 > 의 김성탄 極 微 論 수용 양상 : 개작의식의 반영과 관련하여 고려대학교 대학원 국어국문학과 한문학전공 박사과정 송호빈( 宋 好 彬 ) 1. 머리말 2. < 광한루기 > 의 체제와 협비 3. 極 微 論 의 원용 : 讀 法 4. 極 微 論 의 구현 : 夾 批 5. 맺음말 차례 1. 머리말 < 廣 寒 樓 記 > 는 柳 振 漢 의 < 春 香 歌 >, 尹 達 善 의 < 廣 寒 樓 樂 府 >, 睦 泰 林 의 < 春 香 新 說 >, 呂 圭 亨 < 漢 文 演 本 春 香 傳 > 등과 함께 한문본 春 香 傳 계열 작품 중 하나이다. 작자 편찬자 평비자가 누구인지는 분명치 않다. 시대는 대체로 19 세기로 본다. 1) < 광한루기 > 에 대한 연구사와 여러 가지 쟁점의 대략은 기존의 논문2)에 정리되어 있으므로 생략한다. 이 작품의 특징은 첫째 판소리 또는 국문소설을 한문으로 번역하였으되 축자 번역에 그치지 않고 작품을 전면 적으로 개작하였다는 점, 둘째 金 聖 嘆 의 評 批 특히 < 第 六 才 子 書 西 廂 記 >( 이하 < 서상기> 로 약칭의 ) 영향을 받아 다양한 형태의 평비를 갖추었다는 점에 있다. 따라서 < 광한루기 > 에 대한 연구는 개작 및 평비의 양상 을 살펴보는 데 주안점을 둘 수밖에 없고 판소리 또는 국문소설로서의 < 춘향전> 과 < 서상기 > 를 의식하지 않을 수 없다. 권도경이 < 광한루기 > 의 연구사를 소설비평의 측면에서 주목한 연구와 비교문학적 연구로 나 눈 것에도 이를 볼 수 있다. < 광한루기 > 는 평비의 측면에서 있어 < 서상기> 를 전면적으로 수용하고 있다. 따라서 < 광한루기 > 가 < 서상기 > 평비의 어떤 내용을 어떻게 수용하고 있는가를 검토하는 일은 < 광한루기 > 평비의 형성과정과 그 속에 담겨 있는 비평의식을 확인하는 데 핵심적인 작업이다. 그런데 지금까지 < 광한루기 > 와 < 서상기> 의 관련성을 논한 기존의 연구에서 부족한 점은 다음과 같다. 첫째, 평비에 대한 논의가 敍 引 讀 法 回 ( 前 後 ) 評 에 집중되어 있다. 夾 批 등의 중간비평문이하 ( 협비로 통일에 ) 대한 검토가 부족하다. 따라서 자연히 敍 引 讀 法 回 評 의 비평의식과 협비와의 관계 즉 협비 이외의 평비에서 비교적 자세히 논술된 비평의식이 협비에 어떻게 반영되는가에 대한 고찰도 소홀해졌다. 다시 말해 지금까지의 연구는 협 비를 다른 평비와 분리시켜 별도로 논하였다. 둘째, 연구자들은 그 안에서 거의 같은 자료를 가지고 유사한 논리를 반복하고 있으며 특히 < 광한루기 > 의 작자 또는 평자가 < 서상기> 평비의 어떤 부분을 어떻게 모방 또는 변형하여 수용하고 있는가 등의 구체적인 양상을 지적하는 데 소홀하였다. 2. < 광한루기> 의 체제와 협비 1) 정하영, 광한루기 연구, 춘향전의 탐구, 집문당, ) 권도경, < 광한루기 > 연구의 쟁점과 나아갈 방향의 새로운 모색, 열상고전연구 18 집, 열상고전연구회,

106 366 동아시아 인문전통과 문화역학 < 광한루기 > 평비에 대한 연구에서 협비를 언급한 기존의 연구는 다음과 같다. 김풍기는 < 광한루기 > 의 평비는 < 서상기 > 평비의 체제 형식 내용을 수용하는 동시에 < 서상기> 와의 차별성을 강조했다고 하며, 충실한 해설을 통해 예술적 감동을 공유하는 기능을 하는 평비의 한 예로 협비를 들었다. 3) 정하영은 각 평 비의 기능을 개괄하면서 협비를, 본문의 구절을 풀이하거나 출처를 밝히는 경우, 본문의 서술을 부연하는 경 우, 국문본과의 차이를 대비한 경우, 본문의 내용을 풍자하거나 비판하는 경우, 본문의 내용에 대해 맞장구 를 치는 경우로 분류하였다. 4) 한매는 < 광한루기 > 敍 가 김성탄의 논리를 수용하여 창작과 비평의 동기를 밝 힌 점, 讀 法 이나 回 評 등을 통해 淫 書 論 을 반박한 점, 평비에서 중심인물의 강조하는 동시에 다양한 인물형 상화에 주력한 점, 구성 및 표현기법을 논한 점, 그림 음악 여행 군사 등 다양한 분야를 통한 비평 수법 을 거론한 점을 언급하였다. 그리고 < 광한루기 > 비평의 특색으로 비평자가 협비를 통하여 부정적인 인물을 신랄하게 풍자하고 야유한다고 하였다. 5) 김경미는, 협비가 다양한 양상을 보이며 적극적으로 작품을 비평하 였고 작중 인물의 행동에 공감을 표시하기도 하고 작품의 내용을 설명하기도 하며, 작품의 전개나 인물의 행동에 대해 구체적인 평을 가하는 것이라고 하였다. 6) 정선희는 < 광한루기 > 의 협비에 대해 첫째 < 광한루 기> 가 < 서상기 > 에 비해 분량이 현저히 줄었으며 둘째, 서사전개상 독자들이 이해하기 힘들 것 같은 부분 을 보완 설명하거나 주인공의 속마음을 알려 주는 경우도 있고 셋째, 복받친 감정을 보이기도 한다고 하였 다. 7) < 광한루기 > 에서 평비 속에서 협비가 갖는 물리적 비중에 비해 김풍기 정하영 한매 김경미의 언급은 비교적 간략하다. 한매의 협비에 대한 지적은 잘못으로 보인다. < 광한루기 > 에서 평비자가 元 崇 ( 변학도의 ) 폭정에 대해 참으로 名 官 이다, 잘 한다 등 반어적인 표현의 협비를 달고 있는 점을 < 광한루기 > 협비만 의 특색이라고 하였는데, 반어적 표현의 협비가 < 서상기 > 나 다른 평비본 소설에서 등장하지 않는지 의문이 다. 오히려 이 부분은 작자가 비판한 판소리 ( 계 국문소설 ) < 춘향전> 의 영향이 남아 있는 것으로 보인다. < 춘향전 > 의 본문에서 이미 춘향의 입을 통해 거의 같은 표현이 등장하고 있기 때문이다. 8) < 광한루기 > 협 비와 < 서상기 > 협비를 비교한 언급은 정선희의 분량 비교를 제외하고 전무한 듯하다. 일견 협비는 몇몇 중요한 비평 용어를 언급한 것을 제외하고 판소리의 추임새 수준에 불과한 것들이나 독서에 방해가 될 만큼 불필요한 언급들이 많아 보이기도 한다. 협비 이외의 평비인 敍 讀 法 回 前 後 評 이 비록 완전히 독창적이지는 않지만 조선의 소설 및 예술비평에 있어 비교적 풍성한 내용과 높은 수준을 갖추고 있기 때문에 협비는 더욱 초라해보인다. 그러나 이는 오히려 협비도 어느 정도 일정한 수준과 체계 를 갖추고 있으리라는 가정의 반증이 될 수도 있다. 무엇보다도 < 광한루기 > 의 평비는, 당대의 < 광한루기 > 독자들이 < 광한루기 > 로 춘향 이야기를 처음 접했을 리 없다는 점에서 중요한 의미를 갖는다. 이는 지금을 포함한 후대의 독자들도 마찬가지이다. 작자와 비평자도 이를 당연히 인식하고 있었을 것이다. 따라서 < 광 한루기> 독자들의 수용미학이란, 낯설고 새로운 이야기에 대한 궁금증보다는 과연 작자가 기존의 춘향 이 야기를 어떻게 개작하였을까 나아가 왜 개작하였을까라는 범주 안에 있다. 독자는 어떻게 개작하였나를 작 가가 지은 본문에서, 왜 개작하였나를 비평자의 평비에서 발견할 수 있다. < 광한루기 > 는 현재 남아있는 이본들을 볼 때 애초부터, 일종의 白 文 本 이 있은 뒤 평비본이 나온 경우가 아닌 것으로 보인다. 독법 의 서 3) 김풍기, 수산광한루기의 평비에 나타난 비평의식, 어문논집 31, 민족어문학회, ) 정하영, < 광한루기 > 평비 연구, 한국고전연구 1, 한국고전연구학회, ) 한매, 조선후기 김성탄 문학비평의 수용양상 연구, 성균관대 국어국문학과 박사학위논문, ~154 쪽. 6) 김경미, 소설의 매혹 : 조선후기 소설비평과 소설론, 월인, 쪽. 7) 정선희, 조선후기 소설비평론과 문예미학의 발전 : 김성탄의 소설비평본 독서와 관련하여, 어문연구 35 권, ~223 쪽. 8) 설성경 역주, ( 한국고전문학전집 12) 춘향전, 고려대 민족문화연구소, ; < 광한루기 > 의 작자는 < 춘향전 > 에 삽입된 술은 천 사람의 피요, 안주는 만백성의 기름 이라는 시를 비판하면서도 계승하고 있다.

107 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 367 두는 아래와 같다. 술 마시며 읽으면 기운을 돕고, 거문고를 타면서 읽으면 운치를 돕고, 달을 마주하고 읽으면 정신을 돕고, 꽃을 구경하면서 읽으면 격조를 도울 수 있다. 음주를 통해 기운을 돕는다. 어떤 사람이 小 广 에 들러 문을 두드리고 말했다. < 광한루기 > 는 어떤 연유로 지은 것입니까? 주인( 자신) 이 처 연하게 일어나서 대답했다. 내가 < 광한루기 > 를 짓지 않았는데 < 광한루기 > 가 어떤 연유로 지어졌는지 어떻게 알 겠습니까? 그렇다하더라도 < 광한루기 > 를 지은 사람은 분명 옛 사람에 대해 통곡하고 後 人 들에게 남겨주려는 뜻이 있었을 것입니다. 9) 그 뒤 인생의 허무함과 그것을 극복하는 방법으로서의 문학창작 등을 김성탄 < 서상기> 서문의 논리를 거의 그대로 따라가며 서술한다. 이 부분은 작자인 水 山 先 生 과 평비자인 小 广 主 人 이 같은 사람이라는 추정 의 근거로 쓰이기도 한다. 10) 그런데 이는 당대에 이미 합쳐진 형태로 < 광한루기 > 가 수산선생의 본문과 소엄주인의 평비가 刊 寫 유통 되었음을 알려주는 것으로 증거로도 볼 수 있다. 이러한 형태는 일반적인 문학작 품 텍스트와 양상이 다르다. 특히 지나치리만큼 많고 반복되는 이 작품의 협비는, 본문 곳곳에 부연설명과 정답이 적혀있는 참고서와 같다. 이는 작자와 비평자가 애초부터 이렇게 기획하였고, 독자도 협비 함께 읽 기라는 일반적이지 않은 독서과정을 예비하고 있었다는 것이다. 따라서 < 광한루기 > 의 협비는 협비 이외의 평비들에서 보이는 < 광한루기 > 의 평비가 < 서상기> 를 전면적으로 수용하였으므로 곧 < 서상기 > 의 큰 영향을 받은 비평의식이 구현되어 있으며 그것이 단순한 비평이 아니라 본문 텍스트 자체의 개작 의식을 함유하고 있으리라 짐작할 수 있다. 3. 極 微 論 의 원용 : 讀 法 < 서상기> 卷 一 一 之 三 酬 韻 회전평의 極 微 에 대한 이야기 일부는 아래와 같다. 曼 殊 室 利 菩 薩 은 곧잘 極 微 를 논했으니, 옛날에 성탄이 그 이야기를 듣고서 매우 기뻐하였다. 무릇 裟 婆 世 界 는 대단히 헤아릴 수 없이 장대하지만 그 연고는 극미에서 일어난다. 따라서 사바세계 속 일체의 존재는 그 연고가 하 나하나 극미에서 일어나지 않음이 없다. 이는 너무 큰 이야기여서 지금 논할 수 있는 것이 아니다. 여기서는 다만 보살이 말한 극미 한 마디를 빌려 行 文 의 人 心 을 보고자한다. 지금 맑은 가을 저녁 무렵 천지가 맑고 가벼운 구름이 비늘처럼 물결친다. 그 모습이 낟알처럼 작으니 이는 참으 로 천하의 至 妙 이다. 들오리가 무리를 지어 나는데 어부가 그물로 잡아 그 배의 깃털을 보면 옅은 검은 색을 띠고 비늘처럼 물결치는 것이 하늘의 구름과 같다. 그 모습이 낟알처럼 작으니 이 또한 천하의 지묘이다. 식물의 꽃은 꽃 받침과 씨방 속에서 피어나 꽃잎을 이룬다. 한가로운 마음으로 그 꽃잎을 주의 깊게 살펴보면 아래에서 끝까지 빛 깔이 일정치 않으니 이는 한 가지 천하의 지묘이다. 등불의 불꽃은 밑에서 위로 일어난다. 등불과 가까운 곳은 엷은 푸른색이고 조금 위쪽은 엷은 흰색, 또 위쪽은 엷은 붉은색이며 다시 위쪽은 옅은 분홍색이다가 그후 검은 연기가 되어 작다란 거품처럼 뿜어져 날아가니 이는 한 가지 천하의 지묘이다. ( 중략) 식물의 꽃은 꽃받침과 씨방 속에서 피어나 꽃잎을 이룬다. 사람들은 저 몇 개의 꽃잎들이 하나의 꽃이다 라고 9) 廣 寒 樓 記 讀 法 一. 宜 飮 酒 讀 可 以 助 氣, 宜 彈 琴 讀 可 以 助 韻, 宜 待 月 讀 可 以 助 神, 宜 看 花 讀 可 以 助 格. 飮 酒 以 助 氣. 有 客 過 小 广 而 叩 之 曰, < 廣 寒 樓 記 >, 何 爲 而 作 也. 主 人 悽 然 起 而 對 曰 : 吾 非 作 < 廣 寒 樓 記 > 者 也. 何 以 知 < 廣 寒 樓 記 > 之 何 爲 而 作 也. 雖 然 作 < 廣 寒 樓 記 > 者, 其 必 有 慟 哭 古 人 留 贈 後 人 之 意 也. 10) 정하영, 앞의 글.

108 368 동아시아 인문전통과 문화역학 한다. 사람들은 전날 이러한 꽃이 전혀 없었음을 모른다. 엊그제에는 이러한 꽃받침과 씨방조차도 전혀 없었던 것이 다. 꽃받침도 씨방도 꽃도 없는 중에 홀연히 꽃받침이 있게 되고 홀연히 씨방이 있게 되며 홀연히 꽃이 있게 되니 그 사이에 극미가 있는 것으로, 이는 사람이 천천히 걸어 점점 먼 곳에 이르는 것 같다. 그러므로 꽃 잎 하나가 비 록 작지만 진행하여 그 꽃잎의 밑단에서부터 끄트머리에까지 이른다. 여기에서 일어났다 저기에서 다하고 筋 이 옮 아가고 脈 이 움직이며 아침에 옅었다 저녁에 깊어지고 색깔이 앳되다가 향기가 노숙해진다. 사람이 시각으로 보면 꽃잎 하나의 크기는 손가락 끝과 같을 뿐이다. 꽃의 입장에서 생각해보면 그 道 里 가 또한 阡 陌 을 넘는 먼 거리에 있지 않다는 것을 있지 않다는 것을 어찌 알겠는가. 사람의 시각으로 보면 꽃이 처음 피어 지금 滿 開 에 이르기까지 눈 깜짝할 사이와 같다. 꽃의 입장에서 보면 그 수명이 또한 累 生 積 劫 의 오랜 시간에 있지 않다는 것을 어찌 알겠 는가. 이 역시 극미이니 살피지 않을 수 없다. ( 중략) 서상기 를 읽어 차상 의 뒤, 閙 齋 의 앞 酬 韻 한 장에 이르면 자신도 모르게 보살의 가르침에 깊이 감촉되 리라. 바라건대 온 천하의 빼어난 才 子 들은 모두 세세하게 읽을진저! 11) 완성되어 있는 사물을 보는 사람은 그 완전함과 자연스러움만 보고 그것이 이루어지기까지의 과정을 곧 잘 떠올리지 못한다. 그러나 그것이 이루어지기까지의 과정에는 아주 세밀한 단계와 장치가 있다. 따라서 아 무리 보잘것없는 사물이라도 그것의 본질을 알기 위해서는 세밀한 단계와 장치를 유심히 살펴보아야한다는 것이다. 그리고 그는 이러한 사유방식을 < 서상기 > 의 구성을 분석하는 데 적용하였다. < 광한루기 > 독법 의 마지막 항목인 看 花 以 助 格 은 위와 유사한 논리 및 사유방식을 원용하여 < 광한루 기> 의 사건 전개와 구성의 원리를 분석해낸다. 아! 꽃은 어째서 피고 어째서 지는 것일까? 피는 원리가 있어서 피고 지는 원리가 있어서 지는 것은 天 이요, 피는 원리가 있어서 피는데도 그 피는 까닭을 알지 못하고 그 지는 원리가 있어서 지는데도 그 지는 까닭을 알지 못하는 것은 人 이요, 그것이 피는 것을 보고 핀다고 말하고 그것이 지는 것을 보고 진다고 말하는 것은 天 과 人 의 중간이 다. 이 < 광한루기 > 라고 하는 것은 天 도 아니고 人 도 아니며 天 과 人 의 중간이다. 제1회와 제2회는 이른바 피는 원 리가 있어서 피는 것이고, 제3회와 제4 회는 이른바 지는 원리가 있어서 지는 것이며, 제5회와 제6회는 이른바 피는 원리가 있어서 피는데도 피는 까닭을 알지 못하는 것이며, 제7회와 제8회는 이른바 지는 원리가 있어서 지는데도 지는 까닭을 알지 못하는 것이다. 여덟 회의 글이 합쳐져서 < 광한루기 > 가 될 경우에는 이른바 피는 것을 보고 핀 다고 말하고 지는 것을 보고 진다고 말하는 것이다. 아! 한 권의 < 광한루기 > 는 정말로 한 떨기 名 花 가 아니겠는 가? 12) 11) 張 國 光 교주, 金 聖 嘆 批 本 西 廂 記, 上 海 古 籍 出 版 社, ~64 쪽. 曼 殊 室 利 菩 薩 好 論 極 微, 昔 者 聖 嘆 聞 之 而 甚 樂 焉. 夫 娑 婆 世 界, 大 至 無 量 由 延, 而 其 故 乃 起 于 極 微. 以 至 娑 婆 世 界 中 間 之 一 切 所 有, 其 故 無 不 一 一 起 于 極 微. 此 其 事 甚 大, 非 今 所 得 論. 今 者, 止 借 菩 薩 極 微 之 一 言, 以 觀 行 文 之 人 之 心. 今 夫 淸 秋 傍 晩, 天 澄 地 徹, 輕 雲 鱗 鱗, 其 細 若 縠, 此 眞 天 下 之 至 妙 也. 野 鴨 成 群 空 飛, 漁 者 羅 而 致 之, 觀 其 復 毛, 作 淺 墨 色, 鱗 鱗 然 猶 如 天 雲, 其 細 若 縠, 此 又 天 下 之 至 妙 也. 草 木 之 花 于 跗 萼, 展 而 成 瓣, 苟 以 閑 心 諦 視 其 瓣, 則 自 根 至 末, 光 色 不 定, 此 一 天 下 之 至 妙 也. 燈 火 之 焰, 自 下 達 上, 其 近 穗 也, 乃 作 淡 碧 色, 稍 上 作 淡 白 色, 又 上 作 淡 赤 色, 又 上 作 乾 紅 色, 後 乃 作 墨 烟, 噴 若 細 沫, 此 一 天 下 之 至 妙 也. 草 木 之 花, 于 跗 萼 中, 展 而 成 瓣. 人 曰 : 凡 若 干 瓣, 斯 一 花 矣 人 固 不 知 昨 日 者, 殊 未 有 斯 花 也. 更 昨 日 焉, 乃 至 殊 未 有 此 萼 與 跗 也. 又 無 跗 無 萼 無 花 之 中, 而 欻 然 有 跗, 而 欻 然 有 萼, 而 欻 然 有 花, 此 有 極 微 于 其 中 間, 如 人 徐 行, 漸 漸 至 遠. 然 則 一 瓣 雖 微, 其 自 瓣 根, 行 而 至 于 瓣 末. 其 起 此 盡 被, 筋 轉 脈 搖, 朝 淺 暮 深, 粉 稚 香 老. 人 自 視 之, 一 瓣 之 大, 如 指 頭 耳. 自 花 計 焉, 烏 知 其 道 理 不 且 有 越 陌 度 阡 之 遠 也? 人 自 視 之, 初 開 至 今, 如 眴 眼 耳. 自 花 計 焉, 烏 知 其 壽 命 不 且 有 累 生 積 劫 之 久 也? 此 亦 極 微, 不 可 以 不 察 也. 讀 西 廂 記 之 借 廂 後, 閙 齋 前, 酬 韻 之 一 章, 不 覺 深 感 于 菩 薩 焉. 尙 愿 普 天 下 錦 繡 才 子, 皆 細 細 讀 之! 12) 廣 寒 樓 記 讀 法 有 開 之 理 而 開, 有 落 之 理 而 落 者, 天 也. 有 開 之 理 而 開, 而 不 知 所 以 開, 有 落 之 理 而 落, 而 不 知 所 以 落 者, 人 也. 見 其 開 而 謂 之 開, 見 其 落 而 謂 之 落 者, 天 人 之 際 也. 父 < 廣 寒 樓 > 之 爲 記 也, 非 天 也, 非 人 也, 非 天 人 之 際 也. 一 回 二 回, 所 謂 有 開 之 理 而 開 者 也. 三 回 四 回, 所 爲 有 落 之 理 而 落 者 也. 五 回 六 回, 所 謂 有 開 之 理 而 開, 以 不 知 所 以 開 者 也. 七 回 八 回, 所 謂 有 落 之 理 落, 以 不 知 所 以 落 者 也. 合 八 回 之 文, 而 爲 < 廣 寒 樓 記 >, 則 所 謂 見 其 開 而 謂 之 開, 見 其 落 而 謂 之 落 者.

109 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 369 김경미는 < 광한루기 > 의 독법 은 < 서상기> 의 독법 을 모방한 것으로 독창성을 찾기 어렵지만 당시의 직된 계몽적 교육적 소설 읽기을 넘어선 감상적 심미적 소설 읽기의 면모를 보이는 것이며, < 서상기> 의 독법 을 전적으로 모방한 것이 아니라 취사선택을 하고 있어서 비평자 소엄의 소설에 대한 입장을 볼 수 있다고 하였다. 13) 정선희는 꽃을 보면서 격조를 돕는다고 하는 독법도 < 서상기> 에서 아름다움을 느끼기 위 해서라고 하는 단편적인 언급에서 나아가 천지인의 원리와 꽃이 피고 지는 원리까지 동원하여 작품과 연관 시켜 설명하는 점에서 김성탄의 경우에서 발전된 양상이라고 하였다. 14) 독법에 대한 해설과 < 서상기 > 와의 관련성에 대한 지적이 피상적으로 보인다. 특히 앞에서 보았던 독법 의 첫 번째 항목이 < 서상기 > 의 서문 두 편을 모방하였고 마지막 항목도 < 서상기> 一 之 三 회전평의 논리를 원용한 것에서 알 수 있듯 < 광한루 기> 의 독법 은 평비본의 독법이라는 체제를 따르고 그 내용에 있어 < 서상기> 의 여러 평비와 유사성을 보 이는 것이지, < 광한루기 > 의 독법 의 내용이 곧 < 서상기> 의 독법 내용 자체를 모방한 것이거나 < 서상 기> 독법 의 여러 내용 가운데 몇 가지를 취사선택한 것은 아니다. 간호윤은, 이 부분은 < 광한루기 > 의 4 단 구성( 각 2 회씩 기승전결의 구조을 ) 생태학적 비평으로 설명한 것으로 敍 의 문장여화론과 일치하며, 天 과 人 의 변증법적 지향이라는 또 하나의 소설 이론을 밝히고 있어 이러한 플롯의 치밀성은 개연성을 높여 준다 고 하였다. 15) 평비 간의 유기적 관계와 의미를 밝힌 데서 의미가 있으나 看 花 以 助 格 자체에 대한 해석 및 이것과 < 서상기> 의 관련성에 대한 고찰은 부족하게 느껴진다. 이 부분은 각 장회와 작품 전체에 있어서의 표면과 이면, 장회별 사건의 전개와 장회간의 구성, 독자의 수 용미학과 작자의 창작미학의 관계에 대해 논한 것으로 해석할 수 있다. 표면 장회별 사건의 전개 독자의 수용미학 이면 장회간의 구성 작자의 창작미학 1 2회 3 4회 5 6회 7 8회 상승춘향과 ( 만남과 사랑) 도린 하강사랑과 ( 이별) 상승발단 ( 전개) 하강전개 ( 위기) 하강( 元 崇 의 횡포 와 춘향의 시련) 상승( 위기이지만 절정으로 향해감) 상승도린의 ( 와 상봉) 출세 하강( 절정이지만 결말로 향해감) 1 2회는 춘향과 도린이 만나서 사랑을 시작하는 표면적인 사건의 전개와 이야기의 시작이라는 구성이 일치한다. 그래서 피는 원리( 이면 장회간의 구성 작자의 창작미학가 ) 있어서 꽃표면 ( 장회별 사건의 전 개 독자의 수용미학이 ) 피는 것 이다. 그런데 5 6회에서 사건은 최악의 상황으로 치닫지만 이는 사실 최악 의 상황이 일순간에 해결되는 통쾌한 절정을 위한, 구성에 있어서의 소설적 장치이다. 따라서 피는 원리( 이 면 장회간의 구성 작자의 창작미학가 ) 있어 피는 데도 그 까닭을 알지 못하는 것 이다. 그렇지만 작품 전 체를 두고 보면 사건의 전개와 구성이 자연스럽게 이루어지게 된다. 이처럼 < 광한루기 > 의 작자는 극미론의 논리를 원용하여 하나의 완성된 체제인 펴보고 있다. < 광한루기 > 를 그 발생 과정과 과정들 사이의 관계구성을 ( ) 통해 살 4. 極 微 論 의 구현 : 夾 批 김성탄은 독법 66 항에서 < 서상기> 는 반드시 반 달 또는 한 달 간의 공을 다해서 정밀하고 절실하게 읽어야 한다. 정밀하고 절실하게 읽는 자는 작은 것이라도 자세히 찾는다 고 하였다 16). 또 특히 一 之 三 酬 13) 김경미, 앞의 책, 135~137 쪽. 14) 정선희, 조선후기 소설비평론과 문예미학의 발전 : 김성탄의 소설비평본 독서와 관련하여, 어문연구 35 권, 한국어문교육연구회, 쪽. 15) 간호윤, < 광한루기 > 의 소설 비평론 연구, 고소설연구 8 집, 한국고소설학회, ~276 쪽.

110 370 동아시아 인문전통과 문화역학 韻 의 金 蕉 葉 의 바람 지나는 곳에 옷 향기가 가늘게 난다 라는 구절에 대해 김성탄은 문이 닫힌 뒤 앵앵 을 묘사할 수 없으니 어둠 속에서 한 구를 空 寫 하였다. 내가 하늘의 구름이 비늘처럼 물결치며 그 사이에 겹겹이 층위가 있다고 한 것은 바로 이러한 필법을 말한 것이다 라고 협비를 달았다. 17) 따라서 비평에 있어 서의 이러한 細 讀 의 방법은 김성탄에게 있어 구성에 대한 분석뿐만 아니라 소설의 사건이나 표현 등 모든 소설적 장치를 해석할 때 공히 적용되는 것임을 알 수 있다. 이는 < 광한루기 > 의 협비에서도 확인할 수 있 다. 元 崇 ( 변학도의 ) 아전 張 喆 이 말 잘하는 기생 芙 蓉 에게 춘향을 설득하도록 시킨다. 부용이 뜰을 내려서서 춘향이 있는 감방을 향해 가서는 눈물을 흘리며 말했다. ( 네가 장철이 말했던 말 잘하는 사람 아니냐? 춘향은 벌써부터 훤히 알고 있다.) 자네가 감옥에 갇힌 뒤로 자네 얼굴 한번 보고 싶다는 생각을 왜 안 했겠는가? ( 먼저 인정을 말하고) 새장에 갇힌 앵무새처럼 매인 신세가 되어 거동이 자유롭지 못했다네. ( 다음으로 신세를 말하고) 지금 약간의 틈을 타서 오래도록 품었던 회포를 풀어보려네. ( 그 다음에 맺힌 회포를 말하고) 누추한 곳에서 옥같은 자태가 줄어들지나 않았는지 모르겠네. ( 마침내 생활에 대하여 묻는구나 ) 18) 이어서 나오는 부용의 대사에 대해서 수 차례에 걸쳐 말 잘한다고 할 만하다 말 잘 한다 정말 말 잘 한다 등의 협비를 달고 있다. 위와 같은 대사에 대한 세밀한 구분은 언술이 뛰어난 인물형상을 강화하고 이 로써 독자로 하여금 인물형상에 대한 설득력을 높이는 역할을 한다. 춘향이 옥 안에서 李 桃 隣 ( 이몽룡이 ) 어 사가 되어 돌아온 것을 눈치 채는 대목은 다음과 같다. 춘향이 가만히 생각했다. 우리 낭군이 그렇게도 훌륭한 풍채였는데, 더구나 그 부친께서 새로 관찰사로 부임해 가셨는데, 3 년 사이에 어찌 떠도는 신세가 되었겠는가? ( 이미 3~4 할 알아차렸다 ) 어사가 출도하여 부사가 파직되었 을 때도 혼자서 생각했다. 우리 낭군이 아무런 이유 없이 이 곳에 왔을 리가 없지. 여기에 오묘한 까닭이 있지 않 을까? ( 이미 5~6 할 알아차렸다.) 갑자기 刑 吏 가 놀란 모양으로 땀을 흘리며 들어와서 수의 사또께서 자네를 부르 시네 춘향은 또 생각했다. 과연 우리 낭군은 아닌가? ( 이미 7~8 할은 알아차렸다.) 영롱하고 준수한 기 상만은 완연히 옛날의 모습 그대로였다. ( 이미 9 할 알아차렸다.) 그 용모를 보고 목소리를 듣고 나니 눈에 선했던 모 습, 귓가에 쟁쟁하던 음성과 符 節 을 합한 듯이 조금도 다르지 않았다.( 이제 완전히 알아차린 것이다.) 19) 이처럼 < 광한루기 > 에서는 특히 주로 대사와 사건의 진행을 세밀하게 점층적으로 구분하여 설명하는 데 이러한 협비가 사용됨을 알 수 있다. 그런데 이 대목은 김성탄의 < 第 五 才 子 書 水 滸 傳 > 제44회에서 石 秀 가 楊 雄 의 부인 潘 巧 雲 과 승려 裵 如 海 의 私 通 을 알아차리는 대목을 그대로 모방한 것임이 확인된다. 석수가 말하길 원래 그랬구나! 라고 했다. 속으로 1 할 정도 알아차린 것이다. 이 계집의 두 눈은 역시 힐끗 중의 눈에 눈길을 보내면서 석수가 발 밖에서 보고 있으리란 것은 아랑곳하지 않는다. 이미 2 할 알아차렸다. 석 수는 ( 楊 雄 을 위해 혼내주어야겠다고 ) 생각했다. 한 생각에 3 할 알아차렸다. 석수는 ( 중이 나가자) 문 앞에 서서 고개를 숙이고 다만 깊이 생각에 잠겼다. 사실 마음속으로는 이미 4 할 알아차렸다. 두 사람이 서로 눈길을 주고 16) 張 國 光 교주, 위의 책, 21 쪽. < 西 廂 記 > 必 須 殿 半 月 一 月 之 功, 精 切 讀 之. 精 切 讀 之 者, 細 尋 其 膚 寸 也. 17) 같은 책, 67 쪽. 金 蕉 葉 風 過 處 衣 香 細 生 ( 角 門 閉 後, 不 便 寫 出 鶯 鶯, 且 更 向 暗 中 又 空 寫 一 句. 吾 適 言 天 雲 之 鱗 鱗, 其 間 則 有 委 委 屬 屬, 正 謂 此 等 筆 法 也.) 18) 廣 寒 樓 記 第 六 回 當 下 向 春 香 房 來, 垂 淚 而 言 ( 汝 非 張 生 所 謂 能 言 之 人 乎? 春 香 已 自 知 之 意 ) 曰 : 自 君 之 滯, 因 豈 不 欲 一 見 這 個 貌 樣?( 先 說 仁 情 ), 身 係 鸚 鵡 之 籠, 行 之 不 得 自 由 ( 次 說 身 世 ), 今 乘 半 刻 之 暇, 以 敍 幾 時 之 懷 ( 次 說 阻 懷 ), 未 諗 陋 地, 玉 質 無 損 ( 乃 門 起 居 ) 19) 廣 寒 樓 記 第 八 回 春 香 暗 思 曰 : 我 的 郎 君, 這 般 風 彩, 況 他 父 親 新 經 方 伯, 三 年 之 間, 豈 至 流 落? ( 早 已 猜 着 三 四 分 ). 及 聞 御 使 出 道 府 使 罷 職, 又 自 思 曰 : 我 的 郎 君, 必 無 無 端 到 此 之 理, 是 不 是 有 個 妙 理 麽? ( 早 已 猜 着 五 六 分 ). 忽 見 刑 吏 駭 汗 而 至 曰 : 繡 衣 使 道, 召 君. 春 香 又 思 曰 : 果 不 是 吾 郎 君 麽? ( 早 已 猜 着 七 八 分 ). 玲 瓏 俊 秀 之 氣, 宛 然 舊 時 樣 子 ( 早 已 猜 着 九 分 ). 旣 瞻 其 容, 又 聞 其 語, 則 眼 中 黯 黯 之 形, 耳 邊 琤 琤 之 音, 如 合 符 節, 不 差 毫 釐 ( 乃 盡 猜 着 十 分 )

111 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 371 받으며 눈으로 마음을 보냈다. 석수는 모두 전부 알아차려서 충분히(5 할) 불쾌한 생각이 들을 만했다. 석수는 불 쾌했다. 이때 정말 6 할에 도달했다. 뜻밖에도 석수가 판자벽 뒤에서 자는 척 하면서 곧 알아차릴 수 있었으니 이 미 7 할에 이르렀다. 석수가 웃으며 말했다. 소인이 가게 일을 볼 테니 영감님은 형수나 잘 모시고 분공을 마치 시고 어서 돌아오십시오. 석수는 8 할 알아차렸다. 頭 陀 가 사벽이면 골목으로 와서 목어를 두드리면서 크게 염불 을 외쳤다. 석수는 눈치 빠른 자라 9 할 알아차렸다. 두 건을 쓴 한 검은 그림자가 슬쩍 빠져나와 두타와 함께 가 자 곧 迎 兒 가 문을 받는 것을 엿보았다. 석수는 10 할 알아차렸다. 20) < 수호전> 에는 본문으로 되어 있는 알아차렸다 라는 말을 < 광한루기 > 에서는 협비로 처리하였다. 김성 탄 이 부분을 < 讀 第 五 才 子 書 法 > 의 열다섯 조항 중 하나인 背 面 鋪 紛 法 ( 反 襯 法 ) 의 한 예로 들고 있다. 21) 즉 석수의 예민하고 치밀한 성격을 위와 같이 묘사함으로써 석수의 성격과 함께 양웅의 단순하고 어리석은 성 격도 부각시키는 것이다. 그런데 김성탄은 석수는 이때 이미 3 할 눈치를 챘다( 石 秀 此 時 已 有 三 分 在 意 了 ) 와 절로 충분히 불쾌한 생각이 들었다 ( 自 有 五 分 來 不 快 意 ) 두 구로만 이루어져 있던 120회본 수호전 을 위와 같이 1할에서 10 할에 이르는 과정을 세밀하게 묘사하여 석수의 예민한 성격을 부각시킨 것이다. 22) 춘향이 이도린이 어사로 돌아왔다는 사실을 스스로의 생각만으로 깨닫는 내용이나 기생 부용이 춘향에게 수청들 것을 설득하는 대목도 기존의 < 춘향전> 에서는 보이지 않는다. 즉 < 광한루기 > 의 작자는 1 사물을 완성해 나가는 세밀한 단계를 보아야한다는 一 之 三 회전평의 사유 비평방식을 2 독법 에 원용하고 협비에 반 영 또는 모방해서 3자신이 새롭게 창작한 사건과 대사의 진행을 세밀하게 점층적으로 구분하여 설명함으 로써 4인물형상을 부각시키고 있는 것이다. 5. 맺음말 이상의 내용을 요약한다. 글쓴이는 지금까지 < 광한루기 > 와 < 서상기> 의 관련성을 논한 기존의 연구는 夾 批 를 소홀히 하고 협비와 협비 이외의 평비를 유기적으로 살펴보지 못했으며 < 광한루기 > 의 작자 또는 평자가 < 서상기> 평비의 어떤 부분을 어떻게 모방 또는 변형하여 수용하고 있는가 등의 구체적인 양상을 지적하는 데 소홀하였다는 문제점에서 출발하였다. 특히 < 광한루기 > 는 < 서상기> 의 평비를 수용하면서도, 애초부터 평비본으로 나왔다는 점에서 평비에 단순한 비평이 아니라 본문 텍스트 자체의 개작 의식을 함유 하고 있는 것이다. 그 한 예로 < 광한루기 > 독법 가운데 看 花 以 助 格 이 < 서상기 > 卷 一 一 之 三 酬 韻 회전 평의 極 微 論 가운데 꽃 이야기의 논리와 사유방식을 원용하고 있으며 그것을 협비에 구현하여 자신이 새 롭게 창작한 사건과 대사의 진행을 세밀하게 점층적으로 구분하여 설명함으로써 있음을 확인하였다. 인물형상을 부각시키고 < 광한루기 > 의 평비가 < 수호전> 을 그대로 모방한 양상을 확인한 것처럼, 먼저 김성탄의 < 서상기> 와 < 수호전 > 의 평비 전체에 대해 면밀한 검토를 한 뒤 그것을 < 광한루기 > 를 비롯한 여러 조선 후기 소설이나 문학 비평 작품들과 비교해본다면 좀더 구체적인 수용 양상을 본격적으로 논할 수 있을 것이다. 20) 金 聖 嘆 第 五 才 子 書 水 滸 傳 第 四 十 四 回. 石 秀 道 : 原 来 恁 地. 自 肚 里 已 瞧 科 一 分 了. 这 妇 人 一 双 眼 也 笑 迷 迷 的 只 顾 这 和 尚 的 眼. 人 道 : 色 胆 如 天., 不 防 石 秀 在 布 里 一 眼 张 见, 早 瞧 科 了 二 分. 石 秀 一 想, 一 发 有 三 分 瞧 科 了 石 秀 在 门 前 低 了 头 只 顾 寻 思, 其 实 心 中 已 瞧 科 四 分. 两 个 处 处 眉 来 眼 去, 以 目 送 情. 石 秀 都 瞧 科 了, 足 有 五 分 来 不 快 意. 石 秀 不 快, 此 时 真 到 六 分. 不 想 石 秀 在 板 壁 后 假 睡, 正 瞧 得 看, 已 看 到 七 分 了. 石 秀 笑 道 : 小 人 自 当 照 管. 丈 人 但 照 管 嫂 嫂, 多 烧 些 好 香, 早 早 来. 石 秀 自 瞧 科 八 分 了. 只 听 得 报 晓 头 陀 直 来 巷 里 敲 木 鱼, 高 声 叫 佛. 石 秀 是 乖 觉 的 人, 早 瞧 了 九 分. 只 见 一 个 人, 戴 顶 头 巾, 从 黑 影 里, 闪 将 出 来, 和 头 陀 去 了 ; 随 后 便 是 迎 儿 关 门. 石 秀 瞧 到 十 分. 민혜란, 金 聖 嘆 의 小 說 技 法 論 에 대하여 : 讀 第 五 才 子 書 法 을 중심으로, 中 國 學 硏 究 7, 中 國 學 硏 究 會, ~137 쪽에서 원문을 재인용하고 번역을 참조하였다. 21) 민혜란, 같은 글, 같은 곳. 22) 黃 霖 等 著, 中 國 小 說 硏 究 史, 浙 江 古 籍 出 版 社, 쪽.

112 372 동아시아 인문전통과 문화역학 < 摘 要 > 朝 鮮 后 期 漢 文 小 說 廣 寒 樓 記 與 金 圣 叹 的 極 微 論 广 寒 楼 记 的 评 批 受 到 金 圣 叹 很 大 影 響 但 是 过 去 关 于 广 寒 楼 记 与 第 六 才 子 书 西 厢 记 ( 以 下 称 西 厢 记 ) 关 系 的 研 究 中 忽 视 夹 批, 并 没 能 与 其 他 的 评 批 有 机 地 联 系 在 一 起 尤 其 是 没 有 指 出 广 寒 楼 记 如 何 模 仿 或 改 变 西 厢 记 评 批 的 哪 个 部 分 等 具 体 情 况 广 寒 楼 记 虽 然 接 受 西 厢 记 的 评 批, 但 是 广 寒 楼 记 本 身 就 是 评 批 本, 因 此, 评 批 不 是 含 有 批 評 意 识, 而 是 含 有 要 改 作 正 文 的 意 识 金 圣 叹 在 卷 一 的 一 之 三 酬 韵 回 前 評 中 展 开 极 微 论, 通 过 花 故 事 主 张 应 了 解 逐 渐 完 成 事 物 的 具 体 过 程 然 而 在 广 寒 楼 记 的 读 法 中 看 花 以 助 格 部 分 通 过 将 该 部 分 的 思 维 及 批 評 方 式 援 用 于 讀 法 中, 反 映 于 夹 批 中, 或 模 仿 夹 批 的 方 式, 仔 细 而 逐 渐 地 分 类 自 己 创 作 的 事 情 及 台 词 的 进 展, 以 使 人 物 形 象 突 出 另 外, 在 此 过 程 中, 可 以 了 解 广 寒 楼 记 的 一 部 分 评 批 原 封 不 动 地 模 仿 由 金 圣 叹 改 作 的 水 浒 传 < 要 旨 > 朝 鮮 後 期 漢 文 小 說 の 廣 寒 樓 記 と金 聖 嘆 の極 微 論 朝 鮮 後 期 の漢 文 小 說 の 廣 寒 樓 記 は柳 振 漢 の 春 香 歌 尹 達 善 の 廣 寒 樓 樂 府 睦 泰 林 の 春 香 新 說 呂 圭 亨 の 漢 文 演 本 春 香 傳 などとともに 漢 文 本 春 香 傳 の系 列 に属 する作 品 である 作 者 編 者 評 批 者 が誰 かと問 題 は明 らかではない 創 作 年 代 は大 体 に19世 紀 と考 えられている この作 品 の特 徵 は まず パンソリ ( 韓 国 特 有 の唱 劇 に合 わせてうたった 民 俗 芸 術 の一 つ) またはハングルで 書 かれていた 小 說 を漢 文 で翻 訳 したが 逐 字 飜 訳 だけにとどまらず 作 品 を全 面 的 に改 作 したということ そして 金 聖 嘆 の評 批 特 に 第 六 才 子 書 西 廂 記 ( 以 下 西 廂 記 で略 称 ) の影 響 を受 けて多 樣 な形 態 の評 批 をとりそろえてあったと いうことにある しかし 廣 寒 樓 記 と 西 廂 記 の関 連 性 を論 じた既 存 の研 究 は夾 批 をすどおりして 夾 批 と他 の評 批 を 有 機 的 に考 察 することができなかった 特 に 廣 寒 樓 記 が 西 廂 記 の評 批 のどの 部 分 をどう 模 倣 または 変 形 して收 用 してあったのかなどの 具 体 的 な様 相 を確 認 するのに 疎 かだった 廣 寒 樓 記 は 西 廂 記 の評 批 を收 用 したが 最 初 から評 批 本 になっていたことを 見 ると この作 品 の評 批 には批 評 意 識 だけではなく 本 文 テキストへの 改 作 の意 識 を含 んでいることが 分 かる 金 聖 嘆 は卷 一 の一 之 三 の 酬 韻 の回 前 評 でいわゆ る極 微 論 を展 開 しながら " 花 の話 " を通 じて 事 物 が完 成 されていく 細 密 な段 階 を見 なければならない と主 張 していた そので 廣 寒 樓 記 の 讀 法 の中 で " 看 花 以 助 格 " という 条 目 は 1 金 聖 嘆 の" 花 の話 " の思 惟 批 評 の方 法 を 讀 法 に援 用 したあと 2 これを 夾 批 に反 映 あるいは 模 倣 して 3 自 分 が新 しく改 作 した事 件 とか人 物 の言 葉 とかを 細 密 で段 階 的 に区 分 して説 明 することで 4 人 物 の形 象 を效 果 的 に強 調 した 一 方 廣 寒 樓 記 の評 批 の一 部 は金 聖 嘆 が改 作 した 水 滸 傳 の一 部 をそのまま 倣 いしたりした まず金 聖 嘆 の 西 廂 記 と 水 滸 傳 の評 批 についてこまかい 検 討 が先 行 されたら 金 聖 嘆 の極 微 論 が 廣 寒 樓 記 を含 めた多 くの朝 鮮 後 期 の小 說 とか文 学 批 評 とかへどう 收 用 したのかを より具 体 的 で論 ずるこ とができると 思 う

113 今 昔 物 語 集 における 聖 聖 人 の 用 語 意 識 高 陽 一 先 行 研 究 と 問 題 提 起 今 昔 物 語 集 の 人 物 の 称 号 とその 用 法 には 歴 史 上 の 人 物 に 関 する 基 本 的 な 考 え 方 が 表 出 して いると 考 えられる 聖 人 と 聖 の 用 法 はまさしくこの 典 型 である しやうにん は 鎌 倉 以 降 の 説 話 集 では 聖 人 という 表 記 と 平 行 して 上 人 が 用 いられるようになるが 本 稿 では 今 昔 物 語 集 の 用 例 に 限 定 して 議 論 を 進 めるので この 問 題 については 特 に 区 別 しないことにする 聖 と 聖 人 二 語 の 用 語 と 用 法 の 周 到 な 使 い 分 けは 物 語 の 始 発 の 釈 迦 の 生 誕 成 道 布 教 に 始 まる 仏 教 の 創 始 と 伝 来 譚 から 見 られる 今 昔 物 語 集 は 仏 教 伝 来 譚 群 をいわば 歴 史 叙 述 として 編 年 体 の 逸 話 群 のように 並 べている 中 国 日 本 において 仏 法 弘 布 に 功 績 のあった 人 物 あるいは 一 派 を 創 設 した 重 要 な 人 物 を 形 容 する 尊 称 として 聖 と 聖 人 の 用 法 は 仏 教 伝 来 譚 群 にとって 特 別 なものがあった 聖 と 聖 人 は 天 竺 部 から 本 朝 仏 法 部 形 成 に 至 るまさに 鍵 の 表 現 であった と 言 えよう これまでの 聖 聖 人 に 関 する 研 究 は 三 つに 区 分 できる 第 一 はそれぞれの 文 献 での 聖 聖 人 用 語 の 出 現 比 率 等 のデータ 整 備 1 第 二 に 聖 聖 人 関 連 説 話 の 時 代 背 景 に 関 する 考 察 2 第 三 に 実 在 人 物 としての 聖 聖 人 を 題 材 とした 物 語 や 説 話 の 文 芸 評 論 的 考 察 3である ここでは 聖 聖 人 の 用 法 を 日 中 比 較 を 軸 に 追 求 することで 今 昔 物 語 集 の 表 現 の 特 性 の 一 端 を 明 らかにしたい 掲 題 の 論 点 のもとにこれらの 研 究 を 見 直 すと 聖 聖 人 に 対 する 基 本 認 識 は 一 様 でないこ とに 気 がつく 本 稿 の 議 論 の 前 提 としてこれを 分 類 整 理 する 必 要 があると 判 断 した まず 往 生 伝 等 平 安 時 代 の 多 くの 文 献 中 に 聖 聖 人 上 人 の 用 語 が 見 いだせる そ れを 同 一 のものと 見 なすべきであるという 見 解 ( 梅 谷 繁 樹 )と 両 者 ( 聖 と 聖 人 )は 区 別 する のが 妥 当 なようである 4 という 見 解 とに 分 かれている( 今 成 元 昭 前 田 雅 之 ) 前 田 雅 之 聖 の 位 相 5は 今 昔 物 語 集 本 朝 部 の 聖 聖 人 について 仏 ハ 此 レ 大 聖 也 ( 巻 九 第 36 話 ) ( 悉 達 ) 太 子 < 中 略 > 聖 ノ 道 ヲ 観 ジ 給 ケリ ( 巻 一 第 3 話 )の 記 述 を 根 拠 に < 仏 >=< 聖 >という 観 念 連 想 を 今 昔 物 語 集 はもっていたふしがあるということである < 仏 >=< 聖 >=< 六 人 >という 図 式 < 仏 >と 同 一 化 される< 聖 >によって 領 導 された 本 朝 の 仏 法 が 既 に 存 在 形 態 において 他 に 屹 立 していることを それは 暗 に 説 き 示 している と 結 論 づけている 私 はこれら 先 行 研 究 から 啓 示 を 受 けつつも 同 じ 今 昔 物 語 集 の 同 じ 論 点 を 取 り 上 げながら なぜこれほど 異 なった 結 論 が 導 かれたのか 納 得 がいかなかった この 問 題 は 単 に 研 究 者 の 個 性 や 方 法 の 違 いなどの 差 異 にとどまらず 今 昔 物 語 集 の 人 物 伝 そのものが 内 在 する 多 様 な 相 の 反 映 なのではないか 孔 子 荘 子 は 古 代 中 国 の 諸 文 献 で 最 も 典 型 的 な 聖 人 とされた 人 物 である 今 昔 物 語 集 は 百 人 以 上 の 聖 人 を 取 り 上 げたに 関 わらず この 二 人 を 聖 人 と 見 なしていない 本 稿 はこれを 聖 聖 人 の 認 定 基 準 をさぐる 好 例 として 考 察 する 今 昔 物 語 集 の 仏 法 布 教 逸 話 群 を 概 観 しただけでも 仏 法 布 教 者 と 外 道 との 論 争 や 術 競 べなど を 通 じて 仏 法 の 優 位 を 伝 えようとする 著 述 意 図 があることは 明 らかである これを 踏 まえて 本 稿 で

114 374 동아시아 인문전통과 문화역학 は 震 旦 部 における 仏 教 布 教 者 と 儒 教 道 教 との 論 争 における 話 型 や 表 現 語 句 の 用 例 を 整 理 し 漢 籍 仏 典 同 時 代 説 話 などと 比 較 調 査 することで 今 昔 物 語 集 における 聖 人 聖 の 意 識 を 剔 出 し 両 語 の 選 別 基 準 を 明 示 することで 従 来 の 研 究 史 の 不 備 を 補 う 所 存 である 二 天 竺 部 における 聖 と 聖 人 の 特 徴 先 述 の 梅 谷 論 文 や 前 田 論 文 は 今 昔 物 語 集 の 用 例 が 厖 大 であるためか 考 察 対 象 とする 説 話 を 選 別 している この 選 別 のやり 方 の 差 異 によって 同 じ 問 題 を 俎 上 に 載 せながら 違 う 結 論 が 導 かれた のではないか 本 稿 では 今 昔 物 語 集 における 聖 と 聖 人 説 話 を 恣 意 的 に 選 別 することを せず 全 巻 全 話 を 研 究 視 野 に 入 れる このことは 先 行 研 究 による 特 定 の 説 話 にある 特 定 の 意 義 を 軽 視 することではなく 本 稿 でもそうした 考 察 は 私 なりの 考 えに 基 づいて 試 みている 今 回 の 調 査 の 結 果 今 昔 物 語 集 聖 聖 人 の 用 例 が 天 竺 部 震 旦 部 本 朝 部 において 微 妙 に 差 異 があるこ とを 発 見 したので それぞれの 部 ごとに 分 け 巻 の 順 にまとめて 示 すこととした 天 竺 部 において 聖 と 聖 人 に 関 わる 説 話 が 15 話 19 例 ある 聖 聖 人 関 連 説 話 が 出 現 するのは 巻 二 第 29 話 であるが その 前 に 位 置 する 説 話 には 聖 の 所 ( 巻 一 第 4 話 の 跋 迦 仙 人 の 修 行 道 場 など) 聖 の 教 え という 用 例 もある これは 後 の 説 話 にある 聖 と 聖 人 の 用 例 を 考 える 際 に 視 野 には 入 れておくべきことであろうが 考 察 対 象 からは 省 いた 天 竺 部 における 説 話 の 聖 人 はほとんど 羅 漢 菩 薩 を 指 す このことの 意 味 するところは 第 一 に 聖 人 たちは 仏 教 者 として 認 められても 仏 そのものと 等 しいわけではないこと 第 二 に 仏 教 者 と して 聖 別 されているということである ( 婆 羅 門 の 妻 の 不 倫 を) 大 羅 漢 自 然 ニ 見 ツ 妻 有 テ 此 事 ヲ 羅 漢 夫 ニ 語 ラム 事 ヲ 恐 レテ 賊 人 ヲ 教 ヘテ 此 ノ 羅 漢 ヲ 殺 シツ 波 斯 匿 王 此 事 ヲ 聞 テ 云 ク 我 ガ 国 ノ 内 ニ 貴 ク 止 事 無 カリツル 証 果 ノ 聖 人 ノ 大 羅 漢 婆 羅 門 ノ 妻 ノ 為 ニ 被 殺 レヌ ( 巻 二 第 29 話 ) 仏 ノ 宣 ハク 汝 ガ 家 ニ 一 人 ノ 聖 人 来 テ 施 ヲ 受 ク 僧 即 チ 王 前 ニ 来 テ 神 変 ヲ 現 ジテ 虚 空 ニ 昇 テ 涅 槃 ニ 入 ニキ ( 巻 三 第 14 話 ) 一 人 ノ 優 婆 塞 答 テ 出 来 レリ 獄 門 ヲ 出 テ 忽 ニ 十 八 変 ヲ 現 ジテ 光 ヲ 放 テ 虚 空 ニ 昇 ル 其 ノ 時 国 王 ノ 使 此 ノ 人 ニ 問 テ 云 ク 汝 ヂ 何 ノ 故 有 テカ 羅 漢 ノ 聖 者 トシテ 獄 ニ 被 禁 レ 給 ヘルゾ ト 羅 漢 答 テ 云 ク 我 羅 漢 果 ヲ 得 タリト 云 ヘドモ ト 云 テ 即 チ 光 ヲ 放 テ 虚 空 ニ 昇 テ 失 ヌ ( 巻 三 第 17 話 ) 途 中 ニシテ 二 人 ノ 沙 弥 俄 ニ 十 八 変 ヲ 現 ジ 菩 薩 普 現 三 昧 ニ 入 テ 光 ヲ 放 テ 法 ヲ 説 キ 施 主 此 ヲ 見 ルニ 希 有 ノ 思 ヒヲ 成 ス 然 レバ 此 ハ 羅 漢 ノ 聖 者 也 ケリ 位 高 ク 無 上 菩 薩 ト 申 ス ( 巻 三 第 18 話 ) ここまでは 仏 在 世 時 の 例 である 例 を 見 てわかるように 羅 漢 果 を 得 た 6 人 が 聖 人 と 呼 ばれて いる 神 通 力 は 羅 漢 果 位 の 条 件 ではないが これらの 説 話 の 聖 者 聖 人 は 例 外 なく 自 分 の 非 凡 な 神 通 力 を 現 している 羅 漢 果 は 仏 より 授 かるいわば 伝 道 師 としての 免 許 皆 伝 なのである 従 って 仏 滅 後 にはこの 表 現 が 微 妙 に 異 なる 今 ハ 昔 天 竺 ニ 仏 ノ 涅 槃 ニ 入 給 テ 後 迦 葉 尊 者 ヲ 以 テ 上 座 トシテ 千 人 ノ 羅 漢 集 リ 座 シテ 大 小 乗 ノ 経 ヲ 結 集 シ 給 フ 迦 葉 ノ 云 ハク 此 ノ 千 人 ノ 羅 漢 ノ 中 ニ 九 百 九 十 九 人 ハ 既 ニ 無 学 ノ 聖 者 也 阿 難 尊 者 勝 レタル 人 也 ( 巻 四 第 1 話 ) 無 学 とはもう 仏 から 学 ぶものがないということで これも 免 許 皆 伝 の 意 味 として 羅 漢 果 を 得 るこ とと 同 義 と 考 えていいだろうが やはり 仏 ノ 涅 槃 ニ 入 給 テ 後 では 言 い 方 を 変 えていることに 注

115 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 375 目 したい 今 ハ 昔 天 竺 ニ 仏 ノ 涅 槃 ニ 入 給 テ 後 羅 睺 羅 臂 ヲ 延 ベテ 曰 ク 此 ハ 仏 ノ 在 世 ノ 時 ノ 飯 也 断 惑 ノ 聖 人 ノ 食 也 其 ノ 時 ニ 羅 睺 羅 ノ 云 ク 世 ニ 聖 人 皆 失 テ 末 世 ニ 仁 王 経 講 ゼム 所 ハ ( 巻 四 第 2 話 ) これは 仏 在 世 時 の 僧 のことであるから 羅 漢 果 を 得 たと 表 現 してもいいところを 敢 えて 傍 線 箇 所 のような 表 現 にしているのは 仏 滅 後 の 会 話 であるからであろう 今 ハ 昔 天 竺 ニ 阿 育 王 ト 申 ス 大 王 御 ケリ 菩 提 樹 寺 ニ 一 人 ノ 羅 漢 在 マス 三 明 六 通 明 カニシ テ 人 ヲ 利 益 スル 事 仏 ノ 如 シ 也 大 王 此 ノ 羅 漢 ヲ 請 ジテ 申 シ 給 ハク 願 クハ 聖 人 慈 悲 ヲ 以 テ 我 ガ 子 ノ 拘 那 羅 太 子 ノ 眼 ヲ 本 ノ 如 クニ 令 得 メ 給 ヘ ( 巻 四 第 4 話 ) これは 仏 滅 後 百 年 という 伝 承 のある 阿 育 王 時 代 の 聖 人 である ここでは 傍 線 のように 仏 のよ うであることを 属 性 としている 今 ハ 昔 天 竺 ニ 優 婆 崛 多 ト 申 ス 証 果 ノ 羅 漢 在 マス 人 ヲ 利 益 スル 事 仏 ノ 如 シ 亦 法 ヲ 説 テ 諸 ノ 人 ヲ 教 化 シ 給 フ 世 ノ 人 来 テ 法 ヲ 聞 クニ 皆 利 益 ヲ 蒙 テ 罪 ヲ 滅 ス 然 レバ 世 挙 テ 指 合 ヘル 事 無 限 シ 女 本 ノ 天 魔 ノ 形 ニ 成 リテ 優 婆 崛 多 ノ 許 ニ 来 リ 手 ヲ 摺 テ 云 ク 願 ハクハ 聖 人 此 ヲ 取 去 ケ 給 ヘ 然 レバ 優 婆 崛 多 天 魔 ヲ 降 伏 シ 衆 生 ヲ 利 益 スルコト 仏 ニ 不 異 ズトナム 語 リ 伝 ヘ タルトヤ( 巻 四 第 8 話 ) これは 仏 滅 後 の 証 果 ノ 羅 漢 の 例 である 優 婆 崛 多 は 阿 育 王 の 師 で 阿 育 王 経 によれば 仏 滅 後 百 年 めに 世 に 出 て 無 相 仏 として 衆 生 教 化 することを 仏 から 記 別 されていたという 伝 説 のある 高 僧 であるから こうした 例 外 も 認 められたのか 傍 線 のように 仏 のごとく 人 を 教 化 し 救 ったとい うことでは 巻 四 第 4 話 と 同 じで やはり 仏 滅 後 の 聖 人 の 基 本 条 件 は 仏 のごとく であることのよ うだ 天 竺 ニ 陀 楼 摩 和 尚 ト 申 ス 聖 人 在 マス 此 ノ 人 五 天 竺 ニ 不 行 至 ヌ 所 无 ク 行 テ 諸 ノ 比 丘 ノ 所 行 ヲ 善 ク 見 テ 世 ニ 伝 ヘ 給 フ 人 也 碁 ヲ 打 ツヲ 役 ト 為 ル 者 メリト 見 テ 還 リ 出 ヌ 陀 楼 摩 和 尚 猶 此 二 人 ハ 樣 有 ル 者 ナラム ト 思 ヒテ 還 テ 其 ノ 碁 打 ツ 房 ニ 入 給 ヒヌ 二 人 ノ 古 老 ノ 碁 打 ツ 傍 ニ 居 テ 見 給 ヘバ 一 局 打 チ 畢 テ 一 人 ノ 古 老 ハ 起 ヌ 今 一 人 古 老 ハ 居 タリ 二 人 ノ 古 老 答 テ 云 ク 我 等 年 来 碁 ヲ 打 ヨリ 外 ノ 他 ノ 事 无 シ 但 シ 黒 勝 ツ 時 ニハ 我 ガ 身 ノ 煩 悩 増 リ 白 勝 ツ 時 ニハ 我 ガ 心 ノ 菩 提 増 リ 煩 悩 ノ 黒 ヲ 打 チ 随 ヘテ 菩 堤 ノ 白 ノ 増 ルト 思 フ 此 ニ 付 テ 我 ガ 无 常 ヲ 観 ズレバ 其 ノ 功 徳 忽 ニ 顯 ハレテ 證 果 ノ 身 トハ 成 レル 也 ト 云 フヲ 聞 クニ 涙 雨 ノ 如 ク 落 テ 悲 キ 事 无 限 シ 和 尚 ノ 云 ク 我 等 愚 カニシテ 年 来 證 果 ノ 羅 漢 ト 不 知 シテ 蔑 リ 軽 メケル 事 ヲゾ 悔 ヒ 悲 ケル ( 巻 四 第 9 話 ) 仏 在 世 の 聖 人 は 羅 漢 果 を 得 た 羅 漢 であり この 説 話 の 同 じ 宇 治 拾 遺 物 語 には 達 磨 (この 陀 楼 摩 和 尚 は 禅 宗 の 開 祖 の 達 磨 と 混 同 しているという 考 え 方 7 に 従 っておく)は 聖 人 と 呼 ばれず 今 昔 物 語 集 において 仏 滅 後 暫 くは 仏 のごとき 僧 が 聖 人 と 呼 ばれたのが こ こに 来 て 聖 人 の 属 性 に 変 化 が 見 られる ここで 登 場 する 無 名 の 老 僧 たちは 凡 俗 の 理 解 を 越 えた 賢 人 であることで 聖 人 と 呼 ばれているのに 対 して 宇 治 拾 遺 物 語 は 証 果 ノ 上 人 と 呼 ば れている 換 言 すればこの 老 僧 は 智 恵 が 傑 出 していることで 聖 人 と 呼 ばれているのであって 羅 漢 果 とか 仏 のごとく あることは 条 件 になっていない 有 名 な 天 竺 僧 であることで 聖 人 と 称 しているのである 同 様 に 竜 樹 菩 薩 ( 巻 四 第 24/25 話 ) 提 婆 菩 薩 ( 同 第 25 話 ) 無 着 菩 薩 ( 同 第 26 話 ) 世 親 菩 薩 ( 同 巻 同 話 ) 護 法 菩 薩 ( 同 第 27 話 ) 清 弁 菩 薩 ( 同 巻 同 話 )など 有 名 な 天 竺 僧 はそれぞれに 菩 薩 の 称 号 と 共 に 聖 人 と 呼 ばれている 以 下 天 竺 部 における 聖 と 聖 人 の 用 例 が 仏 在 世 時 と 仏 後 で 差 があることを 詳 しく 考 察 し

116 376 동아시아 인문전통과 문화역학 よう 天 竺 部 において 巻 四 は 聖 人 の 説 話 の 最 も 集 中 している 巻 である 巻 四 は 仏 滅 後 の 説 話 で 仏 滅 時 点 で 分 割 すると その 前 後 で 羅 漢 に 対 する 呼 称 は 微 妙 に 変 化 している 仏 在 世 時 代 の 羅 漢 は 多 くが 尊 者 と 呼 ばれている 釈 迦 如 来 ノ 御 弟 子 舎 利 弗 尊 者 ( 巻 一 第 9 話 ) 宮 ノ 内 ノ 女 人 有 リテ 尊 者 ヲ 請 ズ 尊 者 女 人 ノ 中 ニ 入 テ 法 ヲ 説 カム 事 不 許 ズ ( 巻 一 第 23 話 ) 阿 難 を 尊 者 と 称 す( 巻 一 第 26 話 ) 舎 利 弗 を 尊 者 と 称 す( 巻 一 第 27 話 ) 迦 葉 を 尊 者 と 称 す( 巻 一 第 32 話 ) 迦 旃 延 を 尊 者 と 称 す( 巻 二 第 7 話 ) 仏 ノ 御 弟 子 薄 拘 羅 尊 者 ( 巻 二 第 20 話 ) 仏 ノ 御 弟 子 満 足 尊 者 ( 巻 二 第 37 話 ) 仏 ノ 御 弟 子 目 連 尊 者 ( 巻 三 第 3 話 同 第 24 話 ) 仏 ノ 御 弟 子 賓 頭 盧 尊 者 ( 巻 三 第 23 話 )などの 説 話 が 見 られる 尊 者 は 梵 語 でAmacronであり 漢 訳 として 聖 者 尊 者 と 呼 ばれている 8 仏 滅 後 の 説 話 でも 迦 葉 尊 者 ( 巻 四 第 1 話 ) 舎 利 弗 尊 者 ( 同 第 19 話 ) 賓 頭 盧 尊 者 ( 同 第 26 話 )などと 仏 在 世 時 代 の 羅 漢 は 尊 者 と 呼 ばれている 仏 滅 後 に 羅 漢 になった 人 は 尊 者 と 呼 ばれない 優 婆 崛 多 は 羅 漢 果 位 を 得 たが 仏 と 同 じように 衆 生 を 利 益 する 聖 人 と 呼 ばれ 尊 者 ではない 仏 在 世 の 羅 漢 でも 聖 人 聖 者 と 呼 ばれる 例 もある 前 掲 の 巻 二 第 29 話 巻 三 第 14 話 同 第 17 話 同 第 18 話 などであるが いずれも 会 話 文 中 に 用 いられた 例 であることに 注 意 すべきであ る これは 聖 人 は 尊 者 聖 者 の 口 語 的 表 現 でもあるということであり 換 言 すれば 尊 者 よりも 聖 人 の 方 がより 敷 衍 された 表 現 であったと 言 うことでもある 総 じて 尊 者 聖 者 聖 人 は 天 竺 部 において 羅 漢 のことを 指 すが 仏 在 世 中 の 羅 漢 果 位 の 仏 弟 子 は 尊 者 と も 聖 人 聖 者 とも 呼 ばれるのに 対 して 仏 滅 後 の 羅 漢 や 菩 薩 は 聖 人 とは 呼 ばれても 尊 者 と 呼 ばれることはない 尊 者 とは 本 質 的 に 帰 依 すべき 仏 との 親 密 度 を 示 す 言 葉 であるのに 対 し て 聖 人 は 救 済 すべき 世 間 との 関 わりを 示 す 語 であるからであろう このように 見 れば 聖 人 には 尊 者 よりも 大 乗 的 であり 超 域 的 な 側 面 がある 用 語 と 言 えよう このような 聖 人 尊 者 羅 漢 は 釈 迦 = 仏 法 の 側 に 属 するものとして 魔 王 外 道 と 対 立 している 前 者 は 後 者 と 術 競 べにおいて 勝 ることで 仏 法 の 優 越 を 伝 えるという 構 造 になっ ている これは 本 朝 部 にも 引 き 継 がれる 構 造 である ここでこれらの 登 場 人 物 の 登 場 箇 所 と 対 立 構 造 についてまとめておこう 今 昔 物 語 集 天 竺 部 の 仏 法 興 隆 者 と 反 仏 法 者 巻 1 第 6 話 < 釈 迦 成 道 > 巻 1 第 9 尊 者 舎 利 弗 神 通 力 比 べ 巻 1 第 10 釈 迦 巻 1 第 12 釈 迦 巻 1 第 23 尊 者 比 丘 影 勝 王 教 化 巻 1 第 26 尊 者 阿 難 新 弟 子 教 化 巻 1 第 27 尊 者 舎 利 弗 新 弟 子 授 戒 巻 1 第 32 尊 者 迦 葉 目 連 貧 夫 婦 教 化 巻 2 第 7 尊 者 迦 旃 延 貧 女 教 化 巻 2 第 20 尊 者 薄 牯 羅 長 命 の 仏 弟 子 魔 王 釈 迦 成 道 を 妨 げようとする 外 道 提 婆 達 多 破 僧 出 仏 身 血 蓮 華 比 丘 殺 害 外 道 釈 迦 暗 殺 失 敗

117 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 377 巻 2 第 37 尊 者 満 足 餓 鬼 界 巡 歴 の 神 通 力 巻 3 第 3 尊 者 目 連 飛 行 の 神 通 力 巻 3 第 23 尊 者 賓 頭 廬 慳 貪 女 教 化 巻 3 第 24 尊 者 目 連 弟 教 化 < 涅 槃 > 巻 4 巻 1 尊 者 迦 葉 阿 難 結 集 主 催 長 者 巻 4 巻 5 聖 人 ( 名 は 欠 字 ) 熱 湯 を 冷 ます 神 通 力 巻 4 巻 6 証 果 ノ 羅 漢 優 婆 崛 多 弟 子 教 化 巻 4 巻 7 証 果 ノ 羅 漢 優 婆 崛 多 仏 在 世 時 聞 取 巻 4 巻 8 証 果 ノ 羅 漢 優 婆 崛 多 天 魔 教 化 巻 4 巻 9 聖 人 ダルマ 天 竺 の 隠 僧 訪 問 巻 4 巻 19 尊 者 目 連 鼠 教 化 巻 4 巻 24 聖 人 龍 樹 外 法 の 虚 しさを 知 る 巻 4 巻 25 聖 人 龍 樹 提 婆 智 恵 の 伝 法 逸 話 巻 4 巻 26 聖 人 無 着 世 親 神 通 力 の 伝 法 逸 話 巻 4 巻 27 聖 人 護 法 清 弁 執 金 剛 神 に 会 う 巻 5 巻 4 聖 人 一 角 仙 人 女 に 通 力 を 奪 われる 天 魔 外 法 による 隠 形 と 后 強 姦 天 竺 部 において 聖 聖 人 聖 者 は 原 則 として 仏 教 者 にのみ 用 いられている 一 つの 例 外 は 巻 五 第 4 説 話 の 一 角 仙 人 の 話 である 今 昔 天 竺 ニ 一 人 ノ 仙 人 有 ケリ 名 ヲバ 一 角 仙 人 ト 云 フ 額 ニ 角 一 ツ 生 タリ 而 ル 間 ニ 幽 ナル 窟 ノ 側 ニ 苔 ノ 衣 ヲ 着 タル 一 人 ノ 聖 人 有 リ 痩 セ 羸 レテ 身 ニ 肉 无 シ 聖 人 ノ 云 ク 少 シ 觸 レバヒ 申 サムトナム 思 フ ト 糸 強 々シ 氣 ニ 月 无 氣 ニ 責 メ 云 フニ 其 ノ 山 ニ 住 ム 一 角 仙 人 ト 云 フ 聖 人 ケカラ 女 ヲ 負 王 城 ヘ 入 トテ 聖 人 止 事 无 人 也 ト 聞 テ 敬 ヒ 畏 リテ 速 ニ 還 リ 給 ヒ ネ ト 有 レバ 空 ヲ 飛 テ 行 シ 心 ニ 此 ノ 度 ハ 逶 ヒ 倒 レテゾ 還 ニケル カク 嗚 呼 ナル 聖 人 コソ 有 ケ レトナム 語 リ 伝 ヘタルトヤ ( 巻 五 第 4 話 ) 仙 人 の 梵 語 は Rdotblw である 楞 厳 経 第 八 阿 難 復 有 従 人 不 依 正 覚 修 三 摩 地 別 修 妄 念 存 想 固 形 游 山 林 人 不 及 処 有 十 種 仙 ( 中 略 ) 此 等 皆 于 人 中 練 心 不 修 正 覚 別 得 生 理 寿 千 万 歳 休 止 深 山 或 大 海 島 絶 于 人 境 斯 亦 輪 廻 妄 想 流 転 不 修 三 昧 報 尽 還 来 散 入 諸 趣 とあるよ うに 人 は 仏 法 修 行 によらず 仙 術 によって 長 寿 や 神 通 力 は 得 られるが 悟 り( 正 覚 )を 得 ない 限 りは 輪 廻 の 苦 から 逃 れられないと 説 く 仏 は 修 行 期 間 の 初 期 には 仙 人 に 師 事 したものの やがてそ の 無 益 を 悟 り 離 れていった 仏 は 成 道 後 縁 のあった 外 道 仙 人 を 仏 道 に 導 く 天 竺 部 においてこれ ら 仙 人 は 聖 人 と 呼 ばれなかった たとえば 仏 の 初 期 修 行 時 代 の 師 であった 跋 伽 仙 人 阿 羅 邏 仙 人 迦 蘭 仙 人 ( 巻 一 第 5 話 同 第 7 話 ) 文 殊 菩 薩 の 法 を 説 いた 鉱 山 の 仙 人 ( 巻 三 第 2 話 ) 聖 所 遊 居 の 仙 人 ( 巻 五 第 5 話 ) 仏 出 世 前 の 提 婆 那 延 仙 人 ( 巻 五 第 30 話 )などである 引 用 した 巻 五 第 4 話 は 例 外 である 出 典 の 大 智 度 論 十 七 呵 触 欲 によれば 一 角 仙 人 は 釈 迦 の 前 世 であったとされていることから 一 角 仙 人 を 聖 人 と 呼 んだものか この 推 測 を 裏 付 ける のが 巻 五 第 10 話 の 国 王 に 諸 悪 莫 作 諸 善 奉 行 の 法 文 を 伝 えた 仙 人 の 逸 話 で 七 仏 通 戒 偈 を 説 くのであるから 仏 教 者 に 違 いないにも 関 わらず これが 提 婆 達 多 の 前 身 であったので 聖 人 とは 呼 ばれず 仙 人 とのみ 称 されたものと 考 えられる そうした 前 世 譚 との 連 動 ばかりでなく 聖

118 378 동아시아 인문전통과 문화역학 人 の 超 域 的 な 側 面 が 人 々に 畏 敬 されている 超 能 力 者 である 天 竺 の 仙 人 を 日 本 の 読 者 に 伝 える のに 適 切 な 用 語 と 認 識 されたという 側 面 もあるに 違 いない 三 震 旦 部 における 聖 人 説 話 震 旦 部 には 聖 人 説 話 が11 話 ある 聖 に 関 する 説 話 はない 震 旦 部 の 聖 人 説 話 は 全 て 仏 教 者 に 関 するものである その 用 語 の 使 われ 方 には 天 竺 部 と 大 きな 違 いがある 震 旦 部 冒 頭 には 聖 人 説 話 群 がある これを 鳥 瞰 すると 今 昔 物 語 集 には 原 拠 が 中 国 からの 説 話 であってもそれ をそのまま 転 載 するのではなく 聖 人 の 用 語 とその 用 法 について 独 自 の 基 準 でまとめ 直 してい ることに 気 がつく 震 旦 部 に 登 場 する 聖 人 の 相 当 数 が 渡 来 人 ( 非 中 国 人 )であるが 特 に 巻 六 最 初 の 説 話 群 に 顕 著 である こうした 今 昔 物 語 集 にいう 聖 人 たちは 原 拠 ではそう 称 され ていない 場 合 も 多 い 今 昔 物 語 集 には 独 自 の 聖 人 の 基 準 があって 原 拠 はそれに 従 って 整 理 しなおされているのである たとえば 摩 騰 迦 竺 法 蘭 を 他 国 ヨリ 止 事 無 聖 人 ( 巻 六 第 2 話 ) 達 磨 和 尚 ト 云 フ 聖 人 ( 同 第 3 話 ) 康 僧 会 三 蔵 ト 申 ス 聖 人 ( 同 第 4 話 ) 仏 陀 波 利 ト 云 フ 聖 人 ( 同 第 10 話 )などの 説 話 における 聖 人 は 全 て 天 竺 からの 渡 来 者 である 巻 六 第 5 話 の 鳩 摩 羅 焔 ト 申 ス 聖 人 は 天 竺 から 亀 茲 国 に 来 てその 王 女 との 間 に 生 まれた 子 が 中 国 への 仏 教 伝 道 に 多 大 の 業 績 を 残 した 鳩 摩 羅 什 である 巻 六 第 6 話 の 玄 奘 法 師 ト 申 ス 聖 人 と 巻 六 第 42 話 の 義 浄 三 蔵 ト 申 ス 聖 人 は 中 国 人 ではあるが 天 竺 へ 求 法 の 旅 に 出 て 帰 ってきた 人 であることに 渡 来 人 的 性 格 を 見 いだせよう 天 竺 は 仏 教 の 聖 地 であり そこからの 直 伝 であることに 中 国 での 布 教 に 権 威 と 正 統 性 が 付 与 されたことを 今 昔 物 語 集 は 伝 えている 震 旦 部 の 聖 人 説 話 では 聖 人 が 仏 経 典 の 力 によって 奇 跡 を 現 出 するものが 多 く 見 られる 次 に 天 竺 部 との 違 いについて 見 てみよ う 今 昔 震 旦 ノ 并 洲 ニ 一 ノ 寺 有 リ 名 ヲバ 石 壁 寺 ト 云 フ 僧 ノ 夢 ニ 二 人 ノ 児 出 来 テ 僧 ニ 向 テ 云 ク 我 等 前 世 ニ 少 罪 ヲ 犯 セルニ 依 テ 鴿 ノ 子 ト 生 レテ 聖 人 ノ 房 ノ 檐 ニ 有 リシ 間 聖 人 ノ 常 ニ 法 花 経 及 ビ 金 剛 般 若 経 ヲ 転 読 シ 給 ヒシヲ 聞 シ 功 徳 ニ 依 テ 今 人 間 ニ 生 ズル 事 可 得 シ ( 巻 七 第 10 話 ) 今 昔 震 旦 ノ 会 稽 山 ト 云 フ 所 ニ 一 人 ノ 僧 住 シケリ 昼 夜 ニ 法 花 経 ヲ 読 誦 シテ 六 時 ニ 礼 懺 ヲ 行 ズル 事 不 止 ラズ 亦 人 有 テ 不 入 ズト 云 ヘドモ 瓶 ノ 水 毎 朝 ニ 自 然 ラ 満 タリ 実 ニ 此 レ 諸 天 童 子 ノ 給 仕 セル 也 一 人 ノ 小 児 来 テ 弘 明 ガ 法 花 経 ヲ 誦 スルヲ 聞 ク 小 児 答 テ 云 ク 我 レ 聖 人 ノ 行 業 ヲ 聞 クニ 依 テ 来 テ 法 花 経 ヲ 読 誦 シ 給 フヲ 聞 ク 願 ハクハ 聖 人 慈 悲 ヲ 垂 レ 給 テ 我 ガ 此 ノ 苦 ヲ 救 ヒ 給 ヘ ト 弘 明 即 チ 法 ヲ 説 テ 小 児 ヲ 教 化 ス( 巻 七 第 17 話 ) 今 昔 震 旦 ノ 予 洲 ニ 恵 果 和 尚 ト 申 ス 聖 人 在 シケリ 法 花 経 一 部 ヲ 書 写 シテ 彼 ノ 鬼 ノ 為 ニ 中 会 ヲ 設 テ 供 養 シツ ( 鬼 ) 我 レ 既 ニ 聖 人 ノ 徳 ニ 依 ルガ 故 ニ 鬼 ノ 道 ヲ 免 レテ 生 ヲ 改 ル 事 ヲ 得 タ リ ト 告 グト 見 テ 夢 覚 ヌ 其 ノ 後 和 尚 弥 ヨ 法 花 経 ノ 威 力 ノ 新 タナル 事 ヲ 貴 テ ( 巻 七 第 21 話 ) こうした 経 典 ( 法 華 経 等 )の 験 力 を 記 すことに 主 眼 が 置 かれている 説 話 は 天 竺 部 の 聖 人 の 神 通 力 譚 にはない 天 竺 部 では 巻 四 第 1 話 に 今 ハ 昔 天 竺 ニ 仏 ノ 涅 槃 ニ 入 給 テ 後 迦 葉 尊 者 ヲ 以 テ 上 座 トシテ 千 人 ノ 羅 漢 皆 集 リ 座 シテ 大 小 乗 ノ 経 ヲ 結 集 シ 給 フ 大 小 乗 ノ 経 ヲ 結 集 ス 此 阿 難 ノ 詞 ナ リ 然 レバ 仏 ノ 御 弟 子 ノ 中 ニ 阿 難 尊 者 勝 レタル 人 也 ト 皆 知 リヌトナム 語 リ 伝 タルトヤ とあるよ うに 経 典 を 後 世 に 伝 えた 仏 弟 子 こそが 最 高 の 弟 子 だと 言 う 考 え 方 に 経 典 尊 重 の 原 点 が 明 示 され ている さらに 巻 四 第 40 話 は 法 華 経 書 写 の 為 に 髪 を 売 ろうとした 女 に 奇 瑞 が 起 こった 逸 話 で 僧

119 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 379 が 介 在 していないが 法 花 ノ 験 力 ノ 新 ナル 事 如 此 シトナム 語 リ 伝 ヘタルトヤ と 結 んでいる すでに 天 竺 部 にも 経 典 を 尊 重 すべきこととその 功 徳 を 説 く 説 話 があったのである ここに 中 国 にお ける 伝 教 の 聖 人 像 が 結 合 して 経 典 の 験 力 を 背 景 に 布 教 を 進 める 震 旦 部 の 聖 人 説 話 群 が 現 れたので ある 震 旦 部 のこうした 説 話 群 は 本 朝 部 の 持 経 修 行 に 関 する 聖 人 説 話 の 原 型 ともなっている 震 旦 部 の 聖 人 説 話 のいくつかは 中 国 固 有 の 仙 人 伝 説 と 融 合 している 天 竺 部 では 仙 人 は 原 則 として 外 道 の 有 徳 者 神 通 力 者 への 呼 称 であった 震 旦 部 では 仙 人 の 意 味 が 変 わる 今 昔 震 旦 ノ 斉 ノ 代 ニ 僧 有 リ 名 ヲ 曇 鸞 ト 云 フ 其 ノ 人 震 旦 ノ 仙 経 十 巻 ヲ 伝 へ 得 テ 閑 ナル 所 ニ 隠 レ 居 テ 専 ニ 仙 術 ヲ 学 ス 三 蔵 菩 薩 観 無 量 寿 経 ヲ 以 テ 曇 鸞 ニ 授 テ 宣 ハク 此 ノ 大 仙 ノ 法 ヲ 修 行 スレバ 永 ク 生 死 ヲ 離 レテ 解 脱 ヲ 得 ル 也 ( 巻 六 第 43 話 ) ここでは 今 昔 物 語 集 は 道 家 の 経 典 を 仏 教 典 に 準 じて 仙 経 と 呼 んでいるのは 仏 教 者 とし ての 視 点 と 言 えよう 三 蔵 菩 薩 が 仏 法 を 仙 経 を 上 回 る 奇 跡 の 法 という 意 味 で 大 仙 之 法 と 呼 んでいる 9 のも 道 教 を 捨 てようとする 仏 教 者 側 の 言 い 方 と 言 えよう こうした 道 家 仙 経 の 長 生 術 を 捨 てさせ 仏 教 の 生 死 離 脱 法 を 学 ばせることは 仏 教 側 からすれば 中 国 土 着 の 道 教 との 妥 協 策 でもあ った 古 代 中 国 における 仏 家 と 道 家 の 論 争 を 反 映 した 説 話 も 数 多 く 伝 わっている 漢 明 帝 問 摩 勝 法 師 仏 道 中 亦 有 仙 号 不 曰 仙 者 并 修 梵 行 多 諸 技 術 是 以 為 世 所 尚 仏 初 成 道 時 坐 于 菩 提 樹 下 世 人 未 識 是 仏 光 顕 照 咸 言 摩 訶 大 仙 生 未 曾 有 也 舎 利 弗 目 連 等 坐 臥 空 中 神 化 自 在 各 相 謂 言 此 是 大 仙 弟 子 也 仏 以 随 機 応 顕 仙 号 生 焉 ( 祖 庭 事 苑 二 ) 下 線 部 から 分 かるように 仏 の 神 通 広 大 を 現 すために 仏 を 大 仙 と 呼 ぶ 仙 は 仏 教 伝 道 時 の 教 化 のための 便 宜 的 な 用 語 であった 要 するに 中 国 土 着 の 仙 の 概 念 を 用 いて 仏 教 を 時 人 に 敷 衍 するためのものであった 般 若 論 に 声 聞 菩 薩 亦 名 仙 仏 于 中 最 尊 上 故 已 有 一 切 波 羅 蜜 多 功 徳 善 根 彼 岸 故 名 大 仙 とある 今 昔 物 語 集 において 仙 人 は 天 竺 部 では 外 道 の 呼 称 であ ったものが 震 旦 部 では 仏 を 説 明 する 語 ともなり 本 朝 部 では 聖 人 とよばれた 仙 人 が 多 く 見 られることとなった 震 旦 部 の 聖 人 は 天 竺 部 ほど 徳 知 兼 備 ではなく 俗 化 した 例 もいくつか 見 られる 巻 十 第 34 話 の 聖 人 は 神 通 力 を 悪 用 して 女 犯 した 結 果 天 狗 になった 話 である この 話 は 経 典 が 原 拠 とさ れるが 同 時 に 太 平 広 記 第 二 百 八 十 五 幻 術 二 ( 出 開 天 伝 信 記 )の 東 明 観 道 士 の 話 と 似 てい る 唐 開 元 中 宮 禁 有 美 人 忽 夜 夢 被 人 邀 去 縦 酒 密 会 極 歓 而 帰 帰 輒 流 汗 倦 怠 后 因 従 容 奏 于 帝 帝 曰 此 必 術 士 所 為 也 汝 若 復 往 但 随 宜 以 物 識 之 其 夕 熟 寐 飄 然 又 往 美 人 半 酔 見 石 硯 在 前 乃 密 印 手 文 於 曲 房 屏 風 之 上 寤 而 具 啓 帝 乃 潜 以 物 色 令 于 諸 宮 観 中 求 之 果 于 東 明 観 得 其 屏 風 手 文 尚 在 所 居 道 士 已 遁 矣 太 平 広 記 の 東 明 観 道 士 は 道 教 の 道 士 今 昔 物 語 集 は 僧 で 共 に 宗 教 家 である 太 平 広 記 では 聖 人 の 呼 称 が 用 いられなかったのに 対 して 今 昔 物 語 集 では 用 いられている 中 国 漢 籍 に 比 較 して 今 昔 物 語 集 震 旦 部 では 俗 化 した 聖 人 像 が 伺 える 震 旦 部 の 聖 人 説 話 たとえば 巻 六 2 竺 法 蘭 巻 六 3 達 摩 巻 六 4 康 僧 会 三 蔵 などはほとんど 高 僧 伝 法 苑 珠 林 が 原 拠 である これら 原 拠 には 聖 聖 人 という 言 葉 が 使 われていない 箇 所 であるにかかわらず 今 昔 物 語 集 では 聖 人 という 称 号 が 与 えられている 今 昔 物 語 集 は 聖 人 の 用 語 と 用 法 に 関 しては 原 典 と 異 なり 独 自 の 基 準 を 設 けていると 考 えられる 今 昔 物 語 集 には 仏 教 をそれ 以 外 の 宗 教 や 思 想 体 系 に 比 べて 優 越 するものとみなす 記 述 意 図 がある 全 巻 にわたって 仏 教 教 義 と 効 験 を 敷 衍 しようというものである このことは 今 昔 物 語

120 380 동아시아 인문전통과 문화역학 集 の 孔 子 逸 話 からも 伺 えられる 孔 子 と 周 公 は 中 国 において 古 代 から 時 代 を 越 えて 認 められた 二 人 の 代 表 的 な 聖 人 である しかし 孔 子 がもっぱら 崇 敬 の 念 をもって 語 られるのは 十 訓 抄 古 今 著 聞 集 などの 鎌 倉 中 期 以 後 の 説 話 集 の 出 現 を 待 たねばならないことが 先 学 により 指 摘 されてい る 10 ここでは 今 昔 物 語 集 震 旦 部 と 同 様 中 国 の 逸 話 を 対 象 としている 唐 鏡 の 例 を 挙 げ よう 第 二 十 四 ノ 主 ヲバ 霊 王 ト 申 キ 孔 子 ハ 生 給 シ 是 ハ 儒 道 菩 薩 ノ 権 化 也 是 モ 天 地 経 ニハ 儒 童 在 彼 号 曰 孔 丘 漸 々 教 化 令 其 孝 順 ト 見 タリ 孔 子 貫 首 ノ 御 弟 子 顔 回 ハ 光 浄 菩 薩 也 仏 遣 三 聖 権 化 一 方 トイヘルハ 老 子 孔 子 顔 回 ノ 御 事 也 此 時 盗 跖 トテ 猛 悪 ノ 者 アリキ 教 化 ノタメニ 孔 子 其 ノ 家 ヘ 行 給 シカドモ 更 ニ 聞 入 レズ 追 返 シ 奉 シヲ 孔 子 仆 トハ 申 也 ( 唐 鏡 第 二 ) 引 用 した 唐 鏡 に 見 られるように 孔 子 は 三 聖 権 化 の 一 人 として 尊 ばれ 鎌 倉 中 期 には 儒 家 老 荘 家 の 始 祖 たちは 菩 薩 という 仏 教 の 称 号 を 与 えられて 仏 家 にも 崇 敬 の 対 象 とされている 沙 石 集 巻 一 第 二 にも 同 じように 孔 子 は 儒 道 菩 薩 の 後 身 と 云 へり 漢 土 に 仏 法 渡 さんとて その 方 便 に 釈 尊 三 人 の 大 聖 をさしつかはしし その 一 人 なり という 記 述 が 見 られ つまり 中 国 で は 仏 法 を 広 めるために 儒 道 迦 葉 光 浄 の 三 人 の 菩 薩 が 孔 子 老 子 顔 回 と 呼 ばれて まず 外 典 でもって 人 の 心 を 和 らげて それから 仏 法 を 流 布 し 人 々に 仏 法 を 信 じさせたのである しかし それよりも 時 代 の 遡 る 宇 治 拾 遺 物 語 今 昔 物 語 集 は 孔 子 を 聖 人 と 認 めなかった なお 今 昔 物 語 集 の 孔 子 説 話 は 宇 治 拾 遺 物 語 と 同 源 の 説 話 と 認 められ 両 書 の 共 通 の 直 接 の 典 拠 たる 本 は 現 在 散 逸 していると 言 われている しかし 本 稿 は 今 昔 物 語 集 の 本 質 を 剔 出 するための 論 考 であるので こうした 逸 書 の 存 否 は 問 わない 今 昔 物 語 集 において 孔 子 関 連 説 話 は 三 話 ある 巻 十 臣 下 孔 子 道 行 値 童 子 問 申 語 第 九 同 孔 子 逍 遥 値 栄 啓 期 聞 語 第 十 同 孔 子 為 盗 跖 行 其 家 怖 返 語 第 十 五 である これら 今 昔 物 語 集 の 記 事 は 原 典 との 差 異 が 少 なくなく 荘 子 系 の 孔 子 譚 を 引 用 することで 道 家 の 語 りとし つつ 儒 家 の 代 表 人 物 及 び 儒 家 思 想 を 批 判 している 今 昔 物 語 集 はなぜ 論 語 孔 子 家 語 など 儒 家 の 正 統 的 な 資 料 を 踏 まえなかったのかに 関 して 今 昔 物 語 集 の 資 料 収 集 能 力 の 限 界 とそこからくるところの 資 料 不 足 11 と 説 明 する 見 解 もある しかしその 論 拠 は 巻 十 第 17 話 の 李 広 復 讐 譚 等 今 昔 物 語 集 には 資 料 不 足 が 明 らかである 逸 話 もあるからと 言 うにすぎない 説 話 は 受 容 者 との 共 通 認 識 が 特 に 重 視 されて 作 られる 仮 に 今 昔 物 語 集 編 纂 者 の 手 元 に 論 語 孔 子 家 語 があっても 受 容 者 に 孔 子 の 話 といえばこれ という 固 定 観 念 があれば それを 前 提 に して 話 を 構 成 するしかない 平 安 時 代 の 一 般 的 な 孔 子 への 認 識 といえば 源 氏 物 語 に 見 られる 孔 子 倒 れ の 用 いられ 方 とか 大 鏡 藤 氏 物 語 にある 孔 子 という 賢 者 は 智 者 も 千 に 一 つは 過 ちをする と 説 いた などの 例 のように 完 璧 な 智 者 などいないことを 知 るものとしての 智 者 いわば 無 知 の 知 を 知 るものというものであった ここに 今 昔 物 語 集 編 纂 者 の 仏 教 を 他 の 思 想 体 系 に 優 越 するとみなす 逸 話 を 集 めるという 本 来 的 な 意 図 が 加 わって 巻 十 第 9 第 10 第 15のような 孔 子 逸 話 群 が 編 纂 されたと 考 えるべきである 巻 十 第 15 話 は 荘 子 雑 篇 盗 跖 が 同 第 10 話 は 荘 子 漁 父 と 列 子 湯 問 が それぞれ 原 拠 である いずれも 宇 治 拾 遺 物 語 と 共 通 するが ここではあえて 日 中 の 説 話 の 表 現 論 理 の 差 異 をはかってみたい 史 記 老 子 韓 非 列 伝 に 荘 子 が 以 下 の 発 言 をしたという 記 事 がある 其 学 無 所 不 窺 然 其 要 本 帰 於 老 子 之 言 故 其 著 書 十 余 万 言 大 抵 率 寓 言 作 漁 父 盗 跖 胠 篋 以 詆 孔 子 之 徒 以 明 老 子 之 術

121 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 381 荘 子 の 発 言 は 孔 子 之 徒 つまり 儒 家 に 対 する 批 判 であったと 言 われている こうした 史 記 の 荘 子 認 識 はその 後 の 中 国 知 識 人 の 基 本 認 識 でもあった しかし 今 昔 物 語 集 が 荘 子 とその 系 に 属 する 孔 子 説 話 を 引 用 した 際 この 認 識 を 単 純 かつ 素 直 に 取 り 入 れることをしなかった 巻 十 第 15 話 は 以 下 を 原 拠 としている 今 吾 れ 子 に 告 ぐるに 人 の 情 を 以 ってせん 目 は 色 を 視 んことを 欲 し 耳 は 声 を 聴 かんこと を 欲 し 口 は 味 を 察 せんことを 欲 し 志 気 は 盈 たさんことを 欲 す 人 の 上 寿 は 百 歳 中 寿 は 八 十 下 寿 は 六 十 なり 病 痩 と 死 喪 と 憂 患 とを 除 けば 其 の 中 口 を 開 きて 笑 ふ 者 は 一 月 の 中 四 五 日 に 過 ぎざるのみ 先 行 研 究 には 今 昔 物 語 集 の 被 讃 ル 者 四 日 五 日 ニ 不 過 ズ と 共 通 する 四 五 日 の 語 は 盗 跖 が 人 情 の 自 然 な 姿 を 説 き 人 の 命 の 短 さをいう 場 面 で その 短 い 寿 命 のうち 口 を 開 けて 笑 っ て 過 ごせるのはひと 月 のうち せいぜい 四 五 日 に 過 ぎないと 限 りある 時 を 充 足 して 過 ごすべきこ とを 述 べているのであって 毀 誉 褒 貶 もつかの 間 などという 居 直 りの 論 理 とは 何 の 関 係 もない 12 と 指 摘 するものもある しかしその 箇 所 ばかりではなく 今 昔 物 語 集 は 盗 跖 の 記 述 を 意 識 的 に 数 カ 所 省 略 したり 改 めたりしている 盗 跖 の 容 貌 について 荘 子 は 以 下 のように 記 述 する 孔 子 曰 丘 聞 之 凡 天 下 有 三 徳 生 而 長 大 美 好 無 双 少 長 貴 賎 見 而 皆 悦 之 此 上 徳 也 知 維 天 地 能 辨 諸 物 此 中 徳 也 勇 悍 果 敢 聚 衆 率 兵 此 下 徳 也 凡 人 有 此 一 徳 者 足 以 南 面 称 孤 矣 今 将 軍 兼 此 三 者 身 長 八 尺 二 寸 面 目 有 光 唇 如 激 丹 歯 如 斎 貝 音 中 黄 鐘 而 名 曰 盗 跖 丘 竊 為 将 軍 恥 不 取 焉 孔 子 曰 わく 丘 之 れを 聞 けり 凡 そ 天 下 に 三 徳 有 り うまれながらにして 長 大 美 好 なる こと 双 び 無 く 少 長 貴 賎 見 て 皆 な 之 れを 悦 ぶは 此 れ 上 徳 なり 維 く 天 地 を 知 り 能 く 諸 物 を 弁 きまえ 此 れ 中 徳 なり 勇 悍 果 敢 にして 衆 を 聚 め 兵 を 率 いるは 此 れ 下 徳 なり 凡 そ 人 此 の 一 徳 有 る 者 は 以 って 南 面 して 孤 と 称 するに 足 る と 今 将 軍 ( 盗 跖 )は 此 の 三 者 を 兼 ねぬ 身 の 長 八 尺 二 寸 面 目 に 光 有 り 唇 は 激 丹 の 如 く 歯 は 斉 貝 の 如 く 音 は 黄 鐘 に 中 たる 而 るに 名 づけて 盗 跖 と 曰 う 丘 窃 かに 将 軍 の 為 めに 恥 じて 取 らず ( 荘 子 新 釈 漢 文 大 系 による) 孔 子 は 世 の 中 には 三 つの 徳 があるという 堂 々たる 体 躯 と 無 双 の 美 貌 で 誰 からも 好 感 を 持 たれるのを 上 徳 とする 天 地 の 事 を 知 り 尽 くし あらゆる 事 を 弁 別 できるのを 中 徳 とする 勇 猛 果 敢 衆 を 集 め 軍 隊 を 統 率 できるのを 下 徳 とする このうち 一 つの 徳 でも 具 えれば 十 分 に 王 侯 になれます といい また 続 いて 将 軍 はこの 三 徳 を 兼 ね 備 えて 身 長 八 尺 二 寸 つやつやとした 顔 色 紅 を 流 したような 唇 貝 を 並 べたような 歯 音 律 にかなった 声 を 持 っておられる と しかし 今 昔 物 語 集 になると 盗 跖 のイメージは 頭 ノ 髪 ハ 三 尺 許 ニ 上 レリ 乱 タル 事 蓬 ノ 如 シ 目 ハ 大 キナル 鈴 ヲ 付 タルガ 如 シテ 見 廻 シ 鼻 ヲ 吹 キイラゝ カシテ 歯 ヲ 上 咋 テ 鬚 ヲイラゝカシテ 居 タリ とあり 原 典 とはなはだしく 距 離 がある 今 昔 物 語 集 撰 者 は 盗 を 名 の 一 部 に 持 つ 者 としてのあり 方 はこうでなければならないという 先 入 観 が あり それが 盗 跖 の 容 貌 表 現 に 反 映 したのであろう 孔 子 がこのような 醜 貌 の 人 に 敗 れることは 三 徳 を 備 えた 君 子 に 敗 れるよりもいっそう 儒 教 の 権 威 が 失 墜 した 記 事 となっている 盗 跖 のイ メージ 増 幅 のあり 方 は 悪 の 権 化 の 象 徴 としてのものであろう しかし 今 昔 物 語 集 の 根 底 にある 仏 教 の 称 揚 とそれ 以 外 の 思 想 体 系 の 劣 位 を 主 張 するという 記 述 態 度 が 現 れたという 一 面 も 無 視 で きないのではないだろうか 荘 子 では 盗 跖 は 孔 子 の 説 を 批 判 した 際 に 子 自 謂 才 士 聖 人 邪 則 再 逐 於 魯 削 跡 於 衛 窮 於 斎 圍 於 陳 蔡 不 容 身 於 天 下 (お 前 は 聖 人 を 自 称 するのか お 前 は 二 度 も 魯 を 追 われ 衛 に 見 捨 てら れ 斉 で 窮 し 陳 と 蔡 で 行 き 詰 まり 天 下 に 身 の 置 き 所 がないではないか)と 痛 罵 した 盗 跖 は 孔 子 を 聖

122 382 동아시아 인문전통과 문화역학 人 に 相 応 しくないと 言 うのだ これは 老 子 の 廃 聖 思 想 と 通 じている 反 面 世 間 が 孔 子 を 聖 人 とみなしていたことを 裏 付 けるという 側 面 もある 今 昔 物 語 集 は 荘 子 のこの 段 については かなりの 記 述 を 踏 まえながら 世 間 が 孔 子 を 聖 人 と 見 なしていたと 推 察 できる 部 分 を 省 いてい ることに 注 目 したい 今 昔 物 語 集 巻 十 第 10 話 は 二 つの 道 家 説 話 を 原 拠 として 組 み 合 わせている 前 半 は 荘 子 の 漁 父 に 後 半 は 列 子 に 原 拠 がある 今 昔 物 語 集 では 漁 父 を 栄 啓 期 と 改 める ことによって 荘 子 の 寓 意 を 用 いた 展 開 という 特 質 を 薄 め 事 実 性 を 高 めることを 意 図 した 今 昔 物 語 集 は 漁 父 とは 大 きく 離 れている 漁 父 では 漁 父 は 孔 子 に 対 して 仁 則 仁 矣 恐 不 免 其 身 苦 心 労 形 以 危 其 真 嗚 呼 遠 哉 其 分 於 道 也 ( 仁 であることは 確 かに 仁 だ だが その 身 の 災 いはおそらく 避 けられまい 心 を 苦 しめ 体 を 疲 れさせて 生 まれつきの 真 実 を 傷 つけ ているのだ ああ 真 の 大 道 を 遠 くはなれている 事 よ )と 批 評 する この 部 分 は 孔 子 の 仁 を 肯 定 しつつ 孔 子 の 不 在 其 位 而 謀 其 政 の 行 為 及 びに 真 からかけ 離 れた 儒 家 学 説 を 批 判 し ている しかし 今 昔 物 語 集 では 孔 子 を 此 レ 極 タル 嗚 呼 人 也 と 何 の 認 める 部 分 もなく 貶 め た 評 価 をしている 今 昔 物 語 集 撰 者 にはいくら 中 国 で 聖 人 とみなされている 孔 子 でも やはり 外 典 を 説 いた 思 想 家 の 一 人 でしかないのである 荘 子 では 孔 子 は 漁 父 の 話 を 聞 いた 時 に 推 琴 而 起 曰 其 聖 人 与 乃 下 求 之 ( 孔 子 は 持 っていた 琴 を 押 しやり 立 ち 上 がって 言 った それは 聖 人 であるかもしれない )とある 今 昔 物 語 集 はこの 箇 所 を 其 レハ 極 タル 賢 キ 人 ニコソ 有 ルナレ と 記 述 している ここで 原 拠 の 聖 人 は 今 昔 物 語 集 になると 賢 キ 人 になった ことが 分 かる 後 代 の 沙 石 集 巻 二 の 七 賢 人 聖 人 の 喩 え において 聖 人 賢 人 の 区 別 があり 賢 人 と 聖 人 とその 風 情 わかれたるが 如 し 賢 人 は 濁 れる 国 に 仕 へば 我 が 心 も 乱 れぬ べき 故 に 耳 を 洗 ひ 牛 を 引 き 君 に 仕 へず 聖 人 は 国 に 仕 へて 光 を 和 げ 涅 にありても 黒 まねば 必 ずしも 山 林 に 跡 を 隠 さず されば 大 隠 朝 にあり と 云 ひて よく 隠 れたる 質 は 朝 市 に 交 はれり という 記 述 が 見 られる つまり 所 謂 聖 人 と 賢 人 の 大 きい 区 別 はないが どちらが 優 れて いるか 微 妙 な 書 き 方 である 荘 子 の 結 末 部 に 故 道 之 所 在 聖 人 尊 之 令 漁 父 之 於 道 可 謂 有 矣 吾 敢 不 敬 乎 ( 道 の 存 在 するところを 聖 人 は 尊 ぶ 今 あの 漁 師 は 道 を 体 得 している 者 と 言 うこ とが 出 来 る だから 私 は 尊 敬 せざるを 得 ないのだ)とある 荘 子 ではもう 一 度 孔 子 の 口 を 借 り て 漁 父 を 道 家 の 化 身 聖 人 と 呼 ばせている これは 道 家 学 説 の 優 位 をいうものであるが 今 昔 物 語 集 はこの 聖 人 の 呼 称 もとらない 仏 教 を 正 統 とみなす 立 場 から 見 れば 道 教 も 儒 教 も 同 じく 外 典 でしかないのだ 今 昔 物 語 集 には 聖 人 認 定 の 基 準 がある 聖 聖 人 は 仏 教 者 に 限 られ 儒 家 は 排 除 される 道 家 の 荘 子 に 関 する 二 つの 説 話 でも 荘 子 は 聖 人 と 称 されず 妻 モ 心 賢 ク 悟 リ 深 カ リケリ つまり 単 なる 賢 い 人 でしかない 震 旦 部 の 巻 六 震 旦 後 漢 明 帝 時 仏 法 渡 語 第 二 に 僧 の 竺 法 蘭 は 道 士 と 術 競 べに 勝 つことで 仏 教 は 道 教 より 優 れることを 説 くが ここで 竺 法 蘭 は 聖 人 と 呼 ばれている 本 朝 部 の 巻 二 十 四 安 倍 晴 明 随 忠 行 習 道 語 第 十 六 に 安 倍 晴 明 は 僧 との 術 比 べで 優 り それを 僧 たちも 認 めながら 聖 人 と 呼 ばれなかった 今 昔 物 語 集 において 聖 聖 人 と 呼 ばれる 人 は 仏 教 の 擁 護 者 布 教 者 などに 限 られている そこには 仏 教 を 思 想 体 系 中 最 勝 と 見 なす 今 昔 物 語 集 の 精 神 がある 四 本 朝 部 における 聖 と 聖 人 説 話 本 朝 部 の 聖 聖 人 説 話 は 多 い 天 竺 部 と 震 旦 部 において 聖 は 人 の 呼 称 として 用 いられ

123 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 383 ることはなかったが 本 朝 部 では 聖 人 とは 別 の 聖 という 人 物 呼 称 が 出 現 する 結 論 を 先 に いえば 聖 は 天 竺 部 の 尊 者 聖 者 聖 人 のように 尊 ばれているものの 震 旦 部 において 世 俗 化 された 聖 人 概 念 を 引 き 継 ぎ 更 に 俗 化 が 進 んだと 言 える 13 本 朝 部 が 震 旦 部 から 引 き 継 いだものがもう 一 つある 先 述 のとおり 震 旦 部 冒 頭 数 話 において 聖 人 が 列 挙 され それを 並 べ 読 むことで 今 昔 物 語 集 の 聖 人 の 基 準 が 伝 わるように 記 述 され ていた 本 朝 部 でも 冒 頭 の 十 二 話 に 同 じような 意 識 化 がなされていると 考 える 但 し 本 朝 部 では 震 旦 部 にはない ( 人 の 称 号 としての) 聖 の 概 念 が 登 場 する この 聖 と 聖 人 の 使 い 分 けは 本 朝 部 冒 頭 の 巻 十 一 において 示 されているのである 聖 は 聖 人 より 優 れた 仏 教 者 としての 条 件 を 満 たす 者 に 限 られ その 分 聖 人 よりも 尊 ばれている 以 下 分 かりやすく 表 にまとめ てみよう 今 昔 物 語 集 巻 十 一 第 1~12 話 巻 十 一 呼 称 誕 生 の 奇 異 幼 時 の 奇 瑞 第 1 聖 徳 太 子 聖 金 色 ナル 僧 来 テ 四 月 ノ 後 言 語 勢 長 リ 第 2 行 基 菩 薩 聖 物 ニ 被 裏 テ 生 レタリ 出 胞 能 言 第 3 役 ノ 優 婆 塞 聖 人 第 4 道 照 聖 人 幼 ニシテ 出 家 シテ 元 興 寺 ノ 僧 ト 成 レリ 智 リ 広 ク 心 直 シ 亦 道 心 盛 リニシテ 貴 キ 事 仏 ノ 如 ク 也 第 5 道 慈 智 者 第 6 玄 昉 僧 幼 クシテ( 欠 字 )ト 云 人 ニ 随 テ 出 家 シテ 法 ノ 道 ヲ 学 ブニ 智 リ 賢 カ リケリ 第 7 婆 羅 門 僧 正 僧 正 第 8 鑑 真 和 尚 聖 人 第 9 弘 法 大 師 聖 聖 人 来 テ 胎 ノ 中 ニ 入 ル 神 童 第 10 伝 教 大 師 聖 幼 キ 時 ヨリ 心 賢 クシテ 第 11 慈 覚 大 師 聖 紫 雲 ヲ 見 テ 驚 テ 今 日 男 子 生 レ 九 才 ニ 出 家 リ ト 第 12 智 證 大 師 聖 朝 日 初 テ 出 テ 光 リ 耀 テ 八 才 ニ 我 レ 願 クハ 其 経 ヲ 読 習 ハムト 思 フ ト 今 昔 物 語 集 において 聖 と 呼 ばれる 六 人 は 伝 教 大 師 最 澄 を 除 いて 誕 生 の 奇 異 譚 と 幼 時 の 奇 瑞 譚 が 二 つながら 詳 しく 記 述 されている 聖 人 と 呼 ばれる 人 物 はその 一 方 だけの 記 述 しかない 今 昔 物 語 集 は 本 朝 仏 法 部 の 冒 頭 において 聖 と 聖 人 を 内 容 的 に 使 いわけている 特 に 後 世 一 般 的 な ~ 聖 ではなく ~ト 云 フ 聖 とするところに 聖 の 尊 称 が 現 われていることに 注 意 したい 表 中 同 じ 聖 であっても 六 人 の 地 位 は 違 う 六 人 中 三 人 は 菩 薩 で 聖 徳 太 子 観 音 菩 薩 行 基 文 殊 菩 薩 弘 法 大 師 第 三 地 菩 薩 の 化 身 とされている 聖 には 神 格 がある と 指 摘 したの は 先 述 の 今 成 論 文 である 誕 生 の 奇 異 と 幼 時 の 奇 瑞 の 記 述 意 図 は 聖 の 超 人 的 な 来 臨 を 述 べることで 聖 徳 太 子 行 基 弘 法 大 師 が 菩 薩 の 化 身 であることの 裏 付 けとしたものであろう こ れは 日 本 霊 異 記 に 見 られる 神 格 と 人 格 の 統 一 ( 今 成 )という 枠 内 にある

124 384 동아시아 인문전통과 문화역학 はじめに で 紹 介 した 前 田 論 文 14 は 今 昔 物 語 集 本 朝 部 の 聖 聖 人 について 仏 ハ 此 レ 大 聖 也 ( 巻 九 第 36 話 ) ( 悉 達 ) 太 子 聖 ノ 道 ヲ 観 ジ 給 ケリ ( 巻 一 第 3 話 )を 根 拠 に < 仏 >=< 聖 >という 観 念 連 想 を 今 昔 物 語 集 はもっていた < 仏 >と 同 一 化 される< 聖 > と するが 先 述 の 通 り 今 昔 物 語 集 天 竺 部 の 聖 人 用 語 を 分 析 した 結 果 聖 人 は 菩 薩 や 羅 漢 であっても 仏 そのものではないこと 大 乗 的 性 格 は 仏 に 通 じても 仏 教 徒 としての 伝 教 的 性 格 が 一 面 においてあることが 明 らかとなった 聖 人 はあくまで 仏 教 徒 であって 教 祖 ではないのだ もとより 聖 人 と 聖 は 別 表 現 である 以 上 本 朝 部 においてのみ< 仏 >=< 聖 >という 観 念 連 想 を 持 っていたと 考 える 余 地 もあるのかもしれないが 一 方 において 聖 聖 人 の 区 分 無 用 論 も 並 立 しているほど 類 似 している 両 語 に それほどの 懸 隔 があることを 前 提 にして 考 察 するのは 性 急 にすぎよう 法 苑 珠 林 巻 五 十 五 破 邪 編 第 六 十 二 は 編 名 の 如 く 仏 教 の 他 の 思 想 体 系 に 対 する 優 位 を 語 る 逸 話 群 であるが ここで 孔 子 自 身 に 釈 迦 が 大 聖 である と 言 わせている 故 史 録 太 宰 嚭 問 孔 子 曰 夫 子 聖 人 与 歟 対 曰 博 識 強 記 非 聖 人 也 又 問 三 王 聖 人 歟 対 曰 三 王 善 用 智 勇 聖 非 丘 所 知 又 問 五 帝 聖 人 歟 対 曰 五 帝 善 用 仁 義 聖 非 丘 所 知 又 問 三 皇 聖 人 歟 対 曰 三 皇 善 用 時 政 聖 非 丘 所 知 太 宰 大 駭 曰 然 則 孰 為 聖 人 乎 夫 子 動 容 而 答 曰 丘 聞 西 方 有 聖 者 焉 不 治 而 不 乱 不 言 而 自 信 不 化 而 自 行 蕩 蕩 乎 人 無 能 名 焉 据 斯 以 言 孔 子 深 知 仏 為 大 聖 也 時 縁 未 升 故 黙 而 識 之 有 機 故 挙 然 未 得 昌 言 其 致 矣 孔 子 深 知 仏 為 大 聖 也 とあるのがそれである 本 来 儒 家 の 用 語 である 大 聖 を 用 いているこ とに 加 えて 三 皇 五 帝 をも 引 き 合 いにしていることで 聖 人 が 仏 教 の 説 明 概 念 として 漢 籍 に 現 われたことを 推 測 させる 天 竺 部 において 尊 者 は 仏 弟 子 にのみ 限 定 されるのに 対 して 聖 人 は 仏 弟 子 にも 羅 漢 にも 菩 薩 にも 用 いられていた 先 述 の 震 旦 部 巻 六 43 話 では 仏 教 を 大 仙 之 法 とも 呼 んでいること を 確 認 した 祖 庭 事 苑 にも 般 若 論 云 声 聞 菩 薩 亦 名 仙 仏 于 中 最 尊 上 故 已 有 一 切 波 羅 蜜 多 功 徳 善 根 彼 岸 故 名 大 仙 とあり 菩 薩 を 仙 仏 のことを 大 仙 と 呼 んでいる 今 昔 物 語 集 にも 採 録 された 康 会 聖 人 の 話 は 高 僧 伝 一 では 于 寺 東 更 立 小 塔 遠 由 大 聖 神 感 近 亦 康 会 之 力 故 図 写 厥 像 傳 之 于 今 であって 聖 人 の 名 は 冠 されずに 仏 = 大 聖 とされてい る また 韓 国 の 海 東 高 僧 伝 (13C) 巻 一 に 釈 迦 のことを 有 大 聖 人 生 於 西 方 西 方 大 聖 人 と 呼 ぶ 例 が 見 られる 大 仙 大 聖 は 仙 聖 という 土 着 の 概 念 を 用 いて 仏 という 輸 入 概 念 を 説 明 する 便 法 上 の 用 語 でしかなく 大 仙 大 聖 という 新 たな 仏 を 当 地 に 現 出 さ せるものではなかった 今 昔 物 語 集 の 聖 についても 基 本 的 には 同 様 に 考 えてよいであろう 本 朝 仏 法 部 も 巻 十 五 にいたっても 聖 人 の 尊 貴 性 はたとえば 名 僧 の 対 義 語 として 用 いら れていることからうかがえる 其 レニ 此 ク 名 僧 ニテ 花 ヤカニ 行 キ 給 ハムハ 本 意 ニ 違 フ 事 也 我 レ 年 老 ヒヌ 生 タラム 程 ニ 聖 人 ニシテ 御 セムヲ 心 安 ク 見 置 テ 死 ナバヤ トコソ 思 ヒシカ ( 巻 十 五 第 30 話 ) 源 信 の 母 は 源 信 にはなやかな 名 僧 ではなく 聖 人 になることを 望 んでいる 聖 人 とい う 用 語 は 名 僧 に 対 するものであり 名 僧 より 聖 人 のほうがランクが 高 いことが 明 らか である 聖 人 は 鎌 倉 期 以 降 には 上 人 という 表 記 もなされるようになった 雑 談 集 巻 五 に 上 人 に 関 して 上 人 ニ 有 多 種 鹿 角 上 人 ヲチゲモナクテ 落 ルナリ 牛 ノフグリ 上 人 ヲチゲニ

125 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 385 テ 落 ズ 牛 角 上 人 ヲチゲニモナクテヲチズ 蜘 蛛 上 人 蜘 ノ 家 ヲ 作 リテ 有 レバ 虫 カヽレバ 取 テ 食 トスル 如 ク 庵 ヲ 結 テ 栖 バ 自 然 ニ 食 物 来 ルヲ 用 也 井 弋 上 人 コレモ 井 弋 ノ 自 然 ニ 万 物 流 カヽレ バ ソレニマカセテアル 如 ク カヽルニシタガヒテ 世 ヲ 渡 ル 也 唐 上 人 唐 ノ 僧 ノ 在 唐 国 云 也 唐 此 ノ 土 上 人 唐 僧 ノ 日 本 ヘ 越 也 如 隆 老 等 此 唐 上 人 日 本 ノ 僧 ノ 度 唐 セル 也 此 此 上 人 日 本 僧 也 という 記 述 があり 上 人 の 呼 称 が 広 く 流 通 し パロディのようになっていることがうかが える 法 然 上 人 一 遍 上 人 と 言 われるように 一 般 的 には 名 前 につくようになり 同 じく 雑 談 集 巻 五 に 凡 ソ 昔 ノ 上 人 機 強 ク 志 シ 堅 シテ 衣 食 住 処 如 頭 陀 行 人 今 ノ 代 ノ 上 人 逐 年 如 名 僧 とあり 先 の 源 信 の 話 のように 名 僧 と 上 人 の 対 比 を 前 提 に 上 人 の 堕 落 が 進 んだこと も 分 かる 聖 人 という 言 葉 は 文 献 ごと 文 脈 ごとに 意 味 に 幅 がある 言 葉 なのである 今 昔 物 語 集 本 朝 仏 法 部 においては 冒 頭 の 巻 十 一 では 上 の 表 から 明 らかなように 聖 と 聖 人 は 細 かい 基 準 をもって 使 い 分 けられる たとえば 巻 二 十 第 12 話 で 聖 人 とされた 三 修 禅 師 は 天 狗 の 来 迎 にだまされ 同 13 話 の 愛 宕 の 聖 人 は 猪 に 騙 されているし 巻 二 十 八 第 24 話 の 周 囲 の 人 を 騙 していた 偽 聖 人 であるはずの 断 穀 聖 人 も 一 応 聖 人 と 呼 ばれている このように 聖 人 という 語 は 尊 称 からはずされて 用 いられるほど 柔 軟 性 を 持 つ 語 であるのに 対 し 聖 はそ うではない 聖 と 聖 人 の 用 法 差 は 明 らかである 今 昔 物 語 集 において 仏 法 部 の 冒 頭 部 分 では 伝 教 者 としてあるべき 姿 を 示 されていた 聖 人 像 も 俗 性 と 係 わる 逸 話 に 用 いられる 時 には 俗 化 が 進 んだものとなるのである 更 に 聖 と 聖 人 の 変 遷 を 日 中 比 較 の 観 点 から 探 ってみよう 古 代 中 国 聖 人 の 概 念 にか んして 諸 子 百 家 ごとに 学 術 的 定 義 が 違 うが 基 本 的 に 自 分 の 拠 る 学 問 の 理 想 モデルとしてそれはあ り 特 に 儒 家 道 家 に 多 くの 論 述 がある 儒 と 道 は 古 代 中 国 の 違 う 時 期 にそれぞれ 国 教 となった 儒 学 は 漢 武 帝 の 罷 黜 百 家 独 尊 儒 術 の 後 長 い 封 建 社 会 時 代 の 中 で 重 要 な 地 位 を 占 めた それ が 唐 代 に 至 ると 唐 太 祖 李 淵 は 自 分 を 老 子 の 子 孫 と 自 認 し 老 子 を 欽 定 道 教 第 一 とした 唐 王 朝 は 科 挙 に 道 挙 を 試 験 科 目 に 加 えたことからも 道 教 重 視 の 傾 向 が 伺 える 先 述 のとおり 道 家 の 体 系 中 聖 人 は 最 高 の 理 想 的 モデルではなく その 上 に 真 人 至 人 があるとされた しかし 儒 家 は 始 終 聖 人 を 人 としての 最 高 水 準 とみなした 荘 子 内 聖 外 王 を 視 野 に 入 れながら 宋 の 朱 熹 や 明 の 王 陽 明 も 聖 人 を 究 極 の 人 格 とし これを 孔 子 の 思 想 と 理 想 政 治 の 条 件 とした 聖 と 呼 ばれる 人 物 が 多 いが 例 えば 聖 呉 道 子 詩 聖 杜 甫 茶 聖 陸 羽 等 すべて 何 かの 特 技 のある 人 への 敬 称 である 中 国 の 歴 史 を 通 して 官 民 問 わず 認 められた 聖 人 は 二 人 いる 一 人 は 周 公 一 人 は 孔 子 である 聖 人 という 概 念 は 諸 子 百 家 時 代 から 次 第 に 儒 家 の 理 想 モデルになっ ていく もっと 時 代 が 下 がると 聖 という 言 葉 も 大 衆 用 語 から 皇 帝 しか 使 えない 専 属 の 用 語 に 限 定 されてくる 聖 という 言 葉 は 中 国 において 一 般 に 用 いてよい 用 語 から 皇 帝 専 属 の 用 語 へ 変 遷 したのだ これに 対 して 日 本 の 聖 と 聖 人 は 逆 の 方 向 に 発 展 していく 古 事 記 日 本 書 紀 万 葉 集 において 十 か 所 ほど 真 人 ( 古 代 に ひじり と 訓 読 )を 含 む 聖 に 関 連 する 記 載 が 見 られる 15 (この 用 語 方 法 は 道 教 のそれに 習 ったのではなかろうか 七 世 紀 ごろ 道 教 の 仙 人 は 長 生 きであり 方 術 を 用 いる という 思 想 は 日 本 に 伝 わり 日 本 書 紀 中 に 多 くの 神 仙 伝 説 と 屍 解 仙 の 逸 話 が 収 録 された ) 天 武 天 皇 はまたの 名 を 原 瀛 真 人 天 皇 とするのも 聖 と 真 人 を 最 高 レベルの 人 間 に 用 いるという 漢 籍 の 発 想 に 基 づくのではないか 日 本 古 代 文 献 の 中 で 十 例 ほど の 聖 の 用 例 を 見 ると 万 葉 集 の 巻 三 大 伴 旅 人 の 讃 酒 歌 の 濁 酒 の 賢 人 に 対 して 清 酒 を 聖 人 と 呼 ぶ 比 喩 の 例 を 除 いて 大 体 超 能 力 者 天 皇 への 尊 称 であることが 分 かる 日 本 において 聖 と 聖 人 は この 語 の 伝 搬 された 当 初 は 特 殊 な 階 層 に 限 定 されていた 時 代 が 下

126 386 동아시아 인문전통과 문화역학 って 仏 教 が 普 及 するとともに 聖 と 聖 人 は 次 第 に 意 味 が 敷 衍 され 通 俗 化 する 傾 向 にある 柳 田 国 男 は 俗 聖 沿 革 史 において 然 るに 或 時 代 に 入 ってはヒジリと 云 へば 普 通 の 僧 侶 より 尚 一 段 と 戒 行 の 厳 重 なるものと 解 せらるゝ 様 になったのは どう 云 ふ 譯 かといふと 是 は 平 易 に 申 せば 本 朝 の 仏 教 が 少 しく 衰 へかゝった 事 を 意 味 するものである 16 という 今 昔 物 語 集 にお いてここに 言 うような 仏 教 界 の 俗 化 堕 落 が 反 映 した 結 果 震 旦 部 よりも 俗 化 した 聖 人 説 話 群 が 生 じた それほど 俗 化 しても 聖 人 であり それよりも 厳 密 な 宗 教 家 の 条 件 を 満 たす 聖 の 記 述 態 度 に 今 昔 物 語 集 の 仏 教 を 他 の 思 想 体 系 とは 別 格 扱 いにしている 本 質 がかいま 見 えないか 仏 教 の 僧 を 聖 人 と 呼 ぶことは 古 代 日 本 文 献 に 限 られた 用 語 法 ではない 日 本 と 中 国 古 典 の 聖 人 に 関 する 用 語 法 には 差 がある 日 本 は 中 国 漢 籍 よりも 聖 人 と 見 なす 僧 の 範 囲 が 広 い 古 代 中 国 において 僧 の 伝 記 は 他 の 伝 記 と 区 別 され 僧 伝 と 呼 ばれている 梁 慧 皎 の 高 僧 伝 と それに 続 いて 唐 と 宋 それぞれに 続 高 僧 伝 がある 唐 三 蔵 法 師 玄 奘 など 日 本 の 南 都 仏 教 諸 派 の 開 山 祖 師 がそこでは 高 僧 としてある 今 昔 物 語 集 巻 十 一 にある 聖 徳 太 子 の 逸 話 に 続 く 六 人 の 仏 法 伝 来 者 と 僧 を 聖 と 呼 ぶことについて 先 行 研 究 には 客 観 性 を 有 した 三 国 仏 法 史 も 実 のところ 本 朝 をより 上 位 に 置 こうとする 自 国 意 識 によっても 支 えられていたことが 判 明 したよ うだ そして そこに 登 場 する 僧 たち 特 に 聖 は 自 国 意 識 を 意 味 づけ 強 化 するために 逆 に 僧 伝 以 上 に 鑚 仰 される 存 在 として 捉 えられ 今 昔 物 語 集 の 中 に 確 乎 たる 位 置 を 占 めたのである 17 とする 論 僧 を 他 の 人 間 に 優 越 したものと 意 識 していることを 考 察 する 論 などがある その 六 人 の 聖 漢 籍 よりも 認 定 基 準 の 甘 い 聖 人 について 詳 細 に 分 析 を 進 めると そうした 記 述 の 意 図 は 仏 教 の 優 位 性 を 震 旦 部 においては 儒 教 道 教 と 本 朝 部 では 在 来 の 神 祇 信 仰 との 比 較 を 通 じて 明 らかにするという 点 にあるのではないか 聖 人 は 日 本 語 としては しょうにん せいじん の 読 み 方 で 使 い 分 けている 前 者 は 仏 教 語 で 僧 にしか 使 わない 後 者 はより 一 般 的 世 俗 的 に 使 わ れている 震 旦 部 が 渡 来 の 聖 人 を 尊 ぶことに 比 べて 本 朝 部 は 渡 来 の 仏 教 者 を 尊 ばない 極 楽 記 では 東 大 寺 造 営 供 養 のために 日 本 に 来 た 南 天 竺 菩 薩 は 異 国 聖 者 と 呼 ばれているが 同 じ 説 話 は 今 昔 物 語 集 では 聖 人 聖 者 の 呼 称 は 附 せられず 婆 羅 門 僧 正 と 称 する 本 朝 部 において 聖 と 聖 人 には 区 別 があり 異 国 の 高 僧 は 日 本 僧 のように 聖 とは 呼 ばれていない 本 朝 部 の 聖 聖 人 説 話 は 日 本 霊 異 記 から 引 用 されたものであっても 日 本 霊 異 記 18 とは 聖 聖 人 の 用 語 法 が 異 なっている 今 成 元 昭 は 日 本 霊 異 記 における 聖 と 聖 人 を 考 察 して 二 つの 提 言 をしている 一 つは 日 本 霊 異 記 の 聖 は 隠 身 の 一 面 を 有 するのであって 聖 人 知 聖 凡 夫 不 知 という 記 述 は 聖 と 聖 人 を 別 概 念 とする 意 味 である 第 二 に 聖 は 変 化 する 本 体 ( 神 格 )が 聖 であり 聖 の 変 化 した 具 像 ( 人 格 )を 聖 人 とするという 原 則 であること これらの 結 論 が 日 本 霊 異 記 や 極 楽 記 にはあてはまることに 異 議 ないが 今 昔 物 語 集 においても ほんの 僅 かな 例 外 的 表 記 を 除 けば 尊 貴 性 に 重 きを 置 く 場 合 に 聖 具 体 的 人 物 を 指 呼 する 場 合 に 聖 人 の 語 を 用 いるという 原 則 は 守 られているのである とする 点 は どうであろうか 日 本 霊 異 記 と 今 昔 物 語 集 の 聖 徳 太 子 説 話 を 比 較 すると 日 本 霊 異 記 の 乞 丐 人 が 聖 で 聖 徳 太 子 は 聖 人 とされているのに 対 して 今 昔 物 語 集 では 聖 徳 太 子 の 方 が 聖 と 称 されている 日 本 霊 異 記 は 聖 に 非 人 格 的 特 質 を 付 与 するがゆえに 聖 徳 太 子 といえども 人 の 世 界 の 側 に 属 する 非 凡 な 聖 人 にとどまらざるを 得 ない 日 本 霊 異 記 には 聖 と 聖 人 の 間 に 埋 めることのできないギャップがある このようなギャップは 今 昔 物 語 集 にはない 今 成 論 文 の 説 く 日 本 霊 異 記 極 楽 記 から 抽 出 された 聖 と 聖 人 の 差 という 原 則 は 必 ずしも 全 部 今 昔 物 語 集 に 適 用 できるわけではない

127 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 387 むすび 聖 と 聖 人 用 語 考 察 の 文 学 史 的 意 義 今 昔 物 語 集 本 朝 部 における 聖 と 聖 人 を 概 観 すると 聖 と 聖 人 は 普 通 の 僧 よりも 仏 教 者 として の 基 準 を 充 たした 者 であると 捉 えられている 但 し 聖 と 呼 ばれた 人 物 が 別 の 箇 所 で 聖 と 呼 ばれない 例 も 散 見 する 空 海 説 話 がその 例 で 本 朝 仏 法 部 巻 十 一 第 9 の 空 海 は 聖 と 呼 ばれ 巻 十 四 第 40 と 同 41 の 世 俗 と 関 わる 空 海 説 話 では 聖 とも 聖 人 とも 呼 ばれず 大 師 である しかし 大 師 は 僧 の 称 号 としてはこの 上 ないものであるし 巻 十 四 第 40 話 末 には 空 海 を 菩 薩 とさえ 言 っている 今 昔 物 語 集 の 空 海 の 捉 え 方 は 一 貫 していて この 二 話 は 記 述 分 量 も 少 ない ゆえ たまたま 用 語 として 聖 を 用 いなかったにすぎず それだけ 巻 十 一 においては 特 別 に 聖 を 用 いた 意 識 的 な 用 法 であったことが 知 られ 聖 聖 人 の 用 語 区 分 の 基 準 は 明 確 である 中 国 漢 籍 にはない 今 昔 物 語 集 における 聖 と 聖 人 の 使 い 分 けは 仏 教 者 に 限 定 される 今 昔 物 語 集 は 震 旦 部 における 儒 教 道 教 関 係 者 本 朝 部 の 陰 陽 道 神 道 関 係 者 は どんなに 有 徳 優 秀 な 人 物 でも 聖 聖 人 と 呼 ばれていない 孔 子 荘 子 安 倍 晴 明 ほどの 有 名 人 でも 例 外 でない 今 昔 物 語 集 の 聖 と 聖 人 は 前 述 の 基 準 の 備 わった 者 のみ 聖 と 呼 ばれる これは 仏 教 教 団 のいわば 裾 野 が 広 がった 過 程 で 自 ずから 生 じた 伝 道 師 たちの 俗 化 傾 向 に 応 じて 聖 人 概 念 を 俗 化 させることで 仏 教 者 伝 説 の 中 から 聖 人 逸 話 として 取 り 込 む 範 囲 を 拡 大 し それによって 他 の 思 想 体 系 に 対 する 仏 教 の 優 位 を 主 張 することを 意 図 したものであった これと 連 動 して 本 来 聖 人 が 位 置 していた 格 を 示 す 新 たな 概 念 が 必 要 となり それに 日 本 古 来 の 言 葉 である 聖 を あてたのであった 要 するに 今 昔 物 語 集 における 聖 と 聖 人 の 使 い 分 けは 仏 教 者 の 伝 説 を 聖 人 の 逸 話 としてより 広 く 取 り 込 むためにされた 便 法 であって これによって 仏 教 の 他 の 思 想 体 系 に 対 する 優 位 を 伝 えようとしたものであったと 考 えられる 今 昔 物 語 集 の 用 語 の 周 到 さはたとえば 場 面 状 況 において 同 一 人 物 の 動 作 主 体 の 標 示 が 逐 一 変 るように( 男 僧 男 盗 人 など) 仏 法 伝 来 創 始 上 の 重 要 な 人 物 を 形 容 する 尊 称 として 聖 と 聖 人 の 用 法 は 今 昔 物 語 集 にとって 格 別 なものがあった 聖 と 聖 人 は 仏 法 部 形 成 の まさに 鍵 の 表 現 であったと 言 えよう ここまで 今 昔 物 語 集 の 聖 と 聖 人 説 話 を 部 別 巻 別 に 論 じてきたが そもそも 聖 人 の 梵 語 は Amacron であり 聖 者 聖 人 と 漢 訳 されている 従 来 指 摘 されていないようだが 涅 槃 経 十 一 に 以 何 等 故 名 仏 菩 薩 為 聖 人 耶 如 是 等 人 有 聖 法 故 常 観 諸 法 性 空 寂 故 以 是 義 故 名 聖 人 有 聖 戒 故 復 名 聖 人 有 聖 定 慧 故, 故 名 聖 人 有 七 聖 財 所 謂 信 戒 慚 愧 多 聞 智 慧 舍 利 故 名 聖 人 有 七 聖 覚 故 故 名 聖 人 とある 七 聖 財 は 道 を 取 得 した 後 の 聖 者 で 七 種 類 に 分 けられるが 七 財 中 信 は 第 一 である つまり 仏 教 への 信 こそが 聖 人 たり 得 る 第 一 の 条 件 であると 説 く 仏 教 を 信 仰 することは いかに 戒 を 守 ろうとも 知 を 極 めようとも 聖 人 の 条 件 と してこれに 勝 ることはないのである この 基 本 認 識 は 今 昔 物 語 集 のものでもあって 同 書 の 聖 俗 区 別 の 際 の 基 準 となっている Amacron が 漢 訳 された 際 中 国 古 来 の 聖 人 概 念 と 融 合 することを 免 れなかった 孟 子 には 聖 人 人 倫 之 至 也 とある 聖 人 は 人 間 世 界 における 道 徳 完 備 者 で 世 俗 での 理 想 像 である 宋 の 司 馬 光 資 治 通 鑑 に 才 徳 全 尽 謂 之 聖 人 才 徳 全 失 謂 之 愚 人 徳 勝 才 謂 之 君 子 才 勝 徳 謂 之 小 人 という 記 述 も 見 られ 聖 人 と 君 子 小 人 は 官 吏 の 使 い 方 に 差 がある と 論 じている 以 上 道 教 儒 教 を 要 するに 聖 人 の 概 念 は 世 俗 からつかず 離 れずの 位 置 を 保 ちつつ 世 俗 の 煩 悩 に 染 まらず 道 徳 と 智 慧 の 双 方 も 最 高 境 界 に 達 する 人 を 指 している 先 述 の 謂 知 徳 具 尊 者 であり 道 徳 と 知 恵 の 兼 備 は 聖 人 の 条 件 である このような 聖 人 概 念 が 日 本

128 388 동아시아 인문전통과 문화역학 の 説 話 世 界 の 中 で 時 系 列 的 にどう 用 いられてきたかについて 稿 を 改 めて 論 ずることとする 1 梅 谷 繁 樹 時 衆 成 立 前 史 今 昔 物 語 集 の 聖 聖 人 について ( 時 衆 研 究 通 巻 年 8 月 1-18 頁 ) 2 平 林 盛 得 聖 と 説 話 の 史 的 研 究 ( 吉 川 弘 文 館 1981 年 7 月 )では 叡 山 中 興 と 聖 市 中 の 聖 説 話 の 変 貌 往 生 伝 説 話 集 の 周 辺 の 四 つの 面 からの 論 が 展 開 されている 3 西 垣 脩 風 狂 の 先 達 増 賀 聖 人 について ( 明 治 大 学 人 文 科 学 研 究 所 紀 要 巻 年 3 月 ) 中 根 千 絵 笑 われる 内 記 ノ 聖 人 今 昔 物 語 集 の 内 部 矛 盾 のメカニズム ( 古 代 文 学 研 究 第 二 次 巻 年 10 月 ) 高 野 修 一 遍 における 聖 聖 人 上 人 についての 試 論 ( 時 衆 文 化 第 8 号 2003 年 10 月 )などが 挙 げられる 4 井 上 光 貞 日 本 古 代 の 国 家 と 仏 教 ( 岩 波 日 本 歴 史 叢 書 215 頁 )に 明 記 したが 今 成 元 昭 氏 は 聖 聖 人 上 人 の 称 について 古 代 の 仏 教 説 話 集 から ( 国 土 館 大 学 文 学 部 人 文 学 会 紀 要 通 巻 年 1 月 頁 )の 中 で 賛 成 の 態 度 を 示 している 5 前 田 雅 之 今 昔 物 語 集 の 世 界 構 想 ( 笠 間 書 院 1999 年 10 月 第 Ⅰ 部 第 四 章 85 頁 ) 6 沙 石 集 にも 羅 漢 の 聖 者 ( 巻 一 の 七 利 軍 支 比 丘 )などの 例 が 見 られる 7 今 野 達 新 日 本 古 典 文 学 大 系 今 昔 物 語 集 一 の 脚 注 による 8 仏 教 大 辞 典 に 謂 知 徳 具 尊 者 羅 漢 之 尊 称 ( 丁 福 保 解 説 文 物 出 版 社 1984 年 )とある 9 今 野 前 掲 10 宮 田 尚 荘 子 系 孔 子 譚 の 選 択 今 昔 物 語 集 巻 十 への 臆 説 ( ( 梅 光 女 学 院 大 学 ) 日 本 文 学 研 究 18 号 1982 年 80 頁 ) 11 宮 田 前 掲 頁 12 池 上 洵 一 今 昔 物 語 集 の 世 界 ( 以 文 社 1999 年 198 頁 ) 13 沙 石 集 に 聖 の 動 詞 化 表 現 として ひじる という 語 への 変 遷 の 例 がある 今 後 の 考 察 の 課 題 とした い 14 前 田 雅 之 今 昔 物 語 集 の 世 界 構 想 ( 笠 間 書 院 1999 年 10 月 第 Ⅰ 部 第 四 章 85 頁 ) 15 今 成 前 掲 16 柳 田 国 男 全 集 11 ( 筑 摩 書 房 1990 年 251 頁 252 頁 ) 17 前 田 前 掲 18 今 成 前 掲 < 摘 要 > 多 年 来, 笔 者 始 终 对 日 本 的 佛 教 文 学 怀 有 浓 厚 的 研 究 兴 趣 今 昔 物 语 集 中 圣 与 圣 人 的 用 语 意 识 日 本 东 京 学 艺 大 学 高 阳 多 年 来, 笔 者 始 终 对 日 本 的 佛 教 文 学 怀 有 浓 厚 的 研 究 兴 趣, 并 对 日 本 古 代 最 大 的 佛 教 说 话 集 今 昔 物 语 集 中 的 佛 教 逸 话, 给 予 了 特 别 的 关 注 笔 者 注 重 天 竺 震 旦 日 本 三 国 之 间 的 说 话 传 承 及 演 绎 的 考 证, 明 辨 说 话 的 构 思 表 现 和 词 句 的 特 殊 用 意, 至 今 完 成 并 发 表 了 多 篇 相 关 研 究 论 文 : 围 绕 今 昔 物 语 集 的 梦 说 话 以 卷 十 五 陆 奥 国 小 松 寺 僧 玄 海 往 生 语 ( 学 艺 国 语 国 文 学 第 39 号 ) 近 期, 笔 者 通 过 对 天 狗 一 词 在 古 代 印 度 中 国 日 本 的 溯 源 考 证, 对 今 昔 物 语 集 中 的 鸟 天 狗 像 的 形 成 脉 络 进 行 梳 理 在 此 基 础 之 上, 撰 写 鸟 天 狗 的 源 流 考 从 东 亚 比 较 说 话 的 视 点 一 文 (10 月 即 将 刊 载 于 东 京 学 艺 大 学 大 学 院 联 合 学 校 教 育 学 研 究 科 杂 志 ), 结 合 佛 经 汉 典 少 数 民 族 史 诗 日 本 相 关 典 籍 等 方 面 的 线 索, 对 今 昔 物 语 集 中 的 鸟 天 狗 像 的 形 成 提 出 了 自 己 独 特 的 观 点 而 在 拙 文 < 和 汉 朗 咏 集 > 中 的 无 常 ( 学 艺 古 典 文 学 第 1 号 ) 中, 则 对 诗 集 中 的 无 常 诗 进 行 了 和 汉

129 第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 389 比 较 考 证, 并 尝 试 以 佛 学 的 视 角 来 解 读 此 类 文 学 作 品 与 文 学 现 象 本 次 笔 者 则 将 研 究 的 课 题 瞄 准 到 今 昔 物 语 集 中 的 圣 与 圣 人 关 于 圣 和 圣 人 的 先 行 研 究 大 体 可 以 划 分 为 四 类, 其 中 关 于 日 本 古 典 说 话 中, 圣 与 圣 人 两 者 之 间 是 否 存 在 区 别 的 研 究, 与 本 次 发 表 有 着 最 为 密 切 的 关 联 在 本 次 发 表 中, 笔 者 将 竭 力 解 决 四 个 问 题 : 第 一, 探 索 并 解 答 人 们 在 今 昔 物 语 集 中 对 这 一 问 题 所 产 生 的 巨 大 研 究 分 歧 的 原 因 ; 第 二, 考 察 从 日 本 灵 异 记 到 今 昔 物 语 集, 圣 与 圣 人 所 发 生 新 的 变 化, 和 此 种 变 化 的 出 现 在 文 学 上 的 意 义 ; 第 三, 商 榷 此 类 先 行 研 究 中 的 某 些 学 术 结 论 ; 第 四, 总 结 今 昔 中 圣 与 圣 人 的 标 准 与 划 分 在 研 究 方 法 上, 笔 者 从 东 亚 文 化 比 较 的 视 点 出 发, 对 圣 和 圣 人 的 用 法 及 其 用 法 的 变 迁 作 了 相 应 的 整 理, 主 要 采 用 了 对 圣 与 圣 人 的 用 语, 在 天 竺 震 旦 日 本 三 国 的 横 向 比 较, 和 其 与 日 本 古 代 典 籍 的 纵 向 比 较 的 方 式 从 而 发 掘 出 两 国 圣 人 概 念 截 然 相 反 的 演 变 之 路 本 文 在 研 究 圣 和 圣 人 在 今 昔 物 语 集 是 如 何 被 定 位 的 过 程 中, 对 由 此 而 表 现 出 的 佛 教 对 其 他 学 派 和 宗 教 的 态 度 也 做 了 相 当 程 度 的 探 讨 <요약> 본인은 불교설화의 동아시아적 시야로써의 비교문학에 흥미를 가지고 있다 今 昔 物 語 集 における ひじり( 聖 ) と 聖 人 日 本 東 京 学 芸 大 学 高 陽 본인은 불교설화의 동아시아적 시야로써의 비교문학에 흥미를 가지고 있다. 今 昔 物 語 集 의 몽설화를 둘러싸고 巻 十 五 陸 奥 国 小 松 寺 玄 海 往 生 語 第 十 九 를중심으로 ( 学 芸 国 語 国 文 学 39 号 )에서 고대설화의 꿈에 관한 선행연구를 정리하여 고대중국설화와의 비교 고증 을 덧붙였다. 和 漢 朗 詠 集 에 있어서의 무상 ( 学 芸 古 典 文 学 第 1 号 )에서는 무상 시 에 대하여 일한비교 고증을 행하였다. 최근에는 새로서의 天 狗 의 원류고찰-동아시아 비교설화 적시점에서 라는 테마로, 天 狗 의 용어 일식설화 반인반도상에 대하여 고대인도 중국 일 본을 비교검증함으로서, 고대설화에 있어서의 새로서의 天 狗 상의 형성에 대하여 조사하고 있다. 본고는 今 昔 物 語 集 의 聖 聖 人 에 관한 학술조사보고이다. 본건에 대하여, 조사 대상문헌에 관한 聖 聖 人 용어 출현비율 데이터의 정리분석, 그것들의 역사적고찰, 실존의 聖 聖 人 일화나 전설의 설화적 발전, 聖 聖 人 에관한 다른 용어군의 데 이터 분석에 관한 선행연구는 있다. 그러나 일본 고전설화에 있어서의 ひじり 와 聖 人 을 동일시 가능한가에 대한 논쟁은 미결이다. 이것을 이어받아서 본 발표에서는 今 昔 物 語 集 불법 포교일화군에는, 불법포교자와 외도와의 대립일화를 통하여 불법의 우위를 전달하는 저작의도 가 있는것임을 확인함과 더불어, 今 昔 物 語 集 의 외도관은 동아시의의 통행관념과 일치하지 않음을 서술한다. 동아시의 통행관념으로서 聖 로 여겨지는 공자가 今 昔 物 語 集 에서는 원전을 개편해서까지 취급하지 않는다. 이것은 장자의 공자 비판 설화를 원전으로 하면서, 거기에 있 었던 聖 人 용어를 今 昔 物 語 集 는 일부러 생략하고 있다. 그러한 今 昔 物 語 集 의 聖 聖 人 観, 두 용어의 용례등의 차이에 대하여 일본 예로부터의 토착신앙인 聖 聖 人 의 용례조사와, 今 昔 物 語 集 震 旦 部 의 聖 聖 人 일화군의 출전 및 관련설화를 동아시아적

130 390 동아시아 인문전통과 문화역학 관점에서 검토하여, 聖 聖 人 일화군의 외연 이상의 유교 도교설화를 비교 검증의 시 야에 넣음으로서, 이것과 今 昔 物 語 集 의 본질과의 관련성에 대하여 논한다. 이 과정에서 今 昔 物 語 集 에 있어서 聖 聖 人 용어법이나 새로운 해석에 대한 가능성도 충분이 제시될 것이다. 마지막으로 聖 聖 人 용어가 동아시아 설화문학사의 하나의 지표가 됨을 논함으로 서 결론을 짓고자한다. 日 本 霊 異 記 極 楽 記 등의 일본한적에 있어서 聖 聖 人 설 화를 今 昔 物 語 集 와 비교 조사 한다. 선행연구는 日 本 霊 異 記 에 있어서 神 格 과 人 格 を 聖 と 聖 人 로 관련시키고 있으나, 본 발표는 선행연구를 포함하여 日 本 霊 異 記 에서 신 격 화 된 聖 이 今 昔 物 語 集 에서는 人 格 화 되기까지에 이르기된 계기에 주목하여 조사 한 결과, 이서에 있어서의 聖 聖 人 의 용어의 차이가 平 安 초기에서 후기에 걸쳐서 설화 문학이 변천해 간 문학사의 하나의 지표였음을 보고한다. 고대 동아시아적 비교문화의 시점에 서 聖 聖 人 의 용법이나 용례의 변천을 정리 분석함과 고대중국문헌에 있어서의 聖 人 은 시대와 함께 수적으로 감소되었지만, 일본에서는 수적으로 증가함과 함께 속화해 감이 분명 해 졌다. 이 과정은 일본 고대 설화문학사의 변천과정의 하나의 지표가 되었으며, 그 중에있어 서 今 昔 物 語 集 가 어떤 위치를 차지하게 되었는지를 분명히한다.

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:. 蔿 蔿 蔿 蔿, 蔿 Title 旺 山 許 蔿 [ウィ](ワンサン ホウィ)の 逮 捕 後 の 動 向 考 察 ( fulltext ) Author(s) 李, 修 京 Citation 東 京 学 芸 大 学 紀 要. 人 文 社 会 科 学 系. I, 63: 119-135 Issue Date 2012-01-31 URL http://hdl.handle.net/2309/125470 Publisher

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