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保 険. 甚 害 準 意 義 次 福 祉 士 従 喫 緊 意 義 認 優 先 急 性 期 経 験 豊 富 ベ 沿 岸 確 幅 広 躍 レ 量 住 民 啓 発 I T 母 葵 木 村 幸 博 代 外 来 特 フ 常 勤 非 常 勤 勢 車 片 道 圏 暮 ぼ 生 働 東 起 全 国 園 ~ 聞 東 レ

2. 居 住 用 財 産 を 売 却 し た 場 合 の 特 例 譲 渡 資 産 は 居 住 用 財 産 で す か? 住 宅 取 得 特 別 控 除 の 適 用 を 受 け て い ま せ ん か? 所 有 期 間 が 1 0 年 を 超 え て い ま す か? 居 住 期 間 は 3 0 年

2. 建 築 基 準 法 に 基 づく 限 着 色 項 目 の 地 区 が 尾 張 旭 市 内 にはあります 関 係 課 で 確 認 してください 項 目 所 管 課 窓 口 市 役 所 内 電 話 備 考 がけに 関 する 限 (がけ 条 例 ) 都 市 計 画 課 建 築 住 宅 係 南 庁 舎

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編 5ヶ 月 6 総 論 7 抜 ピ ド ピ ド 速 永 久 繰 ロ セ 慣 容 易 結 共 通 決 々 5 照 づ 具 ご 紹 介 与 監 査 比 較 場 限 提 始 箇 提 進 ご 安 心 話 提 与 監 査 雑 把 与 締 役 緒 算 類 作 機 関 従 来 税 始 忘 生 物 繰 切 忘 葉

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根 本 確 根 本 確 民 主 率 運 民 主 率 運 確 施 保 障 確 施 保 障 自 治 本 旨 現 資 自 治 本 旨 現 資 挙 管 挙 管 代 表 監 査 教 育 代 表 監 査 教 育 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部 市 町 村 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 135,600 円 185,800 円 222,900 円 261,900 円

号 領 命 地 震 長 損 害 医 療 医 療 領 機 構 配 偶 容 引 落 止 借 延 長 象 居 延 長 取 居 開 始 見 直 準 化 仮 係 毎 仮 算 仮 降 止 転 継 津 署 土 祝 開 設 テ ク ス ピ ア 阪 [ 南 海 線 津 駅 下 ]! 復 興 及 び 贈 地 及 び 復


ら 情 報 せ 先 先 ホムペジ

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 135, , ,900 2

J A K カ イ ロ プ ラ ク テ ィ ッ ク 協 同 組 合 規 約 ( 目 的 ) 第 1 条 組 合 員 の 権 利 義 務 等 は 定 款 に よ っ て 定 め ら れ て い る が 定 款 の 第 6 条 の 規 定 に よ り 定 款 に 記 載 さ れ な い 必 要 事 項

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公表表紙

ごあいさつ

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                         庁議案件No

平 政 種 郵 便 物 認 可 信 無 埋 般 触 機 可 能 面 幅 繋 待 道 口 ギ 握 定 友 共 感 現 揺 ぶ 趣 志 向 析 展 揺 ぶ 始 博 爆 博 ネ 無 料 ゾ 閉 鎖 室 建 物 空 移 = ゴ 続 難 夢 室 校 病 院 東 六 木 降 湾 ガ 熱 狂 渦 巻 6 員 録


平 成 24 年 4 月 1 日 から 平 成 25 年 3 月 31 日 まで 公 益 目 的 事 業 科 目 公 1 公 2 公 3 公 4 法 人 会 計 合 計 共 通 小 計 苦 情 相 談 解 決 研 修 情 報 提 供 保 証 宅 建 取 引 健 全 育 成 Ⅰ. 一 般 正 味 財

職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 年 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 福 岡 県 技 能 労 務 職 歳 1,19,98 9,9 歳 8,

( の 復 旧 ) 3. 南 相 馬 市 エリアの 避 難 指 示 解 除 準 備 区 域 及 び 居 住 制 限 区 域 内 の 路 線 数 ( ) 10 路 線 うち 被 災 した 路 線 ( 工 区 ) 数 10 路 線 52 箇 所 うち 応 急 対 策 を 実 施 した 路 線 ( 工 区

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額

答申第585号

その 他 事 業 推 進 体 制 平 成 20 年 3 月 26 日 に 石 垣 島 国 営 土 地 改 良 事 業 推 進 協 議 会 を 設 立 し 事 業 を 推 進 ( 構 成 : 石 垣 市 石 垣 市 議 会 石 垣 島 土 地 改 良 区 石 垣 市 農 業 委 員 会 沖 縄 県 農

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掛 金 負 担 金 の 給 料 月 額 に 対 する 割 合 ( ) ( 単 位 : ) 短 期 介 護 短 期 介 護 短 期 介 護 一 般 職 特 別 職 市 町 村 長 組 合 員 34

人 同 意 第 49 回 宇 和 島 定 例 決 結 果 一 覧 表 番 号 件 名 決 結 果 報 告 第 1 号 専 決 処 分 した 件 報 告 即 日 受 理 専 決 第 1 号 道 おける 故 和 解 即 日 受 理 専 決 第 2 号 車 両 接 触 故 和 解 即 日 受 理 案 第

1 変更の許可等(都市計画法第35条の2)

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定款  変更

4 松 山 市 暴 力 団 排 除 条 の 一 部 風 俗 営 業 等 の 規 制 及 び 業 務 の 適 正 化 等 に 関 する 法 律 等 の 改 正 に 伴 い, 公 共 工 事 から 排 除 する 対 象 者 の 拡 大 等 を 図 るものです 第 30 号 H H28.1

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Ⅰ. は じ め に 27 年 か ら の 不 況 の 影 響 で 不 動 産 競 売 物 件 が 増 加 し て い る 29 年 9 月 は 全 国 で 8 件 を 超 え た ( 前 年 同 月 は 約 6 件 ) ま た 不 動 産 競 売 の 情 報 が イ ン タ ー ネ ッ ト で 公

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Transcription:

第 Ⅰ 部 調 査 編 田 染 の 里 文 化 的 景 観 田 染 荘 小 崎 地 区 に 関 する 調 査 報 告

第 1 章 田 染 荘 小 崎 の 概 要 第 1 節 田 染 荘 の 歴 史 概 要 1 田 染 荘 の 歴 史 荘 園 と は 平 安 時 代 の 中 期 に 成 立 し た 地 方 支 配 の 単 位 で あ る 地 方 か ら 見 る と ム ラ の よ うな 単 位 で も あ る そ の 意 味 で は 今 日 の 地 方 自 治 体 に も つ ながるとい え る 基 本 的 に は 荘 園 の 所 有 者 は 京 都 に 居 住 す る 天 皇 家 を 頂 点 と す る 貴 族 集 団 で あ り 一 つ の 荘 園 に は 京 都 に 居 住 す る 本 家 や 領 家 か ら は じ ま っ て 現 地 に 派 遣 さ れ る 預 所 在 地 の 領 主 で ある 下 司 地 頭 公 文 田 所 な ど の さ ま ざまなレベ ル の 管 理 者 が お り そ の 下 に 名 主 や 作 人 と 呼 ば れ る 農 業 経 営 者 が い た ( 1 ) 荘 園 の 成 立 と 構 造 田 染 荘 は 宇 佐 神 宮 の 荘 園 である 宇 佐 神 宮 に は お 宮 が 所 有 す る 宮 方 荘 園 と 宇 佐 神 宮 の 神 宮 寺 弥 勒 寺 領 す な わ ち 寺 方 荘 園 が ある 宇 佐 八 幡 宮 に は 宮 方 と 寺 方 の 荘 園 を 合 わ せ る と 九 州 内 に 2 万 数 千 町 歩 と い う 広 大 な 荘 園 が 存 在 し た 田 染 荘 は 宮 方 の 本 御 荘 十 八 箇 所 と 呼 ば れ る 根 本 荘 園 の 一 つ で 豊 後 高 田 市 田 染 地 区 ( 旧 田 染 村 )の 地 域 が そ の 範 囲 と 推 定 さ れ る 1 2 世 紀 は じ め に は 宮 方 は 京 都 の 摂 関 家 寺 方 は 石 清 水 八 幡 宮 を 本 家 に 仰 ぐ よ うになるが そ れでも 全 国 屈 指 の 大 領 主 であった 田 染 荘 は そのような 宇 佐 八 幡 宮 の 典 型 的 な 荘 園 で あり 最 も 史 料 や 文 化 財 ( 国 宝 富 貴 寺 真 木 大 堂 の 仏 像 熊 野 磨 崖 仏 な ど )に 恵 ま れ た 荘 園 で あ る 荘 園 と しては 古 代 の 国 埼 郡 六 郷 の 一 つ 田 染 郷 を 母 体 と し て 1 1 世 紀 前 半 に 成 立 し た と 推 定 さ れ る 鎌 倉 時 代 の 弘 安 8 年 図 田 帳 では 総 田 積 は 9 0 町 本 郷 (4 0 町 ) 吉 丸 名 (2 0 町 ) 糸 永 名 (3 0 町 )の 3 つ の 単 位 所 領 か ら な っ て い た 糸 永 名 は 宇 佐 神 宮 の 大 宮 司 家 の 庶 流 で 宇 佐 宮 政 所 検 校 職 を 務 め て き た 益 永 氏 が 相 伝 し こ こ に は 中 尊 寺 金 色 堂 と 同 じ 時 期 に 建 立 された 阿 弥 陀 堂 富 貴 寺 阿 弥 陀 堂 が あ る 吉 丸 名 や 本 郷 の 平 安 期 の 領 主 は 明 確 で ないが 大 宮 司 に つ らなる 領 主 で あ っ た 可 能 性 が 高 い 鎌 倉 後 期 の 段 階 で は 本 郷 は 大 友 氏 の 一 族 小 田 原 氏 吉 丸 名 は 北 条 氏 の 一 族 名 越 氏 糸 永 名 は 肥 前 国 御 家 人 曾 根 崎 氏 が 領 主 や 地 頭 と し て 見 え る 鎌 倉 時 代 に は 関 東 御 家 人 に 在 地 の 領 主 権 を 奪 わ れ て い っ た 一 方 国 東 半 島 に は 12 世 紀 の は じ め に 成 立 した 六 郷 山 と 呼 ば れ る 近 江 の 延 暦 寺 の 末 寺 の 所 領 が あ っ た 六 郷 山 は 8 0 数 箇 寺 の 寺 や 岩 屋 の 連 合 体 で あ り 寺 々 に は 耕 地 山 野 が か な り 付 属 し て い た 田 染 荘 内 に も 六 郷 山 寺 院 が 点 在 し た 優 れ た 平 安 仏 が あ る 真 木 大 堂 ( 馬 城 山 ) 間 戸 寺 熊 野 磨 崖 仏 の ある 今 熊 野 山 ( 胎 臓 寺 ) さ ら に 鎌 倉 末 に 六 郷 山 に 組 み 込 ま れ た と 思 わ れ る 富 貴 寺 な ど 六 郷 山 領 で あ る こ の よ うに 田 染 荘 は 複 雑 な 構 造 を し て お り 鎌 倉 後 期 に は 宇 佐 八 幡 宮 や 六 郷 山 の 勢 力 は 衰 え る 中 で 関 東 の 武 士 の 勢 力 が 支 配 を 拡 大 し て い っ た Ⅰ- 1

( 2 ) 神 領 興 行 法 の 舞 台 蒙 古 襲 来 は こ の よ う な 衰 退 し つ つ あ っ た 宇 佐 八 幡 宮 の 勢 力 に 再 生 の チ ャ ン ス を も た ら した 蒙 古 襲 来 後 戦 費 や 軍 役 で 窮 乏 し た 御 家 人 を 救 済 す る ため 徳 政 令 が 発 せ ら れるが 宇 佐 の 八 幡 神 も 異 国 調 伏 な ど で 戦 い に 貢 献 し た という 意 識 か ら 神 領 についても 神 領 と わ か れ ば 返 還 を 求 められる 徳 政 が 適 用 された こ れ が い わ ゆる 神 領 興 行 法 で あ る 田 染 荘 で は 正 和 2 年 (1313)か ら 数 年 に わ た っ て 盛 ん に 神 領 興 行 法 を 楯 に とった 旧 領 返 還 の 相 論 が 行 わ れ る 訴 人 は 宇 佐 宮 神 官 宇 佐 忠 基 と 同 定 基 で 論 人 ( 訴 え られた 側 )は 本 郷 の 領 主 小 田 原 氏 と そ の 関 係 者 ま た は 吉 丸 名 地 頭 代 安 藤 入 道 西 願 ま た は 糸 永 名 の 地 頭 曽 根 崎 氏 で あ る こ れ は ま さ に 神 官 領 主 た ち の 関 東 御 家 人 た ち へ の 巻 き 返 しとも 評 価 で き る こ の 訴 訟 に よ っ て 忠 基 と 定 基 は 尾 崎 ( 小 崎 )に 屋 敷 を 確 保 し 以 後 子 孫 は 田 染 氏 を 称 し こ こ が 宇 佐 宮 の 田 染 支 配 の 拠 点 と な る ( 3 ) 室 町 以 降 の 田 染 荘 小 崎 の 田 染 氏 は 南 北 朝 の 中 期 神 官 の 名 字 を 解 かれ 失 脚 す る が 室 町 初 頭 に は 宇 佐 宮 の 下 宮 番 長 職 に あ った 永 弘 重 輔 の 系 統 が 田 染 氏 の 跡 を 継 ぐ こ れ を 後 期 田 染 氏 という 特 に 応 仁 か ら 文 明 年 間 に 活 躍 した 田 染 栄 忠 は 本 流 の 永 弘 家 を 押 さ え 番 長 権 擬 大 宮 司 の 職 に 就 き 勢 力 を 張 っ た 小 崎 台 薗 の 田 染 氏 の 屋 敷 跡 で あ る 延 寿 寺 に は 栄 忠 の 銘 が 入 っ た 応 仁 2 年 の 石 殿 が あ る 台 薗 の 集 落 か ら 3 0 0 メートルほどの 観 音 寺 跡 に は 栄 忠 の 子 孫 の 田 染 息 雲 の 墓 な ど が あ る 一 方 後 期 田 染 氏 の 活 躍 す る 時 期 に は 田 染 荘 も 大 友 氏 の 領 国 支 配 の 体 制 に 組 み 込 ま れ ていった 大 友 氏 は 1 5 世 紀 前 半 か ら 荘 郷 と い う 中 世 的 単 位 に 政 所 と い う 代 官 を 置 い た 田 染 荘 で も 吉 弘 氏 田 原 氏 長 野 氏 古 庄 氏 な ど が 任 じ ら れ た よ うである 政 所 の 地 名 は 蕗 の 谷 と 相 原 の 谷 に 残 り 蕗 の 政 所 に は 堀 跡 な ど の 遺 構 が 確 認 で 蕗 政 所 は 近 世 庄 屋 屋 敷 と なる ( 4 ) 近 世 の 田 染 天 正 1 5 年 (1587) 秀 吉 は 九 州 仕 置 き を 行 い 大 友 氏 も そ の 傘 下 に 入 る 文 禄 2 年 (1593)に 大 友 氏 は 除 封 さ れ 豊 後 は 秀 吉 の 完 全 な 支 配 に 入 る 田 染 地 域 の 領 主 は 明 確 で は な い が こ の 時 期 高 田 城 に 入 っ た 竹 中 氏 と 考 え ら れ る そ の 後 細 川 領 を 経 て 幕 府 領 ( 木 付 藩 預 ) 小 崎 村 な ど の 一 部 が 小 笠 原 領 と な り 寛 文 9 年 (1669)に 島 原 藩 の 飛 び 地 領 に 組 み 込 ま れ る 以 後 幕 末 ま で そ の 体 制 と な る 近 世 の 田 染 に は 蕗 横 嶺 小 崎 中 村 ( 間 戸 を 含 む) 陽 平 池 部 相 原 真 木 熊 野 大 曲 田 野 口 薗 木 上 野 観 音 堂 間 戸 菊 山 の 1 6 カ 村 が あ っ た Ⅰ- 2

2 田 染 荘 の 景 観 形 成 の 歴 史 と 現 状 ( 1 ) 景 観 形 成 の 歴 史 は じ め に こ の 地 区 で は す で に 述 べ た よ う に 1981 年 か ら 1986 年 に か け て 大 分 県 立 宇 佐 風 土 記 の 丘 歴 史 民 俗 資 料 館 ( 現 県 立 歴 史 博 物 館 )に よ っ て 日 本 で は じ め て 荘 園 村 落 遺 跡 調 査 が 実 施 さ れ た こ の 荘 園 村 落 遺 跡 調 査 と は 大 分 県 立 宇 佐 風 土 記 の 丘 歴 史 民 俗 資 料 館 で 提 唱 さ れ た 調 査 法 で あ り 村 落 に お け る 過 去 の 人 々 の さ ま ざ ま な 営 為 の 結 果 の 総 体 を 調 査 す る こ と で あ っ た こ の 村 落 遺 跡 は 広 域 水 田 遺 跡 す な わ ち 古 代 条 里 遺 跡 や 中 世 荘 園 遺 跡 の よ う に 現 地 表 面 に か つ て の 遺 構 を 継 承 す る 形 で 水 田 が 残 存 し て い る 遺 跡 か ら 発 展 し た 概 念 で あ る 1964 年 か ら は じ ま る 圃 場 整 備 事 業 は 日 本 の 農 村 に 有 史 以 来 未 曾 有 の 大 変 容 を も た ら し こ の よ う な 遺 跡 に は 危 機 が 迫 っ た 1978 年 長 野 県 の 全 国 地 方 史 大 会 で 圃 場 整 備 に よ っ て 失 わ れ る 広 域 水 田 遺 跡 村 落 の 歴 史 景 観 の 危 機 が 圃 場 整 備 に 対 す る 宣 言 と し て 出 さ れ こ れ が 引 き 金 に な っ て 文 化 庁 の 補 助 事 業 と し て 国 東 半 島 荘 園 村 落 遺 跡 詳 細 分 布 調 査 が 始 ま っ た の で あ る そ の 成 果 は 1985 年 1986 年 に わ っ た て 豊 後 国 田 染 荘 の 調 査 と し て ま と め ら れ た こ の 調 査 は 今 日 の 新 し い 文 化 財 概 念 で あ る 文 化 的 景 観 ( 伝 統 的 生 活 生 業 を 基 盤 と す る 景 観 )の 概 念 の 前 提 と な る も の で あ り 今 回 の 調 査 も こ の 成 果 を 土 台 に し て い る し か し こ の 荘 園 村 落 遺 跡 は 伝 統 的 な 生 活 生 業 を 基 盤 と す る 文 化 的 景 観 と は 異 な り 歴 史 的 調 査 が 主 体 と な り 現 況 の 景 観 的 調 査 生 活 生 業 植 生 環 境 動 物 環 境 な ど の 要 素 が 入 っ て い な か っ た そ こ で 歴 史 分 野 と し て も 現 在 の 里 山 と し て の 田 染 荘 の 景 観 形 成 を 軸 に そ の 景 観 構 造 と 景 観 の 歴 史 的 変 遷 を 概 観 す る こ と に し た 図 1-1-1 Ⅰ- 3

写 真 1-1-1 田 染 小 崎 地 区 の 6 月 Ⅰ 田 染 の 伝 統 的 景 観 構 造 1 鎮 守 の 森 と 荘 園 今 日 の 村 落 景 観 の 原 型 は 平 安 時 代 中 期 に は じ ま る 荘 園 形 成 に よ っ て は じ ま っ た と さ れ る 服 部 英 雄 氏 は 広 域 水 田 遺 跡 の 一 典 型 で あ る 荘 園 の 遺 跡 に 関 し 中 世 以 来 の 鎮 守 の 森 を 中 心 に 地 名 や 条 里 制 耕 地 等 の 水 田 畦 畔 や 水 路 地 頭 館 跡 等 を 残 し 現 在 も そ の ま ま の 生 活 の 場 と な っ て い る 荘 園 跡 の よ 写 真 1-1-2 田 染 荘 の 御 田 植 祭 で 苗 を 植 え る 学 生 た ち う な 生 活 遺 跡 と 規 定 す る こ こ で 鎮 守 の 森 に 注 目 し て 田 染 地 区 の 景 観 構 造 を み て み よ う Ⅰ- 4

図 1-1-2 田 染 荘 地 域 の 寺 社 の 分 布 概 況 図 Ⅰ- 5

図 1-1-3 田 染 荘 の 灌 漑 体 系 と 神 社 と 寺 院 段 上 達 雄 氏 の 研 究 に よ れ ば 田 染 地 区 は 近 世 郷 村 の 集 合 の 上 に 一 宮 ( 元 宮 ) 二 宮 三 宮 が 成 立 し て い る 一 宮 の 氏 子 範 囲 は 近 世 郷 村 で い え ば 中 村 相 原 村 池 部 村 で あ り 二 宮 の そ れ は 小 崎 村 横 嶺 村 間 戸 村 で あ る 三 宮 の 場 合 Ⅰ- 6

は 真 木 村 菊 山 村 陽 平 村 薗 木 村 熊 野 村 田 野 口 村 大 曲 村 観 音 堂 村 そ れ に 上 野 村 が 含 ま れ る こ こ で 注 目 し な け れ ば な ら な い の は 蕗 村 が 田 染 三 社 の 氏 子 圏 に ま っ た く 入 っ て い な い こ と で あ る 蕗 村 で は 独 自 に 富 貴 社 を 祀 っ て お り 田 染 で も 特 異 な 地 域 で あ る 蕗 村 は 桂 川 の 支 流 で あ る 蕗 川 の 川 筋 に 成 立 し て お り 他 の 田 染 の 村 々 は 桂 川 の 本 流 に 位 置 し て い る 中 世 に お い て も 蕗 谷 を 中 心 と す る 糸 永 名 は 国 衙 領 に 編 成 さ れ た り 別 名 ( 別 編 成 で 国 衙 な ど に 税 を 納 め る 特 区 ) と し て 特 異 な 位 置 を 占 め た 2 田 染 三 社 と 水 そ れ で は こ れ ら の 近 世 村 の 上 に 位 置 す る い わ ゆ る 鎮 守 は 何 に よ っ て 結 合 し て い る の で あ ろ う か こ こ で は 蕗 谷 を 除 く 田 染 の 村 々 を 概 観 し て み よ う 飯 沼 の 研 究 に よ れ ば 荘 園 の 鎮 守 は 近 世 の 村 の 上 の 形 成 さ れ る 神 社 に 系 譜 が 繋 が る 鎮 守 は 荘 園 の 開 発 と 密 接 に 結 び つ い て 形 成 さ れ か ん が い 用 水 と 関 係 し て い る 現 に 田 染 の 場 合 で も 段 上 氏 も 指 摘 す る よ う に 雨 乞 い に 関 係 し た り 二 宮 と 三 宮 の 近 く に は 堰 の 取 水 口 が あ り こ れ ら は 水 神 的 性 格 を も つ と さ れ て い る 田 染 荘 に は 上 野 地 区 と 嶺 崎 地 区 と 池 部 地 区 に 条 里 遺 構 が 残 っ て い た 中 村 嶺 崎 の 条 里 水 田 へ の 水 は 上 野 地 区 の 字 市 場 の 下 に あ る 大 イ ゼ で 取 水 さ れ た 水 が 供 給 さ れ た こ の イ ゼ の 水 路 は 戸 原 台 を 通 り 間 戸 か ら 続 く 山 の 尾 根 の 先 端 を 掘 り 割 る よ う に 元 宮 の 南 を 通 過 し 中 村 さ ら に 嶺 崎 地 区 へ 至 っ た 中 村 嶺 崎 の 住 民 は 一 宮 ( 元 宮 )か ら 水 が も た ら さ れ る と 錯 覚 す る よ う に 水 路 が 出 来 上 が っ て い る 写 真 1-1-3 大 イ ゼ と 御 旅 所 Ⅰ- 7

写 真 1-1-4 田 染 元 宮 一 方 上 野 地 区 で は 鍋 山 イ ゼ が 条 里 水 田 を 潤 し た こ の 井 堰 の 取 水 口 の 鍋 山 に は 平 安 時 代 末 の 作 と さ れ る 鍋 山 の 磨 崖 仏 や 三 宮 八 幡 宮 が あ る 磨 崖 仏 は 稲 積 不 動 と い い 三 宮 も 古 く は 稲 積 大 明 神 と い い 一 体 の も の で あ っ た と 考 え ら れ る こ こ も 神 社 や 磨 崖 仏 が す ぐ 近 く に 存 在 し て い る 写 真 1-1-5 鍋 山 イ ゼ と そ の 取 水 口 Ⅰ- 8

写 真 1-1-6 田 染 三 宮 八 幡 宮 さ ら に 段 上 達 雄 氏 は 二 宮 と 大 イ ゼ と の 関 係 を 考 え て い る よ う で あ る ま た 田 染 三 社 の 雨 乞 い の と き に 二 宮 で は 西 叡 山 の 山 中 の 戸 無 戸 の 口 に 水 を 汲 み に 行 く こ と か ら 西 叡 山 が 水 源 と 強 く 意 識 さ れ て い る と い う し か し 飯 沼 は 二 宮 神 社 は 下 の 二 宮 池 や 間 戸 の 山 が 意 識 さ れ て い る と 考 え て い る と こ ろ で 田 染 三 社 八 幡 社 の 祭 の 中 で 最 も 盛 大 な 祭 礼 は 秋 の 大 祭 十 月 祭 で あ る 年 に 一 度 三 社 の 神 輿 が 上 野 の 市 場 の 御 旅 所 に 集 合 す る こ の と き 神 輿 同 士 の ぶ つ け 合 い が 行 わ れ 喧 嘩 祭 と い わ れ て い た か つ て は 御 旅 所 到 着 後 前 の 馬 場 で 流 鏑 馬 が 5 回 行 わ れ 祝 詞 が あ げ ら れ た そ の 夜 峯 入 り の 神 事 が 行 わ れ た 次 に 相 撲 の 奉 納 が あ り デ ー ト ( 大 稲 ) 渡 し が 行 わ れ る 次 に 神 楽 が 奉 納 さ れ 神 事 は 終 わ る そ の 一 方 で 俳 諧 笠 百 韻 の 奉 納 が 行 わ れ 芝 居 も 行 わ れ た こ の 市 場 は 大 イ ゼ の 横 に 位 置 し こ こ で も 水 源 が 意 識 さ れ て い る 写 真 1-1-7 字 市 場 の 御 旅 所 Ⅰ- 9

3 鎮 守 を 中 心 と し た 重 層 的 灌 漑 体 系 こ れ ら の 三 社 の 下 に 各 村 々 の 村 社 が あ る 村 の 鎮 守 も ま た 水 に 深 く 関 係 し て い る 小 崎 村 の 愛 宕 社 は 小 崎 川 の 水 源 と な っ て い る 愛 宕 池 の 横 に あ る 熊 野 村 の 熊 野 社 は 熊 野 磨 崖 仏 の 上 に あ り 熊 野 川 の 水 源 に 位 置 し て い る さ ら に そ の 村 の 鎮 守 の 下 に あ る 小 社 に も 水 と の 関 係 が み ら れ る 小 崎 の 雨 引 社 の 場 合 社 の す ぐ 西 に は ア マ ヒ キ イ ゼ が あ り 赤 迫 の 水 田 の 水 源 と な っ て い る し か も 神 社 の 迫 は そ の 下 の 数 枚 の 水 田 の 水 源 と な っ て い る こ の よ う に 近 代 の 田 染 村 を 中 心 に み て ゆ く と 段 上 氏 が 明 ら か に し た よ う に 重 層 的 信 仰 体 系 が 存 在 し て い る そ れ は 信 仰 と い う こ と だ け で は な く そ の そ れ ぞ れ の レ ベ ル の 神 社 に お い て 基 本 的 に そ れ に 対 応 し た 水 田 灌 漑 の シ ス テ ム が あ り そ れ が 水 田 景 観 を 基 本 と す る 村 の 景 色 の 根 幹 を 形 成 し て い る の で あ る ヤマ サトヤマ 岩 峰 鎮 守 の 森 磨 崖 物 水 源 サト 水 田 集 落 棚 田 畑 林 集 落 図 1-1-4 Ⅰ- 10

Ⅱ 田 染 の 原 景 観 の 形 成 1 田 染 荘 の 成 立 と 鎮 守 の 変 遷 田 染 荘 の 場 合 は 田 染 郷 か ら 分 立 し た と 考 え ら れ る 田 原 別 符 は 天 喜 5 年 ( 1057)に 宇 佐 大 宮 司 宇 佐 公 則 の 開 発 許 可 を 得 て 宇 佐 宮 の 神 官 紀 季 兼 が 開 発 し た こ の こ と か ら 本 来 国 司 に 申 請 し 荒 野 開 発 を 行 う と こ ろ す で に 田 染 郷 は 大 宮 司 が 開 発 権 を 含 め て 支 配 権 を 掌 握 し た 土 地 と な っ て い た こ と が 想 定 さ れ る 11 世 紀 前 半 ま で に は 田 染 郷 は 宇 佐 宮 領 の 荘 園 と し て 成 立 し て い た の で あ ろ う し か し 田 原 別 符 も 官 物 分 は 国 衙 に 納 入 す る 半 不 輸 の 荘 園 と し て 成 立 し て お り 国 司 時 光 の 代 に 官 物 分 を 宇 佐 宮 に 渡 し 宇 佐 宮 の 一 円 領 に な っ た こ と か ら 田 染 荘 が 一 円 不 輸 領 と し て 成 立 し た の は 少 し 遅 れ る か も し れ な い 田 染 荘 の 鎮 守 は 荘 園 の 形 成 と と も に 成 立 し 当 初 は 一 宮 で あ る 元 宮 八 幡 宮 だ け で あ っ た と い わ れ る し か し 田 染 村 誌 に あ る 由 来 記 に よ れ ば す で に 天 平 神 護 元 年 に 国 前 郡 大 領 栗 長 が 宮 田 の 地 ( 現 在 の 元 宮 の 場 所 )に 神 殿 を 造 営 し 八 幡 神 と 比 売 神 を 祀 っ た と あ る 南 北 朝 時 代 の 観 応 2 年 ( 1351)に 二 宮 と 三 宮 が 分 祀 さ れ た そ の 記 録 で は 宇 佐 宮 番 長 神 主 重 輔 と 郷 司 民 部 左 衛 門 尉 景 家 に 託 宣 が あ り 間 戸 大 明 神 に 湍 津 姫 命 稲 積 大 明 神 に 市 杵 嶋 姫 命 が 遷 座 し た 二 宮 は 間 戸 大 明 神 三 宮 は 稲 積 大 明 神 と 呼 ば れ て い た 田 染 日 向 守 宇 佐 言 基 ( 宣 基 カ )は 延 文 5 年 ( 1360)に 田 染 一 宮 の 浮 殿 を 移 し 市 場 の 地 に 御 旅 所 を 創 設 し た そ の と き 二 宮 三 宮 の 神 輿 も 新 造 さ れ た と い う 2 田 染 三 社 体 制 の 成 立 の 意 義 田 染 荘 の 一 宮 二 宮 三 宮 の 三 社 は 南 北 朝 時 代 14 世 紀 半 ば に 確 立 し た 同 じ よ う な 例 と し て 大 分 の 丹 生 荘 の 一 宮 二 宮 三 宮 が あ る 一 宮 は 応 永 元 年 ( 1387)に 大 友 親 世 に よ っ て 阿 蘇 社 が 宮 河 内 に 勧 請 さ れ そ れ に と も な っ て 荘 内 の 神 社 が 再 編 さ れ 古 来 か ら の 鎮 守 丹 生 神 社 は 二 宮 に 編 成 さ れ た 田 染 で も 丹 生 で も 近 代 さ ら に 現 代 ま で 継 続 し て き た 三 社 体 制 は 南 北 朝 期 か ら 室 町 初 頭 に そ の 形 が で き あ が っ た と い え る こ の 時 期 は 荘 園 体 制 の 再 編 の 時 期 で あ る 守 護 で あ る 大 友 氏 は 領 国 内 の 郷 や 荘 園 を 大 友 支 配 の 体 制 の 中 に 組 み 込 む た め 政 所 ( 大 友 氏 の 代 官 )の 配 置 を 開 始 し 村 落 の 体 制 も 荘 園 体 制 か ら 新 し い 惣 郷 体 制 が 出 現 し た 3 鎮 守 の 源 流 と 水 源 信 仰 は 平 安 末 期 に 出 現 し か し い わ ゆ る 鎮 守 は こ の 時 期 突 然 登 場 し た わ け で は な い 水 源 と し て の 鎮 守 の 登 場 は や は り 平 安 期 末 期 に 想 定 さ れ る 田 染 荘 と 同 じ く 宇 佐 宮 の 根 本 所 領 で あ る 豊 後 国 緒 方 荘 は 緒 方 惟 栄 の と き に 一 宮 二 宮 三 宮 の 三 社 体 制 が で き た と い わ れ る そ れ を 裏 付 け る よ う に 一 宮 の 宮 迫 に は 東 磨 崖 仏 と 西 磨 崖 仏 が あ る が こ れ は 平 安 時 代 末 の 緒 方 惟 栄 の 時 代 の 作 で 宮 迫 の 磨 崖 仏 は 一 宮 の 神 が 応 現 し た 姿 と し て 岩 盤 に 彫 り 出 さ れ た と 解 釈 で き る Ⅰ- 11

写 真 1-1-8 鍋 山 の 井 堰 の す ぐ 上 の 山 に あ る 磨 崖 仏 不 動 明 王 像 同 じ よ う に 田 染 の 鍋 山 イ ゼ に は 三 宮 が 関 係 し て い る が 三 宮 は 南 北 朝 時 代 に 新 設 さ れ た の で は な く 稲 積 大 明 神 と 呼 ば れ る 神 社 が あ っ た と こ ろ に 湍 津 姫 命 が 祭 祀 さ れ 三 宮 に 編 成 さ れ た と 考 え ら れ る 鍋 山 イ ゼ の 上 に あ る 鍋 山 磨 崖 仏 は 稲 積 不 動 と い う 本 来 三 宮 す な わ ち 稲 積 大 明 神 と 磨 崖 仏 は 本 来 一 体 の も の で あ っ た と 考 え ら れ る 上 野 条 里 を 潤 す 鍋 山 イ ゼ は 位 置 を 変 え ら れ な い 場 所 に 存 在 し て い る こ の こ と か ら 水 源 と し て の 稲 積 大 明 神 が 磨 崖 仏 の 造 立 期 に 存 在 し て い た 可 能 性 は 高 い 一 宮 で あ る 元 宮 に 注 目 す る と 元 宮 に も 磨 崖 仏 が 存 在 す る こ の 磨 崖 仏 は 平 安 時 代 の も の で は な く 14 15 世 紀 代 の も の と み ら れ て い る 時 期 か ら み る と 田 染 の 三 社 体 制 が 出 現 し た 時 期 に 相 当 す る 市 場 の 御 旅 所 も 延 文 5 年 ( 1360) の 10 月 8 日 に 浮 殿 を 移 動 さ せ て 成 立 し た と あ る ( 田 染 村 誌 ) こ の こ と か ら 現 在 の 大 イ ゼ の 取 水 口 水 路 を 意 識 し た 神 社 と 浮 殿 ( 御 旅 所 ) の 配 置 は 南 北 朝 期 に で き あ が っ た と み て よ い だ ろ う 写 真 1-1-9 元 宮 の 境 内 横 に あ る 磨 崖 仏 し か し 大 イ ゼ か ら 戸 原 台 中 村 の 元 宮 中 村 嶺 崎 の 水 路 は 平 安 末 期 以 前 に 遡 る と み ら れ る そ れ は 大 門 坊 の 磨 崖 仏 群 の 存 在 で あ る こ の 磨 崖 仏 は 元 宮 の 磨 崖 仏 群 よ り 一 段 古 く 平 安 時 代 末 に も 遡 る そ の 場 所 は 大 イ ゼ の 取 水 口 か ら 200m ほ ど 下 っ た 場 所 の 山 際 に あ る こ の あ た り に は 大 応 寺 や 安 養 寺 な ど の 寺 院 が 点 在 す る 戸 原 台 の 集 落 は 古 く は 一 宮 の 神 宮 寺 な ど が 想 定 さ れ る 場 所 で あ る 大 門 坊 は そ の 中 心 部 と み ら れ 原 一 宮 も 大 イ ゼ と 密 接 に 関 係 し て い た こ と は 間 違 い な い Ⅰ- 12

写 真 1-1-10 大 門 坊 の 磨 崖 仏 間 戸 大 明 神 で あ る 二 宮 は 六 郷 山 寺 院 で あ る 間 戸 寺 と 関 係 す る 神 社 と み ら れ る 間 戸 寺 の 痕 跡 は 穴 井 戸 観 音 や 夕 日 岩 屋 や 朝 日 岩 屋 と し て 残 さ れ て い る が そ の 木 彫 仏 は 一 木 造 り が 相 当 数 残 り 平 安 時 代 末 に 遡 る こ こ に は 明 確 な 磨 崖 仏 は な い が こ の 神 社 も 六 郷 山 寺 院 と 一 体 に な っ た も の と し て 三 宮 と 同 じ よ う に 12 世 紀 に は 遡 る と 考 え ら れ る 二 宮 池 の 構 築 は 平 安 末 ま で は い か な い ま で も こ こ に は 小 崎 川 の 一 方 の 源 流 と し て 明 確 な 水 源 意 識 が あ っ た と 思 わ れ る こ の よ う な 水 源 意 識 が 明 瞭 に み ら れ る の が 熊 野 磨 崖 仏 で あ る 熊 野 磨 崖 仏 は 熊 野 川 の 源 流 に 位 置 す る 熊 野 権 現 が 応 現 し た 姿 と し て 大 日 如 来 と 不 動 明 王 の 磨 崖 仏 の 存 在 を 理 解 で き る 山 の 神 と し て の 熊 野 社 は 岩 盤 か ら 仏 の 姿 で 湧 出 す る 磨 崖 仏 は 岩 の 中 に 体 を 残 し て い る よ う に 顔 の 部 分 か ら 胸 の 辺 り ま で 明 瞭 に 彫 り 出 さ れ て い る が 次 第 に そ の 姿 は 岩 と 一 体 に な り 彫 が 消 え て ゆ く 当 初 下 部 が 崩 れ 欠 損 し た と も 考 え た が そ の よ う な 形 跡 は な い は じ め か ら 掘 り 出 し て い な い と 考 え ら れ る こ こ に 磨 崖 仏 の 本 質 が 見 え て く る 権 現 が 恵 み を も た ら す 仏 と し て 岩 に 現 れ た の が 磨 崖 仏 で あ り 熊 野 川 の 水 源 と し て そ の 下 流 の 里 の 水 田 の 恵 み を も た ら し た 田 染 荘 で は く ら し を 支 え る 水 の 源 と し て 鎮 守 が 存 在 し た 磨 崖 仏 や 岩 屋 の 木 彫 仏 な ど の 存 在 か ら み る と こ の よ う な 鎮 守 は 平 安 時 代 の 末 に は 明 確 に 登 場 し て い る そ れ が 南 北 朝 時 代 室 町 初 期 の 荘 園 の 再 編 郷 村 の 展 開 の 中 で 今 日 の ム ラ の 景 観 の 枠 組 み 写 真 1-1-11 熊 野 磨 崖 仏 左 : 不 動 明 王 ( 8m ) 右 : 大 日 如 来 ( 7m ) が ほ ぼ で き あ が っ て き た と い え る Ⅰ- 13

Ⅲ 神 領 興 行 の 舞 台 と な っ た 小 崎 の 谷 1 神 領 興 行 法 の 舞 台 1274 年 81 年 の モ ン ゴ ル 襲 来 は 元 軍 と 日 本 の 幕 府 軍 の 人 と 人 の 戦 い で あ る と 同 時 に 神 仏 の 戦 い と し て の 位 置 づ け が な さ れ た 社 寺 は 異 国 調 伏 の 祈 祷 を 盛 ん に 行 っ た 特 に そ の 中 で も 宇 佐 宮 を は じ め と す る 八 幡 系 の 神 社 が こ の 祈 祷 の 中 心 と な っ た モ ン ゴ ル 合 戦 の 後 窮 乏 し た 御 家 人 に 対 す る 救 済 策 と し て 徳 政 令 が 発 せ ら れ た が 神 も 同 様 に 貢 献 し た と い う 意 識 か ら 神 領 の 徳 政 令 す な わ ち 神 領 興 行 法 が 出 さ れ た 田 染 荘 で は 1313 年 か ら 数 年 に わ た っ て 盛 ん に 神 領 興 行 法 を 楯 に と っ た 旧 領 返 還 相 論 が 頻 発 す る 訴 人 は 宇 佐 宮 の 神 官 宇 佐 忠 基 と 定 基 で 訴 え ら れ た の は 本 郷 の 領 主 小 田 原 氏 と そ の 関 係 者 そ し て 吉 丸 名 地 頭 代 の 安 藤 入 道 西 願 糸 永 名 の 地 頭 曽 根 崎 氏 で あ る ま さ に 神 官 領 主 た ち に よ る 関 東 御 家 人 に 対 す る 巻 き 返 し に ほ か な ら な か っ た こ の 訴 訟 に よ っ て 忠 基 と 定 基 は 小 崎 の 谷 に 屋 敷 を 確 保 し 以 後 そ の 子 孫 が 田 染 氏 を 称 し こ こ が 宇 佐 宮 の 田 染 荘 支 配 の 拠 点 と な っ た 2 14 世 紀 初 頭 の 小 崎 の 谷 の 景 観 豊 後 国 田 染 荘 の 調 査 で 小 崎 地 区 は 中 世 の 景 観 を 今 に 伝 え る と 評 価 さ れ た 谷 の 入 口 中 央 の 台 薗 と ば れ る 集 落 は 高 山 の 尾 根 が 盆 地 に 出 て き た 先 に 位 置 し そ の よ う な 地 形 か ら 尾 崎 の 名 が 付 け ら れ た と 考 え ら れ る 1315 年 の 沙 弥 妙 覚 ( 田 染 定 基 ) の 田 畠 配 分 状 に よ れ ば 台 薗 に は お さ き の ミ と う そ の ( 尾 崎 の 御 堂 園 )と お さ き を 冠 す る 屋 敷 や 畠 が 7 か 所 い つ か の や し き ( 飯 塚 屋 敷 )と い つ か を 冠 す る 屋 敷 が 3 か 所 た め の ふ や し き ( 為 延 屋 敷 ) が 2 か 所 計 12 か 所 の 屋 敷 や 園 や 畠 が 確 認 さ れ る こ の 時 期 に は か な り 集 村 的 景 観 が 形 成 さ れ て い た こ と を 窺 わ せ る 写 真 1-1-12 田 植 え の 終 わ っ た 小 崎 Ⅰ- 14

図 1-1-5 田 染 荘 小 崎 谷 の 中 世 復 元 図 ( ク ロ ニ ッ ク 日 本 史 よ り ) こ の 時 期 の 水 田 開 発 に つ い て み る と 宇 佐 定 基 の 所 領 は イ ラ ス ト の 上 端 の ゆ み き り よ り 谷 の 奥 に は 存 在 せ ず そ こ が 水 田 開 発 の 限 界 点 と 考 え ら れ る 現 在 小 崎 の 水 田 へ か ん が い は 小 崎 川 な ど の 井 堰 や 池 を 中 心 と し た も の と な っ て い る し か し 荘 園 村 落 遺 跡 調 査 に よ れ ば あ か 迫 あ ま ひ き な ど の 耕 地 地 名 が 見 ら れ 赤 迫 に か か る ア マ ビ キ イ ゼ や 雨 引 の 湧 水 の 存 在 が 推 定 で き 愛 宕 池 や 空 木 池 な ど 大 き な 池 は ほ と ん ど な く 水 量 の 少 な い 小 崎 川 や 小 さ な 池 あ る い は 湧 水 に 依 存 し た い た こ と が 考 え ら れ る 当 時 の か ん が い 能 力 堰 や 水 路 の 能 力 か ら 推 定 す る と 長 距 離 の 水 路 は な く 谷 の 中 で も 水 不 足 で 畑 成 や 荒 地 に な る 部 分 が か な り の 比 重 を 占 め て い た と い え る 3 荘 園 の く ら し と 景 観 荘 園 の 耕 地 は 名 ( み ょ う ) と 呼 ば れ る 徴 税 単 位 に 編 成 さ れ て い た た と え ば 田 染 氏 の も つ 名 に 永 正 名 の 場 合 を み て み よ う 田 染 氏 は い わ ゆ る 名 主 で あ っ た が そ の 下 に 下 作 職 ( げ さ く し き ) を も ち 名 の 名 を 名 字 と す る 永 正 氏 が い て 年 貢 公 事 と い わ れ る 名 の 税 を 名 主 田 染 氏 の 手 を 通 し て 宇 佐 宮 に 上 納 し た Ⅰ- 15

こ の 永 正 名 の 耕 地 は 小 崎 の 谷 の い く つ か の 水 系 に 末 次 重 安 な ど の 名 の 水 田 と と も に 混 在 し て お り 同 一 水 系 に い く つ も の 名 の 水 田 が 存 在 し て い た 神 領 興 行 法 の 出 る 前 は 台 薗 の 集 落 に は い く つ か 名 の 屋 敷 が 存 在 し で い た が 神 領 興 行 法 の 後 は 田 染 氏 が 台 薗 の 集 落 を ま と め て 支 配 し 御 堂 園 な ど の 屋 敷 を 中 心 に 一 族 作 人 さ ら に 下 人 所 従 と い っ た 隷 属 民 を 動 員 し て 経 営 が 行 わ れ た と 思 わ れ る 田 染 定 基 が 神 領 興 行 法 で 得 た 耕 地 や 屋 敷 は 子 息 秀 基 ( 初 名 宣 基 )に 伝 え ら れ る が 定 基 が 武 家 に 属 し た た め 闋 所 と な り そ れ を 相 続 し た 田 部 氏 女 や そ の 養 子 と な っ た 宇 佐 宮 権 検 校 香 志 田 内 重 が 重 安 永 正 小 手 則 末 次 恒 任 名 の 相 伝 を 主 張 相 論 が 長 く 続 い た こ の 相 論 は 一 旦 延 文 5 年 ( 1360)に 香 志 田 内 重 か ら 去 状 が 出 さ れ 田 染 秀 基 が 契 約 状 を 作 成 し 終 息 す る こ の 年 田 染 言 基 ( 宣 基 )が 一 宮 の 浮 殿 を 現 御 旅 所 の 位 置 に 移 し 二 宮 三 宮 の 神 輿 が 新 造 さ れ た 田 染 三 社 体 制 が 成 立 し て ゆ く 背 景 に は 神 領 興 行 法 が 引 き 金 に な り 荘 園 の 名 の 再 編 が 進 み 大 友 氏 の 政 所 体 制 を 生 み 出 す 村 落 の 変 化 が あ っ た と み ら れ る 近 世 村 の 上 に 形 成 さ れ た 近 現 代 ま で 続 く 田 染 三 社 を 基 軸 と し た 今 日 の 景 観 の 骨 格 は こ の 段 階 に 形 つ く ら れ た と 考 え て い る が ま だ こ の 段 階 で は 村 に 相 当 す る も の は 未 完 成 で あ り 散 在 的 な 耕 地 を 基 本 と す る 名 が 収 取 や 経 営 の 主 体 と な っ て い た だ だ 鎌 倉 時 代 末 の 雨 引 社 の 存 在 や 愛 宕 池 の あ る 愛 宕 社 の 造 営 伝 承 ( 応 永 年 間 )や 空 木 池 の あ る 空 木 愛 宕 社 の 造 営 ( 宝 徳 年 間 田 染 325) は 小 さ い 単 位 の 灌 漑 共 同 体 の 出 現 を 窺 わ せ る し か し 海 老 沢 氏 は 推 定 す る よ う に 今 日 へ つ な が る 愛 宕 池 の 築 造 は 16 世 紀 と み ら れ 中 世 的 散 在 名 が 再 編 さ れ 大 曲 名 な ど に 象 徴 さ れ る 近 世 村 の 前 提 と な る 名 が 出 現 す る 時 期 に 大 き な 変 化 が 起 こ っ た と み る の が 妥 当 で あ ろ う そ の 意 味 で 今 日 の 景 観 の 基 本 は 近 世 の 村 を 基 本 に か た ち づ く ら れ て い る こ と は 疑 い な い こ と と い え る Ⅰ- 16

第 2 節 田 染 荘 小 崎 の 歴 史 概 要 1 田 染 荘 小 崎 の 景 観 形 成 の 歴 史 小 崎 地 区 の 景 観 の 骨 格 は 平 安 後 期 か ら 中 世 に か け て 田 染 荘 の 歴 史 と と も に 形 成 さ れ た 現 在 の 村 落 景 観 は 比 較 的 そ の 荘 園 村 落 の 景 観 を と ど め て い る が 近 世 か ら 現 代 ま で の 景 観 変 化 は 大 き な も の が あ る と 思 わ れ る そ こ で 近 世 前 期 か ら 現 在 ま で の 景 観 変 化 を 絵 図 地 籍 図 地 形 図 な ど に み え る 地 目 の 比 較 や 現 地 調 査 の 成 果 か ら た ど る ( 1 ) 小 崎 地 区 の 景 観 変 遷 Ⅰ 近 世 前 期 か ら 明 治 中 期 ま で の 景 観 と そ の 変 化 近 世 前 期 か ら 明 治 ま で の 村 落 景 観 に つ い て は 豊 後 国 田 染 荘 の 調 査 に お い て 出 田 和 久 氏 に よ り 復 元 考 察 が 行 わ れ て い る の で そ れ を 元 に 集 落 景 観 耕 地 景 観 水 利 構 造 に つ い て 完 結 に ま と め る 1 集 落 景 観 村 絵 図 ( 図 1-2-1 1-2-2) に は 小 崎 川 の 谷 の 入 り 口 に あ た る 字 上 ノ 原 に 16 軒 の 家 と 延 寿 寺 と お 堂 高 札 場 が 描 か れ て い る 描 か れ た 家 数 や 高 札 場 の 存 在 か ら こ れ が 小 崎 村 の 中 心 集 落 で あ っ た こ と が わ か る 他 に は 14 ヶ 所 に 1 ~ 6 軒 の 家 が 描 か れ て い る 村 絵 図 に 描 か れ た 家 数 は 集 落 の 規 模 を 反 映 し て い る と 考 え ら れ る の で こ の 小 崎 村 の 近 世 前 期 の 集 落 は 大 半 が 小 村 で あ り 字 上 ノ 原 の 集 落 の み が 集 村 的 で あ っ た 明 治 中 期 ( 図 1-2-3) と の 変 化 を み る と 字 堂 山 下 ノ 山 大 平 上 大 平 犬 ヶ 迫 の 5 つ の 小 集 落 が 姿 を 消 し 現 在 と 比 べ る と さ ら に 愛 宕 池 の 奥 の 字 弓 切 と 小 藤 の 入 り 口 の 字 合 畑 の 2 つ の 集 落 が 姿 を 消 し て い る こ れ に 対 し て 新 た に 出 現 し た の は 字 六 郎 園 の 集 落 だ け で あ る が こ れ は 上 ノ 原 の 集 落 の 外 延 的 拡 大 の 結 果 と し て と ら え る こ と が で き る 近 世 前 期 の 小 村 が 相 当 数 姿 を 消 し 一 方 上 ノ 原 の 中 心 集 落 が 北 隣 の 六 郎 園 へ と 拡 大 す る と と も に 小 崎 川 の 河 谷 が 幅 を 広 げ る 所 に 位 置 す る 原 の 集 落 が 大 き く 軒 数 を 増 加 さ せ て い る こ と か ら こ の 2 集 落 を 核 に 集 村 化 の 進 行 が み て と れ る 集 落 の 立 地 に つ い て み る と 上 ノ 原 と 原 の 両 集 落 は 台 地 上 に 位 置 し そ の 他 は い わ ゆ る 山 付 き で あ り 柳 田 國 男 の い う 片 平 の 地 に 立 地 し て い る と い え 伝 統 的 な 集 落 立 地 の あ り 方 を 示 し て い る 表 1-2-1 水 田 村 絵 図 地 籍 図 行 司 田 付 近 4 町 5.9ha 六 郎 園 付 近 1 町 6 反 2.6ha 原 付 近 8 町 7 反 9.9ha 大 平 付 近 4 町 3.2ha 小 藤 空 木 付 近 4 町 1 反 6.6ha Ⅰ- 17

2 耕 地 景 観 村 絵 図 を み る と 田 は 小 藤 空 木 な ど 最 上 流 部 に ま で 描 か れ て お り 近 世 前 期 に お け る 開 発 の 進 行 ぶ り が う か が え る 村 絵 図 と 明 治 中 期 の 田 の ひ ろ が り に は 谷 間 の 水 田 が 若 干 拡 大 さ れ た 以 外 は 基 本 的 な 差 異 は 認 め ら れ な い 出 田 氏 の 行 っ た 耕 地 面 積 の 比 較 を 表 に す る と 右 の よ う に な る 大 平 付 近 で 2 割 減 尐 し て い る 他 は 増 加 し て お り と く に 小 藤 空 木 六 郎 園 付 近 で の 増 加 が 6 割 と 大 き い が こ れ は 天 保 7 年 ( 1836)の 空 木 池 修 築 完 成 に よ る 両 地 区 の 水 利 好 転 に よ る 水 田 の 増 加 が あ っ た た め と 考 え ら れ る 小 崎 村 平 均 で は 2 割 強 の 増 加 と な る が 田 染 地 区 全 体 で は 元 禄 2 年 か ら 明 治 9 年 ( 1876)に か け て 5 割 ほ ど 増 加 し た の と 比 べ る と 小 さ い こ の よ う な 結 果 は 山 間 に あ る と は い え 比 較 的 傾 斜 の ゆ る や か な 土 地 が 広 い 小 崎 村 で は 中 下 流 部 を 中 心 に 開 発 が 中 世 か ら か な り 進 ん で い て 近 世 前 期 ま で に 開 発 可 能 な 土 地 の 多 く が す で に 開 発 さ れ て い て 新 た に 開 発 す る 余 地 が 尐 な か っ た こ と を 示 唆 し て い る 畑 は 村 絵 図 に は 74 ヵ 所 も 描 か れ て い る そ の ほ と ん ど が 短 冊 形 で 低 い 位 置 に あ る と 考 え ら れ る も の に 一 部 正 方 形 に 近 く 大 き め の も の も 見 ら れ る が 田 の 場 合 ほ ど 広 さ の 描 き 分 け は 見 ら れ な い た だ 位 置 に つ い て は 図 中 に 谷 線 や 尾 根 線 ら し き 線 を 入 れ て そ れ ら に 沿 っ て 畑 を 描 い て い る 場 合 も 多 く あ る 程 度 の 注 意 を 払 っ て い る 様 子 が う か が え る 北 隣 の 横 嶺 村 か ら の 道 沿 い に 描 か れ た 峯 や 赤 迫 付 近 の 畑 は 明 治 中 期 の 地 籍 図 で も 確 認 で き る ま た 等 級 や 面 積 が 記 さ れ 集 落 や 田 や 道 に 隣 接 し て 描 か れ た 普 通 畑 と 思 わ れ る も の を 除 い て も 30 ヵ 所 以 上 の ナ ギ ノ な い し 切 替 畑 が 存 在 し た よ う で あ る 図 1-2-1 元 禄 2 年 ( 1689) 村 絵 図 に よ る 村 落 景 観 復 原 図 ( 豊 後 国 田 染 荘 の 調 査 よ り ) Ⅰ- 18

3 水 利 構 造 村 絵 図 で は 小 崎 川 の 小 さ な 屈 曲 は 省 略 さ れ て 描 か れ て い る が 道 や 集 落 と の 位 置 関 係 か ら 判 断 し て 近 世 前 期 以 降 の 大 き な 流 路 変 更 は な か っ た よ う で あ る 図 1-2-2 元 禄 2 年 小 崎 村 絵 図 溜 池 に つ い て み る と 村 絵 図 に は 愛 宕 池 の 下 流 側 の 七 ツ 屋 あ た り に も 溜 池 が 描 か れ て い る が こ の 池 は 明 治 中 期 に は 姿 を 消 し て い る 現 在 こ の 池 が あ っ た と こ ろ は キ レ キ ケ と 呼 ば れ 池 の 痕 跡 を と ど め て い る 村 絵 図 に み え る こ の キ レ イ ケ か ら 出 て 小 崎 川 に 合 流 す る 水 路 は 現 在 で は 愛 宕 池 か ら の 水 路 と つ な が っ て 今 な お 機 能 し て い る ま た 現 在 空 木 部 落 の 上 流 に 空 木 池 ( 小 崎 池 ) が あ る が こ の 池 は 安 永 年 中 ( 1772~ 81) に 築 堤 の 議 が あ り 享 和 2 年 ( 1802)に 仮 堤 防 が で き て い た よ う で あ る が 大 修 築 を 行 な い 天 保 7 年 ( 1836) 春 に 完 成 し た こ れ に よ り 小 崎 村 の 水 路 事 情 は 好 転 し 干 ば つ の お そ れ も な く な っ た と い う 図 1-2-3 明 治 21 年 ( 1888) 地 籍 図 に よ る 近 代 初 頭 の 景 観 ( 豊 後 国 田 染 荘 の 調 査 ) よ り ) Ⅰ- 19

Ⅱ 明 治 中 期 か ら 昭 和 50 年 代 の 景 観 変 化 近 代 の 景 観 変 化 に つ い て は 明 治 の 地 籍 図 と 昭 和 47 年 測 量 の 森 林 基 本 図 ( 図 1-2-4) 昭 和 50 年 測 量 の 地 形 図 を 比 較 し ま た 聞 き 取 り に よ っ て 得 ら れ た 景 観 を あ わ せ て 示 す 1 水 田 景 観 平 地 の 水 田 景 観 は ほ と ん ど 変 化 が 見 ら れ な い が 山 間 部 に お い て 若 干 の 水 田 増 加 が あ る 特 に 字 大 平 七 ツ 屋 小 藤 で は 明 治 期 に 畑 地 で あ っ た 最 上 部 が 棚 田 と し て 開 墾 さ れ 水 田 が 増 加 し て い る ま た 愛 宕 池 上 字 弓 切 の 水 田 は 40 年 代 ま で は 記 さ れ て い る も の の 50 年 代 に 入 る と 植 林 地 の 記 載 と な っ て い る 2 畑 地 明 治 ま で ナ ギ ノ 切 替 畑 と し て 利 用 さ れ て い た 山 肌 の 畑 地 は 40 年 代 ま で は そ の 記 載 が あ る が 50 年 代 に は 果 樹 園 な ど の 記 載 に 変 わ っ て い る し か し そ の 利 用 用 途 に は 大 き な 変 化 が あ る 昭 和 30 年 代 ま で は 養 蚕 の た め の 桑 畑 で あ っ た よ う で あ る 特 に 字 赤 迫 の 上 方 は 全 て 桑 畑 と な っ て い て 現 在 の 山 林 景 観 と は 全 く 異 な っ た 景 観 が 広 が っ て い た 養 蚕 は 昭 和 30 年 代 に 衰 退 し 代 わ り に タ バ コ 栽 培 が 始 ま り 桑 畑 は タ バ コ 畑 に 変 わ っ た タ バ コ 栽 培 は 長 く は 続 か ず 植 林 が 進 み 現 在 は 椎 茸 栽 培 が 行 わ れ て い る 図 1-2-4 昭 和 47 年 森 林 基 本 図 Ⅰ- 20

Ⅲ 昭 和 57 年 か ら 現 在 に い た る 景 観 の 変 化 田 染 荘 域 で は 昭 和 56 年 よ り 圃 場 整 備 事 業 に 対 す る 総 合 調 査 事 業 と し て 大 分 県 風 土 記 の 丘 歴 史 民 俗 資 料 館 ( 現 大 分 県 立 歴 史 博 物 館 )の 国 東 半 島 荘 園 村 落 遺 跡 詳 細 分 布 調 査 が 開 始 さ れ た そ の 成 果 と し て 昭 和 61 年 に 豊 後 国 田 染 荘 の 調 査 が 刉 行 さ れ て い る 小 崎 地 区 に お い て も 昭 和 57 年 に 水 利 調 査 地 名 調 査 等 が 行 わ れ 水 利 灌 漑 に つ い て は 地 形 図 に 詳 細 に 記 録 さ れ て い る( 図 1-2-5 1-2-6) 今 回 の 文 化 的 景 観 の 調 査 で は 昭 和 50 年 に 作 成 さ れ た 地 形 図 に 昭 和 57 年 の 調 査 と 同 様 に 現 況 の 水 利 構 造 を 記 録 し た ( 図 1-2-7 1-2-8) 1 水 田 面 の 変 化 大 き な 変 化 と し て 平 成 10 年 に 嶺 崎 中 村 地 区 で 圃 場 整 備 が 行 わ れ 旧 来 の 水 田 景 観 は 失 わ れ 整 然 と し た 水 田 と 直 線 に 伸 び た 水 路 が 整 備 さ れ た 翌 11 年 に 小 崎 地 区 に も 圃 場 整 備 の 手 が 伸 び た が 豊 後 高 田 市 と 地 域 住 民 の 理 解 に よ り 農 水 省 の 田 園 空 間 博 物 館 構 想 事 業 を 導 入 し 小 崎 地 区 の 水 田 20ha は 圃 場 整 備 さ れ ず に 残 さ れ る に 至 っ た し か し な が ら 農 作 業 の 効 率 向 上 の た め 水 路 の 補 強 畦 道 の 拡 張 狭 地 直 し な ど が 行 わ れ て い る ま た 東 西 に 走 る 幹 線 道 路 の 設 置 は 旧 景 観 を 損 な う も の で あ っ た が こ れ も 文 化 財 保 護 の 運 動 に よ り で き る だ け 景 観 を 壊 さ な い よ う 配 慮 さ れ た 2 水 路 灌 漑 構 造 の 変 化 水 路 灌 漑 構 造 に つ い て は 田 空 事 業 の 導 入 に よ り 水 田 面 が 残 さ れ た こ と に よ っ て 大 き な 変 化 は 見 ら れ ず 基 本 的 に は 用 排 水 兼 用 の 水 路 を 保 ち 田 の 畔 を 切 っ て 水 を 隣 の 田 に 流 す 田 越 し 灌 漑 の 構 造 が 残 っ て い る し か し 水 路 は 溝 さ ら い な ど の 作 業 の 効 率 化 か ら コ ン ク リ ー ト で 補 強 さ れ 水 路 を 補 修 す る た め の 漆 喰 打 ち は あ ま り 行 わ れ な く な っ た ま た 字 原 の 水 田 で 水 利 構 造 の 改 変 が な さ れ て い る 特 に 幹 線 道 路 と 拡 張 さ れ た 畦 道 に 沿 っ て 水 路 が 改 変 さ れ そ れ に よ っ て 水 路 か ら 取 水 し 水 路 へ 排 水 す る 自 己 完 結 の 灌 漑 構 造 に 変 わ っ て い る 3 休 耕 田 の 増 加 夕 日 観 音 か ら 見 渡 せ る 部 分 つ ま り 田 空 事 業 が 導 入 さ れ た 部 分 に お い て は 休 耕 地 は ほ と ん ど な く 水 田 景 観 を 保 っ て い る し か し 小 崎 川 上 流 部 の 小 藤 空 木 の 谷 や 字 大 平 の 棚 田 で は 休 耕 荒 廃 が 進 ん で い る 小 藤 の 谷 で は 畠 地 へ の 利 用 が 見 ら れ る も の の 荒 地 と な っ て い る 区 画 が お お い 近 年 ホ タ ル 観 賞 の た め の 歩 道 が 整 備 さ れ た こ と に よ り 景 観 も 変 化 し た 愛 宕 池 裏 手 で は 植 林 と 椎 茸 栽 培 が 行 わ れ て い る 大 平 の 棚 田 は そ の ほ と ん ど が 休 耕 と な っ て お り 水 田 区 画 は 残 っ て い る が 植 林 が 始 ま っ て い る 基 本 的 に 愛 宕 池 の 水 を 利 用 し な い 水 田 に お い て も 同 様 の こ と が 進 行 し て い る Ⅰ- 21

図 1-2-5 Ⅰ- 22

図 1-2-6 Ⅰ- 23

図 1-2-7 Ⅰ- 24

図 1-2-8 Ⅰ- 25

Ⅳ 圃 場 整 備 事 業 と 村 落 共 同 体 の 変 化 田 染 荘 小 崎 地 区 で は 平 成 11 年 よ り 圃 場 整 備 が 行 わ れ る 予 定 で あ っ た が 農 水 省 の 田 園 空 間 博 物 館 構 想 を 導 入 し た こ と に よ り 寸 前 の と こ ろ で 中 世 以 来 の 伝 統 的 村 落 の 姿 が 残 さ れ た し か し な が ら 前 年 ま で に 隣 接 す る 嶺 崎 中 村 の 地 区 で は 圃 場 整 備 が 行 わ れ 地 形 に 合 わ せ た 小 区 画 の 水 田 は 整 然 と し た 大 区 画 の 水 田 へ と そ の 景 観 を 変 え た 田 染 荘 域 で は 早 く か ら 条 里 水 田 部 で 圃 場 整 備 が 行 わ れ は じ め 平 地 部 で は そ の ほ と ん ど に お い て 伝 統 的 村 落 の 景 観 は 失 わ れ て い る い ま だ 圃 場 整 備 が 行 わ れ て い な い 地 区 と し て は 熊 野 地 区 な ど の 山 間 の 谷 筋 真 木 地 区 の 水 田 の 一 部 な ど が あ る が そ う い っ た 中 で 小 崎 地 区 は 中 世 以 来 の 景 観 を 伝 え て い る こ と が 立 証 さ れ 文 化 財 と し て 守 ら れ た 重 要 な 景 観 地 区 で あ る と い え る こ こ で は 小 崎 地 区 と 圃 場 整 備 が 行 わ れ た 嶺 崎 地 区 を 比 較 し 圃 場 整 備 事 業 に よ っ て 伝 統 的 な 村 落 景 観 が 失 わ れ る 事 実 と そ れ を 構 成 し 守 っ て き た 村 落 共 同 体 に つ い て も 大 き な 変 化 を も た ら し て い る こ と を 明 ら か に す る 1 圃 場 整 備 事 業 に よ る 灌 漑 シ ス テ ム と 景 観 と 環 境 の 変 化 圃 場 整 備 と は そ れ ま で の 小 区 画 水 田 を 機 械 が 入 り 易 い よ う 大 区 画 に 整 備 し 区 画 ご と に 取 水 口 排 水 口 を 取 り 付 け る と い っ た 農 業 促 進 の た め の 事 業 で あ る そ れ ま で の 伝 統 的 な 水 利 構 造 は 小 崎 地 区 で 見 ら れ る よ う な 灌 漑 シ ス テ ム で 基 本 的 に 水 路 は 用 排 水 兼 用 田 一 枚 一 枚 が 連 結 し 上 の 田 か ら 下 の 田 へ 水 を 落 と す 田 越 し 田 通 し の 灌 漑 で あ っ た 圃 場 整 備 が 行 わ れ る と 水 路 は 用 水 路 と 排 水 路 に 分 離 さ れ 田 越 し 田 通 し の 灌 漑 シ ス テ ム は な く な り 用 水 路 か ら 取 水 さ れ た 水 は 隣 の 田 に 落 ち ず そ の ま ま 排 水 路 に 落 と さ れ る と い う 自 己 完 結 の 灌 漑 構 造 に 変 わ る 排 水 路 に 落 ち た 水 は 田 に 戻 る こ と は な く 川 へ 流 さ れ る 水 路 は 清 掃 に 手 間 が か か ら な い よ う に コ ン ク リ ー ト で 補 強 さ れ て い る こ の よ う な 仕 組 み は 作 業 の 機 械 化 効 率 化 を 促 進 し 水 田 経 営 の 向 上 を は 図 1-2-9 か る シ ス テ ム で あ る そ の 結 果 景 観 に つ い て は 地 形 に 合 わ せ て 形 成 さ れ た 小 区 画 の 伝 統 的 水 田 景 観 で あ っ た も の が 圃 場 整 備 を 行 な う と 整 然 と し た 大 区 画 の 水 田 景 観 に 変 化 す る 地 表 面 の 景 観 の み で は な く 水 田 一 筆 ご と に あ っ た シ コ ナ 小 名 な ど の 地 名 も な く な り 字 界 も 区 画 整 理 さ れ た 田 に あ わ せ て 変 わ っ て い る 畔 道 や 耕 地 の 中 に あ っ た 野 仏 や 墓 地 な ど の 文 化 財 は 道 筋 や 造 成 地 に 移 動 さ れ そ の 景 観 は 大 き く 変 わ っ て い く Ⅰ- 26

一 方 環 境 に つ い て も 大 き な 変 化 が 起 き る 推 測 さ れ る そ れ ま で の 田 越 し 灌 漑 水 田 用 排 水 兼 用 水 田 で は 直 接 も し く は 水 路 で 連 結 さ れ た 田 を 通 る ご と に 汚 れ が 浄 化 さ れ る そ れ に 対 し て 圃 場 整 備 後 は 水 の 大 量 使 用 や 用 水 路 と 排 水 路 が 完 全 分 離 さ れ た こ と に よ り 用 水 か ら 取 水 さ れ た 水 は 一 つ の 水 田 で 使 用 さ れ た 後 汚 れ た ま ま 排 水 路 に 落 と さ れ る 排 水 路 は 常 に 汚 れ た 水 が 流 れ 川 の 本 流 に 戻 さ れ 川 の 汚 染 を 起 こ す と い っ た こ と が 問 題 と な っ て い る ま た 水 路 と 水 田 面 に 高 さ の 差 が ほ と ん ど な い 旧 来 の 水 田 で は 魚 や ヤ ゴ な ど 水 生 昆 虫 が 水 路 を 経 て 他 の 水 田 へ 移 動 で き る 環 境 が あ っ た が 圃 場 整 備 後 の 用 水 路 は 水 田 面 よ り か な り 高 く 排 水 路 は 水 田 面 よ り 1 m 以 上 下 に あ る こ こ で は 水 田 間 の 生 物 の 移 動 が む ず か し く 水 田 で 生 き る 生 物 に と っ て 生 き に く い 環 境 と な る と い う 想 定 で あ る 水 質 汚 染 や 水 路 水 田 構 造 の 変 化 が 生 物 環 境 の 変 化 に ど の よ う に 影 響 を 与 え た の か に つ い て は 十 分 な 調 査 が 行 わ れ て い る と は い え な い 今 回 の 調 査 に お い て 明 ら か に す る 重 要 な 課 題 で あ る 2 圃 場 整 備 後 の 共 同 体 の 変 化 圃 場 整 備 に よ っ て 水 利 灌 漑 シ ス テ ム と 水 田 景 観 は 前 記 の よ う に 大 き く 変 え ら れ る が こ の よ う な 整 備 は 伝 統 的 景 観 を 構 成 し 守 っ て き た 村 落 共 同 体 に つ い て も 変 化 を も た ら し て い る ま ず 小 崎 地 区 に お け る 伝 統 的 村 落 共 同 体 の 姿 と は ど の よ う な も の で あ ろ う か 小 崎 地 区 で は 田 植 え 時 期 に 溝 さ ら い あ ぜ つ く り な ど の 共 同 作 業 が 行 わ れ る 田 一 枚 一 枚 が 連 結 し て い る 田 越 し 田 通 し の 灌 漑 シ ス テ ム た め 同 時 に 水 を か け る 田 植 え 稲 刈 り も 共 同 で 順 番 に お こ な っ た そ れ に あ わ せ た 雨 乞 い な ど の 祭 り も 共 同 行 事 で あ っ た 他 の 時 期 に は 草 刈 や 共 有 林 の 整 備 を す る 特 に 溝 さ ら い あ ぜ 作 り な ど は 水 の 共 同 利 用 の 意 識 か ら く る 共 同 作 業 で あ り 田 越 し 田 通 し の 灌 漑 シ ス テ ム か ら は ま さ に 水 を 紐 帯 に し た 共 同 体 が 形 成 さ れ て い る ま た 水 源 に あ る 雨 引 社 愛 宕 池 を 象 徴 す る 愛 宕 社 は 水 神 と し て 共 同 体 に よ っ て 祀 ら れ 田 植 え 後 の 感 謝 と し て ノ ロ ヨ コ イ が 集 落 ご と に 行 わ れ る 一 方 圃 場 整 備 が 行 わ れ た 嶺 崎 地 区 に お い て も 聞 き 取 り 調 査 を お こ な っ た 農 作 業 の 様 子 は 圃 場 整 備 が 行 わ れ 水 田 が 大 区 画 に 整 理 さ れ た こ と に よ っ て 大 型 機 械 が 導 入 さ れ ま た 自 己 完 結 の 灌 漑 シ ス テ ム に な っ た こ と で 自 分 の 都 合 の よ い 時 期 に 田 植 え が 行 え る こ と か ら 完 全 に 個 人 作 業 に 移 行 し て い る 水 路 が コ ン ク リ ー ト で 補 強 さ れ た こ と で 溝 さ ら い あ ぜ つ く り な ど の 共 同 作 業 も ほ と ん ど な く な り 共 同 体 と し て の 繋 が り は な く な り つ つ あ る と い う そ れ を 示 す よ う に 以 前 は 村 の 祭 り で あ っ た 高 良 社 の 祭 り や 風 祭 り は な く な っ た よ う で あ る 以 上 の よ う に 圃 場 整 備 が 行 わ れ る こ と に よ っ て 目 に 見 え る 景 観 の 変 化 の み で は な く そ れ を 維 持 し て き た 共 同 体 の 繋 が り そ の も の が 失 わ れ る こ と に な る 同 時 に 高 齢 化 機 械 化 な ど も 影 響 し 効 率 化 を 求 め る 現 代 農 村 へ 変 化 し て い く そ う い っ た な か で 小 崎 地 区 は 伝 統 的 な 景 観 が 守 ら れ そ れ に よ り 水 を 紐 帯 と し た 共 同 体 が 維 持 さ れ て い る こ と か ら も 文 化 的 景 観 と し て の 価 値 は 高 い Ⅰ- 27

( 2 ) 中 世 以 来 の 伝 統 的 な 水 田 地 割 を 踏 襲 す る 小 崎 地 区 の 水 田 景 観 Ⅰ 潅 漑 構 造 の 特 質 小 崎 地 区 の 水 田 は 小 崎 川 の 水 系 と そ の 支 流 の 原 川 水 系 の 水 系 に 井 堰 を 設 置 し 潅 漑 を 行 っ て い る 小 さ な 谷 で あ る が 数 十 メ ー ト ル に 一 つ の 割 に 堰 が 設 置 さ れ そ の 数 は 表 1 に あ る よ う に 異 常 に 多 い と い え る こ の こ と に よ っ て 一 つ の 井 堰 の 潅 漑 面 積 が 小 さ く 田 圃 の 畦 を 切 っ て 引 き 通 す 田 越 し 潅 漑 の 水 田 が 基 本 と な り 長 距 離 水 路 が 発 達 し て い な い 水 田 構 造 を 生 み 出 し た こ の よ う な 潅 漑 構 造 は 田 染 盆 地 の 周 辺 部 の 谷 部 で は 一 般 的 形 態 で あ っ た 近 世 河 川 の 水 量 を 安 定 的 に 補 う た め こ の 谷 の 奥 に 池 が 造 ら れ た 小 崎 川 の 空 木 池 原 川 の 愛 宕 池 が そ れ に 当 た る し か し 潅 漑 の 基 本 構 造 は 基 本 的 に 中 世 以 来 変 化 が な か っ た と 考 え ら れ る 国 東 で も 昭 和 50 年 代 後 半 か ら 圃 場 整 備 が 進 み こ の よ う な 灌 漑 体 系 や 水 田 地 割 が 失 わ れ て い っ た 田 染 で も 中 心 部 や そ の 周 辺 部 で こ の 事 業 が 進 め ら れ 景 観 が 変 化 し た 部 分 も 多 い が 小 崎 の 谷 は 通 常 の 整 備 を 行 わ ず 田 園 博 物 館 構 想 事 業 に よ っ て 伝 統 的 な 畦 畔 を 維 持 し 水 利 潅 漑 の あ り 方 を 維 持 し た 表 1-2-2 小 崎 地 区 の 井 堰 一 覧 小 崎 川 水 系 の 井 堰 名 ト ウ ゲ ノ シ タ 上 空 木 ム コ ウ ノ タ タ カ イ ワ ウ ツ ギ ウ ツ ギ シ タ ハ シ オ テ マ エ ダ ウ マ ノ カ ワ ゴ ウ バ タ ヒ ラ ト コ ヒ ラ バ タ タ ラ ハ レ フ シ ン ダ ケ ン ノ キ 山 ノ 口 赤 迫 ( ア マ ビ キ ) ヒ ジ ワ ラ ナ ガ ン タ シ ン ゴ ロ ウ オ ツ ボ マ ブ 上 ノ フ ロ ノ モ ト 廟 ノ 下 原 川 水 系 の 井 堰 名 ヤ ナ ガ ツ ボ バ バ シ タ ハ カ ノ シ タ ナ ナ ツ ヤ キ レ イ ケ オ ヤ マ 1 ~ 5 二 の 宮 下 池 の 井 堰 名 ゴ ク デ ン 山 ノ 口 イ ゼ 赤 迫 ( ア マ ビ キ ) イ ゼ Ⅰ- 28

ヒ ジ ワ ラ イ ゼ ナ カ ン タ イ ゼ シ ン ゴ ロ ウ イ ゼ オ ツ ボ イ ゼ マ ブ イ ゼ 上 ノ イ ゼ フ ロ ノ モ ト イ ゼ 廟 ノ 下 イ ゼ Ⅰ- 29

ナ ナ ツ ヤ イ ゼ キ レ イ ケ イ ゼ オ ヤ マ イ ゼ 1 オ ヤ マ イ ゼ 2 オ ヤ マ イ ゼ 3 オ ヤ マ イ ゼ 4 Ⅱ 水 田 灌 漑 と 地 名 地 割 鎌 倉 時 代 か ら 室 町 時 代 の 永 弘 文 書 に 見 え る 田 染 荘 の 史 料 に は 次 の よ う な 小 崎 地 区 の 水 田 地 名 が 見 え る こ れ ら は 小 崎 の 中 世 の 水 田 の 全 貌 を 示 す わ け は な い が す で に 述 べ た よ う に 小 河 川 か ら 簡 易 な 井 堰 に よ っ て 灌 漑 を 行 っ て い る 形 態 か ら み て 古 く か ら の 灌 漑 形 態 を 踏 襲 し て き て い る と 推 定 し て い る し か し 河 川 の 奥 の 池 が 造 ら れ た 近 世 以 降 と 今 日 の 状 況 は 大 き く 変 化 し て い な い と 考 え ら れ る が 中 世 の 段 階 で は 水 事 情 が や や 異 な っ て い た と 思 わ れ る 部 分 が あ る 中 世 で は 赤 迫 で は ア マ ビ キ の 天 水 が か り の 面 積 が 3 段 と 今 日 Ⅰ- 30

の 何 倍 も 多 い こ と が 注 目 さ れ る 今 日 赤 迫 の 水 田 へ の 水 供 給 は ア マ ビ キ 井 堰 を 基 本 と し て い る が 当 時 は ア マ ビ キ の 水 が 豊 富 で 天 水 が か り が ま だ 大 き な ウ エ イ ト を 占 め て い た 推 測 さ れ る 次 ぎ に 山 ノ 口 の 水 田 に 注 目 し て み よ う こ れ は 山 ノ 口 井 堰 か ら 灌 漑 さ れ た 水 田 で あ る が 小 崎 川 が 形 成 す る 谷 が 開 け る 起 点 に あ る 井 堰 で あ り 小 崎 の 谷 の 右 岸 1.5 ヘ ク タ ー ル の 幹 線 水 路 の 取 水 口 と な っ て い る 左 岸 の 起 点 井 堰 で あ る ア マ ビ キ 井 堰 と 対 を な し て い る が 中 世 で は 山 ノ 口 井 堰 よ り 下 流 あ る ヒ ジ ワ ラ イ ゼ や ナ ガ ン タ イ ゼ の か か り の 地 籍 字 原 は 水 田 地 名 と し て 見 え な い こ れ は 史 料 の 制 約 か ら 見 え な い こ と も 考 え ら れ る が 当 時 水 源 の 池 が な く 川 の 水 量 が 十 分 に 確 保 で き ず 井 堰 が 設 置 さ れ て い な い 可 能 性 を 推 測 さ せ る さ ら に お や ま 3 段 の 存 在 は 原 川 の オ ヤ マ イ ゼ の 存 在 を 推 測 さ せ る こ れ も 原 川 が 小 谷 か ら 小 崎 の 谷 に 出 る 地 点 に 設 置 さ れ た 堰 で あ る 5 箇 所 ( 現 在 は 1 箇 所 は 消 滅 )ほ ど に わ け て 全 体 を オ ヤ マ イ ゼ と い う 水 量 の 少 な し 川 か ら 簡 易 な 井 堰 で 1 段 以 下 の 単 位 で 灌 漑 し た と 推 定 さ れ る 表 1-2-3 小 崎 地 区 の 水 田 地 名 山 ノ 口 井 堰 が か り 末 次 名 の 内 山 口 2 反 山 ノ 口 1 段 廿 山 之 口 1 段 20 代 ア マ ビ キ 井 堰 が か り 末 次 名 の 内 赤 迫 1 段 20 代 永 正 名 の 内 赤 迫 1 段 あ か さ こ 1 反 10 永 正 名 田 地 分 赤 迫 3 反 い ヽ つ か の く わ の う ま ろ の 田 30 代 飯 塚 貴 船 免 30 代 ア マ ビ キ 天 水 雤 引 新 田 1 段 20 代 あ ま ひ き 荒 野 草 場 あ ま ひ き 3 反 30 代 分 フ ロ ノ モ ト 井 堰 が か り オ ヤ マ 井 堰 が か り 尾 崎 九 郎 い や し き 30 代 重 安 名 の 内 お や ま 3 反 天 水 ゆ み き り の 口 し ん か い 1 反 ヤ ケ ヤ マ 池 が か り い け の う ち 6 反 い け の う ち 一 所 5 反 以 上 の 事 実 か ら 川 の 水 量 を 調 整 補 完 す る 池 が 谷 奥 に 造 ら れ て い な い 中 世 の 時 代 は 小 崎 川 や 原 川 に は 十 分 な 水 量 が 確 保 さ れ て お ら ず 天 水 ( 湧 き 水 )の 依 存 度 が 高 く 井 堰 の 規 模 は 脆 弱 で あ っ た の で な か ろ う か そ の た め に 近 世 ほ ど 多 く の 井 堰 を 設 置 す る こ と が 困 難 で あ っ た こ と も 想 定 さ れ る こ の よ う な 前 提 で 豊 後 國 田 染 荘 の 調 査 の 海 老 澤 衷 氏 の 小 崎 の 水 田 に 関 す る 考 察 文 谷 池 に よ る 潅 漑 の 統 一 過 程 を 以 下 に 引 用 す る こ れ に よ っ て 小 崎 に お け る 中 世 か ら 近 世 さ ら に 近 代 の 変 化 を 概 括 し て み た い Ⅰ- 31

Ⅲ 池 に よ る 潅 漑 の 統 一 過 程 近 世 に 小 崎 村 と 呼 ば れ て い た 小 崎 地 区 は 明 治 8 年 よ り 明 治 22 年 に 至 る ま で 横 嶺 村 と 合 併 し 嶺 崎 村 と 称 し て い た そ の 後 7 ヶ 村 が 合 併 し 田 染 村 と な る が な お 大 字 嶺 崎 と し て 現 在 に 至 っ て い る 行 政 的 に は 近 世 小 崎 村 の 範 囲 が 田 染 第 2 区 と 呼 ば れ 地 区 選 出 の 区 長 が 置 か れ て 地 方 自 治 の 末 端 を 担 っ て い る 灌 漑 状 況 か ら 見 る と 東 側 の 水 田 の 一 部 を 除 い て 現 在 で は 総 て 小 崎 池 が か り と し て 把 握 さ れ て い る す な わ ち 近 世 村 落 の 範 囲 が ほ ぼ そ の ま ま 灌 漑 の 共 同 組 織 と な っ て い る の で あ る 貯 水 量 45,000 ト ン の 愛 宕 池 を 主 水 源 と す る も の で 灌 漑 面 積 は 26 町 2 反 5 畝 ( 昭 和 57 年 作 付 )で あ る 西 叡 山 ( 標 高 571m) 華 ヶ 岳 ( 593m) 烏 帽 子 岳 ( 494m)に 囲 ま れ 田 染 盆 地 の 中 で は 広 い 後 背 地 を 有 す る 部 類 に 属 す と い え よ う 空 木 小 藤 を 水 源 と し て 小 崎 川 と な り こ れ が 小 崎 地 区 の 幹 線 水 路 と な る 表 2 に 明 ら か な よ う に 元 禄 二 年 の 村 明 細 書 で は 池 掛 り が 12 町 5 反 歩 井 堰 掛 り が 10 町 2 反 5 畝 24 歩 天 水 が 6 町 歩 で あ っ た か ら 灌 漑 制 度 上 は 現 在 ま で に 井 堰 掛 り が 消 滅 し 池 掛 り に よ っ て 統 一 さ れ た こ と に な る 現 在 の 水 利 慣 行 に つ い て は 前 述 し て い る の で 重 複 を 避 け る が 元 禄 2 年 か ら 現 在 に 至 る 小 崎 池 掛 り の 統 一 過 程 に つ い て は い ま 一 度 検 討 し て お く 必 要 が あ ろ う な ぜ な ら 田 染 地 域 内 に お け る 水 利 体 系 の 変 遷 の 一 典 型 を 示 し て い る と 思 わ れ る か ら で あ る こ の 地 が 史 料 上 に あ ら わ れ て く る の は 鎌 倉 時 代 の 後 期 で あ る 灌 漑 の 状 況 そ の も の を 示 す 史 料 は な い が 正 和 4 年 ( 1315) 6 月 日 沙 弥 妙 覚 配 分 状 ( 田 染 荘 史 料 77 号 )に よ れ ば 所 領 の 水 田 名 と し て あ か さ こ ( 現 小 字 名 ) あ ま び き ( 現 神 社 名 井 堰 名 ) 山 口 ( 現 井 堰 名 小 字 内 地 名 ) ゆ み き り ( 小 字 名 ) い け の う ち ( 現 小 字 名 ) お や ま ( 現 井 堰 名 )が あ り 屋 敷 な ら び に 畠 地 と し て お さ き の ミ た う ( 台 薗 の 屋 号 ) ミ ス ミ は た け ( 台 薗 の 姓 ) い い つ か ( 台 薗 の 小 字 内 地 名 ) た め の ぶ ( 台 薗 の 屋 号 )が あ り 荒 野 と し て た た ら の は ら ( 現 小 字 ) が あ る ( 図 1-2-10) 図 1-2-10 小 崎 の 小 字 Ⅰ- 32

こ の う ち あ ま び き は 小 字 赤 迫 の 西 辺 で 現 在 雤 引 神 社 が 存 在 し 湧 水 の た め 前 面 の 水 田 は 湿 田 で あ り 灌 漑 制 度 上 の 天 水 で あ る 周 辺 の 水 田 ( 小 字 赤 迫 )は 近 く の 雤 引 井 堰 よ り 取 水 し て い る が 雤 引 神 社 前 の 水 田 は そ の 必 要 も な く 小 崎 池 が か り に も 加 入 し て い な い( 図 1-2-11) 正 和 4 年 の 沙 弥 妙 覚 配 分 状 で は 永 正 名 の あ ま ひ き が 荒 野 く さ は の ふ ん に 記 さ れ 史 料 に 闕 字 が あ っ て 明 瞭 で な い が 周 辺 に は 荒 野 が 存 在 し た ら し い し か し 永 仁 4 年 ( 1296)10 月 日 宇 佐 定 基 安 堵 申 状 ( 田 染 荘 史 料 51 号 )で は 一 永 正 名 雤 引 新 田 壹 段 貳 拾 代 自 亀 鶴 之 手 定 基 買 得 之 当 知 行 之 と あ り 宇 佐 定 基 ( 沙 弥 妙 覚 )の 買 得 し た 水 田 で あ る こ と が わ か る 現 状 か ら 判 断 し て 小 規 模 な 湧 水 灌 漑 に よ る 水 田 で あ り 周 囲 に は 若 干 の 未 開 地 が 存 在 し た と 推 定 さ れ る ま た 室 町 時 代 の 前 期 に 作 成 さ れ た と 推 定 さ れ る 田 染 荘 永 正 恒 任 名 坪 付 注 文 ( 永 弘 文 書 ナ 106= ク 74)に よ れ ば 永 正 名 田 地 分 と し て 一 所 三 反 卅 代 あ ま ひ き む か し ハ 年 貢 田 今 ハ 神 田 と あ り 永 正 名 の 田 地 が 3 反 ほ ど 存 在 し た こ と が わ か る あ か さ こ は 東 に 傾 斜 す る 沖 積 地 で 雤 引 井 堰 ( 赤 迫 井 堰 と も い う ) よ 図 1-2-11 あ ま び き 赤 迫 の 灌 漑 り 取 水 し 灌 漑 面 積 は 約 4 町 歩 で あ り 乾 田 が 大 部 分 を 占 め 小 崎 の 中 で も 最 も 安 定 し た 水 田 で あ る ( 図 1-2-11) 永 仁 4 年 の 宇 佐 定 基 安 堵 申 状 で は 一 赤 迫 参 段 田 内 壹 段 者 ( 白 ) 宇 佐 氏 女 字 初 生 子 之 手 定 基 買 得 之 当 知 行 之 一 末 次 名 内 赤 迫 壹 段 弐 拾 代 者 自 行 信 房 之 手 定 基 買 得 之 当 知 行 之 と あ り 末 次 名 内 の 1 段 20 代 と し て 含 ま れ て い な い 3 段 の 水 田 の 存 在 が 知 ら れ る ま た 正 和 4 年 の 沙 弥 妙 覚 配 分 状 で は お と あ い こ セ ん の ふ ん と し て 一 所 た し ふ の し ゃ う な か ま さ ミ や う の う ち あ か さ こ 一 反 と あ り こ の 段 階 で 永 正 名 の 水 田 が 最 低 1 段 は 存 在 し て い た 末 次 名 の 水 田 1 段 20 代 は そ の 後 延 文 4 年 ( 1359) の 田 染 荘 末 次 名 土 帳 案 ( 田 染 荘 史 料 184 号 ) で も あ か さ こ 一 所 一 反 廿 分 米 七 升 と あ り 確 認 さ れ る ま た 永 正 名 に つ い て は 田 染 荘 内 永 正 恒 任 名 坪 付 注 文 ( 永 此 内 一 反 ハ た う め ん 弘 文 書 ナ 106= ク 74) に 一 所 三 反 尻 一 反 ハ 寺 免 あ か さ こ と あ り 室 町 時 代 初 期 に は 3 段 ほ ど 存 在 し て い た 永 正 末 次 あ わ せ て 4 段 強 の 水 田 が 存 在 し て い た こ と は 確 実 で あ る 田 染 氏 に 関 係 し て い な い 赤 迫 の 水 田 も 存 在 し た も の と 思 わ れ る が 現 在 の 水 田 面 積 で あ る 4 町 に は 遠 く 及 ば す 鎌 倉 時 代 か ら 室 町 時 代 に か け て 開 田 さ れ て い っ た の は 現 在 の 半 分 に 満 た な い 程 度 で あ っ た と 推 測 さ れ る あ か さ こ の 水 田 は 間 違 い な く 井 堰 灌 漑 で あ る が 井 堰 か ら 遠 い 東 側 部 分 Ⅰ- 33

は 中 世 に お い て 十 分 潅 漑 さ れ て い な か っ た の で あ り 東 側 部 分 の 水 田 が 安 定 す る の は 天 保 7 年 ( 1836)に 空 木 池 が 完 成 し 用 水 の 供 給 に 余 裕 が で き て か ら の こ と で あ る と 思 わ れ る 既 述 の あ ま び き と あ か さ こ お よ び 山 口 は 近 接 し て い る に も か か わ ら ず 灌 漑 体 系 が 相 違 す る 点 に 留 意 す る 必 要 が あ ろ う 山 口 は 現 在 堂 山 橋 の 下 に 位 置 す る 山 ノ 口 井 堰 の 灌 漑 す る 水 田 で あ る そ の 潅 漑 面 積 は 1.8 ヘ ク タ ー ル で 小 崎 川 を 挟 み 赤 迫 に 面 し て い る ( 図 1-2-12) 原 の 集 落 の 崖 下 に 位 置 し 一 部 に 湿 田 が あ る ほ か は 総 て 乾 田 で あ る 正 和 4 年 の 沙 弥 妙 覚 配 分 状 で は 一 所 同 庄 す ゑ つ き の 山 口 二 反 と あ り 末 次 名 の 水 田 2 反 が 存 在 し た こ と が わ か り 明 応 4 年 10 月 吉 日 の 田 染 荘 重 安 名 図 1-2-12 山 口 井 堰 の 灌 漑 田 畠 坪 付 ( 田 染 荘 史 料 457 号 ) で は 壹 段 廿 代 山 ノ 口 と あ り 重 安 名 之 存 在 も 認 め ら れ る ま た 田 染 荘 永 正 恒 任 名 坪 付 注 文 で は 永 正 名 田 地 分 と し て 一 所 一 反 廿 山 之 口 と あ り こ の 地 に は 末 次 重 安 永 正 あ わ せ て 5 反 前 後 の 水 田 が 存 在 し て い た 現 在 の 灌 漑 面 積 が 1.8 ヘ ク タ ー ル に す ぎ な い の で 山 口 の 開 田 は か な り 進 展 し て い た も の と 思 わ れ る 山 ノ 口 井 堰 は 谷 の 開 口 部 に 位 置 し 落 差 を 得 る こ と が 容 易 な た め 水 路 を 短 く す る こ と が で き 井 堰 灌 漑 に は き わ め て 効 率 的 な 立 地 を 有 し て い る 中 世 の 井 堰 灌 漑 の 一 典 型 と 言 え る で あ ろ う ゆ み き り は 現 在 の 愛 宕 池 の 奥 に あ る 谷 水 田 で あ る ( 図 1-2-13) 日 照 時 間 が 短 く 決 し て 良 田 と は 言 え な い と こ ろ で あ る が 愛 宕 池 ( 当 時 は 存 在 し な か っ た と 思 わ れ る が ) の 水 源 と な る 湿 潤 な と こ ろ で あ り 用 水 が 不 足 す る こ と は な い 正 和 4 年 の 沙 弥 妙 覚 配 分 状 に 図 1-2-13 ゆ み き り の 水 田 は 一 所 同 ゆ ミ き り の 口 新 か い 一 反 と あ り こ の 地 が 新 開 地 で あ る こ と を 示 し て い る 鎌 倉 時 代 の 末 期 に お い て 田 染 定 基 の 所 領 は こ れ よ り 奥 の 谷 間 に は 存 在 せ ず ゆ み き り の 水 田 は 当 時 の 開 発 の 限 界 点 に あ っ た と い え る の で あ ろ う Ⅰ- 34

い け の う ち は 現 在 溝 上 水 利 組 合 に 属 す る 水 田 で あ り ヤ ケ ヤ マ 池 ( 貯 水 量 40,000t ) か ら 灌 漑 さ れ て い る ( 図 1-2-14) こ の 池 は 元 禄 二 年 間 戸 村 絵 図 に も 描 か れ て お り 谷 池 B に 分 類 さ れ る と こ ろ の も の で あ る し た が っ て そ の 成 立 は 中 世 に 遡 る こ と も 予 想 さ れ る し か し そ の 規 模 か ら 見 て 14 世 紀 以 前 に 遡 ら せ る の は 無 理 が あ ろ う た だ い け の う ち と い う 名 称 か ら 池 と の 深 い 関 連 が 予 想 さ れ 原 ヤ ケ ヤ マ 池 と も 言 う べ き 小 規 模 な 用 水 池 が 存 在 し た 可 能 性 も あ る と こ ろ で い け の う ち の 水 田 の 縁 辺 部 に 宝 珠 院 と い う 寺 が 存 在 し 民 家 も 太 平 洋 戦 争 前 ま で は 存 在 し た と い う 寺 跡 は 現 在 で も 遺 構 が 残 存 し て い る 元 禄 二 年 の 村 絵 図 ( 小 崎 村 )に は 堂 と 二 軒 の 民 家 が 描 か れ て い る 宝 珠 院 の 木 造 如 来 像 は 廃 寺 と な っ た 後 原 の 御 堂 に 移 さ れ た が 大 永 7 年 ( 1527) 9 月 24 日 の 銘 を 有 し て お り 池 の 内 の 集 落 は 中 図 1-2-14 い け の う ち の 灌 漑 1-2-14 い け の う ち の 灌 漑 世 近 世 近 代 の 長 い 期 間 に わ た っ て 持 続 し て い た こ と は 事 実 で あ ろ う し た が っ て 灌 漑 体 系 も 安 定 し た も の で あ っ た と 考 え ら れ る が 鎌 倉 時 代 よ り ヤ ケ ヤ マ 池 そ の も の の 灌 漑 と す る に は 躊 躇 せ ざ る を 得 な い 宝 珠 院 跡 の 下 に は 廃 池 が 現 存 し て お り こ の よ う な 小 池 が 集 合 し て 池 の 内 の 水 田 を 灌 漑 し て い た も の と 推 定 さ れ る 正 和 四 年 の 沙 弥 妙 覚 配 分 加 新 開 状 に は 一 所 同 庄 す ゑ つ き ミ や ウ の う ち い け の う ち 六 反 卅 定 と あ り い け の う ち 享 徳 2 年 ( 1453)5 月 3 日 の 田 染 荘 段 銭 請 取 状 に は 一 所 五 反 と あ り 日 付 い け の う ち 未 詳 の 永 弘 某 契 約 状 に は 重 安 末 次 両 名 の う ち と し て 一 所 五 反 と あ る し た が っ て い け の う ち に は 鎌 倉 時 代 か ら 室 町 時 代 に か け て 末 次 名 の 5 反 乃 至 6 反 程 度 の 水 田 が 存 在 し た こ と は 確 実 で あ る ま た そ の 灌 漑 は 谷 池 B ま た は 小 池 に よ る も の で あ る と 推 測 さ れ る Ⅰ- 35

お や ま は 現 在 愛 宕 池 よ り 流 れ る 水 路 ( 小 崎 川 の 支 流 )が キ レ イ ケ 井 堰 を 過 ぎ 山 際 を 通 過 す る と こ ろ に あ る 小 井 堰 群 の 総 称 で あ る ( 図 1-2-15) 井 堰 数 は 五 つ で 灌 漑 の 総 面 積 は 1.5 ヘ ク タ ー ル で あ る 正 和 4 年 の 沙 弥 妙 覚 配 分 状 に は 田 地 と し て 一 所 同 重 安 名 お や ま 三 反 と あ る こ の 水 路 ( 自 然 の 小 河 川 で あ る が )は キ レ イ ケ の 地 に 溜 池 が 築 造 さ れ て か ら 廃 絶 す る ま で の 間 は 特 に 大 き な 役 割 を 果 た し た で あ ろ う し か し そ れ 以 前 か ら 灌 漑 を 制 御 し や す い 小 河 川 で あ る た め 井 堰 が 造 ら れ 小 規 模 な 開 発 が 行 わ れ て い た も の で あ る 以 上 正 和 4 年 ( 1315)に 沙 弥 妙 覚 配 分 状 に 見 え る あ ま び き あ か さ こ 山 口 ゆ み き り い け の う ち お や ま の 6 箇 所 の 水 田 を 見 て き た そ の 結 果 14 世 紀 前 半 に お け る 重 安 名 末 次 名 永 正 名 等 の 水 田 の 灌 漑 は 湧 水 井 堰 溜 池 谷 水 に よ る も の と 様 々 で あ る が 一 つ の 特 徴 は あ か さ こ 山 口 の よ う に 谷 の 開 口 部 に 井 堰 を 設 け 小 沖 積 地 の 水 田 を 灌 図 1-2-15 お や ま の 灌 漑 漑 す る も の で あ る そ の 際 長 い 水 路 を 設 け ず 取 水 口 か ら 10 メ ー ト ル 程 度 で 最 初 の 水 田 に 水 が 掛 り あ と は 田 越 し で 灌 漑 さ れ る も の で あ る こ こ で 注 目 さ れ る の は 山 口 の 場 合 現 在 の 水 田 面 積 で も 1.8 ヘ ク タ ー ル に す ぎ な い と こ ろ に 末 次 重 安 永 正 の 三 名 が ひ し め て い る こ と で あ る ま た あ か さ こ の 場 合 に お い て も 永 ミョウ 正 名 重 安 名 の 両 者 が 存 在 し て い る 名 が 開 発 単 位 で あ る か 経 営 単 位 で あ る か 収 取 単 位 で あ る か は 重 要 な 問 題 で あ る が 田 染 荘 の 場 合 に は 数 段 歩 の 規 模 で 名 の 耕 地 が 散 在 し て い た こ と は 事 実 で あ り ま た 狭 小 な 地 域 に 数 名 が 集 中 し て い る こ と が あ る こ と も 事 実 で あ る 名 の 成 立 事 情 を 示 す 史 料 が な い た め 断 定 は で き な い が こ こ で は 二 つ の 可 能 性 を 提 示 し て お こ う 一 つ は 鎌 倉 時 代 後 期 田 染 宇 佐 氏 の 一 族 が 所 有 集 積 に 乗 り 出 す 以 前 そ れ ぞ れ の 名 は 開 発 の 単 位 で あ っ た と い う 想 定 で あ る そ の 場 合 名 主 た ち は 小 規 模 灌 漑 に よ る 開 田 の 可 能 な と こ ろ を 捜 し て 歩 き 見 つ け 出 し た と き に は 簡 単 な 施 設 を 設 置 し て 水 田 を 開 い て い く と い う も の で あ る そ の 際 一 つ の 灌 漑 体 系 を 独 占 的 に 一 人 の 名 主 が 支 配 す る と い う の で は な く む し ろ 共 同 利 用 す る 場 合 の 方 が 多 か っ た こ と が 今 回 の 調 査 結 果 か ら 結 論 づ け ら れ る こ の よ う に 散 在 し て い る 場 合 で も 名 そ の も の が 開 発 の 単 位 で あ る と い う こ と に か わ り は な い の で あ る 次 に 想 定 で き る こ と は 末 次 永 正 等 が 在 地 の 有 力 者 に よ っ て 買 得 集 積 さ れ た 耕 地 群 か ら 成 り 立 つ 名 の 場 合 で あ る こ れ は ま と ま っ た 灌 漑 体 系 の も と に あ る 小 地 域 の 水 田 が 複 数 の 有 力 者 に 分 割 さ れ て 譲 渡 売 買 さ れ た こ と を 意 味 す る Ⅰ- 36

す な わ ち 一 地 域 の 開 発 自 体 は 単 独 の 有 力 農 民 に よ っ て 行 わ れ た が ほ ど な く 開 発 単 位 と し て の ま と ま り は 失 わ れ て し ま っ た の で あ る 鎌 倉 時 代 後 期 に は 田 染 定 基 が そ れ ら を ま た 再 集 積 し た の で あ っ た そ の 際 名 を 一 括 獲 得 し て い る の で は な く 耕 地 片 を 直 接 の 対 象 と し て い る 点 は 注 目 さ れ る こ れ は 田 染 定 基 が 現 地 に 生 活 の 一 拠 点 を 設 け 農 民 を 直 接 的 に 把 握 し よ う と し て い た こ と を 意 味 し よ う 以 上 二 つ の 場 合 を 検 討 し た が ど ち ら に し て も 鎌 倉 時 代 後 期 に は 極 小 の 地 域 ( 多 く は 1 町 未 満 )に 数 名 が 集 中 し そ の よ う な と こ ろ が 小 崎 川 の 流 域 に 散 在 し て い る と い う 状 況 が 見 ら れ る の で あ る 散 在 す る こ れ ら の 極 小 の 開 発 単 位 は 互 い に 孤 立 し て い て 連 続 性 が な く そ の 間 に は 広 汎 な 荒 野 が 展 開 し て い る 以 上 が 小 崎 地 区 に お け る 鎌 倉 時 代 の 灌 漑 状 況 で あ る が 領 主 あ る い は 地 頭 に よ る 大 規 模 開 発 が 進 め ら れ る 以 前 の 原 初 的 な 開 発 状 況 を よ く 示 し て い る と 言 え よ う こ の 後 南 北 朝 期 を 通 じ て 田 染 宇 佐 氏 の 系 譜 は 宇 佐 宮 内 外 の 動 乱 に ま き こ ま れ 所 領 の 集 積 充 実 化 を 図 る こ と は 困 難 で あ っ た も の と 思 わ れ る 小 崎 地 域 に お け る 水 田 開 発 も 現 状 維 持 か あ る い は 小 規 模 な 開 発 に と ど ま っ て い た こ と は 確 実 で あ る こ の よ う な 状 況 に 転 機 を も た ら し た の は 室 町 期 に 入 り 田 染 地 域 を 基 盤 と し て 権 擬 大 宮 司 に ま で 昇 進 し た 宇 佐 栄 忠 の 出 現 で あ る 栄 忠 は 南 北 朝 期 の 宇 佐 宮 及 び 田 染 荘 の 混 乱 を 収 拾 し た 擬 大 宮 司 永 弘 重 輔 の 孫 に あ た る 重 輔 は 応 永 17 年 ( 1410) 番 長 職 お よ び 御 炊 殿 社 司 職 等 の 永 弘 氏 重 代 の 職 を 子 息 の 永 弘 光 世 に 譲 り ( 田 染 荘 史 料 234 号 ) そ れ と は 別 に 田 染 荘 内 永 正 名 恒 任 金 丸 光 並 行 成 須 加 牟 田 壹 町 等 を や は り 子 息 で あ る 永 弘 栄 重 に 譲 与 し た ( 田 染 荘 史 料 226 号 ) 永 弘 栄 重 は 田 染 氏 を 名 乗 り 応 永 24 年 ( 1417) ご ろ か ら 田 染 荘 内 で 活 動 し て い る こ と が 確 認 で き る 一 方 田 染 荘 内 の 神 領 と し て 大 き な 位 置 を 占 め る 重 安 末 次 両 名 は 応 永 29 年 ( 1422) に 下 宮 御 炊 殿 御 菜 米 と し て 寄 進 さ れ ( 田 染 荘 史 料 261 号 ) 永 弘 光 世 の 管 轄 下 に 入 る 正 長 元 年 ( 1428) 永 弘 光 世 は 子 息 栄 佐 に 番 長 職 以 下 の 所 領 お よ び 所 職 を 譲 る ( 田 染 荘 史 料 279 号 ) そ の 所 領 構 成 を 見 る と 田 染 荘 重 安 末 次 両 名 も 含 ま れ て い る が 最 も 詳 し い 既 述 が あ る の は 豊 前 国 下 毛 郡 の 本 自 見 名 に 関 し て で あ り 永 弘 氏 の 嫡 流 の 問 題 関 心 が ど こ に あ る か を 如 実 に 物 語 っ て い る こ れ に 対 し て 田 染 栄 重 は 田 染 荘 内 で の 活 動 を 続 け 子 息 栄 忠 は 永 享 10 年 ( 1438)に 宇 佐 宮 の 権 擬 神 主 と な る こ う し て 永 弘 氏 嫡 流 は 栄 佐 庶 流 田 染 氏 は 栄 忠 の 世 代 と な る が 文 安 元 年 ( 1444)に は 栄 佐 が 栄 忠 に 田 染 荘 内 の 6 反 の 土 地 を 本 物 返 し で 売 り わ た し て い る ( 田 染 荘 史 料 308 号 ) 両 者 の 田 染 荘 に 対 す る 姿 勢 の 差 を 如 実 に 示 す も の と 言 え よ う 康 正 2 年 ( 1456)に は 守 護 の 段 銭 賦 課 に 対 し て 田 染 荘 内 の 永 弘 方 沙 汰 と し て 三 貫 文 が 納 め ら れ そ の う ち の 一 貫 文 を 田 染 栄 忠 が 納 め て い る ( 田 染 荘 史 料 343 号 ) 田 染 荘 の 公 田 段 銭 は 応 永 24 年 ( 1417) に は 46 貫 文 文 正 元 年 ( 1466) に は 45 貫 文 で あ り 永 弘 氏 庶 流 の 荘 内 に お け る 位 置 が 知 ら れ る こ の よ う な 状 勢 に 変 化 が 起 き た の は 長 禄 2 年 ( 1458)の こ と で あ る こ の 年 の 5 月 永 弘 栄 佐 が 逐 電 す る 事 件 Ⅰ- 37

が あ り そ の 跡 を 田 染 栄 忠 が 継 承 す る こ と と な っ た の で あ る こ こ に 嫡 庶 の 立 場 が 逆 転 し 田 染 栄 忠 は 宇 佐 宮 の 番 長 職 を 手 中 に 納 め 田 染 荘 重 安 末 次 両 名 等 の 番 長 職 に 附 随 す る 所 領 も 支 配 す る こ と と な っ た の で あ る 栄 忠 は 栄 佐 の 子 で あ る 氏 輔 の 所 領 回 復 運 動 に 悩 み な が ら も 文 明 15 年 ( 1483) に は 権 擬 大 宮 司 に 補 任 さ れ る 文 明 19 年 ( 1487) 栄 忠 は 自 ら の 保 持 し た 所 領 の 公 験 を 整 理 し 目 録 を 作 成 し た ( 田 染 荘 史 料 445 号 ) こ の 目 録 は 重 輔 よ り 栄 忠 を 経 て 相 伝 さ れ た 永 正 恒 任 金 丸 光 並 行 成 の 各 名 と 須 加 牟 田 壹 町 の 公 験 を 中 心 と す る も の で あ る こ の う ち 一 通 正 和 弐 年 三 月 十 二 日 須 加 牟 田 之 御 下 知 前 上 総 介 平 朝 臣 御 判 と あ る 正 和 二 年 三 月 十 二 日 鎮 西 下 知 状 に つ い て は 正 文 が 現 存 し て お り( 田 染 荘 史 料 59 号 ) 田 染 定 基 が 小 田 原 氏 よ り 須 加 牟 田 の 田 地 の 返 付 を う け た も の で あ る こ と が わ か る こ の よ う に 鎌 倉 時 代 末 期 の 権 利 関 係 を 永 弘 重 輔 が 継 承 し さ ら に 栄 忠 へ と 受 け 継 が れ て い る こ と が わ か る し か し こ の 目 録 で は 長 禄 2 年 よ り 前 の 重 安 末 次 名 に 関 す る 文 書 が 存 在 せ ず こ の 年 両 名 が 宇 佐 宮 番 長 職 と と も に 栄 忠 に 安 堵 さ れ た に も か か わ ら ず そ の 権 利 関 係 を 裏 付 け る 公 験 は 渡 さ れ て い な か っ た こ と が わ か る 栄 忠 は そ の 生 涯 を 通 じ て 永 弘 家 に 伝 え ら れ た 田 染 荘 関 係 の 公 験 を 総 て 手 中 に 納 め て い た わ け で は 決 し て な か っ た の で あ る 庶 流 か ら 身 を 起 こ し た も の の 限 界 で あ っ た と 言 え よ う だ が 田 染 荘 を 拠 点 と し て 活 動 し な が ら 宇 佐 宮 の 要 職 を 占 め る よ う に な っ た こ と も 事 実 で あ り こ れ よ り 後 田 染 氏 一 族 は 近 世 後 期 に 至 る ま で 宇 佐 宮 神 官 団 に 名 を 連 ね る こ と と な る の で あ る 以 上 の よ う な 田 染 栄 忠 の 事 蹟 か ら す る と 長 禄 2 年 以 前 で は 永 正 恒 任 金 丸 光 並 行 成 の 各 名 と 須 加 牟 田 の 田 地 に 対 す る 支 配 が 主 な も の で あ っ た こ の う ち 小 崎 地 区 に つ い て 考 え て み る と 雤 引 あ か さ こ 山 口 の 地 に 永 正 名 が あ り 水 田 の 安 定 化 を 図 る 努 力 を 重 ね た で あ ろ う 既 述 の よ う に こ れ ら の 水 田 は 井 堰 灌 漑 と 湧 水 に よ る も の な の で 栄 忠 に よ る 長 禄 2 年 ま で の 所 領 支 配 の 中 で も 度 々 修 復 作 業 が 行 わ れ た で あ ろ う こ と は 想 像 に 難 く な い し か し よ り 大 規 模 な 工 事 が 行 わ れ る よ う に な っ た の は 長 禄 2 年 ( 1458)に 宇 佐 宮 番 長 職 を 継 承 し 重 安 末 次 の 両 名 を 手 中 に 収 め て か ら で あ る あ か さ こ に は 末 次 名 が 山 口 に は 末 次 重 安 の 両 名 の 存 在 し た こ と が 明 ら か で 灌 漑 の 単 位 を 一 円 的 に 支 配 す る 状 況 に 近 づ い た も の と 思 わ れ る ま た お や ま の 地 に は 重 安 名 3 反 の 水 田 が 存 在 し た が こ こ は 現 在 の キ レ イ ケ 井 堰 の 影 響 を 強 く う け る と こ ろ で あ 図 1-2-16 宇 佐 氏 居 館 の 周 辺 り 小 崎 の 居 館 に も 近 く ( 図 1-2-16) 統 御 の 容 易 な 小 河 川 で Ⅰ- 38

宇 佐 栄 忠 に と っ て 最 も 開 発 の 容 易 な と こ ろ で あ る し た が っ て キ レ イ ケ の 地 に 最 初 に 築 堤 さ れ た の は お そ ら く 宇 佐 栄 忠 の 時 代 で あ ろ う そ れ は 小 崎 の 地 が 原 初 的 な 灌 漑 か ら 脱 し た 第 一 歩 と し て 大 き な 意 味 が あ る と 言 え よ う さ ら に 時 代 が 下 る と 愛 宕 山 の 谷 に 第 二 の 池 が 築 か れ る 築 堤 の 下 限 は 小 崎 村 絵 図 に あ る よ う に 元 禄 2 年 ( 1689)で あ る が 上 限 に つ い て 明 確 に で き な い し か し 小 崎 上 ノ 原 の 地 が 本 格 的 に 城 郭 化 し た の が 16 世 紀 後 半 の 田 染 鎮 富 の 時 代 で あ る と 考 え ら れ る の で 愛 宕 池 の 築 堤 の 時 期 も こ の 頃 で あ る と 推 定 さ れ る 以 上 小 崎 地 域 を 中 心 と し て 中 世 の 状 況 を 見 て き た 谷 間 に お け る 小 沖 積 地 が 開 発 さ れ る 過 程 を 検 討 し て き た が 元 禄 二 年 の 村 絵 図 が そ の 到 達 点 を 示 し て い る こ と は 間 違 い な い 中 世 に お い て 重 安 末 次 両 名 の 田 畠 あ わ せ て 18 町 9 段 10 代 で あ り 屋 敷 26 箇 所 百 姓 12 箇 所 と さ れ て い る ( 田 染 荘 史 料 452 号 ) 百 姓 1 箇 所 あ た り 1 町 5 段 程 度 の 耕 地 と 屋 敷 2 箇 所 を 保 有 し て い る こ と に な る 田 染 荘 内 に お け る 宇 佐 宮 領 の 有 力 な 名 の 形 態 を 如 実 に 示 し て い る と 言 え よ う 重 安 末 次 両 名 は 現 在 の 大 字 蕗 嶺 崎 真 中 北 部 に 展 開 し た も の で あ る が 村 明 細 書 で は こ れ ら の 村 々 の 水 田 を 合 計 す る と 90 町 を 越 え る 小 崎 村 の 明 細 書 で は こ の 村 だ け で 28 町 7 反 ほ ど で あ り 16 世 紀 17 世 紀 に 全 面 的 な 開 田 が 進 ん だ こ と が わ か る 元 禄 2 年 の 段 階 で 池 掛 り が 12 町 5 反 と な り 井 堰 掛 り の 面 積 ( 10 町 2 段 174 歩 )を 上 回 り 枢 要 の 位 置 を 占 め る に 至 っ て い る ( 図 1-2-17) し か し こ の 頃 に は 用 水 の 不 足 が 深 刻 化 し 開 発 も 頭 打 ち と な っ た の で あ る 18 世 紀 に 入 る と 空 木 の 地 に 用 水 池 を 築 堤 す る 動 き が 見 ら れ る よ う に な る( 上 野 庄 屋 渡 辺 家 文 書 25 号 ) 安 永 年 間 よ り 築 堤 の 申 請 が 出 さ れ 享 和 2 年 ( 1802) 仮 堤 防 が 大 雤 に よ っ て 決 壊 し た と あ る こ と 図 1-2-17 元 禄 2 年 の 灌 漑 か ら す る と 天 明 年 間 の 頃 に は 空 木 地 区 を 灌 漑 す る 小 規 模 な 池 は で き あ が っ て い た も の で あ ろ う そ し て 天 保 7 年 ( 1836) 春 に 空 木 池 が 完 成 し た こ れ に よ り 峠 の 下 井 堰 よ り 上 ノ 原 井 堰 に 至 る 約 30 箇 所 の 小 崎 川 の 井 堰 が 一 つ の 水 利 体 系 に 統 合 さ れ る こ と と な っ た の で あ る こ の 空 木 池 は 谷 の 最 奥 部 に 近 い と こ ろ に 築 堤 さ れ た た め 貯 水 が 難 し く そ の た め 池 の 端 よ り 等 高 線 に 平 行 に 集 水 溝 が 伸 び て い る Ⅰ- 39

図 1-2-18 マ ブ 井 堰 の 灌 漑 空 木 池 と 前 後 し て 上 ノ 原 の 地 下 に マ ブ が 開 さ く さ れ マ ブ イ ゼ よ り 引 水 さ れ て 庄 屋 屋 敷 を 通 り 新 た に 水 田 が 開 か れ る こ と と な っ た こ の 庄 屋 屋 敷 に は 近 代 に 入 っ て 水 車 が 置 か れ た こ と が 知 ら れ て い る ( 図 1-2-18) 小 崎 地 区 は 天 保 年 間 以 降 二 つ の 池 掛 り に よ っ て 地 域 の 灌 漑 が 行 わ れ る こ と と な っ た が さ ら に オ テ イ ゼ の 完 成 に よ っ て 空 木 池 の 水 が 水 路 に よ っ て 愛 宕 池 に 貯 水 さ れ る よ う に な り 太 平 洋 戦 争 後 に は 愛 宕 池 よ り 雤 引 井 堰 に 落 ち る 水 路 も 完 成 し こ こ に 一 つ の 池 掛 り と し て 統 一 さ れ る に 至 っ た の で あ る 以 上 の よ う に 中 世 に お い て 散 在 す る 点 と し て 出 発 し た 小 崎 地 域 の 開 発 は ま ず 里 池 の 築 堤 に よ っ て 部 分 的 な 安 定 を 得 て 全 面 的 な 開 田 化 へ の 第 一 歩 を 踏 み 出 し 谷 池 B ( 愛 宕 池 ) の 築 堤 に よ っ て 沖 積 地 の 大 部 分 を 開 田 で き る よ う に な る さ ら に 谷 池 A( 空 木 池 )の 築 堤 に よ っ て 全 般 的 な 安 定 を 得 る が こ の よ う に 谷 池 に よ る 灌 漑 体 制 の 統 一 過 程 は 単 に 灌 漑 制 度 の 一 元 化 を 意 味 す る も の で は な く 谷 の 開 口 部 に 展 開 す る 沖 積 地 の 全 面 的 な 水 田 化 と 軌 を 一 に す る も の な の で あ る こ の 章 の 冒 頭 で 述 べ た よ う に 古 代 の 条 里 制 水 田 の 系 譜 を 引 く 桂 川 本 流 の 用 水 体 系 も 18 世 紀 に は ほ ぼ 限 界 に 達 し て い た 模 様 で あ り そ れ を 直 接 間 接 に 補 う べ き 谷 池 が 各 支 流 の 最 奥 部 に 造 ら れ 田 染 盆 地 全 体 を 漏 斗 と す る 灌 漑 体 制 が 明 治 維 新 以 前 に 既 に で き あ が っ て い た の で あ る 図 1-2-19 小 崎 池 が か り の 現 況 Ⅰ- 40

( 3 ) 中 世 か ら の 景 観 を 残 す 台 薗 の 屋 敷 地 割 と 文 化 財 Ⅰ 台 薗 の 屋 敷 地 割 田 染 小 崎 の 字 上 野 ノ 原 の 集 落 は 地 元 で は 台 薗 と 呼 ば れ て い る こ の 小 さ な 集 落 に は 浄 土 真 宗 寺 院 の 延 寿 寺 が あ る 延 寿 寺 縁 起 書 に よ れ ば 此 有 宇 佐 宮 于 時 左 近 大 臣 田 染 氏 者 住 于 大 薗 将 監 云 々 奉 公 武 之 命 移 本 宮 と 見 え 宇 佐 有 力 神 官 で あ る 田 染 氏 が 大 薗 ( 台 薗 ) に 屋 敷 を 構 え 居 住 し て い た が 公 武 の 命 を 承 っ て 本 宮 に 移 っ た と あ る こ の 宇 佐 田 染 氏 の 屋 敷 の 跡 に は 寛 永 18 年 ( 1641) に 真 宗 寺 院 光 隆 山 延 寿 寺 は 建 立 さ れ た の で あ る 田 染 氏 が 居 館 を 構 え た 時 代 を 示 す 遺 物 と し て 延 寿 寺 の 境 内 に は 宇 佐 ( 田 染 ) 栄 忠 が 応 仁 2 年 ( 1468) 造 立 し た 石 殿 が あ る 石 殿 と は 室 町 時 代 以 降 国 東 半 島 に 展 開 し た 独 自 の 石 造 物 で 入 母 屋 造 り の 屋 根 の 建 物 を 模 し 側 面 に 地 蔵 菩 薩 像 や 十 王 像 な ど が 彫 ら れ て い る 田 染 栄 忠 は 有 力 神 官 宇 佐 下 宮 番 長 永 弘 家 の 庶 流 で あ る が 宇 佐 神 宮 の 権 擬 大 宮 司 と い う 役 職 に 就 き 宇 佐 宮 の 重 職 と し て 活 躍 し た 栄 忠 は 田 染 の 大 曲 の 薬 師 堂 の 観 音 像 も 造 立 し 像 底 に は 辛 乙 文 明 十 三 年 丑 ( 1481) 九 月 十 大 檀 那 巳 栄 忠 と 見 え る ま た 延 寿 寺 の 境 内 に は 境 内 堂 と よ ば れ る 御 堂 が あ り 平 安 時 代 に 遡 る 風 化 の 激 し い 如 来 像 観 音 像 な ど の 一 木 の 像 が 安 置 さ れ て い る も と も と 廟 の 前 の 堂 と 二 宮 の 近 く の 阿 弥 陀 堂 に あ っ た も の を 移 し た も の と い わ れ て い る 廟 と は 宇 佐 田 染 氏 の 廟 と い わ れ こ れ も 田 染 氏 の 歴 史 を 今 に 伝 え て い る 文 化 遺 産 で あ る 一 方 景 観 面 に 注 目 す る と 延 寿 寺 の 北 側 の 道 沿 い に は 土 塁 跡 と 思 わ れ る 高 ま り が 十 数 メ ー ト ル 残 っ て い る ま た 南 西 の 角 に は 田 染 氏 の 屋 敷 明 神 と し て 祀 ら れ て い た と い れ る 稲 荷 社 が 鎮 座 し そ の 裏 寺 院 境 内 の 南 側 の 端 に は 土 塁 状 の 遺 構 が 残 り そ の 一 段 下 に は 境 内 地 の 平 坦 面 と は 2.5~ 5 メ ー ト ル の 比 高 差 の あ る 帯 郭 状 の 空 間 が 東 南 西 に 廻 っ て い る 豊 後 國 田 染 荘 の 調 査 で は こ れ ら を 豊 後 国 志 に あ る 田 染 重 ( 鎮 ) 富 ( 戦 国 末 の 人 物 )の 保 つ 小 崎 堡 ( 小 崎 城 ) の 遺 構 の 残 存 と み な し て い る 戦 国 時 代 の 小 崎 城 の 遺 構 と 思 わ れ る も の は 延 寿 寺 の 北 側 を 東 西 に 貫 き 廟 の 下 に 降 り る 道 沿 い に あ る 帯 状 の 低 い 平 坦 面 そ の 下 の 屋 号 東 家 の 西 北 の 角 に は 土 塁 状 遺 構 が 残 る ま た 集 落 の 北 側 の 渡 辺 公 明 家 の 屋 敷 の 北 西 に も 一 部 土 塁 状 の 高 ま り と 堀 状 遺 構 が 残 存 し て お り こ れ も 中 世 末 ま で 遡 る 遺 構 と 判 断 さ れ る 豊 後 國 田 染 荘 の 調 査 の 段 階 今 回 の 現 地 調 査 の お い て も こ れ ら は 鎌 倉 時 代 末 14 世 紀 初 頭 の 神 領 興 行 法 訴 訟 で 宇 佐 屋 敷 遺 構 以 来 の 屋 敷 地 割 り を 反 映 し て い る と 判 断 さ れ る 鎌 倉 幕 府 は 14 世 紀 の 初 頭 の 正 和 年 間 に 文 永 弘 安 の 役 以 来 異 国 調 伏 の 祈 祷 で 貢 献 し た 宇 佐 宮 に 対 し て 神 領 興 行 と い う 神 領 へ の 徳 政 令 を 出 し 神 官 ら の 旧 領 回 復 を 行 っ た こ の 法 に 基 づ く 訴 訟 は 田 染 荘 の 中 で も 起 こ り 宇 佐 宮 神 官 宇 佐 忠 基 定 基 は 小 崎 の 台 薗 の 屋 敷 を 含 む 末 次 永 正 重 安 糸 永 な ど の 名 の 田 地 を 回 復 確 保 す る こ と に な る こ の 宇 佐 忠 基 定 基 ( 法 名 妙 覚 )の 子 孫 が 田 染 栄 忠 や 鎮 富 へ 繋 が る 後 期 田 染 氏 と な る Ⅰ- 41

正 和 4 年 ( 1315)6 月 の 沙 弥 妙 覚 田 畠 等 配 分 状 を は じ め と し て 鎌 倉 か ら 室 町 時 代 の 史 料 に は 次 ぎ の 表 の よ う な 屋 敷 名 が 見 え る 表 1-2-4 鎌 倉 時 代 末 ~ 室 町 期 の 台 薗 の 屋 敷 畠 表 屋 敷 区 分 畠 屋 敷 名 畠 面 積 備 考 屋 敷 所 有 者 出 典 尾 崎 屋 敷 グ ル ー プ お さ き の み ど う そ の 5 反 尾 崎 三 郎 右 衞 門 入 77 道 行 信 同 い や 三 郎 の そ の 3 反 尾 崎 弥 三 郎 77 久 澄 同 日 五 郎 の そ の 2 反 尾 崎 五 郎 77 同 北 の い や し き 2 反 77 同 九 郎 い や し き 2 反 田 30( 代 ) あ り 77 お さ き の し ん 太 郎 入 道 ふ る お さ き の は た け 飯 塚 屋 敷 グ ル ー プ や し き い つ か の 屋 敷 飯 塚 屋 敷 3 反 少 宮 司 古 園 77 報 90 同 引 入 た う の そ の 2 反 77 同 た く ミ そ の 2 反 77 い ヽ つ か の ろ く ろ う か ふ る 77 や し き 飯 塚 三 郎 火 木 屋 敷 い つ か の 三 郎 貫 首 の い や し き 引 入 た う の そ の と 同 じ か 51 187 永 正 名 の う ち か ど の い や し き 1 反 台 薗 の う ち カ 77 為 延 屋 敷 グ ル ー プ 為 延 屋 敷 二 か 所 6 反 77 尾 崎 の 畠 同 ( お さ き ) の へ ら の 畠 3 反 77 尾 崎 の 畠 お さ き の ミ す ミ は た け み ね の 五 郎 つ く り 77 飯 塚 の 田 い ヽ つ か の く わ の う ま ろ の 田 30( 代 ) 77 飯 塚 の 田 飯 塚 貴 船 免 30 代 報 90 飯 塚 の 畠 同 ( い つ か ) は や し の 下 畠 2 反 77 飯 塚 の 荒 野 草 場 い ヽ つ か の く さ ば 幷 ま つ ば ら 7 7 飯 塚 の 芝 原 飯 塚 芝 原 大 畠 一 所 5 1 か と 居 屋 敷 の 畠 同 ミ な ミ の こ は た け 20 7 7 小 崎 は 鎌 倉 時 代 漢 字 で は 尾 崎 と 表 記 さ れ た こ れ は こ の 台 薗 の 集 落 が 高 山 の 山 麓 に 張 り 出 し た 尾 根 の 先 端 の あ る と こ ろ か ら 生 ま れ た 地 名 と 推 定 さ れ る 表 1-2-4 に あ る よ う に こ こ に は 鎌 倉 時 代 末 期 神 領 興 行 法 が 適 Ⅰ- 42

用 さ れ る ま で は 三 グ ル ー プ の 屋 敷 群 が 存 在 し た 尾 崎 屋 敷 グ ル ー プ に は 5 軒 の 居 屋 敷 と 1 軒 の 古 屋 敷 が 確 認 で き る 尾 崎 は 尾 根 状 台 地 の 先 端 を 示 す 地 名 で あ り ミ ド ウ ミ ス ミ の 地 名 屋 号 を て が か り に す る と 台 薗 集 落 の 中 央 を ほ ぼ 東 西 に 走 る 市 道 よ り 南 を 尾 崎 と 呼 ん だ こ と が 推 定 で き る 現 在 も 中 央 の 市 道 を 境 に 東 手 ( ヒ ガ シ デ ) 西 手 ( ニ シ デ ) に 区 分 さ れ 尾 崎 は 東 手 に 当 た る こ の 尾 崎 の 中 心 の 御 堂 園 の 場 所 に 田 染 氏 の 屋 敷 が 据 え ら れ た と 考 え ら れ る ま た 飯 塚 屋 敷 グ ル ー プ は 小 崎 の 公 民 館 の 一 角 に あ る 飯 塚 の 古 墓 の 名 か ら み る と 上 記 の 道 よ り 北 の 公 民 館 ま で の 一 帯 の 数 件 の 屋 敷 が 飯 塚 屋 敷 の 跡 と 推 定 さ れ る 為 延 屋 敷 二 カ 所 は 飯 塚 の 東 の 屋 号 タ ネ ノ ブ の 屋 敷 に 推 定 さ れ る こ の 二 つ が 今 日 の 西 手 に 当 た る 飯 塚 と 為 延 の 境 は 渡 部 公 明 家 と タ ネ ノ ブ の 河 野 英 樹 家 の 境 の 里 道 と 推 定 さ れ る 小 崎 の 台 薗 に は 現 在 屋 敷 跡 を 含 む 1 0 数 軒 の 家 が あ る が 今 日 の 屋 敷 区 画 は こ の 鎌 倉 時 代 の 屋 敷 地 割 を 踏 襲 し て い る と 見 ら れ る 永 弘 文 書 に よ れ が ば 尾 崎 に は 屋 敷 5 軒 と 畠 と し て 使 用 さ れ て い る 古 屋 敷 と ミ す ミ 畠 と へ ら の 畠 と 呼 ば れ る 畠 が あ っ た 屋 敷 5 軒 の 中 心 は 延 寿 寺 の 区 画 で あ り 屋 敷 区 画 の 北 西 の 角 に 石 殿 を 含 む 中 世 後 半 の 石 造 物 が 残 っ て い た こ こ は 奥 ま で 入 れ る と 5 反 ほ ど の 面 積 が あ る 寺 以 外 の 屋 敷 区 画 は 3 軒 ほ ど あ り 基 本 的 に 屋 敷 ご と に 屋 敷 荒 神 が あ り 五 輪 塔 な ど の 石 造 物 が 残 る ま た ミ ス ミ の 屋 号 が 残 る 北 と 南 を 市 道 里 道 で 囲 ま れ た 区 画 に は 現 在 5 軒 の 家 が あ り ナ カ ヤ ナ カ ン 屋 敷 と 呼 ば れ る 河 野 一 三 氏 宅 は 屋 敷 荒 神 と 中 世 の 石 造 物 が 見 ら れ 中 世 段 階 で 畠 だ け で は な く 屋 敷 の 存 在 を 示 唆 す る 遺 物 が 若 干 残 っ て い る 小 崎 公 民 館 の 横 に は イ イ ヅ カ と 呼 ば れ る 石 祠 五 輪 塔 群 ( 長 野 観 音 寺 跡 を 所 有 す る 田 染 家 が 所 有 )が あ る こ の 石 造 物 十 数 基 に は 天 文 6 年 や 弘 治 2 年 の 年 紀 を も つ 石 殿 が あ る こ こ が 飯 塚 屋 敷 区 画 の 北 西 の 角 に 当 た る と 思 わ れ る す で に 述 べ た よ う に 屋 号 タ ネ ノ ブ 河 野 英 樹 家 と の 境 に は 隣 の 六 郎 園 へ 向 か う 里 道 が あ る が こ れ が 屋 敷 の 東 境 と な っ て い た と 推 定 さ れ る こ の 区 画 内 に は 公 民 館 の 下 の 屋 敷 跡 区 画 の 北 西 の 端 や 公 民 館 の 裏 の 東 に 位 置 す る 渡 辺 公 明 家 に も 屋 敷 の 北 西 の 角 に 屋 敷 荒 神 と し て 祀 ら れ て き た 石 殿 や 中 世 の 石 造 物 が 見 ら れ る こ れ は こ の 屋 敷 地 割 が 中 世 か ら 踏 襲 さ れ て い る こ と を 示 す も の で あ ろ う ま た 飯 塚 屋 敷 の グ ル ー プ の 中 に あ る 屋 号 カ ド ヤ シ キ( 阿 部 武 則 家 )は 永 正 名 の う ち の か ど の い や し き 一 反 に 相 当 す る と も い わ れ て い る タ ネ ノ ブ の 屋 号 は 為 延 屋 敷 の 後 身 と 思 わ れ 屋 敷 の 北 に 石 祠 五 輪 塔 群 北 西 角 に 五 輪 塔 な ど の 残 欠 が 見 ら れ る こ の 屋 敷 の 裏 の 一 段 高 い 畠 に は 種 信 明 神 と 呼 ば れ る 屋 敷 荒 神 が 祀 ら れ て い た が 現 在 は 河 野 光 秀 家 に 移 さ れ て い る こ れ は た ね の ぶ 一 統 の 屋 敷 神 で あ っ た こ の タ ネ ノ ブ の 東 隣 が 庄 屋 屋 敷 ( 安 東 家 ) で あ る 台 薗 の 地 図 に 示 し た よ う に 現 在 残 る 集 落 の 主 要 な 道 は 尾 崎 屋 敷 尾 崎 ミ Ⅰ- 43

ス ミ 畠 の あ っ た 区 画 飯 塚 屋 敷 為 延 ( タ ネ ノ ブ )を 区 画 す る よ う に 存 在 し て い る こ の 中 世 鎌 倉 時 代 以 来 の 屋 敷 区 画 の 中 に は 少 な く と も 中 世 後 期 ま で 遡 る 屋 敷 荒 神 的 な 石 造 物 墓 が い く つ も 確 認 さ れ る こ の 事 実 か ら 小 崎 の 台 薗 の 屋 敷 地 割 は 中 世 そ れ も 鎌 倉 時 代 か ら の 地 割 を 踏 襲 し 今 日 に 至 っ て い る と み て よ い だ ろ う 小 崎 台 薗 の 集 落 は 鎌 倉 時 代 の 集 落 を 起 点 と し て 室 町 時 代 に は 田 染 氏 の 舘 を 中 心 に 屋 敷 区 画 が 整 備 さ れ そ の 痕 跡 と し て 屋 敷 の 土 塁 状 遺 構 が 残 さ れ て い る さ ら に 近 世 に 入 る と 田 染 氏 の 舘 の 跡 に は 浄 土 真 宗 延 寿 寺 が 建 立 さ れ 集 落 の 東 の 入 口 に は 庄 屋 安 東 家 の 屋 敷 が 造 ら れ 集 落 の 中 央 に は 高 札 場 が 設 置 さ れ た 現 在 の 景 観 は 直 接 的 に は こ の 近 世 の 景 観 を ベ ー ス と し て い る し か し 集 落 全 体 と し て 中 世 鎌 倉 時 代 ま で の 遡 る 地 割 石 造 物 な ど 伝 統 的 な 集 落 景 観 を 残 す 事 例 は 極 め て 珍 し い 図 1-2-22 元 禄 2 年 小 崎 村 絵 図 の 台 薗 の 部 分 図 1-2-23 台 薗 の 空 撮 写 真 図 1-2-24 小 崎 台 薗 の 地 割 と 石 造 物 図 Ⅰ- 44

延 寿 寺 の 文 化 財 図 1-2-25-1 小 崎 延 寿 寺 境 内 堂 延 寿 寺 に は 明 確 に 中 世 以 前 の 様 子 を 今 日 に 伝 え る 文 化 財 と し て 境 内 堂 の 木 彫 物 と 田 染 栄 忠 す な わ ち 宇 佐 栄 忠 の 名 が 刻 ま れ た 応 仁 貮 歳 の 石 殿 が あ る 図 1-2-25-2 延 寿 寺 の 石 殿 実 測 図 図 1-2-25-3 石 殿 の 軸 部 各 尊 像 実 測 図 Ⅰ- 45

1 2 3 延 寿 寺 西 北 の 土 塁 状 遺 構 延 寿 寺 石 殿 ( 応 仁 2 年 ) 田 染 舘 の 屋 敷 明 神 の 角 に あ る 中 世 石 造 物 元 は 北 西 角 の 石 造 物 群 の 稲 荷 大 明 神 ( 延 寿 寺 南 西 中 角 ) 4 5 6 ミ ド ロ の 石 塔 残 欠 土 塁 状 中 ヤ シ キ の 石 祠 と 五 輪 塔 イ イ ズ カ の 石 祠 五 輪 塔 遺 構 等 群 7 8 9 公 民 館 下 の 石 造 物 渡 辺 公 明 家 の 北 西 角 の カ ド の 屋 敷 の 屋 敷 神 石 祠 五 輪 塔 群 10 11 12 渡 辺 公 明 家 の 東 角 の 道 脇 屋 号 タ ネ ノ ブ ( 河 野 英 樹 ) 種 信 大 明 神 の 石 祠 の 石 祠 五 輪 塔 群 家 の 石 祠 五 輪 塔 群 元 は タ ネ ノ ブ 家 の 上 の 畠 に あ っ た 図 1-2-26 台 薗 集 落 の 中 世 に 遡 る 屋 敷 神 石 祠 石 造 物 群 Ⅰ- 46

A 地 点 延 寿 寺 の 土 塁 状 遺 構 と 市 道 タ ネ ノ ブ と 飯 塚 の 境 界 の 里 道 B 地 点 市 道 左 カ ド 屋 敷 渡 辺 公 明 家 北 の 土 塁 状 遺 構 と 堀 状 遺 構 と 里 道 B 地 点 中 屋 敷 と ヒ ガ シ の 間 の 里 道 延 寿 寺 の 南 西 角 に 残 る 土 塁 状 遺 構 図 1-2-27 集 落 の 屋 敷 区 画 と な っ て い る 道 や 土 塁 状 遺 構 Ⅰ- 47

Ⅰ- 48 図 1-2-28 水 田 景 観 を 構 成 する 要 素

番 号 所 在 長 さ 幅 高 さ 1 延 寿 寺 北 東 15.8m 2.5m 1.27m 2 延 寿 寺 北 27m 4m 1.7m 3 延 寿 寺 西 18.6m 3m 0.3m 4 延 寿 寺 南 東 17.5m 3m 0.3m 5 延 寿 寺 南 31.5m 4.5m 0.84m 6 冨 田 澄 彦 家 北 17m 2m 0.9m 7 渡 辺 公 明 家 北 31m 2.8m 1.7m 図 1-2-29 台 薗 集 落 土 塁 状 遺 構 位 置 図 Ⅰ- 49

Ⅱ 明 治 21 年 の 字 図 と 地 割 耕 地 が ど の よ う な 形 を し て い る の か 屋 敷 が ど の よ う な 形 の 土 地 に 建 て ら れ て い る の か 耕 地 や 屋 敷 の 地 割 は 景 観 の ベ ー ス を 形 成 す る も の と い え る な か で も 水 田 な ど の 耕 地 の 形 状 す な わ ち 地 割 は 景 観 を 構 成 す る 要 素 と し て 軽 視 で き な い 所 が あ ろ う 小 崎 地 区 の 場 合 耕 地 な ど の 地 割 を 歴 史 的 に 追 究 す る 時 基 本 的 に 明 治 時 代 作 成 の 地 籍 図 類 が 最 古 の 視 覚 資 料 と な る そ こ で 明 治 時 代 作 成 の 地 籍 図 を み て み る こ と に し よ う 明 治 時 代 に は 4 種 類 の 地 籍 図 が 作 成 さ れ た こ の う ち 現 在 目 に す る 機 会 が 多 い も の が 明 治 17(1884) 年 の 地 押 調 査 の 制 定 を 契 機 に 作 成 さ れ た 地 押 調 査 更 正 地 図 と よ ば れ る も の で あ る こ の 図 は 法 務 局 な ど に 所 蔵 さ れ 旧 土 地 台 帳 付 属 字 図 ( 以 下 で は 旧 字 図 と 呼 ぶ ) と も 称 さ れ て い る 小 崎 地 区 を 含 む 大 字 嶺 崎 の 旧 字 図 は 明 治 21(1888) 年 12 月 に 作 成 さ れ て い る 明 治 時 代 作 成 の 地 籍 図 は 原 則 と し て 一 筆 ご と に 測 量 し こ れ を 小 字 ご と に ま と め さ ら に 一 村 で ま と め て 作 成 し た と い う そ の た め 一 筆 図 字 限 図 全 村 図 の 三 種 の 絵 図 が つ く ら れ た と さ れ る が 旧 字 図 の 場 合 は 法 務 局 な ど に 所 蔵 さ れ て い る も の は 字 限 図 の み で あ る そ こ で 小 崎 地 区 の 地 割 に 関 し て 旧 字 図 を み る と 留 意 さ れ る 点 と し て 水 田 に 丁 二 な ど と 注 記 さ れ る 点 が 挙 げ ら れ る 一 例 を 挙 げ て み た い 字 下 ノ 山 は 延 寿 寺 な ど が あ る 台 薗 の 集 落 と 小 崎 川 を は さ ん だ 南 に 位 置 し 保 存 計 画 区 域 の 中 で も 中 心 と い う べ き 水 田 が 広 が る 小 字 で あ る こ の う ち マ ド タ の シ コ ナ が 残 る 同 字 の 2500 番 地 に は 丁 四 の 注 記 が あ る( 図 1-2-28) そ こ で 国 東 半 島 荘 園 村 落 遺 跡 詳 細 分 布 調 査 に お い て 作 成 さ れ た 現 況 地 形 図 を み る と 4 枚 の 水 田 か ら な り 特 に 最 も 西 側 に 位 置 す る 水 田 と こ れ に 隣 接 す る 水 田 は 60 cm の 高 低 差 が あ る ( 図 1-2-29) 図 1-2-28 旧 字 図 の マ ド タ 一 帯 図 1-2-29 マ ド タ の 現 況 地 形 図 ( 田 染 荘 調 査 附 図 よ り ) つ ま り 旧 字 図 の 注 記 丁 四 は 1 つ の 地 番 に 含 ま れ る 耕 地 の 枚 数 を 示 Ⅰ- 50

す も の と 推 測 さ れ る こ の よ う に み る と 旧 字 図 は 確 か に 明 治 時 代 の 地 割 を 知 る こ と が で き る 視 覚 資 料 で あ る が 現 地 の 状 況 を 直 接 反 映 し た も の で な い こ と が 確 認 で き る ( 2 ) 明 治 時 代 の 資 料 と 地 割 さ て 小 崎 地 区 を は じ め と す る 旧 田 染 村 域 に 関 し て は 多 く の 明 治 時 代 以 後 の 行 政 資 料 が 所 在 す る こ れ ら は 旧 田 染 村 役 場 が 所 管 し た も の で あ り 後 に 豊 後 高 田 市 田 染 出 張 所 に 伝 わ っ た も の で あ る ( 以 下 出 張 所 資 料 と 呼 ぶ ) そ の 中 で 注 目 さ れ る 記 録 が 2 件 あ る 1 つ は 新 旧 字 番 対 照 表 と 記 さ れ た 簿 冊 で あ る こ の 記 録 は 上 段 に 新 し い 地 番 と 小 字 名 そ の 下 段 に 古 い 地 番 と 小 字 名 を 記 し た も の で 旧 田 染 村 全 域 の 分 が 伝 わ る こ こ に 記 さ れ た 新 し い 小 字 名 と 地 番 は 旧 字 図 と 同 一 で あ る こ と か ら こ の 記 録 は 旧 字 図 作 成 時 に ま と め ら れ た こ と が わ か る ( 写 真 1-2-1) 写 真 1-2 - 1 新 旧 字 地 番 対 照 表 も う 1 つ は 地 引 絵 図 あ る い は 地 引 縮 絵 入 簿 と 題 さ れ た 簿 冊 で あ る ( 以 下 で は 地 引 絵 図 と 標 記 を 統 一 す る ) 標 題 は 統 一 さ れ て い な い が 内 容 は ま ず 一 筆 ご と の 測 量 図 を の せ そ の 裏 に 地 番 や 面 積 所 有 者 な ど を 記 し 水 田 に 関 し て は 一 筆 に 配 水 す る 溜 池 名 や 井 堰 名 が 記 さ れ る 場 合 が あ る た だ し こ の 地 引 絵 図 に 記 さ れ た 地 番 は 新 旧 字 番 対 照 表 で い う 旧 地 番 で あ り さ ら に 朱 字 で 元 ~ 番 と い う 記 載 も あ る あ る い は 村 名 が 嶺 崎 村 や 平 野 村 と い う よ う に 明 治 21(1888) 年 の 田 染 村 成 立 以 前 の 村 名 が 記 さ れ る こ と か ら 地 引 絵 図 は 旧 字 図 編 纂 時 も し く は そ れ 以 前 に 作 成 さ れ た も の で さ ら に い え ば 旧 田 染 村 域 で は 明 治 時 代 に 都 合 2 回 地 番 が 付 け 替 え ら れ た こ と も わ か る そ こ で 前 で み た 字 下 ノ 山 2500 番 地 を 地 引 絵 図 な ど で 確 認 し て み た い 同 地 は も と も と 字 下 山 で 明 治 21 年 以 前 の 地 番 は 1811 番 地 で あ る こ と さ ら に 元 は 237 番 地 で あ っ た こ と 面 積 は 1 反 5 畝 余 空 木 池 と 愛 宕 下 池 小 山 弐 番 堰 か ら 配 水 さ れ る 地 で あ る こ と そ し て 4 枚 の 田 か ら な る こ と が 確 認 で き る 地 引 絵 図 に は そ の 4 枚 の 水 田 の 実 測 図 が 載 せ ら れ て い る( 写 真 1-2-2) Ⅰ- 51

写 真 1-2 - 2 地 引 絵 図 に み る マ ド タ 写 真 1-2-3 地 引 絵 図 に み る マ ド タ ( 実 測 図 ) 前 に 示 し た 実 測 図 の 精 度 は 前 掲 の 図 2 と 異 な る こ と は い う ま で も な い し か し こ う し た 明 治 時 代 の 記 録 か ら 字 下 山 2500 番 地 は 明 治 時 代 前 半 か ら 現 況 と 同 様 に 4 枚 の 水 田 が 所 在 し た こ と 旧 字 図 の 注 記 は 1 つ の 地 番 に 含 ま れ る 耕 地 の 枚 数 を 示 す こ と が 改 め て わ か る さ ら に い え ば 同 地 は 明 治 時 代 前 半 か ら 昭 和 56 年 の 調 査 時 と 同 様 に オ ヤ マ 井 堰 の 潅 漑 範 囲 で あ っ た こ と が 確 認 で き る の で あ る こ こ で は 1 つ の 事 例 を み た わ け だ が 現 存 す る 地 引 絵 図 な ど の 諸 資 料 を み た 時 小 崎 地 区 に お け る 現 在 の 耕 地 の 地 割 は 基 本 的 に 明 治 時 代 前 半 ま で 遡 る こ と が で き る の で あ る こ の よ う に み て く る と 耕 地 な ど の 地 割 に 関 し て は 旧 字 図 が 重 要 な 視 覚 資 料 で は あ る が そ れ は 実 態 を 反 映 し た も の で は な い こ と が わ か る つ ま り 明 治 時 代 作 成 の 地 籍 図 や 土 地 台 帳 に お け る 一 筆 と し て 1 つ の 地 番 が 与 え ら れ て い て も そ れ が 実 際 に 水 田 一 枚 と は 限 ら な い 旧 字 図 な ど に 記 さ れ た 耕 地 の 形 状 は 実 態 を そ の ま ま 示 す も の で は な い の で あ る そ れ で も 旧 字 図 は 地 割 の 概 要 を 示 す と い う 点 に お い て は 重 要 な 視 覚 資 料 で あ る こ と は 間 違 い な い む し ろ 小 崎 地 区 を は じ め と す る 旧 田 染 村 域 の 場 合 地 引 絵 図 な ど の 他 の 行 政 資 料 に よ っ て 明 治 時 代 の 詳 細 な 地 割 や 潅 漑 体 系 な ど を 知 る こ と が で き る 点 で 貴 重 な 地 域 と い え る た だ こ う し た 地 引 絵 図 も 小 崎 地 区 全 域 に 関 し て 伝 わ っ て お ら ず 特 に 拠 点 集 落 で あ る 字 上 ノ 原 に 関 わ る 地 引 絵 図 が 現 在 の 所 確 認 で き な い 点 が 残 念 で あ る Ⅰ- 52

Ⅲ 田 染 荘 小 崎 地 区 の 文 化 財 田 染 荘 は 平 安 末 期 以 来 宇 佐 宮 本 御 荘 十 八 箇 所 中 の 一 つとして 存 続 した 荘 園 の 成 立 と ともに 田 染 一 宮 八 幡 社 が 勧 請 されたといわれ 以 後 二 宮 三 宮 が 分 祀 され 荘 鎮 守 として 三 社 は 信 仰 されてきた また 六 郷 山 の 仏 教 文 化 が 展 開 し 富 貴 寺 や 真 木 大 堂 熊 野 磨 崖 仏 など その 代 表 格 である 文 化 財 が 遺 されている 小 崎 地 区 は 田 染 三 社 の 中 で 間 戸 の 二 宮 八 幡 社 を 鎮 守 として 信 仰 している 神 社 はそ の 他 に 台 薗 ( 下 組 )の 鎮 守 雨 引 社 原 ( 中 組 )の 鎮 守 愛 宕 社 奥 組 の 鎮 守 奥 愛 宕 社 小 藤 の 三 島 社 が 集 落 の 鎮 守 として 存 在 する 朝 日 岩 屋 夕 日 岩 屋 を 代 表 とする 六 郷 山 の 岩 屋 が 岩 肌 に 露 顕 し 村 のお 堂 寺 院 寺 跡 などの 仏 教 施 設 も 多 く 遺 り 今 なお 地 区 の 住 民 によって 大 切 に 管 理 されている それらがいつから 存 在 したのか 定 かでないものも 多 いが 朝 日 岩 屋 夕 日 岩 屋 は 建 武 4 年 (1337) 六 郷 山 本 中 末 寺 次 第 幷 四 至 等 注 文 案 にその 名 が 見 えるので 少 なくともそれ 以 前 から 信 仰 されていたことがわかる また 寺 院 やお 堂 には 中 世 紀 年 銘 をもつ 石 造 物 や 平 安 仏 と 思 われる 木 彫 仏 がいくつかあり 歴 史 の 古 さを 物 語 っている 以 下 神 社 寺 寺 跡 堂 堂 跡 岩 屋 墓 地 のカテゴリに 分 け 由 緒 由 来 石 造 物 などの 文 化 財 といった 内 容 を 一 覧 に 示 す また 元 禄 2 年 (1689)の 小 崎 の 様 子 を 描 いた 小 崎 村 絵 図 に 記 載 されている 寺 社 堂 もあるのであわせて 記 載 する 表 1-2-5 名 称 所 在 地 内 容 文 化 財 絵 図 No. 神 社 寺 寺 跡 二 宮 八 幡 社 間 戸 田 染 三 所 八 幡 社 の 一 つで 小 崎 横 峰 間 戸 の 鎮 守 祭 神 は 湍 津 姫 命 雨 引 社 赤 迫 台 薗 地 区 の 鎮 守 祭 神 は 天 水 分 神 国 水 分 神 天 保 14 年 (1843) 銘 石 鳥 居 がある 愛 宕 社 多 々 良 原 七 ツヤ 地 区 の 鎮 守 祭 神 は 愛 宕 大 権 現 元 文 5 年 (1740) 銘 手 水 鉢 あり 奥 愛 宕 社 空 木 小 藤 空 木 枡 淵 堂 山 地 区 の 鎮 守 祭 神 は 愛 宕 大 権 現 三 島 社 小 藤 小 藤 地 区 の 鎮 守 祭 神 は 三 島 大 明 神 村 絵 図 では 山 神 と 記 載 観 音 寺 跡 長 野 田 染 氏 の 菩 提 寺 で 文 献 には 宝 陀 寺 ( 臨 済 宗 杵 築 市 大 田 )の 末 とみえる 寺 跡 には 天 正 9 年 (1581) 宗 方 銘 宝 塔 天 正 11 年 (1583) 息 雲 銘 墓 碑 天 正 14 年 (1586) 妙 銘 墓 碑 その 他 五 輪 塔 5 基 が 残 る 宝 珠 院 跡 池 の 内 宝 陀 寺 末 で 開 山 は 宝 陀 寺 開 山 悟 庵 智 徹 の 弟 子 であ る 隠 渓 和 尚 と 伝 わる 寺 跡 には 石 仏 龕 や 五 輪 塔 が 残 る 1 2 3 4 5 6 7 Ⅰ- 53

延 寿 寺 上 ノ 原 浄 土 真 宗 本 願 寺 派 の 寺 院 で 境 内 は 田 染 氏 居 館 跡 と される 応 仁 2 年 (1468) 銘 石 殿 宝 篋 印 塔 2 基 五 輪 塔 4 基 庚 申 塔 3 基 が 残 る 8 間 戸 寺 跡 間 戸 六 郷 山 本 山 末 寺 西 蓮 山 間 戸 寺 の 跡 寺 跡 に 石 造 二 重 塔 がある 9 間 戸 の 金 比 羅 竹 ノ 下 小 崎 の 下 組 が 祀 っている 神 小 高 い 丘 陵 地 に 祀 られ 石 祠 の 前 から 小 崎 地 区 の 良 好 な 景 観 を 見 下 ろせる 35 安 政 2 年 (1855) 銘 金 比 羅 石 祠 弁 財 天 峯 弁 財 天 像 五 輪 塔 2 基 がある 10 阿 弥 陀 堂 跡 池 の 内 通 称 阿 弥 陀 の 平 という 場 所 にあったが 現 在 堂 跡 は 不 明 付 近 の 崖 に 仏 龕 が 残 る 11 延 寿 寺 境 内 堂 上 ノ 原 延 寿 寺 の 境 内 にあるお 堂 阿 弥 陀 堂 や 廟 の 前 から 移 されたという 木 造 如 来 坐 像 聖 観 音 立 像 などが 安 置 さ 12 れる 原 のお 堂 原 原 地 区 のお 堂 で 大 永 7 年 (1527) 銘 のある 木 造 釈 迦 堂 堂 跡 岩 屋 如 来 坐 像 を 中 心 に 木 造 観 音 坐 像 石 造 弘 法 大 師 像 不 動 明 王 像 阿 弥 陀 如 来 像 薬 師 如 来 像 が 安 置 さ れる 堂 山 堂 堂 山 堂 山 地 区 のお 堂 で 石 造 阿 弥 陀 如 来 坐 像 を 安 置 す る 付 近 に 国 東 塔 五 輪 塔 がある 奥 の 堂 さま 米 山 米 山 地 区 にある 稲 荷 社 をいう 稲 荷 石 祠 鳥 居 は 近 世 のもの 他 に 石 造 釈 迦 如 来 像 地 蔵 坐 像 がそれぞ れ 石 祠 に 安 置 されている 鶏 亀 地 蔵 堂 空 木 奥 愛 宕 社 参 道 入 口 にあり 本 尊 は 鶏 亀 地 蔵 由 緒 に は 愛 宕 山 鶏 亀 地 蔵 とあり また 宝 徳 年 奥 愛 宕 社 棟 木 銘 に 愛 宕 勝 軍 地 蔵 堂 一 宇 とあるので 奥 愛 宕 社 の 本 地 仏 として 祀 られている 護 摩 堂 跡 大 堂 ゴマンドウと 呼 ばれる 堂 跡 五 輪 塔 13 基 道 祖 神 六 地 蔵 石 殿 石 仏 等 が 残 る 夕 日 岩 屋 竹 ノ 内 夕 日 観 音 と 呼 ばれる 六 郷 山 の 岩 屋 の 一 つ 石 造 地 蔵 菩 薩 坐 像 2 体 石 造 観 音 立 像 木 造 尊 名 不 詳 仏 立 像 等 が 安 置 されている 朝 日 岩 屋 旭 朝 日 観 音 と 呼 ばれる 六 郷 山 の 岩 屋 の 一 つ 洞 穴 前 に 堂 宇 があり 石 造 観 音 立 像 木 造 観 音 立 像 尊 名 不 13 14 15 16 17 18 19 Ⅰ- 54

詳 仏 像 数 体 等 が 安 置 されている ロッコさま 惣 ヵ 迫 惣 ヵ 迫 にある 岩 屋 尊 名 不 詳 仏 像 3 体 が 安 置 される 20 岩 屋 タガイ タガイにある 岩 屋 リョウさんが 岩 と 呼 ばれ 仏 像 と 思 われる 木 片 がある 21 茅 場 堂 空 木 空 木 にある 岩 屋 で 岩 屋 内 に 堂 宇 がある 石 造 薬 師 如 来 坐 像 地 蔵 坐 像 弘 法 大 師 像 焼 仏 等 が 安 置 され 22 ている 廟 の 前 上 ノ 原 田 染 神 主 家 の 廟 跡 という 五 輪 塔 数 基 近 世 墓 が 残 る 23 イイヅカ( 河 野 家 墓 地 ) 上 ノ 原 五 輪 塔 数 基 と 春 翁 という 銘 と 人 物 像 を 彫 刻 した 石 造 物 がある 他 には 天 文 9 年 (1540) 銘 石 殿 弘 治 2 24 年 (1556) 銘 石 殿 がある 空 木 渡 辺 河 野 家 墓 空 木 空 木 の 渡 辺 河 野 両 家 の 墓 地 25 小 藤 河 野 家 墓 地 小 藤 小 藤 の 河 野 家 の 墓 地 26 墓 地 枡 淵 河 野 家 墓 地 枡 淵 枡 淵 の 河 野 家 の 墓 地 27 枡 淵 後 藤 家 墓 地 枡 淵 枡 淵 の 後 藤 家 の 墓 地 28 愛 宕 加 藤 家 墓 地 多 々 良 代 々 山 伏 の 家 である 加 藤 家 の 墓 地 積 石 や 行 者 の 位 29 階 を 持 つ 墓 石 がある 七 ツヤ 入 会 墓 地 七 ツヤ 中 組 ( 原 )の 共 同 墓 地 30 赤 迫 入 会 墓 地 赤 迫 下 組 ( 台 薗 )の 共 同 墓 地 31 上 ノ 原 入 会 墓 地 上 ノ 原 下 組 ( 台 薗 )の 共 同 墓 地 32 上 ノ 原 冨 田 家 墓 地 上 ノ 原 上 ノ 原 の 冨 田 家 の 墓 地 33 池 の 内 墓 地 池 の 内 池 の 内 にある 墓 地 34 ( 下 線 部 は 景 観 要 素 として 特 に 重 要 な 中 世 石 造 物 ) Ⅰ- 55

図 1-2-30 田 染 荘 小 崎 文 化 財 分 布 図 Ⅰ- 56

Ⅲ 田 染 荘 小 崎 地 区 の 遺 跡 田 染 地 区 は 宇 佐 神 宮 の 荘 園 として 知 られて 池 部 横 嶺 条 里 遺 跡 上 野 条 里 遺 跡 などの 他 に 縄 文 時 代 から 近 世 にかけて 多 くの 遺 跡 が 分 布 している 小 崎 地 区 においては 縄 文 時 代 の 遺 跡 として 野 地 台 遺 跡 上 野 平 遺 跡 赤 迫 遺 跡 西 ケ 平 遺 跡 中 世 では 小 崎 城 跡 長 野 観 音 寺 跡 朝 日 夕 日 岩 屋 中 世 近 世 にかけて 原 遺 跡 が 周 知 されている 原 遺 跡 原 遺 跡 は 平 成 13 年 から 実 施 された 田 園 空 間 整 備 事 業 のコア 施 設 建 設 にともない 平 成 1 4 年 に 1,300 m2にわたり 発 掘 調 査 が 行 われた 発 掘 調 査 により 掘 立 柱 建 物 2 基 溝 3 条 土 壙 柱 穴 を 確 認 した 出 土 遺 物 は 少 なか ったもの 出 土 した 瓦 質 土 器 火 鉢 浅 鉢 から 遺 跡 の 時 代 は16 世 紀 前 半 と 考 えられる この 調 査 で 小 崎 地 区 の 開 発 史 を 垣 間 見 ることが 出 来 る 発 掘 当 時 の 原 遺 跡 原 遺 跡 周 辺 は 水 田 化 されおり 元 禄 二 年 (1689 年 )に 作 成 された 豊 後 国 田 染 組 村 々 絵 図 にも 水 田 として 記 載 がなされている しかし 今 回 の 調 査 により 原 遺 跡 は16 世 紀 頃 まで 集 落 と し 存 続 し その 後 17 世 紀 には 水 田 化 されたと 考 えられる 図 1-2-31 Ⅰ- 57

Ⅰ 58 図1-2-32 遺跡分布図 田染荘小崎地区景観計画区域遺跡分布図 烏帽子岳城 西ケ平遺跡 赤迫遺跡 原遺跡 尾崎屋敷跡 上野平遺跡 長野観音寺跡