解 題 一 はじめに 鷹 場 玉 川 上 水 と 分 水 と 出 してきたテーマ 別 編 集 ですが ついに 新 田 開 発 を 出 版 することになりました 第 十 二 集 には 新 田 開 発 入 村 者 離 村 者 奉 公 人 に 関 するものを 収 録 し 第 十 三 集 には 年 貢 抱 屋 敷 を 収 めました 新 田 開 発 は 小 平 に 残 る 関 係 史 料 を 網 羅 的 に 収 録 し それ 以 外 は 武 蔵 野 新 田 の 総 検 地 が 行 なわれた 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )まで の 史 料 を 集 め 村 ごとに 年 代 順 に 配 列 しました この 結 果 本 冊 には 三 四 六 点 が 収 録 されています 新 田 開 発 は 小 平 にとって 不 可 欠 の 研 究 テーマであり これを 抜 かして 小 平 の 歴 史 を 語 ることはできません 今 までも 古 文 書 目 録 の 解 題 で 折 に 触 れて 特 徴 的 な 事 例 を 紹 介 してきましたが 史 料 集 を 刊 行 するこの 機 会 にそれぞれの 新 田 開 発 の 経 過 をまとめておきたいと 思 います 二 小 川 村 の 開 発 ここに 収 録 したのは 明 暦 二 年 ( 一 六 五 六 )の 手 形 之 事 から 大 正 七 年 ( 一 九 一 八 )の 小 川 九 郎 兵 衛 没 後 二 百 五 十 年 祭 の 書 類 までの 三 十 七 点 です この 中 には 史 料 29~33 の 下 野 国 芳 賀 郡 嶋 村 外 三 カ 村 の 荒 地 開 拓 計 画 も 含 まれています これは 寛 政 三 年 ( 一 七 九 一 ) から 四 年 に 企 図 されたもので 小 川 村 の 弥 四 郎 と 西 台 村 の 長 五 郎 下 赤 塚 村 の 辰 五 郎 の 三 人 が 嶋 村 外 三 カ 村 の 手 余 荒 地 一 八 〇 町 歩 程 の 土 地 を 九 年 間 で 開 拓 しようという 計 画 です 代 官 所 から 一 〇 八 〇 両 の 手 当 金 を 出 してもらえれば 三 六 〇 人 の 百 姓 を 定 住 させて 荒 地 を 開 拓 しようというものです 嶋 村 外 三 カ 村 は 現 在 の 真 岡 市 内 の 地 域 で 随 分 遠 くの 土 地 を 開 拓 しようと 計 画 していたことになります しかし この 計 画 は 実 現 には 到 らなかったものと 思 われますが こ こに 名 を 連 ねている 下 赤 塚 村 の 辰 五 郎 の 存 在 は 注 目 に 値 します 辰 五 郎 は 小 川 家 文 書 目 録 の 解 題 で 触 れた 通 り 寛 政 六 年 からの 材 木 御 用 にも 顔 を 出 す 人 物 であり 小 川 家 の 事 業 家 としての 展 開 には 辰 五 郎 と 密 接 な 関 係 があったことが 窺 われます 小 川 村 の 中 央 を 東 西 に 走 る 青 梅 街 道 は 慶 長 十 一 年 ( 一 六 〇 六 ) 以 来 石 灰 輸 送 の 道 として 頻 繁 に 使 用 されています こ の 石 灰 輸 送 は 青 梅 街 道 沿 いの 村 の 伝 馬 継 によって 行 われていますが 箱 根 ヶ 崎 村 から 田 無 村 まで 五 里 ( 二 〇 km)の 間 に は 正 保 の 国 絵 図 でも 確 認 できるように 村 が 存 在 せず 史 料 13 に 此 間 武 蔵 野 ニ 而 人 居 無 御 座 寒 暑 風 雨 之 節 往 二 一 還 之 人 馬 湯 水 ニ 渇 至 極 及 難 義 相 果 候 者 多 ク と 記 されているように この 間 は 武 蔵 野 で 人 家 がなく 水 を 手 に 入 れ 二 一 る 術 もなくて 石 灰 の 運 搬 にも 難 儀 していたことが 記 されています 水 が 得 難 いために 人 の 定 住 を 拒 んできた 武 蔵 野 台 地 に 承 応 三 年 ( 一 六 五 四 )に 玉 川 上 水 が 開 通 し 翌 明 暦 元 年 に 野 火 止 用 水 が 開 削 されて 初 めて 人 の 住 める 要 件 が 整 ったのでした この 機 を 待 ちかねたように 明 暦 二 年 ( 一 六 五 六 ) 岸 村 ( 現 武 蔵 村 山 市 )の 小 川 九 郎 兵 衛 が 小 川 村 の 開 拓 に 乗 り 出 します 史 料 13 には 松 平 伊 豆 守 様 より 難 有 御 意 を 以 西 者 江 戸 御 水 道 と 野 火 止 水 道 との 堀 分 ケより 東 ハ 田 無 村 之 方 え 開 発 仕 候 様 ニと 被 為 仰 付 とあり 松 平 信 綱 の 二 一 有 難 い 思 し 召 しによって 西 は 玉 川 上 水 と 野 火 止 用 水 の 分 水 口 から 東 は 田 無 村 の 方 へ 新 田 開 発 を 許 可 されたことが 記 され ています 言 うまでもなく 九 郎 兵 衛 が 開 発 に 着 手 できた 最 大 の 要 因 は 玉 川 上 水 から 小 川 分 水 が 許 可 されて 呑 水 が 確 保 できたことにあります そして 翌 三 年 から 青 梅 街 道 の 石 灰 運 搬 を 始 め 七 カ 所 ( 田 無 村 箱 根 ヶ 崎 村 平 井 村 日 野 村 清 戸 村 府 中 宿 所 沢 村 )への 伝 馬 継 も 勤 めています( 史 料 13) 開 発 着 手 後 七 年 目 の 寛 文 四 年 ( 一 六 六 四 )には 仮 検 地 を 受 け 年 貢 が 割 り 付 けられており 寛 文 九 年 ( 一 六 六 九 )の 本 検 地 によって 小 川 新 田 村 が 成 立 しています 村 名 は 支 配 代 官 中 川 八 郎 左 衛 門 によって 寛 文 四 年 に 命 名 されたもので 開 発 者 である 小 川 九 郎 兵 衛 の 名 字 を 取 っています( 史 料 13) また 九 郎 兵 衛 は 開 発 の 御 褒 美 として 屋 敷 畑 六 町 歩 余 の 除 地 が 認 められ 年 貢 が 免 除 されています 小 川 村 の 検 地 はその 後 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 ) 天 和 三 年 ( 一 六 八 三 ) 元 禄 二 年 ( 一 六 八 九 ) 享 保 十 八 年 ( 一 七 三 三 )と 合 計 六 回 実 施 され 村 高 六 百 七 二 石 四 斗 六 升 四 合 反 別 三 百 九 四 町 八 反 四 畝 一 歩 となって 確 定 し 以 後 変 化 していません 最 終 的 にこの 開 発 には 六 十 六 年 間 を 要 していますが 元 禄 二 年 の 検 地 までには 村 高 六 百 七 〇 石 五 斗 三 升 二 合 反 別 三 百 九 四 町 五 畝 四 歩 となり 村 高 の 九 九. 七 % 反 別 の 九 九. 八 %が 開 かれており 実 質 的 には 三 十 二 年 間 で 開 発 が 終 了 していま す しかし 開 発 は 必 ずしも 順 調 にはいかなかったようで 寛 文 二 年 ( 一 六 六 二 ) 十 一 月 の 名 主 九 郎 兵 衛 非 法 の 訴 状 ( 小 ( 軒 カ) 川 家 文 書 D-7 1)には 新 田 ニ 而 つぶれ 百 姓 六 拾 四 間 御 座 候 此 者 ともニ 妻 子 我 身 を 売 御 江 戸 在 々 方 々ニ 罷 在 候 と
あって 数 多 くの 挫 折 者 が 出 たことが 記 されています また 万 治 二 年 ( 一 六 五 九 )の 百 両 の 夫 食 拝 借 願 ( 小 川 家 文 書 I-2 1)を 初 めとして 寛 文 三 年 ( 一 六 六 三 )には 干 魃 によって 再 び 拝 借 金 を 願 い( 小 川 家 文 書 I-2 2) 元 禄 十 二 年 ( 一 六 九 九 )には 風 損 によって 九 十 一 軒 の 家 が 倒 れ 九 八 五 本 の 木 が 折 れる 等 の 被 害 に 遭 い( 小 川 家 文 書 I-1 1) 享 保 十 九 年 ( 一 七 三 四 )には 大 雨 で 水 に 浸 かった 畑 は 皆 損 状 態 になる( 小 川 家 文 書 I-1 2)など 開 発 には 数 多 くの 困 難 がありました 史 料 35 に 別 段 新 田 取 立 御 高 入 一 村 ニ 相 成 候 ニ 付 右 之 分 ヲ 小 川 新 田 と 唱 先 御 高 入 相 成 候 小 川 新 田 ヲ 小 川 村 と 唱 替 と あり 小 川 村 の 年 貢 割 付 状 や 皆 済 目 録 を 比 較 検 討 することによって 小 川 新 田 村 は 享 保 九 年 に 新 たな 新 田 開 発 が 許 可 さ れるにおよび 享 保 十 年 ( 一 七 二 五 )から 小 川 村 と 改 称 されたことが 分 かります 入 村 者 は 大 半 が 狭 山 丘 陵 と 加 治 丘 陵 付 近 の 村 々からの 者 達 で 遠 くは 奥 多 摩 秩 父 吉 見 および 江 戸 から 来 た 者 もみ られます 明 暦 四 年 の 相 定 申 一 札 之 事 ( 入 村 者 離 村 者 史 料 30)によれば 開 発 に 着 手 して 一 年 余 で 七 十 八 軒 の 入 村 が 確 認 できます その 条 件 は 新 田 に 定 住 して 家 作 を 持 ち 伝 馬 継 を 負 担 するというもので 延 宝 二 年 頃 の 村 絵 図 に は 青 梅 街 道 に 沿 って 南 北 に 短 冊 形 に 地 割 りされた 土 地 一 筆 毎 に 家 が 描 かれています 正 徳 三 年 ( 一 七 一 三 )の 村 鑑 には 家 数 二 〇 二 軒 人 数 九 〇 八 人 ( 男 四 七 九 人 女 四 二 九 人 ) 馬 数 一 五 八 疋 で 享 保 十 九 年 ( 一 七 三 四 )には 家 数 一 九 二 軒 人 数 九 二 三 人 ( 男 四 九 四 人 女 四 二 九 人 ) 馬 数 一 五 〇 疋 となっています 三 小 川 新 田 の 開 発 小 川 村 では 実 質 的 な 開 発 が 終 わった 元 禄 以 降 度 々 新 田 開 発 を 願 い 出 ていますが 容 易 に 認 められなかったようです 元 禄 十 五 年 ( 一 七 〇 二 )の 史 料 11 に 一 武 州 小 川 新 田 東 之 原 武 蔵 野 之 内 芝 地 三 拾 町 余 御 座 候 所 此 度 御 新 田 ニ 奉 願 候 ( 中 略 ) 一 右 之 場 所 東 西 長 サ 三 拾 町 南 北 横 行 弐 拾 町 新 田 ニ 奉 願 候 武 蔵 野 付 近 村 馬 草 場 入 会 野 之 内 此 場 所 大 方 十 分 一 程 も 可 有 御 座 哉 と 奉 存 候 とあり 小 川 村 の 東 にある 武 蔵 野 の 入 会 地 の 新 田 開 発 を 願 い 出 ています また 史 料 15 ニ 一 や 20 にあるように 宝 永 五 年 ( 一 七 〇 八 )と 正 徳 六 年 ( 一 七 一 六 )にも 同 じ 場 所 七 〇 〇 町 歩 余 の 開 発 願 を 出 しています 幕 府 の 方 針 が 転 換 して 享 保 七 年 ( 一 七 二 二 ) 七 月 江 戸 日 本 橋 に 新 田 開 発 奨 励 の 高 札 が 建 てられ 九 月 に 惣 而 自 今 新 田 畑 可 有 開 発 場 所 吟 味 次 第 障 り 於 無 之 者 開 発 可 被 仰 付 候 ( 史 料 38(3))とあるように 新 田 開 発 が 許 可 ニ 一 ニ 一 されます この 情 報 に 接 した 名 主 弥 市 は 時 を 移 さず 九 月 の 内 に 史 料 39 に 当 村 続 東 之 原 武 蔵 野 入 会 野 之 内 東 ハ 壱 本 榎 南 北 限 南 ハ 玉 川 御 上 水 際 迄 北 ハ 山 口 領 江 戸 道 限 西 ハ 小 川 新 田 村 境 迄 之 間 芝 地 凡 百 六 拾 町 歩 程 之 場 所 開 発 奉 願 ニ 上 候 とあるように 開 発 願 を 出 しています その 内 容 は 小 川 村 東 側 の 地 続 き 一 六 〇 町 歩 の 場 所 を 三 年 で 残 らず 開 発 し 一 一 年 に 二 〇 両 の 芝 年 貢 を 上 納 するとしており これ 以 前 の 願 に 比 べて 五 分 の 一 程 に 縮 小 したものになっています そして 新 田 開 発 願 が 許 可 されたのは 他 と 同 様 に 享 保 九 年 ( 一 七 二 四 ) 五 月 のことです 代 官 岩 手 藤 左 衛 門 によって 願 場 所 百 六 〇 町 七 反 歩 の 土 地 が 小 川 新 田 願 人 弥 市 に( 小 平 市 史 料 集 第 十 三 集 年 貢 史 料 135) 七 五 町 七 反 歩 が 小 川 新 田 名 主 百 姓 宛 に 割 り 渡 されています( 同 上 史 料 136) また 開 発 の 条 件 は 享 保 九 年 から 十 一 年 までの 三 年 間 は 毎 年 一 反 ニ 付 一 升 五 合 の 役 米 を 上 納 することでした しかし ここにいくつかの 疑 問 があります 割 渡 証 文 がなぜ 二 本 に 分 けられているのでしょうか また なぜ 願 い 出 た 一 六 〇 町 歩 以 上 の 土 地 が 割 り 渡 されたのでしょうか この 謎 を 解 く 鍵 は 史 料 39 40 と 検 地 帳 にあります 史 料 39 には 明 暦 弐 申 年 当 小 川 新 田 開 発 願 上 候 節 西 ハ 玉 川 上 水 と 野 火 留 水 道 堀 分 ケより 東 ハ 壱 本 榎 迄 之 間 御 新 田 被 仰 付 被 下 置 候 ( 中 略 ) 相 続 キ 段 々 壱 本 榎 迄 開 発 仕 御 検 地 可 申 請 候 所 ニ 二 一 二 一 二 一 右 御 伝 馬 御 用 等 繁 く 開 きおくれ 候 内 惣 而 武 蔵 野 附 村 々 馬 草 場 論 御 公 事 ニ 及 野 境 被 仰 付 右 場 所 開 発 相 叶 不 申 候 二 一 ニ 付 と 記 されており 小 川 村 は 当 初 東 は 壱 本 榎 までの 開 発 を 許 可 されていたが 開 発 が 遅 れている 内 に 馬 草 場 論 が 起 こって 開 発 が 差 し 止 められてしまったので 改 めて 開 発 を 許 可 してほしいと 願 い 出 ています このことは 天 和 三 年 の 検 地 帳 の 奥 書 にも 野 境 委 細 詮 議 之 処 小 川 新 田 より 東 者 壱 本 榎 迄 田 無 村 境 南 者 弐 ツ 塚 府 中 村 境 西 者 江 戸 御 水 道 境 北 者 のびとめ 水 道 境 ニ 紛 無 之 ニ 付 と 明 記 されていて 確 かな 証 拠 もあります また 史 料 40 には 今 度 武 蔵 野 御 開 発 場 被 為 仰 付 候 ニ 付 向 後 秣 之 致 方 申 上 候 様 ニと 御 尋 ニ 御 座 候 当 村 畑 計 ニ 而 山 林 等 も 無 御 座 只 今 迄 ハ 武 蔵 野 二 一 二 一 入 会 ニ 而 刈 取 申 候 外 ニ 秣 取 場 無 御 座 候 当 村 之 儀 先 達 而 奉 願 上 候 通 開 発 場 被 仰 付 被 下 置 候 ハヽ 御 二 一 二 一 二 一 二 一 見 分 之 上 且 ハ 御 開 発 畑 為 風 除 林 芝 地 萱 畑 等 被 仰 付 とあって 小 川 村 は 畑 ばかりの 村 で 山 林 がないので 武 蔵 野 二 一 二 一 の 開 発 によって 秣 場 がなくなってしまうので 風 除 けとして 林 芝 地 萱 畑 等 がほしいと 申 し 出 ています 以 上 のことか ら 壱 本 榎 までの 一 六 〇 町 歩 の 土 地 は 以 前 に 開 発 が 許 可 されていたので 願 い 通 り 開 発 が 認 められ その 他 に 秣 場 の 代 地 として 玉 川 上 水 の 南 側 の 上 水 向 を 割 り 渡 されたものと 思 われます 三 年 で 残 らず 開 発 すると 願 い 出 たものの 十 三 年 までの 入 村 者 は 十 一 年 に 十 一 軒 十 二 年 に 六 件 十 三 年 に 五 軒 の 合 計 二 十 二 軒 で( 入 村 者 離 村 者 史 料 185) 開 発 は 思 うようには 進 みませんでした 十 四 年 には 清 水 村 ( 現 東 大 和 市 ) から 二 町 四 反 歩 が 譲 渡 され 二 三 七 町 三 反 歩 余 ( 堀 代 引 が 一 町 四 反 歩 余 ある)の 開 発 場 の 内 この 年 までに 開 発 されたの
は 松 林 二 町 七 反 歩 余 を 含 めた 都 合 三 九 町 八 反 歩 弱 に 過 ぎません 従 って 五 年 間 に 開 発 されたのは 十 六 % 弱 の 土 地 で 一 九 七 町 歩 余 が 未 開 の 土 地 のままです( 史 料 138) 別 表 1 小 川 新 田 開 発 場 年 貢 一 覧 表 西 暦 年 代 納 合 永 納 合 米 納 入 年 月 備 考 1724 享 保 9 年 25 貫 704 文 7 分 享 保 9 年 12 月 開 発 場 役 米 1725 享 保 10 年 31 貫 9 文 2 分 享 保 10 年 12 月 1726 享 保 11 年 29 貫 989 文 享 保 11 年 12 月 1727 享 保 12 年 48 貫 747 文 1 分 享 保 13 年 12 月 本 途 口 永 歩 永 1728 享 保 13 年 48 貫 698 文 4 分 享 保 16 年 12 月 本 途 口 永 1729 享 保 14 年 52 貫 226 文 享 保 16 年 12 月 本 途 口 永 1730 享 保 15 年 31 貫 702 文 享 保 16 年 12 月 本 途 口 永 歩 永 1731 享 保 16 年 31 貫 558 文 7 分 享 保 18 年 11 月 本 途 口 永 歩 永 夫 食 返 納 1732 享 保 17 年 34 貫 358 文 5 分 享 保 18 年 11 月 本 途 口 永 歩 永 夫 食 返 納 1733 享 保 18 年 32 貫 102 文 1 分 享 保 19 年 12 月 本 途 口 永 歩 永 1734 享 保 19 年 29 貫 204 文 21 分 享 保 20 年 5 月 本 途 口 永 歩 永 1735 享 保 20 年 32 貫 549 文 3 斗 9 升 9 合 享 保 20 年 11 月 割 付 / 本 途 口 永 別 表 1 小 川 新 田 開 発 場 年 貢 一 覧 表 に 見 るように 鍬 下 年 期 の 三 年 が 経 過 すると 永 四 八 貫 文 余 の 年 貢 が 課 され 役 米 の 六 二 ハ ーセント 強 の 増 徴 を 迫 られますがすぐには 納 められず 十 二 年 の 年 貢 は 十 三 年 に 十 三 年 と 十 四 年 分 は 十 六 年 に 延 納 になっています このような 事 態 の 打 開 策 として 幕 府 は 一 軒 ニ 付 金 二 両 二 分 の 家 作 料 を 支 給 し 開 墾 地 一 反 ニ 付 銭 六 二 四 文 の 農 具 代 を 貸 し 付 けており 小 川 新 田 では 十 四 年 に 一 二 三 人 が 農 具 料 を( 史 料 43) 出 百 姓 二 十 二 人 が 家 作 料 を 受 け 取 っています( 入 村 者 離 村 者 史 料 185) また 史 料 138 の 開 発 場 酉 御 取 箇 割 附 之 事 に 酉 堀 代 引 が 書 上 げられ ていることからも 分 かるように 十 四 年 には 小 川 分 水 を 延 長 して 小 川 新 田 でも 呑 水 が 確 保 できるようになったようであ り 前 掲 の 表 でも 明 らかなように 十 五 年 からは 年 貢 が 鍬 下 年 期 の 水 準 に 引 き 下 げられています このような 事 情 もあっ て 十 五 年 までの 入 村 者 が 七 十 一 軒 を 数 え 家 作 料 が 既 に 支 給 されている 十 三 年 までの 入 村 者 二 十 二 軒 を 差 し 引 いた 四 十 九 軒 が 十 四 十 五 年 に 増 えたことになります( 入 村 者 離 村 者 史 料 187) 享 保 十 三 年 から 十 五 年 までの 年 貢 は 十 六 年 に 皆 済 し 十 六 年 と 十 七 年 の 分 は 十 八 年 に 納 め 以 後 一 年 遅 れで 納 入 しています しかし これらの 年 貢 割 付 や 皆 済 目 録 の 宛 先 は 小 川 村 となっており 持 添 新 田 の 性 格 が 強 い 小 川 新 田 のような 場 合 は 親 村 が 年 貢 納 入 の 責 任 を 負 っていたも のと 思 われます 国 分 寺 市 史 料 集 Ⅱ に 収 録 されている 享 保 二 十 一 年 辰 三 月 武 蔵 野 新 田 場 御 検 地 仕 様 帳 に 三 月 廿 七 日 四 月 十 一 日 迄 一 御 本 陣 上 坂 安 左 衛 門 長 坂 孫 七 郎 小 川 村 (202 ページ 所 収 )と 記 録 されており 享 保 二 十 一 年 ( 一 七 三 六 )には 三 月 二 七 日 から 四 月 十 一 日 まで 小 川 村 に 本 陣 を 置 いて 上 坂 安 左 衛 門 以 下 十 八 人 の 検 地 方 役 人 が 検 地 を 実 施 して います この 結 果 村 高 六 七 六 石 一 斗 八 升 五 合 反 別 二 一 〇 町 一 八 歩 に 確 定 しています( 小 川 利 雄 家 文 書 A2) 元 文 四 年 に 川 崎 平 右 衛 門 に 差 し 出 した 史 料 26 によって この 反 別 の 内 一 五 四 町 歩 余 が 出 百 姓 分 であり 五 二 町 歩 は 小 川 村 持 添 分 であることが 分 かります 小 川 村 持 添 分 は 玉 川 上 水 の 南 側 で 東 西 に 細 長 く 延 びた 上 水 向 ( 現 小 平 市 上 水 新 町 と 上 水 本 町 の 一 部 )のことで 畑 として 検 地 された 二 〇 町 歩 の 内 実 際 に 開 かれたのは 八 町 歩 で 残 りは 林 や 芝 地 として 利 用 され ており 人 は 住 んでいません 四 小 川 新 田 の 入 村 者 前 章 で 概 略 を 述 べましたが ここで 改 めて 小 川 新 田 の 入 村 者 について 触 れておきたいと 思 います 当 史 料 集 に 収 録 し た 入 村 請 書 を 別 表 2に 小 川 新 田 出 百 姓 一 覧 表 としてまとめてみました 別 表 2 小 川 新 田 出 百 姓 一 覧 表 番 号 西 暦 年 代 村 名 名 前 備 考 1 1725 享 保 10 年 5 月 根 ヶ 布 村 茂 右 衛 門 2 伊 右 衛 門 3 享 保 10 年 8 月 下 村 長 右 衛 門 4 1726 享 保 11 年 2 月 豊 島 郡 上 石 神 井 村 礒 右 衛 門
5 1727 享 保 12 年 11 月 奈 良 橋 村 次 郎 右 衛 門 6 享 保 12 年 12 月 根 ヶ 布 村 太 郎 兵 衛 八 郎 右 衛 門 家 守 7 1728 享 保 13 年 3 月 下 成 木 村 六 兵 衛 8 1729 享 保 14 年 2 月 秩 父 郡 下 名 栗 村 由 兵 衛 平 兵 衛 屋 守 9 享 保 14 年 2 月 秩 父 郡 下 名 栗 村 市 郎 左 衛 門 八 郎 兵 衛 家 守 10 享 保 14 年 2 月 秩 父 郡 名 栗 村 平 左 衛 門 彦 三 郎 屋 守 11 享 保 14 年 2 月 南 小 會 木 村 市 郎 右 衛 門 忠 兵 衛 屋 守 12 享 保 14 年 3 月 根 ヶ 布 村 喜 右 衛 門 又 右 衛 門 屋 守 13 享 保 14 年 3 月 黒 沢 村 九 郎 左 衛 門 源 内 屋 守 14 享 保 14 年 9 月 秩 父 郡 上 名 栗 村 加 兵 衛 半 左 衛 門 屋 守 15 享 保 14 年 11 月 秩 父 郡 坂 元 村 孫 左 衛 門 16 1730 享 保 15 年 2 月 入 間 郡 下 奥 富 村 政 右 衛 門 17 1735 享 保 20 年 3 月 入 間 郡 下 奥 富 村 清 左 衛 門 この 表 に 見 るように 小 川 新 田 には 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )までに 十 七 人 の 入 村 者 が 確 認 できます この 内 のほぼ 半 数 に 当 たる 八 人 が 享 保 十 四 年 の 入 村 であり 同 じく 八 人 が 屋 守 です 小 川 新 田 の 入 村 請 書 の 内 容 を 調 べてみると 二 つのパ ターンがあることが 分 かります 一 つは 屋 守 で これは 小 川 村 の 地 主 の 屋 守 として 入 村 する 場 合 です このケースは 小 川 村 の 地 主 持 分 の 屋 敷 割 を 五 年 から 十 年 の 年 季 で 開 発 を 請 負 うもので 年 季 の 間 に 五 反 歩 から 一 町 歩 の 土 地 を 無 年 貢 で 開 発 させて 新 田 並 の 諸 役 を 負 担 させますが 開 拓 地 を 耕 作 する 権 利 を 保 障 するというものです それ 以 外 のケースは 入 村 者 離 村 者 史 料 186 に 宿 並 屋 敷 割 壱 軒 分 貴 殿 より 御 割 渡 シ 給 今 度 家 作 仕 差 出 シ 申 候 向 後 御 年 貢 諸 役 等 急 度 為 勤 一 可 申 候 とあるように 一 軒 分 の 屋 敷 地 を 割 り 渡 してもらい 年 貢 諸 役 を 負 担 するというものです しかし 小 川 新 田 の 場 合 は 入 村 者 が 地 割 りを 受 けても 地 代 を 支 払 った 形 跡 が 見 られません また 前 述 したように 史 料 185 小 川 新 田 出 百 姓 書 上 に よ っ て 十 三 年 までの 入 村 者 が 確 認 できます それによると 十 一 年 に 十 一 軒 十 二 年 に 六 件 十 三 年 に 五 軒 の 合 計 二 十 二 軒 です 更 に 十 四 年 の 正 月 から 三 月 まで の 出 百 姓 は 十 四 軒 であると 付 け 加 えられていますが この 史 料 は 中 欠 で 八 郎 兵 衛 屋 守 市 郎 左 衛 門 から 善 助 までの 六 軒 しか 確 認 できません しかし この 史 料 は 史 料 187 小 川 村 新 田 出 百 姓 書 上 とピッタリ 符 合 するもので 家 作 料 頂 戴 仕 候 分 二 十 二 軒 は 弥 兵 衛 を 除 いて 書 上 げてある 順 番 も 全 て 一 致 します 弥 兵 衛 の 箇 所 には 村 方 久 左 衛 門 と 書 上 候 と 注 記 されているので これも 一 致 することになります また 十 四 年 の 正 月 から 三 月 までの 入 村 者 である 八 郎 兵 衛 屋 守 市 郎 左 衛 門 から 善 助 までの 六 人 は 是 ハ 御 改 相 済 候 得 共 いまた 家 作 料 不 被 下 分 四 十 六 人 の 内 最 後 から 数 えて 十 一 人 目 から 五 人 目 までの 六 人 とピッタリ 符 合 しています このことから 史 料 185 に 記 されていた 十 四 軒 はその 前 に 続 く 三 右 衛 門 から 市 郎 右 衛 門 までの 八 人 だと 思 われます そこで 史 料 187 と 別 表 2を 照 合 すると 享 保 十 三 年 までの 入 村 者 では2の 伊 右 衛 門 を 除 いた1から7の 六 名 が 是 ハ 家 作 料 頂 戴 仕 候 分 二 十 二 人 に 含 まれ 享 保 十 四 年 の 入 村 者 である8から 15 までの 八 人 と2の 享 保 十 年 の 入 村 者 伊 右 衛 門 は 是 ハ 御 改 相 済 候 得 共 いまた 家 作 料 不 被 下 分 四 十 六 人 の 内 に 含 まれています この 内 九 月 の 入 村 者 である 加 兵 衛 は 最 後 から 二 番 目 に 十 一 月 の 入 村 者 孫 左 衛 門 はその 前 に 記 されています また 享 保 十 五 年 二 月 の 入 村 者 政 右 衛 門 は 是 ハ 当 三 月 より 出 百 姓 書 上 ケ 不 申 分 三 人 に 記 されています このことから 是 ハ 御 改 相 済 候 得 共 いまた 家 作 料 不 被 下 分 四 十 六 人 はほぼ 享 保 十 四 年 の 入 村 者 だと 思 われます また 小 川 新 田 の 家 数 は 元 文 四 年 ( 一 七 三 九 )の 南 北 武 蔵 野 出 百 姓 草 分 書 出 帳 ( 史 料 53)には 総 軒 数 八 十 九 軒 内 持 添 十 八 軒 と 記 され 宝 暦 九 年 ( 一 七 五 九 )の 村 鑑 帳 には 家 数 七 十 七 軒 となっています 以 上 のことから 家 作 料 の 支 給 は 小 川 新 田 の 成 立 に 大 変 大 きな 影 響 を 与 え 享 保 十 五 年 までにはほぼ 入 村 者 数 が 固 まったものとみられます しかも その 内 の 大 半 は 享 保 十 四 年 の 入 村 者 であったことが 分 かります 五 鈴 木 新 田 の 開 発 玉 川 上 水 が 開 通 したことにより 分 水 が 認 められるなどによって 寛 文 から 元 禄 期 に 開 発 が 進 められたのは 小 川 村 の 他 に 拝 島 村 ( 昭 島 市 ) 上 川 原 村 ( 昭 島 市 ) 砂 川 村 ( 立 川 市 ) 国 分 寺 村 ( 国 分 寺 市 ) 恋 ヶ 窪 村 ( 国 分 寺 市 ) 貫 井 村 ( 小 金 井 市 ) 小 金 井 村 ( 小 金 井 市 ) 境 村 ( 武 蔵 野 市 ) 関 前 村 ( 武 蔵 野 市 ) 西 窪 村 ( 武 蔵 野 市 ) 吉 祥 寺 村 ( 武 蔵 野 市 ) 上 連 雀 村 ( 三 鷹 市 ) 下 連 雀 村 ( 三 鷹 市 )などがあります しかし その 後 は 新 田 開 発 が 認 められず 貫 井 村 ( 現 小 金 井 市 )でも 前 年 願 地 内 野 之 場 所 御 代 官 様 へ 御 願 ニ 付 代 地 買 請 金 子 五 拾 両 之 所 村 中 ニ 而 割 出 シ 可 申 候 やと 惣 百 姓 へ 相
談 被 成 候 得 共 只 今 迄 四 五 ケ 年 遣 イ 銭 四 五 百 文 程 も 出 し 申 候 へ 者 ( 史 料 44)と 記 され 享 保 元 年 頃 から 開 発 願 を 出 し 続 け 六 年 九 月 ( 史 料 46) 十 一 月 ( 史 料 47) 七 年 四 月 ( 史 料 48)と 次 々と 出 していますが 許 可 されていません 貫 井 村 の 名 主 鈴 木 利 左 衛 門 は 日 本 橋 に 高 札 が 建 てられた 享 保 七 年 七 月 二 十 六 日 の 翌 月 十 九 日 に 改 めて 新 田 開 発 願 を 出 しています( 史 料 49) これは 大 変 具 体 的 で 連 雀 前 新 田 ( 上 連 雀 村 )より 小 金 井 村 迄 砂 川 新 田 より 関 前 新 田 迄 境 新 田 より 恋 ヶ 久 保 村 迄 小 川 村 より 田 無 村 迄 といった 連 雀 通 り 五 日 市 街 道 青 梅 街 道 沿 いの 八 百 町 余 の 場 所 を 五 年 で 開 発 するというものです しかも この 地 は 利 左 衛 門 の 祖 父 が 願 い 出 た 古 開 発 の 所 で 確 かな 証 拠 もあり 野 札 のある 四 五 カ 村 ( 府 中 三 町 )については 代 地 を 差 し 出 して 野 銭 も 上 納 していると 記 されています この 開 発 願 には 利 左 衛 門 の 他 に 願 人 組 頭 として 善 左 衛 門 甚 五 右 衛 門 元 右 衛 門 の 三 名 が 名 を 連 ねています しかし 史 料 47 や 48 で 明 らかな ように 貫 井 村 の 組 頭 は 清 兵 衛 治 郎 右 衛 門 安 左 衛 門 弥 兵 衛 であり 惣 百 姓 代 にも 彼 らの 名 前 は 含 まれていません この 三 人 を 組 頭 とする 事 例 は 史 料 49 にだけに 見 られる 異 例 なものです 一 連 の 史 料 からも 明 らかなように 善 左 衛 門 は 上 総 国 万 石 村 ( 現 千 葉 県 木 更 津 市 岩 根 ) 名 主 の 野 中 善 左 衛 門 で( 史 料 51) 三 分 の 一 の 場 所 を 渡 すことを 条 件 に 享 保 六 年 ( 一 七 二 一 )に 地 代 買 請 金 五 〇 両 の 内 二 十 五 両 の 出 金 を 頼 んでいます( 史 料 44 45) また 甚 五 右 衛 門 は 下 小 金 井 村 の 名 主 関 甚 五 右 衛 門 で 利 左 衛 門 の 義 理 の 兄 弟 であり 元 右 衛 門 は 野 中 新 田 開 発 願 人 の 一 人 でもある 上 谷 保 村 の 名 主 だと 思 われ いずれも 他 村 の 名 主 で 貫 井 村 の 住 人 ではありません 享 保 八 年 ( 一 七 二 三 ) 十 月 に 利 左 衛 門 と 善 左 衛 門 の 間 で 取 り 交 わされた 覚 ( 史 料 51)によれば 善 左 衛 門 は 開 発 請 負 上 納 金 を 一 万 町 ニ 付 六 千 両 としてその 土 地 の 売 払 金 は 一 万 二 千 両 と 計 算 しており 開 発 が 許 可 されたら 二 倍 の 値 段 で 売 却 しようと 考 えていたようです 享 保 九 年 五 月 に 貫 井 村 願 場 所 として 開 発 が 許 可 されたのは 野 銭 札 譲 請 分 を 含 めて 二 百 九 九 町 歩 で その 条 件 は 小 川 新 田 と 同 様 に 享 保 九 年 から 十 一 年 までの 三 年 間 は 毎 年 一 反 ニ 付 一 升 五 合 の 役 米 を 上 納 す ることでした( 小 平 市 史 料 集 第 十 三 集 年 貢 史 料 150) 開 発 が 許 可 された 翌 十 年 三 月 には 三 分 の 一 の 土 地 に 当 た る 一 〇 〇 町 歩 が 約 束 通 り 善 左 衛 門 に 渡 され 願 入 用 にかかった 一 〇 〇 両 余 の 遣 金 も 土 地 の 町 歩 に 応 じて 精 算 しています ( 史 料 52) 利 左 衛 門 は 享 保 九 年 分 の 役 米 は 支 払 ったもののその 後 上 納 できず 貫 井 村 利 左 衛 門 役 米 差 滞 不 埒 ニ 付 吟 味 之 上 場 所 取 上 之 向 後 其 方 共 ニ 申 付 候 ということになり 折 角 取 得 した 開 発 場 所 を 享 保 十 一 年 六 月 に 取 り 上 げられ 開 発 願 人 の 野 中 善 左 衛 門 と 元 右 衛 門 に 預 けられています( 小 平 市 史 料 集 第 十 三 集 年 貢 史 料 150) 一 方 この 年 八 月 に 貫 井 村 名 主 半 内 ( 二 代 目 利 左 衛 門 )が 名 主 役 を 兵 左 衛 門 に 譲 った 時 の 覚 ( 水 帳 等 請 取 )の 宛 名 には 鈴 木 新 田 御 名 主 半 内 殿 と 記 され( 鈴 木 家 文 書 D-3 1) 享 保 十 五 年 六 月 の 差 上 申 口 書 之 事 にも 鈴 木 新 田 名 主 利 左 衛 門 とあります( 小 平 市 史 料 集 第 十 三 集 年 貢 史 料 152) また 享 保 十 一 年 六 月 の 史 料 66(10)に 村 名 役 人 共 此 度 被 仰 付 とあって 二 一 野 中 新 田 ではこの 時 村 名 と 村 役 人 が 仰 せ 付 けられているので 鈴 木 新 田 も 開 発 場 所 が 取 り 上 げられる 前 に 村 名 と 村 役 人 が 決 定 されたものと 思 われます 新 編 武 蔵 風 土 記 稿 に 此 新 田 当 郡 貫 井 村 ノ 農 民 利 右 衛 門 トイフモノ 開 発 セリ カ カ 氏 ヲ 鈴 木 ト 称 スルユヘ 新 田 ノ 名 ニオハセタルナリ と 記 されており 村 名 は 開 祖 鈴 木 利 左 衛 門 の 名 字 を 取 って 鈴 木 新 田 と 名 付 けられています 新 田 は 成 立 したものの 享 保 十 一 年 ( 一 七 二 六 ) 以 降 野 中 善 左 衛 門 の 管 理 下 に 置 かれ 年 貢 上 納 はもとより 家 作 料 夫 食 拝 借 金 村 入 用 に 至 るまで 支 配 されています 鈴 木 新 田 が 独 立 したのは 享 保 十 七 年 ( 一 七 三 二 ) 十 月 のことで 去 子 十 月 当 御 役 所 様 ニ 而 御 吟 味 之 上 組 分 ケ 被 為 遊 与 右 衛 門 利 左 衛 門 善 左 衛 門 六 郎 左 衛 門 右 四 人 ニ 名 主 役 被 二 仰 付 一 ( 史 料 59)とあるように 野 中 新 田 の 組 分 けによるものでした 享 保 十 五 年 の 差 上 申 口 書 之 事 ( 小 平 市 史 料 集 第 十 三 集 年 貢 史 料 152)には 惣 反 別 七 一 町 五 反 歩 となっていますが 独 立 後 の 十 九 年 の 年 貢 皆 済 目 録 には 反 別 二 百 八 五 町 六 反 七 畝 歩 となっています( 同 上 史 料 153) 検 地 帳 が 現 存 しないので 詳 細 は 不 明 で すが 武 蔵 野 新 田 高 控 帳 ( 武 蔵 野 市 史 資 料 編 )によれば 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )の 検 地 で 村 高 七 四 七 石 四 斗 五 升 二 合 と 記 されており 武 蔵 野 新 田 八 十 三 カ 村 の 中 で 砂 川 新 田 について 二 番 目 に 大 きい 新 田 となっています また 元 文 三 年 の 年 貢 割 付 状 によって 反 別 は 二 五 六 町 三 反 七 畝 二 四 歩 であることが 確 認 できます 六 野 中 新 田 の 開 発 享 保 七 年 ( 一 七 二 二 ) 十 月 に 上 谷 保 村 ( 現 国 立 市 )の 藤 八 等 が 新 田 開 発 を 願 い 出 たのは 柴 崎 村 から 上 谷 保 村 の 北 裏 を 通 り 田 無 村 の 西 原 迄 の 東 西 六 〇 町 南 北 三 〇 町 におよぶ 広 大 な 場 所 でした( 史 料 66(2)) この 願 いは 上 谷 保 村 の 百 姓 五 人 の 連 名 で 岩 手 藤 左 衛 門 役 所 に 出 されていますが 同 日 の 仲 間 証 文 之 事 によると 此 度 武 蔵 野 新 田 開 発 願 之 人 数 貴 殿 方 七 人 拙 者 共 四 人 都 合 拾 壱 人 相 談 之 上 ニ 而 願 書 相 認 ( 史 料 55)とあって 実 際 には 上 谷 保 村 百 姓 七 人 と 江 戸 牛 込 榎 町 および 関 口 町 の 町 人 四 人 の 開 発 人 仲 間 十 一 人 によって 計 画 されたものです
ところで 上 谷 保 村 の 百 姓 と 江 戸 の 町 人 を 繋 ぐ 接 点 はどこにあったのでしょうか それを 知 る 手 がかりが 谷 保 村 の 佐 伯 麟 之 助 家 文 書 の 中 に 在 りました 享 保 九 年 二 月 廿 二 日 の 店 請 状 之 事 という 史 料 には 次 のように 記 されています 店 請 状 之 事 ( 欠 損 ) [ ] 借 用 仕 店 質 之 儀 者 壱 ケ 年 ニ 金 壱 両 ニ 相 定 借 申 所 実 正 也 ( 中 略 ) 一 商 売 之 儀 者 貴 殿 右 染 屋 道 具 仕 廻 則 紺 屋 職 仕 候 尤 紺 屋 手 代 此 方 抱 遣 申 候 若 此 者 共 儀 ニ 付 六 ケ 鋪 義 出 来 仕 候 共 貴 殿 少 も 掛 二 御 苦 労 一 申 間 鋪 候 何 方 迄 も 此 方 罷 出 急 度 申 訳 可 仕 候 為 二 後 日 一 店 請 状 仍 如 件 享 保 九 年 辰 二 月 廿 二 日 江 戸 伊 勢 町 大 屋 六 右 衛 門 店 武 州 谷 保 村 伊 勢 屋 治 兵 衛 元 右 衛 門 殿 店 請 人 与 八 これには 店 の 場 所 が 示 されていませんが 明 らかに 元 右 衛 門 が 江 戸 で 染 屋 を 営 んでいた 商 人 であることを 示 すもので 店 を 貸 し 渡 した 証 文 です 従 って 元 右 衛 門 は 上 谷 保 村 の 名 主 であるとともに 享 保 九 年 迄 江 戸 で 商 売 をしており 江 戸 町 人 たちとの 仲 を 取 り 持 ったのは 元 右 衛 門 であったものと 思 われます 享 保 九 年 ( 一 七 二 四 ) 五 月 に 上 谷 保 村 願 場 として 五 一 三 町 歩 の 土 地 が 割 り 渡 されると 円 成 院 を 含 めて 十 二 分 され 近 隣 の 村 々や 入 村 者 に 売 り 渡 されています( 史 料 66(8)) この 史 料 によると 上 谷 保 村 の 元 右 衛 門 孫 市 平 左 衛 門 の 三 人 に 割 り 渡 された 土 地 の 内 一 五 七 町 歩 余 は 十 十 一 年 に 砂 川 村 中 藤 村 大 岱 村 柳 窪 村 に 売 り 渡 されています し かも 藤 八 は 十 年 の 役 米 代 金 を 遣 い 込 み 土 地 は 廻 り 田 村 の 太 郎 兵 衛 に 家 屋 敷 は 残 らず 源 右 衛 門 に 売 り 渡 して 十 一 年 に は 本 村 に 引 込 んでいます この 享 保 十 年 の 様 子 を 知 り 得 る 貴 重 な 惣 百 姓 連 判 帳 という 史 料 が 同 じ 佐 伯 家 文 書 に 残 さ れています この 中 から 特 に 注 目 される 三 つの 条 目 を 次 に 上 げます 覚 ( 欠 損 ) 去 夏 中 割 賦 申 付 候 武 蔵 野 開 発 場 之 儀 今 以 開 キ 候 体 も 不 二 相 見 へ 一 候 右 開 発 場 之 義 情 ニ 入 開 発 可 致 所 延 引 ニ 罷 成 候 段 不 届 キ 至 極 之 事 ニ 候 此 上 致 二 油 断 一 開 発 指 滞 候 ハ 丶 右 地 所 吟 味 之 上 取 上 候 義 も 可 有 之 候 間 可 致 二 承 知 一 候 ( 中 略 ) 一 去 夏 中 割 渡 之 義 ニ 而 内 割 も 無 之 指 置 候 村 々も 有 之 候 段 不 埒 之 致 方 ニ 候 此 已 後 指 急 キ 芝 地 境 一 村 切 分 明 に 相 見 へ 候 やうニ 竹 木 植 立 候 様 ニ 可 致 候 若 シ 油 断 いたし 割 賦 堺 も 不 明 ニ 有 之 候 者 追 而 見 分 指 遣 相 改 候 間 可 得 二 其 意 一 候 ( 欠 損 ) 亦 去 夏 以 後 村 々わり 賦 之 内 相 対 を 以 他 村 え 売 渡 候 義 未 訴 さる 村 方 も 有 之 候 ハ 丶 其 訳 ケ 書 付 来 五 日 迄 ニ 役 所 え 可 二 指 出 一 候 油 断 有 間 敷 候 この 史 料 から 享 保 九 年 に 割 り 渡 された 新 田 場 の 開 発 が 進 んでいないことが 分 かります しかも 内 割 も 無 之 指 置 候 村 々も 有 之 候 段 不 埒 之 致 方 や 去 夏 以 後 村 々わり 賦 之 内 相 対 を 以 他 村 え 売 渡 候 義 とあることからも 明 らかなよう に 新 田 開 発 は 当 初 から 内 割 や 他 村 への 売 渡 を 前 提 にしていることが 分 かります 従 って 上 谷 保 村 各 組 の 名 主 である 元 右 衛 門 孫 市 平 左 衛 門 ら 三 人 のように 開 発 場 を 売 渡 すことは 当 然 で むしろ 奨 励 しているように 見 えます また この 史 料 の 存 在 は 享 保 十 年 九 月 に 元 右 衛 門 が 上 谷 保 村 の 名 主 として 上 谷 保 村 に 居 たことを 証 明 するもので 実 際 に 野 中 新 田 の 開 発 には 出 向 いていない 可 能 性 が 強 いことを 示 すものです 鍬 下 年 期 の 過 ぎた 享 保 十 一 年 ( 一 七 二 六 ) 六 月 には 村 名 と 村 役 人 が 決 められています( 史 料 66(10)) 新 田 名 は 当 初 上 谷 保 村 の 発 起 人 矢 沢 藤 八 の 名 字 を 取 って 矢 沢 新 田 とする 予 定 でしたが( 史 料 54) 開 発 願 を 出 した 翌 八 年 六 月 に 冥 加 金
として 二 五 〇 両 の 上 納 を 課 され 願 場 御 新 田 村 名 附 并 場 所 取 之 義 ハ 貴 殿 御 望 之 場 所 右 願 人 とも 割 合 指 上 候 ( 史 料 57) という 約 束 で 野 中 善 左 衛 門 に 出 金 を 頼 んだことから 野 中 新 田 と 名 付 けられました しかも 既 に 開 発 地 に 藤 八 の 姿 は ありませんでした 村 役 人 としては 名 主 に 源 右 衛 門 が 組 頭 には 善 左 衛 門 と 長 右 衛 門 が 就 任 しています( 史 料 66(10)) 名 主 源 右 衛 門 は 江 戸 牛 込 榎 町 の 開 発 願 人 の 一 人 で 享 保 十 四 年 頃 に 与 右 衛 門 と 改 名 しています 野 中 新 田 は 土 地 の 投 機 にばかり 明 け 暮 れていたわけではなく 幕 府 の 家 作 料 農 具 料 等 の 支 給 が 功 を 奏 して 新 田 開 発 が 徐 々に 進 められ 村 分 け が 行 われています 前 章 でも 述 べましたように 享 保 十 七 年 ( 一 七 三 二 ) 一 〇 月 には 与 右 衛 門 組 善 左 衛 門 組 六 左 衛 門 組 鈴 木 新 田 が 組 分 けされて それぞれ 村 役 人 が 立 てられると 共 に 組 毎 に 年 貢 取 立 が 行 われるようになります( 史 料 59) 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )の 検 地 で 与 右 衛 門 組 は 反 別 一 五 〇 町 一 反 六 畝 一 五 歩 村 高 四 六 六 石 八 斗 七 升 七 合 善 左 衛 門 組 は 反 別 一 三 〇 町 四 反 二 畝 二 一 歩 村 高 三 六 九 石 三 斗 二 升 八 合 の 村 が 成 立 しました 七 大 沼 田 新 田 の 開 発 大 沼 田 新 田 は 武 蔵 野 歴 史 地 理 に 開 墾 の 初 めは 享 保 六 年 で 此 の 年 弥 左 衛 門 は 幕 府 に 開 墾 の 願 書 を 提 出 した と 記 されており 大 岱 村 ( 現 東 村 山 市 恩 多 町 )の 名 主 弥 左 衛 門 が 享 保 六 年 ( 一 七 二 一 )に 願 い 出 たとされています こ の 場 所 は 享 保 九 年 五 月 に 割 り 渡 しを 受 けた 武 蔵 野 新 田 で 一 〇 から 二 〇 町 歩 程 度 に 細 分 されて 近 隣 の 村 々に 割 り 渡 され たようで 大 岱 村 に 割 り 渡 されたのは 一 七 町 歩 です( 東 村 山 市 史 8 資 料 編 近 世 2 史 料 三 二 四 ) 勝 楽 寺 村 の 譲 証 文 之 事 に 此 方 より 程 遠 ク 御 座 候 処 ニ 其 元 村 え 者 御 地 続 ニ 御 座 候 得 者 双 方 勝 手 能 成 候 ニ 付 和 談 ニて 右 芝 地 貴 殿 方 へ 相 譲 申 候 ( 同 上 史 料 二 七 九 )とあるように 耕 作 地 として 遠 いなどの 理 由 により 勝 楽 寺 村 川 部 堀 内 村 清 水 村 上 谷 保 村 ( 野 中 新 田 分 ) 堀 口 村 後 ヶ 谷 村 野 口 村 久 米 川 村 等 から 別 表 3 大 沼 田 新 田 土 地 集 積 一 覧 にまとめたように 大 岱 村 へ 譲 渡 され 享 保 十 四 年 ( 一 七 二 九 ) 十 一 月 の 開 発 場 酉 御 取 箇 割 附 之 事 には 反 別 一 三 二 町 九 反 一 畝 二 歩 の 土 地 が 計 上 されています( 小 平 市 史 料 集 第 十 三 集 年 貢 史 料 161) この 反 別 は 別 表 3の 享 保 十 四 年 の 反 別 合 計 ともピッタリ 符 合 しますので 大 沼 田 新 田 の 土 地 の 集 積 状 況 はほぼ 確 実 に 把 握 できるといえます このことから 大 沼 田 新 田 は 近 隣 の 村 々の 開 発 場 割 渡 地 を 買 い 集 めて 集 積 し それを 開 発 した 新 田 であることが 分 かります 別 表 3 大 沼 田 新 田 土 地 集 積 一 覧 年 月 買 入 反 別 買 入 先 反 別 合 計 享 保 9 年 5 月 17 町 歩 割 渡 地 17 町 歩 享 保 9 年 5 月 23 日 23 町 7 反 歩 勝 楽 寺 村 享 保 9 年 18 町 8 反 歩 川 部 堀 内 村 享 保 11 年 3 月 16 町 6 反 5 畝 歩 清 水 村 享 保 11 年 5 月 26 日 17 町 1 反 6 畝 22 歩 上 谷 保 村 享 保 11 年 6 月 2 町 1 反 9 畝 10 歩 享 保 11 年 7 月 10 日 11 町 1 反 歩 堀 口 村 享 保 12 年 4 月 16 日 19 町 1 畝 18 歩 後 ヶ 谷 村 享 保 12 年 4 月 17 日 3 町 8 畝 12 歩 享 保 12 年 4 月 22 日 13 町 8 反 歩 野 口 村 142 町 5 反 1 畝 2 歩 享 保 13 年 (6 町 6 反 5 畝 歩 ) 野 口 村 125 町 8 反 6 畝 2 歩 享 保 14 年 3 月 9 町 4 反 5 畝 歩 清 水 村 (2 町 4 反 歩 ) 小 川 村 132 町 9 反 1 畝 2 歩 享 保 15 年 3 町 5 反 3 畝 18 歩 野 口 村 4 町 8 反 3 畝 27 歩 141 町 2 反 8 畝 17 歩 享 保 16 年 5 町 6 反 6 畝 20 歩 久 米 川 村 6 町 2 畝 20 歩 野 口 村 147 町 5 反 7 畝 27 歩 享 保 20 年 1 町 2 反 歩 148 町 7 反 7 畝 27 歩 ( ) 内 は 売 却 反 別 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )の 検 地 で 反 別 は 一 二 三 町 九 反 五 畝 三 歩 村 高 は 三 二 〇 石 八 斗 三 升 八 合 となっています しかし 検 地 帳 の 名 請 人 八 十 八 人 の 内 屋 敷 持 は 三 十 三 人 で 大 半 が 大 岱 村 や 廻 り 田 村 の 持 添 百 姓 です 村 名 は 享 保 二 十 一 年 ( 一 七 三 六 ) 三 月 の 検 地 野 帳 までは 大 岱 村 新 田 ですが 元 文 元 年 十 二 月 の 検 地 帳 には 大 沼 田 村 新 田 と 記 され 年 貢 割 付 帳 や 皆
済 目 録 で 確 認 する 限 り 大 沼 田 新 田 で 定 着 するのは 寛 保 三 年 ( 一 七 四 三 )のことです それは 寛 保 三 年 三 月 の 入 置 申 証 文 之 事 に 伝 兵 衛 儀 弥 左 衛 門 聟 之 儀 有 之 候 ニ 付 組 頭 御 極 其 上 新 田 場 え 伝 右 衛 門 引 越 被 申 候 迄 之 内 右 伝 兵 衛 名 主 弥 左 衛 門 代 役 相 勤 諸 事 書 上 等 之 節 ハ 名 主 弥 左 衛 門 代 組 頭 伝 兵 衛 と 書 上 ケ 仕 新 田 方 諸 御 用 伝 兵 衛 相 勤 御 年 貢 之 儀 ハ 伝 兵 衛 取 立 弥 左 衛 門 方 え 相 渡 弥 左 衛 門 方 より 御 陣 屋 え 御 上 納 仕 候 筈 ニ 相 極 申 候 ( 当 麻 伝 兵 衛 家 文 書 D-33)とあり ここで 初 めて 新 田 に 組 頭 が 置 かれ 伝 兵 衛 が 名 主 の 代 役 を 勤 めることになったことが 分 かります この 年 までは 本 村 の 大 岱 村 で 年 貢 を 納 入 し 名 主 の 弥 左 衛 門 が 全 てを 管 理 していたのですが 年 貢 が 新 田 で 集 められるようになったために 年 貢 割 付 状 や 皆 済 目 録 等 の 正 式 文 書 にも 新 田 名 が 使 われるようになった 結 果 だと 思 われます 別 表 4 大 沼 田 新 田 出 百 姓 一 覧 表 西 暦 入 村 年 入 村 先 名 前 1 1727 享 保 12 年 入 間 郡 堀 口 村 金 衛 門 2 1728 享 保 13 年 多 摩 郡 廻 り 田 村 紋 四 郎 3 1728 享 保 13 年 高 麗 郡 中 藤 村 左 兵 衛 4 1733 享 保 18 年 高 麗 郡 中 藤 村 由 兵 衛 5 1732 享 保 17 年 入 間 郡 大 岱 村 長 衛 門 6 1731 享 保 16 年 入 間 郡 堀 口 村 与 兵 衛 7 1756 宝 暦 6 年 入 間 郡 堀 口 村 権 衛 門 8 1733 享 保 18 年 入 間 郡 大 岱 村 小 兵 治 9 1751 宝 暦 元 年 入 間 郡 町 谷 村 彦 兵 衛 10 1754 宝 暦 4 年 多 摩 郡 柳 窪 村 権 治 郎 11 1733 享 保 18 年 入 間 郡 菩 提 木 村 徳 右 衛 門 12 1731 享 保 16 年 入 間 郡 殿 ヶ 谷 村 長 左 衛 門 13 1754 宝 暦 4 年 入 間 郡 大 岱 村 文 衛 門 14 1734 享 保 19 年 多 摩 郡 廻 り 田 村 喜 兵 治 15 1731 享 保 16 年 足 立 郡 方 来 村 武 兵 衛 16 1730 享 保 15 年 多 摩 郡 廻 り 田 村 浅 衛 門 17 1729 享 保 14 年 多 摩 郡 廻 り 田 村 半 七 18 1742 寛 保 2 年 多 摩 郡 沢 井 村 与 三 衛 門 19 1755 宝 暦 5 年 多 摩 郡 三 ツ 木 村 徳 兵 衛 20 1728 享 保 13 年 入 間 郡 永 井 村 弥 七 21 1735 享 保 20 年 多 摩 郡 砂 川 村 八 郎 衛 門 22 1751 宝 暦 元 年 多 摩 郡 久 米 川 村 五 兵 衛 23 1728 享 保 13 年 多 摩 郡 廻 り 田 村 権 太 郎 24 1743 寛 保 3 年 多 摩 郡 野 口 村 源 四 郎 25 1729 享 保 14 年 入 間 郡 大 岱 村 太 郎 兵 衛 26 1727 享 保 12 年 高 麗 郡 仲 井 村 与 衛 門 27 1726 享 保 11 年 多 摩 郡 野 口 村 半 三 郎 28 1731 享 保 16 年 入 間 郡 大 岱 村 孫 兵 衛 29 1750 寛 延 3 年 入 間 郡 大 岱 村 勘 衛 門 30 1729 享 保 14 年 入 間 郡 大 岱 村 元 衛 門 31 1737 元 文 2 年 入 間 郡 大 岱 村 徳 左 衛 門 32 1744 延 享 元 年 入 間 郡 大 岱 村 由 衛 門 33 1745 延 享 2 年 入 間 郡 勝 楽 寺 村 七 兵 衛 34 1733 享 保 18 年 入 間 郡 勝 楽 寺 村 左 治 衛 門 35 1730 享 保 15 年 多 摩 郡 久 米 川 村 伝 左 衛 門 36 1731 享 保 16 年 多 摩 郡 廻 り 田 村 喜 八 37 1727 享 保 12 年 多 摩 郡 内 堀 村 伊 左 衛 門 38 1729 享 保 14 年 入 間 郡 大 岱 村 弥 衛 門 39 1742 寛 保 2 年 入 間 郡 大 岱 村 伝 助 40 1747 延 享 4 年 大 沼 田 新 田 午 之 助 41 1746 延 享 3 年 入 間 郡 大 岱 村 万 五 郎
42 1742 寛 保 2 年 入 間 郡 大 岱 村 伝 兵 衛 43 1744 延 享 元 年 入 間 郡 中 留 村 弥 兵 衛 44 1744 延 享 元 年 多 摩 郡 今 寺 村 泉 蔵 院 別 表 4に 宝 暦 十 一 年 ( 一 七 六 一 )の 史 料 73 から 大 沼 田 新 田 出 百 姓 一 覧 表 を 作 成 してみました 入 村 年 の 記 述 は 何 年 以 前 何 ( 十 二 支 ) 年 と 書 かれており 年 数 と 十 二 支 に 多 少 の 違 いがみられますので 二 三 年 の 違 いは 十 二 支 を 優 先 し それ 以 外 は 年 数 を 優 先 して 作 表 しました これによると 宝 暦 十 一 年 までの 入 村 者 は 四 十 四 人 ですが 検 地 の 元 文 元 年 ま での 入 村 者 は 二 十 六 人 で 大 岱 村 と 廻 り 田 村 からの 入 村 者 が 各 六 人 土 地 を 購 入 した 勝 楽 寺 村 堀 口 村 久 米 川 村 野 口 村 から 五 人 その 他 九 人 となっていて 圧 倒 的 に 大 岱 村 以 外 からの 入 村 者 が 目 立 ちます また 年 代 的 に 見 ると 大 岱 村 の 入 村 者 は 宝 暦 十 一 年 までに 十 三 人 いますが 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )までは 六 人 で しかも 最 初 の 入 村 は 享 保 十 四 年 ( 一 七 二 九 )です このように 大 岱 村 からは 中 々 新 田 に 出 てこなかった 様 子 が 窺 えます しかも 東 村 山 市 史 8 資 料 編 近 世 2 の 史 料 325 には 私 儀 御 開 発 新 田 へ 罷 出 申 度 願 ニ 而 則 貴 殿 御 開 発 之 内 代 金 指 出 シ 申 請 とあり 史 料 328 には 拙 者 共 儀 家 作 金 ニ 而 芝 地 申 請 新 田 出 百 性 罷 成 申 筈 ニ 相 定 新 田 え 罷 出 住 居 申 候 家 作 金 被 置 下 候 ハ 丶 其 元 え 御 取 可 被 成 候 とあります 史 料 325 には 代 金 を 差 出 して 開 発 地 を 申 し 受 けたことが 記 され 史 料 328 には 家 作 金 で 芝 地 を 申 し 受 けたので 家 作 金 が 下 されたらお 取 りくださいということですから 土 地 代 金 を 支 払 っている 形 跡 が 認 められます このように 小 川 新 田 とは 大 きな 違 いが 見 られ 新 田 によって 入 村 者 の 集 め 方 に 違 いがあったことが 分 かります 八 廻 り 田 新 田 の 開 発 廻 り 田 新 田 の 発 端 は 享 保 十 一 年 四 月 の 相 渡 シ 申 開 発 場 証 文 之 事 ( 東 村 山 市 史 8 資 料 編 近 世 2 史 料 371)に あるように 玉 川 上 水 北 通 りの 国 分 寺 新 田 分 の 開 発 場 三 八 町 歩 を 廻 り 田 村 の 名 主 九 兵 衛 が 与 右 衛 門 から 金 二 〇 両 で 譲 り 受 けたことにあります 廻 り 田 村 は 所 沢 市 史 近 世 史 料 1 史 料 470 に 従 古 来 村 々 入 会 秣 取 り 来 り 候 武 蔵 野 御 附 田 地 ニ 御 開 発 被 為 仰 付 候 と 当 春 中 岩 手 藤 左 衛 門 様 より 御 廻 状 を 以 被 仰 附 諸 百 姓 共 奉 畏 候 といへ 共 秣 場 ニ 相 離 候 義 難 儀 至 極 ニ 奉 存 候 故 古 来 之 通 り 奉 願 候 と 書 附 を 以 申 上 候 とあるように 入 間 郡 多 摩 郡 の 二 十 八 カ 村 と 共 同 で 入 会 地 の 確 保 を 主 張 して 武 蔵 野 新 田 の 開 発 に 反 対 し 開 発 願 を 出 しませんでした しかし 現 実 に 武 蔵 野 新 田 の 割 り 渡 しが 開 始 されて 入 会 地 が 無 くなり 秣 場 確 保 のためには 新 田 地 を 譲 り 受 ける 以 外 になかったのです( 東 村 山 市 史 8 資 料 編 近 世 2 史 料 367) 前 出 の 相 渡 シ 申 開 発 場 証 文 之 事 に 右 者 去 巳 御 役 米 代 金 御 未 進 ニ 付 右 之 場 所 ヲ 其 元 方 え 売 渡 シ と あるように この 場 所 は 野 中 新 田 の 藤 八 が 開 発 場 役 米 を 支 払 えずに 手 放 した 土 地 で 源 右 衛 門 事 与 右 衛 門 に 売 り 渡 した ものです 史 料 77 の 廻 り 田 新 田 壱 村 定 之 事 によれば 廻 り 田 村 の 太 郎 兵 衛 ( 忠 兵 衛 の 子 )は 親 しい 間 柄 であったの で 開 発 場 役 米 不 納 で 入 牢 中 の 藤 八 を 金 の 工 面 をして 出 してやり その 代 償 として 藤 八 所 有 の 土 地 を 割 り 渡 したとされ ています 享 保 一 四 年 ( 一 七 二 九 )の 取 替 証 文 之 事 に 去 ル 午 年 ニ 野 中 新 田 より 我 等 并 貴 殿 両 人 之 名 前 ニ 而 芝 地 三 拾 八 町 歩 買 請 候 処 其 内 村 方 百 姓 えも 九 反 歩 つヽ 割 渡 シ 申 候 尤 貴 殿 儀 ハ 買 主 と 申 殊 ニ 地 代 金 も 外 ニ 御 出 シ 被 成 ニ 付 右 之 内 壱 割 之 外 弐 町 四 反 歩 貴 殿 え 割 合 申 候 ( 東 村 山 市 史 8 資 料 編 近 世 2 史 料 374)とされ 忠 兵 衛 は 野 中 新 田 の 芝 地 の 買 い 主 で 地 代 金 も 出 しているので 他 の 者 より 二 町 四 反 歩 も 余 分 に 割 り 渡 されています 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 )に 検 地 を 受 け 村 高 一 〇 七 石 四 斗 八 升 四 合 反 別 四 〇 町 六 反 五 畝 三 歩 が 計 上 されていますが 野 畑 や 林 畑 が 三 分 の 二 以 上 を 占 め 四 十 一 人 の 名 請 人 がいても 屋 敷 は 皆 無 で 完 全 な 持 添 新 田 でした しかし 持 添 新 田 の 状 態 がいつまでも 許 されたわけではなく 寛 保 元 年 ( 一 七 四 一 ) 川 崎 平 右 衛 門 に 出 百 姓 を 命 じられます( 史 料 77) ま た 史 料 76 の 出 百 姓 年 数 覚 え によれば 早 速 この 年 に 久 米 村 ( 所 沢 市 )の 庄 兵 衛 と 北 野 村 ( 所 沢 市 )の 平 左 衛 門 が 入 村 しています その 後 も 徐 々に 入 村 者 が 増 えていますが 他 村 の 者 ばかりで 廻 り 田 村 からの 最 初 の 入 村 者 は 杢 左 衛 門 で 宝 暦 三 年 ( 一 七 五 三 )のことです 別 表 4 大 沼 田 新 田 出 百 姓 一 覧 表 でも 明 らかなように 大 沼 田 新 田 には 享 保 期 に 廻 り 田 村 から 六 名 の 入 村 者 がありますので 本 村 を 出 る 意 志 を 持 ったものは 早 い 時 期 に 他 村 の 開 拓 者 となったものと 思 われます また 太 郎 兵 衛 の 子 弥 兵 衛 が 入 村 したのは 宝 暦 十 一 年 ( 一 七 六 一 ) 頃 だと 思 われ 廻 り 新 田 の 独 立 が 認 めら れた 明 和 五 年 ( 一 七 六 八 ) 迄 の 入 村 者 は 十 三 軒 です この 年 の 名 請 人 は 二 十 四 人 で 持 添 百 姓 は 十 一 人 に 減 っています 九 あとがき 小 平 の 新 田 開 発 について 新 田 ごとにその 経 過 をまとめてみましたが ここで 触 れたのはその 一 部 に 過 ぎません 引 き 続 き 刊 行 予 定 の 史 料 集 の 解 題 でテーマごとに 説 明 を 加 えていく 予 定 ですのでご 期 待 ください さて この 解 題 を 読 んでいくつかの 点 で 今 までの 説 と 違 いがあることにお 気 づきの 方 もあると 思 います 特 に 大 沼 田 新 田 については 今 まで 大 岱 村 の 村 請 新 田 とされていたものが 近 隣 の 村 に 割 り 渡 された 土 地 を 買 い 集 めて 開 発 したこと
が 明 らかになり 村 の 成 立 過 程 に 大 きな 変 更 が 必 要 となりました これは 東 村 山 市 史 の 編 さんに 伴 い 当 麻 勉 家 文 書 が 公 開 され 新 たな 史 料 が 発 掘 されたことによる 成 果 だと 言 えます また 鈴 木 新 田 と 野 中 新 田 の 開 発 に 重 要 な 役 割 を 果 たした 谷 保 村 の 元 右 衛 門 については くにたち 郷 土 文 化 館 の 資 料 調 査 によって 江 戸 で 染 屋 を 営 んでいたことが 分 かり 野 中 新 田 開 発 人 仲 間 の 江 戸 町 人 達 を 繋 ぐ 接 点 であったことや 実 際 に 野 中 新 田 の 開 発 には 出 向 いていない 可 能 性 が 強 ま りました 更 に この 史 料 集 を 分 析 することによって 小 川 新 田 の 入 村 者 の 実 態 が 明 らかになり 家 作 料 の 支 給 によって 入 村 者 が 急 激 に 増 加 したことや 年 季 奉 公 の 屋 守 が 多 いこと 地 割 りを 受 けても 地 代 を 支 払 った 形 跡 がみられないことなどが 分 か りました このように 新 田 開 発 については 既 に 研 究 され 尽 くしたように 思 われていますが 史 料 が 着 々と 出 揃 ってきていること と 相 俟 って 大 いに 研 究 の 余 地 がある 重 要 な 分 野 だと 思 われます そのためにもこの 史 料 集 が 基 本 文 献 の 一 つとして 活 用 されることを 期 待 します 最 後 になりましたがこの 史 料 集 の 作 成 に 当 たり 原 文 の 解 読 は 梅 林 富 子 加 藤 とみ 小 林 正 雄 小 堀 恵 美 子 藤 井 一 栄 の 各 氏 にお 願 いし 校 訂 と 解 題 作 成 は 蛭 田 廣 一 が 行 いました また 印 刷 のための 原 稿 作 成 は 古 文 書 嘱 託 の 日 野 久 美 子 ( 前 任 者 )と 三 野 行 徳 が 担 当 し 岡 田 美 枝 子 さんと 羽 山 淳 子 さんに 労 を 煩 わしました 関 係 各 位 の 尽 力 に 感 謝 します 平 成 十 四 年 九 月 十 一 日 小 平 市 中 央 図 書 館