沖縄県立埋蔵文化財センター企画展 発掘調査速報展 2015 別巻 沖縄県立埋蔵文化財センター
沖縄県内戦争遺跡現状 では 2 がた された ( ) 2 もを 戦 戦 跡 として ました では 8 がされ う 28 を にしました これら 跡を 7ン に分 てしました
海軍は 日清戦争後台湾経営において中城湾重要性を認識し ており 艦船が燃料等補給ために臨時的に中城湾に寄港する港 湾施設である海軍需品支庫を 1896 明治 29 年に設置しました さきえだ かいてい を に を あ 上 し 跡 に られたもが った な るた に 敷 で 8 しています ン です さしき が を 2 とし や屋 られ 戦 に だ に に ン ン 平屋 や 跡 で ン です 5,000 敷 に などがあったとされます る によるもです 跡 敷 ン 跡 Ɩų nj ǜ ų ų ų DžƏǖƏ Ɩ nj ǜ ųų DžƏǖƏ かう いろ ぐう ん ぼうろう かいぐん ぼ 3 海軍望楼 海軍特設見張所 3 海軍望楼 海軍特設見張所 Ūշ ދ ന ஓಎ ነ ࠊ Ūշ ދ ന ஓಎ ነ ࠊ 確認されている遺跡 5 確認されている遺跡 5 ヶ所 ヶ所 海軍望楼とは 海上見張りや艦船間通信や気象観測を任務と 海軍望楼とは 海上見張りや艦船間通信や気象観測を任務と ų נ Ƹշ ދ ന Ʒ ޒ ஓӨƱƳƬƯƓǓŴᬟ ئ Ǎ ᡈƷᒔLjƴ൦ใǍ ཋƷ ᄽ ų נ Ƹշ ދ ന Ʒ ޒ ஓӨƱƳƬƯƓǓŴᬟ ئ Ǎ ᡈƷᒔLjƴ൦ใǍ ཋƷ ᄽ ƕᄩᛐƞǖưƍljƣŵ ƕᄩᛐƞǖưƍljƣŵ する施設で 元来は 1894 明治 27 年日清戦争直前に制定され する施設で 元来は 1894 明治 27 年日清戦争直前に制定され た海岸望楼が 1900 明治 33 年に改称されたもです 沖縄県では た海岸望楼が 1900 明治 33 年に改称されたもです 沖縄県では 1904 明治 37 年に喜屋武と西表に開設されたようです これらは 1904 明治 37 年に喜屋武と西表に開設されたようです これらは 建物跡などが確認されていますが どちらとも 1907 明治 建物跡などが確認されていますが どちらとも 1907 明治 40 年40 年 こうさい 以降に造られた鉱滓レンガが使用されていることから 第一次大戦 以降に造られた鉱滓レンガが使用されていることから 第一次大戦 こうさい が勃発した 1914 大正3 年に再度設置された海軍望楼もと考 が勃発した 1914 大正3 年に再度設置された海軍望楼もと考 えられます なお 後に海軍望楼は海軍特設見張所と改称されており えられます なお 後に海軍望楼は海軍特設見張所と改称されており 久米島町上田森や石垣市平久保崎などに現存しております 久米島町上田森や石垣市平久保崎などに現存しております շ ދ നஓಎ ųғ ųμ շ ދ നஓಎ ųғ ųμ ųųųųųųųųDžəǖə ųųųųųųųųDžəǖə Ūᙱᘙ ஓಎ ᇦ ထ Ūᙱᘙ ஓಎ ᇦ ထ ųᙱᘙ ƷஇᙱᇢƴᆳƖƩƠƨɯᨒƷ עײ ƴˮፗơljƣŵ ཋƷdzȳǯȪȸȈ ųᙱᘙ ƷஇᙱᇢƴᆳƖƩƠƨɯᨒƷ עײ ƴˮፗơljƣŵ ཋƷdzȳǯȪȸȈ ƜƏƞƍ ƜƏƞƍ ᄽǍ ๗ȬȳǬᆢLjƳƲƕᄩᛐƞǕƯƍLJƢŵ ᄽǍ ๗ȬȳǬᆢLjƳƲƕᄩᛐƞǕƯƍLJƢŵ ƍǓƓNjƯDžƏǖƏƍ Ǔ Ɠ Nj Ư Dž Ə ǖ Ə ᙱᘙ ᙱᘙஓಎ ᢒஓ ಎ ᢒ ғ ų ཋ ғ ų ཋ ғ ųᝪ൦ ᢡನ ғ ųᝪ൦ ᢡನ ᙱᘙˎᚨஓಎᣐፗ,#%#4,#%#4 ǢǸǢഭ ǢǸǢഭ ᙱᘙˎᚨஓಎᣐፗ Ӫ ǻȳǿȸ 4GH % Ŵ žಊ Ӫ ǻȳǿȸ 4GH % Ŵ žಊ ᅼ ଢ Ӫųᇹ ᢿ ᚘኺ ࠇ ཋ ཋ ᅼ ଢ Ӫųᇹ ᢿ ᚘኺ ࠇ ƞƍȭȳǭᆢLj Кώſ ᘓႾ ᘓᄂᆮ ᔺǑǓ ƞƍȭȳǭᆢLj Кώſ ᘓႾ ᘓᄂᆮ ᔺǑǓ 2 շ ދ നஓಎ ųဦย շ ދ നஓಎ ųဦย
なかぐすくわんりんじようさい (4) 中城湾臨時要塞確認されている遺跡 3 ヶ所 中城湾臨時要塞は 1922( 大正 11) 年に西表島船浮湾と同時に計画されましたが 同年に締結されたワシントン条約軍縮によって中止されました しかし 第二次世界大戦勃発に伴う軍事情勢変化により 真珠湾攻撃半年前 1941( 昭和 16) 年 7 月に 中城湾と船浮に臨時要塞部隊が編成されました 両方とも 重砲兵連隊を中心とした沖縄における本格的な常備軍として評価されます 本要塞は 中城湾警備を任務として 当初は与那原に要塞司令部連隊本部 津堅島に第 1 中隊 伊計島に第 2 中隊 平敷屋に第 3 中隊 那覇に第 4 中隊が置かれました そ後 第 2 中隊は知念半島 第 3 中隊は小禄に移動し 第 4 中隊が廃止されるなど再編され 1944( 昭和 20) 年第 32 軍編成後には 重砲兵第 7 連隊と改称し 米軍上陸を迎え激しい攻防戦を繰り広げました 屋
(十六年霜月砲台2刻銘 ) 杭 陸防二 砲台 4 砲台 2 土坑 1 砲台 1 へしきやほうだいあと平敷屋砲台跡遺構分布図 屋 ふなうきりんじようさい (5) 船浮臨時要塞 確認されている遺跡 23 ヶ所 船浮臨時要塞は 中城湾臨時要塞と同様 1941( 昭和 16) 年に建設され 西表島西部祖納半島 外離島 内離島 サバ崎4 管区が設置されました 戦後に大規模な開発がなかったこともあり 砲台 司令部 兵舎などが良好に残存しており さらに詳細な調査が望まれます
国 国 与那 与那 那 那 与那城防空監視 与那城防空監視 跡 略測図 跡 よなし うよなし うか しし う うか うあとしし 空 や な 屋 や うあと 空跡 うるま 跡 うるま な 屋 が 略測図 標高 標高 がで 平 で 平 特 に し に し を できます 平 を できます 平 特 などに などに しますが しますが 8 とやや 8 とやや なもです なもです 空 空 跡 跡 よ よを を Ɵ LJ Lj Ɵ LJ Lj Ūࡈ᧓ԛ Ʒ ᄞ ࡈ᧓ԛ Ūࡈ᧓ԛ Ʒ ᄞ ࡈ᧓ԛ 7 戦争に関連する施設記念碑 7 戦争に関連する施設記念碑 ų ଯԧ ų ଯԧ Ŵ נ Ʒࡈ᧓ԛ ܖݱ Ʒᘻ ƴƌǔŵⴤϋưɟဪஇ ƴᡯ Ŵ נ Ʒࡈ᧓ԛ ܖݱ Ʒᘻ ƴƌǔŵⴤϋưɟဪஇ ƴᡯ 確認されている遺跡 51 確認されている遺跡 51 ヶ所 ヶ所 ǒǖƨ ᄞưƢŵ ǒǖƨ ᄞưƢŵ 直接戦争に関連するもではありませんが 戦意愛国心を高揚 直接戦争に関連するもではありませんが 戦意愛国心を高揚 する場もしくは役割を担ったと考えられる施設記念碑も戦争遺跡 する場もしくは役割を担ったと考えられる施設記念碑も戦争遺跡 一ジャンルとして捉えられます 大きく3つ種類 忠魂碑 奉 一ジャンルとして捉えられます 大きく3つ種類 忠魂碑 奉 安殿 天皇関係記念碑 があります 安殿 天皇関係記念碑 があります ちゅうこんひ ちゅうこんひ 忠魂碑27 忠魂碑27 ヶ所 ヶ所 まつ まつ 戦死した兵士を祀った記念碑で 日露戦争後に多く造られた石碑 戦死した兵士を祀った記念碑で 日露戦争後に多く造られた石碑 Ū Ʒ ᄞ ඌጃࠊਦ ܭ ૨ ᝠ Ū Ʒ ᄞ ඌጃࠊਦ ܭ ૨ ᝠ ࡈ᧓ԛ Ʒ ᄞ ࡈ᧓ԛ Ʒ ᄞų ӨࡈƴƸᵧ ജƷᵭ ǏƔƹᵮƷജᚺ ᵭଯԧҗρ ɡஉų ם ங ሰ ᛪ ಅӳ ᅈ ஜų ᙵࠊ ᙱஜထʞɠႸᵮƱ ᡯಅᎍӸ ƳƲƕᚡƞǕƨ ם Ө ᵭଯԧҗρ ɡஉų ם ங ሰ ᛪ ಅӳ ᅈ ஜų ᙵࠊ ᙱஜထʞɠႸᵮƱ ᡯಅᎍӸ ƳƲƕᚡƞǕƨ ם Ө じんじょう ưөࡈƴƹ ƕцljǖưƍljƣŵ ưөࡈƴƹ ƕцljǖưƍljƣŵ ųᘙ ᘻ ᘻ Э Ʒ ၕ Э Ʒ ၕ ㈨ ᐑᮏ ųᘙ 5 ㈨ ᐑᮏ ࡈ᧓ԛ Ʒ ᄞ ࡈ᧓ԛ Ʒ ᄞų ӨࡈƴƸᵧ ജƷᵭ ǏƔƹᵮƷജᚺ じんじょう ų ଯԧ Ŵ ݮ ᭗ሁ ܖݱ ϋƴ ᇌƞǕƨNjƷưƢŵ ᄞƸŴ ų ଯԧ Ŵ ݮ ᭗ሁ ܖݱ ϋƴ ᇌƞǕƨNjƷưƢŵ ᄞƸŴ
ほうあんでん 奉安殿4 ヶ所 御真影 学校に下賜された天皇皇后公式肖像写真 沖縄県が一番最初に下賜され た や教育勅語を保管するため施設 ƱƷ Ơ ǖ Ūჽ ࠊ ܖݱ Ʒ ܤڊ ჽ ࠊ ਦ ܭ ૨ ᝠ ഭӪ ų ଯԧ Ŵ ݮ ᭗ሁ ܖݱ Ʒ ܤڊ ƱƠƯ ᚨƞǕƨNjƷư ƢŵǢȸȁཞƷ ދ ఌƴƸᓎᑶኚƕȬȪȸȕƞǕƯƍLJƢŵ ܖݱ Ʒ ܤڊ ჽ ࠊ ܖݱ Ʒ ܤڊ ᶝϋᢿᶞ ஙᙌƷ Nj ƷNjƷưസǓƕᑣƍᵨ 天皇関係記念碑20 ヶ所 天皇即位や皇太子誕生 御成婚 紀元二千六百年祭 昭和 15 年 記念碑 ƞǜưƌǜNjə Ū ƷȟȳǫǶȳȈ ଯԧ ƷኔΨʚҘρ Ǜᚡ ଯԧ Ʒ႐ ٽ ᛓဃǛᚡ ƠƯ፻ ƴᡯ ǒǖƨNjʒưƣŵ ƠᡯǒǕƨǻȡȳȈᙌƷᝪ൦ ᚨưƢŵ 戦戦 て 8 う 2 跡は Ūነ ࠊ ߴޛ Ʒ ଊ ਫ਼੬Өᄞ ነ ࠊ な が 20 8 を しました な としたは がっているもです また こ 2 が 戦 に なも を え しました これら 跡は ン に分 て 跡 う なもも か する が ン ン にまた ン に や など な や など もあ ます 6
によって石垣島に派遣され 滑走路や防備施設設営にあたった 1945 昭和 によって石垣島に派遣され 滑走路や防備施設設営にあたった 1945 昭和 20 年 20 年 1月 事指令が出され 2 事指令が出され 2 月末をめどに小型飛行機 月末をめどに小型飛行機 50 機分掩体壕建設が急ピッチで進められた 50 機分掩体壕建設が急ピッチで進めら え たい え たい う う 体壕を含む飛行場周辺や北方フルスト原 タナドウ原周辺高台には土を盛り上げた コ 体壕を含む飛行場周辺や北方フルスト原 タナドウ原周辺高台には土を盛り上げた 大 大 跡 跡 壕やコンクリート製有蓋掩体壕が多数構築された 当掩体壕は有蓋掩体壕として分類でき 壕やコンクリート製有蓋掩体壕が多数構築された 当掩体壕は有蓋掩体壕として分類で 2020 平 平 2 2 に に するもで するもで 掩体壕は滑走路側 南東方向 に開口する 平面で見ると 凸字状で 機体 掩体壕は滑走路側 南東方向 に開口する 平面で見ると 凸字状で 機 まで まで されていた されていた 空 空 格納部を有し 壁面天井は鉄筋コンクリートでそれぞれ 格納部を有し 壁面天井は鉄筋コンクリートでそれぞれ 2 か所格納部をアーチ状に覆う 2 か所格納部をアーチ状に に に された された にに 掩体壕計測値は主翼格納部が幅 掩体壕計測値は主翼格納部が幅 15m 15m 奥行き 奥行き 5.7m 5.7m 最大高は 最大高は 3.9m 3.9m また尾翼格納部は幅 また尾翼格納部は5 うもとして うもとしてられたようです られたようです をそれぞれ測る また 主翼格納部奥壁や天井一部は格子状溝に鉄筋 は はさ さ であるで であるで 最大高 最大高 2.9m 2.9m をそれぞれ測る また 主翼格納部奥壁や天井一部は格子状溝に鉄筋が露 見られるが これは戦後スクラップ回収際に 鉄筋を取り出すためにコンクリートを剥 見られるが これは戦後スクラップ回収際に 鉄筋を取り出すためにコンクリートを 型 型 機が 機が されていたもと されていたもと われます われます れる れる 大浜掩体壕は 戦後に鉄筋が剥がし取られるなどして 決して保存状況は良 大浜掩体壕は 戦後に鉄筋が剥がし取られるなどして 決して保存状況 先島諸島に残る唯一有蓋掩体壕として 石垣市民文化財めぐりや戦跡学習に活用されて 先島諸島に残る唯一有蓋掩体壕として 石垣市民文化財めぐりや戦跡学習に活用され え たい え たい う 高 高 は航空 は航空 う 跡 跡 にあ にあ れたようです れたようです はは が がまったは まったは 8 8 瀬名波栄 瀬名波栄 1970 石垣島防衛戦史 先島戦記刊行会 1970 石垣島防衛戦史 先島戦記刊行会 大田静男 大田静男 1996 八重山戦争 南山舎 1996 八重山戦争 南山舎 に にうもとして うもとしてら ら に にられましたが 大 られましたが 大模な 模な備 備 なで こ なで こ も もこ こに に られたと考えられます られたと考えられます しているもは しているもは 機後 機後 分を 分を する する分 分 で で 本 本は宮古島市上野字上野 第 は宮古島市上野字上野 第 0 0にも にも 183 大型 大型 機を 機を していたもと していたもと されます されます 183 図 図 宮古島市④1 宮古島市④1 大 大 陸軍宮古島中飛行場戦闘指揮所跡は 野原集落南西側に位置する 周辺はサトウキビや タバコ 陸軍宮古島中飛行場戦闘指揮所跡は 野原集落南西側に位置する 周辺はサトウキビや タバコ 跡 跡 畑が広がり 当時中飛行場様相を知る遺構などは 本遺構みである 周辺畑地よりは やや小高い丘 畑が広がり 当時中飛行場様相を知る遺構などは 本遺構みである 周辺畑地よりは やや小高い丘 高 高 跡 跡 に位置しているが に位置しているが 周辺は雑木林に覆われている 本遺構にも 周辺は雑木林に覆われている 本遺構にも 樹木蔓や根が絡み付くような状況が見て取れ 樹木蔓や根が絡み付くような状況が見て取れ 戦戦 今後遺構保存に影響を及ぼす可能性がある 内部には コンクリート片が非常に多く散乱し 足場が悪い部 今後遺構保存に影響を及ぼす可能性がある 内部には コンクリート片が非常に多く散乱し 足場が悪い部 分も多いが コンクリート保存状態自体は それほど悪くはない 分も多いが コンクリート保存状態自体は それほど悪くはない 野野 中飛行場戦闘指揮所跡は 1944 昭和 中飛行場戦闘指揮所跡は 1944 昭和 19 年から建設が始まった旧日本陸軍中飛行場東西滑走 19 年から建設が始まった旧日本陸軍中飛行場東西滑走 に に し し 跡跡 に に された された に にうもと考えられている うもと考えられているン ン 路西端付近高台に造られた鉄筋コンクリート造り壕である こ壕が設置された目的は 宮古島で地上戦 路西端付近高台に造られた鉄筋コンクリート造り壕である こ壕が設置された目的は 宮古島で地上戦 構築 構築です です が激化することを想定し 非常時には指揮官がそ中に入って指揮をとるために造られている しかし 宮古島 が激化することを想定し 非常時には指揮官がそ中に入って指揮をとるために造られている しかし 宮古島 における戦闘はそこまでには至らず における戦闘はそこまでには至らず 指揮所として機能していない 当時は 指揮所として機能していない 当時は 建物上に盛土をして植物を植え 建物上に盛土をして植物を植え あわせて周囲土塁にも植物を植えて 空から見て建物があることが判らないようにカモフラージュしていた あわせて周囲土塁にも植物を植えて 空から見て建物があることが判らないようにカモフラージュしていた 高 高 跡 跡 107107 中飛行場には 旧陸軍 中飛行場には 旧陸軍 205205 飛行場大隊が駐屯し 戦闘が激しくなるまでは同大隊うち約 飛行場大隊が駐屯し 戦闘が激しくなるまでは同大隊うち約 20 人が指揮所に常 20 人が指揮所に常 駐していた 戦闘が激しくなると 指揮所には独立機関銃第 駐していた 戦闘が激しくなると 指揮所には独立機関銃第 18 大隊山内小隊が応戦し やがて終戦をむかえた 18 大隊山内小隊が応戦し やがて終戦をむかえた 1945 昭和 1945 昭和 20 年 20 年 4 月422 月日に米軍双発爆撃機により 22 日に米軍双発爆撃機により 250250 キロ爆弾直撃を受けたが 上部に小さな穴が キロ爆弾直撃を受けたが 上部に小さな穴が 開いた程度で大きな被害がなかったというほど強固な造りであったといえる 開いた程度で大きな被害がなかったというほど強固な造りであったといえる 戦闘指揮所跡は 鉄筋コンクリート造りで 15 戦闘指揮所跡は 鉄筋コンクリート造りで 15 m m 15 m方形状構造をなしている そ外 15 m方形状構造をなしている そ外 側には もう一回り擁壁を巡らしており 南西側入口部分はコンクリート造りであるが それ以外部分が土 側には もう一回り擁壁を巡らしており 南西側入口部分はコンクリート造りであるが それ以外部分が土 塁で構築している こ2つ擁壁間は 塁で構築している こ2つ擁壁間は 約 1.2 約 mほどである 外側部分入口は 1.2 mほどである 外側部分入口は 幅が幅が 1.3 m前後 1.3 m前後 高さは 高さは 1.6 1.6 mほどである 天井まで高さは約 mほどである 天井まで高さは約 3.0 mであり 天井部分コンクリート厚さが約 3.0 mであり 天井部分コンクリート厚さが約 1.4 m強固なつくりと 1.4 m強固なつくりと なっている 天井一部は崩落し 床面にそ残骸が散乱している 中央部分には2本柱が残されている 壁 なっている 天井一部は崩落し 床面にそ残骸が散乱している 中央部分には2本柱が残されている 壁 面部分などは 戦後鉄筋を取り出すためにコンクリートをはがし取った痕が ほぼ全面に見られる 面部分などは 戦後鉄筋を取り出すためにコンクリートをはがし取った痕が ほぼ全面に見られる 戦 戦 跡 跡 飛行場に付設する戦闘指揮所跡としては 県内で唯一遺構である 周囲よりも小高い丘に位置し 飛行場に付設する戦闘指揮所跡としては 県内で唯一遺構である 周囲よりも小高い丘に位置し 高 高 跡 跡 ているため 中飛行場はもとより西飛行場まで一望できたという そような立地からも 沖縄戦時においては ているため 中飛行場はもとより西飛行場まで一望できたという そような立地からも 沖縄戦時においては 宮古島防衛戦略上重要な位置を占める戦争遺跡であるといえる 宮古島防衛戦略上重要な位置を占める戦争遺跡であるといえる 2 司令部壕 2 司令部壕 Ūᇹ ᬍ Ӯˋᢿ ᙵࠊ Ūᇹ ᬍ Ӯˋᢿ ᙵࠊ 確認されている遺跡 単体 9 ヶ所 複合 1 ヶ所 確認されている遺跡 単体 9 ヶ所 複合 1 ヶ所 沖縄県に配備された第 3232 軍 海軍沖縄方面根拠地隊 各師団 旅団は 沖縄県に配備された第 軍 海軍沖縄方面根拠地隊 各師団 旅団は 通信連絡指揮機能をもつ中枢として司令部をそれぞれ有してい 通信連絡指揮機能をもつ中枢として司令部をそれぞれ有してい ų ଯԧ உஉ ଐƷ ȷ ᆰ ƴǒǔŵ ƴ ƳӮˋ ų ଯԧ ଐƷ ȷ ᆰ ƴǒǔŵ ƴ ƳӮˋ ᢿ ƕ ᙲƱƳƬƨƨNJŴ உˌᨀƴᬍ Ʒ ע ɦưನሰƕ ڼ LJǓLJƠƨŵ ᢿ ƕ ᙲƱƳƬƨƨNJŴ உˌᨀƴᬍ Ʒ ע ɦưನሰƕ ڼ LJǓLJƠƨŵ žɟ עٻ ɦțȆȫſƱNjᆅƞǕƨኖ ˌɥƷ ᙹٻ ư ǓƕƱ žɟ עٻ ɦțȆȫſƱNjᆅƞǕƨኖ ˌɥƷ ᙹٻ ư ǓƕƱ ます これら司令部は 当初陸上に行政施設や学校など建物を利 ます これら司令部は 当初陸上に行政施設や学校など建物を利 NjƞǕƯƍƨ ưƌƭƨǒəưƣŵ ܤ μ ƷᣐॾƷƨNJŴ נ Ƹπ ƞǖưƍ NjƞǕƯƍƨ ưƌƭƨǒəưƣŵ ܤ μ ƷᣐॾƷƨNJŴ נ Ƹπ ƞǖưƍ 用していましたが 戦況悪化に伴い 人工壕や自然洞穴に移転するこ 用していましたが 戦況悪化に伴い 人工壕や自然洞穴に移転するこ LJƤǜŵ LJƤǜŵ とになりました また 司令部壕も戦況に合わせ 数度移転したも とになりました また 司令部壕も戦況に合わせ 数度移転したも もあります もあります ƭųɣųɵǜ ƭųɣųɵǜ Ƹ ƑƸ ƹƒ ǔƹ ǔ Ūᇹ ޛ Ӯˋᢿ Ҥ Ҿထ Ūᇹ ޛ Ӯˋᢿ Ҥ Ҿထ ųᇹ Ӯˋᢿ ƸŴ ଯԧ உ ଐǑǓҤ Ҿထ ޛ ųᇹ Ӯˋᢿ ƸŴ ଯԧ உ ଐǑǓҤ Ҿထ ޛ ƴ ИನሰƞǕLJƠƨŵƜƷɟ Ƹ ឋƳ ע ႴưƋǔǯȁȣ ޖ ƷƨNJŴನሰ ƴ ИನሰƞǕLJƠƨŵƜƷɟ Ƹ ឋƳ ע ႴưƋǔǯȁȣ ޖ ƷƨNJŴನሰ ᬍ Ӯˋᢿ ųᇹ ӝ ᬍ Ӯˋᢿ ųᇹ ӝ ᇹ ӝϋᢿ ᇹ ӝϋᢿ ƠǍƢƍӒ Ŵ ࡇƴբ ƕƌǔljơƨŵ Ƹ ඐƠƨƨNJƴ ǒƙʀʒ ƠǍƢƍӒ Ŵ ࡇƴբ ƕƌǔljơƨŵ Ƹ ඐƠƨƨNJƴ ǒƙʀʒ LJ ƿ LJ ƴ ƿ ƴ ७ƸɧଢưƠƨƕŴҤ Ҿထ Ꮛ ۀ Ճ ƕ ȷ ȷ ७ƸɧଢưƠƨƕŴҤ Ҿထ Ꮛ ۀ Ճ ƕ ȷ ȷ Ūᇹ ઊ૨ʶӮˋᢿ ነ ࠊ Ūᇹ ઊ૨ʶӮˋᢿ ነ ࠊ ࡇƴᢊ ᚨƷƨNJ ᛦ ǛᢿЎႎƴᘍƏƜƱƴǑǓŴƦƷ נ ƕ ࡇƴᢊ ᚨƷƨNJ ᛦ ǛᢿЎႎƴᘍƏƜƱƴǑǓŴƦƷ נ ƕ ųᇹ ӮˋᢿƸŴ ɥᨕ Ʒ ඞƕዌஓႎƱƳƬƨ ଯԧ ųᇹ ӮˋᢿƸŴ ɥᨕ Ʒ ඞƕዌஓႎƱƳƬƨ ଯԧ ଢǒƔƴƳǓLJƠƨŵ ଢǒƔƴƳǓLJƠƨŵ உ ҞƴŴઊ૨ʶƷ ᭗ ע ƱԠƹǕƨᐯ 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2 トーチカ じゅうがんじゅうざだい銃眼銃座台
じんちごう 3 陣地壕 墓墓墓 墓墓 墓 墓墓墓墓墓
4 監視所 5 戦闘指揮所 6 通信所
とっこうていひとくごう (4) 特攻艇秘匿壕 確認されている遺跡 単体 20 ヶ所 陸海軍による小型船舶による特攻作戦に用いた特攻艇を秘匿する壕です 全長 10 ~ 20 m 幅 2~4m 高さ2~3m直線的な壕が多く 一定間隔をあけて数基構築されるももあります 沖縄戦特徴的な壕で 本土各地でもそ決戦に備えて多く造られました (5) 学徒隊壕 確認されている遺跡 単体 3 ヶ所 日中戦争ごろから 沖縄でも学生 ( 学徒 ) 勤労動員は始まっており 米軍攻撃が始まった 1945( 昭和 20) 年 3 月 23 日頃に 訓練を受けた男子学生は各学校で結成された鉄血勤皇隊などへ 女子学生は主に看護補助要員として沖縄陸軍病院や各地野戦病院などに配備されました 学徒隊壕としたは 男子学生や教職員が構築もしくは避難した壕です
(6) 病院壕 確認されている遺跡 単体 13 ヶ所 複合 3 ヶ所 1944( 昭和 19) 年 1010 空襲を契機に これまで地上にあった病院施設が地下壕に移され 沖縄陸軍病院は南風原に 各師団等野戦病院壕も各地に造られました 1945 年 4 月以降戦況悪化に伴い 本島南部壕に分室が造られたり 第 32 軍が南部へ撤退した5 月後半以降には 沖縄陸軍病院も本部 第 1~3 外科に分かれて喜屋武半島壕に分散していきました ( 埋没 ) ( 埋没 ) (7) 官公庁壕 確認されている遺跡 単体 9 ヶ所 複合 4 ヶ所 県庁や市町村役場等官公庁では 1010 空襲などを契機に空襲を書類保管や職員避難などを目的として自然洞穴利用したり 壕構築を行いました
ごしんえいほうごごう (8) 御真影奉護壕確認されている遺跡 単体 4 ヶ所 複合 1 ヶ所 1010 空襲により 県は御真影奉護ため各地学校に壕を造らせましたが 1945( 昭和 20) 年 1 月には名護市大湿帯御真影奉護壕に移動させました なお 宮古や八重山でもそれぞれ御真影奉護壕を造り 管轄下学校もが集められ保管されました おおしったい (9) 住民避難地 確認されている遺跡 単体 407 ヶ所 ( 現在 408 ヶ所 ) 複合 38 ヶ所 沖縄戦において 住民は 1010 空襲以降に屋敷など防空壕や近く自然洞穴に 空襲警報際などに一時的に避難するようになりました 自宅から離れて本格的な避難生活は 米軍上陸が迫った 1945( 昭和 20) 年 3 月下旬以降に始まりました これら住民避難地では 日本 兵によるスパイ嫌疑や食料略奪ため住民へ脅迫虐殺などが行われたり 地元召集防衛隊員などから手渡された手りゅう弾などによって住民が命を絶つという 集団自決 などが起こりました 住民避難地形態を 防空壕 自然洞穴 山間部大きく3つで捉えることができます 1 防空壕
2 自然洞穴
本 や 敷 などな があるとこ では にしたもいました では 屋や 跡などがされているとこ もあ ます また 敷 ようにが こったや などではで し だもいます 跡 ( 戦 跡 ) 標高 0 00 である いにします こには 野 や大 が していたという証言があ 跡などがされます ただ やも分 して 28 がしていたことから 本 は がしていたと考えられます な が った も られ う はであったとされています 跡 ( ) は にある で 標高 0 を れる いに られます ( 20) 2 空 に がこ にしたとされます 構としては いに ように でされた平 が かられます う 平 は 8 空 をし 跡と考えられるが られ 屋跡ではないかと考えられます 跡 跡平 1 平 跡 跡 構分 跡 0 ま はなもう 国 ( ) を 下 す台 にします 大砲を えたとされるで られたが ってます には 本 は配備されて ら や が た 構築したとされています 戦 ( ) 機 ( ) 砲台 ( )() 砲台跡 砲台跡
されている や砲 を 屋跡 や 本 に にある られた 屋に された する と上 が が 戦で 跡が や 伊江 で が 後 ら た 伊江 伊江 2 跡 などに 屋 ン な られます られることか ます ン 機から機 に う たき では があったた 的に や ン であった したもです が が となっている かな 2 まれ さ ようになっています って による である で 砲や に は が による られる まって と言われて ます されたもと われます 本 どを 伊江 跡 うるま 屋跡 ン されている 跡 は に さ しました 跡 に 4 ないように ら や な では 跡 うるま や 跡が られます 跡 大 ン 跡 に 跡とされる で いて で 分 された平 などが で 大 されています 収容所遺構が確認 された範囲 き による大 大 野 資料 野 8 よ 配 20 よ よ 大 18 跡 構分 20 よ
教育委員会実施文化財保護法に基づく発掘調査等開発対応一覧第 7 表
第沖縄県内戦争遺跡指定文化財一覧 8 表
沖縄県戦争遺跡に関する年表
米軍進攻図
第 32 軍主要部隊配置図 (1945 年 3 月末段階 )
戦争遺跡分布図 1 国 24
戦争遺跡分布図 2 町 25
戦争遺跡分布図 3 町 15 14 16 17 22 16 27 28 26 26
戦争遺跡分布図 4 町 4 1 2 3 0 5 4 6 7 10 12 12 27
戦争遺跡分布図 5 町 56 3 4 5 5 5 28 町
戦争遺跡分布図 6 那 33 4 65 67 70 68 4 3 5 71 4 3 29 66
戦争遺跡分布図 7 与那 町 町 5 9 10 7 3 4 30
戦争遺跡分布図 8 町 アガタヌメーガマ アガタヌメーガマ 住民避難地区自然洞穴 2015年6月追加 86 5 119 31
戦争遺跡分布図 9 国旗掲揚台も含まれる 133 134, 135 3 32
戦争遺跡分布図 10 5 5 5 6 2 7 8 33
戦争遺跡分布図 11 国 34 町
戦争遺跡分布図 12 20 5 9 35
戦争遺跡分布図 13 5 36
戦争遺跡分布図 14 37
竹富町 54 55 39 41 42 50 43 46 36 56 45 44 50 37 35 51 47 57 53 48 52 49 34
竹富町与那国町 7. 図録で取り上げた戦争遺跡は青字で示した
へしきやほうだい 平敷屋砲台跡 ( 上 : 復元模型下 : 砲台 4 周辺伐採後 ) 平敷屋砲台跡復元模型 (20 分1) 平敷屋砲台跡でどような大砲が配備されたかは資料や証言などからはわかっています 砲床に特徴的な5 本溝があることなどから 5 本砲脚がある 88 式 7センチ野戦高射砲を配備することを意識して構築されたもと考えられます こ大砲は主に航空機を標的にしていたようです
沖縄県立埋蔵文化財センター 903-0125 沖縄県中頭郡西原町字上原 193-7 TEL 098-835-8751 FAX 098-835-8754 HP http://www.pref.okinawa.jp/edu 入場無料 開所時間 : 午前 9 時 ~ 午後 5 時 ( 入所は午後 4 時 30 分まで ) 休所 : 毎週月曜日 年末年始国民祝日 ( こども日 文化日を除く ) 慰霊日 (6 月 23 日 ) 月曜日が祝日となった時は 翌日火曜日も休所そ他 臨時休所あり交通 : 沖縄自動車道西原 IC より車で約 10 分市外線バスターミナル発那覇バス 97 番 琉大附属病院前 下車徒歩 3 分