古 文 書 が 伝 える 四 街 道 の 歴 史 展 の 解 説 はじめに 今 回 の 展 示 会 にご 協 力 をいただきました 四 街 道 市 長 岡 地 区 の 井 岡 家 は 江 戸 時 を 通 じて 市 域 16か のひとつである 長 岡 の 名 主 や 組 頭 を 勤 め 当 主 は 治 郎 左 衛 門 を 名 乗 られた 家 です 明 治 以 後 も 長 岡 の 用 掛 や 連 合 戸 長 役 場 の 戸 長 など 行 政 に 携 わり 旧 千 田 の 学 務 委 員 や 農 会 理 事 などの 公 職 にもついています 過 去 5 年 間 の 市 史 編 さん 協 力 員 による 調 査 整 理 の 結 果 江 戸 時 の 古 文 書 や 明 治 以 降 の 公 文 書 私 文 書 など その 資 料 は53 00 点 にのぼり( 別 表 1) 四 街 道 の 市 史 研 究 に 欠 かせないものと なっています また 嘉 永 2 年 の 小 金 原 御 鹿 狩 文 書 は 四 街 道 市 の 文 化 財 に 指 定 されています 今 回 はその 中 から13テーマ に 絞 り 込 んで 江 戸 時 から 明 治 時 までの 資 料 90 点 を 展 示 し これまであまり 明 らかにされて こなかった 四 街 道 の 歴 史 を 市 民 の 皆 様 にご 紹 介 いたします こ の 機 会 に 日 ごろ 目 にすることのない 古 文 書 に 親 しんでいただき 歴 史 を 通 じて 郷 土 愛 を 培 う 機 会 にしていただきたいと 思 います 展 示 テーマ 1. 長 岡 の 概 要 2. 佐 倉 藩 の 支 配 3. 嘉 永 2 年 小 金 原 御 鹿 狩 ~ 四 街 道 に5300 人 の 勢 子 4. の 土 地 と 生 産 力 5. 長 岡 の 年 貢 の 変 遷 6. 庶 民 の 道 中 日 記 ~ 十 助 さんの 大 旅 行 7. 江 戸 から 明 治 へ 8. が 変 わる 自 治 体 が 変 わる 9. 年 貢 から 地 租 へ 10. 軍 郷 四 街 道 と 戦 争 11. 鉄 道 がやってきた 12. 学 校 が 始 まった 13. 長 岡 の 産 物 1. 長 岡 の 概 要 江 戸 時 の 四 街 道 市 域 には16の がありました( 別 表 2) 長 岡 は そのひとつで 領 主 の 交 替 時 に 提 出 する 元 禄 14(1701) 年 の 長 岡 指 出 帳 には 石 高 72 石 8 斗 3 升 6 合 となっています 山 梨 の7 00 石 や 物 井 の570 石 と 比 較 すれば ごく 小 さな でした しかし 嘉 永 2(1849) 年 の 徳 川 将 軍 によ る 小 金 原 御 鹿 狩 では 当 時 の 名 主 であった 治 郎 左 衛 門 が 2000 以 上 の の 中 から10 5 人 の 世 話 役 のひとりに 任 命 されています その 長 岡 の 起 立 について 今 回 の 調 査 で 参 考 になる 資 料 が 発 見 されました それが 長 岡 誌 です 先 祖 とされる 長 岡 将 監 は 長 岡 ( 京 都 )に 城 を 築 き 帝 都 を 守 護 して いたが 出 羽 国 庄 内 の 井 岡 庄 に 移 封 され そ の 後 印 旛 郡 入 野 ( 現 在 の 地 )に 砦 を 築 き 郷 を 治 めた その 由 緒 により この 地 を 長 岡 家 名 を 井 岡 とした その 後 帰 農 し 々この 地 に 住 む 民 18 戸 は 皆 その 末 裔 長 岡 誌 全 表 紙 である と 2. 佐 倉 藩 の 支 配 江 戸 時 初 期 における 四 街 道 市 域 の16 か は 旗 本 の 知 行 所 だった が 多 く その 領 主 も ごとに 異 なっていました そしてとく に 初 期 の100 年 間 は 領 主 の 入 れ 替 わりが 頻 繁 にありましたが その 変 遷 についてはあ まり 明 らかにされていません そのなかで 長 岡 の 領 主 は 初 期 のころから 佐 倉 藩 主 の 支 配 を 受 けており 老 中 格 の 大 名 である 堀 田 家 戸 田 家 稲 葉 家 松 平 家 が 領 主 でした このコーナーでは 延 享 3(1746) 年 から 幕 末 まで 佐 倉 藩 11 万 石 (そのうち 山 形 領 4 万 石 を 含 む)の 藩 主 となった 後 堀 田 家 の 触 書 に 焦 点 を 当 ててみました とくに 善 政 を 2013 年 3 月 5 日 ( 火 )~10 日 ( 日 ) 古 文 書 が 伝 える 四 街 道 の 歴 史 展 資 料 天 保 14 年 家 作 御 改 書 上 帳 1
しいた 堀 田 正 睦 (まさよし)の 子 育 奨 励 の 触 書 や 天 保 改 革 時 の 家 作 取 締 りなど 興 味 深 い 資 料 があります 3. 嘉 永 二 年 小 金 原 御 鹿 狩 ~ 四 街 道 に5300 人 の 勢 子 が 集 まる~ 井 岡 家 の 先 祖 治 郎 左 衛 門 は 嘉 永 2(1849) 年 3 月 18 日 に 実 施 された 第 12 徳 川 将 軍 家 慶 による 小 金 原 御 鹿 狩 の 世 話 役 に 任 命 された ことから 貴 重 な 史 料 が 残 されており 22 点 の 古 文 書 と 収 納 されてい た 木 箱 2 点 の 大 絵 図 が 四 街 道 市 の 文 化 財 に 指 定 されています 内 容 は 華 麗 な 御 狩 場 ではなく それに 先 立 つ3 日 間 の 勢 子 による 御 狩 場 へ 揃 所 名 四 街 道 に 集 まった 勢 子 印 旛 郡 千 葉 郡 香 取 郡 合 計 物 井 香 取 前 25 498 5 183 49 1553 79 2234 和 良 比 山 王 山 26 420 6 71 39 974 71 1465 小 名 木 遠 源 太 堤 木 戸 内 18 349 16 280 25 912 59 1541 四 街 道 市 域 の 揃 所 合 計 69 1267 27 534 113 3439 209 5240 値 は 五 の 手 は 井 岡 家 文 書 小 名 木 は 千 葉 市 稲 生 家 文 書 によります 四 街 道 市 域 のみの 合 計 は 勢 子 16か 268 人 です 利 根 川 下 流 の 香 取 郡 の 々から1 泊 2 日 で 揃 所 に 集 まりました の 追 い 立 て 方 などの 触 書 の 写 しや 下 調 べなどにかかわる 資 料 です この 御 鹿 狩 では 四 街 道 市 域 の 小 名 木 川 沿 いに3つの 揃 所 が 設 け られ 印 旛 沼 周 辺 や 利 根 川 下 流 域 の 々から5,300 人 の 勢 子 が 集 まりました 彼 らは 前 日 のうちに 揃 所 に 集 合 し 幕 府 の 御 鹿 狩 役 人 の 点 呼 を 受 け 別 に 割 り 当 てられた 位 置 に 着 き 横 一 線 になり 御 狩 場 ( 現 在 の 松 戸 市 )に 向 け 野 宿 をしながら2 泊 3 日 の 追 い 立 てを 開 始 しました 4. の 土 地 と 生 産 力 関 ヶ 原 の 合 戦 に 勝 利 した 徳 川 家 康 は 領 地 を 確 定 し 家 臣 に 知 行 地 を 与 えるために 検 地 を 実 施 しました( 慶 長 検 地 ) 井 岡 家 には 原 本 ではありま せんが 慶 長 7(1602) 年 実 施 の 長 岡 の 検 地 帳 の 写 しが 残 されて います 検 地 によって 以 後 の 長 岡 の 域 および 一 筆 ごとの 土 地 の 反 別 ( 面 積 )と 石 盛 ( 反 当 たりの 生 産 力 )が 決 定 され 納 めるべき 年 貢 の 基 礎 と なります 検 地 帳 は 一 筆 ごとの 土 地 を 一 定 の 順 番 に 字 名 反 別 ( 面 積 ) 所 有 者 などを 列 記 したものです しかし 検 地 帳 の 土 地 の 順 番 は 異 なる 所 有 者 の 土 地 が 並 んでいる 場 合 が 多 いので 所 有 者 にとっては 日 常 的 に 使 用 できるような 帳 面 ではあり ません そこでこれを 所 有 者 別 に 並 べ 替 えて 作 成 したものが 名 寄 帳 です 検 地 帳 が に 残 らなくても 名 寄 帳 があれば 実 用 に 供 するという わけです 残 念 ながら 長 岡 の 検 地 帳 は 現 時 点 では 発 見 されていません が 井 岡 家 には 名 寄 帳 あるいは 銘 々 帳 と 名 の 付 く 帳 面 が 点 残 されています 長 岡 ではその 後 も 新 田 開 発 のたびに 検 地 が 行 われており そのときの 水 帳 ( 検 地 帳 )も 残 されています 嘉 永 2(1849) 年 小 金 原 御 鹿 狩 細 見 所 小 絵 図 5. 長 岡 の 年 貢 の 変 遷 慶 長 7 年 の 検 地 で 定 められた 石 高 を 基 準 として 長 岡 の 年 貢 は 決 定 されました 井 岡 家 には その 後 佐 倉 藩 主 となった 戸 田 家 稲 葉 家 松 平 家 の 年 貢 割 付 状 が 残 されています 延 享 3(1746) 年 には 佐 倉 藩 主 が 後 堀 田 家 に 変 わりますが 基 本 的 には 過 去 の 領 主 の 年 貢 政 策 が 受 け 継 がれていたことが 分 かります しかし 同 じ 小 名 木 川 流 域 で 稲 作 を 営 む 物 井 と 比 べると 江 戸 時 を 通 じて 生 産 力 の 指 標 となる 石 盛 (1 反 当 りの 収 穫 力 )の 等 級 が 異 なり 2
年 貢 率 すなわち 税 率 も 高 くなっています 佐 倉 藩 の 年 貢 政 策 が 地 域 によ りまた により 一 律 ではなかったことが 分 かります 年 貢 は 年 貢 割 付 状 で 通 知 され 12 月 中 旬 までに 上 納 し その 証 明 として 翌 年 3 月 には 領 主 から 年 貢 皆 済 目 録 が 公 布 されます ( 長 岡 の 年 貢 率 ) 幕 府 は 四 公 六 民 税 率 40%を 標 準 としていました 元 禄 1(1688) 年 60.0% 戸 田 家 宝 永 2(1705) 年 52.0% 稲 葉 家 享 保 9(1724) 年 55.5% 松 平 家 寛 延 1(1748) 年 54.48% 堀 田 家 文 久 3(1863) 年 54.56% 堀 田 家 6. 庶 民 の 道 中 日 記 ~ 十 助 さんの 大 旅 行 江 戸 時 は 庶 民 が 領 地 を 離 れる ことを 許 されませんでした しか し 信 仰 のための 旅 行 だけは 許 され 江 戸 後 期 になると 庶 民 の 旅 行 がブ ームとなります 井 岡 家 にも 点 の 道 中 日 記 が 残 されていますが その 中 でも 天 保 14(1843) 年 の 諸 国 神 社 仏 閣 道 中 日 記 は 例 を 見 ないほどの 大 旅 行 の 記 録 で す 旅 行 日 163 日 歩 行 距 離 凡 そ4,600キロ 1 日 の 歩 行 距 離 28キロ 参 詣 した 神 社 仏 閣 27 天 保 14 年 諸 国 神 社 仏 閣 道 中 日 記 1か 所 名 所 旧 跡 150か 所 でした 作 成 者 は 保 品 ( 現 在 の 八 千 市 ) の 十 助 となっていますが 彼 は 翌 年 井 岡 家 に 入 籍 し 嘉 永 2 年 の 御 鹿 狩 で 世 話 役 を 勤 めた 治 郎 左 衛 門 を 助 けます その 後 家 督 を 継 ぎ 明 治 30 年 に 亡 くなるまで100 観 音 出 羽 三 山 な どを 巡 礼 します 7. 江 戸 から 明 治 へ~ 明 治 新 政 府 の 布 達 ~ 井 岡 家 には 時 が 大 きく 変 わる 明 治 維 新 直 後 の 新 政 府 や 千 葉 県 令 など の 触 書 の 書 写 が 多 く 残 されています 新 政 府 や 新 たな 地 方 自 治 体 の 行 政 が 激 変 する 様 子 を 伝 える 貴 重 な 資 料 です 慶 応 4 年 すなわち 明 治 1(1868) 年 の 正 月 早 々に 鳥 羽 伏 見 の 戦 いがあり これに 勝 利 して 新 政 府 が 動 き 始 め 国 内 外 に 国 家 の 方 針 を 打 ち 出 します 展 示 の 資 料 は その 直 後 に 出 された 新 政 府 の 触 書 の 写 しです 徳 川 幕 府 の 前 例 を 打 消 し 次 々と 改 革 が 進 められた ことが 分 かります 新 政 府 の 意 気 込 みが 感 じ られる 触 書 です 8. が 変 わる 自 治 体 が 変 わる ~ 名 主 から 戸 長 へ 区 から へ~ 明 治 新 政 府 の 触 書 新 政 府 は 領 主 支 配 による 地 方 行 政 の 変 革 の ためにさまざまな 政 策 を 展 開 します 初 千 葉 県 令 柴 原 和 は 無 駄 な 支 出 を 省 くために 小 の 合 併 を 進 めますが という 強 いきずなで 結 ばれてきた 地 域 の 行 政 は 思 うように 進 まず 変 遷 を 重 ねることになります 明 治 4(1871) 年 に 戸 籍 法 が 公 布 され 名 主 が 廃 止 されて 戸 長 に 改 められ 大 区 小 区 制 が 実 施 されます 明 治 11(1878) 年 には 郡 区 町 編 成 法 により 複 の に 連 合 戸 長 役 場 が 置 かれます 明 治 21(1888) 年 には 市 制 町 制 が 公 布 され 千 田 戸 長 役 場 達 綴 旭 が 誕 生 し 市 町 制 の 基 礎 ができます しかし 合 併 には 民 感 情 の 微 妙 な 違 いがうかがわれます 用 掛 りや 戸 長 などの 公 職 を 勤 められたことから 井 岡 家 文 書 には 当 時 の 行 政 文 書 やいきさつを 伝 える 資 料 が 含 まれています 9. 年 貢 から 地 租 へ 江 戸 時 の 領 主 の 財 政 を 賄 ってきた 年 貢 は 廃 藩 置 県 後 の 明 治 新 政 府 にとっても 重 要 な 問 題 となります 稲 作 の 豊 凶 による 不 安 定 な 年 貢 は 新 政 府 の 財 政 不 安 定 を 引 き 起 こすため 明 治 6(1873) 年 には 生 産 高 に 拘 らず 租 税 が 徴 収 できる 地 租 に 変 わります しかし 土 地 の 測 定 3
や 地 価 の 確 定 に 時 間 を 要 し 明 治 10(1 877) 年 まで 実 質 的 には 年 貢 が 継 続 され ました 地 租 改 正 によって 明 治 新 政 府 が 抱 えた 巨 大 な 累 積 債 務 の 解 消 が 可 能 となり 財 政 基 盤 を 確 固 たるものにし 日 本 の 化 の 促 進 にはずみがかかります 井 岡 家 文 書 は 地 租 改 正 に 伴 って 実 施 さ れた 土 地 の 測 定 地 価 の 確 定 の 経 緯 を 記 録 した 公 文 書 や 土 地 台 帳 などが 含 まれてお り 大 きな 改 正 に 取 り 組 んだ 行 政 の 動 きを 伝 えています 10. 軍 郷 四 街 道 と 戦 争 佐 倉 藩 が 天 保 11(1840) 年 に 下 志 津 原 ( 北 端 に 藩 役 人 の 詰 所 があ った)に 火 業 場 を 開 設 したことから 玉 拾 いや 往 来 留 め 役 人 へのお 茶 接 待 などで 人 がかり 出 されます 軍 郷 四 街 道 の さきがけ です 千 葉 県 印 旛 郡 誌 前 篇 より 抜 粋 佐 倉 藩 火 業 場 ( 町 打 場 ) 明 治 10 年 まで 年 貢 明 治 15 年 陸 軍 迅 速 測 図 抜 粋 明 治 19(1886) 年 には 同 所 に 陸 軍 砲 兵 射 的 学 校 が 設 置 され 明 治 30(1897) 年 には 下 志 津 原 の 砲 兵 学 校 が 四 街 道 に 移 転 し 陸 軍 野 戦 砲 兵 射 撃 学 校 と 改 称 されます 軍 郷 四 街 道 の 幕 開 け です この 時 から 四 街 道 の と 軍 とのかかわりが 強 くなり 新 しい 町 が 形 成 されます 井 岡 家 文 書 の 中 には 多 の 書 簡 が 含 まれ ており 日 清 日 露 の 戦 争 に 出 征 した 兵 士 か らの 書 簡 が 戦 場 の 様 子 を 伝 えています また 両 戦 争 を 報 道 する 新 聞 記 事 など 珍 しい 資 料 日 露 戦 争 出 征 兵 士 の 書 簡 も 含 まれています 11. 鉄 道 がやってきた 陸 軍 野 戦 砲 兵 射 撃 学 校 の 開 設 に 先 立 ち 明 治 27(1894) 年 に 総 武 鉄 道 が 敷 設 され 四 街 道 駅 が 誕 生 します これにより 東 京 と 四 街 道 の 距 離 が 縮 まり 全 国 各 地 への 移 動 が 容 易 にな ります しかしその 裏 には 先 祖 々 受 け 継 い だ 民 の 土 地 が 犠 牲 となり 補 償 問 題 が 起 り ます 明 治 44(1911) 年 には 翌 年 大 正 天 皇 となられる 皇 太 子 殿 下 が 四 街 道 の 駅 に 降 り 立 たれ 陸 軍 野 戦 砲 兵 射 撃 学 校 野 砲 兵 第 1 8 連 隊 への 行 啓 を 果 たされます そのときの 民 のお 出 迎 えの 段 取 りを 示 す 資 料 が 残 さ れています 軍 事 目 的 によって 敷 設 された 鉄 道 でした 総 武 鉄 道 土 地 買 収 の 帳 面 が 今 日 の 四 街 道 の 発 展 に 大 きく 寄 与 したこ とは 間 違 いありません 四 つ 角 大 土 手 四 街 道 駅 12. 学 校 が 始 まった 新 政 府 は1 小 区 に1 校 を 目 指 すことを 全 国 に 奨 励 しました 明 治 5(1 872) 年 の 学 制 公 布 明 治 8 年 の 小 学 学 齢 布 達 同 12(1879) 年 の 教 育 令 同 19(1886) 年 の 学 校 令 さらにその 後 の 改 正 を 重 ねながら 教 育 の 改 革 が 進 められます 四 街 道 でも 明 治 6 年 には 物 井 の 正 福 寺 同 7 年 には 鹿 渡 の 善 光 寺 の 4
境 内 に 校 舎 が 設 けられ 小 学 校 が 開 校 します 寺 の 境 内 での 小 学 校 教 育 は 明 治 の 後 期 まで 続 きます 当 初 は 授 業 料 が 負 担 できず 児 童 の 就 学 が 順 調 に 進 みませんでした 児 童 の 就 学 不 就 学 の 調 査 資 料 卒 業 証 書 日 記 などが 当 時 の 教 育 の 実 情 や 学 校 生 活 を 伝 えています 井 岡 家 のご 先 祖 は 学 務 委 員 を 勤 められたことから 当 時 の 教 育 行 政 資 料 が 多 く 残 されており 教 育 史 研 究 に 役 立 つものと 思 われます 明 治 11 年 の 児 童 の 就 学 不 就 学 取 調 13. 長 岡 の 産 物 ~ 茶 煙 草 酒 醤 油 薬 明 治 時 の 長 岡 の 産 業 は 現 在 とかな り 異 なる 様 相 を 呈 していました 米 や 大 豆 などの 穀 物 以 外 にも 長 岡 を 支 える 産 物 がありました 明 治 10(1877) 年 11 月 に 提 出 された 物 産 取 調 書 一 括 によれば 長 岡 の 生 産 物 は 米 もち 米 大 麦 小 麦 大 豆 粟 蕎 麦 甘 藷 菜 種 実 綿 製 茶 でした これらは 統 制 されており 茶 煙 草 酒 醤 油 については 許 可 証 や 免 許 証 が 発 自 家 用 酒 製 造 の 仕 込 帳 行 されました また 内 には 井 岡 家 を 含 む 軒 で 薬 の 製 造 卸 業 を 営 まれていたことも 今 回 の 調 査 で 分 かりました 区 分 文 書 家 文 書 別 表 1 井 岡 家 文 書 の 内 容 分 類 別 点 時 井 岡 家 文 書 計 分 類 点 構 成 世 世 領 主 支 配 57 政 訴 訟 等 37 土 地 年 貢 金 銭 251 その 他 40 小 計 385 7.3% 布 達 諸 届 等 910 教 育 256 農 業 357 土 地 税 務 金 銭 714 その 他 229 小 計 2,466 46.8% 年 欠 16 0.3% 文 書 計 2,867 54.4% 家 書 籍 等 55 小 計 55 1.0% 家 書 籍 等 493 書 簡 699 土 地 税 務 金 銭 1,027 小 計 2,219 42.1% 年 欠 130 2.5% 家 文 書 計 2,404 45.6% 合 計 5,271 100.0% 別 表 2 安 政 2 年 堀 田 氏 領 地 高 辻 一 覧 ( 佐 倉 市 史 巻 1) 抜 粋 旧 名 ( 読 み) 石 高 物 井 ものい 573.719 亀 崎 かめざき 380.084 内 黒 田 うちくろだ 212.548 和 良 比 わらび 197.436 鹿 渡 ししわたし 307.921 栗 山 くりやま 279.557 長 岡 ながおか 74.693 山 梨 やまなし 701.940 和 田 わだ 38.990 上 野 うえの 46.356 小 名 木 おなぎ 318.158 吉 岡 よしおか 446.965 南 波 左 間 なばさま 104.809 中 台 なかだい 255.852 中 野 なかの 31.800 成 山 なりやま 66.352 合 計 4,037.179 5