1707 年 宝 永 地 震 と 大 坂 の 被 害 数 矢 田 俊 文 ( 新 潟 大 学 災 害 復 興 科 学 研 究 所 ) はじめに 本 稿 の 目 的 は 宝 永 地 震 による 大 坂 の 被 害 数 を 明 らかにすることである 宝 永 4 年 (1707)10 月 4 日 に 南 海 トラフ 周 辺 で 起 こった 地 震 は 宝 永 地 震 とよばれ 東 海 地 方 か ら 九 州 太 平 洋 沿 岸 地 域 を 中 心 に 大 きな 被 害 を 与 えた 津 波 は 大 阪 湾 にも 押 し 寄 せ 低 地 に 広 がる 大 坂 ( 現 在 の 大 阪 市 の 中 心 地 域 )は 大 きな 被 害 を 被 った 宝 永 地 震 の 直 前 にあたる 元 禄 12 年 (1699)の 大 坂 の 人 口 は 35 万 1708 人 と 推 定 されている (1) 17 世 紀 末 に 35 万 を 超 える 人 口 を 抱 える 大 坂 の 宝 永 地 震 による 被 害 数 を 導 き 出 すことは この 地 震 がもたらした 被 害 の 規 模 を 確 定 することになる しかし 宝 永 地 震 による 大 坂 の 被 害 数 を 確 実 な 史 料 を 用 いて 論 じている 論 文 はほとんどない (2) 確 実 な 史 料 のみで 宝 永 地 震 による 大 坂 の 被 害 を 推 定 した 研 究 には 西 山 昭 仁 氏 ほかによる 宝 永 地 震 (1707)における 大 坂 での 地 震 被 害 とその 地 理 的 要 因 (3) がある しかしこの 論 文 では 大 坂 三 郷 のひとつの 天 満 組 の 被 害 数 をもとに そこから 大 坂 三 郷 全 体 の 被 害 を 推 定 している 西 山 ほか 論 文 を 含 め これまでの 大 坂 三 郷 の 被 害 数 について 言 及 した 論 文 は 本 稿 で 用 いる 楽 只 堂 年 録 に 収 載 された 幕 府 への 被 害 報 告 書 のような 記 録 を 検 討 して 被 害 数 を 求 めたものではない そこで 本 稿 では さまざまな 幕 府 への 被 害 報 告 の 文 書 を 検 討 することによって 宝 永 地 震 による 大 坂 三 郷 の 被 害 数 を 確 定 していく 1 被 害 直 後 の 被 害 情 報 1 では 宝 永 地 震 直 後 の 幕 府 への 被 害 報 告 書 から 大 坂 の 被 害 数 を 検 討 する ここで 使 用 する 被 害 報 告 書 は 町 奉 行 所 や 幕 府 などの 組 織 へ 報 告 され 報 告 日 が 明 確 な 史 料 である 宝 永 地 震 が 起 こった 宝 永 4 年 10 月 4 日 から 2 日 後 の 6 日 までに 報 告 された 大 坂 町 奉 行 所 の 記 録 を 記 している 鸚 鵡 籠 中 記 の 記 事 (4)から 検 討 しよう 鸚 鵡 籠 中 記 は 尾 張 藩 士 朝 日 重 章 の 日 記 で ある 史 料 1 大 坂 崩 家 九 百 四 十 軒 余 死 人 二 百 六 十 四 人 落 橋 三 十 五 ヶ 所 内 北 組 崩 家 五 百 十 三 ヶ 所 死 人 百 廿 八 人 橋 十 四 ヶ 所 118
南 組 崩 家 二 百 六 十 軒 死 人 八 十 四 人 橋 損 し 十 五 ヶ 所 天 満 組 崩 家 百 六 十 ヶ 所 死 人 五 十 三 人 橋 六 ヶ 所 右 之 通 今 月 六 日 迄 大 坂 町 奉 行 衆 へ 書 上 御 座 候 史 料 1 には 大 坂 全 体 の 被 害 ( 崩 家 940 軒 余 死 人 264 人 落 橋 35 カ 所 )が 記 された 上 で その 内 訳 として 北 組 南 組 天 満 組 の 被 害 数 が 記 されている 大 坂 は 北 組 南 組 天 満 組 で 構 成 され そのため 大 坂 三 郷 といわれる 天 満 組 は 大 川 以 北 北 組 南 組 はおおよそ 本 町 通 りが 境 となってい る 地 域 である (5) 史 料 1 と 日 付 が 近 い 被 害 報 告 書 が 楽 只 堂 年 録 (6) にある 史 料 2 は 楽 只 堂 年 録 所 収 の 被 害 報 告 書 である 史 料 2 大 坂 町 中 崩 家 死 人 等 覚 一 崩 家 納 屋 土 蔵 共 凡 九 百 軒 程 一 死 人 男 女 凡 弐 百 六 拾 人 程 一 橋 破 損 又 ハ 落 申 候 分 凡 三 拾 五 六 ヶ 所 右 者 有 増 如 此 御 届 候 死 人 追 々 改 来 崩 家 等 未 吟 味 相 済 不 申 候 且 又 川 口 川 中 損 船 大 汐 ニ 而 行 方 不 相 知 又 者 破 損 致 候 外 御 座 候 得 共 是 又 改 相 済 不 申 候 此 外 摂 河 在 々 之 儀 未 相 知 不 申 候 委 細 之 儀 者 追 而 可 申 上 候 十 月 五 日 史 料 2 は 10 月 5 日 の 報 告 書 で 史 料 1 とほぼ 同 じ 時 期 の 報 告 書 である 史 料 2 によると 崩 家 等 が 900 軒 程 死 人 260 人 程 橋 破 損 落 橋 35 6 カ 所 とある この 被 害 数 は 史 料 1 の 崩 家 940 軒 余 死 人 264 人 落 橋 35 カ 所 という 被 害 数 と 極 めて 近 似 している 史 料 2 は 文 書 の 写 しである が 被 害 数 は 建 物 については 崩 家 納 屋 土 蔵 橋 については 橋 破 損 落 橋 と 記 され 詳 細 に 書 き 留 められていることから 史 料 2 の 方 が 信 頼 を 置 くことができる しかし 被 害 の 実 態 が 詳 細 である とはいえ 数 字 は 近 似 しているので 史 料 1 と 史 料 2 の 情 報 源 は 類 似 のものと 考 えられる 地 震 の 翌 日 の 10 月 5 日 に 把 握 された 大 坂 町 中 の 被 害 数 は 建 物 被 害 ( 崩 家 納 屋 土 蔵 ) 約 900 軒 死 人 約 260 人 橋 の 被 害 ( 破 損 落 橋 ) 約 35 6 カ 所 とすることができよう 10 月 5 日 に 把 握 された 被 害 状 況 は 極 めて 限 定 的 なものであり 史 料 2 にもそのことは 記 されてい る 史 料 2 によると 死 人 数 はおいおい 改 められることであろう 崩 家 等 についてはいまだに 調 査 が 終 わっていない また 大 阪 湾 の 川 口 川 中 の 破 損 した 船 は 津 波 に 流 されて 行 方 がわからなくな っている さらに 船 は 破 損 したであろうが その 破 損 状 況 の 調 査 も 終 わっていない 大 坂 三 郷 以 外 の 摂 津 国 河 内 国 の 被 害 状 況 は 不 明 である 詳 細 は 追 って 報 告 する と 記 される 史 料 2 から 読 み 取 れる 被 害 状 況 は 地 震 翌 日 の 5 日 に 把 握 されたものであることは 明 白 である したがって 大 坂 三 郷 の 被 害 の 全 体 像 を 指 し 示 すものとは 到 底 いえない 史 料 2 は 日 付 のある 文 書 で 幕 府 が 把 握 した 信 頼 のおける 情 報 であるが あくまでも 地 震 直 後 の 情 報 であり 被 害 の 全 体 像 を 示 す 史 料 ではないのである (7) 10 月 5 日 よりも 後 の 確 実 な 被 害 報 告 に よらなければ 大 坂 三 郷 の 被 害 の 状 況 はわからない 119
2 宝 永 地 震 の 大 坂 の 被 害 者 数 2 では 10 月 5 日 よりも 後 の 被 害 報 告 書 によって 大 坂 三 郷 の 被 害 状 況 を 把 握 したい 次 の 史 料 3 は 鸚 鵡 籠 中 記 の 記 主 朝 日 重 章 と 同 じ 尾 張 藩 士 天 野 信 景 が 書 いた 随 筆 塩 尻 巻 二 十 四 (8)で ある 史 料 3 摂 州 大 坂 地 震 之 惣 改 一 棟 数 六 百 三 軒 一 竃 数 一 万 百 軒 一 圧 死 三 千 六 百 廿 人 一 高 潮 溺 死 一 万 二 千 人 余 一 落 橋 廿 二 ケ 所 一 破 船 大 小 六 百 五 十 余 艘 塩 尻 には 史 料 3 の 摂 州 大 坂 地 震 之 惣 改 のあとに 紀 州 熊 野 地 震 改 が 記 される 摂 州 大 坂 地 震 之 惣 改 紀 州 熊 野 地 震 改 ともに 筆 者 の 解 釈 等 が 記 されていないことから この 部 分 は 摂 州 大 坂 地 震 之 惣 改 紀 州 熊 野 地 震 改 という 史 料 をそのまま 抜 き 出 して 書 き 写 したものと 思 われ る 史 料 3 の 棟 数 は 役 数 ( 課 税 の 単 位 課 税 される 家 の 数 )で 竃 数 は 世 帯 数 である (9) 棟 数 よりも 竈 数 を 把 握 することが 大 坂 の 被 害 状 況 を 知 るためには 重 要 となる 史 料 3 によると 被 害 数 は 棟 数 ( 家 数 )603 軒 竃 数 ( 世 帯 数 )10,100 軒 圧 死 者 3,620 人 溺 死 者 12,000 人 余 落 橋 22 カ 所 と なる 史 料 3 の 被 害 情 報 に 記 される 被 害 数 と 同 様 の 数 値 が 記 された 史 料 として 次 の 鸚 鵡 籠 中 記 の 記 事 ( 史 料 4)がある 史 料 4 町 方 竈 数 一 万 六 千 余 潰 落 橋 二 十 六 ヶ 所 廻 船 川 内 にて 破 損 三 百 二 十 二 艘 但 八 百 石 以 下 の 小 船 不 知 数 地 震 にて 圧 死 三 千 六 百 三 十 人 高 浪 にて 溺 死 一 万 二 千 百 人 余 是 は 地 震 後 浜 近 所 の 輩 又 地 震 あらん 事 を 恐 れ 皆 々 船 に 乗 り 及 金 銀 財 宝 を 積 入 罷 在 候 処 に 申 半 刻 高 浪 来 りて 川 口 にかけ 置 たる 大 船 高 浪 に 乗 して 矢 の 如 くに 来 る 此 船 の 下 へ 人 の 乗 たる 小 船 皆 入 て 圧 れ 溺 死 する 也 或 は 地 震 の 節 橋 等 渡 りかゝりて 死 するもあり 右 は 今 月 十 日 迄 之 書 上 也 此 外 船 に 大 分 死 人 有 之 一 々 不 遑 数 之 十 日 の 評 定 には 二 万 人 の 余 と 云 々 史 料 4 は 鸚 鵡 籠 中 記 の 記 事 で 史 料 1 で 紹 介 した 大 坂 町 奉 行 衆 へ 書 上 げた 被 害 状 況 の 報 告 書 に 続 く 記 事 である 史 料 4 をみると 大 坂 の 被 害 は 竃 数 ( 世 帯 数 )16,000 軒 余 圧 死 者 3,630 人 溺 死 者 12,100 人 余 落 橋 26 カ 所 とある この 数 字 は 史 料 3 の 竃 数 10,100 軒 圧 死 者 3,620 人 溺 死 者 12,000 人 余 落 橋 22 カ 所 に 近 似 している 圧 死 者 溺 死 者 の 数 はほぼ 同 じである ち なみに 史 料 4 の 後 には 紀 州 熊 野 地 震 改 (10) にもとづく 記 事 があるが 鸚 鵡 籠 中 記 の 紀 州 の 被 害 数 も 随 筆 塩 尻 の 数 値 と 同 じである 塩 尻 と 鸚 鵡 籠 中 記 の 宝 永 地 震 記 事 を 検 討 した 鵜 飼 尚 代 氏 (11)は 塩 尻 と 鸚 鵡 籠 中 記 に 類 似 の 記 事 があることから 両 者 の 間 に 情 報 の 流 れがあったと 推 定 している 史 料 3 と 史 料 4 を 120
比 較 しても 両 者 は 情 報 源 を 同 じにしていると 考 えてよいと 思 う さて 史 料 4 には 竃 数 圧 死 者 溺 死 者 落 橋 等 の 情 報 は 今 月 十 日 迄 之 書 上 に 基 づくもの であると 記 されている 史 料 2 の 楽 只 堂 年 録 は 幕 府 に 送 られた 被 害 報 告 書 である 史 料 1 も 史 料 2 と 数 値 が 近 似 していることから 幕 府 に 送 られた 被 害 報 告 書 であり それを 尾 張 藩 が 入 手 したも のと 思 われる 史 料 1 と 史 料 4 はともに 鸚 鵡 籠 中 記 の 記 事 であることから 史 料 4 の 大 坂 の 被 害 報 告 書 は 幕 府 経 由 の 情 報 と 考 えてよかろう さらに 10 月 10 日 迄 とあり 史 料 2 の 5 日 後 の 報 告 書 であることがわかる 被 害 数 は 史 料 2(10 月 5 日 )では 建 物 被 害 ( 崩 家 納 屋 土 蔵 ) 約 900 軒 死 人 約 260 人 橋 の 被 害 ( 破 損 落 橋 ) 約 35 6 カ 所 となっていたものが 史 料 4(10 月 10 日 迄 )では 竃 数 16,000 軒 余 圧 死 者 3,630 人 溺 死 者 12,100 人 余 落 橋 26 カ 所 となっていて 数 字 が 大 幅 に 増 えている 落 橋 の 箇 所 は 減 っ ているものの 死 者 数 は 圧 死 者 約 260 人 から 圧 死 者 3,630 人 溺 死 者 12,100 人 余 へと 実 に 約 60 倍 も 増 えている 史 料 4 には 竃 数 ( 世 帯 数 )も 記 載 され 死 者 は 圧 死 者 と 溺 死 者 に 区 別 され 書 き 上 げられ 記 載 が 詳 細 になっている これは 5 日 間 の 被 害 調 査 の 結 果 詳 細 な 情 報 が 得 られた 把 握 された と 考 えられるのではなかろうか 尾 張 藩 士 が 記 録 した 宝 永 地 震 の 大 坂 の 被 害 記 録 には 塩 尻 鸚 鵡 籠 中 記 以 外 に 堀 貞 儀 が 記 し た 朝 林 がある 朝 林 の 宝 永 地 震 の 大 坂 の 記 事 ついては 鵜 飼 氏 (12)によって 情 報 源 を 異 にす ることが 明 らかにされている 以 下 朝 林 (13) の 記 事 ( 史 料 5)を 検 討 しよう 史 料 5 大 坂 にて 地 震 波 にて 家 人 損 シ 死 人 書 立 一 かまと 数 三 千 五 百 三 十 七 此 町 役 六 百 五 十 三 軒 役 家 一 五 千 三 百 五 十 壱 人 是 ハ 家 つふれ 押 ニうたれ 死 申 候 一 壱 万 六 千 三 百 七 十 壱 人 これハ 水 に 溺 川 へ 入 死 申 候 右 十 月 十 日 迄 公 儀 御 帳 面 之 写 のよし 史 料 5 には 公 儀 御 帳 面 之 写 のよし とあることから 幕 府 の 被 害 報 告 書 を 写 したものと 思 わ れる さらに 被 害 報 告 は 10 月 10 日 迄 のものであることがわかる 史 料 から 大 坂 の 被 害 は 竃 数 3,537 軒 数 ( 町 役 役 家 )653 軒 圧 死 者 5,351 人 溺 死 人 16,371 人 であったことがわかる 史 料 5 の 被 害 数 と 先 にみた 史 料 4 の 被 害 数 を 比 べると 史 料 4 が 竃 数 16,000 軒 余 圧 死 者 3,630 人 溺 死 者 12,100 人 余 であるのに 対 し 史 料 5 が 竃 数 3,537 圧 死 者 5,351 人 溺 死 人 16,371 人 であった 竃 数 があまりに 違 い 過 ぎることについては 理 解 できないが 圧 死 者 溺 死 者 について は 極 端 な 違 いがなく いずれも 史 料 5 の 方 が 多 い 史 料 4 史 料 5 はともに 幕 府 が 把 握 した 良 質 の 情 報 と 考 えられる そう 考 えると 圧 死 者 溺 死 者 の 数 の 違 いは 把 握 した 日 の 違 いと 考 えるのがよ いと 思 われる このような 理 解 は 史 料 4 に 十 日 の 評 定 には 二 万 人 の 余 と 云 々 と 記 され 今 月 10 日 までの 書 き 上 げによる 被 害 数 を 列 挙 しながらも 10 日 の 評 定 で 死 者 2 万 人 と 報 告 があったと 記 しているこ とから 史 料 4 より 史 料 5 の 方 が 後 日 に 把 握 した 被 害 数 であると 考 えられる 以 上 のことから 幕 府 が 宝 永 4 年 10 月 10 日 までに 把 握 した 宝 永 地 震 による 大 坂 の 被 害 数 は 竃 数 3,537 軒 数 ( 町 役 役 家 )653 軒 圧 死 者 5,351 人 溺 死 人 16,371 人 であったと 考 えられる 121
おわりに 本 稿 で 明 らかにしたことは 以 下 のとおりである 宝 永 4 年 (1707)10 月 4 日 に 南 海 トラフ 周 辺 で 起 った 宝 永 地 震 による 大 坂 三 郷 の 被 害 は 竃 数 3,537 軒 数 653 軒 圧 死 者 5,351 人 溺 死 人 16,371 人 であった ただし この 被 害 数 は 地 震 が 起 きた 6 日 後 の 宝 永 4 年 10 月 10 日 までに 幕 府 が 把 握 した 被 害 数 であり これが 確 実 な 史 料 で 明 確 に なる 大 坂 三 郷 の 被 害 数 である 楽 只 堂 年 録 をみると 各 藩 が 地 震 直 後 に 幕 府 へ 提 出 した 被 害 報 告 書 を 後 日 新 しい 情 報 に 修 正 して 報 告 していることが 読 み 取 れる たとえば 楽 只 堂 年 録 所 収 の 三 河 吉 田 藩 牧 野 大 学 から 幕 府 あての 10 月 20 日 の 届 書 をみると 最 前 書 上 候 潰 家 千 八 百 三 拾 六 軒 と 合 三 千 八 百 拾 五 軒 潰 家 と 記 し 先 に 潰 家 の 数 を 1,836 軒 と 報 告 したが 潰 家 3,815 軒 へと 修 正 している 三 河 吉 田 藩 と 同 様 に 大 坂 の 被 害 数 の 新 しい 状 況 が 町 奉 行 衆 や 幕 府 へ 報 告 されたと 思 うが 現 在 残 存 する 史 料 ではそのことが 確 認 できない 最 終 的 に 確 定 された 宝 永 地 震 による 被 害 数 は 史 料 が 存 在 しないので 不 明 であるということになる よって 宝 永 地 震 による 大 坂 三 郷 の 被 害 は 竃 数 3,537 軒 数 653 軒 圧 死 者 5,351 人 溺 死 人 16,371 人 以 上 とするのが 正 確 であると 考 える 本 稿 は 人 口 の 多 い 大 坂 三 郷 の 被 害 数 を 検 討 した 宝 永 地 震 の 被 害 は 東 海 地 方 から 九 州 まで 広 範 囲 に 被 害 をもたらした 紀 伊 半 島 については 紀 州 熊 野 地 震 改 等 の 確 実 な 史 料 が 存 在 する 今 後 紀 伊 半 島 等 宝 永 地 震 による 被 害 の 検 討 を 進 めていきたい 註 (1) 大 阪 市 史 第 一 大 阪 市 参 事 会 1913 年 (2) 前 掲 大 阪 市 史 第 一 都 司 嘉 宣 大 阪 を 襲 った 歴 代 の 南 海 地 震 津 波 歴 史 科 学 187 号 2007 年 北 原 糸 子 ほか 日 本 歴 史 災 害 事 典 吉 川 弘 文 館 2012 年 には 大 坂 の 被 害 数 が 上 げられている (3) 京 都 歴 史 災 害 研 究 10 号 2009 年 (4) 名 古 屋 叢 書 続 編 第 十 一 巻 鸚 鵡 篭 中 記 ( 三 ) 名 古 屋 市 教 育 委 員 会 1968 年 (5) 幸 田 成 友 江 戸 と 大 阪 富 山 房 1994 年 原 著 1942 年 (6) 楽 只 堂 年 録 第 二 八 巻 ~ 第 二 一 に 幕 府 への 藩 寺 社 等 の 被 害 報 告 書 が 記 載 されている この 報 告 書 はすで に 新 収 日 本 地 震 史 料 第 三 巻 別 巻 ( 東 京 大 学 地 震 研 究 所 )に 翻 刻 されているが 柳 沢 文 庫 所 蔵 楽 只 堂 年 録 紙 焼 本 を 使 用 した なお 新 収 日 本 地 震 史 料 第 三 巻 別 巻 は 史 料 2 の 箇 所 の 翻 刻 に 誤 りがある (7) 楽 只 堂 年 録 記 載 の 大 坂 三 郷 の 被 害 報 告 は 史 料 2 のみである 大 坂 のような 人 口 の 多 い 地 域 の 最 終 的 な 被 害 情 報 が 掲 載 されていない 楽 只 堂 年 録 を 集 計 しただけでは 全 国 の 宝 永 地 震 の 被 害 の 全 体 像 は 把 握 できない (8) 日 本 随 筆 大 成 新 装 版 第 三 期 18 (9) 幸 田 成 友 前 掲 江 戸 と 大 阪 (10) 紀 州 熊 野 地 震 改 については 後 日 検 討 する (11) 鵜 飼 尚 代 宝 永 四 年 の 大 地 震 記 事 をめぐって 朝 林 と 鸚 鵡 籠 中 記 東 海 地 域 文 化 研 究 16 2005 年 なお 鵜 飼 氏 は 宝 永 地 震 に 関 する 朝 林 鸚 鵡 籠 中 記 塩 尻 の 記 事 の 相 互 関 係 を 考 察 しているが 被 害 数 の 検 討 はされていない (12) 鵜 飼 尚 代 前 掲 宝 永 四 年 の 大 地 震 記 事 をめぐって 朝 林 と 鸚 鵡 籠 中 記 (13) 朝 林 研 究 会 編 共 同 研 究 報 告 書 12 朝 林 後 編 名 古 屋 学 芸 大 学 短 期 大 学 部 地 域 文 化 研 究 センター 名 古 屋 外 国 語 大 学 国 際 コミュニケーション 研 究 所 2010 年 なお 史 料 5 の 翻 刻 については 名 古 屋 市 蓬 左 文 庫 所 蔵 朝 林 写 真 複 製 本 で 確 認 している 122