ジオサイト 案 内 書 03 お の よ こ ぼ り 小 野 横 堀 小 野 小 町 伝 説 の 郷 平 安 の 優 雅 さを 醸 し 出 す7 人 の 小 町 娘 湯 沢 市 ジオパーク 推 進 協 議 会
小 野 小 町 伝 説 小 野 小 町 は 平 安 時 代 前 期 9 世 紀 頃 の 女 流 歌 人 で クレオパトラ 楊 貴 妃 と 並 び 世 界 三 大 美 女 の 一 人 に 挙 げられます 小 町 の 出 生 地 は 諸 説 ありますが 秋 田 県 という 説 が 有 力 です それは 小 町 にまつわる 言 い 伝 え や 寺 院 史 跡 が 多 数 あること および 美 人 の 多 い 地 でもあることに 由 来 し ているものと 考 えられています 米 の 品 種 あきたこまち や 秋 田 新 幹 線 の 車 名 こまち は 小 町 にちなんだものです ふかくさのしょうしょう 小 野 小 町 伝 説 の 郷 小 町 は 出 羽 国 福 富 の 荘 桐 の 木 田 ( 現 在 の 小 野 字 桐 木 田 )の 地 で 都 から 赴 任 してきた 役 人 小 野 良 実 (よしざね)と 地 元 村 長 の 娘 との 間 に 生 まれ 13 歳 で 都 に 上 るまでこの 地 で 過 ごしました 良 実 の 教 育 と 生 まれ 持 った 才 能 により 都 でも 通 用 する 様 々な 教 養 を 身 に 付 け その 中 でも 和 歌 は 特 に 上 達 したといいます 任 期 を 終 えた 良 実 とともに 上 京 した 小 町 は 美 しい 容 姿 と 才 能 を 活 かして 宮 中 に 仕 え 歌 人 として 活 躍 しました し かし なに 不 自 由 なく 暮 らした20 年 余 りの 宮 中 生 活 をやめ 突 然 小 野 の 郷 に 戻 ったといいます 深 草 少 将 との 恋 物 語 京 で 小 野 小 町 に 特 に 思 いをよせていた 深 草 少 将 が 突 然 都 から 姿 を 消 した 小 町 を 追 ってやって 来 ました 少 将 は 小 町 に 会 いたいと 手 紙 を 送 りましたが 小 町 はすぐには 会 おうとせず 芍 薬 (し ゃくやく)を 毎 日 1 株 ずつ100 株 植 えることを 会 う 条 件 としました 100 日 目 の 夜 少 将 は100 本 目 の 芍 薬 を 手 に 小 町 に 会 いに 行 こうとしましたが その 途 中 で 水 かさの 増 した 川 に 流 され 亡 くなって しまいました 小 町 は 深 く 悲 しみ 99 本 の 芍 薬 に99 首 の 歌 を 捧 げると 人 目 を 忍 んで 余 生 を 過 ご したと 言 われています その 後 小 町 はひとり 岩 屋 堂 に 住 み 世 を 避 け 香 をたきながら 自 像 を 刻 み 92 歳 で 生 涯 を 閉 じました なぜ 美 人 が 多 い? 湯 沢 市 の 医 師 杉 本 博 士 の 研 究 = 皮 膚 色 調 の 白 色 度 が 日 本 人 平 均 が 約 22%であるのに 対 し 県 南 地 方 は 約 30% 西 欧 白 色 人 種 に 近 い 結 果 が 出 ている 冬 季 多 雪 で 高 湿 度 = 肌 の 艶 やかさを 保 ちやすい 日 照 時 間 が 短 く 紫 外 線 量 が 少 ない 秋 田 =1,752 時 間 東 京 =2,067 時 間 麹 (こうじ)を 使 用 した 酒 や 味 噌 漬 物 は 複 合 タンパク 質 が 多 く 肌 を 滑 らかにする 山 菜 やネバネバした 食 品 を 好 んで 食 べる ミネラルに 富 む 湧 水 が 豊 かで 温 泉 が 豊 富 など -1-
小 野 小 町 の 生 きた 軌 跡 桐 木 田 の 井 戸 桐 木 田 の 井 戸 は 小 野 良 実 の 館 にありました 当 時 としては 珍 しい 桐 の 木 があったことから 桐 木 田 の 館 と 呼 ばれていま した 館 跡 にある 井 戸 は 小 野 小 町 の 産 湯 に 使 ったと 言 い 伝 えられているものです 井 戸 の 直 径 約 50cm 深 さ 約 3mで 真 上 から 見 ると 細 長 い 石 が 五 角 形 に 積 み 上 げられています このような 井 戸 の 作 りは 東 北 では 全 く 用 いられてお らず 平 安 時 代 の 都 を 中 心 に 多 く 見 ら れました ば 姥 っこ 石 小 野 小 町 の 母 大 町 子 (おおまちこ)の 墓 地 と 言 い 伝 えられていま す 大 町 子 は 小 町 が 幼 い 頃 病 気 で 亡 くなりました その 後 小 町 は 乳 母 に 育 てられたと 言 われています この 姥 っこ 石 は 火 山 岩 で 出 来 ています いそざき 磯 前 神 社 桐 木 田 の 館 跡 にある 井 戸 樹 木 の 下 に 隠 れている 姥 っこ 石 50cm 石 の 配 置 図 磯 前 神 社 の 門 前 小 野 小 町 が 都 から 戻 り 深 草 少 将 がそれを 追 ってきたこ ろ 小 町 は 疱 瘡 (ほうそう)を 患 っていました そこで 小 町 は 磯 前 神 社 に 毎 日 お 参 りし 境 内 にあった 清 水 で 治 療 のため 顔 を 洗 い 早 く 病 が 治 るように 祈 りました その 泉 は 小 町 泉 あるいは 小 町 姿 見 の 池 と 呼 ばれていまし たが 現 在 はありません どうぜんじ 長 鮮 寺 跡 と 桐 善 寺 の 板 碑 深 草 少 将 が 小 野 で 仮 住 まいにしたのが 長 鮮 寺 だと 言 われて いますが 現 在 は 長 鮮 沢 という 地 名 が 残 っているのみです 小 野 小 町 は 少 将 の 死 を 自 分 のせいだと 嘆 き 悲 しみ 少 将 を 供 養 するために 大 きな 板 碑 を 長 鮮 寺 に 建 てました その 板 碑 は 長 鮮 寺 から 移 され 現 在 は 桐 善 寺 にあります -2- 桐 善 寺 境 内 の3 基 の 板 碑
こ や じ 向 野 寺 向 野 寺 は 小 野 小 町 の 菩 提 寺 で 小 町 自 身 が 彫 ったと 言 わ れている 木 彫 りの 自 像 が 安 置 されています かつて 向 野 寺 は 岩 屋 堂 入 口 付 近 にあり 小 野 寺 (こやじ) と 呼 ばれていま した 現 在 の 小 野 寺 跡 は わずかに 石 碑 と 巨 木 の 跡 がある のみです この 地 を 治 めていた 小 野 寺 氏 に 気 を 使 って 小 野 寺 を 向 野 寺 に 改 称 したとされています 熊 野 神 社 小 町 自 刻 と 言 われる 木 彫 り 像 熊 野 神 社 は802 年 ( 平 安 時 代 前 期 )に 小 野 良 実 が 建 てたと 伝 えられています 当 時 この 地 域 では 珍 しく 屋 根 には 瓦 がふかれていました 810~824 年 京 都 より 送 られた 小 町 の 文 を 一 つの 木 箱 に 入 れ て 和 歌 堂 に 保 管 していましたが 1593 年 ( 安 土 桃 山 時 代 )に 最 上 義 光 (よしあき) 軍 の 放 火 により 熊 野 神 社 と 和 歌 堂 は 焼 け 落 ちました 二 つ 森 昔 二 つ 森 周 辺 は 役 内 川 が 周 囲 を 洗 い 流 し 数 多 くの 小 島 が 残 ったため 八 十 島 (やそしま)と 呼 ばれていました 現 在 では 多 数 あった 小 島 はほとんどなくなり 二 つ 森 しか 残 っていません 大 きい 丘 を 男 森 小 さい 丘 を 女 森 と 呼 んでいます それぞれ 深 草 少 将 と 小 町 の 墳 墓 と 伝 えられ ています 女 森 には 小 町 の 母 大 町 子 がまつったと 伝 えられる 弁 財 天 があります 左 側 が 男 森 右 側 が 女 森 実 際 は 二 つ 森 は 墳 墓 ではなく 亀 の 甲 のような 表 面 をし た 柱 状 節 理 が 見 られる 火 山 岩 の 露 頭 です ワ ン ポ イ ン ト 節 理 とは 岩 石 の 規 則 的 な 割 れ 目 で マグマや 熱 い 火 山 噴 出 物 が 冷 えて 固 まる 時 収 縮 してできます 節 理 が 柱 状 になっている 岩 を 柱 状 節 理 と 言 います 露 頭 とは 地 質 や 地 層 の 状 態 などが 良 く 観 察 できるよ うに 現 れているところです -3- 溶 岩 が 固 まるとき 収 縮 し 割 れ 目 ( 節 理 )が できる 収 縮 割 れ 目 は 垂 直 に 伝 わる
岩 屋 堂 < 岩 屋 堂 の 言 い 伝 え> 岩 屋 堂 は 小 町 が 晩 年 世 を 避 けてひとり 香 をたき 歌 をよみ 自 像 を 刻 みながら92 歳 で 亡 くなるまで 過 ごしたと 言 われるほこらです 岩 屋 堂 は 幅 14m 高 さ2m 奥 行 き2.5mの 洞 くつで 天 井 部 の 硬 い 岩 石 と 洞 くつを 作 るやわらかい 岩 石 で 出 来 ていま す 天 井 部 は 大 小 様 々な 石 粒 を 含 む 火 山 噴 出 物 層 で 出 来 ています 洞 くつとなっている 部 分 はぎょう 灰 岩 で この 比 較 的 やわらかい 岩 石 が 浸 食 され 穴 になったのです これらの 火 山 噴 出 物 は 院 内 ぎょう 灰 岩 類 に 挟 まれて 分 布 してい ることから 約 800 万 ~ 600 万 年 前 の 火 山 活 動 によるものだと 推 測 さ れます 岩 屋 堂 洞 くつ 二 つ 森 女 川 層 院 内 凝 灰 岩 横 堀 院 内 小 野 横 堀 周 辺 の 地 質 図 女 川 層 加 無 山 安 山 岩 三 途 川 層 岩 屋 堂 小 野 城 跡 小 野 磨 崖 碑 神 室 山 花 こう 岩 母 沢 安 山 岩 ( 地 質 図 副 湯 沢 ) 小 町 堂 小 野 小 町 の 霊 をまつるために 建 てられたお 堂 で 芍 薬 (しゃくやく) 塚 もあります 芍 薬 塚 は 深 草 少 将 が 小 町 に 贈 った 芍 薬 を 植 えた 場 所 と 言 われています 現 在 ではその 面 影 はなく 平 成 7 年 に 現 在 の 小 町 堂 が 建 てられました 芍 薬 の 花 咲 く6 月 の 第 2 日 曜 日 に 小 町 堂 を 会 場 に 小 町 まつ り が 開 催 されます 7 人 の 小 町 娘 が 平 安 時 代 の 市 女 笠 をかぶ り 優 雅 な 衣 装 に 身 をつつんで 歌 を 奉 納 します 小 町 堂 の 歴 史 小 町 堂 の 歴 史 は 古 く 和 歌 堂 小 野 神 社 初 代 小 町 堂 二 代 目 小 町 堂 ( 現 在 )と 移 り 変 わってきました 昭 和 28 年 当 時 の 初 代 小 町 堂 ( 右 の 赤 丸 ) 現 在 の 小 町 堂 ( 二 代 目 ) -4-
おしら 様 の 枝 垂 桜 と 役 内 川 桜 並 木 おしら 様 の 枝 垂 桜 赤 塚 の 白 山 神 社 の 境 内 にある 一 本 桜 は 白 山 信 仰 の 愛 称 である おしらさま から この 地 では お しら 様 の 枝 垂 桜 と 呼 ばれています 高 さ 約 10m 幹 周 り3.65m 枝 張 りは 東 西 南 北 とも 約 19mもある 大 木 で 樹 齢 200 年 以 上 と 推 定 されています 平 成 19 年 に 市 の 天 然 記 念 物 に 指 定 平 成 21 年 には 秋 田 県 景 観 百 選 にも 選 ばれ 4 月 下 旬 ~5 月 初 旬 の 桜 の 開 花 時 期 には 全 国 各 地 から 多 くの 見 物 客 が 訪 れるようになりました おしら 様 の 枝 垂 桜 と 白 山 神 社 役 内 川 の 桜 並 木 約 3.3kmも 続 く 役 内 川 の 桜 並 木 隠 れキリシタンと 北 向 き 観 音 北 向 き 観 音 像 北 向 き 観 音 像 は 寺 沢 の 小 高 い 丘 の 上 にあ り 秋 田 市 の 方 向 ( 北 )を 向 いています 1624 年 ( 江 戸 時 代 前 期 )6 月 20 日 秋 田 市 の 久 保 田 城 外 において 寺 沢 村 在 住 のキリシタン 信 徒 15 名 が 処 刑 されました 北 向 き 観 音 像 は 処 刑 された 信 徒 を 見 つめる ように 安 置 されたのです 約 3.3kmもの 桜 並 木 が 続 くこの 道 は 昭 和 8~9 年 に 役 内 川 の 水 害 を 防 ぐ 道 路 として 作 られました この 新 道 完 成 を 記 念 して 昭 和 10 年 に 地 元 の 寺 沢 青 年 団 が 桜 を 植 樹 しました 昭 和 22 年 の 台 風 の 水 害 で 道 路 が 決 壊 した 時 桜 を 切 り 倒 して 水 を 食 い 止 めたため この 地 の 被 害 は 最 小 限 に 収 まりましたが 反 面 一 時 桜 並 木 がなくな りました その 後 補 植 を 行 って 現 在 に 至 り このような 見 事 な 桜 街 道 になりました 古 い 桜 は 樹 齢 80 年 を 超 え 中 には 幹 周 りが5.7mのものや ソメイヨシノでは 全 国 第 6 位 となる 巨 木 もあります ほこらの 中 に 安 置 されている 子 供 を 抱 く 北 向 き 観 音 像 -5-
横 堀 の 板 碑 群 < 板 碑 と 官 道 > 寺 沢 から 赤 塚 に 至 る 地 域 には 奈 良 時 代 以 降 山 形 に 続 く 有 屋 峠 と 宮 城 に 続 く 鬼 首 峠 の 官 道 が 通 っていました こ の 地 域 は 官 道 の 中 継 基 地 で 横 河 の 駅 と 呼 ばれる 駅 家 (うまや)が 置 かれていました この 官 道 は 江 戸 時 代 初 め に 羽 州 街 道 が 整 備 されるまでの 主 要 街 道 でした 現 在 も 官 道 があったことを 伝 えるものとして 鎌 倉 時 代 から 室 町 時 代 にかけての 板 碑 が 点 在 しています また 戦 国 時 代 までの 館 や 柵 が 平 地 と 街 道 を 見 下 ろす 山 腹 にありました 江 戸 期 以 降 は 秋 ノ 宮 ~ 鬼 首 峠 ~ 仙 台 藩 の 脇 街 道 として 利 用 されて いました 官 道 とは 国 によって 整 備 された 主 要 な 道 路 - 応 永 の 板 碑 - 現 在 JR 横 堀 駅 磨 崖 嘉 暦 元 年 の 板 碑 おしら 様 の 枝 垂 桜 清 水 館 堀 館 嘉 暦 元 年 の 板 碑 役 内 川 の 桜 並 木 浅 萩 館 応 永 の 板 碑 北 向 き 観 音 ( 隠 れキリシタン) 穴 小 屋 址 影 平 館 この 板 碑 は 俗 に 寿 石 と 言 われています 菅 江 真 澄 の 雪 の 出 羽 路 (いでわじ) に 俗 称 の 由 来 が 記 述 されてい ます 応 永 の 応 の 字 形 が 寿 の 字 に 似 ているため 読 み 間 違 え 往 来 の 人 は 寿 石 と 読 んでいたと 書 かれています 保 存 状 態 がよく 説 明 板 が 設 置 されています まがい - 磨 崖 碑 - 磨 崖 は 崖 の 岩 や 洞 穴 の 壁 の 表 面 を 整 え て 仏 像 や 仏 を 表 わす 文 字 を 彫 り 込 んだ 石 造 物 です 古 代 から 近 世 にかけて 死 者 を 改 めてとむらうためなどに 彫 られました 熊 野 神 社 境 内 にある 磨 崖 は 幅 4.8m 高 さ 6.6mの 火 山 岩 の 岩 壁 に 左 右 に2 組 の 仏 を 表 わす 文 字 などを 刻 んでいます 磨 崖 碑 の 復 元 図 1322 年 ( 鎌 倉 時 代 末 期 )5 月 2 名 の 尼 僧 によって 死 後 の 逆 修 供 養 のために 彫 られました この 磨 崖 は 秋 田 県 最 古 のもので 日 本 の 磨 崖 の 分 布 の 北 限 に 近 く 仏 教 文 化 の 伝 播 を 考 える 上 で 貴 重 な 史 跡 です 昭 和 34 年 1 月 7 日 秋 田 県 の 指 定 史 跡 となっています -6-
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