一 美濃窯について 美濃は各務原市を中心に 須恵器が古くから焼かれていた 須恵器は 低火度で焼く 弥生 土師両土器と違って1200度以上 1300度内外に焼かれている高火度の焼 物であって 陶磁らしいものの出現はこの時から始まった このような高火度の窯業技 術は 新羅 百済クダラから渡来したものであり 今日では須恵器と云うのが学説に使 われる通語である 須恵器ははっきりしたロクロによる成形が行われ 灰青色の堅焼で あるのが一つの特徴であり 愛知県猿投及び岐阜県各務原市は 中部地区における須恵 器の二大古窯である 愛知県 岐阜県の古墳からは この二大古窯で焼かれた優品が数 多く出土する 次いで焼かれたのは弘仁瓷器であった 弘仁瓷器は 日本後記 巻24に 弘仁六年 815 造瓷器生 尾張山田郡の人 三家人部乙麻呂等三人伝 ル ジテ 習成 茶 准 ニ 二雑生 サル 一 聴 ヲ 二出身 一 と記され その瓷器を弘仁瓷器と言う 此の瓷器は 鉛釉陶及び灰釉青瓷の二説がある が 美濃では鉛釉緑瓷の瓦が 御嵩の願興寺付近で発見されている 願興寺は平安時代 の古刹で 二回 火災にあっているが 美濃でも焼いていたのであろう 醍醐天皇の 延喜式 927 には 美濃は陶器の調貢国として大和 河内 和泉 播磨 備前 讃岐 筑前とともに 十ヶ国のうちにあげられ 坩ツボ一口 陶椀三十 ハ テラル 口 臼二口 盤十口 己上 美濃国充 ニ レ之 ハ 池由加一口 由加四口 テラル 口 瓶一口 罐二口 叩瓮四口 己上 美濃国充 ハ イ 一 ニ レ之 陶坩叩瓮各四口 陶手洗一 ハ 口 陶椀二合 磐二口 己上 美濃国 また陶器六百九十六口 美濃 と記されてい る 美濃各地 特に各務原市及び多治見市を中心とした二大古窯には これを裏付けるか のように おびただしい此の当時の古窯があるが 無釉や灰釉の器物を焼いていたよう だ 此の頃の焼物は須恵器の流れをくむ焼物で 俗に山茶碗 山杯小杯 の窯は特に多 い様である 此の頃になると 灰釉陶も誕生して 須恵器風の焼物に意識的に灰釉を施 し 長頚瓶や壷なども焼いていたようである 平安晩期から鎌倉前期に入ると こうし た須恵器の流れをくむ焼物に変わって 渥美半島の陶工が木曽川に伝わって 可児郡兼 山町で大きな瓶カメを焼くようになり 中津川においても別の陶工が大瓶を焼いている ようだが 山茶碗 山杯小杯 の窯は 此の頃でも 美濃では焼かれていた 山茶碗に 灰釉の施されたものや片口もある 十三世紀に入ると瀬戸では 灰釉陶の全盛期に入る 永仁とか正和の壷で有名な鎌倉 時代 美濃では各務原市 関市笹洞窯などに此の時代の窯がある 瓶子 水瓶 文盒 花瓶など瀬戸窯全盛期と同じ種類のものを焼き 印花 画花の模様も見事であり 天目 茶碗も出土する 室町時代 十四世紀 の明徳二年 1391 以前からは 東濃の妻 木の周辺で窯を焼くようになったが 文明十四年 1483 瀬戸の戦乱によって 美 濃へ逃亡してきた陶工によって 新たに窯が増えたようである 妻木 下石 五斗蒔