Ⅲ. 歴史 文化の核づくり 歴史 文化の核づくりを行う上で 以下の 3 つの観点から城址公園 歴史 文化ゾーンとの関わりを考え 前田正甫 ( 第 2 代藩主 )----------------------- 富山売薬の祖 る 前田正甫は 本草学の研究を奨励し 薬草の収集 研究を推進した 長崎から医 画術導入を図るなどして医学と薬学を考究し 薬草によって治療する医療を目指した 城址 城主 藩主 正甫が江戸城登城の折 三春藩 秋田信濃守が腹痛を起こし 正甫が 反魂丹 を 遺構 場所 人 与えたところ たちどころに腹痛が治まった それを見た諸国大名から その薬が ほしい という願いが殺到し その結果生まれたのが 富山の売薬 である 売薬 人 - 城主 藩主ー 歴史 文化 施設 - 歴史 文化の観点 - 富山市郷土博物館 佐藤記念美術館 ( 郷土博物館増築棟 ) 富山前田家は加賀前田家の分家のひとつであり 加賀第三代藩主利常の次男 利次が寛永 16 年 (1639) に - 前田正甫公像 - は莫大な利益を富山藩にもたらし 富山は江戸時代以来 日本一の売薬業の地とし て知られることになった 正甫はその他 新田開発や産業の振興にも努めた - 元旦試筆 ( 前田正甫 )- - 正甫顕彰碑 ( 於保多神社 )- Ⅲ10 万石を分与され 富山藩が成立した 以来 明治まで 13 代藩主によって治められている 13 代までの藩 主は以下のとおりである ほんぞうがく 前田利保 ( 第 10 代藩主 )----------------- 本草学 ( 薬草 ) の研究や学藝活動等富山の文化に貢献 前田利保は 売薬業の振興をはじめ 自ら本草学の研究を行い 深い造詣を持ち 代 名前1871 就任期 利1 とし次1639~ 1674 7 つぐ利とし久1777~ 1787 ひさ2 まさ正甫1674~ 1706 8 とし利とし謙1787~ 1801 のり3 利とし興1706~ 1724 9 おき利とし幹1801~ 1835 つよ利4 とし隆1724~ 1744 10 たか利とし保1835~ 1846 やす利5 とし幸1745~ 1762 11 ゆき利とし友1846~ 1853 とも利6 とし與1762~ 1777 12 とも利とし声1854~ 1859 たか利13 とし同1859~ あつ- 前田利保公 - ほんぞうつうかんほんぞうつうかんしょうず著書 本草通串 や 本草通串証図 などを著している その他 能楽 和歌などにも通じた多才な殿様であった 城内のは利保の隠居所として建てられ たものである びこうそうその他 上納金や倹約令による藩政刷新 越中丸山焼きの起業 飢饉の際の備荒倉 の設置対応など さまざまな藩政の安定に努めた この中で富山藩を代表する藩主としては 第二代の正甫と第十代の利保があげられる 前者は売薬業の礎 を築いた人物であり 後者は本草学をはじめとて 学芸に才能を発揮した人物である - 本草通串証図 ( 前田利保 )- - 3 - Ⅰ 城址公園整備計Ⅱ 歴史 文化ゾーン 歴史 文化の核づくりⅣ 富山の薬草づくりⅤ 庭園空間の魅力づくりⅥ 楽しみの仕掛けづくり
- 4 - 富山城が築城されたのは天文 12 年 (1543) で 神保じんぼ長職ながもとが築城したものである その後 上杉 一向一揆 佐々成政 前田利長などが居城したが 大火等もあり 元和元年 (1615) 一国一城令により富山城は廃城となる この頃までの中世の富山城については 絵図が残されていないことや文献史料が少ないことから 明らかになっていないことも多い 寛永 16 年 (1639) には 富山藩が成立 初代藩主前田利次が富山城を仮居として新たに城を築く予定であったが それを断念し 万治 3 年 (1660) 富山城を正式に居城として 城と城下の本格的な整備を行った 富山城の変遷 - 万治年間 (1658-61) 絵図 - 場所 - 城址 遺構ー - 延宝 5 年 (1677) 絵図 - - 江戸後期の富山城 ( 富山城ものがたり ( 富山市郷土博物館 ) より ) - 現在の城址公園 Ⅲ 歴史 文化の核づくりⅣ 富山の薬草づくりⅤ 庭園空間の魅力づくりⅥ 楽しみの仕掛けづくりⅡ 歴史 文化ゾーンⅠ 城址公園整備計画
Ⅰ 城址公園整備計画Ⅱ 歴史 文化ゾーン 本丸御殿 --------------- 本丸御殿 池や築山を配した庭園 --------------- 茶室 薬草園 本丸は城の中心にあたり 本丸御殿は藩政の中心であり 藩主の住居でもあった 江戸中期に焼失 後期 は 前田利保の隠居所として嘉永 2 年 (1849) 東出丸の東側に建設された に再建されているが 下図は前田正甫の頃を描いたといわれる 舊富山城御殿之圖 ( 下絵図 ) であり 焼失 この御殿には当時の江戸大名屋敷に見られる流行を取り入れられているとともに 利保の趣味や遊び心が する前のものである これによれば 本丸御殿には池や築山を配した庭園があった様子が伺える 反映されている この建築は 能の舞台 を中心とした建築で あり そのため 建築 築山 東出丸 回廊 茶室薬草園 物全体として非常に ユニークな配置で か つ 複雑なつくりとな 釣殿 っている 江戸時代に おいて 最も豪華で 池 最も個性的な建物で あり 同時代の他の城 郭と比較しても 類例 本丸御殿 のない御殿建築とい えるものである また 利保は 神通 能楽堂 おすずみしょ川の川縁に を建て 美しい眺望を 楽しんだり 学芸を中 心に歌会や本草学の 舊富山城御殿之圖 講義など多目的に使 用したと伝えられて いる 神通川 茶室 近傍には 茶室 梧 桐舎 もあり さらに そのそばには薬草園 が営まれていたとい 東出丸 われている 西之丸 本丸 二之丸 - 5 - 平面図 Ⅲ 歴史 文化の核づくりⅣ 富山の薬草づくりⅤ 庭園空間の魅力づくりⅥ 楽しみの仕掛けづくり
Ⅰ 城址公園整備計画Ⅱ 歴史 文化ゾーン --------------- を象徴するユニークな建物 1 3 は の北端 神通川の川縁に建てられていた と周辺配置模型写真 そこは 神通川の自然堤防上であり 周囲よりも地盤が高く ここからは の周囲に広がる庭園とその借景となった 2 4 雄大な景観を楽しむことができた 利保は こので歌会 ( 月に三回行われたという ) や 医師を集めて本草学の講義なども開催したといわれている は 眺望を考慮するとともに遊びの要素も入ったこと 釣殿 茶室 梧桐舎 でを特徴付ける建物の一つになったといえる 螺蠑山 長土蔵 模型写真 ( 低空撮影 ) 平面図 立面図 8 印数字は 模型写真撮影方向を示す赤は低空撮影青は上空撮影 4 6 と周辺庭園想像図 ( 千歳の庭園 ) の建物は 数奇屋造の 2 階建て建築であったと考えられる 建設当初は 平屋で着工されたようであるが 立山の眺望が良好で なかったため 急遽 2 階を増築したと考えられている その増築の際 2 階の縁を立山の方向に正対させるため 2 階の平 7 面を 1 階から 45 度回転させたことから 非常に奇抜な形の建物とな ったと考えられる 1 3 茶室 ( 梧桐舎 ) 薬草園 5 1 模型写真 ( 上空撮影 ) 7 2 5 6 8 千歳の庭園 -------------- 周辺には 桜並木 薬草園 螺蠑山 御裏稲荷社などが設けられた庭園があった さざえやま東側の外は御裏と呼ばれ 庭園が設けられていた 詳細は不明であるが桜並木 薬草園 螺蠑山 ( サザエ貝のような築山 ) さざえやま御裏稲荷社を中心とするものであった 森に包まれた御裏稲荷社 市内を見下ろせたという螺蠑山 二重に列植した桜並木 さらには 数千歩の薬草園などが営まれていた また 神通川や立山連峰 西の呉羽山など自然風景を取り込んだ景観など 江戸の大名屋敷庭園と 共通する要素があり 遊園的な性格の強い造営であったといえるものである - 6 - Ⅲ 歴史 文化の核づくりⅣ 富山の薬草づくりⅤ 庭園空間の魅力づくりⅥ 楽しみの仕掛けづくり
Ⅰ 城址公園整備計画Ⅱ 歴史 文化ゾーン 遺構 --------------- 富山城の歴史を物語る貴重な資源 城址公園内には 今でも数多くの 富山城 としての遺構が見られる これらは貴重な歴史的資源であり 歴史 文化のつながりを強化するものである ---------------- 富山城建築物の現存する唯一の遺構 からめてもん 石垣と搦手門 その他の遺構 と土橋 は 約百六十年前の嘉永二年 (1849) 富山藩の十代 藩主前田利保の隠居所として城の東出丸 ( 現在の富山市桜木町一 帯 ) との間に建てられたの正門 当時の御殿の名残を伝える貴重な建築物であり 富山城建築物 で現存する唯一の遺構である ( 平成 20 年 3 月移築完了予定 ) 施設 - 歴史 文化施設ー歴史 文化ゾーンの各施設は このゾーンの骨格をつくるものであり ストーリーを展開する中で重要な 役割を果たすものである また 個々の施設だけを見ても 貴重な展示等 富山市全体の中でも大きな役割 を果たしている 以下 各施設の役割 機能について整理する 富山市郷土博物館 ---------------- 富山城の専門博物館として 平成 17 年新しくリニューアルされた富山市郷土博物館は 富山城の築城から明 治時代以降の城址の変遷に至るまで 400 年以上にわたる歴史の紹介を行ってい ---------------- 枡形形式の門本丸の裏門であり 東出丸への出入口となる本丸搦手門の枡形である 富山城の石垣は基本的に打込接ぎで 隅石は算木積みになっている 土塁 る 富山城の中で何が分かっていて 何が分かっていないのか 富山城ものがたり の観覧によって歴史体験が行えるようになっている 江戸時代の古図には天守の記載はないが 模擬天守は平成 16 年 (2004 年 ) に国の登録有形文化財 ( 建造物 ) とされている 富山市郷土博物館増築棟 ---------------- 富山市の通史展示として郷土博物館増築棟は 各専門別博物館の展示だけにとどまらず 富山市全体を歴史の中で捉えることも必要であり 富山市全体の歴史を総合的に通観するため 当時 内と外があった が 現在 内と土橋の一部 が現存している 石垣と升形 鉄門 本丸の正門鉄門 ( 枡形形式 の門 ) と石垣 鉄板を扉に張 った門で 正門に用いられる ことが多い形式 現在の法面は戦後石垣を施し 往時の姿を見ることはできない が富山城は土塁中心の城であっ た の 総合的展示 を常設することを目的とする これにより 富山市の歴史的流 れを示すだけでなく より広い視点での歴史的理解を促すことが可能となる 佐藤記念美術館 ---------- 東洋の古美術の他 茶道文化 ( 茶室 ) の専門博物館として 現在 助庵 柳汀庵 の 2 席の茶室とともに 総檜造りの書院座敷が常設展 示されているなど 茶道 古美術関係を主に収蔵展示している そして今回 新 たな茶室 碌々亭 を園内に移築する予定である 前田利保が建立した には 茶室 梧桐舎 があったという史実もあり この 碌々亭 を 梧桐舎 に見立てて 利保との関連付けを強化する これにより本ゾーンにおける茶道文 化 ( 茶室 ) を文化的要素の 1 つとして より一層顕著化させる 柳汀庵 ( 江戸時代 ) 助庵 ( 昭和時代 ) 碌々亭 ( 明治時代 ) 歴史 文化の核づくりⅣ 富山の薬草づくりⅤ 庭園空間の魅力づくりⅥ 楽しみの仕掛けづくり- 遺構位置図 - - 7 -
Ⅰ 城址公園整備計画Ⅱ 歴史 文化ゾーンⅢ 歴史 文化の核づくりⅣ 富山の薬草づくりⅤ 庭園空間の魅力づくりⅥ 楽しみの仕掛けづくり歴史 文化ゾーンのストーリー 歴史 文化の核づくり で 人- 城主 藩主 場所 - 城址 遺構 施設 - 歴史 文化施設 の内容を踏まえ 歴史 文化のつながり ストーリー性を明確にし また 本ゾーンのテーマとしていた 城 薬 茶 についても相互の結びつきを強固なものとし 歴史 文化の連携構築を図るものとする 歴史 文化の連携 人場所施設 富山城の専門博物館 富山市郷土博物館 富山城の歴史資源 遺構 富山市郷土博物館増築棟 城主 正甫 かつて庭園があり池があった 庭園 富山城址公園 富山売薬の祖 薬草園 本草学 薬草園の造営 かつて梧桐舎があった 茶道文化 碌々亭 佐藤記念美術館 城主 利保 富山前田家富山市のシンボル富山城の歴史展示 本丸 富山市の通史展示 薬の苑 かつて千歳の御庭があった 薬 を特徴付ける建物 の造営 建築物唯一の遺構 の正門 - 8 -