岸本酒井 そうした教えを尊重する個人は 何よりもまず 教えを遵守することが彼らにもたらす ( その ) 利点を完全に自覚した ひとりの功利主義者である ( しかし ) 道徳的な規範は別である デュルケームは言う おそらく それら (= 道徳的な規範 ) を侵すと 私たちは不幸な結果に身をさらすことになる つまり 私たちは 非難され 排除され 生命や財が実際に打撃を被るリスクさえある しかし そうした不幸な結果を予想してそれ (=ある行い) がなされたのだとすれば ( その行いが ) 実際は規範に一致しているとしても ある行いが道徳的でないのは 議論の余地なく 確たる事実である そこでは ( 人びとの ) 行いが完全になされるべきものであるために そして規範が従われる ( ものである ) ために 私たちは ( 規範に ) 従わなければならない それ (= 規範に従わなければならないこと ) は そうした不快な結果 すなわち ( そのような ) 物質的あるいは道徳的な罰を避けるためでも そうした報いを得るためでもない ただ単に 私たちが規範に従わなければならないのは 私たちの振る舞いが私たちにもたらし得る結果によって作られた観念である規範に 私たちが従わなければならないからである その教えを尊重する人は なによりもまず 最終的に一致をもたらすという利点があることを十分に自覚している 功利主義者になる それは道徳の規則の事情とは異なる デュルケームは私たちに言う おそらく もし私たちが道徳の規則を破れば 私たちは残念な結果にさらされるだろう というのは 非難されたり 後ろ指を指されたり 私たちの財産である市民に肉体的に殴られたりさえする危険にさらされる結果である しかし その行動は道徳的ではないということは恒常的で明白な事実である たとえ物質的に規範と一致させるとしても もしそれが定められた不都合な結果の見通しだとしても ここではその行動が全てでなければならないため および規範が守られるために規範に従わなければならない それは ある不愉快な結果や物質的もしくは道徳的な罰を避けるため またある褒美を得るためではない 私たちの行動は私たちのためだと思われる影響を除けば 規範に従わなければならないから 単純に規範に従わなければならない 1
加藤山下 それを尊重することによって そしてその (= 道徳的な教えを尊重すること ) 理由のためだけに 道徳的な教えには従わなければならないのだ 彼にとって 道徳は習慣的な制度ではなく 戒律的な制度である こうして 彼が強調しているように 規制性への関心と道徳的権威の意味とのあいだには ある種の親和性が存在している この二つの側面は ( 人びとの ) 振る舞いを規制することを目的とする規律の基盤となっている 何よりもまず 道徳は個人にたいし ある種の生きる意志 規律正しい存在 ある種の規制性への関心を前提としている というのも 道徳が人びとの行動を引き起こし 決定づけ 規制するからである 次に 道徳的規範に従うために そして その結果として 道徳的に行動する状態になるためには そこに内在するそうした特有の ( 道徳的 ) 権威の意味を知る必要がある というのも 道徳的規範とは単に精神的 (= 内的 ) な習慣を言い換えたものではなく 外的な振る舞いを強制的に決定づけるものだからである 言い換えれば 個人は 自分の価値よりも高い道徳的な力の優越性を感じ それ (= 道徳的な力 ) に服して従う存在でなければならないのだ 私たちは人に対する敬意と その理由だけで道徳的規律に従わなければならない 彼は 道徳は単に支配の体系ではない という したがって 彼が強調するように 規則性に対する嗜好と道徳的権威の感覚との間には一定の類似性がある これら二つの側面は 行為を正常化に導く目的を持っている規律の基礎である まず 道徳は人々の行動を決定し 定め 調整すことから 個人の中で生きるための一定の性質 規則的な存在 規則性に対する一定の嗜好を想定している 第 2の紐帯は 道徳的規律が内部の風習に別の名前を与えるのは単純なことではないのだから 外から行動を強制的に決定する 道徳的に振る舞うことができる状態のために 首尾一貫したそれらに従わなければならない 特有の権力の認識力は内在的だ 別の関係では 個人は精神力の優越を感じるように構成しなければならない つまり 価値は愚行より強く それらに従う 2
中林和田 規律の精神にかんしておこなわれた講義のなかで 彼が自殺にかんする自身の研究を再び持ち出しているのは当然 (= 論理的 ) である アノミー的自殺を明示的に引き合いに出さずに 彼は 1897 年の著作の第 5 章で分析した事例を根拠としている 実際に デュルケームは彼の元々の議論の二つの主要な説明を繰り返している すなわち 夫婦のアノミーと経済的アノミーである 自身が作成した統計表をもとに デュルケームは 離婚が広く一般的な国よりも 離婚が存在しない国のほうが 夫婦の自殺にたいする免疫がより強いことを指摘した 彼は 道徳教育論 の第 3 課においてこの結論を引き出している 例えば 夫婦 ( 間 ) の道徳の規範が権威を失うということ 一方から他方にたいする夫婦の義務がより尊重されないこと ( である ) そして 情熱(= 夫婦間の愛情 ) すなわちこうした道徳の一部分をなし それを規制する欲望は爆発し 乱れ そのこと (= 乱れること ) により激化さえするだろう ( 道徳の規範が ) あらゆる制限から解放されるために 和らぐ (= 緩くなる ) ことのできない道徳の規範は 失望をもたらすであろう このことは 自殺の統計のなかで明らかにされている 規律の精神に関する彼の発表の講義録で デュルケームは自殺研究について論理的に立ち返る 彼はアノミー的自殺を明白に示すこと無しに 1897 年に出版した著書の第 5 章で分析した例を根拠とする 彼は実際に 当初彼が示していた論証の 2 つの主要な説明を再び取り上げる それは夫婦間アノミーと経済的アノミーである まとめていた統計表から デュルケームは離婚が広く行われている国に比べ離婚の存在しない国においてのほうが 自殺に対して夫婦は免疫が高いことに気がついていた 彼は 道徳教育論 第 3 課で次の結論を再び持ち出している 例えば 夫婦間の道徳の規則はその力を失う 配偶者が互いに対して持っている敬意はあまり尊重されない そして 道徳のこの部分が含み規制している情熱と欲求は解き放たれ 混乱し そしてまさにこの混乱によって憤慨するだろう 情熱と欲求が全ての制限から解放されたためにこれらは収まることが出来ず 自殺の統計において目に見える態度で示される失望の原因となるだろう 3
辻丸山 デュルケームがここで詳細には立ち入っていないことを指摘しておこう 彼はとりわけ男女の差異という ( 彼の研究 ) 結果の本質的な点には触れていない 実際に彼は 夫婦の結びつきが頻繁かつ容易に断絶する国では 自殺 ( に直面 ) する既婚女性が保護される割合が 夫婦 ( 二人 ) が保護される割合が下がると同時に上昇することを確認している 結果として より正確には 夫婦の道徳的な規範の衰退が 女性よりも男性の場合において 自殺のリスクという点でより影響があると言えるのであろう しかし 規律の重要性を証明するための議論の流れを見失うことを懸念していたデュルケームは 意図的により一般的な話題に留めている もっとも 彼が ( 経済 ) 危機の事例とすぐに ( 論理的に ) 結び付けているのは こうした (= 次の ) 理由のためでもある 経済生活を支配する道徳が揺らぎ始めるとともに もはや限界を知らない経済的野心は刺激され 熱狂するだろう しかし そこでは 自発的な死 (= 自殺 ) が年々増加していくであろう ここでデュルケームが詳細を考察していないことに留意しよう 彼は彼の結論の本質的な点の一つ とりわけ男女間の違いを黙過している 彼は実際に国において夫婦的紐帯はしばしば そして簡単に切れるということ ( 論拠?) を確立した 自殺に直面した既婚者の女性の予防係数が増大するにつれて夫婦の紐帯は弱まる 彼は結果によって夫婦道徳の規制の衰退は強い効果があるということを自殺危機の男女についてより正しくいった しかしデュルケームは 社会はおそらく規律の重要性についての糸の証明を失わず 彼は自発的にこのより一般的な一点に関してとどまったのである それはまた < 経済生活を支配する道徳がそれ自身を揺るがすようになるのと同じように そして限界を知らない経済的野心は過度に興奮させたり熱狂するだろう しかしそれから 毎年偶発的な自殺が高まるだろう > という危機の例に直ぐに関連する理由でもある 4
大岩劉 デュルケームが自殺にかんする自身の研究に依拠するのは 規律の精神が私たちの要求 (= 熱望 ) や意識を抑制することをめぐって それ (= 規律の精神 ) が社会の安定と人びとのあいだの助け合いのなかでどれほど基本的な役割を果たしているのかを強調するためである それは ( 社会 ) 全体における社会の利益だけではなく 個人の利益も同様である 欲望を抑えることなしに 人は幸福になることができないということであろう したがって 学校の役割は 自制し 自分自身に抵抗するというそうした極めて重要な能力を伝えることである 強制するでも奪い取るでもなく 道徳的規律は自覚的かつ個人的な意思を導かなければならない デュルケームは結論付ける 規範とは それが私たちに自制することや自分をコントロールすることを教えてくれるがゆえに 解放と自由の道具なのである もしデュルケームが自殺の研究に基づくのならば それは私たちの熱望と感覚の境界を定めるおかげで 秩序の精神のポイントを強調するためだ それは社会の平衡や人類全体の協力の中で基本的な役割を担う それはその全ての中で1つの社会の利益だけを優先しない けれどもそれは個体でもある 欲求の減らさず 幸せだということを知らないだろう 学校の役割はそれゆえに自制し 我慢するという生存に不可欠な能力伝えていくことだ 倫理の秩序 奪うことを強いる彼方は思慮深く 個人の意思を導く デュルケームが結論づけた規則はなぜなら 私たちが自身を抑え 抑制することを学ぶ意志は拘束からの解放と自由の道具だからだ 5