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第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 髙 辻 正 久 1. はじめに 19 世 紀 後 半 から 20 世 紀 初 頭 にかけて 日 本 の 近 代 化 推 進 のために 多 くの 日 本 人 がドイツに 留 学 した 彼 らの 中 で ドイツ 滞 在 中 に 体 験 したことや 感 じたこと を 日 記 や 手 紙 などに 書 き 残 した 人 は 少 なくない 一 方 ドイツからも 同 時 期 に お 雇 い 外 国 人 として あるいは 私 的 な 旅 行 で 日 本 に 来 たドイツ 人 たちがいた そして 彼 らの 中 にも 日 本 滞 在 中 に 体 験 したこと や 感 じたことを 日 記 や 旅 行 記 などに 書 き 残 した 人 たちがいる 当 時 の 日 独 相 互 の 印 象 について 彼 らはどのように 記 述 しているだろうか ま た 彼 らの 記 述 には 異 文 化 を 見 る 視 点 として その 時 代 に 特 有 な 特 徴 が 見 られ るだろうか 本 稿 では 日 本 とドイツが 最 初 に 国 交 を 結 んだ 1861 年 の 日 普 修 好 通 商 条 約 か ら 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 して 日 独 関 係 が 一 旦 絶 たれる 1914 年 までに 書 かれた 記 録 をいくつか 取 り 挙 げて 当 時 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 の 記 述 の 特 徴 について 考 察 したい 2. 異 文 化 理 解 と 文 化 の 表 出 のレベル 2.1. 異 文 化 理 解 の 難 しさ 異 文 化 体 験 の 記 録 を 考 察 する 前 に まず 文 化 とは 何 かを 考 える 必 要 がある た とえば 岡 部 朗 一 は 文 化 を 次 のように 定 義 している 文 化 を 正 式 に 定 義 すれば ある 集 団 のメンバーによって 幾 世 代 にもわたって 獲 得 され 蓄 積 された 知 識 経 験 信 念 価 値 観 態 度 社 会 階 層 宗 教 役 割 時 間 199

髙 辻 正 久 - 空 間 関 係 宇 宙 観 物 質 所 有 観 といった 諸 相 の 集 大 成 であるといえよう 1) この 定 義 によれば 文 化 には 価 値 観 や 観 念 など 直 接 観 察 することができない 要 素 も 含 まれている つまり ある 国 の 文 化 を 理 解 するためには その 国 の 衣 食 住 や 言 葉 儀 式 芸 術 などの 直 接 観 察 できる 要 素 に 加 え 直 接 観 察 できない 要 素 もあることを 考 慮 に 入 れなくてはならない また 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 本 人 とドイツ 人 の 相 互 の 文 化 理 解 に 関 して 考 え ると 明 治 時 代 の 日 本 では 留 学 生 以 外 に 外 国 へ 行 く 人 はまだ 少 なく 一 般 庶 民 が 実 際 に 外 国 人 特 に 西 洋 人 と 接 することはほとんどなかった 2) 一 方 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 のドイツ 人 にとっても 日 本 が 19 世 紀 半 ばまで 200 年 以 上 も 鎖 国 し ていたため 日 本 の 情 報 を 得 ることは 難 しかった 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 本 人 とドイツ 人 が 互 いの 文 化 を 理 解 することは 非 常 に 困 難 だったと 推 察 される 2.2. ホフステードの 文 化 の 表 出 のレベル 一 方 文 化 を 構 成 する 各 要 素 が どの 程 度 人 間 に 観 察 されうるかということに ついて オランダの 社 会 心 理 学 者 ヘールト ホフステード(Geert Hofstede)は 文 化 の 表 出 のレベル( 図 1)を 考 案 している 表 出 のレベルとは 外 部 に 現 れる 度 合 いという 意 味 である ホフステードは 文 化 を 構 成 する 要 素 を 表 出 のレベ ル 順 に1シンボル 2ヒーロー 3 儀 礼 4 価 値 観 という 4 つの 概 念 に 分 類 した 1) 岡 部 (1996) 42 ページ 2) 河 原 (2000) 33 ページを 参 照 200

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 図 1 文 化 の 表 出 のレベル (ホフステード 2013: 6) 1シンボルとは 同 じ 文 化 を 共 有 している 人 々だけが 理 解 できるもので 具 体 的 には 特 別 な 意 味 を 持 つ 言 葉 やしぐさ 服 装 髪 型 などである シンボルは 文 化 の 最 も 表 層 にあるため 最 も 観 察 されやすいものである それゆえ ある 文 化 集 団 のシンボルが 他 の 文 化 集 団 によってコピーされることは たびたびび 生 じる また 新 しいシンボルが 生 まれて 古 いシンボルが 消 えることも 起 こりやすい 3) 2ヒーローとは その 文 化 において 非 常 に 高 く 評 価 され 人 々の 行 動 のモデル とされる 人 物 である これには 現 在 生 きている 人 物 の 場 合 だけではなく 故 人 や 架 空 の 人 物 の 場 合 もある 4) ヒーローは ホフステードの 文 化 モデルではシン ボルの 次 に 表 層 に近 い 3 儀 礼 とは 人 々が 集 団 で 行 うもので 何 か 望 ましい 目 的 を 達 成 するための 手 段 としては 役 に 立 たなくても その 文 化 圏 の 人 々にとって 社 会 的 に 必 要 なものと みなされているものである 具 体 的 には 社 会 的 儀 礼 宗 教 的 儀 礼 挨 拶 の 仕 方 尊 敬 の 表 し 方 などである 5) 以 上 の 3 つのレベルは 図 1 のモデルにあるように いずれも 慣 行 として 他 の 文 化 圏 の 人 々 の 目 に 直 接 触 れることが 可 能 である 3) 4) 5) ホフステード( (2013) 5-6 ペー ージを 参 照 ホフステード( (2013) 6 ページを 参 照 ホフステード( (2013) 6 ページを 参 照 201

髙 辻 正 久 そして4 価 値 観 とは ある 状 態 の 方 が 他 の 状 態 よりも 好 ましいと 思 う 傾 向 のこ とである 具 体 的 には あるものに 対 して 良 いと 感 じるか 悪 いと 感 じるか 正 常 と 感 じるか 異 常 と 感 じるか 上 品 と 感 じるか 下 品 と 感 じるかなどの 感 情 である このような 価 値 観 は 人 生 のきわめて 早 い 時 期 に 形 成 され 無 意 識 に 内 面 化 され るため 他 の 文 化 圏 の 人 々から 直 接 観 察 されることはない さまざまな 状 況 にお いて 人 々がとる 行 動 様 式 から 推 論 されるだけである 6) そしてホフステードは 慣 行 は 時 代 とともに 変 わるが 価 値 観 は 変 わりにくいと 述 べている 7) 価 値 観 は ホフステードの 文 化 モデルでは 最 も 中 枢 にある このようにホフステードは 文 化 を 構 成 する 要 素 を 4 つの 概 念 に 分 類 した 2.1. で 紹 介 した 岡 部 による 文 化 の 定 義 では 経 験 信 念 価 値 観 物 質 所 有 観 など 人 間 の 内 面 にある 直 接 観 察 できない 要 素 が 多 く 挙 げられているのに 対 し ホフステ ードの 文 化 モデルでは 直 接 観 察 できる 慣 行 に 関 する 要 素 が 多 く 挙 げられている その 点 において ホフステードの 文 化 モデルは 初 めてその 文 化 に 接 した 人 の 異 文 化 体 験 の 記 録 を 考 察 するための 参 考 になると 思 われる したがって 本 稿 では ホフステードの 文 化 モデルに 沿 って 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 の 記 録 を 見 て 行 きたい なお このホフステードの 文 化 モデルは 世 界 全 体 を 対 象 としたモデルなので 本 稿 で 取 り 挙 げる 日 独 に 限 られた 少 数 の 事 例 がそれと 合 致 しない 部 分 も 当 然 生 じ ると 予 想 されるが その 点 についても 考 察 したい 3. 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 ここでは 当 時 の 人 々が 書 き 残 した 日 記 などの 記 録 の 中 から 日 独 二 例 ずつ 取 り 挙 げて 考 察 する 具 体 的 には 2.2.で 取 り 挙 げたホフステードの 文 化 モデルにお ける 4 つの 表 出 のレベル(1シンボル 2ヒーロー 3 儀 礼 4 価 値 観 )の 順 に 例 を 挙 げて 考 察 し 彼 らの 異 文 化 を 見 る 視 点 の 特 徴 について 探 りたい 6) ホフステード(2013) 6-9 ページを 参 照 7) ホフステード(2013) 15-16 ページを 参 照 202

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 3.1. ドイツ 人 の 日 本 での 異 文 化 体 験 まず ドイツ 人 の 日 本 における 異 文 化 体 験 の 記 録 を 見 る 考 察 の 対 象 として 考 古 学 者 のハインリヒ シュリーマン(Heinrich Schliemann)の 旅 行 記 と 医 師 のエ ルヴィン フォン ベルツ(Erwin von Bälz)の 日 記 を 選 択 した 3.1.1. ハインリヒ シュリーマンの 日 本 での 異 文 化 体 験 ハインリヒ シュリーマン(1822-1890)は 1871 年 にトロイア 遺 跡 を 発 掘 した ことで 知 られているが その 七 年 前 の 1864 年 に 世 界 周 遊 の 旅 に 出 た エジプト インド シンガポールなどを 経 て 翌 1865 年 に 中 国 に 滞 在 した 後 同 年 6 月 に 日 本 を 訪 れ 約 一 ヵ 月 間 滞 在 した 8) 当 時 の 日 本 は 幕 末 で すでに 開 国 していたが 外 国 人 を 排 斥 しようという 攘 夷 論 が 広 まっていた また 前 年 (1864 年 )に 長 州 征 討 が 起 こるなど 江 戸 幕 府 と 反 幕 府 派 の 対 立 が 激 しくなっていた シュリーマンはこの 旅 行 で 見 聞 したことを 旅 行 記 La Chine et le Japon au temps présent ( 現 代 の 中 国 と 日 本 )として 1867 年 に 刊 行 している 9) この 旅 行 記 に 記 述 されている 当 時 の 日 本 の 印 象 について 考 察 する まず 1シンボル( 言 葉 しぐさ 服 装 髪 型 など)に 関 する 記 述 を 見 る 言 葉 に 関 しては 寺 小 屋 を 訪 問 したときの 日 本 語 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 教 師 は 学 校 を 代 表 して 私 に 挨 拶 をした しかし 互 いの 意 思 疎 通 が 困 難 だったた め 我 々の 会 話 は 長 くもなく 面 白 いものでもなかった それでも 私 は さまざま な 日 本 語 の 文 字 の 複 雑 な 種 類 のために 若 者 はまず 漢 字 で 書 くことで 日 本 語 が 教 えられるということを 理 解 した 10) 15 ヵ 国 語 を 修 得 したほどの 語 学 力 を 持 ったシュリーマン 11) にとっても 日 本 人 教 師 とのコミュニケーションは 困 難 だったようだが 日 本 語 の 文 字 の 種 類 が 複 雑 なことと 国 語 教 育 が 漢 字 を 書 くことから 始 められることに 着 目 している 8) 島 谷 (2012) 125-126 ページを 参 照 9) フランス 語 で 執 筆 され のちにドイツ 語 に 翻 訳 された 本 稿 では ドイツ 語 版 を 参 照 した 10) Schliemann (1984), S.110. 11) 島 谷 (2012) 125 ページを 参 照 203

髙 辻 正 久 服 装 に 関 しては 日 本 人 女 性 の 着 物 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 日 本 の 女 性 の 衣 服 は 私 がこれまで 見 た 中 で フープスカートとは 最 も 違 ってい た 日 本 女 性 はシャツのような 木 綿 の 服 の 上 に 鮮 やかな 普 通 は 水 色 で 男 性 のナイトガウンのように 前 が 開 いた 長 い 衣 服 だけを 着 る これらは 帯 で 体 のまわ りにきつく 付 けられるので それによって 歩 調 や 移 動 の 速 度 は 妨 げられる 12) フープスカートとは 張 り 骨 で 傘 のように 広 げたスカートで シュリーマンには 日 本 人 女 性 の 着 物 がそれと 大 変 異 なって 見 え この 服 装 では 速 く 歩 くのに 支 障 が あると 述 べている 1シンボルに 関 してはこの 他 に 江 戸 時 代 の 男 性 の 髪 型 であ る 丁 髷 に 対 する 印 象 の 記 述 などがあった 13) 2ヒーロ (その 文 化 において 非 常 に 高 く 評 価 される 人 物 )に 関 する 記 述 は 特 に 見 られないが 強 いて 挙 げれば 将 軍 徳 川 家 茂 の 行 列 を 見 物 したことについて 書 いている 一 時 間 半 歩 き 私 は 行 列 を 見 ようとする 外 国 人 たちに 指 定 された 木 立 ちに 着 いた そこには 外 国 人 が 約 100 人 と 秩 序 に 気 を 配 る 警 察 官 が 約 30 人 現 れた さらに 一 時 間 半 後 に ようやく 行 列 が 近 づいてきた [ 中 略 ] そしてついに 大 君 が 来 た 他 のすべての 馬 たちのように わらのサンダルを 履 かせた 美 しい 褐 色 の 馬 に 乗 って いた 彼 は 二 十 歳 くらいに 見 え 威 厳 のある 美 しい 姿 で 顔 色 は 浅 黒 い 金 色 に 刺 繍 された 白 い 服 を 着 て 金 色 に 染 めた 漆 塗 りの 帽 子 を 被 っていた 二 本 のみごと な 刀 を 腰 にぶら 下 げていた 約 20 人 の 白 い 服 を 着 た 高 位 高 官 の 人 たちが 彼 に 随 行 して 行 列 のしんがりを 務 めた 14) このとき 家 茂 は 第 二 次 長 州 征 討 のために 上 洛 する 途 中 だった シュリーマン は 将 軍 の 行 列 を このように 詳 細 に 観 察 し 家 茂 の 姿 に 威 厳 を 感 じたようだ 次 に 3 儀 礼 ( 社 会 的 儀 礼 宗 教 的 儀 礼 挨 拶 の 仕 方 尊 敬 の 表 し 方 など)に 12) Schliemann (1984), S.65. 13) Schliemann (1984), S.59. 14) Schliemann (1984), S.72-74. 204

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 関 する 記 述 を 見 ると 日 本 人 の 宗 教 心 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 日 本 の 宗 教 について 私 が 今 まで 見 て 知 ったことから 国 民 の 生 活 は 宗 教 心 にあま り 深 く 浸 透 されてなく また 日 本 社 会 の 上 流 階 級 は 多 かれ 少 なかれ 懐 疑 的 である ことを 確 信 した 15) ドイツで 主 に 信 仰 されているキリスト 教 は 唯 一 の 神 を 崇 拝 する 一 神 教 である シュリーマンの 父 親 は プロテスタントの 牧 師 であった 一 方 当 時 の 日 本 では 1868 年 に 明 治 政 府 により 神 仏 分 離 令 が 出 されるまで 神 道 と 仏 教 を 融 合 した 神 仏 習 合 が 行 われていた また 神 道 には 教 義 がない このような 日 本 の 宗 教 の 在 り 方 に 対 し シュリーマンは 違 和 感 を 覚 えたに 違 いない キリスト 教 に 関 しては 次 のような 記 述 もある 日 曜 日 だったが 税 関 は 開 いていた というのは 日 本 人 はこの 休 日 を 知 らない からである 二 人 の 税 関 の 職 員 が 私 を 友 好 的 な 笑 顔 で 迎 えた おはよう! と 言 い 地 面 に 向 かいおじぎをし 30 秒 間 この 姿 勢 のままでいた 16) キリスト 教 の 安 息 日 である 日 曜 日 に 日 本 人 が 仕 事 をすることに シュリーマン は 違 和 感 を 覚 えたようだ 同 時 に ここには 日 本 人 の 礼 儀 正 しい 態 度 についても 書 かれている 3 儀 礼 に 関 してはこの 他 に 日 本 人 が 食 事 のときに 正 座 して 箸 を 使 って 食 事 をする 様 子 について 書 かれたものなどがあった 17) 次 に 4 価 値 観 (ある 状 態 の 方 が 他 の 状 態 よりも 好 ましいと 思 う 傾 向 )に 関 す る 記 述 だが 日 本 人 の 性 格 について 書 かれたものがいくつかある 中 で 日 本 人 の 清 潔 さに 感 心 する 記 述 がある 日 本 人 が 世 界 で 最 も 清 潔 な 国 民 であることは 明 白 である どんなに 貧 しい 人 で も 少 なくとも 一 日 に 一 度 は すべての 町 にある 公 衆 浴 場 に 行 くことを 怠 らない 18) 15) Schliemann (1984), S.101. 16) Schliemann (1984), S. 60. 17) Schliemann (1984), S.63. 18) Schliemann (1984), S.67. 205

髙 辻 正 久 シュリーマンは 日 本 人 が 貧 富 の 別 なく 毎 日 風 呂 に 入 ることに 感 心 している 当 時 のドイツは まだ 統 一 される 前 のドイツ 連 邦 だったが 毎 日 入 浴 することは 珍 しかったようだ 日 本 人 の 清 潔 さに 関 してはこの 他 に 日 本 のどの 住 居 も 清 潔 さの 手 本 である 19) という 記 述 があった 一 方 日 本 の 公 衆 浴 場 が 男 女 混 浴 であることに 対 する 印 象 の 記 述 もある 父 母 夫 婦 兄 弟 が 皆 共 同 入 浴 を 承 認 している 幼 年 時 代 からこの 浴 場 へ 毎 日 行 くことが 習 慣 になっているので これらの 人 々は 叱 られたり 非 難 されない あ る 国 民 の 道 徳 的 な 見 方 を 他 の 国 民 と 比 較 することは 大 変 難 しい 20) シュリーマンは 当 時 の 日 本 人 が 日 常 的 に 混 浴 することに 対 し 日 本 独 自 の 価 値 観 を 感 じたようだ また 彼 が 文 化 相 対 主 義 の 視 点 で 観 察 していることもうか がえる 3.1.2. エルヴィン フォン ベルツの 日 本 での 異 文 化 体 験 次 に 医 師 のエルヴィン フォン ベルツ(1849-1913)の 日 記 を 見 る ベルツは 東 京 医 学 校 ( 現 在 の 東 京 大 学 医 学 部 )で 医 学 を 教 えるために 1876 年 6 月 に 来 日 し 日 露 戦 争 が 終 わる 1905 年 まで 29 年 間 もの 長 期 にわたって 日 本 に 滞 在 し 日 本 医 学 の 発 展 に 尽 くした また 彼 は 草 津 温 泉 を 世 界 に 紹 介 したこと でも 知 られている 21) ベルツは 日 本 滞 在 期 間 中 に 日 記 をつけたが 彼 の 死 後 に 息 子 のトク ベルツ ( Toku Bälz )が 編 集 し Das Leben eines deutschen Arztes im erwachenden Japan ( 黎 明 期 日 本 におけるあるドイツ 人 医 師 の 生 活 )として 1931 年 に 刊 行 し た この 日 記 に 記 述 されている 当 時 の 日 本 の 印 象 について 考 察 する まず 1シンボルに 関 する 記 述 を 見 る 言 葉 に 関 しては 1889 年 3 月 2 日 付 の 日 記 に 舞 踏 会 で 出 会 った 日 本 人 女 性 が 西 洋 語 に 堪 能 だったことについて 書 いている 19) Schliemann (1984), S.62. 20) Schliemann (1984), S.69. 21) 島 谷 (2012) 194-195 ページを 参 照 206

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 日 本 の 女 性 の 出 現 により 特 に 魅 了 されたのが 小 鹿 島 夫 人 で 私 が 出 会 った 中 で 最 も 魅 力 的 な 女 性 だった 彼 女 は 英 語 やフランス 語 オランダ 語 を 流 暢 に 話 し ま た 日 本 の 袴 を 洋 装 の 一 部 分 に 使 用 する 勇 気 があった 22) ベルツはこの 日 本 人 女 性 が 舞 踏 会 で 袴 を 着 けていることにも 感 心 しているが 当 時 の 日 本 人 が 舞 踏 会 で 和 服 を 使 用 することは 珍 しかったのだろう 言 葉 に 関 し てはこの 他 に 1876 年 6 月 9 日 付 の 日 記 に 税 関 において 西 洋 語 が 通 じなかったこ とについての 記 述 23) や 1876 年 6 月 26 日 付 の 日 記 に 日 本 人 学 生 のドイツ 語 能 力 の 高 さに 感 心 する 記 述 24) があった このようにベルツの 言 葉 に 関 する 印 象 の 記 述 を 見 ると 彼 の 関 心 は 日 本 語 そのものよりも 日 本 人 が 西 洋 語 をどのくらい 話 せ るかということにあったように 思 われる 服 装 に 関 しては 1877 年 1 月 1 日 付 の 日 記 に 正 月 における 日 本 人 の 洋 服 姿 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 哀 れな 日 本 人 あなたたちは 言 い 表 せぬほど 体 に 合 わない 燕 尾 服 とぞんざいなズ ボンの 中 に 押 し 込 められている また 頭 にはたいてい 決 して 似 合 わないシルク ハットをかぶっている [ 中 略 ] これらの 人 々は 自 国 の 祝 祭 日 の 服 装 であればよ く 似 合 い またしばしば 威 厳 があって 高 貴 に 見 える 25) ベルツはこのように 日 本 人 には 洋 服 よりも 和 服 の 方 がはるかに 似 合 うと 思 っ ていた それゆえ 舞 踏 会 において 袴 を 着 けた 日 本 人 女 性 に 感 心 したのだろう 次 に 2ヒーロ に 関 する 記 述 を 見 る 1879 年 3 月 1 日 付 の 日 記 には 歌 舞 伎 を 鑑 賞 したことについて 書 いている いつものように いくつかの 芝 居 が 上 演 された 最 初 に 二 つの 歴 史 上 のテーマで 一 つは 赤 松 で 多 数 の 打 ち 殺 しと 切 腹 があった もう 一 つは 義 経 と 弁 慶 で 両 者 は 12 世 紀 の 日 本 の 歴 史 において 最 も 人 気 のある 人 物 である 彼 らは 嫉 22) Bälz (1931), S.102. 23) Bälz (1931), S.22. 24) Bälz (1931), S.25. 25) Bälz (1931), S.43. 207

髙 辻 正 久 妬 深 い 兄 の 頼 朝 が 義 経 を 捕 まえるために 建 てた 関 所 を 山 伏 に 変 装 して 行 く 将 軍 の 役 人 を 左 団 次 が 弁 慶 を 団 十 郎 が 演 じた この 両 者 は 快 活 で 理 知 的 な 中 年 の 男 性 である 菊 五 郎 とともに 日 本 の 最 高 の 俳 優 と 見 なされている 26) このようにベルツは 歌 舞 伎 の 鑑 賞 を 通 じて 源 義 経 と 武 蔵 坊 弁 慶 が 日 本 の 歴 史 上 人 気 のある 人 物 であることを 知 り 同 時 に 市 川 団 十 郎 市 川 左 団 次 尾 上 菊 五 郎 が 当 時 の 日 本 を 代 表 する 歌 舞 伎 役 者 であることを 知 った 次 に 3 儀 礼 に 関 する 記 述 を 見 る 1877 年 1 月 1 日 付 の 日 記 には 日 本 の 正 月 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 正 月 は 日 本 で 最 大 の 祝 祭 日 である すべての 街 路 がこれを 証 明 している 家 の 前 には 竹 と 松 が 立 ち 聖 霊 降 臨 祭 の 時 節 のドイツの 町 のようだ 27) ベルツは 正 月 を 日 本 の 最 大 の 祝 祭 日 とみなし さらにドイツの 聖 霊 降 臨 祭 (Pfingsten)にたとえている 復 活 祭 (Ostern)から 50 日 目 に 行 われる 聖 霊 降 臨 祭 ではシラカバの 新 緑 の 枝 が 家 の 玄 関 や 窓 に 飾 られるが 28) 正 月 に 飾 られる 竹 と 松 がそれと 似 たように 映 ったのだろう また 1879 年 11 月 16 日 付 の 日 記 には 京 都 で 祇 園 祭 を 見 物 し 山 車 や 練 り 物 に 対 し 独 特 の 印 象 を 持 ったことを 書 いている 低 い 車 のいちばん 上 には さまざまな 日 本 の 歴 史 の 人 物 たとえば 橋 の 上 の 義 経 や 弁 慶 が 混 凝 紙 や 木 材 で 非 常 に 上 手 く 作 られ 豪 華 な 絹 の 服 をまとって 立 ってい る そのまわりで 若 い 男 たちがさまざまな 楽 器 で 大 騒 動 を 起 こしていた 有 名 な 練 り 物 すなわち 京 都 の 最 高 の 芸 者 の 行 列 を 見 る 機 会 を 得 た 晩 に 照 明 のもと に 行 われる 演 劇 的 な 行 進 は 通 例 は 7 月 に 行 われるが 今 年 はコレラのためよう やく 今 行 われる それは 本 当 に 独 特 だった 29) 26) Bälz (1931), S. 50-51. 27) Bälz (1931), S.42. 28) 小 塩 (1997) 74 ページを 参 照 29) Bälz (1931), S.67. 208

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 山 車 の 上 の 源 義 経 や 武 蔵 坊 弁 慶 の 人 形 を 見 て ベルツはここでも 彼 らがヒーロ ーであることを 知 る 機 会 を 得 ている 3 儀 礼 に 関 してはこの 他 に 1879 年 7 月 12 日 付 の 日 記 に 隅 田 川 の 花 火 大 会 を 見 物 したことについて 書 かれたものがあった 30) 次 に 4 価 値 観 に 関 する 記 述 だが 日 本 人 の 性 格 について 書 かれたものがいく つかある 1879 年 4 月 6 日 付 の 日 記 に 日 曜 日 に 向 島 に 散 歩 に 行 った 際 に 日 本 人 が 道 を 歩 くときの 行 儀 のよさに 感 心 する 記 述 がある 互 いに 入 り 乱 れて 移 動 するすべての 人 々が 整 然 として 静 かだった 粗 暴 な 言 動 や 酔 っぱらいがわめくこともなかった 礼 儀 がすっかり 身 についた 国 民 だ 31) さらに 1904 年 10 月 28 日 付 の 日 記 には 遅 れた 汽 車 を 待 つ 日 本 人 の 態 度 に 感 心 する 記 述 がある 昨 日 ハナと 東 京 に 戻 った 汽 車 が 大 変 遅 れた 汽 車 を 待 ちながら すでに 何 度 もしているように 私 は 当 地 の 旅 行 者 の 態 度 を 相 応 した 状 況 にあるドイツの 駅 における 旅 行 者 の 態 度 と 比 較 せざるをえなかった ドイツでは このような 機 会 に 誰 もが 遅 延 や 混 乱 をののしる 不 始 末 だ これでも 運 転 しているのか や 似 たような 発 言 が 日 常 茶 飯 事 である 日 本 では イギリスやアメリカと 同 様 に 誰 もが 黙 って 待 つか 何 か 他 のことを 話 している 32) ハナとは ベルツの 日 本 人 の 妻 である 妻 と 遅 れた 汽 車 を 待 つ 際 彼 は 日 本 人 の 態 度 をドイツ 人 と 比 較 している このように ベルツは 日 本 人 の 性 格 について 行 儀 よく 自 制 心 があるという 印 象 を 持 ったようだ この 他 に 1876 年 10 月 25 日 付 の 日 記 には 日 本 の 近 代 化 に 対 する 印 象 と 日 本 人 の 歴 史 に 対 する 考 え 方 について 書 いている 30) Bälz (1931), S.60-61. 31) Bälz (1931), S. 53. 32) Bälz (1931), S. 357. 209

髙 辻 正 久 あなたがたは おおよそ 次 のように 想 像 しなければならない 日 本 国 民 は 10 年 にもならない 前 まで 封 建 制 度 や 教 会 修 道 院 同 業 組 合 制 度 などの 我 々の 中 世 の 騎 士 時 代 の 文 化 状 態 にあったが 昨 日 から 今 日 へ 一 飛 びで 我 々ヨーロッパの 文 化 発 展 の 500 年 を 飛 び 越 えて 19 世 紀 のすべての 成 果 をすぐに 習 得 しようとし ているかのようだと [ 中 略 ] しかし 奇 妙 なことに 今 日 の 日 本 人 は 自 分 自 身 の 過 去 について もはや 知 りたくはない それどころか 教 養 人 はそれを 恥 じ ている ああ すべてがとても 野 蛮 だった( 原 文 のまま) と 私 に 説 明 する 人 が いて またある 人 は 私 が 日 本 の 歴 史 について 質 問 したとき はっきりと 我 々 には 歴 史 はない 我 々の 歴 史 は 今 になってやっと 始 まる と 言 った 33) この 記 述 には 当 時 の 日 本 人 が 近 代 化 を 急 ぐあまり 自 国 の 過 去 を 否 定 するほど 西 洋 文 明 を 崇 拝 していたことがうかがえる しかし ベルツは 当 時 の 日 本 人 のこ のような 考 え 方 を 不 思 議 がっている 3.2. 日 本 人 のドイツでの 異 文 化 体 験 次 に 日 本 人 のドイツにおける 異 文 化 体 験 の 記 録 を 見 る ここでは 考 察 の 対 象 として 物 理 学 者 の 寺 田 寅 彦 の 手 紙 随 筆 と 保 険 会 社 社 員 の 髙 辻 亮 一 の 日 記 を 選 択 した 3.2.1. 寺 田 寅 彦 のドイツでの 異 文 化 体 験 寺 田 寅 彦 (1878-1935)は 宇 宙 物 理 学 の 研 究 のために 1909 年 5 月 にベルリ ン 大 学 に 入 学 した そして 1911 年 2 月 にゲッティンゲンを 出 発 するまで 約 1 年 9 ヵ 月 ドイツに 滞 在 した 34) 当 時 のドイツはヴィルヘルム 二 世 の 治 下 で 積 極 的 に 海 外 に 進 出 する 世 界 政 策 が 推 進 されていた 寅 彦 は このドイツ 滞 在 期 間 中 に 体 験 したことや 感 じたことを 手 紙 や 随 筆 に 書 いている これらに 記 述 されている 当 時 のドイツの 印 象 について 考 察 する まず 1シンボルに 関 する 記 述 を 見 る 言 葉 に 関 しては 1909 年 8 月 2 日 付 の 小 宮 豊 隆 宛 の 手 紙 にドイツ 語 に 対 する 印 33) Bälz (1931), S.27-28. 34) 和 田 他 (2006) 130 ページを 参 照 210

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 象 の 記 述 がある 独 逸 語 には 相 変 らずこまって 居 ます 日 本 の 片 仮 名 で 現 はせる 様 な 音 は 誠 に 少 い といふ 事 が 始 めて 此 頃 わかって 来 たような 気 がする 妙 な 中 途 はんぱな 音 がゴチ ャゴチャと 早 口 に 出 てくるので 始 終 めんくらふ 就 中 R の 音 などは 一 番 厄 介 です [ 中 略 ] Wurst などゝ 来 ては 到 底 上 品 な 日 本 人 の 咽 喉 で 真 似 の 出 来 ない 野 蛮 な 音 で ある とても 真 似 する 気 にならぬ ö は 猛 獣 の 吼 へる 如 く ü は 鳥 の 叫 び 声 の 様 で ある 例 のレストーランで 御 客 の 注 文 の 御 料 理 をオーバーから 聞 て 料 理 番 に 伝 へ る 女 の 叫 声 などはテアガルテンでよく 鳴 いている 鳥 の 声 と 寸 分 ちがはぬ どうし ても 森 林 の 中 から 発 達 した 人 種 に 相 違 ないと 思 ふ 35) このように 寅 彦 は ドイツ 語 の 音 に 対 して 非 常 に 違 和 感 を 覚 え 日 本 人 が 真 似 することが 難 しいと 述 べている また 随 筆 ベルリン 大 学 (1935 年 )では 大 学 の 講 義 を 通 じて ドイツの 方 言 に 苦 労 したことについて 次 のように 書 いている マイヤーの 講 義 はザクゼン 訛 りがひどく 小 さい をグライン 戦 争 をグリー クという 調 子 で どうも 分 りにくくて 困 った 36) 服 装 に 関 しては 1909 年 6 月 5 日 付 の 父 寺 田 利 正 宛 の 手 紙 に ドイツ 人 女 性 の 服 装 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 当 地 の 婦 人 の 服 装 などは 概 して 質 素 かと 思 はれ 候 祭 日 などには 随 分 めかした 風 も 見 へ 候 へ 共 一 体 に 地 味 な 風 にて 殊 に 若 い 娘 など 程 地 味 な 鼠 か 茶 位 の 飾 も 何 も ない 服 を 着 男 のきる 様 な 茶 帽 子 をかぶり 居 り 候 37) このようにドイツ 人 女 性 の 普 段 の 服 装 は 地 味 なものに 映 ったようだ その 一 35) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 134-135 ページ 36) 寺 田 寅 彦 全 集 第 一 巻 280 ページ 37) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 103 ページ 211

髙 辻 正 久 方 で 1909 年 5 月 13 日 付 の 父 寺 田 利 正 宛 の 手 紙 では 市 街 で 見 たドイツ 軍 人 の 服 装 が 大 変 美 しかったと 書 いている 38) 次 に 2ヒーロ に 関 する 記 述 を 見 る 1909 年 9 月 24 日 付 の 小 宮 豊 隆 宛 の 手 紙 には フランクフルトのゲーテハウス に 行 ったことについて 書 いている 今 日 此 のゲーテハウスといふのを 見 物 しました 此 家 の 三 階 即 ち 屋 根 裏 の 中 央 の 室 がゲーテの 若 い 時 の 書 斉 で 机 も 椅 子 も 書 物 も 其 儘 に 置 てある 此 の 室 の 高 い 窓 から 時 々 往 来 を 眺 めて 十 八 世 紀 の 娘 さん 達 の 顔 を 品 評 した 事 だろうと 想 像 が 出 来 る [ 中 略 ] 裏 には 遺 物 が 沢 山 陳 列 してあって 君 方 が 御 覧 になったら 面 白 い 事 だろうと 思 ひました 39) ゲーテハウスは ドイツを 代 表 する 文 豪 ヨハン ヴォルフガング フォン ゲ ーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の 生 家 を 復 元 した 建 物 である 寅 彦 はこのゲ ーテハウスを 見 物 することにより ゲーテがいかにドイツ 人 に 尊 敬 されている 人 物 であるかを 感 じただろう また 彼 はワイマールにおいても ゲーテの 家 とさ らにフリードリヒ フォン シラー(Friedrich von Schiller)の 家 を 見 たと 1910 年 9 月 30 日 付 の 夏 目 漱 石 宛 の 手 紙 に 書 いているが そこでは 文 豪 たちの 家 が 意 外 に 質 素 なことに 驚 いている 40) 2ヒーローに 関 してはこの 他 に 1910 年 10 月 18 日 付 の 父 寺 田 利 正 宛 の 手 紙 にゲッティンゲンでオットー フォン ビスマルク(Otto von Bismarck)の 記 念 の 塔 を 見 たことを 書 いている 41) 次 に 3 儀 礼 に 関 する 記 述 を 見 る 1909 年 7 月 18 日 付 の 父 寺 田 利 正 宛 の 手 紙 には ドイツの 日 曜 日 の 町 の 印 象 が 書 かれている 今 日 は 日 曜 にて 町 は 一 層 淋 しく 候 日 本 なれば 日 曜 が 一 番 賑 かなわけに 候 へ 共 此 処 では 反 対 に 御 坐 候 第 一 日 曜 には 市 中 の 店 屋 は 大 抵 商 売 を 休 み 店 の 窓 には 幕 を 38) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 95 ページ 39) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 157 ページ 40) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 251 ページ 41) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 259 ページ 212

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 下 し 候 故 町 をあるいてもつまらず 市 中 の 人 は 大 抵 近 郊 の 森 や 湖 水 へ 遊 山 に 出 か け 伯 林 は 御 留 守 になり 候 [ 中 略 ] 日 曜 に 商 買 の 止 るのは 馴 れぬ 日 本 人 には 大 に 不 便 を 感 じ 候 42) ドイツは 現 在 でも いくつかの 職 種 を 除 きキリスト 教 の 安 息 日 である 日 曜 日 に 仕 事 をさせることは 法 律 で 禁 じられている このように 日 曜 日 にほとんどの 店 が 閉 まっていることに 対 して 寅 彦 は 非 常 に 不 便 を 感 じていた また 1909 年 8 月 2 日 付 の 小 宮 豊 隆 宛 の 手 紙 には ドイツ 人 の 女 学 生 の 立 ち 食 いについて 書 いている 大 学 の 廊 下 や 庭 や 裏 のカスタニーンワルドをパンをかじりながらノソリノソリ 歩 いて 見 る[ママ] 女 学 生 を 見 ると 田 舎 者 には 少 々 恐 しくなる 43) 寅 彦 はこのように 女 学 生 の 立 ち 食 いに 対 して 違 和 感 を 覚 えている 当 時 の 日 本 のマナーでは 考 えられないことだったようだ 寅 彦 はドイツ 滞 在 中 夏 目 漱 石 にしばしば 手 紙 を 送 っているが 1911 年 1 月 1 日 付 のゲッティンゲンからの 手 紙 には ドイツの 家 庭 でのクリスマス (Weihnachten)の 様 子 について 書 いている 都 合 で 夕 食 後 にバウムに 灯 をつけました 綺 麗 でした 室 の 片 側 へ 机 を 並 べて 皆 一 同 の 贈 物 が 陳 列 してありました 二 人 の 下 女 もそれぞれ 反 物 を 貰 って 喜 んで いました 親 子 が 贈 物 を 取 りかわし ムッター ヘレーネ とお 互 いに 接 吻 す るのはちょっと 不 思 議 に 思 われました 主 婦 がピアノの 前 に 坐 って 皆 でワイナ ハトの 歌 をうたいました [ 中 略 ] 街 の 家 々の 窓 にもワイナハトバウムの 光 が 映 っ て ところどころ 音 楽 も 聞 えて 愉 快 そうに 見 えました 44) 日 本 では 江 戸 時 代 から 明 治 時 代 初 期 の 1873 年 まで 長 い 間 キリスト 教 が 禁 42) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 120 ページ 43) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 133 ページ 44) 寺 田 寅 彦 全 集 第 四 巻 254 ページ 213

髙 辻 正 久 じられていた このようにクリスマスツリーをろうそくなどで 飾 ったり クリス マスプレゼントを 家 族 で 交 換 しあったりするドイツ 人 のクリスマスの 過 ごし 方 も 寅 彦 にとって 目 新 しい 印 象 だったに 違 いない 次 に 4 価 値 観 に 関 する 記 述 だが ドイツ 人 の 性 格 について 書 かれたものがい くつかある 中 で 1909 年 7 月 18 日 付 の 父 寺 田 利 正 宛 の 手 紙 には ドイツ 人 の 綿 密 さについて 書 いている 独 逸 人 は 兎 角 綿 密 家 が 多 くて 念 に 念 を 押 す 流 儀 にて 例 へば 何 にでも 張 り 札 をし て 誰 れが 見 てもわかる 様 に 致 し 置 き 候 例 へば 汽 車 にのりても 此 窓 をどうして あけるとか 此 処 を 押 すとどうなるとか 一 々 張 札 がしてあり 二 等 客 車 は 此 の 辺 に 45) とまるとか 一 々 掲 示 がしてあり 候 このように 誰 が 見 ても 正 しく 行 えるように あらゆるものに 張 り 紙 を 付 けるこ とには ドイツ 人 の 秩 序 や 合 理 性 を 重 んじる 几 帳 面 な 性 格 がうかがえる 3.2.2. 髙 辻 亮 一 のドイツでの 異 文 化 体 験 次 に 保 険 会 社 社 員 の 髙 辻 亮 一 の 日 記 を 見 る 髙 辻 亮 一 (1883-1921)は 明 治 生 命 保 険 相 互 会 社 ( 現 在 の 明 治 安 田 生 命 保 険 相 互 会 社 )の 社 員 で 1910 年 10 月 に 保 険 法 を 学 ぶために 会 社 から 派 遣 されてゲッテ ィンゲンとライプツィヒに 留 学 した そして 1913 年 秋 まで 約 3 年 間 ドイツに 滞 在 したが 到 着 直 後 の 1911 年 1 月 から 4 月 まで 日 記 をつけた 彼 の 死 後 から 約 三 四 半 世 紀 後 に その 日 記 は 私 家 本 獨 逸 だより 月 沈 原 の 巻 (1994) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 (1995)として 上 梓 された この 日 記 に 記 述 されている 当 時 のドイツの 印 象 について 考 察 する まず 1シンボルに 関 する 記 述 を 見 る 言 葉 に 関 しては 1911 年 2 月 7 日 付 の 日 記 に 下 宿 先 のドイツの 家 庭 で 老 人 が 歌 うドイツの 歌 を 聞 いたときのドイツ 語 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 歌 は 多 く 南 ドイツの 歌 で 丸 で 外 国 語 のようで ふつうのドイツ 語 とは 全 然 ちがう 45) 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 121 ページ 214

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 丁 度 吾 々が 九 州 弁 や 東 北 弁 を 解 し 得 ないようなものだ 老 人 は 南 ドイツの 出 だから よく 分 るが 吾 々には 北 ドイツの 詞 に 直 して 説 明 してもらわなければ 分 らぬ 46) ここでは ドイツ 語 の 方 言 の 分 かりにくさを 九 州 弁 や 東 北 弁 に 例 えている また 1911 年 3 月 22 日 付 の 日 記 には ドイツ 人 が 普 段 の 会 話 に Gott( 神 )とい う 言 葉 を 頻 繁 に 使 うことについて 書 いている 当 地 の 人 は 神 という 詞 をやたら 使 う 何 か 驚 いた 時 案 外 の 時 などには 口 癖 のよ うに Herr Gott( 神 様 よ)と 言 う 日 本 語 の あらまあ おゝいやだ おやおや などという 詞 の 代 りにヘヤ ゴットの 一 点 張 りを 用 うるからたまらない 一 日 に 廿 度 や 丗 度 は 一 人 が 言 うだろう 47) このように 日 常 会 話 において 神 様 という 言 葉 が 頻 繁 に 使 われることに 驚 いて いる 服 装 に 関 しては 1911 年 3 月 30 日 付 の 日 記 に ドイツ 人 女 性 の 服 装 に 対 する 印 象 の 記 述 がある 出 る 時 に 山 内 がペーター 町 にホーゼンロックが 来 たから 見 て 来 なさいとのこと 新 見 と 二 人 で 見 る ガラス 窓 の 下 に 人 形 に 着 せてある [ 中 略 ] ロックは 女 の 腰 か ら 下 にさがっている 着 物 を 言 う ズボンに 似 せた 女 の 着 物 という 意 味 であろう なるほどズボンを 太 くして 少 し 風 を 含 ましたようにプーとふくれている 変 な 物 が 流 行 り 出 したものだ 昔 の 公 卿 がはいていたようなものだ 48) ホーゼンロック(Hosenrock)とは 今 で 言 うキュロットスカートのことで ここ ではそれを 公 卿 の 袴 のようだと 言 っているが このように 流 行 の 服 装 も 当 時 の 留 学 生 にとって 関 心 事 だったようだ 次 に 2ヒーロ に 関 する 記 述 を 見 る 46) 獨 逸 だより 月 沈 原 の 巻 203 ページ 47) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 128 ページ 48) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 174-176 ページ 215

髙 辻 正 久 1911 年 3 月 7 日 付 の 日 記 には ライプツィヒの 公 園 でオットー フォン ビス マルク(Otto von Bismarck)の 像 を 見 たときのことについて 書 いている ビスマルクの 像 を 探 す 道 の 端 に 立 っていた 今 から 十 四 年 前 に 建 てたもの 愛 犬 のチーラーという 犬 を 連 れて 立 っている [ 中 略 ] 下 の 方 から 一 人 の 鍛 冶 屋 が 両 手 を 広 げ 右 の 手 に 樫 の 一 枝 を 持 ってビスマルクに 献 げている 鍛 冶 屋 は 即 ち 人 民 の 一 例 として 示 したもので ビスマルクがドイツ 国 を 築 き 上 げてくれた 徳 を たたえているのを 示 したのである 十 二 三 の 男 の 子 が 妹 二 人 と 犬 一 匹 をこの 前 に 立 たせて 写 真 を 撮 っていた 49) このように 公 園 に 置 かれたビスマルクの 像 とそれに 集 う 市 民 たちを 見 て ビス マルクがいかにドイツ 人 に 尊 敬 されている 人 物 であるかを 感 じただろう ビスマ ルクに 関 しては 1911 年 4 月 6 日 付 の 日 記 に 今 日 にも 伝 わるドイツ 料 理 ビス マルク 風 にしんの 酢 漬 け を 食 べたことについて 書 いている 50) また 1911 年 3 月 23 日 付 の 日 記 には ライプツィヒでゲヴァントハウス 管 弦 楽 団 の 演 奏 会 に 行 ったときのことについて 書 いている 指 揮 者 ニキシュ 氏 は 久 しくライプチヒに 住 み 今 は 世 界 一 二 という 評 判 の 天 才 冬 の 廿 二 回 の 演 奏 中 の 報 酬 は 二 万 四 千 マルクであるとのこと 先 達 てオーストリ ヤの 帝 室 劇 場 から 高 い 金 で 買 収 に 来 たのを ライプチヒ 市 民 が 行 かれては 大 変 だ と 大 いに 反 対 の 運 動 をしてとめてしまった 三 月 三 十 一 日 迄 ( 十 月 から) 毎 木 曜 日 午 後 七 時 に 始 まり 廿 二 回 の 役 目 がすむと ニキシュは 各 国 を 回 って 演 奏 す る 外 国 の 人 は ニキシュと 言 えばライプチヒ ライプチヒと 言 えばニキシュを 思 い 出 すほど 当 地 の 誇 りになっている 51) 20 世 紀 初 頭 の 大 指 揮 者 アルトゥール ニキシュ(Arthur Nikisch)は 当 時 ベル リン フィルハーモニー 管 弦 楽 団 とライプツィヒ ゲヴァントハウス 管 弦 楽 団 の 49) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 40 ページ 50) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 194 ページ 51) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 135-136 ページ 216

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 常 任 指 揮 者 を 務 めていた この 記 述 からは ニキシュがライプツィヒの 市 民 から いかに 尊 敬 されていたかということと 音 楽 が 市 民 にとっていかに 大 切 なもので あったかということがうかがえる 次 に 3 儀 礼 に 関 する 記 述 を 見 る 1911 年 1 月 28 日 付 の 日 記 には 下 宿 先 のドイツ 人 の 家 族 から 誕 生 日 を 祝 わ れたことについて 書 いている 食 事 中 子 供 が 一 つずつ 植 木 鉢 を 持 って 入 って 来 た お 誕 生 日 でお 目 出 度 うござい ますと 言 う [ 中 略 ] 不 意 を 打 たれて 一 寸 まごついたが 厚 く 礼 を 言 って 受 け 取 り 窓 のふちにのせておく 一 つは 名 を 知 らぬ 白 い 花 で 一 つは 紫 色 のすみれ きつく 匂 っている 食 事 がすんだ 頃 又 子 供 が 大 きな 丸 い 菓 子 を 持 って 来 た 見 ると 老 人 と 夫 人 の 名 刺 があって Herzlichen Glückwunsch!( 満 心 の 祝 意 を 表 す) と 書 いてある 大 きな 皿 の 上 にきれいな 真 白 のナプキンをひいてその 上 にのせて ある 礼 を 言 って 机 に 向 かって 開 き 封 の 絵 はがきを 見 ていると 老 人 が 入 って 来 て 祝 意 を 述 べ 序 でに Im bunten Rock ( 縞 の 着 物 で)という 小 説 を 貸 してくれ た 52) ドイツ 人 は 今 日 でも 誕 生 日 を 重 要 視 する 53) 日 本 では 一 般 に 子 供 の 頃 は 誕 生 日 を 派 手 に 祝 われることも 多 いが 大 人 になるとあまりない このとき 28 歳 に なった 亮 一 は このように 家 族 から 多 くのプレゼントやメッセージでもって 祝 わ れて 驚 いている また 1911 年 2 月 4 日 付 の 日 記 には 前 述 の 寅 彦 と 同 様 ドイツ 人 の 道 路 での 立 ち 食 いについて 書 いている 往 来 では 大 人 も 子 供 も 度 々 物 を 食 べながら(りんご パンなど) 歩 いているのを 見 る 一 体 こういうことはやかましくない 54) 52) 獨 逸 だより 月 沈 原 の 巻 145-146 ページ 53) 麦 倉 (2004) 219-220 ページを 参 照 54) 獨 逸 だより 月 沈 原 の 巻 186 ページ 217

髙 辻 正 久 現 在 は 日 本 でも 立 ち 食 いをする 人 をたびたび 見 かけるが 当 時 の 日 本 ではマナ ーに 反 する 行 為 だったようだ また 1911 年 2 月 20 日 付 の 日 記 には 人 前 でキスする 行 為 について 下 宿 先 のドイツ 人 の 女 主 人 との 会 話 が 書 かれている 日 本 ではキッスをしないかと 夫 人 が 問 うたから 人 の 前 でそんなことをすると 大 いに 侮 辱 になる 礼 儀 処 ではなく 大 した 譴 責 を 食 う 一 度 ハイカラな 女 学 生 と 男 学 生 がステーションでキッスをして 巡 査 に 叱 られたと 言 ったら 大 いに 笑 って いた 55) 寺 田 寅 彦 は クリスマスの 際 にドイツ 人 の 母 娘 が 互 いに 接 吻 するのを 不 思 議 に 思 ったと 手 紙 に 書 いていたが ここではドイツ 人 の 夫 人 が 日 本 の 駅 において 学 生 のカップルがキスしたことに 対 し 警 察 官 が 注 意 したことに 驚 いている このよ うに 愛 情 表 現 のマナーについて 当 時 の 日 本 とドイツの 違 いがうかがえる また 1911 年 3 月 23 日 付 の 日 記 には ライプツィヒで 前 述 のゲヴァントハウ ス 管 弦 楽 団 の 演 奏 を 聴 いているときの 観 客 の 態 度 について 書 いている 音 楽 中 は 二 千 五 百 の 詰 め 切 った 客 一 同 は 恍 惚 として 酔 ってしまってささやき 一 つするものは 居 ない [ 中 略 ] 曲 中 は 皆 静 かに 酔 って 聞 いている 曲 が 終 ると 拍 手 鳴 りもやまず 指 揮 者 が 客 の 方 を 向 いてお 辞 儀 をする 又 拍 手 する 又 お 辞 儀 する 又 拍 手 する 56) 大 勢 の 観 客 がこのように 演 奏 中 にささやきもせず 静 かに 聴 くという 態 度 は 現 在 の 日 本 のクラシック 音 楽 の 演 奏 会 では 当 然 のマナーとされているが 当 時 の 日 本 人 には 印 象 深 く 映 ったようだ また 1911 年 4 月 12 日 付 の 日 記 には 復 活 祭 (Ostern)について 書 いている 復 活 祭 は Ostern(ヲスターン)と 言 う 別 に 贈 物 のやりとりはせぬとのこと こ 55) 獨 逸 だより 月 沈 原 の 巻 268-269 ページ 56) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 136-137 ページ 218

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 の 日 の 印 は 玉 子 兎 雛 などで 表 わす 絵 はがきを 見 ると 何 れもこれを 画 い て 復 活 祭 おめでとう などと 印 刷 してある 兎 は 達 者 にまめに 走 るから まめ なようにという 意 味 玉 子 と 雛 とはどうも 分 らない 57) 復 活 祭 では 雛 が 卵 から 孵 ることをキリストの 復 活 と 結 びつけ 多 産 なウサギ を 生 命 力 の 象 徴 としている 彼 は 初 めてドイツの 復 活 祭 に 接 し 復 活 祭 とウサギ 卵 雛 との 関 係 がよく 分 からなかったようだが 宗 教 行 事 であることは 認 識 して いる 次 に 4 価 値 観 に 関 する 記 述 だが ドイツ 人 の 性 格 について 書 かれたものがい くつかある 中 で 1911 年 3 月 5 日 付 の 日 記 には ドイツ 人 の 張 り 紙 の 習 慣 につい て 書 いている ドイツ 人 は 何 でもやたらにべたべた 書 きつける 癖 がある 汽 車 の 便 所 に 入 っても 分 り 切 っているのに ここに 水 ここに 手 拭 このねじを 右 に 回 せ 使 用 済 の 上 は 水 を 流 せ などとどこ 迄 も 書 きつける 町 の 名 でも 角 々や 急 所 々々によく 分 る ように 緑 色 (るり 色 )の 金 に 白 い 字 で 書 いてある 広 場 の 如 きも ここは 何 とい う 広 場 と 必 ず 書 いてある 建 物 の 如 きも 裁 判 所 とか 大 学 とか 尽 く 書 いてあ る 勝 手 の 分 らぬ 者 にもすぐ 分 るように まごつかんでよい きちょうめんな 国 民 である あまりきちょうめんで 実 に 神 経 質 だと 思 うことがある 58) 寺 田 寅 彦 の 1909 年 7 月 18 日 付 の 手 紙 の 記 述 と 同 様 ここにもドイツ 人 が 社 会 の 秩 序 を 重 んじていることと 几 帳 面 な 性 格 がうかがえる 4. 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 異 文 化 体 験 の 日 独 比 較 以 上 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 について ホフステードの 文 化 の 表 出 のレベルの 順 に 日 本 人 とドイツ 人 の 記 録 を 見 てきた 本 稿 で 取 り 扱 った 記 録 を 見 る 限 り やはり 最 も 観 察 されやすい1シンボル( 言 葉 しぐさ 服 装 髪 型 など)に 関 する 記 述 が 他 のレベルに 比 べて 多 く 日 本 人 57) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 215 ページ 58) 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 27 ページ 219

髙 辻 正 久 の 記 録 ( 寺 田 寅 彦 髙 辻 亮 一 )では 特 に 言 葉 (ドイツ 語 )に 関 する 記 述 が 頻 繁 に 見 られた 1シンボルの 次 に 観 察 されやすい2ヒーロー(その 文 化 において 非 常 に 高 く 評 価 される 人 物 )に 関 しては 本 稿 で 取 り 扱 った 記 録 にはあまり 見 られず むしろ 3 儀 礼 ( 社 会 的 儀 礼 宗 教 的 儀 礼 挨 拶 の 仕 方 尊 敬 の 表 し 方 など)に 関 する 記 述 の 方 が 多 く 中 でも 宗 教 行 事 に 関 する 記 述 (クリスマス 復 活 祭 祇 園 祭 正 月 等 )が 多 く 見 られた 寅 彦 と 亮 一 は ドイツの 宗 教 行 事 を 通 じて ドイツの 文 化 とキリスト 教 とは 不 離 一 体 の 関 係 にある 59) ことを 感 じただろう 一 方 シュ リーマンは 日 本 人 の 生 活 に 宗 教 心 があまり 浸 透 していないと 書 いている 4 価 値 観 (ある 状 態 の 方 が 他 の 状 態 よりも 好 ましいと 思 う 傾 向 )に 関 しては 日 本 人 とドイツ 人 の 性 格 について 書 かれた 記 述 がいくつか 見 られた ドイツ 人 の 日 本 人 の 性 格 に 対 する 印 象 については 日 本 人 の 清 潔 さ に 感 心 する 記 述 がシュ リーマンの 記 録 に 見 られ また 日 本 人 の 礼 儀 正 しさ 自 制 心 に 感 心 する 記 述 がベルツの 記 録 に 見 られた 現 代 においても 外 国 人 から 見 て 日 本 人 が 清 潔 好 きで 礼 儀 正 しいというイメージがあることはよく 言 われる ただし シュリーマンの 日 本 人 の 清 潔 さ に 関 する 記 述 は 少 し 誇 張 された ような 印 象 も 受 ける クラウディア デランク(Claudia Delank)は 19 世 紀 ま でのドイツにおける 日 本 像 について 次 のように 述 べている [ ] ドイツにおける 日 本 像 は 19 世 紀 まで 少 数 のステレオタイプに 限 定 された つまり 女 性 の 繊 細 さ 侍 の 大 胆 不 敵 なこと 日 本 の 刑 罰 制 度 の 残 酷 さ 村 や 町 の 清 潔 さである 60) 17 世 紀 末 に 来 日 した 博 物 学 者 のエンゲルベルト ケンペル(Engelbert Kämpfer) の 著 書 Geschichte und Beschreibung von Japan ( 日 本 史 および 日 本 誌 )や 19 世 紀 前 半 に 来 日 した 医 師 のフィリップ フランツ フォン ズィーボルト(Philipp Franz von Siebolt)の 著 書 Nippon. Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schutzländern ( ニッポン 日 本 とその 隣 国 および 保 護 国 の 記 録 )は 59) 麦 倉 (2004) 192 ページ 60) Delank (1996), S. 29. 220

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 当 時 のドイツ 人 への 日 本 に 関 する 情 報 提 供 に 貢 献 したと 言 われる 61) したがって ドイツ 人 の 記 録 を 読 む 際 は このような 先 入 観 も 考 慮 するべきであろう 一 方 日 本 人 のドイツ 人 の 性 格 に 対 する 印 象 については ドイツ 人 の 綿 密 さ 几 帳 面 さ に 感 心 する 記 述 が 寺 田 寅 彦 と 髙 辻 亮 一 の 記 録 に 見 られた 寅 彦 と 亮 一 のこれらの 記 述 は 現 代 においてもドイツ 人 が 秩 序 を 重 んじる 国 民 というイメー ジがあることを 連 想 させる いずれにせよ このように 性 格 に 関 する 記 述 には 価 値 観 は 変 化 しにくいとい うホフステードの 説 62) を 裏 付 けるものがいくつか 見 られた また 日 本 人 の 記 録 とドイツ 人 の 記 録 を 比 較 したときに 1シンボルの 中 で 言 葉 についての 記 述 が 日 本 人 の 側 に 多 く 見 られるのは 当 時 の 日 独 関 係 が 影 響 して いると 思 われる 明 治 時 代 の 日 独 関 係 の 特 徴 について 田 嶋 信 雄 は 次 のように 述 べている 日 独 関 係 の 主 要 な 舞 台 は もちろん 国 家 的 要 請 の 枠 内 ではあったが 法 学 や 医 学 や 軍 事 学 といった 文 化 的 学 術 的 な 領 域 に 集 中 する 傾 向 にあり しかもその 関 係 は しばしば 教 師 と 生 徒 の 関 係 が 比 喩 として 用 いられるように ドイツから 日 本 への 単 方 向 的 な 文 化 移 転 として 発 現 していたのであった 63) 当 時 の 日 本 人 留 学 生 たちは ドイツから 学 ぶためにドイツ 語 を 一 生 懸 命 学 んだ 寅 彦 と 亮 一 の 記 録 にドイツ 語 に 対 する 印 象 の 記 述 が 多 く 見 られるのは そのこ ととももちろん 関 係 しているだろう 逆 にベルツの 記 録 には 日 本 語 の 印 象 より も 日 本 人 がどのくらい 西 洋 語 が 話 せるかという 記 述 がいくつか 見 られた これは 彼 がお 雇 い 外 国 人 という 立 場 で 日 本 に 来 たことと 関 係 しているだろう 一 方 旅 行 者 として 日 本 に 来 たシュリーマンの 記 録 には 日 本 語 そのものについて 観 察 し ている 記 述 も 見 られた しかし 語 学 に 非 常 に 関 心 のあったシュリーマンにして は 日 本 語 に 関 する 記 述 はあまり 見 られなかった また 2ヒーローに 関 する 記 述 は ドイツ 人 の 記 録 よりも 日 本 人 の 記 録 の 方 に 61) Vgl. Delank (1996), S. 29. 62) ホフステード(2013) 16 ページを 参 照 63) 工 藤 章 / 田 嶋 信 雄 (2008) 4 ページ 221

髙 辻 正 久 多 く 見 られた 日 本 人 の 方 が 相 手 国 (ドイツ)の 重 要 人 物 をより 強 く 意 識 してい たことも 原 因 と 考 えられるが これもやはり ドイツから 日 本 への 単 方 向 的 な 文 化 移 転 という 当 時 の 日 独 関 係 の 特 徴 を 反 映 していると 思 われる さらに 3 儀 礼 の 中 の 宗 教 行 事 に 関 する 記 述 では ドイツ 人 の 記 録 において 日 本 人 の 宗 教 心 に 批 判 的 な 記 述 (シュリーマン)や 日 本 の 宗 教 行 事 を 自 国 の 宗 教 行 事 にたとえる 記 述 (ベルツ)が 見 られたが 日 本 人 のドイツの 宗 教 行 事 に 関 する 記 録 には このような 記 述 ( 批 判 や 自 国 との 比 較 )は 見 られなかった この 点 も また 当 時 の 日 独 の 単 方 向 的 な 関 係 の 特 徴 を 反 映 していると 思 われる 5. まとめ 本 稿 で 取 り 扱 った 記 録 の 筆 者 たちの 異 文 化 を 記 述 する 視 点 は ホフステードの 文 化 の 表 出 のレベルに 大 体 沿 っているように 見 える また 文 化 の 中 の 観 察 可 能 な 慣 行 に 関 する 要 素 特 にファッション 行 儀 (たとえば 道 路 上 のマナー)など は 時 代 とともに 変 化 するが 直 接 観 察 できない 価 値 観 は 変 化 しにくいというホフ ステードの 説 を 裏 付 ける 記 述 もいくつか 見 られた ただし 個 々の 記 録 を 詳 しく 見 ていくと ホフステードの 文 化 モデルに 合 致 し ない 部 分 (たとえばドイツ 人 の 記 録 に2ヒーローに 関 する 記 述 が 少 ないことなど) も 見 られ そこから 当 時 の 日 独 関 係 やそれぞれの 立 場 目 的 が 彼 らの 視 点 に 影 響 することがうかがえた 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 の 記 述 の 特 徴 について さらに 他 の 同 時 代 人 の 記 録 を 分 析 して 考 察 を 深 めるとともに 第 一 次 世 界 大 戦 以 降 の 日 独 関 係 の 変 化 によって 相 互 の 異 文 化 を 記 述 する 視 点 がどのように 変 化 したかを 追 う ことも 今 後 の 課 題 としたい 222

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 参 考 文 献 < 一 次 文 献 > Bälz, Erwin: Das Leben eines deutschen Arztes im erwachenden Japan: Tagebücher, Briefe, Berichte. Stuttgart(J. Engelhorns Nachf.)1931. Schliemann, Heinrich: Reise durch China und Japan im Jahre 1865; aus dem Französischen von Franz Georg Burstgi. Konstanz(Rosgarten)1984. シュリーマン ハインリッヒ シュリーマン 旅 行 記 清 国 日 本 石 井 和 子 訳 講 談 社 学 術 文 庫 1998 年 髙 辻 亮 一 獨 逸 だより 月 沈 原 の 巻 錦 美 堂 整 版 KK 1994 年 髙 辻 亮 一 続 獨 逸 だより 莱 府 の 巻 錦 美 堂 整 版 KK 1995 年 寺 田 寅 彦 寺 田 寅 彦 全 集 第 一 巻 岩 波 書 店 1996 年 寺 田 寅 彦 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 巻 岩 波 書 店 1997 年 寺 田 寅 彦 寺 田 寅 彦 全 集 第 三 巻 岩 波 書 店 1997 年 寺 田 寅 彦 寺 田 寅 彦 全 集 第 四 巻 岩 波 書 店 1997 年 寺 田 寅 彦 寺 田 寅 彦 全 集 第 二 十 五 巻 岩 波 書 店 1999 年 ベルツ トク 編 ベルツの 日 記 ( 上 ) 菅 沼 竜 太 郎 訳 岩 波 文 庫 1979 年 ベルツ トク 編 ベルツの 日 記 ( 下 ) 菅 沼 竜 太 郎 訳 岩 波 文 庫 1979 年 < 二 次 文 献 > Delank, Claudia: Das imaginäre Japan in der Kunst. München(iudicium)1996. 岡 部 朗 一 文 化 とコミュニケーション 古 田 暁 監 修 / 石 井 敏 / 岡 部 朗 一 / 久 米 昭 元 異 文 化 コミュニケーション 有 斐 閣 選 書 1996 年 小 塩 節 ドイツのことばと 文 化 事 典 講 談 社 学 術 文 庫 1997 年 河 原 俊 昭 歴 史 に 探 る 異 文 化 理 解 の 深 層 淺 間 正 通 編 異 文 化 理 解 の 座 標 軸 日 本 図 書 センター 2000 年 工 藤 章 / 田 嶋 信 雄 編 日 独 関 係 史 1890 1945 東 京 大 学 出 版 会 2008 年 島 谷 謙 日 本 を 愛 したドイツ 人 ケンペルからタウトへ 広 島 大 学 出 版 会 2012 年 デランク クラウディア ドイツにおける< 日 本 = 像 > 水 藤 龍 彦 / 池 田 祐 子 訳 思 文 閣 2004 年 223

髙 辻 正 久 ホフステード G 他 多 文 化 世 界 岩 井 紀 子 岩 井 八 郎 訳 有 斐 閣 2013 年 麦 倉 達 生 異 文 化 理 解 へのアプローチ 大 学 教 育 出 版 2004 年 和 田 博 文 他 言 語 都 市 国 家 ベルリン 1861 1945 藤 原 書 店 2006 年 (たかつじ まさひさ 学 習 院 大 学 科 目 等 履 修 生 ) 224

第 一 次 世 界 大 戦 以 前 の 日 独 間 の 異 文 化 体 験 Interkulturelle Beziehungen zwischen Japan und Deutschland vor dem Ersten Weltkrieg MASAHISA TAKATSUJI Vor dem Ersten Weltkrieg studierten im Zuge der Modernisierung Japans viele Japaner in Deutschland. Während ihres Aufenthaltes in Deutschland schrieben sie Tagebücher und Briefe. Umgekehrt reisten Deutsche in der Zeit vor dem Ersten Weltkrieg nach Japan, und auch sie schrieben in Japan Tagebücher und Briefe. In meinem Aufsatz betrachte ich, auf der Grundlage dieser Dokumente die interkulturellen Beziehungen zwischen Japan und Deutschland vor dem Ersten Weltkrieg, zu deren Analyse ich das Modell der Kultur von Hofstede heranziehe. Der niederländische Sozialpsychologe Geert Hofstede, unterscheidet vier Schichten der Kultur: Symbole, Helden, Rituale und Werte. Zu den Symbolen zählen Worte und Gesten der Menschen, aber auch ihre Kleidung und Frisur. Diese Symbole bilden die Oberfläche der Kultur und die für uns sichtbarsten Dinge. Helden sind Personen, die in dem jeweiligen Kulturkreis ein allgemeines Ansehen genießen. Zu den Ritualen wiederum gehören soziale und religiöse Zeremonien, Begrüßungsformen sowie Darstellungen von Ehrerbietungen. Die Werte sind Ideen, die von den Menschen für gut gehalten werden. Diese Werte bilden als für uns unsichtbare Dinge den Kern der Kultur. Vor dem Hintergrund dieses Kulturmodells werden Dokumente von Heinrich Schliemann, Erwin Bälz, Torahiko Terada und Ryoichi Takatsuji untersucht. Der deutsche Archäologe Heinrich Schliemann kam auf seiner Weltreise im Jahre 1865 nach Japan und hielt sich für einen Monat hier auf. Nach diesem Aufenthalt verfasste er eine Reisebeschreibung. Erwin Bälz war ein deutscher Arzt, der 1876 Japan besuchte, um Medizin zu lehren. Er hielt sich bis 1905 in Japan auf und führte ein Tagebuch während dieser Zeit. Torahiko Terada war ein japanischer Physiker, der im Jahre 1909 nach Deutschland fuhr, um dort zu studieren. Während seines Aufenthalts in Deutschland, der bis 1911 andauerte, schrieb er viele Briefe und nach seiner Rückkehr verarbeitete er in seinen Essays die 225

髙 辻 正 久 Eindrücke von Deutschland. Ryoichi Takatsuji war ein Versicherungsangestellter, der 1910 nach Deutschland reiste, um ebenfalls dort zu studieren, und der während seines Aufenthalts bis 1913 regelmäßig Tagebuch führte. In den behandelten Dokumenten sind eine Vielzahl von Symbolbeschreibungen zu finden, und bei den japanischen Verfassern lassen sich viele Hinweise auf Helden wie Johann Wolfgang von Goethe, Otto von Bismarck, Arthur Nikisch beobachten. Im Hinblick auf die Rituale waren besonders häufig Beschreibungen über religiöse Zeremonien zu finden, und was die Charaktereigenschaften betrifft, so wurde vor allem die Höflichkeit der Japaner und die Genauigkeit der Deutschen erwähnt. Ein Vergleich zwischen den japanischen und deutschen Verfassern zeigt, dass Japaner mehr als die Deutschen über Sprache und Helden schrieben, was darauf zurückzuführen ist, dass zu dieser Zeit viele Japaner im Zuge der Modernisierung in Deutschland studierten und die deutsche Sprache lernten. Im Gegensatz dazu schrieb Bälz, der als Lehrer nach Japan kam, in seinem Tagebuch wenig über die japanische Sprache. Meine These ist, dass die damaligen Beziehungen zwischen beiden Ländern stark durch die Modernisierungsbestrebungen Japans und die Weltmachtpolitik Deutschlands geprägt worden sind. 226