- 1 - 天正十四年(一五八六)三月一朔日 看経などいつものとおり 衆中がそれぞれやってきた すぐに見参した 南林寺造作用釘の本(割り当て本数を記したものヵ)を持たせて 諸所に使者にて命じた この日 海江田に向かった 敷祢越中守 柏原周防介 そのほか衆中一両人が同心した 祖山寺に参詣していろいろともてなされた この夜は祖山寺に泊まった 二日 上井恭安斎(薫兼)が狩をするというので 登った 内山の鹿蔵であった 猪 鹿四を取った この晩 紫波洲崎城に参上した 恭安斎がいろいろともてなしてくれた 同心衆に猪をふるまってくれた 夜更けまで酒宴 田野から行司山本越後掾がやってきた 田野で近日 狩をやるとのこと その件を尋ねに来られたとのこと これも宮崎衆と一緒に酒で寄り合った 三日 看経など特におこなった 恭安斎から桃一枝に歌を添えて 酒を下された 返事をすぐに出してお礼をした 色深き一えだなれば三千年に咲くや百枝の花とこそみれ覚兼みなが節日だといって酒 肴など持参してきた 銘々と賞翫して見参 この日の朝 恭安斎が我々同心衆と寄り合い それが済んだあと 青島に渡って 水練させて楽しんだ 宮崎から またまた衆中がやってきた 長野淡路守 勝目但馬守 江田兼清 丸田左近将曹などであった 終日楽しんだ 曽井(地頭比志島義基)から使者が来た 南林寺造作についてであった これも青島にやってきたので みなと一所に楽しんだ 田野行司は 来る七日 八日に狩をやりたいとの意向を聞いて 帰した この晩 恭安斎が拙宿にやってきた 衆中も一緒に寄り合った 夜更けまで酒宴 四日 天気が悪くて ずっと屋内にとどまっていた 恭安斎のところで みなと寄り合った 終日 碁 将棋で楽しんだ この晩 安楽阿波介が庭で蹴鞠をした それから 彼のところでいろいろともてなされた そこに留まって 夜更けまで酒宴 田野から使者が到来 狩は来る七日に決まったとのことで 喜ばしいことだと答えた 五日 早朝 穆佐(地頭は樺山忠助) 飯田(地頭は福永宮内少輔ヵ) 木脇(地頭は平田宗応) 蔵岡(地頭は吉利久金) 富吉 清武(地頭は伊集院久宣) 細江 長峯 下之別符(現在の宮崎市高洲町 田代町周辺) 宮崎に 明後日七日に田野で狩をするので 人数用意して登らせるよう 命じた この日の朝 拙宿にて 宮崎衆中たちと寄り合った それから狩に登った 鹿を一つ獲った 帰って直接南俊坊の庭にて蹴鞠をした 亭主がいろいろともてなしてくれて 夜更けまで酒宴 六日 恭安斎のところでみなをもてなしてくれた それから 衆中と同心して 田野に向かった 楠原上之門に宿泊した 大寺安辰殿(田野地頭)が 行司やそのほか山巧の衆を連れてやってきた 狩の談合をした 七日 狩に出発 吉利久金殿(倉岡地頭) 福永宮内少輔殿(飯田地頭) 同備後守 樺山忠助殿の同名衆が来てくれた 曽井からは 衆中がやってきた 比志島義基殿は 途中まで来ていたのだが 用
1 武家で 子息がはじめて鳥獣を射たとき その肉を料理し 餅をついて祝うこと - 2 - 事があって帰ったとのこと 清武衆中は皆やってきた 田野衆は勿論である 宮崎 海江田衆 木脇衆も参加 猪 鹿十二 三を獲った この夜は 行司のところに宿泊した 吉利久金殿 大寺安辰殿もいっしょになって語った 大寺刑部左衛門尉殿が酒 肴を持参 みなで寄り合って賞翫 八日 海江田に向かって帰った 帰途にある鹿蔵で狩をした 吉利久金殿も同道した 大寺安辰殿が柴屋を構えてくれた いろいろと奔走していただき もてなされた 鹿五 六を獲った 狩人 昨日は千人ほどであった 今日は 五百人ほど 九日 円福寺から 雨が降っていて退屈しているだろうと風呂を焼いたそうで 招かれたので 従った 風呂が立ったので 衆寮にて閑談 その理由は 寺主から 春雨打眠 を題に一首 楽しみに詠んで欲しいと言われたので 黙っていられず即席に一首詠んだ 可惜風光三月天今知不及下愚賢雨中寄柱依然在抛擲管城到睡眠このように おかしいことがあった そこで 住持も一首詠んだ 蘇山寺も一首詠んだ このようなことをしていたところ 熊野の長延寺が拙者に挨拶のためやってきた 木花寺を案内者(仲介)としていた 風呂を上がったところだったので すぐに参会 酒 肴を持参していたので みなで参会し賞翫 酒宴の最中 肝付兼寛殿から使者が来た 今年は まだこちらに無沙汰しているとのことで 樽酒一荷と肴をいろいろと贈ってくれた これもいいタイミングだったので すに皆で参会し 賞翫した この日は 終日円福寺にて語って暮らした 十日 恭安斎のところに参上した 鎌田兼政殿(覚兼弟)もお越しになり 閑談 この晩 拙宿にて恭安斎お二人(夫婦) 鎌田兼政 上井神九郎(覚兼末弟)二人(夫婦)と寄り合った 酒を下され 夜更けまで楽しんだ 十一日 恭安斎のところで寄り合い この晩 伊東虎殿が 矢開 1 だったので 恭安斎のお供をして 麓に下った いろいろともてなされた 十二日 加治木伊予介のところで いろいろともてなされた 恭安斎も一緒だった この日 犬山(犬をつかった狩ヵ)のため かいちかふ (家一郷)に行った 伊勢の大宮司(田中主水佑)のところにてもてなされた 神護寺(京都右京区梅ヶ畑高雄町?)が酒 肴を持参して来たので 賞翫した この夜は 家一郷に泊まった 十三日 犬山をした 猪大小三 犬が食った(噛みついて仕留めた) 山続きなので直接九平に移動 九平弥右衛門尉が中途まで酒 肴を持参で迎えにきてくれた 疲懐 を述べた(?) 十四日 九平にて狩をした 麓の狩人が皆やってきたので 四百人くらいであった 恭安斎も見物のため 登ってきた 猪 鹿五 六獲った 拙者も一つ射止めた 宮崎から唐仁原秀元 江田源三郎が 狩をやると聞きつけてやってきた この晩 常( 浄) 瑠璃寺(加江田にあった時宗寺院)に宿泊した 恭安斎も泊まった いろいろともてなしに奔走してくれた
2 現在の宮崎市清武町木原 県立みなみのかぜ支援学校付近にあった寺院 石塔や仁王像 一部の仏像は 黒坂観音として移設されている 3 近衛信尹:一五六五~一六一四 近衛前久の子 天正十三年(一五八五)に左大臣となる 関白の位をめぐり二条昭実と口論(関白相論)となり 豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた 文禄三年(一五九四)四月に後陽成天皇の勅勘を蒙った 信尹は薩摩国の坊津に三年間配流となり その間の事情を日記 三藐院記 に詳述した - 3 - 十五日 早朝 薬師に堂参した また 寺主がいろいろともてなしてくれていたところ 清武の勢田寺2 が酒 肴を持参して来た 参会して 賞翫した それから 宮崎に帰った この晩 (宮崎に)帰ったと聞いて 若衆達がやってきて 暮れまで能をやり こちらの庭(宮崎城内)で蹴鞠をした 菱刈(鹿児島県伊佐市菱刈)から 赤崎縫殿助殿がやってきた 酒 肴 弓を持参 久しくご無沙汰してましたとのこと あわせて 敷祢越中守に依頼して 赤崎家は間違いなく同じ 一門 なので 名字(上井?)を免許して欲しいとのこと まずは 承っておくと返答しておいた 十六日 福永宮内少輔(飯田地頭ヵ)から 加治木但馬掾に使者が来た 穆佐(地頭は樺山忠助)と山境の相論が起きました もろもろよろしくお願いしたい とのこと この日 吉利久金殿(倉岡地頭)が 無沙汰しているといって酒 肴を持参してきた すぐにお目にかかり 参会した 柏原周防介が同じ座にいた しばらく物語して 酒宴 この日の朝 鎌田兼政殿が 三城(門川 塩見 日知屋)に向かった ついでに南林寺造作用の葺き板を調達するため 種子島に拙者の船を派遣することになり 井尻伊賀守祐貞に対し 水主を細島から出すよう命じた 財部 加江田にも水主を出すよう命じた 十七日 蓮香民部少輔から 子どもに名を付けてくれと呼ばれたので 行った いろいろともてなされた 拙者二人(夫婦)ともに(城から)下った 稲富長辰殿(日向紙屋地頭)から使者が来た 久しく無沙汰しております 去年十月 御船(熊本県御船町)にて返地の坪付を書いていただきましたが うっかり無くしてしまいました またしたためて送っていただけないでしょうか とのこと 追って 作成しますと返事した 十八日 観音に特に読経 南林寺造作について 番匠(大工)一人を十二日に派遣した 確かに到着したと 送夫 (送り届けた人夫)が帰ってきて報告した この日 近衛信尹様3 から武庫様(忠平)に対し (島津家の)家督相続( 名代 = 守護代 就任)のお祝いのため 使者が下向し 佐土原から当所(宮崎)に到着した 関備後守を呼び出し 宿舎に案内させた (使者は)古川主膳入道宗心という方であった 奈古大宮司泉鏡坊に宿舎提供を命じた 拙者にも(信尹から)書状がくだされた 拙宿にお招きし 書状を頂戴した その書面は 態染筆候 抑去秋 禁裏御近所江堂上衆被遷殿候 家門之儀同前候 然者 諸式不如意之儀候条 匠作江 差下古川主膳入道候 此節各以馳走助成 可為祝着候 随而扇子五本遣之候 猶進藤筑後守可申越候也 かしこ
4 近衛前久:一五三六~一六一二 元関白(太閤) 織田信長と親しく その依頼により 天正八年(一五八〇)島津氏と大友氏の和睦(豊薩和平)を仲介した - 4 - 十二月十三日在御判上井伊勢守とのへ(意訳)去年の秋 内裏の近くに 堂上衆 (昇殿を許された公卿 殿上人)は引っ越すことになった 家門(近衛信尹)も同様に遷った そこで なにかとお金が不足しているので 修理大夫義久に古川主膳入道道宗を派遣する みな助成してくれるとありがたい 扇子五本を贈ります なお 詳しくは(家司の)進藤長治が申します このようであった 使者からも鞦(馬具の一種 馬の尾の下から後輪の鞖 しおで につなぐ紐)一懸をいただいた 席次は 客居に使者が座るのは勿論のこと 主居に拙者 同心衆をしきりに頼んだのだが 誰も同心してくれなかったので 内衆一人を呼び出し 出座するよう命じたのだが 断固として断られたので 敷居より下で飯を賜った 夜更けまで酒宴 音曲などかなでて いろいろと京都の話など閑談した 進藤長治殿からの書状を頂戴した その内容は 為御使被差下古川主膳入道条 令啓候 仍如何 此節之事ニ候之間 被成御助成之様 御取合頼思召候 別而於馳走者可為御祝着由 猶従拙者相心得可申旨候 恐々謹言 十二月十三日長治在判上井伊勢守殿参御宿所(意訳)ご使者として古川宗心を派遣しました このような時期ですので ご助成いただきますよう (義久への)お取りなしをお願いします ご尽力いただければ幸いです このようであった 鳥の子紙の切紙であった 上書も同じ 羽柴秀吉殿が 今の関白にに任じられたのは 近衛大御所殿(前久4 )の養子としてであったと語ってくれた 十九日 早朝 古川宗心の宿所に関備後守を派遣した 昨日拙宿にお越し頂き かしこみいっております 早々にお礼に参上すべきですが 昨夜の泥酔が今も醒めていないので ご遠慮いたします と伝えた 御使者からも 関備後守に対し捻(捻封の書状)を記して 拙者から夕食をご馳走していただいたことのお礼を頂戴した この日 真幸(島津忠平)にむけて出立されるとのことなので 同行の馬や人夫を命じて派遣した 御使者の宿所に関備後守を派遣したところ 拙者を招かれたので そちらでおもてなしした この日の朝 飯野(島津忠平)の有川貞真殿(忠平老中)に対し 御家門様(近衛信尹)からの使者が下着しており そちらにまず参られるとのことなので 近日中に到着されるでしょう ご用意なさってください と書状で伝えた 綾(地頭は新納久時)にも 今日 古川宗心がそちらに行くので 明日は野尻までお送りするように 命じた この日 綾までお送りした この晩 若衆中がこちらの庭にて 蹴鞠 野村重綱の息子が 酒 肴を持参して 久しく無沙汰しているとやってきた すぐに見参し
- 5 - た 二十日 衾田大宮司(国富町大字三名)が 酒 肴を持参してきたので すぐに見参 若衆中が 盤の上(ボードゲーム 双六など)などで遊んでいた その衆と酒で寄り合った 佐土原から使者が来た 高崎越前守であった (内容は) いま どちらかで談合が開催されていると聞いた どうなっているのか?時期が分かれば教えて欲しい 次に 山内の三ヶ所(五ヶ瀬町大字三ヶ所)衆の所領のこと (鹿児島で)談合がある時は 御用があるので 使者を派遣したい もろもろよろしく頼みます とのこと (これに対し) 使者を頂戴しかしこみ入ります 仰るとおり 談合開催が決まっております しかし 時期については 鹿児島から連絡があることになってますが まだ来ておりません どうなっているのかなと思っております 山内衆の所領については これも談合の際 考えを申すつもりです 御用があって使者を送られるのでしょうか?その際は ご連絡します と返事した 高崎越前守殿から私的に 当所(佐土原)の弓削氏の下人が 長野下総守のところで捕らえられており 納得出来ません と 細かく語ってくれた 私としては納得したので 桑波多越後守などと談合して 急ぎ調べると答えた 次に 一昨日 高知尾(三田井氏)から書状が到来したとのことで 入田義実 志賀道択(道益の誤認ヵ 親度)二人の書状を持参してきた それぞれこちら(島津家)への忠誠を誓うとのこと 志賀道択は 神載(起請文)であり 高知尾役人衆(三田井氏の重臣)まで 忠節を誓う旨の書状であった こういった内容であったが いいタイミングなので 中書家久にも連絡したとのこと 二十一日 吉利久金殿(倉岡地頭)から使者が来た 先日来られたときにもてなしたことへのお礼であった ついでに 倉岡衆中の新原氏が 一両年以前の前科で 所領召し上げとなっており いまも浮地となっている その者の科(罪)は 言い分を聴取して 今は元の通り召し抱えられている そこで 所領も返付していただきたい とのこと 鹿児島での処断と聞いているので 鹿児島に説明して返付してもらうのがいいだろう 科について言い分が通っているのならば 領知についても問題ないだろうと 私は考えます と答えた 一昨日 穆佐と飯田で 野崎(宮崎市田野町乙)というところをめぐり相論が起きた (穆佐地頭の)樺山忠助殿からは 野崎という場所は 穆佐高城に住む野崎名字のものが 開き始めたところであることは 野崎氏の系図を見れば歴然である だから 穆佐に含まれるものである とのこと 飯田(福永宮内少輔)からは 系図ではそうなっているが 穆佐の住人が開いたから穆佐に含まれることにはならない 飯田五町に付随して公役を勤めていることは 伊東祐堯(一四〇九~一四八五)時代から間違いないことである 合戦のため今まで四十年 野崎は荒地となっている その頃までは たしかに飯田に付随していた とのこと 双方共に納得するほどの理由は得られていない おって 寄合中(老中)で談合の上 判決を下す と伝えて 双方の使者を帰した こちら側の使者は 長野淡路守と関備後守が担当した 二十二日 市来家守殿に対して 永山兵部少輔を使者として派遣した 久しく無沙汰しております 一両年前 鞍を所望したところ 頂戴いたしましてありがとうございます その後連絡しなかったのは本意ではありません しかし 在陣があって打ち紛れましたと申して 御崎野の駒一疋を贈った
- 6 - 二十三日 本田越後守殿がやってきた 鹿児島から鶯を拙者にご所望されていると聞いたので いま所持している鶯がいいのではないかと思い こちらに持ってきたとのこと あわせて 酒 肴をいただいた 佐土原大光寺の塔頭衆長典も同心していた 彼からも樽酒を頂戴した いっしょに寄り合って 賞翫 酒宴となった この日 風呂を焼いて 若衆中を入れてやって 楽しんだ 盤之上(双六など)など この夜は月待ちなので 終夜若衆中がやってきていろいろと遊んだ 二十四日 早朝から 地蔵菩薩に特に看経 この晩 こちらの庭にて蹴鞠 蹴鞠のあと みなと酒で寄り合った この日 平田光宗から使者が来た 平田増宗殿に 去二十一日子息(のちの宗次 母は覚兼の娘)が誕生したとのこと おめでとうございますと 答えた この日 稲富長辰殿(紙屋地頭)から使者が来た 去年十月 御船で給わった坪付をなくしたので また作成して欲しい とのこと すぐに野村豊綱に命じて作らせた 鹿児島から書状が到来した 近日 能をやるとのこと それにつき 野村豊綱が伺候していたので すぐに申しつけた 子どもが疱瘡で闘病中なので 出来ないとのこと 二十五日 天神に特に読経した 平田光宗殿にひ孫ができたので お祝いのため加治木但馬掾を派遣した この日 馬を湯洗いさせて見物するため 瓜生野の八郎左衛門尉のところに行った 馬たちをたくさん洗って見せてくれた それから 亭主がいろいろと振る舞ってくれた 盤之上などで楽しんだ 根来寺の牢人宝蔵院が来て 碁などうって酒宴 この夜は沈酔(泥酔)したので そこに泊まった 庚申なので みな起きていた 我々も乱舞などや俳諧 盤之上などで終夜楽しんだ まことに ねむらぬ夜の理 に任せたのであった 二十六日 早朝から若衆など碁 将棋をやるのを見物して 日が昇るまでいた それからまたいろいろともてなされた 財部衆中の雨川氏が酒 肴を持参したので みなで寄り合って賞翫 また沈酔(泥酔)してしまい ようやく未の終わり頃(午後3時頃)帰宅した 二十七日 早朝 鶯合わせをして見物 西俣左近将監が酒 肴を持参して来た みなと寄り合って賞翫 高知尾から飛脚 使僧が到来 志賀道択(道益ヵ)に 先日入田経由で書状を遣わした その返書が入田氏から高知尾まで届けられたのを持参した 内容は 書状をいただき ありがとうございます 入田氏と相談し 島津家へ忠誠を誓います とのこと 入田義実殿からも書状が到来した 内容は 志賀殿への書状を届けました その返札をお届けします あわせて 島津家への中世を誓います とのこと 志賀道択(道益ヵ)へは こちらからの書状の返札なので 申すまでもないが 入田殿へは返書を記した ある方の返札 たしかに受け取りました また今後も相互の信頼関係に変化はありません と申した 二十八日 荒神に特に読経した 御崎寺がいらっしゃって 例講であった おもてなしした 飯野から有川貞真の書状が届いた 内容は 伊集院忠棟から急ぎ 肥後に出陣とのこと そこで 日州衆もみな同じく肥後に出陣すべし 二十日間逗留の用意をして指示をまて 追って日程など詳細を連絡する とのこと 心得ました こちらは遠方なので 決定したときは あらかじめご連絡ください お待ちしております と 返事しておいた
- 7 - 二十九日 満願寺から招かれたので 参上した いろいろと終日もてなされた 蹴鞠などした この日の朝 各方面に出陣の用意をして 指示を待つように 書状で命じた 三十日 満願寺にお願いして 祈祷してもらった 観世音経七 三十三巻である 経衆七人 法印(玄恵)は本尊の法をやってくれた 本尊への布施は百疋 そのほか壇の様子はいつものとおり 終日もてなして 酒宴となった この日 伊集院忠棟から飫肥経由で書状が届いた 今月二十二日付の書状であった (内容は) 質人のこと 談合で出たように 肥前 肥後 筑前 筑後の衆に命じた 秋月種実は勿論出すとのことで 龍造寺政家も惣役人納富氏を出すとのこと しかし 筑紫広門は 質人は出さないと通告し 豊後(大友氏)と一味すると回答してきた そこで 筑紫広門を討ち果たすことに決定した 来る四日 五日 集まった衆で筑紫氏を退治することは簡単であろう 外聞(評判)もあるので 猛勢(大軍)でなくてはいけない 日州衆も出陣するように 寄合中は 高瀬まで出陣する とのこと (飫肥地頭の)上原尚近も書状を送ってきた このように 伊集院忠棟から命じられた あなた(覚兼)の出陣日程を聞いてから これに合わせます とのこと 飯野からも命じられたので 次の連絡をまっているので 拙者はそれ次第です また 鹿児島からの書状が到来しましたが 支度して待機し 筑後方面の連絡次第で出陣するようにとのことでしたので 拙者は 飯野からの連絡を待ちます と返事した この晩 また上原尚近から 同じ内容の書状が届いた 同じ返事をしておいた 平田光宗殿から使者が来た 平田左馬助殿をそちらに派遣するつもりでいたのですが 出陣とのことなので中止します あまりに無沙汰しているので 当年のお祝いをご挨拶申し上げます とのこと